2005/02/26 東京銀座「銀座ガスホール」で「サイドウェイ」の試写を観た。

離婚のショックから立ち直れない小説家志望の教師マイルス(ポール・ジアマッティ)は、結婚を一週間後に控えた大学時代からの親友で売れない俳優のジャック(トーマス・ヘイデン・チャーチ)とカリファルニアのワイナリー巡りの旅に出る。
男二人のワイン三昧の気ままな旅は、ワイン好きの魅力的な女性マヤ(ヴァージニア・マドセン)とステファニー(サンドラ・オー)の出会いをきっかけにマイルス自身を見つめ直す旅へと変わっていく。(ちらしよりほぼ引用)

監督:アレクサンダー・ペイン
出演:ポール・ジアマッティ(マイルス)、トーマス・ヘイデン・チャーチ(ジャック)、ヴァージニア・マドセン(マヤ)、サンドラ・オー(ステファニー)

本作「サイドウェイ」はご承知のように低予算映画ながら数々の賞を受賞している作品である。
そう言うこともあり、わたし的には「第77回アカデミー賞授賞式」前に何とか観たいと思っていた作品だったのだ。
そんな訳で、この度なんとか滑り込みで本作を鑑賞する事が出来た訳なのだ。

さて本編についてだが、一言で言うと本作「サイドウェイ」は本当に素晴らしい作品である。

脚本はご存知のように、ワインをフィーチャーしたもので、そのワインや葡萄の熟成や育成を、登場人物そしてわれわれ観客の人生や愛に例えた見事なもので、男二人の莫迦さ加減にゲラゲラ笑いながら、気が付いたら涙を零してしまっている、または見事に背中を押されてしまっている、むという感じのさわやかな感動作品に仕上がっている。

個人的には、特にラスト・カットからの暗転の潔さが大変素晴らしく、こんな格好良い幕切れを持つ作品は、最近お目にかかっていないと思う。
勿論アレクサンダー・ペインの前作「アバウト・シュミット」のラスト・カットも余韻が楽しめる素晴らしい幕切れだったのだが、本作の幕切れは、それ以上の感慨と余韻が楽しめる素晴らしいカットが使用されている。

とは言うものの、やはり低予算映画的な印象は否定できず、「アカデミー賞」の前哨戦たる様々な批評家協会賞の受賞は納得できるものの、果たしてかの「アカデミー賞」を見事受賞できるかどうかと言うと、若干微妙な印象を受けざるを得ない。
勿論、大作嗜好や賞狙い作品へのアンチテーゼ的なチャンスはあると思うのだが、その辺が興味深いのだ。

キャストは、はっきり言って主要キャストは四人とも大変素晴らしい。
と言うか、低予算映画の宿命と言うもので、脚本と演技合戦でしか勝負できないのだから、演技が素晴らしいのは当たり前なのだが・・・・

主役のマイルスを演じたポール・ジアマッティは、われわれ一般大衆のメタファーとなるキャラクターであり、若干神経質でモラリスト、そしてある種自分の閉鎖的な世界を持つ、平均的な大衆を体現するキャラクターとして描写されている。
そしてマイルスは、人生の中で重要な一歩をなかなか踏み出せない、自らが自らの周りに築いてしまっている心の壁に行動を制限されているキャラクターとして描かれているのだ。
そのダメな中年男をポール・ジアマッティは見事に演じている。
モラルや理性に縛られたマイルスのキャラクターは観客が一番感情移入しやすいキャラクターだろう。

一方、モラルが低く本能のままに行動してしまうジャック(トーマス・ヘイデン・チャーチ)は、われわれ一般大衆のモラルはともかく、こうありたいと言う願望を体現したキャラクターとして描かれている。
これもまたダメな中年男をトーマス・ヘイデン・チャーチは見事に演じている訳だ。

つまりマイルスとジャックは理性と本能をそれぞれ体現するキャラクターとして描かれているのだ。
本作は、われわれの人生の中で、理性に抑圧されている本能を解き放ち、その人の人生にとって重要な一歩を踏み出す、と言う物語に仕上がっている訳だ。

女優陣については、やはりマヤを演じたヴァージニア・マドセンが良かった。本作の賞レース後、兄であるマイケル・マドセン以上の活躍が期待できるのではないか、と思える。オファーも倍増するだろう。

また、ステファニーを演じたサンドラ・オーも非常に印象的な容貌と印象的な演技を見せてくれている。余談だが、このサンドラ・オーは、本作の監督アレクサンダー・ペインの奥さんと言うこともあり、今後が楽しみな女優さんの一人なのだ。

とにかく、本作「サイドウェイ」は、人生に悩んだ人々のひとつの指針として機能する、もしかしたらわたし達観客の人生すら変えてしまう程の魅力と力を内包する作品なのかも知れない。

ところで余談だが、ラストのカットは行間を読む観客にとっては大変素晴らしいカットだと思うのだが、もしかすると、「何てとこで終わるんだよ!」とお怒りになる観客の皆さんもいるかも知れないと思ってしまう。
わたし的には前述のようにラスト・カットから画面が暗転した瞬間、正に「ニヤリ」と言う感じで、思わず拍手しそうな勢いだったのだ。
こんな格好良い終わり方はなかなかないぞ。

背中を押された結果ではなく、背中を押されて第一歩を踏み出す事が重要なのだ。

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2005/02/23 東京竹橋「科学技術館サイエンスホール」で「オオカミの誘惑」の試写を観た。

父親を亡くしたチョン・ハンギョン(イ・チョンア)は、父親と別れた後再婚した母親を頼り、以前暮らしていたソウルに舞い戻って来た。

ハンギョンは、父親を亡くした悲しみを、ソウルで暮らしいてる初恋相手キム・デハン(アン・ヒョンジュン)との再会で紛らわそうとしていたが、そのデハンはソウル時代の親友ユ・ジェヒ(ソン・チェミン)の恋人になってしまっていた。
失意を隠し、二人を健気に祝福するハンギョンだったが、乗り込んだバス内で涙をこぼしてしまう。
そのバスにたまたま乗り合わせたパン・ヘウォン(チョ・ハンソン)は、ハンギョンのいたいけな姿に一目惚れしてしまう。

母親と一緒に暮らしていたハンギョンの妹タルム(チョン・ダヘ)はハンギョンの失恋を紛らわそうと、ハンギョンに男友達を紹介しようと街に繰り出すが、その途中ハンギョンの傘に何物かに追われている男チョン・テソン(カン・ドンウォン)がいきなり飛び込んできた。

テソンはハンギョンの名を聞き、何故かハンギョンをお姉さんと呼び始めるが、そこへハンギョンに恋する男ヘウォンが現れる。
ヘウォンとテソンは中学時代からの犬猿の仲だった。

ここに、高校生のアイドル二人の、冴えない女の子を巡る、プライドと愛を賭けた戦いが始まった。

監督:キム・テギュン
原作:クィヨニ
出演:チョ・ハンソン(パン・ヘウォン)、カン・ドンウォン(チョン・テソン)、イ・チョンア(チョン・ハンギョン)、チョン・ダヘ(タルム)、クォン・オミン(ハン・ジュホ)、イ・チョニ(ユウォン)、イ・ジヒ(イ・ボジョン)、ソン・チェミン(ユ・ジェヒ)、キム・ヒョンジン(イ・ナユン)、アン・ヒョンジュン(キム・デハン)

本作「オオカミの誘惑」は前時代的ベタな展開とありがちな悲劇的プロットとお約束満載のアクション・コメディ作品だと言える。
とは言うものの、決してつまらない作品ではなく、その古典的な前時代的プロットがノスタルジックな雰囲気を醸し出し、観客は物語を莫迦にし笑いながら観ているうちに、気が付いたら自らの青春時代の思い出と作品とがオーバーラップし、泣かされてしまっている、と言う感じの非常に良く出来た素晴らしい青春映画に仕上がっている、と言えよう。

勿論本作は、韓国の2大アイドル俳優の共演と言う背景も持っているのだが、ベタなプロット満載ではあるものの、所謂アイドル映画の枠に収まらない大人の鑑賞に堪えうるピュアでノスタルジックで瑞々しくも切ない素晴らしい物語に仕上がっているのだ。

脚本は前述のようにお約束の山なのだが、基本プロットは決して悪くはなく、韓国映画に多い運命的なプロットが楽しめるし、細かい会話もウイットに富んでいる。

余談だが、台湾でドラマ化された日本のコミック「花より男子」の影響下にあるような印象を受けた。
勿論「花より男子」を引き合いに出すまでもなく、恋愛を題材にした日本の少女コミック的な語弊はあるが荒唐無稽でファンタジックな展開が楽しめる楽しい脚本に仕上がっている。

演出は順当と言えば順当なのだが、シークエンス毎の演出のコンセプトが楽しく、微に入り細に入りカチっと作りこまれた演出と構成が楽しめる。
お約束はお約束なのだが、これをお約束と考えずに予定調和と捉える度量が欲しいものだ。

また、監督のキム・テギュンは「火山高」の監督と言うこともあり、力の入ったアクション・シークエンスも楽しめる。のだが、やたらと飛び蹴りが多く、また被写体に比較的寄り気味で細かいカットで誤魔化している感が否めない。
勿論これはイケメン俳優によるアクションなのだから仕方がないと言えば仕方がないのだが、もう少し見せてくれればな、と思った。

キャストはなんと言っても、冴えないヒロインであるチョン・ハンギョンを演じたイ・チョンアだろう。
チョ・ハンソン(パン・ヘウォン)とカン・ドンウォン(チョン・テソン)と言う2大人気俳優に挟まれて、いろいろ問題もあったようだが、非常に魅力的で二人の間で揺れる心情と演技をみせてくれている。

余談だけど、本作のポスター等のアートワークは凄いぞ。イケメン俳優二人の顔はともかく、前景のヒロインの顔がピンボケなんだぜ。

とにかく、本作「オオカミの誘惑」は、ある意味「猟奇的な彼女」に匹敵するような素敵な作品だと言えるのだ。

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2005/02/15 東京竹橋「科学技術館サイエンスホール」で「エターナル・サンシャイン」の試写を観た。

バレンタイン・デー直前のある朝、ジョエル・バリッシュ(ジム・キャリー)は会社に行く代わりに、季節外れで閑散とした海へと向かった。
寒々とした海岸でジョエルはクレメンタイン・クルシェンスキー(ケイト・ウィンスレット)と偶然出会う。
帰りの列車の中で会話を交わすうちに、ジュエルとクレルンタインは打ち解けていくが・・・・。

監督・原案:ミシェル・ゴンドリー
脚本:チャーリー・カウフマン
出演:ジム・キャリー(ジョエル・バリッシュ)、ケイト・ウィンスレット(クレメンタイン・クルシェンスキー)、キルスティン・ダンスト(メアリー)、マーク・ラファロ(スタン)、イライジャ・ウッド(パトリック)、トム・ウィルキンソン(Dr.ハワード・ミュージワック)

はっきり言って最高である。
本作「エターナル・サンシャイン」は精神世界の冒険と運命、そして愛を見事に描いた素晴らしい傑作である。
笑いながら、気が付いたら泣かされてしまう上に、トリッキーな脚本に翻弄されてしまう、楽しい楽しい時間が過ごせるのだ。

チャーリー・カウフマンの脚本はトリッキーで伏線に満ち、また言葉遊びに満ち満ちた、楽しくて楽しくて仕方が無い脚本に仕上がっている。

その脚本を具現化する美術(ダン・リー)も素晴らしいし、ファンタジックなシークエンスとトリッキーな脚本を具現化する特殊効果と演出も素晴らしい。

キャストは何と言ってもジム・キャリーとケイト・ウィンスレットが凄い。二人とも、最高に魅力的で最高に輝いている。
本作はおそらく二人の代表作に数えられる種類の作品なのだろう。

何を書いてもネタバレになってしまうので、こんな感じで失礼します。
公開後、きちんとレビューしたいと思います。

とにかく、事前の情報をシャットアウトした状態で、公開日に劇場にゴー!なのだ。

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2005/02/09 東京新宿「テアトルタイムズスクエア」で「ベルヴィル・ランデブー」を観た。

戦後まもないフランス。
内気で友達もできない孫のシャンピオンを不憫に思ったおばあちゃんは、テレビセットやピアノ、おもちゃの列車、ブルーノという名前の子犬など、色々なものを買い与えたが、シャンピオンにとって興味を示すものはなかった。
そんなある日のこと、おばあちゃんは、偶然シャンピオンが有名な自転車選手の写真をスクラップしていることを知り、早速三輪車をプレゼントすると、シャンピオンは今までに見たこともないようないきいきとした顔で、嬉しそうに三輪車に夢中になっていった。
そんなシャンピオンのために、おばあちゃんは来る日も来る日も厳しいトレーニングを見守り、いつしか世界最高峰の自転車競技の祭典、ツール・ド・フランスに参加するまでに育て上げた。

しかし、レースの最中に思わぬ事件が起こる。
首位グループから離されたシャンピオンと他の選手2名が、救護車になりすました謎のマフィアに誘拐されてしまったのだ・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督・脚本・絵コンテ・グラフィックデザイン:シルヴァン・ショメ

本作「ベルヴィル・ランデブー」は、日本やハリウッドのアニメーション映画とは比較できないほどの強烈な個性と独自の作家性を持つ、素晴らしいアニメーション作品に仕上がっている。

本作のアニメーション・キャラクターの絵柄からの印象は「101匹わんちゃん」や初期の短編映画時代のディズニー作品を彷彿とさせるのだが、物語の方向性はシニカルで無軌道。どこに連れて行ってくれるのかわからないスリリングな展開が楽しめる。

勿論、一般の観客が物語を楽しめる程度のストーリーは付いているものの、セリフはほとんど皆無。映像と音楽だけでストーリーやキャラクターの性格や情感を物語る手腕には驚くべきものがある。
ただ単に絵が動いているだけで楽しいと言う、ある意味のアニメーションの原点を見る思いがした。

そしてそれは、全くと言って良いほどセリフがない作品だと言うのに、全く飽きが来ないのも、シルヴァン・ショメの構築した卓越した世界観と、生き生きとし、確固たる個性や自我を持ったキャラクターたちによるところが大きいと思う。
しかし、それら独創的なキャラクターは何も喋らず、行動のみで自らの情感や性格を表現している訳なのだ。

しかも、それを俳優の演技ではなく、アニメーションでやってしまっているのだから、驚きを禁じえない。
喋らないのくせに素晴らしくも魅力的に見えてしまうキャラクターの演出力に脱帽なのだ。

また演出的には、作品として考えた場合、若干のもたつきはあるものの、キャラクターの些細な行動(例えば釣りのシークエンスのような)のマニアックな理由付けとそれを描写する演出コンセプトと発想が大変素晴らしい。
正にセンス・オブ・ワンダーなのだ。

そしてそのキャラクターの造形は、前述のようにディズニーの初期の短編映画に登場する擬人化された動物たちの造形の系統を汲むようなデザインで、動きもその時代の漫画映画的な動きが楽しめる。
と同時に、CGIでモデリングされた事物が、描きこまれた背景に融和した状態で動き回るさまも楽しめるのである。

また音楽も素晴らしい。
何がどう素晴らしいのか言葉で説明するのは難しいのだが、所謂ジプシー・ジャズのテイストが楽しくも悲しい。

とにかく本作「ベルヴィル・ランデブー」は、「ハウルの動く城」と「Mr.インクレディブル」に対抗しうる、フランスの素晴らしいアニメーション映画なのだ。

☆☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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話題のクイーン+ポール・ロジャースのライヴとインタビューの映像がリアルガイドで独占公開された。

http://realguide.jp.real.com/ram/realnews/135/135_2_hi.ram

ライヴは「ウィ・ウィル・ロック・ユー」、「伝説のチャンピオン」等を演奏する映像で、マイクスタンドをもてあそぶポール・ロジャースとブライアン・メイ、ロジャー・テイラーが楽しげに演奏している。

インタビュー映像も同様にポール・ロジャースとブライアン・メイ、ロジャー・テイラーが今回のセッションとツアーについて語っている。

ところで、ジョン・ディーコンはどうしたんだ?

ペプシのCF(CM)にもジョン・ディーコンは出てこなかったし、クイーンと名乗りつつ、実際はブライアン・メイとロジャー・テイラーだけなのかな。

関心がある方は見て損はないと思うが、往年のクイーンファンにはオススメできないかも。

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2005/01/31 東京京橋「映画美学校試写室」で「THE JUON / 呪怨」の試写を観た。

東京の国際大学で福祉を学ぶカレン(サラ・ミシェル・ゲラー)は、同じ大学に通う恋人ダグ(ジェイソン・ベア)とともに、目にするものすべてが新鮮な日本での暮らしを楽しんでいた。

ビジネスマンのマシュー(ウィリアム・メイポーザー)は妻のジェニファー(クレア・デュヴァル)、軽度の痴呆がある母親エマ(グレイス・ザブリスキー)を連れて日本の企業に赴任してくる。彼らは郊外に日本建築の一軒家を借りて新生活をスタートするが、ジェニファーは右も左もわからない日本での暮らしと慣れない介護に悩みを抱えている。

ある日、カレンは授業の一環としてマシューの家にエマの状態を看に行くことになる。たった一人で介護に行く事に不安を感じたが、英語ができる人間が他にいない、と言われ、しぶしぶ承諾して地図を片手に電車に乗り込む。道に迷いながらもなんとか郊外の一軒家に辿り着いたが、声をかけても誰の返事もない。カレンが恐る恐る中に入っていくと・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:清水崇
出演:サラ・ミシェル・ゲラー(カレン)、ジェイソン・ベア(ダグ)、ウィリアム・メイポーザー(マシュー)、クレア・デュヴァル(ジェニファー)、ケイディー・ストリックランド(スーザン)、グレイス・ザブリスキー(エマ)、ビル・プルマン(ピーター)、ローザ・ブラシ(マリア)、テッド・ライミ(アレックス)、石橋凌(中川刑事)、真木よう子(洋子)、尾関優哉(佐伯俊雄)、藤貴子(佐伯伽椰子)、松山鷹志(佐伯剛雄)、松永博史(五十嵐刑事)、おかやまはじめ(不動産屋鈴木)、森下能幸(警備員)

わたしは所謂ジャパニーズ・ホラーと呼ばれる作品をあまり熱心には観ていない。なぜかと言うとジャパニーズ・ホラーは怖いからである。ホラー映画の肝は怖い事なのだから、怖いから観ない、と言うこと自体おかしな話なのだが、実際そういう状況なのだから仕方がないのだ。

わたしはそんな状況の中、ハリウッド産ジャパニーズ・ホラー「THE JUON / 呪怨」を観た訳である。

はっきり言って「THE JUON / 呪怨」は大変興味深いホラー映画に仕上がっていた。勿論怖いし面白いのだ。

とは言うものの、本作はジャパニーズ・ホラーの文法に見事に従っているため、本作をひとつの作品として考えると、「THE JUON / 呪怨」はジャパニーズ・ホラー作品と言うよりは、メタ・ジャパニーズ・ホラー作品と言う印象を受ける。

そんなジャパニーズ・ホラー文法に従った本作は、日本人観客の想像通りに物語が運び、本来ならば観客を戦慄させるべくツボを押さえて登場する俊雄(尾関優哉)や伽椰子(藤貴子)の期待通りの登場に笑いが起きることもしばしばである。
これは感覚的に歌舞伎の見得を楽しむ感覚に近いかも知れない。

とは言っても満を持して登場する俊雄や伽椰子には戦慄を覚えるし、はっきり言って怖い。

脚本は、セリフで全てを語ってしまうような陳腐なものではなく、行間が楽しめる、いわば脳内で補完が必要な楽しい脚本に仕上がっているし、本作の特徴にもなっている時制をほぐした構成は見事だと思う。
方向性は異なるが時制がジャンプする瞬間はスタンリー・キューブリックの「現金に体を張れ」を髣髴とさせるし、その時制がジャンプしたそれぞれのシークエンスの重なり具合はクエンティン・タランティーノの「ジャッキー・ブラウン」のシークエンスの重なり具合にも似ている。

またオープニング・クレジットも黒髪をフィーチャーしたおどろおどろしいものに仕上がっており、これから起こる出来事を暗喩する素晴らしいものだった。

キャストは先ず、主人公カレンを演じたサラ・ミシェル・ゲラーだが、従来からのティーンのアイドルというスタンスからの脱却を図る上でも本作は意味がある作品だったような気がする。
彼女はキュートでセクシーなアイドル女優からの脱却を図る時期をむかえていたのにも関わらず、最近は「スクービー・ドゥー」シリーズにしか出番がない状況だったのだが、本作「THE JUON / 呪怨」を経て、アイドル女優からの脱却を図り、新たなフィールドでの活躍を期待してしまう。

また、印象的なのは、軽度の痴呆があるエマを演じたグレイス・ザブリスキーである。ホラー映画においての痴呆の描き方としては本作のエマは大変素晴らしい。ある種人間の持つ恐怖心を痴呆を持って超越した素晴らしいキャラクターと言えるだろう。
表情や仕草が大変素晴らしいのだ。

あとは中川刑事役の石橋凌も含みがあって良いキャラクターを演じている。極限状態の中で、組織ではなく自らの意志で行動を起こす孤高な存在なのだ。

あとはなんと言っても尾関優哉(俊雄)と藤貴子(伽椰子)だろう。本作の成功はこの二人の俳優の存在感や表情に由る部分が多いだろう。

美術(斎藤岩男)は日本の文化を正確に海外に発信することに成功しているし、撮影( 山本英夫、ルーカス・エトリン)も陰鬱な日本の風土を見事に表現し、ハリウッド・ホラーと一味違う雰囲気を醸し出す事に成功している。

演出はさすがに「呪怨」シリーズを5本も製作している清水崇だけに全く危なげはなく、観客の期待通りの順当な演出が行われている。
しかしジャパニーズ・ホラーの文法を解する日本人にとっては、最早手垢のついた演出スタイルであることは否めないような印象を受けるが、その辺はワールド・ワイドな戦略と考え不問としたい。

とにかく、本作「THE JUON / 呪怨」は「ザ・リング」と異なり日本人監督がメガホンを取った、記憶すべきハリウッド産ジャパニーズ・ホラーだと言えるし、作品自体も評価できるホラーの傑作と言えるのだ。
この冬、ホラーを見るならば最高にオススメの一本なのだ。
 
 
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2004/10/24 東京六本木「VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ SCREEN 7」
「第17回東京国際映画祭」特別招待作品「ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方」を観た。

1950年代初頭のロンドン。BBCラジオのコメディ番組「グーン・ショー」は世相を風刺する過激なスタイルで人気を集めていた。番組を支える役者のピーター・セラーズ(ジェフリー・ラッシュ)は現状に満足せず映画界への進出を考えているが、オーディションでは「ハンサムじゃない」「ラジオに専念すべき」と言われ続ける毎日。私生活では妻アン(エミリー・ワトソン)と二人の子供、父ビル(ピーター・ヴォーン)、そしてピーターを溺愛する母ペグ(ミリアム・マーゴリーズ)とささやかに暮らしている。自分も舞台芸人だったペグは「チャンスは自分の手でもぎ取るのよ」と励まし、ピーターは老人に扮装して映画のオーディションに望むが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:スティーヴン・ホプキンス
出演:ジェフリー・ラッシュ(ピーター・セラーズ)、シャーリーズ・セロン(ブリット・エクランド)、エミリー・ワトソン(アン・セラーズ)、ジョン・リスゴー(ブレイク・エドワーズ)、ミリアム・マーゴリーズ(ペグ・セラーズ)、スティーヴン・フライ(モーリス・ウッドラフ/占い師)、スタンリー・トゥッチ(スタンリー・キューブリック)、ピーター・ヴォーン(ビル・セラーズ)、ソニア・アキーノ(ソフィア・ローレン)

本作「ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方」は、イギリスの天才的喜劇俳優ピーター・セラーズの波乱に満ちた生涯を描いた伝記映画である。

先ずはピーター・セラーズを演じたジェフリー・ラッシュの芸達者振りに驚愕である。
先日レビューした「Ray/レイ」のジェイミー・フォックスにも驚かされたが、ジェフリー・ラッシュは確実にその上を行っているのではないだろうか。
と言うのも、ジェフリー・ラッシュはピーター・セラーズを演じるだけではなく、ピーター・セラーズが演じた映画史に残る様々な役柄をも演じているのである。

例えば「ピンクパンサー」シリーズのジャック・クルーゾー警部をはじめとして、「博士の異常な愛情」の3+1役(驚いた事に、本作には本編でスリム・ピケンズが演じたコング大佐の姿でも登場する)や、「007/カジノ・ロワイヤル」のイヴリン・トレンブル、「チャンス」のチャンスまで、様々な役柄をそれぞれの映画そっくりに演じきっている。
また、作品の演出上構成上の理由で、他のキャストが演じたいくつもの役柄の演技まで披露するサービス振りには、本当に驚かされる。それを含めると本作でジェフリー・ラッシュは都合15役以上の役柄を演じていてるのだ。

本作の演出上の構成は、
1.ピーター・セラーズ本人の家族との生活の描写
2.ピーター・セラーズが映画で演じた役柄の再現
3.ピーター・セラーズが演じた役柄と家族との生活の描写
4.家族らの心の声を家族らの姿で演じるジェフリー・ラッシュ
これらの部分の積み重ねによる。

3と4を描く事が本作の意欲的な部分だと理解は出来るのだが、この手法は映画の持つ魔法の力を減衰させ、また楽屋オチ的な印象をも観客に与えてしまうきらいが否定できない。

勿論、この部分がピーター・セラーズの俳優としての百面相振りを描きつつ、実際のところは「百の顔を持ってはいるが、実際は自分の顔がない男」を描写している訳だが、前述のような問題点が感じられ、手法としては釈然としない気分である。

脚本としては、邦題に「ピーター・セラーズの愛し方」と銘打っているにも関わらず、家庭をかえりみず芸に打ち込む人物としてピーター・セラーズが描かれている。
ピーター・セラーズの良い部分も悪い部分も平等に描く、と言うスタンスは評価できるのだが、邦題から得られる印象とベクトルが異なる内容には、釈然としない部分を感じる。

他のキャストとしては、話題性から言うと シャーリーズ・セロン(ブリット・エクランド)がなのだが、エミリー・ワトソン(アン・セラーズ)やジョン・リスゴー(ブレイク・エドワーズ)、ミリアム・マーゴリーズ(ペグ・セラーズ)等が良い味を出していた。

特に私生活ではエミリー・ワトソンとの、俳優としての生活ではジョン・リスゴーとのからみが、本作の根底をなしている関係で、エミリー・ワトソンにしろジョン・リスゴーにしろ、美味しい役柄だったのではないか、と思える。
またミリアム・マーゴリーズは観客に強烈な印象を与える事に成功している。

本作自体は、コンセプトはともかく、演出手法において意欲的な作品だとは思うのだが、その手法がコメディとシリアスなドラマとの微妙なバランスを保っているのだが、ともすれば悪ふざけが過ぎる印象を観客に与えてしまう可能性を否定できない。

とにかく、本作は天才喜劇俳優ピーター・セラーズが乗り移ったようなジェフリー・ラッシュの怪演が十二分に楽しめる上に、ピーター・セラーズの波乱に満ちた人生を追体験出来、更にかつてのピーター・セラーズ作品への郷愁と新たな観客層の獲得を約束できる素晴らしい作品に仕上がっている。

本作「ライフ・イズ・コメディ! ピーター・セラーズの愛し方」は、この冬「Ray/レイ」と共に俳優の名人芸を楽しめる伝映画なのだ。

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「Ray/レイ」

2005年1月26日 映画
2005/01/24 東京九段下「九段会館」で「Ray/レイ」の試写を観た。

監督:テイラー・ハックフォード
出演:ジェイミー・フォックス(レイ・チャールズ)、ケリー・ワシントン(デラ・ビー・ロビンソン)、クリフトン・パウエル(ジェフ・ブラウン)、ハリー・レニックス(ジョー・アダムス)、リチャード・シフ(ジェリー・ウェクスラー)、アーンジャニュー・エリス(メアリー・アン・フィッシャー)、シャロン・ウォーレン(アレサ・ロビンソン)、カーティス・アームストロング(アーメット・アーティガン)、レジーナ・キング(マージー・ヘンドリックス)
 
 
本作「Ray/レイ」は、2004年急逝した実在のミュージシャンであるレイ・チャールズの所謂伝記映画である。
実在のミュージシャンを描いた伝記映画は何本もあるが、わたし的にはオリバー・ストーンの「ドアーズ」にも匹敵する素晴らしい音楽映画に仕上がっている、と感じた。

先ずは、レイ・チャールズを演じたジェイミー・フォックスのそっくりさ加減に驚きである。まるで若き日のレイ・チャールズがそのまま演じているかのような印象を受ける。
前述の「ドアーズ」でジム・モリソンを演じたヴァル・キルマーのそっくり加減にも驚いたが、本作のジェイミー・フォックスのレイ・チャールズは、ヴァル・キルマーに勝るとも劣らない素晴らしい出来である。

わたしは、映画に関する情報を出来るだけシャットアウトした状態で映画を観るようにしているし、パンフレット等も買わないし読まないので、ジェイミー・フォックスが実際に演奏したり歌っているかどうかは知らないのだが、エンド・クレジットを読む限り、ジェイミー・フォックス自身が演奏し、歌っている曲が何曲もあったようである。
この辺も含めてヴァル・キルマーも吃驚と言える所以であろう。

また、音楽映画ならば当然といえば当然なのだが、本作に挿入される珠玉の名曲も言うまでも無く素晴らしく、印象的な楽曲をモチーフとしたシークエンスの目白押しである。
例えばファースト・カットならぬファースト・ノートひとつでわたし達音楽ファンは、唸らされてしまうと同時に、映画にのめり込んでしまうし、レイ・チャールズとマージー・ヘンドリックス(レジーナ・キング)がヴォーカルの応酬をする「ヒット・ザ・ロード・ジャック」なんかは感涙ものである。
また、「ホワッド・アイ・セイ」が生まれる歴史的瞬間にも立ち会える。これは「ドアーズ」で描かれた「ハートに火をつけて」が生まれる瞬間を描いたシークエンスをも髣髴とさせる。

本作はなんと、152分と言う長尺の作品だが、レイ・チャールズの音楽を聴き、そしてレイ・チャールズの波乱に満ちた人生を再体験しているだけで、あっと言う間に時が過ぎてしまう印象を受け、長尺も気にならない作品に仕上がっている点も素晴らしい。

ところで、伝記的音楽映画の弱点は、その時代毎のエピソードを語る際、必然的に散文的にならざるを得ない、と言う点が挙げられる。

例えば、
「19XX年 地名」
と言う字幕の登場頻度が高ければ、作品はより散文的になり、否応無く観客は、夢の世界から現実世界へと近づいてしまう。
本作でもやはり、特に駆け足で語られる後半部分にその傾向が強く、残念な印象を受けた。

とは言うものの、レイ・チャールズの現在と過去(少年時代)を行き来する本作の構成は見事で、過去のある事件が現在のレイ・チャールズの人格形成に大きな影響を与えてる点が非常に興味深かった。
また、レイ・チャールズの波乱に満ちた生涯を良い所も悪い所も等しく描くスタンスに好感を感じる。

ジェイミー・フォックス以外のキャストとしては、女優陣の活躍に目を瞠るものがある。

レイ・チャールズの母アレサ・ロビンソンを演じたシャロン・ウォーレンは恐ろしく強靭で厳しい、ある意味理想的な母親像を厳格に演じている。
彼女はレイ・チャールズがミュージシャンとして成功する根本を創った存在として描かれている。彼女の教育方針がなければレイ・チャールズは生まれなかったのだ。

レイ・チャールズの妻デラ・ビー・ロビンソンを演じたケリー・ワシントンも良かった。
豪奢な暮らしではなく、レイとその子供たちと暮らしたい、と言う小さな、そして難しい望みを体現するキャラクターで、非常に大きく包容力がある女性を見事に演じている。
ケリー・ワシントンはシャロン・ウォーレンと同様、本作の良心的役割を担っているのだ。

レイのバンドの初代女性コーラスを担当したメアリー・アン・フィッシャーを演じたアーンジャニュー・エリスも素晴らしく、当時のショウ・ビジネス界の有体を見事に体現している。

またレイの女性コーラス・ユニット「レイ・レッツ」のトップをつとめるマージー・ヘンドリックスを演じたレジーナ・キングも前述通り凄い。演技も凄いがヴォーカルも凄い。
彼女もアーンジャニュー・エリス同様、レイを暗黒面に引き込む役柄を振られているのだが、彼女等とケリー・ワシントン(デラ・ビー)との対比が非常に興味深い。

脚本は前述の通り散文的なきらいが否定できないが、レイの少年時代のシークエンスを現代のレイのシークエンスに挟み込む事で、行間が感じられ含みがある脚本に仕上がっている。
また挿入される楽曲のイメージにあったシークエンスの描写につとめた脚本は、楽曲のイメージを最大限抽出し、観客に伝える事に成功している。

また音楽映画の肝である演奏シーンは全く言う事がない程の素晴らしい出来である。
音楽映画史上に残る素晴らしい演奏シーンの釣瓶打ちなのだ。

とにかく、本作「Ray/レイ」は音楽ファン必見の作品だと思うし、ジェイミー・フォックスの演技を見ると、「コラテラル」なんかを見て喜んでいる場合ではない、と思える作品なのだ。

様々な賞を受賞しているのも頷ける、素晴らしい作品なのだ。

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「ロード・オブ・ザ・リング」三部作のDVDには「スペシャル・エクステンデッド・エディション(SEE版)」という、劇場公開版より1時間程長いバージョンが存在する。
そして、三部作それぞれのSEE版には、5000セット限定の「コレクターズDVDギフトセット」という、フィギュアが同梱された豪華版DVDが存在するのだ。

この「コレクターズDVDギフトセット」の国内版は、ポニーキャニオンの独占通信販売で、「王の帰還」の「コレクターズDVDギフトセット」は、2004/11/25にWEB及び電話で予約が始まった。

一般的に考えた場合、5000セットという限定数は経験上ではあるが、日本全国の欲しい人に商品が大体行き渡る数である。
事実、「旅の仲間」や「二つの塔」の「コレクターズDVDギフトセット」の予約については、5000セットの限定数に達するまで1週間位の余裕があったと記憶している。

しかし何故か「王の帰還」についてはそれが当てはまらず、当日はWEB、電話共になかなか繋がらず、予約出来ない人々が溢れていた。

オフィシャル・サイトでは、2004/11/25夕方時点で、注文数が5000部の限定数に達した旨の告知を行い、WEB上での予約は完全に締め切られ、2004/11/26以降は電話によるキャンセル待ちの受付が始まった。しかしこれもわずか数日で締切となってしまった。

わたしは、「旅の仲間」、「二つの塔」共に「コレクターズDVDギフトセット」を一切苦労せず、簡単に予約出来、難なく入手している。
しかし、「王の帰還」については、WEBでも電話でも繋がらず、予約開始日当日、予約する事が出来なかった。
必然的に、わたしは翌日26日に、キャンセル待ちの予約を入れた。
わたしのキャンセル待ちの予約番号は、400番台だった。
 
 
一方、同様の商品は北米では既に発売しており、フィギュア欲しさに北米版の「コレクターズDVDギフトセット」を購入する日本人が急増した。

この「コレクターズDVDギフトセット」は、パッケージとフィギュア共に北米版と全く同じ仕様であり、彼らは北米版の「コレクターズDVDギフトセット」を購入し、国内版の「王の帰還(SEE版)」を購入、北米版と国内版を差し替えるつもりなのだ。
 
 
それから、2ケ月。
海外のショッピング・サイトでも「王の帰還/コレクターズDVDギフトセット」の販売が収束しはじめ、大手ショッピング・サイトでの取り扱いも終了した。
危機感を感じたわたしは案の定、北米版の「コレクターズDVDギフトセット」を注文してしまった訳だ。

待つ事一週間。
とうとうわが下に「王の帰還/コレクターズDVDギフトセット」が到着した。

当日未明には、虫の知らせか、友人と電話をしながら、届いたパッケージを開ける夢まで見た。
夢の中のわたしは、パッケージを開ける様を、電話先の友人に逐一中継し、パッケージの中から出てきた「王の帰還」と全く違うDVDボックス(それは「ワイルド・コボルト」と言う見たことも聞いた事も無いアニメーション・テレビ・シリーズのDVDボックスだった)に激怒しながら、海外のシヨッピング・サイトに電話で猛クレームする夢まで見てしまったのだ。

現在、日本国内のオークション・サイトでは、転売目的で「王の帰還/コレクターズDVDギフトセット」を予約した人々の出品が見られる。

オークションの入札価格で現在一番安いものは、25,500円である。因みに、メーカー希望小売価格は13,440円である。
 
 
参考)『「二つの塔/スペシャル・エクステンデッド・エディション」国内版DVDの発売に寄せて』
http://diarynote.jp/d/29346/20031210.html

■おまけ)夢の会話

登場人物、わたしT、友人O。
わたしが到着したパッケージを開けていると、友人Oから電話がかかってくる。

O「『王の帰還』届いたか?」
T「あぁ、今あけてるとこ、なんだか箱がちいさいんだよね」
O「ただのSEE版が入ってんじゃねーの」
T「いや、それにしては、箱が少し大きい」
O「何か変なもの入ってんじゃねーの」

パッケージを開けるわたし。
内容物を確認し、ひとつため息をつく。

T「DVDだけだ、ミナス・ティリスが無い、しかも全然知らないタイトルだ」
O「何が入ってた?」
T「『Wild Kobolt』っていうアニメのDVDボックスだ」
O「『ワイルド・コボルト』って何だ?」
T「ファンタジー系のアニメーション・テレビ・シリーズみたいだ。絵柄はアラン・リーっぽい」
O「アラン・リーはアラン・リーでも『ワイルド・コボルト』かよ」
T「激怒だな」
O「激怒だ。何か面白い出来事が起こったら、教えてくれ、じゃあな」
T「ああ」

受話器を置き、大きなため息をつくわたし。(了)
 
 
 
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2005/01/19 東京二重橋「東商ホール」で「ボーン・スプレマシー」の試写を観た。

「ボーン・アイデンティティー」事件から2年。

ベルリンでは、CIAの女性諜報員パメラ・ランディ(ジョアン・アレン)率いるチームが、組織内の不祥事の調査に当たり、チームはCIA内部の公金横領に関する資料を入手するため情報屋との取引に応じる事を決断する。
しかし、厳重な警戒にもかかわらず、何物かが取引現場を襲撃、交渉役のCIAエージェントと情報屋は殺され、取引材料である資料ともども多額の現金も奪われてしまう。犯人の手がかりは爆弾に残された指紋だけだった。

2年前の壮絶な死闘から生き延びたジェイソン・ボーン(マット・デイモン)は、その時に出会った恋人マリー(フランカ・ポテンテ)と人目を避けて暮らし、インドのゴアで新しい人生を歩んでいた。しかし、ボーンは未だ夢にまで出るほど過去の記憶に苛まれている。
そんなボーンをつけ狙う一人の男(カール・アーバン)。

同じ頃、CIA本部ではベルリンの事件で採取した指紋を照合し犯人を特定、そこにはボーンの名が浮上するのだが・・・・。
(オフィシャル・サイトより若干引用)

監督:ポール・グリーングラス
原作:ロバート・ラドラム 『殺戮のオデッセイ』(角川文庫刊)
脚本:トニー・ギルロイ、ブライアン・ヘルゲランド
キャスト:マット・デイモン(ジェイソン・ボーン)、フランカ・ポテンテ(マリー)、ジョアン・アレン(パメラ・ランディ)、ブライアン・コックス(アボット)、ジュリア・スタイルズ(ニッキー)、カール・アーバン(キリル)、クリス・クーパー(コンクリン/ノン・クレジット)
 
 
本作「ボーン・スプレマシー」は非常に良く出来たリアルなスパイ・アクションである。
スパイ・アクションと言えば勿論大御所「007」シリーズを筆頭に挙げることが出来るが、本作は「007」シリーズのような荒唐無稽で、ある意味ファンタジックなスパイ・アクションが展開する物語ではなく、わたし達の身の回りを舞台にした等身大のスパイが活躍すると言うリアリティ溢れる本格スパイ・アクションなのだ。

更に本作は、「007」シリーズのような世界を救うスパイ・アクションではなく、保身を図りつつ組織の腐敗を暴く、と言う、どこにでも転がっているようなリアルな題材が現代社会にマッチしているのではないか、と思えるのだ。

余談だが、現代の「007」シリーズは最早観客を吸引する魅力に乏しく、残念ながら観客離れが進み、シリーズとしても失速途上にあり、過去の栄光にすがりシリーズを継続している状況を見ると、最早パロディの素材としてしか機能しない状況に陥っている。

そして現在のスパイを取巻く環境は、ジョン・ル・カレやブライアン・フリーマントルが描いた「007」シリーズとは対極的で地味なスパイが活躍する物語と、トム・クランシー等が創出した新たなスパイ・アクションとして評価されるポリティカル・サスペンスという系統を産んでおり、「007」シリーズなくとも、楽しいスパイ・アクションを楽しめる環境となっている。

そんな環境において、本作「ボーン・スプレマシー」はスパイ映画のひとつのベクトルとして十二分に評価できる素晴らしい作品に仕上がっているのだ。

特にマット・デイモン演じるジェイソン・ボーンや、ジョアン・アレン演じるパメラ・ランディといった凄腕の諜報員たちのちょっとした行動と即断的判断が面白く、それらの行動は素晴らしいアクションにも繋がっているのだ。

しかし、ハリウッド特有のアクション・シークエンスになるとカメラが被写体に寄り、細かいカットと編集でごまかしつつ曖昧に格好良く見せる手法は健在で、特にクライマックス付近のトンネルでのカー・アクションは、何が起きているか観客には伝わらず、やっていることは凄いだけに非常に残念な気がする。
カメラはひきで、正々堂々とアクションを捉えて欲しいのだ。

キャストは、ジョアン・アレン(パメラ・ランディ役)が良かったのではないだろうか。本作の中では、一番の役得的役柄だと思う。CIAの凄腕エージェントと言うとジョディ・フォスターが念頭に浮かぶが、ジョディ・フォスター以上の魅力的なキャラクターの創出に成功している。

あとは、ノン・クレジットながら前作の悪役コンクリンを演じたクリス・クーパーを起用している点に好感が持てる。「スパイダーマン2」の際、クリフ・ロバートソンやウィレム・デフォーが登場した際にも言及したが、1作目で(例えば)死んだ(ような)キャラを2作目で同じキャストで新たに撮影するのは、簡単に出来そうなことなのだが、なかなか出来ないことなのだよ。特にハリウッドでは。

同様に、前作にも登場したジュリア・スタイルズや、ガブリエル・マン、ブライアン・コックス、フランカ・ポテンテの起用もシリーズ構成を考えた場合、非常に嬉しい。

マット・デイモンは頑張ってはいるのだが、まだまだ一枚看板で客を呼べるところまでは行っていないと個人的には思う。これからの活躍に期待である。

一方、アボットを演じたブライアン・コックスはいい味を出していた。こういったスパイものには、保身を図るキャラの登場は外せないと個人的には思うのだが、見事に期待に答えてくれている。「追いつめられて」のケヴィン・コスナーも吃驚なのだ。

脚本は若干気になるところがあるが、スパイ・アクションと考えた場合、概ねOKの楽しい脚本に仕上がっている。
トニー・ギルロイとブライアン・ヘルゲランドのどちらがメインなのかわからないが、折角ブライアン・ヘルゲランドが関わっているので、もう少し奥深いプロットが欲しかったと思う。

あと、特筆すべき点は、世界各国を回ったロケーション効果が素晴らしい。勿論個別のアクションは違うところで撮影しているのだろうが、要所要所で挿入される各国の特徴的建物や風景に感心する。
また、カー・アクションひとつ取っても、アメリカの広いアスファルト道路でのカー・アクションより、ヨーロッパの狭い石畳の道路を舞台としたカー・アクションの方が面白いしスリリングだと思う。

とにかく本作「ボーン・スプレマシー」は、「007」シリーズとはベクトルが異なる格好良いリアルなスパイ・アクションで、この冬、アクションを見たいのなら一番にオススメの作品なのだ。

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「パッチギ!」

2005年1月13日 映画
2005/01/13 東京神保町「一ツ橋ホール」で「パッチギ!」の試写を観た。

ドラッグやアルコールに溺れてしまう俳優や製作者がいる。
犯罪者になってしまう俳優や製作者がいる。

そんな俳優や製作者が製作した作品の評価が、俳優や製作者の生き様や行為、言動により左右される事があるのだろうか?

答は否である。
仮に、その作品に出演した俳優がドラック漬けになっていようが、その作品の製作者が犯罪を犯していようが、その作品自体がスクリーンで輝いていれば、その作品は素晴らしい作品であり、仮に犯罪者が出演したり製作に関わっていたからと言って、その作品の評価が貶められる事があってはならないのだ。
罪は人にあり、スクリーンには罪はないのだ。

一方、歯に衣着せぬ毒舌で映画を叩き切る映画監督がいる。
しかし、その言動に対する反感から、その監督作品の評価が左右されて良いのだろうか?

答は否である。
わたし達観客が評価すべきものは作品そのものであり、作品に関わった人々の生き様や行為、言動ではないのである。

そんな中、わたしは井筒和幸の新作「パッチギ!」を観た訳である。
 
 
1968年、京都。
松山康介(塩谷瞬)は府立東高校の2年生。ある日担任の布川先生(光石研)から親友の紀男(小出恵介)と一緒に、敵対する朝鮮高校との親善サッカーの試合を申し込みに行くように言われる。
二人は恐る恐る朝高に行くが、康介は音楽室でフルートを吹くキョンジャ(沢尻エリカ)に一目で心を奪われてしまう。しかしすぐに彼女は朝高の番長アンソン(高岡蒼佑)の妹だという事が分かる。

康介は楽器店で坂崎(オダギリジョー)と知り合い、キョンジャが吹いていたのは「イムジン河」という曲だという事を教えてもらう。康介は国籍の違いに戸惑いながらもキョンジャと仲良くしたくて、「イムジン河」をギターで弾こうと決心するが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督・共同脚本:井筒和幸
原案:松山猛『少年Mのイムジン河』(木楽舎刊)
脚本:羽原大介
音楽:加藤和彦
出演:塩谷瞬(松山康介)、高岡蒼佑(リ・アンソン)、沢尻エリカ(リ・キョンジャ)、楊原京子(桃子)、尾上寛之(チェドキ)、真木よう子(チョン・ガンジャ)、小出恵介(吉田紀男)、波岡一喜(モトキ・バンホー)、オダギリジョー(坂崎)、キムラ緑子(アンソンとキョンジャの母)、笹野高史(チェドキの伯父)、松澤一之(ラジオのプロデューサー椿)、余貴美子(康介の母さなえ)、大友康平(ラジオのディレクター大友)、前田吟(モトキの父)、光石研(布川先生)
 
 
「そんなに言うなら、面白い映画を作ってみろ!」

本作「パッチギ!」は、テレビ朝日の深夜番組「虎の門」の「こちトラ自腹じゃ!」の視聴者の怒号に対する見事な回答に仕上がった素晴らしい傑作なのだ。

「この映画を見ろ!笑え!泣け!喚け!怒れ!そして考えろ!」
これこそ映画のお楽しみなのだ。
 
 
映画を厳しく批判する目的は、映画を良くするためである。
しかしながら、メディアとコマーシャリズムに迎合した現代日本の映画評論家たちにそれを期待することはできない。
現在の日本映画界において、勿論メディアに迎合し、踊ってはいるのだが、自らヒール役を買って出、唯一気を吐くのが本作の監督:井筒和幸だと言える。勿論「こちトラ自腹じゃ!」における井筒和幸の映画批評は正しいものもあれば、間違ったものもあるだろう。
総じて映画監督と言う立場で、他の監督作品を切り捲る行為には大きなリスクが伴うのだが、そのリスクを恐れず自らを信じて映画を切り捲る姿には、頭を下げざるを得ない。
そして「こちトラ自腹じゃ!」の影響を考えると、普通の面白さでも叩かれる事がわかっている井筒和幸が満を持して製作したのが本作「パッチギ!」だと言える。

本作は、青春映画や音楽映画、ラブストーリーや社会派作品としても充分に楽しめる素晴らしい作品に仕上がっており、その根底に流れるのは「熱い心」なのである。

そう、本作「パッチギ!」で語られるエピソードは、いちいち熱いのだ。

印象に残るシーンは数々あるが、やはり康介(塩谷瞬)が出演したラジオ番組のプロデューサー椿(松澤一之)とディレクター大友(大友康平)のバトルが印象に残る。
勿論大友康平も良いのだが、それに対する松澤一之の血管切れかけ演技が最高に凄い。
これは表現する者と、検閲するものとの永遠に続く戦いであり、文字通りペンと剣との戦いを表現しているのだ。セリフも泣けるぜ。

また、予告編にも登場する棺桶を家に入れるシークエンスも最高だ。現状を甘受する朝鮮人の心の吐露なのだ。

そして葬式のシークエンス。
康介(塩谷瞬)がアンソン(高岡蒼佑)の腹巻を棺桶に入れに行くシークエンスの素晴らしい事と言ったら、もう言葉にならないのだ。語りすぎのきらいは否定できないが、その憤りは全ての観客の心に響いている。

逆に坂崎(オダギリジョー)のキャラクター設定も興味深い。熱い連中に囲まれている坂崎だか、常にクールで斜に構え、何事にも左右されない芯の強いキャラクターとして設定されているのが興味深いのだ。

さてキャストだが、全てのキャストが全てにおいて素晴らしい。
彼ら全ての俳優たちは、自分の果たすべき役割を十二分に、見事に果たしている。若手も壮年も老人も全てのキャストが素晴らしいし、全ての主要キャストに見せ場がある素晴らしい脚本にも感涙である。

本作のように名前で観客を呼べる俳優をほとんど配せず、主要キャストも比較的無名の俳優で固めたキャスティングは実は凄いリスキーな事だと思うし、そのリスキーな作品に金を出す奴も出す奴だと思う。
タイアップや、有名俳優・アイドル、有名脚本家、有名映像作家、有名アーティストにおんぶにだっこ状態の作品が多い日本映画の現状を鑑み、あえて映画本編だけで勝負に出た「パッチギ!」の潔さに頭が下がる思いである。

更に、1960年代の世界観を構築する美術(金田克美)も素晴らしい。
自動車や電話等の大物はともかく、かっぱえびせんのパッケージや、三ツ矢サイダーのビン等、普通の観客は気付かないような一瞬しか映らないようなものにまで行き届いた美術に脱帽なのだ。

演出は順当で、奇をてらったものはなく、さらっとした自然体の演出に好感が持てる。勿論くどいところはくどいのだが、行間が読める素晴らしい脚本と演出が楽しめる。
ラストのカットの潔さと言ったら、もうたまらない。

とにかく、本作「パッチギ!」は、映画ファン必見の作品だと思うし、2005年現在、日本を取巻く環境の中で、見なければならない作品の一本なのかも知れない。

☆☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

参考
「どこからが映画なのか?」
http://diarynote.jp/d/29346/20041028.html

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「北の零年」

2005年1月5日 映画
2005/01/05 東京銀座「東映試写室」で「北の零年」の試写を観た。本編上映後、監督の行定勲を迎えてティーチ・インが行われた。

幕藩体制が終わりを告げ、日本が大きく変わった明治維新。
四国・淡路に暮らす稲田家の人々は明治政府から、北海道・静内への移住を命じられる。
明治4年、第一次移民団546名を乗せた船は、半月の船旅を経て北海道へと辿り着いた。この船に乗っていた小松原志乃(吉永小百合)は、すでに先遣隊として静内で開墾を始めていた夫の英明(渡辺謙)と再会する。
英明を中心に、この地に新たな自分たちの国を作ろうと希望に燃える稲田家の人々。しかし寒さの厳しい北海道では淡路の作物は育たず、第二次移民団を乗せた船が難破して多くの死傷者を出し、さらには廃藩置県による武士階級の崩壊など、多くの試練が彼らを襲う。失意の中、英明たちは侍の象徴である髷(まげ)を切って、この土地と運命を共にすることを誓い合った。しかし作物が育たなくては食料も蓄えられない。英明は最新の農業技術を学ぶため、一人札幌へと旅立つ。だが志乃と娘の多恵(大後寿々花/石原さとみ)がいくら待ち焦がれても、英明は帰ってこなかった。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:行定勲
出演:吉永小百合(小松原志乃)、渡辺謙(小松原英明)、豊川悦司(アシリカ)、柳葉敏郎(馬宮伝蔵)、石田ゆり子(馬宮加代)、香川照之(持田倉蔵)、石原さとみ(小松原多恵)、吹越満(長谷慶一郎)、奥貫薫(長谷さと)、阿部サダヲ(中野又十郎)、金井勇太(川久保平太)、大高力也(間宮雄之介)、大後寿々花(小松原多恵/少女時代)、モロ師岡(窪平)、榊英雄(高岡)、寺島進(花村完爾)、アリステア・ダグラス(エドウィン・ダン)、忍成修吾(殿)、中原丈雄(内田)、田中義剛(友成洋平)、馬渕晴子(長谷すえ)、大口広司(モノクテ)、藤木悠(中野亀次郎)、平田満(川久保栄太)、鶴田真由(おつる)、石橋蓮司(堀部賀兵衛)
 
 
本作「北の零年」は、北海道を舞台に、小松原志乃(吉永小百合)の生き様を描いた「風と共に去りぬ」を髣髴とさせる大河ドラマに仕上がっている。その上映時間はなんと2時間48分。
それ知った時点で、内容はともかく観客を選ぶ、非常にリスキーな作品だと言えるのではないか。
 
 
「サムライになりたかったアメリカ人」と「滅び行くサムライの美学」を描いた「ラストサムライ(2003)」に日本国民の多くは狂喜し、同時に日本映画界は震撼した。
そして2004年、山田洋次は「ラストサムライ」へのアンチテーゼとして、また「ラストサムライ」に騙されてしまう愚かな日本人に対する批判的精神の下、「隠し剣 鬼の爪」を製作した。(と、わたしは思っている)
「隠し剣 鬼の爪」は「侍と言う莫迦げた生き方を捨てる日本人」を描いた作品なのだ。
更に2005年、満を持して登場するのは、またもや「侍と言う生き方を捨てる日本人」を描いた「北の零年」なのだ。

そして本作では「ラストサムライ」で勝元盛次を演じた渡辺謙が、その勝元と正反対の生き様の小松原英明としてキャスティングされているのが素晴らしくも恐ろしい。
このあまりにもシニカルなキャスティングは、行定勲や渡辺謙、そして山田洋次をはじめとする日本映画界が「ラストサムライ」に対して、どういう思いを持っているのかを如実に表しているような気がする。

あの山田洋次に「隠し剣 鬼の爪」を撮らせ、行定勲に「北の零年」を撮らせる「ラストサムライ」。
その多大なる影響力、そして「侍の遺伝子を持つと言われ、散り行く侍の姿に騙されてしまう、実際は農民の遺伝子を持つ日本人」の愚かさを感じる一瞬である。
 
 
先ず脚本(那須真知子)だが、作品の本質やテーマをセリフで語りすぎであり、観客が行間で遊ぶ余裕が感じられないのである。
この点について、行定勲は上映後のティーチ・インにおいて、語りすぎのハリウッド映画を例に挙げ、確信犯的に吉永小百合にテーマを語らせた、と語っている。
ありはありかも知れないが、わたしは語りすぎの脚本は評価しない。

撮影(北信康)は北海道の大地を見事に切り取っているし、画面は明るく明瞭である。
最近の邦画はビデオ撮影が蔓延しピントが甘い作品が多いが、当たり前の事だが、きちんとフィルムで撮影している作品に好感を覚える。
照明(中村裕樹)はでしゃばらず、あくまでもリアルに画面を引き立てているが、唯一、冒頭の船内の照明の光源に違和感を感じた。

キャストは何と言っても吉永小百合である。
見事に志乃像を構築してるのだが、やはり実年齢に違和感を感じる。勿論本作は吉永小百合なくしては成立しない映画なのだが、彼女より15〜20才位若い女優の起用が望ましかった、と思う。
とは言うものの、吉永小百合の凛とした存在感が素晴らしい。

そして豊川悦司(アシリカ)である。
「丹下左膳 百万両の壺」も良かったが、本作ではコメディではなくシリアスで格好良い豊川が楽しめる。
ティーチ・インで行定は豊川を日本のダニエル・デイ=ルイスと称していたが、事実「ラスト・オブ・モヒカン」のダニエル・デイ=ルイスを髣髴とさせる役柄を豊川は見事に演じている。
寡黙な一族の末裔が美しくも悲しい。

更に香川照之(持田倉蔵)である。
はっきり言って最高である。最近出ずっぱりの印象が否定できないが、素晴らしい役者である。「鉄人28号」はともかく「天国の本屋〜恋火」も凄かったが、本作の香川は「ラストサムライ」の原田眞人のような存在感を楽しめる。格好良いぞ。

渡辺謙は前述のように「ラストサムライ」のアンチテーゼとも言える役柄を好演している。しかし俳優陣が素晴らしく、若干見劣りする印象を受ける。勿論それは、渡辺謙が演じた小松原のキャラクター設定に因るのかも知れない。

また、小松原の友人馬宮伝蔵を演じた柳葉敏郎は、室井慎次役より20倍くらい良いし、石橋蓮司(堀部賀兵衛)や吹越満(長谷慶一郎)、阿部サダヲ(中野又十郎)等は最高に格好良く素晴らしい。藤木悠(中野亀次郎)や平田満(川久保栄太)等も良い味を出している。

とにかく、本作「北の零年」は、北海道の大自然の中で、戦い葛藤する格好良くも格好悪い男たちと、気高く凛とした女たちが楽しめる素晴らしい作品なのだ。
セリフでテーマを語りすぎの脚本はまずいが、それ以上に画面が語る作品だし、2時間48分が長く感じられない波乱に満ちた物語に翻弄されてしまうのだ。長時間に尻込みせずに是非観て欲しい作品なのだ。
 
=+=+=+=+=+=+=
上映後のティーチ・インで、行定勲は自作や映画観、日本映画界の現状、深作欣二に言われた「東映を見捨てないでくれ」という言葉やハリウッド映画等について、語るに語っていた。
日本映画の将来を考え、頑張って欲しいものだ。

ティーチ・イン後、配布されたプレス・シートに例によってサインを貰って帰宅した。
=+=+=+=+=+=+=
 

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引き続き「ターミナル」に隠されたスティーヴン・スルバーグの意図を探ってみよう。

=+=+=+=+=

先ずは、こちらを読んでいただきたい。
「ターミナル」☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
http://diarynote.jp/d/29346/20041209.html
「ターミナル」に隠された意図 その1
■「JFK国際空港」が意味すること
http://diarynote.jp/d/29346/20041223.html
「ターミナル」に隠された意図 その2
■「スタートレック」引用の理由
http://diarynote.jp/d/29346/20041224.html
=+=+=+=+=

それでは、
「ターミナル」に隠された意図 その3
をお送りします。

■「罪」を犯す人々

御幣はあるが、「ターミナル」の主要登場人物は、一部の例外を除いて「ルール」や「法規」を能動的に守らない人物、大なり小なり罪を犯している人物として描かれている。

例えば、アメリア(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は不倫をしているし、ジョー(チー・マクブライド)、エンリケ(ディエゴ・ルナ)、グプタ(クマール・パラーナ)は空港内の遺失物を横領の上、私益に供している。更にエンリケは立入禁止区域にビクター(トム・ハンクス)を招じた上、食料の横流しをしている。グプタの過去の罪については言うまでもないだろう。

また、フランク(スタンリー・トゥッチ)はビクターに対し何度も空港からの違法退去を教唆(きょうさ)しているし、レイ(バリー・シャバカ・ヘンリー)は犯罪行為を看過した上、フランクの業務命令に服従しない。

ここまで徹底しているとなると、ほとんどの登場人物を広義の意味での犯罪者として描くスピルバーグには、なんらかの意図があると考えて差支えないだろう。

さて、我等が主人公ビクター(トム・ハンクス)はどうだろう。果たして何か罪を犯しているのだろうか。

答えは否である。
勿論、ビクターは空港内の一角を不当占拠しているし、トランプ賭博で遺失物を私益に供する片棒を担いでいる。
また、建設業者に対し、自らを語らない事により間接的に虚偽の申請をしているし、更に建設業者の物品を私益に供している。
しかしこれは能動的な犯罪行為ではなく、善意から派生する受動的な行為、現状を甘受する行為として描かれており、情状酌量の余地が多々ある行為と言える。

そして、上記のような受動的な罪を除けば、ビクターは「ルール」や「法規」を遵守する、はっきり言って莫迦正直な人物として描かれているのである。

例えば、前述のようにフランクから幾度となく、空港を退去するよう仄めかされても(犯罪教唆)、ビクターは定められた「ルール」を遵守する行動に終始する。
いくばくかの迷いを見せる事はあるものの、ビクターは不正を行わない心を持ち合わせているのだ。

これは、キリストが荒れ地で受けた悪魔の誘惑になぞらえているのかも知れない。
40日の間、食事をしなかったキリストと、飢えるビクターが重なって見えるし、フランクの誘惑(犯罪教唆)に打ち勝つあたりも、キリストの受難説を肯定しているかも知れない。

こんなエピソードもある。
カートの原状復帰を行うことにより、小銭を得ることに気付いたビクターは、空港内のカートを集め始める。
それを見たフランクは、空港内の整理を目的とした職員を雇用する事を決断する。
多くの観客は「あぁ、フランクはビクターを雇うつもりだな、ビクターの生活も少しは楽になるのかな」と胸を撫で下ろすとともに、「フランクもなんだかんだ言っても良い奴だな」と思った瞬間、新たに雇用された白人男性がビクターの前に登場する訳である。

その瞬間、ほとんどの人は、少なくても現在集めて運んでいるカート位は、自分で戻すことを主張し、いくらかの小銭をせしめる事を要求するだろう。わたしもそうするだろうし、あなたも多分そうするだろう。
しかし、ビクターはそうせず、理不尽な現状を甘受し、自らの集めたカートを後にするのである。
(※ このシークエンスは、白人の雇用を守るために、マイノリティの仕事を取り上げている事を暗喩しています。後日、後述するかもしれません。)

このシークエンスからもビクターは、仮に理不尽な命令であろうとも、「ルール」や「法規」に準じていれば、それに従う人物である事が見て取れるのだ。

また、ビクターがよく食べていたクラッカーのケチャップ・サンドやマスタード・サンド。
飢えを満たすまでには行かないものの、あのクラッカーやケチャップ、マスタードはおそらくバーやラウンジで無料(フリー)で
配られているものだろう。

この辺りからも、飢えを満たすために窃盗を行うのではなく、「ルール」や「法規」に莫迦正直に従うキャラクターとして設定されているのだ。
 
 
これは、「ターミナル」における「空港」が「都市」や「世界」を象徴していることから、現代社会の中で広義の犯罪を犯し続けているわれわれの中にも、莫迦正直に「ルール」や「法規」を遵守しつづける、ピュアでイノセントな人物が存在する、というある種の「希望」や「理想」を描いているのではないだろうか。

そして、その人物が、英語を解さない、東欧の小国クラコウジア出身のビクターであるところが、いかにも象徴的である。

本作「ターミナル」では、とかくアメリカ社会では迫害され差別される感が否めないマイノリティが、人類の「理想」であり「希望」の象徴として描かれている訳なのだ。

犯罪にまみれた大衆の中の唯一の希望、それがビクターなのである。


そしてこれについても、ユダヤ人としてのスティーヴン・スピルバーグの「意図」が見え隠れしているのではないだろうか。

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どうでしょう?
皆さんついて来ていますか?
はっきり言って、深読みしすぎの最早「妄想」に近いのかも知れませんが、こんな考え方もある訳です。
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引き続き「ターミナル」に隠されたスティーヴン・スルバーグの意図を探ってみよう。

=+=+=+=+=
先ずは、こちらを読んで欲しい。

「ターミナル」☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
http://diarynote.jp/d/29346/20041209.html
 
「ターミナル」に隠された意図 その1
■「JFK国際空港」が意味すること
http://diarynote.jp/d/29346/20041223.html
※ 今回のお題は前回のお題に絡みます。
=+=+=+=+=
それでは、
「ターミナル」に隠された意図 その2
をお送りします。
 
 
■「スタートレック」引用の理由

映画で描かれている全ての事柄には必ず意味がある。

当「徒然雑草」をいつもお読みいただいている方々にとっては、既に「耳にタコ状態」の事だと思うし、映画好きの方々にとっても「いまさら何言ってんだよ!あたり前じゃねーか」という印象を与えてしまうかも知れない。

しかし、繰り返しにはなってしまうが、その辺を明確にしておくのだ。
映画で描かれる全ての登場人物、全てのセリフ、全ての動作、全てのカット、全ての道具は、その映画に登場している以上、何らかの意味があり、製作者の意図の下、必然的に登場しており、それらの事柄は映画で描写される必要性があるのだ。

逆に考えると、映画と言うものは、撮影された全素材から、不必要なものを、これでもか、これでもかと言う具合に、全てそぎ落とした結果なのだ。

余談だが、一見意味がなさそうな事柄が、実は重要な事柄だったり、意味が無い登場人物だと思っていた人が、実は犯人だったりするのは、そういう事に因るのかも知れない。
 
 
それでは本作「ターミナル」における「スタートレック」の引用について考えてみよう。

本作「ターミナル」では、エンリケ(ディエゴ・ルナ)が恋する女性トーレス(ゾーイ・サルダナ)は、熱狂的な「スタートレック」ファンとして設定されている点が興味深い。

その根拠となる描写は、先ずエンリケがビクター(トム・ハンクス)を利用し、トーレスの休日の過ごし方を聞き出すシークエンスに顕著である。

ビクターはエンリケに対し、食べ物を頬ばりながらたどたどしい英語で「トーレスは休日に制服を着てコンベンションに行く」と告げる。
エンリケは何のことがわからず、しばらく考え、その後ガッツポーズを作り「彼女はトレッキーなんだ!」と叫ぶ。

「スタートレック」コンベンションとは、「スタートレック」のファンの集いで、キャストやスタッフ、ファンが集まるイベントである。(「ギャラクシー・クエスト」の冒頭参照)

また、トーレスがエンリケのプロポーズを受けるシークエンスにも顕著である。

待ち合わせ場所のテーブルに一人座っているエンリケ。
後ろからエンリケに近づくトーレス。
トーレスは左手をあげ、中指と薬指の間を開いた手のひらをエンリケに向ける。
エンリケの視線を受けたトーレスは、エンリケに向けた手のひらを反す。その薬指には指輪が輝いていた。

粋なシークエンスである。

何故、これが「スタートレック」への言及なのか、と言うと、「中指と薬指の間を開けた手のひらを相手に向ける」のは「スタートレック」に出てくるバルカン人の挨拶なのである。

そう考えると、トーレスがバルカン人のメタファーとして機能しているのではないか、またバルカン人のメタファーのトーレスと地球のマイノリティの代表のエンリケが恋に落ち、結婚するのは象徴的な意味を持つのかもしれない。

ところで、そのバルカン人とは何者だ?
と言う疑問が出てくると思うが、その辺の話は長くなるので割愛する事にするが、「スタートレック」世界におけるバルカン人の特徴と役割は、おおよそ次の通りだと言える。

特徴
1.感情を解さない。
2.論理を重んじる。
3.暴力で物事を解決するのは野蛮な事だと考えている。
4.長寿と繁栄を願っている。
5.無限の多様性との無限の協調を重んじている。
6.耳が尖っている。
7.ユーモアを解さない。
8.精神融合(テレパシー)能力がある。

役割
1.知の象徴
2.宇宙全体を良い方向へ導く存在

乱暴な例えだが、バルカン人とは「ロード・オブ・ザ・リング」のエルフのような存在かも知れない。
 
 
さて、それでは、スティーヴン・スピルバーグが「ターミナル」の中に「スタートレック」の引用、特にバルカン人の引用を行ったのは何故か?
何故わざわざ「スタートレック」に関する言及を「ターミナル」に挿入したのか?

勿論スピルバーグには明確な意図があったに違いない。
従来のスピルバーグ作品には、「ピノキオ」「ダンボ」「オズの魔法使い」「ピーター・パン」等の作品への言及は多々あるが、「スタートレック」のような作品への言及は特徴的な事だと言わざるを得ないし、珍しい事だと言える。

そして「スタートレック」の引用は、スピルバーグの何らかの意図を表しているハズだし、映画に残っている以上、それは必要な描写だと言えるのだ。

ひとつ言えるのは、「スタートレック」の製作者ジーン・ロッデンベリーの哲学であろう。
その哲学は「スタートレック」に明確に出ている。
1960年代、アメリカのドラマ史上初の白人と黒人のキスシーンをドラマに登場させた事や、エンタープライズ号のクルーには、白人、黒人、東洋人、そして当時アメリカの敵性国家ロシア人までいたのである。
この平等思考から、バルカン人の思想「無限の多様性との無限の協調(infinite diversity in infinite combinations/IDIC)」が生まれたとも言われているようである。

「ターミナル」という主要キャラクターの全てがマイノリティである作品には、ユダヤ人としてスティーヴン・スピルバーグが考える「IDIC/infinite diversity in infinite combinations」思想が含まれているのかも知れない。
 
 
そして、世界中で争いを繰り返す人類に対するスピルバーグの失望が「ターミナル」に含まれているのではないか、と思えるのだ。

そして、宇宙からの脅威や指導が無ければ、人類はダメなんじゃないか、という思想がバルカン人の引用に含まれているのではないか、エンリケとトーレスの結婚は非常に大きな意味を持っているのではないか、と思うのだ。

スピルバーグの次回作は「宇宙戦争」であり、かつての傑作「未知との遭遇」や「E.T.」がこの論理を肯定しているような気もする。

皆さん、ついてきてますか?
 
「ターミナル」に隠された意図 その3 
http://diarynote.jp/d/29346/20041228.html
へつづく・・・・

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先ずはこちらを読んで欲しい。

「ターミナル」☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
http://diarynote.jp/d/29346/20041209.html

このレビューの中でわたしは、
『「ターミナル」は、面白おかしく、ちょっぴり涙がこぼれちゃう、万人にオススメの娯楽作品なのだ。
とは言うものの、作品自体は凡庸で、取り立てて見るべきところは無い。』
と断じてしまっている。

しかし「ターミナル」は本当に見るべきところが無い作品なのだろうか。
そこで「徒然雑草」では、いくつかの観点から「ターミナル」でスティーヴン・スピルバーグが表現しようとした隠された意図を考えていきたい、と思うのだ。
 
 
■「JFK国際空港」が意味すること
「ターミナル」の舞台は、皆さんご承知のように「JFK国際空港」である。そしてその「JFK国際空港」がニューヨークにあるのも、皆さんご承知の事だと思う。

ニューヨークと言えば、昔から「人種の坩堝(るつぼ)」と呼ばれているように、様々な人種、様々な民族がひしめき合っているアメリカ最大級の大都市である。

先ず考えなければならないのは、本作「ターミナル」では「空港」は当然の如く「都市」のメタファーとして描かれている、と言うことである。

事実、本作では衣食住の全てが賄える「空間」として「空港」が描かれているし、また様々な人種、様々な民族が共存する「空間」としても「空港」が描かれてもいる。

そして同時に「空港」は「移民の受け入れ先」としても描かれているのだ。話がそれるが、「空港」を空間的に閉鎖された「移民の受け入れ先」と捉えた場合、かつて、ニューヨークのマンハッタン島が多くの移民を受け入れていた事が連想される。(「ギャング・オブ・ニューヨーク」参照)

「空港」を「都市」であり「移民先」と考えると、トム・ハンクス演じるビクター・ナボルスキーは、言葉の通じない「移民先」である「空港」に一人降り立ち、苦労しながらも仕事を見つけ、住むところを見つけ、友人を見つけ、恋人を見つけ、「空港」で働く多くの人々とコミュニケーションをとりながら、なんとか生活していく姿が見てとれるのである。
これは新天地である「移民先」に降り立った人々のシミュレーションにも思える。

そして興味深いのは、ビクターを取巻く「空港」で働く人々は所謂マイノリティであり、「空港」と言う名の新天地で新たな生活を営もうとしている「移民たち」のメタファーとして描かれている点である。

「空港」内で働くマイノリティたちは、ビクターを受け入れ、身を寄せ合い、日々の些細な楽しみを享受しながら細々と生活しているのだ。

一方、「空港」を警備する側は、スタンリー・トゥッチ演じるフランク・ディクソンは、バリー・シャバカ・ヘンリー演じるレイを通じて、ビクター等マイノリティたちを迫害する行動を起こしている。

ここでは、興味深い事に白人(フランク)の指示の下、黒人(レイ)が他のマイノリティたちを迫害する、と言う構図が見て取れるのである。
そしてこれは、白人指導者が最前線で働く黒人に指示を出し、他のマイノリティたちを迫害している行為を暗喩しているのである。

ここまで論を進めれば自ずと答えは出るだろう。
「ターミナル」の舞台となっている「JFK国際空港」は、「都市」以上の存在である「世界(地球)」の縮図でありメタファーなのだ。

多くの民族が共存しているわれわれの「世界」。
その「世界」のどこかで、何か問題が起これば、世界の警察「アメリカ」が出動する。
「アメリカ」によって、平和維持、調停、統治、侵略される「諸国」。

実はハート・ウォーミング・コメディ「ターミナル」には、こんな隠された意味があるのだ。
そしてユダヤ人スティーヴン・スピルバーグの「ターミナル」における現代社会とのアメリカの関わり方に対する批判的意図は巧妙に隠されている訳なのである。

余談だが、ニューヨークの「JFK国際空港」を「ターミナル」の舞台と選んだ理由としては、勿論「911テロ」への言及と、ダラスで暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の名を冠した「空港」である、という点に因るものだと考えられる。

更に余談だが、フランクの指示に従わず、ビクターにコートを与えるレイの行動も非常に象徴的な印象を与えている。
白人に対する黒人の反乱なのである。
 
 
「ターミナル」に隠された意図 その2
http://diarynote.jp/d/29346/20041224.html
へつづく・・・・
 
 
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「酔画仙」

2004年12月20日 映画
2004/12/19 東京神保町「岩波ホール」で「酔画仙」を観た。

酒に酔い、女を愛し、興が乗ると神業のような筆使いで見事な絵を描き上げたという伝説の天才画家・張承業(チャン・スンオプ)。彼はその破天荒で謎の多い人生から「酔画仙」と呼ばれた。 
 
朝鮮時代末期、開明派の学者であるキム・ビョンムン(アン・ソンギ[安聖基])は、街で子供達に殴られている貧しい子供チャン・スンオプ[張承業](チェ・ジョンソン/子役)を助ける。

数年後二人は再会し、スンオプ(チェ・ミンシク[崔岷植])の絵の才能に驚いたキムは彼を通訳官イ・ウンホン(ハン・ミョング)の家へ預けた。スンオプは、イ・ウンホンの家で下働きとして働きながら、スンオプは絵の修行を積むことになる。そんな中、スンオプはイ・ウンホンの妹ソウン(ソン・イェジン[孫芸珍])に一目惚れするが、ソウンはまもなく結婚してしまう。

通訳官の家で働きながら、絵の修行をつみ、スンオプは絵の非凡なる実力を発揮し始めた。酒に酔って興がわいたときにスンオプがとる筆からは神業のような絵が生まれ、スンオプは画家として名をなすようになった。

しかし周りの人々は彼の絵を名誉のために利用しようとするだけで、スンオプの心は満たされることは無かった。そんな彼を支えたのが没落貴族・両班(ヤンパン)の娘で妓生(キーセン)となったメヒャン(ユ・ホジョン[柳好貞])だった。

しかし時代の流れに翻弄され二人は何度もの別れと再会を強いられた。
ついに彼は宮廷画家にまでのぼりつめたが、生来の性癖を改めることなく束縛を嫌い、酒に酩酊し、女を愛し、逃亡と放浪を繰り返していた。

そんな彼にキムは「本物の芸術家になれ」と厳しく諭すのだった。スンオプの本当の苦悩の旅が始まった・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

「2002年カンヌ国際映画祭監督賞受賞」
監督:イム・グォンテク
出演:チェ・ミンシク[崔岷植](チャン・スンオプ[張承業])、アン・ソンギ[安聖基](キム・ビョンムン)、ユ・ホジョン[柳好貞](メヒャン)、ソン・イェジン[孫芸珍](ソウン)、キム・ヨジン[金汝眞](ジノン)
 
 
こういった時代考証的に美術や衣装がしっかりしたリアリティ溢れる映画を観ると、アジアと日本との文化(映画)の描き方の差異に愕然としてしまう。
あぁ、日本の時代劇はなんてリアリティが無いのだろう、と。

そもそも日本の時代劇の根本には、多くの日本文化、例えば歌舞伎や俳句がそうであるように省略と見立て、そして様式美にあふれている。
そして、その様式美を重視した世界観の下構築された所謂時代劇と言うものでは、全ての登場人物は買ったばかりのような綺麗な衣装を身に着けているし、武士の月代(さかやき)は今朝剃ったばかりのように青々としているのだ。
そう、日本の時代劇はリアリティを重視した作品ではなく、様式美を楽しむファンタジーなのである。

尤も、黒澤明の時代劇や、最近では山田洋次の「隠し剣 鬼の爪」のような作品の美術や衣装には生活観があふており、武士や農民そして市井の人々の生活に、生活感あふれる見事なリアリティを付与している。
一方アジアの巨匠チャン・イーモウの「HERO/英雄」あたりでは、日本の時代劇同様の様式美に力点を置き、リアリティとかけ離れたファンタジックな世界を描いているのだ。

わたしは使い込まれた衣装や道具、生活感溢れる舞台背景が描かれた作品が観たいのだ。
「HERO/英雄」なんかより「酔画仙」の世界観に、使い込まれた道具や衣装が醸し出すリアルな生活感溢れる作品に惹かれるのである。

例えばこれは「サンダーバード」の油で汚れた救助メカや、徹夜をすると顎が青くなる人形に、「スター・ウォーズ」のオンボロ宇宙船に、そしてそれらの使い込まれた生活感あふれる様々な道具が醸し出す圧倒的な世界観に惹かれてしまうのである。
 
 
なんだか前置きが長くなってしまったが、本作「酔画仙」は一言で言うと、大変素晴らしい作品である。
その物語は、大日本帝国と清国とが朝鮮半島の利権をめぐる争いを続ける中、「酔画仙」と呼ばれた伝説の天才画家・張承業(チャン・スンオプ)の生涯を描いたもので、波乱に満ちた歴史背景を縦軸に、張承業と絵、そして張承業を巡る女達や男達のドラマを横軸に織り成す、歴史絵巻物なのである。

最近の作品で言うと物語の構成上は「血と骨」に似た作品かもしれない。

キャストは何と言っても破天荒な天才画家・張承業を演じたチェ・ミンシク[崔岷植]に尽きる。現在公開中の「オールド・ボーイ」も素晴らしいが、本作でも存在感あふれる素晴らしい演技を見せてくれている。

そして本作の肝である、絵を描く張承業の姿も素晴らしく、本当にチェ・ミンシク[崔岷植]が、あれら素晴らしい絵を描いているかのように思えるのだ。「美しき諍い女」もビックリなのだ。

また、本作がデビュー作となる「ラブ・ストーリー」のヒロイン役ソン・イェジン[孫芸珍]も印象的な輝きを見せている。

開明派の学者キム・ビョンムンを演じたアン・ソンギ[安聖基]は名優の名に恥じない演技を見せ、陰になり日向になり張承業を見守る確固とした人物を創出している。

また、メヒャンを演じたユ・ホジョン[柳好貞]の生き様も非常に印象に残る。

脚本は、長い時代を描いている点を考えると、一般的には焦点がボケた脚本になり易いのだが、本作の時代のうねりをあまり描かずに張承業の生き様を中心に据えた脚本に好感を覚える。
しかし、歴史背景をあまり描かない、と言うことは、観客には19世紀末の朝鮮半島を取り巻く政治的歴史的背景の知識が必要である、ということも言えるのだ。

また撮影は、大草原の中を歩く張承業を、紙と筆になぞらえたようなカットが、正に絵画のように美しく、非常に印象的である。

美術や衣装は前段で書いたように素晴らしく。圧倒的な筆致で素晴らしい世界観を構築している。
美術や衣装は本当に見事である。使い込まれた衣装、薄汚れた衣装、生活感溢れるセットや道具。
映画の魔法から醒めない、素晴らしい効果を感じるのだ。

そして名匠イム・グォンテクの演出は危なげが無く、安心感に溢れている。細かい演出も楽しいしウイットにも富んでいる。

本作「酔画仙」は、物語はスローモーだし、娯楽大作のような大きな出来事は起きないが、一幅の絵画を愛でるように楽しむ作品なのだ。
そして、本作は人には教えたくない、自分だけで楽しみたい種類の作品のような気がするのだ。
 
 
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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「銀のエンゼル」

2004年12月15日 映画
2004/12/15 東京半蔵門「TOKYO FMホール」で行われた「銀のエンゼル」の「新潟中越地震チャリティ試写会」に行ってきた。
上映前に行われた「募金のお願い」と「トーク・ショー」のゲストは浅田美代子と佐藤めぐみ。
 
 
北海道の田舎町。
国道沿いのコンビニエンスストア。
オーナーの北島昇一(小日向文世)は、妻で店長の佐和子(浅田美代子)に店を任せて、気ままな毎日を送っていた。だがそんなある日のこと、佐和子が突然の交通事故で入院。妻の代わりに深夜の勤務に就く羽目になった昇一の毎日はガラリと変わり始める。おまけに会話が途絶えがちな娘の由希(佐藤めぐみ)と向き合わなくてはならないのだ。

頼りになるがどこか訳ありの店員・佐藤(西島秀俊)。
配送の六月(ロッキー/大泉洋)は由希に恋していた。
コンピニの灯りを頼りにダンスの練習に励む高校生・中川(辻本祐樹)。
毎晩チョコボールを一箱買って帰るバツイチ子持ちの美女・明美(山口もえ)。
夜のコンビニに広がる未知の世界に翻弄される昇一だったが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:鈴井貴之
脚本:木田紀生
出演:小日向文世(北島昇一)、佐藤めぐみ(北島由希)、浅田美代子(北島佐和子)、西島秀俊(佐藤耕輔)、大泉洋(ロッキー/六月)、山口もえ(小林明美)、嶋田久作(白下巡査)、辻本祐樹(中川武)、安田顕(担任)、佐藤重幸(バナナの客)、森崎博之(スナックの若い男)、村上ショージ(杉山登)、輪島功一(小暮達也)、小橋亜樹(看護婦)、有安杏果(小林かおり)
 
 
本作「銀のエンゼル」は、陳腐な表現だが、心の琴線に触れる素晴らしくノスタルジックな作品である。

地元の高校卒業後の進路の悩み。
町を捨て都会に出て行くのか、それとも夢をあきらめてその町に埋没していくのか。
現代、フリーターやニートと呼ばれる人々が増加する時代に、そのフリーターやニートとして生きていく若者の悩みを本作は代弁している。

そして、町から出たは良いが、夢破れて町に帰ってくる人々、町に埋没せざるを得ない環境、親子の断絶、恋の悩み等々、他から見れば些細な問題かもしれないが、当人にとっては重大な問題を抱えた人々が、町のオアシス・コンビニエンスストアに集っている。そして彼らは、そのコンビニを起点として、悩み、そして解決策を見出していく訳なのだ。

先ず、現代社会の中、深夜のオアシスとして機能しているコンビニを舞台に、様々な人間模様を織りなすという、物語の根本となるプロットは良い発想だと思う。

脚本を見てみると、登場人物のセリフでは多くを語らない脚本になっているのだが、画面を通じて登場人物の過去と現在、そして未来を雄弁に描写する形態を持つ脚本に仕上がっている。

そして、脚本に驚かされたのは、物語に本当に必要な部分は描かれてはいるのだが、物語の焦点をぼかすと思われる周辺のエピソードの描写を著しく割愛しているのである。
そのため、本作は見方によっては、本筋ではない周辺のエピソードはあまりにも説明不足であり、周りの登場人物が一体何をしていたのかが想像力がない観客には、理解できない構造を持っているのだ。
しかし、その割愛された部分が逆に物語に素晴らしい余韻と観客が自由に遊ぶ空間(行間)を与えているのも事実なのである。

本作の割愛されたエヒソードは、想像という翼により、観客それぞれの人生経験から物語をつむぎだす事が可能な構造を持つ、ある意味余裕が感じられる作品に仕上がっている、とも取れるのである。

演出は北海道に似つかわしい、ゆったりとした時間が流れるものでありながらも、確実で素晴らしい演出がされている。
例えば、冒頭、深夜放送をバックに配送トラックが道路を走っているだけでも泣けてくるし、エピローグなど号泣ものである。

またロケーション効果や舞台設定も素晴らしく、由希(佐藤めぐみ)と中川(辻本祐樹)の会話シークエンスの舞台となる雪に覆われたテニスコートや、由希がスケッチをする鉄骨の骨組み、昇一(小日向文世)と杉山(村上ショージ)が話をするガソリンスタンドの屋根等、印象的な舞台設定が楽しい。

キャストは、小日向文世(北島昇一)、佐藤めぐみ(北島由希)、西島秀俊(佐藤耕輔)、大泉洋(ロッキー/六月)、山口もえ(小林明美)あたりが印象的であった。

先ず、小日向文世だが、彼の表情と微妙な仕草、自信なさげなセリフが素晴らしい。本作はおそらく「非・バランス」に次ぐ彼の代表作として記憶されるのではないか、と思うのだ。

また、西島秀俊は非常に良い味を出している。物語のオブザーバー敵存在にも取れ、観客と一体化する外部の視点を体現している。彼のキャラクターは、来年公開の「カナリア」で西島秀俊が演じたキャラクターと比較すると興味深い。

そして、大泉洋は想像通りと言うか期待通りのキャラクターであった。泣きに笑いに大活躍である。
冒頭の配送トラックのシークエンスは感動的であり、中盤の見せ場も楽しい。

更に山口もえだが、彼女が演じたキャラクターは、実は本作の大きなテーマを体現している非常に重要なものであり、彼女の生き様がひとつの田舎町の生活の例なのだ。

そして、佐藤めぐみだが、彼女は本作の主演とも言えるキャラクターとも言える高校三年生の葛藤を体現した複雑な役柄を見事に演じきっていた。将来に期待である。
 
ちよっと褒めすぎかも知れないが、関心と機会があるのなら、是非観ておいて欲しい作品である。
展開はスローモーで、娯楽大作が好きな人には退屈かもしれないが、北海道のローカル深夜番組「水曜どうでしょう」で大ブレイクしたコンビを見る、と言う話題性だけではない、何か(something)が確かに存在する映画なのだ。

=+=+=+=+=+=+=

余談だが、本作は自主制作映画的なキャスティングも楽しめる作品とも言えるのだ。
とある大学の演劇研究会出身の役者たちが何人か出演しているのだ。
更に余談だが、わたしは大学時代、彼らが所属していた演劇研究会の隣に部室があった映画研究会に属していた。

更に余談だが、北国ではコンビニのおにぎりをレンジで温めるのだが、この冬おにぎりを温める事が全国で流行るに違いないのだ。

=+=+=+=+=+=+=

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2004/12/14 東京新宿「テアトル池袋」で「ゴースト・ネゴシエイター」改め「ゴーストシャウト」の改名披露試写会に行ってきた。
舞台挨拶は、出演の滝沢沙織、南野陽子、野田社長と、細木数子のおかげで改名した繋がりのモンキッキ。
 
榊ヨウコ(滝沢沙織)の職業はゴーストネゴシエイター。
それは下界に現われた幽霊と交渉し無事に成仏させるというもの。
しかし、普通の生活に憧れていたヨウコは、今日を限りにこの因果な商売から足を洗うつもりでいた。そしてとある新婚夫婦(高橋克典/三浦理恵子)の家でなんとか幽霊を成仏させたヨウコは、恋人の元木俊雄(永井大)とのデートに出かける。ヨウコはこのデートで俊雄の母親(川島なお美)と会う事になっていたのだ。

その直後、ヨウコの事務所に緊急の依頼が舞い込む。
それは八王子にある星陵音楽大学のチャペルに、幽霊が現われ、歌を歌っていると言うのだ。
借金に苦しむ事務所の社長・外古葉雄一(菅田俊)は、お化け屋敷でスカウトしたばかりの柳田浩司(井澤健)をヨウコのデート場所に向かわせ、2人で現場に急行するよう指示を出す。恋人には本当の職業をひた隠しにしているヨウコは、俊雄を残したまま、渋々現場へ向かうのだが・・・・。
 
監督:塚本連平
脚本:EN(榎本憲男)、佐々木充郭
出演:滝沢沙織(榊ヨウコ)、井澤健(柳田浩司)、永井大(元木俊雄)、高樹マリア(美空つぐみ)、高橋克典(若夫婦/夫)、三浦理恵子(若夫婦/妻)、南野陽子(矢田部愛子)、はなわ(時田君)、川島なお美(元木の母)、玉木宏(健太の孫)、中山仁 (響学)、赤座美代子(響澄子)、藤村俊二(坂口健太)、小倉一郎(市川学部長)、ムッシュかまやつ(お化け屋敷館主)、菅田俊(外古葉雄一)、阿南健治(横島事務局長)、雛形あきこ(マリコ)
 
 
はいはい、仰る通りですよ。
どうせ、つまらない映画だと思ってましたよ。
細木数子のお告げに従って、映画タイトルを安易に変更しちゃう話題性重視のダメ映画だろうと思ってましたよ。

そんなわたしが莫迦でした。
本作「ゴーストシャウト」は、プロットと伏線がカチっと決まった素晴らしい脚本を備えた良質の作品に仕上がっていたのだ。
その優れた脚本は(勿論褒めすぎの感は否定できないが)、まるで脚本の「お手本」とも言えるクオリティを持っているのだ。

何も足さない、何も引かない、それで充分なのだ。
本作の脚本は、全てのセリフ、全てのカット、全ての登場人物に、きちんと意味を持たせた素晴らしい脚本だった。
勿論、全てのセリフやカット、登場人物に意味を持たせるのは、本来映画としては当たり前の事なのだが、そんな正しい映画は結構少ないと思うのだ。
強いて例えるならば、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」シリーズの脚本の仕上がりに匹敵するのではないかな、と思う訳だ。

演出はベタで順当である。
悪く言えばベタでお約束通りのありきたりなもので、独創的な演出や、光る演出はそれほどないのだが、その予定調和的で順当なあたり前の演出は、所謂映画文法に則った、誰もが納得できる、安心感が感じられる仕上がりを見せている。

美術は世界観を全く損なわず、そしてでしゃばらず、縁の下で作品を見事に支えている点に好感を感じた。イメージとして特筆すべき点があるとすると、やはり「天国の階段」を実写化したのは評価に値すると思う。その辺りの世界観は秀逸である。
また、撮影は広角レンズの多用が非常に印象的であった。

編集は、見事な脚本と相まって、シーンのつなぎ部分に素晴らしい効果を与えている。複数の舞台で起きている事象を関連性で引っ張りながら繋ぐ手腕に舌を巻いてしまう。勿論これはシーンの変わり目を当初から意識した素晴らしい脚本のおかげなのだがね。

キャストはバラエティ的には豪華である。
比較的キャッチーな旬のタレントの起用には好感が持てる。
物語の進行を著しく停滞させてしまう悪い意味でのカメオではなく、旬のタレントを物語に溶け込ませる手腕は見事である。

主演の榊ヨウコを演じた滝沢沙織は初主演に関わらず素晴らしかった。2面性のあるキャラクターを危なげなく演じきっている。
特に、相棒となる井澤健(柳田浩司役)とのコンビネーションは抜群である。
また、恋人元木俊雄役の永井大との息もピッタリで、もしかすると大化けする、今後が楽しみな女優さんになっていくかも知れない。

また、矢田部愛子を演じた南野陽子も素晴らしかった。多分この作品が成功しているのは、元アイドル南野陽子をキャスティングできたことに因るのではないか、と思えるほどの怪演振りである。

また、藤村俊二や阿南健治のキャスティングがツボを押さえており、物語を語る上で素晴らしい見せ場をそれぞれ演じている。

とにかく、本作「ゴーストシャウト」は、お子様からお年寄りまで、全ての観客が楽しめる一流のエンターテイメント作品に仕上がっているし、物語も笑いながら最後にちょっぴり涙が出ちゃう感動作品にも仕上がっている。
そして、過去と現在を結ぶ伏線が見事で、プロットと伏線がジグソー・パズルのようにピタっとはまる上、演出もお約束的に楽しめる作品なのだ。

個人的には、是非ヒットしていただきたいと思うのだ。

=+=+=+=+=+=+=

本作「ゴーストシャウト」は、東京テアトルが発起人となっているガリンペイロ・レーベルの作品である。
これは、新しい日本映画の才能を単館系エンターテイメントから発信する事を目的としたプロジェクトであり、本作はその高い志の下に製作された4本目の作品なのである。

このような孤高で良質なエンターテイメント作品は、きちんとプロモーションされ、きちんとヒットさせる必要があるのだ。

そして、このような真摯で良心的な作品がヒットするかどうか。それが今後の日本映画のあり方のひとつのカギになるのではないか、と思うのだ。

=+=+=+=+=+=+=

舞台挨拶は、前述のようにいろんな人が登場したが、個人的には南野陽子が興味深かった。

アイドル時代の営業の経験からか、挨拶やお辞儀の仕方から、トークでのアドリブの飛ばし方、割って入るタイミング、観客の視線の集め方等々、舞台慣れが感じられ、やはり普通の女優と違って、元アイドルは生に強いな、と思ってしまうのだ。

何と言っても滝沢沙織と南野陽子のお辞儀の角度が完全に違っていたのだ。

=+=+=+=+=+=+=

☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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「ターミナル」

2004年12月9日 映画
2004/12/08 東京九段下「九段会館大ホール」で「ターミナル」の試写を観た。

ニューヨーク、JFK国際空港。
ビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、東欧の小国クラコウジアから、ある大事な約束を果たすため、JFK国際空港に降り立った。
しかし、彼がクラコウジアを飛び立った直後、クーデターが発生、事実上国家が消滅してしまう。これによりパスポートが無効となったビクターは、アメリカへの入国を拒否されてしまう。
しかも情勢が安定するまでは帰国することもできず、空港内(インターナショナル・トランジット)に完全に足止めされてしまう。
英語も分からず通貨も持っていない彼は、やむを得ずこのターミナルの中で寝起きしながら事態の改善を待つのだったが・・・・。

監督:スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:トム・ハンクス(ビクター・ナボルスキー)、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ(アメリア・ウォーレン)、スタンリー・トゥッチ(フランク・ディクソン)、チー・マクブライド(ジョー・マルロイ)、ディエゴ・ルナ(エンリケ・クルズ)、バリー・シャバカ・ヘンリー(レイ)、ゾーイ・サルダナ(トーレス)、クマール・パラーナ(グプタ)
 
 
本作「ターミナル」は、面白おかしく、ちょっぴり涙がこぼれちゃう、万人にオススメの娯楽作品なのだ。
 
とは言うものの、作品自体は凡庸で、取り立てて見るべきところは無い。

勿論、本作「ターミナル」では、オスカー俳優たちの素晴らしい演技、小粋な脚本や展開、素敵な演出や音楽が楽しめるのだが、ただそれだけの作品なのである。
本当にこれで良いのかよ。とわたしは思う訳だ。
 
 
わたしの映画ファンとしてのキャリアは、スティーヴン・スピルバーグ監督作品との出会いから始まった、と言っても差支えは無いだろう。
それ以来わたしは、多くのスピルバーグ作品を追いかけながら大人になってきた訳である。

かつてのそんなスピルバーグ作品は、ドキドキ感ワクワク感に満ちていたし、作品自体も、リスクを恐れない孤高な映像作家の冒険心に輝いていた。
しかし残念ながら、近年のスビルバーグ作品には、その孤高さは影を潜め、商業主義がさの多くを占めているような印象を否定できない。
現在のわたしは、そんな最近のスピルバーグ監督作品に対して、「何としてでも観たい!」という欲求が湧かないのである。

何のために、こんな題材を映画にするんだ。
何のために、アカデミー賞受賞俳優なんかをキャスティングするんだ。
一体何のためにおまえはこんな映画を撮っているんだ。
こんなの誰にでも撮れるじゃないか。
おれ達は、おまえにしか撮れないような、スピリッツ溢れる映画が観たいんだよ。
「JAWS/ジョーズ」や「未知との遭遇」、「1941」や「フック」。そんなリスクを恐れない背筋の伸びた孤高で独創的で、作家性が十二分に感じられる作品が観たいのだ。 
 
 
まあ、そんな状況ではあるが、本作「ターミナル」について考えてみよう。

基本プロットは面白いのだが、映画向きのプロットではなく、テレビ・シリーズ向きのプロットだと言えよう。
舞台を空港内に限定した所謂「シットコム」形式でテレビ・シリーズ化して、トム・ハンクスが出た日にゃー大ヒット間違いなしの長寿テレビ・シリーズになるのではないだろうか。

そして、映画として考えてみても、残念ながらフランス映画「パリ空港の人々」(1995)の影響が否定できない。

脚本は、セリフも粋だしキャラクター設定も明確、遊びの部分も含めて良く出来た脚本だと思う。

政治的問題で空港内に足止めされたビクターと、空港内で働く人々が仕事のためにある意味空港内に足止めされていると思わせる部分と、それらの人々とビクターとの対比が興味深く、空港から合法的に出て行こうとするビクターが、空港から出られない多くの人々の希望になっていくあたりが素晴らしいと思う。

また、空港を人種の坩堝(るつぼ)のメタファーとして機能させている点、更にアメリカ人を悪人に、マイノリティを善人に描いているのも興味深い。

また脚本上、同じシークエンスの繰り返しやバリエーションが、または明示的な伏線が興味深かった。

キャラクター設定は、ビクターを助ける3人の労働者たち、チー・マクブライド演じるジョー・マルロイ、ディエゴ・ルナ演じるエンリケ・クルズ、クマール・パラーナ演じるグプタが一番だと思うが、エンリケが恋するゾーイ・サルダナ演じるトーレスがトレッキーだという設定には仰け反った。スピルバーグ作品にトレッキーが登場するだけではなく、トレッキーのためのお笑いシークエンスを入れているあたりは、わたし的には驚愕だった。

また観客の視点となり、観客の良心として機能するバリー・シャバカ・ヘンリー演じるレイの設定も秀逸である。一本筋は通っているものの、悪く言えば「事勿れ主義者」的なキャラクターは、多くの一般市民のメタファーであり、それ故に、事勿れ主義者だったレイのラストの行動が観客に対して、自分たちもレイのように行動したいな、と思わせる素晴らしい効果を付与している。

とは言うものの、スタンリー・トゥッチ演じるフランク・ディクソンは、脚本上の、悪役を登場させる必要性のため、設定されたキャラクターである印象が拭いきれず、無理のあるキャラクター設定だと思う。この役柄は非常に損な役回りであり、スタンリー・トゥッチが好演しているだけに、残念な気がする。

音楽は印象に残る明確なテーマ性は無いものの、ジョン・ウィリアムズ節が楽しめる。
クライマックスでビクターがエスカレーターを降り、空港のドアに向かうシークエンスでかかる曲のオーケストレーションが、「JAWS/ジョーズ」で3人の男たちが鮫退治に向かう明るい曲を髣髴とさせていた。
 
 
まあ、とにかく本作「ターミナル」は、誰にでもオススメできる面白くてちょっぴり泣ける作品ではあるが、スピルバーグがわざわざ撮る必要がある種類の作品ではない、と言わざるを得ないのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=

最近のスピルバーグのフィルモグラフィーを見て欲しい。
スタンリー・キューブリック企画の「A.I.」はともかく、ほとんどが名前で客が呼べるスター俳優が主演している。

「ターミナル」(2004)
「マイノリティ・リポート」(2002)
「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002)
「A.I.」(2000)
「プライベート・ライアン」(1998)

誰が撮ってもヒットするような映画ばかり撮ってどうするんだよ。
鬼が金棒持ってどうするつもりだ。と思う訳なのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=

余談だが、「スタートレック」ファン爆笑のシークエンスが「ターミナル」に出てくるのだが、試写場でば笑ったのは、わたしだけだった。スピルバーグ作品に「スタートレック」ネタが出てきたのには驚かされた。
 
 
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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「ULTRAMAN」

2004年12月7日 映画
2004/12/07 東京神保町「日本教育会館一ツ橋ホール」で「ULTRAMAN」の試写を観た。

太平洋沖に墜落した未確認飛行物体を調査していた海上自衛隊二尉・有働貴文(大澄賢也)は、突如あらわれた「青い光」に遭遇。その発光体に接触した有働はその光の影響か、体質が変容してしまう。

自衛隊の特殊機関BCST(対バイオテロ研究機関)は秘密裏に有働を拘束し、水原沙羅(遠山景織子)を中心とした科学スタッフが有働の変容の経過観察を続けていた。
しかし、有働は遺伝子レベルの変質を遂げ、他の生物を取り込み、その能力を身に付け、凶悪なビースト「ザ・ワン」に変化し、BCSTの施設から脱走し行方をくらましてしまう。

3ケ月後。
航空自衛隊F15Jパイロットの真木舜一(別所哲也)は、先天性の疾患を持つ一人息子・継夢(広田亮平)と少しでも一緒の時間を持てるように、子供の頃からの夢であった戦闘機パイロットをやめ、自衛官を退官することを決意する。その最後の日、スクランブル出動した真木は「赤い発光体」と空中衝突してしまう。その発光体は・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:小中和哉
監修:円谷一夫
音楽監修:TAK MATSUMOTO(B’z)
撮影・VFXスーパーバイザー:大岡新一
フライングシーケンスディレクター:板野一郎
特技監督:菊地雄一
出演:別所哲也(真木舜一)、遠山景織子(水原沙羅)、大澄賢也(有働貴文)、裕木奈江(真木蓉子)、広田亮平(真木継夢)、永澤俊矢、隆大介、草刈正雄(万城目)

 
松竹のロゴに続く円谷プロのロゴだけで感涙モノなのだ。

本作「ULTRAMAN」は脚本も演技も凡庸だし、演出も単調でスローモー。物語自体も主要ターゲットである子供たちには難しすぎるだろうし、大人にとっても演技の間を取らせる演出と俳優の演技が上手く機能しておらず、展開がのんびりしているような印象を与える。

しかし、ここには怪獣映画文法に則った、背筋の伸びた素晴らしい怪獣映画が存在していた。
これは、ウルトラマンへの、怪獣への、そして何よりもウルトラマンを愛した多くの観客への熱い思いと愛情に満ちた素晴らしい作品なのだ。

先ずは、「初代ウルトラマン」の基本プロット(逃亡する怪獣を追いかけ、ウルトラマンが地球にやってくる)を踏襲したのが良い判断だったと思う。その単純で力強い運命的なプロットが作品を普遍的で神話的、そして観客の記憶に訴えかける印象的なものに昇華する事に成功している。

そして、最大の英断は、東映の「デビルマン」のように、何から何まで自社内で全部やるのではなく、それぞれ部分部分の製作を優秀な人材に外注している点である。

クレジットによると、航空機のCGIはこの会社、新宿副都心のビル街のCGIはこの会社、と言うように、その分野の技術と高いスキルを持った会社に、部分部分の製作を外注しているようなのだ。

そして何と言っても素晴らしいのは、フライングシーケンスディレクターとして板野一郎が参加している点だろう。

板野一郎と言えば、アニメの世界では、板野サーカスと呼ばれた戦闘機やミサイルが縦横無尽に空を舞う作画テクニックで一世を風靡したのだが、今回はなんと実写作品の製作に板野一郎が協力している訳だ。

ハリウッドでも、かつての手工業的な技術で一世を風靡した特撮クリエイターが後年CGIのクリエイターとして復活することが多々あるのだが、かの板野サーカスを実写で見られるとは、本当に素晴らしい時代になったものだ。

その気になる板野サーカスのシークエンスは、本作「ULTRAMAN」のキャッチ・コピー「高度3万フィート!6.5G!極限の一戦!!」が示すとおり、本作の最大の見せ場となっている。下手をすると映画史に残り、語り継がれるような素晴らしい空中戦に仕上がっているかも知れないのだ。本作の板野一郎をフィーチャーした空中戦は、確実に「平成ガメラ」シリーズを超えた、と思うのだ。

また新宿副都心を舞台にしたアクション・シークエンスも結構納得の行くものになっているし、「ザ・ワン」と「ザ・ネクスト」の着ぐるみ同士の格闘は面白いことに、なんだか「バーチャ・ファイター」の結城晶のような動き(八極拳?)の格闘が楽しめるのだ。

街並みと怪獣の描き方は、従来の手法であるビル街や建物のミニチュアの街並みで怪獣が暴れる、と言う手法から、CGIで作られた街並みや、実際の街並みの実写映像を背景に怪獣が暴れる、と言う手法への転換期が来ているようで、来年公開の「鉄人28号」で実現したような実際の街並みでロボットが大暴れするようなクオリティの高いシークエンスが楽しめる。

しかし、特撮の手法やアクション・シークエンスが良くても、本作の基本プロットや、脚本に沢山出てくる言葉は、怪獣映画の主要ターゲットである子供たちには難しいだろうし、真木一家の物語は「ウルトラマン」の物語の背景として、勿論必要なのは理解できるのだが、実際問題としては物語のスピードを著しく殺ぎ、退屈な印象を子供たちに与えてしまっている。
本作を子供向けの怪獣映画と捉えた場合、劇場に集まった子供等は退屈して、通路を走り回ってしまいそうな印象を受けたのだ。

勿論、子供以外のもうひとつのターゲット層として、かつての「ウルトラマン」に熱狂していた世代の存在は無視できず、製作サイドとしては、子供向けと言うよりは、大人向けとして製作されたような印象が否定できない。
果たして、それは怪獣映画にとって、良いことなのだろうか。

ところで、本作はお金の使い方も良いと思った。
ギャラが高そうなキャストを避け、中堅どころで手堅くまとめたキャストもそうだが、製作サイドが見せたい映像、ファンが見たい映像を具現化するためにのみ、お金を割いているのだ。

また航空自衛隊の協力を得たロケーション効果も素晴らしいし、
新宿副都心を封鎖した(ように見える)個々のカットも頑張っているし、自衛隊の車両や、戦闘機の実機を画面の端に映しているのも、お金をかけずにちょっとした知恵で雰囲気を醸し出す手法に好印象である。

また、広角レンズを多用した撮影も印象的であるし、また夕焼けをバックにして怪獣のシルエットや、対象物のアップ等、実相寺昭雄へのオマージュ的名カットも楽しい。

キャストは、別所哲也にしろ遠山景織子にしろ大澄賢也も裕木奈江も頑張っているのだが、やはりイマイチである。言い過ぎかも知れないが、キャストにはあまり見るべきところは無いと思う。
個人的にはイメージはともかく、役所広司クラスの俳優に「ウルトラマン」を演じて欲しかったと思うのだ。(その場合予算的に他の部分にしわ寄せが出てしまうだろうが・・・・)

とにかく本作「ULTRAMAN」は、東映の「デビルマン」の50倍くらい爽快だし、アクション・シーンも素晴らしい。悪魔的なデザインの「ザ・ワン」との空中戦も素晴らしい。打倒東映の気概が見え隠れする。
脚本や演技は残念ながらしょぼいが、基本プロットと展開、アクションが素晴らしい怪獣映画に仕上がっているのだ。
 
 
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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