「フラガール」

2006年8月3日 映画
2006/08/03 東京九段下「九段会館」で「フラガール」の試写を観た。

昭和40年、福島県いわき市の炭鉱町。

『求む、ハワイアンダンサー』
掲示板に貼られたポスターを見た早苗(徳永えり)は紀美子(蒼井優)にこう告白する。
これは「ここから抜け出す最初で最後のチャンス」だと。

いわき市の男たちは、数世代前から炭坑夫として、女たちも選炭婦として、働いてきた。
だが今や石炭から石油へとエネルギーの担い手は変革し、炭鉱の閉山が相次いでいる。

この危機を救うために炭鉱会社が構想したのが、レジャー施設『常磐ハワイアンセンター』だった。

紀美子の母・千代(富司純子)も兄・洋二朗(豊川悦司)も炭鉱で働いている。
紀美子の父は落盤事故で亡くなった。母は「百年も続いたウヂの炭鉱は天皇陛下までご視察にいらしたヤマだぞ」と自慢し、炭鉱を閉じて『ハワイ』を作る話に大反対。

それでも紀美子と早苗はフラダンサーの説明会に出かけるが、ほかの娘たちは、初めて見るフラダンスの映像に、「ケツ振れねえ」「ヘソ丸見えでねえか」と、逃げ出してしまう。

残ったのは、紀美子と早苗、それに会社の庶務係で子持ちの初子(池津祥子)、そして父親に連れてこられた一際大柄な女の子、小百合(山崎静代/南海キャンディーズ・しずちゃん)だけだった。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:李相日
脚本:李相日、羽原大介
出演:松雪泰子(平山まどか)、豊川悦司(谷川洋二朗)、蒼井優(谷川紀美子)、山崎静代(熊野小百合/南海キャンディーズ・しずちゃん)、池津祥子、徳永えり、三宅弘城、寺島進、志賀勝、高橋克実、岸部一徳(吉本紀夫)、富司純子(谷川千代)
 
 
いきなりで恐縮だが、皆さんは、南海キャンディーズのしずちゃんが踊りまくる「フラガール」の予告編を見たことがあるだろうか。
その予告編を見た多くの人々は、しずちゃんの踊りに目が釘付けになってしまったのではないか、と思う。

かく言うわたしも件のしずちゃんが踊る予告編で「フラガール」と言う作品に大きな関心を持った一人の映画ファンなのだ。
 
 
さて、本作「フラガール」についてだが、物語は、不景気な町の再建を図るべく、フラダンス未経験の少女たちが、鬼コーチの下、フラダンスを学びながら、様々な障害を乗り越えて、初ステージを踏む、と言うありがちな物語である。

脚本はベタだし、展開も想像通り、本作の物語には決して予想外の出来事は起きない。
とは言うものの、本作は奇をてらったプロットや演出がない直球ど真ん中勝負の脚本と順当な演出が非常に心地よい、ツボを押さえた大変すばらしい作品に仕上がっていた。

と言うのも、本作「フラガール」は、気になる点が若干あるものの、悪い点が全く存在しない作品なのだ。
減点法で本作を評価したような場合、非常に高得点が狙える作品に仕上がっているのだ。

おそらく、現在のところ「フラガール」をマークしていない映画ファンの皆さんも多々いらっしゃると思うのだが、出来れば是非劇場で「フラガール」を体験して欲しいと、本心から思う。

ところで、今回の試写では、本編終了後暗転直後に松雪泰子のクレジットが最初に出るのだが、そのクレジットが出た瞬間、観客席から爆発的な拍手が起こったのが非常に印象的であった。

お約束のおざなりな拍手ではなく、観客の本心からの突発的な拍手が自然発生的に起きたのである。

さて、キャストだが、先ずはフラダンスのコーチ役・平山まどかを演じた松雪泰子が大変すばらしかった。
本作の平山まどか役は、松雪泰子のフィルモグラフィーの中でも最高に輝いている役柄だと思うし、彼女のフィルモグラフィーの中でも代表作に数えられる作品に仕上がっていると思う。
年齢を重ね、わざと美しくなく撮影された松雪泰子の表情が最高に格好良く、魅力的で、そして何と言っても美しいのだ。

また、フラガールのリーダー役・谷川紀美子を演じた蒼井優もすばらしい。
冒頭部分、昭和40年の田舎娘だった彼女がフラダンスを練習するうちに、成長していく様が最高にすばらしい。

松雪泰子と蒼井優は物語の中で同じダンスを踊るのだが、その対比が非常に効果的である。

蒼井優的には「花とアリス」もびっくりなのだ。

そして重鎮・富司純子(谷川千代役)も強烈である。
頑迷な昭和の女性と言うベタなキャラクターではあるのだが、彼女の存在が本作に見事な格調を付与している。

やはり、松雪泰子、蒼井優、富司純子の三人の絡みは最高にすばらしい。

俳優については、豊川悦司(谷川洋二朗役)にしても、岸部一徳(吉本紀夫役)にしても、良い仕事をしているのだが、女優陣の活躍の前では、残念ながら演技が霞んでしまう。

フラダンスのシーンも非常にすばらしく、ラストのダンスのシークエンスは、演技後のフラガールたちの表情が最高に輝いている。
これはほとんど素の表情だと思う。
涙を流しながら笑顔を見せる彼女らの表情は最高である。

昭和40年の寂れた炭鉱町を再現した美術(種田陽平)は非常に良い仕事をしていたと思う。
CGIなのかも知れないが、炭鉱町の官舎の造形は凄いと思った。

余談だが、本作「フラガール」は、寂れた炭鉱町の物語、と言う観点からは「ブラス!」(1996)や「リトル・ダンサー」(2000)との対比も面白いと思う。
会社とリストラ、ストと子供たちの世代のダンスや音楽と言う普遍的な物語が興味深い。

とにかく、観て!
本作「フラガール」は、そんなすばらしい作品なのだ。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

「フラガール」をめぐる冒険
http://diarynote.jp/d/29346/20060921.html

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604

「ゲド戦記」

2006年8月2日 映画
2006/08/01 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「ゲド戦記」を観た。

監督:宮崎吾朗
プロデューサー:鈴木敏夫
原作:アーシュラ・K・ル=グウィン 「ゲド戦記」シリーズ(岩波書店刊)
原案:宮崎駿 「シュナの旅」(徳間書店刊)
脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子
美術監督:武重洋二
作画演出:山下明彦
作画監督:稲村武志
色彩設計:保田道世
声の出演:岡田准一(アレン)、手嶌葵(テルー)、田中裕子(クモ)、小林薫(国王)、夏川結衣(王妃)、香川照之(ウサギ)、内藤剛志(ハジア売り)、倍賞美津子(女主人)、風吹ジュン(テナー)、菅原文太(ゲド)
 
 
先ずは本作「ゲド戦記」が置かれている背景を考えなければならない。(とは言いながら、この背景は当然ながら全て当サイトの推測である。)

最初に宮崎吾朗がスタジオジブリの新作長編アニメーション作品の監督をすると知った際にわたしが感じたのは「鈴木敏夫は宮崎駿をお払い箱にするつもりじゃないのか」という事だった。
 
 
さて、「もののけ姫」(1997)以降、宮崎駿監督作品が大ヒットを続けているのはご承知だと思うが、これは決して作品が持つ力によるヒットではなく、かつて名作を数々制作してきたスタジオジブリと宮崎アニメと言うブランドの力と、日本テレビと言うメディアの力だと言わざるを得ない。

私見だが、作品の完成度を考えた場合「紅の豚」(1992)や「もののけ姫」(1997)以降、諸手を挙げて絶賛できる作品を宮崎駿は作っていない、とわたしは思う。

数々の宮崎駿作品をプロデュースしてきた鈴木敏夫もおそらくプロデューサーとして宮崎駿作品を自作ととらえ、忸怩たる思いをしていたのではないか、と思う。

実際のところ、宮崎駿の才能が枯渇したのか、宮崎駿の頑迷な部分が突出してきたのか知らないが、宮崎駿をもってしてもかつてのすばらしい良質な作品群に比類するような作品が制作できなくなってしまっているのではないだろうか。

そんな状況の中、鈴木敏夫がブロデューサーとしてやらなければならないことは、スタジオジブリの新たな体制の構築である。

宮崎駿に失望した鈴木敏夫の頭の中には、宮崎駿なしでスタジオジブリはやっていけるのかどうか、新たなクリエイターによるスタジオジブリ作品の継続は可能なのかどうか・・・・、そんな考えが渦巻いていたに違いない。

そして、鈴木敏夫が射た白羽の矢は宮崎吾朗に立った。

スタジオジブリが宮崎吾朗を監督として獲得できれば、少なくてももちろん宮崎違いだが、宮崎アニメと言うブランドは継承できるし、スタジオジブリのスタッフの力を結集すれば、従来の宮崎アニメっぽい、そこそこの作品ができるのではないか。

鈴木敏夫の頭の中には、そんな皮算用があったのではないだろうか。

本作「ゲド戦記」が興行的に成功した暁には、鈴木敏夫の子飼の監督として宮崎吾朗がスタジオジブリで新作の長編アニメーションを作り続けるのではないか、と思える。

おそらく、あと30年は宮崎ブランドのスタジオジブリ作品が続々と制作される可能性がある訳だ。
 
 
さて、本作「ゲド戦記」についてだが、先ずは血湧き肉躍らないのだ。

尤も血湧き肉躍らないアニメーション作品は世にたくさんある。
しかし、本作「ゲド戦記」をスタジオジブリの、そして宮崎アニメの後継者の作品として考えた場合、「ゲド戦記」が血湧き肉躍らない作品であることは、アニメーション作品として致命的である。

たとえ物語が破綻していようと、動画の持つダイナミズムが観客に伝われば、それはそれで良い作品と言えるのだ。
宮崎アニメの圧倒的な躍動感が一切、と言って良いほど感じられない。

そもそも、アニメーションの語源のアニメート(animate)と言う言葉は「命を与える」と言う意味なのだ。
命のない画にあたかも命があるように見せるのがアニメーションと言うことである。

たとえは悪いが、死体蘇生薬で死体を生き返らせる物語「ZOMBIO/死霊のしたたり」 (1985)の原題が"RE-ANIMATOR"であるのも興味深い。

また、物語の構成が一本調子でメリハリがない。
あまりにも真面目すぎて面白みがない。ユーモアが、つまり制作者としての余裕が感じられないのだ。

唯一ユーモラスなシークエンスとして配されている、と思われる二人の女性がテナーの家に向かうシークエンスでは、面白いはずなのに、作画のレベルが凄すぎて他の部分との乖離が甚だしい。

脚本は脚本で、本来ならば画で感じさせるべきことをセリフで饒舌に語ってしまっていたり、またセリフの一体感がないため、セリフによる世界観の統一が感じられない。
古の言葉と現代の言葉が物語の中で同居しているのだ。

また冒頭で描かれる壮大なストーリーの予兆は、なぜか知らないが、気が付いたら少人数の人々の争いの物語にスケール・ダウンしてしまっている。
大賢人は一体何をしたかったのか。疑問が膨らむ。

また背景も、「未来少年コナン」(1978)からの盟友とも言える山本二三が「時をかける少女」(2006)に行ったせいか、ここ最近宮崎作品の美術監督をつとめている武重洋二の腕が落ちたのか、宮崎吾朗の現場を統率する力が足りないのか、不完全な背景が見受けられる。

更に動画も、風の吹いている方向と雲が流れる方向、船の帆がなびく方向に統一感がなく、なんとはない違和感が感じられる。
また、カットが変わるとキャラクター同士の位置が変わっていたりする不思議なレイアウトがあると思えば、キャラクターの身長の差も不思議な感じを与えるカットも散見されていた。

宮崎駿なら決してOKを出さないと思われるレベルの作画や動画が散見されるのだ。

物語で興味深いのは、やはり「親殺し」のモチーフなのだが、これは実際のところ、宮崎吾朗が宮崎駿を殺し、紆余曲折があって結果的に、親殺しの罪を宮崎吾朗が贖う映画なのか、と勘ぐってしまう。

キャストも残念ながら良くない。
本当に勘弁して欲しいと思う。

つづく・・・・
一次保存です。すいません。

☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

『スタジオジブリ作品「ゲド戦記」をめぐる冒険』
http://diarynote.jp/d/29346/20051215.html

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/07/28 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「日本沈没」(2006)を観た。

潜水艇《わだつみ6500》のパイロット・小野寺俊夫(草なぎ剛)は、地球科学博士・田所雄介(豊川悦司)の指揮の下、同僚パイロットの結城(及川光博)と共に深海調査に参加していた。その結果、小野寺は驚愕の事実を知る−−海底プレートの急速な沈降で、日本列島はわずか1年後に沈没する。

日本の危機を訴える田所に、ほかの科学者たちは『聞くに値しない妄言』と一蹴する。しかし、内閣総理大臣・山本尚之(石坂浩二)は、事態を重く受け止め、危機管理担当大臣として鷹森沙織(大地真央)を任命する。鷹森はかつての田所の妻でもあった。山本総理は避難民の海外受け入れ要請のために旅立った。

一方、小野寺は災害の中で、ハイパーレスキュー隊員の阿部玲子(柴咲コウ)と共に、家族を失った少女・倉木美咲(福田麻由子)を救出する。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:樋口真嗣
原作:小松左京
脚本:加藤正人
音楽:岩代太郎
特技監督:神谷誠
出演:草なぎ剛(小野寺俊夫)、柴咲コウ(阿部玲子)、豊川悦司(田所雄介)、大地真央(鷹森沙織)、及川光博(結城慎司)、福田麻由子(倉木美咲)、吉田日出子(田野倉珠江)、柄本明(福原教授)、國村隼(野崎亨介)、石坂浩二(山本尚之)

先ずは脚本が酷かった。
と言うか少なくても「日本沈没」ではない。

本作「日本沈没」(2006)は、かつての名作「日本沈没」(1973)を下敷にしていたかどうかは知らないが、旧作と比較して恐ろしく酷い作品に仕上がっている。

あらゆる点で類似点や相違点があるので、少なくても2006年版スタッフは、1973年版を意識している事は意識しているのだろうが、同じことをやっているところも、異なったことをやろうとしている点も残念ながら一々酷い。

余談だけど、1973年版の人間ドラマに2006年版の特撮カットを入れたら良い映画が出来るんじゃないのかな、と本気で思ってしまう。

残念な事に、2006年版には小林桂樹の田所博士がいなかったり、丹波哲郎の山本総理がいないだけではなく、根本的に脚本がおかしいのである。

言うならば、こんなシークエンスが欲しいから、こんな映像が欲しいから、と言う感じで脚本が出来ているような気がした。

監督の樋口真嗣は一体何を描きたかったのか、物語の進行と矛盾しまくりの天変地異の映像なのか、それとも上っ面だけの薄っぺらい人間ドラマなのか。
それとも「ローレライ」(2005)もびっくりのキャラクターの無駄死になのか、訳がわからない自己犠牲精神なのか。
ただ、観客を泣かせる事を目的としているのか。しかも根本的な次元ではなく、表層的な次元で。

そして、もしかしたら、2006年版「犬神家の一族」のせいなのか、石坂浩二(山本総理)の途中退場により、脚本に直しが入ったのか、そのために撮影済・CGI発注済のシークエンスが否応なしに前後してしまったのか、例えば日本中で大惨事が起きているのにも関わらず観光旅行をしている人が居たり、−−これはおそらく当初は、日本が沈没することが明確になっていない時点での異常気象のシークエンスの映像だと思う−−、5月のシークエンスのはずなのに冬用のコートを着ている大勢の人々が国外脱出のために並んでいたり、−−これもシーンの入れ替えの問題だろう−−、日本が沈み始めていると言うのに普通の生活をしていたりする。

ついでに「さよならジュピター」(1984)もびっくりの瞬間移動振りを、冒頭では田所教授(豊川悦司)が、または後半では小野寺俊夫(草なぎ剛)が見せている。
前半では、世界をまたにかけて船舶(?)で移動する田所教授の神出鬼没な行動力には驚かされるし、後半では日本が分断され交通が遮断されているのにも関わらず日本中に出没する小野寺には驚かされる。

また、驚かされると言えば、ハイパーレスキュー隊員阿部玲子(柴咲コウ)と彼女が乗るヘリコプターも神出鬼没も驚きだった。
圧倒的な位のピンポイントへのヘリコプターの出現振りには、驚きを越えあきれてしまう。

ピエール瀧の死様にも驚くし、富野由悠季が演じたキャラクターは結構良かったが、富野由悠季や庵野秀明、安野モヨコ、福井晴敏の登場もいただけない。

また及川光博の奥さん役が佐藤江梨子だったりするところが、樋口真嗣は楽しんでいるのだろうと思うが、なんともいやらしい。

また石坂浩二と加藤武の共演にも作為が感じられる。

こんなこと(意味のないカメオ)をやっていて、観客が喜ぶと思っているのか、と思ってしまう。

まあ元々物語が希薄なので、観客の意識を物語から逆に遠ざけ、物語の表層だけを楽しませる、と言うミスデレクションの効果がある、と言えばあると思うのだが・・・・。

一方、長山藍子の起用は良かったと思う。
本作「日本沈没」(2006)で唯一俳優(女優)の演技を見たような気がした。

あとは柴咲コウのシークエンスにはがっかりさせられる。
彼女のキャラクターは「日本沈没」(2006)には不必要なシークエンスなのだ。
もちろん「日本沈没」(1973)のいしだあゆみのキャラクターの存在も微妙だが、「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004)にしろ本作にしろ不必要なキャラクターを演じるのはどう言うことだろうか、と思ってしまう。

まあ、本作「日本沈没」(2006)は、わたしが観る限りは現在のところ「文春きいちご賞」の最有力候補だと言わざるを得ない。
話題性、キャスト共に「文春きいちご賞」の風格は充分だと思う。

とりあえず1973年版「日本沈没」を観た後で、2006年版「日本沈没」を観て欲しいと思う。
まあ逆でも良いんだけど、丹波哲郎と小林桂樹に酔って欲しいと思う。

☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
世は、樋口真嗣版「日本沈没」(2006)の話題で持ちきりだが、とりあえずはオリジナル版:森谷司郎版「日本沈没」(1973)のお話。

地球物理学者である田所雄介博士(小林桂樹)は、地震の観測データから日本列島に異変が起きているのを直感し、調査に乗り出す。潜水艇の操縦士小野寺俊夫(藤岡弘)、助手の幸長信彦助教授(滝田裕介)と共に伊豆沖海底に潜った田所は、海底を走る奇妙な亀裂と乱泥流を発見する。異変を確信した田所はデータを集め続け、一つの結論に達する。それは「日本列島は最悪の場合、2年以内に地殻変動で陸地のほとんどが海面下に沈降する」というものだった。

監督:森谷司郎
製作:田中友幸、田中収
原作:小松左京
脚本:橋本忍
音楽:佐藤勝
特技監督:中野昭慶
出演:藤岡弘(小野寺俊夫)、いしだあゆみ(阿部玲子)、小林桂樹(田所博士)、丹波哲郎(山本総理)、滝田裕介(幸長助教授)、二谷英明(中田/科学技術庁)、中丸忠雄(邦枝/内閣調査室)、村井国夫(片岡/防衛庁技官)、夏八木勲(結城)、竹内均(竹内教授)、島田正吾(渡/政界のフィクサー)

本作「日本沈没」(1973)は映画史に残る大変すばらしい作品だった。

本作の作品としてのスタンスはリアリティに徹しており、映画作品と言うフィクションの体裁を取った娯楽作品でありながらも、日本列島が沈没する、と言う事象を想定した言わば「災害シミュレーション映像」を見ているような印象を受ける。

そして非常に興味深い事に、本作のメイン・プロットは内閣総理大臣山本(丹波哲郎)に軸足を乗せているのだ。

丹波哲郎は国家存亡の危機に直面する日本国内閣総理大臣を好演している。
特に渡老人(島田正吾)からシナリオを手渡されるシークエンスの丹波哲郎は最高である。
丹波哲郎は、日本国が世界に誇る最高に格好良く、そしてリーダーシップに溢れる最高の内閣総理大臣を見せてくれているのだ。

さらに、マッド・サイエンティスト田所雄介博士の役をふられた小林桂樹がすばらしい。
テレビ討論番組で共演者を殴り飛ばす田所教授。こんなに格好良い科学者をわたしはいまだかつて見たことがない。

藤岡弘(小野寺俊夫)が格好良いのは、もちろん言うまではないし、二谷英明(中田/科学技術庁)にしろ夏八木勲(結城)にしろ格好良すぎである。

そうなのだ、本作は与えられた使命を最大限の力で全うしようとする熱い男(漢)たちを描いた物語なのだ。

語弊はあるが、おんな子どもに媚びない硬派な制作者サイドの姿勢が美しい。
日本が沈没する、と言う荒唐無稽なプロットに対し、あくまでも真摯に取り組んだ制作者サイドの姿勢に頭が下がる思いである。

不必要なカメオもないし、くだらないプロットもない。
「日本沈没」を描くために必要なものだけをまとめたものが本作「日本沈没」なのだ。(もちろん阿部玲子(いしだあゆみ)の存在には若干問題はあるのは否定できないが・・・・。)

特撮(特技監督:中野昭慶、特技・合成:三瓶一信、特技・撮影:富岡素敬、特技・製作担当:篠田啓助、特技・美術:井上泰幸)は、ミニチュア・ワークが一々すばらしい。
例えば瓦が飛ぶ描写だとか、その瓦の下の埃が舞う描写とか、かゆいところに手が届く特撮がすばらしい。
ミニチュアにしろスクリーン合成にしろ、使い所と使う手法に誤りがなければ、CGIなんかより効果的だと思う。

とにかく、本作「日本沈没」(1973)は、大変すばらしい作品である。現在公開中の「日本沈没」(2006)を観る前に、出来れば観て欲しいと思う。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/07/24 東京新宿「新宿武蔵野館」で「ローズ・イン・タイドランド」を観た。

主人公はとんでもなく悲惨な状況にいるジェライザ=ローズという名の女の子。彼女の日常は元ロックスターのパパと、自分勝手なママの世話をすることから始まる。ある日、ママが急死して、ジェライザ=ローズは大好きなパパとふたり、今は亡きおばあちゃんの家に住むことになる。しかし、彼女を待っていたのは、見渡すかぎり金色の草原にポツンと建っている一軒の荒れ果てた古い家だった。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:テリー・ギリアム
原作:ミッチ・カリン「タイドランド」(角川書店)
脚本:テリー・ギリアム、トニー・グリゾーニ
撮影:ニコラ・ペコリーニ
プロダクションデザイン:ヤスナ・ステファノヴィック
出演:ジョデル・フェルランド(ジェライザ=ローズ)、ジェフ・ブリッジス(パパ/ノア)、ジェニファー・ティリー(ママ/グンヒルド王妃)、ジャネット・マクティア(デル)、ブレンダン・フレッチャー(ディケンズ)
 
 
例えば、デヴィッド・リンチの新作が公開されるとしよう。
当然ながら、デヴィッド・リンチ好きのわたしは、その新作を非常に楽しみにするだろう。
と同時に、わたしは若干の不安を感じてしまう。

リンチの世界を理解(解釈)できなかったらどうしよう。
リンチの作品を理解(解釈)できないほど、わたしの脳が老化(軟化/硬化)していたらどうしよう。

テリー・ギリアムの新作「ローズ・イン・タイドランド」はそんな気持ちにさせられる、一風難解で物語自体に起伏が乏しい、観客を選ぶ作品だった。

物語の根本的な部分は、例えるならば、ヒーローとアンチヒーローの誕生を同時に描いたM・ナイト・シャマランの「アンブレイカブル」(2000)や、悪魔の子として誕生した少年が全ての庇護者を排除し、ついに新たなそして強大な庇護者と出会うまでを描いた「オーメン」(1976)のような印象を受けた。

この「ローズ・イン・タイドランド」の物語は、言うならば、ローズと言う名の少女が、かつての庇護者たちを排除し、魔女として再生し、ついには新たな庇護者を得るまでを描いた物語なのだ。
 
ところで、本作「ローズ・イン・タイドランド」の世界観を見て強く感じたのは、幹線道路から外れ道に迷い、とんでもない目に遭ってしまう、と言う「悪魔のいけにえ」(1974)をはじめとする様々な作品で散々描かれ続けているような恐ろしい出来事は、アメリカの片田舎では、いたって普通の出来事であり、さらにはそれらの出来事の片棒を担ぐサイコキラーや変質者、魔女のような存在なんかは、アメリカの片田舎では、現在でも普通に存在しているのではないか、という事である。

そしてその世界の住民は、われわれの常識が非常識である世界で、自分達の常識、−−われわれにとっては非常識−−、に従って独自に生活を営んでいるのである。

と考えた場合、例えば現在日本国内でも起きている、マスコミが言うところの理解出来ない悲惨な事件は、最早現実世界とファンタジー世界との境界がなくなり、いわば現実世界という名のファンタジー世界に生きているわたし達にとっては、全く不思議な出来事ではなく、いたって普通の出来事なのだろう、と思える。

例えば、デル(ジャネット・マクティア)は、外部から覗くと魔女そのものだし、ディケンズ(ブレンダン・フレッチャー)は、そんな魔女やモンスターに使役される存在(「吸血鬼ドラキュラ」のレンフィールドのような存在)であるが、本作で彼らはファンタジー世界の住民ではなく、確固とした現実世界の住民として描かれている。

と同時に本作でテリー・ギリアムが切り取る世界は、一見ファンタジー世界を描いているような印象を観客に与えるのだが、実際のところは、全ての出来事を冷徹な現実世界の出来事として描いている。

ただ違うのは、その現実の出来事の解釈が登場人物によって異なっている、と言う点である。

ここでは、現実世界は見ようによってはファンタジー世界に見えるのだが、実際はファンタジー世界に見えようが、確固とした現実世界である、と言うことを声高に宣言しているのだろう。

つまり、異常な出来事が起き、まるでそこがファンタジー世界のような印象を観客に与えているかも知れないが、異常な出来事が起きようが、そこは実際の現実世界であり、違うのは、それを体験する登場人物の解釈だけである、という事なのだ。

そして、そうすることにより、本作「ローズ・イン・タイドランド」は、観客が登場人物のファンタジー世界に逃避し、そこで満足してしまうことを拒絶しているのだ。

例えるならば「未来世界ブラジル」(1985)のラストで描かれた登場人物の精神世界でのハッピーエンドを見て観客が安心するようなことをさせないのだ。

いくら精神世界の中で、楽しい人生を送っていようが、現実は現実、悲惨なものなのだよ、とテリー・ギリアムは語っているのではないだろうか。

この辺りは「バロン」(1989)の冒頭、ファンタジーでありながら悲惨な現実を直視するシークエンスにも似ているような印象を受ける。

キャストはなんと言ってもジョデル・フェルランド(ジェライザ=ローズ役)だろう。
人形の頭を含めて5役を演じてしまう怪演振りに、精神世界の危うさと、女性を感じさせる妖艶さ、そして少女のあどけなさと様々なシークエンスで千差万別の演技を魅せてくれている。

あとは、ブレンダン・フレッチャー(ディケンズ役)が印象的である。
彼の精神が解釈する現実世界の出来事が最高である。
特に巨大サメの解釈が身震いするほどすばらしい。

この辺は黒澤明の「どですかでん」(1970)の六ちゃんを髣髴とさせる。

また、ジャネット・マクティア(デル役)もすばらしい。
ただ、デルのイメージがティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」(2003)の魔女のイメージとかぶっているのが残念だと思う。

撮影(ニコラ・ペコリーニ)は広角レンズの多用により、被写体の大きさの差異を際立たせ、また、構図をずらすことにより、観客の平衡感覚を意図的に喪失させるようなカットが面白かった。

機会があれば、是非劇場で観ていただきたい作品である。
しかし、心して観て欲しい作品でもある。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/07/16 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」を観た。

監督:ゴア・ヴァービンスキー
製作:ジェリー・ブラッカイマー
脚本:テッド・エリオット、テリー・ロッシオ 
出演:ジョニー・デップ(ジャック・スパロウ)、オーランド・ブルーム(ウィル・ターナー)、キーラ・ナイトレイ(エリザベス・スワン)、ビル・ナイ(デイヴィ・ジョーンズ)、ステラン・スカルスガルド(ブーツストラップ/ビル・ターナー)、ジャック・ダヴェンポート(ノリントン)、ケヴィン・マクナリー(ギブス)、ナオミ・ハリス(ティア・ダルマ)、ジョナサン・プライス(スワン総督)、マッケンジー・クルック(ラジェッティ)、トム・ホランダー(ベケット卿)、リー・アレンバーグ(ピンテル)、ジェフリー・ラッシュ(バルボッサ)
 
 
A long time ago in a ocean far,
far away....

七つの海(銀河系)最速の帆船(宇宙船)ブラックパール号(ミレニアム・ファルコン号)を駆るするジャック・スパロウ船長(ハン・ソロ船長)は苦境に立たされていた。

かつてジャック・スパロウ(ハン・ソロ)とデイヴィ・ジョーンズ(ジャバ・ザ・ハット)との間で交わされた契約の終期が近づいて来ているのだ。

デイヴィ・ジョーンズ(ジャバ・ザ・ハット)は、ジャック・スパロウ(ハン・ソロ)のもとへウィル・ターナー(ルーク・スカイウォーカー)の父親(!)を送り、かつての契約の刻限が目前に迫っていることを告げる。

一方、バルボッサ事件(デス・スター事件)において、ジャック・スパロウ(ハン・ソロ)と協力し、バルボッサ(デス・スター)を退けたウィル・ターナー(ルーク・スカイウォーカー)とエリザベス・スワン(レイア・オーガナ)の幸せな生活は、ジャック・スパロウ(ハン・ソロ)の動向で一変する。

一時は逮捕されてしまうウィル・ターナー(ルーク・スカイウォーカー)とエリザベス・スワン(レイア・オーガナ)だったが、何とか切り抜け、それぞれ相手の身を助けるため、別々にジャック・スパロウ(ハン・ソロ)の下へと向かう。

彼らは、酒場で乱闘したり、とある島(エンドア星)の原住民(イウォーク族)の神とあがめられたりしながら、またノリントン(ランド・カルリシアン)と時には協力し、時には裏切られ、共同でまた単独で作戦を進めていく。

そして、遂にデイヴィ・ジョーンズ(ジャバ・ザ・ハット)は、ジャック・スパロウ(ハン・ソロ)の許へ最強の刺客クラーケン(ボバ・フェット)を送り込む。

そのクラーケン(ボバ・フェット)との戦いの中、○×□△に○×□△される(カーボン・フリーズされる)直前のジャック・スパロウ(ハン・ソロ)とエリザベス・スワン(レイア・オーガナ)の姿を見たウィル・ターナー(ルーク・スカイウォーカー)の心の中に、ある種の疑念が芽生える。

ジャック・スパロウ(ハン・ソロ)を失ったウィル・ターナー(ルーク・スカイウォーカー)、エリザベス・スワン(レイア・オーガナ)、ギブス(チュー・バッカ)、ラジェッティ(C3PO)とピンテル(R2D2)らは体勢を立て直し、ジャック・スパロウ(ハン・ソロ)の救出に向かうことを決定する。そのとき彼らの前に現われたのは・・・・
 
 
何を言ってるのか全くわからない人もいらっしゃるかと思いますが、わたしが言っていることをご理解いただけている方も多々いらっしゃると思います。

と言うのも、驚くべきことに本作「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」のプロットは「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」(1980)のリメイクではないか、と思えるほどに酷似しているのです。また、物語は勿論、登場人物の設定や背景まで酷似しているのには驚きを禁じえません。

本作「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」はディズニー・ランドのアトラクション「カリブの海賊」を映画化した「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」の第二部、第三部にあたる続編の第二部にあたる作品である。

製作は第一部のヒットを受けて、第二部、第三部を同時に撮影すると言う「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作(1985、1989、1990)や「マトリックス」三部作(1999、2000、2003)と同様の手法が取られている。
因みに「ロード・オブ・ザ・リング」三部作(2001、2002、2003)は最初から三部作の構想で撮影が同時に行われているので、手法は異なる。

さて本編だが、160分超と言う尺はやはり長いと思う。
とは言うものの、長いと感じるのは冒頭の60分程度。物語が動き始める60分以降は、尺を気にせず楽しむことが出来る。
冒頭の60分をもう少しテンポよくつまんだ方が良かったと思う。

後半部分はもうゴリ押しで、物語は都合が良いしベタな展開の目白押しなのだが、脚本と演出の勢いで、楽しめる。

またラスト近辺の緊迫した展開は、ようやく脚本の面白さが顔を出し、本作を莫迦にしているわたしですら、緊張し、第三部への期待を高められてしまう。
まあこのあたりは、前述のように「帝国の逆襲」の展開やプロットを踏襲しているのだから、面白くて当たり前だと思う。

冒頭から中盤にかけてのアクション連続の展開は、大金持ちの自主制作映画のノリで、やりたいことはたくさんあるが語りたい事はそんなにない、と言った感じで、内容がない分、アクションが楽しめるのだが、凄いアクションだとしても退屈な印象を否定できない。

例えるならば「マトリックス リローデッド」(2003)のようにアクションが長すぎて、食傷気味でゲップが出るような感じなのだ。

とは言いながらもラストの怒涛の展開は、騙されてはいけないと思いながらも手に汗握るほど面白い。
前述のように、ようやく脚本部分の面白さ、第三部へ続くプロットが面白いのだが・・・・

キャストはビル・ナイの怪演が楽しかった。
声はビル・ナイそのものだったのだが、顔はほとんど違うのだが、表情の動きはさすがにビル・ナイの表情を再現していたと思う。

ジョニー・デップは前作同様やりすぎ、オーバーアクトであると言わざるを得ない。
彼の動きは、最早コントの域に達している。

勿論観客はジャック・スパロウのコント的でベタな動きを楽しみたいと思っているし、制作者サイドもそのあたりに力を入れているのはわかるのだが、ジョニー・デップファンとしては、極端なキャラクターを演じる事で評価される事は釈然としないものがある。

また、牢獄(ブローケッドランナー)から救命ボート(救命艇)で脱出するラジェッティ(C3PO/マッケンジー・クルック)とピンテル(R2D2/リー・アレンバーグ)の大活躍が良かった。

主役、脇役を含め三部作の全てに同じキャストをキャスティングしている点には、好感が持てる。

まあ本作「パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト」は、長いことを除けば、誰にでもオススメ出来る楽しい映画に仕上がっていると思う。

とりあえずは劇場で見て欲しいと思うけど、年間50〜100本くらい劇場で映画を見ている人は別に観なくても良いんじゃないかと思う。どうせ観るんだろうと思うけどね。

余談だが、本作には、エンドロールの後にも映像があるので、最後までクレジットを眺めていて欲しい。

☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/07/13 東京池袋「新文芸坐」で「ヒストリー・オブ・バイオレンス」を観た。

アメリカ、シンディアナ州ミルブルックの小さな町の田舎町で、トム・ストール(ヴィゴ・モーテンセン)と弁護士の妻エディ(マリア・ベロ)は、2人の子供たちと一緒に幸せで静かな生活を送っていた。夫は"STALL’S DINER"という自身のお店を経営し、妻ともいまだに仲むつまじく、愛に満ちた幸せな暮らしであった。

だが、ある夜、夫のダイナーが2人組の強盗に襲われてしまったが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:デイヴィッド・クローネンバーグ
脚本:ジョシュ・オルソン
音楽:ハワード・ショア
原作:ジョン・ワグナー、ヴィンス・ロック
出演:ヴィゴ・モーテンセン(トム・ストール)、マリア・ベロ(エディ・ストール)、エド・ハリス(カール・フォガティ)、ウィリアム・ハート(リッチー・キューザック)、アシュトン・ホームズ(ジャック・ストール)、ハイディ・ヘイズ(サラ・ストール)、スティーヴン・マクハティ(レランド)、グレッグ・ブリック(ビリー)、ピーター・マクニール(サム・カーニー保安官)

いやあ、良かった。
本作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は本当に大変素晴らしい作品だった。

本作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は、デイヴィッド・クローネンバーグファンなら勿論、ファンではない方々でも充分に楽しめる、素晴らしい作品に仕上がっていた、と思う。

勿論タイトル通り、バイオレンス指数は比較的高め、と言うかバイオレンス描写それぞれについて一々芸が細かく、ハリウッド・テイストの大雑把なバイオレンス描写に慣れ親しんでいる観客、またはマニアックなバイオレンス描写に慣れ親しんでいない観客には若干きつめのバイオレンス描写が続く。

しかしながら、そのバイオレンス描写は、とっさに悲鳴を上げるというよりは、ヒステリックな笑いを伴うような描写であったような印象を受けた。

例えば、ジョージ・A・ロメロの「死霊のえじき」(1985)のスコップのシークエンスやデイヴィッド・リンチの「ワイルド・アット・ハート」(1990)のショットガンのシークエンスを思い出す。

そして物語は、日本人ならば時代劇やヤクザ映画でよく見るような話。
かつて極悪人が何らかの理由で足を洗い家庭を築き、平穏な生活を送っているところに、かつての悪い仲間がやって来る、と言うもの。

そしてこの作品が語っているのは、悲しい話なのだが、一度犯罪(ここでは勿論バイオレンスと言う事)に手を染めた人々は、二度と真っ当な生活には戻れないし、それらの人々のバイオレンスな遺伝子は、知らず知らずに回りに影響を与え、遺伝すると言うこと。

そのあたりは、トム(ヴィゴ・モーテンセン)のバイオレンスの遺伝子が、結果的に息子のジャック(アシュトン・ホームズ)に遺伝していく様に顕著である。
その描写はジャックを主人公に据えた青春映画的な物語で描かれる成長を思わせるものなのだが、ベクトルは非常にダークである。

キャストは何と言ってもエド・ハリス(カール・フォガティ役)である。メイクは若干やりすぎの感は否めないが、過去を感じさせる素晴らしいキャラクターを演じていた。
いやあ格好良いぞ、エド・ハリス。
ホント「ザ・ロック」(1996)なんてお莫迦な映画に出ている場合じゃないぞ。

またウィリアム・ハート(リッチー・キューザック役)も良かった。が、どう考えてもエド・ハリスの方が上だろう。

この映画、賞レースでは、デイヴィッド・クローネンバーグ作品には比較的珍しく、非常に大きな役回りを演じていた。

ちょっと余談だが、本作のメインのプロットを考えた場合、本作に良く似た作品を思い出す。

それはスタンリー・キューブリックの「時計じかけのオレンジ」である。
本作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は「時計じかけのオレンジ」(1971)の後半部分を再構築したような作品に仕上がっているのだ。

「時計じかけのオレンジ」ではアレックスの過去を映画の前半部分で丹念に描いているのだが、本作「ヒストリー・オブ・バイオレンス」ではトムの過去は一切描かれず、本作は「時計じかけのオレンジ」的に言うと矯正された後の部分から始まっているのである。

そのあたりを考えながら本作のラストを考えた場合、多くの観客は幸せなエンディングを想像したのかも知れないが、もう一つの破滅的なエンディングの存在も感じられる素晴らしい描写で幕を閉じているような印象も受ける。

世は全てこともなし、と言う事である。

余談だけど、トムは人類のメタファーとしても考えられるし、国家のメタファーとしても機能しているのである。
人類の本能はバイオレンスだしね。

機会があれば是非観ていただきたい作品である。

☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/07/01 東京池袋「シネマ・ロサ」で「花よりもなほ」を観た。

本来ならば「花よりもなほ」のレビューを書くべきところなのだが、今日のエントリーのタイトルは、『「花よりもなほ」をめぐる冒険』サブ・タイトルは、『「ラストサムライ」怒りの系譜』。

ハリウッド映画「ラストサムライ」(2003)及び「ラストサムライ」に騙される愚かな日本人に対する、日本映画界の怒りの系譜を紐解いてみたいと思う。
 
 
■「隠し剣 鬼の爪」(2004/監督:山田洋次)
以下、下記URLより引用
http://diarynote.jp/d/29346/20041024.html

「隠し剣 鬼の爪」は、米アカデミー賞ノミネート作品「たそがれ清兵衛」(2002)に続く、山田洋次監督×藤沢周平原作の第二弾であり、多くの人々にオススメできる素敵な人情時代劇に仕上がっている。

しかし本作「隠し剣 鬼の爪」は、ハリウッド製時代劇「ラスト サムライ」(2003)に対するアンチテーゼとして機能する、反骨精神溢れる意欲的な作品とも言えるだろう。

そして本作が「ラスト サムライ」に対するアンチテーゼとして機能していると言うことは、「ラスト サムライ」を手放しで評価する『サムライの遺伝子を持った日本人』(実際のところ、大多数の日本人は農民の遺伝子を持つのだが)に対する批判的精神が根底に見え隠れしているような気がする。

趣向を削ぐので詳細解説は割愛するが、本作「隠し剣 鬼の爪」は「ラスト サムライ」とは、時には同様の、時には正反対のベクトルを持つ作品なのである。

この辺りは、狭間弥市郎(小澤征悦)に対する片桐宗蔵(永瀬正敏)の最後のセリフ、松田洋治の役柄、そして戸田寛斎(田中泯)の生き様、家老堀将監(緒形拳)の描き方、そしてなんと言っても片桐宗蔵(永瀬正敏)ときえ(松たか子)の行く末がそれを如実に物語っている。
勿論、舞台挨拶の中でも、監督である山田洋次が間接的にではあるが、この作品の背景とテーマを語っていた。
 
 
■「北の零年」(2004/監督:行定勲)
以下、下記URLより引用
http://diarynote.jp/d/29346/20050105.html

「サムライになりたかったアメリカ人」と「滅び行くサムライの美学」を描いた「ラストサムライ(2003)」に日本国民の多くは狂喜し、同時に日本映画界は震撼した。
そして2004年、山田洋次は「ラストサムライ」へのアンチテーゼとして、また「ラストサムライ」に騙されてしまう愚かな日本人に対する批判的精神の下、「隠し剣 鬼の爪」(2004)を製作した。(と、わたしは思っている)
「隠し剣 鬼の爪」は「侍と言う莫迦げた生き方を捨てる日本人」を描いた作品なのだ。
更に2005年、満を持して登場するのは、またもや「侍と言う生き方を捨てる日本人」を描いた「北の零年」(2005)なのだ。

そして本作「北の零年」では「ラストサムライ」で勝元盛次を演じた渡辺謙が、その勝元と正反対の生き様の小松原英明としてキャスティングされているのが素晴らしくも恐ろしい。

このあまりにもシニカルなキャスティングは、行定勲や渡辺謙、そして山田洋次をはじめとする日本映画界が「ラストサムライ」に対して、どういう思いを持っているのかを如実に表しているような気がする。

あの山田洋次に「隠し剣 鬼の爪」を撮らせ、行定勲に「北の零年」を撮らせる「ラストサムライ」。
その多大なる影響力、そして「侍の遺伝子を持つと言われ、散り行く侍の姿に騙されてしまう、実際は農民の遺伝子を持つ日本人」の愚かさを感じる一瞬である。
 
 
■「花よりもなほ」(2006/監督・原案・脚本:是枝裕和)

ハリウッド映画「ラストサムライ」(2003)に対する日本映画界の怒りの系譜は、山田洋次から行定勲へ、そして行定勲からなんと是枝裕和にまで繋がった。

本作「花よりもなほ」の物語は、是枝裕和のオリジナル脚本なのだが、表向きはのほほんとした泰平仇討ちコン・ゲーム的な物語なのだが、その脚本には「ラストサムライ」へのアンチテーゼとも言えるいくつかのプロットが採用されている。

例えば、それは「何も生みださない侍と言う生き方への批判」や「仇討ち制度の不毛さ」そして「生類憐れみの令の理不尽さ」、「武士の生き様と桜の散り様の対比」そして「憎しみではない父親からの形見」である。

これらのプロットの根底には全て「侍文化への批判」が息づいている。
多分映画の表層だけを観ていると気が付かない事だと思うのだが、おそらく是枝裕和がやろうとしていたのは、こう言うことだったのだろう、と思う。

そして長屋の人々は泰平の世を、何にも縛られずに超然とそして図太く生きている。彼らは善悪に縛られない。言わば善悪の彼岸で生きているのだ。

そして、最後に主人公は、侍と言う生き方ではなく、人間としての生き方を選択するのである。
これはやはり「侍としての莫迦げた生き方の否定」を描いていると言わざるを得ない。

つづく・・・・

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/07/01 東京池袋「シネマ・ロサ」で「ナイロビの蜂」を観た。

東西の冷戦構造が終焉を迎え、ベルリンの壁が崩壊した当時、一番困ったのは誰だろうか?

軍需産業、石油利権・・・・

答えは小説家、特にスパイ小説を生業としている小説家である。と言われていた。

もちろんこれはジョークなのだが、東西の冷戦構造が終焉した現在でも、スパイ小説家たちはすばらしい作品を発表し続けれている。

本作「ナイロビの蜂」は、そんな小説家の一人ジョン・ル・カレの原作をフェルナンド・メイレレスが映画化した作品で、表向きは社会派ラヴ・ストーリーの体裁を取っているが、実際のところはすばらしいスパイ映画に仕上がっている。

諸君! 「M:i:III」なんかに騙されてはいけないぞ!!

本作「ナイロビの蜂」は「M:i:III」みたいなふざけたスパイ・アクション映画ではなく、意味でのリアルなスパイ映画なのだ!!

 
 
つづく・・・・

☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/06/28 東京中野「中野サンプラザ」で「ブレイブストーリー」の試写を観た。

ワタルはどこにでもいる平凡な11歳の少年。
ある夜、親友のカッちゃんとふたりで幽霊ビルの中を探検をしていたワタルは、階段の上に浮かぶ奇妙な扉を見つけ、その中へ入っていくミツルの姿を目にする。
ミツルは、成績優秀、スポーツ万能、おまけにルックスもいいと評判の隣のクラスの転校生。女の子に騒がれても、笑顔ひとつ見せないクールで大人びた少年だ。

「あの扉の向こうには何かあるの?」と問いかけるワタルに、ミツルは真顔でこう答えた。
「扉の向こうに行けば、運命を変えられる、ひとつだけ願いが叶うんだ」
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:千明孝一
アニメーション制作:GONZO
製作総指揮:亀山千広
原作:宮部みゆき 「ブレイブ・ストーリー」(角川書店刊)
脚本:大河内一楼
声の出演:松たか子(三谷亘/ワタル)、大泉洋(キ・キーマ)、常盤貴子(カッツ)、ウエンツ瑛士(芦川美鶴/ミツル)、斎藤千和(ミーナ)、今井美樹(運命の女神)、田中好子(三谷邦子)、高橋克実(三谷明)、柴田理恵(ユナ婆)、石田太郎(ダイモン司教)、伊東四朗(ラウ導師)、樹木希林(オンバ)
 
宮部みゆき原作、GONZO製作、話題の「ブレイブストーリー」である。

わたしは、宮部みゆきの小説は、現代小説と時代小説を中心に20冊弱くらい読んでいる。わたし的には、宮部の現代小説、時代小説共に、比較的面白く、−−もちろん時には大変面白く−−、読んでいるのだが、話題の「ブレイブストーリー」には一切手をつけていなかった。

と言うのも、小説家として過度に評価されている宮部みゆきが、ちょっと勘違いしちゃって、ファンタジー小説を書いてしまったのではないか、と言う危惧を持っていたからである。
つまり、「ブレイブストーリー」は畑違いのダメ小説ではないのか、と先入観を持ってしまっていたのだ。

わたし的にはそう言う状況なので、原作がどうこう言える立場ではないし、前提として原作と映像作品は別物である、と言うスタンスを貫いているわたしなのだから、原作との比較は一切ありえないのだが、映画「ブレイブストーリー」には大きく失望させられてしまった、と言わざるを得ない。

本作「ブレイブストーリー」の物語は、わたしが思うに、数々の傑作小説を世に送り続けている宮部みゆきの書いた物語だとは到底思えないものであった。
言うならば、ここに行ったらこうなって、そこでこいつが出てきてこうなって、そのあとどこどこに行ったら、奴が出てきてこうなる、と言った一本調子で場当たり的なプロットの羅列で物語が構成されているのである。

「ブレイブストーリー」の原作を読んでいないのでなんとも無責任な話なのだが、映画の設定から感じられるのは、宮部みゆきは、スティーヴン・キングとピーター・ストラウブ共著の「タリスマン」をやりたかったのだろう、と言うこと。
(前提として、宮部みゆきの作品はスティーヴン・キングの作品の影響を受けている。これは有名な話)

「タリスマン」とは、病気の母親を救うために、ある少年が実世界と異世界とを行き来しながら、異世界の女王に会うための旅を描いた物語で、スティーヴン・スビルバーグが20年以上も前から映画化を熱望している作品。
実際ドリームワークスが「タリスマン」の映像化の権利を持っており、映像化の企画が立ち上がりは消え、消えては立ち上がりを繰り返している。

さて、本作「ブレイブ ストーリー」の物語についてだが、気になったのはその物語の基本設定に問題がある、と言うこと。

1.宝玉を求めて旅をする旅人は、ワタルやミツル以外にもたくさんいた。
2.4つの宝玉は複数あるが、闇の宝玉はひとつだけしか存在しない。(と思われる)
3.闇の宝玉を取ると幻界は崩壊する。

という事は、過去から現在まで、現世から旅人として幻界に人間がやって来る度に、幻界は崩壊の危機にさらされる訳である。

そして、この幻界の存在理由は何かと言うと、現世の人々が望みをかなえるための試練の場として存在している、と言うことである。
仮に、幻界が実在の世界だとした場合、幻界で暮らす人々の生活や命など、物語の設定上、非常に軽いものとして描かれているのだ。

ミツルとワタルが唯一無二の存在、幻界における最初の旅人だったらいざ知らず、比較的多くの旅人が幻界をさまよっていた、と言う設定では、物語のひとつのテーマ「自分の望みのために他を犠牲にすることは正しいことなのか」が全く機能しない。

なにしろ、その世界そのものが、他を犠牲にしなければ望みがかなわない設定で構築されているのだ。
そして、その設定であるが故に、過去から現在にかけて、何度も何度も幻界は崩壊を繰り返し、その世界の住人は死、あるいはそれに準ずる苦境に立たされていた訳だ。

更に、冒頭の「おためしの洞窟」のシークエンスで激怒した。
所謂RPG的発想と言えばそれまでなのだが、「おためしの洞窟」の設定を具現化することにより、幻界での出来事のリアリティは著しく減衰する。

あぁ、幻界での出来事はゲームとおんなじで、失敗したらリセットすれば良いんだな、と。

また、死んだ人は生き返るし、宝玉のために幻界の人々を殺戮しても、迷惑をかけても構わない、と。

また、「おためしの洞窟」のラウ導師の存在も矛盾に満ちている。
旅人を評価し、旅人に対して「勇者」や「魔導士」などの資格を授け、旅人に冒険の装備を与えるのだ。

ラウ導師の仕事は、間接的ではあるが幻界の崩壊を手助けしているのだ。
なんのためにラウ導師と「おためしの洞窟」が存在するのか。
疑問は続く・・・・。

また、物語の展開にもちょっと問題があると思う。
本作「ブレイブ ストーリー」の物語の展開は、異世界に行った主人公が異世界でであった異世界の住人たちと仲良くなるのだが、その異世界には大きな問題が起きている事がわかり、異世界の仲間たちと異世界の問題を解決する、と言う言わば劇場版「ドラえもん」の物語の展開を踏襲している。

と考えた場合、本作の主人公ワタルは、異世界で出会ったキ・キーマたちと仲良くなり、そのキ・キーマたちと彼らが属する異世界自体を助けるために行動する事を決断する必要がある、と思うのだ。

そのワタルとキ・キーマたちとの心の交流が、ワタルが幻界を救う上での行動原理となる必要がある、と思うのだが、その重要なシークエンスはなんと「チーム★アメリカ/ワールドポリス」(2004)もびっくりのモンタージュで誤魔化されてしまっている。

そのモンタージュの潔さは潔さで良かったと思うのだが、本来ならば、ミツルが幻界の人々と全く交流を持たずに宝玉に突き進むのと対極的な描写、−−ありがちだが、焚き火の前でキ・キーマたちが過去の出来事を語る、とか−−が必要だったと思うのだ。

本作の展開では、ワタルとミツルの行動原理の差異がそれほど明確ではない。
もし、これがのび太だったら、その異世界の友達と疲れ果てるまで遊び、その友達の家に招待され、その家で異世界の実態を知る、と言う展開になるのだと思う。

つづく・・・・
一時保存です。

☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

余談ですけど、「ブレイブ ストーリー」のキャラクターを使用したCF(CM)が非常に気になります。
例えば、「花王メリット」(http://www.kao.co.jp/merit/bravestory/index.html#cm)や「ちょっぴり、ハッピー!きっかけは、フジテレビ。」のCF(CM)に「ブレイブ ストーリー」のキャラクターが登場しているけど、彼等がCF(CM)に登場することにより、「ブレイブ ストーリー」本編のリフリティが著しく減衰していることに気付かないのだろうか。

ああいったことを行うことにより「ブレイブ ストーリー」の物語は、全くのくだらない絵空事だったと思えてしまう。
映画の出来はともかく、一映画ファンとして「ブレイブ ストーリー」のキャラクターが不憫でならない。

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/07/08 日本公開予定の「M:i:III」(「MISSION:IMPOSSIBLE III」)は、おそらく日本国内においては、初登場1位を取ると思うし、しばらくの間は興収ベストテンに留まる大ヒット作品になるのだと思う。

しかし、わたし的には「M:i:III」はダメな映画だと言わざるを得ないし、トム・クルーズと言うビッグ・ネームが製作・主演している作品なだけに、現在のところのラジー賞の最有力候補でもある、とも言わざるを得ないだろう。

それでは、早速だがどの辺がダメだったのかを考えてみたいと思う。

なお、今回のエントリーは、「impressions and critiques: annex」の「MI:3」(http://imcr.exblog.jp/2606505/)を参考にしている。
 
 
■コンセプトの改変
「M:i:III」は、ご承知のように、テレビ・シリーズ「スパイ大作戦」(1966-1973)の映画化作品であるブライアン・デ・パルマの「ミッション:インポッシブル」(1996)の続編(実際は三作目)である。

そもそも「スパイ大作戦」とは何だったかと言うと、一見不可能とも思えるような作戦を、武器のプロ、爆破のプロ、変装のプロと言った、様々な技術を持ったプロフェッショナル達が、それぞれの技術を活かし、チーム・プレイで攻略、ターゲットをはめ、結果的に自滅させる、というコンセプトを持った物語だったと思う。

同様のコンセプトの作品としては「特攻野郎Aチーム」(1983〜1987)があるよね。

さて、「スパイ大作戦」の映画化についてだが、第一作目、ブライアン・デ・パルマの「ミッション:インポッシブル」は個人的には好きな作品なのだが、残念なことにこの作品の時点で、「スパイ大作戦」のコンセプトと異なるベクトルを持った作品になってきているような気がする。

先ず、チーム・プレイがスタンド・プレイに変更されている。
と言うのも、この作品のメイン・プロットは、はめられたエージェントが、当局の追跡から逃れ、いかにして身の潔白を示すか、と言うエージェントの逃亡と保身がメインのプロットとなった物語だったからだ。

そして、重要なプロットとして導入されたのは「裏切り」である。

エージェントが裏切り者にはめられて、逃亡し保身を図る作品は、スパイ映画の定番とも言えるし、面白い作品も多々ある。
系統は若干異なるのだが、ケヴィン・コスナー主演の「追いつめられて」(1987)なんかは最高に面白い。

また、当局の追跡から逃亡し、身の潔白を示す作品と言えば「逃亡者」(1963〜1967)なんかが有名だし、ロバート・ラドラムの「暗殺者」を原作にする「ボーン・アイデンティティー」(2002)なんかも想起される。

ところで、ブライアン・デ・パルマの「ミッション:インポッシブル」が、裏切られたエージェントが逃亡し、身の潔白を示す、と言うプロットを採用したのは、荒唐無稽なスパイ映画ではなく、リアルな等身大のスパイ映画を目指した事に因ることだと思うし、自らの潔白を証明する手段(メガネをかける)は、十分に「スパイ大作戦」していたと思うし、はめた、はめられた、と言う十分なカタルシスが感じられることだろう。

しかし本作「M:i:III」は、「スパイ大作戦」の映画化、と言う事よりは、今思えば、幾分トリッキーなプロットを採用して映画化された「ミッション:インポッシブル」の、そのトリッキーな部分のみを拡大踏襲して脚本が練られているような印象を受ける。
脚本家はこの作品が「スパイ大作戦」の映画化作品だ、と言うことを忘れてしまっている、と言うような印象を受けた。

■身内を救出するエージェント
いきなりで恐縮だが、テレビ・シリーズ「サンダーバード」(1964〜1966)の映画化作品で、ジョナサン・フレイクス監督作品「サンダーバード」(2004)と言う作品がある。

テレビ・シリーズ「サンダーバード」のコンセプトは謎の大富豪の私設救助隊である国際救助隊が、世界中の災害から一般市民を救出する、と言う物語である。

しかしながら、映画「サンダーバード」のプロットは、悪漢フッド(ベン・キングズレーが好演、今思えばケヴィン・スペイシーでも良かったかな)によって窮地に陥れられたトレイシー一家をトレイシー一家の末っ子が救出する、と言うものであった。

「一般市民ではなく、家族を救出する国際救助隊」
こんなプロットを持つ作品は、最早「サンダーバード」ではない、と言わざるを得ない。

同様に「M:i:III」のプロットは、独断でよけいなことをしてしまったハントに激怒したデイヴィアンが、ハントの婚約者を誘拐、その婚約者を助けるためにハントは公私混同し、チームで救出を図る、と言うとんでもないプロットなのである。

もちろん「ラビット・フット」の売買とか、デイヴィアンの行状とか、ワールド・ワイドな陰謀的伏線は絡むのだが、実際のところの「M:i:III」と言う作品は、ハントの全く個人的な物語だと言わざるを得ない。

例えば、デンゼル・ワシントンとダコタ・ファニングの「マイ・ボディガード」(2004)みたいなプロットなのだ。と言うか非常に似ている、と言わざるを得ない。

例えばこのプロットでトム・クルーズ主演のオリジナル脚本で、映画を撮っちゃえば良いのに、何故「スパイ大作戦」を利用するのか、という事である。

ラロ・シフリンも泣いているぞ。

■IMF内部にカメラが侵入!?
IMFという組織は、謎の組織だったのではないか、と思うのだが、本作ではなんと、カメラがIMFの組織内に侵入してしまっているのだ。

この描写のおかげで、IMFはどこに国にもあるようなただの情報機関の体裁を取っていることが如実に示されてしまっている。

夢もロマンも霧散状態なのだ。

ついでに、ビジターのカードを付けているとは言え、一般市民が謎の組織IMF内で普通に振舞っているとは、正に言語道断なのだ。

■おまけ
「スパイ大作戦」のオープニング・ナレーション

スパイ大作戦
実行不可能な指令を受け
頭脳と体力の限りを尽くしてこれを遂行する
プロフェッショナル達の秘密機関の活躍である

「スパイ大作戦」の指令のセリフ

おはようフェルプス君・・・・

例によって君もしくは君のメンバーが捕らえられ、あるいは殺されても当局は一切関知しないからそのつもりで。このテープは自動的に消滅する。成功を祈る。
 
 
まあ、結論は、「M:i:III」(「MISSION:IMPOSSIBLE III」)は「スパイ大作戦」の名を借りた、ダメ映画、と言うことだろう。

何故こんな事に対し熱く語っているかと思う方も多々いらっしゃると思うが、一映画ファンとして、かつてのすばらしい作品の根底に流れるスピリッツを無視し、名称や設定だけ、つまり表層部分だけ利用する作品、言わば映画界の共有財産を食い潰す作品には断固とした態度で挑まなければならない、という事である。

何しろ「M:i:III」は「スパイ大作戦」を冒涜しているのだから。
 
 
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/06/22 東京中野「なかのZEROホール」で「M:i:III」(「MISSION:IMPOSSIBLE III」)の試写を観た。

意識を取り戻したイーサン・ハント(トム・クルーズ)の目の前には、拘束された婚約者ジュリア(ミシェル・モナハン)の姿があった。
朦朧としながらもジュリアを力づけるハントに対し、『ラビット・フット』の在処を執拗に尋ねるデイヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)。

『ラビット・フット』の在処を言わなければ、ジュリアを殺すとハントに告げたディヴィアンは、ジュリアのこめかみに拳銃を突きつけ、数を数え始めた。
10カウントまでの間にハントが『ラビット・フット』の在処を言わなければ、ジュリアは殺されてしまうのだ。
1・・・2・・・3・・・・

監督:J・J・エイブラムス
製作:トム・クルーズ、ポーラ・ワグナー
脚本:J・J・エイブラムス、アレックス・カーツマン、ロベルト・オーチー
テーマ音楽:ラロ・シフリン
出演:トム・クルーズ(イーサン・ハント)、フィリップ・シーモア・ホフマン(オーウェン・デイヴィアン)、ヴィング・レイムス(ルーサー)、ビリー・クラダップ(マスグレイブ)、ミシェル・モナハン(ジュリア)、ジョナサン・リス=マイヤーズ(デクラン)、ケリー・ラッセル(リンジー)、マギー・Q(ゼーン)、サイモン・ペッグ(ベンジー)、エディ・マーサン(ブラウンウェイ)、ローレンス・フィッシュバーン(ブラッセル)、バハー・スーメク(デイヴィアンの通訳)、ジェフ・チェイス(デイヴィアンのボディガード)、マイケル・ベリーJr.(ジュリアの誘拐犯)、カーラ・ギャロ(ベス)

個人的な印象だが、本作「M:i:III」は、ハリウッドが誇るスパイ・アクション大作なのだが、非常に残念な事に、早くもラジー賞候補の最有力候補になってしまったようである。

おそらく、ワースト主演男優賞、ワースト・スクリーン・カップル賞のノミネートは堅いと思う。
勿論私見だよ。

『「M:i:III」(「MISSION:IMPOSSIBLE III」)をめぐる冒険』につづく・・・・
http://diarynote.jp/d/29346/20060627.html

☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604

「カーズ」

2006年6月19日 映画
2006/06/19 東京有楽町「よみうりホール」で「カーズ」の試写を観た。
併映は「One Man Band(短編)」。

ピストン・カップの若き天才レーサー、ライトニング・マックィーン。
レーサーとして絶大な人気を誇っているものの、信頼できる友達はひとりもいなかった・・・・。

ある日、彼はルート66号線沿いの小さな田舎町、”ラジエーター・スプリングス”に迷い込んでしまう。そこで待ち受けていたのは、オンボロ・レッカー車のメーターをはじめ、今まで見たことがない不思議なクルマたち。

しかし、住民たちが家族のように仲良く暮らす、この平和な町には、誰も知らない秘密があった。
・・・・なんとそこは、”地図から消えた町”だったのだ。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ジョン・ラセター
脚本:ジョン・ラセター、ドン・レイク
音楽:ランディ・ニューマン
声の出演:オーウェン・ウィルソン(ライトニング・マックィーン)、ポール・ニューマン(ドック・ハドソン)、ボニー・ハント(サリー)、ラリー・ザ・ケイブル・ガイ(メーター)、チーチ・マリン(ラモーン)、トニー・シャルーブ(ルイジ)、グイド・クアローニ(グイド)、ジェニファー・ルイス(フロー)、ポール・ドゥーリイ(サージ)、マイケル・ウォリス(シェリフ)、ジョージ・カーリン(フィルモア)、キャサリン・ヘルモンド(リジー)、ジョン・ラッツェンバーガー(マック)、マイケル・キートン(チック・ヒックス)、リチャード・ピティ(キング)、ジェレミー・ピヴェン(ハーヴ)

はっきり言って最高である。

「カーズ」は、外部からブラッド・バードを監督として迎えたピクサー社の前作「Mr.インクレディブル」なんかで喜んでいる場合じゃないと思えるし、かつてのジョン・ラセターの作品群もかすんでしまうほど、素晴らしい作品に仕上がっていた。

まあ、今観てきてすぐの感想なので、あまりあてにはならないと思うが、個人的にはピクサー社の最高傑作になってしまったのではないか、と思えてしまう。(とは言うものの、実際のところは、「モンスターズ・インク」の時も「ファインディング・ニモ」の時も「これこそピクサー社の最高傑作だ!」と思った。もちろん「Mr.インクレディブル」の時は「ふざけるな!」と思ったが。)
  
先ずはオープニング・アクションで泣ける。
ただクルマが走っているだけで、その動きだけで、その映像体験だけで泣けてしまう。涙腺の弱いダメな大人になってしまったようだが、泣けるんだから仕方がない。

これは「グリーン・デスティニー」(2000)のオープニング・アクションで泣けて以来の出来事かも知れない。

ところでだが、本作「カーズ」は、ピクサー・アニメーション・スタジオの20周年記念作品である。
かの「ルクソーJr.」からもう20年かと思うと、感慨も一入である。
お恥ずかしい話だが、わたしは「トイ・ストーリー」を観るまで、「トイ・ストーリー」のピクサー社と「ルクソーJr.」のPIXAR ANIMATION STUDIOが同一の会社だとは知らなかった。
「トイ・ストーリー」の冒頭、ピクサー社のロゴが出てはじめて「トイ・ストーリー」を作った会社と「ルクソーJr.」を作った会社が一緒だったのだ、と気付いたのである。

20周年記念作品と言う事もあり、本作「カーズ」は、ジョン・ラセターの再登板と言う事も含めて、ピクサー社20周年の集大成的な作品に仕上がっている。
かつてのピクサー社の作品のパロディと言うか、オマージュと言うかリスペクトと言うか、まあセルフなので、セルフ・パロディなんだろうが、そんなシーンが顔を出すし、CGIにしても、様々な物質の質感が大変すばらしい。今回は特に風景(美術/背景)が良かったと思う。

と言うのも、今までのピクサー作品が描いてきた世界観の中で、実在の世界にもっとも似ているのが今回の「カーズ」であり、その世界観を構築する背景や美術には全く違和感がなかった、と言うことである。

前作「Mr.インクレディブル」の世界観は、実在の世界と似ているのは似ているのだが、やはり、作り物である、と言う印象が否定できなかった。

が、しかし、本作の背景/美術の出来はすばらしく。実写と遜色がない上に、CGIを使用した実写作品にありがちな、物体の物理的
な動作の違和感が感じられなかった。(物体の重さや、空間の広がりが物理学的に再現されている、と言うこと)

また音楽についてもランディ・ニューマンの再登場と言うこともあり、ピクサー社のある意味の原点に戻りつつ、それでいて最高の品質のものをわれわれ観客に提供しているような印象を受けた。

この辺については、本作のエピローグ部分に映画ファン驚愕の強烈なカメオの山(とセルフ・パロディ)があるのだが、本当に信じられない程凄い。

これは実のところ、簡単に出来そうなことなのだが、なかなかあんなことは出来ないことなのだ。

例えば、パート1で死んだキャラクターを演じた俳優をパート2の回想シークエンスで起用するようなことは、実はハリウッド映画ではいろいろな障害があり、困難なのだ。

例えば、「スパイダーマン」(2000)と「スパイダーマン2」(2002)で、クリフ・ロバートソンとウィレム・デフォーが同じ役でキャスティングされているが、ハリウッド映画では、こんなことは稀なのだ。

話は戻るが、そのエピローグ部分を楽しむには、出来れば字幕版で観る事をオススメする。日本語吹替版では、オリジナル・キャストの再現は難しいのではないか、と思えるからである。

そのエピローグは、わずか数秒のカットの羅列なのだが、その超えの出演のギャランティを考えるとゾッとする。
(おそらく全ての俳優についてはノン・クレジットのノー・ギャラなのだと思うが、「カーズ」はそんなことが出来てしまう、ただでも良いから「カーズ」に参加したいと思わせる作品なのだ、という事である。)
 
 
物語は、自信過剰で他人のことはお構いなしの主人公ライトニング・マックィーンが、ラジエーター・スプリングスのクルマたちと触れ合うことにより、なんらかの成長を果たす、と言うベタと言えばベタなものなのだが、逆に言うとそれが普遍的で神話的、全ての民族に受け入れられる物語となっているのである。

またもう一つのコンセプトとして、人生をバイパスする、と言うものもある。
で、凄いのは、マックィーンが最後にする選択が凄い。
平凡な監督だったら、マックィーンはああ言う選択をしなかったのではないか、と思える。

余談だが、「ラスト・サムライ」(2003)を受けて日本国内では、「侍と言う莫迦げた生き方を捨てる物語」が何本か製作された。例えば、山田洋次の「隠し剣 鬼の爪」(2004)とか、行定勲の「北の零年」(2004)が有名どころだと思う。
日本の2大巨匠が「ラスト・サムライ」に怒ったのか、「ラスト・サムライ」に騙された日本人に怒ったのか、日本映画界の興味深い反応であった。

その辺りを考えると「カーズ」におけるマックィーンの最後の選択も凄いと思う。
 
 
キャストはなんと言ってもポール・ニューマンの起用が非常に嬉しい。ニューマンの映画的記憶を上手に利用した素晴らしいキャスティングである。例えるならば、作品の質はともかく「ドリヴン」(2001)で車椅子に乗っていたバート・レイノルズみたいなキャスティングだった、またはリメイク版「ロンゲスト・ヤード」(2005)にオリジナル版「ロンゲスト・ヤード」(1974)の主演のバート・レイノルズが出ているような感じ、と言うことである。

出来れば「カーズ」にもレーサー繋がりで、バート・レイノルズに出て欲しかったと思うね。「ストローカーエース」(1983)なんて、ある意味「カーズ」のモトネタみたいな作品だと思うし、両作の題材自体も同じストックカー・レーシングだし。

書きたいことはたくさんあるんだけど、既に4000文字近くなっているので、この辺で・・・・

とにかく、「カーズ」は大変すばらしい作品だ、という事は間違いないので、すぐ劇場に行っていただきたいと思う。

☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
 
 
・マックィーンのナンバー95は「トイ・ストーリー」公開の年。(元々はラセターの生年57の予定だった。)
・Goodyearならぬ、Light-yearはもちろん、バズの名前。
・ライトニング・マックィーンとポール・ニューマンということで「タワーリング・インフェルノ」以来のマックィーン+ニューマンの共演かと思われていたが、マックィーンは、2002年に亡くなったピクサー社のアニメーター、グレン・マックィーンの名から取られている。
・日本車唯一の登場と言われているクルマは、Mazda MX-5 Miataのファースト・モデル。双子のキャラクターの名前は、"Mia"と"Tia"。結構出番は多いです。

余談だけど、「カーズ」は、(日本のアニメーション作品を除けば)アニメーション映画のランニング・タイムとしては非常に長めの2時間1分。(北米版は116分)
「カーズ」は実際のところ子ども向け、と言うよりは大人向けなのだと思う。
事実、試写会に来ていた子ども等は、しびれを切らしていた。
まあ、字幕版はムリでしょう。字幕版の試写に子どもを連れてきた親の問題でしょうな。

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/06/17 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「嫌われ松子の一生」を観た。

女の子なら誰だって、お姫様みたいな人生に憧れる。
昭和22年・福岡県大野島生まれの川尻松子も、そのひとり。
でも、現実は・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:中島哲也
原作:山田宗樹 「嫌われ松子の一生」(幻冬舎文庫刊)
美術:桑島十和子
音楽:ガブリエル・ロベルト、渋谷毅
出演:中谷美紀(川尻松子)、瑛太(川尻笙)、伊勢谷友介(龍洋一)、香川照之(川尻紀夫)、市川実日子(川尻久美)、黒沢あすか(沢村めぐみ)、柄本明(川尻恒浩)、柴咲コウ(明日香)、ゴリ(大倉修二/ガレッジセール)、マギー(刑事)、竹山隆範(教頭/カンニング)、谷原章介(佐伯俊二)、キムラ緑子(松子の母・川尻多恵)、角野卓造(校長)、宮藤官九郎(八女川徹也)、谷中敦(「白夜」マネージャー・赤木)、劇団ひとり(岡野健夫)、BONNIE PINK(綾乃)、濱田マリ(紀夫の妻)、武田真治(小野寺)、荒川良々(島津賢治)、あき竹城(係官)、嶋田久作(牧師)、奥ノ矢佳奈(子供時代の松子)

正直、非常に面白かった。

当然、中島哲也の前作「下妻物語」(2004)と比較するむきもあると思うし、2004年のSMAPの特番ドラマ「X’smap 〜虎とライオンと五人の男〜」(2004)と比較するむきもあるだろう。(わたしは「X’smap 〜虎とライオンと五人の男〜」を2004年12月にHDDに録画したまま見ていないのだが・・・・)

私見だが、本作「嫌われ松子の一生」を観た現在、「下妻物語」はただのお子様向けのチープなドラマに過ぎなかった、と言わざるを得ない。
これは、別に本作が描いているドラマが、人間のドロドロした部分を描いているから、つまり大人向けのドラマを描いているから、と言うわけではなく、描写が洗練され、ドラマを描くテクニックが「下妻物語」の数段上を行っているような印象を受けたからである。

と言うのも、「下妻物語」で強烈な印象を与えていた、『過去の出来事(桃子の生い立ち)を振り返る部分』の非常にスピーティーで情報過多な演出と描写が、本作「嫌われ松子の一生」ではほぼ全編に顔を出し、そのスピード感と情報過多感と、現代の(笙の)パートの対比が非常に素晴らしい効果を出している。

その効果は、『松子の生涯パート』は完全なるファンタジーとして描かれ、『笙のパート』は現実感溢れるテイストで描かれている。
異世界と現実世界の融和と対比が楽しめるのである。

また非常に印象に残る『松子の生涯』部分のミュージカル部分だが、これは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」(2000)と比較する事はたやすいと思うし誰もが思うことだろう。が、それと同時に「ブルース・ブラザース2000」(1998)のとあるシークエンスとの関連性にも思い当たる。特に"Happy Wednesday"のシークエンスは、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」の工場のシークエンスと「ブルース・ブラザース2000」のテレクラのさくら(?)のシークエンスの影響もしくはシンクロニシティを感じる。

そしてその演出だが、歌詞と字幕の表現が革新的で、歌詞が英語だと言うのに、字幕も英語で出しちゃうところが凄いと思った。

で、その字幕だが、後で焼いているのではなく、製作時点で字幕がインポーズされているため、従来の字幕のタイミングやフォントの呪縛から完全に解放された、新たな表現手法として字幕が使用されているのが、正に革新的である。

これは冒頭の場所と時制の表現でも同様の印象を受ける。

さて、本題の松子の生涯だが、表層的には当然ながら不幸である、と言う事になるのだろうが、彼女の精神世界では、彼女の感じている世界では、彼女の想像の世界では、彼女の夢の世界では、彼女は充分に精一杯幸せな生涯を送っていると思える。

例えば「ダンサー・イン・ザ・ダーク」のセルマが現実世界と同様に精神世界でも生きていたように、「未来世界ブラジル」(1985)のサム・ラウリーがラストで素晴らしく幸せな表情をしていたのと同じように、松子もある意味幸せな生涯を送ったのだと思う。

そして彼女の死因だが、表層的には勿論非常に悲惨な出来事だと言わざるを得ないと思うのだが、あの死因だからこそのカタルシスもあると言えばある。と本気で思う。
物語としては非常に美しい死に様だと思う。

ここで印象に上ってくるのは、例えばテレビ・シリーズ「探偵物語」の工藤俊作のラストのシークエンスであったり、また松田優作繋がりで「太陽にほえろ」のジーパンの殉職のシークエンスであったりする。

われわれ観客に取って重要な人物になってしまった存在が、事故としか思えない通り魔的な最後を迎えることは、儚くも美しい。
わたしは、松子のあの死因には、肯定的なスタンスを取っている。

また、キャストは全てが全て良かった。

特に印象に残ったのは、劇団ひとりと、日本映画界の至宝荒川良々が良かった。荒川良々は本当に凄いと思う。
表情で、セリフ一つで充分に泣かせてくれる。

劇団ひとりは、俳優としての将来が非常に楽しみである。

最近発泡酒のCF(CM)で「演技じゃないよ」とか言ってるおバカな脚本家がいるが、本作では破滅的な作家を好演していた。
こっちはきちんと演技していて面白いと思った。

また瑛太は冷めた感じが良かった。
観客の松子に対する感情移入の度合いをいさめる役割を与えられているような印象を受けた。
が、ラストでは、父親に対する軽い怒りを演じ、松子に対する感情移入と思える演技を瑛太は好演していた。

伊勢谷友介は例によってセリフを噛み潰す感じだったのだが、そのセリフ回しは今回のキャラクターにマッチしていたと思う。
「CASSHERN」(2004)や「雪に願うこと」(2005)より似合っていたのではないか、と思えた。

主演の中谷美紀は、本当に頑張りました。
と言うことだと思います。

とにかく、本作「嫌われ松子の一生」はちょっと長いけど、大変素晴らしい、面白い、悲しい、楽しい作品だと言えます。
是非劇場で観て欲しいと思うのだ。

☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

余談だが、松子が新幹線で東京に来る際、その直前のカット、松子が駅の構内を歩くカットの背景に映る時計にJRのロゴが入っていた。(ように見えた)
当時(新幹線開通10周年の頃)はJRではなく、国鉄(JNR)である。
時代考証が上手く機能していないのか、なんらかの意図があるのか不明だが、そのカットでわたしはちょっとだけ醒めてしまった。

あと、一人称と、三人称の語り口の不統一感が、地に足が付いていない様な、微妙な不安定感が出ていて、ちよっとおかしいですね。
この作品。

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/05/31 東京板橋「ワーナーマイカル・シネマズ板橋」で、「Vフォー・ヴェンデッタ」を観た。

いきなり余談で恐縮だけど・・・・。
日本のニュース番組で、アンカーとかコメンテイターとかが、「自爆テロ」とか「援交」とかをする人たちのニュースの後、「(彼らの行動を)全く理解できません」とか捨て台詞を吐きながらCF(CM)に入る場面を見る事がしばしばあります。

特にとある民放のタカ派っぽい女性のアナウンサーが結構使っているような気がします。

そんな時、わたしのはらわたは煮えくり返っています。

例えば「自爆テロ」を例に取ると、「自爆テロ」を行う人たちには、自分や自分の周りに居る人々の命よりも、その人にとって大切な理想や、実現したい世界があるのだろう、と言うのは誰でも想像できるし、誰でも理解できる事だと思います。

また、「援交」をする人たちは、自分の体をお金に代えてまで、手に入れたいモノがあるという事は誰でも想像できるし、誰でも理解できる事だと思います。

「自爆テロ」と「援交」を同列に語るのはどうかと思いますが、わかりやすい例だと思いますので、ご容赦願いたいと思います。

で、考えるのは、私たちが「自爆テロ」や「援交」をする人たちに対して、出来ないのは「共感」なのです。決して「理解」できないのではないのです。「理解」なんて、想像力があれば簡単に出来るのですから。

つまり、「自爆テロ」とか「援交」とかをする人のことを「理解」できないとか言う人は、想像力が欠如しているといわざるを得ない訳です。

ここで言いたいのは、そんなメディアの人の想像力が圧倒的に欠如しているのか、もしかしたら「自爆テロ」や「援交」を「理解できない」とメディアの人が言う事により、一般大衆に対し、「自爆テロ」や「援交」は「理解できないもの」なんだよ、と言う事を刷り込んでいる、つまり大衆をメディアがコントロールしているような印象を受けてしまうのだ。

※ 念の為ですが、わたしは「テロ」や「援交」を肯定しているのではありません。

あともう一つ余談ですが、ある女性の政治家が、とある政党の悪い部分を内部告発して辞任したとき、得意げに紅潮した顔で自分の行為を「自爆テロ」と表現したことがありますが、その時もわたしは激怒してました。

日本では、多くの人々が「自爆テロ」と言う言葉を単なる普通名詞として使っているような気がします。本来の意味を理解した上で、自らの行動をそんなに簡単に「自爆テロ」になぞらえて語ることは出来ないと思います。

実際に「自爆テロ」で何十人も何百人も死んでいるのに、自分の行動に対し、笑いながら「自爆テロ」です。と言い放つ神経を持つ人が「理解」出来ない。と言うか「共感」できない。
 
 
そんな背景の下、わたしは「Vフォー・ヴェンデッタ」を観た訳です。

「Vフォー・ヴェンデッタ」は理想を実現するために、革命を起こそうとするVとVと交流を持ってしまった一人の女性との物語で、その革命を正当化するための描写が丹念に続きます。

Vの行動は、革命が目標だとは言え、暴力を手段に選んだもので、テロそのものだと思います。
しかし、観客はVやその世界の住民が圧制に苦しんでいる姿を観る事により、Vの革命に共感し、同調していくことになります。

これは非常に興味深く、そして非常に恐ろしい事だと思います。
つまり、一般大衆をメディアがコントロールすることは、あまりにもたやすい、ということなのだと思います。

圧制=絶対悪:V=ヒーロー
と言う構図が描かれているから娯楽作品として成立していますが、圧制部分を一切描かなければ、凄い作品に仕上がったのではないか、と思えます。

そう言いながらも、わたしは「Vフォー・ヴェンデッタ」が大好きです。
昔から体制に歯向かう小さな力が、いつしか大きな力となり体制に対峙する、と言う物語が大好きだからです。
また、どちらかと言うと、巨大な力を持った体制に反抗するような思想を持ってしまいがちな性格をしていることも、その理由になっているかも知れません。

とにかく、「Vフォー・ヴェンデッタ」はヒーローモノの仮面を被った革命/テロを描いた作品だという事が言えると思います。
非常に興味深い作品だと思います。
機会があれば是非観ていただきたいと思います。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

余談だけど、冒頭のセリフ、
"Remember, remember, the fifth of November...."
のリズムにノックアウトでございます。

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
先日、受信料の公平負担を訴えるNHKの職員が我が家にやってきた。

わたしの自宅はオートロック付きのマンションなので、ドアホン越しに10分程お話をさせていただいた。

当時、わたしは忙しかったので、−−「アメリカン・アイドル」の再放送を5.1chのアンプを通し大音響で見ていた−−、きちんとした対応をとらなかったのが本気で悔やまれる。

そんなわたしの取った対応は、
「最後の不祥事から最低2年間は、NHKの受信料を払うつもりはない」
と言う事。(2年間に拘るのは、民事の時効の関係)
 
 
で、NHKの職員が帰った後、悔やんだのは次の点である。

しまった、きちんと話を聞いて、その話について質問し、その状況をビデオに撮影し、民放に売れば良かった。と言う事。

公開する可能性があるビデオ素材の撮影の許可をきちんと取って、NHkの職員とのやりとりをきちんとビデオ撮影したかったな、と強烈に悔やんだ。

もちろんNHKの職員のプライバシーは保護するし、顔と名札にはモザイク、音声にもエフェクトをかけても良い。
なんなら肩から下の映像だけでも良いのだ。
 
 
そんなわたしが一番したかった質問は、最近の「カラ出張問題」の報道で「出張旅費を精算するのを忘れていた社員がいた」とNHKのニュースでNHKのオフィシャルなステートメントとして発表したことだったのに・・・・。

再度NHKの職員が我が家に来ることを切に願うのだ。

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2005年に「トランザム7000」のDVD-BOXが出ていたのだが、日本語吹替が入っているのだが、画面はどうやらスタンダード収録らしいので、2006/05/30にリリースされた「トランザム7000/スペシャル・エディション」(リージョン1)を購入した。(画面比率は1:1.85、$14.99)

ついでに、「タワーリング・インフェルノ/スペシャル・エディション」も購入した。(なんと$10.97)

「トランザム7000」は、なんとdts音声が収録され、メイキングも入っていた。
メイキングはカーアクションのNGとかが見られるのではないか、と密かに期待していたのだが、インタビュー映像以外は本編からの映像だけだったのが非常に残念。

「タワーリング・インフェルノ」は特典が盛りだくさん。
公開時のパンフレットの縮小版や、ロビーカードの縮小版なんかが封入されている。

因みにピクサーの「カーズ」の主人公の名はマックィーンで、ポール・ニューマンが大きな役で声を当ててますけど。
「カーズ」は「タワーリング・インフェルノ」以来のマックィーンとニューマンの共演ですな。

で、いろいろAmazonを物色してて発見したのは、こないだまでの「アメリカン・アイドル」で優勝したテイラー・ヒックスのシングルCD。2006/06/13発売の"Do I Make You Proud" / "Takin’ It To The Streets"なんですけど。ジャケットも格好いい。
目に凄い力がありますよね。

↓参考URL
http://www.amazon.com/gp/product/B000FMR4T8/sr=8-1/qid=1149863227/ref=sr_1_1/002-7680272-4474406?%5Fencoding=UTF8

この人、素人だったんですから、驚きですよね。
まあ「アメリカン・アイドル」を見ていると、日本の文化水準の低さに愕然としますよね。

余談だけど、「ポセイドン」がコケたおかげで「タワーリング・インフェルノ」のリメイクがしばらくはなくなった思う。
往年の映画ファンとしては、マックィーンとニューマンが共演した「タワーリング・インフェルノ」なのだが、ニューマンとマックィーン以上の俳優がいない現在、同作のリメイクは絶対的に避けて欲しいと心から思う。

「ゲッタウェイ」のリメイクも酷かったしね。

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/06/05 東京神保町「一ツ橋ホール」で「インサイド・マン」の試写を観た。

私はダルトン・ラッセル。
二度と繰り返さないからよく聞け。
私は銀行を襲う完全犯罪を計画し、そして、実行する・・・・

マンハッタン信託銀行の前に停車したバンからジャンプスーツを着た男たちが降りてくる。やがて彼らは銀行の中へと進み、銀行内にいた従業員と客を人質に取った。
「全員床に伏せろ!これから我々は、この銀行から多額の金を引き出す。」

犯人グループはリーダーのダルトン・ラッセル(クライブ・オーウェン)以外に3人。互いに“スティーブン”、“スティーブO(オー)”、“スティービー”と呼び合い、駆けつけた警官には「ヒトジチトッタ。チカヅイタラ、ヒトジチコロス」と外国なまりで伝えるのだった。

急報を受けたのは、NY市警のフレイジャー(デンゼル・ワシントン)とミッチェル(キウェテル・イジョフォー)。
フレイジャーは以前関った麻薬事件で14万ドルの小切手が紛失するという事態に巻き込まれ、内務調査課から疑いをかけられていた。

強盗人質事件発生の連絡を受けたのは警察だけではなかった。マンハッタン信託銀行の取締役会長アーサー・ケイス(クリストファー・プラマー)は狼狽し、言葉を失っていた。そして彼は警察に事態を確認するよりも先に、ニューヨークでも指折りの有能な弁護士マデリーン・ホワイト(ジョディ・フォスター)を自ら呼び出すのだった。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:スパイク・リー
脚本:ラッセル・ジェウィルス
出演:デンゼル・ワシントン(キース・フレイジャー)、クライヴ・オーウェン(ダルトン・ラッセル)、ジョディ・フォスター(マデリーン・ホワイト)、クリストファー・プラマー(アーサー・ケイス)、ウィレム・デフォー(ジョン・ダリウス)、キウェテル・イジョフォー(ビル・ミッチェル)

本作「インサイド・マン」は非常によく出来たクライム・サスペンスである。

先ずは脚本が面白い。
こんな面白い脚本が、脚本家ラッセル・ジェウィルスのデビュー作だと言うのだから驚きである。

三者三様(ダルトン、フレイジャー、ケイス)のシンプルで力強い設定とプロットが、要所要所で交差し絡まることにより、作品として複雑な網目模様を構築、鑑賞後爽やかな感動とカタルシスが感じられる、すばらしい作品に仕上がっている。
ベクトルは異なるが「L.A.コンフィデンシャル」(1997)の鑑賞後感と似ているような印象を受けた。

物語で語られていることが全てではないぞ。諸君!

キャストは先ずはクリストファー・プラマーが良かった。
最近引っ張りだこのプラマーだが、非常に印象に残るキャラクターを見事に演じていた。このような老獪なキャラクターにはピッタリの風貌になったものだと感心する。
「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ大佐とは全く思えないですわ。

デンゼル・ワシントンはウィットに富んだ交渉人役で、ケヴィン・スペイシー(「交渉人」(1998))とは別の、また新たな交渉人像を見事に創出している。
このあたりも、ケヴィン・スペイシー繋がりで「L.A.コンフィデンシャル」(1997)的な印象を強めているのかもしれない。

デンゼル・ワシントン演じるキース・フレイジャーは、警察特有の泥臭いキャラクターではなく、小粋でやり手でおしゃれな交渉人像が楽しい反面、その描き方からも、実際のフレイジャー像が垣間見られる構造となっている。
スパイク・リーの描きたいフレイジャー像がファッションからも見て取れる、良いキャラクターだったと思う。

で、考えるとキース・フレイジャーのキャラクターは、やはり「L.A.コンフィデンシャル」でケヴィン・スペイシーが演じたキャラクターからの影響と思われる点が多々ある。

クライヴ・オーウェンにとっては非常に美味しい役所だったと思う。ハード・ボイルドでしかもウィットに富んだ役柄を楽しげに演じていたような印象を受ける。プロット上、唯一リスクを負った行動を取る訳だし、ラスト近辺のフレイジャーに対する行動は最高に格好良い。このあたりはジャック・ヒギンズの冒険小説のように格好良い。

物語のメイン・プロットは、銀行強盗の完全犯罪を目論む人々の物語なのだが、終わってしまった銀行強盗事件の取調べのシークエンスと、実際の強盗のシークエンスを並列的に描写する手法が効果的だったと思う。
最近ではトニー・スコットの「ドミノ」と同じ構成なのだが、取調べを受けている人々が、人質なのか犯人なのかわからないところが、非常に興味深かった。

とにかく本作「インサイド・マン」は、非常に脚本が良く出来たすばらしい作品である。この脚本は真実を観客には感じさせないよう、よく配慮されており、多分、映画をあまり観ない人と、映画をたくさん観る人では、解釈がまるっきり異なる作品になってしまうのではないか、と思えた。

繰り返しになるが、物語で語られていることが全てではないぞ。諸君!

余談だけど、「狼たちの午後」(1975)を参照すべきだと思う。

更に余談だけど、ハリウッド映画である以上、犯罪が成功する作品を製作・公開するためには、脚本上なんらかの理由が必要な訳なのだが、そのあたりを非常に上手くプロットに盛り込んでいるところに好感と賞賛を感じる。

スパイク・リーは、自分のやりたいプロットの作品を制作・公開するために、ハリウッド・システムを上手く利用している、と言う印象なのだ。製作サイドには、こうですよ、こんなプロットですよ、と言いながら、実際のプロットは実はこうなっていて、それを製作サイドに明かさずに資金を出させているような印象を受けた。
つまり、スパイク・リーは、ハリウッドを手玉にとって、本作「インサイド・マン」のための資金を調達したような気がするのだ。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2006/06/01 東京板橋「ワーナーマイカル・シネマズ板橋」で「ダ・ヴィンチ・コード」を観た。

閉館後のルーヴル美術館。
ダ・ヴィンチの有名な素描「ウィトルウィクス的人体図」を模して横たわる、館長の死体が発見された。死体の周りに残された、不可解な暗号。その暗号の中には、その夜、彼が会う約束をしていたハーヴァード大学教授ラングドンの名前が含まれていた。殺人の参考人として現場に連れて来られたラングドンだったが、捜査を指揮するベズ警部は、ラングドンが殺人犯であることを確信していた。

館長の孫娘で暗号解読官のソフィーの機転によりルーヴル美術館を脱出したラングドンは、ソフィーと共に、暗号の謎を解き始めるが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ロン・ハワード
原作:ダン・ブラウン 「ダ・ヴィンチ・コード」(角川書店)
脚本:アキヴァ・ゴールズマン
出演:トム・ハンクス(ロバート・ラングドン)、オドレイ・トトゥ(ソフィー・ヌヴー)、イアン・マッケラン(リー・ティービング)、アルフレッド・モリナ(アリンガローサ司教)、ジャン・レノ(ベズ・ファーシュ警部)、ポール・ベタニー(シラス)、ユルゲン・プロフノウ(ヴェルネ)、エチエンヌ・シコ(コレ警部補)、ジャン=ピエール・マリエール(ジャック・ソニエール)

わたしが観た回は、フィルム上映ではなく、世界初のネットワーク配信デジタルシネマ共同トライアル「4K Pure Cinema」による上映だった。
と言うか、「4K Pure Cinema」の回をわざわざ選んで「ダ・ヴィンチ・コード」を観た訳である。
画質は驚くべき程クリア。フィルムに対して遜色は全くと言って良い程ありませんでした。
また、字幕が非常に綺麗で、白い字幕に黒い影が入っており、非常に見やすかったです。

さて、本作「ダ・ヴィンチ・コード」の物語は所謂ジェットコースター・ムービーと言われる種類のもので、肝心の謎解き部分や人物描写を大幅に割愛し、二人の主人公が様々な危機に翻弄される様に主眼を置いて描いている。
作品としてのアプローチは、おそらく正しいのだろうと思うが、わたし達観客の多くが「ダ・ヴィンチ・コード」に求めていたものとは、幾分異なった作品に仕上がっていると言わざるを得ない。

興味深いのは、その反面、雨後の筍のように、謎解きに特化した雑誌やテレビ番組が続々登場し、映画「ダ・ヴィンチ・コード」から欠落している謎解き部分を検証し補完する構成になっているとも思えるし、本作は、小説「ダ・ヴィンチ・コード」の壮大な予告編だとも言える作品の出来に非常に残念な思いがした。

謎解き部分を除くと脚本は面白いし、描写も演出も的確、ミスデレクションの方向性も好感が持てる。
美術もすばらしいし、きちんとした世界観の構築に一役買っている。

ただ、謎を作るために不自然で理不尽なプロットが採用されている点が非常に気になった。特に物語のキーとなる、冒頭の殺人事件のシークエンスが強烈である。
わたしは原作を読んでいなかったので、予告編を見る限りは、冒頭の殺人事件の被害者は、第三者によって衣類を脱がされ、床に寝かされた、と思っていたのだが、事実は違ったようである。

キャストは、先ずはイアン・マッケラン(リー・ティービング役)の大活躍に驚いた。ついでに、「今度のドラゴンは簡単に退治できたな」とか言うセリフには驚かされる。

また、アルフレッド・モリナ(アリンガローサ司教役)が印象的だった。しかし恰幅の良いモリナを司教にキャスティングすることにより、飽食の香が付き纏い、アリンガローサ司教が悪人に見えてしまうし、ラストのシラスとの対峙のシークエンスでも、アリンガローサ司教は自分のためにシラスを利用していた、と言う印象を受けてしまう。

ポール・ベタニー(シラス役)は新境地の発見的には良い役柄だったのではないか、と思える。

トム・ハンクス(ロバート・ラングドン役)には特に言うべきことはない。ただの人寄せパンダ的な役割を演じているのだろうと思う。
オドレイ・トトゥ(ソフィー・ヌヴー役)もジャン・レノ(ベズ・ファーシュ警部役)も、ヨーロッパの観客を集めるためにキャスティングされているような気がした。

大資本とメディアの力があれば、映画をあまり観ない人々をだますのは簡単なんだな、と思える作品だ、と言うのは言いすぎだろうか。

世の中には、もっと面白い映画はたくさんあるし、この時期に公開されている作品の中でも、「ダ・ヴィンチ・コード」なんかより、見るべき作品はたくさんあると思う。そんな気がした。

☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

余談だけど、普段は一切字幕が出ない部分、
"The characters and incidents portrayed and the names herein are fictions, and any similarity to the name, character on history of any person is entirely coincidental and unintentional."

に思いっきり字幕が付いていて、驚き、かつ笑わせていただいた。(「この作品はフィクションです。登場する団体・人物は架空のもので、 現実に存在するいかなる人物・団体とも関係ありません。」)

こんな字幕を付けなければならないとは、嘆かわしい事である。

映画鑑賞後、10代の若者が「映画の最後の字幕でショックを受けたよ。オレてっきり本当の話だと思っていた」とか言っていた。
日本は平和だと思った。

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
先日、「ニンテンドーDS Lite」を買ったお話をした。

『「ニンテンドーDS Lite エナメルネイビー」をめぐる冒険』http://diarynote.jp/d/29346/20060503.html

その半年前には、「ニンテンドーDS」のCF(CM)に関するお話もした。(手前味噌だが、これは結構良い話しだと自負している。)

『「Nintendo DS/登場編・実感編」任天堂株式会社』
http://diarynote.jp/d/29346/20041003.html

で、今日はゲームのお話。
と言っても、実際のところこれはゲームなのかどうかわからない。
そのゲームなのかどうかわからないソフトのタイトルは、「英語が苦手な大人のDSトレーニング えいご漬け」。

早速だが、「ニンテンドーDS Lite エナメルネイビー」を購入した際、やはりソフトも同時に買わないとお話にならない訳で、その場で2本のソフトを購入した。
1本は「もっと脳 を鍛える大人のDSトレーニング」で、もう1本は件の「英語が苦手な大人のDSトレーニング えいご漬け」であった。

なぜこれらのソフトを買ったかと言うと、友人達のクチコミのおかげである。
何しろ、その日(DSを買った日)、その場でソフトを買わないといけなかった(特にいけない訳ではないのだが、ハードだけあっても仕方がないのでね)ので、全然知らないソフトを購入する勇気がわたしにはなかった、と言う事と、件の2本のソフトについてはクチコミ情報があった、と言うことである。

私は「英検3級」である。
もちろん、だからどうだ、と言える程ではないが、英語関係の公的な資格はそれしか持っていない。
でも、英語圏の映画はとってもたくさん観ているので、わたし的にはヒアリング(リスニング)には少々自信があることはあったのだ。

で、それ以来わたしは、毎日まいにち(でもないけど)コツコツと「えいご漬け」にいそしんでいる。

最初はシステムを理解していなかったため(アポストロフまできちんと書いたり、筆記体で書いたりしていた)、「英語力判定」は「E」だったのだが、はじめて一週間ほどでわたしの英語力は「AA」になり、それ以降は常に「AA」をキープしている。
と言うか、実際のところ「AA」以上にあがれないのだ。

因みに「英語力判定」は「ドクロ」「F」「E」「D」「C」「B」「A」「AA」「AAA」「S」の十段階である。

まあ、何を言いたいかと言うと、ボクはディクテーションが結構得意だよ、と言う自慢話である。

でも「英語力判定」は「AA」でも「トレーニング」は全然進んでいないので、「マイドリル」は、「マラソン」と「クロスワド・パズル」しか出てこないし、毎日やっている「トレーニング」のレベルと「英語力判定」のレベルの差が著しいのだ。 

まあ、そんな感じの自慢話である。

■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。

参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 >

 
tkr

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索