2004/05/24、東京有楽町よみうりホールで行われた「シルミド/SILMIDO」の試写会に行ってきた。

本作「シルミド/SILMIDO」は、韓国政府によって長年に亘って隠蔽されていた、韓国政府による北朝鮮金日成暗殺計画と、それを巡る特殊工作部隊の反乱事件(「シルミド事件」)を描いたアクション・サスペンスである。

1968年1月、北朝鮮特殊工作部隊による韓国大統領府襲撃未遂事件が発生。同年4月、韓国政府はその報復のため、シルミド(実尾島)に死刑囚ら31人を集め、極秘に金日成暗殺部隊の設立を目論んだ。
カン・インチャン(684部隊第3班長/ソル・ギョング)、ハン・サンピル(684部隊第1班長/チョン・ジェヨン)ら元死刑囚31人は、その時の年月から名付けられた684部隊の特殊工作員としてジェヒョン隊長(アン・ソンギ)、チョ2曹(ホ・ジュノ)の下、過酷な訓練を開始する。
3年後、優秀な工作員に仕立て上げられた彼らに、いよいよ実行命令が下される。しかし、政府の対北政策は決行目前になって大きく転換、北潜入へ向け行動を開始した部隊に急遽命令の撤回が告げられるのだったが・・・・。

本作「シルミド/SILMIDO」は、韓国本国では、1,200万人(2004年3月現在)以上という韓国映画史上最高動員記録を樹立した作品であると同時に、実際の事件である所謂「シルミド事件(金日成暗殺を目的とする特殊工作部隊の設置と、その部隊の抹殺指令の発令、部隊の反乱と粛清)」という韓国の近代史における恥部を映画化した、ある意味志の高い作品である。

もしかすると文化の違いからかも知れないが、韓国の皆さんのようにわたしは号泣することはなかったが、軍隊という階級社会の閉鎖された環境で、軍人として生きるのか、それとも本来の人間として生きるのかを、淡々とまたは壮絶に描いている。
また細かい泣かせどころもツボを押さえており、感動の社会派ドラマという見方も出来る作品である。

そして、その物語の描き方は、冒頭部分を684部隊内部の視点から描き、反乱直前までの部分を684部隊の教官側の視点から描いているのが興味深かった。
これにより、684部隊の隊員に厳しく接するジェヒョン隊長(アン・ソンギ)やチョ2曹(ホ・ジュノ)の、軍人として684部隊に接する厳しさと、人間として愛情を持って、自らの命の危機を顧みず684部隊員の事を考える姿の対比が、素晴らしい効果を醸し出している。

特に自分の力ではどうしようもない環境に置かれてしまった684部隊の教官たちの苦悩が悲しくも美しい。
繰り返しになるが、チョ2曹(ホ・ジュノ)の人間臭い生き様が泣ける。

物語の構成は、前半部分は訓練風景、後半部分は実戦ということで、ともすれば、スタンリー・キューブリックの「フルメタルジャケット」的な印象を受けたし、また、同様の観点からクリント・イーストウッドの「ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場」のような印象も受けた。

また、後半部分のバス・ジャック辺りは、クリント・イーストウッドの「ガントレット」を髣髴とさせるアクション・シークエンスが続く。

おそらく、日本国内では、いくら韓国映画ブームだとは言っても、客がたくさん入る映画ではないと思われるが、現在日本が抱えているアジアの外交・政治問題に遠からず関連がある題材を描いている作品なので、その辺りに関心がある方は是非劇場に足を運んでいただきたい。

☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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東京新橋「ヤクルトホール」で実施された「カレンダー・ガールズ」の試写会に行ってきた。

イギリス、ヨークシャー地方近郊の小さな町ネイプリー。
地元の主婦たちの社交の場はもっぱら地元の婦人会に限られていた。
クリス(ヘレン・ミレン)とアニー(ジュリー・ウォルターズ)もこの婦人会のメンバーだったが、あまりにも平凡すぎる退屈な婦人会に疑問を感じ始めていた。
そんな中、アニーの夫ジョン(ジョン・アルダートン)が白血病で亡くなってしまう。悲しみに暮れるアニーを励ます狙いからクリスは突拍子もないアイデアを口にする。
それはなんと、毎年恒例の婦人会のカレンダーを、自分たち自身をモデルにしたヌード・カレンダーにする、というものだった。
これは園芸の仕事に携わっていたジョンが生前語っていた言葉「草花の生育の過程は、全ての過程でそれぞれ美しいが、一番美しいのは成長しきったときである」に端を発する企画なのだ。
そして、その目的はジョンが生前世話になった地元の病院にやわらかい座り心地の良いソファーを寄附したいというもの。
最初は誰も相手にしなかったが、徐々に有志が集まり始め・・・・。

本作は、1999年、イギリスの小さな田舎町で世界初の「婦人会ヌード・カレンダー」が製作され、30万部を売上げ大きな話題となった実話を基にしたヒューマン・コメディ。

一言で言うと、多くの人、特に女性におすすめできる素晴らしいコメディ映画に仕上がっている。
そしてなにより、この映画のひとつのコンセプトとして「成熟した女性が一番美しい」という視点が込められいるのが大変興味深い。

しかしながら、一言でコメディ映画と言っても、これはイギリス映画、ハリウッド的なコメディのカテゴリーではくくれない、正に一筋縄では行かないイギリス製コメディ映画となっている。

特に印象的なのは、クリスやアニー等がヌード・カレンダーのモデルとしてメディアに大々的に取り上げられた挙句、周りの環境が一変してしまい、悪意や、一山あてようとする人々の大きなビジネスに巻き込まれていくあたりである。

その辺りの描写をエスカレート・ギャグの一種と捉え笑い飛ばすか、人間の富と名声に対する執着の醜さと捉えるかにより、本作は新たな一面を観客に見せることになる。

特に、ジョンの死後アニーが善意で行っている「ある事(ココでは書きませんが)」に対するクリスの辛辣な意見は、映画本編のテイストとかけ離れているが故に、観るものの奥底をえぐるような恐ろしくも素晴らしい効果を上げている。

また、彼女等を取り上げたインタビー番組で、その番組のホストから皮肉や当てこすり、女性蔑視的なジョークの種にされているにもかかわらず、放映されたその番組を見ながら爆笑する彼女等についても、楽しく見るか、悲しく見るかで、このシークエンスの印象は一変するのではなかろうか。
楽しい笑いなのか、自虐的な笑いなのか、ということである。

堅い事をいろいろ書いているが、そんな事を考えなくても、−−勿論その辺を考えた方が、映画自体は輝きを増すのだが、−−本作は大変素晴らしい誰にでもオススメできるイギリス製コメディ映画に仕上がっている。
是非皆さんに見ていただきたい映画の一本なのだ。

「トロイ」

2004年5月17日 映画
2004年5月17日(月)、日本武道館で行なわれた「トロイ」の「ジャパン・プレミア」に行って来た。

今回の試写会は一般の試写会ではなく「ジャパン・プレミア」と言うこともあり、レッド・カーペットあり、舞台挨拶ありの近年まれに見る盛大なイベントであった。
勿論、叶野姉妹を始めとしたマスコミ試写会常連の皆さんや話題の皆さんも招待されていた。

気になるゲストであるが、スタッフは、監督のウォルフガング・ペーターゼンをはじめとして、製作のダイアナ・ラスバン、脚本のデヴィッド・ベニオフ等が登場した。
キャストは、ブラット・ピット(アキレス)をはじめとして、エリック・バナ(ヘクトル)、ダイアン・クルーガー(ヘレン)、ローズ・バーン(ブリシィス)と凄いメンバーである。

席は全席指定だったのだが、連れが早くから(13:00頃から、連れの連れは8:00から)並んでいた関係で、中央部の前から6〜7列目位、という舞台挨拶的には最適のポジションだった。

わたしたちは、「トロイ」のバスから出てきたスタッフやキャストがレッド・カーペットを歩くのを少し眺めた後、会場入りし、会場内のスクリーンに投影されているスタッフやキャストがレッド・カーペット券を持っている観客に対しサインをしたり、マスコミに取材を受けたりしている外の生映像を眺めていた。

そのうち、スタッフ&キャストは、日本武道館の正面に「トロイ」の城壁を模して設営された門の前で、一言ずつ挨拶をし、会場入りした。

舞台挨拶は、人数が多かったせいか、またまた一言ずつであった。
こんなに盛大なイベントなのに、一言ずつしか喋らないとは驚きなのである。因みに通訳は戸田奈津子であり、お決まりのフォト・セッションでは司会を差し置き、スタッフ、キャスト、マスコミのカメラ・クルー等を掌握しコントロール下に置いていた。

紀元前12世紀。
エーゲ海における交易の中心地として繁栄を極める都市国家トロイ。
トロイが蓄えるその富は各国の標的となり、長年に渡って戦いが繰り返されていた。
しかし、ある時、トロイと敵対する強国スパルタの王メネラウス(ブレンダン・グリーソン)が和平を申し出た際、事もあろうかトロイの王子の弟パリス(オーランド・ブルーム)によってメネラウスの王妃ヘレン(ダイアン・クルーガー)が誘拐される事件が勃発する。
パリスとヘレンは一目会った瞬間互いに恋に落ち、もはやその熱情を抑えることは出来なくなっていたのだ。
しかし、王の権威を汚されたスパルタの指導者たちは、王妃を奪還するため無敵の戦士アキレス(ブラット・ピット)と千隻もの船団をトロイへ差し向けるのだった・・・・。

映画自体は、大変面白い娯楽作品に仕上がっている。
勿論、「ベン・ハー」や「十戒」、「スパルタカス」やなんかの往年の史劇ものと比較すると、残念ながら遜色する点があるが、ここしばらくの史劇系の作品の中ではスケールも大きく、大変面白い娯楽作品に仕上がっている。

とは言うものの、最近の史劇ものの作品では、リドリー・スコットの「グラディエーター」という傑作があるが、物語が波乱に満ち、見せ場のつるべ打ち、画面構成の巧みさ、キャストの豪華さ、重厚感という点で、「グラディエーター」に軍配が上がるのではないだろうか。

やはり本作「トロイ」は、年老いた世代の所謂スターが比較的少なく、重厚感にかけ、ともするとアイドル映画のような印象をも受けてしまう。
また、物語は大きなひとつのプロットに集約されてしまうため、史劇もののお約束の波乱に満ちたストーリー展開という訳にはいかない。
これは、最近話題の脚本家デヴィッド・ベニオフにしても大本のプロットの問題なので、仕方がないだろう。

そんななかでも、「トロイ」のプリアモス王を演じたピーター・オトゥールには感動ものである。「グラディエーター」のオリバー・リードやリチャード・ハリスには残念ながら及ばないが、素晴らしい存在感を感じる。
またスコアもピーター・オトゥールに対するオマージュか「アラビアのロレンス」を髣髴とさせるような旋律とアレンジが含まれたスコアがかかっていた。

キャストは、ブラット・ピットがいかにもというアキレス像を構築する一方、エリック・バナ(ヘクトル)やショーン・ビーン(オデュッセウス)が美味しいところを持っていってしまっている。
ブラット・ピットのギリシャ史劇に対する違和感が盛んに喧伝されていたが、そんなに気になる事はなかった。

ここ数年売り出し中のオーランド・ブルームは、「トロイ」のダメ王子プリスを良い意味で好演し、レゴラス役やウィル・ターナー役で集めたファンをもしかしたら逃してしまうかも知れないのだ。

女性陣は、オーランド・ブルーム(パリス)と恋に落ち、トロイ戦争のきっかけとなるダイアン・クルーガー(ヘレン)は勿論、アポロの神官で、アキレス役のブラット・ピットと絡むローズ・バーン(ブリシィス)が良かった。
「スパルタカス」におけるジーン・シモンズ的な印象を受けた。

ある意味、ローズ・バーンは、観客の視点・観点を代弁する役柄なのであり、置かれた環境にも屈せず、良識を持ちった孤高の役どころとなっている。

アクション・シークエンスは、冒頭のアキレスの戦いやアキレスとヘクトルの戦いが素晴らしかった。
勿論これは、「グラディエーター」と比較されると思うのだが、余裕のあるアキレスが抑えて軽く走るあたりが良かったし、冒頭の一撃も美しい。

しかし、群集による戦闘は特に新しいものを感じなかった。
やはり「指輪物語」以降、あまり驚かされる事がなくなってしまったのではないだろうか。

美術は、なんといっても、「トロイ」の城壁と作戦室(?)だろう。作戦室(?)中央の水盤(?)が美しい。
また帆船も良いのだが、やはり「ベン・ハー」のガレー船と比較するとちとさびしい感がある。
トロイの木馬は思ったより雑だったが、材料を帆船に求めるあたりはリアリティを感じた。

しかし帆船繋がりで、1000隻の帆船で押し寄せる映像はやりすぎの感を受ける。

結論は、映画を普段見ない人にはおすすめの1年に1本の大作映画かと思う。
年に数十本も数百本も映画を見ている人には、それほど勧める訳ではないが、すすめなくともおさえで観ておくべき作品だと思う。

また、これを機に往年の史劇ものを見直してみるのも楽しいと思うのだ。

「CASSHERN」 その2

2004年5月16日 映画
さて、先日に引き続き「CASSHERN」のお話です。

監督の紀里谷和明のキャリアを前提として「CASSHERN」を考えてみた場合、「CASSHERN」との類似性が高いのは、プレイステーション2用ゲーム「鉄騎」のCFだろうと思われます。

双方の作品には、美術や色彩の方向性、画面に幾何学図形が表示され、登場人物が叫ぶ、という共通点があります。

勿論、音質周りの色彩が比較的豊かな部分は、宇多田ヒカルのPV作品との共通点を見ることが出来ます。

このあたりの演出手法に疑問を感じる点のひとつは、主人公同士の眼が合った際、目から火花(円形の図形)が出、画面中央付近でぶつかり画面周辺にその円形の図形が散る、というエフェクトが表面的に(二次元的に)挿入される。
同様に本編では、幾何学図形が表面的に表示される事が何度も出て来ている。

先日お話した「新世紀エヴァンゲリオン」との関係か、本作「CASSHERN」では、カバラの「生命の木」の円形の図形(セフィロト)らしきものが画面を飛びかう姿が観測できる。

しかし、その幾何学図形の演出意図が明確ではない、というか作品のスタンスと同化していないような違和感を感じるのである。

また色彩を押さえ、明度を調整し、ハレーション気味の映像を使用したり、画面の粒子を粗くしたりしているのだが、これも演出意図が明確ではない。

ビジュアル・コンセプトは模倣や他の作品からの影響は見え隠れするが、独自の世界観を構築しているだけに、不必要なエフェクトをかけることに残念な思いがする。

また、本作はアクション映画というカテゴリーに含まれる訳だが、そのアクションの殺陣が上手くない。
それを誤魔化すためか、アクションが見切れない程カメラは被写体により、また視認出来ないほどの細かいカットの羅列でアクション・シークエンスが展開するのである。

ジェット・リーを主演にした「キス・オブ・ザ・ドラゴン」では、アクションが出来る俳優を起用しながら、アクションが出来ない俳優を起用した場合のように、カメラは被写体に寄り、アクションが見切れない、という問題点があったが、本作はアクションが出来ない俳優を起用し、映像構成や編集で、アクションを誤魔化し誤魔化し見せているのである。

特にラスト近辺の「止め絵」を利用した「ショットガン撮影」風の映像にはガッカリしてしまう。
演出意図はともかく、この手法は自主制作レベルである。

ちょっと観点が違いますが、気になったのは、何度か出てくる回想を表現するカットであるが、これが直接的でわかり易す過ぎ、というか、観客の想像力を信頼していない、というか、行間の描写の必要性と効果を製作者が理解していない、というような印象を受けました。

意味があるなしは別として、映像から得られる情報量は本作「CASSHERN」では高めに設定されているのだが、こういった作品は、製作者サイドの編集作業中は、映像をコマ単位(24フレーム/秒)で確認することが出来る訳だが、実際劇場で本作を観た一般の観客達はコマ単位の映像を視認することは出来ないのである。

否定的な意見をつらつらと書いてきたが、勿論評価できる点もある。

劇場映画第一作とは言え、脚本に関する問題点はあるものの、きちんとライブ・アクションの演出が出来ている、という点です。
これはキャストが自らの与えられた役柄を頑張って演じている、という感もありますが、好意的に考えると監督がきちんと俳優を演出している、ということにもなります。

あとは脚本のラスト近辺の東博士(寺尾聰)と東鉄也(伊勢谷友介)の、東ミドリ(樋口可南子)と上月ルナ(麻生久美子)を挟んだ対話が良かった。
特に東博士(寺尾聰)のラストのセリフが素晴らしい。

またキャストとしては、なんと言っても、及川光博(内藤薫役)だろう。

というか、俳優は若手はともなく、概ね良い仕事をしていると思うのだ。

また、主人公東鉄也(伊勢谷友介)のキャラクターであるが、彼は「都合の悪い部分から逃げるキャラクター」として描かれている。
冒頭の戦場シーン、「僕は戻りたくない」という復活のシークエンス、「この町を救えるか」という問いかけに対する最終的な回答。
そしてこの東鉄也というキャラクターは、「何も出来ないヒーロー」として描かれている感もあります。

また、寺尾聰演じる東博士は、自らの関心事以外には関心を払わない、ステレオタイプ的な科学者として描かれています。

これがラストの名台詞を産んでいるのでしょうかね。

支離滅裂になってきましたね。

「鉄騎」
http://www3.capcom.co.jp/tekki/tk/index.html

「CASSHERN」その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040514.html

「CASSHERN」

2004年5月14日 映画
宇多田ヒカルの夫紀里谷和明の初監督作品「CASSHERN(キャシャーン)」を観た。

もしかすると、「宇多田ヒカルの夫」という枕詞が全てを語っているかも知れないと思っていたのだが、残念ながらその通りの作品であった。

いきなり余談だが、本作「CASSHERN」が置かれている状況を考えてみよう。

現在、アニメーション以外の日本映画を劇場で見ようとした場合、多くの人の選択肢は、「世界の中心で、愛をさけぶ」と「CASSHERN」の2本であろう。
あとは意表をついて第3の選択肢として「死に花」位だろうか。

ところで、各メディアの「CASSHERN」のプロモーションは、年に何十本も映画を観る映画ファンではなく、年に数本しか映画を観ない層に向かっているような気がするのである。

そして、メディアは「宇多田ヒカルの夫」と枕詞を付けて紀里谷和明を紹介し、日本のプロモーション・ビデオ界では紀里谷和明は屈指の才能の持ち主だとあおり、観客を呼んでいるきらいがあるのだ。

これは、日本映画界だけの問題ではないが、話題性に群がる利害が絡んだメディアが持つ悪い癖ではなかろうか。

事実、以前紹介した「犬と歩けば チロリとタムラ」のような良質な作品(説教臭いし、教育映画的だし、稚拙な部分もあるが)が半年以上の間、配給会社が決まらず、あわや「お蔵入り」というような状況に追いやられてしまう事実がある一方、「宇多田ヒカルの夫」という「話題性」だけで、スポンサーが続々と名乗りを上げ、大作映画が製作、公開され、メディアはこぞって作品とクリエイターの才能を誉めそやし、公開まで延長されてしまっているのだ。

そして、そんなメディアが劇場に呼んだ観客は、年に1本の日本映画として、言い換えるならば、日本映画の代表として「CASSHERN」を観る事になるのだ。
そんな観客は「CASSHERN」を観て一体どう感じるのだろう。
日本映画の新たな才能に希望を見出すのだろうか、それとも紀里谷和明にではなく日本映画に失望するのだろうか。

まあそんな環境の中で「CASSHERN」を観た訳です。

まず、第一印象としては、脚本がひどい、ということです。
映画で重要なのは、手法ではなく、語るべき物語だ、と言う事です。

ひどい部分は沢山あるのですが、わたしが個人的に最悪だと感じたのは、戦いの途中、主人公が自分は「CASSHERN」だ、と名乗る部分です。
物語上では、戦いの前に双方がそれぞれ名乗りをあげるのは、ある意味この映画のひとつの見せ場であり、観客は単純に「格好良いな」と思う部分だと思いますし、「格好良いな」と思わせるように演出されています。

しかし、この物語世界では、『昔「CASSHERN」という神が降臨し民を救った』という伝説がある訳です。
主人公はその伝説を聞いた上で、自分が「CASSHERN」であると名乗る(騙ると言ってもいいでしょう)のです。
自らの事を、最近たまたま生まれ変わったばかりなのに、救世主や神であると騙る、という神経を持った主人公を描写する脚本に驚愕というかあきれてしまいます。

一般的には、戦いが終わり、民衆が喜び、彼は「CASSHERN」だったんだ。と民衆が自然発生的に理解し、ベタですが「キャシャーン・コール」が巻き起こるところを主人公が去っていく的な描写の方が良いのではないでしょうか。
または、「悪魔め!お前のせいだ」とか言われて、民衆に追われるとか。

更に紀里谷和明は、自ら庵野秀明のファンだと自称し、「新世紀エヴァンゲリオン」が好きだと言うのは構わないとしても、「新造人間キャシャーン」を映画化していたら、「新世紀エヴァンゲリオン」が出来ちゃいました、みたいな脚本と描写にはあきれてしまいます。

あとは作品のテーマだとか、監督が言いたい事を、登場人物のセリフで直接的に表現しているのはどうでしょうか。
この脚本には観客が遊ぶべき「行間」も無いし、観客の想像する楽しみを与える婉曲な表現もありません。
あるのは、全て直接的な表現で語ってしまう、舞台劇の独白にも似た構成を持っている脚本なのです。
映像作家だとしたら、セリフではなく映像や描写で語って欲しい
と思うのだ。

つづく・・・・かも。
先日お話したように、
2004/05/01映画の日に
「キル・ビル Vol.2」と
「スクール・オブ・ロック」を観た。

で、今日はというと「キル・ビル Vol.2」のお話です。
 
  

「キル・ビル Vol.1」のわたしの評価は、

1.構図や音楽、演出は評価できるが、脚本が単調でつまらない。
2.一部のアクションが冗長で退屈である。

という感じである。
総合的には、「キル・ビル Vol.1」公開当時同様、

『「キル・ビル Vol.2」が公開されていない今、わたしに言えるのは、態度保留ということである。』

というものである。

従って、「キル・ビル Vol.2」で、なんとか脚本の冴えを見せて欲しい。という気持ちでわたしは「キル・ビル Vol.2」を観た訳である。

個人的な第一印象的感想としては、『大変素晴らしい娯楽作品に仕上がっている。』というものである。

わたし達のような従来からのクエンティン・タランティーノ映画ファンの多くは、彼が書く脚本の、伏線やプロット、ディテール、そしてなんと言っても脚本の妙、脚本の冴えを求めているのであろう。

「キル・ビル Vol.1」は、残念ながら脚本ではなく、アクションで物語を紡ぐ、と言った手法をとっていたため、従来のタランティーノ映画ファンに取っては、決して満足の行く作品でなかったと思うのだ。

そして、映画秘宝的、東京ファンタ系ファンを集め、本来のタランティーノ作品の方向性と異なるベクトルを持った「キル・ビル Vol.1」に群がり、スノッブなにわかタランティーノ映画ファンを増やすにいたったのである。

一方「キル・ビル Vol.2」は、脚本が従来のタランティーノ作品のレベルまで達しており、そのため「キル・ビル Vol.1」と「キル・ビル Vol.2」を並べて観た際、物語のストーリー・ラインは充分評価できるもの、となっている。
そう考えた場合、退屈で脚本にひねりの無いつまらない映画「キル・ビル Vol.1」でさえ、映画的記憶のためか、素晴らしい映画に見えてくる。という機能を持っているのである。

わたしが考える「キル・ビル Vol.1」におけるつまらないシークエンスは、
1.オキナワの漫才
2.クレイジー88の退屈で冗長な殺陣
である。

オキナワの漫才は、ユーモアではなく、笑えないコメディのテイストであり、見るに耐えない。
また、クレイジー88の殺陣はユエン・ウーピンの指導とも思えないお粗末なものであった。

しかし本作「キル・ビル Vol.2」は、そういったテイストは皆無で、「キル・ビル Vol.1」のオキナワ以前のテイストを拡大したような印象を受けた。

つまり、「キル・ビル Vol.1」の評価できる部分を拡大したような作品に仕上がっている。ということである。

で、「キル・ビル Vol.2」だが、

先ず、プロットが素晴らしい。
「キル・ビル Vol.1」で棚上げされた幾つかの謎が基本的には全て解明され、脚本的にキッチリした作品に仕上がっている。
また、脚本は最早セリフ・バトルの様相を呈しており、ザ・ブライドとバド、エル、ビル等との、アクションではなく、セリフで戦う様が評価できる。

プロットと言うか伏線で興味深かった点をいくつかあげると、

ザ・ブライドの娘(B.B.)の登場シークエンスでの銃撃戦での娘のセリフ「バン!バン!」が、「キル・ビル Vol.1」のオープニング・クレジットに繋がるところが感動的である。
B.B.という名前は「Ban!Ban!」かな、とさえ思ったりする。
または、二親の名前から来ているのかも、と思ったりもする。

また、生き埋め状態からの脱出シークエンスの方法(ワン・インチ・パンチ/ワン・インチ・ブロー)も伏線として面白い。

パイ・メイには、ビル、ザ・ブライド、エルが師事していた点も面白いし、エルの眼帯の謎や、「キル・ビル Vol.1」の目玉を刳り貫くシークエンスもこれはパイ・メイの指導があった事が暗示されている。
エンディング・クレジット後のおまけ映像にも収録されているし。

バドが半蔵の日本刀を質屋に売った話も良いし、バドのザ・ブライドに対する騙し討ちのショット・ガンも良い。音楽を再開させるところが、バドと言うより、マイケル・マドセンらしい印象を受ける。
そしてバド発案のザ・ブライドの生き埋めや、そこからの脱出シークエンスも良い。(前述のワン・インチ・パンチ/ワン・インチ・ブロー)

また、演出や手法について、面白い点をあげると、

パイ・メイのシークエンスでのフィルムの粒子の粗さや、急なズーム・イン、ズーム・アウト、それにピンボケを重ねるあたりも香港テイストで面白い。

生き埋めシークエンスは観ている方も呼吸困難になってしまうほど、凄まじい効果を観客に与える事に成功している。

ビル邸に向かうザ・ブライドがロング・スカートをはいているのは謎だが、なんとも印象的である。

そしてビル、ザ・ブライド、B.B.の対面シーンが素晴らしい。
涙すら出てしまうほどの感動の再会なのだ。
さらに、ビルのB.B.への生と死の教育手法もタランティーノ節全開の素晴らしいものだった。(金魚の死)

また、ビルとザ・ブライドとの座ったままの殺陣もちょっと短いが興味深い。殺陣の中では、特に日本刀の鞘を使った点が素晴らしい。

長くなったし、まとまりが全く無いので、この辺でやめておきますが、もしかしたら、つづくかも。

「キル・ビル Vol.1」
http://diarynote.jp/d/29346/20031028.html
不運な映画「キル・ビル Vol.1」
http://diarynote.jp/d/29346/20031029.html
ここがダメだよ『キル・ビル Vol.1』
http://diarynote.jp/d/29346/20031114.html
2004/05/01は「映画の日」だった。
という訳で「キル・ビルVol.2」と「スクール・オブ・ロック」を観た。

で今日は話題の「スクール・オブ・ロック」のお話。

ロック魂を全身で体現するギタリスト、デューイ・フィン(ジャック・ブラック)。
しかし、スデージ上でのそのあまりの破天荒ぶりがアダとなり、バンド・バトルを目前にして、自分が作ったバンド(ノー・ヴァカンシー)のメンバーからクビを宣告されてしまう。
ついでに、家賃滞納のため、居候している親友ネッド(マイク・ホワイト)のアパートからも退去勧告をされてしまった。

そんな中、ネッドのアパートに名門私立小学校ホレス・グリーン学院から臨時教師の話が舞い込む。電話に出たデューイはお金欲しさからネッドになりすまし臨時教師の職に就いてしまう。

その小学校はマリンズ校長(ジョーン・キューザック)のもと、厳しい管理教育がなされ、従順な生徒たちにはまるで覇気も個性も感じられなかったが、まともに授業する気もないデューイにとってそれはどうでもいいことだった。

しかし、生徒たちの音楽の授業を垣間見、自分の生徒たちが音楽の才能にあふれていると知ったデューイには、とんでもないアイデアが浮かぶのであった・・・・。

本作「スクール・オブ・ロック」は、一言で言うと、一般の映画ファンはもとより、音楽好き、ロック好きに特に自信を持っておすすめできる大変素晴らしいコメディ映画である。

キャストはなんと言っても、「愛しのローズマリー」、「ハイ・フィデリティ」などで最近話題のジャック・ブラック(デューイ・フィン役)のロック魂をアピールする怪演振りが素晴らしい。
そのキャラクター造型の根底には、勿論ロックを含めた全ての音楽に対する愛情に満ちているのだ。
冒頭のステージ・アクトから、ロック魂全開で、中盤のロック教師としての生徒たちとの絆作り、そしてラストのバンド・バトルまで、全てが楽しいのだ。

一方、本作の脚本家でもあるマイク・ホワイト(ネッド役)の優柔不断振りも、相対的にジャック・ブラックの演技を際立たせている。
かつて、パンク・ロックに明け暮れていたが、現在は更正(?)し、夢を諦めた青年を好演している。
そしてマイク・ホワイトが演じる、バンド・バトルからエンディングに向けての心の動きが、実は夢を諦めてサラリーマン生活をしている多くの一般観客の羨望を体現する仕組みになっているのだ。

また、マリンズ校長を演じるジョーン・キューザックは、舞台女優としてのキャリアと「サタデー・ナイト・ライブ」からはじまるコメディエンヌとしてのキャリアを持つ才媛である。
ロックを愛しているりだが、その気持ちを押さえ、名門小学校の理想的で厳格な校長役を演じる、という複雑なキャラクターを見事に演じている。
コメディエンヌとしての役柄を振られているため、一見するとベタなキャラクター設定のような印象を受けるが、それは仕方ないことであろう。

ロック・バンド「スクール・オブ・ロック」のメンバーは、実際に音楽的素養のある子供たちを対象としたオーディションで発掘された子供たちである。
一見すると、ありがちなハリウッド的子役(インタビューすると妙に大人びた語りを持つ子供たち)と、リアリティを持った一般の小学生ぽい子役がチームを組んだような構成になっている。
とは言うものの、本作では一般的なハリウッド子役ではなく、本当に普通の小学生たちが演じているような、ドキュメンタリー作品的な印象を受ける。
個々の子役俳優達についてのコメントは割愛するが、全ての子役たちは良い仕事をしている。

物語の根本は、語弊があるが「社会に適応できないロック・バカが、学校や生徒たちを騙して、自分のために子供たちを利用しバンド・バトルに出場する。」というものである。

従って、本作には、厳しく言うと、ジャック・ブラック演じるデューイ・フィンの「人を騙して自分のために利用する」というモラル的問題があるのは否めない事実である。
この点について観客のモラル感が許容できるかどうか、という点にこの映画を楽しめるかどうか、がかかっているのではないだろうか。

この辺については、「ライフ・イズ・ビューティフル」の嘘にも通じる部分があるかもしれない。
その「悲しい嘘」を考えつつ本作「スクール・オブ・ロック」を観るのも興味深いと思う。コメディが一見、子供たちに取って悲しい物語に見えてくるのである。
しかし、現在の子供たちは、そんな環境でも逞しく育っていくのである。

余談だが、エンド・クレジットのライヴ・シークエンスは、オリヴァー・ストーンの「ドアーズ」のエンド・クレジットのレコーディング風景にダブり、面白い効果を映画に与えている。

今年のゴールデン・ウイーク映画は音楽映画が多いのだ。わたしが観ただけでも、
1.「フォーチュン・クッキー」
2.「スクール・オブ・ロック」
3.「永遠のモータウン」
と三本もある。(おすすめ度順)
音楽ファンとしては、嬉しい限りである。

「家族ゲーム」

2004年4月5日 映画
東京有楽町「日劇2」で開催されている、『「キネマ旬報」創刊85周年記念 ATG映画傑作選 −日劇文化とATG映画の時代−』という企画上映会の初日、森田芳光監督作品「家族ゲーム」を観た。

松田優作主演作品「家族ゲーム」は、わたしの生涯の中で、おそらく数十回は観ている作品であるから、今更語る言葉は無い。

だとすると、何故今更「家族ゲーム」を観たのか、という疑問が出てくるのは当然科と思うが、その回答はなんと言っても「家族ゲーム」を劇場のスクリーンで観ることが出来るから、の一点に尽きる。

そんなわたしは学生時代、ATG(「日本アート・シアター・ギルド」)作品を好んでたびたび観ていた。
そう、わたしは前衛的なATG作品を好み、ATG作品を理解したように語り、ATG映画を持ち上げ、所謂商業映画を否定するスノッブな映画ファンだったのである。

本作「家族ゲーム」は、「の・ようなもの」で商業映画デビューを飾った森田芳光の意欲作で、今後のキャリアの第一歩を飾る素晴らしい傑作である。

主演は当時、押しも押されぬアクション・スターとして鳴らしていた松田優作。
松田優作にとっても、本作はその後の文芸系キャリアの第一歩を記す重要な意味を持った作品となるのだ。
因みに森田芳光・松田優作コンビは後年「それから」で再び手を組むことになる。

「それから」で松田優作と対峙するのは、同じく森田芳光製作総指揮の「バカヤロー! 私、怒ってます」や森田芳光監督作品「そろばんずく」で強烈な演技を見せた小林薫。
現在の小林薫のキャリアを形作ったのも森田芳光関係の作品なのだ。
因みに、その「バカヤロー! 私、怒ってます」では、「下妻物語」の中島哲也や「トリック」等の堤幸彦もメガホンをとっている。

先日「下妻物語」の完成披露試写会の話をしたが、わたしは松田優作監督作品「ア・ホーマンス」の完成披露試写会にも行った事があるのを思い出す。
「ア・ホーマンス」という映画製作の経緯や評価はともかく、松田優作と石橋凌らの舞台挨拶は往年の松田優作ファンとしては大変感激した記憶がある。
「ア・ホーマンス」という作品は、当時ARBのバンド活動から俳優への転身を促す作品となっているのも興味深い。
試写会のスポンサーは、当時松田優作がイメージ・キャラクターをしていた飲料メーカーだった。

試写会の土産に貰ったトマト・ジュースは、その日のうちにブラディ・マリーに化けた。

ところで、今回の企画上映のラインナップは次の通り。

「家族ゲーム」
「肉弾」
「股旅」
「祭の準備」
「竜馬暗殺」
「ガキ帝国」
「田園に死す」
「津軽じょんがら節」
「TATTOO(刺青)あり」
「転校生」
「書を捨てよ町へ出よう」
「Keiko」
「お葬式」
「さらば箱舟」
「サード」

「下妻物語」

2004年4月2日 映画
2004/04/01 東京有楽町「日劇2」で行なわれた「下妻物語」の完成披露試写会に行ってきた。

今回の試写は、完成披露ということもあり、監督の中島哲也、主演の深田恭子、土屋アンナの舞台挨拶があった。司会は茨城県出身のTBSアナウンサー斎藤哲也。

完成披露ということであるから、今回の上映はもしかすると、所謂ワールド・プレミアなのかも知れない。

ロリータ・ファッション命の自己中心的マイペース少女桃子(深田恭子)は、自分が愛するブランド・ショップで買物をするため、茨城県下妻から東京代官山まで片道3時間をかけ、頻繁に通っている。
桃子はその大好きなブランドの洋服を買うため、父親が製作した某海外ブランドのコピー商品の販売に手を染めはじめる。
そんなコピー商品を大喜びで買いに来たのは、特攻服姿で原チャリを駆るヤンキー娘イチゴ(土屋アンナ)。
友達になるなんてありえない二人が出会ってしまい・・・・。

監督は、サッポロ黒ラベルのCF(卓球編)やNTT東日本のCF(SMAP出演の「ガッチャマン」編)等を手がけた中島哲也。

本作はCF界で評価されている監督らしく、構図や演出、レンズに色彩、アニメーションや8mmフィルム、誇張された動き等メディア・ミックス的な手法が渾然一体となっている素晴らしい構成になっている。
方向的にはクエンティン・タランティーノの「キル・ビル」的な印象を受けるかもしれないが、洗練の度合いは本作が上かもしれない。

CF上がりということもあり、一般の映画と比較すると、ワンカット、ワンカットの重みを感じる、細かいところまで丁寧に作りこまれた画面が心地よい。
背景やプロップ、美術や勿論俳優の演技に至るまで、カッチリ決まった画面が素晴らしい。
コメディに対する真摯な態度に好感をおぼえる。

物語は、ほぼ全編桃子(深田恭子)のナレーションで進むことになるのだが、その緩急(ボケとツッコミ)を使い分けた小気味良いナレーションが素晴らしい。特に間が素晴らしい。
そんなナレーション以外でも、俳優達が直接カメラ目線で観客に語りかけるあたりも、手法にありがちな違和感や嫌味が全く無く、観客には登場人物との共感と感情移入の度合いを高める、という良い印象を感じる。

キャスト的には、先ず深田恭子であるが、深田恭子とロリータ・ファッションの取り合わせは違和感が無く、というよりイメージぴったりの印象を受ける。
演技的には、従来のドラマや映画と比較すると、一皮向けた新境地を見せてくれている。
アイドルではなく、今後の女優としての成長が楽しみな感じがする。
彼女のひとつの転機となる作品なのかもしれない。

ほぼ演技初体験の土屋アンナは、はっきり言って素晴らしい。
深田恭子を喰ってしまっている。
勿論茨城下妻の地元のレディースの役ということもあり、極端なキャラクターであり、テンションをあげていればそれっぽく見える訳であるが、それにしても素晴らしい存在感があり、今後の成長が楽しみな印象を受けた。

作品自体は、丁寧に作られた良心的な作品であるので、きちんとプロモーションを行って、是非ヒットさせていただきたい、良い映画である。

余談だが、本作からはスタンリー・キューブリックへのオマージュがチラチラと感じられる。

☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
 
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「イノセンス」

2004年3月19日 映画
1995年の「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」の続編であり、日本が世界に誇る極東のクリエイター押井守の新作「イノセンス」を観た。

先ず、最初から否定的意見で恐縮だが、残念に感じたのは、世界観はともかく、物語の根底にあるのが、平凡なハードボイルドである。ということ。

本作「イノセンス」をハードボイルドだと言い切った場合、世界観をあわせて考えると、やはりなんと言ってもリドリー・スコットの「ブレードランナー」との類似性は否めないであろう。
かつての「ブレードランナー」のデッカードがそうであったように、本作「イノセンス」のバトーは、古きよき時代のハンフリー・ボガートそのモノなのである。

更に、バトーのキャラクター造詣にはレイモンド・チャンドラーの影が色濃く、ひとつのシークエンスのキーとなる犬の餌のプロットではエリオット・グールド演じるフィリップ・マーロウ(「ロング・グッドバイ」)を髣髴とさせる。
というかおそらくオマージュであろう。

しかも、物語のコンセプトは最早手垢の付いた感のある「人間(生物)の定義」である。
有機体と無機質で生物に似たものを人間と人形と言う単純な図式に置き換え、登場人物はその狭間で葛藤する事になるのである。

勿論、誰もが評価するように本作の世界観は素晴らしいが、表現としてのCGIは、本作を世界中のクリエイター達に影響を与えた前作の発展形として考えた場合、無残な結果に終わっている。

特に、予告編で使用されていたコンビニ内の映像や、本棚に並ぶあまりにも無機質な書籍類なんかが顕著であろう。
あまりにも作り物じみているのである。

一方、後半部分に登場する人形の動きや、最新技術の表現や発想、ビジュアル・コンセプトは素晴らしいものがある。
しかし、「ブレードランナー」の呪縛からは逃れられていない。
また、前作で「やまとことば」をフィーチャーした音楽も、残念ながら前作と比較するとレベルダウンしている感がある。
前作以上の楽曲が難しいのならば、前作どおりでも良かったのではないか、と感じた。
主題歌の「フォロー・ミー」は良かったし、訳詩の意訳や、そのフォントも良かった。

そして、前作と同様のオープニングや、後半部分の山車に音楽をかぶせるあたりは、前作を意識したファン・サービスと取るべきなのか、芸の無さと取るべきか判断に悩むところである。

前作と言えば、トグサとバトーの間の、前作のセリフを伏線とする会話が楽しい。(トグサの引き抜きの話や、マテバの話・・・・。)
また、前作で重要な登場人物であった人物の登場シークエンスは本作のメインのコンセプトを象徴していることもあり、感涙ものである。

つらつらと厳しい事を書いているが、本作は劇場で観るべき作品であることは間違いなく、技術的にも前作を凌駕しつつ、前作の雰囲気を守った、素晴らしい続編に仕上がっている。
随分前に自動車購入計画のお話をしたのだが、憶えていらっしゃる方はおられるだろうか。

まあ自動車結果的には、2003年12月中旬にホンダ・アメリカの「ELEMENT」を購入したのである。

で、今日の日記はその「ELEMENT」を購入した後のお話、ということではなく、ここ「DiaryNote」のアフィリエイト・システムについてである。

2004年2月より、ここ「DiaryNote」のシステムが大幅に変更になった。
そして、今日のお話は、最近多くの方々が利用している「レビュー」システムなのである。
このシステムとは日記を書く際に、「レビュー」を選択すると、その日の日記に自分が「レビュー」する製品(商品)の画像が貼り付けられるというものである。

例えば映画のレビューをする場合は、Amazon.co.jpや楽天市場に登録されている、DVDのパッケージやポスターの画像が今日の日記に貼り付けられる、ということになっているのである。

一見すると、今日の「レビュー」に「レビュー」する商品の画像が貼ってあると、なんだか見映えも良いし、その商品の詳細情報(例えば、あらすじ、価格、販売元・・・・)も勝手に本文内に貼り付けられてくる。
なんだか素敵なシステムである。

しかし、その画像をマウスでポイントした状態でリンク先をよく見ると、なんだか不思議な文字列が入っているのだ。ただのリンクではないぞ。
例えばリンク先が、Amazon.co.jp 内の商品だとすると /diarynote-22/ という文字列が挿入されているのだ。

これは、実はここ「DiaryNote」からリンク先の商品へ飛んだというリンク元のキーであり、そのリンク元のキーを集計する事により、リンク先によっては、クリックされた数により、またはその商品が購入された数により、ここ「DiaryNote」に収益をもたらすシステムになっているのだ。

だからどうだ、という訳ではないが、そういったシステムを知らず知らずに、便利だから見映えが良いから、ということで使わされている、という危惧もあるのだよ、諸君!

※ 今回の「ELEMENT」の画像は、楽天市場の商品を使用していますが、楽天市場のアフイリエイト・システムのIDは乱数になっているのでわかりずらいです。
Amazon.co.jp の商品を使用して、今日の日記を書けばよかったですね。

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