2005/09/05 都内某所。

駅構内にホワイトバンドが捨ててあった。

そのホワイトバンドは、昨夜からの雨による水溜りの中を漂っていた。道行く人々は足を止めず、ホワイトバンドに目を留める人もいなかった。

もしかしたら、そのホワイトバンドは、ホワイトバンドの主旨に賛同した人の手首から滑り落ちたのかも知れないが、わたしには捨てられてしまったホワイトバンドが水溜りの中を漂っているように見えたのである。
 
 
大規模な詐欺行為ではないか、とも言われ、各方面からの批判が高まる日本版ホワイトバンドだが、オフィシャル・サイトで公開されていた「*** ホワイトバンド¥300(税込)の内訳目安と使途」が、誤解を避けることを目的として2005/09/05に改訂された。

従来のバージョンの「*** ホワイトバンド¥300(税込)の内訳目安と使途」では、税抜価格286円の10%が、

【貧困問題の解決に資する政策変更のための活動】
・政策研究・調査
・アドボカシー活動
・市民社会組織のネットワーク構築
・貧困の解消に向けた取り組みに関する啓発活動
(地球市民教育・開発教育を含む)

に使われることになっていた。

使われることになっていた、と言うのは未だ使われていないからで、その用途は具体的には、次の通りである。

【貧困問題の解決に資する政策変更のための活動】について
ホワイトバンドの売上の1割は、NGOなど市民社会組織やネットワークが貧困問題の解決にむけた政策変更を促すために行う活動に使われます。具体的には、貧困に関わる諸問題の調査・分析、日本政府その他の機構に具体的な政策変更を求めるロビイング活動、ロビイング活動を支援する世論を構築するような啓発活動(キャンペーン活動)、そしてそのような世論を構成する行動的な市民層を育てる地球市民教育や開発教育活動などです。
「ほっとけない 世界のまずしさ」キャンペーンは、NGOによる途上国での支援活動に対する寄付金を集めるためのキャンペーンではなく、「貧困をなくそう」というみなさんの声を集めるキャンペーンです。ですから、このキャンペーンの一環であるホワイトバンドの売上も、現地での支援活動に使うよりも、途上国から先進国に富が流れてしまうような構造や、貧困からの脱却のために努力する人々やNGOの活動を台無しにしてしまうような政治や経済の仕組みを変えることを目的に使われるべきと考えました。
この部分の資金管理方法や運営母体について、具体的に決まっていくのは2005年秋以降になります。上のような目的のために実際にお金が使われはじめるのは、2006年になってからになる予定です。

なんとも釈然としないし、言っていること自体が玉虫色で、詭弁ですらあるような印象を受ける。

確かに寄付や募金が、本来必要なところにいかないことはあるかも知れないし、実際ある、と言う報道も多々ある。
それが「NGOの活動を台無しにしてしまうような政治や経済」の責任だから、それを糺すためにお金を「ロビー活動」に使おう、と言う考え方は間違ってはいないはずだ。

しかしながらロビー活動のための資金源として、善意の集まりのようなホワイトバンドを利用するのはいかがなものか、と思ってしまう。

何しろ一般人の多くは、300円で購入したうちの大半の金額が飢餓で苦しむ国や地域に送られていると大きな誤解をしているのだから。

彼等の善意の300円が、ロビー活動と言う名の政治資金になっているとしたら、泣くに泣けないだろう。

「ホワイトバンドの問題点」
http://www.wikihouse.com/whiteband/
 
 
ちなみに余談だが、「24時間テレビ」に団体として募金協力するためには、次の条件が義務付けられている。

1.募金より経費を差し引かないこと。
2.「24時間テレビ」の主旨・テーマを良く浸透させること。
3.商業主義に利用しないこと。
4.責任者が必ず活動報告をすること。


なかなかやるじゃないか「日本テレビ」さんよ!

ホワイトバンドをめぐる冒険
http://diarynote.jp/d/29346/20050909.html
 
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2005/09/01 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「亡国のイージス」を観た。

東京湾沖で訓練航海を予定している海上自衛隊イージス艦《いそかぜ》に、FTG・溝口哲也3等海佐(中井貴一)率いる14名の自衛官が訓練航海の視察のため乗艦して来た。

訓練中に事故死した《いそかぜ》2等海士・菊政克美(森岡龍)の遺体をそのままにし、訓練を続行しようとする《いそかぜ》副長・宮津弘隆2等海佐(寺尾聰)に、《いそかぜ》先任伍長・仙石恒史(真田広之)は死人が出ているのに何故訓練を続行しようとするのかと詰め寄る。

副長ではらちがあかず、艦長・衣笠秀明1等海佐(橋爪淳)に直談判しようとする仙石に副長は告げる。「艦長は既に殺されている」と。
 
 
監督:阪本順治
原作:福井晴敏 『亡国のイージス』(講談社刊)
脚本:長谷川康夫、飯田健三郎
編集:ウィリアム・アンダーソン
音楽:トレヴァー・ジョーンズ
出演:真田広之(《いそかぜ》先任伍長・仙石恒史)、寺尾聰(《いそかぜ》副長・宮津弘隆2等海佐)、佐藤浩市(DAIS内事本部長・渥美大輔)、中井貴一(FTG・溝口哲也3等海佐)、勝地涼(《いそかぜ》1等海士・如月 行)、チェ・ミンソ(ジョンヒ)、吉田栄作(《いそかぜ》船務長・竹中 勇3等海佐)、谷原章介(《いそかぜ》水雷士・風間雄大3等海尉)、豊原功補(《いそかぜ》砲雷長・杉浦丈司3等海佐)、光石研(《いそかぜ》掌帆長・若狭祥司、森岡龍(《いそかぜ》2等海士・菊政克美)、中沢青六(《いそかぜ》機関長・酒井宏之3等海佐)、中村育二(《いそかぜ》航海長・横田利一1等海尉)、橋爪淳(《いそかぜ》艦長・衣笠秀明1等海佐)、安藤政信(FTG・山崎謙二2等海尉)、真木蔵人(第204飛行隊・宗像良昭1等空尉)、松岡俊介(DAIS局員・小林政彦)、池内万作(DAIS局員・服部 駿)、矢島健一(《うらかぜ》艦長・阿久津徹男2等海佐)、佐々木勝彦(防衛庁長官・佐伯秀一)、天田俊明(統合幕僚会議議長・木島祐孝)、鹿内孝(海上幕僚長・湊本仁志)、平泉成(警察庁長官・明石智司)、岸部一徳(内閣情報官・瀬戸和馬)、原田美枝子(宮津芳恵)、原田芳雄(内閣総理大臣・梶本幸一郎)
 
 
本作「亡国のイージス」は、「ローレライ」「戦国自衛隊1549」に続く福井晴敏原作の映画化作品である。
「ローレライ」に激怒し「戦国自衛隊1549」にあきれたわたしにとって本作は、最後の砦的起死回生の期待の作品だった訳だ。

しかしながら、わたしは再度激怒することになる。

本作「亡国のイージス」と言う作品は、防衛庁、海上自衛隊、航空自衛隊の全面協力を得、日本映画史に残るであろう豪華キャストを揃え、その上海外からもスタッフを集め、満を持して製作された日本映画界期待の星なのだ。

キャストも豪華、勿論彼等俳優たちの演技合戦も楽しいし、昨今の日本映画での不安要素であるVFXも特に問題はない、物語にリアリティを醸し出す世界観を構築する美術や衣装も良い仕事をしているし、演出も編集も順当、更には音楽にも問題はない。

しかしながら、なんと言っても脚本とキャラクター設定がひどいのだ。

特にひどいのは寺尾聰演じる《いそかぜ》副長・宮津弘隆2等海佐と、彼の部下である上級士官たちのキャラクター設定と後半部分の脚本である。

副長・宮津は国を憂いて大義の下、謀反を企てる人物、−−言わば革命家−−、だと言うのに、脚本上にしてもキャラクター設定上にしても全く説得力がない。
そして更にそのキャラクターの行動原理には一貫性が無く、明確な意志が感じられない。

副長・宮津は、コロコロと手のひらを返す人物として描かれている。これはまるで「ザ・ロック」のエド・ハリス(フランシス・X・ハメル准将)のように一貫性がない。

その一貫性のない副長・宮津に引き入れられてしまった、《いそかぜ》船務長・竹中 勇3等海佐(吉田栄作)、《いそかぜ》水雷士・風間雄大3等海尉(谷原章介)、《いそかぜ》砲雷長・杉浦丈司3等海佐(豊原功補)、《いそかぜ》掌帆長・若狭祥司(光石研)等は全く浮かばれない。

まるで、フランス語が出来ると言う一点で過去に連れて行かれ、すぐ殺され、その後他の連中は平気で英語を話している「タイムライン」のフランソワ位に浮かばれない。

寺尾聰にしても吉田栄作にしも後半部分のひどい脚本はさておき、十分評価できる仕事をしたと思う。でもいかんせん脚本がひどすぎる、と言う事なのだ。

また、原田美枝子(宮津芳恵)のエピローグもひどい。
セリフもひどいが、やっていることもひどい。

国家を転覆させようとした人物の妻が何のほほんと墓参りしているのだ!
ついでに「今頃、二人で船の話でもしているんじゃないの」とは何事だ!
わたしは、こういったセリフが書ける脚本家の神経を疑うね。

キャストだが、キャストはなんと言っても佐藤浩市(DAIS内事本部長・渥美大輔)と原田芳雄(内閣総理大臣・梶本幸一郎)が素晴らしかった。

こういった作品の肝は、現場とその対策本部の舞台の描き方にかかっており、その対策本部が上手く描かれている作品に傑作が多い。「博士の異常な愛情」しかり「合衆国最後の日」しかりである。

また脚本の話になってしまうが、本作のコンセプトは、ほとんど「合衆国最後の日」と同じであり、犯人側の要求(国家機密の公開)も同じである。(但し「合衆国最後の日」と比較すると本作の国家機密は対岸の火事程度の矮小化された機密である、これも脚本の穴だろう)

その対策本部で気を吐いていたのが、やはり佐藤浩市と原田芳雄である。ピーター・セラーズとジョージ・C・スコット位凄かったのではないだろうか。
また佐藤浩市と岸部一徳(内閣情報官・瀬戸和馬)の絡みも良かった。

余談だが、冗談抜きに佐藤浩市は俳優として凄いと思う。例えば最近の日産のCF(CM)でも全力投球の演技に感涙モノである。

あと演出上なの話なのだが、原田芳雄のネクタイの状態がシーン毎に異なっているのも興味深かった。

実行犯の主犯となる中井貴一は、良いのは良いのだが、コンセプトが得体の知れない人物と言う事なので、演りづらい部分もあるのだと思うが、いまいち鬼気迫る部分が足りなかったと思う。勿論冷静沈着で冷酷な役柄なので仕方が無いのだが、もう少しはじけて欲しかった。「ブラック・レイン」の佐藤(松田優作)位が良かったかな、と思う。

寺尾聰は頑張っているのだが、演技スタイルに弊害が出てきているのではないか、と思った。俳優としてのカラーと言えばそれまでなのだが、「CASSHERN」や最近のダイワハウスのCF(CM)と同様の印象を受ける。

さて、主役の真田広之だが、行動原理の根本には釈然としない部分があるが、元JAC(現JAE)の面目躍如と言うところだろうか。しかしながら、前述の行動原理に浪花節的背景が見て取れ、感覚的には「助太刀屋助六」のような印象を受ける。

本作「亡国のイージス」は素晴らしい俳優を多数キャスティングできた数少ない貴重な機会であったと思うし、防衛庁の協力をはじめとして、日本や海外の優秀なスタッフを一同に介し、日本映画の底力を世に知らしめる素晴らしい機会だったのだと思う。
しかしながら、脚本の出来がそれをさせなかった残念なケースだと言わざるを得ない。

なんとも残念な話である。

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2005/08/22 東京銀座「ヤマハホール」で「サマータイムマシン・ブルース」の試写を観た。

マジに暑すぎる夏、とある大学の「SF研究会」部室。
SF研究などせずぐったりと夏休みを過ごす5人の男子学生と、2人の女性写真部員。前日にクーラーのリモコンが壊れて猛暑に悩まされるなか、ふと見ると部屋の隅に突然タイムマシンが!!!!
「ためしに昨日に帰って壊れる前のリモコン取ってこよう」
と軽い気持ちで乗ってみたら、さぁ大変。想像もつかないような事態が次々と巻き起こって…!?
(オフィシャルサイトよりほぼ引用)

製作・監督:本広克行
原作・脚本:上田誠(ヨーロッパ企画)
出演:瑛太(甲本拓馬)、上野樹里(柴田春華)、与座嘉秋(新美優)、川岡大次郎(小泉俊介)、ムロツヨシ(石松大吾)、永野宗典(曽我淳)、本多力(田村明)、真木よう子(伊藤唯)、升毅(?)、三上市朗(映画館主人)、楠見薫(銭湯の番台)、川下大洋(大学の管理人)、佐々木蔵之介(保積光太郎)

わたしは「踊る大走査線」シリーズには全く関心がない。
と言うか、何故あんなにヒットするのかわからない。
テレビドラマ好きな人たちだけではなく、普段から映画をたくさん観ている映画好きの皆さんにも受け入れられている事実は、わたしには全く解せないのだ。

また、本広克行の趣味なのかどうかはわからないが、往年の名作の表層部分だけをさらりとパクる手法には、怒りすら感じる事もある。

そんな状況で、本広克行(製作・監督)の「サマータイムマシン・ブルース」を観た訳である。

本来は、2005/08/17に「東芝エンタテインメント試写室」で行われた本広克行のティーチ・イン付き試写会に行く予定だったのだが、試写当日は「奥さまは魔女」の試写と日程が重なってしまっていた。
「踊る大走査線」シリーズには関心がなく、往年のテレビドラマ好きのわたしは結果的に「奥さまは魔女」を選択してしまったのだ。

本作「サマータイムマシン・ブルース」の試写の段階で既に「奥さまは魔女」を観ていたわたしは、後悔することになる。
問題はあるものの「サマータイムマシン・ブルース」は大変面白い作品であった。
ついでに本作は、監督の本広克行の話も聞いてみたいなと思わせるような作品に仕上がっていたのだ。

先ず脚本が良く出来ていた。
勿論タイムトラベルものの肝は、何と言っても脚本であり、脚本がしっかりしているタイムトラベルものに外れはない。
だから、タイムトラベルものを製作する以上、脚本がしっかりしているのは、当たり前なのだ。

しかし、冒頭の10分間の描写はいただけない。
冒頭のシークエンスは、伏線を見せるだけのために存在するような印象を受ける。
もう少し描き方がなんとかならなかったのだろうか。この手法は全くスマートではない。
ある意味予告編や、CF(CM)前のような印象を受ける。

しかし、脚本は良く出来ているのだが、伏線やプロットが非常にわかりやすく、ちと残念な気がした。
順当に物語は進み、特に意外な展開もなく、予定調和と言えば予定調和なのだが、わかりやすいプロットには残念な印象を受ける。
タイムトラベルものには意外な出来事が必須だと思うからだ。

尤も本作は原作が戯曲なので、脚本はしっかりしているのは、更に当たり前なのだが・・・・。

描写や演出は順当でソツなくこなしているのだが、途中で出てくる時空を超えたスプリット・スクリーンには驚いた。
決して映画的手法ではないのだが、強烈な印象を受けた。

世界観は、莫迦をやっていた時代のノスタルジックな雰囲気が醸し出されており、例えば学園祭のノリのようなものが感じられる。
熱狂と寂寥感が共存する摩訶不思議な空気が感じられるのだ。
世界観を構築する美術も良い仕事をしていた。
雑駁な印象を付与するSF研究会の部室もよく出来ていた。

タイムトラベルものとして「タイムマシン」、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」シリーズ、「スタートレック」シリーズへの言及等もあった。

キャストは全て自分が与えられている役柄を見事にこなしていた。
キャラクターが濃い事もあり、誰もが印象に残るシーンを演じていた。全てのキャラクターにきちんと見せ場がある脚本も相まって、幸せな印象を受ける。

キャストは比較的地味でキャストの力で客を呼ぶのは困難だと思うが、本広克行(「踊る大走査線」)人気で、普通にヒットする作品だと思うが、それ以外の普通の映画ファンにもまあ観ていただきたいと思う。

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2005/08/16 東京霞ヶ関「イイノホール」で開催されていた「GTF2005 TOKYO CINEMA SHOW」で「ファンタスティック・フォー[超能力ユニット]」の試写を観た。

天才科学者リード・リチャーズ(ヨアン・グリフィス)と彼の昔の恋人で女性科学者のスー・ストーム(ジェシカ・アルバ)、スーの弟でパイロットのジョニー・ストーム(クリス・エヴァンス)、リードの親友ベン・グリム(マイケル・チクリス)は、スーの現在の恋人で野心的な実業家ビクターの援助を受けて、人類の進化を解明するための宇宙実験を実施する。しかし、計算外に早くやってきた宇宙雲の高エネルギー光線を浴びた事により、DNAが変化した彼らは人間を超えた力を授かる。一方、実験の失敗で、名声と資産をなくしたビクター・バン・ドゥーム(ジュリアン・マクマホン)の体にも変化が訪れ、喪失感の中で、仲間を恨み、邪悪な存在になっていく。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ティム・ストーリー
出演:ヨアン・グリフィズ(リード)、マイケル・チクリス(ベン)、ジェシカ・アルバ(スー)、クリス・エヴァンス(ジョニー)、ジュリアン・マクマホン(ビクター)、ケリー・ワシントン(アリシア)

本作「ファンタスティック・フォー[超能力ユニット]」は、「これじゃコケるよな」と思わず納得の仕上がりだった。

脚本も微妙でなんだかおかしいし、キャストも地味で華がない。
唯一の華はジェシカ・アルバなのだが、他の主要キャストはほぼ無名と言っても良い始末である。

そんな訳で、本作が置かれている状況は、キャストで客を呼べない以上、脚本の出来が重要だと思えるし、キャッチーなVFXも重要だと言わざるを得ない。

更に、日本国内においては、「ファンタスティック・フォー」の知名度は、他のアメコミ・ヒーローものと比較すると決して高いものではなく、大昔に「宇宙忍者ゴームズ」というタイトルでアニメーションが放映された際の、カルト的なファンがいる位だと思う。(「ムッシュムラムラ」と言うセリフで大人気)

宇宙線を浴びて超能力を身につけてしまう、と言う物語の発端は決して新しいものではないのだが、(尤も原作のアメコミは1960年代のものなので、当時としては斬新なものだったのだろう)、驚くべきことに、ヒーロー同士が内輪もめをしたり、ヒーロー達の正体が一般大衆にバレていたり、ヒーローとしてマスコミに登場したり、ナンパしたりしているのが設定としては興味深かった。

原作のコンセプトは、実際にヒーローがいたらどうなるか、と言うシミュレーションもかねていたようで、彼らはNYのアパートに実際に家賃を払って住んでいたり、彼等にも追っかけがいたり、マスコミに叩かれたりしていたらしい。

それはそれで面白いのだが、本作ではその部分がコメディにしかなっていないのだ。
最近のヒーローものの常套手段となっている、ヒーローでいる事の悲哀を描くつもりが、実際にヒーローがいたら、と言う点からのギャップを利用したコメディになってしまっているのだ。

またリーダーのリード(ヨアン・グリフィズ)のキャラクター設定も所謂ヒーローに似つかわしいものではなく、非常に地味な印象を受ける。

VFXは最初のアクション・シークエンスである橋上のアクションは、リアル志向で見応えがあって楽しかったが、中盤移行のアクションはCGI主体の良く見るタイプのアクションになってしまっていたのが残念だ。

本作「ファンタスティック・フォー[超能力ユニット]」は、日本でも苦戦が予想できるのだが、なんとか頑張って欲しいな、と思う。
逆にカルトなファンがついちゃう作品かも知れないがね。

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2005/05/31 東京有楽町「よみうりホール」で「ライフ・イズ・ミラクル」の試写を観た。

1992年のボスニア。
セルビア人のルカ(スラブコ・スティマチ)は、セルビアとの国境に近い片田舎の村に、鉄道を引くためにやってきた技師。今日ものんきに、昼は仲間たちとブラスバンドの練習に励み、夜は屋根裏部屋で鉄道模型いじりに熱中している。テレビでは、ボスニアのあちこちで銃撃戦がおきていると報じられるが、ルカはいっこうに信じようとしない。

そんな彼にも、内戦と無縁ではいられなくなる日がやって来た。息子ミロシュ(ブク・コスティッチ)が徴兵にとられてしまったのだ。さらに悪いことに、ミロシュは前線で捕虜として捕らえられてしまうのだった。

それから数日後、村の悪童として知られるトモが、ルカの家を訪ねてきた。トモ(ダボア・ヤニック)に追い立てられるようにしてトラックから降り立ったのは、ムスリム人の看護士で、トモたちに人質にされたサバーハ(ナターシャ・ソラック)だった。「彼女は名家の令嬢だから、捕虜としてミロシュと交換できる」と言うトモの言葉を聞いて、サバーハを預かることに決めるルカだったが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督・脚本・製作・音楽:エミール・クストリッツァ
出演:スラヴコ・スティマチ(ルカ)、ナターシャ・ソラック(サバーハ)、ヴク・コスティッチ(ミロシュ)、ヴェスナ・トリヴァリッチ(ヤドランカ)、ニコラ・コジョ(フィリポヴィッチ)、アレクサンダル・ベルチェク(ヴェーリョ)、ストリボール・クストリッツァ(アレクシチ)

本作「ライフ・イズ・ミラクル」は、内戦と言う極限状態において、実直に生きる市井の人々のささやかな幸福とささやかな不幸を描いた作品であると同時に、極限状態における精神の飛翔をも描写した素晴らしい作品である。

本作は、タイトルの語感と描いた題材から、どうしても「ライフ・イズ・ビューティフル」と比較されてしまうと思うのだが、両作の物語の背景は非常に近しいものがあった。
両作は同様に、戦争と言う極限状態を背景にしており、その厳しい環境から、想像力と言う精神世界の力を借り、現実世界から半ば逃避しながら、それでいても現実世界を生き抜く、と言うようなベクトルを持っており、そのベクトルのおかげで、両作はある意味見事なファンタジー作品にも仕上がっている、と言えるのである。もしかすると、その辺の感覚は「未来世紀ブラジル」にも似ているかも知れない。

そして、ルカの視点から本作の中盤までを見てみると、環境的には、仕事は上手くいかない、妻はいかれているし、息子は戦争に取られてしまう、ついでに妻は他の男と駆け落ちしてしまう、といった状況下にあるのだが、ルカの精神状態は常態の範囲で踏みとどまっている。
しかし、内戦がはじまり、息子が捕虜に捕られる事により、ルカの精神は極限状態に陥ってしまう。

そこに登場するのが、サバーハである。
そこで、日常の中で、戦争という非日常的日常がルカの精神を蝕み、現実逃避がはじまる。その現実逃避はサバーハとの関係が親密になるにつれ、拍車がかかっていく。この辺も「未来世紀ブラジル」のようである。
そしてそのルカの行動、自らが置かれている環境や、将来起きるであろう事には、全く頓着しない様がおかしくも切ないのだ。

また、人生と言う思い通りにならないもののメタファーとして登場するロバがすばらしい。
何しろロバなのである。

また、独特の地形を生かしたロケーション効果も高く、美術や鉄道関係のセットやプロップからなる世界観は素晴らしい。

脚本は、正に「ライフ・イズ・ミラクル」で、ラストのシークエンスの爽やかな風のような結末は、ささやかではあるが、ある種のカタルシスを感じさせてくれる。

本作「ライフ・イズ・ミラクル」は尺が長いヨーロッパ映画と言う事もあり、比較的敬遠されやすい作品だと思うのだが、機会があるのならば、是非劇場に足を運んでいただきたいと思う。

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2005/08/17 東京新橋「ヤクルトホール」で「奥さまは魔女」の試写を観た。

普通の生活や恋に憧れて、人間界に舞い降りてて来た本物の魔女イザベル・ビグロー(ニコール・キッドマン)は、もう魔法を使わないと決心する。

一方、失敗作が続く落目の映画俳優ジャック・ワイヤット(ウィル・フェレル)は、往年のテレビ・シリーズ「奥さまは魔女」のリメイク版ダーリン役に、テレビ俳優としての再起をかけていた。ジャックは自分が演じるダーリン役を目立たさせるため、サマンサ役には新人女優を起用する事を考える。
しかし、イメージ通りの女優は見つからず、サマンサ役のキャスティングは難航していた。

そんなある日、ジャックはたまたま本屋でイザベルと出会う。
イザベルの鼻をピクピクさせる仕草を見初めたジャックは、イザベルにサマンサ役を猛烈にオファーするが・・・・。

監督・脚本・製作:ノーラ・エフロン
共同脚本:デリア・エフロン
出演:出演:ニコール・キッドマン(イザベル・ビグロー/サマンサ役)、ウィル・フェレル(ジャック・ワイヤット/ダーリン役)、シャーリー・マクレーン(アイリス・スミスソン/エンドラ役)、マイケル・ケイン(ナイジェル・ビグロー)、ジェイソン・シュワルツマン(リッチー)、ヘザー・バーンズ(ニーナ)、クリスティン・チェノウェス(マリア)、スティーヴ・カレル(アーサーおじさん)、キャロル・シェリー(クララおばさん)

本作「奥さまは魔女」は、往年の大ヒットTVシリーズ「奥さまは魔女」の単純なリメイクではなく、TVシリーズ「奥さまは魔女」リメイク版の製作の際、サマンサ役に本物の魔女をキャスティングしてしまう事に端を発するロマンティック・コメディである。

そのプロットは、真正面から「奥さまは魔女」をリメイクするだけではなく、「奥さまは魔女」本来のシチュエーションである、「魔女が人間界で魔法を使わないで恋愛し生活する」を、背景と製作するドラマにおいて、二重に再現すると言うトリッキーな構成を持っている。

特に印象的なのは、ニコール・キッドマン演じるイザベルが、父ナイジェル(マイケル・ケイン)の反対を押し切って人間界に舞い降り、魔法を使わない普通の恋愛や生活を営みたいと言う部分に顕著である。

そのメイン・プロットは前述のようにトリッキーではあるし、充分に評価できると思うのだが、全世界中が愛した「奥さまは魔女」のサマンサとダーリンと言うキャラクターを考えた場合、ダーリンを演じる事になるジャック・ワイヤット(ウィル・フェレル)が、愛すべき人物ではない、と言う設定が釈然としない。

勿論、本作のプロットにはジャックの成長と言う部分もあるのだが、ウィル・フェレルが演じるジャックは観客が求めているダーリン像にそぐわない印象が否定できない。
また、ウィル・フェレルのルックスにも華がない。

一方かつてのTVシリーズ「奥さまは魔女」を踏襲した部分は評価できる。

愛すべきエンドラ役のアイリス・スミスソン(シャーリー・マクレーン)をはじめ、クララおばさん(キャロル・シェリー)やアーサーおじさん(スティーヴ・カレル)、エピローグのグラディスさん(エイミー・セダリス)と夫アブナー(リチャード・カインド)等が楽しい。

特にシャーリー・マクレーン(アイリス・スミスソン/エンドラ役)はオリジナル(アグネス・ムーアヘッド)に勝るとも劣らないほど素晴らしい。
エンドラ最高なのだ!

また素晴らしいと言えば、マイケル・ケイン演じるナイジェル・ビグローも素晴らしい。
本作にとって、シャーリー・マクレーンとマイケル・ケインがキャスティング出来たことは、大いなる幸せだと思う。
こういった往年の俳優達が醸し出すものが、映画に風格を与えているのだ。

また、オリジナルと同じキャラクター設定のクララおばさん(キャロル・シェリー)とアーサーおじさん(スティーヴ・カレル)の存在は、面白いのは面白いのだが、脚本を真面目に読み解くと、釈然としない印象を受ける。
彼らはサマンサ、ダーリン、エンドラと同様にTVシリーズ「奥さまは魔女」における創作上のキャラクターなのだが、本作で彼らは、イザベルの本当のおじとおばとして登場しているのだ。
その設定は、他のキャラクターと比較して、おかしいと言わざるを得ない。
目くじらを立てるような部分ではないのだが、付記しておく。

また本作のニコール・キッドマン(イザベル・ビグロー/サマンサ役)は、実年齢と比較して非常にキュートで、女優は怖いと思わせるほど若々しい。

脚本的には、もう一歩踏み込んで、魔法を使う生き方と、人間として地道に生きる事を考えさせるところまで到達して欲しかったような気がする。

本作はオリジナル版「奥さまは魔女」に取り立てて思い入れがない観客には充分楽しめる作品だと思うのだが、オリジナル版の熱心なファンにとっては、満足できる作品だとは言えないのではないか、と思う。
とは言うものの、多くの観客が楽しめる非常に楽しいロマンティック・コメディではある。デート・ムービーには最適だろう。

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2005/07/30 東京池袋「シネ・リーブル池袋」で「チーム★アメリカ/ワールドポリス」を観た。

ますます混迷を極め、かつてないほど緊迫した状況下に置かれている現代の世界−−−−そんななか、平和を乱すテロリストに対抗するため、とある国際警備組織が結成された。
その名は<チーム・アメリカ>!
ハリウッドの秘密基地を拠点とする彼らは、アレック・ボールドウィンをはじめとする多くの知識人から「救済活動と称して破壊行為を繰り返しているだけ」と手厳しく批判されながらも、そんなことはいっさい意に介せず、今日も世界のどこかで、マシンガンを両手に、憎きテロリストたちを無差別に殺しまくってくれているのである。

パリでの任務遂行中、メンバーのひとりを失ってしまった<チーム・アメリカ>は、深い悲しみに暮れながらも、独裁者がテロリストに大量破壊兵器を売りさばこうとしているとの情報をつかむ。
テロリストの陰謀を事前に阻止するため、チームを指揮するリーダーであるスポッツウッドは、前代未聞の計画を思いつく−−−−ブロードウェイで活躍中のスター俳優、ゲイリーをチームにリクルートし、おとり捜査をさせようというのだ!
ゲイリーは一度はその要請を断るのだが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:トレイ・パーカー
脚本:トレイ・パーカー、 マット・ストーン、パム・プラディ
声の出演:トレイ・パーカー、マット・ストーン、クリステン・ミラー、フィル・ヘンドリー、モーリス・ラマルシュ

本作「チーム☆アメリカ/ワールドポリス」は、2004年8月、WEB上で予告編が公開されるや否や、全世界の各方面で賛否両論話題沸騰の作品である。

また、それと同時に2004年に公開されたジョナサン・フレイクス版「サンダーバード」に失望した多くのオリジナル版「サンダーバード」ファンが待ち望んだ作品でもあったのだ。
「ボクラが見たかったのはこれだ!」と。

何しろ本作は、「サンダーバード」をはじめとする一連のITC作品(ジェリー・アンダーソン作品)でおなじみのマリオネーション技法(但し、勿論スーパー・マリオネーションではない)を使った作品で、肝心の人形のクオリティは勿論、その操演技術も、セットやプロップのクオリティも大変素晴らしいものがある。

またその演出手法も、微に入り細に入り、かつての「サンダーバード」をも髣髴とさせる。

内容については、当初言われていたような、ブッシュ政権打倒に向けた「華氏911」の援護射撃的な作品ではなく、作品のベクトルは、右も左も容赦なく俎上に乗せ、こけにし笑い飛ばす、というものであった。

これについては「ダーティハリー」のハリー・キャラハンの設定、「黒人も白人も分けへだてなく嫌っている」を思い出した。

また子供向けの題材(ここでは人形劇を指す)を使用した大人向けの作品と言えば、今をときめくピーター・ジャクソンの「ミート・ザ・フィーブルズ/怒りのヒポポタマス」が思い出された。同作は「チーム☆アメリカ/ワールドポリス」に関心を持った方には是非観ていただきたい素晴らしい作品である。
そういった観点では、同作の題材はパペットで、そのパペット同士が殺し合いをする、スプラッタ作品に仕上がっている。同作では可愛らしいパペット達が、人間の醜さを表現しているのだ。

さて、本作についてだが、まずは脚本だが、個人的に非常に残念な点がひとつあった。
中盤のバーのシークエンスで、DとPとAのたとえ話が出てくるのだが、このたとえ話は本作の一番のテーマとも言うべきものなのだ。
このたとえ話について、ラストの演説シークエンスでその種明かしをしてしまうのは、いかがなものかと思った。
もう少し観客の想像力を信じて、演説ではなく異なったアプローチで作品のテーマを暗喩して欲しかったと思う。

と言うか、本作は、右も左もお構いなく批判し馬鹿にする、と言うコンセプトを持っている作品だったと思うのだが、ラストの演説において、バーのシークエンスが暗喩することを明示してしまうことにより、全てに唾を吐きかけると言う、作品としてのベクトルがぶれ、そのためある方向性を持ったある種の説教臭さを観客に押し付けてしまっているのだ。そのためか、本作のような孤高な作品が持つ魔法の力が薄れてしまったような印象を受けてしまう。

世界観の構築に関わる、美術やプロップ、セットは大変素晴らしい。
チープなところはあくまでチープに、そして壮大なところはあくまで壮大に、美術にしろ衣装にしろプロップにしろ、見事な世界観の構築に成功している。
また、前述のように人形の操演技術も大変素晴らしい。

とは言うものの、美術関係で気になったのは、人形の顔がフォーム・ラテックス(おそらく)で覆われている点である。これにより、「サンダーバード」等スーパー・マリオネーションに特有の唇のパーツだけがパカパカと動く、と言ったノスタルジックな観点がなくなってしまっている。だからどうした、と言う事もないのだが、ご参考までに付記しておく。

最後に、本作が観客を選ぶ点なのだが、四文字ワードの頻出は勿論の事、下ネタ満載で下品だし、バイオレンスの描写も(人形劇にしては)激しい、またハリウッドの俳優の皆さんを政治家同様コケにしている。
そう言った作品を観て気分が悪くなってしまう方にはオススメできないが、ここまで真面目に不真面目をやっている作品には頭が下がってしまうのだ。

とにかく本作「チーム☆アメリカ/ワールドポリス」は、関心があるのならば、出来れば劇場に足を運んで欲しい、と思える良い作品だと言えるのだ。

余談だが、「チーム☆アメリカ/ワールドポリス」以降、モンタージュ技法のひとつの手法を行っている作品を観ると笑いがこぼれてしまう。
先日試写で「シンデレラマン」を観たのだが、それでも笑えてしまった。困ったものである。

”Team America: World Police”を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040813.html

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とりあえずこちらを読んでいただきたい。

「宇宙戦争」その0
http://diarynote.jp/d/29346/20050629.html

「宇宙戦争」その1
http://diarynote.jp/d/29346/20050715.html

賛否両論の「宇宙戦争」だが、書き足りないものがいくつかあるので、引き続き「宇宙戦争」について考えてみたい。

従来の宇宙人の侵略もの、例えば「宇宙戦争」(1953)、「インデペンデンス・デイ」、「マーズ・アタック!」等においての視点は、宇宙人の侵略をなんらかの形で撃退する人々、あるいは人類を代表して侵略者に対し、なんらかの対応を行っている人々の視点で作品が語られることが多い。
この視点を採用することにより製作者は観客に対し、宇宙人と人類との戦いの局面を俯瞰的に見せることが可能だった訳であり、これは勿論娯楽作品として、観客に戦局を説明する上でなくてはならない視点だったのである。

しかし「サイン」においては、「人類と宇宙人との対峙」ではなく、「ただの父親(家族)と宇宙人の対峙」に軸足を置き、マクロ的な戦局ではなく、ミクロ的な戦局が描かれていた。
とは言うものの「サイン」の物語の中では、マスコミが生きており、テレビやラジオを通じ、世界中の戦局が刻一刻と一般大衆に伝えられていた。
観客は世界中で起きている「人類と宇宙人の対峙」と「家族と宇宙人の対峙」を同時に見る事が出来たのだ。

一方「宇宙戦争」では、視点は「サイン」と同様に、父親(家族)のそれなのだが、マスコミや情報インフラがほぼ壊滅しているため、世界中で何が起こっているのか、人類と宇宙人の戦局は登場人物にも伝わらないし、観客にも当然ながら伝わってこない。
伝わってくるのは、口コミによる噂やデマだけなのである。

ここ(戦局を描写しないこと)には、娯楽作品を超えた凶悪なまでのリアリティが感じられる。
言わば「宇宙戦争」は、娯楽を廃し、われわれ一般大衆が、侵略を実際に受けた場合に体験するであろう事象を描いているのだ。ここで描かれているのは、戦局や自軍の状況等の情報を全く得られない中、侵略者が自分たちに迫ってくる恐怖なのだ。

そして、トム・クルーズが演じる父親はわれわれであり、トム・クルーズの家族はわれわれの家族そのものなのである。
われわれ一般大衆が圧倒的な武力で侵略を受けた場合、自分と家族の命を救うべく、逃げ惑うこと以外に一体何が出来るのだろうか。観客がトム・クルーズに望んだように、われわれ一般大衆は、世界を救うヒーローとして侵略者に対し一矢報いる事が出来るとでも言うのだろうか。

そう考えた場合気になるのは、後半部分の展開である。
具体的には、「手榴弾による攻撃」と「トライポッドに近づく鳥」である。

「手榴弾による攻撃」は、トム・クルーズがわれわれ一般大衆のメタファーとして捉えるならば、本来トム・クルーズではなく、他の人物が行うべきだったと思うし、「トライポッドに近づく鳥」を発見し軍に告げる役割も他の人物が行うべきだったと思う。

この辺については「プライベート・ライアン」のラストの戦い部分の脚本がおかしくなってしまう、スピルバーグの悪い癖(「娯楽嗜好」)が前面に出てしまったのではないかと思う。
「手榴弾による攻撃」は作品全体のトーンを考えると、「プライベート・ライアン」の「靴下爆弾」に匹敵するほど違和感を感じてしまう。

また、一般的に「宇宙戦争」の宇宙人は、911テロにおけるテロリストであり、宇宙人による侵略は、テロリストによるテロ行為のメタファーだと言われているようである。

しかしながら、ユダヤ人であるスティーヴン・スピルバーグの意図は、宇宙人は勿論ナチス・ドイツのメタファーとして機能しているハズだし、更にはイラクを侵略したアメリカのメタファーとしても機能していると言わざるを得ない。

これは前作「ターミナル」で、ハート・ウォーミング・コメディの体裁を取りながら、人類(アメリカ)はもうダメだ、と言う事を暗に仄めかしていたスピルバーグの考えを、比較的明確に表しているのではないか、と思えるのである。

あと、否定する人が多い結末(オチ)の付け方なのだが、本作「宇宙戦争」で描かれた日数が観客の目には少ない日数に見えるため、違和感があるのかも知れないが、本作の物語の意図やコンセプトを崩さずにあれ以外の方法で結末を付ける方法があったら教えて欲しいものである。

本作「宇宙戦争」にはあれ以外の結末の付け方はありえないのである。

「宇宙戦争」は頭の中で、トム・クルーズを自分に、トム・クルーズの家族を自分の家族に置き換え、更に宇宙人をアメリカに置き換えて考えながら観る作品なのである。

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もうひとつの歴史
http://mixi.jp/view_community.pl?id=261827

iPodとは、言うまでも無く、2001年10月に発売されたApple社製の小型ミュージックプレイヤーである。

しかし、このiPodの製作に、かの映画監督スタンリー・キューブリックが関わっていたことは、一般にはあまり知られていないようだ。

しかし、キューブリックがiPodのプロトタイプの製作に関わっていたのは、事実なのだ。

今日は、キューブリックがiPodのプロトタイプを製作した時の話をご披露しよう。
 
 
1964年。
「語り草になるような、いいSF映画」の製作を企画していたキューブリックは、当時隆盛を極めていた様々な企業に対し、21世紀初頭に開発され、商品化されているだろう製品情報のヒアリングやインタビューを開始した。

対象企業は多岐にわたり、航空、通信、インテリア、テーブルウェア、カメラ、照明・・・・

その企業の中の1社がIBM社だった訳である。
キューブリックは、IBM社に対するヒアリングの結果、その映画の中に登場するコンピュータのコンセプトを整え、名前をHAL9000と名付けた。

そしてそのHAL9000は、人類初の外宇宙探査船「ディスカバリー・ワン」のメイン・コンピュータとして採用され、ディスカバリー・ワン(ディスカバリー号)の全権を掌握することになった。

そして、なんとそのディスカバリー号にiPodのプロトタイプが搭載されていたのだ。
しかも3台も・・・・
 
 
1976年
スティーブ・ウォズニアックがApple Iを製作、それを見たスティーブ・ジョブズは、ニュー・ビジネスになると考え、翌年スティーブ・ウォズニアックと共にApple社を設立した。

Apple社は当時、IBM社と異なるフィールドを歩んでいたのだが、IBM社が小型コンピュータ分野への参入をはじめ、MacとPCの対立は激化していく。

Apple社は事あるごとに、IBM社との比較広告や差別化をはじめ、その一環として、ジョブズ等は、かつてIBMより一歩進んだコンピュータHALシリーズを開発したキューブリックと出会い、彼が製作した伝説のプロトタイプiPodを目にする機会に恵まれた。

ジョブズとウォズニアックは一緒にIBM社を叩き潰そうとキューブリックに持ちかけ、それに感じ入ったキューブリックはプロトタイプiPodの権利をApple社に譲り渡したのだ。

キューブリックは、2001年10月のiPodの衝撃的なデビューを待たずに他界したが、発売以来iPodは爆発的なヒットを続け、Apple社はキューブリックへの感謝の意を込めて、iPodシリーズのデザイン、アートワーク、コンセプト、CF(CM)等の多くはすべてキューブリックへのオマージュとなっている。

キューブリックへオマージュを捧げることにより、Apple社はHALと肩を並べ、相対的にIBM社の先を行く存在になったのである。

それでは、キューブリックが開発したプロトタイプiPodを紹介しよう。

aPod
http://us.imdb.com/media/rm949327872/tt0062622

bPod
http://us.imdb.com/media/rm194353152/tt0062622

cPod
http://us.imdb.com/media/rm529897472/tt0062622

そしてこれが、キューブリックの遺志をつぐiPodなのである。
http://www.apple.com/jp/ipodclassic/

因みに、ボウマンがaPodの中で聞いている、ビープ音や呼吸の音、鼓動の音に聞こえるのは、2001年当時イギリスでヒットした環境音楽である。

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2005/08/06 東京新宿「新宿オスカー劇場」で「ライディング・ザ・ブレット」を観た。

1969年10月30日、ハロウィン。
メイン州立大学の画学生アラン・パーカー(ジョナサン・ジャクソン)は、恋人のジェシカ・ハドレー(エリカ・クリステンセン)といざこざを起こしてしまう。

アランは失意のどん底状態で自宅のバスタブにつかりながらマリファナを喫い、カミソリの刃を弄んでいたが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ミック・ギャリス
原作:スティーヴン・キング『ライディング・ザ・ブレット』(アーティストハウス刊)
出演:ジョナサン・ジャクソン(アラン・パーカー)、デヴィッド・アークエット(ジョージ・ストーブ)、クリフ・ロバートソン(農夫)、バーバラ・ハーシー(ジーン・パーカー)、エリカ・クリステンセン(ジェシカ・ハドリー)

本作「ライディング・ザ・ブレット」は、私見ではあるが、所謂ホラー映画の範疇を超えた、感動的な作品に仕上がっていた。
特にエピローグの出来は白眉だと思う。

しかしながら、本作の構成は「スタンド・バイ・ミー」のそれに酷似しており、数多くのオールディーズをフィーチャーする手法も、「スタンド・バイ・ミー」のそれを髣髴とさせる。
また、ショック・シーンや内面の自分との対話等のシークエンスは、もはや使い古されたような手法を使っている。

思うに、ミック・ギャリスは、新世代の「スタンド・バイ・ミー」を撮りたかったのではないか、と勘ぐってしまう。

事実、本作は所謂ホラー映画と言うよりは、アラン(ジョナサン・ジャクソン)がある夜体験する一夜の出来事を通じてどうなったのか、を描いている。言わば、アランの成長物語の体裁を取っているのだ。
しかし、その成長物語は、お約束の少年期から大人への成長を描くのではなく、青年期から言わば老成へ、と言うか達観への道を描いているのである。

そしてその老成した、エピローグに登場するアラン(ピーター・ラクロワ)が最高に格好良い。
これはピーター・ラクロワのルックスとも相まって「ニュー・シネマ・パラダイス」のラストをも髣髴とさせる。

そして本作のコンセプトは、「グリーン・マイル」の死のメタファーの影響すら感じられる。
「グリーン・マイル」が暗喩した死への長い道のりは、本作ではブレット乗車バッジとして再生を果たしているのであり、ブレットへの行列は断頭台への行進に他ならないのだ。

本作「ライディング・ザ・ブレット」は、客を呼べる俳優をキャスティングし、もうちょっと脚本をなんとかし、メジャー配給会社が配給したならば、もしかすると凄い傑作になったかも知れない。と思う。

そして本作は、ある意味スティーヴン・キングの盟友もしくは子飼いの監督とも言えるミック・ギャリスのフィルモグラフィーを考えた場合、はっきり言ってミック・ギャリス最高の作品だと言えるのではないだろうか。

本作「ライディング・ザ・ブレット」は、大作映画に飽き飽きした観客にとって、一服の清涼剤として機能するような、さわやかな感動を与える作品に仕上がっている。
勿論ホラーの体裁を持っているし、観客を選ぶ作品ではあるが、機会があれば是非、劇場に足を運んで欲しい。

また、余談だが、本作「ライディング・ザ・ブレット」の配給会社日活の本作プロモーションは、近年稀に見る程の頑張りが見て取れる。
「キング祭り」詳細
http://www.nikkatsu.com/movie/riding/home/index.html

更に余談だが、本作のアートワークはバーニ・ライトスンがやっているのにも驚いた。

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「姑獲鳥の夏」

2005年8月7日 映画
2005/08/03 東京池袋「テアトル池袋」で「姑獲鳥の夏」を観た。

昭和20年代末の東京では、ある奇怪な噂が世間を騒がせていた。
雑司ヶ谷の久遠寺医院の娘、梗子(原田知世)が20ヵ月もの間妊娠し、夫、牧朗(恵俊彰)は密室から消えてしまったというのだ。
小説家の関口巽(永瀬正敏)はふとしたことから事件に関わり、私立探偵の榎木津礼二郎(阿部寛)と捜査に乗り出すのだが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:実相寺昭雄
原作:京極夏彦『姑獲鳥の夏』(講談社刊)
美術:池谷仙克
出演:堤真一(京極堂/中禅寺秋彦)、永瀬正敏(関口巽)、阿部寛(榎木津礼二郎)、宮迫博之(木場修太郎)、原田知世(久遠寺涼子/梗子/二役)、田中麗奈(中禅寺敦子)、清水美砂(中禅寺千鶴子)、篠原涼子(関口雪絵)、松尾スズキ(内藤赳夫)、恵俊彰(久遠寺牧朗)、寺島進(原澤伍一)、堀部圭亮(青木文蔵)、三輪ひとみ(戸田澄江)、原知佐子(澤田富子)、荒川良々(和寅)、京極夏彦(傷痍軍人/水木しげる)、すまけい(久遠寺嘉親)、いしだあゆみ(久遠寺菊乃)

とりあえず、原作は脇に除けておく。

本作「姑獲鳥の夏」は実相寺昭雄ワールド全開の作品だった。
特にその実相寺ワールドはカメラワークに顕著に現われている。
最早やりすぎと思えるほどのカメラワークに脱帽なのだ。
更に音楽と、効果音の使い方も凄い。
実相寺ファンとしては、それだけでも大満足だったりする。
美術(池谷仙克)や衣装(おおさわ千春)も素晴らしく、世界観の構築は素晴らしいものである。

キャストもそれなりに頑張っている。
言葉のバトルのようなセリフの応酬をなんとか乗り切っているし、皆さんそれなりに、雰囲気を醸し出していると思う。

しかし、残念ながら脚本(猪爪慎一)がまずい。
尤も、原作と映画は元来別物なのだと思うし、わたしは常々そう言っている。
しかしながら「姑獲鳥の夏」の原作と映画は、本当に全く別物になってしまっていた。

とは言うものの、それはそれで結構なのだが、それを差し引いても、やっぱ、お話がまずい。
折角の世界観やキャストの頑張りが台無しである。
物語の肝となるべきところへの誘導が上手く行っていないのだ。
その結果、登場人物がグダグダと自説を開陳するお話になってしまっている。
謎解きのカタルシスが感じられないのだ。

ところで、キャストについてだが、特筆すべきは、久遠寺菊乃を演じたいしだあゆみである。
市川崑の「金田一耕介」シリーズを飾った高峰三枝子、司葉子、岸恵子らに勝るとも劣らない強烈な印象を受ける。
「鬼気迫る」と言う言葉は、本作のいしだあゆみのためにある言葉なのかもしれない。

しかし、本来ならば、物語の構成を考えた場合、原田知世が鬼気迫る演技を見せるべきだったのだが、それが何とも残念である。

本作「姑獲鳥の夏」の全体の印象としては、市川崑の「金田一」シリーズの亜流のような印象を否定できない。

そう考えた場合、出来るなら、市川崑の「京極堂」シリーズも観て見たい気がするのは、わたしだけではないハズだ。

そして、京極夏彦が比較的大きな役で画面に登場するのは、「金田一耕介」シリーズに横溝正史が出たようなものだと思うのだが、原作者をコメディ・リリーフ(または狂言回し)に使うのはどうかと思うよ。

とにかく、本作「姑獲鳥の夏」は実相寺ワールドを楽しむ向きには絶対にオススメの作品だと思うが、原作ファンにはキャラクターの描写はそこそこなのだが、物語上は満足行く仕上がりではない。
しかしながら、原作への誘導を考えた場合、多くの観客に対し「京極堂」ワールドへの関心を喚起させる作品には仕上がっている。
もしかしたら続編、続々編への芽が感じられるのかも知れない。

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「ロボッツ」

2005年8月2日 映画
2005/07/14 東京新橋「ヤクルトホール」で「ロボッツ」の試写を観た。

小さな町の貧しい皿洗い機ロボット夫婦、コッパーボトム夫妻の元に生まれた男の子、ロドニー。両親の愛に包まれて少年となったロドニーは、父親といっしょに行ったパレードで、偉大な発明家ビッグウェルド博士の存在を知る。「外見が何で作られていても、誰もが輝くことができる」という彼からのメッセージに感動したロドニーは、やがて発明が大好きな青年に成長。両親の生活を助けるため、そして自分自身のために立派な発明家になるという夢を抱いて、大都会ロボット・シティへと向かう。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:クリス・ウェッジ
声の出演:ユアン・マクレガー(ロドニー・コッパーボトム)、ハル・ベリー(キャピィー)、ロビン・ウィリアムズ(フェンダー)、メル・ブルックス(ビッグウェルド博士)、アマンダ・バインズ(パイパー)、グレッグ・キニア(ラチェット)、ジム・ブロードベント(アダム・ガスケット)、ジェニファー・クーリッジ(ファンおばさん)、ドリュー・ケリー(クランク・ケイシー)

本作「ロボッツ」は、良くも悪くも、楽しいファミリー映画に仕上がっている。

メイン・プロットはおそらく大量消費社会と選民思想への風刺なのだろうが、物語の方向性を考えると、特定の実在企業を風刺しているような印象を受けた。

また、作品の手法として、様々な名画やなにかのパロディ・シークエンスを物語にあからさまに挿入する手法は、CGIアニメーションの「シュレック」化現象が一段と進んでいるような印象を受けた。
これは、穿った見方をすると、万人受けしている「シュレック」の手法を、受けるために取り入れている、と言うような印象を受けかねないと思った。

ところで、本作スタッフの前作「アイス・エイジ」は、動物が主人公だったのだが、今回はより人間に近い動きをするロボットたちを主人公とし、その擬人化したロボットたちの動きを再現する手腕は素晴らしいものがあった。
特にミュージカル・シーンにおけるダンスのキレには文字通り目を瞠るものがあった。

しかし本作「ロボッツ」の物語は残念なことに奥が深いものではなく、本作の製作サイドは物語ではなく、細かいディテイルを楽しませることにに腐心しているような気がする。
これにより本作は、VFXやCGIを観客に見せることを目的とし、物語がおざなりになってしまうスパイラルに陥ってしまう危機感を感じてしまう。

CGIはあくまでも手法なのだから、脚本で勝負するようなCGIアニメーションの登場に期待したい、ところである。

まあ本作「ロボッツ」は、誰にでもオススメ出来る楽しいファミリー映画ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。
めくるめくCGIに翻弄されたい方にはオススメの作品なのだと思うが、物語に深みを求める人たちには、満足できない作品かもしれない。

余談だが、CGIアニメーションのキャスト(声の出演)についてだが、本作「ロボッツ」(FOX)やドリームワークスの一連の作品のキャストは、ネーム・バリューのあるいわゆる名優がキャスティングされているケースが非常に多い。

一方ピクサー・アニメーション・スタジオの作品は、監督は勿論、下手をすると製作スタッフがそのまま声の出演をしてしまっているケースが少なくない。

この状況を見ると、ドリームワークスにしろFOXにしろ、キャストのネーム・バリューを利用しているような気がしてならない。
一方ピクサーは、キャスティング以外の部分に力を入れている訳なのだ。

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先日、わたしのAQUOS(アクオス)が故障した。
わたしの愛用のAQUOSはC1シリーズ20型で、2000年12月に発売されたシャープAQUOSのファースト・モデルである。購入したのは発売されてすぐだったから、現在まで足掛け5年にわたって活躍してくれた訳なのだ。

当時、ブラウン管のテレビが故障してしまったわたしは、2000年12月に発売になったばかりのAQUOSを購入すべく、池袋の家電量販店に向かった。

価格の事前調査もせずに量販店に到着したわたしは少なからず驚いた。
なぜなら当時の液晶テレビは非常に高価で、20型AQUOSでさえ20万円を超えていたし、その上のサイズ28型は実売価格でなんと100万円位していたのだ。
また他社を含めた大型の液晶テレビの製品ラインナップはほぼ皆無で、シャープのAQUOSはともかく他社製の液晶テレビは15型前後のモデルしか店頭に並んでいなかったように記憶している。

わたしは冬なのに店内でダラダラと脂汗を垂らしながら悩みに悩んだ。
100万円の28型は予算的に問題外なのだが、20型のテレビに20万円もかけるとは、それにしても高いのではないか・・・・
いや待てよ、いっそのこと28型100万円をローンで買うか・・・・
いやいやいや、それはできない・・・・
いや待てよ、もしかすると・・・・

結局製品の説明を聞いたり迷ったりして、1時間位経過したのではないだろうか、漸く20型液晶テレビを購入する決心がついた。

で、一刻も早く、部屋に液晶テレビと言う物を設置したいわたしは、AQUOSをテイクアウトする事にした。
が、はっきり言って重かった。
肩から腕が抜け落ちるかと思ったほどだ。

池袋の街を巨大なAQUOSの箱をぶら下げて歩く男。
「あっ、AQUOSだ!」
「すげぇな、あいつ液晶テレビ買いやがった!」
当時は、池袋の街でも冗談抜きに、こんな声が聞こえる良い時代だったのだ。

で、自宅に帰り、AQUOSを設置して驚いた。
画質や入出力端子はともかく、なんとAQUOSにはタイマーがついていないのだ。
それまで、目覚まし代わりにテレビを使っていたわたしは愕然とした。明日から、どうやって起きれば良いのだ?と。

タイマーはともかく、それ以来、わたしはすべてのブラウン管テレビを廃棄し、現在では自宅で3台の液晶テレビを使用している。

が、勿論メインのテレビは件のAQUOSである。
以来、わたしはこの愛すべきAQUOSで1000本近くの映画を観てきたことになる。
そして、先日その愛すべきAQUOSが故障してしまったのだ。
 
テレビがない生活は無理なので、現在リビングには三菱の15型の液晶テレビが鎮座ましましている。

もしかしたら、とうとうと言うかようやくと言うか、我が家にも大型液晶テレビかプラズマテレビの導入時期が来たのだろうか。

ちなみに壊れたAQUOSだが、近日中にサービスが状況を見に来る予定になっている。
 
もしも、機械に記憶が宿るならば、このAQUOSは凄い映画通になってしまっているのかも知れない。
タイマーが付いていないけど、C1シリーズの液晶なんで反応速度が遅いけど、ひとつだけ青色に常時点灯するドットがあるけど、楽しい思い出を、涙と笑いとそしてすばらしい作品の数々をぼくに見せてくれたAQUOS。
ぼくはそんなAQUOSが大好きだ!
緑のLEDだけを輝かせ、何も言わなくなったAQUOS。
今のぼくはさびしい気持ちでいっぱいだ。

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わたしは、映画は年間300本以上観るのだが、テレビ・ドラマはほとんど見ない。従ってテレビ・ドラマ版「電車男」もほとんど見ていない。というのが正直なところである。

しかしながら、各方面で『「電車男」オープニング・アニメーション』が「凄い」とか「酷い」とか取りざたされていることもあり、その『「電車男」オープニング・アニメーション』を見てみることにした。
 
 
はっきり言って激怒した。

なぜならあれは『DAICON IV OPENING ANIMATION』に対するリスペクトやオマージュを捧げたような作品ではなく、もはや剽窃や盗作に近い作品なのではないか、とわたしには思えたからである。

尤も、「電車男」を放映しているのは、日本を代表する巨大メディアのひとつであるフジテレビであるから、おそらく権利関係はすべてクリアしていると思うし、関係各方面へのネゴもきちんと行われているのだと思う。従ってフジテレビが法的に剽窃や盗作の謗りを受けることはないと思う。

しかし、権利がクリアされ、法的に問題がないとしても、『「電車男」オープニング・アニメーション』が行っていることは、全くひどいものである。
 
 
ここで、「お前は一体何の話をしているのだ」という方に簡単に説明すると、『「電車男」オープニング・アニメーション』は1983年にダイコンフィルムが8mmフィルムで自主製作した『DAICON IV OPENING ANIMATION』に酷似しているのだ。
ちなみに両作品は、酷似という言葉が恥じ入ってしまうほど、信じられない程に酷似している。

さて、それでは、その『DAICON IV OPENING ANIMATION』とは一体何ぞや、と言う話だが、とりあえず下記URLをご参照いただきたい。

『ダイコンフィルムって何?』
http://www.gainax.co.jp/soft/daicon/what.html

『DAICON III & IV OPENING ANIMATION』
http://www.gainax.co.jp/soft/daicon/opa.html

状況は大体つかめたと思うのだが、ここで問題を整理してみたいと思う。
※ 推測や予断がかなり入っていると思うが、その辺は割り引いて読んでいただきたい。

■『DAICON IV OPENING ANIMATION』について

1.権利関係
『DAICON IV OPENING ANIMATION』は元来、イベントでの限定上映を目的とした作品であり、音楽やキャラクター使用の権利は(おそらく)クリアしていないだろう。
と言うか、『DAICON IV OPENING ANIMATION』古今東西有名無名の数百のキャラクターが登場する作品である以上、事実上権利関係をクリアすることはできないだろう。
つまり、この作品『DAICON IV OPENING ANIMATION』は、権利的(法的)には(おそらく)存在していない作品だと解釈されてしまうのではないだろうか。
※ わたしは寡聞にしてよく知らないのだが、イベント限定の商品、たとえば出版物(同人誌等)やキャラクター商品(フィギュア等)は、個別に版権を取らなくても、キャラクターを二次使用して良いシステムがあるらしい。

2.制作者
『DAICON IV OPENING ANIMATION』に関わったスタッフの多くは、現在では日本のアニメーション業界において重要なポストを占めているのだが、1983年当時は(おそらく)限りなく素人に近い存在であったと思うし、また当時から優秀なアニメーターとして名を馳せていた他のスタッフにしても、実際のところは(おそらく)ボランティアとして制作に参加していたのではないかと思う。
 
 
■『「電車男」オープニング・アニメーション』

1.権利関係
クレジットを明確に見ている訳ではないので、なんとも言えないのだが、(おそらく)『制作・著作:フジテレビ』とクレジットされていると思うので、「電車男」に関するすべての権利関係はクリアされていると思われる。
と言っても、本作のキャラクターはオリジナル・デザインであるから、電車のデザインの使用に権利が発生しないと仮定すると、
法的には楽曲「トワイライト」の使用のみに権利が発生するのではないか、と思う。

2.制作者
『「電車男」オープニング・アニメーション』自体の制作はGONZOで、キャラクターデザインのOKAMAである。
が、『「電車男」オープニング・アニメーション』の企画はGONZOではないのではないか、と思う。
というのも、いくらなんでもアニメーションの制作に関わる者が、自らの積極的な企画で、かの伝説的な作品『DAICON IV OPENING ANIMATION』に酷似してしまっている作品を制作するとは思えないからである。
逆に言うならば、GONZO自らの企画で『「電車男」オープニング・アニメーション』を制作したとしたら、GONZOはクリエイターとして最低だ、と言わざるを得ない。
では一体誰がこの『「電車男」オープニング・アニメーション』の企画を立てたのであろうか。
わたしは、フジテレビ側の強い要請で、GONZOが『「電車男」オープニング・アニメーション』を制作した、と思いたい。
 
 
■問題点

その1
2005年に制作された『「電車男」オープニング・アニメーション』は、1983年に制作された伝説的な作品である『DAICON IV OPENING ANIMATION』への敬意に満ちた愛すべき作品ではなく、同作本編の表層のみを、部分的にではなく、全体的に再現することを目的とした、いわば唾棄すべき作品である。と言う事。

その2
『「電車男」オープニング・アニメーション』と言う作品は、日本有数の巨大メディア:フジテレビが、自主制作映画団体:ダイコンフィルムが制作した『DAICON IV OPENING ANIMATION』の表層的な描写方法を再現した作品である。と言う事。

■まとめ
おそらく、フジテレビがやっていることは、法的には全く問題はないと思うし、旧ダイコンフィルムの関係者に対しても、それ相応の対応を取っていることだと思う。

しかし、だからと言って、権利関係をクリアし、関係者に大金を払ったとしても、クリエイターとしてやって良いことと悪いことがある。

『「電車男」オープニング・アニメーション』は『DAICON IV OPENING ANIMATION』のリメイクでなければ、リ・イマジネーションでもないのだ。
フジテレビは、かつての名作と寸分たがわない作品を、新たな作品として制作しているのだ。

果たして、こんなことが許されるのだろうか。
 

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2005/06/15 東京中野「中野ZERO小ホール」で「亀は意外と速く泳ぐ」の試写を観た。

片倉スズメ(上野樹里)は平凡な主婦である。
夫は海外赴任中、定期的に電話をくれるが、離すのはペットの亀の心配ばかりである。
毎日が恐ろしく単調に過ぎていく・・・・。

トイレに行けば自分の存在を無視するかのように、おばさんがオナラをし、夫でさえ時々自分のことを忘れているようだ。

私は見えていないのか?

久しぶりに待ち合わせをした幼馴染のクジャク(蒼井優)には2時間も待たされてしまう始末。

・・・・このまま歳をとり死んでいくのか?
そう思うと恐ろしい・・・・。

そんな平凡を嘆く彼女は、ふとしたことから駅の階段のへこみに張られた広告を目にする。
その広告はなんと「スパイ募集!」の広告だったのだが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督・脚本:三木聡
出演:上野樹里(片倉スズメ)、蒼井優(扇谷クジャク)、岩松了(クギタニシズオ)、ふせえり(クギタニエツコ)、要潤(加東先輩)、温水洋一(パーマ屋のおじさん)、松重豊(ラーメン屋のオヤジ)、村松利史(豆腐屋のオヤジ)、森下能幸(最中屋のおじさん)、水橋研二(白バイ警官)、緋田康人(水道屋)、松岡俊介(韮山)、伊武雅刀(中西)、嶋田久作(福島)、岡本信人(スズメの父親)

本作「亀は意外と速く泳ぐ」は、小ネタにクスクス笑っているうちに、ある種ちょっとだけ壮大な地平へわれわれを連れて行ってくれる、摩訶不思議な物語である。

その世界の住人は、あまりにも曲者揃いなのだが、分を弁えた抑制された演技と、的確な演出でオーバーアクト寸前で踏み止まっているような印象を受ける。

もともと本作は爆笑を目指しているのではなく、くすくす感を大切にした作品だと思うのだが、その微妙なさじ加減が功を奏したおもしろい作品に仕上がっている。

とは言っても、本作は決して万人受けする作品ではなく、観客を大いに選ぶ作品だと思う。
そして、キャストのほとんどが曲者と言う本作を考えた場合、本作は日本映画界が地味に誇る、曲者俳優たちの豪華な競演、と言う観点も出てくるし、テレビ界で数々の伝説的なプログラムを制作してきた三木聡の手腕を楽しむ、と言う観点もあるだろう。
そして勿論上野樹里と蒼井優の作品だととらえる事も出来ますしね。

私見だが、個人的には上野樹里つながりで考えると、前作「スウィングガールズ」よりもおもしろかったと思うぞ。

ところで、本作「亀は意外と速く泳ぐ」で描かれているスパイのコンセプトは、「007」シリーズ等で描かれているようなスパイではなく、「チャーリー・マフィン」シリーズやジョン・ル・カレの一連の作品に登場する目立たない地味なスパイのコンセプトに近いような印象を受けた。

勿論、チャーリー・マフィンやル・カレが創出したスパイのように大活躍するわけでもなく、頭脳明晰な訳でもないのだが、スパイのコンセプトのエッセンスを抽出した場合、同じようなコンセプトが残るような気がするのだ。

キャストは、前述のように曲者ばかりなので、誰がどうこうというのは割愛するが、脚本がしっかりしており、アドリブを廃している(と思う)ので、突出した目立ったキャラクターがいる訳ではなく、しっかりと編み上げられたタペストリーのような言わば群像劇のような印象をも受ける。

本作「亀は意外と速く泳ぐ」は、おそらく大ヒットする作品ではないと思うが、出来ることなら多くの人に観ていただきたい作品のひとつだと思うのだ。

☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2005/07/01 東京竹橋「科学技術館サイエンスホール」で「星になった少年 Shining Boy and Little Randy」の試写を観た。

郊外で細々と動物プロダクションを営む小川家。
息子の哲夢(柳楽優弥)は毎日動物たちと楽しく触れ合っていた。
そんなある日、母・佐緒里(常盤貴子)が、子供のころからの夢を実現すべく、タイからゾウの“ミッキー”を購入した。哲夢はその天性の才能から、すぐにミッキーと心を通わせていくのだった。
そしてまた一頭、CM出演のための子ゾウ“ランディ”もやって来るのだが、訓練を受けていないランディは、なかなか哲夢の言うことを聞かなかった。
そこである時タイのゾウ使いの話を聞いた哲夢は、タイのゾウ訓練センターへの留学を決意するのだが・・・・。

監督:河毛俊作
製作:亀山千広
原作:坂本小百合 『ちび象ランディと星になった少年』(文藝春秋刊)
音楽:坂本龍一
出演:柳楽優弥(小川哲夢)、常盤貴子(小川佐緒里)、高橋克実(小川耕介)、蒼井優(村上絵美)、倍賞美津子(藤沢朝子)

本作「星になった少年 Shining Boy and Little Randy」には泣かされた。
特にラストのシークエンスで、一頭の象がとる行動には、本当に泣かされてしまう。
ついでにその行動は映画の演出上の理由で創出された行動ではなく、実際にその時に象がとった行動だったのにも驚かされてしまうし、泣かされてしまう。正に、事実は小説よりも奇なりである。

脚本は比較的直球勝負で、奇をてらったトリッキーなものは無い。
印象に残るタイでの「象の神様」のシークエンスだが、そのシークエンス自体は伏線としては秀逸なのだが、そのシークエンスが原因となって哲夢(柳楽優弥)が夭折してしまう、と言う解釈が可能なため、釈然としない気がする。

また、哲夢の学校生活に比較的長く尺を割いている点も印象的だった。哲夢がゾウ使いになろうとする過程には、家庭環境だけではなく、学校生活における問題点もあったであろうことを語っている事に好感が持てる。特にこれは校庭でのサッカーボールのシークエンスに顕著である。

そしてラストだが、ラストのタイでのシークエンスも感動的で良かったのだが、哲夢亡き後をもう少し描いた方がより感動的だったのではないかと思えた。
勿論、そこまで描くと物語の焦点が哲夢の生涯から、哲夢の遺志を継いだ人々の物語にずれてしまう感が否めないが、ラストにワンカットだけでも良いからテロップでもかまわないので、母親や弟が現在何をしているのかを入れた方が泣けると思ったのだ。

しかし、本作の構成は残念ながら、テレビ放映時のCF(CM)のタイミングが考慮されているような間の存在が気になった。

キャストは先ずは、哲夢の母・佐緒里を演じた常盤貴子だが、自由奔放に生きる役柄を見事に演じつつ、ラストの嗚咽では女優の力を見せつけてくれる。
その嗚咽のシークエンスでは実際のところ蒼井優(村上絵美)との演技合戦の場面なのだが、女優の格としては常盤貴子に軍配が上がっていた。

そんな蒼井優(村上絵美)だが、最近はさまざまな映画に出ずっぱりなのだが、少ない出番ながら比較的印象に残る役柄を好演していた。哲夢と心を通わせる重要な役を担っていた訳だ。

また哲夢の祖母・藤沢朝子を演じた倍賞美津子も存在感があり、映画を引き締めていた。
ここで、驚いたのは撮影なのだが、フレームが倍賞美津子の顔を半分くらい落すカットが何度も出てきたのには驚いた。
大女優倍賞美津子の顔を切るとは驚きなのだ。
印象に残ったカットは、ゾウのショーのシークエンスとお葬式のシークエンスである。
そのお葬式のシークエンスで倍賞美津子はフレームから外れつつもすばらしい表情をしている。フレーム外にいながらにして抜群の存在感を感じるすばらしいカットであった。

さて、主演の柳楽優弥(小川哲夢)だが、俳優としての岐路に立たされている。
前作「誰も知らない」の作風では、演技しないことが要求され、その演技しない演技が評価されていたのだと思うのだが、本作以降は演出された演技が要求されている訳なのだ。
そう考えた場合、本作の柳楽優弥は残念ながら演技と言うレベルには達していないような印象を受けた。勿論彼には存在感はあり、本作の役柄はあまり喋らない主人公なので、それほど気にならないとは思うのだが、次回作では柳楽優弥は大きな岐路に立たされるのではないか、と思ってしまう。

あと気になったのは、武田鉄也とブラザートムがダメな業界人を見事に演じていた。

さて音楽の坂本龍一だが、はっきり言ってオーバー・スコアであった。
と言うのも、坂本龍一の音楽に力がありすぎで、映像と音楽のパワー・バランスが悪いのだ。もう少し控えめな楽曲の方が良かったのではないかと思う。

まあ本作「星になった少年 Shining Boy and Little Randy」はフジテレビの戦略が見え隠れするのだが、お約束どおりに泣ける感動作品であり、ぜひ劇場で見た後は、「市原ぞうの国」(http://www.zounokuni.com/)にでも行っていただければ、と思うのだ。

☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2005/06/29 東京東武練馬「ワーナーマイカルシネマズ板橋」で「宇宙戦争」を観た。

雲ひとつない晴天に包まれた、アメリカ東部のある町に異変は突然起こった。上空で発生した激しい稲光は地上にまで達し、その下で巨大な何かが大地を震わせうごめき始めた。そこに居合わせたレイ(トム・クルーズ)は、恐怖に怯える人々と共に状況を見守る。そして異星人の襲撃が目前で始まった。侵略者が操る”トライポッド”が地底よりその巨大な姿を現し、地球侵略を開始したのだ。何とか家にたどり着いたレイは、テレビのニュースで世界16カ国が同時に襲われたことを知る。レイは息子のロビー(ジャスティン・チャットウィン)と娘レイチェル(ダコタ・ファニング)を連れ、安全と思われる土地へと逃げる準備をするが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:スティーヴン・スピルバーグ
原作:H・G・ウェルズ
脚本:デヴィッド・コープ、ジョシュ・フリードマン
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:トム・クルーズ(レイ・フェリエ)、ダコタ・ファニング(レイチェル・フェリエ)、ティム・ロビンス(オギルビー)、ジャスティン・チャットウィン(ロビー・フェリエ)、ミランダ・オットー(メアリー・アン)、ジーン・バリー(祖父)、アン・ロビンソン(祖母)、 モーガン・フリーマン(ナレーション)

とりあえずはココを読んでいただきたい。
「宇宙戦争」その0
http://diarynote.jp/d/29346/20050629.html

本作「宇宙戦争」はひとまずは、万人が楽しめる大変おもしろいSFパニック・ムービーだと言えよう。
勿論本作は、「宇宙戦争」(1953)のリメイクであるし、「宇宙戦争」(1953)の程度の低いパロディでしかない「インデペンデンス・デイ」や、「宇宙戦争」(1953)と「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」を見事に融合させ、本作にも影響を与えたと思われる「サイン」、そしてティム・バートンの傑作「マーズ・アタック!」等の作品を念頭に置いて考えなければならない作品だと言える。

これらの作品(「インデペンデンス・デイ」を除く)に共通するテーマは、「人類は無力だ」と言うこと。
これはH・G・ウェルズが書いた原作でもひとつのテーマとなっており、本作「宇宙戦争」を語る上でもひとつの重要なキーとなっている。
ところで「インデペンデンス・デイ」なのだが、この映画がダメ映画に感じられる原因のひとつは、「宇宙戦争」の設定を無断借用しているのにも関わらず「無力な人類ではなく、強いアメリカ」を描いてしまったところだと思う。

さて、この「人類は無力だ」と言う主要テーマは、本作の重要な伏線のひとつである「レイチェル(ダコタ・ファニング)の指に刺さった棘(とげ)」のシークエンスでも暗喩されている。そのシークエンスでは、レイチェルの指に刺さった棘を、父親らしきところを見せようとして無理に取ろうとするレイ(トム・クルーズ)に対し、自然に体が棘を押し出すからそのままにしておくとレイチェルは言う。

このシークエンスは勿論、拡大解釈すると「ガイア理論」にも通じるし、その「ガイア理論」を下に人類と地球との関係を考えると「人類は地球にとっての棘だ」とも言えるのだ。

また、その前のシークエンスでは、レイチェルがケータリングされて自然食品を食べているのも面白い。おいしそうに無味乾燥な自然食品(本当は無味乾燥ではない)を食べるレイチェルとそんなもの食べられないと言うレイの対比が良い。これは「サイン」にも繋がっているのだが、化学物質に汚染されているレイと、自然治癒力を信じるレイチェルとの対比が描写されている。

そしてこの「人類は無力だ」と言うテーマは、冒頭のモーガン・フリーマンのナレーションにも通じ、本来ならばラストにもってくるべきネタを冒頭にもってきてしまうスピルバーグの英断にも驚くが、CGIでネタを描いてしまう手法にも驚いた。

続いて興味深かったのは、冒頭のレイとロビー(ジャスティン・チャットウィン)のキャッチボールである。

表向きはレイとロビー親子の断絶振りをキャッチボールになぞらえて見せてるのだが、その際レイとロビーがかぶっているキャップが面白いのだ。
と言うのも、レイはニューヨーク・ヤンキースのキャップをロビーはボストン・レッドソックスのキャップをかぶっているのだ。これらのチームは勿論ライバルチーム同士なのだが、実際のところは、レイとレイの元妻メアリー・アン(ミランダ・オットー)の現在の夫との関係をも象徴しており、言うならばロビーはメアリー・アンの夫の代理人としてレイと対決している訳なのだ。

さて、キャップの話の本題だが、本作の物語の舞台はニューヨーク近郊のレイの住居からボストンまでで、本作はロード・ムービーの形式を持っているのだが、なすすべも無いレイ等が逃げ延びる先が希望の象徴ボストンなのである。

そしてそのニューヨークと言えば、勿論911テロの被害を受けた街であり、ボストンと言えばアメリカ最古の街、言わばアメリカ合衆国発祥の地、と言う点が興味深い訳だ。

勿論、本作での宇宙人の襲来は、911テロの暗喩であり、本作の物語でなすすべも無く逃げ惑う人々は、アメリカ合衆国発祥の地ボストンまでなんとか逃げ延び、本作終了後の世界で壊滅したアメリカ全土を復興すべく、その足がかりの地として、かつてのアメリカ合衆国が生まれた街ボストンを選んだ訳なのである。

ニューヨーク・ヤンキースとボストン・レッドソックスは、語弊があるし、悪い例えなのかも知れないのだが、本作では破壊と再生のメタファーとなっているのかも知れないのだ。

キャストはダコタ・ファニングがやはり良かった。
キャー、キャー泣き叫ぶ姿も良いのだが、冒頭の棘のシークエンスやカバンを持ち運ぶシークエンス、自然食品のシークエンス、ティム・ロビンスとのシークエンス等々印象的なシーンの目白押しである。

ティム・ロビンスはオギルビーと言うキレかけている男を好演していた。
意味ありげに映されたオギルビーの腰にぶら下がっているものや、宇宙人が見ていた写真、レイチェルに対する態度、レイの疑惑の目から考えると、明確には表現されてはいないのだが、オギルビーは変わった趣味を持った人物としてキヤラクター設定されているのが興味深い。前作「クリムゾン・リバー」でティム・ロビンスが演じたキャラクターの映画的記憶を利用した、面白いキャラクター設定だと思う。

またトム・クルーズだが、レイをヒーローではなく、ひとりの父親失格者として描いている点には好感が持てる。
勿論そのあたりは「インデペンデンス・デイ」へのアンチテーゼともなっているのだ。

アンチテーゼと言えば、マスコミが壊滅している点は「サイン」へのアンチテーゼとなっている。

「宇宙戦争」その2 へつづく・・・・
http://diarynote.jp/d/29346/20050815.html

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「マラソン」

2005年7月12日 映画
2005/06/20 東京新宿「東京厚生年金会館」で「マラソン」の試写を観た。

身体は20歳だが、精神年齢は5歳のチョウォン(チョ・スンウ)。
自閉症の障害を持つチョウォンは、"走り"の才能だけはピカイチ。
母親のキョンスク(キム・ミスク)は障害を持つチョウォンから目が離せず、息子より一日だけ長生きしたいと願っている。
チョウォンの弟チュンウォン(ペク・ソンヒョン)は、兄にばかり関心を寄せる母に心を閉ざしていた。

そんな中、チョウォンの長所を何とか伸ばしたいキョンスクは、チョウォンが通う育英学校に、飲酒運転のためボランティアに訪れた、かつての有名ランナーで、今は飲んだくれのチョンウク(イ・ギヨン)にコーチを依頼し、42.195キロのフルマラソン参加に向けトレーニングを開始したが・・・・。
(オフィシル・サイトよりほぼ引用)

監督:チョン・ユンチョル
出演:チョ・スンウ(ユン・チョウォン)、キム・ミスク(キョンスク)、イ・ギヨン(ソン・チョンウク)、ペク・ソンヒョン(ユン・チュンウォン)、アン・ネサン(チョウォンの父親)

わたしは大いに泣かせていただいた。

本作「マラソン」の背景には、障害を持つ兄に対し過剰なまでの愛情をそそぐ母親と、その母親の愛情を得られず心を閉ざしてしまう弟、そして家族の崩壊、と言う図式がある。
この根本的な図式は、最近日本公開となった「マイ・ブラザー」の構造と似ているのが非常に興味深いし、その反面非常に残念でもある。

そして、その肝心のプロット自体も決して目新しいものではなく、世界中で既に語り尽くされた感が否めないし、言うならば手垢がついたようなプロットを再利用しているような印象を受けるのだ。

とは言うものの、逆に言うとそんな手垢のついたプロット(言い換えるならば普遍的な物語)を堂々とメインのプロットに使うことにより、本作は普遍的な力を得、世界中の様々な民族に受け入れられる作品に変貌し得る力を持った作品だと言えるのかも知れない。

また、物語の構成も決して新しいわけではないのだが、チョウォンの少年期における母親の苦悩で幕を開ける本作の物語は、ユーモアとペーソスをまといつつも、障害者を家族の一員として24時間365日生活することの現実的断片をわれわれ観客に突きつけている。
このあたりは、日本国内のメディアによって取り上げられる障害者や介護の現場をのイメージに踊らされ、ささやかな動機と安易な気持ちで福祉の場に足を踏み入れてしまう人々に、自分が足を踏み入れようとしている世界がどんなものなのか、その断片を表現しているのではないか、と思えてならない。

その後、物語はチョウォンが巻き起こす様々なエピソードをユーモアを込め描写し続け、それらによりわれわれ観客はチョウォンに対し、過剰なまでに愛情を注ぎ続ける母親の姿に感情移入する反面、同時に背反してしまっているのだ。

そして、われわれ観客は、障害を持つ家族がいる生活の断片を含めたチョウォンの少年期と、母親の過剰な愛情、そして弟の複雑な感情を理解する。
物語を楽しむ上で、それらは既にわれわれ観客の身近な思い出となっているのだ。

本作で描かれる細かいエピソードの描写は、奇をてらったものではなく文字通りストレートで、韓国映画の特徴なのかも知れないが、障害をその登場人物の個性として真っ向から描いている。

特に印象的なのは、シマウマの外見に似たバッグを持った女性や、シマウマの外見に似たスカートをはいた女性が登場するシークエンスに顕著である。
本作は、日本のメディア同様、障害者をピュアで純粋な存在として描く一方、障害者を一般社会において忌み嫌われる存在としても平等に描いている訳だ。

テレビやスクリーンで見る障害者には寛容で好意を抱くが、実生活で障害者に会うと知らん振りをきめこみ顔を顰める人々がなんと多い事よ。

当然ながら障害者には、良い人もいれば悪い人も勿論いる訳なのだが、日本のメディアは、障害者をあまりにもピュアで純粋で良い人に描き過ぎるきらいが否定できない。
その点、韓国映画はストレートで、障害をその人のひとつの個性として正面から描いているような印象を受ける。

また、特に印象に残ったのは、チョウォンの母親を善悪で単純に割り切ると、悪として描いている点が強烈な印象を与えている。
特に、地下鉄のシークエンスでチョウォンが繰り返す言葉が鋭くわれわれの胸に突き刺さるし、チョウォンの母親の言動が、チョウォンの性格形成上の問題となっている点も厳しいながら、映画としては好印象を受けた。

ところで、撮影(クォン・ヒョクチュン)なのだが、本作では広角レンズを非常に効果的に使う一方、なんの変哲も無い街中や自然の風景を素敵な舞台に変える力を見事に行使していた。
ぱっと見箕でも、綺麗で印象に残るカットがたくさん在ったのではないか、と思う。
個人的には、おそらく多くの人が泣かされたカット、路傍の草花に手をかざしつつ走るチョウォンを広角レンズでとらえたカットは、涙腺に対し、強烈な破壊力を行使していた、と言えよう。

また、本作はキャラクターの設定が一筋縄でいかない感じで非常に面白かった。
特にチョウォンの母キョンスク(キム・ミスク)や、チョウォンのコーチとなるチョンウク(イ・ギヨン)のキャラクター設定は秀逸だろう。
登場人物の多くが、いい加減な人物であるながら、まじめで骨があるところに好感を覚える。われわれはダメ人間が頑張るところに共感するのだろうか。

そして、この映画の力は、マラソンをはじめとする様々なスポーツを、体を動かす事の素晴らしさを観客に伝える事に成功している。おそらく観客の多くは、なんらかのスポーツをしてみたくなったのではないか、と個人的には思う。

スポーツとは根本的に人類の本能(闘争本能)の発露であり、その本能を具現化しているだけで、わたしは感涙なのだ。

なんだか訳がわからない事をウダウダ書いているような気がするが、本作「マラソン」は、スポーツを題材とした感動の物語であるし、家族や障害について考えるきっかけにもなっているし、画も綺麗だし、面白いし悲しいし、出来れば劇場で観て欲しいな、と思える良質の作品だと思うのだ。

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2005/06/05 東京竹橋「科学技術館サイエンスホール」で「マイ・リトル・ブライド」の試写を観た。

世の中の女はすべて自分の女だと思っているような浮気者の大学生のサンミン(キム・レウォン)と、友達とおしゃべりすることが大好きで夢見がちな女子高生ボウン(ムン・グニョン)は、幼い頃から兄妹のように育ってきた幼なじみ。

ある日ふたりは、両家に絶対的な権力を持つボウンのおじいさん(キム・インムン)から「いますぐ結婚をして欲しい」という無茶な命令を下される。「亡くなったサンミンのおじいさんとは親友だった。若い頃に自分たちの子供を結婚させようと約束したが、お互いに授かったのは息子。だからお前たち(孫)が約束を果たして欲しい」というのだ。

まだまだ女遊びをしたいサンミンも学校に憧れの男の子がいるボウンも抵抗するが、普段からふたりの結婚を願っていたおじいさんが危篤状態に陥る。その姿を見てうろたえたボウンは「私、結婚するから目を開けて!」と叫んでしまうが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:キム・ホジュン
出演:キム・レウォン(パク・サンミン)、ムン・グニョン(ソ・ボウン)、パク・ジヌ(ジョンウ先輩)、キム・インムン(ボウンの祖父)、ソン・ギユン(ボウンの父)、ソヌ・ウンソク(ボウンの母)、ハン・ジニ(サンミンの父)、キム・ヘオク(サンミンの母)、アン・ソニョン(キム先生)、シン・セギョン(ヘウォン)、キム・ボギョン(ハン・ジス)

こんな映画にだまされちゃいけないと思いつつ、気がつくと、ニヤニヤしながら映画を眺めている自分を発見、周りを見渡し思わず赤面してしまう。
本作「マイ・リトル・ブライド」はそんな感じの楽しいロマンティック・コメディに仕上がっているのだ。

尤も、物語のプロットは、大学生サンミン(キム・レウォン)と女子高生ボウン(ムン・グニョン)がおじいちゃん(キム・インムン)の危篤状態の願い(命令)で、自分たちの意思に関わらず結婚させられてしまう事から端を発するドタバタ・コメディを描いており、当然の事ながらふたりが結婚してしまっている事実を周りに隠し通すため、巻き起こるいろいろな騒動を描いている。

そんなプロット自体は決して新しいものではなく、日本でも古くは「おくさまは18歳」(1970)等でお馴染みのものである。
ただひとつ違っているのは、「おくさまは18歳」系の作品では、主人公たちは、周りの反対を押し切ってお互いが好き合って結婚しているのに対し、本作の主人公たちはでは好きでもないのに無理やり結婚させられてしまっている、という点だろう。

さらに興味深いのは、結婚に持ち込むプロットの根底にあるのが、日本ではすでに廃れてしまっている家長制度が韓国では現存している、と言う点だろう。

そしてその家長制度は、ボウンの祖父(キム・インムン)をピラミッドの頂点とし、ボウンの父(ソン・ギユン)、ボウンの母(ソヌ・ウンソク)、サンミンの父(ハン・ジニ)、サンミンの母(キム・ヘオク)までが見事なピラミッド構造を保っている。とは言うものの実際のところは、父母の代では女性の、つまり母方の権力が父方の権力より強いような印象を観客に与えている。
この辺は韓国が現在直面している家長制度の衰退をもしかしたら描写しているのかも知れない。

キャストはなんと言っても、キュートなムン・グニョン(ソ・ボウン)の魅力爆発、と言ったところだろう。
本作のアート・ワークはムン・グニョンをいかに幼く見せるかに腐心しているようで、本編中の比較的大人っぽいムン・グニョンとアート・ワークの幼いムン・グニョンの対比が興味深い。

また女優陣としては、サンミンの憧れの先輩ハン・ジスを演じたキム・ボギョンも非常に魅力的だし、ボウンのライバルで意地悪な女の子を演じた女優さん(名前わかりません)も、あぁ男って奴はこんな女の子にいつもだまされるんだよな、と言う感を見事に体現していた。

あとは教育実習生になるサンミンに惚れるボウンの担任のキム先生(アン・ソニョン)も非常に印象的だった。

男性陣としては、サンミンの悪友達が良かったです。
良い友達に恵まれたサンミンの学生生活は楽しそうなのだ。

脚本はベタでお約束な展開の連続なのだが、なんとも面白いのだ。こんな映画にだまされちゃいけないと思いながらも、だまされる快感を感じてしまうのだ。

おそらく、本作「マイ・リトル・ブライド」は、観客を選ぶ作品だと思うのだが、機会があれば是非観ていただきたい楽しいコメディなのだ。

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2005/05/26 東京竹橋「科学技術館サイエンスホール」で「フォーガットン」の試写を観た。

その日もテリー(ジュリアン・ムーア)は子供部屋で息子サムの思い出に浸っていた。どんなに愛おしさを募らせても、サムは戻っては来ない。11人の死亡が確認された悲惨な飛行機事故で、9歳のサムは逝ってしまったのだ。夫ジム(アンソニー・エドワーズ)の優しい気遣いにも、精神科医マンス(ゲイリー・シニーズ)のカウンセリングにも、悲しみは癒されるどころか喪失感だけが膨らんでいく。

サムの死から14ケ月。
テリーがマンス医師のもとに向おうと路上駐車した場所に行ってみると、駐車した場所に車が見当たらない。テリーの困った様子を見かねた親切な男(ライナス・ローチ)の視線をたどり、すぐに車は見つかったが、かすかな違和感が残った。
マンス医師のオフィスでは、飲んでいたはずのコーヒーが忽然と消えてしまう。マンス医師は、他人が飲むコーヒーの香りから無意識に記憶を捏造しただけで、君ははじめからコーヒーなど飲んでいなかった、というが、テリーは釈然としない。

その晩、テリーが仕事に復帰したことをジムが祝ってくれたが、夫婦の間に穏やかな空気が流れたのも束の間、家族3人で写っていたはずの写真からサムだけが消えているのを発見したテリーはジムの仕業だと決めつけ、逆上し家を飛び出してしまう。
そこで・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
 
監督:ジョセフ・ルーベン
脚本:ジェラルド・ディペゴ
出演:ジュリアン・ムーア(テリー・パレッタ)、ドミニク・ウェスト(アッシュ)、ゲイリー・シニーズ(マンス医師)、アルフレ・ウッダード(ポープ刑事)、ライナス・ローチ(親切な男)、ロバート・ウィズダム(カール・デイトン)、ジェシカ・ヘクト(エリオット)、アンソニー・エドワーズ(ジム・パレッタ)

本作「フォーガットン」は、「精神世界の冒険」を描いた作品群の頻発に対するアンチテーゼと言えるのではないか、と思える。
また、そう考えた場合、本作のプロットは、『どうせ「精神世界の冒険」の話だろ』と言う、観客への見事なミス・デレクションとして機能する。

そして多くの観客は見事にそれにはまってしまった。
「精神世界の冒険」を描いた作品を期待した多くの観客が本作を否定する所以であろう。

本作は多くの観客が感じたようにつまらない作品なのだろうか。

■神の視点
本作「フォーガットン」の冒頭は空撮から始まっている。しかもよりによって真上からの空撮である。
空撮のカットで幕を開ける作品は多々あるが、真上からの空撮は「ウエスト・サイド物語」位しか無いのではないだろうか。
「ウエスト・サイド物語」の空撮は、登場人物にとっての様々な事象は視点を変えると些細な出来事でしかない、と言うことを描いているのだが、本作「フォーガットン」の空撮は「神、あるいは神に準ずる者の視点」を表現している。
そして、観客は本作の冒頭カットから、この作品の黒幕は「神、あるいは神に準ずる者」であることを知っているのだ。

■「未知との遭遇」の言及
ジュリアン・ムーアの役名はテリーである。
主人公が「テリーと言う名の母親」であることを知った瞬間、わたしの意識は「未知との遭遇」へ飛んだ。
と言うのも「未知との遭遇」でロイ・ニアリーの妻を演じたのがテリー・ガーだったからである。

「未知との遭遇」は、極端に解釈すると、宇宙人からの潜在的なメッセージを受け取った人々が、デビルス・タワーを目指す物語だと言える。

そう考えた場合、ジュリアン・ムーアの役柄は「未知との遭遇」でリチャード・ドレイファスが演じたロイ・ニアリーのキャラクターを振られている、と思えるのだ。

それを裏付けるように、本作には「未知との遭遇」への言及と思われる描写が多く登場する。特に印象深いのは、デビルス・タワーへの言及である。

例えば、テリーとアッシュの逃亡途中、テーブルの上に茶色の紙袋が意味ありげに置いてあるのだ。
テーブル上にそそり立つ茶色の紙袋はデビルス・タワーを髣髴とさせる。

また、同様に逃亡途中のモーテルでベッド・メイキングをするテリーは、白い枕を茶色の枕カバーに入れるのだが、ベッドの上に座り、茶色の枕カバーをかけるビジュアルは、前述のようにデビルス・タワーのメタファーに見て取れるのだ。

これは一体、何を表現しようとしているのだろうか・・・・

■季節の描写
画面を見ているのとわかると思うのだが、本編中の季節は冬であり、ラストのシークエンスは秋なのである。
季節の明確な表現はないのだが、映像の色彩がそれを肯定している。

これを単純に考えた場合、冬の次に訪れる秋は翌年の秋である。
しかしながら、脚本から導かれるのは、ラストの秋は本編から14ケ月前、昨年の秋だと思われるのである。
本編中では、テリーの息子サム等が飛行機事故に遭ったのは、本編が描かれたいる時制の14ケ月前となっている。

そして、ここから導かれるのは、仮に本編で描かれた出来事が実際に起きた事だと仮定すると、この物語の黒幕は地球全体の時間を14ケ月間、巻き戻す事が出来る存在だ、と言う事になる。

■記憶の混濁
冒頭から前半部分、テリーの記憶に混濁がある描写が出てくる。

路上駐車の場所の移動や、コーヒーを飲んでいたかどうか、の点に顕著である。

これらから、観客は本編のプロットである「サムは本当にいたのかどうか」に対して、疑問が生じる訳である。
本当にサムは存在したのか、それともサムの記憶はテリーが作り出したものなのか、と。

■変形する雲
本作には何故か1カットだけ、雲が円盤状のフォルムに変形するカットがある。

これはわたしに言わせると蛇足なカットだと思うし、このカットは観客に対する大きなミス・デレクションだと思えるのだ。

これは一体何を意味しているのだろうか・・・・。

■飛ぶ描写
何人かの人物が本編中、黒幕にとって都合の悪い状況を起こしそうな人物が、地平線の彼方に飛んで行ってしまうカットが何度か挿入される。

このカットに対する批判が多いようだが、描写の手法としては非常に正しいものである。
飛ぶ描写を批判する人に是非聞きたいのだが、本作の描写以外で、本作の脚本やプロットに影響を与えずに、また余計な先入観を与えない、人物消失の描写方法が思いつくだろうか。

わたしには思いつかないし、黒幕のパワーの方向性を考えた場合(科学的な技術ではない力の)、描写方法は正しかったと言わざるを得ない。

■再会の場所
前述のように時制を考えた場合、本編からラストにかけて、季節が冬から前年の秋に戻っている。

ラストのテリーとアッシュの出会い(再会か)のシークエンスでは、テリーはアッシュの事を既に知っているし、しかも彼女には本編中の記憶があるようなのだ。

14ケ月の時間を巻き戻された世界中の人々。
そしてテリーは、その中でおそらく唯一、その失われた14ケ月分の記憶を持っているのだ。

唯一と思われる点により、果たしてテリーが体験した14ケ月の出来事は、本当にあった事なのかどうか、と言う疑問が生ずる事になる。

つづく・・・・
(文字数の関係です)

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