「公立図書館のみなさまへ」(「雑司ヶ谷 R.I.P.」/樋口毅宏)をめぐる冒険
【公立図書館のみなさまへ この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます。】

これは、2011年2月25日に新潮社から発行された樋口毅宏の「雑司ヶ谷 R.I.P.」の奥付直前のページに明記されたものである。(写真参照→ http://bit.ly/fY0cxk )

これは、2011年1月23日の @joenaha のツイート【樋口毅宏『民宿雪国』をAmazonで買おうとしたら絶賛売切中なのでとりあえず図書館で予約しといた.44人待ちだったよ 】(ツイート参照→ http://bit.ly/fmXJAs )に端を発する【「民宿雪国」から始まる図書館論議】(経緯参照→ http://bit.ly/hHJEuQ )の流れの中、「民宿雪国」の著者:樋口毅宏( @takehirohiguchi )が決断した結果である。

樋口毅宏( @takehirohiguchi )が決断した経緯【もしかしたら、とても大きな事が起きようとしているのかも知れないよ。】(経緯参照→ http://bit.ly/hwSUb5 )から引用する。

石井昂( @blackfox711 )
【どうも誤解がありますね。図書館に新刊を買うな、なんて少しも言ってないんです。著者の意志があれば新刊の貸し出しは、少し猶予していただけないか、という図書館に対するお願いなんです。】
【図書館問題の解決は、意外に簡単な事なんですよ。明らかに影響を被っている著者は自分の本の奥付に、「図書館では初版から6ヶ月間は貸し出しをしないで欲しい」とメッセージを入れる。それを図書館側が尊重して自粛してくれればいいんです。】

樋口毅宏( @takehirohiguchi )
【僕が「明らかに影響を被っている著者」かどうかはわかりません。でも、先ほどの石井さんのツイートで決めました。自分の本の奥付に、「図書館では初版から6ヶ月間は貸し出しをしないで欲しい」とメッセージを入れる。その第一号に僕がなります。】
【来月、新潮社から出版する「雑司ヶ谷RIP」の奥付に、「図書館では初版から6ヶ月間は貸し出しをしないで欲しい」と入れます。田中ノリーさま、よろしくです!】

石井昂( @blackfox711 )
【素敵なご返事ありがとうございます。これは各出版社、著者団体を巻き込んだ、ひとつの運動体にしたいのです。つまり図書館側に納得してもらう大きさにする戦略を立てますので、しばし時間を下さい。】

どうだろう。興奮しないかい。
今、時代が動こうとしているのだ。

しかしながら、多くの人が考えるように、「雑司ヶ谷 R.I.P.」の奥付に明記された、

【公立図書館のみなさまへ この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます。】

と言う、樋口毅宏の決断を批判したり冷笑したりするのは容易だ。
しかしぼくは、樋口毅宏のその決断に、その行動力に心からの拍手を贈りたい。

樋口毅宏の戦いは、表向きは図書館の新刊貸し出しにより、新刊の販売機会が失われる作家の生活を守るため、と言うことになっているが、わたしが思うには、前述のような金や、そして名誉のためではなく、図書館を愛する作家自身による、理想のための戦いなのだ。

もしかしたら、樋口毅宏は、かつて巨大な風車の群れに立ち向かった騎士の様に、無惨に敗れ去るのかも知れない。

「あぁ、やっぱりダメだったね。ぼくは最初からそう思っていたんだよ」

訳知り顔でそんな言葉をつぶやくのは簡単だ。
実際のところ、多分、そんなつぶやきがあふれてしまうのだろう。

しかし、ぼくはそうはなりたくない。

読書を趣味としている人間にとって、このままの状況が続き、作者の生活が脅かされ、結果的に、リスクを恐れる出版社が、話題になりそうなベストセラー本しか出版しないようになり、好きな本が読めなくなるような状況の到来は許せないのだ。

これは映画を趣味としている人間が、映画の海賊版や、違法ダウンロード、DVDのリッピングを憎むのと同じ理由である。作品の製作費が回収されないために業界全体が縮小してしまった場合、誰もが安心して観られる最大公約数的な、つまり映画ファンにとってつまらない作品だらけになってしまうのは許せないのだ。

わたしは、面白い本が読めなくなったり、面白い映画が観られなくなったりする時代の到来を危惧しているのだ。

なお、この樋口毅宏の決断に対する、意見や批判、そして冷笑は、このまとめ【もしかしたら、とても大きな事が起きようとしているのかも知れないよ。】(経緯参照→ http://bit.ly/hwSUb5 )の下段のコメントを参照いただきたい。

肯定、否定、様々な意見の交換が行われている。

そもそも図書館の本来の使命は「現代の知を集約し、次の世代にその知を継ぐ」であるはずだ。
しかしながら、利用者のリクエストにより書籍を購入する図書館の多くは、話題になっている書籍や所謂ベストセラー本を大量に、--場合によっては1館の図書館あたり50〜150セットも--、購入しているのが実情なのである。

その大量購入されたベストセラー本は、勿論ボランティアでいろいろな施設や図書コーナーで再利用される事もあるが、それは全体から見たら僅かな部数であり、再利用されなかった多くのベストセラー本は、最終的に裁断破棄されてしまうか、死蔵されてしまう。

これは、図書館の健全な運営とは考えられない。
図書館にとっても、著者にとっても、読者にとっても、だ。

その辺りについては以前書いたエントリー【ベストセラー本と図書館の死】( http://bit.ly/bNIBCv )を参照していただきたい。

なお、今回の件については、読売新聞(YOMIURI ONLINE)でも記事になっている。

【図書館貸し出し猶予を…小説家が巻末にお願い】( http://bit.ly/dHhD6H )

以下、本文を引用する。

 気鋭の小説家、樋口毅宏(たけひろ)さん(39)が、25日発売の「雑司ヶ谷R.I.P.」の巻末に、公立図書館での貸し出しを、新刊の売れ行きに影響が大きい刊行から半年間、猶予するよう求める一文を掲載した。

 図書館がベストセラーを大量購入して貸し出す現状については、複数の作家が「無料貸本屋」と異議を唱えてきたが、作家が自著に、このような一文を載せるのは「おそらく前例がない」(版元の新潮社)という。

 樋口さんは「さらば雑司ヶ谷」で一昨年デビュー。続編となる新作は、昨年1年の大半を執筆にあてた力作だが、定価1600円で初版6000部のため、印税は96万円。一方で、昨年12月刊の自著「民宿雪国」が、ある図書館で44人もの貸し出し予約が入っていることを知り、それが今回の行動のきっかけとなった。

 日本文芸家協会は、図書館の貸し出し実績に応じた補償金を著者へ払う制度の導入を国に求めているが、実現していない。

 樋口さんは「(増刷されなければ)僕の昨年の労働の対価は、印税の96万円だけ。このままでは、皆が卵(本)をただでもらううち、鶏(著者)はやせ細り、死んでしまう」と話している。

(2011年2月25日16時08分 読売新聞)

記事の内容は、既にお気づきのように、わたしが今回書いたエントリーとほぼ同様である。

もしかしたら、わたしのまとめ記事【「民宿雪国」から始まる図書館論議】( http://bit.ly/hHJEuQ )、【もしかしたら、とても大きな事が起きようとしているのかも知れないよ。】( http://bit.ly/hwSUb5 )を参照しているのかな、とも思える位である。

が、全て公開情報からの記事なので、わたしの気のせいだろう。

さて、ここで考えなければならないのは、日本の印税制度である。

日本の著者印税は、欧米の印税のように実際の販売部数によるものではなく、印刷部数によって決定される。

従って、一旦出版されてしてしまえば、著者にとっては売れようが売れまいが、つまり返本の嵐になってしまおうが、出版社の大量の不良在庫になってしまおうが、ある意味関係ない、と言えるのだ。
尤も、これは初版第一刷に限って、の話だが。

当然ながら、不良在庫になってしまった本は重版されない。
その場合、初版第一刷による著者印税が著者が得られる収入の全て、と言う事になる。

つまり、逆に言うと、重版されれば、重版の時点で著者印税が再度発生する事になる、と言う事だ。

日本の印税制度においては、重版がいかに重要か、と言うところである。

この状況の中、図書館は話題の本を1館あたり複数を、図書館によっては50〜150セット購入しているのである。

こんな状況では、重版は難しいだろう。

こんな状況では、作家の収入増は期待出来ないだろう。

こんな状況では・・・・

ともかく、今回の樋口毅宏の決断が巻き起こす事象に、今後も注目して行きたいと考えている。

なお、樋口毅宏( @takehirohiguchi )のツイート( http://bit.ly/eKJyMC )によると、

【3月12日発売の「Feel Love」(祥伝社の文芸誌)で僕の主張がほぼ全文掲載されます。それまでみなさんの関心が続いていたら、手に取って読んでみて下さい。】

とのことである。

今後の動きに乞うご期待である。
昔から疑問に思っていることがある。

文芸雑誌を定期講読している人は、その雑誌に掲載されている全ての作品を読んでるいるのかな、と言う疑問である。

と言うのも、あんなにたくさんの小説やエッセイがみっしりと掲載されている雑誌を隅から隅まで読んだとしたら、1ケ月くらいかかるんじゃねーの。と言う事である。

つまり、文芸雑誌を1冊買って、全ての作品を読むと決意すると、その文芸雑誌の翌月号が出るまで、小説だの雑誌だの、一切の本を読むことが出来ないのではないか、と思えてならないのである。


そんなわたしだが、実は文芸雑誌をきちんと全部読んだことがある。
それは、中学生時代、角川書店の「野生時代」だった。

何が読みたくて買っていたのかは謎だが、わたしは「野生時代」をある時期、定期的に購入し、定期的に読んでいた。もちろん一部だけだが。

そんなある日の話。

何がきっかけでったか忘れてしまったが、その「野生時代」を最初から最後まで全部読んでみようと思い立ったわたしは、最初のページから、そう「野生時代」に掲載されている最初の作品から読み始めたのだ。

・・・・

やっぱり、1ケ月かかった。

文芸雑誌を全部読んだのは、それが唯一の経験である。

今でも文芸雑誌は、読みたい作家の読みたい作品が掲載されたり、特集に関心があったりすると買って読むのだが、実際のところ、その読みたかった作品くらいしか読まず、他の作品は残念ながらほとんど未読の状態でほっぽってしまう。

もちろん、わたしはご承知のように、映画が好きだし、読書も好きだし、テレビも見たり、ゲームをしたりもする。

そんな状況で、読みたい作家の読みたい作品が掲載された文芸雑誌、つまり逆に言うと、関心のない作品が結構たくさん掲載されている雑誌を全て読む、と言う時間が取れないのではないだろうか、と思えてならない。

時間は作るものだと思っているわたしでさえ、そんな状況である。

どうだろう、文芸雑誌を定期購読している人は、果たして掲載されている全ての作品を読んでいるのであろうか。


そのうちまた、文芸雑誌を全部読む、と言う挑戦をしてみようかな、と思っている。

もちろん、関心がない作家の関心がない作品にも面白い作品はたくさんあると思うから。

事故のようなすばらしい作品との出会いを期待するわたしだった。

「夏への扉」

2010年1月16日 読書
大学時代の話だが、映画関連の友人がわたしに向かって、『俺って偉いだろ、今「夏への扉」読んでんだぞ』と言ってたことを思い出す。
当時、既に「夏への扉」を読んでいたわたしは、『何いまさらそんな本読んでいるんだよ』と軽くいなしてしまった。

彼にとっては、例えば「夏への扉」のような、ある意味古典的なSF作品を読む事は偉い事だった訳だ。

既に評価が確定している古典的な作品を実際に読まずに、その内容を知る事は現在では非常に簡単なことであるし、『あぁ、あれね、あの作品は・・・・』と、読んでもいない作品を語る事も容易であり、そんな事をする人も多いと思う。

しかしながら、そんな古典的で内容すら知っているような作品を、真摯な態度で作品にきちんと向かい合って読むことは、彼に言われるまでもなく、本当に偉い事だと思う。
そして、読んでもいない古典的な作品を知ったかぶりして語るのは愚の骨頂と言わざるを得ない。

最初に「夏への扉」を読んだ頃、わたしは「夏への扉」はハインラインの作品でありながら、ブラッドベリのようなファンタジックな作品だと想像していた。
おそらく、中西信行の装画とタイトルからのインスピレーションがそうさせていたのだと思う。

先日、多分20年ぶり位に再読して思ったのは、なんだか「タイタンの妖女」に似ているな、と言うこと。

『「タイタンの妖女」をめぐる冒険』
http://29346.diarynote.jp/200904071745002050/

両作品の主人公の翻弄されっぷりが非常に顕著で、ラストでカチっと最後の1ピースがはまる感じが似ていると思ったのだ。

そして思ったのは、「夏への扉」は手塚治虫の「アトム今昔物語」とか「W3」に影響を与えているのではないか、と思った。
時系列的なところは検証していないので、定かではないが・・・・。

「悪党たちは千里を走る」
「慟哭」で驚愕して以来の貫井徳郎ファンのわたしだが、故あって「悪党たちは千里を走る」を読んだ。

キャラクターは非常に魅力的で良いのだが、わたしが求める貫井徳郎ではなかった。
しかしながら、面白くないか、と言えばそうでもなく、非常に面白い娯楽作品に仕上がっていた。

おそらくは、大人の読者層と言うよりは、登場人物である巧の年代向けに書かれたような印象を受けた。

少年から大人の階段をのぼりつつある、少年たちに読んでいただきたいとと思った。
そして、貫井のファンになった暁には「慟哭」をはじめとした貫井作品と戯れていただきたいと思った。

ハヤカワ文庫で「現代短篇の名手たち」と言うシリーズが出ているのだが、ドナルド・E・ウェストレイクの「泥棒が1ダース」を読んだ。

例の入院の関係で、まだ杖(ロフストランドクラッチ)を使っている関係で、電車で立ったまま読書をすることが困難な関係で、 出先で読めるのは短篇集だったりする。
(1文に、「関係で」が三回出て来たぞ)

知っている人は知っていると思うのだが、この文庫本の版型は一般の文庫本よりちょっと背が高い。
驚いた事に、体が文庫本のサイズを知っているので、新書かよ、と思える程に、凄く背が高い気がするのだ。

物語は、天才的犯罪プランナーにして職業的窃盗の第一人者ジョン・ドートマンダーが活躍する物語。

何にも考えないで、ぼーっとしながら読めるとっても楽しい短篇集だった。

今後、このシリーズは続くみたいなので、いろいろ読んでみようかな、と思うわたしだった。
「プリンセス・トヨトミ」
万城目学の「プリンセス・トヨトミ」を読んだ。

帯には、
はっきりいって、万城目学の最高傑作でしょう。ちょっと、うなってしまった。---金原瑞人
と書いてあるのだが、いかがなものであろうか。

読後思ったのは、中盤までは非常に面白かったのだが、クライマックス部分の荒唐無稽さ、そしてラスト界隈の説明口調はいただけない。
読者の行間を読む能力を過小評価した説明は、はっきり言って興ざめであり、本来必要な読後の余韻すら感じさせない。
説明しないことを選ぶ、読者に行間を遊ばせる英断を期待したいと思う。

特に女性たちに関する部分は、p494の「当たり前やんか〜」ではじまるセリフ一個で、多くの読者は理解してくれると思う。
余談だけど、紹介したセリフは、本編中で最高の一言のひとつだと思う。

で、先ほど引用した金原瑞人の帯の惹句を考えると、万城目学の他の作品が「プリンセス・トヨトミ」より面白くない、と言う事になってしまうので、万城目学の他の作品のプロモーション的にはマイナスになってしまう印象を受けた。

余談だけど、つまらない映画を素晴らしい作品である、と言って大々的にプロモーションを行い、普段映画を劇場で観ない観客を劇場に呼び、「あんなに宣伝しているのにたいしたことなかったね、これだったら宣伝していない映画はもっとつまらないんだろうね」と観客が思ってしまうのと似ていると思った。

万城目学はこれからの作家なので、このようなプロモーション手法は避けていただければ幸いである。

さて、物語だが、根底に流れているのはフィリップ・マーロウもびっくりの「お笑いの街をゆく高潔な騎士たち」の物語である。
タイトルが「プリンセス・トヨトミ」なのでナイトの物語だとは思っていたのだが、ここまで徹底されるとは、と言うか、ナイトがうじゃうじゃ出て来たのには驚いてしまった。

とは言うものの、ワン・アイディアに頼ったメイン・プロットは若干リアリティに欠け、わたし的には非常に残念に思った。もう少し論理的な武装が欲しかったところである。
小さな嘘を積み重ね、ラストに大きな嘘をつくのならば、読者を最後まで騙して欲しいものであった。

一方、キャラクターの描き込みは圧倒的で、すべての登場人物が非常に魅力的である。

物語には否定てきな事を書いてしまったが、この物語の発想には驚くべきものがあり、楽しめる小説であることは否定できない。

機会があれば是非読んでいただき、今後の万城目学を応援していただきたいと思う。

「親指の恋人」

2009年9月30日 読書
「親指の恋人」
石田衣良の「親指の恋人」を読んだ。

物語はスミオとジュリアの出会いから死までを描いている。

ウィリアム・シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が悲劇として許されるのは、戯曲である、と言うことである。
つまり完全なる絵空事である事を誰もが知っているのだ。

一方「親指の恋人」は当然ながら「ロミオとジュリエット」の物語を現代日本に舞台を移しながら、物語をほぼ忠実になぞっているのだが、石田衣良の筆致はリアリティに溢れている。

つまり、「親指の恋人」の物語は決して絵空事には思えないのだ。
更に、冒頭の新聞記事の引用は否応無しに、リアリティの付与に尽力している、と言わざるを得ない。

そして、2人の主人公の名前(スミオとジュリア)が「ロミオとジュリエット」を模しているとは言え、物語の語り口のリアリティ度数があまりにも高いため、真実の物語のような印象を読者に与えてしまう。

そう考えた場合、この救いのない物語が読者に何を考えさせようとしているのか、また、この物語の存在理由に疑問を感じてしまう。

わたしは先ほど、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が許されるのは、それが戯曲であり、絵空事であるからだ、と言う話をした。

わたしは「スミオとジュリア」の物語「親指の恋人」を物語として許せない。
入院中の差し入れで東野圭吾の「さまよう刃」を読んだ。

「さまよう刃」あらすじ
蹂躙され殺された娘の復讐のため、父は犯人の一人を殺害し逃亡する。「遺族による復讐殺人」としてマスコミも大きく取り上げる。遺族に裁く権利はあるのか? 社会、マスコミそして警察まで巻き込んだ人々の心を揺さぶる復讐行の結末は!?

一読して感じたのは、東野圭吾の甘さ、と言うか日本の作家の限界を感じてしまった。

わたしが求めていたのはピカレスクロマンだったのだが、ラストには失望させられてしまった。
例えが悪いが少年誌の限界を感じさせてしまった「デスノート」も同様の例である。

物語から受けた印象と、求める物語はジョン・グリシャムの「評決のとき」の方向性である。

「評決のとき」あらすじ
いまなお人種差別の色濃く残るアメリカ南部の街クラントン。ある日この街で、二人の白人青年が十歳の黒人少女を強姦するという事件が起きた。少女は一命をとりとめ、犯人の二人もすぐに逮補されたが、強いショックを受けた少女の父親カール・リーは、裁判所で犯人たちを射殺してしまう。若いけれど凄腕のジェイクが彼の弁護を引受けたのだが…。全米ベストセラー作家の処女長編。

繰り返しになるが、わたしが「さまよう刃」に求めたのは、ピカレスクロマンか、裁判員制度導入後の少年法に関する裁判まで描いた作品である。

従って、導入から中盤にかけては良く書けているとは思うが、ラストの方向性には大いに失望させられてしまった。

逆説的に、日本民族の事なかれ主義を反映しているのかも知れないが・・・・。
梁石日(ヤン・ソギル)の「闇の子供たち」を読んだ。

2008年に映画化された「闇の子供たち」を観たいと思っていたのだが、いろいろとタイミングが悪く、結果的に劇場では観ることが出来なかった。
多分、代わりに観に行ったのは「ミルク」だったと思う。

で、2009年にたまたま本屋で文庫化されている本書「闇の子供たち」を見つけ、買って読む事にした。

気になる点は若干あるが、圧倒的に面白かった(funではなくinterestingの意)。

わたしはどうやら、根底に怒りが流れているような社会派作品が好きなようである。
ジャパン・マネーにまみれた全日本人必読の書だと思った。

「料理人」

2009年7月30日 読書
例によって入院中。

お見舞いに来た人の強い奨めでハリー・クレッシングの「料理人」を読んだ。

いわく「NV11」とのこと。
つまり、1972年に出版が開始されたハヤカワ文庫のNVの11番目の作品ながら、現在まで絶版にならず版を重ねている、多くの世代に読み継がれている作品である、と言うこと。

物語は、どこに連れていかれるのか不安になるような不思議なもの。

わたしの個人的な感覚としては、黒澤明の「用心棒」に似た印象を受けた。

流れ者の凄腕料理人が、街と、街の二つの一家を手玉に取る、と言う観点で。

そんなに大騒ぎする作品だとは言わないが、風変わりで、奇妙な、そしてなにか不思議な魅力を持つ作品である。

本作品をわたしに奨めた人は、その少女時代に、文庫本の出版リストの読んだ作品に鉛筆で印をつける程の乱読家である。
まだ入院中である。

先週末、外出許可が出たので、自宅の様子を見たり、銀行に行ったりするついでに「ミレニアム2/火と戯れる女(上・下)」を購入した。

近年稀に見る面白さは前作「ミレニアム1/ドラゴン・タトゥーの女」を凌駕し、娯楽指数が増大している。

物語の骨子には前作同様に社会派的なブロットがあるが、その社会派指数と娯楽指数のバランスは見事で、また前作同様キャラクターの造形は素晴らしく、血肉が通っているキャラクター達の行動に翻弄されてしまう。

「ミレニアム3」が楽しみで仕方がない。

しかし、返す返すも残念なのは、作者のスティーグ・ラーソンが既に亡くなっていることである。

「ミレニアム」シリーズの続きが読めないのは、残念でならない。
入院のお見舞いの差し入れは本で!
とお願いしたら東野圭吾の「ガリレオの苦悩」が差し入れられた。

実はわたし、話題の「ガリレオ」シリーズなので、一度は読んでみたいなと思っていた。

東野圭吾の小説は多分5〜6冊位は読んでるのだが、決して良い作家だとは思っていなかった。

なんとなくだが、本を余り読まない人向けの小説を書いている作家で、読書好きにとって、東野の作品は物足りないような印象を持っていた訳だ。

件の「ガリレオの苦悩」だが、湯川准教授を主人公とした、殺人事件に対し物理学的アプローチがされているミステリー短編集である。

問題は短編集と言うこともあり非常に浅く、あっと言う間に読了してしまった。
まるで漫画である。
と言うか、今時、漫画の方が読ませると思った。
設定自体、漫画の設定みたいである。

で、驚いたのは紙の厚さ。
直前に読了した「1Q84」と外見はあまり変わらないのだが、「ガリレオの苦悩」は340ページしかない。
因みに「1Q84」は500ページと540ページ位。

おそらく大人の事情で、短編集としてこの時期(2008年10月)に出版されたのだとは思うが、出版社サイドの思惑を勘ぐってしまう。
本作「ガリレオの苦悩」はサクサクと簡単に読める楽しい小説ではあるので、関心がある方は是非読んでいただきたい。
長編が重いと思う方は、長編の前の導入として読んでみると良いと思う。
そんな訳で入院が続いている。

差し入れは本を!
と言うお願いをしたので、現在は読書三昧である。

テレビは6時のニュース位しか見ておらず、映画も全く見ていない。

映画好きの見舞い客は、「オレだったら絶対ポータブルのDVDプレイヤー持ってくるぞ」と言うが、わたしは映画は封印、読書をしている。

最大のヒットはスティーグ・ラーソンの「ミレニアム1/ドラゴン・タトゥーの女」。
ラーソンは、スウェーデンの作家で、「ミレニアム」三部作の出版が決まった時点で亡くなってしまった。

物語は、当然ながら圧倒的に面白く、登場するキャラクターも、血肉が通い、完全にたっており、彼等がおかれる環境や出来事に立ち向かう様に、読者も見事に翻弄されてしまう。


これは、読書好きの皆さん必読の書だと思う。

関心があれば是非書店にゴーである。

「渚にて」

2009年5月13日 読書
ネビル・シュートの「渚にて」の新訳が出たので読んだ。

傑作だった。

件のモールス信号のシークエンスが本書のクライマックスだったと記憶していたのだが、モールス信号のシークエンスはなんと中盤の出来事だった。

現在PS3で「Fallout 3」をやっている関係か、非常に印象深い感触を受けた。
なんともたんたんと、気分が落ちこんでいく。

そのたんたんと続く日常の描写が、かえって、自らの現在の生き様に疑問を感じてしまうのだ。

機会があれば、是非一読していただきたい。

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カート・ヴォネガット・ジュニアの「タイタンの妖女」の新装版が出ていたので読んでみた。

多分最初に「タイタンの妖女」("The Sirens of Titan")を読んだのは中学生くらいだったと思うのだが、今回再読してみて、年をとってからの再読は、非常に有意義だったと思う。

いきなり余談で恐縮だが、今回の新装版は爆笑問題の太田光が「タイタンの妖女」が大好きで大好きで仕方がないところから始まっているようで、帯はもちろん、あとがきは太田光の手によるものである。

更に爆笑問題が所属する芸能プロダクション「タイタン」の名称も当然ながら「タイタンの妖女」から取られている訳だから、「タイタン」の女社長太田光代こそが、「タイタンの妖女」に他ならない、と言うことになる。

つまり、セイレーンたる太田光代が爆笑問題をはじめとしたタレントたちを操っている訳である。

「タイタンの妖女」で件の妖女(セイレーン/サイレン)が登場人物にどのような影響を与え、どのように登場するかは、本書を読んでいただくとして、「タイタンの妖女」はどんな物語かをないように触れずに考えて行きたいと思う。

と言うか、本書「タイタンの妖女」は読者にどのような影響を与えるのか、を考えてみたい。

本書の根本にあるのは、自分の人生は他が運命付けたものである、と言うことと、自らの選択や行動が他に大きな影響を与えている、と言う背反するモノである。

一方では、個人や種の運命は他の存在が自分勝手に決めたもので、抗うことが出来ない、いわば予定調和的な存在であると言いながら、他方では、個人の選択や行動、何かをする、またはしないという選択や行動によって、他に大きな影響を与えている、と言うことを描いている。

物語の中で起きている大きな出来事、つまり基本プロットは、あきれるほどに無常で運命的で予定調和的なのだが、逆説的に、自分が何かをすることで何かが出来る、何かを変えることができる、自分の運命どころか、国や世界を変えることができる、と言う事を表現しているように思える。

理想を現実に変える力を感じてしまうのだ。

「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」なんかを見ていると、太田光の理想家振りを垣間みる事が出来る。
これこそ「タイタンの妖女」の影響なのではないか、と思えてならない。

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今、井上ひさしの「吉里吉里人」を読んでいる。

何故今更そんな本を本でいるのか、と言うと、たまたま見つけたから。

と言うのも、わたしが利用している地下鉄の駅に「ふくろう文庫」とか言うコーナーがあるのだが、そのコーナーは読み終わった本を置いたり、他人が置いた本を勝手に持って帰って読むことが出来る無料の図書コーナーなのだ。

で、普段は絶対読まないような本を借りて読んだりしているのだが、先日たまたま井上ひさしの「吉里吉里人」のハードカバーを発見したので、持って帰って読んでいる。

「吉里吉里人」は、正確に発音すると「ちりちりぢん」と発音するらしいのだが、「ちりちりぢん、ちりちりぢん」と口の中で転がしていると「ギリギリジン」になってしまう。

もしかしたらラーメンズの「路上のギリジン」とか「ギリジンツーリスト」とかは、井上ひさしの「吉里吉里人」へのオマージュなんじゃないかな、と思いながら吉里吉里国の物語を読むのも楽しいものである。

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思うところがあってサラ・パレツキーのV.I.ウォーショースキーものを何冊か読んだ。

読んだのは、「バーニング・シーズン」、「ガーディアン・エンジェル」、「ブラック・リスト」の3冊。

読んで思ったのは、個人的に、V.I.ウォーショースキーの性格に非常に好感が持てる、と言う事。
と、言うか、わたしの性格に非常に近しいと思えた。

と、言うのも、ウォーショースキーの行動原理の根本にあるのは「怒り」なのだ。
そして、その彼女の「怒り」の矛先は、多くの場合、圧倒的な「権力」に向かっている。

「権力」にたいする「激怒」。

そんな、ウォーショースキーが、と言うか、ウォーショースキーに投影されているサラ・パレツキーが大好きである。

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松本大洋の「鉄コン筋クリートall in one」を読んだ。

因みに、この「鉄コン筋クリートall in one」とは、全三巻の「鉄コン筋クリート」を一冊にまとめたもので、基本的にマイケル・アリアスの映画「鉄コン筋クリート」とのタイアップ出版だと思われる。(初版:2007/02/01)

ところでわたしは「鉄コン筋クリート」をきちんと読んだことが今までなかった。わたしの「鉄コン筋クリート」の体験はせいぜい書店で本誌をパラパラと眺める程度だった。

で、映画「鉄コン筋クリート」を観て、その素晴らしい作品の原点を追体験すべく、本誌を手に取った訳である。

当時の松本大洋に対するわたしの印象は、なんだか知らないが大友克洋に影響された作家が出てきたな、程度の印象しかなかった。
松本大洋の一体どこが大友克洋に影響されているのか、と言われると明確な答えは出せないが、松本大洋の名:大洋をひらくと大友克洋の名になるせいかも知れない。

松本大洋の名は、大友克洋の名を包括しているのだ。

さて、それでは「鉄コン筋クリートall in one」について、いくつかの観点から、お話してみようと思う。
内容には基本的に触れませんので、心配ご無用です。
 
 
■広角レンズを意識した構図
わたしは広角レンズで撮られる映像が大好きである。

で、本作「鉄コン筋クリート」には広角レンズを意識したであろう構図が多々登場する。

人間の目は基本的に広角レンズなので、それら広角レンズを意識した構図は、一人称的なカメラの存在を意識させることになり、物語の臨場感を高めることに成功している。

更に広角レンズを意識した歪んだ構図は、場面によって、登場人物の心象風景を巧みに描写することにも一役かっている。
 
 
■多元中継的な物語の構成

■詩人の感性
セリフ(ネーム)の感性に驚かされる。

と言うのも、本作「鉄コン筋クリート」は、様々な名ゼリフに彩られている。

それら登場人物が心情を吐露する数々のセリフの感性は圧倒的で、仮に松本大洋が意図せずこれらのセリフを書いているとしたら、松本大洋は詩人の感性を持つ天才マンガ家だと思う。

もちろん松本大洋にもセリフを生む苦しみはあるとは思うのだが、松本大洋が書いたセリフだけをまとめるだけで詩集が出来てしまうのではないか、とまで思えてしまう。

と言うのも、松本大洋の母親は詩人の工藤直子だと言うのだから、その母親の詩人の感性を引き継いでいるのかも知れないが、それにしても彼が書くセリフは強烈に胸に響く。
 
 
■扉絵の存在
扉絵の存在に驚いた。

本誌「鉄コン筋クリートall in one」には連載時の各話の扉絵が全話分挿入されている、と言うか扉絵を含めて単行本化されているのだ。
全三巻の「鉄コン筋クリート」の状況は知らないのでなんとも言えないのだが、おそらく全三巻版も同様なのだろう。

なぜこんな話をしているかと言うと、所謂ストーリーマンガを一冊にまとめた形態の本誌においては、物語と関連性が乏しい扉絵を挿入することは、物語の進行を止めてしまう、と言うリスクを伴うことが多いからである。

しかしながら、本作の形式は、一話完結の物語を複数集めることにより、全体的な物語を構成する、と言う形式を取っている。
その辺は、所謂ストーリーマンガの構成とは異なっている。

つづく・・・・
一時保存です。

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「DEATH NOTE」

2006年8月29日 読書
先日、思うところがあって「DEATH NOTE」の第1巻〜第12巻までを読破した。

ラストの顛末の付け方以外は概ね面白く読ませていただいた。

ラストについては、少年誌の特に「少年ジャンプ」の限界を感じ、非常に残念な印象を受け、この物語の結末としては大いに失望させられた。

と言うのも、この「DEATH NOTE」と言う物語は、煎じ詰めれば、夜神月をアンチヒーローとしたピカレスクロマンなのだ。

簡単に言うと、「DEATH NOTE」は極端な話、大藪春彦の「野獣死すべし」やトマス・ハリスの「ハンニバル」みたいな物語だと言えるのだ。

ピカレスクロマンのラストは、やはり悪人を描いている以上、主人公が死ぬことが多い。
しかし、主人公が死なないラストを描いた作品もある。

で、失望したのはやはり少年誌または「少年ジャンプ」の壁(努力、友情、勝利)。
「野獣死すべし」はともかく「ハンニバル」みたいなラストを期待していたわたしにとっては、「DEATH NOTE」のラストには本当にがっかりさせられた。

がっかりの度合は、ラストの魅上の失望に近いと思う。

月があそこまでニアの考えを読んでいたのならば、魅上に自分の名前を書かせ、代わりに他の誰かの名前を書かせない、と言う選択肢もあったのではないかと思う。

が、実際のところは、予定調和的でありきたりな、残念な結末で終わってしまっている。

少年誌ではなく、少なくても青年誌で連載されていたら、と思うと非常に残念な気がする。

「少年ジャンプ」と言う枠を飛び出た作品であったために、非常に残念である。

余談だが、「DEATH NOTE」の直訳は「死のメモ」であって「死のノート」ではない。

余談だけど、「DEATH NOTE」の物語はコミックに適している作品だったような気がする。
なぜなら、思考の速度でページがめくれるから。
タメのある演出で映像化されたら、いらいらした我慢できない、と思った。

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本書「ダーク・タワー1/ガンスリンガー」は、2005年12月から出版が始まった新潮文庫版「暗黒の塔」シリーズの第一巻であ。

この「暗黒の塔」シリーズ(全七巻)とは、言わずと知れた大ベストセラー作家スティーヴン・キングのライフ・ワークとも言える長大なダーク・ヒロイック・ファンタジーである。

本「暗黒の塔」シリーズの翻訳は、1992年4月に角川書店から池央耿訳で出版された「ガンスリンガー/暗黒の塔(1)」を皮切りに、「ザ・スリー/暗黒の塔(2)」(池央耿訳)、「荒地/暗黒の塔(3)」(風間賢二訳)、「魔導師の虹/暗黒の塔(4)」(風間賢二訳)と出版されていたのだが、第五巻以降は諸般の事情で出版されず、そのため日本中のスティーヴン・キングファンは、文字通り切歯扼腕状態で続刊を待ち続けていた。

そんな中、全七巻完結(原書)を受け、キング自身がシリーズ全体の統制を図るために手を入れた版を底本として、日本におけるスティーヴン・キング研究の第一人者風間賢二の手によって、新たに翻訳がなされ、出版元を角川書店から新潮社に移し、2005年12月から出版が始まった訳である。

旧版(角川書店版)「ガンスリンガー」の翻訳は、池央耿の手によるもので、その格調高く孤高で硬質な、−−あたかもやわなファンタジーファンを拒むような−−、文章は、キングファンの中でも賛否が分かれるところだったのだが、「暗黒の塔」シリーズの方向性を決定付けた、という事もあり、個人的には非常にすばらしい訳、文字通りの名訳だと思っている。

特に印象に残るのは、ローランドとコートの対決の際の問答の訳が身悶えするほどにすばらしい。

「若い者、汝、真剣なる目的をもってこのところへは来たりしか?」
「師よ、我は真剣なる目的をもって来たれるなり」
「父の家より追放されたる者なるや」
「いかにも」
「得手なる武器を携え来しや」
「いかにも」
「してその武器は」
「我が武器はデイヴィッド」
「汝、我と立ち会う料なるや」
「然り」
「ならば、抜かるな」

(「ガンスリンガー/暗黒の塔(1)」スティーヴン・キング著/池央耿訳/角川書店より引用)

原文は以下の通り。

"Have you come here for a serious purpose, boy?"
"I have come for a serious purpose, teacher."
"Have you come as an outcast from your father’s house?"
"I have so come, teacher."
"Have you come with your chosen weapon?"
"I have so come, teacher."
"What is your weapon?"
"My weapon in David, teacher."
"So then have you at me, boy?"
"I do."
"Be swift, then."

つづく・・・・。

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