わたしの家系は雅な家系なので(嘘)、子どもの頃から「百人一首」を嗜んでいた。

と言うのも、わたしの母親が「百人一首」の結構な読み手だったので、わたしも子どもの頃からかるたを取るだけではなく、読み手もやっていた。

そんなわたしの家の「百人一首」の取り札は木製の札で、独特な書体の変体仮名で書かれた札だった。

調べてみると、どうやら「北海道地域限定かるた(小倉百人一首下の句かるた)」( http://www.nintendo.co.jp/n09/hyaku/kifuda/ )と言うものだったようである。

この「百人一首」の面白いところは、「競技かるた」と同様に競技性が高いことである。

そして、わたしが一番面白いと思ったのは、読み手の技術や癖により、前の句から次の句を読む際のイントネーションの流れだとか、ブレスで次の句を推測できる事であった。

尤も、「競技かるた」では、そのような事を読み手がしてはいけないと思うのだが、家族で「百人一首」をやる場合はその読み手の癖と言うか、イントネーションのゆらぎと言うか、ブレスとかの感じがとっても楽しかった。

また、木製の札を使うかるたである以上、ある程度危険な遊びでもあった。
事実、ガラスが割れたり、花瓶のようなものが壊れたりしたこともある。

そんな中で「ちはやふる」を観ている訳である。

物語は、小学校時代に「競技かるた」が縁で結ばれた仲間同士が、一度は離ればなれになるが、「競技かるた」で強くなれば、どこかできっと再会できると信じて「競技かるた」にのめり込んでいく物語である。(と思われる)

そして昨日の第七首「ひとこそみえねあきはきにけり」で、ひとつの感動の頂点をむかえた。

高校生になった千早と太一は、かるたを続けていれば、小学生時代に転校してしまった新とどこかで再会できると信じ、高校で競技かるた部を立ち上げるが、5名以上の部員がいなければ、正式な部活動として認められない、と言う状況におかれている。

そんな中、部員募集を続ける千早の目にとまったのは、学年一位の太一に次ぐ学年二位の勉。

勉は無理矢理競技かるた部に勧誘する千早に対し、競技かるた部に入らない理由を列挙するが千早は「やらない理由なんかどうでもいい!」と言い放ち、勉を無理矢理部室に連れてくる。

学年一位の太一が競技かるた部に所属している事を知った勉は、千早と太一に難題をふっかける。

「全ての取り札を記憶しているんだったら、取り札を裏返してかるたをやってみろ!」と。

いま、素晴らしい競技かるたの試合が始まる!
秋林さんのところ(http://akirine.diarynote.jp/)で紹介されていた「超時空要塞マクロス THE FIRST (1)」を読んだ。

近所の書店で買おうかと思っていたのだが、在庫がなく、結局はAmazon.co.jpで購入する事にした。
「超時空要塞マクロス THE FIRST (1)」だけだと送料の都合で高くつくので、欲しかった文庫本と雑誌を同時に購入した。

「超時空要塞マクロス」は結構思い入れのある作品で、秋林さんが仰るように、スコアの羽田健太郎には随分やられた。当時音楽をやっていた関係で、羽田のスコアには本当に楽しませていただいた。

そのスコアとあいまったオープニングには強烈な印象を受けたし、SFマインドをくすぐる物語には興奮したものであった。

本放送時は、日曜の昼間の放送だったので、外に出かけている時は、テレビを販売している電器店や量販店で見た記憶がある。
テレビ一台だけチャンネルを変えるのは恥ずかしいので、周辺のテレビ何台もチャンネルを変えていたら、わたしと同様の目的で電器屋に来ている人が何人もいたのを覚えている。

残念に思うのは、何といっても、主人公を演じた長谷有洋が亡くなってしまったことだと思う。

本書の物語自体はまだ序盤と言うか、まだ第1話(60分枠の)程度の部分なので何とも言えないが、板野サーカスをマンガで再現するのは若干の問題があるような印象を受けた。
コマの構成もちょっと微妙かな。
どこまで続くのかわからないが、フォローして行きたいと思う。
入院のお見舞いの差し入れは「本」にして下さい。とお願いしたら、手塚治虫の「MW/ムウ」が差し入れられた。コンビニで売られている全一冊版の映画タイアップ版。

「MW」は随分前に読んでいて、映画化が決まりキャストが発表された際、秋林さんと同様に玉木宏と山田孝之が・・・・、まさか完全再現か・・・・、と驚いたわたしでした。

が今日は映画ではなく原作の話です。

久しぶりに読んでみても、相変わらずの傑作で意欲作で問題作でした。

手塚治虫の本気振りがひしひしと感じられる超傑作でした。

作品としての完成度を考えると、多分、手塚治虫史上最高傑作だと言っても良いと思います。

その本気度は伴俊作以外のスター・システムを廃した作風にも感じられるし、アングルや複数の場面を同時に描く映画的手法の完成度にも舌を巻く思いです。

映画はともかく原作も是非読んでいただきたいと思います。
細田守の「時をかける少女」を観て以来、細田守の他の演出作品の中で評判の高い「どれみと魔女をやめた魔女」(「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」第40話)をみたいみたいと思っていたわたしだが、DVDをレンタルする習慣がないわたしだったので、1話のためにDVDを買うのもどうかと思ったり、動画共有サイトに出てると思うのだが、折角最初に見るんだから動画共有サイトのクオリティでは満足できないし、もし作品として良い作品だったら、最初に動画共有サイトで見た事を公開すると思うし、とか思っていたところ、わたしが契約しているCATVのビデオ・オン・デマンドに「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」のコンテンツがあったので見てみる事にした。1話168円だった。

なぜ、「どれみと魔女をやめた魔女」を見たいと思ったか、と言うと、まぁ「時をかける少女」の細田守の他の演出作品が見たいと思った上に、このエピソードのコンセプトに関心を持ったからである。

そのコンセプトとは、「どれみと魔女をやめた魔女」に登場する魔女をやめた魔女(役名:佐倉未来/声の出演:原田知世)を細田守は、(人間と比較して永遠に近い寿命を持つ魔女と言う設定上)、愛する人々が次々と死んでいく存在として描いていること、である。

また、本エピソードでは、魔法少女アニメでカテゴライズされていながら、魔法を一切使わないエピソードでもあることにも関心があった。

「おジャ魔女どれみ」シリーズについては、土曜か日曜の朝にやっていた頃に、たまたま5〜6話程見た事があるのだが、調べてみると、なんと4年間も続いた大ヒットテレビ・シリーズだったようである。

「おジャ魔女どれみ」シリーズについては、こちらを参照いただきたい。

「おジャ魔女どれみ」Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%B8%E3%83%A3%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%81%A9%E3%82%8C%E3%81%BF

■永遠の命

永遠の命を持つ存在を描いた物語の多くは、その永遠の命のメリット(プラス要因)を描く事が多いと思うのだが、本エピソードではそのデメリット(マイナス要因)が婉曲に描かれている。

つまり、永遠の命を持つ魔女を異形の者として捉え、その異形の者の悲哀をこのエピソードで描いているのだ。
言い換えるならば、本エピソードは、異形の者の悲哀を描いた秀逸なホラー作品としての側面をも持っている、と言う事である。

ここで描かれているのは、魔女をやめた魔女が自らの永遠に続く人生の中で知り合った数多の人々は、たかだか50年程しか同時期を過ごす事が出来ず、彼女が愛した人々はすぐに年老いてしまい、あたりまえのように天命を全うしてしまう。

永遠の命を持つ、と言う事は、愛する人々全てが死んでいくことを見続けなければならない、と言う事なのである。

魔法少女アニメでこのようなプロットを使った作品があったのかどうかは知らないが、わたしにとってこのようなコンセプトを魔法少女アニメと言うジャンルで描く事は大変衝撃的に感じられた。

ところで、似たようなコンセプトのプロットを利用して物語を構成した作品にアン・ライスの「ヴァンパイア・クロニクルズ」シリーズを思い出す。

永遠の命を持つヴァンパイアたちは、適当な墓石から得た人物の出生情報を利用しニセの出生証明書を作成、そのニセの出生証明書からパスポートを偽造する。
しかし、その人物もあまり永い間生きている訳にはいかないので、都合の良いところで死んだ事にして、再び新たな自分の身元を偽造し、自分の財産もなんとか自分に残そうと画策するのだ。

現在の社会の中で永遠の命を享受するためには、金と戸籍とパスポートが必要だと言う事をアン・ライスは描いている。

本エピソードの魔女をやめた魔女もあまり永い間同じところに在住し、いつまで経っても老化しない姿を他人に見せる訳にはいかないので、住む地域を次々に変える存在として描かれている。
魔法を使わない彼女は外国に行くためには当然ながらパスポートが必要な訳だから、戸籍がない彼女はおそらく偽造パスポートを使用していると思われるのだが、そんな背景すら感じさせる脚本にしびれてしまう。

リドリー・スコットの「ブレードランナー」では、寿命が短いレプリカントが写真(思い出)に固執する様が描かれているが、本エピソードでは、永遠の命を持つ魔女が写真(思い出)に固執する様が印象的に描かれている。

永遠に生きる魔女であるのに、1枚の写真に固執し、出会った1人ひとりの人間に固執していることを描く事により、彼女の悲哀が倍増されている訳だ。

■魔法を使わない魔法少女

ところで、みうらじゅんのエッセイに、雑誌か何かの企画で、ゲイのポルノ映画を観に行ってレポートするものがあり、その中でみうらじゅんは、面白いポルノと面白くないポルノの違いや、話はグダグダだが表現者の思いがフィルムに定着されているポルノとやっつけで製作された表現したいモノが見えないポルノの違い、そしてスピリッツのない表現者(クリエイター)に対する怒りを表明したエッセイがある。

例えば、ロマンポルノとかゲイのポルノとかは、劇場に行く客は(一般的に)誰もストーリーや演出を見に来ている訳ではなく、絡みを見に来ている訳で、ーもちろん、違った目的で来ている客はいるのだがー、逆説的に考えると、100分なら100分の中に時々絡みを入れておけば後は何をしても良い、と言う、クリエイターにとっては、凄い可能性を持ったカテゴリーだと言える。

そんな中、ポルノの世界から相米慎二が出てきたり、怪獣の世界から実相寺昭雄が出てきたりする訳である。

本作「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」は、所謂「魔法少女アニメ」である。「魔法少女アニメ」で魔法を使わないと言うのは、怪獣モノで怪獣が出てこなかったり、ヒーローモノでヒーローが変身しなかったり、刑事モノで事件が起きなかったりするのと同じことだと思う。

それは、作品としての存在理由に異を申し立てるアンチテーゼなのだ。

もちろん、そんなエピソードはごろごろ存在するのは知っているが、本エピソードの優れている点は、これから魔女になろうとしている魔女見習いに対し、アンチテーゼしている所が興味深い、つまりシリーズ全体に対し異を唱えているように見えるのだ。

これを思うと「ルパン三世」第2シリーズ最終回「さらば愛しきルパンよ」で宮崎駿が、赤いジャケットを着たニセルパン一味を登場させることにより、シリーズ全体に登場していた赤いジャケットを着たルパンは全てニセモノだったのだと思わせようとした事に匹敵するような凄いことだったのではないか、と思える。

■叙情的な描写

物語については、ネタバレになるので割愛するが、ワンカットワンカットが大変すばらしい。

微に入り細に入り演出され、作りこまれているアニメーションは非常に心地よい。

アニメーションの世界は、実写の世界と異なり、偶然の映像がない分当然ながら、演出家の力量がストレートに画面に出てしまう訳だ。

まぁ、ぐだぐだ書いているが、「どれみと魔女をやめた魔女」は絶対にオススメのエピソードだと思うので、機会があったら、是非見て欲しいと思うが、普通に考えて機会なんかやってこない。
自分で機会を作って見てください。と言うことですな。

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2008/01/14 テレビアニメーション「ヤッターマン」の放送が開始された。

先ずはコチラをご参照願いたい。

「ヤッターマン」と「ドラえもん」をめぐる冒険
http://diarynote.jp/d/29346/20071126.html

第一話を見る限り、作品としては厳しいと言わざるを得ない。
現代の視聴者は、このような作品をおもしろいと思うのか、甚だ疑問である。

リアルタイムに「ヤッターマン」を観ていた世代にとっては、ドクロベー様とか、ドロンジョ一味だとか、お約束だとか、ナレーションだとかにノスタルジックなものを感じるには感じるのだが、残念ながら親子そろって楽しめる、と言う作品にはなっていないようだ。

オープニングは、音屋吉右衛門(世良公則、野村義男)が担当すると言うことで、メディア的には話題にはなっているが、アレンジが圧倒的によろしくない。

そもそもタイムボカンシリーズのテーマは、山本正之の圧倒的な才能によるものが多く、山本節とも呼ばれる独特の楽曲スタイル(短調で軍歌調、擬声語や語呂合わせの歌詞、素人っぽいバックコーラス、こぶしのきいた歌声を特徴とする/ウィキペディアより引用)が楽しかったのだが、今回のテーマには失望させられた。

余談だが、ウィキペディアによると、こんなエピソードがあったらしい。

■「ヤッターマン」(リメイク版)主題歌のエピソード

原作と同じ「ヤッターマンの歌」が使用されることになったが、歌うことになったのは音屋吉右衛門(世良公則、野村義男)。原曲とは対照的に、薄い楽器編成のアレンジになった。この新しい主題歌制作の作業は、山本が参加しない中で進められた。既に仮録音が完了していた音源をニセの「主題歌歌唱アーティスト募集」告知が発表された翌日に聞かされた山本は、オケがほとんどギターのみであった上にボーカルがメロディーを踏み外していたことからデモテープであると思いこんでいたが、放送ではそれとほとんど変わらないものが使われたことで大きく落胆した。この新主題歌についてはインターネットで議論を大きく巻き起こした。(ウィキペディアより引用)

また、ヤッターマンサイドのキャラクター設定にも首を傾げざるを得ない。

特に、ガンちゃんのダメ男ぶりには、落胆させられる。

時代の要求があるのかも知れないのだが、果たして、ヒーローをダメ男に、そしてヒロインをそのダメ男をコントロールする立場に設定する必要があったのか、と思わざるを得ない。

声優陣については、ドクロベーさまから、ドロンジョ一味まではオリジナルの声優を起用しているのには、好感が持てる、と言うか、他のキャスティングでは、目も当てられない作品になってしまったのではないか、と思える。

また、山寺宏一の起用にも好感が持てる。
と言うのも、オリジナルでは山寺宏一が演じるナレーションやおだてブタは、今は亡き富山敬が演じていたのだが、当時の富山敬の地位を現在の山寺宏一が占めている、と言うことなのだろう。

余談だが、富山敬の当たり役:古代進(「宇宙戦艦ヤマト」シリーズ)を山寺宏一が演じている。(ゲームとか、パチンコとか、タイピングとか)

とかなんとか言いながらも、今後の方向性を見守るかも知れない・・・・。

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2008/01/14からアニメ「ヤッターマン」が始まるらしい。

最近、「ヤッターマン」の予告CF(CM)が流れているのだが、ちょっと気になることがある。

予告CF(CM)を見る限りだが、ドロンボー一味は旧作通り、
ドロンジョ(小原乃梨子)、
ボヤッキー(八奈見乗児)、
トンズラー(たてかべ和也)、
ドクロベー(滝口順平)
のキャストで制作されるようなのだ。

ここで気になるのは、「ドラえもん」の声優の総入換え事件である。

と言うのも、総入換え前の「ドラえもん」のキャストは、
ドラえもん(大山のぶ代)、
のび太(小原乃梨子)、
しずか(野村道子)、
ジャイアン(たてかべ和也)、
スネ夫(肝付兼太)
なのだ。

で、「ヤッターマン」と「ドラえもん」でダブっているキャストが小原乃梨子とたてかべ和也なのだ。

従って、「ドラえもん」で、ジャイアン(たてかべ和也)にいじめられるのび太(小原乃梨子)と言う構図は、「ヤッターマン」では逆転し、トンズラー(たてかべ和也)がドロンジョ様(小原乃梨子)にいじめられる、と言う構図に入れ替わっている訳です。

そこで気になるのが、小原乃梨子(ドロンジョ)とたてかべ和也(トンズラー)が、(おそらく)長期にわたるであろうテレビ・シリーズ「ヤッターマン」の主要キャストをつとめると言う事です。

つまり、「ドラえもん」の声優交代劇については、小原乃梨子とたてかべ和也サイドにはあまり大きな理由はなかったのではないか、と思える次第です。

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わたしは、オリジナルのアニメーション映画は比較的観る方だと思うのだが、アニメーションのテレビ・シリーズはほとんどと言って良いほど見ない。

そんな中、毎週毎週ほとんど欠かさず観ているアニメのテレビ・シリーズが「天元突破グレンラガン」である。

本作「天元突破グレンラガン」の説明は割愛するが、シリーズ事態は佳境に入り、最終話まで残すところあと数話、と言うところまですすんでいるようである。

何故、そんな中「天元突破グレンラガン」のお話をしているのか、と言うと、わたし的に強烈に印象に残っている点があるからである。

印象に残っている点とは、本作「天元突破グレンラガン」と言う作品は凡百のアニメ・テレビ・シリーズと異なり、シリーズ構成が驚くべきほどしっかりしており、無駄な、例えば息抜き的なエピソードが全く無い、と言うシリーズ構成を取っている。

更に印象深いのは、本作のシリーズ構成の肝(キモ)とも言うべきものなのだが、『複数のエピソードの骨子となるキャラクターに感情移入させ、今後に期待を持たせ、その視聴者の気持ちを裏切る』と言う構成で物語がすすんでいくシリーズ構成を取っているのだ。

これは非常に印象深い方法である。

文学で言うと、例えばアゴタ・クリストフの「悪童日記」シリーズや、音楽で言うと、YMOのオリジナル・アルバムなんかが思い出される。
その作品にファンがついたら、そのファンを裏切ることにより、文学や音楽が、新たな次元へ突入する、と言う構成である。

話は戻るが、本作「天元突破グレンラガン」のシリーズ構成は、過去のエピソードやファンの感情移入を裏切ることで物語を牽引する手法が取られ、それが非常に上手く機能していると言える。

おそらく本作をリアルタイムで見ている人は、「そんな莫迦な〜」と思う瞬間が最低2回くらいあったと思うのだが、そんなシリーズ構成が非常に心憎い。

その「そんな莫迦な〜」と言う出来事により、視聴者の関心は現在と未来に圧倒的な集中し、過去を裏切る構成のため、現在の時点で過去を振り返ること、特に過去のエピソードを振り返ることをさせない、と言うか過去のエピソードが陳腐化してしまうような印象を視聴者に与えてしまっている。

本作「天元突破グレンラガン」と言うシリーズは、リアルタイムで見ている視聴者にとっては、過去の時点でも圧倒的に面白いシリーズだったのだが、それ以上に現在のエピソードが、そしてすぐにやってくるであろう未来のエピソードが圧倒的に面白そうだ、と思わせることに成功しているのだ。

そんな期待が高まる中、本作「天元突破グレンラガン」は最終章に突入している訳なのだ。
  
 
あと、興味深いのは、オープニング・テーマ。
「空色デイズ」
(歌:中川翔子、作詞:meg rock、作曲・編曲:斎藤真也)

アニメーションのテレビ・シリーズでは、大人の事情でクール毎にオープニング・テーマの曲が変わる事が多々あるのだが、本作「天元突破グレンラガン」では本編中でとある事件が起きた後、オープニングが変更になっている。
しかし、テーマ曲が変わるのではなく、同じテーマ曲で、詩が1番から2番に変わったのである。

尤も、「空色デイズ」を全曲通して聴いた事がある訳ではないので、1番から2番に変わったと断言はできないのだが・・・・。

で、物語にそのテーマ曲「空色デイズ」の詩がマッチしているのに驚いてしまう。

当初から、シリーズの構成を考えた上で、「空色デイズ」の詩が考えられている、と言う事である。
つまり、「空色デイズ」と言う楽曲は、タイアップとか、話題性とかではなく、「天元突破グレンラガン」だけのために創作された楽曲なのだ。
 
 
ところで、余談だが、キャラクターの皆さんは胸に星(☆)をつけている。
新政府の階級毎に☆の数が違うのだが、興味深いのは、ブータにも☆がついている、と言う事。
ついでに、一番最初に☆がついたのは、ブータだったりする。

政府の人じゃないのに、ヨーコの新しいコスチュームにもふたつ☆がついているしね。

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2007/01/23にリリースされた北米版の「フリクリ」DVD-BOX("FLCL - Ultimate Edition DVD Collection")を注文していたのだが、本日2007/02/02に到着した。

「フリクリ」の国内版DVD-BOXはDVDが3枚で19,950円もするのだが、北米版はDVDが4枚で送料込みで$54.97だった。

1USドル=121円として6,651円である。
やっぱ、日本のDVDは高いな、と思ってしまう。

北米版はいろいろおまけもついてくるしね。
 
 
さて、「フリクリ」についてだが、この作品については以前から複数の人に薦められていたこともあり、いずれ見たいな、と思っていたのだが、国内版のDVD-BOXは高いし、DVDをレンタルする習慣もないので、どうしようかな、と思っていたのだが、今回北米版DVD-BOXが、本体価格$48.99でAmazon.comで予約販売されていたので、試しに買って見ることにした訳だ。

6,000円程度だったら、もしつまらなければ、どこかに売り飛ばせば良いや、と言う気持ちもあった。
 
 
現在のところ、第4話までしか見ていないのだが、描写もさることながら、脚本が非常に面白い。
練りに練られている(と思われる)脚本がカッチリときまっているのだ。

もちろんアニメーションが持つ、イマジネーションの爆発的な描写は、クリエイティブなココロを刺激してやまない。

第五話、第六話に乞ご期待なのだ。
オマケDVDもあるしね。

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