2004/10/17 東京新宿「新宿ミラノ座」
 「東京国際ファンタスティック映画祭2004」で上映された「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」を観た。
 今回の上映は、総監督:富野由悠季、声の出演:池田秀一(クワトロ・バジーナ/シャア・アズナブル)、飛田展男(カミーユ・ビダン)、古谷徹(アムロ・レイ)を迎えたワールド・プレミアだった。

 本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は今から20年前、1985年3月から翌年2月の間にテレビ放映された「機動戦士Zガンダム」の劇場版であり、2005年5月以降、順次公開される「機動戦士Zガンダム」全三部作の第一作目、第一部にあたる。

 まず、特筆すべき点は、本作のタイトル・ロゴの「A New Translation」が示すとおり、本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は、旧「機動戦士Zガンダム」の新解釈版である、と言う事であろう。(新訳)

 この辺りは、上映前の富野由悠季の挨拶『お互いに年をとりましたね。制作当初に比べ自分がイヤになっているほど中身が悪くないと気づきました。みんなが思っている「Zガンダム」とはちょっと違うかもしれないが,新しい解釈を取り入れた「Zガンダム」をぜひ読みとって欲しい。』=『本作は、以前の「Zガンダム」の物語と全く違うが、内容は全く同じである。こんな物語の表現方法もある』的は発言は全くその通りで、本作は従来の「Zガンダム」の物語を踏襲しながらも、異なる印象を観客に与える事に成功しそうな作品に思えた。(第一部のみで考えるとその手法は見事に成功している)

 つまり本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は、根底に流れる物語(事実/fact)は同じでも視点を変えると違った物語(真実/truth)が見えてくると言った、黒澤明の「羅生門」をはじめとする、所謂「藪の中」的な構造を持った作品のひとつだと言えるのではないだろうか。

 そして第一部である本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の物語は、わたしの目には、旧テレビ・シリーズの主人公だったカミーユが脇役となり、その脇に退いたカミーユの視点でシャアとアムロの物語を見ている、というような構成の物語に見えた訳である。

 特にラストのシークエンスはその傾向が非常に強く、カミーユの少年の心と視点が、われわれ観客の少年の心と共に、凄まじいほどの憧憬の、そして羨望の念に駆られる幸せな瞬間であった。

 さて気になる作画のクオリティだが、いかんせん20年前の作画と最新の作画が共存する本作は、やはり若干の違和感の存在を否めない。特にカミーユの表情のギャップが大きな違和感を醸し出しているような印象を受けた。
 個人的には、出来る事ならば、本編全てを新作のカットで構成して欲しかったと思う。逆に言うと、新作カットにはそれほど力が入っているような印象を受けた、という訳だ。

 しかし、この時代、20年前の作品の作画を残したまま、新作劇場作品を制作する、ということは凄いことだな、と思う。
 この時代に、旧作のカットを流用した新作アニメーション作品が存在することに驚きの念を禁じえない。

 まあ、2005年5月公開の作品について現時点であれこれ言っても仕方がないので、細かい話は割愛するが、少なくても大興奮の素晴らしい作品に仕上がっているのは事実なのだが、果たして旧「Zガンダム」を知らない人が見ておもしろいかどうかは残念ながら疑問である。
 旧「Zガンダム」は、30分のプログラムが50本あった訳であるから、正味23分かける50本で、トータル19時間あまりの作品を6時間に仕上げる訳であるから、物語の展開は早く、いわゆるダイジェスト版的な印象は否めないのではないだろうか。

 尤も、前述のとおり「A New Translation」的な手法は充分機能していると思うのだが、それが全ての観客に理解されるかどうかは難しいのかな、と思うわけだ。

 余談だが「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」のレビューが多くのサイトや、ブログで公開されている。
 比較的多くのサイトやブログが、旧「機動戦士Zガンダム」と本作との相違点をあげつらう事に終始している。
 作品の枝葉ではなく、大元の物語を見ることを考えていただきたいと思うのだ。
 重要なのは、捨てられた野菜の葉や、魚の骨ではなく、器に盛られた料理を味わうことだと思うのだ。

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「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」チケットにまつわるお話

 「東京国際ファンタスティック映画祭2004」チケット販売日当日、わたしは池袋東武のチケットぴあに9:00頃から並んでいた。
 10:00の開店と同時にチケットの販売が始まり、わたしの計画では、おそらく一番人気の「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」を早めに抑えるつもりだったのだが、どうしても見たかった『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』と『ナイトメアー・ビフォア・ファンタ アトラクション劇場1』を先に押さえてしまった。
 その微妙なタイムラグのため、「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は完売、仕方がなく次点の「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」を押さえた。

 さて当日券だが、「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の当日券は10:00から150枚だけ販売するという情報を得たわたしは、8:20頃に会場に到着するが、既に整理券の配布は済み、150枚のチケットの購入者は決定されていた。あきらめきりないわたしは、係の人と雑談をしていたところ、一人の女性が列から出て来た。
 体調が悪くなったので帰ります。という彼女の手には一枚の整理券が・・・・。
 たまたまそこにいたわたしは、その女性からその整理券を譲り受け、列の最後尾につく事になった。世の中不思議なことはあるものですね。
 
 さて、その女性だが、係の人が救急車を呼びましょうか、とかいいながら連れて行ってしまったので、きちんとしたお礼が出来なかったわたしは残念な思いでいっぱいなのだ。
 もし、このブログを見ていただけたなら、ご連絡をいただければ幸いです。

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 ところで、当日券の最後尾だったわたしは、予定通り立ち見だった。
 立ち見といっても、舞台挨拶や、本編を見る分にはぜんぜん問題はなかった。
 わたしが選んだ立ち見の場所はスクリーンに向かって右端の通路であったのだが、本編終了後、実はゲストの皆さんが座っていた席のすぐ近くであった。
 拍手に送られたゲスト4名は、すたすたと新宿歌舞伎町を歩いていく。立ち見だったわたしは何の気なしに、彼等を尾行したわけだ。
 歌舞伎町の街を平然と歩く富野由悠季、池田秀一、飛田展男、古谷徹の4人組。なんとも不思議な光景であった。

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 2004/10/12 東京新宿「東京厚生年金会館」で「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」の試写を観た。

 ゲストは「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ファンを代表したベッキー。

 ハロウィン・タウンの王ジャック・スケリントンは、毎年繰り返されるハロウィンのお祭りにうんざりしていた。
 ハロウィンの祭りの後、街を出て森をさまようジャックは、クリスマス・タウンに迷い込んでしまう。
 そこは・・・・

監督:ヘンリー・セリック
製作・原案:ティム・バートン
音楽:ダニー・エルフマン
声の出演:クリス・サランドン(ジャック・スケリントン)、キャサリン・オハラ(サリー/ショック)、ウィリアム・ヒッキー(フィンケルスタイン博士)、ダニー・エルフマン(ジャックの歌/バレル他)、ポール・ルーベンス(ロック)、ケン・ページ(ウギー・ブギー)、グレン・シャーディックス(メイヤー)
 
 
 本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」は、1993年に製作され、1994年に日本公開された「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のデジタルリマスター版であり、日本公開10周年記念として、2004年に日本公開されることになった作品である。

 どの辺がデジタルリマスター版なのかは、チラシやオフィシャル・サイトを見ても判然としないが、フィルム自体は新作同様と言っても差支えないほどのクリアなものだった。
 わたしの記憶では、旧「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のフィルムでは、ジャックの目の中や口の中ははっきりと見えなかったように記憶しているのだが、今回のリマスター版では、明度が上がったのか、ライトがあたったジャックの目の中や口の中がはっきり見えてしまっているカットが多々あり、若干興ざめの印象を受けた。

 本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は、もう10年前の作品であり、既に語りつくされた感があり、わたしはこの作品について特に解説をするつもりはないのだが、本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は、ストップ・モーションと言うアニメーション手法を使った作品の最高峰のひとつだと言って差支えは無いだろう

 また、映画やキャラクターの魅力を取り上げても、既にクラシックなカルト・ムービーの域に達しており、ファッションやサブ・カルチャーにも多くの影響を与える文字通りエポック・メイキングな作品としても高く評価されている。

 ストップ・モーション技法については、それまでは、基本的にフィックスした画面の中(勿論それまでの映画にもカメラの動きはあったが、)で、ストップ・モーション・アニメが展開していたのであるが、本作では、カメラが信じられないほど縦横無尽に動き回り、一般の映画並みのカメラ・ワークが味わえるのである。

 また、ヘンリー・セリックのストップ・モーション技術自体の冴えは言うまでも無く、中盤に登場するウギー・ブギーのダンスのシークエンスなどは、あの袋の中には、人が入ってるんじゃねえの、と思えるほど素晴らしい動きをしている。

 更に、カメラの動きと俳優(人形)やプロップの動きのタイミングや間が絶妙であるし、ダニー・エルフマンのあまりにもエモーショナルな楽曲が、観客の心を鷲掴みにした上、揺さぶり続けている。

 余談だが、古くはレイ・ハリーハウゼンの一連の作品から、「スター・ウォーズ エピソードV 帝国の逆襲」(1980)のトーントーンやATTAスノー・ウォーカーのシークエンス、フィル・ティペットが担当したストップ・モーションと比較して見ると興味深いかもしれない。
 更に余談だが、ヘンリー・セリックの次の作品「ジャイアント・ピーチ」も凄いぞ。

 まあ、結論としては今回の上映は、バージョンはともかく「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」を劇場で観ることが出来る貴重なチャンスであるから、そのチャンスを生かして多くの人々に観て欲しい作品なのだ。

 あと本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」はなんだかんだ言ってティム・バートンの名前が冠についているが、きちんとヘンリー・セリックの作品として、認知しそして評価しなければならない作品んのではないか、とわたしは思うのだ。 

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 舞台挨拶だが、この前に「東京厚生年金会館」で試写が行われた「アラモ」のテリー伊藤同様、「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ファン代表のベッキー、というのはよくわからない人選だった。司会の映画パーソナリティ某も多分同一人物だったと思う。

 しかも、話の内容は作品からどんどんかけ離れベッキーのハロウィンやクリスマスの過ごし方の話になってしまうし、映画パーソナリティ某は「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は「シザー・ハンズ」と並びティム・バートン監督作品の傑作だ、と言うにいたっては、呆れてモノが言えない。

 キャストやスタッフを呼べないなら、イベントなどやらずに、即映画を上映して欲しいものだ。

 なお、10月14日の「東京国際ファンタスティック映画祭」で上映される際の舞台挨拶は、ジヤックの日本語吹替えを行った市村正親が舞台挨拶に登場するらしい。(これも観にいく予定)

 更に余談だが、今回の試写会には「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ファッションに身を包んだ人々が結構いた。 
 そんなんじゃダメだ、とは言わないが、何か勘違いしているんじゃないかな、と個人的に思った。
 ファッションではなく、本質を捉えて欲しいのだ。
クリストファー・リーヴという名の俳優がいた。
 1952年に生まれた彼は、舞台俳優、TV俳優を経て、1978年「原子力潜水艦浮上せず」の端役で映画デビューすることになる。
 そして同年彼は「スーパーマン」のタイトル・ロールに大抜擢され、一夜にしてそのさわやかな笑顔と共にスターダムに登りつめ、世界中の恋人になった訳である。

 そして「スーパーマン」以降現代まで、ありとあらゆるアメコミ・ヒーローが映画化され、その映画化作品の数は、枚挙に暇がない。
 傑作もあり駄作もある、それらスーパー・ヒーローの映画化作品は、その時代のヒーロー像のイメージ通りの俳優がそれぞれスーパー・ヒーローを演じている。
 例えば「バットマン」であればマイケル・キートンが、「スパイダーマン」であればトビー・マグワイアが、と言う具合に、その時代のスーパー・ヒーローのイメージを様々な俳優たちが、その時代その時代の社会情勢にマッチしたヒーロー像を見事に具現化している。

 しかし、残念ながらクリストファー・リーヴの「スーパーマン」を超えるスーパー・ヒーロー像にわたし達は出会っていないのである。
 彼は「スーパーマン」を通じて、世界中の観客を愛し、世界中の観客に愛され、そして夢と正義と希望を象徴するキャラクター像を具現化し、何よりもわたし達を最大限満足させてくれる素晴らしいスーパー・ヒーローになったのである。

 そして彼は、「スーパーマン」という映画を通じて、勿論スーパーマンとなり、クラーク・ケントとなり、それと同時にクリストファー・リーヴと言う名のヒーロー像のイコンになったのである。
 
 
 そして、1995年の落馬事故である。
 彼はその落馬事故で脊髄を損傷し、首より下が不随となり、車椅子生活を余儀なくされてしまう。
 彼はそれ以来リハビリに努め、努力の人となり、脊髄損傷者たちのための財団を立ち上げ、ある意味脊髄損傷者たちのスポークスマンになったのである。
 そして彼は、彼特有の不屈の精神によりリハビリを続け、その努力の甲斐があり、2002年には手や足の指先を少しだけ動かせるまでに回復していたのである。
 当初は不可能とされていた回復を超人的な力で次々と成し遂げてきていたのである。

 そう、クリストファー・リーヴは、世界中の恋人であり、スーパー・ヒーローそのものであり、そして脊髄損傷者たちの治癒の希望の象徴になったのである。
 脊髄損傷者たちは、あなたがリハビリに努力し、超人的なスピードで回復していく様を、そして脊髄損傷者たちの代表としてスピーチする姿を見て、どんなに勇気づけられたであろうか。

 わたし達はスーパー・ヒーローを、そして希望の象徴を失ったのである。
 
 
 わたしの記憶の中で、あなたが最高に輝いている瞬間がある。
 「スーパーマン」シリーズのラストに、あなたがファン・サービスとして必ず挿入した映像である。

 地球の周りを飛ぶあなたはカメラ越しに世界中のわたし達観客に微笑みかけ、わたし達に手を振る。
 その笑顔は、映画の中のヒロインであるロイス・レーンに向けられたものではなく、映画の外、現実の世界に存在するわたし達観客に向けられていたのだ。

 その瞬間、わたし達はあなたを確実に愛していた。
 その笑顔を、夢と正義と希望を象徴する、あなたの爽やかな笑顔をわたし達は決して忘れない。

 映画俳優は観客の愛により永遠の命を得ると言う。
 もしそれが本当の事ならば、世界中に愛されたあなたは、永遠の命を得ていたはずなのだ。

 ぼく達は、あなたがもう一度立ち上がりスクリーンによみがえる事を信じていた。
 あなたに課せられた脊髄損傷は、スーパー・ヒーローの試練に過ぎない事を信じていた。
 ぼく達は、新たな世代のスーパーマンと対峙する、あの小憎らしいレックス・ルーサーを楽しげに演じるあなたの姿を夢見ていた。
 なんなら、ラストに立ち上がってくれれば、普段は車椅子に乗っているレックス・ルーサーでも構わない。
 ぼく達は、あなたのレックス・ルーサーが、いずれ見れると思っていた。

 あなたの死はわたし達にとってあまりにも突然で、とてつもなく大きい。
 映画ファンのエゴを承知で酷な事を言わせていただければ、あなたは死んではいけない人だったのだ。
 
 
 
C・リーブ氏死去 「スーパーマン」主演俳優

【ニューヨーク11日共同】
 人気映画「スーパーマン」に主演、落馬事故で首から下が不自由になった後は障害者の権利向上などに尽力していた米国の俳優クリストファー・リーブ氏が10日、心不全のためニューヨークの病院で死去した。52歳。AP通信が伝えた。
 身体のまひにともなう合併症が悪化し、9日にニューヨークの自宅で心臓発作を起こし、手当てを受けていた。
 1952年ニューヨーク生まれ。ジュリアード音楽院で学び、ロンドンに留学。78年「原子力潜水艦浮上せず」で映画に初出演した。同年の映画「スーパーマン」の主役クラーク・ケントに抜てきされ、大スターの仲間入りを果たした。「スーパーマン」は87年の第4作までシリーズ化された。
 95年5月、バージニア州で落馬して脊髄(せきずい)を傷めて首から下が不随となったが、病院や自宅で懸命にリハビリを続け、2002年には手や足の指先を少しだけ動かせるまでに回復していた。(共同通信)
 
 
 
 
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 2001/10/10 東京銀座「ヤマハホール」で「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」の試写を観た。

 スーパー・ナチュラルな事件が起きればどこへでも、サイケなペイントを施したスペシャル・バン“ミステリー・マシーン”に乗ってかけつけ、アッという間にナゾを解決、モンスターを退治する、今や向かうところ敵なしの全米中のスーパー・アイドルになってしまった“ミステリー社”の4人と1匹。

 ところが、“ミステリー社”が今まで退治したさまざまなモンスターの衣装を展示し、パトリック・ワイズリー(セス・グリーン)が館長を務めるクールソニアン犯罪博物館のオープニング・セレモニー中に仮面の男が率いるモンスターが現れセレモニーは大混乱、“ミステリー社”の人気も地に落ちてしまう。

 TVレポーター、へザー・ジャスパー=ハウ(アリシア・シルバーストーン)は“ミステリー社”を激しく攻撃し、クールズヴィル市民はモンスターの恐怖に怯えていた。

 そして・・・・。

監督は前作同様ラージャ・ゴスネル
出演は、フィレディー・プリンズ,Jr(フレッド/ミステリー社)、サラ・ミシェル・ゲラー(ダフネ/ミステリー社)、マシュー・リラード(シャギー/ミステリー社)、リンダ・カーデリーニ(ヴェルマ/ミステリー社)、セス・グリーン(パトリック・ワイズリー)、ピーター・ボイル(ジェレマイア・ウィックルス)、アリシア・シルバーストーン(へザー・ジャスパー=ハウ)

 本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」は、1969年から91年まで22年間に渡って放映されたアメリカの人気テレビアニメ「スクービー・ドゥー」の実写版第二弾である。

 一言で言えば、本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」は往年のアニメーション作品「スクービー・ドゥー」のイメージを完全に踏襲した楽しいファミリー・ムービーである。

 特筆すべき点としては、CGIで表現されているスクービーはともかく、ミステリー社の4人のキャラクターの動きは、アニメーション特有の動きを完全に模倣している。
 従って本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」はアニメーション作品「スクービー・ドゥー」のイメージを最大限に生かし、ファンのイメージを壊さず、アニメーション作品の実写化作品としては素晴らしい出来に仕上がっている。
 特にキャラクターのそっくりさ加減は賞賛に値する。

 とは言うものの、アニメーションで描かれていた(と記憶している)完璧な能天気さは、実写化により幾分薄められ、4人のキャラクターは、それぞれ悩めるキャラクターとして描かれている。
 そのあたりのさじ加減は絶妙で、本作はキャラクターの成長物語としても機能する作品に仕上がっている。

 しかしながら本作の物語はお約束でベタでチープな展開の目白押しだが、その辺りが本作を家族で安心して楽しめるファミリー・ムービーにしている所以なのだろう。

 キャストは、やはりなんと言ってもタイトル・ロールであるスクービーと、スクービーに絡むマシュー・リラード(シャギー)だろう。
 マシュー・リラードの演技と言うか、アニメ的な動きは大変素晴らしく、CGIで表現されているスクービーと見事に融和し、見事なコンビ振りを発揮している。

 また、アニメ的キャラクターとして忘れてはならないのはセス・グリーン(パトリック・ワイズリー)であろう。彼の身長の低さと髪型を含めた頭の大きさは、他の俳優と比較して等身が低く、アニメ的な印象を観客に与えている。
 また彼の「オースティン・パワーズ」シリーズで演じたキャラクターの映画的記憶を利用した脚本により、素晴らしいキャラクターに描かれているのではないだろうか。
個人的には、今後のキャリアが非常に楽しみな俳優の一人である。

 女優陣は、サラ・ミシェル・ゲラー(ダフネ)は、キュートでセクシーな魅力爆発だし、リンダ・カーデリーニ(ヴェルマ)は知的キャラだが、とあるシーンではセクシーさをアピールし、多面性のあるおもしろいキャラクターを演じている。
 また、アリシア・シルバーストーン(へザー・ジャスパー=ハウ)は憎々しげなTVリポーターを楽しげに演じている。

 VFXは何と言ってもスクービーだが、本作ではCGIと着ぐるみ等の従来の手法を使用し、CGIと従来の手法の融和に成功しているのではないだろうか。
 スクービーらの上っ面だけではなく、重量が感じられるCGIに好意的な印象を受けた。

 あとは、サイケでヒップでキュートでセクシーな世界観が素晴らしい。特に“ミステリー社”の事務所が素晴らしい。

 本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」、大人でも、素直な少年の心で見ることができれば、大変楽しい作品である、と言えるし、楽しい仕上がりを見せた素敵なファミリー・ムービーと言えるだろう。

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 アニメーション作品の実写化と言えば、最近の邦画では「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」があるが、スクービー同様に、忍者犬獅子丸や忍者猫影千代はCGIで映像化して欲しかったと思うのだ。

「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」
http://diarynote.jp/d/29346/20040815.html
 2004/10/01 ワーナーマイカルシネマズ板橋で「インファナル・アフェア 無間序曲」を観た。

 1991年、香港。
 尖沙咀(チムサアチョイ)に君臨する香港黒社会(マフィア)の大ボス、ンガイ・クワンが暗殺された。
 その混乱に乗じて一派から離反をもくろむ配下のボス4人。組織犯罪課(OCTB)のウォン警部(アンソニー・ウォン)と相棒のルク警部(フー・ジュン)は、抗争勃発に備えて厳戒体制を敷く。
 だが、新参者の5人目のボス、サム(エリック・ツァン)だけは静観を決め込む。因果応報を信じるサムは、時機を待つ気でいたのだ。そのために彼はラウ(エディソン・チャン)を警察に潜入させようと考えていた。ひそかに想いを寄せていたサムの妻マ
リー(カリーナ・ラウ)の口からそのことを告げられたラウは、
危険を覚悟で引き受ける。
 
 クワンの跡を継いだ次男ハウ(フランシス・ン)は、知的で物静かな外見の下に策略家と野心家の顔を隠していた。
 4人のボス各々の弱みを握った彼は、一夜にして新たな大ボスとしての地位を固めてしまう。
 一方ウォン警部は、警察学校の優等生でありながら、クワンの私生児であることが発覚して退学処分になったヤン(ショーン・ユー)の存在を知り、秘策を思いつく。その血筋を利用してヤンをハウの組織に潜入させるのだ。無謀とも言える作戦だが、ヤンにとっては警官になれる唯一のチャンスだった。

 そして・・・・
 (オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督は、アンドリュー・ラウとアラン・マック。
出演は、エディソン・チャン(若き日のラウ)、ショーン・ユー(若き日のヤン)、アンソニー・ウォン(ウォン警部)、エリック・ツァン(サム)、カリーナ・ラウ(マリー)、フランシス・ン(ハウ)、チャップマン・トウ(キョン)、フー・ジュン(ルク)。

 本作「インファナル・アフェア 無間序曲」は、現代の香港が世界に誇る「インファナル・アフェア」の続編であり、時系列的には「インファナル・アフェア」三部作の第一作目に位置する作品である。
 前作「インファナル・アフェア」は聞くところによると、脚本に3年程かけたらしいが、本作「インファナル・アフェア 無間序曲」と2005年GWに日本公開予定の「インファナル・アフェア 終極無間」の脚本はおそらく突貫工事だったのではないだろうか。事実、主要プロット上に気になる点がいくつかあった。

 本作「インファナル・アフェア 無間序曲」は、前作「インファナル・アフェア」の大ヒットを受けて、製作・公開された作品である以上、当然の如く前作と比較されてしまうのは仕方がないだろう。
 前作「インファナル・アフェア」は単純で骨太な力強いプロットに、細かなプロットと伏線が見事に絡み合った素晴らしい脚本だったのだが、本作「インファナル・アフェア 無間序曲」の基本プロットは複雑でわかりづらく、新たなファン層を獲得するのは難しい仕上がりが否めない。
 時系列的に考えた場合、三部作の一作目に当たる作品に取っては、若干の問題点を抱えている、といえるのではないだろうか。

 それに加えて、若き日のラウ(エディソン・チャン)とヤン(ショーン・ユー)のキャラクターが似ているため、余計に物語がわかりづらい印象を観客に与えている。
 どうせなら、どちらかを血気盛んな感じのキャラクターにして、もうひとりは従来通りのクールな感じで演出し、本作か次回作「インファナル・アフェア 終極無間」の物語の途中で何か大きな出来事により、血気盛んなキャラクターがクールなキャラクターに転化する、と言ったプロットが必要だったのではないだろうか。

 また、プロット上の気になった点だが、一番凄いのは何と言っても、ハウ(フランシス・ン)とヤン(ショーン・ユー)とを血縁関係にしてしまった事だろう。
 この仰天プロットでは一般的に考えてヤンをどうやってサムの部下にするのは困難だろう。
 好意的に考えて、ヤンをどうやってサム(エリック・ツァン)の配下にするのかお手並み拝見なのだ。見事な着地を期待したい。
 この辺は「ギャング・オブ・ニューヨーク」のダイエル・デイ・ルイスとレオナルド・ディカプリオの関係と比較するとおもしろいかもしれない。

 また、前作ではヤンを兄貴と呼んでいた(わたしの記憶では)キョン(チャップマン・トウ)が、サムの現在の配下の中では古株で、新参者ヤンの兄貴分にあたるのではないかと思うのだが、その辺はどうなんだろう。何か立場が逆転するエピソードでもあるのだろうか。

 キャストについては、サム(エリック・ツァン)、ハウ(フランシス・ン)、ウォン警部(アンソニー・ウォン)に尽きるだろう。
 最初に印象的な動きをするのは、インテリ黒社会(マフィア/ヤクザ)を見事に演じたハウである。冒頭付近、電話を何本かかけるだけで、抗争勃発寸前の尖沙咀(チムサアチョイ)を掌握してしまう様は、格好良すぎなのだ。あとは潜入捜査官を処刑するシークエンスや、ヤンのケーブルを見つける所など、感涙モノだと言えよう。
 そして、ハウが観客に見せてくれるのは、黒社会の中心にいながらも家族を愛する一般の家庭人の姿なのである。その辺りはおそらくフランシス・フォード・コッポラの「ゴッド・ファーザー」への言及やリスペクトなのだと思うが、わたし的には非常に良い印象を受けた。
 
 そして何と言ってもサム(エリック・ツァン)である。もう格好良すぎの美味しいキャラクターなのだ。
 冒頭のウォン警部を前にしての食事のシークエンスも、前作を髣髴とさせる良いシークエンスだし、警察の正門を出た後のドタバタも楽しい。そして前作で描写された頭の良い大ボスになる片鱗を随所で見せてくれているのは、とっても楽しいのである。

 一方ウォン警部(アンソニー・ウォン)は微妙である。
 と言うのも、本作の物語の根幹に関わるある行動を行うのだが、その辺りが前作のキャラクターと、ちと乖離しているような印象を受ける。
 勿論、演技は素晴らしいし、ルク警部(フー・ジュン)とのコンビも楽しいのだが、三部作を考えた場合、キャラクター設定に若干無理があるような気がした。それとも次回作に大きな転換があるのかな。

 脚本は前述のように若干突貫工事的な印象が拭いきれず、少し残念だが、だからと言って物語がつまらない訳ではなく、物語世界にどっぷりと浸れる非常に楽しい脚本に仕上がっている。
 また、冒頭のラウ(エディソン・チャン)の前作同様の癖や、音楽やコンポへの言及あたりが前作ファンへの心憎いサービスになっている。

 ああ、早く「インファナル・アフェア 終極無間」が観たいのだ。

☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

「インファナル・アフェア」
http://diarynote.jp/d/29346/20040115.html
「インファナル・アフェアIII/終極無間」
http://diarynote.jp/d/29346/20050407.html

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 余談だが、英題の「Infernal affairs」は「Internal affairs」(内務)のもじりで、直訳すると「地獄の事務」(ひどい仕事)と言う事になる。
 因みに、「Internal-affairs investigation」で「内務調査」という意味である。
 2004/10/04 日本ヘラルド映画試写室で「モーターサイクル・ダイアリーズ」を観た。

 ご参考までに、先日「恵比寿ガーデンシネマ」で観た際のレビューはこちら。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040930.html

 今回でわたしは「モーターサイクル・ダイアリーズ」を2回観た訳であるが、個人的な印象としては2回目である今回の方が感涙の度合が高かった。これはゲバラの生涯について若干勉強した上で2回目の上映に望んだ事に起因するのかも知れないし、大きな劇場ではなく小さな試写室で観た事により本作への没頭の度合が高まり、感涙指数をも高めていたのかも知れない。

 泣ければそれは良い映画だ、と言うつもりはさらさらないが、この映画は程よく泣ける素晴らしい作品に思えるのである。

 
 今回特に印象に残ったのは前回同様サン・パブロのハンセン病隔離医療施設のシークエンスである。

 旅を始めた当初は、エルネスト(ガエル・ガルシア・ベルナル)とアルベルト(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)は、アルベルトのおんぼろバイク「ポデローサ号」の上から南米を眺めており、視線は一段高く、しかもスピードも速い視線、言うならば当事者ではなく部外者の視線で南米全土を見ていた訳なのだ。
 しかし、旅の後半、徒歩旅行を余儀なくされた彼等の視線は、より弱者である民衆のそれに近づき、彼等は部外者ではなく当事者の視線で南米が置かれている現状に目を向けるのである。

 そしてそんな旅の途中、彼等はリマのペシェ博士(グスターボ・ブエノ)のはからいで、サン・パブロにあるハンセン病の隔離医療施設でボランティア医師として働く事になる。
 勿論本作「モーターサイクル・ダイアリーズ」自体が、エルネストとアルベルトの成長物語と捉える事が出来るのだが、その中でも、ハンセン病の隔離医療施設での出来事は、将来の二人の生き様に大きな影響を与える象徴的な出来事に満ちている。

 さて、その隔離医療施設だが、施設自体は地元の修道院の隔離方針に則って運営されており、医師等スタッフと重篤な患者たちは、その他大勢の患者たちとアマゾン川を隔てたそれぞれの対岸で暮らしており、医療行為において患者に触れる際は医師にはゴム手袋の着用が義務付けられていた。

 修道院長は、エルネストとアルベルトにも施設の医師同様、ゴム手袋の着用を要請するが、彼等はそれを拒否し、素手でハンセン病患者と触れ合うのである。
 そしてそれはいつしか施設の医師たちにも広がって行く。

 また、隔離医療施設で24歳の誕生日を迎えたエルネストは、誕生パーティのスピーチで南米の現状と将来の理想像に触れ、パーティ開場には微妙な空気が流れるが、その微妙な空気の中、アルベルトはエルネストが変わってしまった事を確信するのである。

 更にエルネストは、アマゾン川対岸にいる多くのハンセン病患者たちに、誕生日を祝ってもらう為、ある行動を取る。
 その行動に対し、アルベルトを始とした医師等がかける言葉と、ハンセン病患者たちがかける言葉との対比が、エルネストの革命家としての将来を象徴的に表しているのではないだろうか。
 この時点で、エルネストは強者側ではなく、弱者側に自分の足で立った訳である。

 そんなエルネストが後年20世紀最高のイコン、世界で一番美しい革命家チェ・ゲバラになる訳なのである。
 それを思うと、文字通り涙が止まらないのだ。

 更にアルベルトがエルネストの志を受け、後年行うある行動にも滂沱なのだ。

 何しろ、エルネストが転がした小さな石は、アルベルトの心の中でも転がり続けているだろうし、勿論われわれの心の中でも転がり続けているはずなのだから。

「これは偉業の物語ではない、同じ大志と夢を持った二人の人生がしばし併走した物語なのだ」

 とにかく見ろ!

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 脚本は、先日お話したように散文的で下手をすると伏線を無視した脈絡のないものだと言われかねない。
 しかし、編集も繋がりをあまり重視せずに見せたいものを見せたい順序で見せる散文的な手法を取っており、それが観客の記憶にも似た効果をあげている。

 腫瘍の告知と、小説の感想を告げるシークエンスも興味深い。
 25米ドルの行方と、喘息の薬の行方も興味深い。

 音楽は、特にモノクロで南米の底辺で暮らす弱者の人々を映す部分で、居心地が悪く心を逆撫でするような、音楽が印象的であった。
 エルネストの怒りを感じるのだ。
 ラストの歌モノの局も素晴らしい。

 キャストはダメな俳優は全くいない。
 完璧である。主要キャストからエキストラまで、自分の仕事を120%こなしている。
 ドキュメンタリー的な手法とも相まって、素晴らしい効果を付与している。

 また、南米のロケーション効果は素晴らしく、是非劇場で体験して欲しい作品だと思う。

 製作総指揮に名を連ねるロバート・レッドフォードだが、彼のキャリアを見渡すと、語弊はあるが「弱者が強者に歯向かう」映画が多いような気がする。本作もレッドフォードが好きそうな題材だと思える。
 2004年12月2日発売予定の「NINTENDO DS」のCF(CM)が公開された。(※1)

 公開された「NINTENDO DS」のCF(CM)は「真白い空間」の中、「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着た「Utada」(※2)と「白いテーブル」と「Nintendo DS」本体というシンプルなもので、キャッチ・コピーは「Touch!」である。

 ところで、日本国内で販売された「ファミリーコンピュータ」、「スーパーファミコン」、「ニンテンドウ64」、「ニンテンドーゲームキューブ」等の任天堂の据置型家庭用ゲーム機の中で商標に「ニンテンドウ/ニンテンドー」の文字が付いているのは「ニンテンドウ64」以降であり、しかも「ニンテンドウ64」以降は、北米を中心とした海外のマーケットで同じ商標の英字表記を商標として使用している。(※3)

 そして今冬発売となる「NINTENDO DS/ニンテンドー DS」も同様に、商標に「ニンテンドー」の文字が入っている。(※4)
 これは「ニンテンドウ64」以降続く海外戦略のひとつだと考えられるし、CF(CM)に登場するのが「宇多田ヒカル」ではなく先ごろ北米デビューを果たした「Utada」とクレジットされている事もそれを肯定しているのではないだろうか。

 そして「Utada」の衣裳である。
 何故「Utada」は「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着なければならなかったのか。

 先ず単純に考えられるのは、今回のキャッチ・コピーである「Touch!」である。
 これは「NINTENDO DS」に搭載された「タッチ・バネル」に因るコピーで、この「NINTENDO DS」は、搭載された「タッチ・パネル」に触れることにより、新次元のゲーム体験を可能にするゲーム機である、という事を明確に謳っているのだ。

 そして同時に「Touch!」と言うコピーは、「Utada」が「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着ていることから、思春期の少年たちが女の子の胸に初めて触れる「ドキドキ感」や「ワクワク感」、そしてその少年たちが女の子の胸の感触を思う「無限の想像力」をも実現するゲーム機だと、言っているのであろう。

 更に「Utada」が着用した、「真白い空間」の中の「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」が暗喩するものは、勿論図案化された「日本の国旗」であり、これにより「NINTENDO DS」を開発したのは日本の企業であることを明示し、その日本の企業任天堂はグローバルな戦略の下、世界中のマーケットを席巻するであろう事を宣言しているのである。

 ついでに「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」により、「NINTENDO DS」は「胸にポッカリと開いた穴」を補完する存在である。と言うことも同時に言っているのである。
 つまり「心を持ったゲーム機」である、と言っているのである。

 そしてこのCF(CM)では、人類が「NINTENDO DS」に「Touch!」することにより、「新たな人類への飛躍」、「新たな人類の誕生」を迎える事をも意味しているのである。
 これはこのCF(CM)の世界観がスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号等の世界観に似ている点や、「赤いワンピース」のシルエットはあたかも「黒いモノリス」のように見える点からもあきらかであろう。(※5)

 更に「真白い空間」の中「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着て歩く「Utada」は、「白いディスカバリー号の中」を歩く「違う色のヘルメット」を被り「赤い宇宙服」を着た「ボウマン船長」をも髣髴とさせるし、「胸元の円形の穴」は「ヘルメットが無い宇宙服」を示しているのかも知れない。

 更に深読みすると「NINTENDO DS」のロゴマークには、2画面を意味するO(四角に見える)が縦に2個並んでおり、それは:(コロン)にも見え、CF(CM)ではその:(コロン)がビジュアル的に効果的に使用されている。
 そしてなんと言っても、:(コロン)から想起されるのは、「2001年宇宙の旅」の原題「2001: A Space Odyssey」のタイトルの:(コロン)であろう。(完全に誇大妄想的意見に思えますね)

 さあ君も「NINTENDO DS」に「Touch!」して、ボウマン船長のように、新人類になろう!
 と言う訳なのだ。

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 余談だが、「Utada」の「赤い靴」は同考えても「オズの魔法使い」の「ルビーの靴」をイメージしているのだと思われますが、だとすると「NINTENDO DS」は「オズの大魔王」のメタファーで「インチキ」を意味する事になりかねませんが、その辺はどうなんでしょうね。

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※1 「NINTENDO DS」のCF(CM)は、2004/09/23に「Nintendo DS/登場編」が、2004/09/24には「Nintendo DS/実感編」が公開された。

※2 CF(CM)では「宇多田ヒカル」ではなく「Utada」とクレジットされている。
 「Utada」とは、北米デビューの際の「宇多田ヒカル」のアーティスト名(商標か?)

※3 「ファミリーコンピュータ」は北米では「NES(Nintendo Entertainment System)」、「スーパーファミコン」は「SUPER NES(Super Nintendo Entertainment System)」という商標で販売された。なお「ニンテンドウ64」は「Nintendo 64」、「ニンテンドーゲームキューブ」は「NINTENDO GAMECUBE」である。

※4 「NINTENDO DS」は、任天堂の持運び型家庭用ゲーム機の中で商標に「ニンテンドウ/ニンテンドー」の文字が付く最初のゲーム機となる。

※5 おそらく多くの読者は、「赤いワンピース」が「黒いモノリス」であるとか、「Utada」は「ボウマン船長」だとか、「NINTENDO DS」に触れて新人類になろう、だとかの「NINTENDO DS」のCF(CM)は、スタンリー・キューブリックへのリスペクトでありオマージュであると言う意見は、わたしの誇大妄想的こじ付けだと思う人が多いとわたしは思うが、実際のところ、CF(CM)を製作する広告代理店がその企画を持って企業にプレゼンテーションするような場合は、その辺まで言葉を弄して、プレゼンするのである。
 わたしだって任天堂のお偉方を納得させる為には、その辺の背景を含めた企画を立ててプレゼンすると思います。
 なにしろ、あんな「胸に大きく穴が開いている」ダサダサの「赤いワンピース」を「Utada」に着せる事由が、そして任天堂や「宇多田ヒカル」を納得させることが出来る事由が、広告代理店には必要なんですから。

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以前から言われているように、手塚治虫は若い才能に対して嫉妬深い漫画家だった。

 そして手塚治虫が唯一本心から嫉妬し、その才能の豊かさに切歯扼腕したのが、大友克洋その人と彼の作品だったのだ

 批評家にして「手塚治虫の漫画はもう古い」と言わしめた、その原因となった大友克洋でさえ、「メロトポリス」や「スチームボーイ」で手塚治虫をやろうとしたのである。

 そして今、浦沢直樹が手塚治虫をやろうとしているのだ。

 その題材は傑作の呼び声高い「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を原案とした「PLUTO / プルートウ」である。
 事実、浦沢直樹の「PLUTO / プルートウ」は、見事に「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を遂次継承している。
 しかも、物語の周辺を掘り下げることにより、原作と比較してよりエモーショナルな作品になりつつあるのである。

 あとがきによると浦沢直樹が初めて読んだ漫画は「鉄腕アトム/史上最大のロボット」と「鉄腕アトム/人工太陽球」だと言うことである。
 このあたりは「アイ,ロボット」のレビューでも若干触れているが、その浦沢直樹の漫画の原初体験が今回の「PLUTO / プルートウ」にも色濃く反映されている。
 特に主人公であるゲジヒトのキャラクター造形は「鉄腕アトム/人工太陽球」のシャーロック・ホームスパンの影響が見て取れるのだ。

 とは言うものの、わたしの最大の驚愕ポイントは、手塚治虫の影響ではなく、大友克洋の影響である。

 なんと「PLUTO / プルートウ」は大友克洋の「AKIRA / アキラ」だったのだ。
 特に「PLUTO 01 / プルートウ 01」の構成は「AKIRA 1 / アキラ 1」のそれに酷似している、といわざるを得ない。

 そう考えた場合、キャラクターの対比は、ゲジヒトが大佐で、ブラウ1589がアキラ、アトムが鉄雄ということになる。

 これを端的に描写するシークエンスがある。

 ゲジヒトがブラウ1589を訪問した際、ブラウ1589はゲジヒトにこんな言葉をかける。(このシークエンスは多くの読者に「羊たちの沈黙」のレクター博士を訪問するクラリス捜査官を思い出させるだろう。しかし、これは「AKIRA / アキラ」だったのだ。)

「滑稽なほど必死で作り上げたバリケードだろ?」
「ハイテク機器で厳重に管理していながら・・・・」
「結局、人間は、こうでもしないと恐怖を抑えきれないんだ・・・・」

 一方アキラが眠るデュワー壁を前に大佐は独白する。
「見てみろ・・・・この慌て振りを・・・・」
「怖いのだ・・・・怖くてたまらずに覆い隠したのだ・・・・」
「恥も尊厳も忘れ・・・・築きあげて来た文明も科学もなぐり捨てて・・・・」
「自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ・・・・」

 更に、第一巻の結末、ゲジヒトはアトムを訪ねる。
「君が・・・・アトム君だね?」
「はい。」

 一方、大佐は鉄雄に手を伸ばす。
「41号・・・・」
「41・・・・号ォ・・・・?」
「そうだ・・・」

おもしろくなってきやがったぜ。
2004/09/28 東京恵比寿「恵比寿ガーデンシネマ」で「モーターサイクル・ダイアリーズ」の試写を観た。

 「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、2004年に日本公開となる作品の中で、わたし的に観たくて観たくて仕方が無かった作品のひとつである。
 過度な期待のため、わたしの中では本作の予告編映像が美化され膨張し、既に傑作としての風格と記憶を持った素晴らしい作品になってしまっていた。
 わたしはそんな中で本作「モーターサイクル・ダイアリーズ」を観た訳である。
 
 
 1952年1月、南米アルゼンチン。
 喘息もちなくせに恐れを知らない23歳の医学生エルネスト(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、親友の生化学者アルベルト(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)とともにアルベルトのおんぼろバイク(ノートン500/ポデローサ号)を駆って南米大陸を縦断する冒険の旅に出る。
 それは金も、泊まるあてもなく、好奇心のままに10,000キロを走破する無鉄砲な計画だった。

 冒険心、情熱的な魂、旅を愛する心でつながれた二人のゆるぎない友情。
 心をふれあったすべての人に、惜しみない愛を捧げた、エルネストの瞳に映る南米大陸の様々な風景。その記憶が彼の未来を変えた。

 のちに親しみを込めて「チェ」と呼ばれ、世界中から愛される20世紀最大の美しきイコンとなった青年の真実の物語。
 (オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

製作総指揮:ロバート・レッドフォード、ポール・ウェブスター、レベッカ・イェルダム
監督:ウォルター・サレス
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル(エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)、ロドリゴ・デ・ラ・セルナ(アルベルト・グラナード)、ミア・マエストロ(チチナ・フェレイラ)
 
 
 本作「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナが著した「モーターサイクル南米旅行日記」(現代企画室刊)とアルベルト・グラナードが著した「Con el Che por America Latina」を基に、ホセ・リベラが脚本を執筆したもので、おそらく誇張はあるものの基本的には真実の物語である、と言えよう。

 本作の作風は、−−勿論日記を原作としている事もあるのだろうが−−、散文的で脈絡が無く、一歩間違えると長大な物語のダイジェスト版的な印象を観客に与えてしまうきらいが否定できない。
 これは例えば、先のシークエンスでは体調を崩していたエルネストが次のシークエンスでは元気にバイクに跨っていたり、二人が雪山で途方にくれている次のシークエンスでは、二人が陽光溢れる通りを走っていたり、バイクで転倒してズボンの裾をめくり傷を確認したが、その伏線の回収がされない、といったような部分に顕著に表われている。

 この辺りは、物語を描く上で、事象の「発端」と「経過」と「結末」を重視する観客にとっては、違和感があるところだと思うし、伏線となるべき映像を見せておきながら、その伏線を全く回収しないのは、全く持ってけしからん、という印象を観客に与えてしまう可能性もある。
 しかし本作は、舞台やシークエンスが変わる度に、日時と場所と走行キロ数を画面に表示させるだけで、事象の「結末」を描かないし、伏線を回収せず、宙ぶらりんの状態で物語を紡ぎ続ける、と言うスタイルを確信犯的に貫いている。

 このように物語の中で起きる事象の「結末」を突き放し、観客に事象の「結末」を想像させる手法は、物語の行間を観客に読ませ、物語が描いている登場人物が直面している事象について、登場人物と一緒に考えさせる、と言った素晴らしい効果を内包しているのではないか、と思えるのだ。

 また本作は、最早神格化されてしまい、20世紀最大のイコンとなってしまっている美しい革命家チェ・ゲバラが、単なる医学生から革命家に成長する要因やその背景を若々しく描いた作品であり、その散文的で脈絡のない描写手法と相まって、わたしたちがゲバラに対して抱いている先入観や、様々な伝説とが、物語を補完し脳内で最良の「ゲバラの青春時代」を再構築する、という構図をも持っているのだ。

 そして本作は、ゲバラが神格化されてしまったが故の、世界中の人々を敵に回してしまうような取扱い注意の題材を題材としてしまった作品にもなっているのだが、本作がたおやかに指し示すのは、大らかで爽やかで、弱者に対する溢れんばかりの愛と、強者に対する漠然とした疑問に満ちた、孤高で素朴な視線なのだ。
 ゲバラの事を知っている人も知らない人も十分に明確なゲバラ像を脳内に構築できる懐の大きな作品に仕上がっている。
 
 
 とにかく、わたし的には、政治的思想的背景をおざなりにし、チェ・ゲバラをファッションのひとつとしか捉えていないような日本の若者に是非観ていただきたい作品である、と思うし、この作品を観て、911同時多発テロからのイラクへの動き、郵政民営化問題やプロ野球の再編問題、物事の大小にかかわらず、このような弱者と強者が対峙する構図を持つ様々な問題について、自分の事として、自分の頭で考えていただきたいと思う訳なのだ。

10月4日に再度「モーターサイクル・ダイアリーズ」を観る予定なので、今日のところはこんなところで失礼します。

「モーターサイクル・ダイアリーズ」その2
http://diarynote.jp/d/29346/20041004.html

「ヘルボーイ」

2004年9月22日 映画
2004/09/13 東京有楽町よみうりホールで「ヘルボーイ」の試写を観た。

第2次大戦末期、スコットランドのトランダム大修道院跡。
妖僧ラスプーチン(カレル・ローデン)は、オカルト結社トゥーレ協会会長カール・クロエネン(ラディスラフ・ベラン)、女将校イルザ(ブリジット・ホドソン)らナチスの小隊と共に「ラグナロク計画」を実行に移そうとしていた。

「ラグナロク計画」とは、独自に開発されたヘル=ホール発生機により、異界の門を開き混沌の7体の神オグドル・ヤハドを召喚しようとする計画。

ラスプーチンが異界の門を開き、オグドル・ヤハドを召喚しようとした瞬間、急襲したアメリカ軍部隊はその計画を阻止、ラスプーチンは異界に呑み込まれ、こちらの世界には真っ赤な小猿のような生き物が残された。

この事件の功労者、超常現象学者ブルーム教授(ジョン・ハート)は、フランクリン・ルーズベルト大統領に認可され、BPRD(超常現象調査/防衛局)を極秘に設立。
「ヘルボーイ」と名づけられた小猿のような生き物は、教授を父と慕い、トップ・エージェントとして極秘裏に魔物退治をすることになった。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督はギレルモ・デル・トロ
出演は ロン・パールマン(ヘルボーイ)、ジョン・ハート(ブルーム教授)、セルマ・ブレア(リズ・シャーマン)、ルパート・エヴァンス(ジョン・マイヤーズ捜査官)、カレル・ローデン(ラスプーチン)、ジェフリー・タンバー(マニング/ジョンの上司)、ラディスラフ・ベラン(クロエネン)、ブリジット・ホドソン(イルザ)、ダグ・ジョーン(エイブ・サピエン/半魚人)
 
 
 「ヘルボーイ」とは、影と色彩の魔術師と呼ばれるマイク・ミニョーラが生み出したダーク・ヒーローで、同名コミックも1990年代のアメリカン・コミックス界におけるエポック・メイキング的作品となった傑作であり、本作はそのコミックの映画化作品、と言う事になる。

 そして本作の物語は、異界の門からわれわれの世界に転げ落ちてきたヘルボーイや半魚人、パイロキネシス(念動発火)能力者らと、彼等が所属する極秘機関BPRD(超常現象調査/防衛局)が、モンスター絡みの超常現象を解決する連作シリーズの1エピソードという形式を持っており、本作で語られるのは、ヘルボーイの出自となるラスプーチンの「ラグナロク計画」の全貌、−−その発端から結末まで−−である。

 まず、印象に残ったのは、本作のヒーローであるヘルボーイは異界からわれわれの世界にたまたまやってきた所謂モンスターである、と言うところであろう。
 世の中には、人間の味方になった「良い」モンスターが、人間にとって「悪い」モンスターたちを次から次へと退治するような物語はいくつもあるが、本作「ヘルボーイ」はそんな物語のひとつである、と言えるだろう。
 例えば、最近公開された「ヴァン・ヘルシング」も同じ骨格を持った作品だと言えるし、「デビルマン」や「フランケンシュタイン」、広義の意味で考えると「ブレードランナー」なんかも同様の骨格を持った作品だと言えるかも知れない。

 そしてそれらの物語の背景には、ヒーローたるモンスターのアイデンティティの確立の描写が必須となってくる訳である。
 そのモンスターのアイデンティティの確立が上手く描写されている作品に、−−モンスターのモンスターたる所以による悲しみとそこからの脱却と浄化が描かれている作品に−−傑作が多いのではないだろうか。

 自分は果たして人間なのか、それともモンスターなのか。

 本作「ヘルボーイ」では、その辺りについては、ヘルボーイが人間の女性に恋をすることにより、モンスターの外見を持つ存在として、その女性に相応しくないのではないかと思い悩むヘルボーイが描写されている。
 世界を救うスーパーヒーローの個人的な悩みなのである。
 これはロン・パールマンの出世作であるテレビ・シリーズ「美女と野獣」にもつながるのだろう。
 しかし、ヘルボーイが恋する女性は人間か、と言うとそうでもなく、「キャリー」や「炎の少女チャーリー」のような怪物的能力を持った女性である点が非常にシニカルである。

 語弊はあるが、外見はともかく、内面をも考えると、彼らの恋はモンスター同士の恋だと言えると思うのだが、リズは外見ではなく内面をとらえ、ヘルボーイは内面ではなく外見をとらえ、外見を重要視している訳である。

 余談だが、パイロキネシス(念動発火能力)能力者リズ(セルマ・ブレア)のセリフに『「ファイアスターター」とは呼ばれたくない』という意味のセリフがあった。
 この「ファイアスターター」とは映画「炎の少女チャーリー」の原題で、宮部みゆきの「クロスファイア」に多大なる影響を与えたスティーヴン・キングの原作小説のタイトルである。

 こういったモンスターの悲哀とも言える背景を明確に描くことにより、本作「ヘルボーイ」は、一般の娯楽アクション大作と一線を画す作品に仕上がったような気がする。

 また、ヘルボーイの人格形成に大きな影響を与えているブルーム教授(ジョン・ハート)の存在も忘れてはならない。
 ブルーム教授とヘルボーイの関係は、愛情溢れる親子関係であり、フランケンシュタイン博士と彼が創造したモンスターの関係のメタファーとなっている。
 この辺はかつて、エイリアンを体内で育ててしまったジョン・ハートという役者を使う辺りが興味深いのではないだろうか、またヘルボーイのクリーチャーとしての見世物的側面を考えた場合、ジョン・ハートが演じた「エレファントマン」との対比も面白いのかもしれない。

 ブルーム教授とクロエネン(ラディスラフ・ベラン)が対峙するシークエンスで、教授自らがかけていた「We’ll meet again(また会いましょう)」も教授とヘルボーイの関係に感動を付与する効果的な使われ方をしている。
 余談だが、「We’ll meet again(また会いましょう)」はスタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」のラストで素晴らしい使われ方をしている名曲である。

 クリーチャーやモンスターの造形は、ラブクラフトのクトゥルフ系と思われ、更にナチス・ドイツのオカルト主義的な背景や、ヒーローが所謂悪魔的な外見を持っているところが本作を印象深い作品に仕上げている。

 キャストは何と言ってもロン・パールマンだろう。ワンマンで強いヒーローでありながら、外見に悩む情けないヒーローを楽しげに演じている。これはロン・パールマンのルックスに因るところが大きいと思う。ロン・パールマンなくして「ヘルボーイ」の実写化は考えられないのだ。

 そしてジョン・ハートである。フランケンシュタインのモンスターを創造したフランケンシュタイン博士を髣髴とさせる、ヘルボーイへの愛情を色濃く反映させた素晴らしい父親像をクリエイトしている。

 脚本は、物語の根幹となる大掛かりなプロットは若干ありがちだが、世界観を構築するちいさなネタの数々が楽しい脚本になっている。
 
 観客を選ぶ作品かも知れないが、この秋是非劇場で観ていただきたい作品なのだ。
 個人的には「ヴァン・ヘルシング」を観るなら「ヘルボーイ」だな、と思う訳です。

☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2004/09/23発売のDVDボックスセット「スター・ウォーズ トリロジー」に新映像が収録されている事が発表された。

http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-040915-0004.html

以前から、「スター・ウォーズ」旧三部作のDVD化に向けて、そんな噂はチラホラ出ていたのだが、各方面から漏れ聞く情報によると、本格的に映像の修正が行われているようである。

その辺については、現在いろいろなサイトで比較画像が公開されはじめているのだが、その中で、比較的見やすいサイトを紹介しよう。

http://www.thedigitalbits.com/reviews3/starwarschanges.html

ところで、「スター・ウォーズ」という作品は、ジョージ・ルーカスの手により、公開後度ある毎にいろいろな部分に改変が加えられているのである。

例えば、公開時にはなかった「エピソードIV」の副題(”THE NEW HOPE”)が後日(日本語版公開時だったか、リバイバル時だったか記憶は定かではない)付いたり、「エピソードVI」の副題がギリギリまで”REVENGE OF THE JEDI”だったため、邦題は「ジェダイの復讐」になってしまったり、ご承知のように、旧三部作の様々な部分を修正した旧三部作「特別篇」(1997)が製作され劇場公開されたりしていた訳である。
(なお、今回のDVDから、「エピソードVI」の副題は「ジェダイの帰還」に変更になる。原題は”RETURN OF THE JEDI”。因みに、「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」の原題は”RETURN OF THE KING”である)

またソフト的にも「オリジナル版」、画質音質を向上させた「THX版」、シリーズとしての不具合を修正し1997年に公開された「特別篇」、そして今回の「DVD版」の4種類が存在する訳だ。

そしてルーカスは「スター・ウォーズ」を改変した場合、それ以前のバージョンを認めない、という営業戦略を取っており、おそらく今回の「DVD版」の発売に伴い、かつてのバージョンはオフィシャルな場では二度と見ることが出来なくなる、と考えられているのである。

そう考えた場合、今回の改変は、従来の「スター・ウォーズ」ファンにとって、良い事なのか、悪い事なのか、何とも釈然としないのだ。

さて、それではその辺の事情を考えつつ、先ほどのサイトを見てみよう。
 
 
ジャバの顔や皇帝の顔が格好よくなったり、残されていた英語表記がなくなったりするのは良いとして、アナキンの眉毛がなくなったり、半透明のアナキンがヘイデン・クリステンセンになってるのは、一体どういうことなのだ!
だったらサー・アレック・ギネスも引っ込めろ!
(誤解なきよう、本来はクリステンセンを引っ込めろ!の意味です)

もしかしたら、今回の「DVD版スター・ウォーズ」は、従来の「スター・ウォーズ」(1977)とは別物の作品になってしまったのではないだろうか?

「ヴィレッジ」

2004年9月11日 映画
2004/09/11 東京有楽町「日劇3」で、M・ナイト・シャマランの新作「ヴィレッジ」を観た。

 年間300本以上の映画を観るわたしだが、こんなに素敵な美しい映画を観たのは本当に久しぶりのことだった。
 
 
 先ず、何と言っても脚本が美しい。
 そして、脚本がただ単に美しいだけではなく、プロットと伏線が的確で完成度が驚異的に高いのだ。

 この殺伐とした世の中で、こんな美しい素敵な脚本が書かれ、それに出資する人たちがいて、映画化する人たちがいる。そして、そんな映画に客が入り、その映画を愛する人たちがいる。
 まだまだ人間も捨てたものでは無いな、と思う瞬間である。
 
 
 そして本作「ヴィレッジ」は、サスペンス・ホラーなどではなく、最もピュアなラヴ・ストーリーなのである。
 そして、そのピュアでイノセンスな物語が観客に与える感動は、観客を動かし、観客に浸透する何らかの力を持っているのだ。

 このカタルシスは最近では「ビッグ・フィッシュ」にも似た印象を感じる。
 
 
 1897年、ペンシルヴェニア州。
 その村は深い森に囲まれ、まるで絶海の孤島のように外の世界から完全に隔絶されていた。
 人口60人ほどのこの小さな村で、人々は互いに助け合いながら自給自足の生活を営んでいる。それはまるで家族のような強い絆で結ばれた、理想のユートピアだった。
 だが、このユートピアを守るために、村人たちは不可解な「掟」を遵守することが義務付けられていた。

監督・脚本:M・ナイト・シャマラン
出演:ブライス・ダラス・ハワード(アイヴィー・エリベザス・ウォーカー)、ホアキン・フェニックス(ルシアス・ハント)、エイドリアン・ブロディ(ノア・パーシー)、ウィリアム・ハート(エドワード・ウォーカー)、シガーニー・ウィーヴァー(アリス・ハント)、ブレンダン・グリーソン(オーガスト・ニコルソン)
 
 
 M・ナイト・シャマランの作品には「サプライズ」がある。
 そして凡百の観客はその「サプライズ」の成否で、作品の評価を行う訳である。
 おそらくこれは、配給会社の戦略的公告の弊害だと言えると思うのだが、多くの観客は、その「サプライズ」=「オチ」しか見ていないのである。これは悲しむべきことだと思うのだ。
 本作「ヴィレッジ」は、その「サプライズ」の根底にある部分を理解して欲しいし、何故彼等が「サプライズ」的な行動を取ることになったのか、その理由をしっかりと考えて欲しいのだ。
 その上で、アイヴィーが取った行動を、その行動の目的を、そしてその行動を取ることになる単純なそれでいて説得力のある理由を、ピュアでイノセンスな行動原理を理解して欲しいのだ。

 そして、あの最後のセリフ、エンド・クレジットが始まる寸前のカットを見て欲しいのだ。

 そして感じて欲しい、あぁ、何と素晴らしいピュアでイノセンスな「ラヴ・ストーリー」だったなぁ、と。
 それでいて、普遍的で童話的な素敵な物語だったなぁ、と。
 
 
 前述の理由から、本作「ヴィレッジ」は、賛否両論、下手をすると多くの観客からは酷評される可能性が高いかも知れないが、サスペンス・ホラーではなく、ラヴ・ストーリーだと思って本作を楽しんで欲しいのだ。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

 キャストについてだが、先ずウィリアム・ハート(エドワード・ウォーカー)は「A.I.」のホビー教授に役柄がダブるが、論理的な村のリーダー役と、感情的な娘の親という複数の側面を持ったキャラクターを好演している。出番は少ないが、強烈な個性を観客に残している。
 特に、過去のセリフをナレーション的に語るシークエンスが感動的である。

 ホアキン・フェニックス(ルシアス・ハント)は、村の進歩的な考えを担う、木訥な好人物役を好演している。
 ピュアで不器用な恋愛表現が、おかしくも悲しい。
 そして、その不器用な恋愛表現は、勿論ウィリアム・ハートの論理的ではありながら不器用な恋愛表現と対比されている。
 これは、逆にブライス・ダラス・ハワード(アイヴィー・エリベザス・ウォーカー)と、シガーニー・ウィーヴァー(アリス・ハント)が分析する彼等の恋愛表現も面白いのだ。

 そして、ブライス・ダラス・ハワード(アイヴィー・エリベザス・ウォーカー)だが、彼女のピュアな一途さが、この映画の全てである、と言っても良いだろう。
 不幸な出来事の中で、まっすぐに行動する彼女の潔さが美しくも格好良い。彼女の一途でピュアな行動が、われわれ観客にピュアな灯りを点すのだ。余談だがハワード一家の一員として今後に期待の女優なのだ。

 そして、エイドリアン・ブロディ(ノア・パーシー)も素晴らしい印象を観客に与えている。前作である「戦場のピアニスト」とは異なる意欲的な役を好演している、と言えるだろう。あらたな側面の開花と言うことであろうか、今後の活躍に期待なのだ。

 あと特筆すべき点は、見事な世界観を構築している美術だろう。 「サプライズ」の伏線となる様々な小さな目配せも楽しいのだ。

 目配せといえば、M・ナイト・シャマランが演じた人物の組織の名称も見逃してはいけない点だろう。 

☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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「SURVIVE STYLE5+」

2004年9月10日 映画
2004/09/10 東宝本社試写室で行われた「SURVIVE STYLE5+」のティーチ・イン試写会に参加した。

 ティーチ・インのゲストは、監督の関口現、企画・原案・脚本の多田琢、キャストのJAI WEST。
 
 
1.殺しても殺しても、なぜかより凶暴になって蘇ってくる妻(橋本麗香)。その妻を殺し続けようとする男・石垣(浅野忠信)。

2.観客に催眠術をかけたまま殺し屋に殺されてしまう人気催眠術師・青山(阿部寛)。その青山の恋人CMプランナー・洋子(小泉今日子)。

3.ショーのステージで催眠術をかけられてしまい、自分を鳥だと思い込んで暮らす小林(岸部一徳)。その姿に戸惑う妻(麻生祐未)と子供たち(長女/貫地谷しほり、長男/神木隆之介)。

4.空き巣をして生活する津田(津田寛治)と森下(森下能幸)とJ(JAI WEST)の3人組。

5.いつも同時通訳(荒川良々)を連れて行動する、ロンドンからやってきた殺し屋(ヴィニー・ジョーンズ)。

 交わるはずのない彼らの運命が時に複雑に、時に微妙に絡み合い、物語は思いもよらないクライマックスを迎える・・・。
(オフィシャル・サイトからほぼ引用)
 
 
 今年の秋、一番オススメの邦画である。
 本作「SURVIVE STYLE5+」は、所謂邦画の枠を飛び越えた、一流の娯楽作品に仕上がった意欲作なのだ。

 正直なところわたしは、本作「SURVIVE STYLE5+」は、CMプランナーとCMディレクターのコンビが製作した映画だと知り「どうせひとりよがりのマスターベーション映画だろう」とか「スタイルだけでどうせ中身がないんだろう」と言うマイナスイメージの先入観を持っていた。
 そしてティーチ・インの場所でも一映画ファンとして、辛辣な意見で攻撃でもしてやろうかな、と思っていた訳である。
 しかし、その目論見は見事に外れ、そのティーチ・インの会場には「SURVIVE STYLE5+」に感動し絶賛してしまっているわたしがいた訳なのである。

 皆さんご承知のように、世の中には、CF(CM)業界やPV業界で評価され、その評価を足がかりに映画業界に進出するクリエイターが少なくない。
 例えばリドリー・スコットや大林宣彦はCF畑出身だし、最近では宇多田ヒカルの夫・紀里谷和明はPV業界での名声を足がかりにして「CASSHERN」を監督したのは記憶に新しい。

 そして、わたしが「SURVIVE STYLE5+」にマイナス・イメージの先入観を持ってしまったのは、勿論、紀里谷和明の「CASSHERN」の失敗が念頭にあった訳なのだ。

 しかし、関口現と多田琢コンビは違っていた。
 勿論、CFあがりという事もあり、美術や衣装、セットやプロップから構築される世界観は素晴らしく、撮影もシンメトリーな構図を生かした印象的なモノであり、スタイルや世界観は思ったとおりのクオリティを持っていた。
 が、「SURVIVE STYLE5+」はそれだけ、−−映像スタイルやビジュアル・イメージだけ−−、ではなかったのだ。

 何しろ脚本が素晴らしい。
 勿論脚本の根底には所謂グランド・ホテル形式が顔を出し、グランド・ホテル形式の傑作「マグノリア」の影は否めない。
 しかし、5本の並行する物語がいちいち面白く、セリフだけではなく観客の読解力を信頼した心象描写を期待する方向性を持った脚本に仕上がっているのだ。

 そして、それをビジュアル化する演出力は、まあ、あたりまえと言えばあたりまえなのだが、CFあがりのクリエイターが持つ、観客への訴求力、−−何を観客に訴え、何を感じさせ、何を観客にさせたいのか、−−が明確に感じられるのだ。このあたりはCFの仕事柄から派生したテクニック感は否めないが、訴求力が明確ではなく、スタイルのみを求めるPVあがりの監督とは一線を画しているのではないだろうか。

 更に共感を覚えたのは、関口現は映画研究会出身であり、映画を愛する一映画ファンだった、と言うことである。
 そして、本作「SURVIVE STYLE5+」は様々な映像作家へのオマージュと言うか、リスペクトと言うか、引用に満ちている。
 その映像作家へのリスペクトの矛先は、スタンリー・キューブリック、ビンセント・ギャロ、ホール・トーマン・アンダーソン、マイク・マイヤーズにはじまり、市川崑や森田芳光に至るのを見るにあたっては、監督である関口現の映画に対する愛情が、付け焼刃的なものではなく、関口現の根源的なものである、と言うことが見て取れるのだ。
 尤も、様々な映像作家の映像スタイルの引用が、果たして作品の演出上良いことなのかどうかは、諸意見あるところだと思うが、わたしは関口現の映画に対する愛情を評価し「SURVIVE STYLE5+」に対し好意的な考えを持った訳なのだ。

 キャストは、浅野忠信にしろ、橋本麗香にしろ、小泉今日子にしろ、阿部寛にしろ、岸部一徳にしろ、麻生祐未にしろ、津田寛治にしろ、森下能幸にしろ、Jai WESTにしろ、荒川良々にしろ、ヴィニー・ジョーンズにしろ全て素晴らしい。

 その中でも最近出ずっぱりの感が否めないが、岸部一徳が素晴らしい。「SURVIVE STYLE5+」の成功は岸部一徳のおかげと言っても過言ではないだろう。こんな素敵なキャラクターを飄々と演じる岸部一徳に感涙ものなのだ。

 また、小泉今日子についてだが、彼女の役柄は若干コミカルなものなのだが、演技はコメディではなく、普通の映画の演技スタイルに近く普通に感動できる演技を見せてくれている。これは相米慎二の遺作「風花」にも通じる素晴らしいものがある。特にタクシーから降りて走るシーンは素晴らしいみずみずしさに満ちている。

 そして荒川良々だが、構築された世界観も相まって素晴らしい印象を観客に与えている。最近引っ張りだこ状態の荒川良々だが、「SURVIVE STYLE5+」は彼にとって、ひとつの代表作になるのではないだろうか。

 あとは、津田寛治、森下能幸、Jai WESTの空き巣トリオが最高に素晴らしい。特に森下能幸とJai WESTのコンビは秀逸である。役柄としては、彼等は本作「SURVIVE STYLE5+」のコメディ・リリーフを担当し、5本のエピソードの中では息抜き部分、−−箸休め的シークエンス−−、となっている訳だが、「お笑い」や「箸休め」ではなく、「何か/サムシング」の存在を感じさせる素晴らしいシークエンスに仕上がっている。
 
 
 つらつらと、硬い事を言っているが、この作品は誰でも素直に楽しめる素晴らしい娯楽作品である。
 何も考えずに素直に楽しんで欲しい一本なのだ。
 日本映画に失望するのは、まだ早いのだ。

前略、関口現さま/公開ファンレター(「SURVIVE STYLE5+」)
http://diarynote.jp/d/29346/20040923.html
各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。

そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
 
 
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html

2.ユーモアの欠如
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html

3.成長しない登場人物

 「スチームボーイ」 の予告編を観たわたしが最初に思い描いたのは、「スチーム・ボールと言う言わば悪魔の発明品を、複数の組織や個人が奪い合い、その渦中においてレイとスカーレットが様々な経験をし、ある種の通過儀礼を経て、その結果それぞれがそれぞれ成長する」というものだった。
 仮に「スチームボーイ」が一般の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」だとすると、「物語内で語られる何らかの契機により主人公が成長する」と言うプロットは、必要不可欠な要因だ、と言っても良いだろう。事実多くのヒーローを描いた物語は、ヒーローの通過儀礼と共にヒーローの誕生と活躍を描いている。

 しかし、この「スチームボーイ」においては、その論理は成立しないのである。何しろ、レイやスカーレットは物語の「中」では成長しないのである。

 レイは「おじいちゃんが発明したスチーム・ボールを戦争なんかには使わせない」と孤軍奮闘する中で、様々な人々と出会い、様々な人の考えに触れ、いろいろな経験をするのだが、レイの人生の転機となる強烈な事象には遭遇していないし、イニシエーションも体験していないし、特段成長したような描写もないのだ。

 一方スカーレットはスカーレットで、オハラ財団で学んでいるだろうオハラ財団の「帝王学」の行動原理に貫かれた行動を取り続けているのだ。
 例えば、イギリスとオハラ財団の戦争が始まれば、サイモンに「負けちゃダメよ」と釘を刺すし、蒸気で動く兵士の甲冑の中に人が入っているのを見ても「人が入っているじゃないの」と、一応は驚くのだが、その後の彼女の行動に変化が表れたようには見えない。

 しかし多くの物語では、例えばルーク・スカイウォーカーだって、萩野千尋だって、ピーター・パーカーだって、不動明だって、ある種の通過儀礼を経て、何らかの成長を遂げ、ヒーローになっている訳なのだ。

 そう考えた場合、見えてくるのは、この「スチームボーイ」という作品は、登場人物が「本編中」では成長しない、斬新な構成を持った物語だと言えるのだ。

 とは、言うものの、世の中には登場人物が成長しない物語はいくらでもある。物語の中で「登場人物の周りでは、いろいろなことがあったが、結局は一回りして元通り」と言う構成を持った物語である。
 例えば「ジョゼと虎と魚たち」のジョゼは成長しないキャラクターとして、−−普遍的で超然的な達観した存在として--、描かれているし、「69 sixty nine」のケンとアダマはある意味成長を拒絶した永遠の存在として描かれている。これは押井守の「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」にも通じる。

 そうなのだ、成長しないキャラクターを描く際、そのキャラクターは普遍的で超然的で神格化された存在として描かざるを得ないのである。
 しかし、「スチームボーイ」はどうだろう。レイにしろスカーレットにしろ、そのような超絶的で達観したキャラクターとして描かれているだろうか・・・・。

 そう、賢明な読者諸氏は既にお気付きの事と思うが、「本編中」では通過儀礼もないし、成長もしないレイとスカーレットだが、実際のところはなんと「スチームボーイ」の物語が終わってから見事に成長しているのだ。(次回「ヒーローの誕生」に続く・・・・)

4.ヒーローの誕生
 
 
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
「スチームボーイ」を弁護する その2
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html
2004年9月1日に発売になった「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の初版は290万部だそうである。(上下巻なので実際は290万セット)

8月1日付の日本の人口は「人口推計月報」によると1億2,758万人、そのうち10〜59歳までの人口は8,250万人である。
仮に「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の購買層が10〜59歳までだとすると、10〜59歳の人100人に3.5セット分の「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」が存在することになる。

因みに2002年10月に出版された「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(初版230万部/初版6刷までで350万部に達した)は、半年後の2003年3月の時点で、35〜70万部の捌ききれない不良在庫が全国の書店にあったらしい。
 
 
ところで、書籍や雑誌の販売は一般的に委託販売である。

簡単に言うと、出版社が書籍や雑誌を製作し、全国の一般書店の店頭に置かせてもらっている、という訳である。
従って、書店は売れ残った書籍や雑誌を出版社に返品する事が出来、書店は書籍や雑誌が売れ残る(損失が出る)というリスクを負わなくて良いシステムになっているのだ。

しかし、人気のある書籍や実績のある出版社、人気作家の書籍や話題作の中には、買取で販売される書籍や雑誌もある訳で、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」もご多分に洩れず買取制度を利用しているのだ。

つまり「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の売れ残りのリスクは全国の一般書店が負う、と言うシステムになっているのだ。

従って、前述のように35〜70万部もの「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の不良在庫を抱えたのは、出版社である静山社ではなく、全国の一般書店であった、と言うことなのである。

そして、再販制度と言うしばりがある以上、書籍の販売価格を下げる事が出来ない一般書店は「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の不良在庫を抱え、新品のまま古本屋に持ち込んだり、仕方が無いので学校の図書館に寄付したり、はたまた不良在庫として死蔵したり、と言うことが一般的に行われていたらしい。
 
 
ところで、静山社は、1979年の設立以来、地道な出版活動を続けてる小さな出版社だったのだが、1999年の「ハリー・ポッターと賢者の石」以来、静山社を取り巻く環境は一変する。
何しろ、静山社はメディアに取り上げられるような書籍など、全くと言って良いほど出版した事のない弱小出版社だったのである。

事実「ハリー・ポッターと賢者の石」以前に静山社が出版した書籍をわたしは知らなかったし、あろうことか静山社という名前すら知らなかったのである。
おそらく、大多数の人達も、このような状況だったに違いない。

そして「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」を買取で販売した際は、「無名の弱小出版社がたまたまベストセラーを出したからって、買取で書籍を販売するような殿様商売をしやがって、一体お前は何様のつもりだ!」等の感情的な反発も多々あったようである。

実際、わたしには大ベストセラー本の版権を持つ出版社が、リスクを弱小書店に負わせる買取制度を利用して、続々と大ベストセラー書籍を出版する理由がよくわからないのだ。

わたしには、たまたま強者になってしまった者(静山社)が、かつて自分がそうであったような弱者(一般書店)にリスクを負わせる、という構図が、メディアに登場する静山社の現代表者兼翻訳者の松岡佑子の言動と逆方向のベクトルを持っているように見えるのだ。

世界の子供たちに良質の書籍を提供する事を目的としている松岡佑子のスタンスと、買取制度の間に一体何が存在するのだろうか。

「ベストセラー本と図書館の死」
http://diarynote.jp/d/29346/20040628.html

《NHK「クローズアップ現代」に対する図書館の見解》
http://www.city.machida.tokyo.jp/new/03new0201_05.html

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2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」で「アイ,ロボット」の試写を観た。

アイザック・アシモフによるロボット工学三原則
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
(A robot may not harm a human being, or, through inaction, allow a human being to come to harm.)
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
(A robot must obey the orders given to it by the human beings, except where such orders would conflict with the First Law.)
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
(A robot must protect its own existence, as long as such protection does not conflict the First or Second Law.)

2035年、シカゴ。
今からわずか30年後の近未来、家庭用ロボットが人間のパートナーとして普及している時代。
そしてさらに、革新的な技術による新世代ロボットNS−5型が登場し、新たなロボット社会の夜明けを迎えようとする直前、そのロボットの生みの親であり、ロボット工学の第一人者、アルフレッド・ラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)が死体で発見される。

ラニング博士と親交のあった、シカゴ市警のデル・スプーナー刑事(ウィル・スミス)は、ラニング博士の事件は、自殺ではなく殺人事件だと疑い、現場に潜んでいた最新NS−5型ロボットのサニーを重要参考人として拘留する。

「ロボット3原則」をプログラミングされ、絶対に人間に危害を加えられないはずのロボットが殺人を犯せるのか?

謎を追及するデル・スプーナー刑事とロボット心理学者スーザン・カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)は、やがて・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:アレックス・プロヤス
出演:ウィル・スミス、ブリジット・モイナハン、ジェームズ・クロムウェル、ブルース・グリーンウッド、チー・マクブライド、アラン・テュディック

果たしてロボットは殺人を犯せるのか?

正直なところ、ビジュアルは変わっても、語る物語はいつもと同じ、というような印象を受けた。

「鉄腕アトム」をはじめとして、子供の頃から様々なロボットの物語に接している日本人にとって本作「アイ, ロボット」は決して新しい物語ではなく、最早手垢がついた感のある題材を基にした物語である、と言っても差し支えはないだろう。

特に本作の物語のコンセプトは、手塚治虫の「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を原案として現在浦沢直樹が描いている「PLUTO(プルートゥ)」と似ているし、キャラクター的には、ウィル・スミス演じるデル・スプーナー刑事は「鉄腕アトム/人工太陽球の巻」の探偵シャーロック・ホームスパンのような環境下にある。勿論これは最近の「イノセンス」のバトーも同様のキャラクター造型がされているのは周知のことと思う。

また、ビジュアル的には「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」の影響をうけた「マトリックス」で使用されたアクションが、またもや使われているし、往年の「トロン」を髣髴とさせるビジュアル・イメージもある。また「スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス」的なデザインも登場するのである。

更に、ロボットの中に芽生える「魂的なモノ」のことを「ゴースト」と表現するにいたっては、オマージュなのかなんなのか、もう定かではない、釈然としない気持ちなのである。

確かにCGIのビジュアル・イメージとアクションは確かに見応えがあるし、ロボットNS-5シリーズが蜂起する様は圧倒的である。
またロボットのサニーを演じたアラン・テュディックは、評価に値する微妙な表情による演技を見せている。
またトンネル内のカーチェイスも演出的には非常に面白い。

ところで、ロボットの蜂起は、ある意味「ゾンビ」的な楽しみ方も出来るかも知れないね。

しかしビジュアル・イメージが凄いからと言って、物語が面白いか、と言うとその辺は微妙である。
物語は前述のように、日本ではよく聞く話であり、その語り口は、ハードボイルドの探偵モノなのである。
その辺をどう評価するかによって、本作「アイ, ロボット」は傑作にも駄作にもなるのではないか、と思うのだ。

余談だが、ロボットと言う言葉が始めて登場したのは、ロシアの作家カレル・チャペックの「R.U.R」(1920)と言う戯曲なのであるが、本作「アイ, ロボット」の中で、ロボットを開発している企業名は、なんと「U.S.R」。なんとなく、似ているのではないかな。

ついでにこの戯曲「R.U.R」だが、舞台は人造人間(ロボット)の製造販売を一手にまかなっているR.U.R社の工場。人間の労働を肩代わりしていたロボットたちが団結して反乱を起こし、人類抹殺を開始する。「R.U.R」は、機械文明の発達がはたして人間に幸福をもたらすのか、と言うチャペックの予言的作品、なのである。

結果的には、わたし的には、ちょっとだけ奥が深いCGI満載の娯楽作品と、言うところであろうか。
話題の作品なので、関心があるのなら、折角なので是非劇場で観て欲しい作品だと思うのだ。

そして、もしあなたが日本人でなければ、または「鉄腕アトム」をはじめとした、様々なロボットの物語を知らないのであれば結構楽しめる娯楽作品なのかも知れない。

余談だが、デル・スプーナー刑事と、探偵シャーロック・ホームスパンとバトーが似ている話をしたのだが、そのあたりを明確に示すシークエンスが何度か登場する。デル・スプーナー刑事の寝起きのシーンで、彼は右手に拳銃を持ち、左肩を揉むような行動を取る。
これは、左手が行うことを右手が信用していないことを示しているのである。

「デビルマン」

2004年9月5日 映画
2004/09/05 東京有楽町 東京国際フォーラムCホールで行われた「デビルマン」のプレミア試写会に行って来た。

舞台挨拶は紹介順で、監督の那須博之、出演の伊崎央登、伊崎右典、酒井彩名、渋谷飛鳥、冨永愛、阿木燿子、宇崎竜童、そして原作の永井豪。
また、舞台挨拶の冒頭にはhiroの主題歌「光の中で」のライヴがあり、明日9月6日が誕生日である永井豪の誕生祝もあった。
 
 
両親を亡くし牧村家(啓介/宇崎竜童、恵美/阿木燿子)に引き取られた不動明(伊崎央登)は平凡な高校生として、ガールフレンドの牧村美樹(酒井彩名)らと共に、穏やかな毎日を送っていた。

一方、明の親友で、飛鳥教授(本田博太郎)を父に持つ飛鳥了(伊崎右典)は何不自由なく育ち、スポーツも成績も優秀だったが、キレルと何をするかわからない恐さを秘めていた。

そんなある日、新エネルギーを探索する飛鳥教授らは南極地底湖のボーリング中に、人と合体して増殖する古代知的生命体「デーモン」を呼び覚ましてしまう。

それは他の種族の生命体と合体し、その相手の能力を取り込み進化し続ける邪悪な魂を持つ知的生命体であった。
そして、次々と人間を乗っ取り始めたデーモンたち。

了とともに飛鳥教授の研究施設を訪れた明の体にもデーモンが侵食を開始するが・・・・。
 
 
永井豪の「デビルマン」を、二つの大きな出来事を含めて、実写化したことは評価できるが、全体的に見た場合、本作「デビルマン」は残念な作品だと言わざるを得ない。

個人的には、折角の「デビルマン」実写化のチャンスを・・・・。
と言う気持ちで一杯である。

先ずは、脚本がまずい。
好意的に強引に解釈すると「行間を読め」的な脚本とも取れるのだが、一般の観客に対しては、あまりにも不親切で、どんどん話が進んでしまう感が否めないし、原作の壮大なイメージを著しく矮小化されているような印象を受ける。

また、登場人物が特異な環境や背景、状況をあまり考えずに簡単に受け入れ、納得してしまっているのはいかがなものか、と思うのだ。

そして、主演二人の演技がまずい。
二人のビジュアルは、許容範囲であり、上手く行けば上手く行くのでは、と期待していたのだが、残念な事にわたしの期待は見事に裏切られる結果になってしまったと言わざるを得ない。
キャストよりCGIの方が演技が上手いのは、まずい事だと思うのだ。

しかし、逆に吹替え上映が一般的な海外にこの作品を持って言った場合、二人の演技がダメでも、所謂声優さんが頑張れば、何とかなるのかも知れない。とも考えてしまう。

あとは、日本映画の悪い癖なのだが、不必要なカメオが多い点が気になった。
物語のテンポを崩し、シリアスな場面だったものをコミカルな場面に転化してしまい、観客の意識を物語から引き離してしまう、こんなカメオが本当に必要なのだろうか?
勿論、いろいろな「大人の理由」が存在している事は承知しているが、やはり不必要なカメオの導入には、大きな疑問を感じてしまうのだ。

とは言うものの、評価できない点ばかりかというと、そうでもなく、例えば前述の通り、原作にある「二つの大きな出来事」を正攻法で正面から描いたのは、評価できるし、気分的には拍手モノである。勿論絵面だけ再現したからと言って拍手するのも問題だと思うのだか。

特に、二つ目の方の出来事を描いたのは、素晴らしい事だと思う。そのあたりの描写に「新世紀エヴァンゲリオン」のイメージとダブる感があるが、モトネタは「デビルマン」である。

また、CGIについては、ハリウッド作品のように、画面が暗い上に、カメラが被写体に寄り過ぎていて、何が起きているかわからない、と言ったCGIアクションではなく、引きでしかも比較的明るい画面で、CGIアクションを見せたのは評価に値するだろう。

そして、実写とCGIとアニメーションを融合させた「T−VISUAL」と言う手法も評価に値するのではないか、と思うのだ。
現在一般的に行われている、モーション・キャプチャーではなく、原画マンが描いた「アニメ的に誇張された原画」を基にCGIが創られているのだ。そういった手法をあみ出した事は評価できるのだ。

これは、ストップ・モーションの第一人者フィル・ティペットがCGIのスーパーバイザー等を務めた「ジュラシック・パーク」や「マトリックス レボリューションズ」の、CGIながら、生物的で愛嬌を持った動きを再現していたり、機械でありながら、その機械の操縦者の性格を表現しているような動きをしているのと、対比する事が出来る。

誤解を恐れずに言わせて貰えば、古い技術のエッセンスを活用し、新しい手法でキャラクターに命を吹き込んでいる、と言うことなのである。

しかしながら、実写パートとCGIパートが見事に融和を拒んでいる。カメラの動きも、何もかもが牽制しあっている印象を受ける。
また編集もガタガタで、シーンの繋がりが驚きに満ちている。

キャストについては、やはり主演の二人(伊崎央登、伊崎右典)は、演技ではなく、ビジュアル先行で本作にキャスティングされたのだとは思うし、そのビジュアル先行のキャスティングに対しては、ある意味成功だと思うし、英断だと思うのだが、如何せん演技がついて行っていないのだ。
もうすこし演出でなんとかならなかったのだろうか。非常に残念な気がする。
今時の学芸会でももっとマシだと思うのだ。

一方、牧村美樹役の酒井彩名は結構良かったし、ミーコ役の渋谷飛鳥や、ススム役の子役(名前はわかりません)もまあまあ良かった。と言うか、素晴らしく見えた。
と言うか、この二人はガタガタの現場でよく頑張ったと思うぞ。

主役二人より、ススムくんの方が演技が上手だと言うのは、困ったものである。(余談だが、ススムくんを演じた子役俳優は舞台挨拶には出てこなかったのだが、親子連れで会場に顔を出していた)

シレーヌを演じた冨永愛は存在感があり、思っていたより良い印象なのだが、CGIの部分とライブ・アクションの部分でコスチュームが全然違うのは、いかがなものか、と思うのだ。
ついでに脚本上、シレーヌはいなくなってしまうし。

結論としては、
1.FLAMEファンの皆さんには、オススメの作品
2.原作「デビルマン」ファンの皆さんには、「二つの大きな出来事」が真正面から映像化されている点、CGIのデビルマン等のビジュアル・コンセプトが良い点、「その部分だけで良ければ」、結構オススメの作品
3.一般の観客の皆さんには、日本が誇るダーク・ヒーローの実写化娯楽作品として、少しだけオススメの作品と言うところだろうか。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
激怒でございます。
原作と映画は別物だと常々思っているし、そう言う発言を繰り返してきたわたしでさえ、映画を観ている間、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。

カメオ出演の永井豪の悲しげな表情は何を意味していたのだろうか。
2004/08/28 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」のオープニング作品「シークレット・ウインドウ」の試写を観た。

郊外の別荘で新作を執筆中の人気作家モート・レイニー(ジョニー・デップ)。

だが彼は、妻エイミー(マリア・ベロ)との離婚調停と言う大きな問題を抱え、執筆活動に行き詰っていた。
妻エイミーとテッド(ティモシー・ハットン)の不倫現場のモーテルに踏み込み、離婚調停の問題を顕在化させたのは、他ならないモートその人であった。

そんなある日、モートのもとにジョン・シューター(ジョン・タートゥーロ)と名乗る謎の男が訪ねてくる。
その男は唐突に、自分の小説がモートに盗作された、と言うのだった。

身に覚えの無いモートは、全く取り合わないが、シューターがポーチに一方的に置いていった原稿の内容は、モートの短篇小説「秘密の窓」と全く同じモノだったのだ。
そして・・・・。

監督/脚本:デヴィッド・コープ
原作:スティーヴン・キング 「秘密の窓、秘密の窓」(「ランゴリアーズ」所収/新潮社刊、新潮文庫刊)
出演:ジョニー・デップ、ジョン・タートゥーロ、マリア・ベロ、ティモシー・ハットン、チャールズ・ダットン

おそらく本作「シークレット・ウインドウ」は、スティーヴン・キング原作作品の映画化と言うより、ティム・バートンの「シザーハンズ」以降、「妹の恋人」「ギルバート・グレイプ」「エド・ウッド」「ラスベガスをやっつけろ」「ブロウ」といった、ハリウッドでも作家性の高い作品に好んで出演し、近年は「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」で大ブレイク、2003年アカデミー賞主演男優賞にもノミネートされたジョニー・デップの出演作品として評価される作品だろう。

また本作は、「永遠に美しく・・・」「ジュラシック・パーク」「カリートの道」「ザ・ペーパー」「ミッション:インポッシブル」「スネーク・アイズ」「パニック・ルーム」「スパイダーマン」等の脚本を手がけた名脚本家デヴィッド・コープの2作目の監督作品として(事実デヴィッド・コープ監督作品としては、初めて評価される作品となるかも知れない)も評価できる作品とも言える。

しかし、これらは逆説的に言うと、本作「シークレット・ウインドウ」は、キング作品の映画化を前面に押し出し、結果的には残念な結果に終わるような作品ではなく、一般の映画作品として評価できる作品に仕上がっている、と言えるのだ。

さて、そのデヴィッド・コープ自ら手がけた脚本は、基本的には原作である「秘密の窓、秘密の窓」(「ランゴリアーズ」所収/新潮社刊、新潮文庫刊)の基本プロットに準じており、−−と言うより、キングの原作自体がプロットや伏線を生かしつつ映画にしやすい完成度の高い小説に仕上がっているのかも知れないのだが、−−また、微に入り細に入り、カッチリ破綻無く組まれた見事な脚本を楽しむことが出来る。
特に、ジョニー・デップ演じるモート・レイニーの内面との対峙部分や、ラストの独白的シークエンスは秀逸であろう。

また演出については、冒頭のモートの飼猫がジョン・タートゥーロが演じるジョン・シューターの足元に絡みつくあたりや、モートが自動車を落とすシークエンス、勿論モートの内面との対峙、エピローグ的エピソード等、きっちりと振付けられたアクションを観ているような、脚本と演出の一体感が楽しめる。

キャストは、モート・レイニーを演じたジョニー・デップは、「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」 同様若干オーバーアクト気味な感は否めないが、自らの内面に問題を抱える人気作家を見事に演じている。
誰も居ない部屋での独白や表情や指先等のユーモラスな動きは、−−勿論これはジュニー・デップの売りであり、個性だと言われると返す言葉が無いのだが、−−リアリティを求める観客に取っては、やはりオーバーアクトだと言わざるを得ない。

また、謎の男ジョン・シューターを演じたジョン・タートゥーロは何と言っても南部訛りの台詞回しが印象的である。わたしは寡聞にしてテキサス訛りと、ミシシッピ訛りの区別はつかないが、ミシシッピ出身のジョン・シューターの訛りは、スタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」のコング少佐(スリム・ピケンズ)を髣髴とさせる。

あと印象に残るのは、モート・レイニーが雇うアクティブな弁護士ケンを演じたチャールズ・ダットンだろう。容貌は勿論、金にうるさい、−−コンタルティング料をカウントする時計のシークエンス−−、出来る弁護士像が印象的だった。

物語の結末とエピローグについては、賛否があると思うが、余韻の残る素晴らしい幕切れではないかと思う。
しかし、物語の結末を指し示すセリフが、何度も何度も出てくるのには、若干興ざめの印象を否定できない。もう少し観客の記憶を信用し、暗にほのめかす程度で良かったのではないかとわたしは考える。

とは言っても、本作「シークレット・ウインドウ」は、全体的に見た場合、誰にでもオススメ出来る、秀作だと言えるだろう。
また、ジョニー・デップ目当てで劇場に足を運んだ人に、スティーヴン・キングを知らしめる役割を果たしてくれる、素晴らしい作品になるのかも知れない。
2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」で「マイ・ボディガード」の試写を観た。

16年間アメリカ海軍の対テロ特殊部隊に所属していたクリーシー(デンゼル・ワシントン)は飲酒で身を持ち崩していた。

それを見かねた、かつての盟友で現在メキシコに居を構えるレイバーン(クリストファー・ウォーケン)は、クリーシーにメキシコの実業家夫妻(サミュエル/マーク・アンソニー、リサ/ラダ・ミッチェル)の娘ピタ(ダコタ・ファニング)のボディガードの職を斡旋する。

メキシコでは、実業家や富豪の子供たちを組織的に営利誘拐する集団が存在し、裕福な家庭では子供のためにボディガードを雇う事は一般的な事だった。

当初クリーシーは、ビジネスに徹しピタに冷たく当たっていたのだが、ピタの水泳コーチを引き受けた頃から、ピタと打ち解け初め、クリーシーとピタの間には、ビジネスを越えたある種の絆が生まれてきた。

そんなある日、クリーシーはピタを学校に送り迎えする際、同じ自動車を何度も見かけることに気付いたが・・・・。

監督:トニー・スコット
脚本:ブライアン・ヘルゲランド
原作:A・J・クィネル(「燃える男」/”MAN ON FIRE”)
出演:デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、ラダ・ミッチェル、マーク・アンソニー、ジャンカルロ・ジャンニーニ、レイチェル・ティコティン、ミッキー・ローク

トニー・スコットと言えば、当初は「トップガン」や「ビバリーヒルズ・コップ2」、「デイズ・オブ・サンダー」等、面白いが底が浅い娯楽作を監督していたが、「トゥルー・ロマンス」や「クリムゾン・タイド」以降、娯楽作でありながら、奥底に何かを感じられる作品を監督し始め、最近では「スパイ・ゲーム」で最早押しも押されぬ実力派監督の名を欲しいままにしている。

一方、脚本のブライアン・ヘルゲランドは、なんと言っても「L.A.コンフィデンシャル」で頭角を顕し、最近では「ミスティック・リバー」でも大いに評価されている名脚本家である。

そんな二人が組んだ上に、デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、クリストファー・ウォーケン、ジャンカルロ・ジャンニーニ等が出演となれば、否応もなく期待は高まる訳であり、そんな環境下でわたしは本作「マイ・ボディガード」を観たのである。

本作「マイ・ボディガード」は、一言で言うと大傑作であった。

トニー・スコットの作品を手放しで誉めちぎるのは、なんともしゃくだが、良い作品は仕方ないが良い作品なのだ。

先ず脚本だが、メインのプロットは、「かつてのエリートが落ちぶれ、片手間仕事に就くが、一時はその仕事に失敗するのだが、自分でその失敗のけじめをつける」というありがちなものだが、そこに到る過程が、微にいり細にいり完璧で、まるで美しいモザイク模様の工芸品を見ているような出来栄えの脚本なのである。

そしてその工芸品のような脚本に乗った演出も素晴らしく、数々の詳細な伏線が、画面の端々から観客に訴えかけてくる、そういった観点からすると、内容はともかく楽しい映画に仕上がっている。

そして、その物語を演じる役者たちだが、デンゼル・ワシントンやダコタ・ファニングはさておき、クリストファー・ウォーケンが素晴らしい。
最近情けない作品が多いウォーケンだが、本作では、かつてはエリートだった老兵を情緒たっぷりに演じており、また「戦争の犬たち」を髣髴とさせる映画的記憶を利用した素晴らしい役柄を演じている。久方振りに格好良いウォーケンを見たのだ。

また、名優ジャンカルロ・ジャンニーニ(マンザーノ連邦捜査官)とレイチェル・ティコティン(マリーナ/新聞記者)の正義派・社会派コンビも素晴らしい印象を観客に与えている。
ラストのレイチェル・ティコティンの決断と、ジャンカルロ・ジャンニーニの行動に拍手を贈りたいほどである。

ミッキー・ロークはわたし的には一時はどうなることかと思ったのだが、脚本上はキャスト・ミスになるところをギリギリで踏ん張った感があるが、面白い役所を演じている。

さて、主演のデンゼル・ワシントンだが、はっきり言って素晴らしい。役柄的には知的なだけではなく非常にタフな所があり、従来のワシントンのイメージを超えた素晴らしいクリーシー像を見せてくれている。

一方、ダコタ・ファニングは、観客に対してある意味凶悪で、最早ルール違反だと言っても差支えが無いのでは無いだろうか。
あんなに愛らしく天使のような少女が、悪人の手にかかったとなれば、デンゼル・ワシントンどころか、すべての観客が怒り心頭、怒髪天を衝く状態で、その意味で言えば、ダコタ・ファニングは観客を見事に一体化してしまう手腕を持っている、と言えるのだ。

画面は、おそらく撮影時の素材をデジタル処理し、セリフや動きのタイミングに合わせて、細かなズームやパン、ティルトを多用し、下手をすると乗り物酔いに似た症状を観客に与えかねない映像スタイルを取っていた。
その画面と舞台背景からは、スタイル的にスティーヴン・ソダーバーグの「トラフィック」のような印象をも受ける。

また、セリフの中での印象的な言葉を、スーパー・インポーズしていたのが印象的である。
この手法はスタイリッシュな反面、蛇足的印象を観客に与えてしまう点も、否定できない。

本作「マイ・ボディガード」は、復讐を描いたアクション映画だが、それを超越した、叙情的でもあり、社会派的でもあり、若干ハード過ぎるきらいもあるが、文句なしの大傑作である。

この秋、アクション映画を見るのならば、オススメの一本だし、アクションが苦手な社会派系の人にも、観ていただきたい素晴らしい作品なのだ。

=+=+=+=+=+=

余談だが、「スタートレック」的には、「キル・ビル(国際版)」の冒頭で引用された、クリンゴンのことわざ、

”Revenge is a dish best served cold.”

がデンゼル・ワシントンのセリフとして出てきた。
(実際は、爆発の音とかぶって正確には聞き取れなかった)
もしかすると、「クリムゾン・タイド」同様、クエンティン・タランティーノが脚本にノン・クレジットで一枚噛んでいるのかも知れない、と思った。

因みに日本公開された「キル・ビル Vol.1」では、”Revenge is a dish best served cold.”のタイトル・カードは、「深作欣二に捧ぐ」と言うカードに差し替えられていた。

このクリンゴンの古いことわざである”Revenge is a dish best served cold.”は、「キル・ビル Vol.1」と「キル・ビル Vol.2」を続けて観て、初めて意味が通じるひとつの伏線となっているのだが、日本では「深作欣二に捧ぐ」と言うカードに差し替えられていたため、その伏線があまり生きていなかった。

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☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2004/09/01 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」のクロージング作品「オールド・ボーイ」の試写を観た。

ごく平凡な生活を送っていた男オ・デス(チェ・ミンシク)は、娘の誕生日の晩、酔っ払った挙句に警察に留め置かれてしまう。一時はジュファン(チ・デハン)に身柄を引き取られるが、ジュファンが電話をかけている最中、オ・デスは何者かに拉致されてしまう。

その後、オ・デスはホテルの一室のような小さな部屋で意識を取り戻したのが、それ以降理由もわからないまま監禁され続け、監禁開始から15年後のある日、オ・デスは突然解放されてしまう。

一体誰が!?何の目的で!?

オ・デスは解放後に偶然出会った若い女性ミド(カン・ヘジョン)の協力を得、自分を監禁した相手を探し出し復讐することを誓う。
そんなオ・デスの前に謎の男イ・ウジン(ユ・ジテ)が現れるのだが・・・・。

監督:パク・チャヌク
出演:チェ・ミンシク、ユ・ジテ、カン・ヘジョン、チ・デハン、ユン・ジンソ

本作「オールド・ボーイ」はご承知のように、2004年カンヌ国際映画祭公式上映後のスタンディング・オベーションは10分間に及び、結果、見事グランプリ(審査員特別大賞)を獲得、審査委員長クエンティン・タランティーノにして『グレイト!最高に素晴らしい! 本当は「オールド・ボーイ」にパルムドールをあげたかった』と言わしめた作品である。

事実本作「オールド・ボーイ」は「カンヌ国際映画祭グランプリ」に恥じない、素晴らしい作品だった。

先ずは、とにかく脚本が素晴らしい。
わたしは寡聞にして原作を読んでいないため、原作と脚本の比較は出来ないが、本作「オールド・ボーイ」の脚本は緻密でいて大胆、縦横に張り巡らされた伏線を生かし、驚きに満ちた素晴らしいプロットに溢れている。

また、要所要所に描写される、「キーとなるモノ」のあっさりした描写が、わかる人にはわかる製作者の目配せ的伏線として機能しているあたりも良い印象を受けた。

本作「オールド・ボーイ」の脚本は、物語の表層部分が面白いのは勿論、物語の奥底に当たる部分も最高に面白い、と言う素晴らしく完成度が高い脚本だと言えるのだ。

キャストは、何と言ってもチェ・ミンシク(オ・デス)が素晴らしい。
観客を笑わすは、泣かすはの大活躍である。
冒頭のシークエンスでのチェ・ミンシクの酔漢振りも良いが、監禁時の鬼気迫る演技も、解放後の冒険や、ウジンとの対決も、何から何まで素晴らしいのだ。
悪い点を強いてあげるとすると、監禁前の姿のほうが、解放後の姿より年を取っているように見えるような気がする位である。

また、物語のキーとなる謎の男イ・ウジンを演じたユ・ジテも同様に素晴らしい。
本作「オールド・ボーイ」では、多くの観客は、理由はともかく15年間も監禁されていたオ・デスに感情移入すると思われ、実際ウジンは敵役を振られている事になるのだが、そんな状況の中で、知的でクールな、それでいて哀愁と喪失感を帯びた、奥深く複雑な敵役像を見せてくれている。

また、解放後のオ・デスをたまたま助けるミドを演じたカン・ヘジョンも素晴らしい。
わたしはミド登場時に、それほど良い印象を受けなかったのであるが、物語が進むに連れカン・ヘジョンは輝きを増し、ついには衝撃的な印象を残してくれる。

そして、端役やエキストラまで、末端まで真摯な態度が行き届いたキャスティングも素晴らしく、全ての役者が与えられた役柄を見事にこなしている。

一方、監禁部屋にしろ、ユジンのペントハウスにしろ、ミドの部屋にしろ、学校にしろ、美容院にしろ、インターネット・カフェにしろ、セットや美術、大小道具も素晴らしく、統一感がありながら、所有者のセンスや性格、感情が感じられる世界観の構築に貢献している。

そして、その素晴らしい世界観を冷徹に切り取り、二次元に定着させるカメラ。
撮影も大変素晴らしく、一度見たら一生忘れられない種類のカットを多数残している。
勿論、これは演出のおかげではあるのだが、妥協しない撮影の力を感じる作風だったのだ。
オ・デス(チェ・ミンシク)やイ・ウジン(ユ・ジテ)、ミド(カン・ヘジョン)等の表情や動きの切り取り方も凄いぞ。
スチール・カメラのような鋭敏さを持ったムービー・カメラなのだ。

ネタバレを避けるあまり、曖昧で抽象的な書きようになってしまっているが、これ以上の事を書くと本当にネタバレになってしまいそうなので、この辺にしておくが、わたしのオススメとしては、出来れば本作「オールド・ボーイ」に関する全ての情報をシャット・アウトした上で、一般のメディアで本作物語の内容が取り上げられる前に、出来るだけ早く観て欲しい。出来れば、チラシも見ない方が良いと思う。

そして、例えば「クライング・ゲーム」や「シックス・センス」の「秘密」を全ての観客が共有した上で「秘密」を守り、決して誰にも言わなかったように、本作「オールド・ボーイ」の「秘密」も観客全てが共有し「秘密」を守る、そんな映画になって欲しいと心から願うのだ。

とにかく、本作「オールド・ボーイ」は、今秋の目玉の作品という事もあるのだが、映画に関心を持っている人全てに観て欲しいとわたしは思う。

本作「オールド・ボーイ」は映画史に燦然と輝く作品になる可能性が高いと思うしね。

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余談

日本の劇画(漫画)を原作として、韓国にこんな素晴らしい作品を創られてしまうとは、日本人として悲しい気持ちで一杯なのだ。
日本のクリエイターの諸氏にも、もう少し頑張って欲しいと思うし、ワールド・ワイドな戦略を立てた、素晴らしい邦画を製作して欲しいと思う。

かつては香港映画に羨望の念を覚え、今は韓国映画に嫉妬の念を禁じえない状況は、果たしていつまで続くのであろうか。

余談だが、本作の脚本は「アンブレイカブル」のような、ラストでカッチリとはまる素晴らしいもので、その関係からか、サミュエル・L・ジャクソンが、ユ・ジテとかぶって見えてくる。

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