「トゥー・ブラザーズ」
2004年8月31日 映画
2004/08/31 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されている「GTF2004 トーキョーシネマショー」でジャン=ジャック・アノーの新作「トゥー・ブラザーズ」の試写を観た。
1920年代のカンボジア/アンコール遺跡。
ジャングルの奥地、荒れ果てた寺院跡で2頭のトラが生まれた。兄のクマルは元気な暴れん坊で、弟のサンガはおとなしい性格だった。仲のいい2頭は一緒にすくすくと育ってゆく。
そんなある日、著名なイギリス人冒険家エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)が仏像盗掘のためアンコール遺跡を訪れた。
マクロリーは、仏像盗掘の最中、突然姿を現わし人を襲った親トラ1頭を撃ち殺してしまう。
これが原因となり、やんちゃなクマルはマクロリーに、おとなしいサンガは行政長官ユージン・ノルマンダン(ジャン=クロード・ドレフュス)の息子ラウール(フレディー・ハイモア)の遊び相手として引き取られて行くのだったが・・・・。
監督:ジャン=ジャック・アノー
出演:ガイ・ピアース、ジャン=クロード・ドレフュス、フィリピーヌ・ルロワ=ボリュー、フレディー・ハイモア、マイ・アン・レー、ムーサ・マースクリ、ヴァンサン・スカリート
本作「トゥー・ブラザーズ」は、わたしがジャン=ジャック・アノーに期待したような作品ではなく、子供たちにも安心して見せられる良質なファミリー・ムービーだった。
いわば、ディズニー映画のようなテイストを持った作品である。
しかし、わたしが予告編を観て本作に期待していたのは、厳しい弱肉強食の大自然界の中、人間のエゴで飼い馴らされてしまう二頭のトラに降りかかる悲劇を、エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)とラウール(フレディー・ハイモア)の二つの視点で描き、それがラストで交差する。と言うもので、ともすれば、「子鹿物語」(1947)や「二十日鼠と人間」的な終焉を迎える悲劇的な映画を期待していた訳である。
しかし、だからと言って作品自体がつまらないか、と言うとそうでもなく、(尤もシーンの転換が唐突で、長大な作品のダイジェスト版のような印象を受ける事は否定できないが、)前述のように楽しいファミリー・ムービーに仕上がっている。
特筆すべき点はトラの演技である。部分的にフレームの外で強制的に演技させている部分や「にせもののトラ(アニマトロニクス)」が見え隠れするが、トラの演技は自然で、どうやってこんなシークエンスを破綻なく撮ったんだ、と思えるシーンの続出である。
聞くところによると、これはトラが、シーンに合った動きをするまで気長に待ち続ける、と言う手法だった、と言う事であるから、気の遠くなるような撮影作業である。
セットではなく、ほとんどがロケの作品で、こういった手法で撮影するとは、驚きを禁じえないのである。
脚本は、ファミリー・ムービーと言うことで、自然界の弱肉強食的残酷描写もなく、かわいいトラと楽しい物語、というものだが、唯一「人間のエゴの責任をとらなければならない」とマクロリーがラウールを諭す場面が秀逸である。
いわばマクロリーとラウールの演技合戦になっているのだ。
そして、このシーンを突き詰めていくと「子鹿物語」(1947)的結末に至る訳である。
またトラの親子を地元の知事(=土候の息子/貴族?)親子のメタファーとして絡めたあたりも良い印象を受けた。
キャストは、ガイ・ピアースにしろ、フレディー・ハイモアにしろ、完全にトラに食われているような印象を受ける。
勿論、ラウール少年を演じたフレディー・ハイモアには感心させられるし、ガイ・ピアースら大人のキャストもそれぞれ自分の仕事をきちんとこなしている。
しかし、やはりトラなのだ。
音楽は、若干オーバー・スコアで、トラのかわいさを前面に押し出しすぎているような印象を受けた。
本作「トゥー・ブラザーズ」は、大自然の厳しさ、弱肉強食、食物連鎖、人間のエゴ、環境破壊等のハードな部分を期待する方には、残念ながら期待はずれといわざるを得ないが、この秋家族団欒で映画体験をするには、ちょうど良い良質なファミリー・ムービーなのだ。
しかし、ファミリー・ムービーであり、子供向けの作品であるからこそ、自然界ではトラがどうやって獲物を取るのか、人間のエゴで飼いならされてしまった猛獣はどうなるのか、そういったところを描いて欲しかったのである。
ジャン=ジャック・アノーは一体、どこを目指しているのであろうか。
余談だが「メメント」のガイ・ピアースへのセルフ・オマージュも楽しいものだった。
また「ジュラシック・パーク」へのオマージュもあった。
1920年代のカンボジア/アンコール遺跡。
ジャングルの奥地、荒れ果てた寺院跡で2頭のトラが生まれた。兄のクマルは元気な暴れん坊で、弟のサンガはおとなしい性格だった。仲のいい2頭は一緒にすくすくと育ってゆく。
そんなある日、著名なイギリス人冒険家エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)が仏像盗掘のためアンコール遺跡を訪れた。
マクロリーは、仏像盗掘の最中、突然姿を現わし人を襲った親トラ1頭を撃ち殺してしまう。
これが原因となり、やんちゃなクマルはマクロリーに、おとなしいサンガは行政長官ユージン・ノルマンダン(ジャン=クロード・ドレフュス)の息子ラウール(フレディー・ハイモア)の遊び相手として引き取られて行くのだったが・・・・。
監督:ジャン=ジャック・アノー
出演:ガイ・ピアース、ジャン=クロード・ドレフュス、フィリピーヌ・ルロワ=ボリュー、フレディー・ハイモア、マイ・アン・レー、ムーサ・マースクリ、ヴァンサン・スカリート
本作「トゥー・ブラザーズ」は、わたしがジャン=ジャック・アノーに期待したような作品ではなく、子供たちにも安心して見せられる良質なファミリー・ムービーだった。
いわば、ディズニー映画のようなテイストを持った作品である。
しかし、わたしが予告編を観て本作に期待していたのは、厳しい弱肉強食の大自然界の中、人間のエゴで飼い馴らされてしまう二頭のトラに降りかかる悲劇を、エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)とラウール(フレディー・ハイモア)の二つの視点で描き、それがラストで交差する。と言うもので、ともすれば、「子鹿物語」(1947)や「二十日鼠と人間」的な終焉を迎える悲劇的な映画を期待していた訳である。
しかし、だからと言って作品自体がつまらないか、と言うとそうでもなく、(尤もシーンの転換が唐突で、長大な作品のダイジェスト版のような印象を受ける事は否定できないが、)前述のように楽しいファミリー・ムービーに仕上がっている。
特筆すべき点はトラの演技である。部分的にフレームの外で強制的に演技させている部分や「にせもののトラ(アニマトロニクス)」が見え隠れするが、トラの演技は自然で、どうやってこんなシークエンスを破綻なく撮ったんだ、と思えるシーンの続出である。
聞くところによると、これはトラが、シーンに合った動きをするまで気長に待ち続ける、と言う手法だった、と言う事であるから、気の遠くなるような撮影作業である。
セットではなく、ほとんどがロケの作品で、こういった手法で撮影するとは、驚きを禁じえないのである。
脚本は、ファミリー・ムービーと言うことで、自然界の弱肉強食的残酷描写もなく、かわいいトラと楽しい物語、というものだが、唯一「人間のエゴの責任をとらなければならない」とマクロリーがラウールを諭す場面が秀逸である。
いわばマクロリーとラウールの演技合戦になっているのだ。
そして、このシーンを突き詰めていくと「子鹿物語」(1947)的結末に至る訳である。
またトラの親子を地元の知事(=土候の息子/貴族?)親子のメタファーとして絡めたあたりも良い印象を受けた。
キャストは、ガイ・ピアースにしろ、フレディー・ハイモアにしろ、完全にトラに食われているような印象を受ける。
勿論、ラウール少年を演じたフレディー・ハイモアには感心させられるし、ガイ・ピアースら大人のキャストもそれぞれ自分の仕事をきちんとこなしている。
しかし、やはりトラなのだ。
音楽は、若干オーバー・スコアで、トラのかわいさを前面に押し出しすぎているような印象を受けた。
本作「トゥー・ブラザーズ」は、大自然の厳しさ、弱肉強食、食物連鎖、人間のエゴ、環境破壊等のハードな部分を期待する方には、残念ながら期待はずれといわざるを得ないが、この秋家族団欒で映画体験をするには、ちょうど良い良質なファミリー・ムービーなのだ。
しかし、ファミリー・ムービーであり、子供向けの作品であるからこそ、自然界ではトラがどうやって獲物を取るのか、人間のエゴで飼いならされてしまった猛獣はどうなるのか、そういったところを描いて欲しかったのである。
ジャン=ジャック・アノーは一体、どこを目指しているのであろうか。
余談だが「メメント」のガイ・ピアースへのセルフ・オマージュも楽しいものだった。
また「ジュラシック・パーク」へのオマージュもあった。
「テイキングライブス」
2004年8月27日 映画
2004/08/27 東京新橋ヤクルトホールで「テイキング・ライブス」の試写を観た。
1983年、カナダ。
マーティン・アッシャーという1人の少年が家を出た。
数日後、母親(ジーナ・ローランズ)の元に彼が交通事故で死亡した、という知らせが届く。
そして、現在。
絞殺の上、両腕を切断され白骨化が進んだ死体が工事現場で発見される。
広域猟奇殺人の可能性を疑ったモントリオール警察のレクレア警部(チェッキー・カリョ)は、FBIに捜査協力を要請、派遣された特別捜査官イリアナ・スコット(アンジェリーナ・ジョリー)は、限られた情報から犯人像を分析するプロファイルの天才だった。
イリアナは到着早々プロファイルを開始し、捜査は少しずつ進展をみせ始めるが、そんな矢先、新たな殺人事件が起きる。
しかし今度の事件には犯人と直面した目撃者コスタ(イーサン・ホーク)がいたのだが・・・・。
監督はD・J・カルーソー
出演はアンジェリーナ・ジョリー、イーサン・ホーク、キーファー・サザーランド、ジーナ・ローランズ、オリヴィエ・マルティネス、チェッキー・カリョ、ジャン=ユーグ・アングラード、ポール・ダノ他
本作はトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」に代表されるサイコキラーとプロファイラーが活躍する物語である。
しかし、「羊たちの沈黙」以来多くのサイコキラーもの、プロファイルものの作品が製作され、現在ではサイコキラーにしろプロファイラーにしろ、最早手垢のついた感のある題材である、と言わざるを得ない。
そして、こういった作品に付き物である「意外性がある犯人」と言っても、現代の観客は余程の事が無い限り、余程の意外性が無い限り、驚かないような状態になっている、と言えるのだ。
そんな中、本作「テイキングライブス」は、最早手垢がついた題材であるサイコキラーとプロファイラーを題材とし、意外な犯人探しが楽しめる作品として製作された訳なのだ。
言うならば、四面楚歌的な状況の中で製作された作品、と言うことなのである。
そして、その天才プロファイラーを演じるのはアンジェリーナ・ジョリー、従来は比較的アクション指数の高い娯楽作品のヒロインを得意としていたのだが、本作では今までに無い知的な役柄を演じている。
おそらく女優としての新たな一面の模索図ったものだと思うし、場合によっては、女性天才プロファイラーを主人公としたシリーズ化の構想もあったかも知れない。
そのアンジェリーナ・ジョリーが演じた特別捜査官イリアナ・スコットの役柄は、ハンニバル・レクター博士より落ちるが、頭が良く、クラリス・スターリングくらいに美しく、ララ・クロフトくらいに強い、という際立ったキャラクターとして描かれている。
そして本作「テイキングライブス」のサイコキラーは、誰かを殺し、相手の人生そのものを乗っ取り(=テイキング・ライブス)、そして、その相手の人生に飽きたら次の獲物を探し殺し乗っ取り、それを現在まで十年以上も続けている訳なのである。
さて、本作「テイキングライブス」だが、可も無い不可も無い、水準通りの普通のサイコキラー&プロファイラーものだと言えよう。
残念ながら取り立てて、ここが凄いとか、どこが凄い、と言ったところは無いのだが、主要キャラクターが脚本上きちんと立っており好感が持てた。
特にアンジェリーナ・ジョリーとイーサン・ホークが良かった。
シリーズ構成を考えると脚本的に問題は無い訳ではないが、アンジェリーナ・ジョリーが演じる特別捜査官イリアナ・スコットの成長物語とか、特別捜査官イリアナ・スコット登場編としては大変面白い作品に仕上がっているのではないだろうか。
また、脇を固める警察陣を演じたチェッキー・カリョ(レクレア警部)、オリヴィエ・マルティネス(パーケット刑事)、ジャン=ユーグ・アングラード(デュバル刑事)もそれぞれ良い味を出している。
直情的な刑事と理性的な刑事のコンビだとか、物分りは良いが部下に厳しい上司だとか、若干ステレオタイプ的な感が強いが、存在感は充分であった。
また、キーファー・サザーランドだが、おそらく多くの観客も予想していると思うのだが、比較的上手い使い方をされていた。
結果的に本作は、決して娯楽大作では無いが、小粒でピリリと辛い、こ小気味いい作品に仕上がっている。
強い女性、恐い女性を見たければ是非オススメの一本なのだ。
観客に対する目配せ的伏線も多々あるので、謎解きファンにもオススメの一本だと言えよう。
しかし、わかりやすい伏線が多く、謎解きも比較的簡単なので、コアな謎解きファンにはすすめられないかも知れない。
もしかすると本作は、謎解きより、サイコキラーのステレオタイプ的な室内や、初心者向けのプロファイルの過程、アクションやショック描写を本来は楽しむ作品なのかも知れない。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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1983年、カナダ。
マーティン・アッシャーという1人の少年が家を出た。
数日後、母親(ジーナ・ローランズ)の元に彼が交通事故で死亡した、という知らせが届く。
そして、現在。
絞殺の上、両腕を切断され白骨化が進んだ死体が工事現場で発見される。
広域猟奇殺人の可能性を疑ったモントリオール警察のレクレア警部(チェッキー・カリョ)は、FBIに捜査協力を要請、派遣された特別捜査官イリアナ・スコット(アンジェリーナ・ジョリー)は、限られた情報から犯人像を分析するプロファイルの天才だった。
イリアナは到着早々プロファイルを開始し、捜査は少しずつ進展をみせ始めるが、そんな矢先、新たな殺人事件が起きる。
しかし今度の事件には犯人と直面した目撃者コスタ(イーサン・ホーク)がいたのだが・・・・。
監督はD・J・カルーソー
出演はアンジェリーナ・ジョリー、イーサン・ホーク、キーファー・サザーランド、ジーナ・ローランズ、オリヴィエ・マルティネス、チェッキー・カリョ、ジャン=ユーグ・アングラード、ポール・ダノ他
本作はトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」に代表されるサイコキラーとプロファイラーが活躍する物語である。
しかし、「羊たちの沈黙」以来多くのサイコキラーもの、プロファイルものの作品が製作され、現在ではサイコキラーにしろプロファイラーにしろ、最早手垢のついた感のある題材である、と言わざるを得ない。
そして、こういった作品に付き物である「意外性がある犯人」と言っても、現代の観客は余程の事が無い限り、余程の意外性が無い限り、驚かないような状態になっている、と言えるのだ。
そんな中、本作「テイキングライブス」は、最早手垢がついた題材であるサイコキラーとプロファイラーを題材とし、意外な犯人探しが楽しめる作品として製作された訳なのだ。
言うならば、四面楚歌的な状況の中で製作された作品、と言うことなのである。
そして、その天才プロファイラーを演じるのはアンジェリーナ・ジョリー、従来は比較的アクション指数の高い娯楽作品のヒロインを得意としていたのだが、本作では今までに無い知的な役柄を演じている。
おそらく女優としての新たな一面の模索図ったものだと思うし、場合によっては、女性天才プロファイラーを主人公としたシリーズ化の構想もあったかも知れない。
そのアンジェリーナ・ジョリーが演じた特別捜査官イリアナ・スコットの役柄は、ハンニバル・レクター博士より落ちるが、頭が良く、クラリス・スターリングくらいに美しく、ララ・クロフトくらいに強い、という際立ったキャラクターとして描かれている。
そして本作「テイキングライブス」のサイコキラーは、誰かを殺し、相手の人生そのものを乗っ取り(=テイキング・ライブス)、そして、その相手の人生に飽きたら次の獲物を探し殺し乗っ取り、それを現在まで十年以上も続けている訳なのである。
さて、本作「テイキングライブス」だが、可も無い不可も無い、水準通りの普通のサイコキラー&プロファイラーものだと言えよう。
残念ながら取り立てて、ここが凄いとか、どこが凄い、と言ったところは無いのだが、主要キャラクターが脚本上きちんと立っており好感が持てた。
特にアンジェリーナ・ジョリーとイーサン・ホークが良かった。
シリーズ構成を考えると脚本的に問題は無い訳ではないが、アンジェリーナ・ジョリーが演じる特別捜査官イリアナ・スコットの成長物語とか、特別捜査官イリアナ・スコット登場編としては大変面白い作品に仕上がっているのではないだろうか。
また、脇を固める警察陣を演じたチェッキー・カリョ(レクレア警部)、オリヴィエ・マルティネス(パーケット刑事)、ジャン=ユーグ・アングラード(デュバル刑事)もそれぞれ良い味を出している。
直情的な刑事と理性的な刑事のコンビだとか、物分りは良いが部下に厳しい上司だとか、若干ステレオタイプ的な感が強いが、存在感は充分であった。
また、キーファー・サザーランドだが、おそらく多くの観客も予想していると思うのだが、比較的上手い使い方をされていた。
結果的に本作は、決して娯楽大作では無いが、小粒でピリリと辛い、こ小気味いい作品に仕上がっている。
強い女性、恐い女性を見たければ是非オススメの一本なのだ。
観客に対する目配せ的伏線も多々あるので、謎解きファンにもオススメの一本だと言えよう。
しかし、わかりやすい伏線が多く、謎解きも比較的簡単なので、コアな謎解きファンにはすすめられないかも知れない。
もしかすると本作は、謎解きより、サイコキラーのステレオタイプ的な室内や、初心者向けのプロファイルの過程、アクションやショック描写を本来は楽しむ作品なのかも知れない。
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2004/08/26 東京有楽町よみうりホールで「愛の落日」の試写を観た。
1952年、独立解放戦線と政府との争いが激化するフランス占領下ベトナムの首都サイゴン。
ロンドン・タイムズの特派員である初老の男トーマス・ファウラー(マイケル・ケイン)は、ロンドンに妻子がいながら、愛人の若く美しいベトナム人女性フォング(ドー・ハイ・イエン)と、サイゴンで幸せな日々を送っていた。
ある時、アメリカの援助団体に属する青年医師アルデン・パイル(ブレンダン・フレイザー)と知り合ったファウラーは、物静かで真摯なパイルに好感を持ち、交流を始める。
お互いを尊敬し尊重しながら友人関係を育んでゆく彼らだったが、ファウラーからフォングを紹介されたパイルは彼女に恋をしてしまう。
やがてフォングをめぐって、ファウラーとパイルの間に微妙な亀裂が生じてゆく。
そして・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督はフィリップ・ノイス
撮影はクリストファー・ドイル
出演はマイケル・ケイン、ブレンダン・フレイザー、ドー・ハイ・イエン、レイド・セルベッジア、ツィ・マー、ロバート・スタントン、ホームズ・オズボーン等
この秋、是非オススメの一本である。
とは言うものの、本作「愛の落日」の表の顔は、ファウラー(マイケル・ケイン)、フォング(ドー・ハイ・イエン)、パイル(ブレンダン・フレイザー)という3人の恋愛模様と痴情のもつれを、ベトナム戦争前夜を舞台に描いた、ありがちと言っても良い物語である。
しかし、本作「愛の落日」の裏の顔は、1952年当時のフランス占領下にあるベトナムに対し、アメリカが軍事介入する経緯をフィクションとして描き、観客に対しある種の疑問を投げかけている、と考えられるような構成を持っているのだ。
そう考えた場合、例のファウラー、フォング、パイル等の痴情のもつれは、「愛の落日」の裏の顔(真の顔)を覆い隠すカモフラージュに過ぎないかも知れないのだ。
そして製作者サイドが観客に投げかける、その疑問だが、それを考える前にこの映画の背景を考える必要がある。
本作「愛の落日」は、グレアム・グリーンの時代風刺を痛烈に盛り込んだ名作「おとなしいアメリカ人」(1955年)を映画化したものである。
そして偶然か必然なのか、2001年9月11日の同時多発テロが発生、この映画の社会的テーマ性から全米公開が延期となり、いくつかの映画祭や限定上映はあったものの、北米拡大ロードショーは翌2002年2月にずれ込んだ訳である。
皮肉なことに、このように全米公開が延期されたため、本作が観客に投げかける疑問は、より一層明確になってきた感が否めないのだ。
『ベトナム戦争前夜にアメリカはこんな事をしていたが、イラク侵攻前夜のアメリカは一体何をしていたのか』と。
偶然か必然なのかわからないが、恐ろしくシニカルな状況にこの映画は置かれてしまった訳なのだ。
そして今秋、本作「愛の落日」が日本公開となるのだが、この映画の公開は、観る人によっては、マイケル・ムーアの「華氏911」への援護射撃的側面を持つ作品と捉えられる事になる、と思われるのだ。
『ベトナムではこうだったが、イラクではどうだったんだ』と。
この映画に関心があるのならば、「愛の落日」は痴情のもつれを描いたラヴ・ストーリーではなく、政治的背景を持ち観客に疑問を投げかける作品として観て欲しいとわたしは思うのだ。
あともうひとつ、二人の男性に翻弄されるファングは何を象徴しているのかを、何のメタファーなのかを考えていただきたいと思う。
そして勿論、ファウラーとパイルが何を象徴しているのかをも、同時に考えていただきたいと思うのだ。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
ところで、キャストだが、先ずマイケル・ケインの起用が素晴らしい。
何故素晴らしいかは現段階では詳細に書けないが、マイケル・ケインの映画的記憶を見事に利用した素晴らしいキャスティングと言わざるを得ないのだ。
一方、ブレンダン・フレイザーだが、彼はホラーやコメディ、青春モノを経て「ハムナプトラ」シリーズでブレイクした訳だが、本作を見ると文芸系作品もこなせる良い俳優にやっとなって来たかなと思え、今後のキャリアを考えた場合、つまならいCGIアクション娯楽作品のような映画ではなく、本作のような、しっとりとしていながら「何か」を持っている役柄を演じて欲しいと思ってしまう。
ヒロイン役のドー・ハイ・イエンは、なんと言っても美しく魅力的である。
おそらく西洋人が東洋人女性に憧れる部分を極限的に高めた役柄となっているのだろう。ブレンダン・フレイザー演じるパイルがいきなりフォングに惚れるのは、東洋人である日本人には一般的に理解できないかも知れないが、西洋人が東洋人女性に対して持っている憧れや何かを考えると、決してリアリティが無いわけではない、と思えるのである。
あとは、ファウラーの現地のコーディネーターを演じたツィ・マーが印象的であった。彼の孤高の生き様が格好良いのだ。
また、ヴィゴ捜査官を演じたラデ・シェルベッジアも強烈な存在感を醸し出していた。
撮影はクリストファー・ドイルだが、彼の名を一躍高めたウォン・カーウァイの作品に多く見られた手持ちカメラでブレを多用した作風ではなく、美しくきっちりと落ち着いた画面を見事に切り取っていた。
ドイルはもしかすると、東洋をソツなく撮れる、貴重な西洋人カメラマン的存在なのかも知れない。
1952年、独立解放戦線と政府との争いが激化するフランス占領下ベトナムの首都サイゴン。
ロンドン・タイムズの特派員である初老の男トーマス・ファウラー(マイケル・ケイン)は、ロンドンに妻子がいながら、愛人の若く美しいベトナム人女性フォング(ドー・ハイ・イエン)と、サイゴンで幸せな日々を送っていた。
ある時、アメリカの援助団体に属する青年医師アルデン・パイル(ブレンダン・フレイザー)と知り合ったファウラーは、物静かで真摯なパイルに好感を持ち、交流を始める。
お互いを尊敬し尊重しながら友人関係を育んでゆく彼らだったが、ファウラーからフォングを紹介されたパイルは彼女に恋をしてしまう。
やがてフォングをめぐって、ファウラーとパイルの間に微妙な亀裂が生じてゆく。
そして・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督はフィリップ・ノイス
撮影はクリストファー・ドイル
出演はマイケル・ケイン、ブレンダン・フレイザー、ドー・ハイ・イエン、レイド・セルベッジア、ツィ・マー、ロバート・スタントン、ホームズ・オズボーン等
この秋、是非オススメの一本である。
とは言うものの、本作「愛の落日」の表の顔は、ファウラー(マイケル・ケイン)、フォング(ドー・ハイ・イエン)、パイル(ブレンダン・フレイザー)という3人の恋愛模様と痴情のもつれを、ベトナム戦争前夜を舞台に描いた、ありがちと言っても良い物語である。
しかし、本作「愛の落日」の裏の顔は、1952年当時のフランス占領下にあるベトナムに対し、アメリカが軍事介入する経緯をフィクションとして描き、観客に対しある種の疑問を投げかけている、と考えられるような構成を持っているのだ。
そう考えた場合、例のファウラー、フォング、パイル等の痴情のもつれは、「愛の落日」の裏の顔(真の顔)を覆い隠すカモフラージュに過ぎないかも知れないのだ。
そして製作者サイドが観客に投げかける、その疑問だが、それを考える前にこの映画の背景を考える必要がある。
本作「愛の落日」は、グレアム・グリーンの時代風刺を痛烈に盛り込んだ名作「おとなしいアメリカ人」(1955年)を映画化したものである。
そして偶然か必然なのか、2001年9月11日の同時多発テロが発生、この映画の社会的テーマ性から全米公開が延期となり、いくつかの映画祭や限定上映はあったものの、北米拡大ロードショーは翌2002年2月にずれ込んだ訳である。
皮肉なことに、このように全米公開が延期されたため、本作が観客に投げかける疑問は、より一層明確になってきた感が否めないのだ。
『ベトナム戦争前夜にアメリカはこんな事をしていたが、イラク侵攻前夜のアメリカは一体何をしていたのか』と。
偶然か必然なのかわからないが、恐ろしくシニカルな状況にこの映画は置かれてしまった訳なのだ。
そして今秋、本作「愛の落日」が日本公開となるのだが、この映画の公開は、観る人によっては、マイケル・ムーアの「華氏911」への援護射撃的側面を持つ作品と捉えられる事になる、と思われるのだ。
『ベトナムではこうだったが、イラクではどうだったんだ』と。
この映画に関心があるのならば、「愛の落日」は痴情のもつれを描いたラヴ・ストーリーではなく、政治的背景を持ち観客に疑問を投げかける作品として観て欲しいとわたしは思うのだ。
あともうひとつ、二人の男性に翻弄されるファングは何を象徴しているのかを、何のメタファーなのかを考えていただきたいと思う。
そして勿論、ファウラーとパイルが何を象徴しているのかをも、同時に考えていただきたいと思うのだ。
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ところで、キャストだが、先ずマイケル・ケインの起用が素晴らしい。
何故素晴らしいかは現段階では詳細に書けないが、マイケル・ケインの映画的記憶を見事に利用した素晴らしいキャスティングと言わざるを得ないのだ。
一方、ブレンダン・フレイザーだが、彼はホラーやコメディ、青春モノを経て「ハムナプトラ」シリーズでブレイクした訳だが、本作を見ると文芸系作品もこなせる良い俳優にやっとなって来たかなと思え、今後のキャリアを考えた場合、つまならいCGIアクション娯楽作品のような映画ではなく、本作のような、しっとりとしていながら「何か」を持っている役柄を演じて欲しいと思ってしまう。
ヒロイン役のドー・ハイ・イエンは、なんと言っても美しく魅力的である。
おそらく西洋人が東洋人女性に憧れる部分を極限的に高めた役柄となっているのだろう。ブレンダン・フレイザー演じるパイルがいきなりフォングに惚れるのは、東洋人である日本人には一般的に理解できないかも知れないが、西洋人が東洋人女性に対して持っている憧れや何かを考えると、決してリアリティが無いわけではない、と思えるのである。
あとは、ファウラーの現地のコーディネーターを演じたツィ・マーが印象的であった。彼の孤高の生き様が格好良いのだ。
また、ヴィゴ捜査官を演じたラデ・シェルベッジアも強烈な存在感を醸し出していた。
撮影はクリストファー・ドイルだが、彼の名を一躍高めたウォン・カーウァイの作品に多く見られた手持ちカメラでブレを多用した作風ではなく、美しくきっちりと落ち着いた画面を見事に切り取っていた。
ドイルはもしかすると、東洋をソツなく撮れる、貴重な西洋人カメラマン的存在なのかも知れない。
「スチームボーイ」を弁護する その2
2004年8月25日 映画
各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
「スチームボーイ」を語る上で、考えなければならないひとつの特徴として「ユーモアの欠如」があげられるだろう。
仮に「スチームボーイ」を一般的な少年少女向け「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と捉えた場合、「ユーモアの欠如」は作品として致命的な事かも知れない。
「スチームボーイ」が一般的な作品だとすれば、おそらくコメディ・リリーフとして機能すべきである、世間知らずのお嬢さんスカーレット(スカーレット・オハラ・セントジョーンズ)や、世間知らずのお嬢さんに振り回される爺や的役柄のサイモン(アーチボルド・サイモン)も、この作品ではコメディ・リリーフの役割を全く期待されていない。
そして、デザイン的には面白い要素(笑える要素)満載のオハラ財団の蒸気機関メカも、決してコミカルな演出をされていないのだ。
物語に緩急のリズムを付け、クライマックスの緊張感を煽る意味も含めて、ユーモラスな場面を挿入し、観客の緊張を弛緩させるのは、一般的な映画の文法上必要だと考えられる。
そんな状況の中で考えなければならないのは、果たして「スチームボーイ」のような物語に「ユーモア」は本当に必要なのか、という点と、製作者が「ユーモアが欠如」した「スチームボーイ」という作品を製作した理由は何か、製作者はそれにより観客に何を訴えかけているのか、という点である。
先ず前提として「スチームボーイ」の物語は、『人類が叡智を結集して創り上げた「スチームボール」という、人類に破壊や恩恵をもたらすであろうあるモノを奪い合う物語』であり、端的に言えば『破壊兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして本作では多くの人命を奪うであろう破壊兵器の技術基盤と成りうる「スチームボール」の争奪戦を描き、その過程で、多くの人命が文字通り犠牲になっている訳である。
そして「スチームボーイ」の物語は、一部のエゴイスティックな人間や集団が、自らの行動規範に基づき自らの目的を成就するため「スチームボール」を奪い合い、結果としてその行動が多くの人々の死を誘発している、という構造を持っているのである。
これは、「スチームボーイ」とよく比較される「天空の城ラピュタ」も同様である。
「天空の城ラピュタ」の物語は、『かつて大空に恐怖の代名詞として君臨したラピュタ国の失われた技術を開放するキーとなる「飛行石」の争奪戦』が描かれており、この物語も端的に言えば『兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして「天空の城ラピュタ」で宮崎駿は、最低でも百人単位の人々の死を描く一方、コミカルでユーモラスなシークエンスを演出している。
例えば、冒頭付近の「そのシャツ誰が縫うんだろうね」のシークエンスや、タイガーモス号のキッチンでの「何か手伝おうか」のシークエンス、そしてドーラのオナラのシークエンス等、物語にリズムを付け、観客を笑わせる事を目的とした演出がなされている。
このような演出はその他の「ハード」な宮崎駿の作品には無いのである。「風の谷のナウシカ」然り、「もののけ姫」然りである。
しかし「スチームボーイ」に接した今、「天空の城ラピュタ」が多くの人々の死を描いている以上、その死者やその死者の背後にいる死者の親族たちに対し、笑いを取ることを目的とした演出は、もしかすると不謹慎な手法だったのではなかったのだろうか、と思ってしまうのである。
例えば「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に「ユーモア」描写があったらどういう印象を観客に与えるか、と言うことである。
そう考えた場合、「スチームボーイ」は従前の、多くの人々の生き死にを描きながら、平然と「笑い」のシークエンスを物語に挿入してきた作品群へのアンチテーゼとして機能しているのではないだろうか。と思えるのだ。
その場合、この「スチームボーイ」の製作者が目指している(と思われる)、作品に向き合う孤高で真摯な態度に、わたしは尊敬の念を禁じえないのだ。
これは例えフィクションと言えども、登場人物の生き死にに責任を持て、と言う事であり、物語を描く以上、人の生き死には尊厳を持って取り組め、と言う事なのである。
そして「スチームボーイ」は、従前の、人々の死を描きつつ同時に笑いを描き続けてきたある意味不謹慎な作品群への大友克洋からの訣別意志表示ではなかろうか。と思うのだ。
そして大友克洋は、「スチームボーイ」の製作過程において、ただ単に従来の手法通りに「ユーモア」を加味すれば良かったのに、わざわざ「ユーモア」を加味しなかった事に、言い換えるならば従来の価値観の破壊に拍手を贈りたいのだ。
ここまで読んできた人の中には、何考えてんだ、頭おかしいんじゃないのか、これはあくまでもフィクションだぜ、何そんなに熱くなってんだよたかが映画だぜ、と思う方もいると思います。
しかし、「スチームボーイ」は、そこまで考えさせるきっかけをわたし達に提供してくれる「ハード」な作品である。と言う事なんでしょうね。
勿論わたしにとっては、ですけど。
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
「スチームボーイ」を語る上で、考えなければならないひとつの特徴として「ユーモアの欠如」があげられるだろう。
仮に「スチームボーイ」を一般的な少年少女向け「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と捉えた場合、「ユーモアの欠如」は作品として致命的な事かも知れない。
「スチームボーイ」が一般的な作品だとすれば、おそらくコメディ・リリーフとして機能すべきである、世間知らずのお嬢さんスカーレット(スカーレット・オハラ・セントジョーンズ)や、世間知らずのお嬢さんに振り回される爺や的役柄のサイモン(アーチボルド・サイモン)も、この作品ではコメディ・リリーフの役割を全く期待されていない。
そして、デザイン的には面白い要素(笑える要素)満載のオハラ財団の蒸気機関メカも、決してコミカルな演出をされていないのだ。
物語に緩急のリズムを付け、クライマックスの緊張感を煽る意味も含めて、ユーモラスな場面を挿入し、観客の緊張を弛緩させるのは、一般的な映画の文法上必要だと考えられる。
そんな状況の中で考えなければならないのは、果たして「スチームボーイ」のような物語に「ユーモア」は本当に必要なのか、という点と、製作者が「ユーモアが欠如」した「スチームボーイ」という作品を製作した理由は何か、製作者はそれにより観客に何を訴えかけているのか、という点である。
先ず前提として「スチームボーイ」の物語は、『人類が叡智を結集して創り上げた「スチームボール」という、人類に破壊や恩恵をもたらすであろうあるモノを奪い合う物語』であり、端的に言えば『破壊兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして本作では多くの人命を奪うであろう破壊兵器の技術基盤と成りうる「スチームボール」の争奪戦を描き、その過程で、多くの人命が文字通り犠牲になっている訳である。
そして「スチームボーイ」の物語は、一部のエゴイスティックな人間や集団が、自らの行動規範に基づき自らの目的を成就するため「スチームボール」を奪い合い、結果としてその行動が多くの人々の死を誘発している、という構造を持っているのである。
これは、「スチームボーイ」とよく比較される「天空の城ラピュタ」も同様である。
「天空の城ラピュタ」の物語は、『かつて大空に恐怖の代名詞として君臨したラピュタ国の失われた技術を開放するキーとなる「飛行石」の争奪戦』が描かれており、この物語も端的に言えば『兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして「天空の城ラピュタ」で宮崎駿は、最低でも百人単位の人々の死を描く一方、コミカルでユーモラスなシークエンスを演出している。
例えば、冒頭付近の「そのシャツ誰が縫うんだろうね」のシークエンスや、タイガーモス号のキッチンでの「何か手伝おうか」のシークエンス、そしてドーラのオナラのシークエンス等、物語にリズムを付け、観客を笑わせる事を目的とした演出がなされている。
このような演出はその他の「ハード」な宮崎駿の作品には無いのである。「風の谷のナウシカ」然り、「もののけ姫」然りである。
しかし「スチームボーイ」に接した今、「天空の城ラピュタ」が多くの人々の死を描いている以上、その死者やその死者の背後にいる死者の親族たちに対し、笑いを取ることを目的とした演出は、もしかすると不謹慎な手法だったのではなかったのだろうか、と思ってしまうのである。
例えば「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に「ユーモア」描写があったらどういう印象を観客に与えるか、と言うことである。
そう考えた場合、「スチームボーイ」は従前の、多くの人々の生き死にを描きながら、平然と「笑い」のシークエンスを物語に挿入してきた作品群へのアンチテーゼとして機能しているのではないだろうか。と思えるのだ。
その場合、この「スチームボーイ」の製作者が目指している(と思われる)、作品に向き合う孤高で真摯な態度に、わたしは尊敬の念を禁じえないのだ。
これは例えフィクションと言えども、登場人物の生き死にに責任を持て、と言う事であり、物語を描く以上、人の生き死には尊厳を持って取り組め、と言う事なのである。
そして「スチームボーイ」は、従前の、人々の死を描きつつ同時に笑いを描き続けてきたある意味不謹慎な作品群への大友克洋からの訣別意志表示ではなかろうか。と思うのだ。
そして大友克洋は、「スチームボーイ」の製作過程において、ただ単に従来の手法通りに「ユーモア」を加味すれば良かったのに、わざわざ「ユーモア」を加味しなかった事に、言い換えるならば従来の価値観の破壊に拍手を贈りたいのだ。
ここまで読んできた人の中には、何考えてんだ、頭おかしいんじゃないのか、これはあくまでもフィクションだぜ、何そんなに熱くなってんだよたかが映画だぜ、と思う方もいると思います。
しかし、「スチームボーイ」は、そこまで考えさせるきっかけをわたし達に提供してくれる「ハード」な作品である。と言う事なんでしょうね。
勿論わたしにとっては、ですけど。
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2004/08/24 東京銀座 銀座ガスホールで行われた「CODE46」の試写会に行ってきた。
法規46
第1条
同じ核遺伝子を持つ者は遺伝子学的に同一でありすべて血縁と見なす。
体外受精・人工受精・クローン技術に際して同じ遺伝子間の生殖はいかなる場合も避けること。従って
1.子作りの前に遺伝子検査を義務つける。遺伝子が100%、50%、25%同一の場合、受胎は許されない。
2.計画外の妊娠は胎児を検査すること。100%、50%、25%同一の両親の場合は即中絶せねばならない。
3.両親が遺伝子の同一性を知らない場合法規46違反を避けるべく医療介入する。
4.同一性を知りながらの妊娠は法規46に違反する重大な犯罪行為である。
環境破壊と砂漠化が進む近未来。
徹底した管理社会であるこの世界は、安全が保障されている都市部(内の世界)と果てしない砂漠が続く無法地帯(外の世界)を厳格に区別している。
その世界では、一部の認められた人にのみ都市間の移動を許可するパペル(滞在許可証/現在のパスポートとビザの機能を持つカード)が発行されていた。
シアトル在住の調査員ウィリアム・ゲルド(ティム・ロビンス)は、パペルを審査・発行するスフィンクス社の依頼で、頻発する違法パペル偽造犯を突き止めるため上海のスフィンクス社を訪問した。
その世界では、人類の機能を高める各種ウィルスの服用が認可されている。
ウィリアムは短い会話を交わすだけで相手の嘘を見破る事が出来る共鳴ウィルスを服用しているため、即座に偽造パペルの犯人はマリア・ゴンザレス(サマンサ・モートン)である事を知ってしまうが・・・・。
監督はマイケル・ウィンターボトム。
出演はサマンサ・モートン、ティム・ロビンス、ジャンヌ・バリバール、オム・プリ、エシー・デイヴィス他。
私見だが、
はっきり言って最高である。
おそらく、わたしの今年のベスト5くらいには確実に顔を出す程、素晴らしい作品に思える。
何と言っても、世界観が素晴らしいのだ。
そして、脚本も(若干気に入らない部分はあるが)素晴らしいし、撮影も照明も素晴らしい、美術も素晴らしいし、そして何よりもキャストが素晴らしいのだ。
先ず世界観だが、われわれの現在の世界の延長線上に確実に存在し得るだろうと誰もが思えるほどのリアリティが感じられる世界が構築されている。
そして、この世界観は洗練されていると同時に雑多で多様化し、混沌とした社会をそして、貧富の二極分化を明確に描写している。
これは、実在のサイバー都市とも言える「上海」と、摩天楼とバラック街が共存する街「ドバイ」で行ったロケーションの効果が高いと思われる。
一言で言うなれば「ブレードランナー」で構築されたような素晴らしい世界観を、セットではなくロケーションで実現している、と言う事なのだ。
実際の構造物が醸し出すリアリティ溢れる世界観は何よりであり、ロケで実際の構造物を使用することにより、照明がより自然光に近づき、一層のリアリティの付与に成功している。
このリアリティと質感は、セットではおそらく出せないだろう。
「ブレードランナー」は勿論素晴らしい作品であり、その世界観も素晴らしいのだが、残念ながらセット撮影であるため、実在の世界と比較すると若干の違和感があり、観客を取り込む「魔法の力」が、ロケで撮影された本作と比較すると弱い、という事である。
そして、様々な新技術やギミックを「どうだ!凄いだろ!」という感じではなく、あくまでもさりげなく、あたり前のように画面に登場させる上品さが心地よい。
またこれは脚本にも関係するのだが、そういった新技術やギミックを説明しない(説明的なセリフがない)のも好感が持てる。
例えば、最近流行のCGIによる圧倒的で情報量の多いヴィジュアルで近未来を描いている「フィフス・エレメント」や「マイノリティ・リポート」のような作品の、ゴリ押しで、リアリティの無いカメラ移動や、製作者サイドの「どうだ!凄いだろ!」的描写が感じられる下品な近未来のヴィジュアルと比較すると、本作「CODE46」の、近未来のあたり前の世界の日常をあたり前に表現し、控えめだが堅牢な世界観の構築に感服してしまうのだ。
物語の骨格は、ウィリアム(ティム・ロビンス)が違法パペル偽造犯を突き止める、という所謂デテクティブ・ストーリーなのだが、決して一筋縄ではいかない、物語に仕上がっている。
先ほど世界観の構築について「ブレードランナー」を比較対象として例に挙げたが、本作「CODE46」は21世紀の新しい世代向けの「ブレードランナー」なのかも知れない。
また脚本は、所謂デテクティブ・ストーリーにタイトルでもある「法規46」というSFテイストを絡め、一般のテクノロジーとバイオ・テクノロジーが進化した社会の問題点を鋭く抉っている。
更にマリアの夢のコンセプトが秀逸で、物語にスピードとタイム・リミットから派生する危機感を与えている。
また極度の管理社会を表現する事により、貧富や身分の差が二極分化した恐ろしい世界をわかりやすく、危機感をあまり煽らない程度の描写で語っている。
次いでキャストについてだが、本作はティム・ロビンスとサマンサ・モートンの二人芝居と言っても良いほど、二人は出ずっぱりである。
ティム・ロビンスはハード・ボイルド的寡黙な探偵役を見事に演じているし、ヒロインであり、物語の語り部でもあるサマンサ・モートンも体当たりの演技を見せている。
サマンサ・モートン演じるマリアが語り部として機能しているあたりが、脚本的には、実は凄いところなのである。
とにかく、わたしが思うには本作「CODE46」は、勿論観客は選ぶと思うが、この秋注目の大穴作品だと思うのだ。
大化けするかコケるか微妙だが、本作にご関心がある方は、早めに観ることを個人的にはオススメする。
法規46
第1条
同じ核遺伝子を持つ者は遺伝子学的に同一でありすべて血縁と見なす。
体外受精・人工受精・クローン技術に際して同じ遺伝子間の生殖はいかなる場合も避けること。従って
1.子作りの前に遺伝子検査を義務つける。遺伝子が100%、50%、25%同一の場合、受胎は許されない。
2.計画外の妊娠は胎児を検査すること。100%、50%、25%同一の両親の場合は即中絶せねばならない。
3.両親が遺伝子の同一性を知らない場合法規46違反を避けるべく医療介入する。
4.同一性を知りながらの妊娠は法規46に違反する重大な犯罪行為である。
環境破壊と砂漠化が進む近未来。
徹底した管理社会であるこの世界は、安全が保障されている都市部(内の世界)と果てしない砂漠が続く無法地帯(外の世界)を厳格に区別している。
その世界では、一部の認められた人にのみ都市間の移動を許可するパペル(滞在許可証/現在のパスポートとビザの機能を持つカード)が発行されていた。
シアトル在住の調査員ウィリアム・ゲルド(ティム・ロビンス)は、パペルを審査・発行するスフィンクス社の依頼で、頻発する違法パペル偽造犯を突き止めるため上海のスフィンクス社を訪問した。
その世界では、人類の機能を高める各種ウィルスの服用が認可されている。
ウィリアムは短い会話を交わすだけで相手の嘘を見破る事が出来る共鳴ウィルスを服用しているため、即座に偽造パペルの犯人はマリア・ゴンザレス(サマンサ・モートン)である事を知ってしまうが・・・・。
監督はマイケル・ウィンターボトム。
出演はサマンサ・モートン、ティム・ロビンス、ジャンヌ・バリバール、オム・プリ、エシー・デイヴィス他。
私見だが、
はっきり言って最高である。
おそらく、わたしの今年のベスト5くらいには確実に顔を出す程、素晴らしい作品に思える。
何と言っても、世界観が素晴らしいのだ。
そして、脚本も(若干気に入らない部分はあるが)素晴らしいし、撮影も照明も素晴らしい、美術も素晴らしいし、そして何よりもキャストが素晴らしいのだ。
先ず世界観だが、われわれの現在の世界の延長線上に確実に存在し得るだろうと誰もが思えるほどのリアリティが感じられる世界が構築されている。
そして、この世界観は洗練されていると同時に雑多で多様化し、混沌とした社会をそして、貧富の二極分化を明確に描写している。
これは、実在のサイバー都市とも言える「上海」と、摩天楼とバラック街が共存する街「ドバイ」で行ったロケーションの効果が高いと思われる。
一言で言うなれば「ブレードランナー」で構築されたような素晴らしい世界観を、セットではなくロケーションで実現している、と言う事なのだ。
実際の構造物が醸し出すリアリティ溢れる世界観は何よりであり、ロケで実際の構造物を使用することにより、照明がより自然光に近づき、一層のリアリティの付与に成功している。
このリアリティと質感は、セットではおそらく出せないだろう。
「ブレードランナー」は勿論素晴らしい作品であり、その世界観も素晴らしいのだが、残念ながらセット撮影であるため、実在の世界と比較すると若干の違和感があり、観客を取り込む「魔法の力」が、ロケで撮影された本作と比較すると弱い、という事である。
そして、様々な新技術やギミックを「どうだ!凄いだろ!」という感じではなく、あくまでもさりげなく、あたり前のように画面に登場させる上品さが心地よい。
またこれは脚本にも関係するのだが、そういった新技術やギミックを説明しない(説明的なセリフがない)のも好感が持てる。
例えば、最近流行のCGIによる圧倒的で情報量の多いヴィジュアルで近未来を描いている「フィフス・エレメント」や「マイノリティ・リポート」のような作品の、ゴリ押しで、リアリティの無いカメラ移動や、製作者サイドの「どうだ!凄いだろ!」的描写が感じられる下品な近未来のヴィジュアルと比較すると、本作「CODE46」の、近未来のあたり前の世界の日常をあたり前に表現し、控えめだが堅牢な世界観の構築に感服してしまうのだ。
物語の骨格は、ウィリアム(ティム・ロビンス)が違法パペル偽造犯を突き止める、という所謂デテクティブ・ストーリーなのだが、決して一筋縄ではいかない、物語に仕上がっている。
先ほど世界観の構築について「ブレードランナー」を比較対象として例に挙げたが、本作「CODE46」は21世紀の新しい世代向けの「ブレードランナー」なのかも知れない。
また脚本は、所謂デテクティブ・ストーリーにタイトルでもある「法規46」というSFテイストを絡め、一般のテクノロジーとバイオ・テクノロジーが進化した社会の問題点を鋭く抉っている。
更にマリアの夢のコンセプトが秀逸で、物語にスピードとタイム・リミットから派生する危機感を与えている。
また極度の管理社会を表現する事により、貧富や身分の差が二極分化した恐ろしい世界をわかりやすく、危機感をあまり煽らない程度の描写で語っている。
次いでキャストについてだが、本作はティム・ロビンスとサマンサ・モートンの二人芝居と言っても良いほど、二人は出ずっぱりである。
ティム・ロビンスはハード・ボイルド的寡黙な探偵役を見事に演じているし、ヒロインであり、物語の語り部でもあるサマンサ・モートンも体当たりの演技を見せている。
サマンサ・モートン演じるマリアが語り部として機能しているあたりが、脚本的には、実は凄いところなのである。
とにかく、わたしが思うには本作「CODE46」は、勿論観客は選ぶと思うが、この秋注目の大穴作品だと思うのだ。
大化けするかコケるか微妙だが、本作にご関心がある方は、早めに観ることを個人的にはオススメする。
「バイオハザードII アポカリプス」
2004年8月23日 映画
2004/08/23 東京有楽町 丸の内ピカデリー1で行われた「バイオハザードII アポカリプス」の試写会に行ってきた。
舞台挨拶は、主演のミラ・ジョヴォヴィッチ。
巨大企業アンブレラ社の拠点があるラクーン・シティでは、一般市民が、狂ったように他の一般市民を襲い、殺害する事件が頻発していた。
これはアンブレラ社が地下研究所「ハイブ」で極秘開発していた「T−ウィルス」の感染者が引き起こしたものだった。
その「T−ウィルス」の感染者は、感染後数時間で一旦は死に至るが、「T−ウィルス」の作用で活性化し、人間を食料とみなし、本能のまま人間を際限なく襲い続けるのである。
この大混乱を沈静させるため、アンブレラ社はケイン少佐(トーマス・クレッチマン)を指揮官とする私設軍隊をラクーン・シティに展開、感染者の粛清と事態の収拾を図ったが、爆発的に増加する感染者に対処しきれず、シティを物理的に隔離し、新型バイオ・モンスター ネメシスの実験と、戦術核兵器によるシティの浄化と事件の隠蔽を画策する。
一方、シティ内に取り残された特殊部隊の女性隊員ジル・バレンタイン(シエンナ・ギロリー)、アンブレラ軍隊員カルロス・オリヴィエラ(オデッド・フェール)、一般市民L.J.(マイク・エップス)、ローカル局レポーター テリ・モラレス(サンドリーヌ・ホルト)等は、シティからの脱出方法と引き換えにシティ内に残されたアンジェラ(ソフィー・ヴァヴァサー)の救出を<市外から公衆電話で接触してきた、アンジェラの父で「T−ウィルス」の開発者アシュフォード博士(ジャレッド・ハリス)に持ちかけられる。
その頃、アンブレラ社の地下研究所「ハイブ」から辛くも逃げ延びた(「バイオハザード」事件)アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、強制的に収容されていた病院で36時間の昏睡状態から目覚め、ラクーン・シティの様子が一変している事に愕然とする。
監督は撮影あがりで本作が監督デビューとなるアレクサンダー・ウィット。
第一印象としては、大変良く出来たアクション映画である、と言うものである。
おそらく本作「バイオハザードII アポカリプス」は本来、アクション・ホラーと言うジャンルにカテゴライズされるべきなのだろうが、前作「バイオハザード」で、恐怖の対象物を明確にしてしまったため、得体の知れないモノに対する恐怖の度合は少なく、ホラー的な舞台背景を利用した勢力争い的なアクション映画、と言うような印象を受けた。
まるで、「エイリアン」に対する「エイリアン2」のような感じなのである。
このコンセプトの転換は賛否あると思うが、わたしは評価したいと思うまだ。
先ず脚本についてだが、本作の脚本については評価に値する点がいくつかあると思う。
第一点目は、本作「バイオハザードII アポカリプス」の物語が、前作「バイオハザード」で語られた物語の途中から始まっている点だろう。
具体的には、「バイオハザード」事件が起きていた頃、地上では実はこんな事が起きていたんですよ、と言う構成で本作は始まるのである。本作を前作の続編として考えた場合、この構成とコンセプトは大変素晴らしい印象を与える。
このあたりは、「二つの塔」あたりと似ているかも知れない。
また、前作のダイジェストを観客に見せる手法も面白い。
平凡な脚本家ならば、「バイオハザード」のラストのカットをどう生かすか、アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)をどう活躍させるか悩むところだと思うのだが、本作では前半部分にアリスを(ほとんど)登場させない、と言う潔くも素晴らしい決断が、物語の背景や新たな登場人物を描写する時間を捻出し、それらを観客に理解させる上でも功を奏している。
同時に本作では、冒頭からのアリス登場を期待する観客に対し心憎いミス・デレクションが行われているのだが、その手法はベタでイマイチなのだが、なんとも微笑ましい印象を受けた。
更に脚本上、マスコミを上手に使っているのも良い印象を受けた。
冒頭のラクーン・シティで何が起きているのかをニュース映像のフラッシュ・バックで観客に断片的に伝えているのも好印象だし、ローカル局のレポーターであるテリ・モラレス(サンドリーヌ・ホルト)を主要キャラクターとして登場させたのも良い判断だと思う、またラスト付近では、ニュース映像を再び利用する事で、権力と財力を備えたアンブレラ社の「力」を明確に観客に伝えるあたりは只者ではない印象を受けた。
このあたりはポール・ヴァーホーヴェンの「ロボ・コップ」や「スターシップ・トゥルーパーズ」のような印象も受けた。
そしておそらく、本作で観客が一番怖い思いをする瞬間は、ラスト付近のニュース映像のコラージュではないだろうか。
このあたりは製作者サイドとしては、「華氏911」を逆手に取ったリアリティの付与を目的としているのではないか、と思われる。
また「ゾンビ」ファンをニヤリとさせるようなシークエンスがあったり、勿論ゲーム「バイオハザード」シリーズのファン向けのサービス的なシークエンスも多々あったのではないか、と思う。
更に、シリーズ構成を考えた場合、前作のお約束パターン(ラストの描き方等)が見事に踏襲されているのも、好印象である。
さて、アクションだか、ミラ・ジョヴォヴィッチにしろシエンナ・ギロリーにしろアクションは頑張っているのだが、カメラが被写体に近すぎてアクションが見切れない、という弊害が出ている。
アクションをこなせない俳優をキャスティングしてしまった場合、カメラを被写体に出来るだけ寄せ、細かいカット割を利用して編集でごまかし、様になっていないアクションをそれっぽく見せることが出来るのだが、本作の手法では、下手をするとそんな感じの印象を受けてしまうのが残念である。
もう少しカメラを引いてアクションを堪能させて欲しかったのだ。
キャストとしては、存在感としてはリチャード・ハリスの息子であるジャレッド・ハリスが良かった。
ところで、前作「バイオハザード」は、「ゾンビ」ファンに取っては、久々に「ゾンビ(みたいなもの)」を劇場で観ることが出来る喜びを体験させてくれたのだが、本作は「ゾンビ」テイストが薄れてしまい、アクション主体の作品になってしまっているのがちょっと残念である。
やはり個人的には、ゆらゆらした「ゾンビ」に囲まれてしまい、どうしようもない恐怖を出して欲しかったのだ。
とは言うものの、本作はホラー・アクションの娯楽作品としては誰にでもオススメできる楽しい作品に仕上がっているのは、事実なのだ。
この秋、「ヴァン・ヘルシング」を観るのなら、わたしだったら「バイオハザードII アポカリプス」を観るかも、なのだ。
さて、ミラ・ジョヴォヴィッチの舞台挨拶だが、もしかしたら酔っ払っているのでは、と思うくらいにミラはハイ・テンションだった。
サービス精神旺盛でアクションやジョークを入れ、大笑いしながらの舞台挨拶は、ミラの人柄を感じさせ、なんとも微笑ましく、こちらも楽しい気分になってしまう素敵なひと時だった。
もしかするとこの舞台挨拶でミラは、多くの日本人観客のハートを鷲掴みにしてしまったかも知れない。
余談だが、本作のエンド・クレジットにもちょっとした仕掛けがあるので、すぐには席を立たない方が良いかも知れない。
舞台挨拶は、主演のミラ・ジョヴォヴィッチ。
巨大企業アンブレラ社の拠点があるラクーン・シティでは、一般市民が、狂ったように他の一般市民を襲い、殺害する事件が頻発していた。
これはアンブレラ社が地下研究所「ハイブ」で極秘開発していた「T−ウィルス」の感染者が引き起こしたものだった。
その「T−ウィルス」の感染者は、感染後数時間で一旦は死に至るが、「T−ウィルス」の作用で活性化し、人間を食料とみなし、本能のまま人間を際限なく襲い続けるのである。
この大混乱を沈静させるため、アンブレラ社はケイン少佐(トーマス・クレッチマン)を指揮官とする私設軍隊をラクーン・シティに展開、感染者の粛清と事態の収拾を図ったが、爆発的に増加する感染者に対処しきれず、シティを物理的に隔離し、新型バイオ・モンスター ネメシスの実験と、戦術核兵器によるシティの浄化と事件の隠蔽を画策する。
一方、シティ内に取り残された特殊部隊の女性隊員ジル・バレンタイン(シエンナ・ギロリー)、アンブレラ軍隊員カルロス・オリヴィエラ(オデッド・フェール)、一般市民L.J.(マイク・エップス)、ローカル局レポーター テリ・モラレス(サンドリーヌ・ホルト)等は、シティからの脱出方法と引き換えにシティ内に残されたアンジェラ(ソフィー・ヴァヴァサー)の救出を<市外から公衆電話で接触してきた、アンジェラの父で「T−ウィルス」の開発者アシュフォード博士(ジャレッド・ハリス)に持ちかけられる。
その頃、アンブレラ社の地下研究所「ハイブ」から辛くも逃げ延びた(「バイオハザード」事件)アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、強制的に収容されていた病院で36時間の昏睡状態から目覚め、ラクーン・シティの様子が一変している事に愕然とする。
監督は撮影あがりで本作が監督デビューとなるアレクサンダー・ウィット。
第一印象としては、大変良く出来たアクション映画である、と言うものである。
おそらく本作「バイオハザードII アポカリプス」は本来、アクション・ホラーと言うジャンルにカテゴライズされるべきなのだろうが、前作「バイオハザード」で、恐怖の対象物を明確にしてしまったため、得体の知れないモノに対する恐怖の度合は少なく、ホラー的な舞台背景を利用した勢力争い的なアクション映画、と言うような印象を受けた。
まるで、「エイリアン」に対する「エイリアン2」のような感じなのである。
このコンセプトの転換は賛否あると思うが、わたしは評価したいと思うまだ。
先ず脚本についてだが、本作の脚本については評価に値する点がいくつかあると思う。
第一点目は、本作「バイオハザードII アポカリプス」の物語が、前作「バイオハザード」で語られた物語の途中から始まっている点だろう。
具体的には、「バイオハザード」事件が起きていた頃、地上では実はこんな事が起きていたんですよ、と言う構成で本作は始まるのである。本作を前作の続編として考えた場合、この構成とコンセプトは大変素晴らしい印象を与える。
このあたりは、「二つの塔」あたりと似ているかも知れない。
また、前作のダイジェストを観客に見せる手法も面白い。
平凡な脚本家ならば、「バイオハザード」のラストのカットをどう生かすか、アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)をどう活躍させるか悩むところだと思うのだが、本作では前半部分にアリスを(ほとんど)登場させない、と言う潔くも素晴らしい決断が、物語の背景や新たな登場人物を描写する時間を捻出し、それらを観客に理解させる上でも功を奏している。
同時に本作では、冒頭からのアリス登場を期待する観客に対し心憎いミス・デレクションが行われているのだが、その手法はベタでイマイチなのだが、なんとも微笑ましい印象を受けた。
更に脚本上、マスコミを上手に使っているのも良い印象を受けた。
冒頭のラクーン・シティで何が起きているのかをニュース映像のフラッシュ・バックで観客に断片的に伝えているのも好印象だし、ローカル局のレポーターであるテリ・モラレス(サンドリーヌ・ホルト)を主要キャラクターとして登場させたのも良い判断だと思う、またラスト付近では、ニュース映像を再び利用する事で、権力と財力を備えたアンブレラ社の「力」を明確に観客に伝えるあたりは只者ではない印象を受けた。
このあたりはポール・ヴァーホーヴェンの「ロボ・コップ」や「スターシップ・トゥルーパーズ」のような印象も受けた。
そしておそらく、本作で観客が一番怖い思いをする瞬間は、ラスト付近のニュース映像のコラージュではないだろうか。
このあたりは製作者サイドとしては、「華氏911」を逆手に取ったリアリティの付与を目的としているのではないか、と思われる。
また「ゾンビ」ファンをニヤリとさせるようなシークエンスがあったり、勿論ゲーム「バイオハザード」シリーズのファン向けのサービス的なシークエンスも多々あったのではないか、と思う。
更に、シリーズ構成を考えた場合、前作のお約束パターン(ラストの描き方等)が見事に踏襲されているのも、好印象である。
さて、アクションだか、ミラ・ジョヴォヴィッチにしろシエンナ・ギロリーにしろアクションは頑張っているのだが、カメラが被写体に近すぎてアクションが見切れない、という弊害が出ている。
アクションをこなせない俳優をキャスティングしてしまった場合、カメラを被写体に出来るだけ寄せ、細かいカット割を利用して編集でごまかし、様になっていないアクションをそれっぽく見せることが出来るのだが、本作の手法では、下手をするとそんな感じの印象を受けてしまうのが残念である。
もう少しカメラを引いてアクションを堪能させて欲しかったのだ。
キャストとしては、存在感としてはリチャード・ハリスの息子であるジャレッド・ハリスが良かった。
ところで、前作「バイオハザード」は、「ゾンビ」ファンに取っては、久々に「ゾンビ(みたいなもの)」を劇場で観ることが出来る喜びを体験させてくれたのだが、本作は「ゾンビ」テイストが薄れてしまい、アクション主体の作品になってしまっているのがちょっと残念である。
やはり個人的には、ゆらゆらした「ゾンビ」に囲まれてしまい、どうしようもない恐怖を出して欲しかったのだ。
とは言うものの、本作はホラー・アクションの娯楽作品としては誰にでもオススメできる楽しい作品に仕上がっているのは、事実なのだ。
この秋、「ヴァン・ヘルシング」を観るのなら、わたしだったら「バイオハザードII アポカリプス」を観るかも、なのだ。
さて、ミラ・ジョヴォヴィッチの舞台挨拶だが、もしかしたら酔っ払っているのでは、と思うくらいにミラはハイ・テンションだった。
サービス精神旺盛でアクションやジョークを入れ、大笑いしながらの舞台挨拶は、ミラの人柄を感じさせ、なんとも微笑ましく、こちらも楽しい気分になってしまう素敵なひと時だった。
もしかするとこの舞台挨拶でミラは、多くの日本人観客のハートを鷲掴みにしてしまったかも知れない。
余談だが、本作のエンド・クレジットにもちょっとした仕掛けがあるので、すぐには席を立たない方が良いかも知れない。
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
2004年8月22日 映画
クリント・イーストウッドと言う俳優がいる。
強いアメリカの象徴的なヒーローを演じ続けてきた俳優である。
彼のキャリアは低予算のホラーやコメディ映画デスタートしたのだが、1959年からスタートしたテレビ・シリーズ「ローハイド」で人気に火がつき、1964年イタリアに招かれて主演した「荒野の用心棒」で一気にスターダムに登り、それ以降しばらくはマカロニ・ウエスタンでヒーロー(アウトロー)を演じ、1972年の「ダーティハリー」では人気は不動のものになり、不透明な時代の中で一本筋が通った無骨で食えない、オールド・アメリカ気質を体現するヒーローやアウトローを一貫して演じると共に、1971年の「恐怖のメロディ」以降は、社会派的観点を持つ様々な映画の監督や製作に携わっている。
1992年の「許されざる者」ではアカデミー賞監督賞を受賞、2003年の「ミスティック・リバー」ではアカデミー賞監督賞にノミネート等、最近は俳優と言うより監督として評価が高い。
また音楽(ジャズ)にも造形が深く、ジャズを題材とした作品も数多く手がけている。
さて「ミスティック・リバー」であるが、とりあえずこちらを読んでいただきたい。
http://diarynote.jp/d/29346/20040613.html
「ミスティック・リバー」を考える上で避けて通れないのは、3人の主要キャラクターや映画の中で起きる事件が何のメタファーなのか、と言う点である。
これらを考えないと、「ミスティック・リバー」は、少年時代の3人の友人のうちの、ひとりが娘を殺害され、ひとりが捜査し、ひとりが容疑者となる、という背景を持つ、平凡なクライム・サスペンスに成り下がってしまうのだ。
しかし、描かれた事件と登場人物が暗喩している事柄を明確にすると、「ミスティック・リバー」は凄い作品に姿を変えてしまうのだ。
※以下、私見です。ネタバレもあります。
ご自身で平衡感覚を失わずにお読みいただいた上で、「ミスティック・リバー」や「華氏911」についてお考えいただければ幸いです。
登場人物のメタファー
1.ジミー・マーカム(ショーン・ペン)
=アメリカ
2.ショーン・ディバイン(ケヴィン・ベーコン)
=国連
3.デイブ・ボイル(ティム・ロビンス)
=イラク
4.殺人犯
=911テロ実行犯/大量破壊兵器開発者
事件のメタファー
5.ケイティ・マーカム(エミー・ロッサム)殺人事件。
=911テロ/大量破壊兵器開発
6.ショーン・ディバインのケイティ殺人事件の捜査。
=国連の大量破壊兵器の捜索(核施設査察、生物化学兵器捜索)
7.デイブ・ボイルが殺人を犯す。
=イラク フセイン政権の独裁的恐怖政治
8.デイブ・ボイル殺人事件。
=国連を無視したアメリカのイラク侵攻
9.ジミー・マーカムを見逃すショーン・ディバイン。
=アメリカを告発できない国連
いかがであろうか、「ミスティック・リバー」の物語が明確に見えてきたであろうか。
わたしの目には「ミスティック・リバー」の物語は、脳内で次のように変換されて見えた訳なのだ。
娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)で怒り心頭のジミー(アメリカ)は、ショーン(国連)の煮え切らない捜査(大量破壊兵器捜索等)に、自ら娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)の捜査を開始する。
ショーン(国連)はデイブ(イラク)を参考人として一旦は取調べ(大破壊兵器捜索等)を行うが、決定的な証拠が無く(イラクに大量破壊兵器が存在する証拠は無い)、捜査の対象から外す。
一方ジミー(アメリカ)はショーン(国連)の決定(イラクに大量破壊兵器が存在する証拠は無い)に納得せず、自らデイブ(イラク)を取り調べ、予断の上(自らのシナリオ通りに)娘を殺した犯人だと確信(イラクに大量破壊兵器が存在する)する。
また、デイブ(イラク)は過去の忌まわしい事件から、変質者を殺害(イラク フセイン政権の独裁的恐怖政治)してしまう。
※ もしかしたらデイブ(イラク)は、継続的に変質者を殺害(フセイン政権の恐怖政治)し続けていたのかもしれない。
ジミー(アメリカ)は自らの確信(イラクに大量破壊兵器が存在する)を信じ、デイブを殺害(国連を無視したアメリカのイラク侵攻)してしまう。
ショーン(国連)はジミー(アメリカ)がデイブ(イラク)を殺害(イラク侵攻)した事を知っているが、告発できない。
娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)はデイブ(イラク)とは一切関係が無かった。
いかがであろう、こう考えると「ミスティック・リバー」は「華氏911」と同じような政治的、思想的バックボーンの下にアメリカの恥部をえぐり白日の下に曝し出すべく製作された映画だったのではないだろうか。
そして、気になるのは二本の映画の対照的な待遇である。
「ミスティック・リバー」は、アメリカ国内で拡大ロードショー公開された上に、多くの賞を受賞する一方「華氏911」はアメリカ国内での配給で大もめ、公開された後もマスコミに叩かれ続けている、という点も興味深く思えるのだ。
そしてアメリカの孤高なヒーロー像の象徴でもあるクリント・イーストウッドが、このようなアメリカをある意味批判する作品を製作した事も興味深い。
もしかすると、イーストウッドは古き良きフロンティア・スピリット溢れるオールド・アメリカを懐かしみ、現代のアメリカに憂慮しているのかも知れない。
「華氏911」
http://diarynote.jp/d/29346/20040816.html
「独裁者」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040819.html
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040822.html
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強いアメリカの象徴的なヒーローを演じ続けてきた俳優である。
彼のキャリアは低予算のホラーやコメディ映画デスタートしたのだが、1959年からスタートしたテレビ・シリーズ「ローハイド」で人気に火がつき、1964年イタリアに招かれて主演した「荒野の用心棒」で一気にスターダムに登り、それ以降しばらくはマカロニ・ウエスタンでヒーロー(アウトロー)を演じ、1972年の「ダーティハリー」では人気は不動のものになり、不透明な時代の中で一本筋が通った無骨で食えない、オールド・アメリカ気質を体現するヒーローやアウトローを一貫して演じると共に、1971年の「恐怖のメロディ」以降は、社会派的観点を持つ様々な映画の監督や製作に携わっている。
1992年の「許されざる者」ではアカデミー賞監督賞を受賞、2003年の「ミスティック・リバー」ではアカデミー賞監督賞にノミネート等、最近は俳優と言うより監督として評価が高い。
また音楽(ジャズ)にも造形が深く、ジャズを題材とした作品も数多く手がけている。
さて「ミスティック・リバー」であるが、とりあえずこちらを読んでいただきたい。
http://diarynote.jp/d/29346/20040613.html
「ミスティック・リバー」を考える上で避けて通れないのは、3人の主要キャラクターや映画の中で起きる事件が何のメタファーなのか、と言う点である。
これらを考えないと、「ミスティック・リバー」は、少年時代の3人の友人のうちの、ひとりが娘を殺害され、ひとりが捜査し、ひとりが容疑者となる、という背景を持つ、平凡なクライム・サスペンスに成り下がってしまうのだ。
しかし、描かれた事件と登場人物が暗喩している事柄を明確にすると、「ミスティック・リバー」は凄い作品に姿を変えてしまうのだ。
※以下、私見です。ネタバレもあります。
ご自身で平衡感覚を失わずにお読みいただいた上で、「ミスティック・リバー」や「華氏911」についてお考えいただければ幸いです。
登場人物のメタファー
1.ジミー・マーカム(ショーン・ペン)
=アメリカ
2.ショーン・ディバイン(ケヴィン・ベーコン)
=国連
3.デイブ・ボイル(ティム・ロビンス)
=イラク
4.殺人犯
=911テロ実行犯/大量破壊兵器開発者
事件のメタファー
5.ケイティ・マーカム(エミー・ロッサム)殺人事件。
=911テロ/大量破壊兵器開発
6.ショーン・ディバインのケイティ殺人事件の捜査。
=国連の大量破壊兵器の捜索(核施設査察、生物化学兵器捜索)
7.デイブ・ボイルが殺人を犯す。
=イラク フセイン政権の独裁的恐怖政治
8.デイブ・ボイル殺人事件。
=国連を無視したアメリカのイラク侵攻
9.ジミー・マーカムを見逃すショーン・ディバイン。
=アメリカを告発できない国連
いかがであろうか、「ミスティック・リバー」の物語が明確に見えてきたであろうか。
わたしの目には「ミスティック・リバー」の物語は、脳内で次のように変換されて見えた訳なのだ。
娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)で怒り心頭のジミー(アメリカ)は、ショーン(国連)の煮え切らない捜査(大量破壊兵器捜索等)に、自ら娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)の捜査を開始する。
ショーン(国連)はデイブ(イラク)を参考人として一旦は取調べ(大破壊兵器捜索等)を行うが、決定的な証拠が無く(イラクに大量破壊兵器が存在する証拠は無い)、捜査の対象から外す。
一方ジミー(アメリカ)はショーン(国連)の決定(イラクに大量破壊兵器が存在する証拠は無い)に納得せず、自らデイブ(イラク)を取り調べ、予断の上(自らのシナリオ通りに)娘を殺した犯人だと確信(イラクに大量破壊兵器が存在する)する。
また、デイブ(イラク)は過去の忌まわしい事件から、変質者を殺害(イラク フセイン政権の独裁的恐怖政治)してしまう。
※ もしかしたらデイブ(イラク)は、継続的に変質者を殺害(フセイン政権の恐怖政治)し続けていたのかもしれない。
ジミー(アメリカ)は自らの確信(イラクに大量破壊兵器が存在する)を信じ、デイブを殺害(国連を無視したアメリカのイラク侵攻)してしまう。
ショーン(国連)はジミー(アメリカ)がデイブ(イラク)を殺害(イラク侵攻)した事を知っているが、告発できない。
娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)はデイブ(イラク)とは一切関係が無かった。
いかがであろう、こう考えると「ミスティック・リバー」は「華氏911」と同じような政治的、思想的バックボーンの下にアメリカの恥部をえぐり白日の下に曝し出すべく製作された映画だったのではないだろうか。
そして、気になるのは二本の映画の対照的な待遇である。
「ミスティック・リバー」は、アメリカ国内で拡大ロードショー公開された上に、多くの賞を受賞する一方「華氏911」はアメリカ国内での配給で大もめ、公開された後もマスコミに叩かれ続けている、という点も興味深く思えるのだ。
そしてアメリカの孤高なヒーロー像の象徴でもあるクリント・イーストウッドが、このようなアメリカをある意味批判する作品を製作した事も興味深い。
もしかすると、イーストウッドは古き良きフロンティア・スピリット溢れるオールド・アメリカを懐かしみ、現代のアメリカに憂慮しているのかも知れない。
「華氏911」
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2004/08/21 ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント試写室で噂の「ジーリ」を観た。
ご承知の方はご承知のように本作「ジーリ」は、2004年のゴールデン・ラズベリー賞(ラジー賞)を総なめにした作品である。
日本の映画ファンの中には、どんなに酷いか確認してみたい、と言う「恐いもの見たさ」感覚を持った人も多く、日本公開が待たれていた作品の一本であったのだ。
しかしながら、ソニー・ピクチャーズの英断もあり、所謂ビデオ・ストレート(ビデオ・スルー)作品と相成った訳だ。
そして、DVD(ビデオ)発売を記念した試写が2度ほどあったようなのだが、わたしはたまたま21日(土)の試写を観た訳である。
ご参考までに本作「ジーリ」のゴールデン・ラジー賞の受賞歴をご紹介しよう。
2004年 ゴールデン・ラジー賞 受賞
ワースト作品賞
ワースト主演男優賞 ベン・アフレック
(※「デアデビル」、「ジーリ」、「ペイチェック 消された記憶」の三作品に対して)
ワースト主演女優賞 ジェニファー・ロペス
ワースト監督賞 マーティン・ブレスト
ワースト脚本賞 マーティン・ブレスト
ワースト・スクリーン・カップル賞 ベン・アフレック&ジェニファー・ロペス
2004年 ゴールデン・ラジー賞 ノミネート
ワースト助演男優賞 アル・パチーノ
ワースト助演男優賞 クリストファー・ウォーケン
(※「カンガルー・ジャック」、「ジーリ」の二作品に対して)
ワースト助演女優賞 レイニー・カザン
第一印象としては、普通のつまらない映画だ、と言うものだが、やはりこのおバカなカップルが共演している、と言う点がやはりラジー賞たる所以だろう。
わたしは個人的に、ベン・アフレックとジェニファー・ロペスではない他の俳優が、彼等の役柄を演じていたとしたら、おそらくラジー賞の対象にはならなかったと思うし、話題にもならなかったのではないか、と思う。
脚本は、おそらくクエンティン・タランティーノのような薀蓄満載のちょっと下品だがエスプリがきいたキャッチーで面白い物(「レザボアドッグス」のマドンナの話や「パルプ・フィクション」のビッグ・マックの話)を目指したのだと思うのが、なぜか性(sex)の話題が頻発するシモネタ系にまとまってしまい、なんだか下品なテイストを十二分に醸し出してしまっている。
従って本作は、おバカ・カップルの下品な性(SEX)に関する話題満載のサスペンス・コメディになってしまっているのだ。
そして、製作サイドとしては、おそらく二人の話題性だけで行けると思ったのか、前述のように脚本はマズいし、演出も微妙、音楽は安易、と言った印象を与えてしまっている。
キャスト的には、先ずベン・アフレックは例によってマヌケ面全開で、キャラクターもハイスクールのマッチョな俺様ヒーローが、社会に出てダメになってしまった感じのキャラクターをある意味見事に演じている。
ジェニファー・ロペスは普通だった。
と言うか、前半部分ではベン・アフレックのバカさ加減に、ジェニファー・ロペスが切れる役に見えてしまうのだ。
そんな中で、ブライアン役のジャスティン・バーサは良かった。
一応本作「ジーリ」はブライアンの成長物語とも言える事もあり、もしかするとブラインの存在に本作は救われているのかも知れない。
事実ジャスティン・バーサはラジー賞にはノミネートすらされていないのだ。
またクリストファー・ウォーケンやアル・パチーノは、各々1シーンずつの登場なのだが、一見の価値がある素晴らしい存在感を醸し出している。
特にアル・パチーノのシーンは素晴らしい。
アル・パチーノの「ゴッドファーザー」を彷彿とさせる所謂セルフ・オマージュが楽しい。
しかし大きな問題としては、大御所二人のキャラクターが脚本の他の部分に絡まないのだ。勿論プロット上はクリストファー・ウォーケンはともかく、アル・パチーノは主要キャラクターと言って言いし、話題にはなっている。しかし、他のシーンとの絡みが皆無に近いのだ。
もしかしたら、二人の大御所俳優はこの映画の全貌を知らないのかも知れないし、客寄せパンダ的な役割を担っているのかも知れない。
結果的にわたしは本作「ジーリ」を次のような人にオススメするのだ。
1.1年間に映画を100本以上観る人のうち、
2.ラジー賞がどういった賞か理解している人で、
3.おバカなカップルを見たい人
余談だが、東京では1週間で公開が打ち切られた「フォード・フェアレーンの冒険」のアンドリュー・ダイス・クレイとベン・アフレックが被るような気がした。
因みにわたしは「フォード・フェアレーンの冒険」も当時「ダイハード2」のレニー・ハーリンの作品という事で、初日に観に行っている。
わたしを誘った友人の「こんな映画いつ打ち切りになるのかわからないから、初日か二日目に観るしかない」と言う言葉を覚えている。
ご承知の方はご承知のように本作「ジーリ」は、2004年のゴールデン・ラズベリー賞(ラジー賞)を総なめにした作品である。
日本の映画ファンの中には、どんなに酷いか確認してみたい、と言う「恐いもの見たさ」感覚を持った人も多く、日本公開が待たれていた作品の一本であったのだ。
しかしながら、ソニー・ピクチャーズの英断もあり、所謂ビデオ・ストレート(ビデオ・スルー)作品と相成った訳だ。
そして、DVD(ビデオ)発売を記念した試写が2度ほどあったようなのだが、わたしはたまたま21日(土)の試写を観た訳である。
ご参考までに本作「ジーリ」のゴールデン・ラジー賞の受賞歴をご紹介しよう。
2004年 ゴールデン・ラジー賞 受賞
ワースト作品賞
ワースト主演男優賞 ベン・アフレック
(※「デアデビル」、「ジーリ」、「ペイチェック 消された記憶」の三作品に対して)
ワースト主演女優賞 ジェニファー・ロペス
ワースト監督賞 マーティン・ブレスト
ワースト脚本賞 マーティン・ブレスト
ワースト・スクリーン・カップル賞 ベン・アフレック&ジェニファー・ロペス
2004年 ゴールデン・ラジー賞 ノミネート
ワースト助演男優賞 アル・パチーノ
ワースト助演男優賞 クリストファー・ウォーケン
(※「カンガルー・ジャック」、「ジーリ」の二作品に対して)
ワースト助演女優賞 レイニー・カザン
第一印象としては、普通のつまらない映画だ、と言うものだが、やはりこのおバカなカップルが共演している、と言う点がやはりラジー賞たる所以だろう。
わたしは個人的に、ベン・アフレックとジェニファー・ロペスではない他の俳優が、彼等の役柄を演じていたとしたら、おそらくラジー賞の対象にはならなかったと思うし、話題にもならなかったのではないか、と思う。
脚本は、おそらくクエンティン・タランティーノのような薀蓄満載のちょっと下品だがエスプリがきいたキャッチーで面白い物(「レザボアドッグス」のマドンナの話や「パルプ・フィクション」のビッグ・マックの話)を目指したのだと思うのが、なぜか性(sex)の話題が頻発するシモネタ系にまとまってしまい、なんだか下品なテイストを十二分に醸し出してしまっている。
従って本作は、おバカ・カップルの下品な性(SEX)に関する話題満載のサスペンス・コメディになってしまっているのだ。
そして、製作サイドとしては、おそらく二人の話題性だけで行けると思ったのか、前述のように脚本はマズいし、演出も微妙、音楽は安易、と言った印象を与えてしまっている。
キャスト的には、先ずベン・アフレックは例によってマヌケ面全開で、キャラクターもハイスクールのマッチョな俺様ヒーローが、社会に出てダメになってしまった感じのキャラクターをある意味見事に演じている。
ジェニファー・ロペスは普通だった。
と言うか、前半部分ではベン・アフレックのバカさ加減に、ジェニファー・ロペスが切れる役に見えてしまうのだ。
そんな中で、ブライアン役のジャスティン・バーサは良かった。
一応本作「ジーリ」はブライアンの成長物語とも言える事もあり、もしかするとブラインの存在に本作は救われているのかも知れない。
事実ジャスティン・バーサはラジー賞にはノミネートすらされていないのだ。
またクリストファー・ウォーケンやアル・パチーノは、各々1シーンずつの登場なのだが、一見の価値がある素晴らしい存在感を醸し出している。
特にアル・パチーノのシーンは素晴らしい。
アル・パチーノの「ゴッドファーザー」を彷彿とさせる所謂セルフ・オマージュが楽しい。
しかし大きな問題としては、大御所二人のキャラクターが脚本の他の部分に絡まないのだ。勿論プロット上はクリストファー・ウォーケンはともかく、アル・パチーノは主要キャラクターと言って言いし、話題にはなっている。しかし、他のシーンとの絡みが皆無に近いのだ。
もしかしたら、二人の大御所俳優はこの映画の全貌を知らないのかも知れないし、客寄せパンダ的な役割を担っているのかも知れない。
結果的にわたしは本作「ジーリ」を次のような人にオススメするのだ。
1.1年間に映画を100本以上観る人のうち、
2.ラジー賞がどういった賞か理解している人で、
3.おバカなカップルを見たい人
余談だが、東京では1週間で公開が打ち切られた「フォード・フェアレーンの冒険」のアンドリュー・ダイス・クレイとベン・アフレックが被るような気がした。
因みにわたしは「フォード・フェアレーンの冒険」も当時「ダイハード2」のレニー・ハーリンの作品という事で、初日に観に行っている。
わたしを誘った友人の「こんな映画いつ打ち切りになるのかわからないから、初日か二日目に観るしかない」と言う言葉を覚えている。
「独裁者」と「華氏911」を考える。
2004年8月19日 映画
「独裁者」と言う傑作がある。
一言で「傑作」と言うのは簡単だが、本作は最早「傑作」と言う言葉自体が陳腐化してしまうほどの素晴らしい作品である。とわたしは思っている。
監督:チャールズ・チャップリン
製作:チャールズ・チャップリン
脚本:チャールズ・チャップリン
撮影:カール・ストラス、ロリー・トザロー
音楽:メレディス・ウィルソン
出演:チャールズ・チャップリン、ジャック・オーキー、ポーレット・ゴダード、チェスター・コンクリン
チャップリンが製作した「キッド」以降の長編作品の多くは、一貫して市井に生きる人々の人情味溢れる生活を切り取り、その中で巻き起こる笑いやペーソスをエモーショナルに描いていたのだが、それ以外の作品には、社会や政治を風刺し批判する作品が少なくない。
例えば、「モダン・タイムス」ではエスカレートする資本主義社会と崩壊する人間性を鋭く描き、続く「独裁者」ではヒトラーのナチス・ドイツ政権を痛烈に批判し、笑いものにしている。
そして更に「殺人狂時代」においては連続保険金殺人を描きつつ、実は国家間の戦争による大義の名の下の大量殺人を強烈に批判しているのだ。
このあたりは、次の有名なセリフが雄弁に物語っている。
「ひとり殺せば殺人者。百万殺せば英雄。その数が殺人を正当化するのです」
(「殺人狂時代」より)
そして「独裁者」だが、おそらく多くの皆さんもご存知のように、チャップリンがヒトラーとナチス・ドイツを強烈に皮肉ったブラック・コメディと位置付けられている。
しかし、この作品は所謂ブラック・コメディの範疇に留まらず、その時代的背景と環境を考えた場合、明らかなチャップリンの政治的目的意識を持った孤高の作品である、と言えるのではないだろうか。
事実、「独裁者」の批判精神は、ヒトラーとナチス・ドイツの台頭と言う、その時代が置かれている状況から考えると、正に常軌を逸しており、下手をすると命にかかわりかねない危険な作品だ、と言っても差支えはない程苛烈なものなのだ。
しかしなんと言ってもおどろくべき事は、この「独裁者」が北米で公開された1940年10月は、ご承知のように、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に端を発する、第二次世界大戦の真っ只中であり、更に驚くべき事は、この映画の製作開始時期は、ポーランド侵攻のなんと前年の1938年であった、と言うところだろう。
1938年当時、アメリカがドイツとまだ友好的だった時代、アメリカの中にもヒトラー擁護者や援助者ががいた時代、そんな時代にいながらも、チャップリンの目には、ヒトラーが「とてつもなくヤバイ」存在に映っていた訳なのだ。
そして「独裁者」の中のチャップリンは文字通りキレにキレまくっている。
映画史に残るであろう地球儀と戯れるシークエンスは勿論、これまた映画史に残る例の演説のシークエンスでは、彼の動きを見ているだけで、彼の声を聞いているだけで、その孤高な意図を感じるだけで涙が止まらないのだ。
しかし、そのヒトラーに対する攻撃的な姿は、コメディを通り越し壮絶な滑稽さまで達し、当時のマスコミに随分と叩かれ、その批判の矛先は、映画だけではなくチャップリン本人にも及び、その結果チャップリンはアメリカからの退去を余儀なくされてしまうのである。
その後、チャップリンが「独裁者」を通じて世界に指し示した政治的ベクトルとは裏腹に、ヒトラーの台頭が続き、全世界にとって悲しい時代が続いたのは、皆さんご承知の通りであろう。
そして2004年、マイケル・ムーアの「華氏911」が公開される訳である。
おそらく、誰の目にも「独裁者」と「華氏911」が置かれている背景が符合しているのが見て取れるだろう。
「独裁者」が置かれていた背景を端的に表すと次のようなものになるだろう。
1.ヒトラー及びドイツをアメリカの富裕層や実力者たちが援助し擁護していた。
2.ヒトラーとナチス・ドイツの台頭はチャップリンの目には「とてつもなくヤバイ」と映った。
3.チャップリンは「独裁者」を製作し、ヒトラーとナチス・ドイツの台頭を阻止しようとした。
それでは、「華氏911」が置かれている環境はどうであろうか。(「華氏911」の主張をわかりやすくしたもの)
1.サウジ王族ビン・ラディンファミリーとブッシュ一族は以前から友好的な関係を結び、利害関係も一致していた。
2.ブッシュ政権は、911同時多発テロの可能性を事前に知りながら、故意にテロ防止策を取らなかった。
3.ブッシュ政権は、自らの書いたシナリオ通り、911同時多発テロの首謀者はイラク(フセイン政権)が資金援助を行っているアルカイダだとし、またイラクは大量破壊兵器を極秘裏に開発していると断定、フセイン政権を打倒するべくイラク侵攻を開始した。
4.フセイン政権は倒れたが、現在までイラク国内に大量破壊兵器の存在は認められない。
5.ブッシュの存在はマイケル・ムーアにとって「とてつもなくヤバイ」と映った。
6.マイケル・ムーアは「華氏911」を製作し、ブッシュ政権の打倒と、ブッシュの再選を阻止しようとした。
勿論お分かりの事と思うが、わたしはブッシュがヒトラーである、と言っている訳ではない。
わたしが言いたいのは、二人の男が「とてつもなくヤバイ」男を止めるためにそれぞれ一本ずつ二本の映画を作った。ということである。
その一本の映画の結果、一人の男の目的は果たされたが、残念ながらその目的が達成されるのがあまりにも遅すぎたのだ。
そして、気になるのは、もう一本の映画、もう一人の男の目的は果たされるのであろうか。と言う事なのだ。
果たして、映画という虚構が、映画という芸術が、映画という娯楽が、現実の世界を動かす事が出来るのだろうか、チャールズ・チャップリンが1940年に果たせなかったことが、2004年のマイケル・ムーアに果たせるのか、わたしは多くの関心を持って今後の成行きに注目していきたいと考えるのだ。
そして、わたしは「孤高な映像作家のペンが、果たしてとてつもなく大きな財力と権力の下にある剣より強いかどうか」が知りたくてたまらない、と思うのだ。
「華氏911」
http://diarynote.jp/d/29346/20040816.html
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040822.html
一言で「傑作」と言うのは簡単だが、本作は最早「傑作」と言う言葉自体が陳腐化してしまうほどの素晴らしい作品である。とわたしは思っている。
監督:チャールズ・チャップリン
製作:チャールズ・チャップリン
脚本:チャールズ・チャップリン
撮影:カール・ストラス、ロリー・トザロー
音楽:メレディス・ウィルソン
出演:チャールズ・チャップリン、ジャック・オーキー、ポーレット・ゴダード、チェスター・コンクリン
チャップリンが製作した「キッド」以降の長編作品の多くは、一貫して市井に生きる人々の人情味溢れる生活を切り取り、その中で巻き起こる笑いやペーソスをエモーショナルに描いていたのだが、それ以外の作品には、社会や政治を風刺し批判する作品が少なくない。
例えば、「モダン・タイムス」ではエスカレートする資本主義社会と崩壊する人間性を鋭く描き、続く「独裁者」ではヒトラーのナチス・ドイツ政権を痛烈に批判し、笑いものにしている。
そして更に「殺人狂時代」においては連続保険金殺人を描きつつ、実は国家間の戦争による大義の名の下の大量殺人を強烈に批判しているのだ。
このあたりは、次の有名なセリフが雄弁に物語っている。
「ひとり殺せば殺人者。百万殺せば英雄。その数が殺人を正当化するのです」
(「殺人狂時代」より)
そして「独裁者」だが、おそらく多くの皆さんもご存知のように、チャップリンがヒトラーとナチス・ドイツを強烈に皮肉ったブラック・コメディと位置付けられている。
しかし、この作品は所謂ブラック・コメディの範疇に留まらず、その時代的背景と環境を考えた場合、明らかなチャップリンの政治的目的意識を持った孤高の作品である、と言えるのではないだろうか。
事実、「独裁者」の批判精神は、ヒトラーとナチス・ドイツの台頭と言う、その時代が置かれている状況から考えると、正に常軌を逸しており、下手をすると命にかかわりかねない危険な作品だ、と言っても差支えはない程苛烈なものなのだ。
しかしなんと言ってもおどろくべき事は、この「独裁者」が北米で公開された1940年10月は、ご承知のように、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に端を発する、第二次世界大戦の真っ只中であり、更に驚くべき事は、この映画の製作開始時期は、ポーランド侵攻のなんと前年の1938年であった、と言うところだろう。
1938年当時、アメリカがドイツとまだ友好的だった時代、アメリカの中にもヒトラー擁護者や援助者ががいた時代、そんな時代にいながらも、チャップリンの目には、ヒトラーが「とてつもなくヤバイ」存在に映っていた訳なのだ。
そして「独裁者」の中のチャップリンは文字通りキレにキレまくっている。
映画史に残るであろう地球儀と戯れるシークエンスは勿論、これまた映画史に残る例の演説のシークエンスでは、彼の動きを見ているだけで、彼の声を聞いているだけで、その孤高な意図を感じるだけで涙が止まらないのだ。
しかし、そのヒトラーに対する攻撃的な姿は、コメディを通り越し壮絶な滑稽さまで達し、当時のマスコミに随分と叩かれ、その批判の矛先は、映画だけではなくチャップリン本人にも及び、その結果チャップリンはアメリカからの退去を余儀なくされてしまうのである。
その後、チャップリンが「独裁者」を通じて世界に指し示した政治的ベクトルとは裏腹に、ヒトラーの台頭が続き、全世界にとって悲しい時代が続いたのは、皆さんご承知の通りであろう。
そして2004年、マイケル・ムーアの「華氏911」が公開される訳である。
おそらく、誰の目にも「独裁者」と「華氏911」が置かれている背景が符合しているのが見て取れるだろう。
「独裁者」が置かれていた背景を端的に表すと次のようなものになるだろう。
1.ヒトラー及びドイツをアメリカの富裕層や実力者たちが援助し擁護していた。
2.ヒトラーとナチス・ドイツの台頭はチャップリンの目には「とてつもなくヤバイ」と映った。
3.チャップリンは「独裁者」を製作し、ヒトラーとナチス・ドイツの台頭を阻止しようとした。
それでは、「華氏911」が置かれている環境はどうであろうか。(「華氏911」の主張をわかりやすくしたもの)
1.サウジ王族ビン・ラディンファミリーとブッシュ一族は以前から友好的な関係を結び、利害関係も一致していた。
2.ブッシュ政権は、911同時多発テロの可能性を事前に知りながら、故意にテロ防止策を取らなかった。
3.ブッシュ政権は、自らの書いたシナリオ通り、911同時多発テロの首謀者はイラク(フセイン政権)が資金援助を行っているアルカイダだとし、またイラクは大量破壊兵器を極秘裏に開発していると断定、フセイン政権を打倒するべくイラク侵攻を開始した。
4.フセイン政権は倒れたが、現在までイラク国内に大量破壊兵器の存在は認められない。
5.ブッシュの存在はマイケル・ムーアにとって「とてつもなくヤバイ」と映った。
6.マイケル・ムーアは「華氏911」を製作し、ブッシュ政権の打倒と、ブッシュの再選を阻止しようとした。
勿論お分かりの事と思うが、わたしはブッシュがヒトラーである、と言っている訳ではない。
わたしが言いたいのは、二人の男が「とてつもなくヤバイ」男を止めるためにそれぞれ一本ずつ二本の映画を作った。ということである。
その一本の映画の結果、一人の男の目的は果たされたが、残念ながらその目的が達成されるのがあまりにも遅すぎたのだ。
そして、気になるのは、もう一本の映画、もう一人の男の目的は果たされるのであろうか。と言う事なのだ。
果たして、映画という虚構が、映画という芸術が、映画という娯楽が、現実の世界を動かす事が出来るのだろうか、チャールズ・チャップリンが1940年に果たせなかったことが、2004年のマイケル・ムーアに果たせるのか、わたしは多くの関心を持って今後の成行きに注目していきたいと考えるのだ。
そして、わたしは「孤高な映像作家のペンが、果たしてとてつもなく大きな財力と権力の下にある剣より強いかどうか」が知りたくてたまらない、と思うのだ。
「華氏911」
http://diarynote.jp/d/29346/20040816.html
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040822.html
「フレディVSジェイソンVSアッシュ」
2004年8月18日 映画
わたしはニュースの類を俎上に乗せ、ネタを書くのを好まないのだが、それは時と場合によるのだ。
とりあえずこのニュース(噂)を読んでいただきたい。
現在第一線で活躍している監督の中には、以前は現在と異なる分野で活躍し評価されていた人々がいる。
例えばピーター・ジャクソンである。
彼は現在「ロード・オブ・ザ・リング」三部作で押しも押されぬ世界の巨匠の仲間入りをしている訳だが、そのキャリアの第一歩は半自主制作映画「バッド・テイスト」であり、その後の「ミート・ザ・フィーブルズ/怒りのヒポポタマス」や「ブレインデッド」なのだ。
これらは一貫して同じカテゴリーに属する作品群であり、ジャクソンのデビュー当時からのコアでマニアックなファンの中には、現在のジャクソンの商業主義という悪にまみれ堕落した成功を複雑な思いで見ている人も少なくないかも知れない。
そしてサム・ライミである。
現在「スパイダーマン」シリーズで押しも押されぬ感のあるサム・ライミのキャリアの第一歩は「死霊のはらわた」であり、それに続く「XYZマーダーズ」であり「死霊のはらわたII」、「ダークマン」だった訳である。
ピーター・ジャクソンのキャリアと比較するとサム・ライミのキャリアは、早いタイミングでハリウッドに取り込まれていくのだが、ジャクソンにしろライミにしろキャリアの第一歩は「エロ・グロ・ホラー・コメディ」作品の自主制作に近い低予算作品だった訳である。
さて、冒頭のニュース(噂)を思い出していただきたい。
おそらく多くの人の頭の中には「フレディとジェイソンは知ってるけど、アッシュって誰?」という疑問が浮かんだのではないだろうか。
しかし「アッシュ」は知る人ぞ知る映画史に残るキャラクターであると同時に、映画史に残るヒーローなのである。
そしてそのヒーローを演じるのがサム・ライミの盟友ブルース・キャンベルその人なのである。
それではそのヒーロー振りを端的に表している、とある作品のオープニング・クレジット(タイトル・カード)を紹介しよう。
1. BRUCE CAMPBELL
2. VS
3. ARMY OF DARKNESS
※ 数字はタイトル・カードの順番で、”BRUCE CAMPBELL”という文字が画面に登場し、消え、次に”VS”という文字が登場、消えると、”ARMY OF DARKNESS”というタイトルが出る、というクレジット構成になっている。
実はこの作品は「キャプテン・スーパーマーケット」と言うとんでもないタイトルで1993年に公開された作品なのだが、現在は「キャプテン・スーパーマーケット/死霊のはらわたIII」というタイトルでDVDがリリースされている。
「キャプテン・スーパーマーケット/死霊のはらわたIII」は、アッシュや、サム・ライミの過去の作品に関心がある方は是非チェックして欲しい素晴らしい作品なのだが、欲を言えば「死霊のはらわたII」から観ることを強くオススメする。
一応断っておくが、グロ描写は結構エグイので、グロ系に耐性が無い方は、やめておいた方が良いかも知れない。
(「死霊のはらわたII」は「死霊のはらわた(The Evil Dead) 」のリメイク(と言っても良い)作品なので、「死霊のはらわたII(Evil Dead II) 」と「キャプテン・スーパーマーケット/死霊のはらわたIII」を観ればそれで、アッシュの魅力は理解できると思うのだ。)
そして、この作品は尊敬と愛情を込めて ”Evil Dead III” と呼ばれているのだ。
余談だが、この夏公開の「リディック」は「死霊のはらわた」シリーズを観た上で観ると面白いかも知れない。
とりあえずこのニュース(噂)を読んでいただきたい。
「フレディVSジェイソンVSアッシュ」、実現に一歩前進?
「フレディVSジェイソン」の成功の後、一時話題にのぼりながら具体的な進展のないままだった夢の企画「Freddy vs. Jason vs. Ash」に新たな動きが出てきた。「フレディVSジェイソン」を手掛けたニューライン・シネマでは、「エイリアンVSプレデター」の成功を受けて、「Freddy vs. Jason vs. Ash」を実現すべく、サム・ライミ監督との交渉に入った模様。アッシュは「死霊のはらわた」シリーズでブルース・キャンベルが演じた主人公で、同キャラクターの映画化権はライミ監督が有している。ニューライン・シネマでは、もしこの交渉が不調に終わった場合でも、他の新キャラクターを登場させるか、あるいは再びフレディとジェイソンを直接対決させるかして、いずれにしても「フレディVSジェイソン」の続編の道は探っていくという。
(allcinema HEADLINE 2004/08/17 Rumor より引用)
現在第一線で活躍している監督の中には、以前は現在と異なる分野で活躍し評価されていた人々がいる。
例えばピーター・ジャクソンである。
彼は現在「ロード・オブ・ザ・リング」三部作で押しも押されぬ世界の巨匠の仲間入りをしている訳だが、そのキャリアの第一歩は半自主制作映画「バッド・テイスト」であり、その後の「ミート・ザ・フィーブルズ/怒りのヒポポタマス」や「ブレインデッド」なのだ。
これらは一貫して同じカテゴリーに属する作品群であり、ジャクソンのデビュー当時からのコアでマニアックなファンの中には、現在のジャクソンの商業主義という悪にまみれ堕落した成功を複雑な思いで見ている人も少なくないかも知れない。
そしてサム・ライミである。
現在「スパイダーマン」シリーズで押しも押されぬ感のあるサム・ライミのキャリアの第一歩は「死霊のはらわた」であり、それに続く「XYZマーダーズ」であり「死霊のはらわたII」、「ダークマン」だった訳である。
ピーター・ジャクソンのキャリアと比較するとサム・ライミのキャリアは、早いタイミングでハリウッドに取り込まれていくのだが、ジャクソンにしろライミにしろキャリアの第一歩は「エロ・グロ・ホラー・コメディ」作品の自主制作に近い低予算作品だった訳である。
さて、冒頭のニュース(噂)を思い出していただきたい。
おそらく多くの人の頭の中には「フレディとジェイソンは知ってるけど、アッシュって誰?」という疑問が浮かんだのではないだろうか。
しかし「アッシュ」は知る人ぞ知る映画史に残るキャラクターであると同時に、映画史に残るヒーローなのである。
そしてそのヒーローを演じるのがサム・ライミの盟友ブルース・キャンベルその人なのである。
それではそのヒーロー振りを端的に表している、とある作品のオープニング・クレジット(タイトル・カード)を紹介しよう。
1. BRUCE CAMPBELL
2. VS
3. ARMY OF DARKNESS
※ 数字はタイトル・カードの順番で、”BRUCE CAMPBELL”という文字が画面に登場し、消え、次に”VS”という文字が登場、消えると、”ARMY OF DARKNESS”というタイトルが出る、というクレジット構成になっている。
実はこの作品は「キャプテン・スーパーマーケット」と言うとんでもないタイトルで1993年に公開された作品なのだが、現在は「キャプテン・スーパーマーケット/死霊のはらわたIII」というタイトルでDVDがリリースされている。
「キャプテン・スーパーマーケット/死霊のはらわたIII」は、アッシュや、サム・ライミの過去の作品に関心がある方は是非チェックして欲しい素晴らしい作品なのだが、欲を言えば「死霊のはらわたII」から観ることを強くオススメする。
一応断っておくが、グロ描写は結構エグイので、グロ系に耐性が無い方は、やめておいた方が良いかも知れない。
(「死霊のはらわたII」は「死霊のはらわた(The Evil Dead) 」のリメイク(と言っても良い)作品なので、「死霊のはらわたII(Evil Dead II) 」と「キャプテン・スーパーマーケット/死霊のはらわたIII」を観ればそれで、アッシュの魅力は理解できると思うのだ。)
そして、この作品は尊敬と愛情を込めて ”Evil Dead III” と呼ばれているのだ。
余談だが、この夏公開の「リディック」は「死霊のはらわた」シリーズを観た上で観ると面白いかも知れない。
「ワー!マイキー リターンズ!」
2004年8月17日 映画
2004/08/15 東京恵比寿 東京都写真美術館ホールでベルリン映画祭出品記念「ワー!マイキー リターンズ!」を観た。
製作総指揮・編集・脚本:石橋義正
監督・撮影・編集:立川晋輔
脚本:佐藤佐吉、杉岡みどり、江村耕市
わたしはその時まで自ら能動的に「ワー!マイキー リターンズ!」を観る事は無いだろうと思っていた。
しかし、先日お話したように現在恵比寿のみで上映している「華氏911」を観る為、恵比寿ガーデンシネマに行ったのは良いのだが、なんと4時間以上も後の回の整理券しかゲットできなかったのである。
その辺(恵比寿ガーデン・プレイス)で買い物をしたりして時間を潰しても良かったのだが、折角恵比寿に来たのだからと、近くにある東京都写真美術館の無料展示でも見ようかな、とふらふらと美術館に行ってみた。
なんとそこには、わたしも大好きな「マイキーご一行様」がオールスターキャストで鎮座ましましていらっしゃったのである。
運命を感じたわたしは、無料展示何するものぞと、いそいそとチケット売り場に並んでしまったのである。
印象は、『良くも悪くも「オー!マイキー」である』というものだった。
「オー!マイキー」は、皆さんご承知のように、深夜のテレビ番組「バミリオン・プレジャー・ナイト」から独立したテレビ・シリーズで、全ての登場人物をマネキン人形で表現したブラック・コメディである。
手法的には「サウスパーク」や先日紹介した”Team America: World Police”のような「かわいらしい素材でブラックな笑いを表現する」と言う、ありがちなものなのだが、表情は笑ったままで全く動かないマネキン人形を俳優として使う事により、観客のイマジネーションを刺激する素晴らしい作品に仕上がっている。
これは表情に乏しい(と思われがちの)日本人を揶揄しているのかもしれないし、はたまた日本古来の伝統芸能のひとつである「能」を現代の味付けで表現しているのかも知れない。
ところで、わたしが「オー!マイキー」(「フーコン・ファミリー」)を最初に見たのは、「バミリオン・プレジャー・ナイト」の中だったと思うが、その際の衝撃は今でも忘れられない。
シニカルでブラックな内容はともかく、先ずはクリエイターの発想と演出(撮影と編集)に驚きを隠せなかった。
そしてこの作品は、一流のエンターテインメント作品であると同時に、映像クリエイターを目指す人々に対し、ひとつの明確な可能性や指針を提示している、とも思えたのである。
逆に言うと、映像クリエイターを目指す者にとっては、嫉妬を感じさせる作品だったのである。
「あぁ、こんな手があったのか」と。
事実、わたしは取りあえず「オー!マイキー」系の映像作品の制作を志し、バービーやリカちゃん、ケンやワタルくんを購入すべきか、ブライス系にしようか、それともレゴにすべきか、ガンダムにしようかと真剣に悩んだ事を覚えている。
そう考えると、2000年に発売されたレゴの「LEGO Studios」も映像クリエイター心をくすぐる凄い商品だったのだろうと思うのだ。
そんなこんなで、少なくても本作「ワー!マイキー リターンズ!」はマネキン人形をフィーチャーした、ただのブラックなコメディではなく、クリエイター心を刺激する素晴らしい作品だと言えるのだ。
「オー!マイキー」
http://www.tv-tokyo.co.jp/oh-mikey/
LEGO、スピルバーグと提携した夢の映画製作キットを発表
http://pcweb.mycom.co.jp/news/2000/05/15/08.html
★私信★ 浜乙女 さま
お褒めいただき光栄です。
ところで、「スチーム・ボーイ」については、私見ですが、各方面で「ラピュタのパクリだろ」と言う一言で片付けられてしまうことが多いと感じています。
しかし、この作品はその一言で切り捨てるには惜しい作品だとわたしは思っている訳です。
とは言うものの、最近は書きたい事が山盛りで、「スチーム・ボーイ」についての文章は少し先になるかも知れませんが、お待ちいただければ幸いです。
かく言うわたしもご承知のように、浜乙女さんの文章を楽しみにしているひとりでございます。これからも楽しい文章を期待しています。
製作総指揮・編集・脚本:石橋義正
監督・撮影・編集:立川晋輔
脚本:佐藤佐吉、杉岡みどり、江村耕市
わたしはその時まで自ら能動的に「ワー!マイキー リターンズ!」を観る事は無いだろうと思っていた。
しかし、先日お話したように現在恵比寿のみで上映している「華氏911」を観る為、恵比寿ガーデンシネマに行ったのは良いのだが、なんと4時間以上も後の回の整理券しかゲットできなかったのである。
その辺(恵比寿ガーデン・プレイス)で買い物をしたりして時間を潰しても良かったのだが、折角恵比寿に来たのだからと、近くにある東京都写真美術館の無料展示でも見ようかな、とふらふらと美術館に行ってみた。
なんとそこには、わたしも大好きな「マイキーご一行様」がオールスターキャストで鎮座ましましていらっしゃったのである。
運命を感じたわたしは、無料展示何するものぞと、いそいそとチケット売り場に並んでしまったのである。
印象は、『良くも悪くも「オー!マイキー」である』というものだった。
「オー!マイキー」は、皆さんご承知のように、深夜のテレビ番組「バミリオン・プレジャー・ナイト」から独立したテレビ・シリーズで、全ての登場人物をマネキン人形で表現したブラック・コメディである。
手法的には「サウスパーク」や先日紹介した”Team America: World Police”のような「かわいらしい素材でブラックな笑いを表現する」と言う、ありがちなものなのだが、表情は笑ったままで全く動かないマネキン人形を俳優として使う事により、観客のイマジネーションを刺激する素晴らしい作品に仕上がっている。
これは表情に乏しい(と思われがちの)日本人を揶揄しているのかもしれないし、はたまた日本古来の伝統芸能のひとつである「能」を現代の味付けで表現しているのかも知れない。
ところで、わたしが「オー!マイキー」(「フーコン・ファミリー」)を最初に見たのは、「バミリオン・プレジャー・ナイト」の中だったと思うが、その際の衝撃は今でも忘れられない。
シニカルでブラックな内容はともかく、先ずはクリエイターの発想と演出(撮影と編集)に驚きを隠せなかった。
そしてこの作品は、一流のエンターテインメント作品であると同時に、映像クリエイターを目指す人々に対し、ひとつの明確な可能性や指針を提示している、とも思えたのである。
逆に言うと、映像クリエイターを目指す者にとっては、嫉妬を感じさせる作品だったのである。
「あぁ、こんな手があったのか」と。
事実、わたしは取りあえず「オー!マイキー」系の映像作品の制作を志し、バービーやリカちゃん、ケンやワタルくんを購入すべきか、ブライス系にしようか、それともレゴにすべきか、ガンダムにしようかと真剣に悩んだ事を覚えている。
そう考えると、2000年に発売されたレゴの「LEGO Studios」も映像クリエイター心をくすぐる凄い商品だったのだろうと思うのだ。
そんなこんなで、少なくても本作「ワー!マイキー リターンズ!」はマネキン人形をフィーチャーした、ただのブラックなコメディではなく、クリエイター心を刺激する素晴らしい作品だと言えるのだ。
「オー!マイキー」
http://www.tv-tokyo.co.jp/oh-mikey/
LEGO、スピルバーグと提携した夢の映画製作キットを発表
http://pcweb.mycom.co.jp/news/2000/05/15/08.html
★私信★ 浜乙女 さま
お褒めいただき光栄です。
ところで、「スチーム・ボーイ」については、私見ですが、各方面で「ラピュタのパクリだろ」と言う一言で片付けられてしまうことが多いと感じています。
しかし、この作品はその一言で切り捨てるには惜しい作品だとわたしは思っている訳です。
とは言うものの、最近は書きたい事が山盛りで、「スチーム・ボーイ」についての文章は少し先になるかも知れませんが、お待ちいただければ幸いです。
かく言うわたしもご承知のように、浜乙女さんの文章を楽しみにしているひとりでございます。これからも楽しい文章を期待しています。
2004/08/15終戦記念日 東京恵比寿 恵比寿ガーデンシネマでマイケル・ムーアの新作で、第57回カンヌ国際映画祭パルムドールと国際批評家連盟賞をダブル受賞した「華氏911」を観た。
本作「華氏911」の全国拡大ロードショーは、8月21日からなのだが、8月14日より恵比寿ガーデンシネマで独占先行ロードショーが行われている。
全席完全入換制(しかも当日にならないと当日分のチケットが購入/引換出来ない)を採用している恵比寿ガーデンシネマでは「華氏911」は、異例の2館上映体制(1日9回上映)で上映を行っていたが、初日の8月14日は14:30、8月15日は14:45時点で全ての当日分チケット(20:30の回まで)が完売、受付業務が終了していた。
わたしは10:30頃劇場に到着、15:10の回の整理番号をゲットした。4時間以上時間が余っていたので、東京恵比寿 東京都写真美術館ホールで上映されていた「ワー!マイキー リターンズ!」を観て時間を潰すことにした。
わたしの第一印象は、本作「華氏911」は大変素晴らしい作品だ。
と言うものである。
勿論従来からのマイケル・ムーアの作風が果たしてドキュメンタリーと言えるかどうかは議論があるだろうし、そのマイケル・ムーアが指し示すベクトルは過度のバイアスがかかっている事は否めないだろう。
しかし、それらを割り引いた上でも、本作は素晴らしい作品であるし、それだけではなく非常に面白い作品にも仕上がっている訳なのだ。
更にわたしの印象では、本作「華氏911」は、前作「ボウリング・フォー・コロンバイン」が霞んでしまうほどの傑作に仕上がっている。
本作の題材は、前作の「銃社会」への批判から「ブッシュ政権」への批判に拡大し、それと反比例するかのように、作品を理解するのが難しくなっている。
しかし、難しいと言っても、マイケル・ムーアは自らの論理構築の過程を作品を通じて丁寧に描いているのだから、理解はたやすいと考えるむきはあると思うが、実際のところは過度なバイアスのかかったマイケル・ムーアの考えをそのまま受取るのは易しいが、その中から平衡感覚を持ち、自らの考えを自らのスタンスを導き出すのは、決して容易ではない、と言うことなのだ。
わたしは、社会派の素晴らしい作品が公開される度に、「観なければならない種類の映画」の存在を再確認し、その存在をアピールしている訳だが、本作「華氏911」は、「アメリカの友人」であると自認している日本人諸氏に是非観ていただきたい作品である。
わたしは、この映画が正しい、と言っているのではなく、この映画を観て考えて欲しい。自分の立場を明確にして欲しい、と考えるのである。
その点については、「政治的な立場が偏った映画は、あんまり見たいとは思わないね」と不快感を示したわれわれの指導者日本国首相を始めとした政治家諸氏に観ていただきたいと思うし、その立場を明確にして欲しいと思うのだ。
その上で、「くだらない」とか「嘘っぱちだ」とかの声明を発して欲しいと考えるのだ。正に"Show the flag."という事なのだ。
参考ブログ
ブッシュ批判、小泉批判、批判ばかりしてもいいことはないんじゃないの
http://diarynote.jp/d/29346/20040803.html
"Team America: World Police" を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040813.html
「独裁者」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040819.html
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040822.html
本作「華氏911」の全国拡大ロードショーは、8月21日からなのだが、8月14日より恵比寿ガーデンシネマで独占先行ロードショーが行われている。
全席完全入換制(しかも当日にならないと当日分のチケットが購入/引換出来ない)を採用している恵比寿ガーデンシネマでは「華氏911」は、異例の2館上映体制(1日9回上映)で上映を行っていたが、初日の8月14日は14:30、8月15日は14:45時点で全ての当日分チケット(20:30の回まで)が完売、受付業務が終了していた。
わたしは10:30頃劇場に到着、15:10の回の整理番号をゲットした。4時間以上時間が余っていたので、東京恵比寿 東京都写真美術館ホールで上映されていた「ワー!マイキー リターンズ!」を観て時間を潰すことにした。
わたしの第一印象は、本作「華氏911」は大変素晴らしい作品だ。
と言うものである。
勿論従来からのマイケル・ムーアの作風が果たしてドキュメンタリーと言えるかどうかは議論があるだろうし、そのマイケル・ムーアが指し示すベクトルは過度のバイアスがかかっている事は否めないだろう。
しかし、それらを割り引いた上でも、本作は素晴らしい作品であるし、それだけではなく非常に面白い作品にも仕上がっている訳なのだ。
更にわたしの印象では、本作「華氏911」は、前作「ボウリング・フォー・コロンバイン」が霞んでしまうほどの傑作に仕上がっている。
本作の題材は、前作の「銃社会」への批判から「ブッシュ政権」への批判に拡大し、それと反比例するかのように、作品を理解するのが難しくなっている。
しかし、難しいと言っても、マイケル・ムーアは自らの論理構築の過程を作品を通じて丁寧に描いているのだから、理解はたやすいと考えるむきはあると思うが、実際のところは過度なバイアスのかかったマイケル・ムーアの考えをそのまま受取るのは易しいが、その中から平衡感覚を持ち、自らの考えを自らのスタンスを導き出すのは、決して容易ではない、と言うことなのだ。
わたしは、社会派の素晴らしい作品が公開される度に、「観なければならない種類の映画」の存在を再確認し、その存在をアピールしている訳だが、本作「華氏911」は、「アメリカの友人」であると自認している日本人諸氏に是非観ていただきたい作品である。
わたしは、この映画が正しい、と言っているのではなく、この映画を観て考えて欲しい。自分の立場を明確にして欲しい、と考えるのである。
その点については、「政治的な立場が偏った映画は、あんまり見たいとは思わないね」と不快感を示したわれわれの指導者日本国首相を始めとした政治家諸氏に観ていただきたいと思うし、その立場を明確にして欲しいと思うのだ。
その上で、「くだらない」とか「嘘っぱちだ」とかの声明を発して欲しいと考えるのだ。正に"Show the flag."という事なのだ。
参考ブログ
ブッシュ批判、小泉批判、批判ばかりしてもいいことはないんじゃないの
http://diarynote.jp/d/29346/20040803.html
"Team America: World Police" を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040813.html
「独裁者」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040819.html
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040822.html
「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」
2004年8月15日 映画
2004/08/14 東京有楽町よみうりホールで「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」の試写を観た。
山深い伊賀の里で忍者としての修行を積む服部カンゾウ(忍者ハットリくん/香取慎吾)は父服部ジンゾウ(伊東四朗)から最後の修行を命じられる。
それは、伊賀忍者の掟(主以外の者には決して姿を見せてはならぬ。守れなければ破門!)に従いながら現代の江戸で暮らすというもの。
やがて東京に辿り着いたハットリくんは、平凡で退屈な毎日を送り、家庭でも学校でも存在感の薄い小学三年生の三葉ケンイチ(知念侑李)を主として選ぶのだった・・・・。
監督は鈴木雅之、脚本はマギー(元ジョビジョバ)。
甲賀忍者でハットリくんのライバルであるケムマキに(ゴリ/ガレッジセール)、ケンイチが憧れるミドリに田中麗奈、甲賀忍者黒影に升毅、謎の事件を捜査する田原刑事に宇梶剛士、忍者好きの柏田刑事に東幹久、ケンイチの両親に浅野和之と戸田恵子。
第一印象としては、ソツなく仕上がった楽しいファミリー・ムービーと言ったところである。
事実今回の試写は土曜日の夕方と言うこともあり子供多く、細かいギャグや仕草、極端なキャラクターやカメオ出演者(大杉漣、瀬戸朝香、乙葉、西村雅彦、川田広樹、草なぎ剛等)の登場にいちいち笑いが起こっていた。
前述のように会場には子供が多かったため、香取慎吾の主題歌「HATTORI3(参上)」の大合唱になるのでは、と危惧していたのであるが、それは杞憂だった。
尤も会場の子供たちは世代的にアニメ「忍者ハットリくん」を知らない世代だと思うのだ。
脚本は子供向けの感は否めないし、展開がベタでキャラクター設定も単純な印象を受けるが、マギーらしい細かい点に配慮され、よく出来た評価できる面白い脚本に仕上がっている。
お笑い的には、子供たちにも充分理解できる所謂「天丼」系のネタが多用されているのが印象的である。
特に宇梶剛士と東幹久の刑事コンビの取調室から忍者ネタまでのシークエンスが素晴らしい。
しかし、折角なのだから宇梶剛士が食べていたのは「ラーメン」ではなく「天丼」にして欲しかったのだ。
また脚本の本筋は知念侑李演じるケンイチの成長物語が主となっているが、これも子供にわかりやすいものとなっており、好感が持てる。
とは言うものの、伊東四朗、香取慎吾、ゴリ等の演技はバラエティ番組等のコントの延長線上にある印象は否めない。
しかし、脇を固める宇梶剛士や東幹久の刑事コンビや、ケンイチの両親浅野和之と戸田恵子は存在感があり、ドラマに深みを与えている。
あとは気になるのは、フジテレビ系作品の悪い癖(例えばハッピー・コーラへの異常なコダワリやSATの登場等)が若干見え隠れしていた。
キャストで良かったのはなんと言っても、ゴリだろう。
脚本的にも非常に美味しく、俳優開眼の予感すら感じられる。
喋らなくても存在感があり格好良いケムマキ・ケンゾウ像が嬉しい。
トータル的には、音楽は若干オーバースコアで、キャストはオーバーアクト、VFXはイマイチ、コメディだけでは無い「何か」が感じられる作品なだけに若干残念な気がした。
あと感心したのは、「隠れ蓑の術」の布がリバーシブル(表は石畳、裏は竹薮)になっていたり、その布をたたんだ上で懐に仕舞っていたりする点が良かった。
誰にでも手放しでオススメできる訳ではないが、家族揃って楽しめるファミリー・ムービーに仕上がっているのは事実である。
是非劇場で観て欲しいし、主題歌の大合唱もOKなのだ。ニン!
余談だが、田中麗奈を連れて行ったハイキングのロケ先は、わたし達がMTBでよく行く峠だった。
山深い伊賀の里で忍者としての修行を積む服部カンゾウ(忍者ハットリくん/香取慎吾)は父服部ジンゾウ(伊東四朗)から最後の修行を命じられる。
それは、伊賀忍者の掟(主以外の者には決して姿を見せてはならぬ。守れなければ破門!)に従いながら現代の江戸で暮らすというもの。
やがて東京に辿り着いたハットリくんは、平凡で退屈な毎日を送り、家庭でも学校でも存在感の薄い小学三年生の三葉ケンイチ(知念侑李)を主として選ぶのだった・・・・。
監督は鈴木雅之、脚本はマギー(元ジョビジョバ)。
甲賀忍者でハットリくんのライバルであるケムマキに(ゴリ/ガレッジセール)、ケンイチが憧れるミドリに田中麗奈、甲賀忍者黒影に升毅、謎の事件を捜査する田原刑事に宇梶剛士、忍者好きの柏田刑事に東幹久、ケンイチの両親に浅野和之と戸田恵子。
第一印象としては、ソツなく仕上がった楽しいファミリー・ムービーと言ったところである。
事実今回の試写は土曜日の夕方と言うこともあり子供多く、細かいギャグや仕草、極端なキャラクターやカメオ出演者(大杉漣、瀬戸朝香、乙葉、西村雅彦、川田広樹、草なぎ剛等)の登場にいちいち笑いが起こっていた。
前述のように会場には子供が多かったため、香取慎吾の主題歌「HATTORI3(参上)」の大合唱になるのでは、と危惧していたのであるが、それは杞憂だった。
尤も会場の子供たちは世代的にアニメ「忍者ハットリくん」を知らない世代だと思うのだ。
脚本は子供向けの感は否めないし、展開がベタでキャラクター設定も単純な印象を受けるが、マギーらしい細かい点に配慮され、よく出来た評価できる面白い脚本に仕上がっている。
お笑い的には、子供たちにも充分理解できる所謂「天丼」系のネタが多用されているのが印象的である。
特に宇梶剛士と東幹久の刑事コンビの取調室から忍者ネタまでのシークエンスが素晴らしい。
しかし、折角なのだから宇梶剛士が食べていたのは「ラーメン」ではなく「天丼」にして欲しかったのだ。
また脚本の本筋は知念侑李演じるケンイチの成長物語が主となっているが、これも子供にわかりやすいものとなっており、好感が持てる。
とは言うものの、伊東四朗、香取慎吾、ゴリ等の演技はバラエティ番組等のコントの延長線上にある印象は否めない。
しかし、脇を固める宇梶剛士や東幹久の刑事コンビや、ケンイチの両親浅野和之と戸田恵子は存在感があり、ドラマに深みを与えている。
あとは気になるのは、フジテレビ系作品の悪い癖(例えばハッピー・コーラへの異常なコダワリやSATの登場等)が若干見え隠れしていた。
キャストで良かったのはなんと言っても、ゴリだろう。
脚本的にも非常に美味しく、俳優開眼の予感すら感じられる。
喋らなくても存在感があり格好良いケムマキ・ケンゾウ像が嬉しい。
トータル的には、音楽は若干オーバースコアで、キャストはオーバーアクト、VFXはイマイチ、コメディだけでは無い「何か」が感じられる作品なだけに若干残念な気がした。
あと感心したのは、「隠れ蓑の術」の布がリバーシブル(表は石畳、裏は竹薮)になっていたり、その布をたたんだ上で懐に仕舞っていたりする点が良かった。
誰にでも手放しでオススメできる訳ではないが、家族揃って楽しめるファミリー・ムービーに仕上がっているのは事実である。
是非劇場で観て欲しいし、主題歌の大合唱もOKなのだ。ニン!
余談だが、田中麗奈を連れて行ったハイキングのロケ先は、わたし達がMTBでよく行く峠だった。
「スパイダーマン2」
2004年8月14日 映画
2004/08/13 東京有楽町「日劇1」で「スパイダーマン2」を観た。
グリーン・ゴブリン事件(「スパイダーマン」)から2年、ピーター・パーカー(トビー・マグワイア)はJ・ジョナ・ジェイムソン(J・K・シモンズ)が編集長を務める新聞社へ写真を売り込みながら大学生活を送る一方、スパイダーマンとしても活躍していた。
しかし、ピーターが愛するメリー・ジェーン・ワトソン(キルステン・ダンスト)は念願の舞台女優になったこともあり、公私共に多忙なピーターとの間に少しずつ距離ができていった。
また親友のハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)は亡き父ノーマン・オズボーン(ウィレム・デフォー)が残した巨大軍需企業オズコープ社を継ぎ、父の仇スパイダーマンに復讐するため情報を集めていた。
そんな時、ハリーの会社で研究を続けていたDr.オットー・オクタビアス(アルフレッド・モリナ)が常温核融合の実験中の事故で4本の金属製人工アームを持つ怪人ドック・オクになってしまった・・・・。
第一印象としては、非常に良く出来た三部作の中編、と言った印象を受けた。
前作「スパイダーマン」ではヒーローの誕生が描かれていた、とすると本作はヒーローの挫折と転機、そして新たな決意が見事に描かれているのだ。
シリーズ構成を考えると本作は「転」の部分にあたり、例をあげれば「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」的な味わいがある。
事実ノーマンとハリーの鏡のシークエンスは「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」のベイダー卿がルークとの関係を明らかにする部分のオマージュであろう。
本編だが先ずオープニング・クレジットが素晴らしい。
マーベル社のロゴからのフラッシュ・アニメーション系のクレジットに見え隠れする前作「スパイダーマン」の印象的なシーンをストーリーボード風イラストで見せるあたりは、昨今のオープニングの中でも評価できる素晴らしいものであった。
しかも、そのイラスト1枚1枚が完全に「絵」になっており、書斎の壁にでも飾りたい程のクオリティを持っているのだ。
そして、本作を語る上ではずせないのは、何と言っても敵役ドック・オクを演じたアルフレッド・モリナであろう。
従来、多くのアメコミ・ヒーローの映画化作品の敵役を演じた俳優は、ヒーローを演じる俳優よりネーム・バリューがあり、俳優としても格上であることが常識である感があったが、本作はそれを行わず存在感や演技でアルフレッド・モリナをキャスティングした(であろう)点に好感が持てる。
ともすれば役不足、という一言で片付けられてしまう可能性があった訳なのだが、アルフレッド・モリナは複数の面を持つ、複雑なキャラクターを好演している。
余談だがかつてのヒーローの敵役を演じた俳優を思いつくまま紹介しましょう。
ジーン・ハックマン(レックス・ルーサー/「スーパーマン」)
テレンス・スタンプ(ゾッド将軍/「スーパーマン」)
ジャック・ニコルソン(ジョーカー/「バットマン」)
ダニー・デヴィート(ペンギン/「バットマン・リターンズ」)
ミシェル・ファイファー(キャット・ウーマン/「バットマン・リターンズ」)
クリストファー・ウォーケン(マックス・シュレック/「バットマン・リターンズ」)・・・・
先ほど本作「スパイダーマン2」はシリーズ構成を考えた場合「転」にあたり、挫折と転機、そして決意が描かれていると言ったばかりだが、同時にヒーローの「受難」をも描いているとも言える。
大学の難、バイトの難、借家の難、借金の難、能力不振の難、友情難、恋愛難等、様々な難をピーターは受けるのである。
また列車を止めるシークエンスからこの「受難」は救世主の「受難」のメタファーとして存在していることが明示されている。
列車のシークエンスは、万人の罪を背負って磔刑にされたキリストの死と復活のメタファーなのである。
そして復活したピーターは救世主として生きることを選択する訳なのだ。
あとは、コメディ・パートが増えたところが興味深い。
前作「スパイダーマン」への観客の支持と興収がそうさせたのか、サム・ライミの演出は前作のような、恐る恐ると言ったような迷いが無く、縦横無尽に好き勝手に演出しているようである。
例えば、ピザの宅配シークエンスからのモップとの格闘や、能力不振からのエレベータのシークエンス等は、ひとごとながら監督サム・ライミの演出手腕の無さを、若しくは編集意図の不明確さを、わざわざ観客に見せ付けているのではないか、と心配してしまう位微妙にカットが長いのだ。そのカットの空白の間に驚きなのだ。
またドック・オクの手術のシークエンスではかつてのサム・ライミの傑作シリーズである「死霊のはらわた」シリーズを髣髴とさせる笑いのツボが散りばめられているし、スパイダー・ウェブが出ないシーンが意図する事は勿論フロイト的にも男性能力の低下なのだ。
ところでピーターが写真を売るタブロイド誌の編集長をステレオタイプ的に演じコメディ・リリーフの役柄を引き受けたJ・K・シモンズだが、勿論普通に面白いのだが、ピーターのコメディ・リリーフとしての使い方が多い反面、結果的に美味しいところを持っていかれた残念な結果に終わっているようだ。
そしてなんと言っても爆笑のツボは、ヒーローを捨てたピーターの学生生活をバート・バカラックの "Raindrops Keep Falling On My Head" に合わせて楽しげに演技するトビー・マグワイアには頭を抱えてしまうし、ラストのカットの「止め絵」に至っては、もう抱腹絶倒モノなのだ。
またこの度、サム・ライミはお笑いだけではなくエモーショナルなシークエンスの演出もソツ無くこなしている。
例の列車のシークエンスのラストの少年達の名セリフの直前のカットはもたつきがあるものの、倒れこむピーターを支える乗客の手と、その手から手へピーターが(十字架の形で)運ばれる様は感動的ですらある。
前述のように若干もたつきはあるが少年達のセリフには感涙である。
また、ドック・オクの改心(これもキリストに触れ改心する使途パウロ等の暗喩であろう)のシークエンスも素晴らしい。
更にベン・パーカー(ベンおじさん/クリフ・ロバートソン)との前作のシークエンスの延長や、メイ・パーカー(メイおばさん/ローズマリー・ハリス)との絡みも泣かせるのだ。
あと驚いたのは、前作で亡くなったウィレム・デフォーやクリフ・ロバートソンの登場カットを別撮りしている点にも好感が持てた。
このような事はハリウッド・システムではなかなか出来ないことなのである。
ジェームズ・フランコも役者として、なかなか見られるようになり、キルステン・ダンストと共に、他の作品で活躍し始めたのも嬉しいものである。
しかし、なんと言ってもこれだけ内容が濃い作品を127分に破綻無くまとめるサム・ライミの手腕は見事だと思うのだ。
まあ少なくても、ヒットする理由がある作品だと思うし、スコープ・サイズでのスケール感のあるビル・ポープの撮影や、ダニー・エルフマンの音楽とも相まって、素晴らしい映像体験が楽しめる作品に仕上がっている。
余談だが、ピーターがタブロイド誌に持ち込む写真は、かつて無名時代のスタンリー・キューブリックが雑誌社に持ち込んでいた写真とかぶり、ある種のオマージュとなっているのかも知れない。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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グリーン・ゴブリン事件(「スパイダーマン」)から2年、ピーター・パーカー(トビー・マグワイア)はJ・ジョナ・ジェイムソン(J・K・シモンズ)が編集長を務める新聞社へ写真を売り込みながら大学生活を送る一方、スパイダーマンとしても活躍していた。
しかし、ピーターが愛するメリー・ジェーン・ワトソン(キルステン・ダンスト)は念願の舞台女優になったこともあり、公私共に多忙なピーターとの間に少しずつ距離ができていった。
また親友のハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)は亡き父ノーマン・オズボーン(ウィレム・デフォー)が残した巨大軍需企業オズコープ社を継ぎ、父の仇スパイダーマンに復讐するため情報を集めていた。
そんな時、ハリーの会社で研究を続けていたDr.オットー・オクタビアス(アルフレッド・モリナ)が常温核融合の実験中の事故で4本の金属製人工アームを持つ怪人ドック・オクになってしまった・・・・。
第一印象としては、非常に良く出来た三部作の中編、と言った印象を受けた。
前作「スパイダーマン」ではヒーローの誕生が描かれていた、とすると本作はヒーローの挫折と転機、そして新たな決意が見事に描かれているのだ。
シリーズ構成を考えると本作は「転」の部分にあたり、例をあげれば「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」的な味わいがある。
事実ノーマンとハリーの鏡のシークエンスは「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」のベイダー卿がルークとの関係を明らかにする部分のオマージュであろう。
本編だが先ずオープニング・クレジットが素晴らしい。
マーベル社のロゴからのフラッシュ・アニメーション系のクレジットに見え隠れする前作「スパイダーマン」の印象的なシーンをストーリーボード風イラストで見せるあたりは、昨今のオープニングの中でも評価できる素晴らしいものであった。
しかも、そのイラスト1枚1枚が完全に「絵」になっており、書斎の壁にでも飾りたい程のクオリティを持っているのだ。
そして、本作を語る上ではずせないのは、何と言っても敵役ドック・オクを演じたアルフレッド・モリナであろう。
従来、多くのアメコミ・ヒーローの映画化作品の敵役を演じた俳優は、ヒーローを演じる俳優よりネーム・バリューがあり、俳優としても格上であることが常識である感があったが、本作はそれを行わず存在感や演技でアルフレッド・モリナをキャスティングした(であろう)点に好感が持てる。
ともすれば役不足、という一言で片付けられてしまう可能性があった訳なのだが、アルフレッド・モリナは複数の面を持つ、複雑なキャラクターを好演している。
余談だがかつてのヒーローの敵役を演じた俳優を思いつくまま紹介しましょう。
ジーン・ハックマン(レックス・ルーサー/「スーパーマン」)
テレンス・スタンプ(ゾッド将軍/「スーパーマン」)
ジャック・ニコルソン(ジョーカー/「バットマン」)
ダニー・デヴィート(ペンギン/「バットマン・リターンズ」)
ミシェル・ファイファー(キャット・ウーマン/「バットマン・リターンズ」)
クリストファー・ウォーケン(マックス・シュレック/「バットマン・リターンズ」)・・・・
先ほど本作「スパイダーマン2」はシリーズ構成を考えた場合「転」にあたり、挫折と転機、そして決意が描かれていると言ったばかりだが、同時にヒーローの「受難」をも描いているとも言える。
大学の難、バイトの難、借家の難、借金の難、能力不振の難、友情難、恋愛難等、様々な難をピーターは受けるのである。
また列車を止めるシークエンスからこの「受難」は救世主の「受難」のメタファーとして存在していることが明示されている。
列車のシークエンスは、万人の罪を背負って磔刑にされたキリストの死と復活のメタファーなのである。
そして復活したピーターは救世主として生きることを選択する訳なのだ。
あとは、コメディ・パートが増えたところが興味深い。
前作「スパイダーマン」への観客の支持と興収がそうさせたのか、サム・ライミの演出は前作のような、恐る恐ると言ったような迷いが無く、縦横無尽に好き勝手に演出しているようである。
例えば、ピザの宅配シークエンスからのモップとの格闘や、能力不振からのエレベータのシークエンス等は、ひとごとながら監督サム・ライミの演出手腕の無さを、若しくは編集意図の不明確さを、わざわざ観客に見せ付けているのではないか、と心配してしまう位微妙にカットが長いのだ。そのカットの空白の間に驚きなのだ。
またドック・オクの手術のシークエンスではかつてのサム・ライミの傑作シリーズである「死霊のはらわた」シリーズを髣髴とさせる笑いのツボが散りばめられているし、スパイダー・ウェブが出ないシーンが意図する事は勿論フロイト的にも男性能力の低下なのだ。
ところでピーターが写真を売るタブロイド誌の編集長をステレオタイプ的に演じコメディ・リリーフの役柄を引き受けたJ・K・シモンズだが、勿論普通に面白いのだが、ピーターのコメディ・リリーフとしての使い方が多い反面、結果的に美味しいところを持っていかれた残念な結果に終わっているようだ。
そしてなんと言っても爆笑のツボは、ヒーローを捨てたピーターの学生生活をバート・バカラックの "Raindrops Keep Falling On My Head" に合わせて楽しげに演技するトビー・マグワイアには頭を抱えてしまうし、ラストのカットの「止め絵」に至っては、もう抱腹絶倒モノなのだ。
またこの度、サム・ライミはお笑いだけではなくエモーショナルなシークエンスの演出もソツ無くこなしている。
例の列車のシークエンスのラストの少年達の名セリフの直前のカットはもたつきがあるものの、倒れこむピーターを支える乗客の手と、その手から手へピーターが(十字架の形で)運ばれる様は感動的ですらある。
前述のように若干もたつきはあるが少年達のセリフには感涙である。
また、ドック・オクの改心(これもキリストに触れ改心する使途パウロ等の暗喩であろう)のシークエンスも素晴らしい。
更にベン・パーカー(ベンおじさん/クリフ・ロバートソン)との前作のシークエンスの延長や、メイ・パーカー(メイおばさん/ローズマリー・ハリス)との絡みも泣かせるのだ。
あと驚いたのは、前作で亡くなったウィレム・デフォーやクリフ・ロバートソンの登場カットを別撮りしている点にも好感が持てた。
このような事はハリウッド・システムではなかなか出来ないことなのである。
ジェームズ・フランコも役者として、なかなか見られるようになり、キルステン・ダンストと共に、他の作品で活躍し始めたのも嬉しいものである。
しかし、なんと言ってもこれだけ内容が濃い作品を127分に破綻無くまとめるサム・ライミの手腕は見事だと思うのだ。
まあ少なくても、ヒットする理由がある作品だと思うし、スコープ・サイズでのスケール感のあるビル・ポープの撮影や、ダニー・エルフマンの音楽とも相まって、素晴らしい映像体験が楽しめる作品に仕上がっている。
余談だが、ピーターがタブロイド誌に持ち込む写真は、かつて無名時代のスタンリー・キューブリックが雑誌社に持ち込んでいた写真とかぶり、ある種のオマージュとなっているのかも知れない。
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「スチームボーイ」を弁護する その1
2004年8月12日 映画
各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
誰もが指摘する様に、本作「スチームボーイ」の物語と「天空の城ラピュタ」(「天空の城ラピュタ」の原案を基にしている「ふしぎの海のナディア」を含む)の物語との表層的な類似は否めない事実である。
これら「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」の物語の根本的なプロットは「人類にとって大きな災厄と恩恵をもたらす可能性を秘めた力の源を手にしてしまった少年少女たちが、その力の源と発動する力を欲する権力者たちと、力の源の争奪戦を繰り広げる」と言うものである。
これは最近では「ロード・オブ・ザ・リング」三部作でも語られているような普遍的で神話的などんな民族にも受け入れられる構成を持った物語であると言える。
仮に「ロード・オブ・ザ・リング」三部作に主体を置いて言うならば、これらの物語は「大きな力を捨てに行く」物語なのである。
(※ 「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」(「ふしぎの海のナディア」)のキャラクター設定や、置かれている環境、時代背景、そのキャラクターが属する集団と対立する集団に関する類似性は、物語の基本的プロットやコンセプトを考えた場合、特に重要では無いので割愛します)
しかし、ここで考えなければならないのは、「天空の城ラピュタ」等で描かれている「力の源」と「発動する力」は、当時の人類には開発もコントロールも出来ない、「前文明(前時代)の遺産」として存在し、「神や天の火(天災)」のメタファーとして描かれている、と言う点である。
これは宮崎駿の作品中、「天空の城ラピュタ」の「飛行石/ラピュタのいかずち/装甲ロボット兵」、「ふしぎの海のナディア」の「ブルー・ウォーター/アトランティス」、「未来少年コナン」の「太陽塔/太陽エネルギー/ギガント」、「風の谷のナウシカ」の「巨神兵/王蟲/腐海」、「もののけ姫」の「シシ神」、「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」として、何度も何度も描かれており、宮崎駿の環境問題に対する考え方、エコロジーや環境破壊に対する過激な意識が、地球の怒=天災と形を変え、幾度と無く描かれている、という訳なのである。
一方「スチームボーイ」の「力の源」は勿論「スチームボール」であり、これは当時の人類がその叡智を結集し開発したもので、人類に破壊と恩恵をもたらす科学技術のメタファーとして存在している訳だ。
これは「アキラ」の「鉄雄」にも通じるのだ。とは言っても「アキラ」の「鉄雄」は科学技術のメタファーか、と言われると表層的には疑問の余地はあるだろう。しかし「アキラ」はもともと「鉄人28号」から着想した作品である、と言う点や、「アキラ」の物語中で「鉄雄」の力はきっかけはともかく医療技術で発動するところ(語弊あり)から、「鉄雄」が人類に破壊と恩恵をもたらす科学技術のメタファーだと考えても構わないだろう。
つまり、表層的には「人類にとって大きな災厄と恩恵をもたらす可能性を秘めた力の源を手にしてしまった少年少女たちが、その力の源と発動する力を欲する権力者たちと、力の源の争奪戦を繰り広げる」という物語に見える「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」だが、その物語の核となる「力の源」は全く異なる次元とベクトルを持っているのである。
これを端的に表すと、宮崎駿は人類が行っている環境破壊を批判し、一方大友克洋は(兵器転用可能な)科学技術の開発競争を批判している訳である。
こう考えると「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は、物語の表層の類似は否めないものの、作品自体が持つ思想的・政治的バックボーンや、製作者が物語を通じて観客に指し示すベクトルは全く異なる作品だ、と言う事が言えるだろう。
語弊はあるが、あえて誤解を恐れずに端的に言うならば、「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は、マイケル・ムーアとグリーン・ピース位かけ離れた作品だ、と言う事が出来るのではないだろうか。
そしておそらく、宮崎駿の理想は人類の自然との共存であり、大友克洋の理想は人類の科学技術との共存だ、と言えるのではないだろうか。 これは正しく、似て非なるものだと言えよう。
いかがであろう、つまり「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は全くと言って良いほど異なった作品であり、表層だけを見て似ている、と考えるのは当てはまらないのではないか、とわたしは考えるのだ。
つづく・・・・予定。
2.ユーモアの欠如
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
誰もが指摘する様に、本作「スチームボーイ」の物語と「天空の城ラピュタ」(「天空の城ラピュタ」の原案を基にしている「ふしぎの海のナディア」を含む)の物語との表層的な類似は否めない事実である。
これら「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」の物語の根本的なプロットは「人類にとって大きな災厄と恩恵をもたらす可能性を秘めた力の源を手にしてしまった少年少女たちが、その力の源と発動する力を欲する権力者たちと、力の源の争奪戦を繰り広げる」と言うものである。
これは最近では「ロード・オブ・ザ・リング」三部作でも語られているような普遍的で神話的などんな民族にも受け入れられる構成を持った物語であると言える。
仮に「ロード・オブ・ザ・リング」三部作に主体を置いて言うならば、これらの物語は「大きな力を捨てに行く」物語なのである。
(※ 「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」(「ふしぎの海のナディア」)のキャラクター設定や、置かれている環境、時代背景、そのキャラクターが属する集団と対立する集団に関する類似性は、物語の基本的プロットやコンセプトを考えた場合、特に重要では無いので割愛します)
しかし、ここで考えなければならないのは、「天空の城ラピュタ」等で描かれている「力の源」と「発動する力」は、当時の人類には開発もコントロールも出来ない、「前文明(前時代)の遺産」として存在し、「神や天の火(天災)」のメタファーとして描かれている、と言う点である。
これは宮崎駿の作品中、「天空の城ラピュタ」の「飛行石/ラピュタのいかずち/装甲ロボット兵」、「ふしぎの海のナディア」の「ブルー・ウォーター/アトランティス」、「未来少年コナン」の「太陽塔/太陽エネルギー/ギガント」、「風の谷のナウシカ」の「巨神兵/王蟲/腐海」、「もののけ姫」の「シシ神」、「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」として、何度も何度も描かれており、宮崎駿の環境問題に対する考え方、エコロジーや環境破壊に対する過激な意識が、地球の怒=天災と形を変え、幾度と無く描かれている、という訳なのである。
一方「スチームボーイ」の「力の源」は勿論「スチームボール」であり、これは当時の人類がその叡智を結集し開発したもので、人類に破壊と恩恵をもたらす科学技術のメタファーとして存在している訳だ。
これは「アキラ」の「鉄雄」にも通じるのだ。とは言っても「アキラ」の「鉄雄」は科学技術のメタファーか、と言われると表層的には疑問の余地はあるだろう。しかし「アキラ」はもともと「鉄人28号」から着想した作品である、と言う点や、「アキラ」の物語中で「鉄雄」の力はきっかけはともかく医療技術で発動するところ(語弊あり)から、「鉄雄」が人類に破壊と恩恵をもたらす科学技術のメタファーだと考えても構わないだろう。
つまり、表層的には「人類にとって大きな災厄と恩恵をもたらす可能性を秘めた力の源を手にしてしまった少年少女たちが、その力の源と発動する力を欲する権力者たちと、力の源の争奪戦を繰り広げる」という物語に見える「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」だが、その物語の核となる「力の源」は全く異なる次元とベクトルを持っているのである。
これを端的に表すと、宮崎駿は人類が行っている環境破壊を批判し、一方大友克洋は(兵器転用可能な)科学技術の開発競争を批判している訳である。
こう考えると「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は、物語の表層の類似は否めないものの、作品自体が持つ思想的・政治的バックボーンや、製作者が物語を通じて観客に指し示すベクトルは全く異なる作品だ、と言う事が言えるだろう。
語弊はあるが、あえて誤解を恐れずに端的に言うならば、「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は、マイケル・ムーアとグリーン・ピース位かけ離れた作品だ、と言う事が出来るのではないだろうか。
そしておそらく、宮崎駿の理想は人類の自然との共存であり、大友克洋の理想は人類の科学技術との共存だ、と言えるのではないだろうか。 これは正しく、似て非なるものだと言えよう。
いかがであろう、つまり「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は全くと言って良いほど異なった作品であり、表層だけを見て似ている、と考えるのは当てはまらないのではないか、とわたしは考えるのだ。
つづく・・・・予定。
2.ユーモアの欠如
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「マスター・アンド・コマンダー」
2004年8月8日 映画
1805年
大海原−それは人類に残された最後の開拓地である。
そこには人類の想像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない。
これは、フランス海軍アケロン号迎撃のため旅立ったH.M.S.サプライズ号の驚異に満ちた物語である。
各方面で絶賛の嵐の「マスター・アンド・コマンダー」を、この度DVD/DTSで視聴しまして、気になる点を何点かお話したいと思います。
1.音響効果
第76回アカデミー賞「音響効果賞」受賞も納得できる程、音場の再現度は高い。
特に波や風により船体が軋む音の5.1chでの再現は素晴らしく、その臨場感は、自らが大海原の真只中に居るかのような印象を受ける。
また特筆すべき点として、音楽があまり入っていない点も、音響効果の効果を高めている。いっその事、音楽を全く入れなくても良かったのではないか、と思う程であった。
2.撮影
アクション・シークエンスの撮影は良かったし、ガラパゴス諸島のロケーション効果も高かったのであるが、H.M.S.サプライズ号が大海原を単独で航海している描写が希薄であった。
これは、H.M.S.サプライズ号が画面上、大写しになっていることが多く、圧倒的な大自然における圧倒的な孤独感、寂寥感、そして大自然に対する畏怖があまり感じられなかった。
H.M.S.サプライズ号が大海原を孤高に航海する潔さが表現されていないのは大変惜しい、と思うのだ。
例えば「アラビアのロレンス」冒頭付近の、地平線上に現れるラクダがだんだん近づいてくるようなカットであるとか、「2001年宇宙の旅」のフランク・プール救出のシークエンス等、大自然の中の孤立無援感を感じさせて欲しかったのだ。
3.脚本
原作は20冊を超える超大作であり、本作はその1エピソードを中心に139分にまとめ、H.M.S.サプライズ号とアケロン号に物語の焦点を絞った潔さは評価できるのだが、そのためH.M.S.サプライズ号とアケロン号が置かれている背景が希薄である。
ともすれば、フランス代表としてアケロン号が、イギリス代表としてサプライズ号が戦っているような印象を観客に与えかねない。
勿論冒頭の命令書云々の件はサプライズ号の背後のイギリスの存在を描いているのだが、例えばイギリス本国の海軍作戦室を映すとか、ジャック・オーブリーがイギリス本国から命令書を手渡しされるとか、多くのイギリス軍艦が多くの海域でフランス海軍と戦っているのだ、と言う背景を描いて欲しかったのだ。
また、H.M.S.サプライズ号やアケロン号の背景が見えない点とかぶるのだが、本作の物語自体が小さく、シリーズの中の1エピソードとしか感じられない。
尤も前述のように原作は20冊を超えている訳だから、今後のシリーズ化も念頭においているのだろうが、オーブリーとマチュリンの初登場エピソードとしては物語が弱いような印象を受ける。
今後のシリーズ化の展開を考えた場合、例えば「スター・ウォーズ(エピソードIV)」や「レイダース/失われた聖櫃」のようなシリーズ第一作と本作を比較してどうか、と言う事である。
4.シリーズ化への期待
前項と被るのだが、個人的に本作は是非シリーズ化して欲しい作品である。
先ず、今回のブログの冒頭に書いた言葉をもう一度読んでいただきたい。
賢明な読者諸氏はお気づきのように、冒頭の言葉は、「宇宙大作戦/スタートレック」のオープニング・ナレーションを本作「マスター・アンド・コマンダー」に当てはめたものである。
そう「マスター・アンド・コマンダー」は「スタートレック」だったのだ。
そしてわたし達観客は、オーブリーとマチュリンの、そしてH.M.S.サプライズ号の人類未踏の海域での驚異に満ちた物語を、もっともっと知りたいのである。
今後のシリーズ化を切に願うのだ。
5.「スタートレック」を見ろ!
「マスター・アンド・コマンダー」に関心を持った方は、是非「スタートレック」シリーズも見て欲しい。
舞台や環境は勿論異なるのだが、「スタートレック」と「マスター・アンド・コマンダー」は、全くと言って良いほど同じコンセプトとベクトルを持った物語だと言えるのだ。
最後に、冒頭でアレンジ版を記載した「スタートレック」のオープニング・ナレーションを原文のままご紹介したいと思います。
宇宙−それは人類に残された最後の開拓地である。
そこには人類の想像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない。
これは、人類最初の試みとして5年間の調査飛行に飛び立った宇宙船U.S.S.エンタープライズ号の驚異に満ちた物語である。
(「宇宙大作戦/スタートレック」オープニング・ナレーションより引用)』
Space... the final frontier.
These are the voyagers of the Starship Enterprise.
It’s five year mission:
To explore strange new worlds,
To seek out new life and new civilizations,
To boldly go where no one has gone before...
大海原−それは人類に残された最後の開拓地である。
そこには人類の想像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない。
これは、フランス海軍アケロン号迎撃のため旅立ったH.M.S.サプライズ号の驚異に満ちた物語である。
各方面で絶賛の嵐の「マスター・アンド・コマンダー」を、この度DVD/DTSで視聴しまして、気になる点を何点かお話したいと思います。
1.音響効果
第76回アカデミー賞「音響効果賞」受賞も納得できる程、音場の再現度は高い。
特に波や風により船体が軋む音の5.1chでの再現は素晴らしく、その臨場感は、自らが大海原の真只中に居るかのような印象を受ける。
また特筆すべき点として、音楽があまり入っていない点も、音響効果の効果を高めている。いっその事、音楽を全く入れなくても良かったのではないか、と思う程であった。
2.撮影
アクション・シークエンスの撮影は良かったし、ガラパゴス諸島のロケーション効果も高かったのであるが、H.M.S.サプライズ号が大海原を単独で航海している描写が希薄であった。
これは、H.M.S.サプライズ号が画面上、大写しになっていることが多く、圧倒的な大自然における圧倒的な孤独感、寂寥感、そして大自然に対する畏怖があまり感じられなかった。
H.M.S.サプライズ号が大海原を孤高に航海する潔さが表現されていないのは大変惜しい、と思うのだ。
例えば「アラビアのロレンス」冒頭付近の、地平線上に現れるラクダがだんだん近づいてくるようなカットであるとか、「2001年宇宙の旅」のフランク・プール救出のシークエンス等、大自然の中の孤立無援感を感じさせて欲しかったのだ。
3.脚本
原作は20冊を超える超大作であり、本作はその1エピソードを中心に139分にまとめ、H.M.S.サプライズ号とアケロン号に物語の焦点を絞った潔さは評価できるのだが、そのためH.M.S.サプライズ号とアケロン号が置かれている背景が希薄である。
ともすれば、フランス代表としてアケロン号が、イギリス代表としてサプライズ号が戦っているような印象を観客に与えかねない。
勿論冒頭の命令書云々の件はサプライズ号の背後のイギリスの存在を描いているのだが、例えばイギリス本国の海軍作戦室を映すとか、ジャック・オーブリーがイギリス本国から命令書を手渡しされるとか、多くのイギリス軍艦が多くの海域でフランス海軍と戦っているのだ、と言う背景を描いて欲しかったのだ。
また、H.M.S.サプライズ号やアケロン号の背景が見えない点とかぶるのだが、本作の物語自体が小さく、シリーズの中の1エピソードとしか感じられない。
尤も前述のように原作は20冊を超えている訳だから、今後のシリーズ化も念頭においているのだろうが、オーブリーとマチュリンの初登場エピソードとしては物語が弱いような印象を受ける。
今後のシリーズ化の展開を考えた場合、例えば「スター・ウォーズ(エピソードIV)」や「レイダース/失われた聖櫃」のようなシリーズ第一作と本作を比較してどうか、と言う事である。
4.シリーズ化への期待
前項と被るのだが、個人的に本作は是非シリーズ化して欲しい作品である。
先ず、今回のブログの冒頭に書いた言葉をもう一度読んでいただきたい。
賢明な読者諸氏はお気づきのように、冒頭の言葉は、「宇宙大作戦/スタートレック」のオープニング・ナレーションを本作「マスター・アンド・コマンダー」に当てはめたものである。
そう「マスター・アンド・コマンダー」は「スタートレック」だったのだ。
そしてわたし達観客は、オーブリーとマチュリンの、そしてH.M.S.サプライズ号の人類未踏の海域での驚異に満ちた物語を、もっともっと知りたいのである。
今後のシリーズ化を切に願うのだ。
5.「スタートレック」を見ろ!
「マスター・アンド・コマンダー」に関心を持った方は、是非「スタートレック」シリーズも見て欲しい。
舞台や環境は勿論異なるのだが、「スタートレック」と「マスター・アンド・コマンダー」は、全くと言って良いほど同じコンセプトとベクトルを持った物語だと言えるのだ。
最後に、冒頭でアレンジ版を記載した「スタートレック」のオープニング・ナレーションを原文のままご紹介したいと思います。
宇宙−それは人類に残された最後の開拓地である。
そこには人類の想像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない。
これは、人類最初の試みとして5年間の調査飛行に飛び立った宇宙船U.S.S.エンタープライズ号の驚異に満ちた物語である。
(「宇宙大作戦/スタートレック」オープニング・ナレーションより引用)』
Space... the final frontier.
These are the voyagers of the Starship Enterprise.
It’s five year mission:
To explore strange new worlds,
To seek out new life and new civilizations,
To boldly go where no one has gone before...
「ヴァン・ヘルシング」
2004年8月6日 映画
2004/08/05 東京有楽町 東京国際フォーラムAホールで行われた『「ヴァン・ヘルシング」ジャパン・プレミア』に行ってきた。
最近のジャパン・プレミアは映画のスタッフやキャストが登場し、舞台挨拶が行われるのが一般的なのだが、今回は舞台挨拶は無し。
但し、「ヴァン・ヘルシング」の本編中のシーンを模した「仮面舞踏会」がスタージ上で行われた。
演出意図は若干不明だが、スタッフやキャストが来ない状況での苦肉の策だったのであろう。
「ヴァン・ヘルシング」については、先日ギャガ・コミュニケーションズの試写室で観ていたので、ジャパン・プレミアには行かないつもりだったのだが、もしかして間違って、ヒュー・ジャックマンやケイト・ベッキンセール等が来日していたら困るので、結果的に足を運んでしまった訳なのだ。
舞台上では、「仮面舞踏会」以外には、ヒュー・ジャックマン、ケイト・ベッキンセール、監督のスティヴン・ソマーズのビデオ・メッセージと、日本語吹替版のエンディング・テーマを担当する氷室京介のPVとビデオ・メッセージが流れた。
映画についての印象は変わらず、詳細は次のリンクで確認してください。
http://diarynote.jp/d/29346/20040723.html
最近のジャパン・プレミアは映画のスタッフやキャストが登場し、舞台挨拶が行われるのが一般的なのだが、今回は舞台挨拶は無し。
但し、「ヴァン・ヘルシング」の本編中のシーンを模した「仮面舞踏会」がスタージ上で行われた。
演出意図は若干不明だが、スタッフやキャストが来ない状況での苦肉の策だったのであろう。
「ヴァン・ヘルシング」については、先日ギャガ・コミュニケーションズの試写室で観ていたので、ジャパン・プレミアには行かないつもりだったのだが、もしかして間違って、ヒュー・ジャックマンやケイト・ベッキンセール等が来日していたら困るので、結果的に足を運んでしまった訳なのだ。
舞台上では、「仮面舞踏会」以外には、ヒュー・ジャックマン、ケイト・ベッキンセール、監督のスティヴン・ソマーズのビデオ・メッセージと、日本語吹替版のエンディング・テーマを担当する氷室京介のPVとビデオ・メッセージが流れた。
映画についての印象は変わらず、詳細は次のリンクで確認してください。
http://diarynote.jp/d/29346/20040723.html
「スウィングガールズ」
2004年8月5日 映画
2004/08/04 東京霞ヶ関イイノホールで行われた「スウィングガールズ」の試写会に行ってきた。監督は「ウォーターボーイズ」の矢口史靖(ヤグチシノブ)。
舞台は東北の片田舎の高校。
夏休み返上で補習を受けている女子生徒たちが、サボりの口実としてビックバンドを始める。
当然のごとくやる気はゼロでサボる気満々。
しかし、楽器からすこしずつ音がでてくるにつれジャズの魅力にひきこまれ、ついには自分達だけでバンド結成を決意!
とはいえ楽器はないし、お金もない。バイトをすれば大失敗。
なんとか楽器を手に入れて、いざ練習!と思いきや、今度は練習場所もなく、ついにはバンド解散の危機!?
しかし、音楽への熱い思いがはちゃめちゃパワーとあいまって、紆余曲折を吹き飛ばし、感動のラストまで一直線!!
(オフィシャル・サイトより引用)
わたしは中学生時代に吹奏楽部に所属していた。
その吹奏楽部の経験から譜面や音楽理論を覚え、ギターやキーボードの演奏に派生し、ステージは勿論、デモテープを作ったり、DTMを行ったり、といった音楽経験をわたしは持っている。わたしはそんな中で「スウィングガールズ」を観た訳である。
本作「スウィングガールズ」の第一印象は、音楽を題材にした平凡な青春映画である。と言うもの。
つまらない訳ではないし、そこそこ面白いし笑える。また後半部分のライヴ・シーンには感動や興奮すらする。
しかし、なんだか退屈で盛り上がりに欠けるのである。
これは本来描くべき音楽シーンが少ないことに拠るのかも知れないし、単純明快で捻りの無い脚本に拠るものなのかも知れない。
何故か本作「スウィングガールズ」は、バンド結成のための資金集めから楽器調達といった枝葉部分を丹念に描く事に重点を置き、肝心要の楽器演奏シーンが少ない、と言う本末転倒的な作品構成を持っているのだ。
勿論、音楽初心者が苦労して資金を集め楽器を調達しバンドを結成するまでの紆余曲折は、一見キャッチーだし身近で面白い題材なんだろうとは思うのだが、そういった部分より、楽器に手を触れ、音が出て、演奏が楽しくなり、メンバーと曲を合わせていく喜びが感じられ、演奏スキルが向上、メンバーとの一体感が生まれ演奏が板につく、という登場人物の成長を描く部分に本来は多くの尺を割くべきだったのではなかろうか、と思うのである。
事実、楽器スキルの向上の演出が希薄である為、5人編成のバンドから17人編成のビッグ・バンドになるシークエンスは、本来ならば観客を感動させるシークエンスであるべきなのだが、練習もしていない、譜面も知らないはずのメンバーがライヴに突然乱入する、という脚本にはリアリティが無く、ともすれば楽器の演奏なんて簡単なんだ、という印象さえ観客に与えかねないものになっている。
下手をすると、後半部分の演奏シーンの感動を減衰する方向性さえ感じられるのだ。
また楽器の取扱いに対する無神経さも気になった。
楽器は演奏家にとってどういう存在なのかを、少しは考えた上で演出して欲しいと思ったのだ。
これは、冒頭部分の楽器をオモチャにするシーンに顕著なのだが、スライドを落すのはお約束だが、トランペットでシャボン玉を作り始めるのにいたっては、エスカレートしすぎたお粗末なギャグにはリアリティのかけらすら無いし、勿論面白くも無いし、楽器を演奏している人達にとって、非常に不愉快なシーンに仕上がっている、と言わざるを得ないのだ。
ところで、キャストだが、主演は「ジョゼと虎と魚たち」でジョゼに意地悪をした女子大生を演じた上野樹里(鈴木友子/テナーサックス)が田舎の純朴な女子高生を好演している。
余談だが上野樹里のスカートやセーラー服の丈が微妙であった。
上野樹里ではピンで客を呼べるほどの格はまだまだ感じられないが、今後が楽しみな女優の一人である。残念ながらイメージ的には竹内結子とかぶるので、なんらかの転機が必要だと思う。
唯一の男性メンバー平岡祐太(中村拓雄/ピアノ)は、もう少し一本通った所を見せて欲しかった。
お金持ちのぼんぼんの役、ということもあるのだが、もう少し格好良いところを見せて欲しかった。
貫地谷しほり(斉藤良江/トランペット)、本仮屋ユイカ(関口香織/トロンボーン)、豊島由佳梨(田中直美/ドラム)等はオーディションで出てきたらしいのだが、非常に存在感があり、若手の名脇役として今後に期待が持てるし、下手をすると映画やテレビに引っ張りだこになるのではないか、とさえも思った。
貫地谷しほりと本仮屋ユイカはそれぞれ2〜3作目のようだが、豊島由佳梨は演技初体験なのだが、自然で落ち着いた、周りを食ってしまう演技に好感と期待が持てた。
余談だが、それと比較すると、キャリアがあるはずの上野樹里のファーストカットはあくびをするカットだったのだが、演技丸出しの不自然なあくびには辟易した。中盤付近のくしゃみの演技もイマイチだったことを考えると上野樹里は生理現象の演技は苦手なのかもしれない。
さて、竹中直人であるが、コメディ作品に登場する竹中の演技スタイルには既に飽きがきている事を自覚し、現行の演技スタイルからの脱却を図って欲しいし、または他の俳優との入れ替えも考えていい時期だと思う。
白石美帆は当初思っていたより大きな役で、登場シーンも多かった。つかみ所の無いキャラクターを好演している。
脚本は前述のように単純明快で捻りも無いのだが、演出は面白い。
例えば、バンド結成のための資金調達のエピソード中の「松茸狩から猪退治」へのシークエンスは秀逸である。
特にショットガン撮影を模した猪退治のシーンは、使用されている楽曲"What A Wounderful World"と相まって素晴らしい効果を出している。
また、冒頭の「弁当運び」のシークエンスや、「学校の屋上のビデオ撮影からの雪合戦」等ロケーション効果を生かした画面と演出が印象的である。
また、なんと言ってもラストの演奏シーンだが、「チューニングから演奏開始」あたりも印象的である。
そして驚くべき事は何と言っても、本編で使われている音は全て自分たちの演奏である、という点だろう。
音を出すだけで大変な管楽器を、少なくても観客を感動させるレベルまで習熟している点、演奏だけではなく、スタンドプレイまでこなせるレベルまで達している点に驚きなのだ。
また、映画のプロモーションの一環としてだが「スウィングガールズ」としてライヴ演奏するイベントまで行ってしまうところに驚きを禁じえない。
これはつまりワンカットずつの演奏ではなく、楽曲を通して演奏できるスキルを持っている、という事なのである。
勿論譜面が読めるのか、暗譜しているかわからないが、どちらにしても凄い。こいつら凄すぎなのだ。
しかし逆説的に言うと、楽器に初めて触れるシークエンスあたりが様になりすぎている、という弱点もあるのだが・・・・。
これはアラン・パーカーの「ザ・コミットメンツ」あたりも俳優たちが自分たちで演奏しているのだが、ライヴ感やリアリティのため、非常に素晴らしい事である。
楽器経験者としては、多分非常に楽しい撮影だったのではないかな、と思うのだ。
結果的には、音楽好きの人や楽器を演奏しているような人ではなく、音楽に関心が無い、または楽器を演奏した事の無い人にぜひともオススメの作品なのかもしれないのだ。
音楽をやっている人は激怒かも。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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舞台は東北の片田舎の高校。
夏休み返上で補習を受けている女子生徒たちが、サボりの口実としてビックバンドを始める。
当然のごとくやる気はゼロでサボる気満々。
しかし、楽器からすこしずつ音がでてくるにつれジャズの魅力にひきこまれ、ついには自分達だけでバンド結成を決意!
とはいえ楽器はないし、お金もない。バイトをすれば大失敗。
なんとか楽器を手に入れて、いざ練習!と思いきや、今度は練習場所もなく、ついにはバンド解散の危機!?
しかし、音楽への熱い思いがはちゃめちゃパワーとあいまって、紆余曲折を吹き飛ばし、感動のラストまで一直線!!
(オフィシャル・サイトより引用)
わたしは中学生時代に吹奏楽部に所属していた。
その吹奏楽部の経験から譜面や音楽理論を覚え、ギターやキーボードの演奏に派生し、ステージは勿論、デモテープを作ったり、DTMを行ったり、といった音楽経験をわたしは持っている。わたしはそんな中で「スウィングガールズ」を観た訳である。
本作「スウィングガールズ」の第一印象は、音楽を題材にした平凡な青春映画である。と言うもの。
つまらない訳ではないし、そこそこ面白いし笑える。また後半部分のライヴ・シーンには感動や興奮すらする。
しかし、なんだか退屈で盛り上がりに欠けるのである。
これは本来描くべき音楽シーンが少ないことに拠るのかも知れないし、単純明快で捻りの無い脚本に拠るものなのかも知れない。
何故か本作「スウィングガールズ」は、バンド結成のための資金集めから楽器調達といった枝葉部分を丹念に描く事に重点を置き、肝心要の楽器演奏シーンが少ない、と言う本末転倒的な作品構成を持っているのだ。
勿論、音楽初心者が苦労して資金を集め楽器を調達しバンドを結成するまでの紆余曲折は、一見キャッチーだし身近で面白い題材なんだろうとは思うのだが、そういった部分より、楽器に手を触れ、音が出て、演奏が楽しくなり、メンバーと曲を合わせていく喜びが感じられ、演奏スキルが向上、メンバーとの一体感が生まれ演奏が板につく、という登場人物の成長を描く部分に本来は多くの尺を割くべきだったのではなかろうか、と思うのである。
事実、楽器スキルの向上の演出が希薄である為、5人編成のバンドから17人編成のビッグ・バンドになるシークエンスは、本来ならば観客を感動させるシークエンスであるべきなのだが、練習もしていない、譜面も知らないはずのメンバーがライヴに突然乱入する、という脚本にはリアリティが無く、ともすれば楽器の演奏なんて簡単なんだ、という印象さえ観客に与えかねないものになっている。
下手をすると、後半部分の演奏シーンの感動を減衰する方向性さえ感じられるのだ。
また楽器の取扱いに対する無神経さも気になった。
楽器は演奏家にとってどういう存在なのかを、少しは考えた上で演出して欲しいと思ったのだ。
これは、冒頭部分の楽器をオモチャにするシーンに顕著なのだが、スライドを落すのはお約束だが、トランペットでシャボン玉を作り始めるのにいたっては、エスカレートしすぎたお粗末なギャグにはリアリティのかけらすら無いし、勿論面白くも無いし、楽器を演奏している人達にとって、非常に不愉快なシーンに仕上がっている、と言わざるを得ないのだ。
ところで、キャストだが、主演は「ジョゼと虎と魚たち」でジョゼに意地悪をした女子大生を演じた上野樹里(鈴木友子/テナーサックス)が田舎の純朴な女子高生を好演している。
余談だが上野樹里のスカートやセーラー服の丈が微妙であった。
上野樹里ではピンで客を呼べるほどの格はまだまだ感じられないが、今後が楽しみな女優の一人である。残念ながらイメージ的には竹内結子とかぶるので、なんらかの転機が必要だと思う。
唯一の男性メンバー平岡祐太(中村拓雄/ピアノ)は、もう少し一本通った所を見せて欲しかった。
お金持ちのぼんぼんの役、ということもあるのだが、もう少し格好良いところを見せて欲しかった。
貫地谷しほり(斉藤良江/トランペット)、本仮屋ユイカ(関口香織/トロンボーン)、豊島由佳梨(田中直美/ドラム)等はオーディションで出てきたらしいのだが、非常に存在感があり、若手の名脇役として今後に期待が持てるし、下手をすると映画やテレビに引っ張りだこになるのではないか、とさえも思った。
貫地谷しほりと本仮屋ユイカはそれぞれ2〜3作目のようだが、豊島由佳梨は演技初体験なのだが、自然で落ち着いた、周りを食ってしまう演技に好感と期待が持てた。
余談だが、それと比較すると、キャリアがあるはずの上野樹里のファーストカットはあくびをするカットだったのだが、演技丸出しの不自然なあくびには辟易した。中盤付近のくしゃみの演技もイマイチだったことを考えると上野樹里は生理現象の演技は苦手なのかもしれない。
さて、竹中直人であるが、コメディ作品に登場する竹中の演技スタイルには既に飽きがきている事を自覚し、現行の演技スタイルからの脱却を図って欲しいし、または他の俳優との入れ替えも考えていい時期だと思う。
白石美帆は当初思っていたより大きな役で、登場シーンも多かった。つかみ所の無いキャラクターを好演している。
脚本は前述のように単純明快で捻りも無いのだが、演出は面白い。
例えば、バンド結成のための資金調達のエピソード中の「松茸狩から猪退治」へのシークエンスは秀逸である。
特にショットガン撮影を模した猪退治のシーンは、使用されている楽曲"What A Wounderful World"と相まって素晴らしい効果を出している。
また、冒頭の「弁当運び」のシークエンスや、「学校の屋上のビデオ撮影からの雪合戦」等ロケーション効果を生かした画面と演出が印象的である。
また、なんと言ってもラストの演奏シーンだが、「チューニングから演奏開始」あたりも印象的である。
そして驚くべき事は何と言っても、本編で使われている音は全て自分たちの演奏である、という点だろう。
音を出すだけで大変な管楽器を、少なくても観客を感動させるレベルまで習熟している点、演奏だけではなく、スタンドプレイまでこなせるレベルまで達している点に驚きなのだ。
また、映画のプロモーションの一環としてだが「スウィングガールズ」としてライヴ演奏するイベントまで行ってしまうところに驚きを禁じえない。
これはつまりワンカットずつの演奏ではなく、楽曲を通して演奏できるスキルを持っている、という事なのである。
勿論譜面が読めるのか、暗譜しているかわからないが、どちらにしても凄い。こいつら凄すぎなのだ。
しかし逆説的に言うと、楽器に初めて触れるシークエンスあたりが様になりすぎている、という弱点もあるのだが・・・・。
これはアラン・パーカーの「ザ・コミットメンツ」あたりも俳優たちが自分たちで演奏しているのだが、ライヴ感やリアリティのため、非常に素晴らしい事である。
楽器経験者としては、多分非常に楽しい撮影だったのではないかな、と思うのだ。
結果的には、音楽好きの人や楽器を演奏しているような人ではなく、音楽に関心が無い、または楽器を演奏した事の無い人にぜひともオススメの作品なのかもしれないのだ。
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2004/07/14 東京新橋ヤクルトホールで「機関車先生」の試写を観た。
瀬戸内海に浮かぶ小島、葉名島。
そこで学ぶ全校生徒7人の水見色小学校の子供たちの前に、ある1人の青年が臨時教師としてやって来た。
春風の到来と共に子供たちの前に現われた先生は、大きな体に優しい眼差しを浮かべているがなぜか一度も口をきかない。
そんな先生の様子に期待と不安で胸を膨らませていた子供たちは、先生が黒板に書いた言葉に目を丸くする。
「ぼくは話をすることができません。でもみなさんといっしょにしっかり勉強します」。
ぽかんと口をあける生徒たち。しかしすぐに「口をきかんの?じゃあ、口をきかん先生、機関車先生や!」と大はしゃぎ。
こうして口をきけない「機関車先生」と7人の子供たちの交流が陽気に幕を開ける。
(「機関車先生」オフィシャル・サイトより引用)
吉岡誠吾(機関車先生)に坂口憲二、校長先生 佐古周一郎に堺正章、吉岡先生の下宿を引受ける女医 阿部よねに倍賞美津子、居酒屋の女主人 室井よし江に大塚寧々、島の実力者で網元 美作重太郎に伊武雅刀、寺島しのぶもちょこっと登場。
監督は廣木隆一。
主人公の吉岡先生のキャスティングについてだが、これには演技はともかく存在感がある人物が必要だ、と考えた場合、本作の坂口憲二は大正解だと言えよう。
坂口は口を利かなければ、実直で素直、質実剛健という「機関車先生」のイメージを観客に伝える事が出来る素晴らしいキャスティングだと言えよう。
そして、主人公が喋らない分、脇に曲者が配されている。
吉岡先生の代弁者とも言える堺正章は枯れた演技を見せつつ、吉岡先生の心情を代弁する。
また「口が利けない先生を批判する」一派の代表である網元を伊武雅刀は楽しげに演じている。伊武は悪役でありながらコメディ・リリークを担当している訳なのだ。
余談だが、最近竹中直人のオーバーアクトに飽き飽きしてきたわたしが思うには、竹中が現在占めているコメディ・リリーフとしてのポストを伊武にシフトしていくのも面白いと思っている。
伊武は、渋い役からお笑いまでこなせる貴重な俳優だと思うのだ。
また女性陣も黙ってはいない。
やはり何と言っても倍賞美津子の存在感だが、島の実力者網元もタジタジと言った、島で最強の人物を演じている。
更に大塚寧々にしろ佐藤匡美にしろ、自分の役柄を自然な雰囲気で見事な演技を見せている、のではないだろうか。
これら俳優たちの細かな演技の積み重ねがリアリティを生むのである。
そして子供たちである。
勿論、若干卑怯な感は否めないが、わたし達観客は子供たちに見事にやられてしまうのである。
若干一名、子供としては年長の二世俳優が出ているが、その他の子供たちの演技は素晴らしいものがある。
美術は、ほぼオールロケの効果が抜群である。
学校はともかく、居酒屋や駄菓子屋、路傍の風情が素晴らしい。
脚本は、剣道の試合中の事故で声が出なくなり、教師をあきらめた吉岡先生が、新たな生きがいを見つけ、自分を取り戻す、という物語がメインになっているため、厳しい見方をすると、吉岡先生は自分の復活のために子供たちを利用している、というような印象をも受けるのだが、それだけでは無い何かが感じられる良い脚本に仕上がっている。
本作「機関車先生」は、残念ながら傑作とは言いきれないが、さわやかな感動を求める方には、この夏オススメの一本である。
瀬戸内海に浮かぶ小島、葉名島。
そこで学ぶ全校生徒7人の水見色小学校の子供たちの前に、ある1人の青年が臨時教師としてやって来た。
春風の到来と共に子供たちの前に現われた先生は、大きな体に優しい眼差しを浮かべているがなぜか一度も口をきかない。
そんな先生の様子に期待と不安で胸を膨らませていた子供たちは、先生が黒板に書いた言葉に目を丸くする。
「ぼくは話をすることができません。でもみなさんといっしょにしっかり勉強します」。
ぽかんと口をあける生徒たち。しかしすぐに「口をきかんの?じゃあ、口をきかん先生、機関車先生や!」と大はしゃぎ。
こうして口をきけない「機関車先生」と7人の子供たちの交流が陽気に幕を開ける。
(「機関車先生」オフィシャル・サイトより引用)
吉岡誠吾(機関車先生)に坂口憲二、校長先生 佐古周一郎に堺正章、吉岡先生の下宿を引受ける女医 阿部よねに倍賞美津子、居酒屋の女主人 室井よし江に大塚寧々、島の実力者で網元 美作重太郎に伊武雅刀、寺島しのぶもちょこっと登場。
監督は廣木隆一。
主人公の吉岡先生のキャスティングについてだが、これには演技はともかく存在感がある人物が必要だ、と考えた場合、本作の坂口憲二は大正解だと言えよう。
坂口は口を利かなければ、実直で素直、質実剛健という「機関車先生」のイメージを観客に伝える事が出来る素晴らしいキャスティングだと言えよう。
そして、主人公が喋らない分、脇に曲者が配されている。
吉岡先生の代弁者とも言える堺正章は枯れた演技を見せつつ、吉岡先生の心情を代弁する。
また「口が利けない先生を批判する」一派の代表である網元を伊武雅刀は楽しげに演じている。伊武は悪役でありながらコメディ・リリークを担当している訳なのだ。
余談だが、最近竹中直人のオーバーアクトに飽き飽きしてきたわたしが思うには、竹中が現在占めているコメディ・リリーフとしてのポストを伊武にシフトしていくのも面白いと思っている。
伊武は、渋い役からお笑いまでこなせる貴重な俳優だと思うのだ。
また女性陣も黙ってはいない。
やはり何と言っても倍賞美津子の存在感だが、島の実力者網元もタジタジと言った、島で最強の人物を演じている。
更に大塚寧々にしろ佐藤匡美にしろ、自分の役柄を自然な雰囲気で見事な演技を見せている、のではないだろうか。
これら俳優たちの細かな演技の積み重ねがリアリティを生むのである。
そして子供たちである。
勿論、若干卑怯な感は否めないが、わたし達観客は子供たちに見事にやられてしまうのである。
若干一名、子供としては年長の二世俳優が出ているが、その他の子供たちの演技は素晴らしいものがある。
美術は、ほぼオールロケの効果が抜群である。
学校はともかく、居酒屋や駄菓子屋、路傍の風情が素晴らしい。
脚本は、剣道の試合中の事故で声が出なくなり、教師をあきらめた吉岡先生が、新たな生きがいを見つけ、自分を取り戻す、という物語がメインになっているため、厳しい見方をすると、吉岡先生は自分の復活のために子供たちを利用している、というような印象をも受けるのだが、それだけでは無い何かが感じられる良い脚本に仕上がっている。
本作「機関車先生」は、残念ながら傑作とは言いきれないが、さわやかな感動を求める方には、この夏オススメの一本である。
2004/07/28 東京原宿 NHKホールで行われた『「LOVERS」ジャパン・プレミア』に行ってきた。
舞台挨拶は登場順で、監督:チャン・イーモウ、アクション監督:チン・シウトン、アンディ・ラウ、チャン・ツィイー、金城武、衣裳デザイン:ワダ・エミ、音楽:梅林茂、製作:ビル・コン。司会は襟川クロ。
西暦859年、唐代の中国。
朝廷は反乱勢力最大の一派で、民衆の支持をも集めている「飛刀門」撲滅を画策、一時は首領の暗殺に成功する。
しかし「飛刀門」は新しい首領をたて勢力の拡大を図っていた。
そんな中、朝廷は捕吏の瀏(リウ/アンディ・ラウ)と金(ジン/金城武)に「飛刀門」の新しい首領を10日以内に捕らえるよう厳命。
瀏は「飛刀門」の元首領の娘が盲目であることから、最近遊郭「牡丹坊」で評判を呼ぶ盲目の踊り子小妹(シャオメイ/チャン・ツィイー)が「飛刀門」の元首領の娘ではないかと疑い、「牡丹坊」に酔客になりすました金を潜入させる。
一時は目論見通り小妹を捕えるが、小妹の口が堅いと知った瀏は、金に小妹の脱獄を手助けさせる。
小妹に金を反乱戦士と信じ込ませ、「飛刀門」の新首領の元へ案内させるよう謀るのだったが・・・・。
本作「LOVERS」は、「HERO/英雄」に続くチャン・イーモウの中国歴史絵巻である。
「HERO/英雄」同様、悲劇をワイヤーアクションと美しい美術・衣裳で描く作風となっている。
「HERO/英雄」は秦の時代を舞台とした始皇帝の苦悩を描いていたが、本作「LOVERS」は唐の時代を舞台に、朝廷と朝廷に対峙する反乱一派「飛刀門」と言う大きなうねりに翻弄される三者三様の愛を描いている。
物語の最大のモチーフは「傾城・傾国の美女※」。
本作は、チャン・ツィイー演じる小妹を取り巻く、瀏(リウ/アンディ・ラウ)と金(ジン/金城武)の愚かさを見事に描いている。
しかしながら、「傾城・傾国の美女」を理解しないと、本作の脚本は一見つまらなく、前半から中盤はともかく後半からラストは退屈な映画に思えてしまうきらいがあるのだ。
事実、今回の『「LOVERS」ジャパン・プレミア』において、多くの観客が本作について否定的な感想を持っていたようである。
これの多くは、冒頭から中盤にかけては、脚本もアクションも大変素晴らしいのであるが、後半からラストにかけての瀏(リウ/アンディ・ラウ)と金(ジン/金城武)の莫迦さ加減はあきれてしまう、というところだろう。
勿論、それはチャン・イーモウの狙いなのだから仕方が無いのだが、一般の観客はそこまで読み取れずに、映画の表層を見て「LOVERS」は駄作だ、というレッテルを貼ってしまう可能性がある、と言えるのだ。
ところで美術や衣裳は大変良い仕事をしている。
「HERO/英雄」では物語の性格上、美術や衣裳はファンタジックで美しい反面、残念ながらリアリティが欠如していた。
しかし本作の美術は落ち着いた色彩で、しかも使い込まれた風情でしっかりとまとめられており、また衣裳については、色彩を含めてリアリティのある、重厚でかつ繊細なデザインにまとめられている。
音楽は、若干日本的なテイストが顔を出すが、概ね良かったのではないだろうか。
また撮影はスコープサイズを意識したレイアウトに、良い印象を受けた。
最近はビデオやDVD化を目論んだテレビサイズで見映えの良い画面レイアウトを撮る作家がいる中、劇場公開を大前提としたレイアウトには感激なのだ。
このスコープサイズを意識した点は、例えば「理由なき反抗」の冒頭シーンにも匹敵するような、金と瀏の冒頭のカットからして凄かった。勿論、小妹の舞のシークエンスも然りである。
チン・シウトン指導のアクション・シークエンスは、小妹の舞の部分、前半から中盤にかけて、金と小妹の逃亡のシークエンスでの追手との戦いが良かった反面、ラストの戦いはイマイチだった。
前作「HERO/英雄」はジェット・リーという素材が良かったせいか、本作のアクション・シークエンスは「HERO/英雄」レベルまでは達していない、というのが実情だろう。
また、アクション・シークエンスにおいて時々リアリティの欠如が垣間見えたのは残念である。一歩間違えば失笑寸前のシークエンスに肝を冷やした。
脚本は、前述のように「傾城・傾国の美女」というモチーフを実現する為に、一般の観客には受け入れられないようなものになってしまっているようだ。
勿論、チャン・イーモウとしては、確信犯的な脚本だと思うのだが、下手をすると一般の観客に「LOVERS」は駄作だ、というレッテルを貼られてしまう可能性があるだけに、また前半から中盤にかけての脚本もアクションも描写も素晴らしいので、非常に残念な思いがする。
もう少し、一般の観客に迎合した娯楽作品的な脚本でもよかったのでは無いだろうか。
言うならば本作「LOVERS」は、朝廷と「飛刀門」との対峙、という大きな、スケール感に富んだ舞台背景の中、三者が三様に織りなす小さなドラマにしか過ぎない、と思われがちな作品なのである。
また、「HERO/英雄」同様、「藪の中」的な脚本は本作にも生きているのだが、「藪の中」にまた「藪の中」がある脚本の構成はいかがなものだろうか。と思った。
キャストは、三者三様に素晴らしかった。
一度目は、金城武とチャン・ツィイーに目が行きがちだが、二度目はアンディ・ラウとチャン・ツィイーに焦点を絞って観ると、違った印象を受けるのではないか、と思った。
「LOVERS」の映画としての評価は分かれるところだが、アジアの才能が結集した本作は、是非劇場で観て欲しいのだ。
※ 「傾城・傾国の美女」
中国の故事「一顧傾人城、再顧傾人城」による、一度会えば城が傾き、再び会えば国が傾く程の美女のこと。
冒頭「牡丹坊」で小妹が舞を見せつつ唄った曲は「一顧傾人城、再顧傾人城」そのものである。
因みに、今回の『「LOVERS」ジャパン・プレミア』のチケットは、抽選で招待客に配付されたものなのだが、オークションでは(わたしが知る限り)最高24万円(2名分)で落札されていた。(次は15万6千円)
唐大中十三年,皇帝昏庸,朝廷腐敗,民間湧現不少反官府的組織,其中以飛刀門的勢力最大。飛刀門旗下高手如雲,
以「殺富濟貧、推翻朝廷」為旗號,甚得百姓擁戴。飛刀門總部設在靠近都城長安的奉天縣境?,因而直接威脅長安的安全。
朝廷深以為患,逐嚴令奉天縣加以剿滅。飛刀門?主柳雲飛雖在與奉天縣官兵的戰鬥中犧牲,但在新任?主領導之下,
飛刀門的勢頭不減反?。奉天縣兩大捕頭:劉捕頭(劉?華飾)、金捕頭(金城武飾)奉命於十日之?,
將飛刀門新任?主緝拿歸案。劉捕頭懷疑新店牡丹坊的舞伎小妹(章子怡飾)是飛刀門前?主柳雲飛的女兒,
逐用計將?拿下,押入天牢。二人並再度設下圈套:由金捕頭化名隨風大?,乘夜劫獄,救出小妹;藉此騙取小妹的信任,
?出飛刀門的?穴,以便一舉剿滅。
隨風依計救走小妹。逃亡路上,隨風對小妹呵護備致,小?不禁對他漸生情?;而隨風與小妹朝夕相對,
亦被?的出塵氣質深深吸引。星月之夜,二人終究按捺不住,狂烈戀火,眼看一發不可收拾…
林外,?風凜冽,隱隱殺機正悄悄地向他們進逼…
隨風、小妹,這對不應相愛、卻愛得熾熱的戀人,將面臨怎樣的命運?明明有愛,為何?心深處,總埋伏著深不可測的陰謀?
與及看不見的顫抖…
舞台挨拶は登場順で、監督:チャン・イーモウ、アクション監督:チン・シウトン、アンディ・ラウ、チャン・ツィイー、金城武、衣裳デザイン:ワダ・エミ、音楽:梅林茂、製作:ビル・コン。司会は襟川クロ。
西暦859年、唐代の中国。
朝廷は反乱勢力最大の一派で、民衆の支持をも集めている「飛刀門」撲滅を画策、一時は首領の暗殺に成功する。
しかし「飛刀門」は新しい首領をたて勢力の拡大を図っていた。
そんな中、朝廷は捕吏の瀏(リウ/アンディ・ラウ)と金(ジン/金城武)に「飛刀門」の新しい首領を10日以内に捕らえるよう厳命。
瀏は「飛刀門」の元首領の娘が盲目であることから、最近遊郭「牡丹坊」で評判を呼ぶ盲目の踊り子小妹(シャオメイ/チャン・ツィイー)が「飛刀門」の元首領の娘ではないかと疑い、「牡丹坊」に酔客になりすました金を潜入させる。
一時は目論見通り小妹を捕えるが、小妹の口が堅いと知った瀏は、金に小妹の脱獄を手助けさせる。
小妹に金を反乱戦士と信じ込ませ、「飛刀門」の新首領の元へ案内させるよう謀るのだったが・・・・。
本作「LOVERS」は、「HERO/英雄」に続くチャン・イーモウの中国歴史絵巻である。
「HERO/英雄」同様、悲劇をワイヤーアクションと美しい美術・衣裳で描く作風となっている。
「HERO/英雄」は秦の時代を舞台とした始皇帝の苦悩を描いていたが、本作「LOVERS」は唐の時代を舞台に、朝廷と朝廷に対峙する反乱一派「飛刀門」と言う大きなうねりに翻弄される三者三様の愛を描いている。
物語の最大のモチーフは「傾城・傾国の美女※」。
本作は、チャン・ツィイー演じる小妹を取り巻く、瀏(リウ/アンディ・ラウ)と金(ジン/金城武)の愚かさを見事に描いている。
しかしながら、「傾城・傾国の美女」を理解しないと、本作の脚本は一見つまらなく、前半から中盤はともかく後半からラストは退屈な映画に思えてしまうきらいがあるのだ。
事実、今回の『「LOVERS」ジャパン・プレミア』において、多くの観客が本作について否定的な感想を持っていたようである。
これの多くは、冒頭から中盤にかけては、脚本もアクションも大変素晴らしいのであるが、後半からラストにかけての瀏(リウ/アンディ・ラウ)と金(ジン/金城武)の莫迦さ加減はあきれてしまう、というところだろう。
勿論、それはチャン・イーモウの狙いなのだから仕方が無いのだが、一般の観客はそこまで読み取れずに、映画の表層を見て「LOVERS」は駄作だ、というレッテルを貼ってしまう可能性がある、と言えるのだ。
ところで美術や衣裳は大変良い仕事をしている。
「HERO/英雄」では物語の性格上、美術や衣裳はファンタジックで美しい反面、残念ながらリアリティが欠如していた。
しかし本作の美術は落ち着いた色彩で、しかも使い込まれた風情でしっかりとまとめられており、また衣裳については、色彩を含めてリアリティのある、重厚でかつ繊細なデザインにまとめられている。
音楽は、若干日本的なテイストが顔を出すが、概ね良かったのではないだろうか。
また撮影はスコープサイズを意識したレイアウトに、良い印象を受けた。
最近はビデオやDVD化を目論んだテレビサイズで見映えの良い画面レイアウトを撮る作家がいる中、劇場公開を大前提としたレイアウトには感激なのだ。
このスコープサイズを意識した点は、例えば「理由なき反抗」の冒頭シーンにも匹敵するような、金と瀏の冒頭のカットからして凄かった。勿論、小妹の舞のシークエンスも然りである。
チン・シウトン指導のアクション・シークエンスは、小妹の舞の部分、前半から中盤にかけて、金と小妹の逃亡のシークエンスでの追手との戦いが良かった反面、ラストの戦いはイマイチだった。
前作「HERO/英雄」はジェット・リーという素材が良かったせいか、本作のアクション・シークエンスは「HERO/英雄」レベルまでは達していない、というのが実情だろう。
また、アクション・シークエンスにおいて時々リアリティの欠如が垣間見えたのは残念である。一歩間違えば失笑寸前のシークエンスに肝を冷やした。
脚本は、前述のように「傾城・傾国の美女」というモチーフを実現する為に、一般の観客には受け入れられないようなものになってしまっているようだ。
勿論、チャン・イーモウとしては、確信犯的な脚本だと思うのだが、下手をすると一般の観客に「LOVERS」は駄作だ、というレッテルを貼られてしまう可能性があるだけに、また前半から中盤にかけての脚本もアクションも描写も素晴らしいので、非常に残念な思いがする。
もう少し、一般の観客に迎合した娯楽作品的な脚本でもよかったのでは無いだろうか。
言うならば本作「LOVERS」は、朝廷と「飛刀門」との対峙、という大きな、スケール感に富んだ舞台背景の中、三者が三様に織りなす小さなドラマにしか過ぎない、と思われがちな作品なのである。
また、「HERO/英雄」同様、「藪の中」的な脚本は本作にも生きているのだが、「藪の中」にまた「藪の中」がある脚本の構成はいかがなものだろうか。と思った。
キャストは、三者三様に素晴らしかった。
一度目は、金城武とチャン・ツィイーに目が行きがちだが、二度目はアンディ・ラウとチャン・ツィイーに焦点を絞って観ると、違った印象を受けるのではないか、と思った。
「LOVERS」の映画としての評価は分かれるところだが、アジアの才能が結集した本作は、是非劇場で観て欲しいのだ。
※ 「傾城・傾国の美女」
中国の故事「一顧傾人城、再顧傾人城」による、一度会えば城が傾き、再び会えば国が傾く程の美女のこと。
冒頭「牡丹坊」で小妹が舞を見せつつ唄った曲は「一顧傾人城、再顧傾人城」そのものである。
因みに、今回の『「LOVERS」ジャパン・プレミア』のチケットは、抽選で招待客に配付されたものなのだが、オークションでは(わたしが知る限り)最高24万円(2名分)で落札されていた。(次は15万6千円)
唐大中十三年,皇帝昏庸,朝廷腐敗,民間湧現不少反官府的組織,其中以飛刀門的勢力最大。飛刀門旗下高手如雲,
以「殺富濟貧、推翻朝廷」為旗號,甚得百姓擁戴。飛刀門總部設在靠近都城長安的奉天縣境?,因而直接威脅長安的安全。
朝廷深以為患,逐嚴令奉天縣加以剿滅。飛刀門?主柳雲飛雖在與奉天縣官兵的戰鬥中犧牲,但在新任?主領導之下,
飛刀門的勢頭不減反?。奉天縣兩大捕頭:劉捕頭(劉?華飾)、金捕頭(金城武飾)奉命於十日之?,
將飛刀門新任?主緝拿歸案。劉捕頭懷疑新店牡丹坊的舞伎小妹(章子怡飾)是飛刀門前?主柳雲飛的女兒,
逐用計將?拿下,押入天牢。二人並再度設下圈套:由金捕頭化名隨風大?,乘夜劫獄,救出小妹;藉此騙取小妹的信任,
?出飛刀門的?穴,以便一舉剿滅。
隨風依計救走小妹。逃亡路上,隨風對小妹呵護備致,小?不禁對他漸生情?;而隨風與小妹朝夕相對,
亦被?的出塵氣質深深吸引。星月之夜,二人終究按捺不住,狂烈戀火,眼看一發不可收拾…
林外,?風凜冽,隱隱殺機正悄悄地向他們進逼…
隨風、小妹,這對不應相愛、卻愛得熾熱的戀人,將面臨怎樣的命運?明明有愛,為何?心深處,總埋伏著深不可測的陰謀?
與及看不見的顫抖…