「プロヴァンスの贈りもの」
2007年7月18日 映画
2007/07/17 東京新宿「新宿明治安田生命ホール」で「プロヴァンスの贈りもの」の試写を観た。
イギリス人でありながら、南フランスのプロヴァンスに住みつき、ワイン造りを楽しみながら人生を謳歌するヘンリーおじさん(アルバート・フィニー)。少年マックス(フレディ・ハイモア)は毎年夏になると、ヘンリーの所有するシャトーとぶどう園ラ・シロックで、ヴァカンスを過ごすのが常だった。ヘンリーおじさんは彼にとって、人生の師とも呼べる存在だった。
時は流れ、負けず嫌いの少年は大人になり、ロンドンの金融界で豪腕トレーダーのマックス(ラッセル・クロウ)として、超多忙な日々を送っていた。そんなマックスのもとに・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督・製作:リドリー・スコット
原作:ピーター・メイル「プロヴァンスの贈りもの」(河出書房新社刊)
脚本:マーク・クライン
撮影:フィリップ・ル・スール
出演:ラッセル・クロウ(マックス・スキナー)、マリオン・コティヤール(ファニー・シュナル)、アルバート・フィニー(ヘンリーおじさん)、フレディ・ハイモア(マックス/少年時代)、アビー・コーニッシュ(クリスティ・ロバーツ)、トム・ホランダー(チャーリー・ウィリス)、ディディエ・ブルドン(フランシス・デュフロ)、イザベル・カンディエ(リュディヴィーヌ・デュフロ)、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ(ナタリー・オーゼ)
どこへ行くんだ、リドリー・スコットよ!
と言う訳でリドリー・スコットの新作「プロヴァンスの贈りもの」を観た。
聞くところによると、リドリー・スコットとピーター・メイルは1970年代のスコットのCF製作時代に、一緒に仕事をしていた仲間同士だそうである。
スコットがたまたま見つけたブティック・ワイン(シャトー名も立派な系図もないのに、ワイン愛好家の間で莫大な値段がついている希少ワイン)に関する記事について二人で話をした際、スコットが「君が本を書いたら、私はその映画化権を購入するよ」と言った事から本作「プロヴァンスの贈りもの」の企画が始まったらしい。
つづく・・・・
一時保存です。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
イギリス人でありながら、南フランスのプロヴァンスに住みつき、ワイン造りを楽しみながら人生を謳歌するヘンリーおじさん(アルバート・フィニー)。少年マックス(フレディ・ハイモア)は毎年夏になると、ヘンリーの所有するシャトーとぶどう園ラ・シロックで、ヴァカンスを過ごすのが常だった。ヘンリーおじさんは彼にとって、人生の師とも呼べる存在だった。
時は流れ、負けず嫌いの少年は大人になり、ロンドンの金融界で豪腕トレーダーのマックス(ラッセル・クロウ)として、超多忙な日々を送っていた。そんなマックスのもとに・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督・製作:リドリー・スコット
原作:ピーター・メイル「プロヴァンスの贈りもの」(河出書房新社刊)
脚本:マーク・クライン
撮影:フィリップ・ル・スール
出演:ラッセル・クロウ(マックス・スキナー)、マリオン・コティヤール(ファニー・シュナル)、アルバート・フィニー(ヘンリーおじさん)、フレディ・ハイモア(マックス/少年時代)、アビー・コーニッシュ(クリスティ・ロバーツ)、トム・ホランダー(チャーリー・ウィリス)、ディディエ・ブルドン(フランシス・デュフロ)、イザベル・カンディエ(リュディヴィーヌ・デュフロ)、ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ(ナタリー・オーゼ)
どこへ行くんだ、リドリー・スコットよ!
と言う訳でリドリー・スコットの新作「プロヴァンスの贈りもの」を観た。
聞くところによると、リドリー・スコットとピーター・メイルは1970年代のスコットのCF製作時代に、一緒に仕事をしていた仲間同士だそうである。
スコットがたまたま見つけたブティック・ワイン(シャトー名も立派な系図もないのに、ワイン愛好家の間で莫大な値段がついている希少ワイン)に関する記事について二人で話をした際、スコットが「君が本を書いたら、私はその映画化権を購入するよ」と言った事から本作「プロヴァンスの贈りもの」の企画が始まったらしい。
つづく・・・・
一時保存です。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/07/13 東京池袋「シネ・リーブル池袋」で「キサラギ」を観た。
マイナーなグラビアアイドル、如月ミキが焼身自殺を遂げてから1年が過ぎた。彼女のファンサイトでは一周忌のオフ会を開催することに。
集まったのは、サイト管理人の家元(小栗旬)とサイトの常連、オダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、スネーク(小出恵介)、安男(塚地武雅)、いちご娘(香川照之)という5人の男たち。初めて直に顔を合わせた彼らは、ミキの思い出に浸り、自慢話で盛り上がるが・・・・。
監督:佐藤祐市
原作・脚本:古沢良太
出演:小栗旬(家元)、ユースケ・サンタマリア(オダ・ユージ)、小出恵介(スネーク)、塚地武雅(安男/ドランクドラゴン)、香川照之(いちご娘)
本作「キサラギ」は、若干の問題はあるものの、大変素晴らしい作品に仕上がっていた。
本作を観て先ず感じたのは、本作の二転三転するプロットは、アガサ・クリスティの戯曲、特に「招かれざる客」のテイストに似ているのではないか、と言う事。
そんな本作「キサラギ」は、映画作品ではなく舞台作品だったら、最高に面白い作品になっていたのではないか、と思えてならない。
特に、塚地武雅の何度も行われる退場が、舞台上での演出を想定しているような印象を受ける。
しかしながら、ラスト近辺にあるシークエンスは、舞台では不可能な映像表現が使用され、映画ならではの印象を観客に与えている。
一方、その後のDVDのシークエンスは、舞台だったら最高の体験になったのではないか、と思える。
そのシークエンスでの5人の動きのタイミングが微妙に異なっているのが興味深かった。
キャラクターの設定毎に、微妙な動きのタイミングのズレまでを演出しているのだろうか。
だとすると、佐藤祐市は凄いな、と思った。
さて、脚本だが、古沢良太の脚本は、充分に良く出来ているとは思うのだが、伏線好きの観客にとっては、伏線があまりにもわかりやすく、すぐに最終的な画が見えてしまう、と言う難点があった。
と言うのも、伏線が非常にわかりやすく、登場人物が謎を解くより早く、多くの観客が謎を解いてしまっている、と思えるのだ。
つまり、観客の思考の速度と作品の進行速度が食い違っているのではないか、と言う印象を受けてしまう。
例えば、観終わった後に、あぁそうだったのか、なるほど〜、と言う感じの作品になっていたら良かったのに、と思ってしまう。
少なくとも、登場人物が気づいて、あぁそうだったのか、そういえばあそこが伏線になっていたんだな、と言う感じにして欲しかった。
あと、ラストのシーンだが、あれは蛇足だと言わざるを得ない。
ラストのシーンは、2通りの解釈が出来るのだが、演出サイドとしてはおそらく、観客の多くが許さないであろう方向性を持った演出意図を感じてしまう。
と言うのも、観客が感情移入した最終的な画を反故にする可能性がある、と言う演出手法は、ある意味観客を裏切り、折角の今までの感動を無にしてしまう可能性を秘めているからだ。
余談だけど、ラストのシークエンスに本当の意味での演出意図があるとしたら、本作で語られた今までの断片的な状況証拠から、本作で語られなかった最終的な結論について、可能性を絞れる観客、つまりあの結末には論理的な瑕があり、5人の登場人物の言動に偽りや矛盾を感じている観客向けの、映画の外に向かう伏線である、ととらえることが出来ます。
しかし、おそらく80%以上の観客は、そんなこと(新たな結論)を導き出せないのではないか、と個人的には思います。
ところで、キャストは、5人は5人とも良かったが、例によってユースケ・サンタマリアのセリフまわしは残念な結果に終わっている。
香川照之は相変わらず上手い。
よくもあのキャラクターのオファーを受けてくれたと思ってしまう。
また、小栗旬の高低の差も良かった。天国と地獄を味わう美味しいキャラクターだと言えるのではないだろうか。
否定的な事をいくつか書いたが、本作「キサラギ」は、観るべきところが沢山ある、素晴らしい作品だと言える。
出来る事ならば、是非劇場で多くの観客に堪能していただきたいと思った。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
ところで、「キサラギ」を楽しんだ後は「運命じゃない人」(2004)もオススメです。
「運命じゃない人」
http://diarynote.jp/d/29346/20050705.html
余談だけど、いつも思うんだけど「シネ・リーブル池袋」って、映写機の光量が足りないんじゃないかな。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
マイナーなグラビアアイドル、如月ミキが焼身自殺を遂げてから1年が過ぎた。彼女のファンサイトでは一周忌のオフ会を開催することに。
集まったのは、サイト管理人の家元(小栗旬)とサイトの常連、オダ・ユージ(ユースケ・サンタマリア)、スネーク(小出恵介)、安男(塚地武雅)、いちご娘(香川照之)という5人の男たち。初めて直に顔を合わせた彼らは、ミキの思い出に浸り、自慢話で盛り上がるが・・・・。
監督:佐藤祐市
原作・脚本:古沢良太
出演:小栗旬(家元)、ユースケ・サンタマリア(オダ・ユージ)、小出恵介(スネーク)、塚地武雅(安男/ドランクドラゴン)、香川照之(いちご娘)
本作「キサラギ」は、若干の問題はあるものの、大変素晴らしい作品に仕上がっていた。
本作を観て先ず感じたのは、本作の二転三転するプロットは、アガサ・クリスティの戯曲、特に「招かれざる客」のテイストに似ているのではないか、と言う事。
そんな本作「キサラギ」は、映画作品ではなく舞台作品だったら、最高に面白い作品になっていたのではないか、と思えてならない。
特に、塚地武雅の何度も行われる退場が、舞台上での演出を想定しているような印象を受ける。
しかしながら、ラスト近辺にあるシークエンスは、舞台では不可能な映像表現が使用され、映画ならではの印象を観客に与えている。
一方、その後のDVDのシークエンスは、舞台だったら最高の体験になったのではないか、と思える。
そのシークエンスでの5人の動きのタイミングが微妙に異なっているのが興味深かった。
キャラクターの設定毎に、微妙な動きのタイミングのズレまでを演出しているのだろうか。
だとすると、佐藤祐市は凄いな、と思った。
さて、脚本だが、古沢良太の脚本は、充分に良く出来ているとは思うのだが、伏線好きの観客にとっては、伏線があまりにもわかりやすく、すぐに最終的な画が見えてしまう、と言う難点があった。
と言うのも、伏線が非常にわかりやすく、登場人物が謎を解くより早く、多くの観客が謎を解いてしまっている、と思えるのだ。
つまり、観客の思考の速度と作品の進行速度が食い違っているのではないか、と言う印象を受けてしまう。
例えば、観終わった後に、あぁそうだったのか、なるほど〜、と言う感じの作品になっていたら良かったのに、と思ってしまう。
少なくとも、登場人物が気づいて、あぁそうだったのか、そういえばあそこが伏線になっていたんだな、と言う感じにして欲しかった。
あと、ラストのシーンだが、あれは蛇足だと言わざるを得ない。
ラストのシーンは、2通りの解釈が出来るのだが、演出サイドとしてはおそらく、観客の多くが許さないであろう方向性を持った演出意図を感じてしまう。
と言うのも、観客が感情移入した最終的な画を反故にする可能性がある、と言う演出手法は、ある意味観客を裏切り、折角の今までの感動を無にしてしまう可能性を秘めているからだ。
余談だけど、ラストのシークエンスに本当の意味での演出意図があるとしたら、本作で語られた今までの断片的な状況証拠から、本作で語られなかった最終的な結論について、可能性を絞れる観客、つまりあの結末には論理的な瑕があり、5人の登場人物の言動に偽りや矛盾を感じている観客向けの、映画の外に向かう伏線である、ととらえることが出来ます。
しかし、おそらく80%以上の観客は、そんなこと(新たな結論)を導き出せないのではないか、と個人的には思います。
ところで、キャストは、5人は5人とも良かったが、例によってユースケ・サンタマリアのセリフまわしは残念な結果に終わっている。
香川照之は相変わらず上手い。
よくもあのキャラクターのオファーを受けてくれたと思ってしまう。
また、小栗旬の高低の差も良かった。天国と地獄を味わう美味しいキャラクターだと言えるのではないだろうか。
否定的な事をいくつか書いたが、本作「キサラギ」は、観るべきところが沢山ある、素晴らしい作品だと言える。
出来る事ならば、是非劇場で多くの観客に堪能していただきたいと思った。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
ところで、「キサラギ」を楽しんだ後は「運命じゃない人」(2004)もオススメです。
「運命じゃない人」
http://diarynote.jp/d/29346/20050705.html
余談だけど、いつも思うんだけど「シネ・リーブル池袋」って、映写機の光量が足りないんじゃないかな。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
「スパイダーマン3」
2007年7月11日 映画
2007/06/29 東京板橋「ワーナーマイカル・シネマズ板橋」で「スパイダーマン3」を観た。
ニューヨーク。
スパイダーマンは、いまやニューヨーク市民から絶大な信頼と賞賛を集めるヒーローとなり、恋人MJへのプロポーズも決意し、順風満帆のピーター・パーカーだったが、肝心のMJは出演したミュージカルが酷評され気分はどん底状態だった。
それに追い討ちをかけるように・・・・。
監督:サム・ライミ
原作:スタン・リー、スティーヴ・ディッコ
脚本:サム・ライミ、アイヴァン・ライミ、アルヴィン・サージェント
音楽:クリストファー・ヤング
テーマ曲:ダニー・エルフマン
 
出演:トビー・マグワイア(ピーター・パーカー/スパイダーマン)、キルステン・ダンスト(メリー・ジェーン・ワトソン/MJ)、ジェームズ・フランコ(ハリー・オズボーン)、トーマス・ヘイデン・チャーチ(フリント・マルコ/サンドマン)、トファー・グレイス(エディ・ブロック/ヴェノム)、ブライス・ダラス・ハワード(グウェン・ステイシー)、ジェームズ・クロムウェル(ジョージ・ステイシー)、ローズマリー・ハリス(メイ・パーカー)、J・K・シモンズ(J・ジョナ・ジェイムソン)、ビル・ナン(ロビー・ロバートソン)、エリザベス・バンクス(ミス・ブラント)、ディラン・ベイカー(カート・コナーズ博士)、テレサ・ラッセル(エマ・マルコ)、クリフ・ロバートソン(ベン・パーカー)、ジョン・パクストン(執事バーナード)、テッド・ライミ(ホフマン)、ブルース・キャンベル(クラブのフロアマネージャー)、パーラ・ヘイニー=ジャーディン(ペニー・マルコ)、エリヤ・バスキン(ディトコヴィッチ氏)、マゲイナ・トーヴァ(ウルスラ)、ベッキー・アン・ベイカー(ステイシー夫人)、スタン・リー(タイムズ・スクエアの男)
先ず感じたのは、本作「スパイダーマン3」は世界中が待ちわび
、世界中が臨んだ作品に仕上がっていたのかどうか、と言う点である。
と言うのも、おそらく多くの観客が望んでいたであろうスパイダーマンの大活躍より、ピーターとMJのラブ・ストーリー部分に尺が取られているのだ。
本作では、サンドマン、ヴェノム、ニュー・ゴブリンと、スパイダーマンが戦う相手の質・量ともにに不足はないものの、139分と言う尺を考え、3キャラクターとの対決を考えた場合、消化し切れていない、といわざるを得ない。
一方、ピーター・パーカーとMJのラブ・ストーリー部分は十分な尺が取られている。
特にサンドマンを一度退けた後、新たな敵キャラクターが登場するまでの間、完全にピーターとMJのストーリーが描写され、サンドマンや他の敵キャラの状況は全く描写されていない。
これを観客は望んでいるのか?
と言うか、観客を無視して、お金をかけて、ピーター・パーカーとMJのラブ・ストーリーを描いちゃっているのか。サム・ライミは。
そして、その部分の中弛み感が著しい分、敵キャラクターの描きこみが足りない、と言うか、結果的に敵になったり見方になったりと言う、なんとも場当たり的なプロットが残念である。
そして、そのため、敵キャラクターの善・悪の一貫性が欠如している、と言う印象を禁じえないのだ。
もちろん、本作は、善・悪の一貫性に乏しい、勧善懲悪型ではない物語を採用しているのだが、それにしても、139分の間に、コロコロと善・悪が入れ替わる様は、なんとも釈然としない。
また、ベン・パーカーの死因についても、物語の構成上のためか、二転三転するプロットもいただけないのではないか、と思った。
特殊効果は、やはりそれをウリにするだけのことはあり、素晴らしい映像体験が楽しめる。
が、冒頭のクレーンのアクションと、クライマックスのタクシー宙吊りでのアクションが見せ場だと思うのだが、両アクションとも高所でのアクションであり、アクション・シークエンス的にバリエーションに乏しい印象を受ける。
また、シリーズの伝統とも言えるブルース・キャンベルの登場シークエンスは、シリーズ3作のうち、一番長く、セリフも多く、ウィットに富んでいるし、本作のプロットにも大きな関わりを持つシークエンスに仕上がっていた。
サム・ライミ的には、「スパイダーマン」シリーズなんか撮っていないで、ブルース・キャンベルと「死霊のはらわた」シリーズの新作を撮って欲しいと、切に望むところである。
あとは、結局サム・ライミは、オブラートに包みながら、いろんなモノにさらされて誕生したフリーキーなキャラクターたちの戦い、と言うことをやりたいのかな、と思った。
まあ「スパイダーマン3」と言う作品は、多くの観客が望むことをちょっとずつクリアしている秀作だとは思うのだが、前作と比較すると、まとまりのない、ただの娯楽アクション大作に過ぎない、と言うところだろうか。
余談だが、前作同様オープニング・クレジットが良かった。
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
ニューヨーク。
スパイダーマンは、いまやニューヨーク市民から絶大な信頼と賞賛を集めるヒーローとなり、恋人MJへのプロポーズも決意し、順風満帆のピーター・パーカーだったが、肝心のMJは出演したミュージカルが酷評され気分はどん底状態だった。
それに追い討ちをかけるように・・・・。
監督:サム・ライミ
原作:スタン・リー、スティーヴ・ディッコ
脚本:サム・ライミ、アイヴァン・ライミ、アルヴィン・サージェント
音楽:クリストファー・ヤング
テーマ曲:ダニー・エルフマン
 
出演:トビー・マグワイア(ピーター・パーカー/スパイダーマン)、キルステン・ダンスト(メリー・ジェーン・ワトソン/MJ)、ジェームズ・フランコ(ハリー・オズボーン)、トーマス・ヘイデン・チャーチ(フリント・マルコ/サンドマン)、トファー・グレイス(エディ・ブロック/ヴェノム)、ブライス・ダラス・ハワード(グウェン・ステイシー)、ジェームズ・クロムウェル(ジョージ・ステイシー)、ローズマリー・ハリス(メイ・パーカー)、J・K・シモンズ(J・ジョナ・ジェイムソン)、ビル・ナン(ロビー・ロバートソン)、エリザベス・バンクス(ミス・ブラント)、ディラン・ベイカー(カート・コナーズ博士)、テレサ・ラッセル(エマ・マルコ)、クリフ・ロバートソン(ベン・パーカー)、ジョン・パクストン(執事バーナード)、テッド・ライミ(ホフマン)、ブルース・キャンベル(クラブのフロアマネージャー)、パーラ・ヘイニー=ジャーディン(ペニー・マルコ)、エリヤ・バスキン(ディトコヴィッチ氏)、マゲイナ・トーヴァ(ウルスラ)、ベッキー・アン・ベイカー(ステイシー夫人)、スタン・リー(タイムズ・スクエアの男)
先ず感じたのは、本作「スパイダーマン3」は世界中が待ちわび
、世界中が臨んだ作品に仕上がっていたのかどうか、と言う点である。
と言うのも、おそらく多くの観客が望んでいたであろうスパイダーマンの大活躍より、ピーターとMJのラブ・ストーリー部分に尺が取られているのだ。
本作では、サンドマン、ヴェノム、ニュー・ゴブリンと、スパイダーマンが戦う相手の質・量ともにに不足はないものの、139分と言う尺を考え、3キャラクターとの対決を考えた場合、消化し切れていない、といわざるを得ない。
一方、ピーター・パーカーとMJのラブ・ストーリー部分は十分な尺が取られている。
特にサンドマンを一度退けた後、新たな敵キャラクターが登場するまでの間、完全にピーターとMJのストーリーが描写され、サンドマンや他の敵キャラの状況は全く描写されていない。
これを観客は望んでいるのか?
と言うか、観客を無視して、お金をかけて、ピーター・パーカーとMJのラブ・ストーリーを描いちゃっているのか。サム・ライミは。
そして、その部分の中弛み感が著しい分、敵キャラクターの描きこみが足りない、と言うか、結果的に敵になったり見方になったりと言う、なんとも場当たり的なプロットが残念である。
そして、そのため、敵キャラクターの善・悪の一貫性が欠如している、と言う印象を禁じえないのだ。
もちろん、本作は、善・悪の一貫性に乏しい、勧善懲悪型ではない物語を採用しているのだが、それにしても、139分の間に、コロコロと善・悪が入れ替わる様は、なんとも釈然としない。
また、ベン・パーカーの死因についても、物語の構成上のためか、二転三転するプロットもいただけないのではないか、と思った。
特殊効果は、やはりそれをウリにするだけのことはあり、素晴らしい映像体験が楽しめる。
が、冒頭のクレーンのアクションと、クライマックスのタクシー宙吊りでのアクションが見せ場だと思うのだが、両アクションとも高所でのアクションであり、アクション・シークエンス的にバリエーションに乏しい印象を受ける。
また、シリーズの伝統とも言えるブルース・キャンベルの登場シークエンスは、シリーズ3作のうち、一番長く、セリフも多く、ウィットに富んでいるし、本作のプロットにも大きな関わりを持つシークエンスに仕上がっていた。
サム・ライミ的には、「スパイダーマン」シリーズなんか撮っていないで、ブルース・キャンベルと「死霊のはらわた」シリーズの新作を撮って欲しいと、切に望むところである。
あとは、結局サム・ライミは、オブラートに包みながら、いろんなモノにさらされて誕生したフリーキーなキャラクターたちの戦い、と言うことをやりたいのかな、と思った。
まあ「スパイダーマン3」と言う作品は、多くの観客が望むことをちょっとずつクリアしている秀作だとは思うのだが、前作と比較すると、まとまりのない、ただの娯楽アクション大作に過ぎない、と言うところだろうか。
余談だが、前作同様オープニング・クレジットが良かった。
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/06/30 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「アポカリプト」を観た。
誇り高き狩猟民族の血統を受け継ぐ青年ジャガー・パウ(ルディ・ヤングブラッド)は、父であり族長でもあるフリント・スカイ(モリス・バード)の下、ブランテッド(ジョナサン・ブリューワー)ら数名の仲間たちと一緒に先祖から受け継いだ森で狩をしていた。
一頭の大きなバクをしとめ、肉を分け合うジャガー・パウらの前に、突然数人の男たちが現れた。
一瞬、一触即発の緊張がよぎるが、彼らはフリント・スカイの森を通して欲しい、と言うのだ。
フリント・スカイが森を通過する許可を彼らに与えると、どこからともなく現れた、数十人の老若男女が森を通過し始めた。
それを見たジャガー・パウは、一団のリーダーらしき人物に問いかけると、村が襲われた、と彼は答えた。
地上の楽園のような環境の中で、恐怖とも争いとも無縁の平和な生活を送っていたジャガー・パウだったが、森を通った一団に一抹の恐怖を感じていた。
村に帰ったジャガー・パウを、妻のセブン(ダリア・ヘルナンデス)と、幼い息子のタートル・ラン(カルロス・エミリオ・パエズ)が迎えた。
さらに夫婦には、まもなく二人目の子供が誕生する予定だったが・・・・。
監督・製作・共同脚本:メル・ギブソン
撮影監督:ディーン。セムラー
プロダクション・デザイン:トム・サンダース
衣装デザイン:マイェス・C・ルベオ
音楽:ジェームズ・ホーナー
コンサルタント:リチャード・D・ハンセン博士
出演:ルディ・ヤングブラッド(ジャガー・パウ)、ダリア・ヘルナンデス(セブン)、ジョナサン・ブリューワー(ブランテッド)、ラアウル・トルヒーヨ(ゼロ・ウルフ)
本作「アポカリプト」は、すばらしい作品に仕上がっていた。
興味深いのは、文明崩壊後の世界を舞台とした「マッドマックス」(1979)で時代の寵児となったメル・ギブソンが、文明黎明期を舞台とした「アポカリプト」を製作したと言うことである。
特に印象的なのは、本作「アポカリプト」で描かれている世界観と「マッドマックス2」(1981)で描かれた世界観が非常に似通っている印象を受けた、と言う点である。
日本国内で、漫画「北斗の拳」に影響を与えた「マッドマックス2」の美術や衣装が、時代を変え、本作の世界に蘇っているのだ。
文明黎明期と文明崩壊後の世界が似通っていると言うのは、なんともシニカルで、かつ原始からの凶悪な本能を呼び起こす強烈な印象を受ける。
つまり、文明崩壊後と文明黎明期の世界が似ていると言うことは、何らかの理由により我々の文明が崩壊した後の世界は、文明黎明期同様、文化や規範、モラルは全く意味を持たないものとなり、力と恐怖がモノを言う暗黒時代が到来してしまうことは想像に難くないし、多くの作家たちはそのような世界を舞台に所謂ディストピア小説や映画を創作している訳だ。
従って、本作「アポカリプト」で描かれている出来事は、太古の時代に起きたであろう出来事であると同時に、大量破壊兵器や大規模や疫病や災害で我々の文明が崩壊した後に起こるであろう出来事を描いているのだ。
さて、本作「アポカリプト」の物語だが、冒頭のバクの狩
の根本には、マヤ帝国を襲う災害を防ぐために必要な神への生贄となる人を拉致してくる傭兵部隊が存在する。
つづく・・・・
(一時保存です)
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
誇り高き狩猟民族の血統を受け継ぐ青年ジャガー・パウ(ルディ・ヤングブラッド)は、父であり族長でもあるフリント・スカイ(モリス・バード)の下、ブランテッド(ジョナサン・ブリューワー)ら数名の仲間たちと一緒に先祖から受け継いだ森で狩をしていた。
一頭の大きなバクをしとめ、肉を分け合うジャガー・パウらの前に、突然数人の男たちが現れた。
一瞬、一触即発の緊張がよぎるが、彼らはフリント・スカイの森を通して欲しい、と言うのだ。
フリント・スカイが森を通過する許可を彼らに与えると、どこからともなく現れた、数十人の老若男女が森を通過し始めた。
それを見たジャガー・パウは、一団のリーダーらしき人物に問いかけると、村が襲われた、と彼は答えた。
地上の楽園のような環境の中で、恐怖とも争いとも無縁の平和な生活を送っていたジャガー・パウだったが、森を通った一団に一抹の恐怖を感じていた。
村に帰ったジャガー・パウを、妻のセブン(ダリア・ヘルナンデス)と、幼い息子のタートル・ラン(カルロス・エミリオ・パエズ)が迎えた。
さらに夫婦には、まもなく二人目の子供が誕生する予定だったが・・・・。
監督・製作・共同脚本:メル・ギブソン
撮影監督:ディーン。セムラー
プロダクション・デザイン:トム・サンダース
衣装デザイン:マイェス・C・ルベオ
音楽:ジェームズ・ホーナー
コンサルタント:リチャード・D・ハンセン博士
出演:ルディ・ヤングブラッド(ジャガー・パウ)、ダリア・ヘルナンデス(セブン)、ジョナサン・ブリューワー(ブランテッド)、ラアウル・トルヒーヨ(ゼロ・ウルフ)
本作「アポカリプト」は、すばらしい作品に仕上がっていた。
興味深いのは、文明崩壊後の世界を舞台とした「マッドマックス」(1979)で時代の寵児となったメル・ギブソンが、文明黎明期を舞台とした「アポカリプト」を製作したと言うことである。
特に印象的なのは、本作「アポカリプト」で描かれている世界観と「マッドマックス2」(1981)で描かれた世界観が非常に似通っている印象を受けた、と言う点である。
日本国内で、漫画「北斗の拳」に影響を与えた「マッドマックス2」の美術や衣装が、時代を変え、本作の世界に蘇っているのだ。
文明黎明期と文明崩壊後の世界が似通っていると言うのは、なんともシニカルで、かつ原始からの凶悪な本能を呼び起こす強烈な印象を受ける。
つまり、文明崩壊後と文明黎明期の世界が似ていると言うことは、何らかの理由により我々の文明が崩壊した後の世界は、文明黎明期同様、文化や規範、モラルは全く意味を持たないものとなり、力と恐怖がモノを言う暗黒時代が到来してしまうことは想像に難くないし、多くの作家たちはそのような世界を舞台に所謂ディストピア小説や映画を創作している訳だ。
従って、本作「アポカリプト」で描かれている出来事は、太古の時代に起きたであろう出来事であると同時に、大量破壊兵器や大規模や疫病や災害で我々の文明が崩壊した後に起こるであろう出来事を描いているのだ。
さて、本作「アポカリプト」の物語だが、冒頭のバクの狩
の根本には、マヤ帝国を襲う災害を防ぐために必要な神への生贄となる人を拉致してくる傭兵部隊が存在する。
つづく・・・・
(一時保存です)
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
「レミーのおいしいレストラン」
2007年7月2日 映画
2007/07/02 東京新橋「ヤクルトホール」で「レミーのおいしいレストラン」の試写を観た。
同時上映は「LIFTED(短編)」。
料理が大好きなレミーは、一流レストランのシェフになることを夢見ていた。
ある嵐の日、レミーは家族とはぐれてしまい、ひとりぼっちでパリの一軒のレストランにたどり着く。
そこはレミーが尊敬するフレンチ料理人、グストーのレストランだった。
そのキッチンでは、シェフ見習いのリングイニがヘマをして、スープを台無しにしてしまう。沸き上がる情熱を抑えきれず、キッチンに足を踏み入れたレミーは・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督・原案・脚本:ブラッド・バード
製作総指揮:ジョン・ラセター、アンドリュー・スタントン
製作:ブラッド・ルイス
音楽:マイケル・ジアッキノ
料理監修:トーマス・ケラー
声の出演:パットン・オズワルド(レミー)、ルー・ロマーノ(リングイニ)、ジャニーン・ガロファロー(コレット)、イアン・ホルム(スキナー)、ピーター・オトゥール(イーゴ)、ピーター・ソーン(
エミール)、ブライアン・デネヒー(ジャンゴ)、ブラッド・ギャレット(グストー)
さて、早速だが、本作「レミーのおいしいレストラン」は、大変素晴らしい作品に仕上がっていた。
私見だが、ピクサー・アニメーション・スタジオ作品の最高傑作と言っても過言ではないだろう。
何しろ泣けるのである。
ピクサーにこんなに泣かされるとは思わなかった。
※ 「カーズ」(http://diarynote.jp/d/29346/20060619.html)の時にも書いたけど、「モンスターズ・インク」(2001)の時も「ファインディング・ニモ」(2003)の時も「カーズ」(2006)の時も、わたしはピクサーの最高傑作だと思っていた。念の為。
ところで、本作で監督・原案・脚本を務めたブラッド・バードだが、彼のピクサーでの前作「Mr.インクレディブル」(2004)については個人的にイマイチだと感じていたこともあり、わざわざ外部から監督を招聘するピクサーのやり方に若干の不安を感じていたのだが、本作「レミーのおいしいレストラン」を見る限り、それは全くの杞憂に過ぎなかったことを感じた。
と言うのも、ブラッド・バードは本作では原案・脚本・監督と大活躍で、本当に自分が撮りたい作品を、ピクサーの技術を良い意味で利用して作っているのだと思うからである。
つまり、アニメーション・スタジオは、映像作家のビジョンを実現するための道具として機能するのが重要なことなのだ。
さて、話は戻るが、ブラッド・バードはピクサーとのコラボレーションのテスト作品とも言える「Mr.インクレディブル」を経て、自分の好きな事をピクサーの技術を通じてできるようになったのだろうと思う。
それも個人的に好きな作品を自己満足的に作っているのではなく、もちろん観客を意識した大変素晴らしい仕事をしているのだ。
さて、脚本についてだが、本作の物語については明言は避けるが、脚本的には、伏線がよく生かされている素敵な脚本に仕上がっていた。
小粋な伏線が、些細なセリフが、グストーの言葉が、そして伏線の回収の仕方が、涙腺を刺激するのだ。
その脚本の根底にあるのは、理想であったり、生き様であったり、物事に対する考え方なのである。
登場人物の孤高な生き様が感動を誘う訳である。
キャストだが、キャストはなんと言っても、アントン・イーゴを演じたピーター・オトゥールだろう。
彼のシークエンスでわたしは3度も泣かされてしまった。
特にグストーのレストランでイーゴが料理を食べるシークエンスには強烈な2カットがある。
たった2カットで全てを語る演出手腕には驚かされる。
また、その後の自戒的なモノローグも強烈に素晴らしい。
人生を変える料理に出会った男が心情を吐露する心意気に感涙なのだ。
そして彼のラストのセリフも素晴らしい。
ピーター・オトゥールをキャスティングできたことは、この作品にとって素晴らしい幸運だったのだと思う。
また、スキナーを演じたイアン・ホルムは「未来世紀ブラジル」(1985)のカーツマンと「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズで、ガンダルフに甘えるの陽気で甘えん坊のビルボを足して壊したようなキャラクターを楽しげに演じている。
イアン・ホルムの今後は、ロビン・ウィリアムズの方向性を狙っても行けるのではないか、と思った。
一方、当然ながらアニメーションの技術も凄いものがあった。
例えば、冒頭近く、レミーが建物を駆け上がりエッフェル塔を見つけるカットがあるのだが、その際レミーが、まるで流れる水の様に建物の壁を駆け上がる姿が素晴らしく、わたしはその姿、ネズミが壁を駆け上がる姿で泣かされてしまった。
アニメーションとは、animate(命を与えるの意)から派生した言葉であり、命がないモノをあたかも命があるかのように見せる事が肝要なのである。
重力と質量が感じられるキャラクターの動作には驚かされる。
人間のキャラクター・デザインは、ブラッド・バードの前作「Mr.インクレディブル」のキャラクター・デザインを踏襲している。
また、前述のイーゴは、ティム・バートンの世界観とブラッド・バードの世界観との境界に位置するようなデザインが用いられているのが興味深い。
ネズミのデザインは、毛並みの表現が美しく、乾いた状態、濡れた状態の質感がすばらしい。
ネズミの集団の描写は、私見だが「ガンバの冒険」(1975)の影響が感じられる。
特に冒頭の旅立ちのシークエンスや、中盤以降のパーティのシークエンスに色濃い影響が感じられる。
また、「ウィラード」(1971)や「ベン」(1972)的な描写もあるのが嬉しい。
余談だが、本作でのネズミは、mouse(ハツカネズミ)ではなくrat(ドブネズミ)である。
また、自動車等乗物のデザインも秀逸で、特にシトロエンDSが最高にキュートである。
つづく・・・・
一時保存です。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
同時上映は「LIFTED(短編)」。
料理が大好きなレミーは、一流レストランのシェフになることを夢見ていた。
ある嵐の日、レミーは家族とはぐれてしまい、ひとりぼっちでパリの一軒のレストランにたどり着く。
そこはレミーが尊敬するフレンチ料理人、グストーのレストランだった。
そのキッチンでは、シェフ見習いのリングイニがヘマをして、スープを台無しにしてしまう。沸き上がる情熱を抑えきれず、キッチンに足を踏み入れたレミーは・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督・原案・脚本:ブラッド・バード
製作総指揮:ジョン・ラセター、アンドリュー・スタントン
製作:ブラッド・ルイス
音楽:マイケル・ジアッキノ
料理監修:トーマス・ケラー
声の出演:パットン・オズワルド(レミー)、ルー・ロマーノ(リングイニ)、ジャニーン・ガロファロー(コレット)、イアン・ホルム(スキナー)、ピーター・オトゥール(イーゴ)、ピーター・ソーン(
エミール)、ブライアン・デネヒー(ジャンゴ)、ブラッド・ギャレット(グストー)
さて、早速だが、本作「レミーのおいしいレストラン」は、大変素晴らしい作品に仕上がっていた。
私見だが、ピクサー・アニメーション・スタジオ作品の最高傑作と言っても過言ではないだろう。
何しろ泣けるのである。
ピクサーにこんなに泣かされるとは思わなかった。
※ 「カーズ」(http://diarynote.jp/d/29346/20060619.html)の時にも書いたけど、「モンスターズ・インク」(2001)の時も「ファインディング・ニモ」(2003)の時も「カーズ」(2006)の時も、わたしはピクサーの最高傑作だと思っていた。念の為。
ところで、本作で監督・原案・脚本を務めたブラッド・バードだが、彼のピクサーでの前作「Mr.インクレディブル」(2004)については個人的にイマイチだと感じていたこともあり、わざわざ外部から監督を招聘するピクサーのやり方に若干の不安を感じていたのだが、本作「レミーのおいしいレストラン」を見る限り、それは全くの杞憂に過ぎなかったことを感じた。
と言うのも、ブラッド・バードは本作では原案・脚本・監督と大活躍で、本当に自分が撮りたい作品を、ピクサーの技術を良い意味で利用して作っているのだと思うからである。
つまり、アニメーション・スタジオは、映像作家のビジョンを実現するための道具として機能するのが重要なことなのだ。
さて、話は戻るが、ブラッド・バードはピクサーとのコラボレーションのテスト作品とも言える「Mr.インクレディブル」を経て、自分の好きな事をピクサーの技術を通じてできるようになったのだろうと思う。
それも個人的に好きな作品を自己満足的に作っているのではなく、もちろん観客を意識した大変素晴らしい仕事をしているのだ。
さて、脚本についてだが、本作の物語については明言は避けるが、脚本的には、伏線がよく生かされている素敵な脚本に仕上がっていた。
小粋な伏線が、些細なセリフが、グストーの言葉が、そして伏線の回収の仕方が、涙腺を刺激するのだ。
その脚本の根底にあるのは、理想であったり、生き様であったり、物事に対する考え方なのである。
登場人物の孤高な生き様が感動を誘う訳である。
キャストだが、キャストはなんと言っても、アントン・イーゴを演じたピーター・オトゥールだろう。
彼のシークエンスでわたしは3度も泣かされてしまった。
特にグストーのレストランでイーゴが料理を食べるシークエンスには強烈な2カットがある。
たった2カットで全てを語る演出手腕には驚かされる。
また、その後の自戒的なモノローグも強烈に素晴らしい。
人生を変える料理に出会った男が心情を吐露する心意気に感涙なのだ。
そして彼のラストのセリフも素晴らしい。
ピーター・オトゥールをキャスティングできたことは、この作品にとって素晴らしい幸運だったのだと思う。
また、スキナーを演じたイアン・ホルムは「未来世紀ブラジル」(1985)のカーツマンと「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズで、ガンダルフに甘えるの陽気で甘えん坊のビルボを足して壊したようなキャラクターを楽しげに演じている。
イアン・ホルムの今後は、ロビン・ウィリアムズの方向性を狙っても行けるのではないか、と思った。
一方、当然ながらアニメーションの技術も凄いものがあった。
例えば、冒頭近く、レミーが建物を駆け上がりエッフェル塔を見つけるカットがあるのだが、その際レミーが、まるで流れる水の様に建物の壁を駆け上がる姿が素晴らしく、わたしはその姿、ネズミが壁を駆け上がる姿で泣かされてしまった。
アニメーションとは、animate(命を与えるの意)から派生した言葉であり、命がないモノをあたかも命があるかのように見せる事が肝要なのである。
重力と質量が感じられるキャラクターの動作には驚かされる。
人間のキャラクター・デザインは、ブラッド・バードの前作「Mr.インクレディブル」のキャラクター・デザインを踏襲している。
また、前述のイーゴは、ティム・バートンの世界観とブラッド・バードの世界観との境界に位置するようなデザインが用いられているのが興味深い。
ネズミのデザインは、毛並みの表現が美しく、乾いた状態、濡れた状態の質感がすばらしい。
ネズミの集団の描写は、私見だが「ガンバの冒険」(1975)の影響が感じられる。
特に冒頭の旅立ちのシークエンスや、中盤以降のパーティのシークエンスに色濃い影響が感じられる。
また、「ウィラード」(1971)や「ベン」(1972)的な描写もあるのが嬉しい。
余談だが、本作でのネズミは、mouse(ハツカネズミ)ではなくrat(ドブネズミ)である。
また、自動車等乗物のデザインも秀逸で、特にシトロエンDSが最高にキュートである。
つづく・・・・
一時保存です。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/06/20 東京新橋「ヤクルトホール」で「吉祥天女」の試写を観た。
当日は、監督:及川中、キャスト:鈴木杏、本仮屋ユイカ、勝地涼の舞台挨拶が行われた。
昭和45年春、金沢。
春日高校「能楽クラブ」に所属する、快活な女子高生、麻井由似子(本仮屋ユイカ)のクラスに、不思議な魅力を持つ転校生がやってくる。その少女の名は、叶小夜子(鈴木杏)。
5歳の頃に親戚の家に預けられて以来、この地を離れて暮らしていたが、12年ぶりに実家に戻ってきたのだ。
監督・脚本:及川中
原作:吉田秋生
撮影:柳田裕男
美術:中川理仁
編集:阿部亙英
照明:松隈信一
出演:鈴木杏(叶小夜子)、本仮屋ユイカ(麻井由似子)、勝地涼(遠野涼)、市川実日子(麻井鷹子)、深水元基(遠野暁)、津田寛治(小川雪政)、三谷昇(三木)、小倉一郎(叶和憲)、青山知可子(叶鈴子)、国分佐智子(叶浮子)、嶋田久作(遠野一郎)、江波杏子(叶あき)
わたしは吉田秋生の「吉祥天女」をリアルタイムで読んでいたくちであり、おそらく実家には現在でも「吉祥天女」が全巻初版で残っているはずだ。
とは言うものの、最初にお断りしたいのは、吉田秋生の原作がどうで、映画化された作品とここが違うとか、ここがおかしいとか言うつもりはあまりない。
漫画を原作とする映画、特に熱心なファンが多い漫画の映画化作品には、原作と違うとか、キャラクターのイメージが違う、と言った批判が出てくるのが当然だ。
そんなわたしは、原作と映画化作品の相違点をあげつらい批判することは、全くくだらないことだと思うし、映画と言うものは、原作とは一線を画し、単体の作品として評価すべきものだと思うのだ。
さて、本作「吉祥天女」についてだが、先ずは本作が、所謂アイドル映画のような方向性を持った作品ではなくく、俳優たちがきちんと演技をして作品について真摯に取り組んだ作品に仕上がっていることに喜びを感じた。
言ってるそばから原作との比較になってしまうが、鈴木杏が叶小夜子を演じる時点で、これはヤバイんじゃないの感が多々あったのだが、原作の小夜子のイメージとのギャップはともかく、鈴木杏による新たな叶小夜子というキャラクターの創出がされていた。
あとちょっとした余談だが、キャラクターの外見で興味深かったのは、勝地涼のルックスが、吉田秋生が描く遠野涼のルックスに酷似している点である。これは良いキャスティングをしたと思った。
監督の及川中は舞台挨拶の中で、遠野涼役として勝地涼のキャスティングが決まった際、「ラッキー!」とガッツポーズをしたとか言う話をしていたが、その辺は、原作と映画の小夜子のキャラクターの相違を帳消にするほど、遠野涼と勝地涼のルックスが似ていた、と言うことなのではないか、と思った。
キャストとしては、先ずは雪政を演じた津田寛治が最高だった。
津田寛治と言えば、最近では「模倣犯」(2002)での中居正広の相棒を演じた際の印象が強いため、「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」(2006)で主人公の少年の父親を演っている津田寛治が、良い父親に見えるが、きっと悪い父親に違いない、と思わせる雰囲気が楽しかった。
今回の雪政役は、小夜子の腹黒い下僕と言う感じで、一応は叶家の書生と言う設定なのだが、小夜子の崇拝者と言うか、ボディガードと言うか、これまた圧倒的にすばらしいキャラクター設定がされていた。
悪いお姫様に仕える腹黒い騎士と言う感じだろうか。
または「犬神家の一族」(1976/2006)の珠世に対する猿蔵と言う感じ。
また、叶あきを演じた江波杏子がすばらしかった。
江波杏子は、東京電力・TEPCOの「オール電化」シリーズのCF(CM)で、鈴木京香の義母役で大人気だが、病弱なあき(小夜子の祖母)を見事に演じていた。
特に、病弱なあきのメイクがある意味尋常ではなく、女優とは思えぬ程、老い、やせ細ったスッピン振りが大変すばらしかった。
このメイクを見ても、本作「吉祥天女」のスタッフの真摯な態度が見えてくるし、江波杏子の役者魂が感じられる大変すばらしいシークエンスだった。
主演の鈴木杏は、丸々とした顔の健康そうな新たな小夜子像を創り上げている。
丸々とした顔は、おそらく能面のメタファーとして機能していると思うのだが、いかがだろうか。
また、前半部分の鈴木杏のアクション・シークエンスは良かったと思う。
髪振り乱しのアクションは、若干ハリウッド・テイストのカットでごまかす感じのアクションだったが、非常に楽しかった。
また、本仮屋ユイカ(麻井由似子役)が搭乗するシークエンスでは、作品のトーンが明らかに異なっている。
深刻で暗い物語の息抜きとして、またはコメディ・リリーフとしての役柄を担っているのだろう。
そして、由似子の姉・鷹子を演じた市川実日子は、物語の構成上は、探偵役を振られ、金田一耕助同様、蔵や図書館で、古文書や文献、新聞記事等を調べ、いろいろ推理したりしているのが非常に楽しかった。
小夜子との対決シークエンスでは、若干セリフ回しに問題を感じたが、個人的には市川実日子好きなので、非常に楽しめた。
ところで、元来「吉祥天女」と言う物語は一体何をしたかった物語だったのか、と言うと、おそらく少女漫画における昭和40年代を舞台とした横溝正史だったのではないか、と思える。
と言うのも、「吉祥天女」の物語は、昭和40年代の石川県金沢市を舞台に、二つの家(叶家と遠野家)の古くからの言い伝えや因習に満ちた、金と欲をめぐる愛憎劇なのだ。
と言う事もあり、本作「吉祥天女」は、市川崑の金田一耕助シリーズっぽい楽しみ方も出来る訳だ。
猿蔵(雪政)もいるしね。
そんな中、監督の及川中の演出は正統で、美術や背景から醸し出される世界観と、俳優達の頑張りに相まって、非常に良質の作品のような印象を観客に与えることに成功している。
事実、娯楽作品としては、わたしは大変楽しい時間を過ごすことが出来た。
しかしながら、「吉祥天女」と言うか、小夜子の行動の根底にある部分が希薄であり、若干の消化不良を感じてしまった。
とにかく「吉祥天女」は、所謂アイドル映画の枠を超えた、昭和40年代を舞台とした金田一耕助シリーズのようなテイストの作品である。
若干踏み込みが弱い気がするが、娯楽作品としては及第点をあげられる作品に仕上がっている。
関心があれば、是非劇場へ、と言う感じである。
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
余談だが、小夜子役に栗山千明と言う選択肢はなかったのだろうか、と思った。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
当日は、監督:及川中、キャスト:鈴木杏、本仮屋ユイカ、勝地涼の舞台挨拶が行われた。
昭和45年春、金沢。
春日高校「能楽クラブ」に所属する、快活な女子高生、麻井由似子(本仮屋ユイカ)のクラスに、不思議な魅力を持つ転校生がやってくる。その少女の名は、叶小夜子(鈴木杏)。
5歳の頃に親戚の家に預けられて以来、この地を離れて暮らしていたが、12年ぶりに実家に戻ってきたのだ。
監督・脚本:及川中
原作:吉田秋生
撮影:柳田裕男
美術:中川理仁
編集:阿部亙英
照明:松隈信一
出演:鈴木杏(叶小夜子)、本仮屋ユイカ(麻井由似子)、勝地涼(遠野涼)、市川実日子(麻井鷹子)、深水元基(遠野暁)、津田寛治(小川雪政)、三谷昇(三木)、小倉一郎(叶和憲)、青山知可子(叶鈴子)、国分佐智子(叶浮子)、嶋田久作(遠野一郎)、江波杏子(叶あき)
わたしは吉田秋生の「吉祥天女」をリアルタイムで読んでいたくちであり、おそらく実家には現在でも「吉祥天女」が全巻初版で残っているはずだ。
とは言うものの、最初にお断りしたいのは、吉田秋生の原作がどうで、映画化された作品とここが違うとか、ここがおかしいとか言うつもりはあまりない。
漫画を原作とする映画、特に熱心なファンが多い漫画の映画化作品には、原作と違うとか、キャラクターのイメージが違う、と言った批判が出てくるのが当然だ。
そんなわたしは、原作と映画化作品の相違点をあげつらい批判することは、全くくだらないことだと思うし、映画と言うものは、原作とは一線を画し、単体の作品として評価すべきものだと思うのだ。
さて、本作「吉祥天女」についてだが、先ずは本作が、所謂アイドル映画のような方向性を持った作品ではなくく、俳優たちがきちんと演技をして作品について真摯に取り組んだ作品に仕上がっていることに喜びを感じた。
言ってるそばから原作との比較になってしまうが、鈴木杏が叶小夜子を演じる時点で、これはヤバイんじゃないの感が多々あったのだが、原作の小夜子のイメージとのギャップはともかく、鈴木杏による新たな叶小夜子というキャラクターの創出がされていた。
あとちょっとした余談だが、キャラクターの外見で興味深かったのは、勝地涼のルックスが、吉田秋生が描く遠野涼のルックスに酷似している点である。これは良いキャスティングをしたと思った。
監督の及川中は舞台挨拶の中で、遠野涼役として勝地涼のキャスティングが決まった際、「ラッキー!」とガッツポーズをしたとか言う話をしていたが、その辺は、原作と映画の小夜子のキャラクターの相違を帳消にするほど、遠野涼と勝地涼のルックスが似ていた、と言うことなのではないか、と思った。
キャストとしては、先ずは雪政を演じた津田寛治が最高だった。
津田寛治と言えば、最近では「模倣犯」(2002)での中居正広の相棒を演じた際の印象が強いため、「小さき勇者たち 〜ガメラ〜」(2006)で主人公の少年の父親を演っている津田寛治が、良い父親に見えるが、きっと悪い父親に違いない、と思わせる雰囲気が楽しかった。
今回の雪政役は、小夜子の腹黒い下僕と言う感じで、一応は叶家の書生と言う設定なのだが、小夜子の崇拝者と言うか、ボディガードと言うか、これまた圧倒的にすばらしいキャラクター設定がされていた。
悪いお姫様に仕える腹黒い騎士と言う感じだろうか。
または「犬神家の一族」(1976/2006)の珠世に対する猿蔵と言う感じ。
また、叶あきを演じた江波杏子がすばらしかった。
江波杏子は、東京電力・TEPCOの「オール電化」シリーズのCF(CM)で、鈴木京香の義母役で大人気だが、病弱なあき(小夜子の祖母)を見事に演じていた。
特に、病弱なあきのメイクがある意味尋常ではなく、女優とは思えぬ程、老い、やせ細ったスッピン振りが大変すばらしかった。
このメイクを見ても、本作「吉祥天女」のスタッフの真摯な態度が見えてくるし、江波杏子の役者魂が感じられる大変すばらしいシークエンスだった。
主演の鈴木杏は、丸々とした顔の健康そうな新たな小夜子像を創り上げている。
丸々とした顔は、おそらく能面のメタファーとして機能していると思うのだが、いかがだろうか。
また、前半部分の鈴木杏のアクション・シークエンスは良かったと思う。
髪振り乱しのアクションは、若干ハリウッド・テイストのカットでごまかす感じのアクションだったが、非常に楽しかった。
また、本仮屋ユイカ(麻井由似子役)が搭乗するシークエンスでは、作品のトーンが明らかに異なっている。
深刻で暗い物語の息抜きとして、またはコメディ・リリーフとしての役柄を担っているのだろう。
そして、由似子の姉・鷹子を演じた市川実日子は、物語の構成上は、探偵役を振られ、金田一耕助同様、蔵や図書館で、古文書や文献、新聞記事等を調べ、いろいろ推理したりしているのが非常に楽しかった。
小夜子との対決シークエンスでは、若干セリフ回しに問題を感じたが、個人的には市川実日子好きなので、非常に楽しめた。
ところで、元来「吉祥天女」と言う物語は一体何をしたかった物語だったのか、と言うと、おそらく少女漫画における昭和40年代を舞台とした横溝正史だったのではないか、と思える。
と言うのも、「吉祥天女」の物語は、昭和40年代の石川県金沢市を舞台に、二つの家(叶家と遠野家)の古くからの言い伝えや因習に満ちた、金と欲をめぐる愛憎劇なのだ。
と言う事もあり、本作「吉祥天女」は、市川崑の金田一耕助シリーズっぽい楽しみ方も出来る訳だ。
猿蔵(雪政)もいるしね。
そんな中、監督の及川中の演出は正統で、美術や背景から醸し出される世界観と、俳優達の頑張りに相まって、非常に良質の作品のような印象を観客に与えることに成功している。
事実、娯楽作品としては、わたしは大変楽しい時間を過ごすことが出来た。
しかしながら、「吉祥天女」と言うか、小夜子の行動の根底にある部分が希薄であり、若干の消化不良を感じてしまった。
とにかく「吉祥天女」は、所謂アイドル映画の枠を超えた、昭和40年代を舞台とした金田一耕助シリーズのようなテイストの作品である。
若干踏み込みが弱い気がするが、娯楽作品としては及第点をあげられる作品に仕上がっている。
関心があれば、是非劇場へ、と言う感じである。
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
余談だが、小夜子役に栗山千明と言う選択肢はなかったのだろうか、と思った。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
「ダイ・ハード4.0」
2007年6月22日 映画
2007/06/22 東京新宿「東京厚生年金会館」で「ダイ・ハード4.0」の試写を観た。
独立記念日の前夜。
ワシントンDCのFBI本部に設置されたサイバー犯罪部に異変が起こった。交通、通信、原子力、水道などのあらゆる全米のインフラを監視するシステムに、何者かがハッキングを仕掛けてきたのだ。
この部署を指揮するボウマン部長は事態を重く見て、FBIのブラックリストに載っているハッカーたちの一斉捜査を部下に命じる。
その頃、ニューヨーク市警統合テロ対策班のジョン・マクレーン警部補は、管轄外であるニュージャージー州の大学に立ち寄っていた。
しばらく連絡を取っていない別れた妻との娘ルーシーと会うためだったが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:レン・ワイズマン
脚本:マーク・ボンバック
出演:ブルース・ウィリス(ジョン・マクレーン)、ジャスティン・ロング(マット・ファレル)、ティモシー・オリファント(トーマス・ガブリエル)、クリフ・カーティス(ボウマン)、マギー・Q(マイ・リン)、シリル・ラファエリ(ランド)、メアリー・エリザベス・ウィンステッド(ルーシー・マクレーン)、ケヴィン・スミス(ワーロック)、ジョナサン・サドウスキー(トレイ)
本作「ダイ・ハード4.0」は、はっきり言って面白かった。
ジョン・マクティアナンが創出した「ダイ・ハード」(1988)シリーズだが、その後、レニー・ハーリンが「ダイ・ハード2」(1990)でシリーズを引継ぎ、シリーズのパターン(閉鎖された空間でのアクション、テロ集団の真意、舞台はクリスマス、バイオレンスな妻、"Let it snow"・・・・)を確立するが、「ダイ・ハード3」(1995)ではジョン・マクティアナン本人が再びメガホンを取り、シリーズのお約束をぶち壊し、そのシリーズのパターンを取っ払った流れを、本作「ダイ・ハード4.0」が踏襲する、と言った感じの構成であった。
余談だが、1988年の「ダイ・ハード」シリーズ1作目から、「ダイ・ハード4.0」までかれこれ20年が経つことを考えると、一作目から付き合っている映画ファンとしては、感慨も一入(ひとしお)と言うところである。
そんな一作目は、ハリウッドでの大ヒット作品として、鳴り物入りで日本公開され、日系企業が入っていたナカトミ・ビルを破壊しつくしたジョン・マクティアナンとブルース・ウィリスは、一気に時代の寵児となり、続く二作目ではレニー・ハーリンがまたもやヒット・メイカーの仲間入りをした「ダイ・ハード」シリーズだったが、ジョン・マクティアナンが再びメガホンをとった差三作目の「ダイ・ハード3」では、若干の迷走は否定できないが、その迷走を帳消しにするように本作「ダイ・ハード4.0」は大変すばらしい娯楽アクション作品に仕上がっていた。
余談だが、作品全体の感じがなんとなくジェームズ・キャメロンの「トゥルー・ライズ」(1994)に似ているような印象を受けた。
ラストへのアクションの流れがそんな気にさせるのだろうか。
脚本は釈然としない部分が若干あるが、アクション大作だと割り切ってしまえば、概ねOKだと思える。
ただ、ここで何かが起きて、次にあそこへ行って、今度はこんなことが起きる、と言った場当たり的な脚本の作り方が、まるでゲームのような印象を受けた。
もう少し、サイバー犯罪部を活躍させ、多重構造的な脚本にできなかったのだろうか、と思える。
キャストはなんと言っても、ジャスティン・ロング(マット・ファレル役)とマギー・Q(マイ・リン役)だろう。
先ずはマギー・Qだが、彼女のアクションもこなせ、かつ知性派と言うスタンスは、非常にポイントを押さえていると思う。
冒頭から中盤にかけて、彼女の見せ場が非常に楽しい。
また、コメディ畑のジャスティン・ロングだが、コミカルな部分は残しつつ、ブルース・ウィリスの相棒役として、今回の役所は非常に美味しく、またすばらしい。
今後の多方面での活躍に期待が高まる。
また、マクレーンの娘ルーシーを演じたメアリー・エリザベス・ウィンステッドは、流石ホリー・ジェネロ・マクレーンの娘と言うキャラクターに仕上がっていた。
つづく・・・・
一時保存です。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
独立記念日の前夜。
ワシントンDCのFBI本部に設置されたサイバー犯罪部に異変が起こった。交通、通信、原子力、水道などのあらゆる全米のインフラを監視するシステムに、何者かがハッキングを仕掛けてきたのだ。
この部署を指揮するボウマン部長は事態を重く見て、FBIのブラックリストに載っているハッカーたちの一斉捜査を部下に命じる。
その頃、ニューヨーク市警統合テロ対策班のジョン・マクレーン警部補は、管轄外であるニュージャージー州の大学に立ち寄っていた。
しばらく連絡を取っていない別れた妻との娘ルーシーと会うためだったが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:レン・ワイズマン
脚本:マーク・ボンバック
出演:ブルース・ウィリス(ジョン・マクレーン)、ジャスティン・ロング(マット・ファレル)、ティモシー・オリファント(トーマス・ガブリエル)、クリフ・カーティス(ボウマン)、マギー・Q(マイ・リン)、シリル・ラファエリ(ランド)、メアリー・エリザベス・ウィンステッド(ルーシー・マクレーン)、ケヴィン・スミス(ワーロック)、ジョナサン・サドウスキー(トレイ)
本作「ダイ・ハード4.0」は、はっきり言って面白かった。
ジョン・マクティアナンが創出した「ダイ・ハード」(1988)シリーズだが、その後、レニー・ハーリンが「ダイ・ハード2」(1990)でシリーズを引継ぎ、シリーズのパターン(閉鎖された空間でのアクション、テロ集団の真意、舞台はクリスマス、バイオレンスな妻、"Let it snow"・・・・)を確立するが、「ダイ・ハード3」(1995)ではジョン・マクティアナン本人が再びメガホンを取り、シリーズのお約束をぶち壊し、そのシリーズのパターンを取っ払った流れを、本作「ダイ・ハード4.0」が踏襲する、と言った感じの構成であった。
余談だが、1988年の「ダイ・ハード」シリーズ1作目から、「ダイ・ハード4.0」までかれこれ20年が経つことを考えると、一作目から付き合っている映画ファンとしては、感慨も一入(ひとしお)と言うところである。
そんな一作目は、ハリウッドでの大ヒット作品として、鳴り物入りで日本公開され、日系企業が入っていたナカトミ・ビルを破壊しつくしたジョン・マクティアナンとブルース・ウィリスは、一気に時代の寵児となり、続く二作目ではレニー・ハーリンがまたもやヒット・メイカーの仲間入りをした「ダイ・ハード」シリーズだったが、ジョン・マクティアナンが再びメガホンをとった差三作目の「ダイ・ハード3」では、若干の迷走は否定できないが、その迷走を帳消しにするように本作「ダイ・ハード4.0」は大変すばらしい娯楽アクション作品に仕上がっていた。
余談だが、作品全体の感じがなんとなくジェームズ・キャメロンの「トゥルー・ライズ」(1994)に似ているような印象を受けた。
ラストへのアクションの流れがそんな気にさせるのだろうか。
脚本は釈然としない部分が若干あるが、アクション大作だと割り切ってしまえば、概ねOKだと思える。
ただ、ここで何かが起きて、次にあそこへ行って、今度はこんなことが起きる、と言った場当たり的な脚本の作り方が、まるでゲームのような印象を受けた。
もう少し、サイバー犯罪部を活躍させ、多重構造的な脚本にできなかったのだろうか、と思える。
キャストはなんと言っても、ジャスティン・ロング(マット・ファレル役)とマギー・Q(マイ・リン役)だろう。
先ずはマギー・Qだが、彼女のアクションもこなせ、かつ知性派と言うスタンスは、非常にポイントを押さえていると思う。
冒頭から中盤にかけて、彼女の見せ場が非常に楽しい。
また、コメディ畑のジャスティン・ロングだが、コミカルな部分は残しつつ、ブルース・ウィリスの相棒役として、今回の役所は非常に美味しく、またすばらしい。
今後の多方面での活躍に期待が高まる。
また、マクレーンの娘ルーシーを演じたメアリー・エリザベス・ウィンステッドは、流石ホリー・ジェネロ・マクレーンの娘と言うキャラクターに仕上がっていた。
つづく・・・・
一時保存です。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/06/11 東京丸の内「東商ホール」で「憑神」の試写を観た。
時は幕末。
別所彦四郎(妻夫木聡)は下級武士とはいえ、代々将軍の影武者をつとめてきた由緒ある家柄の出。
幼いころより文武に優れ、秀才の誉れ高かった彦四郎だが、婿養子に行った先の家からある事件をきっかけに離縁されてしまう。
そんなある晩、彦四郎は昌平坂学問所でライバル同士だった榎本武揚と蕎麦屋で再開する。聞けば軍艦頭取にまで出世を果たしているという。
落ち込む彦四郎に蕎麦屋の親父・甚平(香川照之)は、榎本が出世した本当の理由は、向島の「三囲(みめぐり)稲荷」にお参りしたからであると、彦四郎にも行くことを勧めるが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:降旗康男
原作:浅田次郎「憑神」(新潮社刊)
脚本:降旗康男、小久保利己、土屋保文
美術:松宮敏之
照明:杉本崇
出演:妻夫木聡(別所彦四郎)、夏木マリ(別所イト)、佐々木蔵之介(別所左兵衛)、鈴木砂羽(別所千代)、森迫永依(おつや/死神)、笛木優子(井上八重)、佐藤隆太(小文吾)、赤井英和(九頭龍/疫病神)、香川照之(甚平)、西田敏行(伊勢屋/貧乏神)、江口洋介(勝海舟)
本作「憑神」は、正直なところあまり面白くなかった。
物語は、酔った挙句、出世が叶う「三囲稲荷」のつもりで「三巡稲荷」を参ってしまった彦四郎(妻夫木聡)の元へ、貧乏神(西田敏行)、疫病神(赤井英和)、死神(森迫永依)が次々とやってくる、と言うメイン・プロットに、下級武士のしがない生活や生き様を絡めた、江戸人情喜劇とも言うべきもので、言わば落語のような物語であった。
美術や衣装は、よい仕事をしていると思うし、照明もきっちりしていたので、違和感のない江戸末期幕末の世界観の構築に成功している。
しかし脚本がいただけない。
ただ単に彦四郎等が右往左往するドタバタ振りをなぞっているだけのような印象を受ける。
コメディなんだから、それで十分だ、と思うむきもあると思うが、折角なんだから、ちょっと付加価値をつけて欲しかったと思う。
もちろん、ラストに向けて、シリアスなプロットもあるにはあるのだが、その決着のつけ方にも釈然としないものを感じる。
更に、ラストに登場する人物が物語への感情移入を著しく阻害する結果に終わっている。
キャストだが、多方面で評価されている森迫永依(おつや/死神)は、本作では生意気なガキ振りを見事に発揮しているのだが、姿は子供でも数百年は生きている、と言う設定が生かされておらず、残念な印象を受けた。
これはおそらく、おつやのキャラクター設定に対し、安易な言葉使い(子供のような喋り方)をさせている脚本と演出の問題だと思う。
また、西田敏行(伊勢屋/貧乏神)はくどい上にピーキーなオーバーアクト振りを発揮し、やりすぎ感が多々あった。
良かったのは、佐々木蔵之介(別所左兵衛)で、ある意味論理的なダメ当主を楽しげに演じている。
妻夫木聡(別所彦四郎)は想像通りである。
凛々しい姿もあるのだが、その姿と、普段の彦四郎とのギャップが甚だしい。
ところで、キャスト全体を見渡して感じるのは無駄に豪華である、と言うこと。
果たしてこれだけの俳優が、本当に俳優として必要なのか、顔が知られているからキャスティングされているのか、ちょっと疑問を感じてしまう。
と言うのも脚本がつまらないのだ。
豪華なキャストを宣伝材料にするのは構わないが、如何せん物語がイマイチなのは非常に残念である。
作品の方向性としては、キャストに惹かれて劇場に足を運んだ観客が、物語の内容で満足して帰る、と言う方向を目指して欲しいと思うのだが、残念ながら本作「憑神」は、妻夫木聡と豪華なキャスト以外、取り立てて見るべきものがないような気がする。
言うならば、本作「憑神」は、妻夫木聡と豪華なキャストが客寄せパンダとして使われていると言う、大変残念な作品だと言わざるを得ない。
ついでに、浅田次郎も客寄せパンダとして使われているのだ。
本作「憑神」は、美術や衣装、撮影や照明により、すばらしい世界観を構築しているのにも関わらず、物語はイマイチだが、キャストは無駄に豪華な作品、と言うところであろうか。
☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
時は幕末。
別所彦四郎(妻夫木聡)は下級武士とはいえ、代々将軍の影武者をつとめてきた由緒ある家柄の出。
幼いころより文武に優れ、秀才の誉れ高かった彦四郎だが、婿養子に行った先の家からある事件をきっかけに離縁されてしまう。
そんなある晩、彦四郎は昌平坂学問所でライバル同士だった榎本武揚と蕎麦屋で再開する。聞けば軍艦頭取にまで出世を果たしているという。
落ち込む彦四郎に蕎麦屋の親父・甚平(香川照之)は、榎本が出世した本当の理由は、向島の「三囲(みめぐり)稲荷」にお参りしたからであると、彦四郎にも行くことを勧めるが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:降旗康男
原作:浅田次郎「憑神」(新潮社刊)
脚本:降旗康男、小久保利己、土屋保文
美術:松宮敏之
照明:杉本崇
出演:妻夫木聡(別所彦四郎)、夏木マリ(別所イト)、佐々木蔵之介(別所左兵衛)、鈴木砂羽(別所千代)、森迫永依(おつや/死神)、笛木優子(井上八重)、佐藤隆太(小文吾)、赤井英和(九頭龍/疫病神)、香川照之(甚平)、西田敏行(伊勢屋/貧乏神)、江口洋介(勝海舟)
本作「憑神」は、正直なところあまり面白くなかった。
物語は、酔った挙句、出世が叶う「三囲稲荷」のつもりで「三巡稲荷」を参ってしまった彦四郎(妻夫木聡)の元へ、貧乏神(西田敏行)、疫病神(赤井英和)、死神(森迫永依)が次々とやってくる、と言うメイン・プロットに、下級武士のしがない生活や生き様を絡めた、江戸人情喜劇とも言うべきもので、言わば落語のような物語であった。
美術や衣装は、よい仕事をしていると思うし、照明もきっちりしていたので、違和感のない江戸末期幕末の世界観の構築に成功している。
しかし脚本がいただけない。
ただ単に彦四郎等が右往左往するドタバタ振りをなぞっているだけのような印象を受ける。
コメディなんだから、それで十分だ、と思うむきもあると思うが、折角なんだから、ちょっと付加価値をつけて欲しかったと思う。
もちろん、ラストに向けて、シリアスなプロットもあるにはあるのだが、その決着のつけ方にも釈然としないものを感じる。
更に、ラストに登場する人物が物語への感情移入を著しく阻害する結果に終わっている。
キャストだが、多方面で評価されている森迫永依(おつや/死神)は、本作では生意気なガキ振りを見事に発揮しているのだが、姿は子供でも数百年は生きている、と言う設定が生かされておらず、残念な印象を受けた。
これはおそらく、おつやのキャラクター設定に対し、安易な言葉使い(子供のような喋り方)をさせている脚本と演出の問題だと思う。
また、西田敏行(伊勢屋/貧乏神)はくどい上にピーキーなオーバーアクト振りを発揮し、やりすぎ感が多々あった。
良かったのは、佐々木蔵之介(別所左兵衛)で、ある意味論理的なダメ当主を楽しげに演じている。
妻夫木聡(別所彦四郎)は想像通りである。
凛々しい姿もあるのだが、その姿と、普段の彦四郎とのギャップが甚だしい。
ところで、キャスト全体を見渡して感じるのは無駄に豪華である、と言うこと。
果たしてこれだけの俳優が、本当に俳優として必要なのか、顔が知られているからキャスティングされているのか、ちょっと疑問を感じてしまう。
と言うのも脚本がつまらないのだ。
豪華なキャストを宣伝材料にするのは構わないが、如何せん物語がイマイチなのは非常に残念である。
作品の方向性としては、キャストに惹かれて劇場に足を運んだ観客が、物語の内容で満足して帰る、と言う方向を目指して欲しいと思うのだが、残念ながら本作「憑神」は、妻夫木聡と豪華なキャスト以外、取り立てて見るべきものがないような気がする。
言うならば、本作「憑神」は、妻夫木聡と豪華なキャストが客寄せパンダとして使われていると言う、大変残念な作品だと言わざるを得ない。
ついでに、浅田次郎も客寄せパンダとして使われているのだ。
本作「憑神」は、美術や衣装、撮影や照明により、すばらしい世界観を構築しているのにも関わらず、物語はイマイチだが、キャストは無駄に豪華な作品、と言うところであろうか。
☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/06/10 東京神保町「一ツ橋ホール」で「シュレック3」の試写を観た。
互いへの愛を確認し、幸せな生活を送っていたシュレック(マイク・マイヤーズ)とフィオナ姫(キャメロン・ディアス)。
ところが、ハロルド国王(ジョン・クリーズ)の容態が悪化し、シュレックは次の王様になるハメに。
公務もロクにこなせないシュレックは、王様なんてなりたくない。
そこで、シュレックはもうひとりの後継者だというアーサー(ジャスティン・ティンバーレイク)を探しに、ドンキー(エディ・マーフィ)と長ぐつをはいた猫(アントニオ・バンデラス)と旅に出ることに・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:クリス・ミラー
原作:ウィリアム・スタイグ
原案:アンドリュー・アダムソン
脚本:ピーター・S・シーマン、ジェフリー・プライス、クリス・ミラー、アーロン・ワーナー
声の出演:マイク・マイヤーズ(シュレック)、キャメロン・ディアス(フィオナ姫)、エディ・マーフィ(ドンキー)、アントニオ・バンデラス(長ぐつをはいた猫)、ジュリー・アンドリュース(リリアン王妃)、ジョン・クリーズ(ハロルド国王)、ルパート・エヴェレット(チャーミング王子)、ジャスティン・ティンバーレイク(アーサー)、エリック・アイドル(マーリン)、エイミー・ポーラー(白雪姫)、マーヤ・ルドルフ(髪長姫)、チェリ・オテリ(眠れる森の美女)、エイミー・セダリス(シンデレラ)、ジョン・クラシンスキー(ランスロット)、イアン・マクシェーン(フック船長)、ラリー・キング(ドリス)、レジス・フィルビン(メイベル)
いきなり余談で恐縮だが、先ずはこちらをご参照願いたい。
「シュレック2」のヒットを憂慮する
http://diarynote.jp/d/29346/20041110.html
さて本作「シュレック3」だが、作品の背景には、前述のエントリーのように釈然としない部分が多々あるが、作品自体をみた場合、楽しい作品に仕上がっていた。
ところで、「シュレック」(2001)、「シュレック2」(2004)、「シュレック3」(2007)と眺めてみると、ちょっと気になったのは、アーノルド・シュワルツェネッガーが人気者になってしまったため、悪役に徹することが出来なくなり、知らない間にヒーローものになってしまった「ターミネーター」(1984)、「ターミネーター2」(1991)、「ターミネーター3」(2003)と同じような印象を受ける。
若い映画ファンは、「ターミネーター」一作目で、シュワルツェネッガーが悪役だったことを知らないかも知れないが、シュワネツェネッガーは「ターミネーター」では悪の権化を演じていたのだが、「ターミネーター2」の時点でシュワルツェネッガー本人は大人気俳優になってしまい、そのイメージを壊すことが興行的に難しく、所謂大人の事情で悪役が出来ない状況に陥っていた訳である。
尤も「ターミネーター2」の冒頭部分の「ターミネーター」を観た事がある観客に対するジェームス・キャメロンが仕掛けたミス・デレクションは大変素晴らしい効果を与えているのは事実だが、多くの「ターミネーター」を楽しんだ映画ファンは、悪役のシュワルツェネッガーが見たかったのだ。
さて、話は「シュレック」に戻るが、一作目のシュレックは嫌われ者で恐怖の存在だったのだが、「シュレック2」、「シュレック3」と進むにつれ、シュレック自身は愛すべきキャラクターになってしまい、その愛すべきキャラクター振りは、観客だけではなく、物語の中の多くの国民たちの敬愛を集めてしまっているのだ。
これで良いのか?
毒気を抜かれた、万人に愛される怪物シュレックで本当に良いのか?
個人的には大きな疑問を感じてしまう。
シュレックのキャラクターは、「シュレック」、「シュレック2」の大ヒットを受け、キャラクター設定にも変更が加えられ、「シュレック3」においてのシュレックのキャラクターは、既に怪物ではなく、ヒーローになってしまっている。
もうそろそろ作品としての限界も見えてきているような印象を受けた。
実際「シュレック3」のシュレックは、王様になんかなるより、自分の沼に帰って、静かな怪物ライフを送りたい旨の発言をしているのだが、それをそうさせないのがドリームワークスと言う会社、と言うことなのであろうか。
さて、話は本作「シュレック3」に再度戻るが、脚本は、王国の王位継承問題と言う、ちょっと難しいテーマを導入、その王位継承者のひとりがアーサーで、アーサーを指導するマーリンと言う魔法使いが登場。ドリームワークス(カッツェンバーグ)の反ディズニー路線としては今回は「王様の剣」(1963)と言う比較的マイナーな作品まで俎上に載せている。
しかし、脚本自体は特に面白いわけでもなく、単純明快なドタバタ冒険アクションに、数々の映画のパロディが盛り込まれている。
アニメーションのクオリティは、前作からまたまた進化し、特に印象的だったのは、ラスト近辺のプリンス・チャーミングの舞台にアーサーが登場するシークエンスでは、アーサーの動きや舞台照明の感じがすばらしく、人間じゃねぇの、と見紛うばかりであった。
前作ではドンキーやシュレックのルックスが変貌する魔法が物語りのスパイスとして効いていたのだが、今回のドンキーと長猫の中身が入れ替わる、と言うプロットは今ひとつだった。
まあ、本作「シュレック3」は楽しい作品に仕上がっているのは仕上がっているのだが、やはり気になるのは、例えば「シュレック」シリーズを観た子供たちが、ディズニーのクラシック作品を観た場合、「シュレック」シリーズにおいて、パロディのモトネタとしての印象しか受けないのではないか、と言う点である。
つまり、「シュレック」好きの子供が「ピノキオ」(1940)や「白雪姫」(1937)を観て、素直に感動できるのか、と言うことである。
やはり、パロディ映画はオリジナル作品よりヒットしたり、表舞台に出てはいけないな、と思った。
例えば、「スター・ウォーズ」(1977)より「スペース・ボール」(1987)が、「鳥」(1963)や「サイコ」(1960)より「新サイコ」(1977)がヒットしたらどう思います?
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
互いへの愛を確認し、幸せな生活を送っていたシュレック(マイク・マイヤーズ)とフィオナ姫(キャメロン・ディアス)。
ところが、ハロルド国王(ジョン・クリーズ)の容態が悪化し、シュレックは次の王様になるハメに。
公務もロクにこなせないシュレックは、王様なんてなりたくない。
そこで、シュレックはもうひとりの後継者だというアーサー(ジャスティン・ティンバーレイク)を探しに、ドンキー(エディ・マーフィ)と長ぐつをはいた猫(アントニオ・バンデラス)と旅に出ることに・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:クリス・ミラー
原作:ウィリアム・スタイグ
原案:アンドリュー・アダムソン
脚本:ピーター・S・シーマン、ジェフリー・プライス、クリス・ミラー、アーロン・ワーナー
声の出演:マイク・マイヤーズ(シュレック)、キャメロン・ディアス(フィオナ姫)、エディ・マーフィ(ドンキー)、アントニオ・バンデラス(長ぐつをはいた猫)、ジュリー・アンドリュース(リリアン王妃)、ジョン・クリーズ(ハロルド国王)、ルパート・エヴェレット(チャーミング王子)、ジャスティン・ティンバーレイク(アーサー)、エリック・アイドル(マーリン)、エイミー・ポーラー(白雪姫)、マーヤ・ルドルフ(髪長姫)、チェリ・オテリ(眠れる森の美女)、エイミー・セダリス(シンデレラ)、ジョン・クラシンスキー(ランスロット)、イアン・マクシェーン(フック船長)、ラリー・キング(ドリス)、レジス・フィルビン(メイベル)
いきなり余談で恐縮だが、先ずはこちらをご参照願いたい。
「シュレック2」のヒットを憂慮する
http://diarynote.jp/d/29346/20041110.html
さて本作「シュレック3」だが、作品の背景には、前述のエントリーのように釈然としない部分が多々あるが、作品自体をみた場合、楽しい作品に仕上がっていた。
ところで、「シュレック」(2001)、「シュレック2」(2004)、「シュレック3」(2007)と眺めてみると、ちょっと気になったのは、アーノルド・シュワルツェネッガーが人気者になってしまったため、悪役に徹することが出来なくなり、知らない間にヒーローものになってしまった「ターミネーター」(1984)、「ターミネーター2」(1991)、「ターミネーター3」(2003)と同じような印象を受ける。
若い映画ファンは、「ターミネーター」一作目で、シュワルツェネッガーが悪役だったことを知らないかも知れないが、シュワネツェネッガーは「ターミネーター」では悪の権化を演じていたのだが、「ターミネーター2」の時点でシュワルツェネッガー本人は大人気俳優になってしまい、そのイメージを壊すことが興行的に難しく、所謂大人の事情で悪役が出来ない状況に陥っていた訳である。
尤も「ターミネーター2」の冒頭部分の「ターミネーター」を観た事がある観客に対するジェームス・キャメロンが仕掛けたミス・デレクションは大変素晴らしい効果を与えているのは事実だが、多くの「ターミネーター」を楽しんだ映画ファンは、悪役のシュワルツェネッガーが見たかったのだ。
さて、話は「シュレック」に戻るが、一作目のシュレックは嫌われ者で恐怖の存在だったのだが、「シュレック2」、「シュレック3」と進むにつれ、シュレック自身は愛すべきキャラクターになってしまい、その愛すべきキャラクター振りは、観客だけではなく、物語の中の多くの国民たちの敬愛を集めてしまっているのだ。
これで良いのか?
毒気を抜かれた、万人に愛される怪物シュレックで本当に良いのか?
個人的には大きな疑問を感じてしまう。
シュレックのキャラクターは、「シュレック」、「シュレック2」の大ヒットを受け、キャラクター設定にも変更が加えられ、「シュレック3」においてのシュレックのキャラクターは、既に怪物ではなく、ヒーローになってしまっている。
もうそろそろ作品としての限界も見えてきているような印象を受けた。
実際「シュレック3」のシュレックは、王様になんかなるより、自分の沼に帰って、静かな怪物ライフを送りたい旨の発言をしているのだが、それをそうさせないのがドリームワークスと言う会社、と言うことなのであろうか。
さて、話は本作「シュレック3」に再度戻るが、脚本は、王国の王位継承問題と言う、ちょっと難しいテーマを導入、その王位継承者のひとりがアーサーで、アーサーを指導するマーリンと言う魔法使いが登場。ドリームワークス(カッツェンバーグ)の反ディズニー路線としては今回は「王様の剣」(1963)と言う比較的マイナーな作品まで俎上に載せている。
しかし、脚本自体は特に面白いわけでもなく、単純明快なドタバタ冒険アクションに、数々の映画のパロディが盛り込まれている。
アニメーションのクオリティは、前作からまたまた進化し、特に印象的だったのは、ラスト近辺のプリンス・チャーミングの舞台にアーサーが登場するシークエンスでは、アーサーの動きや舞台照明の感じがすばらしく、人間じゃねぇの、と見紛うばかりであった。
前作ではドンキーやシュレックのルックスが変貌する魔法が物語りのスパイスとして効いていたのだが、今回のドンキーと長猫の中身が入れ替わる、と言うプロットは今ひとつだった。
まあ、本作「シュレック3」は楽しい作品に仕上がっているのは仕上がっているのだが、やはり気になるのは、例えば「シュレック」シリーズを観た子供たちが、ディズニーのクラシック作品を観た場合、「シュレック」シリーズにおいて、パロディのモトネタとしての印象しか受けないのではないか、と言う点である。
つまり、「シュレック」好きの子供が「ピノキオ」(1940)や「白雪姫」(1937)を観て、素直に感動できるのか、と言うことである。
やはり、パロディ映画はオリジナル作品よりヒットしたり、表舞台に出てはいけないな、と思った。
例えば、「スター・ウォーズ」(1977)より「スペース・ボール」(1987)が、「鳥」(1963)や「サイコ」(1960)より「新サイコ」(1977)がヒットしたらどう思います?
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/06/07 東京大崎「イマジカ第2試写室」で「夕凪の街桜の国」の試写を観た。
原爆投下から十三年が経過した広島の街。
そこに暮らす平野皆実(麻生久美子)は、会社の同僚・打越(吉沢悠)から愛を告白される。
しかし彼女には家族の命を奪い、自分が生き残った被爆体験が深い心の傷になっていた。
その彼女の想いを打越は優しく包み込むが、やがて皆実には原爆症の症状が現れ始める・・・・(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:佐々部清
原作:こうの史代「夕凪の街 桜の国」(双葉社刊)
脚本:国井桂、佐々部清
出演:田中麗奈(石川七波)、麻生久美子(平野皆実)、吉沢悠(打越豊)、中越典子(利根東子)、伊崎充則(石川旭/青年時代)、金井勇太(石川凪生)、藤村志保(平野フジミ)、堺正章(石川旭)
新たな涙腺破壊兵器の誕生である。
ところで、本作「夕凪の街桜の国」は、こうの史代の漫画の映画化作品である。
わたしは常日頃から漫画の映画化には否定的な立場を取っている。
と言うのも、わたしは、映画化する題材が、漫画にしろ小説にしろ、人気のある原作の映画化ではなく、オリジナルの脚本で勝負して欲しいと思うからである。
人気のある作品を映画化する、と言うことをやっていくと、オリジナル脚本には出資されず、映像作家の才能が枯渇してしまう、と言う危惧を感じるからである。
また、個人的な好き嫌いの話だが、わたしは第二次世界大戦を背景にした日本映画はあまり好きではない。
と言うか興味が沸かないのである。
年間に300本以上の映画を観るわたしだが、第二次世界大戦を背景にした日本映画はほとんど観ていない、と思う。
そういった状況の中、わたしは本作「夕凪の街桜の国」を観た訳だ。
前述の理由から考えると当然のことだが、わたしは本作に全く期待をしていなかった。
と言うか、どうせつまらない作品だろう、と高を括っていたのだ。
さて、本作「夕凪の街桜の国」についてだが、先ず驚いたのは、冒頭のタイトル部分である。
本作のタイトルはご承知のように「夕凪の街桜の国」なのだが、なんと、本作の冒頭では「夕凪の街」としかタイトルが出ないのである。
短編の二本立てか?
1本の作品に仕上がっていないのか?
わたしの作品に対する危惧は膨らんだ。
しかしながら、本作の前半部分にあたる「夕凪の街」のパートは大変すばらしかった。
先ずは、平野皆実(麻生久美子)の存在感と彼女が醸し出す空気感に圧倒された。
もちろん、それは広島弁のスローモーな語り口がそうさせているのかもしれないのだが、その達観したような空気感を持つ彼女のひとつひとつのセリフが強烈な印象をもって心に突き刺さる。
と言うのも、この皆実のキャラクター設定が非常に秀逸で、彼女の原爆に対する考え方、例えば、原爆を落とした米兵の「日本人なんか死んでしまえ」と言う感情に対する彼女の、ある意味偏執狂的な考え方や、原爆は広島に落ちたのではなく、目的を持って広島に落とされたのである、と言う考え方に愕然とさせられる。
これらは、当たり前と言えば当たり前の考え方なのだが、言葉にすることにより、観客に与える効果は絶大である。
また、彼女の独自の世界観を持った、ある種独善的な行動、例えば靴を脱いで歩く理由、そして笹の葉を集める理由、と言ったこれらも言わば偏執狂的な考えの下に行われている行動とも取れるのだが、これにより、彼女の精神の状態があまり良い状態ではないことが、暗に仄めかされている。
つまり、彼女のキャラクターは、過去のある事件の影響で、自我が崩壊する寸前の状況を偏執的な性格によって踏みとどまっている、と思えるのだ。
麻生久美子の儚げなルックスと相まって、観客が生涯忘れえぬ皆実と言うキャラクターが誕生している。
更に、皆実を取り巻くキャラクターの性格や考え方も、見落としがちな些細なシークエンスから明確に描写され、従来の佐々部清の作品からは想像できないほどの良質な背景を持った作品に仕上がっているような印象を受けた。
また、美術や衣装もすばらしく、また照明が良い仕事をしているせいか、当時の広島の再現性が高く、リアリティを持ったすばらしい世界観の構築に成功している。
一方本作の後半部分「桜の国」のシークエンスは、平板で奥行きに乏しく、テレビドラマのような薄っぺらさを感じてしまう。
もしかすると、過去と現在のギャップを明確にするための確信犯的な作風なのかもしれないが、過去のシークエンスにあった世界観や空気感が、崩壊しているような印象を受けた。
特に冒頭のシークエンス、マンションの一室でのシーンの照明が作り物じみており、リアリティのない絵空事のような印象を受けてしまう。
「桜の国」のシークエンスのキャストは、田中麗奈(石川七波)にしろ、中越典子(利根東子)にしろ、堺正章(石川旭)にしろ、良い仕事をしているのだが、あまりにも顔を見知った俳優(テレビ番組やCMにばかばか出てくるような俳優の意)であるため、釈然としないものを感じた。
「夕凪の街」のシークエンスのように、顔をあまり知られていない俳優を使うべきだったのではないか、と思った。
物語は、「桜の国」のシークエンスに入ると、物語は現在と過去を行き来しだし、「夕凪の街」で描かれなかった、いわば「謎」を解明するための旅が始まる。
「桜の国」のシークエンスも決してつまらない訳ではなく、非常に良質なクオリティを持っているのだが、「夕凪の街」のクオリティには到底及ばない。
わたしたち観客の脳裏には、平野皆実(麻生久美子)、打越豊(吉沢悠)、石川旭(伊崎充則)、平野フジミ(藤村志保)が織りなす物語に圧倒されているのだ。
とにかく、本作「夕凪の街桜の国」は、最近ありがちのアイドル女優が難病で死んでしまうような、難病モノとは一線を画したすばらしい作品に仕上がっている。
このような良質な作品は、きちんとプロモーションをして確実にヒットさせなければならないと思う。
是非劇場に足を運んでいただきたいと思う。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
原爆投下から十三年が経過した広島の街。
そこに暮らす平野皆実(麻生久美子)は、会社の同僚・打越(吉沢悠)から愛を告白される。
しかし彼女には家族の命を奪い、自分が生き残った被爆体験が深い心の傷になっていた。
その彼女の想いを打越は優しく包み込むが、やがて皆実には原爆症の症状が現れ始める・・・・(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:佐々部清
原作:こうの史代「夕凪の街 桜の国」(双葉社刊)
脚本:国井桂、佐々部清
出演:田中麗奈(石川七波)、麻生久美子(平野皆実)、吉沢悠(打越豊)、中越典子(利根東子)、伊崎充則(石川旭/青年時代)、金井勇太(石川凪生)、藤村志保(平野フジミ)、堺正章(石川旭)
新たな涙腺破壊兵器の誕生である。
ところで、本作「夕凪の街桜の国」は、こうの史代の漫画の映画化作品である。
わたしは常日頃から漫画の映画化には否定的な立場を取っている。
と言うのも、わたしは、映画化する題材が、漫画にしろ小説にしろ、人気のある原作の映画化ではなく、オリジナルの脚本で勝負して欲しいと思うからである。
人気のある作品を映画化する、と言うことをやっていくと、オリジナル脚本には出資されず、映像作家の才能が枯渇してしまう、と言う危惧を感じるからである。
また、個人的な好き嫌いの話だが、わたしは第二次世界大戦を背景にした日本映画はあまり好きではない。
と言うか興味が沸かないのである。
年間に300本以上の映画を観るわたしだが、第二次世界大戦を背景にした日本映画はほとんど観ていない、と思う。
そういった状況の中、わたしは本作「夕凪の街桜の国」を観た訳だ。
前述の理由から考えると当然のことだが、わたしは本作に全く期待をしていなかった。
と言うか、どうせつまらない作品だろう、と高を括っていたのだ。
さて、本作「夕凪の街桜の国」についてだが、先ず驚いたのは、冒頭のタイトル部分である。
本作のタイトルはご承知のように「夕凪の街桜の国」なのだが、なんと、本作の冒頭では「夕凪の街」としかタイトルが出ないのである。
短編の二本立てか?
1本の作品に仕上がっていないのか?
わたしの作品に対する危惧は膨らんだ。
しかしながら、本作の前半部分にあたる「夕凪の街」のパートは大変すばらしかった。
先ずは、平野皆実(麻生久美子)の存在感と彼女が醸し出す空気感に圧倒された。
もちろん、それは広島弁のスローモーな語り口がそうさせているのかもしれないのだが、その達観したような空気感を持つ彼女のひとつひとつのセリフが強烈な印象をもって心に突き刺さる。
と言うのも、この皆実のキャラクター設定が非常に秀逸で、彼女の原爆に対する考え方、例えば、原爆を落とした米兵の「日本人なんか死んでしまえ」と言う感情に対する彼女の、ある意味偏執狂的な考え方や、原爆は広島に落ちたのではなく、目的を持って広島に落とされたのである、と言う考え方に愕然とさせられる。
これらは、当たり前と言えば当たり前の考え方なのだが、言葉にすることにより、観客に与える効果は絶大である。
また、彼女の独自の世界観を持った、ある種独善的な行動、例えば靴を脱いで歩く理由、そして笹の葉を集める理由、と言ったこれらも言わば偏執狂的な考えの下に行われている行動とも取れるのだが、これにより、彼女の精神の状態があまり良い状態ではないことが、暗に仄めかされている。
つまり、彼女のキャラクターは、過去のある事件の影響で、自我が崩壊する寸前の状況を偏執的な性格によって踏みとどまっている、と思えるのだ。
麻生久美子の儚げなルックスと相まって、観客が生涯忘れえぬ皆実と言うキャラクターが誕生している。
更に、皆実を取り巻くキャラクターの性格や考え方も、見落としがちな些細なシークエンスから明確に描写され、従来の佐々部清の作品からは想像できないほどの良質な背景を持った作品に仕上がっているような印象を受けた。
また、美術や衣装もすばらしく、また照明が良い仕事をしているせいか、当時の広島の再現性が高く、リアリティを持ったすばらしい世界観の構築に成功している。
一方本作の後半部分「桜の国」のシークエンスは、平板で奥行きに乏しく、テレビドラマのような薄っぺらさを感じてしまう。
もしかすると、過去と現在のギャップを明確にするための確信犯的な作風なのかもしれないが、過去のシークエンスにあった世界観や空気感が、崩壊しているような印象を受けた。
特に冒頭のシークエンス、マンションの一室でのシーンの照明が作り物じみており、リアリティのない絵空事のような印象を受けてしまう。
「桜の国」のシークエンスのキャストは、田中麗奈(石川七波)にしろ、中越典子(利根東子)にしろ、堺正章(石川旭)にしろ、良い仕事をしているのだが、あまりにも顔を見知った俳優(テレビ番組やCMにばかばか出てくるような俳優の意)であるため、釈然としないものを感じた。
「夕凪の街」のシークエンスのように、顔をあまり知られていない俳優を使うべきだったのではないか、と思った。
物語は、「桜の国」のシークエンスに入ると、物語は現在と過去を行き来しだし、「夕凪の街」で描かれなかった、いわば「謎」を解明するための旅が始まる。
「桜の国」のシークエンスも決してつまらない訳ではなく、非常に良質なクオリティを持っているのだが、「夕凪の街」のクオリティには到底及ばない。
わたしたち観客の脳裏には、平野皆実(麻生久美子)、打越豊(吉沢悠)、石川旭(伊崎充則)、平野フジミ(藤村志保)が織りなす物語に圧倒されているのだ。
とにかく、本作「夕凪の街桜の国」は、最近ありがちのアイドル女優が難病で死んでしまうような、難病モノとは一線を画したすばらしい作品に仕上がっている。
このような良質な作品は、きちんとプロモーションをして確実にヒットさせなければならないと思う。
是非劇場に足を運んでいただきたいと思う。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
「舞妓Haaaan!!!」
2007年6月14日 映画2007/06/01 東京内幸町「イイノホール」で「舞妓Haaaan!!!」の試写を観た。
鬼塚公彦(阿部サダヲ)は鈴屋食品・東京本社で働く平凡なサラリーマン。
ただひとつ異なるのは、熱狂的な舞妓ファンで暇さえあれば京都に通っていること。
しかし、舞妓と遊ぶためのお店・お茶屋ののれんをくぐったことは・・・まだない。
そんなある日、公彦に吉報がもたらされた。
念願の京都支社への転勤が決まったのだ!!!
あっさりと同僚OLの彼女・大沢富士子(柴咲コウ)を捨てて、意気揚々と京都入りする公彦だったが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:水田伸生
脚本:宮藤官九郎
出演:阿部サダヲ(鬼塚公彦)、堤真一(内藤貴一郎)、柴咲コウ(大沢富士子/駒富士)、小出早織(駒子)、京野ことみ(小梅)、酒井若菜(豆福)、キムラ緑子(良江)、大倉孝二(大下)、生瀬勝久(先崎部長)、山田孝之(修学旅行生)、須賀健太(カメラ小僧)、Mr.オクレ(老社員)、日村勇紀(カメラ小僧/バナナマン)、北村一輝(医師)、植木等(斉藤老人)、木場勝己(玄太)、真矢みき(こまつ)、吉行和子(さつき)伊東四朗(鈴木大海)
先ずは本作「舞妓Haaaan!!!」は大変面白い娯楽作品に仕上がっていた。
一番印象的だったのは、阿部サダヲ(鬼塚公彦役)、堤真一(内藤貴一郎役)の怪演振りである。
両者とも舞台俳優である、と言うことが作品の世界にすばらしい効果を与えている。
舞台は、映画と異なり、見立ての文化なんだと思う。
例えば、俳優が一言「綺麗な海ね」と言えばそこには大洋が広がり、メイクなしで、子供や老人になってしまう。
舞台とは、俳優と観客が見立てを楽しみ、信じることが出来る、と言う魔法の力を持った世界なのだ。
そんな中で、本作「舞妓Haaaan!!!」ではハイテンションで緊張感とライブ感に溢れる舞台俳優同士の掛け合いが最高に面白い。
脚本は上手いんだか下手なんだか、ムラが多い宮藤官九郎だが、今回の脚本は非常にテンポが良く、前半から中盤までの怒涛の展開には、驚かされつつ、笑わされた。
特に、鬼塚と内藤のバトルがエスカレートしていく様子はすばらしかった。
ラストへの持って行きかたに若干の不満があるものの、トータル的には非常に楽しい脚本に仕上がっていたと思う。
キャストは何と言っても阿部サダヲ(鬼塚公彦役)に尽きる。
悪く言うと、本作「舞妓Haaaan!!!」は阿部サダヲの力量におんぶにだっこ状態のような印象すら受けてしまう。
それほど凄いキャラクターを見事に演じている。
また阿部サダヲは舞台俳優、と言うこともあり、動きのキレと言うか、キメと言うか、一連の動作の中で、ポイントを決めるのが非常に上手いと思った。
あとは不自然な格好での動きがすばらしく、変な格好で動くと言う、筋力的には非常に辛い動きを嬉々として演じる様にも驚かされる。
堤真一(内藤貴一郎役)は、阿部サダヲと同様すばらしく、モデルとなっている野球選手同様、破天荒な生き様を見せてくれている。
柴咲コウ(大沢富士子/駒富士)は、「世界の中心で、愛をさけぶ」 (2004)、「日本沈没」(2006)に続き、例によって、物語にいらないキャラクターを演じているような印象を受けた。
柴咲コウのキャラクターを完全に落として脚本を作ったほうが良かったのではないか、と思えた。
非常に印象的だったのは、小出早織(駒子役)の好演である。
彼女のキャリアは、テレビドラマでのキャリアがほとんどだが、映画への進出を含め、今後が期待の女優さんだと思った。
また、生瀬勝久(先崎部長役)は要所要所を締める、美味しい役柄を楽しげに演じていた。
ところで、水田伸生、宮藤官九郎、阿部サダヲと言えば、テレビドラマ「ぼくの魔法使い」(2003)つながりかと思えるが、宮藤官九郎脚本作品の多くに阿部サダヲがクレジットされているのも興味深い。
前述の柴咲コウのキャラクターは不要だ、と言う話だが、本作「舞妓Haaaan!!!」の脚本のキモは、鬼塚と内藤のエスカレーションギャグと、駒子との係わりであり、富士子の扱いは非常に小さいもので良いハズである。
それなのに、柴咲コウがクレジットされたばかりに、大人の事情で柴咲コウの役柄がクローズアップされてしまっているような印象を受ける。
また本作のプロモーション的には、物語のプロットから考えると端役に過ぎない富士子のシークエンスをメインのプロットのように扱った戦略的なプロモーションが行われているような印象を受ける。
これは、柴咲コウで客を呼んで、小出早織で客を帰す(柴咲コウの人気で客を呼んで、小出早織の演技を堪能させ、客を満足させるの意)、と言う戦略だったのだろうか。
だとすると、「世界の中心で、愛をさけぶ」 (2004)、「日本沈没」(2006)に続き、客寄せパンダのように扱われる柴咲コウと言う女優が不憫でならない。
確かに本作「舞妓Haaaan!!!」と言う作品は客を呼ぶ要素に乏しい。
阿部サダヲや堤真一、宮藤官九郎の脚本だけではなかなか多くの客を呼ぶことは難しいだろう。
そんな中、柴咲コウで客を呼ぼうと考えるのは理解できるのだが、脚本上メインのプロットたり得ない、狂言回し的なキャラクターを振られてしまうのはどうかと思える。
物語の構成を考えた場合、柴咲コウを使うのであれば、小出早織が演じた駒子クラスの役を振るべきだと思う。
それが出来ない、と言うことは柴咲コウの女優としての力量に問題がある、と言うことなのだと思う。
柴咲コウに関する余談が長かったが、本作「舞妓Haaaan!!!」は非常に良質なコメディ作品に仕上がっている。
ラストの取扱いに釈然としない(蛇足的な)部分があるが、あとは手放しでオススメ出来る楽しい作品である。
阿部サダヲの怪演に酔っていただきたい。
是非劇場へ!
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
鬼塚公彦(阿部サダヲ)は鈴屋食品・東京本社で働く平凡なサラリーマン。
ただひとつ異なるのは、熱狂的な舞妓ファンで暇さえあれば京都に通っていること。
しかし、舞妓と遊ぶためのお店・お茶屋ののれんをくぐったことは・・・まだない。
そんなある日、公彦に吉報がもたらされた。
念願の京都支社への転勤が決まったのだ!!!
あっさりと同僚OLの彼女・大沢富士子(柴咲コウ)を捨てて、意気揚々と京都入りする公彦だったが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:水田伸生
脚本:宮藤官九郎
出演:阿部サダヲ(鬼塚公彦)、堤真一(内藤貴一郎)、柴咲コウ(大沢富士子/駒富士)、小出早織(駒子)、京野ことみ(小梅)、酒井若菜(豆福)、キムラ緑子(良江)、大倉孝二(大下)、生瀬勝久(先崎部長)、山田孝之(修学旅行生)、須賀健太(カメラ小僧)、Mr.オクレ(老社員)、日村勇紀(カメラ小僧/バナナマン)、北村一輝(医師)、植木等(斉藤老人)、木場勝己(玄太)、真矢みき(こまつ)、吉行和子(さつき)伊東四朗(鈴木大海)
先ずは本作「舞妓Haaaan!!!」は大変面白い娯楽作品に仕上がっていた。
一番印象的だったのは、阿部サダヲ(鬼塚公彦役)、堤真一(内藤貴一郎役)の怪演振りである。
両者とも舞台俳優である、と言うことが作品の世界にすばらしい効果を与えている。
舞台は、映画と異なり、見立ての文化なんだと思う。
例えば、俳優が一言「綺麗な海ね」と言えばそこには大洋が広がり、メイクなしで、子供や老人になってしまう。
舞台とは、俳優と観客が見立てを楽しみ、信じることが出来る、と言う魔法の力を持った世界なのだ。
そんな中で、本作「舞妓Haaaan!!!」ではハイテンションで緊張感とライブ感に溢れる舞台俳優同士の掛け合いが最高に面白い。
脚本は上手いんだか下手なんだか、ムラが多い宮藤官九郎だが、今回の脚本は非常にテンポが良く、前半から中盤までの怒涛の展開には、驚かされつつ、笑わされた。
特に、鬼塚と内藤のバトルがエスカレートしていく様子はすばらしかった。
ラストへの持って行きかたに若干の不満があるものの、トータル的には非常に楽しい脚本に仕上がっていたと思う。
キャストは何と言っても阿部サダヲ(鬼塚公彦役)に尽きる。
悪く言うと、本作「舞妓Haaaan!!!」は阿部サダヲの力量におんぶにだっこ状態のような印象すら受けてしまう。
それほど凄いキャラクターを見事に演じている。
また阿部サダヲは舞台俳優、と言うこともあり、動きのキレと言うか、キメと言うか、一連の動作の中で、ポイントを決めるのが非常に上手いと思った。
あとは不自然な格好での動きがすばらしく、変な格好で動くと言う、筋力的には非常に辛い動きを嬉々として演じる様にも驚かされる。
堤真一(内藤貴一郎役)は、阿部サダヲと同様すばらしく、モデルとなっている野球選手同様、破天荒な生き様を見せてくれている。
柴咲コウ(大沢富士子/駒富士)は、「世界の中心で、愛をさけぶ」 (2004)、「日本沈没」(2006)に続き、例によって、物語にいらないキャラクターを演じているような印象を受けた。
柴咲コウのキャラクターを完全に落として脚本を作ったほうが良かったのではないか、と思えた。
非常に印象的だったのは、小出早織(駒子役)の好演である。
彼女のキャリアは、テレビドラマでのキャリアがほとんどだが、映画への進出を含め、今後が期待の女優さんだと思った。
また、生瀬勝久(先崎部長役)は要所要所を締める、美味しい役柄を楽しげに演じていた。
ところで、水田伸生、宮藤官九郎、阿部サダヲと言えば、テレビドラマ「ぼくの魔法使い」(2003)つながりかと思えるが、宮藤官九郎脚本作品の多くに阿部サダヲがクレジットされているのも興味深い。
前述の柴咲コウのキャラクターは不要だ、と言う話だが、本作「舞妓Haaaan!!!」の脚本のキモは、鬼塚と内藤のエスカレーションギャグと、駒子との係わりであり、富士子の扱いは非常に小さいもので良いハズである。
それなのに、柴咲コウがクレジットされたばかりに、大人の事情で柴咲コウの役柄がクローズアップされてしまっているような印象を受ける。
また本作のプロモーション的には、物語のプロットから考えると端役に過ぎない富士子のシークエンスをメインのプロットのように扱った戦略的なプロモーションが行われているような印象を受ける。
これは、柴咲コウで客を呼んで、小出早織で客を帰す(柴咲コウの人気で客を呼んで、小出早織の演技を堪能させ、客を満足させるの意)、と言う戦略だったのだろうか。
だとすると、「世界の中心で、愛をさけぶ」 (2004)、「日本沈没」(2006)に続き、客寄せパンダのように扱われる柴咲コウと言う女優が不憫でならない。
確かに本作「舞妓Haaaan!!!」と言う作品は客を呼ぶ要素に乏しい。
阿部サダヲや堤真一、宮藤官九郎の脚本だけではなかなか多くの客を呼ぶことは難しいだろう。
そんな中、柴咲コウで客を呼ぼうと考えるのは理解できるのだが、脚本上メインのプロットたり得ない、狂言回し的なキャラクターを振られてしまうのはどうかと思える。
物語の構成を考えた場合、柴咲コウを使うのであれば、小出早織が演じた駒子クラスの役を振るべきだと思う。
それが出来ない、と言うことは柴咲コウの女優としての力量に問題がある、と言うことなのだと思う。
柴咲コウに関する余談が長かったが、本作「舞妓Haaaan!!!」は非常に良質なコメディ作品に仕上がっている。
ラストの取扱いに釈然としない(蛇足的な)部分があるが、あとは手放しでオススメ出来る楽しい作品である。
阿部サダヲの怪演に酔っていただきたい。
是非劇場へ!
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/06/12 東京有楽町「よみうりホール」で「ゾディアック」の試写を観た。
監督:デヴィッド・フィンチャー
原作:ロバート・グレイスミス
脚本:ジェームズ・ヴァンダービルト
撮影:ハリス・サヴィデス
プロダクションデザイン:ドナルド・グレアム・バート
衣装デザイン:ケイシー・ストーム
編集:アンガス・ウォール
音楽:デヴィッド・シャイア
出演:ジェイク・ギレンホール(ロバート・グレイスミス)、マーク・ラファロ(デイブ・トースキー刑事)、ロバート・ダウニー・Jr(ポール・エイブリー)、アンソニー・エドワーズ(ウィリアム・アームストロング刑事)、ブライアン・コックス(ベルビン・ベリー)、イライアス・コティーズ(ジャック・マラナックス巡査部長)、クロエ・セヴィニー(メラニー)、ドナル・ローグ(ケン・ナーロウ)、ジョン・キャロル・リンチ(アーサー・リー・アレン)、ダーモット・マローニー(マーティ・リー)
先ずは本作「ゾディアック」は大変面白い作品に仕上がっていた、と言える。
本作は、157分と言う長尺にも関わらず、全く長さを感じさせずに、観客の緊張感を持続させる演出・描写・演技・美術・音楽はすばらしいものだった。
個人的な印象で恐縮だが、本作の監督は「セブン」(1995)や「ファイト・クラブ」(1999)のデヴィッド・フィンチャーと言うこともあり、わたしは彼独特の映像スタイルや過激なバイオレンス描写に期待をしていた部分があったのだが、実際のところ本作は、過去の出来事や事実を過度な演出を避け、淡々と描くことに終始し、その作品としてのスタンスは、感覚的にはオリバー・ストーンの作品、特に「ドアーズ」(1991)と似ているような印象を受ける。
と言うのは、もしかすると、シーンの区切り毎に挿入される時と場所のテロップがそうさせているのかもしれないし、また1960年代後半を再現した衣装や美術が観客に与える印象が、オリバー・ストーンの1960年代を舞台とした作品群と似ているからなのか知らないが、そんな印象を受けた訳だ。
全米初の劇場型連続殺人事件と呼ばれるゾディアック事件については、既に各方面が伝えているので、割愛するが、本作は、ゾディアック事件の言わば渦中の人物であった風刺漫画家ロバート・グレイスミスが書いたノンフィクション小説を基にしている。
殺人事件の渦中の人物が書いた小説の映画化と言うと、前述のオリバー・ストーンが映画化した「JFK」(1991)が思い出される。
脚本はあくまでも控えめで、奇をてらったところがなく、淡々と事実を物語っていく。
演出も同様、抑制が利いた、地味ではあるが着実な演出が心地よい。
また音楽は、前半部分は60年代ポップスを基調とした朗らかで明るい感じの音楽が、物語が進むにつれ、陰鬱で沈鬱な音楽へと様変わりしていく。
美術や衣装は、かつてのアメリカを十二分に再現しており、撮影と照明は、夜のシーンが多い本作だが、統一された色彩感が感じられる良い仕事をしていた。
特に夜とか、雨のような暗い映像が、本作の物語と相まって、趣を醸し出していた。
美術、衣装、撮影、照明と相まって、ゾディアック事件の背景となる見事な世界観の構築に成功している。
ところで、脚本的に興味深かったのは、警察機構の縄張り意識とか、状況証拠とか物証に対する考え方が面白かった。
余談だが、本作「ゾディアック」の製作は、ワーナーとパラマウントの共同製作になっている。
経緯は知らないが、「タワーリング・インフェルノ」(1974)かと思った。
予算が足りなかったのだろうか。
キャストは、先ずはジェイク・ギレンホール(ロバート・グレイスミス役)だが、後半に向けてゾディアック事件に取り付かれ段々と周りを省みない状況になっていく姿が興味深く、後半部分では、以前の同僚であるロバート・ダウニー・Jr(ポール・エイブリー役)のルックスに似てくる始末である。
件のロバート・ダウニー・Jr(ポール・エイブリー役)は切れ者の記者から、メディアに取り付かれ落ちぶれていくまでを好演している。
そして、もうひとりの主役マーク・ラファロ(デイブ・トースキー刑事役)がこれまた良い。
また、有力な容疑者役のキャラクター設定も良かった。
ゾディアック事件は、サイコ・キラーのはしりであり、またプロファイリングのはしりでもあり、様々な映画や小説に影響を与えていることもあるのだが、その有力容疑者の現実味を帯びたキャラクター設定が楽しい。
有力容疑者は、例えばハンニバル・レクターのような極端で異常なキャラクターではなく、わたし達の身の回りによく居る人物として描かれているのだ。
人物だけではなく、登場人物の生活や生活環境が描かれており、キャククターの造形に深みを与えている。
バイオレンス描写は比較的控えめだが、その中でもタメがない突然のショック・シーンが何度も描かれ、ゾディアックの犯人像にひとつの印象を与えている。
とにかく本作「ゾディアック」は157分と言う長尺だが、劇場で観ていただきたいすばらしい作品に仕上がっている。
是非劇場へ足を運んでいただきたい。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
余談だが、字幕の翻訳に若干気になる点があった。
「サン・フランシスコ・クロニクル」を「クロニクル新聞社」と訳していたり、あと忘れてしまったが、何点かおかしな訳があったような気がする。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
監督:デヴィッド・フィンチャー
原作:ロバート・グレイスミス
脚本:ジェームズ・ヴァンダービルト
撮影:ハリス・サヴィデス
プロダクションデザイン:ドナルド・グレアム・バート
衣装デザイン:ケイシー・ストーム
編集:アンガス・ウォール
音楽:デヴィッド・シャイア
出演:ジェイク・ギレンホール(ロバート・グレイスミス)、マーク・ラファロ(デイブ・トースキー刑事)、ロバート・ダウニー・Jr(ポール・エイブリー)、アンソニー・エドワーズ(ウィリアム・アームストロング刑事)、ブライアン・コックス(ベルビン・ベリー)、イライアス・コティーズ(ジャック・マラナックス巡査部長)、クロエ・セヴィニー(メラニー)、ドナル・ローグ(ケン・ナーロウ)、ジョン・キャロル・リンチ(アーサー・リー・アレン)、ダーモット・マローニー(マーティ・リー)
先ずは本作「ゾディアック」は大変面白い作品に仕上がっていた、と言える。
本作は、157分と言う長尺にも関わらず、全く長さを感じさせずに、観客の緊張感を持続させる演出・描写・演技・美術・音楽はすばらしいものだった。
個人的な印象で恐縮だが、本作の監督は「セブン」(1995)や「ファイト・クラブ」(1999)のデヴィッド・フィンチャーと言うこともあり、わたしは彼独特の映像スタイルや過激なバイオレンス描写に期待をしていた部分があったのだが、実際のところ本作は、過去の出来事や事実を過度な演出を避け、淡々と描くことに終始し、その作品としてのスタンスは、感覚的にはオリバー・ストーンの作品、特に「ドアーズ」(1991)と似ているような印象を受ける。
と言うのは、もしかすると、シーンの区切り毎に挿入される時と場所のテロップがそうさせているのかもしれないし、また1960年代後半を再現した衣装や美術が観客に与える印象が、オリバー・ストーンの1960年代を舞台とした作品群と似ているからなのか知らないが、そんな印象を受けた訳だ。
全米初の劇場型連続殺人事件と呼ばれるゾディアック事件については、既に各方面が伝えているので、割愛するが、本作は、ゾディアック事件の言わば渦中の人物であった風刺漫画家ロバート・グレイスミスが書いたノンフィクション小説を基にしている。
殺人事件の渦中の人物が書いた小説の映画化と言うと、前述のオリバー・ストーンが映画化した「JFK」(1991)が思い出される。
脚本はあくまでも控えめで、奇をてらったところがなく、淡々と事実を物語っていく。
演出も同様、抑制が利いた、地味ではあるが着実な演出が心地よい。
また音楽は、前半部分は60年代ポップスを基調とした朗らかで明るい感じの音楽が、物語が進むにつれ、陰鬱で沈鬱な音楽へと様変わりしていく。
美術や衣装は、かつてのアメリカを十二分に再現しており、撮影と照明は、夜のシーンが多い本作だが、統一された色彩感が感じられる良い仕事をしていた。
特に夜とか、雨のような暗い映像が、本作の物語と相まって、趣を醸し出していた。
美術、衣装、撮影、照明と相まって、ゾディアック事件の背景となる見事な世界観の構築に成功している。
ところで、脚本的に興味深かったのは、警察機構の縄張り意識とか、状況証拠とか物証に対する考え方が面白かった。
余談だが、本作「ゾディアック」の製作は、ワーナーとパラマウントの共同製作になっている。
経緯は知らないが、「タワーリング・インフェルノ」(1974)かと思った。
予算が足りなかったのだろうか。
キャストは、先ずはジェイク・ギレンホール(ロバート・グレイスミス役)だが、後半に向けてゾディアック事件に取り付かれ段々と周りを省みない状況になっていく姿が興味深く、後半部分では、以前の同僚であるロバート・ダウニー・Jr(ポール・エイブリー役)のルックスに似てくる始末である。
件のロバート・ダウニー・Jr(ポール・エイブリー役)は切れ者の記者から、メディアに取り付かれ落ちぶれていくまでを好演している。
そして、もうひとりの主役マーク・ラファロ(デイブ・トースキー刑事役)がこれまた良い。
また、有力な容疑者役のキャラクター設定も良かった。
ゾディアック事件は、サイコ・キラーのはしりであり、またプロファイリングのはしりでもあり、様々な映画や小説に影響を与えていることもあるのだが、その有力容疑者の現実味を帯びたキャラクター設定が楽しい。
有力容疑者は、例えばハンニバル・レクターのような極端で異常なキャラクターではなく、わたし達の身の回りによく居る人物として描かれているのだ。
人物だけではなく、登場人物の生活や生活環境が描かれており、キャククターの造形に深みを与えている。
バイオレンス描写は比較的控えめだが、その中でもタメがない突然のショック・シーンが何度も描かれ、ゾディアックの犯人像にひとつの印象を与えている。
とにかく本作「ゾディアック」は157分と言う長尺だが、劇場で観ていただきたいすばらしい作品に仕上がっている。
是非劇場へ足を運んでいただきたい。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
余談だが、字幕の翻訳に若干気になる点があった。
「サン・フランシスコ・クロニクル」を「クロニクル新聞社」と訳していたり、あと忘れてしまったが、何点かおかしな訳があったような気がする。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
「フォーリング・ダウン」をめぐる冒険
2007年6月11日 映画
先日たまたまCATVで「フォーリング・ダウン」(1993)が放映されていたのでHDDに録画した。
で今日、久し振りに見てみた。
「フォーリング・ダウン」は、何度見ても色褪せない素晴らしい傑作である。
1993年の「フォーリング・ダウン」の日本公開時の話だが、わたしは劇場で本作を観た帰りに、当時渋谷にあった DISC & GALLERY で「フォーリング・ダウン」の北米版LDを購入したのを覚えている。
1980年代から1990年代の北米版LDのメッカは、 DISC & GALLERY と SALE を擁する渋谷だったのではないか、と思う。
北米版LDが店頭で購入できると言う事は、劇場で観たばかりの作品を、家に帰って再び観ることができる、そんな素晴らしい時代の幕開けだった訳だ。
そんな訳で、わたしは、劇場で映画を観た帰りに、その足で、その映画の輸入版LDを買う事が度々あった。
一番最初に買った北米版LDは、「シザーハンズ」(1990)だった。
当時のわたしはLDプレイヤーを持っていないのに、つまりLDを買って帰っても観られないのに、「シザーハンズ」のLDを買った訳だ。
「シザーハンズ」は多分有楽町で観たような記憶がある。
有楽町から渋谷経由で自宅に帰った訳だ。
「シザーハンズ」の日本公開は、1991年7月だから、多分LDプレイヤーを購入したのも1991年7月だった訳だ。
あと覚えているのは、「レザボアドッグズ」(1991)だ。
これも渋谷シネマライズで観て、その足で、渋谷 DISC & GALLERY で北米版LDを買った記憶がある。
1991年の映画だが、日本公開は1993年4月だった。
渋谷から渋谷なので楽だったね。
現在はDVDから次世代ディスクへ移りつつあるが、聞くところによると、Blu-ray Disc はリージョン・コードが無いらしいから、LDのように何の制限もなしに、輸入版ディスクを購入できる時代が来るのかも知れない。
リージョン・コードがあっても、リージョン・フリーのDVDプレイヤーを買えば良いんだけどね。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
で今日、久し振りに見てみた。
「フォーリング・ダウン」は、何度見ても色褪せない素晴らしい傑作である。
1993年の「フォーリング・ダウン」の日本公開時の話だが、わたしは劇場で本作を観た帰りに、当時渋谷にあった DISC & GALLERY で「フォーリング・ダウン」の北米版LDを購入したのを覚えている。
1980年代から1990年代の北米版LDのメッカは、 DISC & GALLERY と SALE を擁する渋谷だったのではないか、と思う。
北米版LDが店頭で購入できると言う事は、劇場で観たばかりの作品を、家に帰って再び観ることができる、そんな素晴らしい時代の幕開けだった訳だ。
そんな訳で、わたしは、劇場で映画を観た帰りに、その足で、その映画の輸入版LDを買う事が度々あった。
一番最初に買った北米版LDは、「シザーハンズ」(1990)だった。
当時のわたしはLDプレイヤーを持っていないのに、つまりLDを買って帰っても観られないのに、「シザーハンズ」のLDを買った訳だ。
「シザーハンズ」は多分有楽町で観たような記憶がある。
有楽町から渋谷経由で自宅に帰った訳だ。
「シザーハンズ」の日本公開は、1991年7月だから、多分LDプレイヤーを購入したのも1991年7月だった訳だ。
あと覚えているのは、「レザボアドッグズ」(1991)だ。
これも渋谷シネマライズで観て、その足で、渋谷 DISC & GALLERY で北米版LDを買った記憶がある。
1991年の映画だが、日本公開は1993年4月だった。
渋谷から渋谷なので楽だったね。
現在はDVDから次世代ディスクへ移りつつあるが、聞くところによると、Blu-ray Disc はリージョン・コードが無いらしいから、LDのように何の制限もなしに、輸入版ディスクを購入できる時代が来るのかも知れない。
リージョン・コードがあっても、リージョン・フリーのDVDプレイヤーを買えば良いんだけどね。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/06/06 東京板橋「ワーナーマイカル・シネマズ板橋」で「大日本人」を観た。
監督:松本人志
企画:松本人志
脚本:松本人志、高須光聖
撮影:山本英夫
音楽:テイ・トウワ
出演:松本人志(大佐藤大)、竹内力(獣その二)、UA(小堀マネージャー)、神木隆之介(獣その五)、海原はるか(獣その一)、板尾創路(獣その四)
果たして、本作「大日本人」は松本人志の当初の目論見通りに仕上がっているのだろうか。疑問を感じる。
と言うのも、ラストのシークエンスのテイストがその直前までのテイストとあまりにも異なっているのだ。
そのラストのシークエンスまでの描写は、世襲制の巨大ヒーロー・大佐藤(松本人志)を題材にしたドキュメンタリーそのものである。
そのドキュメンタリー部分が描いているのは、もし本当に巨大ヒーローが存在したら、どうなるのか、を現実的にシミュレートしたものである。
そして、そのドキュメンタリー部分は非常に面白い(interestingの意/興味深いと言う意味)のだ。
と言うのも、本作のドキュメンタリー部分は、大佐藤と言う、現実的な巨大ヒーローの悲哀が見事に表現されているのだ。
これはホラー映画におけるモンスターの悲哀を描いた作品と非常に近しい印象を受ける。
松本人志演じる大佐藤は、他と異なるが故に迫害され疎まれるモンスターそのものなのだ。
電気で巨大化する大佐藤はフランケンシュタインのモンスターのメタファーなのだ。
そして、そのテイストは、ラストのシークエンス直前まで続くのだが、その素晴らしいシークエンスの繋がりにより観客の中に醸成されたなにがしかの情感を、ラストのシークエンスからエンド・クレジットにかけての描写により、見事に裏切ってしまっているのだ。
ラスト直前までの観客のエモーションを安易に裏切ってしまっているのだ。
それが意外性を描写しているのか、それとも意図的な確信犯的な裏切りなのか、疑問は深まる。
はたして、それは意図的な演出だったのか、それともCGIの製作期間の問題や、カンヌ出品や公開時期と言う大人の事情の問題からか、本来の意図とは異なるシークエンスを突貫工事で、取りあえず着地できる姿を模索し、妥協点として考えられる現行のウルトラC的な着地点をもとめたのではないか、と思えてならない。
出来うることならば、ラスト直前のテイストでラストまで描いた作品を観てみたいと思う。
しかしながら、もし仮に本作の現在の姿が、松本人志が真面目に映画と取り組んで出てきた結論だとすると、映画ファンとしては「フザケルな!」と言う気持ちがむくむくと頭をもたげてくる。
と言うのも、本作「大日本人」が大きな予算をかけて製作された、と言うことにより、日本国内において、少なくても一本の作品が、確実に製作されない、つまり予算が集まらず作品として日の目を見ない、と言うことになりかねないのだ。
日本映画界にとって、本作がプラスになるのか、マイナスになるのか、真面目に考えなければならない、とわたしは思った。
こんな作品に金を使うのならば、他の優秀な若手映像作家に金を出してあげて欲しい、とわたしは思う訳だ。
さて、話は変わり作品についてだが、先ずは前半から中盤、ラスト前までに掛けての美術が良い仕事をしていた。微に入り細に入り作り込まれ、考え尽くされた設定をもとに構築されたセットや、衣装、美術が大変素晴らしい。
また、本当に巨大ヒーローがいたら、どうなるのか、を考え抜いたであろう設定から構築された世界観が素晴らしい。
この方向性でぐいぐい押してきたら、良い作品になったのではないか、と思えてならない。繰り返しになるが、ラストのシークエンスについて、非常に残念な気持ちがする。
また、大佐藤と獣の戦いは、基本的には、CGIで描かれるのだが、先ずは戦いの時間を昼間に設定し、しかもよく見かける名所名跡(街角)で行ったことに、素直に拍手を送りたい。
脚本は、おそらく松本人志に演技スタイルの問題もあり、インタビュー形式と言うか、ドキュメンタリー形式にしたのではないか、と思えるが、非常に効果的で、良い印象を持った。
と言うのも、インタピューに答える部分は良いのだが、普通のセリフ、例えば何度か出てくる「防衛庁の命によって・・・・」と言うセリフがまるでだめなのだ。
まあ、とにかく、本作「大日本人」は観るべきところはあるとは思うが、全ての人に勧められる作品ではないし、熱心な映画ファンにはあまり勧められないと思う。
とは言う物の、話題作なので、観たい人は気にせず観たらどうかと思う。
あと余談だけど、政治的に観るとラストのシークエンスが興味深いですね。
隣国から日本にやって来た獣(「ヘルボーイ」の子供みたいな奴)を見て逃げ回る大佐藤を尻目に、アメリカからやって来たヒーロー5人組が獣をボコボコにする、と言う日米安全保障条約とか日米地位協定のお話しになっているということですな。
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
監督:松本人志
企画:松本人志
脚本:松本人志、高須光聖
撮影:山本英夫
音楽:テイ・トウワ
出演:松本人志(大佐藤大)、竹内力(獣その二)、UA(小堀マネージャー)、神木隆之介(獣その五)、海原はるか(獣その一)、板尾創路(獣その四)
果たして、本作「大日本人」は松本人志の当初の目論見通りに仕上がっているのだろうか。疑問を感じる。
と言うのも、ラストのシークエンスのテイストがその直前までのテイストとあまりにも異なっているのだ。
そのラストのシークエンスまでの描写は、世襲制の巨大ヒーロー・大佐藤(松本人志)を題材にしたドキュメンタリーそのものである。
そのドキュメンタリー部分が描いているのは、もし本当に巨大ヒーローが存在したら、どうなるのか、を現実的にシミュレートしたものである。
そして、そのドキュメンタリー部分は非常に面白い(interestingの意/興味深いと言う意味)のだ。
と言うのも、本作のドキュメンタリー部分は、大佐藤と言う、現実的な巨大ヒーローの悲哀が見事に表現されているのだ。
これはホラー映画におけるモンスターの悲哀を描いた作品と非常に近しい印象を受ける。
松本人志演じる大佐藤は、他と異なるが故に迫害され疎まれるモンスターそのものなのだ。
電気で巨大化する大佐藤はフランケンシュタインのモンスターのメタファーなのだ。
そして、そのテイストは、ラストのシークエンス直前まで続くのだが、その素晴らしいシークエンスの繋がりにより観客の中に醸成されたなにがしかの情感を、ラストのシークエンスからエンド・クレジットにかけての描写により、見事に裏切ってしまっているのだ。
ラスト直前までの観客のエモーションを安易に裏切ってしまっているのだ。
それが意外性を描写しているのか、それとも意図的な確信犯的な裏切りなのか、疑問は深まる。
はたして、それは意図的な演出だったのか、それともCGIの製作期間の問題や、カンヌ出品や公開時期と言う大人の事情の問題からか、本来の意図とは異なるシークエンスを突貫工事で、取りあえず着地できる姿を模索し、妥協点として考えられる現行のウルトラC的な着地点をもとめたのではないか、と思えてならない。
出来うることならば、ラスト直前のテイストでラストまで描いた作品を観てみたいと思う。
しかしながら、もし仮に本作の現在の姿が、松本人志が真面目に映画と取り組んで出てきた結論だとすると、映画ファンとしては「フザケルな!」と言う気持ちがむくむくと頭をもたげてくる。
と言うのも、本作「大日本人」が大きな予算をかけて製作された、と言うことにより、日本国内において、少なくても一本の作品が、確実に製作されない、つまり予算が集まらず作品として日の目を見ない、と言うことになりかねないのだ。
日本映画界にとって、本作がプラスになるのか、マイナスになるのか、真面目に考えなければならない、とわたしは思った。
こんな作品に金を使うのならば、他の優秀な若手映像作家に金を出してあげて欲しい、とわたしは思う訳だ。
さて、話は変わり作品についてだが、先ずは前半から中盤、ラスト前までに掛けての美術が良い仕事をしていた。微に入り細に入り作り込まれ、考え尽くされた設定をもとに構築されたセットや、衣装、美術が大変素晴らしい。
また、本当に巨大ヒーローがいたら、どうなるのか、を考え抜いたであろう設定から構築された世界観が素晴らしい。
この方向性でぐいぐい押してきたら、良い作品になったのではないか、と思えてならない。繰り返しになるが、ラストのシークエンスについて、非常に残念な気持ちがする。
また、大佐藤と獣の戦いは、基本的には、CGIで描かれるのだが、先ずは戦いの時間を昼間に設定し、しかもよく見かける名所名跡(街角)で行ったことに、素直に拍手を送りたい。
脚本は、おそらく松本人志に演技スタイルの問題もあり、インタビュー形式と言うか、ドキュメンタリー形式にしたのではないか、と思えるが、非常に効果的で、良い印象を持った。
と言うのも、インタピューに答える部分は良いのだが、普通のセリフ、例えば何度か出てくる「防衛庁の命によって・・・・」と言うセリフがまるでだめなのだ。
まあ、とにかく、本作「大日本人」は観るべきところはあるとは思うが、全ての人に勧められる作品ではないし、熱心な映画ファンにはあまり勧められないと思う。
とは言う物の、話題作なので、観たい人は気にせず観たらどうかと思う。
あと余談だけど、政治的に観るとラストのシークエンスが興味深いですね。
隣国から日本にやって来た獣(「ヘルボーイ」の子供みたいな奴)を見て逃げ回る大佐藤を尻目に、アメリカからやって来たヒーロー5人組が獣をボコボコにする、と言う日米安全保障条約とか日米地位協定のお話しになっているということですな。
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
「ザ・シューター/極大射程」
2007年5月24日 映画
2007/05/18 東京新橋「ヤクルトホール」で「ザ・シューター/極大射程」の試写を観た。
アフリカの小国エリトリア。
海兵隊の特殊部隊であり狙撃の名手ボブ・リー・スワガーは、相棒のドニーと岩山で任務に就いていた。
彼等の任務は、自軍の武装車両の隊列を敵軍の攻撃から守ることだった。次々と現れる敵軍を的確に狙撃するスワガーだったが、戦闘ヘリを投入し激しさを増す敵の攻撃に進退窮まったスワガーらは無線で応援を要請するが無線は切られてしまった。
彼等は見捨てられたのだ。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アントワーン・フークア
原作:スティーヴン・ハンター 「極大射程」(新潮社刊)
脚本:ジョナサン・レムキン
出演:マーク・ウォールバーグ(ボブ・リー・スワガー)、マイケル・ペーニャ(ニック・メンフィス)、ダニー・グローヴァー(アイザック・ジョンソン大佐)、ケイト・マーラ(サラ・フェン)、イライアス・コティーズ(ジャック・ペイン)、ローナ・ミトラ(アローデス・ガリンド)、ネッド・ビーティ(チャールズ・ミーチャム上院議員)、ラデ・シェルベッジア(マイケル・サンダー)
本作「ザ・シューター/極大射程」は娯楽作品として先ずは大変面白かった。
作品の方向性としては、配給会社も言っているように、(「ボーン・アイデンティティー」の“ジェイソン・ボーン”シリーズに続き、プロフェッショナルを極めたゆえに巨大な陰謀に呑み込まれようとする孤高のヒーローが、またひとり誕生する。)、本作「ザ・シューター/極大射程」のボブ・リー・スワガーは、「ボーン・アイデンティティー」(2002)シリーズのジェイソン・ボーンとかぶる。
また、俳優の外見と言うか印象もジェイソン・ボーンを演じたマット・ディモンと本作でボブ・リー・スワガーを演じたマーク・ウォールバーグがかぶると思うのはわたしだけだろうか。
物語は、悪い政府の人にはめられた孤高のヒーローが、悪い政府の人への復讐を遂げる、と言う、物語としてはありがちなものなのだが、悪い政府の人を演じるダニー・グローヴァーとネッド・ビーティ、そしてイライアス・コティーズが非常に良い味を出しているし、原作がスティーヴン・ハンターの機略に満ちたベストセラー小説と言うこともあり、描写や設定、伏線は、微に入り細に入り、よく出来ており、根本的なプロットはありがちなものでも作品としては非常に良く出来た面白い作品に仕上がっている。
印象的だったのは、マイケル・ペーニャが演じたニック・メンフィスのキャラクターが秀逸で、コメディ・リリーフでありながらも大活躍すると言う、感覚的に言うと「サハラ 死の砂漠を脱出せよ」(2005)のダーク・ピットとアルみたいな関係のような感じを受けた。
そして、「スーパーマン」(1978)でレックス・ルーサーの間抜けな手下を演じたネッド・ビーティだが、本当に良い味を出している。どちらかと言うと「スーパーマン」にしろバート・レイノルズの作品でもコメディ色が強い俳優だと思うのだが、今回は灰汁の強い名悪役を見事に演じている。
ついでに、イライアス・コティーズのサディスティックでいながら一風変わったユーモア・センスを持ったジャック・ペインのキャラクターも良かった。
名前もペインだし。(綴りは違うけど・・・・)
さて、主演のマーク・ウォールバーグだが、個人的な印象では「ブギーナイツ」(1997)以降初めての当たり役じゃないかと思った。
結果的に本作はマーク・ウォールバーグの現在のところの代表作だと言っても良い出来だと思う。
「ディパーテッド」(2006)のラストでも、最後に物語をさらうような良い味を出してるけど、本作は良い味出しっ放しだし、孤高のヒーローの説得力もあった、と思う。
監督のアントワーン・フークアにとっても本作は代表作だと言っても良いんじゃないかと思う。前作「キング・アーサー」(2004)とは雲泥の差を感じる。まぁプロデューサーのせいかも知れないが。
ところで、所謂スナイパーを描いた作品としては、トム・ベレンジャーがスナイパーを演じた「山猫は眠らない」(1992)シリーズがあるが、本作の狙撃のシークエンスは「山猫は眠らない」シリーズのスタンスを踏襲し、非常にリアルな印象を受ける。
特に冒頭のシークエンスで、2人一組で狙撃を行い、狙撃手とその狙撃を成功に導くナビゲーター(日本語名称は失念)とのペアでの狙撃をきちんと描写している点には感心した。
一般的な作品に登場するスナイパーは、ペアでの作業ではなく個人的な作業として描かれていることが多いが、本作では標的や周囲の情報や風向き、気温、湿度、標的までの距離や標的の状況をスナイパーに伝え、また本作中では、移動している車両のドライバーをウインドウ越しに狙撃する際、「3ミル手前を撃て」(1ミル=0.001インチ=0.025mm)と言うような、一般人では到底認知できない距離の指示が出ていたのが印象的だった。
正しくプロフェッショナルの仕事なのだと思った。
復讐劇になってからは、アクションにしろプロットにしろ若干やりすぎの感は否めないが、娯楽作品としては十分に見応えのある追跡劇が楽しめる。
またプロットの根本には、利益のためなら人の死をなんとも思わない、と言う悪い政府の人が出てくるのだが、本作は見方によれば、社会派的なスタンスを持った娯楽作品だと言えるかも知れない。
とにかく本作「ザ・シューター/極大射程」は大変面白いサスペンス映画だと言える。
社会派的な側面からスカッと爽やかなさくひんではないし、人が簡単にたくさん死んでいくので、その辺にアレルギーがある人にはオススメできないが、娯楽作品としては満足が行く作品だと思う。
是非劇場で観ていただきたいと思う。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
アフリカの小国エリトリア。
海兵隊の特殊部隊であり狙撃の名手ボブ・リー・スワガーは、相棒のドニーと岩山で任務に就いていた。
彼等の任務は、自軍の武装車両の隊列を敵軍の攻撃から守ることだった。次々と現れる敵軍を的確に狙撃するスワガーだったが、戦闘ヘリを投入し激しさを増す敵の攻撃に進退窮まったスワガーらは無線で応援を要請するが無線は切られてしまった。
彼等は見捨てられたのだ。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アントワーン・フークア
原作:スティーヴン・ハンター 「極大射程」(新潮社刊)
脚本:ジョナサン・レムキン
出演:マーク・ウォールバーグ(ボブ・リー・スワガー)、マイケル・ペーニャ(ニック・メンフィス)、ダニー・グローヴァー(アイザック・ジョンソン大佐)、ケイト・マーラ(サラ・フェン)、イライアス・コティーズ(ジャック・ペイン)、ローナ・ミトラ(アローデス・ガリンド)、ネッド・ビーティ(チャールズ・ミーチャム上院議員)、ラデ・シェルベッジア(マイケル・サンダー)
本作「ザ・シューター/極大射程」は娯楽作品として先ずは大変面白かった。
作品の方向性としては、配給会社も言っているように、(「ボーン・アイデンティティー」の“ジェイソン・ボーン”シリーズに続き、プロフェッショナルを極めたゆえに巨大な陰謀に呑み込まれようとする孤高のヒーローが、またひとり誕生する。)、本作「ザ・シューター/極大射程」のボブ・リー・スワガーは、「ボーン・アイデンティティー」(2002)シリーズのジェイソン・ボーンとかぶる。
また、俳優の外見と言うか印象もジェイソン・ボーンを演じたマット・ディモンと本作でボブ・リー・スワガーを演じたマーク・ウォールバーグがかぶると思うのはわたしだけだろうか。
物語は、悪い政府の人にはめられた孤高のヒーローが、悪い政府の人への復讐を遂げる、と言う、物語としてはありがちなものなのだが、悪い政府の人を演じるダニー・グローヴァーとネッド・ビーティ、そしてイライアス・コティーズが非常に良い味を出しているし、原作がスティーヴン・ハンターの機略に満ちたベストセラー小説と言うこともあり、描写や設定、伏線は、微に入り細に入り、よく出来ており、根本的なプロットはありがちなものでも作品としては非常に良く出来た面白い作品に仕上がっている。
印象的だったのは、マイケル・ペーニャが演じたニック・メンフィスのキャラクターが秀逸で、コメディ・リリーフでありながらも大活躍すると言う、感覚的に言うと「サハラ 死の砂漠を脱出せよ」(2005)のダーク・ピットとアルみたいな関係のような感じを受けた。
そして、「スーパーマン」(1978)でレックス・ルーサーの間抜けな手下を演じたネッド・ビーティだが、本当に良い味を出している。どちらかと言うと「スーパーマン」にしろバート・レイノルズの作品でもコメディ色が強い俳優だと思うのだが、今回は灰汁の強い名悪役を見事に演じている。
ついでに、イライアス・コティーズのサディスティックでいながら一風変わったユーモア・センスを持ったジャック・ペインのキャラクターも良かった。
名前もペインだし。(綴りは違うけど・・・・)
さて、主演のマーク・ウォールバーグだが、個人的な印象では「ブギーナイツ」(1997)以降初めての当たり役じゃないかと思った。
結果的に本作はマーク・ウォールバーグの現在のところの代表作だと言っても良い出来だと思う。
「ディパーテッド」(2006)のラストでも、最後に物語をさらうような良い味を出してるけど、本作は良い味出しっ放しだし、孤高のヒーローの説得力もあった、と思う。
監督のアントワーン・フークアにとっても本作は代表作だと言っても良いんじゃないかと思う。前作「キング・アーサー」(2004)とは雲泥の差を感じる。まぁプロデューサーのせいかも知れないが。
ところで、所謂スナイパーを描いた作品としては、トム・ベレンジャーがスナイパーを演じた「山猫は眠らない」(1992)シリーズがあるが、本作の狙撃のシークエンスは「山猫は眠らない」シリーズのスタンスを踏襲し、非常にリアルな印象を受ける。
特に冒頭のシークエンスで、2人一組で狙撃を行い、狙撃手とその狙撃を成功に導くナビゲーター(日本語名称は失念)とのペアでの狙撃をきちんと描写している点には感心した。
一般的な作品に登場するスナイパーは、ペアでの作業ではなく個人的な作業として描かれていることが多いが、本作では標的や周囲の情報や風向き、気温、湿度、標的までの距離や標的の状況をスナイパーに伝え、また本作中では、移動している車両のドライバーをウインドウ越しに狙撃する際、「3ミル手前を撃て」(1ミル=0.001インチ=0.025mm)と言うような、一般人では到底認知できない距離の指示が出ていたのが印象的だった。
正しくプロフェッショナルの仕事なのだと思った。
復讐劇になってからは、アクションにしろプロットにしろ若干やりすぎの感は否めないが、娯楽作品としては十分に見応えのある追跡劇が楽しめる。
またプロットの根本には、利益のためなら人の死をなんとも思わない、と言う悪い政府の人が出てくるのだが、本作は見方によれば、社会派的なスタンスを持った娯楽作品だと言えるかも知れない。
とにかく本作「ザ・シューター/極大射程」は大変面白いサスペンス映画だと言える。
社会派的な側面からスカッと爽やかなさくひんではないし、人が簡単にたくさん死んでいくので、その辺にアレルギーがある人にはオススメできないが、娯楽作品としては満足が行く作品だと思う。
是非劇場で観ていただきたいと思う。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
「恋愛睡眠のすすめ」
2007年5月23日 映画2007/05/13 東京渋谷「シネマライズ」で「恋愛睡眠のすすめ」を観た。
引っ込み思案でシャイなステファンは、仕事も恋愛も失敗ばかりの冴えない人生を送ってきた。そんな現実から、眠っている間だけでも幸せになるため都合のいい夢ばかり見ている。
ある時、メキシコで一緒に暮らしていた父親が死んでしまい、パリに戻ることに。母親が大家をしているアパートに移り住み、ついでに就職先も見つけてもらう。これでパッとしない生活も良くなると思っていたが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:ミシェル・ゴンドリー
脚本:ミシェル・ゴンドリー
芸術監督:ピエール・ペル、ステファン・ローザンボーム
衣装デザイン:フロランス・フォンテーヌ
音楽:ジャン=ミシェル・ベルナール
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル(ステファン)、シャルロット・ゲンズブール(ステファニー)、ミュウ=ミュウ(母クリスチーヌ)、アラン・シャバ(ギィ)、エマ・ドゥ・コーヌ(ゾーイ/ゾエ)、ピエール・ヴァネック(プシェ氏)、オレリア・プティ(マルチーヌ)、サッシャ・ブルド(セルジュ)
本作「恋愛睡眠のすすめ」は、ご存知「エターナル・サンシャイン」(2004)のミシェル・ゴンドリーの新作である。
ところで、いきなり私見で恐縮だが、ミシェル・ゴンドリーの嗜好は、テリー・ギリアムのそれと非常に近いものがあるとわたしは思っている。
テリー・ギリアムが創造する世界観は、ダークでグロテスクだとすると、ミシェル・ゴンドリーが創造する世界観はライトでキュートだと思える。
物語を描くテイストは異なるものの、両者の作品の根底に流れている根本的なスピリッツは非常に似通っているような印象を受けている。
さらに言えることは、本作「恋愛睡眠のすすめ」の物語は、夢の女を執拗に追い続ける主人公が自我崩壊にいたる、と言うテリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」(1985)によく似た構成を持っている、と言える。
「恋愛睡眠のすすめ」と言う作品は、ミシェル・ゴンドリーによる「未来世紀ブラジル」のリメイクと言うか、リ・イマジネーションのような作品なのかも知れない。
また、作品全体を捉えた場合、多くの観客は、この作品を否定せず、あそこが良かった、ここが良かった、と枝葉の部分を好意的に評価するが作品全体としては微妙、と言った類いの、言わば「裸の王様」的な作品だったような印象を受ける。
枝葉の部分はキュートでキャッチーなのだが、作品全体として評価できるか、と言うと、若干厳しいのではないか、と思えるし、スタイル先行で集まった観客にとっては、若干敷居が高い作品なのかもしれない。
尤も、本作「恋愛睡眠のすすめ」は単館ロードショー作品なので、その辺については杞憂かも知れないが・・・・。
と言うのも、ミシェル・ゴンドリーの前作「エターナル・サンシャイン」は、世界中の映画ファンに愛された作品であるだけに、ちょっと惜しい気がする。
キャストは、何と言ってもガエル・ガルシア・ベルナルが芸達者振りを見せているのが印象的であった。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2003)で一躍スターダムに名乗りをあげたガエル・ガルシア・ベルナルは、最近では「バベル」(2006)の好演も光っているが、本作「恋愛睡眠のすすめ」では見事なコメディアン振りを見せてくれている。今後の幅広い活躍に期待が持てる。
脚本は、非常に複雑で、登場人物は勿論、わたし達観客にも今描かれている部分が現実なのかそれとも夢なのかの判断が難しく、それと同時にステファンが開発した様々なふしぎ道具も実在のものなのか、それとも夢の中のものなのかが判然としない。
そのあたりは、前述のように、物語の表層を楽しむ観客にとっては、ひとつの難関にあたるのではないか、と思える。
世界観は大変素晴らしく、特にステファンの夢の中や頭の中を描いたシークエンスの美術は一見チーブでありながら、その世界観から創出されるファンタジックな空間は非常に素晴らしい。
ダンボールを多用したステファンTVのセットの造形もすばらしい。
自宅のテレビにダンボールの枠でもつけようかと思った。
とにかく本作「恋愛睡眠のすすめ」は、観客を選ぶ作品かもしれないが、機会があれば是非観ていただきたい作品だと思う。
特に「未来世紀ブラジル」好きに観ていただきたいな、と個人的に思う。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
引っ込み思案でシャイなステファンは、仕事も恋愛も失敗ばかりの冴えない人生を送ってきた。そんな現実から、眠っている間だけでも幸せになるため都合のいい夢ばかり見ている。
ある時、メキシコで一緒に暮らしていた父親が死んでしまい、パリに戻ることに。母親が大家をしているアパートに移り住み、ついでに就職先も見つけてもらう。これでパッとしない生活も良くなると思っていたが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:ミシェル・ゴンドリー
脚本:ミシェル・ゴンドリー
芸術監督:ピエール・ペル、ステファン・ローザンボーム
衣装デザイン:フロランス・フォンテーヌ
音楽:ジャン=ミシェル・ベルナール
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル(ステファン)、シャルロット・ゲンズブール(ステファニー)、ミュウ=ミュウ(母クリスチーヌ)、アラン・シャバ(ギィ)、エマ・ドゥ・コーヌ(ゾーイ/ゾエ)、ピエール・ヴァネック(プシェ氏)、オレリア・プティ(マルチーヌ)、サッシャ・ブルド(セルジュ)
本作「恋愛睡眠のすすめ」は、ご存知「エターナル・サンシャイン」(2004)のミシェル・ゴンドリーの新作である。
ところで、いきなり私見で恐縮だが、ミシェル・ゴンドリーの嗜好は、テリー・ギリアムのそれと非常に近いものがあるとわたしは思っている。
テリー・ギリアムが創造する世界観は、ダークでグロテスクだとすると、ミシェル・ゴンドリーが創造する世界観はライトでキュートだと思える。
物語を描くテイストは異なるものの、両者の作品の根底に流れている根本的なスピリッツは非常に似通っているような印象を受けている。
さらに言えることは、本作「恋愛睡眠のすすめ」の物語は、夢の女を執拗に追い続ける主人公が自我崩壊にいたる、と言うテリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」(1985)によく似た構成を持っている、と言える。
「恋愛睡眠のすすめ」と言う作品は、ミシェル・ゴンドリーによる「未来世紀ブラジル」のリメイクと言うか、リ・イマジネーションのような作品なのかも知れない。
また、作品全体を捉えた場合、多くの観客は、この作品を否定せず、あそこが良かった、ここが良かった、と枝葉の部分を好意的に評価するが作品全体としては微妙、と言った類いの、言わば「裸の王様」的な作品だったような印象を受ける。
枝葉の部分はキュートでキャッチーなのだが、作品全体として評価できるか、と言うと、若干厳しいのではないか、と思えるし、スタイル先行で集まった観客にとっては、若干敷居が高い作品なのかもしれない。
尤も、本作「恋愛睡眠のすすめ」は単館ロードショー作品なので、その辺については杞憂かも知れないが・・・・。
と言うのも、ミシェル・ゴンドリーの前作「エターナル・サンシャイン」は、世界中の映画ファンに愛された作品であるだけに、ちょっと惜しい気がする。
キャストは、何と言ってもガエル・ガルシア・ベルナルが芸達者振りを見せているのが印象的であった。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2003)で一躍スターダムに名乗りをあげたガエル・ガルシア・ベルナルは、最近では「バベル」(2006)の好演も光っているが、本作「恋愛睡眠のすすめ」では見事なコメディアン振りを見せてくれている。今後の幅広い活躍に期待が持てる。
脚本は、非常に複雑で、登場人物は勿論、わたし達観客にも今描かれている部分が現実なのかそれとも夢なのかの判断が難しく、それと同時にステファンが開発した様々なふしぎ道具も実在のものなのか、それとも夢の中のものなのかが判然としない。
そのあたりは、前述のように、物語の表層を楽しむ観客にとっては、ひとつの難関にあたるのではないか、と思える。
世界観は大変素晴らしく、特にステファンの夢の中や頭の中を描いたシークエンスの美術は一見チーブでありながら、その世界観から創出されるファンタジックな空間は非常に素晴らしい。
ダンボールを多用したステファンTVのセットの造形もすばらしい。
自宅のテレビにダンボールの枠でもつけようかと思った。
とにかく本作「恋愛睡眠のすすめ」は、観客を選ぶ作品かもしれないが、機会があれば是非観ていただきたい作品だと思う。
特に「未来世紀ブラジル」好きに観ていただきたいな、と個人的に思う。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
わたしは格闘ゲーマーだった。
と言う訳で、わたしが格闘ゲーマーだった事を知っている友人達は、「バーチャファイター」の新作がPS3でリリースされている事を受け、わたしに会うたびに、「PS3買った?」「バーチャファイター5出てるけどPS3買わなくていいの?」とわたしに問いかけるのだ。
しかしながら、「バーチャファイター5」のためにPS3を購入する、と言うのは、コストパフォーマンス的に考えて、元格闘ゲーマーのわたしにしても動機が薄い、と言わざるを得ない。
そして、わたしはもちろん、昔からのゲーム友達や直接の知り合いで、PS3を購入した、と言う話はなぜか聞かない。
Wiiを買ったと言う話は結構聞くけど・・・・。
かく言うわたしは、PS(プレイステーション)やSS(セガサターン)の発売日には会社を休んで量販店に並んだ、と言うのは言うまでもない。
そんな中、ある友人からPS3を購入した、と言う連絡が入った。
しかもその友人はゲームを一切やらない人なのだ。
おそらく、PS3ユーザーの大多数はゲームを目的としてPS3を購入しているのだと思うのだが、わたしの友人の目的はゲームではなかった。
なんと彼は、ブルーレイディスクプレイヤーとしてPS3を購入したのだ。
PS2がリリースされた際、家庭用DVDプレイヤーとしてPS2を利用し、DVDの市場が圧倒的に拡大したのは記憶に新しいが、わたしたち映画ファンは、PS2のリリース時には既にDVDプレイヤーを持っていたし、場合によっては既に5.1chの環境も整っていた。
わたしは当時、既にDVDプレイヤーを持っていたのだが、PS2の初期ロットのファームウェアでは、なんとリージョンフリーのDVDプレイヤーとしてPS2が利用できる、と言うバグがあり、それを理由としてPS2を購入したのだ。
そう考えた場合、わたしたち映画ファンは、PS3のリリース以前にブルーディスクプレイヤーを既に購入しているハズだったのではないか、と思える。
世はハイビジョン時代である。
HDDにハイビジョン画質で録画できたとしても、ディスクにハイビジョン画質で録画できなければ全く意味がないと思うのだが、如何せん、ブルーディスクレコーダーは高価だし、折角のブルーレイディスクなのだから、プレイヤー機能だけで購入するのも釈然としない。
しかしながら、ブルーレイディスクで映像を観る、と言う欲求は日に日に高まっているのは事実である。
ゲームをやらない人間がPS3を購入する。
面白い時代になって来た、といわざるを得ない。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
と言う訳で、わたしが格闘ゲーマーだった事を知っている友人達は、「バーチャファイター」の新作がPS3でリリースされている事を受け、わたしに会うたびに、「PS3買った?」「バーチャファイター5出てるけどPS3買わなくていいの?」とわたしに問いかけるのだ。
しかしながら、「バーチャファイター5」のためにPS3を購入する、と言うのは、コストパフォーマンス的に考えて、元格闘ゲーマーのわたしにしても動機が薄い、と言わざるを得ない。
そして、わたしはもちろん、昔からのゲーム友達や直接の知り合いで、PS3を購入した、と言う話はなぜか聞かない。
Wiiを買ったと言う話は結構聞くけど・・・・。
かく言うわたしは、PS(プレイステーション)やSS(セガサターン)の発売日には会社を休んで量販店に並んだ、と言うのは言うまでもない。
そんな中、ある友人からPS3を購入した、と言う連絡が入った。
しかもその友人はゲームを一切やらない人なのだ。
おそらく、PS3ユーザーの大多数はゲームを目的としてPS3を購入しているのだと思うのだが、わたしの友人の目的はゲームではなかった。
なんと彼は、ブルーレイディスクプレイヤーとしてPS3を購入したのだ。
PS2がリリースされた際、家庭用DVDプレイヤーとしてPS2を利用し、DVDの市場が圧倒的に拡大したのは記憶に新しいが、わたしたち映画ファンは、PS2のリリース時には既にDVDプレイヤーを持っていたし、場合によっては既に5.1chの環境も整っていた。
わたしは当時、既にDVDプレイヤーを持っていたのだが、PS2の初期ロットのファームウェアでは、なんとリージョンフリーのDVDプレイヤーとしてPS2が利用できる、と言うバグがあり、それを理由としてPS2を購入したのだ。
そう考えた場合、わたしたち映画ファンは、PS3のリリース以前にブルーディスクプレイヤーを既に購入しているハズだったのではないか、と思える。
世はハイビジョン時代である。
HDDにハイビジョン画質で録画できたとしても、ディスクにハイビジョン画質で録画できなければ全く意味がないと思うのだが、如何せん、ブルーディスクレコーダーは高価だし、折角のブルーレイディスクなのだから、プレイヤー機能だけで購入するのも釈然としない。
しかしながら、ブルーレイディスクで映像を観る、と言う欲求は日に日に高まっているのは事実である。
ゲームをやらない人間がPS3を購入する。
面白い時代になって来た、といわざるを得ない。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/05/13 東京板橋「ワーナーマイカル・シネマズ板橋」で「バベル」を観た。
バラバラにされた私達が、再びひとつにつながるには、どうすればいいのか?
その答えを秘めた銃弾が今、放たれた。
リチャード(ブラッド・ピット)は、妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)とモロッコを旅していた。ある哀しい出来事が原因で壊れかけた夫婦の絆を取り戻すため、アメリカからやって来たのだ。まだ幼い息子:マイク(ネイサン・ギャンブル)と娘:デビー(エル・ファニング)はメキシコ人の子守:アメリア(アドリアナ・バラッザ)に託していた。山道を行く観光バスの中で、事件は起こった。どこからか放たれた一発の銃弾が窓ガラスを突き抜け、スーザンの肩を撃ち抜いたのだ。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ
出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(
スーザン)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、役所広司(ヤスジロー)、菊地凛子(チエコ)、二階堂智(ケンジ)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)
「パンドラの匣」の一番奥に、小さく震えて隠れていたのは「希望」だった。
同様に、本作「バベル」のラストには「希望」が、または本作「バベル」が問いかけた命題「バラバラにされた私達が、再びひとつにつながるには、どうすればいいのか?」の回答が明確に描写されていた。
しかしながら、どうやら多くの観客は、本作「バベル」のラストシーンに釈然としなかったようである。
事実、わたしの周りで「バベル」を観ていた観客の多くは首を傾げていたし、WEB上でも、ラストがわからない、と言う書き込みをよく見かける。
わたしは映画と言う存在は、言語が異なる世界中の人々が、理解し得る「万国共通語」のような存在だと思っていたのだが、どうやらそれはわたしの誤りのようである。
こんなにわかりやすいラストを解釈できない人々が沢山いる訳だ。
ひとは言葉が違っていてもわかり合えると訴える映画を理解できない程、言語と言うかコミュニケーションの壁は堅牢なのだろうか。
映画を信じるわたしは、なんだか哀しくなってしまう。
脚本は、誤解とディスコミュニケーションによる争いや諍いを描きつつ、その状況下においてディスコミュニケーションを乗り越える幾人かの人々を描いている。
この本作のテーマとも言える部分で非常に重要な位置を占めているのが、菊地凛子(チエコ)と役所広司(ヤスジロー)、そして二階堂智(ケンジ)のシークエンスである。
各国の映画賞で菊地凛子が取沙汰されるのも当然と言えば当然。映画の中で非常に重要なパートを担っているのだ。
車の中での菊地凛子(チエコ)と役所広司(ヤスジロー)のシークエンスが重要である。
手話と日本語で「何故、ケンカをふっかけてくるのだ」と言うことである。
そして彼女が聾唖者として描かれているのが、非常に重要である。
同じ言語を話す人々(同国人)の中でもディスコミュニケーションは存在し、同じ言語を話す人々(同国人)の間でも争いや諍いが起きている事を明示しているのだ。
つまり、現代では、バベルの塔が崩壊した当時より、争いや諍いは、言葉が違っている人々の間から、同じ言葉を話す人々の間まで加速している、と言う訳である。
そしてもう一つ興味深いのは、天までとどく塔を建設してしまっている日本である。
つまり日本と言う国は、神の怒りを買う寸前まで来ている、と言うことを描いているのではあるまいか。
ここで気をつけなければならないのは、日本がそうだ、ということではなく、制作者サイドは、神の怒りを買う寸前まで行ってしまっている存在のメタファーとして日本を使っていると言うだけである。
映画はメタファーの固まりなのだから、あんなの日本と違うとか、正確な描写ではない、とか言うのは大したことではないのだ。
もう一つ興味深いのは、罪の意識など一切なしに、軽い気持ちで兵器(銃器:ウィンチェスターM70)を渡してしまう人がいる、と言う事である。
つづく・・・・
一時保存です。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
バラバラにされた私達が、再びひとつにつながるには、どうすればいいのか?
その答えを秘めた銃弾が今、放たれた。
リチャード(ブラッド・ピット)は、妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)とモロッコを旅していた。ある哀しい出来事が原因で壊れかけた夫婦の絆を取り戻すため、アメリカからやって来たのだ。まだ幼い息子:マイク(ネイサン・ギャンブル)と娘:デビー(エル・ファニング)はメキシコ人の子守:アメリア(アドリアナ・バラッザ)に託していた。山道を行く観光バスの中で、事件は起こった。どこからか放たれた一発の銃弾が窓ガラスを突き抜け、スーザンの肩を撃ち抜いたのだ。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ
出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(
スーザン)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、役所広司(ヤスジロー)、菊地凛子(チエコ)、二階堂智(ケンジ)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)
「パンドラの匣」の一番奥に、小さく震えて隠れていたのは「希望」だった。
同様に、本作「バベル」のラストには「希望」が、または本作「バベル」が問いかけた命題「バラバラにされた私達が、再びひとつにつながるには、どうすればいいのか?」の回答が明確に描写されていた。
しかしながら、どうやら多くの観客は、本作「バベル」のラストシーンに釈然としなかったようである。
事実、わたしの周りで「バベル」を観ていた観客の多くは首を傾げていたし、WEB上でも、ラストがわからない、と言う書き込みをよく見かける。
わたしは映画と言う存在は、言語が異なる世界中の人々が、理解し得る「万国共通語」のような存在だと思っていたのだが、どうやらそれはわたしの誤りのようである。
こんなにわかりやすいラストを解釈できない人々が沢山いる訳だ。
ひとは言葉が違っていてもわかり合えると訴える映画を理解できない程、言語と言うかコミュニケーションの壁は堅牢なのだろうか。
映画を信じるわたしは、なんだか哀しくなってしまう。
脚本は、誤解とディスコミュニケーションによる争いや諍いを描きつつ、その状況下においてディスコミュニケーションを乗り越える幾人かの人々を描いている。
この本作のテーマとも言える部分で非常に重要な位置を占めているのが、菊地凛子(チエコ)と役所広司(ヤスジロー)、そして二階堂智(ケンジ)のシークエンスである。
各国の映画賞で菊地凛子が取沙汰されるのも当然と言えば当然。映画の中で非常に重要なパートを担っているのだ。
車の中での菊地凛子(チエコ)と役所広司(ヤスジロー)のシークエンスが重要である。
手話と日本語で「何故、ケンカをふっかけてくるのだ」と言うことである。
そして彼女が聾唖者として描かれているのが、非常に重要である。
同じ言語を話す人々(同国人)の中でもディスコミュニケーションは存在し、同じ言語を話す人々(同国人)の間でも争いや諍いが起きている事を明示しているのだ。
つまり、現代では、バベルの塔が崩壊した当時より、争いや諍いは、言葉が違っている人々の間から、同じ言葉を話す人々の間まで加速している、と言う訳である。
そしてもう一つ興味深いのは、天までとどく塔を建設してしまっている日本である。
つまり日本と言う国は、神の怒りを買う寸前まで来ている、と言うことを描いているのではあるまいか。
ここで気をつけなければならないのは、日本がそうだ、ということではなく、制作者サイドは、神の怒りを買う寸前まで行ってしまっている存在のメタファーとして日本を使っていると言うだけである。
映画はメタファーの固まりなのだから、あんなの日本と違うとか、正確な描写ではない、とか言うのは大したことではないのだ。
もう一つ興味深いのは、罪の意識など一切なしに、軽い気持ちで兵器(銃器:ウィンチェスターM70)を渡してしまう人がいる、と言う事である。
つづく・・・・
一時保存です。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
2007/04/30 東京新宿「テアトルタイムズスクエア」で「ブラックブック」を観た。
1944年9月、ナチス・ドイツ占領下のオランダ。
美しいユダヤ人女性歌手ラヘル(カリス・ファン・ハウテン)は、ナチスから逃れるため一家で南部へ向かう。
しかし、ドイツ軍の執拗な追跡にあい、ついには彼女を除く家族全員が殺されてしまう。
その後、レジスタンスに救われたラヘルは、ユダヤ人であることを隠すため髪をブロンドに染め、名前をエリスと変えて彼らの活動に参加するが・・・・。
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
原案:ジェラルド・ソエトマン
脚本:ジェラルド・ソエトマン、ポール・ヴァーホーヴェン
撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ
プロダクションデザイン:ウィルバート・ファン・ドープ
衣装デザイン:ヤン・タックス
音楽:アン・ダッドリー
出演:カリス・ファン・ハウテン(ラヘル・シュタイン/エリス・デ・フリース)、トム・ホフマン(ハンス・アッカーマン)、セバスチャン・コッホ(ルドウィグ・ムンツェ)、デレク・デ・リント(ヘルベン・カイパース)、ハリナ・ライン(ロニー)、ワルデマー・コブス(ギュンター・フランケン)、ミヒル・ホイスマン(ロブ)、ドルフ・デ・ヴリーズ(公証人スマール)、ピーター・ブロック(ファン・ハイン)、ディアーナ・ドーベルマン(スマール夫人)、クリスチャン・ベルケル(カウトナー将軍)
本作「ブラックブック」は、もちろん娯楽作品として素晴らしい作品に仕上がっているのだが、それ以上にポール・ヴァーホーヴェンと言う映像作家にとって非常に重要な意味を持つ作品だと言える。
と言うのも、オランダ出身の映像作家であるポール・ヴァーホーヴェンが、ハリウッドからオランダに戻り、自らのアイデンティティに関わる祖国オランダのナチス・ドイツ占領時を舞台とした作品をオランダのスタッフと共に撮り上げた作品なのだ。
そして興味深いのは、本作のテイストがハリウッド時代の悪趣味な悪ふざけ的テイストではなく、もちろんヴァーホーヴェンお得意のエログロ描写はあるものの、ハリウッド時代の作品と一線を画した、非常に真摯に作品に取り組んだ印象を受ける。
1938年に生まれたヴァーホーヴェンにとって、ナチス・ドイツ占領時のオランダでの思い出は、彼にとって原初的でかつ強烈な印象となって残っていることは想像に難くない。
つまり、今までハリウッドでちょっとふざけて映画を撮っていた監督が、祖国で祖国のスタッフのために、本気で映画を撮った。
と言うような印象を受ける。
とは言う物の、日本の配給会社が本作「ブラックブック」を「シンドラーのリスト」(1993)や「戦場のピアニスト」(2002)と並べて売ろうとする愚挙的な広告戦略を取っているが、本作は実はそんな文芸作品ではなく、ヴァーホーヴェンの嗜好を充分に備え持った娯楽作品に仕上がっている。
「シンドラーのリスト」(1993)や「戦場のピアニスト」(2002)の感動をもとめて劇場に行った観客はちょっと困った事になるかも知れない、と思う。
さて、本作「ブラックブック」についてだが、先ずは脚本が非常に良かった。
伏線とは何か、と言うのが非常に明確に描かれており、特に印象的だったのは、チョコレートの使い方である。
そのチョコレートの伏線の使い方に、わたしは思わず膝を叩くところだった。
これこそ伏線であり、伏線のお手本のような脚本に仕上がっているのだ。
また、もう一点印象に残ったのは、ナチス・ドイツの占領から解放されたオランダの戦後処理の部分があったのが良かった。
と言うか実際は、連合軍がやって来た後の部分が本作の肝(キモ)なのだが、そういった構成になっている脚本に感心した。
大抵の映画では、連合軍がナチス・ドイツを蹴散らして、めでたしめでたしで終わる事が多いのだが、本作「ブラックブック」では、そこから物語が始まっているのだ。
キャストは先ずは、カリス・ファン・ハウテン(ラヘル・シュタイン/エリス・デ・フリース)が良かった。
彼女はとっても頑張りました。
噂ではカリス・ファン・ハウテンは、次回作のボンドガールになるとかならないとか言われているらしいのだが、北米での「ブラックブック」の公開は4月からなで、その影響(「ブラックブック」での演技や描写から来るイメージ)がどうでるのかが興味深いところである。
また、俳優陣も全てが全て良かったし、美術も良い仕事をしていたし、撮影もスコアも良かった。
本作「ブラックブック」は、もう本当に、悪いところが一切ない、と言って良いほど素晴らしい作品に仕上がっていた。
強いて言えば、尺(144分)が短すぎるということだろう。
もっともっと長い間観ていたい作品だった。
とにかく本作「ブラックブック」は、若干観客を選ぶ作品なのかもしれないが、是非劇場でポール・ヴァーホーヴェンの美学と真摯な仕事を堪能していただきたいと思うのだ。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
1944年9月、ナチス・ドイツ占領下のオランダ。
美しいユダヤ人女性歌手ラヘル(カリス・ファン・ハウテン)は、ナチスから逃れるため一家で南部へ向かう。
しかし、ドイツ軍の執拗な追跡にあい、ついには彼女を除く家族全員が殺されてしまう。
その後、レジスタンスに救われたラヘルは、ユダヤ人であることを隠すため髪をブロンドに染め、名前をエリスと変えて彼らの活動に参加するが・・・・。
監督:ポール・ヴァーホーヴェン
原案:ジェラルド・ソエトマン
脚本:ジェラルド・ソエトマン、ポール・ヴァーホーヴェン
撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ
プロダクションデザイン:ウィルバート・ファン・ドープ
衣装デザイン:ヤン・タックス
音楽:アン・ダッドリー
出演:カリス・ファン・ハウテン(ラヘル・シュタイン/エリス・デ・フリース)、トム・ホフマン(ハンス・アッカーマン)、セバスチャン・コッホ(ルドウィグ・ムンツェ)、デレク・デ・リント(ヘルベン・カイパース)、ハリナ・ライン(ロニー)、ワルデマー・コブス(ギュンター・フランケン)、ミヒル・ホイスマン(ロブ)、ドルフ・デ・ヴリーズ(公証人スマール)、ピーター・ブロック(ファン・ハイン)、ディアーナ・ドーベルマン(スマール夫人)、クリスチャン・ベルケル(カウトナー将軍)
本作「ブラックブック」は、もちろん娯楽作品として素晴らしい作品に仕上がっているのだが、それ以上にポール・ヴァーホーヴェンと言う映像作家にとって非常に重要な意味を持つ作品だと言える。
と言うのも、オランダ出身の映像作家であるポール・ヴァーホーヴェンが、ハリウッドからオランダに戻り、自らのアイデンティティに関わる祖国オランダのナチス・ドイツ占領時を舞台とした作品をオランダのスタッフと共に撮り上げた作品なのだ。
そして興味深いのは、本作のテイストがハリウッド時代の悪趣味な悪ふざけ的テイストではなく、もちろんヴァーホーヴェンお得意のエログロ描写はあるものの、ハリウッド時代の作品と一線を画した、非常に真摯に作品に取り組んだ印象を受ける。
1938年に生まれたヴァーホーヴェンにとって、ナチス・ドイツ占領時のオランダでの思い出は、彼にとって原初的でかつ強烈な印象となって残っていることは想像に難くない。
つまり、今までハリウッドでちょっとふざけて映画を撮っていた監督が、祖国で祖国のスタッフのために、本気で映画を撮った。
と言うような印象を受ける。
とは言う物の、日本の配給会社が本作「ブラックブック」を「シンドラーのリスト」(1993)や「戦場のピアニスト」(2002)と並べて売ろうとする愚挙的な広告戦略を取っているが、本作は実はそんな文芸作品ではなく、ヴァーホーヴェンの嗜好を充分に備え持った娯楽作品に仕上がっている。
「シンドラーのリスト」(1993)や「戦場のピアニスト」(2002)の感動をもとめて劇場に行った観客はちょっと困った事になるかも知れない、と思う。
さて、本作「ブラックブック」についてだが、先ずは脚本が非常に良かった。
伏線とは何か、と言うのが非常に明確に描かれており、特に印象的だったのは、チョコレートの使い方である。
そのチョコレートの伏線の使い方に、わたしは思わず膝を叩くところだった。
これこそ伏線であり、伏線のお手本のような脚本に仕上がっているのだ。
また、もう一点印象に残ったのは、ナチス・ドイツの占領から解放されたオランダの戦後処理の部分があったのが良かった。
と言うか実際は、連合軍がやって来た後の部分が本作の肝(キモ)なのだが、そういった構成になっている脚本に感心した。
大抵の映画では、連合軍がナチス・ドイツを蹴散らして、めでたしめでたしで終わる事が多いのだが、本作「ブラックブック」では、そこから物語が始まっているのだ。
キャストは先ずは、カリス・ファン・ハウテン(ラヘル・シュタイン/エリス・デ・フリース)が良かった。
彼女はとっても頑張りました。
噂ではカリス・ファン・ハウテンは、次回作のボンドガールになるとかならないとか言われているらしいのだが、北米での「ブラックブック」の公開は4月からなで、その影響(「ブラックブック」での演技や描写から来るイメージ)がどうでるのかが興味深いところである。
また、俳優陣も全てが全て良かったし、美術も良い仕事をしていたし、撮影もスコアも良かった。
本作「ブラックブック」は、もう本当に、悪いところが一切ない、と言って良いほど素晴らしい作品に仕上がっていた。
強いて言えば、尺(144分)が短すぎるということだろう。
もっともっと長い間観ていたい作品だった。
とにかく本作「ブラックブック」は、若干観客を選ぶ作品なのかもしれないが、是非劇場でポール・ヴァーホーヴェンの美学と真摯な仕事を堪能していただきたいと思うのだ。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
「ゆれる」と「日本沈没」をめぐる冒険
2007年4月15日 映画
仕事柄わたしのところへは広告代理店の営業が来ることが多い。
わたしのところへ来る多くの営業は、わたしが映画好きだと知っているので、最近観た映画の話だとか、面白い映画観ましたか、と言う話題を振ってくることが多い。
一昔前の営業だったら、例えば最近の巨人がどうのこうのとか、松井がどうしたとかイチローがどうしたとか、今朝の日経にこんな記事があったとか、そんな話で営業トークを繰り広げていたのだと思うのだが、わたしのところに来る営業は映画の話とか、音楽の話とか、自転車(MTB)の話とか、をしてくることが多い。
で先日来た営業は、最近DVDで観た映画の話をしてきた。
彼が観た作品は「日本以外全部沈没」「日本沈没」「ゆれる」の三本。
彼が言うには、莫迦にするつもりで観た「日本以外全部沈没」に案外感心させられてしまい、娯楽大作として期待して観た「日本沈没」にがっかりした、と言うことだった。
そして、彼が更に言うのは、『日本が沈没するかも知れない、って言ったら凄い大変な事じゃないですか、でも「ゆれる」なんてひとりの人間が橋から落ちたとか落ちないとかって言う、たったそれだけの話なんですよ。でも引き込まれるのはどっちかって言うと「ゆれる」なんですよね。なんでこんなに面白いんでしょうかね』と言う話だった。
また『大ヒットする映画って、なんだかつまらない映画が多いですよね』とも言っていた。
その営業の人は、まだ20歳代の若い人で、そんなに映画好きと言う訳ではないのだが、そんな人にそんな感想をもたせてしまうような日本映画界の状況はやはり問題だと思う次第です。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
わたしのところへ来る多くの営業は、わたしが映画好きだと知っているので、最近観た映画の話だとか、面白い映画観ましたか、と言う話題を振ってくることが多い。
一昔前の営業だったら、例えば最近の巨人がどうのこうのとか、松井がどうしたとかイチローがどうしたとか、今朝の日経にこんな記事があったとか、そんな話で営業トークを繰り広げていたのだと思うのだが、わたしのところに来る営業は映画の話とか、音楽の話とか、自転車(MTB)の話とか、をしてくることが多い。
で先日来た営業は、最近DVDで観た映画の話をしてきた。
彼が観た作品は「日本以外全部沈没」「日本沈没」「ゆれる」の三本。
彼が言うには、莫迦にするつもりで観た「日本以外全部沈没」に案外感心させられてしまい、娯楽大作として期待して観た「日本沈没」にがっかりした、と言うことだった。
そして、彼が更に言うのは、『日本が沈没するかも知れない、って言ったら凄い大変な事じゃないですか、でも「ゆれる」なんてひとりの人間が橋から落ちたとか落ちないとかって言う、たったそれだけの話なんですよ。でも引き込まれるのはどっちかって言うと「ゆれる」なんですよね。なんでこんなに面白いんでしょうかね』と言う話だった。
また『大ヒットする映画って、なんだかつまらない映画が多いですよね』とも言っていた。
その営業の人は、まだ20歳代の若い人で、そんなに映画好きと言う訳ではないのだが、そんな人にそんな感想をもたせてしまうような日本映画界の状況はやはり問題だと思う次第です。
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604