2004/12/03 東京新橋「ヤクルトホール」で「ネバーランド」の試写を観た。

1903年ロンドン。華やかに着飾った人々で埋め尽くされたデューク・オブ・ヨーク劇場の片隅で、劇作家のジェームズ・バリ(ジョニー・デップ)は、居心地の悪い気分を味わっていた。初日を迎えた彼の新作「リトル・メアリー」に対する客席の反応は芳しくなかった。友人アーサー・コナン・ドイル卿(イアン・ハート)や、興行主チャールズ・フローマン(ダスティン・ホフマン)からも、あてこすりを言われる始末だ。

案の定、翌朝の新聞の劇評は最悪。失意のジェームズは、愛犬のポーソスを連れ、近くの公園へ日課の散歩に出かけた。そこで彼は、デイヴィス家の4人の兄弟とその母親との運命的な出会いを果たす。4人兄弟のうち、長男のジョージ(ニック・ラウド)、次男のジャック(ジョー・プロスペロ)、末っ子のマイケル(ルーク・スピル)は、母のシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)に連れられて来たその公園で、無邪気に騎士ごっこに興じていた。が、人一倍繊細な三男のピーター(フレディ・ハイモア)は、空想の世界に遊ぶことを拒絶し、一人だけ兄弟の遊びの輪から外れていた。それを見たジェームズは、愛犬をサーカスの熊に見立ててダンスを踊り、少年たちの拍手喝采を浴びる。別れ際、一家との再会を約束したジェームズは、心弾む気分で自宅へ戻った。

早速夕食の席で、妻のメアリー(ラダ・ミッチェル)に公園での出来事を話すジェームズ。それを聞いたメアリーは、夫をガンで亡くしたシルヴィアが、社交界の名士である母のデュ・モーリエ夫人(ジュリー・クリスティ)の援助で暮らしていることを教える。野心家のメアリーは、この出会いがデュ・モーリエ夫人に近づくチャンスになると考え、ジェームズに一家を夕食に招待するようにすすめたが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:マーク・フォースター
出演:ジョニー・デップ(ジェームズ・マシュー・バリ)、フレディ・ハイモア(ピーター・ルウェリン・デイヴィス)、ニック・ラウド(ジョージ・ルウェリン・デイヴィス)、ジョー・プロスペロ(ジャック・ルウェリン・デイヴィス)、ルーク・スピル(マイケル・ルウェリン・デイヴィス)、ケイト・ウィンスレット(シルヴィア・ルウェリン・デイヴィス)、ジュリー・クリスティ(デュ・モーリエ夫人)、ダスティン・ホフマン(チャールズ・フローマン)、ラダ・ミッチェル(メアリー・アンセル・バリ)、イアン・ハート(アーサー・コナン・ドイル卿)、ケリー・マクドナルド(ピーター・パン)
 
 
一言で言うなれば、本作「ネバーランド」は、最高に素晴らしい大傑作である。
ついでに言うならば、号泣必須であり、滂沱状態であり、2004年正月映画最高の涙腺破壊兵器と言えるのだ。

特にクライマックスの、映画ならではの素晴らしい演出が凄すぎる。それは、舞台でも、テレビでも、小説でも真似が出来ない素晴らしい映像体験なのだ。
その映像体験が涙腺を破壊し滂沱の地平にぼくらを連れて行ってくれるのだ。

あぁ、映画とは何て素晴らしいんだろう。
映画と言うものが、本当に素晴らしいメディアである、と感じさせてくれる素晴らしい瞬間なのだ。
 
 
キャストは何と言ってもジョニー・デップだろう。
最近外見に特徴を持つキャラクターを演じ続けているジョニー・デップだが、内面は特徴的な性格を持っているのだが、外見的にはいたって普通の人物であるバリを見事に演じている。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」等でデップの俄ファンになったような人々にとっては、今回のデップはもしかすると退屈で、あまりにも普通の演技のように見えるかも知れないが、そんな静かで慈愛に満ち、夢見がちでいながら苦悩するバリの姿が嬉しくも悲しい。

そしてダスティン・ホフマンである。スティーヴン・スピルバーグの「フック」でフック船長を演じたダスティン・ホフマンをキャスティングするとは、何て素晴らしいのだろう。

物語上、ジェームズ・バリは当然の如く、永遠の少年ピーター・パンのメタファーとして機能すると同時に、デイヴィス家は勿論ダーリング家の暗喩なのだ。それではフック船長は?そう勿論、興行主のチャールズ・フローマンその人なのだ。
 
出来ることなら、一瞬登場するネバーランドのフック船長をダスティン・ホフマンに演じて欲しかったのだ。と思う。
希望的観測か気の迷いかわからないが、クレジット上は勿論異なるのだが、涙でスクリーンが歪んで見えていたわたしにとって、フック船長はダスティン・ホフマンだったのだ。

ところで物語は、劇作家として、壁にぶちあたってしまったジェームズ・バリが、ダーリング家のウェンディ、ジョン、マイケル、そしてネバーランドのピーター・パンを髣髴とさせるデイヴィス家の人々と(想像の力で)冒険した様子を描いた戯曲「ピーター・パン」を完成させ、初演を迎えるまでの物語である。

リアリストである少年ピーターと大人の癖に夢ばかり見ているバリの対比が興味深い。
ある意味、夢ばかり見ているダメな大人をリアリストの少年が悟らせるのか、ダメな大人が老成した少年に、夢を見る力を授けるのか、が興味深い訳だ。

そして前述のクライマックスのシークエンスにしろ何にしろ、バリらの夢(想像)を具現化しているシークエンスが最高に素晴らしいのだ。

また戯曲「ピーター・パン」を上演する舞台装置も単純だが非常に力強く、圧倒的な感動を与えてくれる。
例えばそれは、物語の中、舞台でピーター・パンを演じたケリー・マクドナルド等の素晴らしい演技に因るものだろう。そしてクライマックスのケリー・マクドナルドの演技は確実に「魔法の力」を持っているのだ。
 
 
脚本は一言で言えば素晴らしいのだが、ちょっと気になったのは、クライマックスに向けての、メアリーとジェームズのバリ夫婦の不和を描く描写や、シルヴィアの病気にはイライラさせられた。
勿論、その辺の描写のおかげでクライマックスのカタルシスが倍増するのだが、個人的には、「おいおいそんな細かい描写はいらないから、早く舞台を映せよ」と言う気持ちになったのは事実である。
出来ることなら、「ピーター・パン」の舞台全編を見たいと思ったわけだ。

舞台と言えば本作は「バロン」と比較しても面白いと思うし、ジョニー・デップとダスティン・ホフマンの競演と言うことから考えると監督のマーク・フォースターは、ティム・バートンとスティーヴン・スピルバーグの融合を果たそうとしていたのではないか、と勘ぐってしまう。

スピルバーグの嗜好は異常なほど、ディズニー・アニメへの傾倒が見え隠れするし、「ピーター・パン」については、「フック」や「A.I.」で言及しているし、ジョニー・デップのキャラクターは、ティム・バートンその人を描いているような印象を受けてしまうのだ。
そして、ジョニー・デップのキャラクターは「ビッグ・フィッシュ」をも髣髴とさせるような設定を感じてしまう。
 
本作「ネバーランド」は、はっきり言って最高の傑作である。
とりあえず、観ろ!なのだ。
 
 
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「恋の門」

2004年12月5日 映画
2004/12/04 東京池袋「シネ・リーブル池袋」で「恋の門」を観た。

新しいアルバイト先「ウレシー商事」に向かう、蒼木門(あおきもん/松田龍平)は、道端で見つけたハート型の石を拾おうとした手を、証恋乃(あかしこいの/酒井若菜)に踏まれてしまう。会社に急ぐ恋乃は門に詫び、パンを門に渡し、行ってしまう。

そんな門は、石で漫画を描く自称「漫画芸術家」。石の漫画など当然売れる訳もなく、当然の如くアルバイトで生活費を稼いでいた。おまけに、ハタチを過ぎても門は童貞だった。

踏まれた手を手当し「ウレシー商事」に到着する門は、初日から遅刻するとは何事だ、と幹部(尾美としのり)に叱られる。なんとそこには恋乃も勤めていたのだ。

そんな恋乃は、昼は普通のOLだが帰宅後はコスプレを楽しみ、同人誌の売れっ子漫画家だった。

その夜、門は自分の歓迎会の最中、先輩社員と喧嘩しギタギタにされてしまう。引きずられるように恋乃の部屋に向かった門は、一晩を過ごしてしまう。
互いに惹かれ合う二人。だが「芸術」と「オタク」という、相反する感性同志がぶつかり合い、惹かれ合うと同時に二人は反発しあっていた。お互いを知るためにと、恋乃はある旅行の提案をする。それはアニメソング界の人気者・安部セイキ(皆川猿時)様のファンの集い一泊旅行だった。

お金が無い門は、ウインドウに飾られた石に惹かれ入った「漫画バー・ペン」でアルバイトをすることになる。バーのオーナー毬藻田(松尾スズキ)は、かつての売れっ子漫画家だった。そして・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督・脚本:松尾スズキ
原作:羽生生純 『恋の門』(エンターブレイン刊)
出演:松田龍平(蒼木門)、酒井若菜(証恋乃)、松尾スズキ(毬藻田)、忌野清志郎(浴衣)、小島聖(園決理/メジナ)、塚本晋也(野呂)、尾美としのり(「ウレシー商会」幹部)、大竹まこと(門の父)、筒井真理子(門の母)、平泉成(恋乃のパパ/証圭一郎)、大竹しのぶ(恋乃のママ/証泰子)、三池崇史(イメクラ店長)、庵野秀明(旅館の親父)、安野モヨコ(旅館の女将)、高橋征也(キンゴ)
 
 
本作「恋の門」はとっても楽しいコメディ映画に仕上がっている。一見、CMやPV業界あがりの監督作品に見られるような、展開が早くガチャガチャした印象の作品ではあるが、舞台あがりの監督の作品という事もあり、微妙な間と勿論演出が楽しめる、舞台テイストを含んだ作品だと言える。

先ずは脚本が面白い。
尤もセリフは、舞台のセリフのように、理屈っぽくて早口、噛みそうで噛まない、まるで登場人物同士のバトルのようなセリフの応酬なのだ。しかもそのセリフは「オタク文化」特有の、暗喩や婉曲話法に満ちた難解なセリフなのだ。

また一つの長セリフの中に、そのセリフのテンションやキャラクターの感情に変化を持たせた起伏あるセリフが印象的である。
まるで舞台の独白のようなセリフの中、登場人物はいきなり激昂し、または失意のどん底に叩き落され、それに対し他の登場人物が、突っ込んでいるのだ。これは口から出てしまった「心の声」に対し登場人物が反応、さらに反応しあっている、と言う感じなのだ。

つまり、物語内部にいる自分と、自らの行動を冷静に観察している自分が共に存在し、自らが自らの行動や言動にツッコミを入れているような印象を受けるように脚本が構成されているのだ。

これは「オタク文化」への批判的精神に因るものかも知れないし、自らを含んだ「オタク文化」に対する自虐的なスタンスに因るものなのかも知れない。

そして、そのあたりは「コスプレ」という仮面(ペルソナ)を物語の導入した点も興味深い。
「コスプレ」をすることにより恋乃は別の人格を創造しているのだ。恋乃の中には、「コスプレ」を演じる自分と、それを眺める素の自分が共存しているのだ。

また登場人物の多くが恋乃同様、二面性を持ったキャラクターとして設定されているのも興味深い。つまり、恋乃の「コスプレ」は、他のキャラクターの二面性を解りやすく表現するための一つの手法として機能しているのだ。
また「コスプレ」好きのキャククターを登場させる事は、他の二面性を持つキャラクターに対する観客の理解を助ける事に役立っている。

キャストだが、先ずは酒井若菜の熱演であろう。所謂巨乳アイドルの枠にくくれない、何か(something)の存在を感じるのだ。
濡れ場は濡れ場として考えると物足りない感は否めないが、現役アイドルにしては濃厚なキス・シーンが多く、結構頑張った、と評価したい。

松田龍平は、まあ良いのだが、浅野忠信の演技スタイルにどんどん似てくる印象が否定できない。セリフのボソボソ感は浅野にそっくりではないだろうか。

出番は少ないが大竹しのぶはやはり凄い。彼女の周りの空気が違う。あんな役柄(失礼)でも、周りを十分に感動させる力を見せてくれている。

また、豪華なキャストが一癖もふた癖もあるような人物を嬉々として演じているのが楽しい。わたしは従来からカメオを不必要だとするスタンスを取っているが、本作「恋の門」では、物語の進行を止め、観客を現実世界に戻してしまうようなカメオはなかった。全ての役者が与えられた役目を見事に果たしているのである。

結局のところ、本作「恋の門」は、ただ単にガチャガチャしたジェット・コースター・ムービーに留まらず、結構奥が深い作品に仕上がった松尾スズキの意欲作であり、是非多くの人に観ていただきたい作品だと思う。

酒井若菜は所謂体当り演技です。

=+=+=+=+=

今回わたしは「恋の門」を「シネ・リーブル池袋」のレイトで観たのだが、「恋の門」のプリントの状態が悪かった。もしかしたら映写機の光量の問題かもしれないが。

「シネ・リーブル池袋」に確認したところ、「恋の門」はデジタル上映ではなくフィルムで上映している、という事なので、おそらくキネコの時点でプリントが綺麗に仕上がっていないのだと思う。
症状としては画面が著しく暗く、コントラストが不足している。勿論映写機の光量や光量に対するスクリーン・サイズの問題もあるかも知れないのだが、実際問題として、本編中の非常に重要なシークエンスのひとつである漫画を描くシーンなのだが、ペン入れしているカットはともかく、鉛筆で絵を描くカットが、何を描いているのか判別できないのだ。これはこの作品の致命的な所だと思うぞ。

=+=+=+=+=

余談だが、本作で沢山登場した漫画「同人誌」についてだが、今回気付いたのは、「同人誌」と言うものは、インディーズ作品だという事である。
あたり前だと言われればそれまでなのだが、「同人誌」とは、例えばインディーズ・バンドのデモCDや、自主制作映像作品みたいなものなのだ、と言うことである。

「同人誌」を読んで喜んでいるのは、我々映画ファンが嬉々として、自主制作映像作品を観たり、新人映像作家の作品を観て、今後の可能性を論評したりしているのと、同じ事なのだと言う事である。わたしの中で、「同人誌」と言うものに対する理解が深まった瞬間である。
 
 
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「恋文日和」

2004年12月3日 映画
2004/10/28 東京九段下「九段会館大ホール」にて「恋文日和」の試写を観た。

先ず本作「恋文日和」の構成なのだが、本作はラブレターをモチーフにしたジョージ朝倉の同名人気コミックの映画化作品であり、その原作コミックから人気が高い「あたしをしらないキミへ」「イカルスの恋人たち」「雪に咲く花」の3篇を映像化し、「便せん日和」と言うブリッジ・ストーリーで繋いだ形態のオムニバス作品集的構成を持った作品である。
都合4篇の監督とキャストがそれぞれ異なっており、4篇の独立した物語として楽しめると同時に今流行の群像劇としても楽しめる作品に構成されている。
しかしながらラブレターをモチーフとした作品であるため、題材や世界観は現代的ではあるが、何故か懐かしくもクラシックな印象を観客に与える作品に仕上がっている。

先ず驚いたのは、「便せん日和」の映像のクオリティである。
他の3篇のエピソードのクオリティはともかく、ブリッジ・ストーリーとして機能する、言わば作品全体を考えた場合、ファーストカットとラストカットを含む最重要なエピソードである「便せん日和」の映像のクオリティが著しく低いのである。
 
本作は全てビデオ撮りの作品なのだが、他の3篇はビスタサイズで映像のクオリティもそこそこである。
しかし「便せん日和」はスタンダード・サイズで画質は最悪、色も飛び、モアレが発生している。
おそらく民生用(下手をすると1CCD)のデジタルビデオカメラで撮影・編集した素材をキネカする際(ビデオをフィルムに焼く際)、工程が上手く行かなかったのではないかと勘ぐってしまう程、劇場公開作品としては近年まれに見る画質の悪さなのだ。
尤もこれは、試写で使用されたフィルムだけの問題かも知れないが、念の為、付記しておく事とした。
 
 
「あたしをしらないキミへ」
監督・脚本:大森美香
出演:村川絵梨(文子)、弓削智久(増村保志)、真木よう子(片瀬理乃)
オクテな文子(村川絵梨)と、全身タトゥーで近寄りがたい増村クン(弓削智久)。
文子は、ひとりきりになりたい時、こっそり入る立入禁止の学校の屋上で、卒業した先輩の片瀬さん(真木よう子)あてのラブ・レターを拾う。それはあの怖い増村クンが書いたものだった・・・・。

外見上は恐ろしい男が、実は繊細な心を持っており、おとなしいヒロインと結ばれる、と言う少女マンガ的には定番中の定番、多くの女性が夢見る物語なのだが、手紙のやり取りの方法が秀逸であり、かつラストのシークエンスの手紙が程よいカタルシスを観客に味合せている。理想的な物語である。
 
 
「雪に咲く花」
監督:須賀大観
脚本:佐藤善木
出演:小松彩夏(宮下千雪)、田中圭(神代陽司)、田中要次
「あたし、たぶん消えちゃうけど、覚えていて。・・・あなたにだけは、わずかな断片だけでいいから、覚えていてほしい」。差出人の名前が無い手紙を受け取った陽司(田中圭)は、もしかして同級生の宮下千雪(小松彩夏)からの手紙ではないかと考え・・・・。

500円で援助交際をする、という噂がある美少女の最後の冬の日々、薄幸な美少女と朴訥な少年の心の交流を見事に描いている。物語としては小松彩夏演じる可憐で儚げな少女がおじさん相手に援助交際をしているとなると、本作のコンセプトにそぐわないダークで陰惨な印象を観客に与えかねないのだが、脚本は微妙なバランスを保ち、土俵際で踏みとどまり、物語はラストの感動的な手紙に繋がっていく。少年期からの脱却(成長)とほのかで儚げな希望を感じさせてくれる秀作である。
おそらく、4篇のエピソードの中では、一番印象的なエピソードになっているのではないだろうか。
春になると消えてしまう、そんな「千雪」という役名が最高なのだ。その千雪を演じた小松彩夏が素晴らしい。
 
 
「イカルスの恋人たち」
監督:永田琴恵
脚本:松田裕子
出演:玉山鉄二(康一)、塚本高史(健二)、當山奈央(玉音)
堅物の兄・康一(玉山鉄二)とまったくそりが合わなかった弟・健二(塚本高史)。康一が死んだ後、健二は兄が残した手紙とビデオテープを遺品の中から見つける。
「恋人に渡してくれ」と書かれた手紙に書かれた場所を訪ねてみると、そこには中国人・玉音(ユーイン/當山奈央)が・・・・。ずっと堅物だと思っていた兄の、まったく知らなかった別の顔を健二は知らされたるが・・・・。

突然亡くなった兄貴が恋人に残したビデオレターを弟が渡しに行く、と言う設定だけで涙腺破壊兵器の資格は十分である。ついでに、兄弟の不和というスパイスが振りまかれているのだから、さあ大変。勿論想像通りの作品だと想うが、それは逆説的には普遍的で誰にでも受け入れられる物語だと言える訳だ。勿論感動です。
當山奈央が好演。
 
 
「便せん日和」
監督:高成麻畝子
脚本:岡本貴也
出演:中越典子(永野美子)、大倉孝二(鈴森一成)、森ほさち(杉原万里子)
レターセットショップの主任(大倉孝二)を想い、何通も何通も書いたラブレターを一通も投函できない店員・美子(中越典子)。
一方、鈴森(大倉孝二)は、毎週金曜日の同じ時間に、同じ商品を必ず買いに来る女性客(森ほさち)に恋心を抱いていた。
美子は自分の主任への気持ちを隠し、女性客にアタックするよう鈴森にけしかけるが・・・・。

前述のように画質はガタガタであるが、映画全体を引き締め、繋ぐブリッジ・ストーリーとして機能するエピソードである。
物語としては若干弱いかなと思うのだが、深刻にならず過度なユーモアとペーソスを散りばめながら進む物語は、せつない乙女心とせつない男心の両方を見事に描いている。
両性にアピールする素晴らしい脚本を持ったエピソードである
中越典子、大倉孝二が好演している。

(あらすじはオフィシャル・サイトよりほぼ引用)
 
 
本作「恋文日和」のコンセプトは、現代のIT社会において、最早旧時代の情報伝達方法である「手紙」の復権と、回顧を目的としているようで、「手紙」ならではの4篇のエピソードが織りなす瑞々しくも鮮烈なイメージは、観客の心情を十分揺り動かす力を持っている。 
 
結局、本作「恋文日和」は、「手紙」など書いた事も、もらった事もないような世代の人達に是非見ていただきたい作品だと思う一方、「手紙」を普通にやり取りしていた世代の人々にも、ああ昔はこんなだったな、と昔を懐かしませる作品にも仕上がっている。

そして本作は、世の中が便利になればなるほど、人間という奴は確実にダメになっていっている。そんな事を再確認させてくれる良質の作品だとも言えるのだ。

この時代、携帯やメールを使わない人生も楽しいのかも知れないのだ。
 
 
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2004/12/01 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「血と骨」を観た。当日は「映画の日」の特別イベントとして、崔洋一のトークショーが行われた。

「血と骨」というタイトルから、多くの人が連想するのは、イエス・キリストの「肉と血」ではなかろうか。事実わたしも「血と骨」と言うタイトルから、本作はキリスト教的世界観に則った物語ではないかと思っていたし、もしかすると本作の主人公を救世主に準えているのではないか、とも思っていた。また同時に、勿論逆説的にではあるが、「血と骨」は反キリスト者を描いている作品なのではないか、とも思っていた。

ところで、東洋では人間や生物(哺乳類)一般を「肉が詰まった袋」と表現することがあり、西洋では同様に人間や生物を「骨が詰まった袋」と表現する事がある。東洋と西洋の文化の差異を把握した上で三段論法的に考えると、「骨」と「肉」とは同義である、という事が出来るのではないだろうか。
そう考えた場合、当然の如く「血と骨」は「肉と血」と同義であると考える事が出来る訳だ。

そう考えた場合、「血と骨」と言う作品は、キリスト教を信奉する人々にとって、キリスト教を冒涜するような印象を与えかねないインパクトのある作品に仕上がっていると考えられるのである。

それを裏付けるかのように、本作「血と骨」では、キリスト教的観点から演出されているのではないか、と思えるような象徴的な描写が散見できる。

例えば、茶碗の欠片で腕の静脈を切り、自分の血を飲め、と金成貴(塩見三省)に迫る金俊平(ビートたけし)であったり、在日朝鮮人長屋の祝祭に豚を屠り振舞う金俊平。暴力とSEXに明け暮れながらも、限られた人々に不器用ながらも愛情を注ぐ金俊平・・・・。

そしてあたるを幸いに、一般的な道理が通じない、理由のわからない暴力を振るう金俊平の姿は、在日朝鮮人長屋と言う限定され閉鎖された空間における「災害(天災)」のメタファーとしても捉える事が出来る。そして、そこから論理を飛躍させると、金俊平は「神の雷(いかずち)」を具現化した存在だと解釈する事も出来る訳だ。

ここまで来ると金俊平は救世主イエス・キリストではなく、限定された世界の「嫉む神ヤハウェ(Yahweh)」のメタファーとして捉える事が出来るのではないだろうか。

ここまで読んで来て、何考えてるんだ、論理が飛躍しすぎだよ、と思う人もいると思うのだが、少なくても梁石日が自らの小説に「血と骨」というタイトルを付けた以上、自らの作品とキリスト教との関係は明らかであると思うのだ。

しかし、それを踏まえて本作「血と骨」を観ると、主人公金俊平のキャラクターを描くより、金俊平を取巻く市井の人々を描く事に尺が割かれているような気がする。
そして金俊平を捕らえるカメラは一歩引いた冷徹な視点を持っており、金俊平の感情の動きを捕らえるのではなく、感情移入を拒むかのように、金俊平の行動を真正直に冷淡に捕らえているのである。

浜田毅(撮影)のカメラは、金俊平の行動原理を解き明かすことはせず、ただ淡々と金俊平の行動、言わば天災のようなものを描いているのだ。そして胸を張り、背筋を伸ばし災害に立ち向う人々を描写しているのだ。

キャストは、誰もが言うように、ビートたけしの内に闇を秘めた様が素晴らしかった。しかし映画ファンとしては、普通の俳優に演じて欲しかったと思うのだ。ビートたけしは好演しているのだが、かつてのコントの記憶が時々顔を出してしまうのだ。

鈴木京香にしろオダギリジョーにしろ、濱田マリにしろ田畑智子にしろ、陳腐な表現だが体当り演技を見せてくれている。勿論評価すべきなのだが、本作「血と骨」については全てのキャストが与えられた仕事を100%以上の力を出して演技合戦に興じているのだから仕方が無い。正に文字通り戦いにも似た演技合戦なのだ。

あと特筆すべきは新井浩文だろう。最近話題作には必ず顔を出す、注目の俳優だが、映画によって全く違うキャラクターを演じ分けているのだ。多分近作のスチールにしろ、映像にしろ並べてみても、同一人物だとは思えないのではないだろうか。勿論顔はおんなじだが。

またオダギリジョーも良い俳優になってきたと思う。彼はこういった路線の方が良いのではないかと思う。

更に、出番は少ないながら二役を演じた伊藤淳史(龍一/俊平の少年時代)も良かった。

美術(磯見俊裕)にしろ照明(高屋齋)にしろ素晴らしい仕事をしており、「血と骨」の世界観の構築を助けている。特に美術、小道具(プロップ)が素晴らしい。

脚本は、金俊平を取巻く人々のみを描き、凡庸な脚本家であれば、背景として取り入れるであろう、時代の大きなうねりが割愛されている点には、個人的には良い印象を受けた。

本作「血と骨」は中身が薄い娯楽映画に慣れ親しんだ観客にとっては、面白くもなく退屈で、暴力を極端に取り入れた酷い映画のように受取れるかもしれない。
しかしながら、俳優の素晴らしい演技合戦が楽しめる素晴らしい映画に仕上がっている。
文芸大作とはこういうものなのだ。

=+=+=+=+=+=+=

崔洋一のトークショーは、映画の内容ではなく、映画がどのように企画され、製作されて来たかが中心となっていた。
原作を読み、ビートたけしにオファーし、鈴木京香、濱田マリ、オダギリジョー等が集まり、最早挙げた手を下ろせない状況だった、と言うような話が興味深かった。

トークショー後は、プレゼント抽選会や握手会があり、わたしは事前に準備していたパンフレットにサインを貰った。

余談だが、俳優や監督にサインを貰うには、事前準備が必要だと思うのだ。ペンは勿論、サインを貰うスチールや書籍、パンフレット等を事前に準備する必要がある。あとはタイミングなのだ。
因みに、ペンは黒と銀の2種類あれば、たいていの物には見映え良くサインが映える。

=+=+=+=+=+=+=

余談だが、金花子についてだが、わたしの記憶違いかも知れないのだが、子役から田畑智子になった後に、再度子役に戻っていたような気がする。具体的にはマッコリを張賛明(柏原収史)に薦めるシーンから 金花子は田畑智子が演じているのだが、その後の室内のシーンで、金花子は子役の俳優に再び戻っていたような気がするのだ。わたしの記憶違いか、シーンの入れ替えがあったための苦肉の策なのか、謎である。

更に余談だが、ラスト近辺の金俊平の姿はスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のボーマン船長を髣髴とさせる。
 
 
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2004/11/29 東京九段下「九段会館大ホール」で「僕の彼女を紹介します」の試写を観た。

本作「僕の彼女を紹介します」は、クァク・ジェヨン監督待望の新作で、大ヒット作「猟奇的な彼女」のヒロイン役チョン・ジヒョンとクァク・ジェヨン監督が再び組んだという、超期待の作品なのだ。
わたし的には「猟奇的な彼女」で感涙、次の「ラブストーリー」で号泣、クァク・ジェヨンの作風は、わたしのツボだったため、本作にも、号泣させてくれよと、多大なる期待を込めて「僕カノ」こと「僕の彼女を紹介します」の試写に臨んだ訳だ。
 
 
激しい思い込みと誰よりも強い正義感に燃えて、日夜奮闘を続ける熱血巡査ヨ・ギョンジン(チョン・ジヒョン)。しかし、彼女が自信満々で捕まえたのは、犯人逮捕に協力しようとしていた善意な市民、女子高で物理を教えるまじめな新米教師コ・ミョンウ(チャン・ヒョク)だった。

とんだ災難に遭ったミョンウだったが、後日、青少年の非行防止の見回りのため訪れた交番で、ふたたびギョンジンと遭遇する。見回り中、事件に巻き込まれ逃げ出そうとする彼をすばやく手錠で捕まえる彼女。ミョンウは、あらゆる事件や揉め事に首を突っ込むギョンジンのせいで、麻薬密売組織による銃撃戦にまで巻き込まれ、命がけの一夜を過ごす。

そんな出会いにもかかわらず、二人が恋に落ちるのに時間は要らなかった。そして、彼は心に決める。この勇敢すぎるほど勇敢で、無謀なまでにまっすぐな、愛すべき彼女を、たとえ何があっても守り抜こう、と。
しかし、そんな彼らを待ち受けていたのは・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督・脚本:クァク・ジェヨン
出演: チョン・ジヒョン(ヨ・ギョンジン巡査)、チャン・ヒョク(コ・ミョンウ)、キム・テウク、チャ・テヒョン
 
 
本作「僕の彼女を紹介します」のプロモーションは「泣ける」と言う事を前面に出しているのだが、わたし的には残念ながらあまり泣けなかった。前述のように、わたしは「猟奇的な彼女」で感涙、続く「ラブストーリー」で号泣してしまっているだけに、三作目の本作に当然の如く号泣を期待していたのだ。ついでに、本作の「号泣必須プロモーション」にも踊らされていた訳だ。

余談だが、泣きたいのなら前作「ラブストーリー」がオススメである。悲しいから泣く、かわいそうだから泣くのではなく、運命的なプロットの巧みさに泣くのである。

ところで、本作を観て再確認したのだが、監督のクァク・ジェヨンの嗜好なのか、アメリカを中心とした西洋文化への憧憬が色濃く出ているようだ。特にサントラの選曲について顕著だと思う。
日本映画にもアメリカ文化への憧れが見え隠れする作品はあるのだが、現代日本映画にはほとんどそういった描写が無い。そこから考えるとかつて日本文化がそうであったように、韓国文化は現在、進行形で西洋化しつつあるのではないかと、思ってしまう。

ところで本作の根本には「猟奇的な彼女」で描かれた、自己中心的な女性に男性が振り回されつつ恋に落ちる、というメインのプロットと、「ラブストーリー」で語られたような、過去のある出来事が現代に影響を与える伏線となっている運命的なプロットが導入されている。

また本作の特徴として、「猟奇的な彼女」のイメージや演出、カットが繰り返し登場し、同作内で描かれていた、ヒロインが語る「挿話」(今回は「ロミオとジュリエット」がモチーフ)も登場している。また本作のヒロインの部屋は「ラブストーリー」のヒロインの部屋と酷似しており、鳩が来るし風の演出も踏襲されている。
また「猟奇的な彼女」でヒロインが唯一心情を吐露するシーンで強烈な印象を与える「ごめん」というセリフも本作でも重要な意味を持っている。
更にラストのシークエンスでは、正に運命的で誰もが納得できる素晴らしい印象を観客に与えると同時に、素晴らしいファン・サービス精神が感じられる。
あのエンディングは、クァク・ジェヨン監督ファンにとっては予定調和的な唯一で最高のエンディングなのだ。

従って本作は、好意的に取ればクァク・ジェヨンの三作目にして早くも集大成的な作品を製作した技量を評価できるのだが、逆に考えると監督としての底が見えた感が否定できない。
これは「猟奇的な彼女」と「ラブストーリー」の脚本がトリッキーでいながら普遍的で素晴らしい脚本に仕上がっていたのだが、それらの脚本と比較すると本作の脚本が凡庸で独自性が足りない印象を受ける。

余談だが本編に挿入される「ロミオとジュリエット」をモチーフとした「挿話」を前提にすると冒頭の空撮は勿論「ウエスト・サイド物語」の引用だし、「雨に唄えば」の引用と思われるシーンもある。校庭でヒロインの周りを自動車が走るシーンでは「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュースを回るカメラ・ワークが再現されている。このようなクラシックな作品からの引用が興味深い。
これは前述の、西洋文化への憧憬ととらえるか、古き良き時代への回顧ととらえるのかわからないが、監督の嗜好が垣間見える瞬間だと言える。

キャストは何と言ってもチョン・ジヒョンの魅力爆発である。相手役のチャン・ヒョクははっきり言って、そこそこ演技が出来れば誰でも良かったのではないか、とさえ思えてしまう程、チョン・ジヒョンのためだけに、チョン・ジヒョンを魅力的に見せるためだけに製作されたような作品なのだ。

その観点からは、脚本はまあ及第点は与えられるのだが、やはり詰めが甘く、もっと号泣させて欲しかったのだ。

とにかく、本作「僕の彼女を紹介します」は号泣指数は前作「ラブストーリー」に及ばないが、チョン・ジヒョンとクァク・ジェヨン監督のファンならば最大限に楽しめる、監督の集大成的な作品であると同時に、ファンならずとも楽しめる素晴らしい作品に仕上がっている。この冬オススメのラブ・ストーリーなのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=

余談だけど、最近、韓国映画にしろ香港・中国映画にしろ、生きの良いアジア映画をハリウッド・メジャーが本気で配給しているのが気になる。
従来、アジア映画の日本国内配給は、ほとんど日本の配給会社が担当していたのだが、最近のアジア映画の隆盛を受けて、ハリウッド・メジャーがアジア映画の製作・配給に関わってきたのだ。
製作時点でハリウッド・メジャーによる全世界配給が決まっているような作品が増加すると、従来良質のアジア映画を買い付け、日本公開して来た日本の配給会社は、どんどん厳しい状況に追い込まれていくのではないか。
おそるべし貪欲なハリウッド・メジャーなのだ。

=+=+=+=+=

更に余談だが、2004/12/01に東京有楽町「東京国際フォーラム」で、クァク・ジェヨン監督とチョン・ジヒョンの舞台挨拶付きの試写があるのだ。
チョン・ジヒョン好きのわたしとしては、何が何でも行きたい気持ちで一杯なのだがチケットが手に入らないのだ。
ついでに当日、崔洋一のトークショー付き「血と骨」のチケットを押さえてしまった。チョン・ジヒョンを思い浮かべながら、崔洋一と語るぞ。
 
 
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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「2046」

2004年11月27日 映画
2004/11/26 ワーナーマイカルシネマズ板橋で「2046」を観た。

「その不思議な未来(2046)では、ミストリートレインが動き出し、アンドロイドが恋に落ちる。」
「2046、全世界衝撃の、近未来ラブストーリー」

先ずは、ウォン・カーウァイが誰でクリストファー・ドイルが何をしている人かを知らないような観客を「2046」に呼び込んだブエナビスタの広告宣伝手腕に脱帽である。

「2046」公開前、多くの映画ファンの間では、ウォン・カーウァイの「2046」を、木村拓哉とSFテイストを前面に押し出した戦略の下、全国拡大ロードショー公開することに対する危惧の声があがっていた。

勿論、ウォン・カーウァイの作家性や過去の作品、またはクリストファー・ドイルの撮影スタイルについて幾許かの知識を持っている観客を劇場に呼ぶのは構わないのだが、全くウォン・カーウァイやクリストフォー・ドイルを知らないような一般の観客に対して、ある意味「騙し(ミスデレクション)」とも言える広告宣伝を打ち、何も知らない素人の客を呼ぶ、と言うのはいかがなものか、と思う訳だ。

最近では「キル・ピル」や「マスター・アンド・コマンダー」、「ロード・オブ・ザ・リング」、「リディック」等で、隠された意図の下、作品の内容や前提を歪曲する傾向を持った、広告宣伝が行われている。
これは、一映画配給会社の刹那的な増益に繋がるのかも知れないが、映画業界全体にとっては、決して良いことではないのだ。結局は自分で自分の首を絞めているのに他ならない。

「あんなに宣伝している話題作なのに、なんでこんなにつまらないんだ」
「話題作でこんなにつまらないんだったら、他の作品は最悪につまらないに違いない」
「もう劇場なんかに行かない」
そう思う観客の何と多い事よ。

事実、ウォン・カーウァイの作品を知らずに、「格好良い近未来SFラブロマンス」を期待して劇場に足を運んだ観客にとって本作は、最低につまらない、何も起きない映画として評価されてしまい、もう二度とウォン・カーウァイ作品なんか観ない、という事にもなってしまうかも知れないのだ。

ちょっとは映画業界全体の将来のことも考えてくれよ、配給会社さんよ。

=+=+=+=+=+=+=

1967年 香港。
新聞記者から物書きへ転向したチャウ(トニー・レオン)は、これまで何人もの女たちと刹那的な情愛を繰り返していた。
ある日、チャウがシンガポールに滞在していた時代に交流のあった女性スー・リーチェン(コン・リー)と香港で再会したチャウは、彼女の宿泊先を訪ね、旧交を温めようとするが追い返されてしまう。彼女はそのホテルの「2046」号室に宿泊していた。

後日、チャウはそのホテルの「2046」号室に住み込もうとオーナー(ウォン・サム)を訪ねるが、「2046」号室は改装工事のため入る事が出来ず、チャウは隣の「2047」号室に住む事になる。部屋の改装はスー・リーチェンが「2046」号室で死んだ事によるものだった。

ホテルのオーナーの娘ジンウェン(フェイ・ウォン)は、日本人青年(木村拓哉)と恋をし、妹のジーウェン(ドン・ジェ)は、チャウの部屋に入り浸る。そして「2046」号室にはバイ・リン(チャン・ツィイー)が越して来た。

チャウは身の回りの実在の人物をモデルに、近未来小説「2046」の執筆をはじめるが・・・・。
 
監督・脚本・製作:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル
音楽:梅林茂
出演:トニー・レオン、木村拓哉、コン・リー、フェイ・ウォン、チャン・ツィイー、カリーナ・ラウ、チャン・チェン、マギー・チャン、ドン・ジェ
 
先ずはアジアが誇る豪華な俳優人の素晴らしい存在感に脱帽なのである。

最近、キラキラでブレブレの映像ではなく、フィックスのシックな画面が多くなってきたクリストファー・ドイルが二次元に切り取る映像の中、何もしなくても、ただ佇んでいるだけで、1分でも2分でも持たせられる俳優たちの力量、表情と身体全体から醸し出される雰囲気や空気、それだけを見ているだけでも至福の時間を過ごす事が出来る。

しかしながら、本作「2046」のように、大きな出来事が起きず、テンポがのろい作風は、派手でスピーディーな展開を好む観客にはあまりにも退屈で、はっきり言って苦痛なものかも知れない。
とは言うものの、俳優たちの演技やクリストファー・ドイルが切り取る映像を、絵画のように楽しむファンにとっては、本作「2046」は、細部に神が宿る素晴らしい絵の数々を楽しめる作品と言えるのだ。

特にトニー・レオンの甘い微笑には、女性でなくとも蕩かされてしまう。またフェイ・ウォンの陶磁器のような美しさと可憐な動き、チャン・ツィイーの勝ち気でいながら最後に見せる心の線の細さ、出番は少ないものの、ドン・ジェの瑞々しさ、そしてコン・リーの刹那的な様。どれをとっても、一幅の絵画に匹敵する、美術品、工芸品のような輝きを放つ素晴らしい演技の釣瓶打ちなのだ。
そして、1960年代を見事に再現するウィリアム・チョンの素晴らしい美術とクリストファー・ドイルの素晴らしい撮影。なんとも贅沢なのだ。

日本期待の木村拓哉は、いつものドラマの調子で良い所は特に無い。ナレーションもグタグタだし日本語台詞もまずい。ついでにアップの画が持たないのだ。また日本語がわかるダイアログ・エディタがいなかったのか、木村拓哉がセリフを噛んでいる音声がそのまま使われていたのが気になった。

音楽(梅林茂)は、オーケストレーションも美しく、多くの観客の心の琴線に触れることには成功しているのだが、残念ながら本作のメイン・タイトルは「レオン」のそれとあまりにも似ているのが残念である。

また、クレジットが格好良かった。
オープニングは、「スーパーマン」ミート市川崑と言った印象を受けるし、エンド・クレジットは、テキストの横移動が良い。余裕が無く、ポンポン変わる所は微妙だが、細かいところにも力を入れているようである。

物語は、ウォン・カーウァイの「花様年華」の後日談的な構成になっており、一部では堂々と「続編」と断言しているようである。愛を信じない男チャウの現実世界と精神世界の旅路の物語で、現実と虚構が入り混じり、時系列も入替わり、冒頭部分のカットがラストに登場し、壮大なロマン的な印象をも受けるが、伏線が上手く機能していないような残念な印象も受けた。

「カンヌ国際映画祭」の後、再編集を行い木村拓哉の登場カットを増やしたらしいが、木村拓哉の同一のカットが複数回使用されており、ケチったのか、と思う反面、本作のテーマ性を伏線として明確に描こうとする手法にも見えていた。

とにかく、本作「2046」は独特の作風で既にカルトなファンを獲得したウォン・カーウァイの最新作で、クリストファー・ドイルが切り取る数々の映像を一幅の絵画のように楽しみ、また俳優たちの素晴らしい演技と雰囲気や空気を堪能する、ある意味贅沢な作品に仕上がっている。(時間的にも贅沢だ)

観客を選ぶ作品だと思うが、機会があれば観ておけば、いろいろ役に立つのではないか、と思う。

=+=+=+=+=+=

余談だが、ウォン・カーウァイは、もしかするとデヴィッド・リンチのように解釈し、評価すべき作家なのかもしれない。
 
 
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
2004/11/24 東京有楽町「東京国際フォーラムAホール」で「カンフーハッスル」の試写を観た。
舞台挨拶は監督・製作・脚本・主演のチャウ・シンチー(周星馳)。 
 
かつて香港に、世界中を沸かせたカンフー映画の一大ムーブメントがあった。
しかし、その魁であったブルース・リーは既に亡く、後継者たるジャッキー・チェンは年老いてしまい、今や世界に誇る香港カンフー映画の系譜は途絶えてしまったかに見えた。

そんな中、カンフー映画を貪欲に求める観客たちの欲求を満たすためか、かつての香港カンフー映画の系譜を継ぐ様々な作品が世に出てきた。それは「マトリックス」であり「キル・ビル」であり「マッハ!」であった。

切歯扼腕する香港映画界。
そんな中、香港カンフー映画の復権を果たすためか、一人の男が一本の映画を引っ提げ、満を持して立ち上がった。
その男の名は周星馳(チャウ・シンチー)。そしてその映画が「カンフーハッスル」なのだ。
 
 
舞台は文化革命前の中国。
強くなるために悪を目指す街の負け犬チンピラ、シン(星/チャウ・シンチー[周星馳])は、相棒(骨/ラム・チーチョン[林子聰])と共に、小さな悪事を働き糊口をしのいでいた。
ある日、シンと相棒は、貧民街「豚小屋砦」の散髪屋(半尻の床屋)で、冷酷非情なギャング団「斧頭会」の名を騙り、小金を巻き上げようとしたが、住民の団結力に負けてしまう。「斧頭会」の仲間を呼ぶぞと、脅しのつもりで投げた狼煙花火が「斧頭会」の副組長(ラム・シュー)の頭を直撃、「斧頭会」一行は狼煙花火を投げた奴を吊し上げるべく、貧民街「豚小屋砦」に乗り込んできた。

「斧頭会」の傍若無人の悪事に、業を煮やした男たちが立ち上がった。それは粥麺屋(油炸鬼/[董志華])、仕立屋(裁縫/[趙志凌])、人足(口古口厘強/[行宇])の三人の武術の達人だった。彼らは武術を極めた後、争いを嫌うが故に、在野に下り「豚小屋砦」で平和に暮らしていたのだ。

一時は、「斧頭会」を退けた「豚小屋砦」の達人たちだったが、面子を潰された「斧頭会」の組長、サム(チャン・クオックワン/[陳國坤])は、相談役(ティン・カイマン/[田啓文])等と共に、「豚小屋砦」の達人たちを倒すべく刺客を送り込む。

街の平穏な生活を願う、「豚小屋砦」の家主(女房東/[元秋])とその夫(房東/[元華])も否応無く戦いに巻き込まれていった。
かくして、「斧頭会」の面子と、「豚小屋砦」の平穏な生活をかけた戦いは、全面抗争の様相を呈してきた。
 
 
「マトリックス」「キル・ビル」「マッハ!」に対する香港の回答がここにある。「カンフーハッスル」は最高の血沸き肉踊る冒険活劇、最高の香港カンフー映画なのだ。

冒頭の「斧頭会」と「鰐革会」の抗争のシークエンスは、「キル・ビル」系のヴァイオレンス描写が続き、三人の達人と「斧頭会」との抗争は、「マッハ!」を髣髴とさせるフルコンタクト系のアクションが楽しめる。「斧頭会」の刺客との戦いはジャッキー・チェンのコミカルな道具仕立ての戦いから、「マトリックス」を超えるワイヤーアクションが炸裂する。

それと同時に、本作「カンフーハッスル」は、ブルース・リーの70年代、ジャッキー・チェンの80年代、ワイヤー・アクションが登場する90年代、CGIがアクションに導入される2000年代と、カンフー映画の歴史を一本で楽しめる構成にもなっているのだ。
アクション導演は、アクションの魔術師ユエン・ウーピン(袁和平)。脇を固めるのは、ジャッキー・チェンの盟友で、ブルース・リーの相手役も務めたサモ・ハン・キンポー。ブルース・リーのスタントマンを務めたユン・ワー等、70年代から現代までのカンフー映画の牽引者が集結している。

本作「カンフーハッスル」は、香港カンフー映画の文字通り集大成なのだ。
 
 
先ずは、コロムビア・ピクチャーズが配給を行っているのに驚いた。香港映画の日本国内の配給を日本の配給会社ではなく、ハリウッド・メジャーが行っていることに驚いたのである。しかし実際のところは、コロムビア映画が製作に名を連ねていたのである。ハリウッド資本で製作された香港映画、と言うスタンスなのだろうか。

また、映画のクオリティにも驚いた。セットにしろ、美術にしろ撮影にしろ、照明にしろ、編集にしろ、ハリウッド映画のクオリティを持っていた。最近のアジア映がでは「ブラザーフッド」のクオリティにも似た、品質を持っているのだ。

そして物語は、「少林サッカー」の系統を貫き、市井の人々が実は武術の達人である、と言う設定が素晴らしい。おじさんやおばさんが、強烈に強く、格好良いのだ。「少林サッカー」同様、おじさんやおばさんがが格好良い映画には、強烈に惹かれてしまうのだ。

気になるカンフー・シーンは、若干荒唐無稽な技が顔を出すが、はっきり言って素晴らしい。「斧頭会」と「豚小屋砦」の三人の達人の戦いのアクション・シークエンスには、あまりにも素晴らしいアクションに感涙モノなのだ。

また演出や構成も素晴らしく、例えば「斧頭会」の組長サム(チャン・クオックワン/[陳國坤])のダンス・シーンは、斧を持ち華麗に踊るメンバーが徐々に増えていくカットと、「斧頭会」が街の人々を苦しめているカットを交互に繋ぐ事により、「斧頭会」が街を支配し、構成員をどんどん増やしていく姿を見事に表現している。そんな演出の目白押しなのだ。

そして何と言っても本作は、周星馳(シャウ・シンチー)のブルース・リーやかつての香港カンフー映画に対する愛情がひしひしと感じられる素晴らしい作品に仕上がっているのだ。
その映画に対する愛が溢れるこの素晴らしい作品を是非観ていただきたいのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=
周星馳(シャウ・シンチー)の舞台挨拶中、「東京国際映画祭」同様、小川直也、グレート佐助らが舞台に乱入し、思いっきり観客の反感を買っていた。今回の試写はフジテレビが企画していたのだが、はっきり言って最低の演出だった。

何しろ、自分に人気があると勘違いしていた小川直也が最低だった。周星馳(シャウ・シンチー)を観に来た客の前で、周星馳(シャウ・シンチー)を罵倒する大馬鹿野郎だったのだ。勿論フジテレビにやらされているのだとは思うのだが、怒鳴れば怒鳴るほど、滑れば滑るほど、状況は悪くなっていった。
会場には5000人ほどの観客がいたのだが、確実に小川直也の株は暴落したと思われる。おそらく、あと少しで小川直也向けの「帰れ!コール」が起きそうな険悪なムードで、勿論演技かも知れないが、周星馳(シャウ・シンチー)も非常に不愉快な表情をしていた。

「ハッスル!ハッスル!」どころではないのだ。

こんな企画は日本のメディアの悪いところであり、これを機に「二度と来日しない」ことにならない事を切に願うのだ。

試写会等の映画のイベントや舞台挨拶には、スタッフとキャスト以外のゲストは不要なのだ。
 

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「笑の大学」

2004年11月19日 映画
2004/11/19 東京板橋「ワーナーマイカルシネマズ板橋」で「笑の大学」を観た。

日本が戦争へと突き進んでいた昭和15年。
国民の戦意高揚の妨げになると様々な娯楽が取締りの対象となっていた。
ここ浅草では、演劇も規制され、台本も上演前に検閲を受けていた。警視庁の取調室では2人の男が新作喜劇を巡って熱い火花を散らしていた。一人は、一度も笑ったことがない厳格な検閲官・向坂睦夫(役所広司)。相対するは、笑いに命をかける劇団「笑の大学」の座付作家・椿一(稲垣吾郎)。向坂は台本から「笑い」を排除しようと椿に無理難題を突きつける。上演の許可をもらうためその要求を聞き入れながらも、なんとか「笑い」を残そうと苦悩する椿だったが・・・・。
 
 
監督:星護
原作・脚本:三谷幸喜
出演:役所広司(検閲官・向坂睦夫)、稲垣吾郎(劇団「笑の大学」座付作家・椿一)

面白い事は面白い。しかし、はっきり言って残念な作品である。
本作「笑の大学」は、役所広司の素晴らしい演技に救われ、シーン毎のクオリティは素晴らしいのだが、映画全体の構成を考えると、残念な結果に終わっている。
言わばテレビあがりの演出家が、映画の文法を理解せず、長尺ものの構成が出来ず、テレビの続き物の感覚で演出してしまった作品のような印象を受けるのだ。

台本の検閲シークエンス、二人芝居部分の演出は、及第だと言えるし、時々素晴らしいカットが顔を出す。勿論、役所広司の力量によるものだと思うし、稲垣吾郎も非常に頑張っている。

しかし、先ずは、映画には不必要なカットは存在し得ない、そして本編に残ったカットには全て意味があり、存在理由がある、と言う事を理解した上で映画を製作して欲しいと切に願うのだ。
撮影されたフィルムの山から、不必要なカット、不必要なコマを極限まで削ぎ落として行くと、一本の映画が完成する、と言うことなのだ。

一方テレビドラマには、ビデオ製作の制約上、つまりカット毎のノンリニア編集ではなく、副調整室(サブ)のスイッチによるシーン毎の編集のため、無駄なカットや、不必要なフレームが本編に必然的に含まれてしまうのだ。

その辺を理解した上でひとつひとつのカットに命をかけて、映画を製作して欲しいのだ。

そんな所から本作「笑の大学」を考えた場合気になる点が何点かある。
先ずは冒頭から何度か繰り返される、椿が「笑の大学」劇場から警視庁まで歩き、警視庁の建物の前でおののき警官にお辞儀をするシークエンスである。
別にこのシークエンスがいけない、と言っているのではない。同じようなカットやシークエンスを繰り返す以上は、そのカットやシークエンスに意味を持たせろ、と言う事なのだ。
折角マエフリが出来ているのに、何故最後の日に椿がいつもと違う雰囲気で歩くカットが無いのか、いつもと違う超然として達観した歩き方をする椿のカットが見たいのだ。

星護にとっては、この椿の歩きのカットは、1日目と2日目、または3日目と4日目等のシーンのつなぎとしてしか意味を持っていないようである。
あるいは、号外や通行人の服装が変わり、椿の環境、浅草の日常、そして日本を取巻く環境を観客に伝える為に存在するようである。

更に、これも冒頭から繰り返されるのだが、「不許可」のスタンプ押印についてだ。
ラストで何故椿の台本に「許可」のスタンプを押さないのか、または「許可」のスタンプが押された椿の台本の表紙のカットを何故本編に挿入しないのか、理解に苦しむ。
例えば、昭和15年代のポスターを模したクレジットを制作するのならば、クレジットの最後のカードは「許可」のスタンプが押された台本でも良いし、台本をエンドマークに利用しても良い。本編のラストカットに台本を映し、そこからアイリスでエンド・クレジットに繋げても良いと思うのだ。

椿の歩きにしろ、向坂のスタンプ押印にしろ、何のために何度も何度もマエフリを行っていると思っているのだ。オチが無いだろ、オチが。回収されない伏線などは映画にはいらないものなんだよ。その辺を理解して欲しいのだ。

また本作「笑の大学」は、ほぼ二人芝居の様相を呈しているのだが、役所広司の演技を見ていると、役者と言うものは何かを明確にわからせてくれる。役者とは口先だけのセリフではなく、身体全体の動きや雰囲気であることや、醸し出す空気であることが良くわかる。対する稲垣吾郎も経験は圧倒的に不足している割には善戦しているとは思うのだが、残念ながら役者としての格が違いすぎる。

例えば冒頭、二人が歩くシーンだけを並べて見せるだけでも、二人の歩き方ひとつをとっても存在感、説得力が全く違う。
役所広司の歩き方を見ると、検閲官・向坂睦夫の性格が完全に見て取れるのだ。自信に満ちた独善的で不正を許さない杓子定規な性格が観客に見事に伝わってくるのだ。一方稲垣吾郎の歩き方からは椿一の性格は残念ながら読み取れない。

二人を比較するのは酷な気もするが、本作はほぼ二人芝居の作品であるから、こればかりは仕方が無いだろう。

そして興味深いのは、物語上二人の関係は、検閲と言う国家権力(向坂睦夫)に立ち向かう孤高の脚本家(椿一)、と言う構図になっており、勿論「剣」と「ペン」のメタファーになっているのだが、見様によっては、世界的な俳優(役所広司)に立ち向かう俳優に似て異なる存在(稲垣吾郎)、と言う構図にも見えてくるのが興味深い。そう、役所広司と稲垣吾郎は、風車とドン・キホーテの関係なのだ。

しかし何と言っても役所広司は凄い。
そこには確実に検閲官・向坂睦夫が居たのだ。

二人の絡みのシークエンスは言うまでもないが、「笑の大学」劇場の前の、少年のような惚けたような表情は最高である。勿論稲垣吾郎は善戦しているが、本作「笑の大学」は、役所広司の演技を、存在感を表情を、セリフを動きを背中の哀愁を、それらを見るだけでも充分価値がある映画である、と言えるのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=+=
「クレイドル・ウィル・ロック」と比較しても面白いかも。
2004/11/16 東京六本木「VIRGIN TOHO CINEMAS六本木ヒルズ プレミアスクリーン」で「ハウルの動く城」の試写を観た。

愛国主義全盛の時代。王国の兵士たちが今まさに、戦地に赴こうとしている。銃には花が飾られ、歓呼の中を行進する兵士たち。荒地には、美女の心臓をとって喰らうという魔法使い、ハウルの動く城まで現れた。

そんな町から離れて歩く、ひとりの少女がいた。ソフィー(倍賞千恵子)は18才。荒地の裾野に広がる町で生まれ育ち、亡き父の残した帽子屋を切り盛りしている。妹のレティーは八方美人で人当たりも良く、街一番のカフェ、チェザーリの看板娘。ソフィーは妹に言われる。「本当に帽子屋になりたいの?」でも、生真面目なソフィーはコツコツと働くしかない。たまにひとりになると、自分が本当になにをやりたいのか、考えてしまう娘だった。

ソフィーはある日、街で美貌の青年・ハウル(木村拓哉)と出会う。追われているらしい青年は、ソフィーと共に天へ舞い上がったかと思うと、束の間の空中散歩にいざなう。夢のような出来事に心を奪われるソフィー。

しかしその夜、ソフィーは、荒地の魔女(美輪明宏)に呪いをかけられ、90才のおばあちゃんに姿を変えられてしまう。このままでは家にはいられない!ソフィーは荷物をまとめ、人里離れた荒地を目指すのだが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

脚本・監督:宮崎駿
音楽:久石譲
声の出演:倍賞千恵子(ソフィー)、木村拓哉(ハウル)、美輪明宏(荒地の魔女)、我修院達也(カルシファー)、神木隆之介(マルクル)、伊崎充則(小姓)、大泉洋(かかしのカブ)、大塚明夫(国王)、原田大二郎(ヒン)、加藤治子(サリマン)
 
 
本作「ハウルの動く城」は、「千と千尋の神隠し」から3年、世界中が待ちわびる宮崎駿の最新作であり、一言で言うならば全世界必見の素晴らしいファンタジー作品に仕上がっている。

その卓越した世界観は「天空の城ラピュタ」「紅の豚」「魔女の宅急便」等でも描かれたような、石畳が感じられるヨーロッパ某国の街並み。その色彩は豊かで美しく、陽光の暖かさが確かに感じられる世界観を見事に構築している。

「もののけ姫」以降のスタジオ・ジブリのワールド・ワイドな戦略を考えると、続く「千と千尋の神隠し」までの世界観は東洋的なテイストを前面に押し出し、「東洋の魅力」的戦略の下セールスしていた訳だが、本作の世界観は完全に西欧テイスト。しかもイギリスの著名な原作付きと言う事もあり、完全に世界をターゲットとして見据えた作品だと言えると同時に、世界に媚びている印象も感じられる。

全世界配給はディズニー系配給会社が行うと思うが、ヨーロッパで公開された場合、果たしてこの作品が日本製だと言う事を一般の観客が信じられるかどうか疑問に思えるほどの素晴らしい西欧文化的世界観が構築されている。

更に本作は、現在世界中で猛威を揮っている「ハリー・ポッター」シリーズへの対抗馬として十二分に機能すると言える。従来のファンタジー・ファンにとって「ハリー・ボッター」シリーズは、王道ではなく亜流的な釈然としない感想を持ってしまうのだが、本作はイギリス児童文学「魔法使いハウルと火の悪魔(1986)」を原作としている事もあり、決して新参者の亜流ファンタジー作品ではなく、背筋の伸びた誇り高き正統派ファンタジー作品である。と言う印象すら観客に与えている。

脚本は、原作を2時間にまとめるためか、急ぎ過ぎのきらいは否定できない。冒頭と×××と骨子は、ほぼ原作を踏襲し、原作を自己流に改変してしまう宮崎駿にしては素直な脚本と言える。

絵で物語る手腕は流石である。その力は、既にセリフなど要らない領域まで到達しているのだが、そう考えた場合、不必要で説明的なセリフが散見されるのが気になった。尤も、その説明的なセリフは、映画的文法を理解できない若年層への配慮だと思うのだが、大人の観客としてはちょっと残念な気がした。

キャストは何と言っても美輪明宏である。なんとも愛らしいキャラクターを見事に演じている。「もののけ姫」のモロとは対称的な意味だが美輪明宏は最高である。
また加藤治子のおっとり感も素晴らしい効果を本作に与えている。おっとり間の中の恐ろしさがもう少し出ていれば、と思った。

さて、話題の木村拓哉は、演技派に囲まれ、随分善戦している印象を受けた。部分部分のセリフには、ぎこちなさが散見されるが、概ね及第点だと言えよう。役者の声を聞く事に慣れていない観客にとっては、もしかしたら木村拓哉の声には聞こえないのではないか、と思う。「木村拓哉の声」の個性が無い分、物語に没頭できる印象を受けた。

本作を観て気付くのは、木村拓哉出演のドラマがまずいのは、脚本と演出のせいだ、と言う点である。確固とした脚本に確固とした演出をすれば、木村拓哉は役者としても一皮剥けるような印象を受けた。個人的には「あすなろ白書」の際、あぁジャニーズからも良い役者が出てきたな、と思ったのだが、それ以降は完全に「ドリフのもしもシリーズ(※)」になってしまっている。
いつまでも「ドリフのもしもシリーズ」を演じている訳にはいかない、と思うのだ。

倍賞千恵子も良いのだが、脚本上、自らの心情を敢えて口にする独白的なセリフが散見され、その辺に疑問を感じる。最早心の動きを言葉に出す必要性は無いのだ。やはりこれは若年層への配慮なのだろうか。尤もこれは図らずもおばあちゃんになってしまったソフィーが心の中だけで物事を考える事ができず、考えている事を我知らず口走ってしまうことを描写しているのかも知れないのだが。

我修院達也は前作「千と千尋の神隠し」に続く登用である。彼は前作以上に大きな役柄を楽しげに演じているようだ。この役柄は本作の中で唯一と言って良いほどの漫画的キャラクターであり、他のキャストと異なるテンションの演技を要求されている。一歩間違えば物語全体を破壊してしまう可能性を秘めているが、ハイテンションながら抑制された演技は、他のキャラクターとのバランスを微妙に保っている。

また、神木隆之介にも驚かされた。彼も「千と千尋の神隠し」に続いての参加なのだが、日本映画界では「観客を泣かしたいなら神木隆之介を使え」と言われているらしいが、本作でも素晴らしい演技を見せている。

大泉洋も同様に「千と千尋の神隠し」に引き続いての参加なのだが、セリフが少なく個人的には残念な気がした。

気になる内容については、公開後にレビューの予定。

=+=+=+=

プリントのせいなのか映写上の問題なのか、ピントが甘いカットがあった。巻全体がピンボケではなく、ピントが甘いカットが時々出てくるのだ。
まさかTOHOの名前がついた劇場に不良プリントが来る事は無いと思うのだが・・・・。
要確認なのだ。

=+=+=+=
※「ドリフのもしもシリーズ」
「もしも木村拓哉がパイロットだったら・・・・」
「もしも木村拓哉がピアニストだったら・・・・」
「もしも木村拓哉が・・・・」
というような印象を受ける作品群のことを指しています。

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2004/11/15 東京九段下「九段会館大ホール」で「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」の試写を観た。

1939年、ニューヨーク万国博覧会の年。
ニューヨーク上空に到着した巨大な飛行船ヒンデンブルグIII号はエンパイアステートビルの頂上に設置された飛行船ドックに停泊した。
そんな最中、またしても著名な科学者失踪のニュースが報じられる。事件の独自調査を開始したNYクロニクル紙の敏腕女性記者ポリー・パーキンス(グウィネス・パルトロウ)は、科学者失踪事件を追う途中、街で驚くべき光景を目撃する。摩天楼の上空を巨大なロボットの大群が来襲し、人間を襲い始めたのだった。人々が逃げまどう中、無謀にもその模様をカメラに収めようとしたポリーは間一髪のところで、元恋人で空軍のエースパイロット、スカイキャプテンことジョー・サリバン(ジュード・ロウ)に救われる。科学者失踪事件と今回のロボット襲撃事件に関連を見出したスカイキャプテンはポリーと協力して事件の謎を追い、やがて一人のドイツ人科学者トーテンコフ博士(サー・ローレンス・オリビエ)の存在に行き着くのだが・・・・。

監督:ケリー・コンラン
キャスト:ジュード・ロウ(スカイキャプテン/ジョー・サリバン)、グウィネス・パルトロウ(ポリー・パーキンス)、アンジェリーナ・ジョリー(フランキー・クック)、ジョヴァンニ・リビシ(デックス・ディアボーン)、マイケル・ガンボン(ペイリー編集長)、バイ・リン(謎の女)、サー・ローレンス・オリヴィエ(トーテンコフ博士)

ボクらがドキドキワクワクした冒険活劇がここにある。
これは新世代の「スター・ウォーズ」なのだ!

と言う訳で本作「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」は「スター・ウォーズ/新たなる希望」に匹敵する(嘘)最高の冒険活劇だと言えよう。
ボクらの少年時代、ボクらが「スター・ウォーズ」を初めて観て感じたようなドキドキワクワク感を、現代の少年たちが「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」で体験できるのでないか、と思うのだ。

本作は、スカイ・シップ1が出てきたり、クレイジーゴンが出てきたり、見たことがあるようなロボットやベタなデザインのロケットが出てきたり、音楽はジョン・ウィリアムズのオーケストレーションを模倣したようなアレンジが多用されていたりしている訳で、オリジナリティの部分では残念ながら手放しで褒め称える訳にはいかない。しかし少なくても本作「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」はこの秋最高のドキドキワクワク感溢れる冒険活劇なのだ。

先ずは世界観が素晴らしい。所謂レトロ・フューチャーなデザインと現代の俳優が見事に融和する素晴らしいクオリティを持ったCGIで構築された世界観に驚きなのだ。
勿論フリッツ・ラングの「メトロポリス」やチャップリンの「モダン・タイムズ」やジョルジュ・メリエス、フライシャー兄弟やなんかの影響や借用、引用、オマージュは見え隠れする世界観については、通常の作品だとすると美術やセット、衣装やプロップがどうのこうのと言う話になるのだが、俳優やプロップ以外は全てCGIと言う本作では、美術やセットがどうのこうのとは一概には言えない。まあ美術(Production Design)は監督のケリー・コンランの兄のケビン・コンランがクレジットされているところや、限りなく自主制作に近い作品らしい、と言う話を聞くと、彼等コンラン兄弟は凄い才能と凄まじい忍耐力と、オタッキーな言及スタンスを持った素晴らしい兄弟なのかもしれない、と思うのだ。

しかし、本作のイメージの多くは前述のように先人達の作品からの借物や引用に満ちており、物語の舞台がわれわれの地球上であり、われわれ人類の歴史の中で、こういった物語が起こった、とした所が最大の問題点だと思う。できる事なら、既存のビジュアル・イメージ(飛行機とか)を使用せず、遠い彼方の銀河系の物語にして欲しかったのだ。

脚本は一言で言うと小粋である。メインのプロットは凄いと思うが、展開は結構ベタだと言わざるを得ない。しかしそれを感じさせない小粋なセリフとユーモラスな演出、そして何と言っても前述の見事に構築された世界観を、観客を夢から醒めさせないクオリティを維持し続けているのだ。
小粋なセリフや演出は、カチっと決まった「スター・ウォーズ」ミート「レイダース」的な感じなのだ。
結構笑えるしね。

あと特筆すべき点は「オズの魔法使い」への言及とそこから派生するサー・ローレンス・オリビエのオズの大魔王的使い方が印象に残る。
ジュード・ロウと「オズの魔法使い」と言えば「A.I.」が記憶に新しいが、「A.I.」のルージュ・シティ(勿論エメラルド・シティね)のとある人物(ロビン・ウィリアムズ)を髣髴とさせる素晴らしい使い方なのだ。
勿論故人の過去の作品のフッテージを本来の意図とは別の意図で使用している点に釈然としない部分を感じるのは仕方が無いだろう。

とにかく、本作「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」は、残念ながら「スター・ウォーズ」には到底及ばないが、初めて「スター・ウォーズ」を観た時のような気持ちにちょっとだけ戻ることが出来る、素晴らしい魅力と魔法の力を持った作品だと思うのだ。(他の銀河系の物語だと思ってください)
ちょっと褒めすぎかも・・・・。

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それにしても、ケリー・コンランが4年かけて作ったと言う「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」のモトネタとなった6分間の作品を見てみたいものなのだ。

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しかし、「Mr.インクレディブル」のスコアは「007」のコピーだし、本作「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」のスコアはジョン・ウィリアムズのオーケストレーションのコピーとは、世の中一体どうなっているのでしょうか。
(「Mr.インクレディブル」は、ジョン・バリーにスコアをオファーしたらしいしね。)

とは言うものの、本作のスコアをジョン・ウィリアムズにやって欲しかったな、と切実に思うし、もしかしたらただ単に本作のスコアと「スター・ウォーズ」のサントラを入れ替えるだけで、本作は凄い傑作に生まれ変わるような可能性が感じられた。

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2004/11/13 東京九段下「九段会館ホール」で「Mr.インクレディブル」の試写を観た。

スーパー・ヒーローの黄金時代。彼らスーパー・ヒーローたちは世界中で数々の危機を救っていた。しかし、その破壊力に満ちたスーパー・パワーが、一般市民の被害を拡大していると訴えられ「敗訴」。それ以降、スーパー・ヒーローとして活動することを禁じられてしまった。

それから15年後、世界有数のスーパー・ヒーローだったMr.インクレディブルは、保険会社のクレーム担当係として退屈な日々を過ごしていた。
ある日、Mr.インクレディブルに届いた一通の手紙。それはインクレディブル一家にとって、新たな冒険の始まりだった・・・・。(ちらしよりほぼ引用)
 
監督:ブラッド・バード
キャスト:クレイグ・T・ネルソン(ボブ/Mr.インクレディブル)、ホリー・ハンター(ヘレン/イラスティ・ガール)、ジェイソン・リー(シンドローム)、サミュエル・L・ジャクソン(ルシアス/フロゾン)、ミラージュ(エリザベス・ペーニャ)、エドナ(ブラッド・バード)
 
 
「ファインディング・ニモ」に続くピクサー・アニメーション・スタジオの長編作品第6作目。監督は「アイアン・ジャイアント」のブラッド・バード。

本作「Mr.インクレディブル」は、一見すると誰にでもオススメ出来る素晴らしい娯楽作品に見える。確かに面白いし、キャラクターも立っているし、手に汗握るアクション・シーンが続くし、コミカルなシーンでは笑えるし、統一された世界観も素晴らしいし、小粋なセリフや演出に満ちた楽しい映画に仕上がっている。
しかし、前作「ファインディング・ニモ」までのピクサー作品と比較すると、何かが足りないような気がする。

完全な娯楽作品で良いのか?
と言う気がするのだ。

また、本作「Mr.インクレディブル」をブラッド・バード監督作品として考えた場合、残念ながら「アイアン・ジャイアント」を監督した監督の作品だと思えないような気がする。泣きどころに乏しい、楽しいだけの映画になっているのである。

確かに「Mr.インクレディブル」は面白いよ。娯楽作品としては素晴らしいよ。でもね、ピクサー社が今まで制作してきた作品と比較すると何だか物足りない、と言う気がするのよ。今回はわざわざ外部から監督を招いている訳なのに、なんだかそれが裏目に出てしまっているような気がしちゃうのだ。

そんな脚本は単純明快。大きなひねりも無く、誰もが思いつくような順当なシーンが続く。ある意味普遍的で予定調和的な脚本だとも言える。
脚本と共に、キャラクターの描き方は、Mr.インクレディブル、インクレディブル夫人(イラスティ・ガール)、フロゾン、ミラージュ、シンドローム等の大人のキャラは充分描きこまれているのだが、ヴァイオレット(サラ・ヴォウェル)、ダッシュ(スペンサー・フォックス)、ジャック・ジャックあたりの子供のキャラクターの描き込みが若干不足しているような気がする。
勿論、本作の主役は子供たちではなく、大人たちである事はわかっているのだが、それにしても子供たちの描き方が足りないような気がした。
とは言うものの、前述のように本作は、子供たちを脇に配し、大人キャラを主役にしている点は、ある意味英断だし成功のひとつの理由だと思う。
例えば「サンダーバード」では大人を脇役にし、子供を主役に配し、失敗しているだけに、本作は良い選択を行ったのではないか、と思う訳だ。

ところで、本作「Mr.インクレディブル」のテイストだが、個人的な印象としては、スーパー・ヒーローものと言うより、「007」シリーズ(特にロジャー・ムーアの時代の作品)のような印象を受けた。例えば悪の秘密基地のビジュアルは「007」シリーズや「オースティン・パワーズ」シリーズのそれを髣髴とさせるし、飽くの組織が実行する荒唐無稽なファンタジックで雄大な作戦がなんとも楽しいのだ。音楽も「007」テイストの再現に力を入れているようだし。

CGIについては文句の付け所が無い程のクオリティで作品全体が構築されている。
 
 
とにかく、本作「Mr.インクレディブル」は誰にでも自信を持ってオススメ出来る最高に楽しめる娯楽作品に仕上がっているのは間違いない。

しかし、個人的にはそれで良いのかどうかは、また別の話だと思う。今後のピクサー社の事を考えた場合、面白いだけで中身が無い作品が次々と製作されるようになってしまうのは、残念でならない訳だ。

因みに、同時上映の「Boundin’(短編/原題)」の方が、よっぽど中身が詰まっているような気がするし、製作者が何を訴えたいのかが明確である。本作「Mr.インクレディブル」で製作者が何を言いたかったのかを考えた時、わたしは釈然としない気分になってしまうのだ。

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ピクサー社の次回作は「Cars(原題)」である。従来のピクサー社のテイストを期待するむきには、ジョン・ラセター自らが監督を務める「Cars(原題)」に期待するのが正しいのかも知れない。
因みに「Cars(原題)」はピクサー製作/ディズニー配給体制の最後の作品で、実は「Mr.インクレディブル」より前に製作が始まった作品だったのずが、途中で公開順序が入替わってしまったようである。

余談だが、本作「Mr.インクレディブル」には、「Cars(原題)」への言及がされていた。
「ファインディング・ニモ」に当時の次回作「Mr.インクレディブル」の絵本が登場したり、「モンスターズ・インク」に当時の次回作「ファインディング・ニモ」のキャラクターが登場したり、と言う時系列的には逆説的なセルフ・オマージュとなっているのだ。(完成していない作品へのオマージュと言うのもおかしな話ではあるが・・・・)

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かつてのスーパー・ヒーローが、スーパー・パワーを封じられてしまい、来るべき復活の日を願っている、と言う構図は、クリストファー・リーヴが陥っていた境遇のメタファーと考えられる。
わたしは、本作「Mr.インクレディブル」は、そういった意味も込めて、クリストファー・リーヴに捧げられるのではないか、と思っていたのだが、残念ながらそうではなかったようである。
とは言うものの、出来ることならば、クリストファー・リーヴにこそ観て欲しい作品だと思うのだ。

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2004/10/15 東京新宿「新宿ミラノ座」
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」のオールナイト企画『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』で「リザレクション」を観た。
舞台挨拶は、ヒロインを演じたイム・ウンギョン。

合コンに明け暮れる冴えない出前持ちの青年ジュ(キム・ヒョンソン)は、密かにゲームセンターで働く少女に恋していた。ある晩、合コンの帰りにゲームセンターの彼女にアタックするも見事に撃沈したジュは、深夜の繁華街で、何故かライターを売り歩く「マッチ売りの少女」(イム・ウンギョン)を目撃する。ジュは「マッチ売りの少女」に押し切られる形でライターを受取ってしまう。
なんとそのライターは、とあるIT企業が提供する仮想現実で行う「マッチ売りの少女の再臨」というゲームへの招待状だったのだ。そのゲームは数々の障害や誘惑、他のプレイヤーの妨害を退け、「マッチ売りの少女」を物語同様、凍死させる事が目的で、少女が死の瞬間にプレイヤーの事を考えれば、そのプレイヤーが勝者になり、その少女と暮らせる、というものであった。
仮想現実を舞台にした、ジュの「マッチ売りの少女」を救う冒険が始まる。

監督・脚本:チャン・ソヌ
キャスト:イム・ウンギョン、キム・ヒョンソン、キム・ジンピョ、チン・シン、ミョン・ゲナム

なんとも形容し難い摩訶不思議な映画である。聞く所によると本作「リザレクション」は『韓流「マトリックス」』と呼ばれているようだが、方向性としては「アヴァロン」的なベクトルを持った作品だと思える。

また、本作の『主人公ジュは平凡な韓国の青年なのだが、「マッチ売りの少女」と出会う事により、異世界の扉を開き、冒険を繰り広げる』と言うメイン・プロットを抽出した場合は、ヤング・アダルト向けの異世界ファンタジー小説(例えば「富士見ファンタジア文庫」系)の映画化のような印象をも受けてしまう。

物語のテイストや安易な展開、突っ込ませるスキをわざわざ作っているプロットを見ると、アニメとゲームが融合し、物語のプロットより、その場その場の会話やキャラクターの設定が重要視される種類の作品のような印象を受け、観客の戦略的ターゲットを明確に定めた作品のような印象を受けた。

またその異世界の冒険を具現化するVFXは、高いクオリティとチープさが共存する摩訶不思議なギャップが楽しめる。
また新たなキャラクター(プレイヤー)が物語に登場する度に、そのキャラクターの特徴や得意技、装備している武器等の情報が、ゲームを模倣したようなウインドウで表示されるのも、面白いと言えば面白いのだが、安易と言えば安易であるし、その細かなマニアックな情報が前述のような戦略的ベクトルを物語っているような気がする。

期待のアクションについては、これも良い所もあれば、イマイチの所もあり、すげぇ〜っ、とか、そんな莫迦な〜っ的なアクションも楽しめるバラエティに富んだ構成になっている。

キャストは何と言ってもイム・ウンギョンに尽きる。
ヒロインである「マッチ売りの少女」を演じたイム・ウンギョンの可憐さには驚きである。まるでマイセンの陶磁器のようなイム・ウンギョンのルックスにゾッコン・ラブ(死語)なのだ。
こんな綺麗で、しかも(勿論当然のことなのだが)演技が出来るお嬢さん女優が沢山いる韓国映画界に羨望を禁じえないのだ。

まあ結論としては、本作「リザレクション」は、一般の観客向けの作品かどうかは微妙だが、美少女、アニメ、ゲーム等に関心がある方々には、比較的自信を持ってオススメ出来る作品のような気がする。
作品のベクトルは前述のように、一本貫いた指向性を持っているような気がした。
韓国若者のポップでキュートなアニメやゲームのようなサブカルチャーへの嗜好や傾向が垣間見れる作品だと言えるのではないだろうか。

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ヒロインを演じたイム・ウンギョンの舞台挨拶があったのだが、実物も可憐なお嬢さんなのだが、本編内の彼女は正にお人形さんのようなルックスだった。

本作では、セリフの無い役柄に苦労したようだが、実際の撮影は随分前の話で、あまり覚えていないようだった。
何しろ本作「リザレクション」は2003年の「TOKYO FILMeX」で「マッチ売りの少女の再臨」というタイトルで上映されているし、実際の制作年は2002年ということは、総製作費90億ウォン、撮影期間14ヶ月、製作期間4年と言う本作の概要から考えると、撮影を行った時期は本当に大昔だったようである。

余談だが、今回の上映は、所謂キネコ上映であり、画質に若干の問題があった。是非綺麗なプリントで再度観てみたいものである。
2004年、「シュレック2」が世界中で記録的なヒットを続けている。同作は「ファインディング・ニモ」を抜き、北米アニメ史上第一位の興収を記録、全映画のカテゴリーでも北米興収歴代第三位を記録している。 
しかし、わたしは「シュレック2」の大ヒットの影響を真剣に憂慮している。なぜならわたしは「シュレック2」は大ヒットしてはいけない種類の映画だと考えているからである。
 
 
それでは「シュレック2」の最新の興収を見てみよう。

2004/11/10付 北米歴代興収ベストテン
第一位「タイタニック」$600,779,824
第二位「スター・ウォーズ」$460,935,665
第三位「シュレック2」$436,471,036
第四位「E.T.」$434,949,459
第五位「スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」$431,065,444
第六位「スパイダーマン」$403,706,375
第七位「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」$377,019,252
第八位「スパイダーマン2」$373,247,668
第九位「パッション」$370,270,943
第十位「ジュラシック・パーク」$356,784,000
 
2004/11/10付 全世界歴代興収ベストテン
第一位「タイタニック」$1,835,300,000
第二位「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」$1,129,219,252
第三位「ハリー・ポッターと賢者の石」$968,600,000
第四位「スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」$922,379,000
第五位「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」$921,600,000
第六位「ジュラシック・パーク」$919,700,000
第七位「ハリー・ポッターと秘密の部屋」$866,300,000
第八位「ファインディング・ニモ」$865,000,000
第九位「ロード・オブ・ザ・リング」$860,700,000
第十位「シュレック2」$849,571,036
 
 
1.「シュレック2」はオリジナル作品ではない。

先ず考えなければならないのは「シュレック2」という作品は、オリジナル作品ではなく、様々な童話や名画の有名なシークエンスを模倣する事を目的としたパロディ映画である。と言うことである。

勿論、所謂パロディ映画がヒットすること自体は全く問題ではない。寧ろ「シュレック2」のヒットは、従来日陰の存在であったパロディ映画というジャンルに新たな光を当てるという重要な意味を持っている、とも言える。

しかし、だ、モノには限度と言うものがある。
パロディ作品がネタにしているオリジナル作品以上にヒットするのは、いかがなものか、とわたしは思うのだ。

勿論「シュレック」シリーズには、「みにくいシュレック」と言うれっきとした原作絵本があるし、「シュレック」シリーズの基本プロット自体はオリジナルなのだが、「シュレック2」は、そのオリジナルなプロットを描く事より、多くの映画や童話のシーンを模倣する事に力を入れ、それを作品の特徴的コンセプトとしているのだ。

例えば「新サイコ」が「サイコ」や「鳥」以上のヒットを飛ばし、「スペースボール」が「スター・ウォーズ」を打ち負かし、「ホット・ショット」が「トップガン」を抜き、「ローデッド・ウェポン1」が「リーサル・ウェポン」や「ダーティ・ハリー」をぶち抜き、「カジノ・ロワイヤル」が本家「007」シリーズを凌駕しても良いのだろうか。
わたしは嫌だ。

わたしは、今まで日陰の存在で、2本立興行の2本目であったり、場末の劇場で細々と恥しげに公開されていたり、マニアックな映画ファンが人知れずニヤニヤと楽しんでいたパロディ映画が、白日の下堂々と公開され、一般の観客にも圧倒的に支持され、しかも興収第一位を更新し続けるのは、問題ではないか、と考えるのだ。

わたしはオリジナル作品がヒットするのを見たいのだ!

ハリウッドにおいてもリスクがあるオリジナル企画ではなく、二匹目の泥鰌を狙う続編やリメイク企画が頻発している。
ハリウッド・メジャー作品がオリジナル企画ではなく、ヒットし易い安易な企画ばかりになってしまう事をわたしは真剣に憂慮している。

これは日本映画界にも言えるのだ。テレビ番組の延長的な作品が次々とヒットしてしまう事にも憂慮してしまう。
リスキーだろうが、稚拙だろうがなんだろうが、スピリッツ溢れる素晴らしいオリジナル作品をわたしは観たいのだ!
 
 
2.「シュレック2」は私怨を具現化した作品である。

映画とその映画を取り巻く環境は別物である。
出演者がアルコール依存症だろうと犯罪者だろうと、製作者が思想的に偏っていようと、観客が俎上に乗せるのは映画そのものである。背景や環境がどうだろうと、映画の評価は変わってはならない。

しかし「シュレック2」を考える場合、マイケル・アイズナーとジェフリー・カッツェンバーグの関係がムクムクと頭を擡げてくる。

1980年台後半までジリ貧だったディズニー・アニメの凋落を救ったのは誰あろうカッツェンバーグだったのだ。
カッツェンバーグは「リトル・マーメイド(89)」「美女と野獣(91)」「アラジン(92)」「ライオン・キング(94)」と立て続けにヒットを飛ばし、ディズニー・アニメを救い、ディズニーの一時代を築いたのだ。
しかし現ディズニー会長アイズナーにクビにされてしまう。

転んでも只では起きないカッツェンバーグは、各メディアからのオファーを一蹴し、スティーヴン・スピルバーグとデビッド・ゲフィンに声をかけドリームワークスSKG(因みにSKGとは、スピルバーグ、カッツェンバーグ、ゲフィンのイニシャルである)を設立した。ドリームワークスSKGでは、実写部門はスピルバーグ、音楽部門はゲフィン、アニメ部門はカッツェンバーグが指揮を執っているのだ。

以来、ドリームワークスSKGのアニメ部門の責任者カッツェンバーグはディズニー打倒を目指しており、尽く反ディズニー的政策を取っているのだ。
そんなカッツェンバーグの指揮の下、「シュレック2」では、ディズニーをイメージさせるキャラクターをトコトンこけにし迫害しているのだ。

別に作品の裏の目的や製作者の意向が作品の表面に見え隠れするのは構わない。

しかし、だ、子供が楽しみにするような作品の根底に、怨みつらみが見え隠れして良いのだろうか。
そして、そんな作品がヒットして良いのだろうか。
そんな作品を見て子供たちが育って良いのだろうか。
わたしは嫌だ!

わたしは、夢と希望が溢れるディズニーのクラシック作品で子供たちが育って欲しいのだ!
 
 
そんな中、「シュレック2」の北米版DVDが「Mr.インクレディブル」北米公開日にあわせて2004/11/05に、国内版DVDは、Mr.インクレディブル」日本公開直前の2004/11/19にリリースされる。
因みに「シュレック」の北米版DVDは、「モンスターズ・インク」の北米公開日にリリースされた。

ご承知の通り、「Mr.インクレディブル」「モンスターズ・インク」はディズニー配給/ピクサー製作作品である。

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少なくても「シュレック2」が「ファインディング・ニモ」の興収を抜くのはマズイと思うぞ。

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2004/11/04 「Star Wars Episode III Revenge of the Sith(スター・ウォーズ エピソードIII シスの復讐)」の予告編が有料サイトで公開になった。

2004/11/05 「The Incredibles(Mr.インクレディブル)」上映館で「Star Wars Episode III Revenge of the Sith(スター・ウォーズ エピソードIII シスの復讐)」の予告編の上映が始まった。

2004/11/09 「Star Wars Episode III Revenge of the Sith(スター・ウォーズ エピソードIII シスの復讐)」の予告編が一般公開された。

2004/11/20 「ハウルの動く城」上映館で「Star Wars Episode III Revenge of the Sith(スター・ウォーズ エピソードIII シスの復讐)」の予告編の上映が始まる予定。

「ニヤニヤ笑いはやめろ!」
「何ゴロゴロ転がってんだよ!」
「跳ねるんじゃねーよ、ヨーダ!」
「ジャー・ジャーを何とかしろよ!」
「ミーって何だ!ミーって!!」
「狂ったのかジョージ・ルーカス!」
・・・・

なんだかんだ文句を言っても「スター・ウォーズ」に期待しちゃうボクってダメな人間です。

http://www.starwars.com/
2004/10/27 東京六本木
「VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ SCREEN 7」
「第17回東京国際映画祭」コンペティション
「風のファイター(韓国公開バージョン)」を観た。
 
 
本作「風のファイター(韓国公開バージョン)」は、極真空手の創始者、大山倍達を主人公とした韓国の同名ベストセラー劇画を原作とした韓国映画である。
大山倍達を主人公とした劇画と言えば、日本では「空手バカ一代」(梶原一騎原作、つのだじろう画)が有名なのだが、本作は「空手バカ一代」で一切語られていない、「大山倍達は朝鮮人だった」という点を真向から描いている。
因みに、大山倍達のオフィシャル・サイトでも、この点には触れていないし、本作「風のファイター」に関する情報も一切掲載されていない。

尤も「大山倍達は朝鮮人だった」事を描くのは、本作が韓国映画である以上、当然の事なのだが、必然的に本作は朝鮮人チェ・ベダル(大山倍達)が日本格闘界を席巻する様を描いており、大山倍達のことを当り前のように日本人だと思っている多くの日本人にとっては衝撃的な内容を含んだ作品であると言える。
また、物語の構成上必然的に、朝鮮人が日本の武道家たちをこてんぱんにやっつける姿を描いている本作は、韓国の日本に対する国民感情を代弁した作品だと捉える事も出来るし、国際問題にまで発展する危惧を内包した作品である、と解釈する事も可能なのだ。

日本では前述のように、30歳代以上の男性の多くは大山倍達は日本が世界に誇る英雄である、と当然の如く考えており、事実、上映後、監督のヤン・ユノ、キャストの加藤雅也を迎えて行われたティーチ・インでは、30歳代と思われる日本人男性が「大山倍達は日本では、日本人だと思われている点を知った上でこの作品を作ったのか?」という語意の質問を発し、ヤン・ユノの答え方次第によっては、本当に国際問題にもなりかねない空気が開場を包んでいた。
ヤン・ユノは、現在の韓国では「大山倍達は韓国の英雄だ」と言う人がいる反面「大山倍達は祖国を捨てた男だ」と言う人もいる、と答えつつ「大山倍達は両国の英雄であり、両国の架け橋である」的発言をしていた。
 
 
さて前置きが長かったが、本作「風のファイター」について考えてみよう。

キャストは、先ず主演のヤン・ドングン(チェ・ペダル/大山倍達)だが、一本筋が通りながらも謙虚で控え目な熱血青年チェ・ベダルを見事に演じている。朴訥でダサイ青年ペダルと、強くて格好良い青年ペダルが共存する役柄を好演しているのだ。
しかし、韓国の劇画を原作にしていると言っても、そのルックスはどう見ても、つのだじろうが描く「空手バカ一代」のイメージそのものである。何しろ添付した画像とヤン・ドングンのチェ・ペダルはそっくりなのだ。

また、ペダルのライバルで日本空手界の雄加藤を演じる加藤雅也は、非常に良い味を出している。ベダルが仮に「熱い炎」ならば加藤は「冷たい炎」、ペダルが「汚くてダサイ」ならば加藤は「美しく洗練されている」という感じの対比が素晴らしい。

一方ヒロイン平山あやは微妙である。頑張っているのだとは思うが、彼女が演じているはずの1940年頃の芸者さんには、少なくても見えなかった。まるで現代のお嬢さんなのだ。映画と言う魔法が効力を失う瞬間である。因みに、監督も平山あやへの演技指導には苦労したと語っていた。(なだめ、すかし、怒り、おだて・・・・)

期待のアクション・シーンは残念ながら、中途半端な印象を受けた。ペダルはご存知のように、日本中の著名な道場の教えを請う、所謂「道場破り」をするのだが、その「道場破り」シークエンスのアクション・シーンの尺が短く、フルコンタクトの打撃系バトル・シーンが次々と展開されるのを期待するわたしにとっては残念至極なのだ。
勿論後年極真空手となるフルコンタクトの一撃必殺打撃の描写は壮絶で、ある意味リアルと言えばリアルなのだが、アクション好きが求めるものではなかった。という事である。勿論、これは監督の狙いかも知れない・・・・。

また、「空手バカ一代」でおなじみの、山篭りの眉毛剃りや、決闘で人を殺してしまう話、牛殺し等が映像化されているのは好感が持てるし、道場を破りまくるところは前述のようにアクションはともかく、物語としての描き方は上手かった。
更に「道場破り」を行うペダルの謙虚な姿に好感が持てた。所謂「たのも〜!」的高圧的な「道場破り」ではなく、あくまでも「教えを請う」形の「道場破り」なのである。慇懃無礼でもないのだ。

そして、一番の見せ場である加藤とペダルの戦いは、緊張感溢れる良いものに仕上がっていたと思うのだが、やはり演出・編集的に若干ごまかしが入っているような印象も同時に受けた。

加藤の取巻きのの一人沖田(?)とペダルの戦いはアクション指数はともかく、壮絶で本作の一番の見せ場になっている。決闘の後ペダルが訪れる沖田邸でのシークエンスもペダルの人となりを語る上で素晴らしい印象を受けた。ロケ地は合掌造りが残されている合掌集落(岐阜?)フィルム・コミッションがクレジットされていた。

脚本は、加藤とペダルを宿命のライバルととらえ、宿命の対決にいたる過程と、ペダルと芸者(平山あや)や友人たちとの関係を絡めた構成になっており、一部、時代背景を大きなうねりとして描いてはいるのだが、如何せん舞台は日本、本作は韓国映画と言うこともあり、歴史的事件に翻弄される登場人物、といったところまでは描けてなかった。

とは言うものの、時代考証から美術については大変素晴らしく、気になる点が無いと言えば嘘になるが、韓国人が構築した1940年頃の日本の情景には驚かされてしまう。美術は素晴らしい仕事をしている。
また、姫路城等多くの史跡できちんとロケを行っているし、クレジットを見る限りは、いくつかのフィルム・コミッション、多くの極真系道場の協力を得ているようで、その辺の日本映画より、よっぽど日本が描けているのではないかと思う。
ところで、極真道場の協力を得ているという事は、極真サイドとして、大山倍達は朝鮮人だったと認めているのだろうか。謎なのだ。

余談だが山田洋次の「隠し剣 鬼の爪」もいくつかのフィルム・コミッションの協力を得てロケが行われており、上映後のティーチ・インにもフィルム・コミッション関係者が客席におり、映画を誘致するサイドからの質問が出ていた。

さて本作「風のファイター」は、「空手バカ一代」好きには、いろいろな意味で是非観ていただきたい作品であるし、韓国が考える日本の姿を見る上でも十分意義のある作品に仕上がっていると思うのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=
余談だが、当日は監督:ヤン・ユノ、キャスト:ヤン・ドングン、加藤雅也を迎えてのティーチ・インの予定だったのだが、来年兵役を控えているヤン・ドングンに対するビザの発給に時間がかかり、ヤン・ドングンの来日が遅れたと言うことであった。

最近、韓国俳優の兵役逃れ問題もクローズ・アップされているが、日本と韓国は地理的には非常に近いが実際は遠い国だと思わされた。日本へは韓国の様々な文化や情報が紹介されているが、兵役予定者に対するビザ発給の問題に接し、われわれの知らない韓国の一面を垣間見たような印象を受けた。

「ソウ」

2004年11月5日 映画
2004/11/04 東京六本木
「ヴァージンTOHOシネマズ六本木ヒルズ スクリーン7」で「ソウ」を観た。

目覚めたら老朽化したバスルーム
足首には鋼鉄の鎖
対角線上にもう一人の男
間には自殺死体・・・・
このノコギリは何に使うのか?
(「ソウ」キャッチコピーより引用)
 
 
興味があるなら、今すぐ劇場に走れ!
それが「ソウ」を楽しむ最善の手なのだ!
 
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本作「ソウ」は、2人の若者が20日足らずで撮り上げた、低予算サスペンス映画である。
しかしながら本作は、いくら低予算映画だと言っても、クオリティは一般のハリウッド作品と比較して全くと言って良いほど遜色が無い。
構築された世界観(美術)も素晴らしく、演出(演技)も順当で的確。従来のワン・アイデア、ワン・シチュエーションから生まれた低予算映画とは格段の差を感じる程の素晴らしい作品に仕上がっている。

とは言うものの気になる点が無い訳ではなく、例えば、低予算のせいかどうかはわからないが、屋外のシーンがほとんど無く、室内やセットからカメラが出ないのが気になった。勿論これは、観客の閉塞感を煽る戦略的な手法かも知れないのだが。
あとは早回しの多用が気になった。勿論限られたシークエンスに限定されているのだが、これについてわたしは否定的なスタンスを取らせていただく。

そして、言うまでも無いことなのだが、脚本がよく練られている。その伏線の数々がいろいろな事実を指し示す構成なのだが、それらの伏線も指し示す先の事実も的確で、観ていて楽しい作品に仕上がっている。
また、心憎くも微笑ましいミス・デレクションの数々をも楽しめる作品にも仕上がっているのが嬉しい。
ホラー的、スプラッタ的な描写もそれほど酷いものではないので、是非多くの方に観ていただきたい作品だと思う。

一般的に「CUBE」ミート「SE7EN」と言われているようだが、勿論本作の内容からそう言っているのだと思うし、プロット的には「CUBE」や「SE7EN」のコンセプトを借用してい感は否めないのだが、わたし的には「テープ」あたりも仲間に入れて欲しいような気がした。

また本作の話題性も十分で、「全米中止バージョン」と「全米公開バージョン」という二つのバージョンがある、と言うだけで、ドキドキワクワクしてしまうような観客もたくさんいると思うし、「全米中止バージョン」を観たい!と考える観客も多いだろう。

因みに、この「全米中止バージョン」は、日本国内では「第20回東京国際ファンタスティック映画祭」のオールナイト企画で1回だけ上映されたのも記憶に新しい。
余談だが、わたしは翌日の「Zガンダム」当日券に並ぶ為、「ソウ」を断念した口である。

とにかく、何度も言うようだが本作「ソウ」は、今すぐ劇場に走れ!的な作品である事は間違いない。
「ソウ」に関心があるのなら、出来るだけ早めに観ることを強くオススメするのだ。

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ところで、本作のアイデアを聞いた際、思い出したのは、フレドリック・ブラウンの短編小説「闘技場」である。
関心がある方は是非読んでいただきたいと思う。
(「スポンサーから一言」に収録 創元SF文庫/東京創元社 ISBN: 4488605044)

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ところで、世の中には、結末に何某の「サプライズ」を含んだ映画がある。例えば古くは「サイコ」や「猿の惑星」から「クライング・ゲーム」や「シックス・センス」をはじめとするM・ナイト・シャマランの作品等々、枚挙に遑が無い。

そして、その「サプライズ」に至るひとつのプロットを一般的に「オチ」と呼び、その「オチ」を晒す事をわれわれは象徴的に「ネタバレ」と呼んでいる。

1992年に公開された「クライング・ゲーム」と言うイギリス映画は、一連のM・ナイト・シャマラン作品のように「結末(秘密)を他の人に言わないで下さい」というお願いがあった訳ではないのだが、批評家もレビューにその「秘密」を書かず、全ての観客も口を閉ざし、その「秘密」を語る者はいなかったのである。
そう、批評家を含む全ての観客は「クライング・ゲーム」の「秘密」を自分の「秘密」であるかのように扱ったのである。

世の中には全ての観客に愛される「幸せな映画」もあるのだ。
まだまだ人間も捨てたものではない、と思う瞬間だ。

願わくば「ソウ」もそんな「幸せな映画」の一本になっていただきたい、と思う次第なのだ。
2004/11/02 東京新橋「ヤクルトホール」で「パニッシャー」の試写を観た。

法の目をかいくぐり、裏社会をも支配する資産家ハワード・セイント(ジョン・トラボルタ)。ある夜、溺愛する息子ボビー(ジェームズ・カルピネロ)が、密輸取引現場でFBIによって射殺された。怒り狂うセイントは妻リヴィア(ローラ・ハリング)と共に復讐を誓う。やがて、ボビーを死に至らしめた一人の男が浮かび上がる。
それはFBI潜入捜査官フランク・キャッスル(トム・ジェーン)だった。
今回のミッションを最後に潜入捜査官を引退したキャッスルは、親族を父(ロイ・シャイダー)の住居に集めパーティを楽しんでいた。
そこをセイント一味が襲撃、家族は皆殺しにされてしまう。奇跡的に命を取り留めたキャッスルは、セイントを法律で罰せないと悟り、自らの手で制裁を下す決意を固めるのだった・・・・。
(オフィシャル・サイト/チラシよりほぼ引用)

先ずは、本作「パニッシャー」がマーベル・コミックスを原作とした映画化作品であることを忘れていただきたい。

そう考えた場合、本作は素晴らしく正しい見事な復讐劇という姿をわれわれに見せてくれる。
勿論、わたし的には何点か気になる点はあるものの、本作は最早クラシックの風格を持つ、復讐劇の見本とも言える素晴らしい作品に仕上がっているのだ。
例えば「ジャッカルの日」が暗殺モノの教科書として活用されていると言うならば、本作「パニッシャー」は復讐モノの教科書として活用されるべき作品なのかも知れない。

そして本作「パニッシャー」は何も足さなくても、何も引かなくても復讐劇の王道的傑作に仕上がっているのだ。何しろ復讐劇の王道的なプロットを、復讐劇の文法を見事に利用し、素晴らしくも正しい復讐劇の傑作として映画化されている訳だ。

キャストは何と言ってもロイ・シャイダーだ。
ロイ・シャイダーはフランク・キャッスル(トム・ジェーン)の父親役を演じている。物語上、父親の背景は語られていないが、舞台背景や住居の様子、銃器がディスプレイされているリビング・ルーム等を考えると、どこか海の近くの警察署長を勤めていた人物のような、または麻薬組織を追い詰めていたような、映画的記憶が蘇ってくる。そんなロイ・シャイダーの使い方が素晴らしく正しいのだ。

また、ハワード・セイント(ジョン・トラボルタ)の親友で腹心、ゲイでサディストのクエンティン・グラスを演じたウィル・パットンも素晴らしい。トラボルタの親友でクエンティンと言う名前のサディスティックなゲイの役柄を登場させている点も何とも素晴らしいし、ウィル・パットン自身も強烈な印象を観客に与えている。

また、復讐鬼に化した後のフランク・キャッスル(トム・ジェーン)の隣人を演じたベン・フォスター(デイブ)、ジョン・ピネット(バンポ)、レベッカ・ローミン=ステイモス(ジョアン)のトリオも良かった。ジョアンが登場し、ジョアンとフランクの関係に一抹の不安を感じたが、わたしの心配は杞憂であった。
わかっているじゃないか!ジョナサン・ヘイズリー!!

また全身を筋肉の鎧で包んだ暗殺者ザ・ロシアンを演じたケヴィン・ナッシュも強烈である。そんなザ・ロシアンとフランク・キャッスルのバトルはもしかすると映画史に残る(嘘)バトルではないかと思うのだ。どうだろう、MTVのベスト・バトル賞あたりは取れないだろうか。
ロバート・ショウとショーン・コネリーのバトルにも匹敵する素晴らしいバトルだと思う。

さて、フランク・キャッスルを演じたトム・ジェーン(トーマス・ジェーン)は何と言っても格好良い。寡黙で無言実行なリアルな存在感を持って好演している。拳銃の弾はバシバシ当たるし、ボコボコ殴られるあたりもリアルでよろしいのだ。
その格好良さは、ブルース・キャンベルとかカート・ラッセルとか、メル・ギブソンとかの格好良い時代の格好良さに通ずるのだ。

さて、ハワード・セイントを演じたジョン・トラボルタだが、これまた良い感じである。「パルプ・フィクション」のビンセントが成り上がった後、つまりビンセントの将来のような印象をも受ける役柄なのである。
そんなセイントの親友クエンティン(ウィル・パットン)や、妻リヴィア・セイント(ローラ・ハリング)に対する仕打ちが素晴らしい。
わかっているじゃないか!ジョナサン・ヘイズリー!!

監督のジョナサン・ヘイズリーは本作画監督第一作なのだが、脚本家上がりの監督らしく脚本がツボを押さえて素晴らしく、復讐劇の文法を突っ走る素晴らしいものを感じる。
演出も順当で、アクション・シークエンスも手に汗握る素晴らしい出来である。

おそらく、こんな作品をこんなに褒める人はわたし位ではないかと思うが、本作「パニッシャー」は、本当に正しいアクション復讐劇なのだ。もう本当に復讐劇の王道を突っ走っているのだ。

これがマーベル・コミックス原作でなければ、と、オリジナル作品だったら、と思う次第なのだ。

ちなみにこの秋公開される「マイ・ボディガード」もある意味復讐劇なのだが、爽快感から言うと本作「パニッシャー」の方が数段上である。とは言うものの「マイ・ボディガード」も素晴らしい作品である。2本並べて是非観て欲しいと思うのだ。

=*=*=*=*=*=**=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
余談だが、本作「パニッシャー」の東京のメイン劇場は「ニュー東宝シネマ」なのである。
わかっているじゃないか!東宝!!
そんな感じのスピリッツ溢れる傑作なのだ!!

「海猫」

2004年10月25日 映画
 2004/10/24 東京六本木「VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ SCREEN 7」
 「第17回東京国際映画祭」特別招待作品「海猫」を観た。
 舞台挨拶は、監督の森田芳光、出演の伊東美咲、三田佳子。
 
 
 東京の大学に通う野田美輝(ミムラ)は、フィアンセの高山修介(鳥羽潤)から、亡き母、野田薫(伊東美咲)をなじられ、一方的に婚約解消を告げられた。美輝はショックのあまり言葉が出なくなり、故郷の函館の病院に入院する。
 心配する妹の美哉(蒼井優)にも美輝は婚約解消のいきさつを明かさなかったが、見舞いに訪れた祖母の野田タミ(三田佳子)に意を決し筆談で訊ねる。
「お母さんに、何があったの」「本当のことを教えて。お願い」
 美輝の必死の表情に、初めてタミは、20年前、薫の身に起こった出来事について語り始めた。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
 
 
 本作「海猫」は、伊東美咲の第一回主演作品であると共に、既に代表作と言える格を持った作品に仕上がっている。
 不謹慎な発言だが、仮に伊東美咲が亡くなった後、彼女の代表作として確実に名が上がる作品に本作は仕上がっている、と言えよう。

 尤も、昨今の娯楽作品を好む観客にとって、本作の脚本や演出、編集のリズムは、もしかすると退屈なものなのかも知れないし、本来このような作品では、一般的に物語の背景として、時代の大きなうねり(激動の時代背景)が描かれるものなのだが、本作「海猫」はそれを描かず、野田薫というひとりの女性の生涯にスポットを当て、野田タミ、野田薫、野田美輝という三代の野田家の女性たちの生き様を大河ドラマ仕立てではあるが淡々と描いている。

 そして、映画女優伊東美咲を考えた場合、本作「海猫」を第一回主演作品とする上で幸運だったのは、今や話題作を続々と発表する森田芳光がメガホンを取った事、そして脇を固める豪華な俳優陣の存在、そして伊東美咲が演じる野田薫に集中的にフォーカスをあてた脚本、更には北海道函館近辺の方言によるセリフ回しが野田薫の性格とマッチし上手く機能している点などがあげられる。

 また本作の伊東美咲からは、その儚げで刹那的な美貌と、物語の冒頭でもう既に亡くなってしまっている野田薫の生涯を振り返る形式の物語構成のため、かつての名女優夏目雅子の生涯を振り返っているかのような誤った映画的記憶を刺激される作品にも思えた。

 キャストはなんと言っても伊東美咲である。各メディアを通じて話題になっている濡れ場の体当りの演技もさることながら、スタッフとキャスト全てが一丸となって、伊東美咲のために尽くしているのが感じられるし、北海道函館地方のつっけんどんで朴訥、下手をすると棒読み的なセリフ回しが彼女の演技を救っているのかも知れないが、性格的には主体性に乏しい女性を見事に演じきっている。
 特に、佐藤浩市演じる赤木邦一との出会いの後、駐車場で交わす会話のシークエンスの所在無さげな印象が素晴らしい。
 また美輝の出産シーンをはじめとして様々なシークエンスでの微妙な表情は見事である。
 そして薫の生涯をフラッシュ・バックで見せられた日にゃあ、その激動の人生に感涙モノなのだ。

 薫の夫、赤木邦一を演じた佐藤浩市も素晴らしい。
 北海道南茅部町の閉鎖された漁村の中で、地元住民として馴れ合いながら生きていくしか術を持たない単純な男を好演している。

 また邦一の弟で薫に憧れる赤木広次を演じた中村トオルも良い。泥沼にはまり、逃れられなくなっていく姿が美しくも悲しい。広次はキリスト教的背景を持ったキャラクターであり、マリアのメタファー薫を崇拝する役柄を演じている。
 この辺りが、函館を舞台に選んだ所以なのかもしれない。

 因みに、この三人は「LOVERS」の三人と印象が被るかもしれない。

 薫の母タミを演じた三田佳子は物語の語り部として機能し、本作を描く上で必要不可欠な重鎮としての格と安心感を醸し出している。この映画を制作する上で、最も重要なキャラクターのひとりである。この重要なキャラクターを三田佳子が演じる、と言う事は、この映画にとって非常に幸運な出来事だったと思う。

 物語の発端を作る薫の長女美輝を演じたミムラと、その妹美哉を演じた蒼井優は、最近ドラマや映画に出ずっぱりだが、役は小さいながら、印象に残る演技を見せてくれている。

 また薫の姑で、邦一と広次の母赤木みさ子を演じた白石加代子も素晴らしい。優しい姑から怖い姑までを見事に演じ、三田佳子同様、映画に格と安心感を付与している。

 薫の弟野田孝志を演じた深水元基はダメな男を好演しているし、小島聖演じる啓子は過去の映画的記憶を髣髴とさせ男を惑わす女性を好演している。

 このように、本作「海猫」は、所謂演技派の俳優(女優)陣が顔を揃えた演技合戦も楽しめる素敵な作品なのである。

 撮影(石川稔)は、若干カメラがガクガクしている感があるが、叙情的で寒々しい北海道の街並みを見事に切り取っている。またロケーション効果が高く良い仕事をしていると思うのだが、よくわからないカメラの動きが何度かあった。
 特に崖から海を眺めるシーンにおけるカメラの行ったり来たりするドーリー移動の趣旨が良くわからなかった。

 編集の田中愼二は、最近の森田作品は全て担当しており、最近の森田芳光のリズムは彼が作っている訳だ。
 わたし的には濡れ場の見せ方が非常に上手いと思った。いろいろ問題があったのだろうと思うのだが、非常に官能的なカット割がされている。
 またシーン変わりのつなぎのカットによる街並みの見せ方からの導入は、森田芳光の8mm映画や初期の商業映画の雰囲気が出ていたような気がした。

 脚本(筒井ともみ)は、前述のように本来このような大河ドラマ的な作品は、大きな時代のうねりに翻弄される登場人物を描くのが順当なのだが、本作では大きなうねりを描かず、語弊があるが、大河ドラマにしては登場人物の周りだけを描いた小さな物話になっている。
 その小さなドラマを楽しめるかどうかが、観客の評価の分岐点になるのではないかと思う。

 本作「海猫」は、伊東美咲の濡れ場等々で話題の作品であるが、決してそれだけでは無く、俳優陣の重厚なドラマが楽しめる真摯で良心的な作品に仕上がっている。
 娯楽大作を好む観客にはもしかしたら退屈な映画かも知れないが、現代のミューズ伊東美咲を楽しむ以外にも、実りがある作品に仕上がっている。是非観ていただきたい日本映画の一本なのだ。
2004/10/23 東京六本木「VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ SCREEN 7」
 「第17回東京国際映画祭」特別招待作品 オープニング・スクリーニング 「隠し剣 鬼の爪」を観た。

 「東京国際映画祭」のレッド・カーペット、そしてオープニング・セレモニーのあとに行われた舞台挨拶は、山田洋次、永瀬正敏、松たか子、光本幸子、小澤征悦、司会は襟川クロ。
 
 
時は幕末。
 東北の小藩である海坂藩の平侍、片桐宗蔵(永瀬正敏)は、母吟(倍賞千恵子)の生前に奉公に来ていた百姓の娘きえ(松たか子)と、3年ぶりに町で偶然再会する。宗蔵は、伊勢屋という大きな油問屋に嫁いで幸せに暮らしているとばかり思っていたきえの、痩せて寂しげな姿に胸を痛める。

 それから数ヵ月後、きえが病で伏せっていると友人島田左門(吉岡秀隆)に嫁いだ妹志乃(田畑智子)に聞いた宗蔵は伊勢屋に乗り込み、強引にきえを連れ帰る。

 平侍である宗蔵の貧しい暮らしが、回復したきえの笑顔で明るい毎日に戻った時、藩を揺るがす大事件が起きる。海坂藩江戸屋敷で謀反が発覚したのだ。

 首謀者の一人である狭間弥市郎(小澤征悦)と宗蔵は、かつて藩の剣術指南役だった戸田寛斎(田中泯)の門下生だった。戸田はなぜか、一番腕の立つ弥市郎ではなく、宗蔵に秘剣『鬼の爪』を伝授していた。まもなく弥市郎は脱走、宗蔵は家老堀将監(緒形拳)から弥市郎を斬るように命じられるのだが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:山田洋次
原作:藤沢周平
音楽:冨田勲

出演:永瀬正敏、松たか子、吉岡秀隆、小澤征悦、田畑智子、高島礼子、光本幸子、田中邦衛、倍賞千恵子、田中泯、小林稔侍、緒形拳
 
 
 本作「隠し剣 鬼の爪」は、米アカデミー賞ノミネート作品「たそがれ清兵衛」に続く、山田洋次監督×藤沢周平原作の第二弾であり、多くの人々にオススメできる素敵な人情時代劇に仕上がっている。
 また本作「隠し剣 鬼の爪」は、ハリウッド製時代劇「ラスト サムライ」に対するアンチテーゼとして機能する、反骨精神溢れる意欲的な作品とも言えるだろう。
 そして本作が「ラスト サムライ」に対するアンチテーゼとして機能していると言うことは、「ラスト サムライ」を手放しで評価する『サムライの遺伝子を持った日本人』(実際のところ、大多数の日本人は農民の遺伝子を持つのだが)に対する批判的精神が根底に見え隠れしているような気がする。

 趣向を削ぐので詳細解説は割愛するが、本作「隠し剣 鬼の爪」は「ラスト サムライ」とは、時には同様の、時には正反対のベクトルを持つ作品なのである。

 この辺りは、狭間弥市郎(小澤征悦)に対する片桐宗蔵(永瀬正敏)の最後のセリフ、松田洋治の役柄、そして戸田寛斎(田中泯)の生き様、家老堀将監(緒形拳)の描き方、そしてなんと言っても片桐宗蔵(永瀬正敏)ときえ(松たか子)の行く末がそれを如実に物語っている。
 勿論、舞台挨拶の中でも、監督である山田洋次が間接的にではあるが、この作品の背景とテーマを語っていた。
 
 さて脚本だが、本作は、従来の山田洋次作品に比較的あるようなのだが、シーン同士の関連性が薄いような印象を受けた。
 それぞれのシーン毎の脚本の完成度は高いものの、映画全体として考えた場合、そのシーンが全体に絡んでこない、と言う印象なのだ。
 これは、本作が藤沢周平の「隠し剣 鬼ノ爪」と「雪明かり」と言う二作品を原作としている点がひとつの原因と考えられる訳なのだが、それにしてもシーン間の脚本の乖離が感じられ、下手をすると提示された伏線らしきものが回収されていない、と言うような印象を与えてしまう感が否めない。

 これは例えば、きえの姑を演じた光本幸子が1シーンのみの登場で、他のシークエンスには全く絡まないような点に顕著だと言える。

 勿論、これは「男はつらいよ」の初代マドンナを演じた光本幸子としてのカメオと捉える事もできる。
 そうした場合、従来のフジテレビ系作品に多く見られる、物語の進行を止め、観客を夢の世界から現実世界に引き戻す力を行使する、不必要なカメオと比較すると、大変素晴らしいカメオに仕上がっている。
 このように、演技派俳優(女優)が物語の中できちんと機能する役柄を演じるカメオは大歓迎なのだ。
 
 しかし、だとしても光本幸子には他のシーンでも物語に絡んで欲しいと思うのだ。
 
 ところで、キャストについては、全てのキャストが与えられた役柄を見事にこなしている。
 これは、衣裳や美術、セットやロケの醸し出す世界観、そして細かいところまで手が届く演出と相まって、非常にリアリティのあるキャラクターの醸成と世界観の創出に成功している。

 どのキャストがどうこう、と言う事ではなく全てのキャストが素晴らしいのである。
 
 本作は「侍と言っても、刀を手入れする時以外は滅多に刀を抜かない」というコンセプトにそっており、一般の痛快時代劇と比較して殺陣がおとなしく、所謂チャンバラファンにとっては満足がいく作品ではないと思う。
 が、その辺にも山田洋次の確固とした考えが色濃く出ているような気がする。

 とにかく、映画に対して真摯に向かった、映画の良心とも言える作品であり、出来る事ならば、多くの観客に観ていただきたい作品だと思う訳だ。

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 舞台挨拶及び上映は、レッド・カーペットの時点で既にスケジュールがおしていたのだが、オープニング・セレモニー中に起きた新潟中越地震のため、エレベータが故障し、司会の襟川クロ等が、40F付近で45分ほどエレベータの閉じ込められ、60分ほど遅れた状況で始まった。

 因みに「VIRSIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ」では大きな揺れが3度ほど感じられた。
 大きな揺れは、角川歴彦映画祭ゼネラルプロデューサーによる開会宣言の際と小泉純一郎内閣総理大臣の祝辞の際に感じられた。
 最初の揺れは、わたしは席を後ろからガンガン思いっきり蹴られているのかと思う位の揺れで、わたしの頭上にぶら下がっていた照明が大いに揺れ、不安と恐怖を醸し出していた。
 驚いたのは、角川歴彦映画祭ゼネラルプロデューサーだが、もしかしたら極度の緊張のせいかも知れないが、全く地震に動じていなかったようである。
 小泉純一郎内閣総理大臣は、本来は「隠し剣 鬼の爪」の鑑賞を予定したいたらしいのだが、オープニング・セレモニー中に足早に開場を後にした。

 舞台挨拶は開催が遅れ、司会の襟川クロが45分ほどエレベータの閉じ込められた直後だったこともあり、極度の緊張のためか司会の不手際があったが、永瀬正敏の地震を、映画祭の開催を地球もこのように喜んでいる、と言うような発言(※)や、小澤征悦等の同時通訳をネタにしたウィットにとんだ舞台挨拶が楽しめた。

※ この時点では、新潟中越地震の情報は皆無であり、仮に情報が発信されていたとしても、会場内でその情報を入手できない情報であったことを申し添えさせていただきます。
 被災地の方々には、つつしんでお見舞いを申し上げます。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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 2004/10/16 東京新宿「新宿ミラノ座」
 「東京国際ファンタスティック映画祭2004」で上映された、『東京ファンタ20周年記念上映「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」』を観た。
 今回の上映は、監督:冨樫森、出演:池松壮亮(金田正太郎)、蒼井優(立花真美)、視覚効果:松本肇を迎えたワールド・プレミアだった。
 
 
 首都東京で突然サイバーテロが発生した。さらに巨大ロボット「ブラックオックス」が飛来、街を次々と破壊していく。首謀者「ゼロ」の目的は自らが開発したバイオコンピュータで理想郷をつくりあげることだった。

 金田正太郎(池松壮亮)は、母陽子(薬師丸ひろ子)と二人暮しの小学生。そんな正太郎の元に謎の老人綾部達蔵(中村嘉葎雄)から一本の電話が入る。「あなたのお父さんのことでお話があります」それは亡き父正一郎(阿部寛)が遺した「鉄人28号」の話だった。

 綾部は正一郎の遺言と正太郎のロボット操縦適正を説き、鉄人28号を操縦しブラックオックスと戦うよう正太郎を説く。正太郎はとまどいながらもリモコンを手に、ブラックオックスに立ち向かうが・・・・。
(「東京ファンタ」オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
 
スタッフ 
監督:冨樫森
原作:横山光輝
脚本:斉藤ひろし、山田耕大
音楽:千住明
撮影:山本英夫
照明:小野晃
視覚効果:松本肇

キャスト
金田正太郎:池松壮亮
立花真美:蒼井優
金田陽子:薬師丸ひろ子(友情出演)
宅見零児:香川照之
貴島レイラ・ニールソン:川原亜矢子
江島香奈:中澤裕子
村雨研二:高岡蒼佑
田浦慶太郎:伊武雅刀
金田正一郎:阿部寛
大塚雄之助:柄本明
綾部達蔵:中村嘉葎雄
 
 
 最近流行の漫画の実写化作品のとりを飾るのは、企画や撮影は比較的早かったのだが、CGI等ポスト・プロダクションに多くの年月を費やして完成した「鉄人28号」だった。

 全てのロボットはシルエット等間接的な手法で描かれ、一切画面には登場しない、と言う噂が流れていた「鉄人28号」だったのだが、蓋を開けてみると、画面狭しとCGIの鉄人やブラック・オックスが大暴れする作品に仕上がっていた。

 とは言うものの、監督は冨樫森である。
 映画の冒頭部分で、金田正太郎少年(池松壮亮)の境遇を丹念に描いていく。描写のスタンスは、母子家庭の少年の生活を描いた一般的な映画のそれであって、ロボット映画のそれではない。
 そしてその描写は、正太郎少年の境遇を、嗜好を、特技を、間接的に或いは直接的に丹念に描いていく。
 更にその背景となる街並みは平凡でノスタルジックな、どこにでもある街並みを見事に切り取っている。

 その中で、正太郎の母陽子を演じた薬師丸ひろ子が特に素晴らしかった。彼女が登場する食卓のシークエンスにしろ、病院のシークエンスにしろ抜群の存在感と演技が楽しめるのである。
 セリフは勿論、女優が表情や仕草、身体の動きで心象を表現する様は見ていて楽しいものがある。特に病院で正太郎の背中を押した後の長回しの表情と仕草は絶品である。

 いつになったらロボットが出て来るんだよ、と観客がしびれを切らし始めた瞬間、ブラック・オックスが首都東京に襲来する。

 ワックスをかけた自動車のような、ロボットの表面処理に賛否はあろうが、ブラック・オックス襲来のシークエンスは圧巻である。
 特にブラック・オックスが東京タワーをナニするシークエンスは、構図や背景は勿論、東京タワーの質感や動きを含めて大変素晴らしいシークエンスに仕上がっている。本作をロボット大活劇と捉えた場合、このシークエンスが本作最大の見せ場だと言っても差支えないだろう。
 また増上寺の境内に降りたブラック・オックスに対するカラスの演出が憎い。

 こういったロボット大活躍シークエンスの成功は、首都東京の街並みをロケ撮影した映像を大きな改変を行わずに背景に利用した点が大きいと思う。
 またブラック・オックスや鉄人のサイズも「ビルの谷間でガオー」的に丁度良いサイズだと思った。

 とは言うものの、ロボットのアップの質感に違和感があるのは否めない。尤も引いた画面で背景の中にロボットを溶け込ませることには概ね成功しているので、アップではなく、引いた映像の多用が成功の鍵ではないだろうか。

 しかし、その後本作は「ロボット大活劇」より「少年の成長を描いた人間ドラマ」になっていくあたりは、非常に残念である。

 勿論、鉄人28号とブラック・オックスの戦いの様子は、リアリティがある、と言えば抜群にリアリティがあり、言わば従来のロボット・プロレスものに対するアンチテーゼとして機能するような意欲的な演出である、とも言えるのだが、だとしても多くの観客は納得しないだろう。
 なにしろ本作を「ロボット大活劇」と捉えた場合、何よりも必要なカタルシスが感じられないのだ。

 また鉄人28号の質感に違和感を感じる。
 一応物語では、職人たちの手作業で鉄人が作られた設定になっているのだから、光沢仕様ではなくマットな感じにするとか、リベットをたくさん打つとか、ブラック・オックスとの相違を見せるべきだと思う。
 あれだと同じ技術基盤の上で、両ロボットが開発されたような印象を受ける。

 とは言え、本作を「少年の成長を描いた人間ドラマ」と捉えた場合は、見事な作品に見えてくるから映画と言うものは面白い。

 とにかく、ビルの谷間で大暴れする「リアル」な怪獣(ロボット)を見たい方には、結構おすすめの作品である。もれなく人間ドラマも付いてくるし。

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 キャスト的には、前述の陽子を演じた薬師丸ひろ子が素晴らしい。本作を「人間ドラマ」として考えた場合彼女の存在は必要不可欠である。

 また、トム・クルーズと共演した池松壮亮(金田正太郎)も良かった。何しろ薬師丸ひろ子に負けていない。

 正太郎を引き込む綾部を演じた中村嘉葎雄は、この映画最高のセリフを吐くし、存在感があって良いのだが、テンポが若干のろい。それは勿論俳優としての「間」なんだろうが、他の役者のテンポと比較し違和感を覚える。

 田浦慶太郎の伊武雅刀と大塚雄之助の柄本明は、コメディ・リリーフとは言え、若干オーバー・アクトだと思う。コミカルなシーンなど挿入する必要が無い映画ではないだろうか。

 天才科学者立花真美を演じた蒼井優は、脚本上セリフがあまり良くなかったのだと思うし、残念ながら役不足だと言わざるを得ない。天才科学者をステレオタイプに描くのではなく、普通の人間として描くべきだった。

 宅見零児を演じた香川照之はミス・キャストだろう。彼の役どころとしては、生真面目で泥臭い役柄、丁度「鉄人28号」を作った職人さんにピッタリだと思う。

 金田正一郎を演じた阿部寛はソツなくこなしていたが、阿部寛のインチキ臭い感じが若干残っていた。
 
 二人の刑事、江島香奈(中澤裕子)と村雨研二(高岡蒼佑)については、中澤裕子はまあまあ良かったのだが、高岡蒼佑は脚本上、問題があったような気がする。

 余談だがオープニング・タイトルも泣けるぞ。

 舞台挨拶では、松本肇が「東京ファンタ」への熱い思いを語ったのが印象的であった。かつての「東京ファンタ」を知らない、いとうせいこうは何も言えなかった。

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tkr

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