2006/10/06 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「レディ・イン・ザ・ウォーター」を観た。

M.ナイト・シャマランの観客に対する問いかけはこうだ。
「お前たちはストーリーを信じる事が出来るのか?」

わたしはこう答える。
「もちろんわたしはストーリーを信じている。いままでもそうだったし、これからもずっと、命ある限りストーリーを信じるだろう」
 
 
アパートの管理人クリーブランド・ヒープ(ポール・ジアマッティ)は、なりをひそめるように暮らしてきた。コープ・アパートに住み込み、電球を交換し、空調を修理する単純な毎日。
しかし、ある晩を境に彼の人生は劇的に変わる。その晩、いちものように雑用を片づけていたクリーブランドはアパートの敷地内に何者かが潜んでいるのを発見した。

それはストーリー(ブライス・ダラス・ハワード)と名乗る謎めいた娘だった・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
 
 
監督・脚本・製作:M・ナイト・シャマラン
撮影:クリストファー・ドイル
プロダクションデザイン:マーティン・チャイルズ
衣装デザイン:ベッツィ・ハイマン
編集:バーバラ・タリヴァー
音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
出演:ポール・ジアマッティ(クリーブランド・ヒープ)、ブライス・ダラス・ハワード(ストーリー)、ジェフリー・ライト(デュリー氏)、ボブ・バラバン(ハリー・ファーバー)、サリタ・チョウドリー(アナ・ラン)、シンディ・チャン(スン・チョイ)、M・ナイト・シャマラン(ヴィク・ラン)、フレディ・ロドリゲス(レジー)、ビル・アーウィン(リーズ氏)、メアリー・ベス・ハート(ベル夫人)、ノア・グレイ=ケイビー(ジョーイ・デュリー)、ジョセフ・D・ライトマン(長髪のスモーカー)、ジャレッド・ハリス(あこびげのスモーカー)、グラント・モナハン(やせ衰えたスモーカー)、ジョン・ボイド(眉が片方だけのスモーカー)
 
 
本作「レディ・イン・ザ・ウォーター」の基本プロットは、物語(ストーリー)が、ある作家に物語を書くように(間接的に)要請する、と言うもの。

物語を愛する人々にとって、この物語は圧倒的に魅惑的で、圧倒的に感動的なものである。

そしてもうひとつの基本プロットは、物語の登場人物はその物語に絶対的に必要である。と言うもの。
そうとは知らずにたまたま取った行動が、実は世界のどこかで何かを動かしているのだ。

これまた強烈に感動的で魅惑的、運命的で魅力的なプロットである。

また、物語の中と外の境界が曖昧になって行く感覚は、例えば「ネバー・エンディング・ストーリー」(1984)で、本の中の登場人物が時分に助けを求めていたり、−−「パスチャン、プリーズ!」−−、「カイロの紫のバラ」(1985)で映画の登場人物が観客に話しかけたりするのに近いかもしれない。

また、最近邦訳が出たスティーヴン・キングの小説「ダーク・タワーVI/スザンナの歌」の感覚(小説の登場人物が作者に会いに行く)にも似ているかも知れない。

更に、物語の構造としては、過去に戻った登場人物が、過去の人物に対し、その人物が将来成し遂げるであろう何かを説得し、やり遂げさせようとする感覚にも似ているのではないか、と思える。

とは言うものの本作を、娯楽作品として考えた場合、そんな運命的で魅力的で感動的な物語とは思えなくなってしまうような、問題がいくつかあると言わざるを得ない。

先ず冒頭の神話部分の挿入である。
これは、観客に取ってその神話部分の知識が誰もが持っている普遍的な物語の情報にしておかないと、物語の運命的な部分が斟酌されない、と言う問題を抱えてしまうので、仕方がないと言えば仕方がないのだが、もう少し上手いやり方があったのではないか、と思えてならない。

また、基本的にアパートの住人がそのストーリーの物語に対して疑問を一切感じない、と言う点にも問題を感じる。
登場人物の心情、つまり、疑問を持ちながらも心のどこかではストーリーを信じつつ、そのうちに起きる圧倒的な事象を体験した上で、絶対的にストーリーを信じる、と言う物語の一般的な過程が割愛されてしまっているのだ。

尤も、ストーリーを信じる観客に取っては、アパートの住人が疑義をはさむ必要など一切必要ないのだが、はたして一般の観客に取ってはどうか、と言うと若干の違和感を感じるのではないか、と思える。

そしてM.ナイト・シャマランの登場である。
シャマランのメタファーのとうじょうではなく、本人自ら登場というのが、果たして良かったのかどうか、意見が分かれると思うのだが、本作をシャマランの決意表明だと考えると、シャマラン以上のキャスティングは考えられないし、したり顔の映画評論家が喰われてしまうのも、そのあたりに説得力を付与しているのではないか、と思える。

そして、そこから考えられるのは、何と言っても、M.ナイト・シャマランの決意表明がすばらしい。
彼は自分が描く物語が、世界のどこかで何かを成し遂げることを信じている。
同時に彼は、世界のどこかで、見ず知らずの誰かが、その何かを成し遂げるために、自分の物語が絶対的に必要だ、と信じているのだ。

その崇高な使命感に突き動かされ、多くの観客に支持されない物語を語り続けるM.ナイト・シャマランは最高にすばらしい。

そんなM.ナイト・シャマランの物語をわたしはこれからも楽しみにし続けるであろう。

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2006/10/07 東京池袋「ジュンク堂書店池袋本店」4階カフェで行われた「JUNKU 連続トークセッション」に行って来た。

当日のトークセッションの題材は「黒沢清を作った10の映画」と言うもの。出演は黒沢清。司会進行は篠崎誠。

わたしが黒沢清の名前を意識したのは大学時代だった。

札幌の大学の映画研究会に属していたわたしは、当時の札幌市内で開催された映画祭で「ドレミファ娘の血が騒ぐ」(1985)を観たのではないか、と思う。
上映時のチラシかプログラムには、「ドレミファ娘の血が騒ぐ」(「女子大生恥ずかしゼミナール」より改題)とか言うキャプションがあったのを記憶している。

当時のわたしは大学で8mmフィルムを使った自主制作映画を行っていた。

当時の経験から言わせてもらえば、当時札幌の自主制作映画は大きく二つに分類されていた。

おそらく現在の自主制作映画も同じような感じだと思うのだが、ひとつは難解で哲学的、制作者の自慰行為とも言える、わかる人だけついて来い的な方向性を持ったもの、そしてもうひとつは、所謂商業映画のように、充分に観客を意識し、娯楽性が高い方向性を持ったもの、である。

当時、娯楽性の高い方向性を持った作品を制作していたわたしは、逆に哲学的で難解な作品を制作している人たちを莫迦だと思っていた。

そんな中、わたしは「ドレミファ娘の血が騒ぐ」を観た訳である。

わたしは少なからず衝撃を受けてしまった。

つづく・・・・。
一時保存です。すいません。


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2006/10/02 東京有楽町「よみうりホール」で「ただ、君を愛してる」の試写を観た。

本作「ただ、君を愛してる」の作品自体は大変良かった。
でも作品自体の成り立ちに、若干釈然としないものを感じてしまうのだ。

と言うのも、そもそも本作の原作は映画「恋愛寫眞」(2003)を題材としてオマージュ的な発想で書かれた小説「恋愛写真―もうひとつの物語」(市川拓司著)を基にしているのだ。
 
 
「恋愛寫眞 Collage of Our Life」(2003)
監督:堤幸彦
脚本:緒川薫
出演:広末涼子(里中静流)、松田龍平(瀬川誠人)

「ただ、君を愛してる」(2006)
監督:新城毅彦
原作:市川拓司 「恋愛寫眞 もうひとつの物語」(小学館)
脚本:坂東賢治
出演:玉木宏(瀬川誠人)、宮崎あおい(里中静流)

ところで、わたしは、本作「ただ、君を愛してる」と言う作品は、そもそも市川拓司の「恋愛寫眞 もうひとつの物語」と言うタイトルの小説を原作としている作品であることは知っていたので、そのタイトル(「もうひとつの物語」)から、おそらく「恋愛寫眞 Collage of Our Life」で描かれた物語の隙間を埋める物語なのだろうと思っていた。

つまり、「恋愛寫眞 Collage of Our Life」で描かれた物語は存在することとして、そのサイドストーリー的な作品だと思い込んでいたのだ。

例えば「ポセイドン・アドベンチャー」(1972)と「ポセイドン・アドベンチャー2」(1979)のような関係の作品だと思っていたのだ。

具体的には、「恋愛寫眞」で描かれた静流(広末)と雅人(松田)の過去の物語(出会う前の物語)だったり、静流と雅人とは違う男(玉木)との関わりを描いた物語(静流/広末と雅人/松田の関係と同様に、静流と関係がある男/玉木が居た)だったり、静流の名を引き継いだ男(松田)のその後と過去が描かれる物語だと思っていた。

しか〜し、本作「ただ、君を愛してる」には正直驚かされてしまった。

「ただ、君を愛してる」の物語は、なんと「恋愛寫眞 Collage of Our Life」の二人の主人公の設定と物語の基本プロットをいただいた物語だったのだ。

つまり、本作の物語は、「恋愛寫眞」の基本プロットをそのまま借用し、そのプロットの隙間の枝葉部分を再構築した物語だったのだ。

と言うのも、本作「ただ、君を愛してる」のメインプロットは、

学生時代に知り合った雅人と静流。
静流は雅人の影響で写真をはじめる。
雅人の前から突然姿を消した静流から雅人に一通の手紙が届く。
それはニューヨークで開かれる静流の個展の招待状だった。

と言うものなのだ。

わたしは同工異曲を否定するものではないが、今回のケースはクリエイターとしてやって良いことなのかどうか釈然としない印象を受ける。

まるで本作の物語は、「恋愛寫眞」のキャラクターと設定を借用した二次創作物
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E5%89%B5%E4%BD%9C)のようなものなのだ。

素人作家や同人作家が「恋愛寫眞」のキャラクターと設定を借用した二次創作物を制作するのならともかく、市川拓司がやるのはいかがなものかと思う。

もちろん、市川拓司自身のキャリアの冒頭は、インターネット上で自作を発表した事に遡ることが出来、その作品が口コミで広がり注目を浴びた事からテビューを果たした事を考えると、かつての作品のキャラクターと設定を借用することに対しての意識が低いのではないかとも考えられる。

しかしながら、現在押しも押されぬ作家になってしまった市川拓司が行うことではないと言わざるを得ない。
まあ、もちろん、出版社サイド(または映画制作者サイド)からの依頼の元に小説「恋愛寫眞 もうひとつの物語」の執筆を依頼された、という可能性もあるのだが、同時期に原作ではなく、ノベライズでもなく、二次創作物のような作品を出版することは、プロモーション的にも解せないと言わざるを得ない。

まあ、可能性としてはスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」(1968/04)とアーザ・C・クラークの「2001年宇宙の旅」(1968/07)という例もあるのだが・・・・。

参考)
2003年2月「いま、会いにゆきます」出版
2003年6月「恋愛寫眞 Collage of Our Life」公開
2003年6月「恋愛寫眞 もうひとつの物語」出版

何故、今回の一件に対しわたしがこんなに目くじらを立てているかというと、本作「ただ、君を愛してる」が公開されることにより、後だしじゃんけんのように本作が正当化され、堤幸彦の「恋愛寫眞 Collage of Our Life」の物語が否定されてしまう可能性が否定できないからである。

先人の残した作品のキャラクターや設定を借用し、ついでに先人の作品を否定する結果になる作品をクリエイターとして果たして制作して良いものなのか?
わたしにとっては大きな疑問だった訳である。

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日本未公開、ビデオスルー作品「バス男」(2004)を観た。

あたり前の事なのだが、本作「バス男」は、おそらく今後数十年にわたり、「バス男」と言うタイトルで呼ばれてしまうのであろう。

本作のような良質ですばらしい作品が、「電車男」の亜流作品として、こんな酷いタイトルで呼ばれてしまうのだ。

しかもこれから数十年もだぞ!
(当ブログ予測)

しかも、おそらく本作を観た事もないような人に、『あぁ、アメリカ版「電車男」ね』とか言われて、観もしないのにタイトルだけで莫迦にされてしまうのだ。

そう考えると、こんな酷い邦題タイトルをつけられてしまったこの作品が不憫でならない。

余談だが、「X-MEN:ファイナル ディシジョン」の携帯電話の電源切らずに映画を観よう試写会にしろ、今回の「バス男」とか言う邦題をつけてしまうとは、本当にフォックスは莫迦なのだろうか!

参考『「20世紀フォックスは莫迦なのか!」をめぐる冒険』
http://diarynote.jp/d/29346/20060707.html

ところで、本作の配給はフォックス・サーチライトである。
フォックス・サーチライトって、若手映像作家のアーティスティックな才能溢れる意欲的な作品を紹介するレーベルだったのではなかろうか。

そんなフォックス・サーチライトの配給作品である本作を「バス男」とか言うふざけた邦題タイトルでビデオスルーしやがって、なに考えてんだフォックス・ジャパンはよ!

もっと作品に対して真摯に対峙しろよ!
もっと真面目に取り組めよ!
もっときちんとプロモーションしろよ!

と本気で思ってしまう。

ついでに本作「バス男」の監督はジャレッド・ヘスだぞ!

ジャック・ブラック主演で今年の「東京国際映画祭」で「特別招待作品」として上映される「ナチョ・リブレ/覆面の神様」(2006)の監督だぞ!

例えばだ、「ナチョ・リブレ/覆面の神様」と同時期に若干の時間差をょつけて、渋谷かどっかの単館で「バス男」を公開したらどうよ、「ナチョ・リブレ/覆面の神様」の原点とか言ったら、充分客は入るじねーの。

良質な作品は、配給会社にしろ、DVDの販売元にしても、もうちょっときちんと作品のことを、そして売る対象を明確に考えてプロモーションして欲しいと思うね。

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2006/09/27 東京新宿「新宿明治安田生命保険ホール」で「トンマッコルへようこそ」を観た。

驚いた事に、本作「トンマッコルへようこそ」で描かれる世界観は宮崎アニメのそれと酷似していた。

先ずは、本作で描かれた桃源郷でありユートピア「トンマッコル」という名の村は、宮崎アニメで何度も描かれている平和で実直、自然と共存し、自己完結している環境サイクルを備えた集落を髣髴とさせる。

例えば「トンマッコル」は、「風の谷」であり「ハイハーバー」であり「たたら場」なのだ。

ついでに、「トンマッコル」にたくさんある「提灯」とか、コナンとジムシーによるイノブタ捕獲にも似たシークエンスだとか、浮遊感溢れる飛行機の描写だとか、どう考えても宮崎駿に影響を受けている、と思われる描写が目白押しである。

そして極めつけは何と言っても、その平和な「トンマッコル」村の情景を、そして世界観を完結させているのは、なんと久石譲のスコアであった。

作品を観ている最中、本作のスコアが久石譲だと知らなかったわたしは、スコアがやたらと久石譲っぽいな、と言うか、まさか久石譲じゃないだろうと思っていたわたしは、完全にパクられているんじゃねーの、と思っていた。

中盤のトランペットのソロはジェリー・ゴールドスミスそっくりだったので、やっぱ久石譲じゃないよな、と思って、エンド・クレジットで確認したら、案の定久石譲だった、と言う結末であった。

更に本作で描かれる前半部分は言わば「山の一日」とも言える「トンマッコル」村の描写である。
邪気のない、疑う事を知らない、ピュアで真面目で、美しい村人たち。

もしかしたら、ただ単に「山の一日」とも言える村の日常を描いた、物語らしい物語など存在しない超然とした孤高な作品になるのではないか、と言う仄かな期待を覚えた。

しかし、残念ながら物語りは動いてしまった。

わたしは、トンマッコル村の自給自足の環境サイクルを丹念に描くだけの、ただそれだけの作品が観たかった、と思う。

つづく・・・・
一時保存です。

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「フラガール」をめぐる冒険
http://diarynote.jp/d/29346/20060921.html

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「フラガール」が米アカデミー賞の外国語映画賞に日本代表として出品されるらしい。

余談だが、米アカデミー賞の外国語映画賞についてちょっと調べたのだが、各国から出品された作品の中からノミネート作品が決定する、と言うことなので、ノミネートされた訳ではない、と言うことだと思われる。

まだ、米アカデミー協会は「フラガール」に食いついていない、と言うことだ。
 
 
フィシャル・サイトによると、

『フラガール』米アカデミー賞日本代表作品に決定!

皆さんビッグニュースです!『フラガール』なんと米アカデミー賞最優秀外国語映画賞部門に日本代表として出品されることが決定しました!2005年10月1日から2006年9月30日までの間に初公開され連続7日間以上公開されていなければならない、という条件の中、『フラガール』は選考基準ギリギリでしかも並み居るライバル映画を抑えての選出!(オフィシャル・サイトより引用)

とのことである。
 
 
さて、今日のお話だが、先ずはこちらをご覧いただきたい。

「フラガール」レビュー
http://diarynote.jp/d/29346/20060803.html

以前のエントリーで既にご紹介している通り、確かに「フラガール」は大変すばらしい作品なのだが、米アカデミー賞外国語映画賞の器かと言うとそうでもないような気がする。

何しろ、語弊はあるが、今から40年程前の貧乏臭い炭鉱町の物語が、果たして米アカデミー協会会員の胸に響くかどうかと考えると、日本国民として非常に不安を感じてしまう。
と同時に、日本の40年前の姿が、現在の姿だと思われてしまうのではないか、と言う危惧も同時に感じてしまう。

もちろん、本作は、極東の島国の観客の胸には十二分に響く作品だとは思うのだが、ワールド・ワイドな戦略を持った作品だとは思えないのだ。

ところで、炭鉱町の物語と言えば、炭鉱夫たちのブラスバンドが、病院の窓の外で、ヘルメットのライトで譜面を照らしながら「ダニー・ボーイ」を演奏する映画[「ブラス!」(1996)]とか、少年が跳躍したらアダム・クーパーになっちゃう映画[「リトル・ダンサー」(2000)]等の作品を思い出しちゃうけど、「フラガール」はその方向を狙ってるのかな?

それとも、仕事がなくて男性ストリップをやっちゃう映画[「フル・モンティ」(1997)]とか、会社がつぶれそうで仕方がなく変態ブーツを作っちゃう映画[「キンキーブーツ」(2005)]等の作品の路線を狙っているのかな?

で、そこまで考えて気が付いたのは、例に挙げた4本の作品が全てイギリス映画である、ということ。

実際「フラガール」を観た際に思ったのは、舞台は40年前の純然たる日本だし、美術、風物も当時の日本そのものなのだが、寂れた炭鉱町が地元住民の反対を押し切って起死回生を狙うと言う作品としてのコンセプトと言うかプロットというかは、何故かイギリス映画のテイストを感じさせていた。

米アカデミー協会的にはどんな腹積もりがあるのかわからないが、イギリス・コメディのノリで「フラガール」を評価するのかどうか、期待と不安が同居する気分である。

まあ、とにかく「フラガール」には頑張っていただきたいと思うのだ。

とりあえずは、9月23日(土)から公開ということなので、是非劇場に足を運んでいただきたいと思う。

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今日は「天空の城ラピュタ」の話。

前提は先日のエントリー
「宮崎アニメをめぐる冒険 その1」
http://diarynote.jp/d/29346/20060913.html

1.悪人は、兵器を欲している。
2.悪人は、兵器を手に入れるために、その兵器のキーとなる少女を探している。

ムスカは伝説の王国ラピュタを探索しているが、その目的はラピュタの巨大な力を得る事である。
ムスカは、ラピュタを見つけるため、ラピュタ王国の末裔シータを捜索する。

3.少年が少女を助ける。

パズーがシータを助ける。

4.悪人が改心する。

空中海賊ドーラ一家は、パズーとシータに触れ合うにつれ最終的には改心にいたる。

余談だが、わたしの記憶が正しければ、「天空の城ラピュタ」の元々の企画はNHKのテレビ・シリーズとして企画されたものだったのだが、なんらかの理由でボツになり、その後練り直され「天空の城ラピュタ」(1986)として公開された。

NHKに提出された企画書はその後、原案が翻案され庵野秀明の下で「ふしぎの海のナディア」(1990-1991)として日の目を見ている。

「天空の城ラピュタ」と「ふしぎの海のナディア」の根本的なプロット(失われた文明の末裔の少女が持つ石を、敵味方が奪い合い、少年がそれを助け、悪人の一部が改心する)が非常に似通っているのは、そんな事由があった、という事である。
 
 
さて、「天空の城ラピュタ」は、いくつかの作品の影響下にあるものの基本的に宮崎駿のオリジナル企画である。

気になるのは、先日お話した「未来少年コナン」(1978)と根本的なプロットが酷似していること。

■冒頭
ラピュタ:捕えられていた少女・シータが逃げ出し、空から少年・パズーのもとへ降りてくる。

コナン:捕えられていた少女・ラナが、少年・コナンが住む島に流れ着く。

■前半
ラピュタ:少年・パズーは、悪人・ムスカに再び捕えられた少女・シータを、悪人・ドーラの船・タイガーモス号で救出に向かう。

コナン:少年・コナンは、悪人・レプカに再び捕えられた少女・ラナを、悪人・ダイスの船・バラクーダ号で救出に向かう。

■後半
ラピュタ:少女・シータを救出した少年・パズーらは、改心した悪人・ドーラ一家と共に、失われた王国・ラピュタに向かう。
一方、悪人・ムスカも同時に失われた王国・ラピュタに到着し、ラピュタの失われた強大な兵器・神の雷を手に入れる。

コナン:少女・ラナを救出した少年・コナンらは、改心した悪人・ダイスやモンスリーらと協力し、少女・ラナの祖父・ラオ博士のメッセージを聞き、失われた技術・太陽塔(三角塔)に向かう。
一方、悪人・レプカは復活した太陽エネルギーを利用し、失われた巨大な兵器・ギガントを手に入れる。
 
 
基本的に「未来少年コナン」も「天空の城ラピュタ」も宮崎駿が好き勝手にやった作品、と言う位置付けだと思うので、好きなことが重なってしまっているのは、仕方がないのかも知れないが、ココまでの酷似はいかがなものか、と思ってしまう。

とは言うものの、藤子不二雄の作品群を見ると、そんな話しはどうでもよくなってしまうのが不思議だ。

宮崎アニメをめぐる冒険 その3
へつづく・・・

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最近、宮崎駿のことを考えている。

と言うのも、「ゲド戦記」
http://diarynote.jp/d/29346/20060802.html
とか「王と鳥」
http://diarynote.jp/d/29346/20060910.html
とかを観て、過去の宮崎駿作品(所謂宮崎アニメ)のことがいろいろ思い浮かんでしまうのだ。

で、思ったのは、いくつかの宮崎アニメには、大きな共通点があるのではないか、と言う事。

その気になる共通点は次の通りである。

1.悪人は、兵器を欲している。
2.悪人は、兵器を手に入れるために、その兵器のキーとなる少女を探している。
3.少年が少女を助ける。
4.悪人が改心する。

今日は「未来少年コナン」(1978)で、その共通点を考えてみようと思う。
何分、結構昔に見たっきりなので、記憶が定かではない部分が多々あるが、その辺はご容赦願いたい。

1.悪人は、兵器を欲している。
2.悪人は、兵器を手に入れるために、その兵器のキーとなる少女を探している。

レプカは、インダストリアの三角塔(太陽塔)のエネルギーを復活させギカントを飛ばそうと考えている。
そこで、太陽塔にエネルギーを注入する方法を知るラオ博士を探すため、ラオ博士と精神感応で繋がっている孫娘ラナを、配下のモンスリーとダイスを使って探させている。

3.少年が少女を助ける。

残され島に流れ着いたラナをコナンが助ける。

余談「千の顔を持つ英雄」の話挿入

4.悪人が改心する。

先ずは、ダイスが、そして遂にはモンスリーさえもコナンとラナに感化され、改心し、善人としての行動を起こす。

今日は第一回と言うこともあり、宮崎アニメに関する共通点を論じるところまでは行けないのだが、前述の4つの共通点を見ていただければ、なんとなくでも宮崎アニメの多くが、これらの共通点を持っている、と思えるのではないか、とわたしは思う。

余談だが「未来少年コナン」の世界では、プラスチップ(プラスチック製品)から石油を精製する技術が残っており、また太陽エネルギー復活後は、太陽塔(三角塔)の動力や様々なギミックの全てを太陽エネルギーで賄うと言う、エコロジカルでミニマムな環境サイクルが描かれている。

この環境サイクルは、後に「風の谷のナウシカ」(1984)や「もののけ姫」(1997)でも描かれているのが興味深い。
このあたりも後々考察して行きたいと考えている。
 
 
「宮崎アニメをめぐる冒険 その2」
http://diarynote.jp/d/29346/20060915.html
に、つづく・・・・

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「王と鳥」

2006年9月10日 映画
2006/09/01 東京渋谷「シネマ・アンジェリカ」で「王と鳥」を観た。同時上映は「かかし(短編)」

タキカルディ王国。
暴君として名高い国王・シャルル5+3+8=16世は、納得の行く肖像画を求め、何度も画家を換え描き直させていた。

と言うのも、王は天高くそびえる宮殿の最上階にある秘密の部屋に飾られた美しい羊飼いの娘の絵画に恋をしていたのだ。

しかし、その羊飼いの娘は隣りに飾られている煙突掃除の青年と恋に落ちていた。

羊飼いの娘と煙突掃除の青年は、2人の仲を引き裂こうとする王から逃れるため、絵画から抜け出してしまう。
それを見た肖像画の王は、2人を追い絵画から飛び出してくるが・・・・。

監督:ポール・グリモー
原作:アンデルセン 「羊飼い娘と煙突掃除人」
脚本:ジャック・プレヴェール、ポール・グリモー
台詞:ジャック・プレヴェール
音楽:ヴォイチェフ・キラール、ジョセフ・コズマ
声の出演:パスカル・マゾッティ(王)、ジャン・マルタン(鳥)、レイモン・ビュシエール(警官長)、アニネス・ヴィアラ(羊飼いの娘)、ルノー・マルクス(煙突掃除の青年)、ユベール・デシャン(助言者)、ロジェ・ブラン(盲人)、フィリップ・デレーズ(エレベーターとスピーカーの声)、アルベール・メディナ(猛獣使い)、クロード・ピエプリュ(宮殿の長)
 
 
本作「王と鳥」を観て最初に思ったのは、宮崎駿の事であった。

その思いは、わたしは宮崎駿に騙されていたのではないか、と言う事。

宮崎駿のオリジナルの発想だと思っていたプロットやギミックの多くは、なんと「王と鳥」で既に描かれていたのである。

例えば「未来少年コナン」(1978)の三角塔や三角塔の地下に拡がるコアブロックの造形、またはフライング・マシンや復活した太陽塔で描写されるつなぎ目のない壁に突如現れるドア、または「カリオストロの城」(1979)におけるカリオストロ城の造形や、つなぎ目のない床に突如現れる落とし穴や、落とし穴の部屋、エレベータの造形、階段を駆け降りるキャラクター等々、多くの点で、宮崎駿作品の発送の原典が感じられる。

宮崎駿はあるインタビューで「僕らの仕事は、前の世代からもらったバトンを、次の世代に渡すことだと思っています」と語っているが、だとしても、「王と鳥」と宮崎駿が関わった作品におけるイマジネーションの同一性は甚だしい、と言わざるを得ない。

また、高畑勲が「特に『カリオストロの城』は、この映画(「王と鳥」)の半分パクリみたいな・・・・」と語った、と言うのも頷ける。

わたし達が愛した宮崎駿とは一体何者だったのだろうか、わたしは宮崎駿に騙されていたのだろうか、と。
 
 
さて本作「王と鳥」についてだが、物語は、煙突掃除の青年が宮殿の最上階に巣を作る鳥の助けを得て、天高くそびえる宮殿の最上階の王の秘密の部屋から、無理矢理王の嫁にさせられそうになってしまう羊飼いの少女を救出する物語だと言える。

そうして見ると、物語自体も「カリオストロの城」に酷似していると言える。

そして、羊飼いの少女の絵画を愛する王は、非常にキレやすい性格で、意に沿わぬ家来は即座に落とし穴へ落としてしまうし、また、秘密の部屋まで王を案内するためエレベータを操作した家来も、そこが秘密の部屋だと言う理由で落とし穴に落としてしまう。

王のキャラクター設定は、時空を超え、近代日本におけるキレやすい若者、または偏愛する対象を二次元に求める人々の象徴としてもとらえる事ができるのが、強烈なシンクロニシティを体現しているのだ。

そんな王も肖像画から出てきた肖像画の王に落とし穴に落とされ、肖像画の王は実の王に化け、羊飼いの少女との結婚を望み、脱出した2人を国をあげて追いかける、と言う行動を起こす。

そんな中で、非常に印象に残ったシークエンスが二つある。

ひとつは、煙突掃除の青年が羊飼いの少女を助けるシークエンスで、もうひとつは、青年と少女が手をつなぎながらものすごい速さで階段を駆け降りるシークエンスである。

ひとつめのシークエンスは、壁に飾られた絵画から青年が梯子を使って床に降り、その梯子を少女が描かれている絵画に立て掛け、梯子を使って少女を絵画から助け出すのだが、その動きだけで涙が出てしまう。

アニメーションが持つダイナミズムのひとつの頂点なのかも知れない。

そして、その手の動きは「カリオストロの城」でルパンがクラリスに万国旗を手渡すシークエンスを髣髴とさせる。(と言うか、逆なのだが・・・・)

ふたつめのシークエンスは、セルアニメの限界を遥かに超えた超絶技法が要求されるシークエンスである。

青年と少女は手を取りあったまま、背景として描かれた百段以上の階段をものすごい速さで一段一段駆け降りて行く。
それを描くその圧倒的な技術には、目を瞠るどころか、涙がこぼれてしまう。

ただ単に階段を駆け降りて行くだけの映像で泣けるのである。

そのふたつのシークエンスが劇場のスクリーンで見られただけで、わたしは幸せな気分になってしまった。

まさに、アニメーションの語源、animate(生命を与える)である。

本作「王と鳥」は、アニメーションに関心を持つ者、映像に関心がある者必見のすばらしい作品である。

是非劇場で観て欲しいと思うし、本作で描かれる独創的なイマジネーションの奔流に身を任せていただきたい、と思う。

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2006/08/25 東京銀座「丸の内TOEI 1」で「アキハバラ@DEEP」の試写を観た。

世界の電脳中心地<アキハバラ>。
そこは、最新AV機器から胡散臭いジャンク商品までが揃う、世界最大にして最強のエレクトリック・マーケット。

ユイ(板谷由夏)の引き合わせで偶然出会ったページ(成宮寛貴)、アキラ(山田優)、ボックス(忍成修吾)、タイコ(荒川良々)、イズム(三浦春馬)の若者5人。
社会からドロップアウトした彼らは、一緒に小さなベンチャー会社『アキハバラ@DEEP』を設立するが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:源孝志
原作:石田衣良 「アキハバラ@DEEP」(文藝春秋刊)
脚本:源孝志、成田はじめ
撮影:袴一喜、足立真仁
音楽:小西康陽
出演:成宮寛貴(ページ)、山田優(アキラ)、忍成修吾(ボックス)、荒川良々(タイコ)、三浦春馬(イズム)、板谷由夏(ユイ)、ユセフ・ロットフィ(アジタ)、松尾政寿(加藤則之)、今井朋彦(平井)、寺島しのぶ(渡会藤子)、萩原聖人(遠坂直樹)、佐々木蔵之介(中込威)

本作「アキハバラ@DEEP」は普通に面白い娯楽作品に仕上がっていた。
しかし、個人的には物語として非常に残念な印象を受けた。

と言うのも本作の物語は、ページ(成宮寛貴)、アキラ(山田優)、ボックス(忍成修吾)、タイコ(荒川良々)、イズム(三浦春馬)らが立ち上げたベンチャー企業『アキハバラ@DEEP』が独自のコンセプトで開発した画期的な検索エンジン『クルーク』の争奪戦を描いているのだが、中込威(佐々木蔵之介)率いる巨大IT企業デジタル・キャピタル社(通称:デジキャピ)は、ベンチャー企業『アキハバラ@DEEP』に侵入し、暴力をもって『クルーク』を強奪する。
『目には目を』と言う言葉があるが、非常に残念な事にページらが強奪された『クルーク』を取り戻す手段が、デジキャピ社と同様に暴力による強奪なのだ。

暴力で『クルーク』を強奪するデジキャピ社と暴力をもって『クルーク』を取り戻す『アキハバラ@DEEP』。

「アキハバラ@DEEP」と言う物語の文法として、暴力で奪われたからと言って、暴力で『クルーク』を取り戻してはいけない、と言わざるを得ない。
彼らのような純粋で正直で清純な存在には、暴力は似合わないのだ。

暴力と言う手段を使った時点で、『アキハバラ@DEEP』の高邁な精神は地に落ち、デジキャピ社の中込らと『同じ穴の狢(むじな)』になってしまう。

暴力を使う悪の組織デジキャピに対抗する手段は暴力ではなく知性であって欲しかった。

これでは同工異曲の「七人のおたく cult seven」(1992)の方がコンセプトは良かったのではないか、と思えてしまう。

仮にデジキャピの暴力に対し『アキハバラ@DEEP』が知性で立ち向かったならば、非常に面白いコン・ゲームの映画になったのではないか、と思えてならない。

例えばジェフリー・アーチャーの小説「百万ドルをとり返せ!」とか、名作「スティング」(1973)のような、「やられた〜」と思わせるような作品にして欲しかったと思う。

脚本は、ITベンチャー企業の台頭と、ネット社会、監禁飼育、アキバ系、メイド・カフェ、地下格闘技、アニメ等様々でキャッチーなキーワードを散りばめ、テンポよく構成されている点は評価できるが、やはり最大の問題点は、暴力に暴力で対抗してしまっている点だろう。

ラストのシークエンスで、折角の5人の特殊なスキルを持った設定が生かされていないような印象を受けるのだ。

撮影はなんだか知らないが、映像が非常に暗く。イライラさせられた。

美術は基本的に良い仕事をしているとは思うのだが、その反面、東京国際フォーラムのガラス棟を使ったロケについては、セットを作る予算がなかったのか、近未来的な建物でゲリラ撮影をしているような自主制作映画、まるで学生映画のような印象を受けてしまった。

キャストは何と言っても佐々木蔵之介(中込威役)が良かった。
エキセントリックで逝っちゃってるキャラクターを見事に、そして楽しげに演じている。
最近引っ張りダコの佐々木蔵之介だが、新たな方向性を見つけたのではないかと思える。

また山田優(アキラ役)も良かった。
山田祐のファンにとっては、彼女の様々なコスプレが楽しめる非常に魅力的な作品なのかもしれない。

さらに主演の成宮寛貴(ページ役)は吃音の演技が若干やりすぎの感が否めないが、その分表情や動きで特徴を出していたような印象を受けた。

個人的には、ページの拷問の際に吃音の治療のための言葉、例えば「カレハコブシヲグイグイトハシラヲオシユウレイガミエルトシツコクイイハル」みたいに言葉を執拗に繰返すシークエンスが欲しかったと思う。

本作の成宮寛貴はいつもよりちょっと幼いような印象も受けた。

あとは、寺島しのぶ(渡会藤子役)には驚かされた。
アクションとは・・・・、彼女の新境地なのだろうか。

そしてもちろん、荒川良々(タイコ役)はすばらしかった。
本当に荒川良々は良い役者だと思う。

まあ本作「アキハバラ@DEEP」は、前述の問題点に目をつぶれば、普通に楽しめる娯楽作品だと思う。
結構苦戦している噂を聞くが、関心があるのならば、是非劇場で観て欲しい作品ではある。

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2006/09/07 東京内幸町「イイノホール」で「手紙」の試写を観た。

川崎のリサイクル工場への送迎バス。最後部座席に、野球帽を目深に被った青年の姿がある。

武島直貴(山田孝之)、20歳。
誰とも打ち解けない、暗い目をしたこの青年には、人目を避ける理由があった。

兄・剛志(玉山鉄二)が、直貴を大学にやるための学費欲しさに盗みに入った邸宅で、誤って人を殺してしまったのだ。

人殺しの弟。近所の人々の差別や嫌がらせにあった直貴は、数度にわたる引越しと転職で、川崎のリサイクル工場にたどり着くが・・・・。
(ちらしからほぼ引用)

監督:生野慈朗
原作:東野圭吾 「手紙」(毎日新聞社刊/文春文庫近刊)
出演:山田孝之(武島直貴)、玉山鉄二(武島剛志)、沢尻エリカ(白石由美子)、吹石一恵(中条朝美)、尾上寛之(寺尾祐輔)、吹越満(緒方忠夫/被害者の息子)、風間杜夫(朝美の父)、杉浦直樹(平野/電器会社会長)

新たな涙腺破壊兵器の誕生である。

本作「手紙」は非常にエモーショナルな、と言うか、観客の感情を無遠慮に鷲掴みでぐいぐいと揺り動かす、そんな感じの作品だった。

物語の大きなテーマは、差別の是非である。

武島直貴(山田孝之)は、強盗殺人の罪で服役中の兄・剛志(玉山鉄二)の弟であるがために、差別・迫害を受け、アパートを、そして職場を追われ、転居に転職を重ねることを余儀なくされている。

当然ながら、弟・直貴に感情移入した観客は、直貴に対する様々な差別、迫害に怒りを覚える訳だ。

しかし、ここで考えなければならないのは、直貴を差別し迫害しているのは、誰か、と言うこと。
言うまでも無く、それはもちろんわれわれ一般大衆のメタファーなのだ。

つまり、観客の怒りの矛先は、回りまわって自分たちに向いている、ということなのだ。

そんな中、電器会社の会長・平野(杉浦直樹)が吐くセリフが全くもってすばらしい。

「差別は当然だ、犯罪者やそれに近い人間を排除し、遠ざけようとするのは、当然の行為なんだ」

平野はこんなセリフを吐きながらも、実は直貴に限りない愛情を持って接している。
わたし達はあまりにも正直な、良識やモラルではなく真実を語る平野に泣かされてしまうのだ。

キャストはなんだか知らないが、旬の俳優が顔を揃え、豪華な印象を受ける。

非常に印象的だったのは、剛志に殺された老女の息子・緒方忠夫(吹越満)がラストの直前に、激昂している感情を抑え込み、深々と深呼吸をしながら平然と語る姿がすばらしかった。

憔悴しきった表情の中、激昂している姿を、見せないようにする、自分の感情を隠そうとする姿に感動してしまう。

弟・直貴を演じた山田孝之はやはり上手いと思う。
山田孝之は本作で尾上寛之(寺尾祐輔役)と漫才コンビを組むのだが、脚本(ネタ)が良いのか、漫才シークエンスは結構楽しめた。何しろ普通に面白いのだ。

そして普段の直貴の姿と、ステージ上のはじけた直貴の姿のギャップ、また、由美子の前で激昂する姿と、平野の前でしなだれる姿のギャップも演技としては多面性を持ったキャラクターを見事に演じていると思う。

ステージ上の笑顔は最高である。

そして、後半部分の漫才シークエンスの山田孝之は、冗談抜きに絶品だと思う。

また、直貴を支える由美子を演じた沢尻エリカは、現在最も売れている女優のひとりだと思うし、2006年は映画だけで5本も出演作品があり、それらが全て主演・助演レベルだと言うのは凄いと思う。

本作では、テレビ・シリーズ「タイヨウのうた」(2006)に続く山田孝之との共演ということもあるのか、良いコンビネーションが楽しめた。

彼女の陶器のようなルックスが様々な表情を見せる非常に多感な表現はすばらしいと思う。

余談だが、後半部分、ちょっとした老け役が良かったと思う。

玉山鉄二(武島剛志役)は、残念ながら地味な役柄だったが、後半部分の見せ場には泣かされた。
イケメン俳優とは思えぬ、ある仕草に役者魂を感じた。

更に、若手の頑張りに、曲者の中高年の役者たち、−−吹越満(緒方忠夫/被害者の息子)、風間杜夫(朝美の父)、杉浦直樹(平野/電器会社会長)−−、 が格調を与えているという感じだろうか。

監督の生野慈朗はテレビあがりの演出家なのだが、奇をてらわない演出は順当で素直。物語の邪魔をしない素直な部分に好感を覚えた。

ただ、回想のシークエンスではビデオの粗い映像が使われているのだが、効果よりは、物語から観客の目をそらす、あまりよくない効果が出ているような気がした。
映像が粗すぎるのだ。

本作の公開は2006年11月と、まだ少し先だが、是非劇場で堪能して欲しいすばらしい作品だと思う。

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2006/08/31 東京池袋「テアトル池袋」で「時をかける少女」(2006)を観た。

当日は「テアトル池袋」の閉館に伴う楽日(らくび)。
監督の細田守とプロデューサーの渡邊隆史の舞台挨拶と「テアトル池袋」の閉館イベントがあり、立見が100名程出ていた。

高校2年生の紺野真琴(仲里依紗)は、故障した自転車で遭遇した踏切事故の瞬間、時間を跳躍する不思議な体験をする。
叔母の芳山和子(原沙知絵)にその能力のことを相談すると、それは「タイムリープ」といい、年頃の女の子にはよくあることだというが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:細田守
原作:筒井康隆 「時をかける少女」(角川文庫刊)
脚本:奥寺佐渡子
美術監督:山本二三
キャラクターデザイン:貞本義行
制作:マッドハウス
声の出演:仲里依紗(紺野真琴)、石田卓也(間宮千昭)、板倉光隆(津田功介)、原沙知絵(芳山和子)、谷村美月(藤谷果穂)、垣内彩未(早川友梨)、関戸優希(紺野美雪)

本作「時をかける少女」(2006)は大変素晴らしい作品に仕上がっていた。

物語の構成は、大林宣彦監督、原田知世主演の「時をかける少女」(1983)の続編と言う前提ではありながら、同作の見事な正統リメイク作品として、はたまた筒井康隆の原作の見事な映画化作品として機能する非常にすばらしい構成を持っていた。

アニメーション制作はマッドハウス。
マッドハウスと言えば、同じく筒井康隆原作で、ヴェネチア国際映画祭で上映され絶賛をあびている今敏の「パプリカ」(2007)や、今敏の前作「東京ゴッドファーザーズ」(2003)、「千年女優」(2001)、「PERFECT BLUE」(1998)等々、クオリティの高い作品が思い出される。

本作は、一連の今敏監督作品同様、先ずは背景がすばらしい。
その背景の一翼を担うのは、テレビ・シリーズ「未来少年コナン」(1978)時代からの宮崎駿の盟友山本二三。

細かい街並みはもちろん、「スーパーマン リターンズ」(2006)に足りない見事な、そして圧倒的な青空が楽しめる。
山本二三の強烈な写実的な背景が確固とした世界観の構築に、そして物語へのリアリティの付与に大きく貢献している。

動画は前述の今敏作品の動き、例えば「東京ゴッドファーザーズ」等には及ばないものの、人間が動いている様を見事に表現し、また恐ろしいほどに表情が豊かなキャラクターを生き生きと活写している。
本さくのキャラクターは、口先、小手先だけの演技ではなく、身体全体で感情を表現しているのだ。

ところで、2006年の夏は、GONZO制作の「ブレイブ ストーリー」(2006)、スタジオ・ジブリ制作の「ゲド戦記」(2006)、そしてマッドハウス制作の本作「時をかける少女」(2006)と、奇しくも日本が誇る三大アニメーション・スタジオの三つ巴の争いが展開されていたのだが、全ての点において本作は他を圧倒的に凌駕している、と言う印象を受けた。

そして「ブレイブ ストーリー」と「ゲド戦記」がダメなせいか、はたまた本作が優れているせいか、「時をかける少女」は、当初は単館系作品だったのだが、現在では順次全国拡大ロードショーに拡大していくようである。

優れた作品に多くのスクリーンが割り当てられる。
当たり前と言えば当たり前なのだが、いろいろな大人の事情で、なかなか出来ない事なのである。
そんな中、良質な作品に多くのスクリーンが割り当てられるのは、非常に嬉しいものである。

良質な作品は、きちんとプロモーションを行い、きちんとヒットさせなければならないのだ。

余談だか、興業収入のお話しだが、興収第1位になる作品と言うのは、観客が集まった結果、1位になるのではなく、(誰かが)1位にしようとしたいくつかの作品のうち、一番観客が集まった作品が結果的に1位になるのである。

と言うのも、逆説的に言うと、1位になった作品に、結果的に日本中の数多くのスクリーンが割り当てられていた、と言うことなのである。

いくら良質の作品であってもスクリーンの数が少なければ、満員で4回転、5回転しようが、所詮はスクリーンの数が興収に対しモノを言う訳である。

だから、くだらない莫迦な大作映画が興収第一位を掻っ攫ってしまう訳なのだ。

物語の前半は、タイムリープ能力を得た真琴が大喜びで繰り広げるドタバタ・コメディ。
後半はドタバタ・コメディの延長上に恋愛模様を絡め、そして恐ろしくも静かなラストへと物語りは進む。

物語の論理構成としては、パラレルワールド的な世界観ではなく、一つの時間軸を持つ世界観を貫いているため、ラストの決着のつけ方に、若干イロジカルな部分があるのは否定できないが、それはそれ、本作のすばらしい脚本の前には、少しも気にならないのだ。

キャストは、説明的なセリフに難があるキャラクターもいたが、マンガ映画のようなセリフの発声に、また有名俳優や話題性と言った観点や、大人の事情で声優(声の出演)を決定したと思われる「ブレイブ ストーリー」や「ゲド戦記」なんかよりも、素直でプレーンな演技に好感を覚えた。

とにかく、本作「時をかける少女」(2006)は2006年の夏に劇場で観るべきアニメーション作品だと本気で思う。

夏休みと言う祭の後の寂しさを是非味わっていただきたい。

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「DEATH NOTE」

2006年8月29日 読書
先日、思うところがあって「DEATH NOTE」の第1巻〜第12巻までを読破した。

ラストの顛末の付け方以外は概ね面白く読ませていただいた。

ラストについては、少年誌の特に「少年ジャンプ」の限界を感じ、非常に残念な印象を受け、この物語の結末としては大いに失望させられた。

と言うのも、この「DEATH NOTE」と言う物語は、煎じ詰めれば、夜神月をアンチヒーローとしたピカレスクロマンなのだ。

簡単に言うと、「DEATH NOTE」は極端な話、大藪春彦の「野獣死すべし」やトマス・ハリスの「ハンニバル」みたいな物語だと言えるのだ。

ピカレスクロマンのラストは、やはり悪人を描いている以上、主人公が死ぬことが多い。
しかし、主人公が死なないラストを描いた作品もある。

で、失望したのはやはり少年誌または「少年ジャンプ」の壁(努力、友情、勝利)。
「野獣死すべし」はともかく「ハンニバル」みたいなラストを期待していたわたしにとっては、「DEATH NOTE」のラストには本当にがっかりさせられた。

がっかりの度合は、ラストの魅上の失望に近いと思う。

月があそこまでニアの考えを読んでいたのならば、魅上に自分の名前を書かせ、代わりに他の誰かの名前を書かせない、と言う選択肢もあったのではないかと思う。

が、実際のところは、予定調和的でありきたりな、残念な結末で終わってしまっている。

少年誌ではなく、少なくても青年誌で連載されていたら、と思うと非常に残念な気がする。

「少年ジャンプ」と言う枠を飛び出た作品であったために、非常に残念である。

余談だが、「DEATH NOTE」の直訳は「死のメモ」であって「死のノート」ではない。

余談だけど、「DEATH NOTE」の物語はコミックに適している作品だったような気がする。
なぜなら、思考の速度でページがめくれるから。
タメのある演出で映像化されたら、いらいらした我慢できない、と思った。

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2006/08/22 東京有楽町「東京国際フォーラム」で、「ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT」を観た。
当日は、監督:ジャスティン・リン、キャスト:ナタリー・ケリー、北川景子、土屋圭市らのゲストを迎えた「ジャパン・プレミア」だった。司会は襟川クロ。

カリフォルニアで閉鎖的な毎日を過ごしている高校生ショーン・ボズウェル(ルーカス・ブラック)にとって、車は唯一の心の拠りどころ。

ある日、ハイスクールの花形アメフト選手クレイ(ザカリー・タイ・ブライアン)に因縁をつけられた彼は、ストリート・レーシングの勝負を受けて立つ。

愛車の古いムスタングを駆って、チューンアップされたダッジバイパーを操るライバルに競り勝つショーンだったが、建設現場を荒らしたあげく衝突事故を起こして補導される。
これが車がらみの3度目の逮捕で、少年院行きは逃れられない。

自由を奪われるか、街を出るかの選択に迫られ、ショーンは軍人である父(ブライアン・グッドマン)を頼って日本へ飛ぶが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ジャスティン・リン
出演:ルーカス・ブラック(ショーン・ボズウェル)、バウ・ワウ(トウィンキー)、サン・カン(ハン)、ナタリー・ケリー(ニーラ)、ブライアン・ティー(D.K.)、レオナルド・ナム (モリモト)、北川景子(レイコ)、妻夫木聡(カメオ)、土屋圭市(釣り人1)、千葉真一(カマタ/JJサニー千葉)

さて、本作「ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT」についてだが、結論としては、まあ面白いんだけど・・・・。と言う印象。

ドリフトが主要なテクニックと言う事と、日本が舞台と言う事を考えると、否応なく「頭文字<イニシャル>D THE MOVIE」(2005)と比較されてしまうと思うのだが、撮影テクニックにしろ見せ方にしろ、「頭文字D」に遥かに及ばない。

ハリウッド特有のアップで何が起こっているかわからない、と言うアクション・シークエンスの目白押しである。

ところで、物語のコンセプトとして興味深いのが、アメリカ人が日本に来て、日本車で日本人(アジア人)に一旦は負けるが、最終的には、アメリカ車で日本車に勝つ、と言うもの。

で、そのアメリカ車がフォード・ムスタング’67にニッサン・スカイラインGT-RのRB26エンジンを移植したもの。
ショーンがRB26のこのプラグが悪いとか言って日本のエンジンに文句をたれる所が興味深い。

さて、ムスタング’67と言えば、どうしても考えなければならないのは「ブリット」(1968)でスティーヴ・マックィーンが乗ったムスタング’68。
どう考えても「ブリット」を意識していると思うよ、本作は。

とは言うものの、2006年の最新技術をもってしても残念ながら、「ブリット」(1968)や「フレンチ・コネクション」(1971)、「カプリコン・1」(1977)、「マッドマックス」(1979)等の珠玉のカースタントには遠く及ばない。
何しろ興奮しないし、印象に残らないのだ。
強いて言えば、冒頭のマッスルなカースタントの方が面白いと言うのは、どう言う事なのだ、と思ってしまう。

物語としてはキャストを一新しているのだが、三作目をはじめて観た観客に対しても、主人公ショーン・ボズウェル(ルーカス・ブラック)が自動車の無謀運転で2度捕まっている、と言う冒頭部分のプロットから、あぁ、1作目と2作目でショーンが捕まって、今度は3度目なのだな、と訳わからないミス・デレクション的プロットが非常に興味深い。

実際のところは、キャスト一新なのだが、そんな見方も出来る楽しいプロットが楽しめる。

とは言うものの、全く解せないのは、主人公がクルマを壊しまくること。
冒頭のカースタントからはじまって、日本上陸後の最初のレースにしろ、めちゃくちゃクルマを壊しまくる。

主人公のショーンはクルマが好きでたまらない設定のハズだと思うのだが、そのショーンのクルマに対する愛情が一切感じられない、と言う作品として致命的な印象を受ける。

特に日本国内最初のドリフトレースの際のめちゃくちゃ感は、クルマ好きの神経逆撫でシークエンスではないのか、と思ってしまう。

余談だが、妻夫木聡のフッテージを効果的に使った予告編、CF(CM)には頭が下がる、と言うかちょっとまずいんじゃないか、と思う。

当初から本編に妻夫木聡が1〜2カットしか出てこないと知っている観客ならまだしも、あんな予告編やCF(CM)を見せられた妻夫木聡ファンはたまらないと思うぞ。

日本が舞台とはいえ、日本人キャストが少ないのも面白い。
と言うか、ワールドワイドな作品に出演できる俳優が日本には居ない、ということなのだろうと思う。

まあ本作「ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT」は、そこそこ楽しいカースタント映画だが、残念ながら記憶には残らない作品だと言わざるを得ない。

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「ラフ/ROUGH」

2006年8月22日 映画
2006/08/20 東京有楽町「東証ホール」で「ラフ/ROUGH」の試写を観た。

水泳日本選手権、自由形決勝。

精神統一を図る大和圭介(速水もこみち)の隣には、自由形日本チャンピオンを目される仲西弘樹(阿部力)がいた。

レースで仲西は日本新記録をただきだし、大和はレース中に足をいため、最下位になってしまう。

応急措置を受けた大和は、偶然一人の少女とすれ違う。
彼女はすれ違いざまに大和に声をかける。

「ひとごろし」と。

監督:大谷健太郎
原作:あだち充 「ラフ」(小学館/少年サンデーコミックス)
脚本:金子ありさ
出演:長澤まさみ(二ノ宮亜美)、速水もこみち(大和圭介)、阿部力(仲西弘樹)、石田卓也(緒形剛)、高橋真唯(木下理恵子)、黒瀬真奈美(東海林緑/寮母の娘)、市川由衣(小柳かおり)、八嶋智人(古屋先生)、田丸麻紀(咲山先生)、徳井優(チロリンのマスター)、松重豊(亜美の父)、渡辺えり子(東海林さん/寮母)
 
 
本作「ラフ/ROUGH」は「タッチ」(2005)に続く、原作:あだち充×主演:長澤まさみコンビの作品であり、また「涙そうそう」(2006)とほぼ同時期に公開される長澤まさみ主演作品である。

監督は「約三十の嘘」(2004)、「NANA」(2005)、そして次回作はなんと「NANA2」と話題作が続く大谷健太郎。

さて、本作「ラフ/ROUGH」についてだが、先ずは、なんとも真直ぐで真っ当なアイドル映画に仕上がっている事に驚いてしまった。
と言うのも、「NANA」のような作品の後に、言わば前時代的なアイドル映画を普通に撮ってしまう大谷健太郎に驚かされてしまった、という事である。

脚本は、テレビ・ムービーのコメディを数多く手がけ、「電車男」(2005)でブレイクした金子ありさ。

いきなり余談で恐縮だが、本作「ラフ/ROUGH」においては、長澤まさみが惜しげもなく水着を、特にプールサイドのシークエンスではハイレグの競泳水着を披露している点に好感を覚えた。

アイドル女優が主演する作品では多くの場合、水着やヌード・シーン等肌の露出が高いシーンを演じるのは主演女優(アイドル女優)ではなく、共演女優であることが多い。

例えば、脇役がきちんとビキニを着ているのに、主役が水着の上にTシャツなんかを着ているような作品を観た事があるのではないだろうか。

そんな状況の中、本作「ラフ/ROUGH」では長澤まさみの水着を、−−しかもなんと数種類の水着を−−、きちんと見せているのだ。

この辺については、アイドル女優の所属事務所からの物言いとか様々な大人の事情により、水着のシーンが増えたり減ったりする事があるのだが、さすが「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004)で、長澤まさみの丸坊主を許した事務所。太っ腹というところだろうか。

つまり「ラフ/ROUGH」と言う作品に真摯に取り組む制作者サイドに頭が下がる思いがする、という事なのだ。

※ ここで言いたいのは、長澤まさみの水着姿が見たいとか見たくないとかそういう次元のことではなく、本作は大人の事情より作品の質を高めることを優先させている作品だ、と言うこと。

ところで、物語はマンガが原作、と言う事もあるのか、ベタでお約束の想像通りの展開が続くのだが、細かい脚本が良く出来ているせいか、全く鼻につかず、気が付いたら作品に集中してしまっている、と言う作品だったような印象を受けた。

長澤まさみ×あだち充コンビの前作「タッチ」(2005)と比較すると、20倍くらい面白い作品に仕上がっていると思う。

あと驚いたのは、水中撮影が驚くほど綺麗な点。
日本映画史に残るくらいの綺麗な水中シーンが楽しめる。

尤も、水中シーンのほとんどが室内プールでのシークエンスなので、撮影時において照明等がきちんとコントロールできる環境下での撮影であるから、水中シーンが綺麗だ、と言うのはあたりまえなのかも知れない。

また水泳のシークエンスでは、普段の競泳の中継で見る映像ではなく、ある意味斬新で革新的なカメラ・ワークが楽しめる。

特に、日本選手権時のスタート時、飛び込んでしばらく水中を泳ぐ仲西と大和が、微妙なタイミングの差(日本チャンピオンと日本第2位の差)で水面に上がってくる際のカメラ・ワークは感動的だし、「シービスケット」(2003)において、騎手の目線で競馬場を疾駆するカメラの感動にもにた、水中の一人称カメラにも感動させられる。

また、速水もこみち(大和圭介)、阿部力(仲西弘樹)、長澤まさみ(二ノ宮亜美)、市川由衣(小柳かおり)の水泳、高飛び込みシークエンスでは、水泳・飛込みの吹替えで4人の男女がクレジットされているのだが、俳優から吹替に変わる切れ目がわからないのだ。
文字通りシームレスですばらしい水泳、高飛び込みシークエンスが楽しめる。(主演4人が本当に泳いでいるように見える、と言う事)

キャストは、大和圭介役を演じた速水もこみちは、独り言やナレーションみたいな部分に問題があったが、ソツなくこなしていると思う。

また、二ノ宮亜美役の長澤まさみは、特に問題なく良い印象を受けた。

まあとにかく、アイドル映画としては及第点だと思えるし、ベタでありながら突拍子も無い設定やプロットに問題を感じなければ大変楽しい作品だと思う。

☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2006/08/20 東京神保町「一ツ橋ホール」で「UDON」の試写を観た。

スタンダップ・コメディアンになって世界中を笑わせたい、そんな夢を持って讃岐からニューヨークへ飛び出した松井香助(ユースケ・サンタマリア)。

しかし夢半ばで挫折し、借金を背負って実家に帰る香助に、製麺所を営む頑固な父親・松井拓富(木場勝己)は一喝する。
「何しに帰ってきた!」と。

借金返済のため、親友・鈴木庄介(トータス松本/ウルフルズ)の紹介で地元のタウン誌の編集部で働くことになった香助だったが・・・・。
(オフィシャル・サイトより少々引用)

監督:本広克行
製作:亀山千広
脚本:戸田山雅司
撮影:佐光朗
出演:ユースケ・サンタマリア(松井香助)、小西真奈美(宮川恭子)、トータス松本(鈴木庄介/ウルフルズ)、鈴木京香(藤元万里)、升毅(大谷昌徳)、片桐仁(三島憲治郎/ラーメンズ)、要潤(青木和哉)、小日向文世(藤元良一)、木場勝己(松井拓富)、江守徹(綾部哲人)、二宮さよ子(馬渕嘉代)、明星真由美(淳子)、森崎博之(牧野)、中野英樹(中西)、永野宗典(水原宗典)、池松壮亮(水沢翔太)、ムロツヨシ(石松)、与座嘉秋(新美/ホームチーム)、川岡大次郎(小泉)
 
 
本作「UDON/うどん」は、「サマータイムマシン・ブルース」(2005)に続く、ヒットメイカー本広克行の監督最新作である。

常々お話しているように、わたしは一映画ファンとして「踊る大捜査線」シリーズを一切評価していない。

しかし、本広克行が舞台劇を映画化した2作品、「スペース・トラベラーズ」(2000)と「サマータイムマシン・ブルース」(2005)は大いに買わせていただいている。

とは言うものの、実際問題として、これらの2作は好評だった舞台劇の映画化である、と言う前提条件を考えると、「スペース・トラベラーズ」にしろ「サマータイムマシン・ブルース」にしろ、映画として面白いのか、それともそもそも舞台劇そのものが面白かったのか、そして本広克行の映像制作者としての手腕ははたしてどうだったのか、と言う疑問を感じていたのだ。

そんな中、映画オリジナル企画「UDON」が製作された訳である。
本作「UDON」は、テレビ・シリーズの映画化でも、舞台劇の映画化でもない、本広克行がオリジナル映画で勝負、と言う背景を持った作品なのだ。

本作「UDON/うどん」は、「踊る大捜査線」シリーズのように、テレビ・シリーズのファンだけを劇場に呼ぶための作品ではなく、日本中、否世界中の映画ファン全てを劇場に呼ぶための作品なのだ。

本広克行の監督としての勝負のときなのだ。
 
 
さて、脚本だが、物語は非常にベタで、観客の想像通りに物語りは進む。

そんな中で非常に好感が持てたのは、メディアによって作られた「讃岐うどんブーム」が頂点から失速し、そして終焉をむかえるところまでを明確に描いているところである。

物語で登場人物はそれを「まつり」と表現している。

そして自分達が起こしたブームにより、押し寄せる客のために、店のレベルが落ち、周辺住民との確執から店をたたむところが明確に描写されている。

制作にフジテレビと言う巨大メディアがかんでいる作品で、いわばメディア批判ともなりかねないプロットの採用に正直感心した。

ちょっと余談だが、ここで比較してみたいのは最近日本でも公開されたピクサー・アニメーション・スタジオの「カーズ」(2006)である。

「カーズ」の物語は、地図から忘れ去られた街ラジエーター・スプリングスの復興で幕を閉じる。

だが、その後のラジエーター・スプリングスはどうなるのだろうか。街の賑わいはいつまで続くのか、また再び地図から忘れ去られてしまうのではないだろうか。

街の賑わいは一瞬の出来事だったのではないだろうか。

一方、本作「UDON/うどん」では、物語の前半部分で讃岐地方の地元タウン誌「タウン情報さぬき」により讃岐うどんブームが巻き起こり、それを受けて首都圏のメディアも讃岐うどんブームをどんどん取り上げ、ブームは頂点を迎える。
頂点を迎えたブームに残されているのは、衰退の一途である。

そして物語の後半部分、讃岐うどんブームが去った後、本当の物語が始まる訳なのだ。

キャストは基本的にダメな人はいなかった。
みんな良くやっていると思う。

また、数多く登場するカメオも全くと言って良いほど鼻につかない。

キャストで印象的だったのは前作「サマータイムマシン・ブルース」のキャストが顔を揃えている点である。しかも同じ役柄だ、と言っても良い役柄に好感を覚える。

とにかく本作「UDON/うどん」は、「踊る大捜査線」シリーズのことなんか知らないよ、と言う多くの普通の映画ファンに観て欲しい作品だと思う。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

余談だけど、予習のため「サマータイムマシン・ブルース」を観ておくと良いと思うよ。
予告編で出てくるけど、「ブレードランナー」(1982)も観といた方が良いかも。

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2006/08/07 東京有楽町「よみうりホール」で「マイアミ・バイス」の試写を観た。

フロリダ州の楽園マイアミ。アメリカ合衆国で最も南米に近い都市であることから、巨大犯罪組織による密輸の重大な中継地になっている危険地帯だ。昼夜を問わず潜入調査に挑む、マイアミ警察特捜課(バイス)の刑事コンビ、ソニー・クロケット(コリレン・ファレル)とリカルド・タブス(ジェイミー・フォックス)。

ある日、2人が使っている情報屋が家族を殺され、自分もフリーウェイに身を投げて自殺するという悲劇的事件が発生。さらにFBIの潜入捜査官2人も囮捜査の現場で殺される。

どうやら、南米と北米を結ぶ巨大なドラッグの密輸コネクションに、アメリカ司法機関の合同捜査情報が漏洩しているらしい。

FBIのフジマ(キアラン・ハインズ)は状況を打破すべく、合同捜査と関係がないマイアミ=デイド郡警察に協力を要請する。
それは麻薬の運び屋として組織に潜入、情報漏洩ルートを見つけ出す、と言うもの。
あまりにも危険な任務に上司カステロ(パリー・シャバカ・ヘンリー)は反対するが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督・製作・脚本:マイケル・マン
製作総指揮・オリジナル脚本:アンソニー・ヤーコヴィック
出演:コリン・ファレル(ソニー・クロケット)、ジェイミー・フォックス(リカルド・タブス)、コン・リー(イザベラ)、ルイス・トサル(モントーヤ)、ナオミ・ハリス(トルーディ・ジョプリン)、ジョン・オーティス(ホセ・イエロ)、ジャスティン・セロー(ジトー)、エリザベス・ロドリゲス(ジーナ)、キアラン・ハインズ(フジマ)、バリー・シャバカ・ヘンリー(マーティン・カステロ)

本作「マイアミ・バイス」は、キャリアの大半をポリス・アクションとクライム・アクションに捧げてきたマイケル・マンの集大成的な作品だと言える。

もちろん、「ラスト・オブ・モヒカン」(1992)や「ALI アリ」(2001)等、若干方向性が異なる作品もいくつか手がけてはいるのだが、彼が描く題材は一貫して、刑事警察または犯罪だと言えるだろう。

と言った訳で、本作「マイアミ・バイス」は、テレビ・シリーズ「特捜刑事マイアミ・バイス」(1984-89)の製作総指揮を努めていた、マイケル・マンが満を持して世に問う、ポリス・アクション、クライム・アクションの集大成的な作品なのだ。
 
 
物語は、FBI主導のドラッグ密輸コネクションの合同捜査チームからの情報漏洩源を探るべく、2人の刑事が麻薬組織に潜入する、と言うもの。

物語自体は大して新しいものではないのだが、マイアミを中心とした北米と南米をまたにかける、大規模な作戦行動が印象的であった。

その中で特に印象に残ったのは、ルシアン・ネイハムの小説「シャドー81」もびっくりのジェット機をレーダーから消す方法を実際の映像で見られた点である。
(「シャドー81」とは、V/STOL機を使って、旅客機を外部からハイジャックする話)

また、件(くだん)のジェット機のシークエンスをはじめとして、複数のジェット機やパワーボート、フェラーリ等々を捜査(?)のために自由に利用するマイアミ警察の資金力と言うか、機動力には驚かされた。
まあ、実際のところは、潜入捜査の為、押収品を使用している設定だと言うのだが、プライベート・ジェットと言うのは凄いな、と思う。

更に、印象に残るのは、2人の刑事が活躍すると言う前提はあるものの、マイアミ警察のチーム・プレーがきちんと描かれている点である。

最近ではチーム・プレーに回帰したと言われている「M:i:III」(2006)なんかがあったが、スパイ・アクションとポリス・アクションと言う違いがあるが、それ以上にきっちりとしたチーム・プレーによる作戦が楽しめる。

また、チーム・プレーを前提とすると、優秀で部下思いの上司カステロ(バリー・シャバカ・ヘンリー)の存在がすばらしい。

独断専行型のヒーローが上司の制止を振り切って大活躍する、と言うスタンスの物語が多い中、上司を尊敬する主人公に好感が持てるし、カステロが無能な上司ではないところも好印象である。

また銃撃シーン等アクション・シークエンスは、銃声、着弾音等の音響がすばらしいせいもあるのだが、リアリティあふれ、かつ、痛みをも感じられるようなアクション・シークエンスが楽しめる。

キャラクターについては、刑事サイドはもちろん、麻薬組織サイドのキャラクターも丁寧に描かれており、物語の説得力、またリアリティの付与に貢献している。

麻薬組織サイドの所謂悪役が三者三様にきちんと描かれている点が良かった。

特に、イエロ(ジョン・オーティス)と、イザベラ(コン・リー)等の心情が明確に描かれているため、物語にふくらみが感じられた。

また、ジトー(ジャスティン・セロー)にしろジーナ(エリザベス・ロドリゲス)にしろ、きちんとした見せ場があり、警察組織の中での立場やスタンスと言う背景まで感じられるほどキャラクターが描かれていた、と思う。

ソニー役のコリン・ファレルは、バート・レイノルズ、ドン・ジョンソン系のセクシーな俳優の路線だと思うのだが、個人的にはちょっと方向性が違うような印象を受けた。

タブス役のジェイミー・フォックスはあのり目立たず、コリン・ファレルの引き立て役に回り、マイケル・マンの前作「コラテラル」(2004)で、主役のトム・クルーズを喰ってしまったジェイミー・フォックスだが、今回は抑制された感じが良かったと思う。

本作「マイアミ・バイス」は、前述の「M:i:III」同様に、身内を救出すると言うプロットが採用されている。

本作をポリス・アクション作品として考えた場合、作戦に私情を交えないと言う立場から、常々身内救出のプロットには否定的なスタンスを取るわたしだが、今回の身内救出プロットは、作戦の一部と言うこともあり、許容範囲という事でよしとする。

とにかく本作「マイアミ・バイス」は、往年のテレビ・シリーズファンもそうでない人にも結構オススメのプロットがしっかりしたポリス・アクションだと思う。

Tシャツにジャケットじゃないけどね。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2006/08/10 東京内幸町「イイノホール」で開催されている「GTFトーキョーシネマショー」で「キンキーブーツ」の試写を観た。

突然の父親の死で、倒産秒読み寸前の靴工場を相続したチャーリー(ジョエル・エドガートン)。工場は救いたいが、優柔不断で八方塞がりの彼の前に現われた、救いの女神は・・・・ロンドンはSOHOに君臨する美のカリスマ、ドラッグクイーンのローラ(キウェテル・イジョフォー)だった!
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ジュリアン・ジャロルド
脚本:ジェフ・ディーン、ティム・ファース
プロダクションデザイン:アラン・マクドナルド
衣装デザイン: サミー・シェルドン
音楽:エイドリアン・ジョンストン
出演:ジョエル・エドガートン(チャーリー・プライス)、キウェテル・イジョフォー(ローラ)、サラ=ジェーン・ポッツ(ローレン)、ジェミマ・ルーパー(ニコラ)、ユアン・フーパー(ジョージ)、リンダ・バセット(メル)、ニック・フロスト(ドン)、ロバート・パフ(ハロルド・プライス)

kinky(形容詞)
1.変態の、性的に倒錯した
2.奇妙な、変わり者の

本作「キンキーブーツ」は、苦境に立った老舗の紳士靴工場が、「キンキーブーツ」をミラノ国際見本市に出品し、起死回生を図る、と言う単純明快なもの。

しかし、この「キンキーブーツ」騒動が実際の出来事だった、と言うから驚きである。

さすが「フル・モンティ」(1997)や、「カレンダー・ガールズ」(2003)の題材となった出来事が実際に起こった国イギリスである。
今回の「キンキーブーツ」騒動も、「フル・モンティ」騒動、「カレンダー・ガールズ」騒動と同様に、伝統と近代的感性が融合したすばらしい出来事だと思う。

脚本はある意味ベタな展開が続くのだが、その観客の期待を裏切らない安心感溢れる展開が、作品を普遍的な、誰でも楽しめる存在へと昇華することに成功している、と思う。

特筆すべき点は、冒頭の少年のダンスを脚本に入れる発想が凄いと思った。
本作を2回観た人は、冒頭の少年のダンスで泣くぞ、多分。
 
 
キャストだが、先ずは何と言ってもドラッグ・クイーンのローラを演じたキウェテル・イジョフォーが最高にすばらしかった。

例えるならば、「RENT/レント」(2005)のウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア(エンジェル役)、「ロッキー・ホラー・ショー」(1975)のティム・カリー(フランクン・フルター博士役)、「リトルショップ・オブ・ホラーズ」(1986)のリーヴァイ・スタッブス(オードリーIIの声)らに匹敵するほどの怪演振りだった。

ステージを所狭しと暴れまくるローラ(キウェテル・イジョフォー)の格好良さといったらありません。

性的な嗜好はともかく、ウィルソン・ジェレマイン・ヘレディア(エンジェル)にしろ、リーヴァイ・スタッブス(オードリーII)にしろ、キウェテル・イジョフォー(ローラ)にしろ、テッィム・カリー(フランクン・フルター博士)にしろ、スタイルだけではなく、圧倒的な力があるヴォーカルを持つドラッグ・クイーン(?)に、大きな拍手を送りたい。

多分、このあたりの感情というのは、クィーンのフレディ・マーキュリーに惹かれるのと同じなのかもしれない。

また主人公チャーリー・プライスを演じたジョエル・エドガートンは、特に優柔不断振りがすばらしく、またラストのミラノのショーのシークエンスの七転八倒振りは最高に格好良いし、あれが演出に見えてしまう構成も最高だと思う。

そして、工場の古株マッチョなドンを演じたニック・フロストも良かった。彼とローラの奇妙な友情には涙を誘われてしまう。

本作「キンキーブーツ」は、「フル・モンティ」(1997)や、「カレンダー・ガールズ」(2003)、「リトル・ダンサー」(2000)や「ブラス!」(1996)と言った、苦境の中からの起死回生を、コミカルなタッチで描いた近代イギリス映画の伝統を踏襲したすばらしい作品だと思うし、音楽ファンにもたまらない作品に仕上がっていると思う。

この夏、是非劇場で「キンキーブーツ」を体験してほしいと、本心から思う。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

本作のモデルとなった会社のサイト「キンキーブーツ・ファクトリー」
http://www.divine.co.uk/

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2006/08/09 東京内幸町「イイノホール」で開催されている「GTFトーキョーシネマショー」で「X-MEN:ファイナルディシジョン」の試写を観た。

監督:ブレット・ラトナー
脚本:ザック・ペン、サイモン・キンバーグ
出演:パトリック・スチュワート、ヒュー・ジャックマン、イアン・マッケラン、ハリー・ベリー、ファムケ・ヤンセン、ケルシー・グラマー、アンナ・パキン、レベッカ・ローミン、ショーン・アシュモア、エレン・ペイジ、ベン・フォスター、アーロン・スタンフォード、オリヴィア・ウィリアムズ、ショーレ・アグダシュルー、ジェームズ・マースデン、キャメロン・ブライト、ヴィニー・ジョーンズ

本作「X-MEN:ファイナルディシジョン」の原題は"X-MEN:THE LAST STAND"なのだが、邦題は何故か「X-MEN:ファイナルディシジョン」と言うタイトルになってしまっている。
配給会社の意図がよくわからない不思議な邦題だと思う。

本作の物語自体は普通に面白いが、ただそれだけ。
1時間後にはすっかり忘れてしまう、そんな感じの印象。

一応「X-MEN」シリーズの最終章と言う位置づけのようなのだが、一応結末はついているような印象を受けるが壮大な物語、と言うわけではなく、ミュータントの治療薬「キュア」が巻き起こすひとつのエピソード、と言う印象を受ける。

冒頭、20年前、パトリック・スチュワートとイアン・マッケランが少女時代のジーンをたずねるシークエンスが良かった。

つづく・・・・
一時保存です。

☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2006/08/04 東京汐留「スペースFS汐留」で「ユナイテッド93」の試写を観た。

2001年9月11日
午前8時42分、ニュージャージー州ニューアークからサンフランシスコに向けて、ユナイテッド93便が飛び発った。

その直後、ワールド・トレード・センターに、2機の旅客機が激突した。
その時はまだ、ユナイテッド93便の乗客乗員は、何も知らず、穏やかなフライトを続けていた。

そして・・・・。
(ちらしよりほぼ引用)

監督・脚本:ポール・グリーングラス
撮影:バリー・アクロイド
編集:クレア・ダグラス、リチャード・ピアソン、クリストファー・ラウズ
音楽:ジョン・パウエル
出演:ハリド・アブダラ(ジアド・ジャラ)、ポリー・アダムス(デボラ・ウェルシュ)、オパル・アラディン(シーシー・ライルズ)、ルイス・アルサマリ(サイード・アルガムディ)、デヴィッド・アラン・ブッシェ(トッド・ビーマー)、リチャード・ベキンス(ウィリアム・ジョゼフ・キャッシュマン)、スターラ・ベンフォード(ワンダ・アニタ・グリーン)、オマー・バーデゥニ(アフメド・アルハズナウィ)、スーザン・ブロンマート(ジェーン・フォルガー)、レイ・チャールソン(ジョゼフ・デルカ)、クリスチャン・クレメンソン(トーマス・E・バーネットJR.)、ライザ・コロン・ザヤス(ウォレスカ・マルティネス)、ゲイリー・コモック(リロイ・ホーマー)、ローナ・ダラス(リンダ・グロンランド)、デニー・ディロン(コリーン・フレイザー)、トリエスト・デュン(ディオラ・フランシス・ボドリー)、トリッシュ・ゲイツ(サンドラ・ブラッドショー)、ケイト・ジェニングス・グラント(ローレン・カツゥーチ・グランドコラス)、ジェイミー・ハーディング(アフメド・アルナミ)、ピーター・ハーマン(ジェレミー・グリック)、タラ・ヒューゴ(クリスティン・ホワイト・グールド)、マルセリーヌ・ヒューゴ(ジョジーン・ローズ・コリガン)、シェエン・ジャクソン(マーク・ビンガム)、ジョー・ジャムログ(ジョン・タリナーニ)、コーリイ・ジョンソン(ルイス・J・ナックII世)、J・J・ジョンソン(ジェイソン・M・ダール)、マサト・カモ(久下季哉)、ベッキー・ロンドン(ジーン・ピーターソン)、ピーター・マリンカー(アンドリュー・ガルシア)、ジョディー・リン・マクリントック(マリオン・R・プリトン)、ナンシー・マクダニル(ロレイン・G・ベイ)、リビー・モリス(ヒルダ・マーシン)、トム・オルーク(ドナルド・ピーターソン)、サイモン・ポーランド(アラン・アンソニー・ビーヴァン)、デヴィッド・ラッシュ(ドナルド・フリーマン・グリーン)、エリック・レッドマン(クリスチャン・アダムス)、マイケル・J・レイノルズ(パトリック・ジョゼフ・ドリスコル)、ジョン・ロスマン(エドワード・P・フェルト)、ダニエル・サウリ(リチャード・ガダーニョ)、レベッカ・スカル(パトリシア・カッシング)、クロー・シレーン(オーナー・エリザベス・ワイニオ)、オリヴィア・サールビー(ニコール・キャロル・ミラー)、チップ・ジエン(マーク・ローゼンバーグ)、レイ・ジンマーマン(クリスティン・シュナイダー)

衝撃的である。

本作「ユナイテッド93」と言う作品は、恐ろしいほどに衝撃的な作品だった。

物語の終盤、スクリーンが暗転した瞬間、今までの人生で経験した事がないほどに強烈に心が震えた。

それは、興奮のためなのか、怒りのためなのか、訳のわからない感情の渦が押し寄せてくる。

もし、この作品が完全なフィクションだったら、どんなに良かったことだろうか。
不謹慎な発言だとは思うが、そう思わせるほどに、本作は非常に面白い(interesting)作品に仕上がっている、と言える。

もちろん、「面白い(interesting)」と言う表現は、本作「ユナイテッド93」が題材とした米同時多発テロとそのテロ事件による数多くの犠牲者のことをを考えた場合、非常に不謹慎な発言だと思うのだが、本作を一本の娯楽映画作品だととらえた場合、やはり「面白い(interesting)」と言う感想が出てきてしまうのだ。

おそらく、多くの観客は「凄かったね」と言う言葉でお茶を濁すのではないか、と思えるのだが、わたしは正直に「面白い」と言う言葉を使用する事にしたことをお断りしたい。

先ずは真実の出来事が持つドラマとしての面白さと、極限の状況で与えられた使命を全うしようとする人々の姿が凄まじい。

特に、911米同時多発テロの際、実際にテロ事件に対応した空港の管制官や軍関係者の多くが、本作で本人を演じていることに驚かされる。

"as himself"と言うクレジットをこんなにたくさん見た事がない程、本作のクレジットには"as himself"に溢れていた。

本作の手法は、所謂ドキュメンタリー・タッチで、カメラはブレまくり、編集も荒削りである。
そのテイストが、観客に対し凄まじいほどのリアリティを付与している。

そして、驚いた事に、本作は事実(のように思えるもの)を観客に冷徹な事実(のように思えるもの)を提示するだけで、一切のイデオロギーが感じられない。

テロの実行犯に対する怒りを本作は喚起させることをしていないのだ。

これはハリウッド映画としては、非常に珍しい事だと言わざるを得ない。

強いて言えば、アメリカ政府に対する怒りの方が強いような印象すら受けるのだが・・・・。

とにかく、本作「ユナイテッド93」は、全ての映画ファン必見の、と言うか最早義務とも言うべき作品だとわたしは思う。

観ろ! 泣け!
そして震えろ!

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

余談だが、本作はフィクションである。
と言うのも、実際に「ユナイテッド93」の機内で何が起こっていたのか誰も知らないからである。
その状況の中、ドキュメンタリー・タッチで、擬似ドキュメンタリー風の作品を制作するのは、事実の捏造だ、と言う意見もあるかと思う。
従って、やはり本作はフィクションとして観るべき作品なのだと思う。

更に余談だが、ディスカバリー・チャンネルで放映されたドキュメンタリー・ドラマ「9.11 抵抗のフライト」も非常に興味深い。
「ユナイテッド93」の公開にあわせ、再放映があるようなので、そちらも見て欲しいと思う。

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