2005/04/13 東京九段下「九段会館」で「ドッジボール」の試写を観た。

ピーター・ラ・フルール(ヴィンス・ヴォーン)が経営する地域密着型零細スポーツジム「アベレージ・ジョー」は、最新設備を擁するフィットネスジム「グロボ・ジム」に客を奪われ経営難に陥っていた。

グロボ・ジムの強欲経営者ホワイト・グッドマン(ベン・スティラー)は、そこにつけ込み「アベレージ・ジョー」の買収に乗り出し、弁護士ケイト(クリスティーン・テイラー)をアベレージ・ジョーに送り込む。そしてついに、30日以内に滞納している5万ドルを支払わないとアベレージ・ジョーは潰され、グロボの駐車場に姿を変えてしまうことになってしまう。

途方に暮れるピーターは、ラスヴェガスで開催されるドッジボール大会の優勝賞金5万ドルに最後の望みを託し、冴えないジムの仲間たちとドッジボール・チームを結成、謎のカリスマ・コーチのパッチーズ・オフリーハン(リップ・トーン)指導の下、優勝目指して特訓を開始するが・・・・。

監督:ローソン・マーシャル・サーバー
製作:スチュアート・コーンフェルド、ベン・スティラー
出演:ヴィンス・ヴォーン(ピーター)、クリスティーン・テイラー(ケイト)、ベン・スティラー(ホワイト)、リップ・トーン(パッチーズ)、ジャスティン・ロング(ジャスティン)、スティーヴン・ルート(ゴードン)、ジョエル・デヴィッド・ムーア(オーウェン)、クリス・ウィリアムズ(ドゥワイト)、アラン・テュディック(スティーブ・ザ・パイレーツ)、ミッシー・パイル(フラン)、ゲイリー・コール(コットン・マックナイト/実況アナウンサー)、ジェイソン・ベイトマン(ペッパー・ブルックス/解説者)、ハンク・アザリア(パッチーズ/若い頃)、ランス・アームストロング(バーの男)、チャック・ノリス(審判員)、デヴィッド・ハッセルホフ(ドイツ・コーチ)、ウィリアム・シャトナー(大会委員長)、ジュリー・ゴンザロ(アンバー)、エイミー・スティラー(ウェイトレス)
 
 
全米No.1と言うのは伊達ではなく、本作「ドッジボール」は、はっきり言って最高に面白い。

先ずは、何につけてもプロデューサーをもつとめたベン・スティーラー(ホワイト)の怪演が凄すぎる。やりたい放題なのだが、それが全てツボにはまった怪演で、観客の期待を見事に受け止めている。
冒頭のCF(CM)から始まり、ラスト(クレジット後)の驚愕のカットまで、全く素晴らしい。

そして、達観し、飄々とした、ある意味得体の知れない役柄であるピーターを演じたヴィンス・ヴォーンとの対比が大変素晴らしい効果をあげている。

本作は、ベン・スティーラー製作作品なのだから、ホワイトとピーターの役柄を入れ替える手もあったと思うのだが、やはりこのキャスティングが良い効果をあげている。

ヴィンス・ヴォーンの得体の知れないキャラクターは、クライマックス直前の賄賂関連のシークエンスに顕著であろう。

しかし、そんなお莫迦なベン・スティーラーの奥さんが、本作でキュートなヒロインを演じたクリスティーン・テイラーだと言うのが、なんだか釈然としないのだ。

クリスティーン・テイラーについては、全編キュートな魅力全開なのだが、冒頭付近のホワイトとケイトのセクハラまがいのシークエンスも夫婦の演技だと考えると、また違った印象をも受けてしまう。

また、ホワイト・チームのロシア女性フランを演じたミッシー・パイルも良い味を出している。彼女は「ギャラクシー・クエスト」でも印象深いサーミアン人を演じており、濃いキャラクターが少しばかり多いような気がするのだが、本作のキャラクターははまり役だろう。

更に、アベレージ・ジョーのチームのメンバーは、ゴードン(スティーヴン・ルート)にしろスティーブ(アラン・テュディック)にしろ、オーウェン(ジョエル・デヴィッド・ムーア)にしろ、ドゥワイト(クリス・ウィリアムズ)にしろお約束どおりの濃いキャラクター設定が楽しいし、ジャスティン(ジャスティン・ロング)にいたっては、最早別の青春映画のような印象すら感じてしまう。

また、リップ・トーン(パッチーズ)の起用が嬉しいし、ベス・スティーラーに負けず劣らずの怪演が楽しい。

脚本はお約束通りの、観客の期待通りのものなのだが、クライマックス直前からの展開は所謂ハリウッド映画へのアンチテーゼ的なベクトルを持っているのが評価できる。

また、ウィリアム・シャトナーにしろ、チャック・ノリスにしろ、ランス・アームストロングにしろ素晴らしいカメオが楽しめる。特に自転車乗りとしてはランス・アームストロングの登場に驚愕なのだ。

とにかく、本作「ドッジボール」はコメディの王道的な作品であり、また所謂ハリウッド映画に対する反骨精神にも富んだ素晴らしい作品に仕上がっている。
この時期、是非劇場で観ていただきたい作品なのだ。

☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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先日、街で買い物をしていると「スーパーマリオブラザーズ」のBGMや効果音をサンプリングしたリズム・パターンに、まるでゲーム好きの小学生が詩を書いたようなラップをのせた楽曲が流れてきた。

思わずわたしは、買物の手を止め、店の天井に備え付けられている有線スピーカーを探索、スピーカーの真下に移動し、耳を傾けた。

結果的に、この曲はトンガリキッズの「B-DASH」と言う曲なのだが、この曲が良いとか、懐かしいだとか、格好良いだとか、面白いだとか、詩に共感できるとか言う話は様々な人々が様々なblogで語っているので思いっきり割愛することにする。
 
 
ところで、いきなり余談だが、現在のようにゲーム・ミュージックが市民権を得、一般の音楽同様に一般のリスナーに楽しまれるようになったのは、わたしの記憶が正しければ細野晴臣とナムコのおかげだと言っても過言ではないだろう。

勿論YMOのファースト・アルバムには既に「コンピューター・ゲーム/サーカスのテーマ」とか「コンピューター・ゲーム/インベーダーのテーマ」とか言うゲーム・ミュージックをフィーチャーした曲が収録されていた。
しかしそれはアルバムを構成する上での「ブリッジ」的な意味合いや、「遊び」のような機能を持っており、かつ現在で言うところのゲーム・ミュージックのレベルまで達していない楽曲を素材としていた。

そして、ゲーム・ミュージックだけで構成された世界初のアルバム「ナムコ・ビデオ・ゲーム・ミュージック」(1984)が発表される。そのアルバムの監修を行っていたのが誰あろう細野晴臣その人だったのである。
そしてナムコはその当時から、ゲームに付随する脇役でしかなかったゲーム・ミュージックに重きをおき、優秀なクリエイターを投入、数々の珠玉の名曲となるゲーム・ミュージックを創出していたのだ。

更に、その後リリースされる「スーパー・ゼビウス」と言う12インチシングルでは、ただ単にゲーム・ミュージックを再現するだけではなく、今回のトンガリキッズの「B-DASH」のようにゲーム・ミュージックや効果音を素材として、新たな楽曲を構成してしまっているのだ。
ここに来て、ゲーム・ミュージックは、自らを素材として、新たな次元へと到達し、今で言うゲーム・ミュージックのリミックスが誕生した、と言えるのではないだろうか。

閑話休題。

で、お題の「トンガリキッズ I / トンガリキッズ」なのだが、わたしはこの「B-DASH」という楽曲に、クリエイティブな部分を刺激されてしまったのだ。

わたしは現在は自主制作映像作品の製作に比較的力を入れているのだが、以前は音楽の製作に力を入れていた。

わたしの音楽製作環境は、古くは中学生時代のダブル・カセットを利用したピンポン録音から始まり、初期のシーケンサーを使用した今で言うDTM、MIDIを利用したMTRへと進化してきたのだが、PCで(映像作品の)ノンリニア編集が簡単に出来る時代が到来し、音楽への情熱は冷めてしまっているのが実情である。

そんな中の「B-DASH」なのである。

おもわず、埃をかぶっていたギターとキーボード、アンプとMTR、リズム・ボックスを引っ張り出し、ついでに現在のOSで使える最新DTM用シーケンス・ソフトを購入してしまった。

あぁ、ボクって熱しやすいダメな大人ちゃんなのだ。

余談だが、現在のDTMを取り巻く環境は凄いぞ。
その辺のゲーム・ソフトの価格と同じような金額で、シーケンス・ソフトが購入できてしまうのだ。

クソゲー買うなら、シーケンサーだな。

シーケンサーって死語かな?
 
 

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2005/03/31 東京丸の内「森ビルホール」で「Shall we Dance?<シャル・ウィ・ダンス?>」の試写を観た。

シカゴの弁護士、ジョン・クラーク(リチャード・ギア)は穏やかな人柄でオフィスの人気者。家庭には良き妻ビヴァリー(スーザン・サランドン)とジェナ(タマラ・ホープ)とエヴァン(スターク・サンズ)が待っている。すべてが満たされているはずの彼だが、心のどこかに空しさがつきまとっていた・・・。

そんなある日、通勤電車からぼんやりと外を眺めていたジョンは、ダンス教室の窓辺にたたずむ美しい女性ポリーナ(ジェニファー・ロペス)の姿に目を留める。彼女は何を憂い、何を探して窓の外をみつめているのか?

その答えが知りたい衝動を抑えきれなくなったジョンは、ついに電車を途中下車し、ダンス教室へと足を踏み入れるが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ピーター・チェルソム
原作:周防正行
出演:リチャード・ギア(ジョン・クラーク)、ジェニファー・ロペス(ポリーナ)、スーザン・サランドン(ビヴァリー・クラーク)、スタンリー・トゥッチ(リンク・ピーターソン)、ボビー・カナヴェイル(チック)、リサ・アン・ウォルター(ボビー)、オマー・ミラー(ヴァーン)、アニタ・ジレット(ミス・ミッツィー)、リチャード・ジェンキンス(ディバイン探偵)、タマラ・ホープ(ジェナ・クラーク)、スターク・サンズ(エヴァン・クラーク)、ニック・キャノン(スコット)

本作「Shall we Dance?<シャル・ウィ・ダンス?>」は、周防正行の「Shall We ダンス?」の驚くべきほど忠実なリメイク版である。

しかしながら、同じ物語を物語っていながらも、日米の文化差異を考えた場合、例えば電車通勤が意味する事柄は違うだろうし、日米の元来の食文化と言うか民族性の差異(極端に言うと狩猟民族と農耕民族との差異)により観客に与えるであろう微妙なニュアンスが異なるのが興味深かった。

特にヒロイン役が草刈民代からジェニファー・ロペスになった事により、本作はやはり肉食文化の国の映画だな、と言う印象が否定できない。

キャストはなんと言っても周防正行版「Shall We ダンス?」で竹中直人が演じた役柄を担ったスタンリー・トゥッチだろう。
竹中直人が演じたコミック・リリーフ的な役柄をほぼそのまま演じているのだが、大きな違いとしては、スタンリー・トゥッチは何しろ格好良いのだ。

日本国内では竹中直人の演技は最早飽きが来ている状況だが、スタンリー・トゥッチはその演技スタイルを踏襲しつつも、ダンディに格好良く魅せてくれるあたりが大変素晴らしい。
仮に「シコふんじゃった。」をハリウッドがリメイクするような事態になった場合、竹中直人の役は是非スタンリー・トゥッチに演っていただきたいと切に願う次第なのだ。

あとはスーザン・サランドンの起用が効果的だった。
周防正行版では原日出子が演じた主人公の妻役なのだが、名女優スーザン・サランドンの起用により、役柄がふくらみ、リチャード・ギアの物語を旋律と捉えるならば、スーザン・サランドンのそれは見事な対旋律を醸し出している。

またスーザン・サランドンと絡むリチャード・ジェンキンスも良い味を出していた。周防正行版では柄本明がこの役柄を演じていたのだが、リチャード・ジェンキンスはある意味、この物語の影の功労者と言える役柄を見事に演じている。

本作の基本コンセプトは「電車から降りる事」つまり「敷かれたレールから自らの意志で逸脱する事」を描いているのだが、物語の登場人物それぞれが、自らが敷いたレールを結果的に自らの意志で逸脱する事を選択している。
周防正行版では「電車から降りる」と言う事を明確に描いていなかったような気がするのだが、本作では、しつこいほどに電車の描写(例えば電車の視点から線路を撮影するカット)を行う事により、敷かれたレールからの逸脱を明確に語っているのだ。

そのあたりから考えても、本作は良い意味のリメイク作品だと言えると思う。

また、リチャード・ギア演じる主人公の職業が、役所広司の経理課長から弁護士に変わっているところが興味深い。
これは、冴えない事務職から、ある意味アッパークラスである弁護士に主人公の職業が変わっており、周防正行版の小市民のささやかな楽しみであった社交ダンスが、ある程度の名声と幸せを得たリチャード・ギアが、それ以上の幸せを望む物語になっている点が興味深いのである。
この辺が、オリジナル版とリメイク版の最大の相違点ではないか、と個人的には思ってしまうのだ。

その辺に目をつぶれば本作「Shall we Dance?<シャル・ウィ・ダンス?>」は大人の鑑賞に堪えうる素晴らしいファンタジー作品に仕上がっていると言える。
周防正行版「Shall We ダンス?」を知っている人も知らない人も、是非劇場で観ていただきたい作品だと思うのだ。

そして、本作「Shall we Dance?<シャル・ウィ・ダンス?>」を、自分がひいたレールを逸脱するひとつの転機として活用していただければ幸いだったりするのだ。

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2005/03/24 東京九段下「千代田区公会堂」で「英語完全征服」の試写を観た。

妄想と思い込みで生きているヨンジュ(イ・ナヨン)はイケてない地方公務員。ある日職場を代表してイヤイヤ英会話学校へ通うことになるが、そこで出会ったお調子者のムンス(チャン・ヒョク)に一目惚れ。しかし彼は金髪教師キャシー(アンジェラ・ケリー)に夢中なうえ、別の女性の影もチラホラ。ガツーンと来たけれど、このまま地味な人生を送るのは真っ平!一発逆転を賭けて、恋に英語に真正面にぶつかっていくことを決意する。ボコボコになりながらも頑張る彼女に、勝利の女神は微笑んでくれるのか!?
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:キム・ソンス
出演:チャン・ヒョク(パク・ムンス)、イ・ナヨン(ナ・ヨンジュ)、アンジェラ・ケリー(キャシー)、キム・インムン(ヨンジュの祖父)、ナ・ムニ(ムンスの母)

本作「英語完全征服」は、どこにでも面白い物語は転がっていると言うことを、端的にあらわしたひとつの例だと言える。
正にワン・アイディアの作品なのだ。

日本で言うと「免許がない!」とか「とられてたまるか!?」のようなワン・アイディアの作品に近いと思うのだが、そのアイディアからの脚本の構成においては日韓の大きな差の存在が否めない。

と言うのも本作の基本プロットは、単に上司の指示でイヤイヤながらも英会話スクールに通わされてしまうハメにおちいってしまうヒロイン(ヨンジュ/イ・ナヨン)がその英会話スクールで巻き起こすドタバタ・コメディなのだ。
しかし本作は、たったそれだけのプロットを基に、多くの観客を満足させるほどの面白い娯楽作品を、見事にでっち上げているのだ(勿論良い意味でだ)。

そして、ヒロインが恋するムンス(チャン・ヒョク)が英会話を学習しなければならない理由は、韓国の社会的問題をはらんでおり、ヒロインが巻き起こすドタバタ騒動を見てゲラゲラ笑いながらも韓国が抱えているひとつの問題を提起する、と言うような秀逸な脚本にまとまっているのだ。
そして、その韓国が抱える社会的問題は、婉曲に日本と韓国との間に存在する問題をも暗喩しているような印象を漠然としてではあるが、日本人観客に与える事に成功している、かも知れない。

キャストは先ずヒロイン役ヨンジュを演じたイ・ナヨンが素晴らしかった。先ずは冒頭のクレジットで、ヨンジュをカリカチュアライズしたアニメーションに驚かされる。
本作のヒロインの姿とは思えないキャラクターに驚愕なのだ。

余談だが、最近の韓国映画では、例えば「オオカミの誘惑」のイ・チョンアもそうなのだが、美人顔ではない女優をヒロインに抜擢した使い方が非常に上手いと思う。このあたりは、日本映画界ではなかなか出来ない芸当だと思う。

イ・ナヨンの今後のキャリアを一人の女優として考えた場合、これからもキャラクター先行の演技スタイルを続けていく訳には行かず、今後の「普通」のキャラクターの演技に期待したいと思う。

先に日本公開された「僕の彼女を紹介します」で日本にもおなじみのチャン・ヒョク(パク・ムンス)は、外見や役柄からイメージされる通りのキャラクターを好演しているのだが、本作でもヒロインに振り回される役柄は健在で、そのあたりも今後の活躍に課題を残しているのではないか、と思われる。

基本プロットは、前述のように嫌々ながらも英会話スクールに通うことになったヒロインが巻き起こすドタバタなのだが、その根底には、アジアの英語や英語圏に対する共通のコンプレックスを垣間見た印象を受けた。本作では、日本同様英語に対するコンプレックスや、英会話ビジネスに奔走する一般大衆文化を見ることが出来る。

本作「英語完全征服」は、誰にでもオススメできる良質のコメディではあるが、所謂「韓流ブーム」がなければ、決して海外に配給されるような作品ではなかったのではないか、とも同時に思えてしまう。
最近話題作や、微妙な作品を日本に配給し続けているアートポート様々な感じなのだ。

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2005/04/15 東京九段下「九段会館」で「コンスタンティン」の試写を観た。

人間界に属さない存在を見る事が出来る男ジョン・コンスタンティン(キアヌ・リーブス)。彼はその能力を使い、人間界に紛れ込もうとする悪魔を次々と地獄へと送り返していた。

一方、ロサンジェルス市警察の刑事アンジェラ・ドドソン(レイチェル・ワイズ)は、敬虔なカトリックでもある、双子の妹イザベル・ドドソン(レイチェル・ワイズ/二役)が教理に背き自殺を遂げた事実を受け入れられず、真相究明のため独自の調査を開始した。

イザベルが飛び降り自殺をはかったビルの屋上監視用のカメラに残された映像からアンジェラはやがてコンスタンティンに接触を図るが・・・・。

監督:フランシス・ローレンス
出演:キアヌ・リーヴス(ジョン・コンスタンティン)、レイチェル・ワイズ(アンジェラ・ドッドソン/イザベル・ドッドソン)、シア・ラブーフ(チャズ)、ジャイモン・フンスー(パパ・ミッドナイト)、マックス・ベイカー(ビーマン)、プルイット・テイラー・ヴィンス(ヘネシー神父)、ティルダ・スウィントン(天使ガブリエル[ハーフ・ブリード])、ギャヴィン・ロズデイル(バルサザール[ハーフ・ブリード])、ピーター・ストーメア(サタン[ルシファー])

本作「コンスタンティン」は、わたしにとっては長くて退屈な作品であった。
物語の基本プロットは「ゴーストバスターズ2」や、その辺に転がっているような最早手垢がついたRPGゲームのそれである。
尤も本作の原作はコミックである、と言う事であるから、その辺の基本プロットの落度は不問にしたいと思うし、実際のところ本作は、物語をどうこう言う作品ではなく、コンスタンティンのキャラクターがどうとか、CGIがどうしたとかこうしたとかを見るべきなのだろうと思う。

また、本作は、一見神秘的で壮大な背景があるように見えるが、実はそれほど奥が深いわけではなく、キャラクターのちょっとした仕草を意味ありげに演出してはいるが、そうでもなく、独自の世界観を醸し出しながらも実のところオレ様ルールが多すぎる脚本を、最新のCGI技術の研究発表でも行っているような映像でお化粧した、所謂「張子の虎」のような作品なのだ。
系統としては昨年の「ヴァン・ヘルシング」系の作品だろう。

実際、本作でコンスタンティンが使用している悪魔を退治する武器の造形は、奇妙な程「ヴァン・ヘルシング」のそれと酷似している。

武器で思い出したが、時代の要請なのかどうかは知らないが、−−勿論「ヴァン・ヘルシング」もそうなんだが−−、悪魔と戦う時、武器使ってどうするんだよ。
まあ、聖水や十字架も広義の意味で武器だと言えるけど、なんで武器を使うんだよ! なんでお前は銃を乱射してるんだよ!
エクソシストだったらなぁ「己の信仰心で戦え!」とことだよ。

その辺を考えると、アンジェラをはらからに利用して人間界に生れ落ちようとしていた悪魔の子に対し、万策尽き果て呆然とするコンスタンティンを尻目に、アンジェラの手を握り一心不乱に祈り始めるチャズ(シア・ラブーフ)が素晴らしい。
本作最高のシークエンスは、チャズの祈りのシークエンスなのだ。

「チャズよ、あんた、最高に格好良いぜ!」

オレ達が見たい人間と悪魔の戦いは、武器やなんかを使ったただの勢力争いなんかじゃないんだ。一番脆弱で、それでいて一番堅牢な壁「信仰心」を使った戦いなのだ!

本作「コンスタンティン」は、普段劇場で映画を観ない人、大作娯楽大作が好きな人、雰囲気的に奥が深そうに見える作品が好きな人、CGIアクションが好きな人にオススメの作品なのだ。

☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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先日、音楽専門チャンネルで、邦楽のシングルCDセールスのトップ20のPV(プロモーション・ビデオ)をノーカットで放映するプログラムを見た。
と、言うのも、現在日本国内でヒットしている曲をきちんと聴いた上で、「何故、邦楽はつまらなく感じるのか」(http://diarynote.jp/d/29346/20050405.html)のお話をしようと思ったからである。

結構エラいでしょ。ボクって。

で、案の定つまらない楽曲が、トップ20にたくさんランクインしていた訳だ。
勿論面白い曲や、良い曲も入っているのだが・・・・。

で、お題の「石コロブ/セカイイチ」だが、勿論トップ20には入っていない。
トップ20プログラムの終了後、次のプログラムが始まるまでの空き時間に、ポツンと静かに「石コロブ/セカイイチ」のPVが放映されていたのだ。

その「石コロブ/セカイイチ」のPVは、セカイイチの4人のメンバーがお互いに向かい合うようにセッティングされ、自分達をお互いに見ながら演奏する様を、メンバーの周囲にオーバルにひかれたレール上を移動するカメラから撮影し続けたいたってシンプルなもので、なんとワン・カット。
クレジットを見ると監督はgroovisions。あのグルビなのだろうか。

曲自体のコンセプトは「(今日は)全てを捨てて、自分のためだけに歌を歌おう」と言うものなので、PV自体もそのコンセプトを見事に踏襲したものなのだが、曲を演奏するメンバーの表情が、−−勿論狙いだと思うのだが−−、最高なのだ。

自分達が楽しむために自分達の曲を自分達で演奏する。
正に音楽好き冥利につきる最高の瞬間である。

バンドと言うより、セッションだな。

こんな若造のこんな青臭いシンプルな曲に、グッときて涙してしまうオレってまだまだロマンチシストだな。
 
 
「石コロブ/セカイイチ」のPVの一部が視聴できます。
http://www.sekaiichi.jp/discs/sound/tfcc89133_video.ram

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2005/04/06 東京新橋「ヤクルトホール」で「インファナル・アフェアIII/終極無間」の試写を観た。

潜入捜査官ヤン(トニー・レオン)の殉職から10ケ月。
ラウ(アンディー・ラウ)は、2名の捜査官の殉職に関わる事件の内部査問も無事切り抜け、一時は庶務課配属になったものの、内務調査課の警部に返り咲く。
警察官として生きる道を選んだラウは、サム(エリック・ツァン)が警察内部に送り込んだ他の潜入マフィアの抹殺に血道をあげていたが、一方では、生まれたばかりの赤ん坊を連れ、ラウの元を去ってしまった妻マリー(サミー・チェン)との離婚調停の問題も抱え、ラウは憔悴しきっていた。

そんな最中、目的の為には手段を選ばない、公安部のエリート警官ヨン(レオン・ライ)が、何かにつけラウの前に立ちはだかる。

公安の壁に業を煮やすラウだったが、過去にヨンが、サムの商売相手だった本土の大物シェン(チェン・ダオミン)と接触していたことを知ったラウは、ヨンを潜入マフィアではないかと疑い、疑心暗鬼の中、独自の調査を開始するが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:アンドリュー・ラウ、アラン・マック
出演:アンディ・ラウ(ラウ)、トニー・レオン(ヤン)、レオン・ライ(ヨン)、ケリー・チャン(リー)、アンソニー・ウォン(ウォン)、エリック・ツァン(サム)、チャップマン・トウ(キョン)、サミー・チェン(ラウの妻マリー)、ショーン・ユー(若き日のヤン)、エディソン・チャン(若き日のラウ)、カリーナ・ラウ(サムの妻マリー)、チェン・ダオミン(シェン)

本作「インファナル・アフェアIII/終極無間」を観て最初に感じたのは、「よくもまあ、こんな壮大な物語をでっち上げたな」と言うものであった。
勿論、良い意味で、である。

元来「インファナル・アフェア」と言う作品は、香港が待ち臨んでいた香港版「ゴッドファーザー」とも言える作品であり、そう考えた場合本作「インファナル・アフェアIII/終極無間」は、前作の「インファナル・アフェア/無間序曲」を脇にどけると、「ゴッドファーザーPART II」的作品である。と言うことが出来る。
事実本作は、時系列的には、潜入捜査官ヤン(トニー・レオン)の殉職をひとつのポイントとして、その前の部分、その後の部分の物語を巧みに描写している。正に、「ゴッドファーザーPART II」の構成を踏襲している、と言えるだろう。

そしてその複雑な構成は、−−しつこいが二作目を脇にどけて考えて欲しい−−、シリーズを通して考えると若干の齟齬や矛盾はあるものの、見事に織られたひとつの工芸品のような輝きをはなっている。

そして第一作「インファナル・アフェア」と本作「インファナル・アフェアIII/終極無間」は同じ物語を語りながら、全く違う印象を観客に与えている。
これは例えるならば「エンダーのゲーム」と「エンダーズ・シャドウ」のような感覚なのだ。
更に言うならば、ジョージ・ルーカスが「スター・ウォーズ」のプリクェールででやりたかった、ミッシング・リンクが繋がる感じを先にやってしまった作品なのかもしれない。
「エピソードI」「エピソードII」「エピソードIII」を観る事により、従来の「エピソードIV」「エピソードV」「エピソードVI」の印象をガラリと変えさせてしまうように、である。
またこれはアゴタ・クリストフの「悪童日記」シリーズとも比較できるかもしれない。

知っていたハズの物語を再見し、新たな、全く逆の発想の視点を得られるとは、映画ファン冥利につきる一瞬である。

物語については、劇場で堪能していただくとして、気になる点を何点か紹介すると、先ず冒頭のエレベータ・シャフトのシークエンスと言うか、ビジュアル・イメージが秀逸である。これから地獄へ堕ちていく事を明示する素晴らしいオープニングである。

余談だが、リー先生(ケリー・チャン)の診察室のコメディ要素はいらないと思うぞ。「初診日」とか「診療二日目」とかスーパーが出た日にゃあ、一時はどうなるかと思ってしまった。

また、ディスプレイに描かれた赤い丸の真意は凄いぞ。
はっきり言ってわたしは臍を噛んだ。多くの観客同様わたしも、あの図形はラウの狂気を描写していると思っていたのだ。

わたしは北京語と関東語の区別は雰囲気でしかわからないが、気になったのは、本作「インファナル・アフェアIII/終極無間」は、前作・前々作の「インファナル・アフェア」、「インファナル・アフェアII/無間序曲」と原語が違うんじゃないか、という事。
基本的に、香港映画は広東語版と北京語版が製作されるし、一般的に吹替えが行われている。
例えば日本で公開された「インファナル・アフェア」と「インファナル・アフェアII/無間序曲」が北京語(または広東語)だとすると、今回の「インファナル・アフェアIII/終極無間」は広東語(北京語)ではないのかな、と思ったのだ。
何につけても、リップ・シンクがガタガタだった印象が強い。

あと気になって仕方がないのがやはりヤンとキョンの関係だろう。

時系列的に考えると、ヤンはもともとサムの配下にいたキョンの下についた(「インファナル・アフェアII/無間序曲」)事から、キョンの子分的名役柄だったのだが、殉職前サムに裏切られるシークエンスでは、キョンの大切な友達(「インファナル・アフェアIII/終極無間」)に格上げされ、殉職する直前では、キョンに兄貴呼ばわりされている(「インファナル・アフェア」)のだ。

ヤン>キョン 「インファナル・アフェア」
ヤン<キョン 「インファナル・アフェアII/無間序曲」
ヤン=キョン 「インファナル・アフェアIII/終極無間」

あとは、本作のラストのシークエンスが、「インファナル・アフェア」の冒頭に繋がるあたりが、ラウの無間地獄を如実に表していて、良いですね。ラウは何度も何度も三部作を繰り返す訳ですから。

まあ、とにかく、取りあえず「インファナル・アフェア」を観直してから、劇場にゴー!的作品ではあるので、是非劇場に足を運んで欲しいと思う訳だ。

劇場に行け! 観ろ! そして、泣け!
「インファナル・アフェア」、「インファナル・アフェアII/無間序曲」、「インファナル・アフェアIII/終極無間」をリアルタイムに体験できる世代に生まれた事を感謝するのじゃあ!

☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

「インファナル・アフェア」
http://diarynote.jp/d/29346/20040115.html
「インファナル・アフェアII/無間序曲」
http://diarynote.jp/d/29346/20041007.html

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みなさんご承知のようにわたしは映画が大好きです。
ここ「徒然雑草」も元々は映画レビューを書き散らす事をひとつの目的としていますし、エントリーのほとんどが映画に関する話題になっています。

とは言うものの、わたしは音楽も大好きですし、勿論文学も大好きなのです。

映画や音楽、文学を考える上で、最早ジャンル訳は不要だ、と言う声はありますが、やはり避けては通れないのが、次の関係から派生する諸問題だと思います。

洋画と邦画
洋楽と邦楽
海外文学と日本文学

例えば、「なんで邦画はつまらないんだ」とか、「海外文学は原語で読まなければ意味が無いだろ」とか、「アカデミー出版の超訳の是非問題」とか・・・・。
 
ところで、今日のお題は、「何故、邦楽はつまらなく感じるのか」と言うもので、邦楽を愛する人達にとっては、「何ふざけた事、言ってんだよ!」的な印象を与えかねない、過激なお題になっているのだと思いますし、中には「その通り!」と思う洋楽ファンの方も居るのかも知れませんが、わたし個人が洋楽と邦楽に感じる事を徒然と書き連ねて行きたいと思っています。

とは言うものの、わたしは全ての邦楽を知っている訳でも、全ての洋楽を知っている訳でもありませんし、全ての邦楽がつまらない、と思っている訳でも、全ての洋楽が面白い、と思っている訳ではありません。

事実、わたしは現在とある邦楽を熱心に聴いたりしている訳です。

今回の文章は、わたしと言う個人が、何故一般論としての邦楽がつまらなく感じるか、と言う意味にとらえていただけば幸いです。

■邦楽は「歌」で、洋楽は「曲」である。
最近はそうでもなくなってきようだが、邦楽のそれぞれの楽曲を表す言葉は「曲」ではなく「歌」だったのではないだろうか。

現在はそうでもないが、以前は「あの歌は誰が歌っているの?」とか「あのCMで使われているのは何て言う歌?」とか言う、今ならちょっと恥ずかしげな会話が、そこここで交わされていた。

「歌」と「曲」との違いは、一目瞭然だと思うが、今回のお題に合わせて端的に表現すると『「歌」はヴォーカルに依存し、「曲」はバンドを含めたメンバー全体に依存する』と言うことなのだ。

これは、邦楽はヴォーカルに、洋楽はバンドに依存している、と言うことなのだ。
わかりやすく言うと、バックバンドに依存しない形態の楽曲が「歌」で、バックバンドに依存する形態の楽曲が「曲」だと言えるのだ。

ホールやステージのバックバンドで楽曲を演奏できるのが「歌」で、固有のメンバーで構成されるバンドでしか楽曲を演奏できないのが「曲」なのだ。
 
■ヴォーカルに依存する日本音楽業界
何故、邦楽がつまらないのか、と自問した場合、最初に出てくる回答が「アレンジがつまらない」と言うものである。

ヴォーカルはともかく、ベースやギター、キーボードやドラムのアレンジが凡庸で面白みが感じられない事が多いような印象を受ける。邦楽のバンドのアレンジは、なんだかやっつけ仕事の大量生産品のような印象を否定できないのだ。

前段の「曲」と「歌」の違いに絡んでくるのかも知れないが、日本の音楽シーンを考えた場合、歌手(ヴォーカル)だけが地方を回り、地元のバンドをバック・バンドとして演奏を行ったり、テープをバックに演奏を行っていた事が背景としてあるのかも知れない。

もしかするとそういった歴史的背景が、ヴォーカルに依存する「歌」としての音楽の発展を促していたのかもしれない。

■音楽はバンドの歴史である
所謂クラシックと言う音楽の演奏形態はオーケストラであり、これはバンドである。また、弦楽五重奏だとか、バロック音楽だとかはセッションだと言えよう。

近代音楽も複数の楽器を持ち寄ったオーケストラやバロック音楽同様、バンド形式の音楽だと言える。

とは言うものの、日本の音楽は、演奏形態はバンドの形式を踏襲しているが、ヴォーカルと言うひとつのパートでしかないものに、どうやら大いに重きを置いているような印象を受けてしまう。
勿論ヴォーカルの重要性はわかるし、音楽の影響力におけるヴォーカルの役割は大きいとは思うのだが、音楽を「歌」ではなく「曲」と捉えた場合、ヴォーカルはギターやベース、ドラム、キーボード等と同様な「曲」の構成要素に過ぎないのではないか、と思う訳だ。

 

つづく(一時保存です)
先ずはこちらを読んで欲しい。

「きみに読む物語」をめぐる冒険 妄想編 その1
http://diarynote.jp/d/29346/20050323.html

それでは、引き続き「老人デュークはノアではない」説を考察の上、検証していきたいと思う。
 
 
■「ノートブックが書かれた理由」
ノートブックを書いたのは、アリー(レイチェル・マクアダムス)であり、そのノートブックの裏表紙には「もし、あなた(ノア)がこれを読んでくれたなら、わたし(アリー)はすぐにあなたのそばに飛んで行く」と言う語意の前文が書かれている。

仮に、デューク(ジェームズ・ガーナー)がノア(ライアン・ゴズリング)であり、ノアがアリーと結婚し、幸せな生涯をおくったとしたら、果たしてアリーはこんな物語と前文を書き残すであろうか?
もし、ノアとデュークが同一人物だとしたら、一緒に住んでいる人の所にすぐ飛んで行く、と言う前文は、奇異な印象を与えている、といわざるを得ない。

このノートブックの前文から言えるのは、この物語が書かれる前提として、アリーとノアが何らかの理由で離別している事を示している、と言うことではないだろうか。

そして、このノートブックに記された物語(アリーが結局はノアを選んだところで終わっている物語)とその前文から読み取れる事は、「アリーとノアは一時は幸せな関係(おそらくは結婚した)になったが、なんらかの理由(前文の語意からはもしかしたらノアと死別したのかも知れない)で離別し、その後ノアを失った悲しみを乗り越え、将来デュークとなる男性と再婚し、結果的に多くの子供と家族をもうけ、幸せな生活をおくることになるが、実際のところ、アリーの心は永遠にノアのもとにあった」と言うことなのだ。

そして、これが正しいとすると、アリーの生涯はアリーの母親アン・ハミルトン(ジョーン・アレン)の生涯と見事に符合している事になるのだ。
 
 
■「アリーの母の恋」
アリーの母アンは、アリーと同年代の頃、シーブルックの街に避暑に訪れ、アリー同様採石所で働く男性と恋に落ち、両親の反対を押し切り、一時は駆け落ちするが、街を出る前に両親の手のものに捕まってしまう。
アリーの母アンは、その採石所で働く男を心の底で愛しながら、結局は両親が決めた縁談でジョン・ハミルトン(デヴィッド・ソーントン)と結婚し、幸せな生涯をおくることになる。
しかし、依然としてアンの心は採石所で働く男のもとにあったのだ。

アンはノアからアリーへの365通に及ぶ手紙を隠し、アリーに対し、自分と同じように、ノアではなく富と名声溢れる人物との結婚を望んでいた。

が、結果的にアンは、アリーにノアからの手紙をわたし、その上で自らのかつての恋を涙ながらに告白し、アリーにノアかロンかを選択させることにする訳なのだ。

何故このアリーの母アンの恋のプロットが脚本に入っているのか?

あまりにも良く似たアリーとアンの生き様から、製作者は何を言いたかったのか?

アンのような生き方を選ばなかったアリーを描こうとしたのか、それとも、アンのような生き方を嫌いながらも、結局は自分の母親と同じ選択をしてしまう運命を描きたかったのか?

それは観客に委ねられているのだ。

つづく・・・・

 
検証すべき点
「ダーリンと呼んだのは誰だったか」
「物語の結末」
「ノアとフィン」
「カルフーンと言う名前」
 
 
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バカウレしているBeckの"Guero"に関する余談なのだ。 
 
わたしは今まで真面目にBeckを聴いた事はない。
従って、わたしはBeckについて詳しい訳もないし、従来からBeckの楽曲について議論されているであろう事も全く知らない。

そんなわたしの戯言である。

"Guero"(「グエロ」)の冒頭の曲("E-Pro")を聴いて思ったのは、なんだかヴォーカルが細野晴臣のヴォーカルに似てるな、と言う感想だっのだが、曲が進むに連れ、執拗に繰り返されるリズム・パターンはYMOのリズム・パターンに聞こえてくる始末。

ついでに、前衛的でかつ散文的でいてアカデミックに鳴るピアノは坂本龍一のそれに聞こえ、打ち込みのドラムはリズム・ボックス並に正確な高橋ユキヒロのそれに聞こえてしまう。
ついでに唐突に繰り返されるおかず的リフや、サンプリング音などの使い方や楽曲の構成も似ているようだ。

そんな訳で、"Guero"(「グエロ」)の楽曲は、YMOだと思って聴くと、全てYMOの楽曲に聞こえてしまう訳なのだ。

Beckの楽曲は、おそらくだが、マルチ・トラック上にリズム・パターンとベースを構築し、その上におかずやヴォーカルを重ねていく、と言う手法で製作されているのだと思うが、だとするとYMOの楽曲の製作手法とも一致するし、良く見ると、"Guero"(「グエロ」)のアート・ワークはYMOの「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」のそれと似ているかもしれない。

もしかすると、Beckの楽曲はYMOのそれに似ているのは、既に周知の事実なのかも知れないのだが、わたしにとっては突然の覚醒だったのだ。

"Guero"(「グエロ」)のどの曲のどこが、YMOのどの曲のどこに似ている、または影響下にある、と言うような話は割愛するが、YMO好きの皆さんには、是非聴いてもらいたい気がするのだ。
因みに、わたしには、"Guero"(「グエロ」)は、「BGM」から「テクノデリック」あたりのYMOの楽曲に似ている印象を受ける。

とにかく、Beckの"Guero"(「グエロ」)は、YMOのサウンドや楽曲の構成に酷似した部分が楽しめる、楽しい楽曲に満ちているのだ。

但し、"Guero"(「グエロ」)は、決してYMOに似ているから素晴らしいとか何とか言うだけではなく、世界に通用する手工業的音楽のひとつの傑作として見ることが出来るアルバムに仕上がっている。

その製作の背景に、勿論おそらくだがYMOが居た、と言うだけのことである。
勿論、それはわたしの妄想に過ぎない可能性も否めない事実である。

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最近、アップル・ストアではなくとも、現品が店頭に並ぶようになった「iPod shuffle」だが、先日たまたま立ち寄った量販店に現品があったこともあり、「Apple iPod shuffle 512MB」を購入した。

人生が変わった。

なにしろ驚いた事に全く異物感が無いのだ。
例えば、ワイシャツの胸ポケットに入れていても、その存在を一切感じないのだよ、諸君。

とりあえず、最近はアルバム4枚くらいの楽曲を適当に突っ込んでヘビー・ローテーションで聴いている状態なのだ。

今日の気分で楽曲をiPod shuffleに入れるような使い方だったら、512MBで全然OKなのだ。

今日のわたしのiPodに入っているのは、
「Paper Tigers / The Caesars」
「a hyperactive workout for the flying squad / ocean colour scene」
「Pepperoni Quattro / ELLEGARDEN」
「初恋に捧ぐ / 初恋の嵐」
の四枚なのだ。

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2005/03/21 東京銀座「銀座シネパトス2」で「きみに読む物語」を観た。

本来ならば、「きみに読む物語」のレビューを書くところなのだが、気になって仕方がない事があるのだ。

それは「読み聞かせを行っていた老人デュークは果たして本当にノアだったのか?」と言う事である。

わたしには、本作「きみに読む物語」の物語の端々から「老人デュークはノアではない」と言う囁きが聞こえてならないのだ。

おそらく、多くの観客はデュークがノアであることを疑いもしないだろうし、多くの観客はデュークはノアだったと思っているに違いが無い。
そう考えた場合、勿論わたしの「老人デュークはノアではない」説は最早妄想に近い説なのかも知れないと我ながら思うのだが、まあ、これもひとつの解釈であり、観客が映画を観て楽しむ戯言のひとつだと思い、「老人デュークはノアではない」説を考察の上、検証していきたいと思う訳だ。

■「アルバムの写真」
デューク(ジェームズ・ガーナー)がアリー・カルフーン(ジーナ・ローランズ)に読み聞かせていた物語は、出版された小説ではなく、アリーが何らかの理由でノートブックにしたためたものであることが判明した後のシーンで、デュークはかつてのアリーとの写真が貼られているアルパムのような冊子を見ているカットがある。

そのアルバムのような冊子に貼られた写真の多くは、アリーと思われる女性と、アリーの旦那と思しき男性が写っているのだが、わたしの目にはその写真の人物が、ノア(ライアン・ゴズリング)の将来の姿には見えなかったのである。
強いて言うならば、わたしの目にはその写真の人物はロン(ジェームズ・マースデン)の将来の姿に見えたのである。

わたしの中で「老人デュークはノアではない」説が生まれた瞬間である。

■「ノアの父親フランク」
ノア(ライアン・ゴズリング)の父フランクを演じたのはサム・シェパードである。
ライアン・ゴズリングとサム・シェパードは体型も良く似た痩せ型の良い男で、親子である、と言う設定に説得力がある。

そしてこれは、ノア(ライアン・ゴズリング)が年老いた場合、ノアの姿は必然的にフランク(サム・シェパード)に似ていくハズだ、と言うことを観客に刷り込んでいる訳だ。

デューク(ジェームズ・ガーナー)の姿を思い起こしてみよう、果たしてジェームズ・ガーナーの姿(体型)は、ライアン・ゴズリングが年老いた姿に、言い換えるならばサム・シェパードの姿に、似ているだろうか。

勿論似ても似つかないのは、皆さん周知の事だと思う。
もしデュークがノアの成れの果てだと仮定すると、何故、何のためにノアの父親にサム・シェパードをキャスティングしたのか大きな疑問となってしまう。

わたしが思うに、サム・シェパードをキャスティングした理由は、デュークはノアではない、と言う印象を観客に与える為のような気がするのだ。

■「デュークのためらい」
アリー・カルフーン(ジーナ・ローランズ)が物語の中のアリーが一体誰を選んだのかを知りたがった後、デューク(ジェームズ・ガーナー)は、間を取り、映像上はロン(ジェームズ・マースデン)を選んだかのような印象を観客に与える演出がされている、が、一転結局はアリーはノアを選んだ事をデュークはアリーに伝えるのだが、その躊躇が曲者なのだ。

まるで、アリーはロンを選んだ、と言う記憶を植えつけることにより、過去の記憶を蘇らせようとしているようなのだ、それで記憶が蘇らないので、仕方ないのでノアを選んだ、と告げたような印象を受ける。

これは逆に言うと、実際はアリーの母親がそうだったように、アリーはノアではなくロンを選んだのだが、ロンと暮らしながらもノアへの思いを捨てきれず、「ノートブック」の自分とノアとの愛の物語もしたため、永遠にノアを愛しながら、実際はロンと平穏な暮らしていたアリーだったが、年老いたアリーは痴呆症になり、ロンとの平穏な生活を忘れ、ノアとの運命的な恋に思い焦がれる記憶だけが、断片的に顕在意識に度々あがってくる状態になったのではないか、と思えるのだ。

アリーを愛するロン(ロンをデュークと仮定すると)としては、自分との平穏な生活の記憶ではなく、ノアを愛していたアリーの情熱的な記憶を基に、アリーの記憶を蘇らせようとしていたのではないか、と考えられるのだ。

つづく・・・・

 
検証すべき点
「ノートブックが書かれた理由」
「アリーの母の恋」
「ダーリンと呼んだのは誰だったか」
「ノアとフィン」

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「隣人13号」

2005年3月21日 映画
2005/03/19 東京原宿「ラフォーレミュージアム原宿」で「隣人13号」の試写を観た。

かつていじめられっ子だった村崎十三(小栗旬)は、一見穏やかな青年に成長し、地元で建築現場の仕事に就き、とあるボロアパートに引っ越してくる。
だが、彼のカラダには凶暴な別人格“13号”(中村獅童)が巣食っており、怒りの沸騰と共に顔を出す。
そして少年時代の自分をいじめた赤井トール(新井浩文)へ、10年越しの壮絶な復讐を仕掛けるのだった。
しかし、その凶暴性は徐々に増していき、ようやく事の重大性に気づいた十三は、なんとか“13号”を抑えようとするが、もはや自分の力ではコントロールすることはできなくなっていた・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:井上靖雄
原作:井上三太
出演:中村獅童(13号)、小栗旬(村崎十三)、新井浩文(赤井トール)、吉村由美(赤井のぞみ)、石井智也(関肇)、松本実(死神)、三池崇史(金田)
 
 
本作「隣人13号」は大変面白いサイコ・スリラーに仕上がっている、と言う事が出来る。勿論本作にも気になる点が何点かあるのだが、それを感じさせないようなパワーと勢い、そして印象に残るビジュアル・イメージを見ることができるのだ。

先ずは冒頭に登場する荒野の一軒家のシメージが秀逸である。わたしは寡聞にして原作漫画を読んでいないのだが、この十三(小栗旬)の頭の中のイメージを具現化した事は非常に評価できるのではないか、と思う。
そのビジュアル・イメージは「24人のビリー・ミリガン」の視覚化イメージと、そのイメージから引用された「新世紀エヴァンゲリオン」TVシリーズの25〜26話のイメージを髣髴とさせる。
しかし、何度か登場するそのイメージは非常に解りやすく、かつ力強いイメージに仕上がっている。

脚本(門肇)は、2〜3通りの解釈が可能な懐の広い脚本で、鑑賞後自らの解釈を語り合える、と言う素晴らしい経験をわたし達観客に与えるものに仕上がっている。

わたしは、その解釈の中のひとつ、最早反則技とも言える解釈を許す脚本に戦慄を感じながらも、ほくそ笑んでしまう訳なのだ。

また、少年時代のいじめのシークエンスも秀逸で、リアリティに溢れており、演出も順当で良い印象を受けた。
PVあがりの監督にしては、絵も真っ当で、順当な演出がされており、奇をてらった手法に頼らない、良い印象を受けた。

キャストは何と言っても新井浩文(赤井トール)だろう。
本作のトール役に新井浩文をキャスティング出来たことは、本作にとっては大いなる幸運だと言えよう。
最近出ずっぱりの感が否めない新井浩文だが、例によってカメレオン俳優振りを披露している。本当に新井浩文は凄い。

またトールの舎弟死神を演じた松本実も非常に印象に残る。
今後の活躍に期待なのだ。

更に赤井のぞみを演じた吉村由美(PUFFY)にも良い印象を受けた。今後女優としての目もあるかも知れないのだ。

さて、タイトルロールの13号を演じた中村獅童は良いのは良いのだが、残念ながら想像の範囲内、と言うか順当な印象を受けた。
勿論鬼気迫るハードな役柄を見事に演じているのだが、中村獅童が13号を演じるのは普通だと言わざるを得ないのだ。

仮に13号を小栗旬が、十三を中村獅童が演じたら面白かったのではないか、と思うわけだ。

その十三役の小栗旬だが、いかんせん13号とトールが役柄として濃いので、若干寂しい印象を受けざるを得ない。
とは言うものの、観客の期待以上の演技を見せてくれているのは事実である。

脚本(門肇)は前述のように、懐の広い、いくつかの解釈を許すものに仕上がっているし、二人一役と言うコンセプトが素晴らしい。

勿論本作のような二人一役の作品が、今まで存在しなかった訳ではないし、二人一役と言うコンセプトを実施する事により、現在の十三は、一体どっちなんだ?はたして十三なのか13号なのかを観客が想像する楽しみが減衰してしまい、キャラクターの記号化がより一層進んでしまっているのは否めない。
この、今は一体どっちの人格なんだよ?という観客の疑問や類推を排除しつつも、決して魅力を失わない演出と演技が楽しめるのだ。

撮影(河津太郎)は、ツイ・ハークのようなカメラの微妙な動き(ドーリーやトラック移動)が非常に効果的で、淡々と物事を描写する手法が楽しめる。

本作「隣人13号」は、非常に良く出来たサイコ・スリラーと言える。若干ハードな描写はあるが、是非劇場で楽しんで欲しい興味深い作品なのだ。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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「エレクトラ」

2005年3月17日 映画
2005/03/16 東京銀座「銀座ガスホール」で「エレクトラ」の試写を観た。

過去の責め苦と自らの死の悪夢に苛まれつつエレクトラ(ジェニファー・ガーナー)はこの世に蘇る。エレクトラの武術の恩師で、盲目ながらも哲学思想から生まれる鋭い洞察力「キマグレ」の達人スティック(テレンス・スタンプ)は、彼女に心・技・体を伝授することには成功するが、両親を無残に殺された事への燃え上がる復讐心を消し去る事は出来なかった。

スティックに破門されたエククトラは復讐心を胸に秘め、世間から身を隠し、最強の暗殺者となる。

暗殺者として第二の人生を生きるエレクトラにマーク(ゴラン・ヴィシュニック)とその娘アビー(カーステン・プラウト)の暗殺依頼が舞い込むが・・・・。
(オフイシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ロブ・ボウマン
出演:ジェニファー・ガーナー(エレクトラ)、ゴラン・ヴィシュニック(マーク)、ウィル・ユン・リー(キリギ)、ケイリー=ヒロユキ・タガワ(ローシ)、テレンス・スタンプ(スティック)、カーステン・プラウト(アビー)、ナターシャ・マルテ(タイフォイド・メアリ)、クリス・アッカーマン(タトゥ)、ボブ・サップ(ストーン)、エジソン・T・リベイロ(キンコウ)

本作「エレクトラ」は、「デアデビル」からのスピン・アウト企画であり、「デアデビル」に登場したエレクトラ(ジェニファー・ガーナー)を主人公にしたアクション映画である。
スビン・アウト企画と言えば「バットマン」からスピン・アウトした「キャット・ウーマン」を思い出すが、わたしは本作「エレクトラ」は「キャットウーマン」同様ラジー賞を賑わす作品なのではないかな、と言う微かな期待感を持って本作の試写に望んだ訳である。
尤も、ジェニファー・ガーナーのネーム・バリューでは、ラジー賞へのノミネートも難しいな、と言うのが正直なところなのだが。

しかし、わたしのその淡い期待は見事に裏切られた。
本作「エレクトラ」は普通に面白い普通のアクション映画に仕上がっていたのだ。

先ずはテレンス・スタンプの起用が嬉しい。
これはおそらく「キル・ビル」のデヴィッド・キャラダインのイメージの引用だろうと思うのだが、非常に良い味を出していた。

実際のところ「エレクトラ」と「キル・ビル」との共通点は非常に多く、「キル・ビル」をベースにして「エレクトラ」の脚本が書かれたような印象が否定できない。

そして本作の世界観は、東洋哲学思想が背景にあり、西欧文化にとっては、東洋の神秘を描写する興味深い映画に見て取れるのではないか、と思ってしまう。
しかしながら日本人にとっては、所謂国辱ムービー的な印象や「キル・ビル」を髣髴とさせるような失笑を誘うシークエンスもあるのだが、日本文化や東洋哲学を比較的良くリサーチした結果のような印象を受け、正しい日本文化を伝えようとする努力の後が見える。

しかし、何と言っても気になるのは「キマグレ」と呼ばれる洞察力なのだが、これは「気紛れ」と言うことなのだろうか、理解に苦しむ。

物語の前半部分のプロットは、マークとアビーをエレクトラが守りながら逃亡する、と言うもので、その逃亡過程のアクション・シークエンスが楽しい。
また「キマグレ」を扱うスティックとエレクトラの絡みも、物語に深みを与えており、好ましい印象を受ける。

また、鋭い洞察力により未来すら垣間見てしまう「キマグレ」を利用する事により、脚本は運命的なプロットを手に入れることすら出来ているのだ。
もう少し運命的な脚本に出来たら、感動的な作品に仕上がったのではないかな、と思うぞ。

キャストは先ずタイトル・ロールであるエレクトラを演じたジェニファー・ガーナーだが、コスチュームやプロップにリアリティを否定し、ファンタジックなキャラクター設定がされているものの、等身大のヒロインとしてはなかなか見ごたえのあるアクションを展開しているし、自らの過去の出来事に対峙する姿も細かいエモーショナルな演技を見せてくれている。

また、マークとアビーの親子を演じたゴラン・ヴィシュニックとカーステン・プラウトの親子愛には感じるものがあった。「炎の少女チャーリー」を髣髴とさせる父親と娘の逃避行が美しくも悲しい。
ゴラン・ヴィシュニックは現在のところ、テレビ・シリーズの仕事が多いのだが、甘いセクシーなマスクで映画の世界でも頑張っていただきたいと思うのだ。

テレンス・スタンプは前述のように素晴らしかった。
このような作品には欠かすことの出来ない大御所スターとして、映画に格調を付与する事に成功している。
また、出番は少ないものの、テレンス・スタンプ同様ケイリー=ヒロユキ・タガワの存在感も、格調高い雰囲気を本作に与えている。

避けて通れないのは、ボブ・サップの起用なのだが、個人的には俳優でもないただの日本のタレントをハリウッド映画に起用するのはいかがなものか、と思ってしまう。
20世紀フォックスの作品にボブ・サップが登場する経緯が解せないのだが、今後はこのような起用はやめていただきたいと思ってしまうのだ。
勿論、ワールド・ワイドな展開を考えた場合、ボブ・サップは完全に無名な訳で、日本以外の観客には存在感として良い味を出していると思うのだが、日本の観客としては、ボブ・サップではなく全く知らない俳優の起用が望ましいと思うのだ。

これは日本映画によくある、観客の感情移入を阻害し、物語の進行を著しく阻害する「不必要なカメオ」の挿入と同じような印象を観客に与えてしまうのではないか、と言う危惧によるものである。

まあ、とにかく、本作「エレクトラ」は思っていたより結構まともなアクション・アドヴェンチャー作品に仕上がっているのは事実である。
この春、ちょっと深みのあるアクション映画を観たいのならば、結構オススメの作品だと言えるのではないだろうか。

因みに本作「エレクトラ」の前に「デアデビル」を予習する必要はほとんどない、と言っても言いと思うよ。

☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2005/03/14 東京九段下「千代田公会堂」で「恋は五・七・五!」の試写を観た。

高山治子(関めぐみ)はクラスになかなかなじめない、いやなじまない帰国子女。ひょんなことから半ば強制的に俳句部へ。
同じように集まってきたのは外見重視のチアガールをクビになったマコ(小林きなこ)、万年野球部補欠のまま甲子園の夢破れた山岸(橋爪遼)、治子に憧れる不思議ウクレレ少女Pちゃん(蓮沼茜)に寡黙な写真部員ツッチーこと土山(細山田隆人)。
てんでバラバラな五人は気弱な顧問教師のマスオちゃん(杉本哲太)とともに俳句甲子園を目指すことになるが、俳句に関しては山岸以外ズブの素人。何やら恋の予感も手伝って前途多難な彼らの行方は!?
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:荻上直子
出演:関めぐみ(高山治子)、小林きな子(内山マコ)、蓮沼茜 (田中弘美/Pちゃん)、橋爪遼(山岸実)、細山田隆人(土山義仁)、高岡早紀(ヨーコ先生)、中村靖日(中村)、嶋田久作(三浦)、もたいまさこ(校長)、柄本明(爺ちゃん)、杉本哲太(高田マスオ)

本作「恋は五・七・五!」は、「ロボコン」(2003)、「スウィングガールズ」(2004)に続く文化系根性青春映画なのだ。

物語は「シコふんじゃった。」(1991)以降、最早日本映画の伝統となってしまった感の否めないコンセプト「ペナルティを受けないために何かの団体に所属し、その団体の大会に挑戦する」を見事に踏襲した作品に仕上がっている。

つまり本作の物語はお約束の連続で、最早手垢の付いた題材である訳で、物語の展開は全ての観客が想像してしまっている訳である。
従って、本作はその基本的な展開を踏襲しつつ、細かい脚本や演出で観客を楽しませなければならない、と言う性を負っており、一見安直そうな企画に見えるのだが、実は成功させるのが難しい題材(コンセプト)に挑戦した作品だと言えるのだ。

しかも舞台は「俳句甲子園」。題材は「俳句」だよ。
どう考えても絵的に地味にならざるを得ないじゃないですか。

勿論本作が、この「俳句甲子園」を題材とした背景には「真剣10代しゃべり場」や「詩のボクシング」がメディアに取り上げられている背景があるのだろうが、テレビ番組ならともかく、映画の題材に「俳句」を取り上げた製作サイドの勇気に頭が下がる思いなのだ。
二匹目の泥鰌を狙うような気持ちじゃ「俳句」と言う題材を取り上げると言うリスクを負い切れないだろう、と言うことなのだ。

そして、多くの観客が感じるだろうこの映画の感想「想像していたより面白かったね」は、そのあたりを念頭に置いた戦略的な狙いなのかも知れないのだがね・・・・。

ところで、本作を観て気になったのは、登場人物のキャラクター設定である。
勿論フィクションなのであり、キャラクターは記号に過ぎないと言うのはわかるのだが、キャラクター設定が極端すぎるのだ。所謂普通(?)のキャラクターが本作には存在しないのだ。

例えば、漢字が書けない帰国子女とか、おデブでクビになった元チアガールとか、ウクレレ大好き不思議ちゃんとか、野球部の万年補欠の俳句好きとか、ストーカー紛いの写真部員とか、極端ななんとも「マンガ」的なキャラクターの目白押しなのだ。

そんな事を考えると、極端なキャラクター設定で物語を語るのはもう限界ではないのか、と思ってしまう。

例えば所謂「キャラクター小説」と言うジャンルがあるが、それを映画の世界に持ち込むのは、映画と言うメディアを考えた場合、あまりよろしくないのではないか、とわたしは思う。

例えば最近公開になった「ローレライ」がダメなのも、「ローレライ」が持つ「キャラクター小説」的(或いは「マンガ」的とか「アニメ」的と言っても言いのだが)な文脈と構成、展開、記号的なキャラクターの動きのせいではないか、と思えてしまうのだ。

勿論、短い時間の中で観客が感情移入出来るキャラクターを構築するのは難しい訳で、極端なキャラクター設定を基に物語を構成する、という逃げの手法を使うのは仕方が無いのかも知れないが、本作は面白い方向性を持った作品であるだけに、本作のキャラクター設定には残念な印象を受けてしまう。

撮影は「俳句」のように叙情的で色彩豊かなものを描写する事を目指したような、彩度が高く、色彩に圧倒される程の映像が楽しめる。ディビッド・リンチの作品が持つ彩度の高い映像の豊かさが感じられるのだ。
ハレーション寸前なのか、太陽の光の色が違うのだ。
日本ではなく、アリゾナとかどこかの澄んだ乾いた光が発色させている色彩を、彩度を感じる訳だ。
とは言うものの、実際のところ全編がそういう訳ではなく、キーとなるモノを描写する際に、そんな印象を受けるのだ。
わたしが思うに、照明とカメラ(絞りかな)はドラマ部分のそれと違うと思うね。

脚本は対句的表現を意図したような繰り返しが楽しい構成を持っているのだが、時間経過が感じられず、「俳句」のスキルが上達していく様が残念ながら感じられないし、いやいややっていた「俳句」がだんだんと好きになっていく過程がもう少し欲しいと思った。

この辺の描写は前述の極端なキャラクターが巻き起こすドタバタを描く事に尺が取られ、本来描くべきキャラクターの成長部分が軽薄になってしまっており、何ともバランスが悪い印象を受けた。

あと脚本的に評価できるのは、何度か挿入されるツッチーの独白部分である。作品自体のリズムを変化させる素晴らしいシークエンスであると同時に、女性監督にしては凄いことをやらせているのではないか、と素直に思った。

また前述のように同じシークエンスを繰り返す手法が素晴らしい効果を出している。
最近では「オペラ座の怪人」での同じ楽曲を使いながら、登場人物を変える事により、違う登場人物のの心情を吐露する手法に似た印象を受けた。
ツッチーの「言い残す事は?」と言う問いかけが何とも格好良いのだ。

また、嘘をつく人物が変わっている点も評価したい。
読み方によっては、ラストの治子(関めぐみ)のセリフが素晴らしく利いてくる。
「アイズ ワイド シャット」のラストのセリフに匹敵する、と言うのは言いすぎだろうか。

しかしながら、本作は「俳句」を題材にしている以上「俳句」で観客を唸らせなければならない宿命を負っているのだが、そこまでの「俳句」が出てこないのは、「俳句映画」としては致命的ではないかと思う。

勿論主観的名感想ではあるが、「俳句甲子園」に出てくる「俳句」より、ツッチーのノートに書いてある「俳句」の方が出来が良い、と言うのはどうかと思うのだ。
主観的と言えば、物語の構成上「俳句」に優劣をつける事になるのだが、芸術に優劣をつける事に対する云々は目をつぶる事にする。

とは言うものの、本作「恋は五・七・五!」は、想像しているよりは絶対に面白い作品に仕上がっているし、「俳句」と言う日本が世界に誇る文化の導入としても機能しているし、また大人の世代には過ぎ去りし青春を回想させる機能すら併せ持った良質の青春映画に仕上がっているのだ。

日本映画と日本文化の将来を考えながら、本作「恋は五・七・五!」を観ていただきたいと思う訳だ。

☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2005/03/04 東京九段下「千代田区公会堂」で「フライト・オブ・フェニックス」の試写を観た。

閉鎖された石油採掘所のスタッフと廃材を運ぶ運搬機が、巨大な砂嵐に遭遇し砂漠のど真ん中に不時着してしまう。

毎度お決まりの運搬仕事を無難にこなすつもりだった貨物機操縦士のフランク(デニス・クエイド)は、自分たちが置かれた状況が最悪なのを察し、捜索隊の到着を待つしかないと考える。

しかし、コスト削減のため採掘所を閉鎖した会社が、彼らのようなお荷物のために捜索隊を編成する予算など持っているわけがないことに気付き、彼らは絶望の淵に立たされる。

そんな最中、ドイツ人技師エリオット(ジョヴァンニ・リビシ)は、不時着した貨物機の破損していない部分を繋ぎ合わせ、新しい飛行機を造ることを提案するが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ジョン・ムーア
出演:デニス・クエイド(フランク)、タイリース・ギブソン(A・J)、ジョヴァンニ・リビシ(エリオット)、ミランダ・オットー(ケリー)、トニー・カラン(ロドニー)、ヒュー・ローリー(イアン)

本作「フライト・オブ・フェニックス」は、ロバート・アルドリッチの傑作「飛べ!フェニックス(1965)」のリメイクである。

しかも舞台背景から脚本までが1965年の「飛べ!フェニックス」の完全リメイクと言う本作の基本コンセプトが果たして本当に必要だったのか、と言う大きな疑問があるものの、CGIや特撮技術の発達や画面がビスタからスコープになったことにより、砂漠の寂寥感や危機感が余計にピックアップされた、結構良いドラマに仕上がっている。

その物語は前述のようにほぼ前作と同じで、キャラクターの造形も前作とほぼ同様と言って良いだろう。ついでにドイツ人技師エリオット(ジョヴァンニ・リビシ)にいたってはルックスまで前作(ハーディ・クリューガー)とそっくりと言う念の入れようである。

とは言うものの、墜落した飛行機の部品を利用して新たに飛行機を作って脱出しようと言う物語の基本コンセプトは残念ながらリアリティに欠けると言わざるを得ないのだが、その他の部分、例えば砂漠の恐ろしさを描く描写はスコープの広い画面と相まって、リアリティ溢れる効果を観客に与えている。

しかし、墜落した飛行機の周辺を取巻く危機感が、キャストの危機感と一致しているかと言うと、若干齟齬があり、キャストの葛藤は、いまいち本来あるべき危機感に欠ける印象を受けてしまう。

まあ、そのあたりはファンタジーだと割り切ってしまうべきなのかも知れないが、1965年の作品を2004年にリメイクする以上は、時代が求めるリアルな構成を本編に盛り込むべきだと思う訳なのだ。
何のためにリメイクするのかが明確ではない印象を受けるのだ。

☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2005/03/01 東京霞ヶ関「イイノホール」で「ロング・エンゲージメント」の試写を観た。

第一次大戦下のフランス、ブルターニュ地方。まるで子供のように純粋に惹かれ合うマチルド(オドレイ・トトゥ)とマネク(ギャスパー・ウリエル)は、誰が見てもお似合いの恋人同士だった。

だが過酷な運命はそんなふたりをも引き裂いてしまう。

戦場に旅立ったマネクの身を案じていたマチルドのもとにある日、悲報がもたらされる。軍法会議で死罪を宣告された彼が、ドイツ軍との前線である”ビンゴ・クレビュスキュル”に、武器もなく置き去りにされたというのだ。だが、彼の最後を見届けたものはいない。

その日以来、マチルドの必死の捜索が始まる。彼に何かあれば、私にはわかる・・・・、マチルドは不思議な愛の直感に導かれながら、複雑に絡まった糸をほどくかのように、ミステリーを解き明かしていくが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督・脚本:ジャン=ピエール・ジュネ
音楽:アンジェロ・バダラメンティ
出演:オドレイ・トトゥ(マチルド)、ギャスパー・ウリエル(マネク)、ジャン=ピエール・ベッケル(エスペランザ)、ドミニク・ベテンフェルド(アンジュ・バシニャーノ)、クロヴィス・コルニヤック(ブノワ・ノートルダム)、マリオン・コティヤール(ティナ・ロンバルディ)、ジャン=ピエール・ダルッサン(ゴルド伍長)、ジュリー・ドパルデュー(ヴェロニック・パッサヴァン)、アンドレ・デュソリエ(ピエール=マリー・ルヴィエール/管財人)、ティッキー・オルガド(ジャルマン・ピエール/私立探偵)、ジェローム・キルシャー(バストーシュ)、ドニ・ラヴァン(シ・スー/フランシス)、シャンタル・ヌーヴィル(ベネディクト/伯母)、ドミニク・ピノン(シルヴァン/伯父)、ジャン=ポール・ルーヴ(郵便配達人)、ミシェル・ヴュイエルモーズ(プチ・ルイ)、ジョディ・フォスター(エロディ・ゴルド)

本作「ロング・エンゲージメント」は、「アメリ」で世界中を魅了した、ジャン=ピエール・ジュネ、オドレイ・トトゥコンビの期待の新作である。

気になる作品の方向性は、ジャン=ピエール・ジュネの初期のそれよりは、前作「アメリ」の方向性を色濃くくみとり、おそらく若い女性層に最もアピールするような方向性(プロモーション展開)を持つ作品だと言えるだろう。
しかし、ジャン=ピエール・ジュネの初期の作品のような趣向は無いのか、と言うとそうでもなく、初期の作品のファンも、「アメリ」のファンも同程度に楽しめるような作品に仕上がっていると思う。

とは言うものの、物語の骨子は「アメリ」に近く、「アメリ」同様、本作には大きな謎が隠されている。
そのため本作「ロング・エンゲージメント」の多くの時間は、その大きな謎の周辺部分の断片を丹念に描く事に費やされているのだ。

その周辺部分を丹念に描く、まるでジグソー・パズルのような構成を持った本作は、ラストのピースをはめる楽しみを、これでもかこれでもかと言う程、引っ張り、所謂周りのピースを丹念に描写し続けている。
しかし、果たしてこの手法が、本作のプロモーションにより、劇場に動員された多くの女性客に理解してもらえるかどうかは、釈然としない印象を受ける。

言うなれば、単純でわかりやすいラブ・ストーリーを期待する観客には、本作は複雑でわかりにくい構成を持った映画に仕上がっていると思えてならない。

そしてその謎解きは、例えは悪いがアガサ・クリスティの世界観で横溝正史が謎をかけたような雰囲気を醸し出しているのだ。

キャストは全てのキャストが良い仕事をしている。
ジャン=ピエール・ジュネがキャストに求めたものの全てがスクリーンに見事に定着されているような印象を受ける。
ホント誰の演技がどうだのこうだの言うのが無意味に思えるほど全てのキャストが全てのキャラクターを見事に演じているのだ。

余談だがジョディ・フォスターの登場には驚かされてしまった。
と言うのも、なんだかジョディ・フォスターにそっくりだけど、やたら若いな、まさか本人じゃないよな、と思って見ていたら、その女優はなんとジョディ・フォスター本人だったのだ。
つまり、本作のジョディ・フォスターは実年齢と比較しておそろしく若く見えるのだ。女優は、否女性は怖いぞ。

撮影(ブリュノ・デルボネル)は、戦場を描く色彩とブルターニュやパリの色彩とを見事に使い分け、素晴らしい効果を出している。戦場は寒色を基調とした彩度が低い色調で描かれ、またブルターニュ等は暖色を基調とした暖かな色調で統一されている。
この対比が美しく、ラストの暖色系の中のシークエンスがより効果的な印象を観客に与えている。

またブリュノ・デルボネルは、ジャン=ピエール・ジュネ独特の視点により、一般的な風景を描きつつも、画面構成等で何かしら一風変わったマニアックで印象的な映像を観客の心に留める事に成功している。

音楽はなんとアンジェロ・バダラメンティ。
デヴィッド・リンチ作品でおなじみのアンジェロ・バダラメンティと言えば、奇をてらったようなマニアックで印象的な作風だと思うのだが、本作では順当で美しい旋律を聴かせてくれている。
デヴィッド・リンチ好きとしては、アンジェロ・バダラメンティが音楽を担当しているだけで、嬉しくなってしまう。

ジャン=ピエール・ジュネの作風は、デヴィッド・リンチの作風とある意味似ている部分があると個人的には思っているので、今後もアンジェロ・バダラメンティの起用を期待してしまう。

美術(アリーヌ・ボネット)も素晴らしい仕事をしている。
アリーヌ・ボネットという人物は寡聞にして知らないのだが、戦場にしろブルターニュ地方にしろ、素晴らしい世界観やドラマを構築している。
ジャン=ピエール・ジュネのマニアックな世界観を見事に再現しているのだ。

つらつらとレビューを書いているだけで、ますます本作「ロング・エンゲージメント」の素晴らしさに唸らされてしまう。

本作「ロング・エンゲージメント」は、映画ファン必見、と言うより最早映画ファンの「義務」と言っても差支えない素晴らしい作品なのだ。

観ろ!

☆☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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先日「ローレライ」のレビューを書いたのだが、語りつくせない熱いモノがあるのでちょっとお話してみたいと思う。

とりあえず、こちらを先に見てください。
「ローレライ」http://diarynote.jp/d/29346/20050302.html

1.絹見真一(少佐/伊507艦長)の背景
浅倉良橘大佐(堤真一)に極秘命令を受けるまで閑職に甘んじていた、絹見真一(役所広司)だが、絹見が失脚したのは、人間魚雷「回天」(※1)の作戦は最早作戦ではないと、作戦に異を唱えた事による。この一件により絹見は臆病者のレッテルを貼られることになる訳だ。

この絹見のバックグラウンドを聞いて思い出したのは、「宇宙戦艦ヤマト」第一話において、冥王星宙域の地球防衛軍とガミラス帝国艦隊の最中、撤退命令を出した沖田十三(納谷悟郎)のセリフに対する古代守(広川太一郎)のセリフである。

沖田十三:「いいか古代、ここで全滅してしまったら地球を守るために戦う者がいなくなってしまうのだ。明日のために今日の屈辱に耐えるんだ。それが男だ!」
古代守:「沖田さん、男だったら戦って戦って戦い抜いて一つでも多くの敵をやっつけて死ぬべきではありませんか!」

そして沖田の指揮虚しく死んでいった古代守の弟である古代進(富山敬)は、兄・守を死なせた沖田を信頼せず、ヤマトの責任者沖田と反目することになるのだ。

そう、絹見真一は沖田十三であり、兄を亡くした人間魚雷「回天」の操縦士・折笠征人(妻夫木聡)は、古代進の役を振られている訳なのだ。

余談だが、一般的には絹見真一はブライト・ノアで、折笠征人はアムロ・レイだと言われているようだが、実際は沖田十三と古代進の影が色濃く感じられる。

ついでに本作には、徳川機関長は小野武彦(岩村機関長)で佐渡先生は國村隼(時岡軍医)が振られているし、真田さんは石黒賢(高須成美)なのである。

更についでに「○○まであと○○時間」とか言うスーパーは、モロに「宇宙戦艦ヤマト」だったりする。

2.悩む艦長・絹見真一の話
伊507の艦長・絹見は脚本上悩むキャラクターとして描かれている。尤も伊507発進後の急速潜航のシークエンスでは、独断的で非常な艦長の側面が描写されていたのだが、その後は何かにつけて悩み、決断が遅い優柔不断なキャラクターとして描かれている。

それで思いだしたのが「ザ・ロック」のフランシス・X・ハメル准将(エド・ハリス)である。

「ザ・ロック」は一般的には人気のあるアクション大作なのだが、わたし的にはジェリー・ブラッカイマーとマイケル・ベイが組んだダメ映画の第一作目だと思うのだ。(その前作「バッド・ボーイズ」はとりあえず良しとする)

でその「ザ・ロック」でエド・ハリスが演じたテロリスト(?)のキャラクターが脚本上ダメなのだ。
テロリストを率いるリーダーのくせに優柔不断で部下に突き上げられ、判断を煽られてしまうダメなキャラクターとして描かれているのだ。
名優エド・ハリスを、何と言うバカなキャラクターに使っているんだよ!と怒りさえおぼえてしまう。

とにかく、悪にしろ善にしろリーダーとなる人物は、悩むキャラクターとして設定してはいけないのである。
何しろ、脚本上で悩むキャラクターは、大前提として成長すべきキャラクターなのであるから。
そう考えた場合、エド・ハリスにしろ役所広司にしろ、出来上がった大人のキャラクターなのだかな、悩むキャラクター(成長するキャラクター)として脚本が書かれているのは、正に噴飯モノと言えるのだ。

例えば「ダイ・ハード」のアラン・リックマン(ハンス・グルーバー)を見ろ!と言うことなのだ。
あれこそ、キャラクターの設定にブレが無い、正しいリーダー像と言えるのだ。

または「逃亡者」のトミー・リー・ジョーンズ(サミュエル・ジェラード捜査官)とかね。

3.木崎茂房(柳葉敏郎)を考える
本作「ローレライ」との共通点が多く、おそらく下敷きにもなったと思われる「潜水艦イ-57降伏せず」(※2)にしても何にしても艦長と副長(先任将校)は対立するのがセオリーなのだ。
しかしながら、本作の艦長が非情で独断専行ではない以上、そのセオリーが通じる訳は無いのかも知れないが、潜水艦映画のひとつの楽しみが、何と言っても対立する艦長と副長の姿なのだ。
勿論、それはお約束のパターンだ、本作はそれをワザと外しているのだよ、と言われたら返す言葉は無いのだが、閉鎖された環境の中で対立しあう姿を描写せずに、何が潜水艦映画なのか、と思う訳だ。

先日もお話したのだが、仮に役所広司がジーン・ハックマンだったら柳葉敏郎はデンゼル・ワシントンなのだ。(※3)
デンゼル・ワシントンがジーン・ハックマンに迎合してどうするんだよ、と言う事なのだ。

また、木崎茂房の最後の見せ場にも驚いた。
同じ艦船モノの「ポセイドン・アドベンチャー」や「スター・トレック2/カーンの逆襲」かと思ってしまったのだ。
木崎茂房が最後に「Remember」とか何とか言わないかと思い、ヒヤヒヤしてしまったのだ。

3.パウラ・A・エブナー(香椎由宇)を考える
「ローレライ」を「機動戦士ガンダム」と比較した場合、パウラはララァ・スンだと言うのが一般的な解釈のようである。
またパウラのビジュアル・コンセプトは「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイだと言うのが一般的なようである。

しかしポスター等のアートワークで使用されている潜水服みたいなスチールは「怪獣大戦争」のX星人のコスチュームみたいだし、白い包帯チックな衣装は「フィフス・エレメント」にも似ているし、「宇宙戦艦ヤマト」の森雪のユニフォームの黒い部分を切り取ったモノのような印象も受ける。
因みに「新世紀エヴァンゲリオン」は「宇宙戦艦ヤマト」の引用に満ちているのは承知の事だろう。

あと、伊507と繋がったN式潜航艇の中にいるパウラと折笠征人は、タイガーモス号に繋がった凧の中にいるシータとパズー(※4)のようである。
余談だが、シータとパズーの凧は雲の上に出て敵船を視認(ローレライ・システム)するために飛ばされたもので、最後はタイガーモス号の艇長ドーラによって切り離される。
これはただの偶然だろうか。

つづくかも・・・・。

※1 人間魚雷については先頃永眠した岡本喜八の「肉弾」と言う傑作があるので、そちらを参照していただきたい。

※2 「潜水艦イ-57降伏せず」太平洋戦争末期、極秘の和平工作のため外交官とその娘を極秘裏に潜水艦が運ぶ話

※3 勿論潜水艦映画の傑作「クリムゾン・タイド」の事である。

※4 舞台は空だが勿論「天空の城ラピュタ」の事である。

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2005/02/25 東京有楽町「日劇2」で「オペラ座の怪人」を観た。

1919年パリ。
かつて栄華を極めたオペラ座も今や廃墟と化してした。
その廃墟となったオペラ座では、当時の遺物が次々とオークションにかけられていた。
そして、謎の惨劇に関わったといういわく付きのシャンデリアが紹介された瞬間、時代はその悲劇をもたらした1870年代へと舞い戻っていく・・・・。

当時、華やかな舞台でにぎわうオペラ座は、一方で、仮面をかぶった謎の怪人“ファントム”の仕業とみられる奇怪な事件の頻発に揺れていた。
そのファントムを、亡き父が授けてくれた“音楽の天使”と信じ、彼の指導で歌の才能を伸ばしてきた若きコーラスガール、クリスティーヌ(エミー・ロッサム)。
彼女はある時、代役として新作オペラの主演に大抜擢され、喝采を浴びる。幼馴染みの青年貴族ラウル(パトリック・ウィルソン)も祝福に訪れ、2人は再会を喜び合う。
だがその直後、ファントム(ジェラルド・バトラー)が現われ、クリスティーヌをオペラ座の地下深くへと誘い出すのだった・・・・。
 
 
監督・脚本:ジョエル・シュマッカー
原作:ガストン・ルルー
製作・脚本・作曲:アンドリュー・ロイド=ウェバー
出演:ジェラルド・バトラー(ファントム)、エミー・ロッサム(クリスティーヌ)、パトリック・ウィルソン(ラウル)、ミランダ・リチャードソン(マダム・ジリー)、ミニー・ドライヴァー(カルロッタ)、シアラン・ハインズ(フィルマン)、サイモン・カロウ(アンドレ)、ジェニファー・エリソン(メグ・ジリー)

本作「オペラ座の怪人」は、アンドリュー・ロイド=ウェバー版ミュージカル「オペラ座の怪人」の映画化作品である。

「オペラ座の怪人」は1925年のロン・チェイニーがファントムを演じて以来、何度も映像化されているし、ステージ・ミュージカルとしても1976年初演のケン・ヒル版、そして今回映画化されたアンドリュー・ロイド=ウェバー版(1986年初演)と、様々なバージョンが存在する。

で、本作は日本でも劇団四季が公演を行っているアンドリュー・ロイド=ウェバー版の映画化作品と言う訳である。

※ 今回のレビューは原則的に舞台版との比較はしないことにする。

本作を観て印象に残ったのは、やはりなんと言っても楽曲とその楽曲にのる詩の構成の匠さである。
同一の楽曲なのに、場面と歌い手が代わると、その楽曲が表現している事や情感がガラリと変わる、と言う手法が見事である。
勿論これは言わずもがなだしあたり前のことなのだが、ある意味単調な同じ楽曲の繰り返しに過ぎないものが、歌い手と詩が代わる事により、饒舌にそしてエモーショナルに観客に語りかけてくるのだ。因みに押韻も素晴らしいぞ。

また舞台の公演ではでは真似の出来ないドラマチックな舞台(ステージではなく場所の意)の展開も楽しめる。舞台のように物理的・時間的に制約された舞台(場所の意)の巧妙な演出手法ではなく、様々な制限から解き放たれたドラマチックな演出が楽しめるのだ。
このあたりは舞台版と比較して優位なところであろうか。

キャストについてだが、ジェラルド・バトラー(ファントム)の歌唱力については、一般的に評判が悪いようだが、映画単体として考えた場合、全くと言って良いほど問題がないとわたしは思う。

またヒロインのエミー・ロッサム(クリスティーヌ)はヒロインとしては若干「華」が足りないような印象を受けたが、エモーショナルな歌唱と相まって良い印象を受けた。

パトリック・ウィルソン(ラウル)は3人の主要キャストから見ると、添え物的なキャストといわざるを得ないのだが、物語を語る上で印象に残る役柄を演じていた。

しかし主役3人についてはキャラクター設定がそうなのか、演出がそうなのか、演技がそうなのかわからないのだが、人間的な暖かみに乏しく、まるでプラスティックで出来ている人間のような印象を受けた。

一方、キャラクター的にユーモラスな側面を出しているミニー・ドライヴァー(カルロッタ)、シアラン・ハインズ(フィルマン)、サイモン・カロウ(アンドレ)等が良かった。
勿論彼らは、主役3人の重いドラマに対するコメディ・リリーフ的な役柄をふられているのだとは思うのだが、その甲斐あってか、主役3人と比較すると人間味に溢れる魅力的なキャラクターに感じられる。これは、笑顔のせいかも知れない。

また演出的手法としては、要所要所で挿入されるモノクロのシークエンスには釈然としない気持ちである。
もしかすると舞台の幕間を意識したインターミッション的なシークエンスのつもりなのかも知れないのだが、このモノクロのシークエンスは観客の集中力を途絶させ、観客が物語に没入するのを阻害する結果に終わっている。

冒頭のモノクロのシークエンスから時代が遡るシーンは大変効果的で感動的なものに仕上がっているし、ラストのモノクロのシークエンスからアップについては素晴らしいだけに、残念な気がする。つまり、モノクロのシークエンスは冒頭とラストだけで十分であとはいらないのだ。

余談だが、オルガンをフィーチャーした重厚で荘厳なテーマは「ファントム・オブ・ザ・パラダイス」の影響を見て取れるような気がした。
またダニー・エルフマンが書いた「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のスコアはアンドリュー・ロイド=ウェバー版「オペラ座の怪人」を意識しているのではないか、とも思えた。

楽曲全体として考えるとさすがに素晴らしいのだが、シンセを使うのではなく、全て弦と管で表現して欲しかったような気がした。

なんでもアンドリュー・ロイド=ウェバーは本作を制作することによりアンドリュー・ロイド=ウェバー版「オペラ座の怪人」の永久保存版を創ろうとしたらしいのだが、賛否はあるだろうが、概ね成功しているような印象を受けた。

とにかく本作「オペラ座の怪人」は、絢爛豪華な一大絵巻物として、またミュージカルへの導入として、またはステージ・ミュージカルへの誘いとして十分に機能する感動の巨編と言えるのだ。

現在公開中の大作映画の中では、本作は良心的で良質な作品に仕上がっている。是非劇場に足を運んで欲しい、と思う訳だ。

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「ローレライ」

2005年3月2日 映画
2005/02/28 東京霞ヶ関「イイノホール」で「ローレライ」の試写を観た。

1945年8月。
すでに同盟国ドイツは降伏し、米国軍の日本に対する攻撃は激しさを増し、ついには広島に最初の原爆が投下される。
窮地に立たされた日本軍はドイツから極秘裏に接収した戦利潜水艦<伊507>に最後の望みを託す。特殊兵器“ローレライ”を搭載する伊507に課せられた任務は、広島に続く本土への原爆投下を阻止するため、南太平洋上に浮かぶ原爆搭載機の発進基地を単独で奇襲すること。
しかしこの無謀な作戦を遂行するため海軍軍司令部作戦課長の浅倉大佐(堤真一)によって招集された乗組員は、艦長に抜擢された絹見少佐(役所広司)をはじめ、軍人としては一癖も二癖もあるまさに“規格外品”の男たちばかりだった・・・・。

監督:樋口真嗣
製作:亀山千広
原作:福井晴敏『終戦のローレライ』(講談社刊)
出演:役所広司(絹見真一)、妻夫木聡(折笠征人)、柳葉敏郎(木崎茂房)、香椎由宇(パウラ・アツコ・エブナー)、石黒賢(高須成美)、佐藤隆太(清永喜久雄)、ピエール瀧(田口徳太郎)、KREVA(小松機関員)、橋爪功(西宮貞元)、小野武彦(岩村七五郎)、國村隼(時岡纏)、鶴見辰吾(大湊三吉)、伊武雅刀(楢崎英太郎)、上川隆也(作家)、堤真一(浅倉良橘)

本作「ローレライ」は一言で言うと、豪華な俳優を揃えたお子様ランチ的作品だと言わざるを得ない。

またはアニメーション映画にするべきだったな、と思うのだ。

まずは脚本が甘い。と言うか甘すぎる。
本作「ローレライ」の脚本はまるで生クリームでデコレートされたバナナのような甘甘の出来なのだ。

そしてその甘甘の脚本に味付けされたキャラクターもひどくぬるく、その最たるキャラクターが主人公の絹見少佐(役所広司/伊507艦長)だと言うのが全くもって恐ろしい。

未だかつてこんなに優柔不断で決断力に乏しい、感情に流されに流される艦長は見たことがない。
わたし達が求めるのは、部下に嫌われる非情な艦長なのだ。
沖田十三をネモをラミウスを碇ゲンドウを見たいのだ。
※ アニメを引用しているのは意図的です。

ついでに艦長に付き物の副長役的なキャラクターに設定されている木崎大尉(柳葉敏郎/先任将校)の設定もひどい。
特に、艦長と副長の考え方が一枚岩で一致していると言うのは脚本上全く解せない。確執や対立があってこその艦長と副長なのではないだろうか。

パターンと言われればそれまでだが、人を人とも思わない非情な艦長と人間味溢れる熱血副長と言う図式が出来なかったのであろうか。
わたし達はラムジー(ジーン・ハックマン)とハンター(デンゼル・ワシントン)の対立を見たいのだ。

仮に本作がアニメーション作品だったなら気にならないのかも知れないのだが、いかんせん本作は、日本の近代史を舞台に、多くの著名な俳優を一同に会した日本が誇る超大作的な売り方をしているだけに始末が悪い。
アニメーション作品だったら、舞台が架空の世界だったら、とても面白いと思うだけに残念な気持ちでいっぱいなのだ。

本作「ローレライ」は正にマンガでありアニメでありジャパニメーションであり、そして見事なジュブナイル作品だと言わざるを得ないのだ。

物語はまさしく少年誌に掲載されるようなものなのだ。
しかし、逆に言うと、少年誌を嬉々として購読しているサラリーマン世代に受けるのかも知れない。
だとすると、本作、否亀山千広の戦略は日本全国総白痴化の進んだ日本人をターゲットとしているのかも知れない。

また、特撮も特撮でひどい。
はっきり言って「レッド・オクトーバーを追え!」(1990)以前の出来なのだ。
特撮は効果であって手法ではないことを理解し、効果の高い手法を選択し、映像を構成して欲しいのだ。

スクリーン・プロセスや実写とCGIの合成は、本当に完成品なのかよ、きちんとスクリーン上で確認したのかよ、と思える程の一体感の無さに驚きなのだ。
これを特撮あがりの樋口真嗣OKを出している事にも驚きを禁じえないのだ。

本作は録音や音響をスカイウォーカー・ランチに外注しているのだが、例えばだ、予算はともかくだ、録音や音響をスカイウォーカー・ランチに発注するんだったらいっその事、ILMに特撮を発注した方が上手く行ったんじゃねえの、と思えてしまうのだ。

そして、その本作の特撮映像とライブアクション映像との乖離は、観客を現実の世界に見事に引き戻してしまっている始末なのだよ。

余談だが、本作には、押井守、庵野秀明、出渕裕等がピンポイントの製作サイドとしてクレジットされている。話題作りのためかも知れないが、アニメーション製作に力を発揮するスタッフを呼び入れている時点で、この映画の限界と目標(?)を感じてしまう瞬間である。一体どう言うつもりなんだろうか。

ついでだが、本作「ローレライ」は、それぞれの時代で一世を風靡したアニメーション作品への言及のてんこ盛りである。
こんな事でいいのか!
日本映画はどこに行こうとしているのか!!

キャストは映画俳優は頑張っているのだが、テレビ俳優はひどいものである。
扇情的なテレビ・ドラマで培われたような、極端なキャラクターを演じることに終始し、演技ではなく、キャラクターを演じる事に終始しているのだ。

結論として、本作「ローレライ」は、良く出来た子供向けの作品である、と思いながら観るべき作品だと思うのだ。

因みに、小学生には大人気だと思うよ、本作は。

ついでに、「東宝特撮王国」的なのりの人にも楽しめるとは思うが、やはり本作の日本映画界におけるポジションを考えた場合、今後の日本映画の事を考えると・・・・、なのだ。

余談だが、「潜水艦イ-57降伏せず」(1959)も要参照なのだ。

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「ローレライ」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20050306.html

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