「ターミナル」に隠された意図 その2
2004年12月24日 映画
引き続き「ターミナル」に隠されたスティーヴン・スルバーグの意図を探ってみよう。
=+=+=+=+=
先ずは、こちらを読んで欲しい。
「ターミナル」☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
http://diarynote.jp/d/29346/20041209.html
「ターミナル」に隠された意図 その1
■「JFK国際空港」が意味すること
http://diarynote.jp/d/29346/20041223.html
※ 今回のお題は前回のお題に絡みます。
=+=+=+=+=
それでは、
「ターミナル」に隠された意図 その2
をお送りします。
■「スタートレック」引用の理由
映画で描かれている全ての事柄には必ず意味がある。
当「徒然雑草」をいつもお読みいただいている方々にとっては、既に「耳にタコ状態」の事だと思うし、映画好きの方々にとっても「いまさら何言ってんだよ!あたり前じゃねーか」という印象を与えてしまうかも知れない。
しかし、繰り返しにはなってしまうが、その辺を明確にしておくのだ。
映画で描かれる全ての登場人物、全てのセリフ、全ての動作、全てのカット、全ての道具は、その映画に登場している以上、何らかの意味があり、製作者の意図の下、必然的に登場しており、それらの事柄は映画で描写される必要性があるのだ。
逆に考えると、映画と言うものは、撮影された全素材から、不必要なものを、これでもか、これでもかと言う具合に、全てそぎ落とした結果なのだ。
余談だが、一見意味がなさそうな事柄が、実は重要な事柄だったり、意味が無い登場人物だと思っていた人が、実は犯人だったりするのは、そういう事に因るのかも知れない。
それでは本作「ターミナル」における「スタートレック」の引用について考えてみよう。
本作「ターミナル」では、エンリケ(ディエゴ・ルナ)が恋する女性トーレス(ゾーイ・サルダナ)は、熱狂的な「スタートレック」ファンとして設定されている点が興味深い。
その根拠となる描写は、先ずエンリケがビクター(トム・ハンクス)を利用し、トーレスの休日の過ごし方を聞き出すシークエンスに顕著である。
ビクターはエンリケに対し、食べ物を頬ばりながらたどたどしい英語で「トーレスは休日に制服を着てコンベンションに行く」と告げる。
エンリケは何のことがわからず、しばらく考え、その後ガッツポーズを作り「彼女はトレッキーなんだ!」と叫ぶ。
「スタートレック」コンベンションとは、「スタートレック」のファンの集いで、キャストやスタッフ、ファンが集まるイベントである。(「ギャラクシー・クエスト」の冒頭参照)
また、トーレスがエンリケのプロポーズを受けるシークエンスにも顕著である。
待ち合わせ場所のテーブルに一人座っているエンリケ。
後ろからエンリケに近づくトーレス。
トーレスは左手をあげ、中指と薬指の間を開いた手のひらをエンリケに向ける。
エンリケの視線を受けたトーレスは、エンリケに向けた手のひらを反す。その薬指には指輪が輝いていた。
粋なシークエンスである。
何故、これが「スタートレック」への言及なのか、と言うと、「中指と薬指の間を開けた手のひらを相手に向ける」のは「スタートレック」に出てくるバルカン人の挨拶なのである。
そう考えると、トーレスがバルカン人のメタファーとして機能しているのではないか、またバルカン人のメタファーのトーレスと地球のマイノリティの代表のエンリケが恋に落ち、結婚するのは象徴的な意味を持つのかもしれない。
ところで、そのバルカン人とは何者だ?
と言う疑問が出てくると思うが、その辺の話は長くなるので割愛する事にするが、「スタートレック」世界におけるバルカン人の特徴と役割は、おおよそ次の通りだと言える。
特徴
1.感情を解さない。
2.論理を重んじる。
3.暴力で物事を解決するのは野蛮な事だと考えている。
4.長寿と繁栄を願っている。
5.無限の多様性との無限の協調を重んじている。
6.耳が尖っている。
7.ユーモアを解さない。
8.精神融合(テレパシー)能力がある。
役割
1.知の象徴
2.宇宙全体を良い方向へ導く存在
乱暴な例えだが、バルカン人とは「ロード・オブ・ザ・リング」のエルフのような存在かも知れない。
さて、それでは、スティーヴン・スピルバーグが「ターミナル」の中に「スタートレック」の引用、特にバルカン人の引用を行ったのは何故か?
何故わざわざ「スタートレック」に関する言及を「ターミナル」に挿入したのか?
勿論スピルバーグには明確な意図があったに違いない。
従来のスピルバーグ作品には、「ピノキオ」「ダンボ」「オズの魔法使い」「ピーター・パン」等の作品への言及は多々あるが、「スタートレック」のような作品への言及は特徴的な事だと言わざるを得ないし、珍しい事だと言える。
そして「スタートレック」の引用は、スピルバーグの何らかの意図を表しているハズだし、映画に残っている以上、それは必要な描写だと言えるのだ。
ひとつ言えるのは、「スタートレック」の製作者ジーン・ロッデンベリーの哲学であろう。
その哲学は「スタートレック」に明確に出ている。
1960年代、アメリカのドラマ史上初の白人と黒人のキスシーンをドラマに登場させた事や、エンタープライズ号のクルーには、白人、黒人、東洋人、そして当時アメリカの敵性国家ロシア人までいたのである。
この平等思考から、バルカン人の思想「無限の多様性との無限の協調(infinite diversity in infinite combinations/IDIC)」が生まれたとも言われているようである。
「ターミナル」という主要キャラクターの全てがマイノリティである作品には、ユダヤ人としてスティーヴン・スピルバーグが考える「IDIC/infinite diversity in infinite combinations」思想が含まれているのかも知れない。
そして、世界中で争いを繰り返す人類に対するスピルバーグの失望が「ターミナル」に含まれているのではないか、と思えるのだ。
そして、宇宙からの脅威や指導が無ければ、人類はダメなんじゃないか、という思想がバルカン人の引用に含まれているのではないか、エンリケとトーレスの結婚は非常に大きな意味を持っているのではないか、と思うのだ。
スピルバーグの次回作は「宇宙戦争」であり、かつての傑作「未知との遭遇」や「E.T.」がこの論理を肯定しているような気もする。
皆さん、ついてきてますか?
「ターミナル」に隠された意図 その3
http://diarynote.jp/d/29346/20041228.html
へつづく・・・・
参考になったらクリック!
http://blog.with2.net/link.php/29604
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先ずは、こちらを読んで欲しい。
「ターミナル」☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
http://diarynote.jp/d/29346/20041209.html
「ターミナル」に隠された意図 その1
■「JFK国際空港」が意味すること
http://diarynote.jp/d/29346/20041223.html
※ 今回のお題は前回のお題に絡みます。
=+=+=+=+=
それでは、
「ターミナル」に隠された意図 その2
をお送りします。
■「スタートレック」引用の理由
映画で描かれている全ての事柄には必ず意味がある。
当「徒然雑草」をいつもお読みいただいている方々にとっては、既に「耳にタコ状態」の事だと思うし、映画好きの方々にとっても「いまさら何言ってんだよ!あたり前じゃねーか」という印象を与えてしまうかも知れない。
しかし、繰り返しにはなってしまうが、その辺を明確にしておくのだ。
映画で描かれる全ての登場人物、全てのセリフ、全ての動作、全てのカット、全ての道具は、その映画に登場している以上、何らかの意味があり、製作者の意図の下、必然的に登場しており、それらの事柄は映画で描写される必要性があるのだ。
逆に考えると、映画と言うものは、撮影された全素材から、不必要なものを、これでもか、これでもかと言う具合に、全てそぎ落とした結果なのだ。
余談だが、一見意味がなさそうな事柄が、実は重要な事柄だったり、意味が無い登場人物だと思っていた人が、実は犯人だったりするのは、そういう事に因るのかも知れない。
それでは本作「ターミナル」における「スタートレック」の引用について考えてみよう。
本作「ターミナル」では、エンリケ(ディエゴ・ルナ)が恋する女性トーレス(ゾーイ・サルダナ)は、熱狂的な「スタートレック」ファンとして設定されている点が興味深い。
その根拠となる描写は、先ずエンリケがビクター(トム・ハンクス)を利用し、トーレスの休日の過ごし方を聞き出すシークエンスに顕著である。
ビクターはエンリケに対し、食べ物を頬ばりながらたどたどしい英語で「トーレスは休日に制服を着てコンベンションに行く」と告げる。
エンリケは何のことがわからず、しばらく考え、その後ガッツポーズを作り「彼女はトレッキーなんだ!」と叫ぶ。
「スタートレック」コンベンションとは、「スタートレック」のファンの集いで、キャストやスタッフ、ファンが集まるイベントである。(「ギャラクシー・クエスト」の冒頭参照)
また、トーレスがエンリケのプロポーズを受けるシークエンスにも顕著である。
待ち合わせ場所のテーブルに一人座っているエンリケ。
後ろからエンリケに近づくトーレス。
トーレスは左手をあげ、中指と薬指の間を開いた手のひらをエンリケに向ける。
エンリケの視線を受けたトーレスは、エンリケに向けた手のひらを反す。その薬指には指輪が輝いていた。
粋なシークエンスである。
何故、これが「スタートレック」への言及なのか、と言うと、「中指と薬指の間を開けた手のひらを相手に向ける」のは「スタートレック」に出てくるバルカン人の挨拶なのである。
そう考えると、トーレスがバルカン人のメタファーとして機能しているのではないか、またバルカン人のメタファーのトーレスと地球のマイノリティの代表のエンリケが恋に落ち、結婚するのは象徴的な意味を持つのかもしれない。
ところで、そのバルカン人とは何者だ?
と言う疑問が出てくると思うが、その辺の話は長くなるので割愛する事にするが、「スタートレック」世界におけるバルカン人の特徴と役割は、おおよそ次の通りだと言える。
特徴
1.感情を解さない。
2.論理を重んじる。
3.暴力で物事を解決するのは野蛮な事だと考えている。
4.長寿と繁栄を願っている。
5.無限の多様性との無限の協調を重んじている。
6.耳が尖っている。
7.ユーモアを解さない。
8.精神融合(テレパシー)能力がある。
役割
1.知の象徴
2.宇宙全体を良い方向へ導く存在
乱暴な例えだが、バルカン人とは「ロード・オブ・ザ・リング」のエルフのような存在かも知れない。
さて、それでは、スティーヴン・スピルバーグが「ターミナル」の中に「スタートレック」の引用、特にバルカン人の引用を行ったのは何故か?
何故わざわざ「スタートレック」に関する言及を「ターミナル」に挿入したのか?
勿論スピルバーグには明確な意図があったに違いない。
従来のスピルバーグ作品には、「ピノキオ」「ダンボ」「オズの魔法使い」「ピーター・パン」等の作品への言及は多々あるが、「スタートレック」のような作品への言及は特徴的な事だと言わざるを得ないし、珍しい事だと言える。
そして「スタートレック」の引用は、スピルバーグの何らかの意図を表しているハズだし、映画に残っている以上、それは必要な描写だと言えるのだ。
ひとつ言えるのは、「スタートレック」の製作者ジーン・ロッデンベリーの哲学であろう。
その哲学は「スタートレック」に明確に出ている。
1960年代、アメリカのドラマ史上初の白人と黒人のキスシーンをドラマに登場させた事や、エンタープライズ号のクルーには、白人、黒人、東洋人、そして当時アメリカの敵性国家ロシア人までいたのである。
この平等思考から、バルカン人の思想「無限の多様性との無限の協調(infinite diversity in infinite combinations/IDIC)」が生まれたとも言われているようである。
「ターミナル」という主要キャラクターの全てがマイノリティである作品には、ユダヤ人としてスティーヴン・スピルバーグが考える「IDIC/infinite diversity in infinite combinations」思想が含まれているのかも知れない。
そして、世界中で争いを繰り返す人類に対するスピルバーグの失望が「ターミナル」に含まれているのではないか、と思えるのだ。
そして、宇宙からの脅威や指導が無ければ、人類はダメなんじゃないか、という思想がバルカン人の引用に含まれているのではないか、エンリケとトーレスの結婚は非常に大きな意味を持っているのではないか、と思うのだ。
スピルバーグの次回作は「宇宙戦争」であり、かつての傑作「未知との遭遇」や「E.T.」がこの論理を肯定しているような気もする。
皆さん、ついてきてますか?
「ターミナル」に隠された意図 その3
http://diarynote.jp/d/29346/20041228.html
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「ターミナル」に隠された意図 その1
2004年12月23日 映画
先ずはこちらを読んで欲しい。
「ターミナル」☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
http://diarynote.jp/d/29346/20041209.html
このレビューの中でわたしは、
『「ターミナル」は、面白おかしく、ちょっぴり涙がこぼれちゃう、万人にオススメの娯楽作品なのだ。
とは言うものの、作品自体は凡庸で、取り立てて見るべきところは無い。』
と断じてしまっている。
しかし「ターミナル」は本当に見るべきところが無い作品なのだろうか。
そこで「徒然雑草」では、いくつかの観点から「ターミナル」でスティーヴン・スピルバーグが表現しようとした隠された意図を考えていきたい、と思うのだ。
■「JFK国際空港」が意味すること
「ターミナル」の舞台は、皆さんご承知のように「JFK国際空港」である。そしてその「JFK国際空港」がニューヨークにあるのも、皆さんご承知の事だと思う。
ニューヨークと言えば、昔から「人種の坩堝(るつぼ)」と呼ばれているように、様々な人種、様々な民族がひしめき合っているアメリカ最大級の大都市である。
先ず考えなければならないのは、本作「ターミナル」では「空港」は当然の如く「都市」のメタファーとして描かれている、と言うことである。
事実、本作では衣食住の全てが賄える「空間」として「空港」が描かれているし、また様々な人種、様々な民族が共存する「空間」としても「空港」が描かれてもいる。
そして同時に「空港」は「移民の受け入れ先」としても描かれているのだ。話がそれるが、「空港」を空間的に閉鎖された「移民の受け入れ先」と捉えた場合、かつて、ニューヨークのマンハッタン島が多くの移民を受け入れていた事が連想される。(「ギャング・オブ・ニューヨーク」参照)
「空港」を「都市」であり「移民先」と考えると、トム・ハンクス演じるビクター・ナボルスキーは、言葉の通じない「移民先」である「空港」に一人降り立ち、苦労しながらも仕事を見つけ、住むところを見つけ、友人を見つけ、恋人を見つけ、「空港」で働く多くの人々とコミュニケーションをとりながら、なんとか生活していく姿が見てとれるのである。
これは新天地である「移民先」に降り立った人々のシミュレーションにも思える。
そして興味深いのは、ビクターを取巻く「空港」で働く人々は所謂マイノリティであり、「空港」と言う名の新天地で新たな生活を営もうとしている「移民たち」のメタファーとして描かれている点である。
「空港」内で働くマイノリティたちは、ビクターを受け入れ、身を寄せ合い、日々の些細な楽しみを享受しながら細々と生活しているのだ。
一方、「空港」を警備する側は、スタンリー・トゥッチ演じるフランク・ディクソンは、バリー・シャバカ・ヘンリー演じるレイを通じて、ビクター等マイノリティたちを迫害する行動を起こしている。
ここでは、興味深い事に白人(フランク)の指示の下、黒人(レイ)が他のマイノリティたちを迫害する、と言う構図が見て取れるのである。
そしてこれは、白人指導者が最前線で働く黒人に指示を出し、他のマイノリティたちを迫害している行為を暗喩しているのである。
ここまで論を進めれば自ずと答えは出るだろう。
「ターミナル」の舞台となっている「JFK国際空港」は、「都市」以上の存在である「世界(地球)」の縮図でありメタファーなのだ。
多くの民族が共存しているわれわれの「世界」。
その「世界」のどこかで、何か問題が起これば、世界の警察「アメリカ」が出動する。
「アメリカ」によって、平和維持、調停、統治、侵略される「諸国」。
実はハート・ウォーミング・コメディ「ターミナル」には、こんな隠された意味があるのだ。
そしてユダヤ人スティーヴン・スピルバーグの「ターミナル」における現代社会とのアメリカの関わり方に対する批判的意図は巧妙に隠されている訳なのである。
余談だが、ニューヨークの「JFK国際空港」を「ターミナル」の舞台と選んだ理由としては、勿論「911テロ」への言及と、ダラスで暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の名を冠した「空港」である、という点に因るものだと考えられる。
更に余談だが、フランクの指示に従わず、ビクターにコートを与えるレイの行動も非常に象徴的な印象を与えている。
白人に対する黒人の反乱なのである。
「ターミナル」に隠された意図 その2
http://diarynote.jp/d/29346/20041224.html
へつづく・・・・
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「ターミナル」☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
http://diarynote.jp/d/29346/20041209.html
このレビューの中でわたしは、
『「ターミナル」は、面白おかしく、ちょっぴり涙がこぼれちゃう、万人にオススメの娯楽作品なのだ。
とは言うものの、作品自体は凡庸で、取り立てて見るべきところは無い。』
と断じてしまっている。
しかし「ターミナル」は本当に見るべきところが無い作品なのだろうか。
そこで「徒然雑草」では、いくつかの観点から「ターミナル」でスティーヴン・スピルバーグが表現しようとした隠された意図を考えていきたい、と思うのだ。
■「JFK国際空港」が意味すること
「ターミナル」の舞台は、皆さんご承知のように「JFK国際空港」である。そしてその「JFK国際空港」がニューヨークにあるのも、皆さんご承知の事だと思う。
ニューヨークと言えば、昔から「人種の坩堝(るつぼ)」と呼ばれているように、様々な人種、様々な民族がひしめき合っているアメリカ最大級の大都市である。
先ず考えなければならないのは、本作「ターミナル」では「空港」は当然の如く「都市」のメタファーとして描かれている、と言うことである。
事実、本作では衣食住の全てが賄える「空間」として「空港」が描かれているし、また様々な人種、様々な民族が共存する「空間」としても「空港」が描かれてもいる。
そして同時に「空港」は「移民の受け入れ先」としても描かれているのだ。話がそれるが、「空港」を空間的に閉鎖された「移民の受け入れ先」と捉えた場合、かつて、ニューヨークのマンハッタン島が多くの移民を受け入れていた事が連想される。(「ギャング・オブ・ニューヨーク」参照)
「空港」を「都市」であり「移民先」と考えると、トム・ハンクス演じるビクター・ナボルスキーは、言葉の通じない「移民先」である「空港」に一人降り立ち、苦労しながらも仕事を見つけ、住むところを見つけ、友人を見つけ、恋人を見つけ、「空港」で働く多くの人々とコミュニケーションをとりながら、なんとか生活していく姿が見てとれるのである。
これは新天地である「移民先」に降り立った人々のシミュレーションにも思える。
そして興味深いのは、ビクターを取巻く「空港」で働く人々は所謂マイノリティであり、「空港」と言う名の新天地で新たな生活を営もうとしている「移民たち」のメタファーとして描かれている点である。
「空港」内で働くマイノリティたちは、ビクターを受け入れ、身を寄せ合い、日々の些細な楽しみを享受しながら細々と生活しているのだ。
一方、「空港」を警備する側は、スタンリー・トゥッチ演じるフランク・ディクソンは、バリー・シャバカ・ヘンリー演じるレイを通じて、ビクター等マイノリティたちを迫害する行動を起こしている。
ここでは、興味深い事に白人(フランク)の指示の下、黒人(レイ)が他のマイノリティたちを迫害する、と言う構図が見て取れるのである。
そしてこれは、白人指導者が最前線で働く黒人に指示を出し、他のマイノリティたちを迫害している行為を暗喩しているのである。
ここまで論を進めれば自ずと答えは出るだろう。
「ターミナル」の舞台となっている「JFK国際空港」は、「都市」以上の存在である「世界(地球)」の縮図でありメタファーなのだ。
多くの民族が共存しているわれわれの「世界」。
その「世界」のどこかで、何か問題が起これば、世界の警察「アメリカ」が出動する。
「アメリカ」によって、平和維持、調停、統治、侵略される「諸国」。
実はハート・ウォーミング・コメディ「ターミナル」には、こんな隠された意味があるのだ。
そしてユダヤ人スティーヴン・スピルバーグの「ターミナル」における現代社会とのアメリカの関わり方に対する批判的意図は巧妙に隠されている訳なのである。
余談だが、ニューヨークの「JFK国際空港」を「ターミナル」の舞台と選んだ理由としては、勿論「911テロ」への言及と、ダラスで暗殺されたジョン・F・ケネディ大統領の名を冠した「空港」である、という点に因るものだと考えられる。
更に余談だが、フランクの指示に従わず、ビクターにコートを与えるレイの行動も非常に象徴的な印象を与えている。
白人に対する黒人の反乱なのである。
「ターミナル」に隠された意図 その2
http://diarynote.jp/d/29346/20041224.html
へつづく・・・・
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2004/12/19 東京神保町「岩波ホール」で「酔画仙」を観た。
酒に酔い、女を愛し、興が乗ると神業のような筆使いで見事な絵を描き上げたという伝説の天才画家・張承業(チャン・スンオプ)。彼はその破天荒で謎の多い人生から「酔画仙」と呼ばれた。
朝鮮時代末期、開明派の学者であるキム・ビョンムン(アン・ソンギ[安聖基])は、街で子供達に殴られている貧しい子供チャン・スンオプ[張承業](チェ・ジョンソン/子役)を助ける。
数年後二人は再会し、スンオプ(チェ・ミンシク[崔岷植])の絵の才能に驚いたキムは彼を通訳官イ・ウンホン(ハン・ミョング)の家へ預けた。スンオプは、イ・ウンホンの家で下働きとして働きながら、スンオプは絵の修行を積むことになる。そんな中、スンオプはイ・ウンホンの妹ソウン(ソン・イェジン[孫芸珍])に一目惚れするが、ソウンはまもなく結婚してしまう。
通訳官の家で働きながら、絵の修行をつみ、スンオプは絵の非凡なる実力を発揮し始めた。酒に酔って興がわいたときにスンオプがとる筆からは神業のような絵が生まれ、スンオプは画家として名をなすようになった。
しかし周りの人々は彼の絵を名誉のために利用しようとするだけで、スンオプの心は満たされることは無かった。そんな彼を支えたのが没落貴族・両班(ヤンパン)の娘で妓生(キーセン)となったメヒャン(ユ・ホジョン[柳好貞])だった。
しかし時代の流れに翻弄され二人は何度もの別れと再会を強いられた。
ついに彼は宮廷画家にまでのぼりつめたが、生来の性癖を改めることなく束縛を嫌い、酒に酩酊し、女を愛し、逃亡と放浪を繰り返していた。
そんな彼にキムは「本物の芸術家になれ」と厳しく諭すのだった。スンオプの本当の苦悩の旅が始まった・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
「2002年カンヌ国際映画祭監督賞受賞」
監督:イム・グォンテク
出演:チェ・ミンシク[崔岷植](チャン・スンオプ[張承業])、アン・ソンギ[安聖基](キム・ビョンムン)、ユ・ホジョン[柳好貞](メヒャン)、ソン・イェジン[孫芸珍](ソウン)、キム・ヨジン[金汝眞](ジノン)
こういった時代考証的に美術や衣装がしっかりしたリアリティ溢れる映画を観ると、アジアと日本との文化(映画)の描き方の差異に愕然としてしまう。
あぁ、日本の時代劇はなんてリアリティが無いのだろう、と。
そもそも日本の時代劇の根本には、多くの日本文化、例えば歌舞伎や俳句がそうであるように省略と見立て、そして様式美にあふれている。
そして、その様式美を重視した世界観の下構築された所謂時代劇と言うものでは、全ての登場人物は買ったばかりのような綺麗な衣装を身に着けているし、武士の月代(さかやき)は今朝剃ったばかりのように青々としているのだ。
そう、日本の時代劇はリアリティを重視した作品ではなく、様式美を楽しむファンタジーなのである。
尤も、黒澤明の時代劇や、最近では山田洋次の「隠し剣 鬼の爪」のような作品の美術や衣装には生活観があふており、武士や農民そして市井の人々の生活に、生活感あふれる見事なリアリティを付与している。
一方アジアの巨匠チャン・イーモウの「HERO/英雄」あたりでは、日本の時代劇同様の様式美に力点を置き、リアリティとかけ離れたファンタジックな世界を描いているのだ。
わたしは使い込まれた衣装や道具、生活感溢れる舞台背景が描かれた作品が観たいのだ。
「HERO/英雄」なんかより「酔画仙」の世界観に、使い込まれた道具や衣装が醸し出すリアルな生活感溢れる作品に惹かれるのである。
例えばこれは「サンダーバード」の油で汚れた救助メカや、徹夜をすると顎が青くなる人形に、「スター・ウォーズ」のオンボロ宇宙船に、そしてそれらの使い込まれた生活感あふれる様々な道具が醸し出す圧倒的な世界観に惹かれてしまうのである。
なんだか前置きが長くなってしまったが、本作「酔画仙」は一言で言うと、大変素晴らしい作品である。
その物語は、大日本帝国と清国とが朝鮮半島の利権をめぐる争いを続ける中、「酔画仙」と呼ばれた伝説の天才画家・張承業(チャン・スンオプ)の生涯を描いたもので、波乱に満ちた歴史背景を縦軸に、張承業と絵、そして張承業を巡る女達や男達のドラマを横軸に織り成す、歴史絵巻物なのである。
最近の作品で言うと物語の構成上は「血と骨」に似た作品かもしれない。
キャストは何と言っても破天荒な天才画家・張承業を演じたチェ・ミンシク[崔岷植]に尽きる。現在公開中の「オールド・ボーイ」も素晴らしいが、本作でも存在感あふれる素晴らしい演技を見せてくれている。
そして本作の肝である、絵を描く張承業の姿も素晴らしく、本当にチェ・ミンシク[崔岷植]が、あれら素晴らしい絵を描いているかのように思えるのだ。「美しき諍い女」もビックリなのだ。
また、本作がデビュー作となる「ラブ・ストーリー」のヒロイン役ソン・イェジン[孫芸珍]も印象的な輝きを見せている。
開明派の学者キム・ビョンムンを演じたアン・ソンギ[安聖基]は名優の名に恥じない演技を見せ、陰になり日向になり張承業を見守る確固とした人物を創出している。
また、メヒャンを演じたユ・ホジョン[柳好貞]の生き様も非常に印象に残る。
脚本は、長い時代を描いている点を考えると、一般的には焦点がボケた脚本になり易いのだが、本作の時代のうねりをあまり描かずに張承業の生き様を中心に据えた脚本に好感を覚える。
しかし、歴史背景をあまり描かない、と言うことは、観客には19世紀末の朝鮮半島を取り巻く政治的歴史的背景の知識が必要である、ということも言えるのだ。
また撮影は、大草原の中を歩く張承業を、紙と筆になぞらえたようなカットが、正に絵画のように美しく、非常に印象的である。
美術や衣装は前段で書いたように素晴らしく。圧倒的な筆致で素晴らしい世界観を構築している。
美術や衣装は本当に見事である。使い込まれた衣装、薄汚れた衣装、生活感溢れるセットや道具。
映画の魔法から醒めない、素晴らしい効果を感じるのだ。
そして名匠イム・グォンテクの演出は危なげが無く、安心感に溢れている。細かい演出も楽しいしウイットにも富んでいる。
本作「酔画仙」は、物語はスローモーだし、娯楽大作のような大きな出来事は起きないが、一幅の絵画を愛でるように楽しむ作品なのだ。
そして、本作は人には教えたくない、自分だけで楽しみたい種類の作品のような気がするのだ。
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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酒に酔い、女を愛し、興が乗ると神業のような筆使いで見事な絵を描き上げたという伝説の天才画家・張承業(チャン・スンオプ)。彼はその破天荒で謎の多い人生から「酔画仙」と呼ばれた。
朝鮮時代末期、開明派の学者であるキム・ビョンムン(アン・ソンギ[安聖基])は、街で子供達に殴られている貧しい子供チャン・スンオプ[張承業](チェ・ジョンソン/子役)を助ける。
数年後二人は再会し、スンオプ(チェ・ミンシク[崔岷植])の絵の才能に驚いたキムは彼を通訳官イ・ウンホン(ハン・ミョング)の家へ預けた。スンオプは、イ・ウンホンの家で下働きとして働きながら、スンオプは絵の修行を積むことになる。そんな中、スンオプはイ・ウンホンの妹ソウン(ソン・イェジン[孫芸珍])に一目惚れするが、ソウンはまもなく結婚してしまう。
通訳官の家で働きながら、絵の修行をつみ、スンオプは絵の非凡なる実力を発揮し始めた。酒に酔って興がわいたときにスンオプがとる筆からは神業のような絵が生まれ、スンオプは画家として名をなすようになった。
しかし周りの人々は彼の絵を名誉のために利用しようとするだけで、スンオプの心は満たされることは無かった。そんな彼を支えたのが没落貴族・両班(ヤンパン)の娘で妓生(キーセン)となったメヒャン(ユ・ホジョン[柳好貞])だった。
しかし時代の流れに翻弄され二人は何度もの別れと再会を強いられた。
ついに彼は宮廷画家にまでのぼりつめたが、生来の性癖を改めることなく束縛を嫌い、酒に酩酊し、女を愛し、逃亡と放浪を繰り返していた。
そんな彼にキムは「本物の芸術家になれ」と厳しく諭すのだった。スンオプの本当の苦悩の旅が始まった・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
「2002年カンヌ国際映画祭監督賞受賞」
監督:イム・グォンテク
出演:チェ・ミンシク[崔岷植](チャン・スンオプ[張承業])、アン・ソンギ[安聖基](キム・ビョンムン)、ユ・ホジョン[柳好貞](メヒャン)、ソン・イェジン[孫芸珍](ソウン)、キム・ヨジン[金汝眞](ジノン)
こういった時代考証的に美術や衣装がしっかりしたリアリティ溢れる映画を観ると、アジアと日本との文化(映画)の描き方の差異に愕然としてしまう。
あぁ、日本の時代劇はなんてリアリティが無いのだろう、と。
そもそも日本の時代劇の根本には、多くの日本文化、例えば歌舞伎や俳句がそうであるように省略と見立て、そして様式美にあふれている。
そして、その様式美を重視した世界観の下構築された所謂時代劇と言うものでは、全ての登場人物は買ったばかりのような綺麗な衣装を身に着けているし、武士の月代(さかやき)は今朝剃ったばかりのように青々としているのだ。
そう、日本の時代劇はリアリティを重視した作品ではなく、様式美を楽しむファンタジーなのである。
尤も、黒澤明の時代劇や、最近では山田洋次の「隠し剣 鬼の爪」のような作品の美術や衣装には生活観があふており、武士や農民そして市井の人々の生活に、生活感あふれる見事なリアリティを付与している。
一方アジアの巨匠チャン・イーモウの「HERO/英雄」あたりでは、日本の時代劇同様の様式美に力点を置き、リアリティとかけ離れたファンタジックな世界を描いているのだ。
わたしは使い込まれた衣装や道具、生活感溢れる舞台背景が描かれた作品が観たいのだ。
「HERO/英雄」なんかより「酔画仙」の世界観に、使い込まれた道具や衣装が醸し出すリアルな生活感溢れる作品に惹かれるのである。
例えばこれは「サンダーバード」の油で汚れた救助メカや、徹夜をすると顎が青くなる人形に、「スター・ウォーズ」のオンボロ宇宙船に、そしてそれらの使い込まれた生活感あふれる様々な道具が醸し出す圧倒的な世界観に惹かれてしまうのである。
なんだか前置きが長くなってしまったが、本作「酔画仙」は一言で言うと、大変素晴らしい作品である。
その物語は、大日本帝国と清国とが朝鮮半島の利権をめぐる争いを続ける中、「酔画仙」と呼ばれた伝説の天才画家・張承業(チャン・スンオプ)の生涯を描いたもので、波乱に満ちた歴史背景を縦軸に、張承業と絵、そして張承業を巡る女達や男達のドラマを横軸に織り成す、歴史絵巻物なのである。
最近の作品で言うと物語の構成上は「血と骨」に似た作品かもしれない。
キャストは何と言っても破天荒な天才画家・張承業を演じたチェ・ミンシク[崔岷植]に尽きる。現在公開中の「オールド・ボーイ」も素晴らしいが、本作でも存在感あふれる素晴らしい演技を見せてくれている。
そして本作の肝である、絵を描く張承業の姿も素晴らしく、本当にチェ・ミンシク[崔岷植]が、あれら素晴らしい絵を描いているかのように思えるのだ。「美しき諍い女」もビックリなのだ。
また、本作がデビュー作となる「ラブ・ストーリー」のヒロイン役ソン・イェジン[孫芸珍]も印象的な輝きを見せている。
開明派の学者キム・ビョンムンを演じたアン・ソンギ[安聖基]は名優の名に恥じない演技を見せ、陰になり日向になり張承業を見守る確固とした人物を創出している。
また、メヒャンを演じたユ・ホジョン[柳好貞]の生き様も非常に印象に残る。
脚本は、長い時代を描いている点を考えると、一般的には焦点がボケた脚本になり易いのだが、本作の時代のうねりをあまり描かずに張承業の生き様を中心に据えた脚本に好感を覚える。
しかし、歴史背景をあまり描かない、と言うことは、観客には19世紀末の朝鮮半島を取り巻く政治的歴史的背景の知識が必要である、ということも言えるのだ。
また撮影は、大草原の中を歩く張承業を、紙と筆になぞらえたようなカットが、正に絵画のように美しく、非常に印象的である。
美術や衣装は前段で書いたように素晴らしく。圧倒的な筆致で素晴らしい世界観を構築している。
美術や衣装は本当に見事である。使い込まれた衣装、薄汚れた衣装、生活感溢れるセットや道具。
映画の魔法から醒めない、素晴らしい効果を感じるのだ。
そして名匠イム・グォンテクの演出は危なげが無く、安心感に溢れている。細かい演出も楽しいしウイットにも富んでいる。
本作「酔画仙」は、物語はスローモーだし、娯楽大作のような大きな出来事は起きないが、一幅の絵画を愛でるように楽しむ作品なのだ。
そして、本作は人には教えたくない、自分だけで楽しみたい種類の作品のような気がするのだ。
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2004/12/15 東京半蔵門「TOKYO FMホール」で行われた「銀のエンゼル」の「新潟中越地震チャリティ試写会」に行ってきた。
上映前に行われた「募金のお願い」と「トーク・ショー」のゲストは浅田美代子と佐藤めぐみ。
北海道の田舎町。
国道沿いのコンビニエンスストア。
オーナーの北島昇一(小日向文世)は、妻で店長の佐和子(浅田美代子)に店を任せて、気ままな毎日を送っていた。だがそんなある日のこと、佐和子が突然の交通事故で入院。妻の代わりに深夜の勤務に就く羽目になった昇一の毎日はガラリと変わり始める。おまけに会話が途絶えがちな娘の由希(佐藤めぐみ)と向き合わなくてはならないのだ。
頼りになるがどこか訳ありの店員・佐藤(西島秀俊)。
配送の六月(ロッキー/大泉洋)は由希に恋していた。
コンピニの灯りを頼りにダンスの練習に励む高校生・中川(辻本祐樹)。
毎晩チョコボールを一箱買って帰るバツイチ子持ちの美女・明美(山口もえ)。
夜のコンビニに広がる未知の世界に翻弄される昇一だったが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:鈴井貴之
脚本:木田紀生
出演:小日向文世(北島昇一)、佐藤めぐみ(北島由希)、浅田美代子(北島佐和子)、西島秀俊(佐藤耕輔)、大泉洋(ロッキー/六月)、山口もえ(小林明美)、嶋田久作(白下巡査)、辻本祐樹(中川武)、安田顕(担任)、佐藤重幸(バナナの客)、森崎博之(スナックの若い男)、村上ショージ(杉山登)、輪島功一(小暮達也)、小橋亜樹(看護婦)、有安杏果(小林かおり)
本作「銀のエンゼル」は、陳腐な表現だが、心の琴線に触れる素晴らしくノスタルジックな作品である。
地元の高校卒業後の進路の悩み。
町を捨て都会に出て行くのか、それとも夢をあきらめてその町に埋没していくのか。
現代、フリーターやニートと呼ばれる人々が増加する時代に、そのフリーターやニートとして生きていく若者の悩みを本作は代弁している。
そして、町から出たは良いが、夢破れて町に帰ってくる人々、町に埋没せざるを得ない環境、親子の断絶、恋の悩み等々、他から見れば些細な問題かもしれないが、当人にとっては重大な問題を抱えた人々が、町のオアシス・コンビニエンスストアに集っている。そして彼らは、そのコンビニを起点として、悩み、そして解決策を見出していく訳なのだ。
先ず、現代社会の中、深夜のオアシスとして機能しているコンビニを舞台に、様々な人間模様を織りなすという、物語の根本となるプロットは良い発想だと思う。
脚本を見てみると、登場人物のセリフでは多くを語らない脚本になっているのだが、画面を通じて登場人物の過去と現在、そして未来を雄弁に描写する形態を持つ脚本に仕上がっている。
そして、脚本に驚かされたのは、物語に本当に必要な部分は描かれてはいるのだが、物語の焦点をぼかすと思われる周辺のエピソードの描写を著しく割愛しているのである。
そのため、本作は見方によっては、本筋ではない周辺のエピソードはあまりにも説明不足であり、周りの登場人物が一体何をしていたのかが想像力がない観客には、理解できない構造を持っているのだ。
しかし、その割愛された部分が逆に物語に素晴らしい余韻と観客が自由に遊ぶ空間(行間)を与えているのも事実なのである。
本作の割愛されたエヒソードは、想像という翼により、観客それぞれの人生経験から物語をつむぎだす事が可能な構造を持つ、ある意味余裕が感じられる作品に仕上がっている、とも取れるのである。
演出は北海道に似つかわしい、ゆったりとした時間が流れるものでありながらも、確実で素晴らしい演出がされている。
例えば、冒頭、深夜放送をバックに配送トラックが道路を走っているだけでも泣けてくるし、エピローグなど号泣ものである。
またロケーション効果や舞台設定も素晴らしく、由希(佐藤めぐみ)と中川(辻本祐樹)の会話シークエンスの舞台となる雪に覆われたテニスコートや、由希がスケッチをする鉄骨の骨組み、昇一(小日向文世)と杉山(村上ショージ)が話をするガソリンスタンドの屋根等、印象的な舞台設定が楽しい。
キャストは、小日向文世(北島昇一)、佐藤めぐみ(北島由希)、西島秀俊(佐藤耕輔)、大泉洋(ロッキー/六月)、山口もえ(小林明美)あたりが印象的であった。
先ず、小日向文世だが、彼の表情と微妙な仕草、自信なさげなセリフが素晴らしい。本作はおそらく「非・バランス」に次ぐ彼の代表作として記憶されるのではないか、と思うのだ。
また、西島秀俊は非常に良い味を出している。物語のオブザーバー敵存在にも取れ、観客と一体化する外部の視点を体現している。彼のキャラクターは、来年公開の「カナリア」で西島秀俊が演じたキャラクターと比較すると興味深い。
そして、大泉洋は想像通りと言うか期待通りのキャラクターであった。泣きに笑いに大活躍である。
冒頭の配送トラックのシークエンスは感動的であり、中盤の見せ場も楽しい。
更に山口もえだが、彼女が演じたキャラクターは、実は本作の大きなテーマを体現している非常に重要なものであり、彼女の生き様がひとつの田舎町の生活の例なのだ。
そして、佐藤めぐみだが、彼女は本作の主演とも言えるキャラクターとも言える高校三年生の葛藤を体現した複雑な役柄を見事に演じきっていた。将来に期待である。
ちよっと褒めすぎかも知れないが、関心と機会があるのなら、是非観ておいて欲しい作品である。
展開はスローモーで、娯楽大作が好きな人には退屈かもしれないが、北海道のローカル深夜番組「水曜どうでしょう」で大ブレイクしたコンビを見る、と言う話題性だけではない、何か(something)が確かに存在する映画なのだ。
=+=+=+=+=+=+=
余談だが、本作は自主制作映画的なキャスティングも楽しめる作品とも言えるのだ。
とある大学の演劇研究会出身の役者たちが何人か出演しているのだ。
更に余談だが、わたしは大学時代、彼らが所属していた演劇研究会の隣に部室があった映画研究会に属していた。
更に余談だが、北国ではコンビニのおにぎりをレンジで温めるのだが、この冬おにぎりを温める事が全国で流行るに違いないのだ。
=+=+=+=+=+=+=
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上映前に行われた「募金のお願い」と「トーク・ショー」のゲストは浅田美代子と佐藤めぐみ。
北海道の田舎町。
国道沿いのコンビニエンスストア。
オーナーの北島昇一(小日向文世)は、妻で店長の佐和子(浅田美代子)に店を任せて、気ままな毎日を送っていた。だがそんなある日のこと、佐和子が突然の交通事故で入院。妻の代わりに深夜の勤務に就く羽目になった昇一の毎日はガラリと変わり始める。おまけに会話が途絶えがちな娘の由希(佐藤めぐみ)と向き合わなくてはならないのだ。
頼りになるがどこか訳ありの店員・佐藤(西島秀俊)。
配送の六月(ロッキー/大泉洋)は由希に恋していた。
コンピニの灯りを頼りにダンスの練習に励む高校生・中川(辻本祐樹)。
毎晩チョコボールを一箱買って帰るバツイチ子持ちの美女・明美(山口もえ)。
夜のコンビニに広がる未知の世界に翻弄される昇一だったが・・・・。
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監督:鈴井貴之
脚本:木田紀生
出演:小日向文世(北島昇一)、佐藤めぐみ(北島由希)、浅田美代子(北島佐和子)、西島秀俊(佐藤耕輔)、大泉洋(ロッキー/六月)、山口もえ(小林明美)、嶋田久作(白下巡査)、辻本祐樹(中川武)、安田顕(担任)、佐藤重幸(バナナの客)、森崎博之(スナックの若い男)、村上ショージ(杉山登)、輪島功一(小暮達也)、小橋亜樹(看護婦)、有安杏果(小林かおり)
本作「銀のエンゼル」は、陳腐な表現だが、心の琴線に触れる素晴らしくノスタルジックな作品である。
地元の高校卒業後の進路の悩み。
町を捨て都会に出て行くのか、それとも夢をあきらめてその町に埋没していくのか。
現代、フリーターやニートと呼ばれる人々が増加する時代に、そのフリーターやニートとして生きていく若者の悩みを本作は代弁している。
そして、町から出たは良いが、夢破れて町に帰ってくる人々、町に埋没せざるを得ない環境、親子の断絶、恋の悩み等々、他から見れば些細な問題かもしれないが、当人にとっては重大な問題を抱えた人々が、町のオアシス・コンビニエンスストアに集っている。そして彼らは、そのコンビニを起点として、悩み、そして解決策を見出していく訳なのだ。
先ず、現代社会の中、深夜のオアシスとして機能しているコンビニを舞台に、様々な人間模様を織りなすという、物語の根本となるプロットは良い発想だと思う。
脚本を見てみると、登場人物のセリフでは多くを語らない脚本になっているのだが、画面を通じて登場人物の過去と現在、そして未来を雄弁に描写する形態を持つ脚本に仕上がっている。
そして、脚本に驚かされたのは、物語に本当に必要な部分は描かれてはいるのだが、物語の焦点をぼかすと思われる周辺のエピソードの描写を著しく割愛しているのである。
そのため、本作は見方によっては、本筋ではない周辺のエピソードはあまりにも説明不足であり、周りの登場人物が一体何をしていたのかが想像力がない観客には、理解できない構造を持っているのだ。
しかし、その割愛された部分が逆に物語に素晴らしい余韻と観客が自由に遊ぶ空間(行間)を与えているのも事実なのである。
本作の割愛されたエヒソードは、想像という翼により、観客それぞれの人生経験から物語をつむぎだす事が可能な構造を持つ、ある意味余裕が感じられる作品に仕上がっている、とも取れるのである。
演出は北海道に似つかわしい、ゆったりとした時間が流れるものでありながらも、確実で素晴らしい演出がされている。
例えば、冒頭、深夜放送をバックに配送トラックが道路を走っているだけでも泣けてくるし、エピローグなど号泣ものである。
またロケーション効果や舞台設定も素晴らしく、由希(佐藤めぐみ)と中川(辻本祐樹)の会話シークエンスの舞台となる雪に覆われたテニスコートや、由希がスケッチをする鉄骨の骨組み、昇一(小日向文世)と杉山(村上ショージ)が話をするガソリンスタンドの屋根等、印象的な舞台設定が楽しい。
キャストは、小日向文世(北島昇一)、佐藤めぐみ(北島由希)、西島秀俊(佐藤耕輔)、大泉洋(ロッキー/六月)、山口もえ(小林明美)あたりが印象的であった。
先ず、小日向文世だが、彼の表情と微妙な仕草、自信なさげなセリフが素晴らしい。本作はおそらく「非・バランス」に次ぐ彼の代表作として記憶されるのではないか、と思うのだ。
また、西島秀俊は非常に良い味を出している。物語のオブザーバー敵存在にも取れ、観客と一体化する外部の視点を体現している。彼のキャラクターは、来年公開の「カナリア」で西島秀俊が演じたキャラクターと比較すると興味深い。
そして、大泉洋は想像通りと言うか期待通りのキャラクターであった。泣きに笑いに大活躍である。
冒頭の配送トラックのシークエンスは感動的であり、中盤の見せ場も楽しい。
更に山口もえだが、彼女が演じたキャラクターは、実は本作の大きなテーマを体現している非常に重要なものであり、彼女の生き様がひとつの田舎町の生活の例なのだ。
そして、佐藤めぐみだが、彼女は本作の主演とも言えるキャラクターとも言える高校三年生の葛藤を体現した複雑な役柄を見事に演じきっていた。将来に期待である。
ちよっと褒めすぎかも知れないが、関心と機会があるのなら、是非観ておいて欲しい作品である。
展開はスローモーで、娯楽大作が好きな人には退屈かもしれないが、北海道のローカル深夜番組「水曜どうでしょう」で大ブレイクしたコンビを見る、と言う話題性だけではない、何か(something)が確かに存在する映画なのだ。
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余談だが、本作は自主制作映画的なキャスティングも楽しめる作品とも言えるのだ。
とある大学の演劇研究会出身の役者たちが何人か出演しているのだ。
更に余談だが、わたしは大学時代、彼らが所属していた演劇研究会の隣に部室があった映画研究会に属していた。
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「ゴーストシャウト」
2004年12月14日 映画
2004/12/14 東京新宿「テアトル池袋」で「ゴースト・ネゴシエイター」改め「ゴーストシャウト」の改名披露試写会に行ってきた。
舞台挨拶は、出演の滝沢沙織、南野陽子、野田社長と、細木数子のおかげで改名した繋がりのモンキッキ。
榊ヨウコ(滝沢沙織)の職業はゴーストネゴシエイター。
それは下界に現われた幽霊と交渉し無事に成仏させるというもの。
しかし、普通の生活に憧れていたヨウコは、今日を限りにこの因果な商売から足を洗うつもりでいた。そしてとある新婚夫婦(高橋克典/三浦理恵子)の家でなんとか幽霊を成仏させたヨウコは、恋人の元木俊雄(永井大)とのデートに出かける。ヨウコはこのデートで俊雄の母親(川島なお美)と会う事になっていたのだ。
その直後、ヨウコの事務所に緊急の依頼が舞い込む。
それは八王子にある星陵音楽大学のチャペルに、幽霊が現われ、歌を歌っていると言うのだ。
借金に苦しむ事務所の社長・外古葉雄一(菅田俊)は、お化け屋敷でスカウトしたばかりの柳田浩司(井澤健)をヨウコのデート場所に向かわせ、2人で現場に急行するよう指示を出す。恋人には本当の職業をひた隠しにしているヨウコは、俊雄を残したまま、渋々現場へ向かうのだが・・・・。
監督:塚本連平
脚本:EN(榎本憲男)、佐々木充郭
出演:滝沢沙織(榊ヨウコ)、井澤健(柳田浩司)、永井大(元木俊雄)、高樹マリア(美空つぐみ)、高橋克典(若夫婦/夫)、三浦理恵子(若夫婦/妻)、南野陽子(矢田部愛子)、はなわ(時田君)、川島なお美(元木の母)、玉木宏(健太の孫)、中山仁 (響学)、赤座美代子(響澄子)、藤村俊二(坂口健太)、小倉一郎(市川学部長)、ムッシュかまやつ(お化け屋敷館主)、菅田俊(外古葉雄一)、阿南健治(横島事務局長)、雛形あきこ(マリコ)
はいはい、仰る通りですよ。
どうせ、つまらない映画だと思ってましたよ。
細木数子のお告げに従って、映画タイトルを安易に変更しちゃう話題性重視のダメ映画だろうと思ってましたよ。
そんなわたしが莫迦でした。
本作「ゴーストシャウト」は、プロットと伏線がカチっと決まった素晴らしい脚本を備えた良質の作品に仕上がっていたのだ。
その優れた脚本は(勿論褒めすぎの感は否定できないが)、まるで脚本の「お手本」とも言えるクオリティを持っているのだ。
何も足さない、何も引かない、それで充分なのだ。
本作の脚本は、全てのセリフ、全てのカット、全ての登場人物に、きちんと意味を持たせた素晴らしい脚本だった。
勿論、全てのセリフやカット、登場人物に意味を持たせるのは、本来映画としては当たり前の事なのだが、そんな正しい映画は結構少ないと思うのだ。
強いて例えるならば、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」シリーズの脚本の仕上がりに匹敵するのではないかな、と思う訳だ。
演出はベタで順当である。
悪く言えばベタでお約束通りのありきたりなもので、独創的な演出や、光る演出はそれほどないのだが、その予定調和的で順当なあたり前の演出は、所謂映画文法に則った、誰もが納得できる、安心感が感じられる仕上がりを見せている。
美術は世界観を全く損なわず、そしてでしゃばらず、縁の下で作品を見事に支えている点に好感を感じた。イメージとして特筆すべき点があるとすると、やはり「天国の階段」を実写化したのは評価に値すると思う。その辺りの世界観は秀逸である。
また、撮影は広角レンズの多用が非常に印象的であった。
編集は、見事な脚本と相まって、シーンのつなぎ部分に素晴らしい効果を与えている。複数の舞台で起きている事象を関連性で引っ張りながら繋ぐ手腕に舌を巻いてしまう。勿論これはシーンの変わり目を当初から意識した素晴らしい脚本のおかげなのだがね。
キャストはバラエティ的には豪華である。
比較的キャッチーな旬のタレントの起用には好感が持てる。
物語の進行を著しく停滞させてしまう悪い意味でのカメオではなく、旬のタレントを物語に溶け込ませる手腕は見事である。
主演の榊ヨウコを演じた滝沢沙織は初主演に関わらず素晴らしかった。2面性のあるキャラクターを危なげなく演じきっている。
特に、相棒となる井澤健(柳田浩司役)とのコンビネーションは抜群である。
また、恋人元木俊雄役の永井大との息もピッタリで、もしかすると大化けする、今後が楽しみな女優さんになっていくかも知れない。
また、矢田部愛子を演じた南野陽子も素晴らしかった。多分この作品が成功しているのは、元アイドル南野陽子をキャスティングできたことに因るのではないか、と思えるほどの怪演振りである。
また、藤村俊二や阿南健治のキャスティングがツボを押さえており、物語を語る上で素晴らしい見せ場をそれぞれ演じている。
とにかく、本作「ゴーストシャウト」は、お子様からお年寄りまで、全ての観客が楽しめる一流のエンターテイメント作品に仕上がっているし、物語も笑いながら最後にちょっぴり涙が出ちゃう感動作品にも仕上がっている。
そして、過去と現在を結ぶ伏線が見事で、プロットと伏線がジグソー・パズルのようにピタっとはまる上、演出もお約束的に楽しめる作品なのだ。
個人的には、是非ヒットしていただきたいと思うのだ。
=+=+=+=+=+=+=
本作「ゴーストシャウト」は、東京テアトルが発起人となっているガリンペイロ・レーベルの作品である。
これは、新しい日本映画の才能を単館系エンターテイメントから発信する事を目的としたプロジェクトであり、本作はその高い志の下に製作された4本目の作品なのである。
このような孤高で良質なエンターテイメント作品は、きちんとプロモーションされ、きちんとヒットさせる必要があるのだ。
そして、このような真摯で良心的な作品がヒットするかどうか。それが今後の日本映画のあり方のひとつのカギになるのではないか、と思うのだ。
=+=+=+=+=+=+=
舞台挨拶は、前述のようにいろんな人が登場したが、個人的には南野陽子が興味深かった。
アイドル時代の営業の経験からか、挨拶やお辞儀の仕方から、トークでのアドリブの飛ばし方、割って入るタイミング、観客の視線の集め方等々、舞台慣れが感じられ、やはり普通の女優と違って、元アイドルは生に強いな、と思ってしまうのだ。
何と言っても滝沢沙織と南野陽子のお辞儀の角度が完全に違っていたのだ。
=+=+=+=+=+=+=
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舞台挨拶は、出演の滝沢沙織、南野陽子、野田社長と、細木数子のおかげで改名した繋がりのモンキッキ。
榊ヨウコ(滝沢沙織)の職業はゴーストネゴシエイター。
それは下界に現われた幽霊と交渉し無事に成仏させるというもの。
しかし、普通の生活に憧れていたヨウコは、今日を限りにこの因果な商売から足を洗うつもりでいた。そしてとある新婚夫婦(高橋克典/三浦理恵子)の家でなんとか幽霊を成仏させたヨウコは、恋人の元木俊雄(永井大)とのデートに出かける。ヨウコはこのデートで俊雄の母親(川島なお美)と会う事になっていたのだ。
その直後、ヨウコの事務所に緊急の依頼が舞い込む。
それは八王子にある星陵音楽大学のチャペルに、幽霊が現われ、歌を歌っていると言うのだ。
借金に苦しむ事務所の社長・外古葉雄一(菅田俊)は、お化け屋敷でスカウトしたばかりの柳田浩司(井澤健)をヨウコのデート場所に向かわせ、2人で現場に急行するよう指示を出す。恋人には本当の職業をひた隠しにしているヨウコは、俊雄を残したまま、渋々現場へ向かうのだが・・・・。
監督:塚本連平
脚本:EN(榎本憲男)、佐々木充郭
出演:滝沢沙織(榊ヨウコ)、井澤健(柳田浩司)、永井大(元木俊雄)、高樹マリア(美空つぐみ)、高橋克典(若夫婦/夫)、三浦理恵子(若夫婦/妻)、南野陽子(矢田部愛子)、はなわ(時田君)、川島なお美(元木の母)、玉木宏(健太の孫)、中山仁 (響学)、赤座美代子(響澄子)、藤村俊二(坂口健太)、小倉一郎(市川学部長)、ムッシュかまやつ(お化け屋敷館主)、菅田俊(外古葉雄一)、阿南健治(横島事務局長)、雛形あきこ(マリコ)
はいはい、仰る通りですよ。
どうせ、つまらない映画だと思ってましたよ。
細木数子のお告げに従って、映画タイトルを安易に変更しちゃう話題性重視のダメ映画だろうと思ってましたよ。
そんなわたしが莫迦でした。
本作「ゴーストシャウト」は、プロットと伏線がカチっと決まった素晴らしい脚本を備えた良質の作品に仕上がっていたのだ。
その優れた脚本は(勿論褒めすぎの感は否定できないが)、まるで脚本の「お手本」とも言えるクオリティを持っているのだ。
何も足さない、何も引かない、それで充分なのだ。
本作の脚本は、全てのセリフ、全てのカット、全ての登場人物に、きちんと意味を持たせた素晴らしい脚本だった。
勿論、全てのセリフやカット、登場人物に意味を持たせるのは、本来映画としては当たり前の事なのだが、そんな正しい映画は結構少ないと思うのだ。
強いて例えるならば、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」シリーズの脚本の仕上がりに匹敵するのではないかな、と思う訳だ。
演出はベタで順当である。
悪く言えばベタでお約束通りのありきたりなもので、独創的な演出や、光る演出はそれほどないのだが、その予定調和的で順当なあたり前の演出は、所謂映画文法に則った、誰もが納得できる、安心感が感じられる仕上がりを見せている。
美術は世界観を全く損なわず、そしてでしゃばらず、縁の下で作品を見事に支えている点に好感を感じた。イメージとして特筆すべき点があるとすると、やはり「天国の階段」を実写化したのは評価に値すると思う。その辺りの世界観は秀逸である。
また、撮影は広角レンズの多用が非常に印象的であった。
編集は、見事な脚本と相まって、シーンのつなぎ部分に素晴らしい効果を与えている。複数の舞台で起きている事象を関連性で引っ張りながら繋ぐ手腕に舌を巻いてしまう。勿論これはシーンの変わり目を当初から意識した素晴らしい脚本のおかげなのだがね。
キャストはバラエティ的には豪華である。
比較的キャッチーな旬のタレントの起用には好感が持てる。
物語の進行を著しく停滞させてしまう悪い意味でのカメオではなく、旬のタレントを物語に溶け込ませる手腕は見事である。
主演の榊ヨウコを演じた滝沢沙織は初主演に関わらず素晴らしかった。2面性のあるキャラクターを危なげなく演じきっている。
特に、相棒となる井澤健(柳田浩司役)とのコンビネーションは抜群である。
また、恋人元木俊雄役の永井大との息もピッタリで、もしかすると大化けする、今後が楽しみな女優さんになっていくかも知れない。
また、矢田部愛子を演じた南野陽子も素晴らしかった。多分この作品が成功しているのは、元アイドル南野陽子をキャスティングできたことに因るのではないか、と思えるほどの怪演振りである。
また、藤村俊二や阿南健治のキャスティングがツボを押さえており、物語を語る上で素晴らしい見せ場をそれぞれ演じている。
とにかく、本作「ゴーストシャウト」は、お子様からお年寄りまで、全ての観客が楽しめる一流のエンターテイメント作品に仕上がっているし、物語も笑いながら最後にちょっぴり涙が出ちゃう感動作品にも仕上がっている。
そして、過去と現在を結ぶ伏線が見事で、プロットと伏線がジグソー・パズルのようにピタっとはまる上、演出もお約束的に楽しめる作品なのだ。
個人的には、是非ヒットしていただきたいと思うのだ。
=+=+=+=+=+=+=
本作「ゴーストシャウト」は、東京テアトルが発起人となっているガリンペイロ・レーベルの作品である。
これは、新しい日本映画の才能を単館系エンターテイメントから発信する事を目的としたプロジェクトであり、本作はその高い志の下に製作された4本目の作品なのである。
このような孤高で良質なエンターテイメント作品は、きちんとプロモーションされ、きちんとヒットさせる必要があるのだ。
そして、このような真摯で良心的な作品がヒットするかどうか。それが今後の日本映画のあり方のひとつのカギになるのではないか、と思うのだ。
=+=+=+=+=+=+=
舞台挨拶は、前述のようにいろんな人が登場したが、個人的には南野陽子が興味深かった。
アイドル時代の営業の経験からか、挨拶やお辞儀の仕方から、トークでのアドリブの飛ばし方、割って入るタイミング、観客の視線の集め方等々、舞台慣れが感じられ、やはり普通の女優と違って、元アイドルは生に強いな、と思ってしまうのだ。
何と言っても滝沢沙織と南野陽子のお辞儀の角度が完全に違っていたのだ。
=+=+=+=+=+=+=
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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「戦争のはじめかた」
2004年12月10日 映画2004/12/09 東京有楽町「シネカノン有楽町」で「戦争のはじめかた」の試写を観た。
ベルリンの壁崩壊を目前にした1989年西ドイツ。
米ソ冷戦の緊張緩和も続き、シュツットガルトの米陸軍基地は平和ボケ状態に陥っていた。
レイ・エルウッド(ホアキン・フェニックス)はバーマン大佐(エド・ハリス)率いる第317補給部隊の事務を一任されていた。
そのバーマン大佐は退役後はワイン農家を営む夢を持ち、その夢を確実なものにするため、妻(エリザベス・マクガヴァン)と共に、ランカスター将軍(ディーン・ストックウェル)に取り入り、退役までになんとか将官になろうとしていた。
一方、頭の切れるエルウッドは、出世の事しか眼中にないバーマン大佐の影で、その立場を利用し、軍の物資を横流しするのは当然、さらにヘロインの精製とその卸にも関わっていた。
そんな中、基地内部の浄化を掲げたリー曹長(スコット・グレン)が新たに着任し、早速エルウッドに目を付け、彼の居室を検分する。リー曹長は二人部屋を一人で優雅に使用していたエルウッドのルーム・メイトとして新兵ノール(ガブリエル・マン)を送り込んできた。
そんなエルウッドは、リー曹長の出方をうかがおうと、娘ロビン(アンナ・パキン)に近づくのだが・・・・。
監督:グレゴール・ジョーダン
原作:ロバート・オコナー 『バッファロー・ソルジャーズ』(ハワカワ文庫刊)
出演:ホアキン・フェニックス、アンナ・パキン、エド・ハリス、スコット・グレン、エリザベス・マクガヴァン、ディーン・ストックウェル、ガブリエル・マン
本作「戦争のはじめかた」は、2001年9月にカナダの「トロント国際映画祭」でワールド・プレミア上映され絶賛され、ミラマックス社が急遽全米配給権を獲得したのだが、その翌日に911テロ事件が発生、米国内ではナショナリズムが高まり、「戦争のはじめかた」の評価は絶賛から酷評へと急降下、全米公開時期も二転三転し、結局は五度も公開が延期されてしまった、といういわくつきの作品である。
本作「戦争のはじめかた」は、本来規律が支配すべき軍内部、という閉鎖された環境においても、われわれの一般社会同様に、悪が台頭している様を真っ向から描いた作品で、例えば警察が腐敗していたり、学校が荒廃していたりするような作品と同様の方向性を持った作品だと言えよう。
しかしながら、作品のベクトルは同様だとしても、その舞台が軍隊である、という点から、本作の過激さは他の作品と比較して群を抜いているのではないか、と思うのだ。
何しろ、いくら平時とは言え、銃器や兵器が身の回りにごろごろしている環境であるし、また上官に抑圧された兵士は沸騰寸前の状況であり、後は弁を開け沸騰を待つだけの危険な状況下にある訳なのだから。
キャストは、何と言ってもレイ・エルウッドを演じたホアキン・フェニックスだろう。
観客の感情移入を拒む悪漢役をシニカルに、そしてブラックに見事に演じている。また本作は、レイ・エルウッドを主人公としたピカレスク・ロマンの様相も呈している。ホアキン・フェニックスの悪漢振りも楽しめるのだ。
最近大作ついているホアキン・フェニックスだが、こんな小品も良いと思うのだ。
また、リー曹長を演じたスコット・グレンだが、ちよっと前ならクリント・イーストウッドあたりが演じたであろう鬼軍曹(実際は曹長)振りを見事に発揮している。「羊たちの沈黙」のクロフォード主任捜査官だとは思えない圧倒的な存在感を楽しめる。
また名優エド・ハリスは無能な部隊長バーマン大佐をやわに演じており、「ライトスタッフ」で共演したスコット・グレンとの再共演も楽しめるのだが、如何せんエド・ハリス演じるバーマン大佐は情けなさ過ぎで、演技合戦はスコット・グレンに分があったようだ。強いぞスコット・グレン。
また、エルウッドのルーム・メイトのノールを演じたガブリエル・マンも良い味を出している。因みにガブリエル・マンは、「フルメタル・ジャケット」のマシュー・モディーンを髣髴とさせるキャラクターになっている。と言うか多分意識しているだろう。
また、女優陣だが、アンナ・パキンは最近作品に恵まれないようだが、結構印象的なキャラクターであるロビン・リーを見事に演じており、彼女はおそらく本作の良心的な部分を担っているのだろうと思う。
バーマン大佐の妻を演じるエリザベス・マクガヴァンは典型的な悪女を好演している。本当にエド・ハリスがかわいそうに見えてしまう。
本作「戦争のはじめかた」は、五度も全米公開が延期されたいわくつきの話題性だ、と言っても、その話題性だけではヒットは望めないといわざるを得ない。ついでに、ホアキン・フェニックスじゃ充分な観客を呼べないと思うのだ。
社会派的に考えると本作は秀作の部類に入るので、映画を沢山観ている人にとっては、観て損はない作品だと思うのだが、超大作娯楽映画が好きな人、年に30本も映画を観ない人にはオススメできる作品ではない、と思う。
=+=+=+=+=+=+=+=
ところで、本作のオープニング・アクションに相当する前半部分の戦車の暴走のシークエンスは、アクション・ファンには結構オススメできると思う。やっぱ戦車の走破性は凄いぞ。わかっちゃいるけど、あそこまでなかなか描けないと思う。
また、本作のポスター等のアートワークはどう考えても1970年の「M★A★S★H マッシュ」へのオマージュに満ちているのだが、とは言っても実際のところ「M★A★S★H マッシュ」には遠く及ばない、といったところだろうか。
更に、冒頭のシークエンスはどう見ても「博士の異常な愛情」だと思えるし、その後の国旗の映像は「パットン大戦車軍団」を髣髴とさせるぞ。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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ベルリンの壁崩壊を目前にした1989年西ドイツ。
米ソ冷戦の緊張緩和も続き、シュツットガルトの米陸軍基地は平和ボケ状態に陥っていた。
レイ・エルウッド(ホアキン・フェニックス)はバーマン大佐(エド・ハリス)率いる第317補給部隊の事務を一任されていた。
そのバーマン大佐は退役後はワイン農家を営む夢を持ち、その夢を確実なものにするため、妻(エリザベス・マクガヴァン)と共に、ランカスター将軍(ディーン・ストックウェル)に取り入り、退役までになんとか将官になろうとしていた。
一方、頭の切れるエルウッドは、出世の事しか眼中にないバーマン大佐の影で、その立場を利用し、軍の物資を横流しするのは当然、さらにヘロインの精製とその卸にも関わっていた。
そんな中、基地内部の浄化を掲げたリー曹長(スコット・グレン)が新たに着任し、早速エルウッドに目を付け、彼の居室を検分する。リー曹長は二人部屋を一人で優雅に使用していたエルウッドのルーム・メイトとして新兵ノール(ガブリエル・マン)を送り込んできた。
そんなエルウッドは、リー曹長の出方をうかがおうと、娘ロビン(アンナ・パキン)に近づくのだが・・・・。
監督:グレゴール・ジョーダン
原作:ロバート・オコナー 『バッファロー・ソルジャーズ』(ハワカワ文庫刊)
出演:ホアキン・フェニックス、アンナ・パキン、エド・ハリス、スコット・グレン、エリザベス・マクガヴァン、ディーン・ストックウェル、ガブリエル・マン
本作「戦争のはじめかた」は、2001年9月にカナダの「トロント国際映画祭」でワールド・プレミア上映され絶賛され、ミラマックス社が急遽全米配給権を獲得したのだが、その翌日に911テロ事件が発生、米国内ではナショナリズムが高まり、「戦争のはじめかた」の評価は絶賛から酷評へと急降下、全米公開時期も二転三転し、結局は五度も公開が延期されてしまった、といういわくつきの作品である。
本作「戦争のはじめかた」は、本来規律が支配すべき軍内部、という閉鎖された環境においても、われわれの一般社会同様に、悪が台頭している様を真っ向から描いた作品で、例えば警察が腐敗していたり、学校が荒廃していたりするような作品と同様の方向性を持った作品だと言えよう。
しかしながら、作品のベクトルは同様だとしても、その舞台が軍隊である、という点から、本作の過激さは他の作品と比較して群を抜いているのではないか、と思うのだ。
何しろ、いくら平時とは言え、銃器や兵器が身の回りにごろごろしている環境であるし、また上官に抑圧された兵士は沸騰寸前の状況であり、後は弁を開け沸騰を待つだけの危険な状況下にある訳なのだから。
キャストは、何と言ってもレイ・エルウッドを演じたホアキン・フェニックスだろう。
観客の感情移入を拒む悪漢役をシニカルに、そしてブラックに見事に演じている。また本作は、レイ・エルウッドを主人公としたピカレスク・ロマンの様相も呈している。ホアキン・フェニックスの悪漢振りも楽しめるのだ。
最近大作ついているホアキン・フェニックスだが、こんな小品も良いと思うのだ。
また、リー曹長を演じたスコット・グレンだが、ちよっと前ならクリント・イーストウッドあたりが演じたであろう鬼軍曹(実際は曹長)振りを見事に発揮している。「羊たちの沈黙」のクロフォード主任捜査官だとは思えない圧倒的な存在感を楽しめる。
また名優エド・ハリスは無能な部隊長バーマン大佐をやわに演じており、「ライトスタッフ」で共演したスコット・グレンとの再共演も楽しめるのだが、如何せんエド・ハリス演じるバーマン大佐は情けなさ過ぎで、演技合戦はスコット・グレンに分があったようだ。強いぞスコット・グレン。
また、エルウッドのルーム・メイトのノールを演じたガブリエル・マンも良い味を出している。因みにガブリエル・マンは、「フルメタル・ジャケット」のマシュー・モディーンを髣髴とさせるキャラクターになっている。と言うか多分意識しているだろう。
また、女優陣だが、アンナ・パキンは最近作品に恵まれないようだが、結構印象的なキャラクターであるロビン・リーを見事に演じており、彼女はおそらく本作の良心的な部分を担っているのだろうと思う。
バーマン大佐の妻を演じるエリザベス・マクガヴァンは典型的な悪女を好演している。本当にエド・ハリスがかわいそうに見えてしまう。
本作「戦争のはじめかた」は、五度も全米公開が延期されたいわくつきの話題性だ、と言っても、その話題性だけではヒットは望めないといわざるを得ない。ついでに、ホアキン・フェニックスじゃ充分な観客を呼べないと思うのだ。
社会派的に考えると本作は秀作の部類に入るので、映画を沢山観ている人にとっては、観て損はない作品だと思うのだが、超大作娯楽映画が好きな人、年に30本も映画を観ない人にはオススメできる作品ではない、と思う。
=+=+=+=+=+=+=+=
ところで、本作のオープニング・アクションに相当する前半部分の戦車の暴走のシークエンスは、アクション・ファンには結構オススメできると思う。やっぱ戦車の走破性は凄いぞ。わかっちゃいるけど、あそこまでなかなか描けないと思う。
また、本作のポスター等のアートワークはどう考えても1970年の「M★A★S★H マッシュ」へのオマージュに満ちているのだが、とは言っても実際のところ「M★A★S★H マッシュ」には遠く及ばない、といったところだろうか。
更に、冒頭のシークエンスはどう見ても「博士の異常な愛情」だと思えるし、その後の国旗の映像は「パットン大戦車軍団」を髣髴とさせるぞ。
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2004/12/08 東京九段下「九段会館大ホール」で「ターミナル」の試写を観た。
ニューヨーク、JFK国際空港。
ビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、東欧の小国クラコウジアから、ある大事な約束を果たすため、JFK国際空港に降り立った。
しかし、彼がクラコウジアを飛び立った直後、クーデターが発生、事実上国家が消滅してしまう。これによりパスポートが無効となったビクターは、アメリカへの入国を拒否されてしまう。
しかも情勢が安定するまでは帰国することもできず、空港内(インターナショナル・トランジット)に完全に足止めされてしまう。
英語も分からず通貨も持っていない彼は、やむを得ずこのターミナルの中で寝起きしながら事態の改善を待つのだったが・・・・。
監督:スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:トム・ハンクス(ビクター・ナボルスキー)、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ(アメリア・ウォーレン)、スタンリー・トゥッチ(フランク・ディクソン)、チー・マクブライド(ジョー・マルロイ)、ディエゴ・ルナ(エンリケ・クルズ)、バリー・シャバカ・ヘンリー(レイ)、ゾーイ・サルダナ(トーレス)、クマール・パラーナ(グプタ)
本作「ターミナル」は、面白おかしく、ちょっぴり涙がこぼれちゃう、万人にオススメの娯楽作品なのだ。
とは言うものの、作品自体は凡庸で、取り立てて見るべきところは無い。
勿論、本作「ターミナル」では、オスカー俳優たちの素晴らしい演技、小粋な脚本や展開、素敵な演出や音楽が楽しめるのだが、ただそれだけの作品なのである。
本当にこれで良いのかよ。とわたしは思う訳だ。
わたしの映画ファンとしてのキャリアは、スティーヴン・スピルバーグ監督作品との出会いから始まった、と言っても差支えは無いだろう。
それ以来わたしは、多くのスピルバーグ作品を追いかけながら大人になってきた訳である。
かつてのそんなスピルバーグ作品は、ドキドキ感ワクワク感に満ちていたし、作品自体も、リスクを恐れない孤高な映像作家の冒険心に輝いていた。
しかし残念ながら、近年のスビルバーグ作品には、その孤高さは影を潜め、商業主義がさの多くを占めているような印象を否定できない。
現在のわたしは、そんな最近のスピルバーグ監督作品に対して、「何としてでも観たい!」という欲求が湧かないのである。
何のために、こんな題材を映画にするんだ。
何のために、アカデミー賞受賞俳優なんかをキャスティングするんだ。
一体何のためにおまえはこんな映画を撮っているんだ。
こんなの誰にでも撮れるじゃないか。
おれ達は、おまえにしか撮れないような、スピリッツ溢れる映画が観たいんだよ。
「JAWS/ジョーズ」や「未知との遭遇」、「1941」や「フック」。そんなリスクを恐れない背筋の伸びた孤高で独創的で、作家性が十二分に感じられる作品が観たいのだ。
まあ、そんな状況ではあるが、本作「ターミナル」について考えてみよう。
基本プロットは面白いのだが、映画向きのプロットではなく、テレビ・シリーズ向きのプロットだと言えよう。
舞台を空港内に限定した所謂「シットコム」形式でテレビ・シリーズ化して、トム・ハンクスが出た日にゃー大ヒット間違いなしの長寿テレビ・シリーズになるのではないだろうか。
そして、映画として考えてみても、残念ながらフランス映画「パリ空港の人々」(1995)の影響が否定できない。
脚本は、セリフも粋だしキャラクター設定も明確、遊びの部分も含めて良く出来た脚本だと思う。
政治的問題で空港内に足止めされたビクターと、空港内で働く人々が仕事のためにある意味空港内に足止めされていると思わせる部分と、それらの人々とビクターとの対比が興味深く、空港から合法的に出て行こうとするビクターが、空港から出られない多くの人々の希望になっていくあたりが素晴らしいと思う。
また、空港を人種の坩堝(るつぼ)のメタファーとして機能させている点、更にアメリカ人を悪人に、マイノリティを善人に描いているのも興味深い。
また脚本上、同じシークエンスの繰り返しやバリエーションが、または明示的な伏線が興味深かった。
キャラクター設定は、ビクターを助ける3人の労働者たち、チー・マクブライド演じるジョー・マルロイ、ディエゴ・ルナ演じるエンリケ・クルズ、クマール・パラーナ演じるグプタが一番だと思うが、エンリケが恋するゾーイ・サルダナ演じるトーレスがトレッキーだという設定には仰け反った。スピルバーグ作品にトレッキーが登場するだけではなく、トレッキーのためのお笑いシークエンスを入れているあたりは、わたし的には驚愕だった。
また観客の視点となり、観客の良心として機能するバリー・シャバカ・ヘンリー演じるレイの設定も秀逸である。一本筋は通っているものの、悪く言えば「事勿れ主義者」的なキャラクターは、多くの一般市民のメタファーであり、それ故に、事勿れ主義者だったレイのラストの行動が観客に対して、自分たちもレイのように行動したいな、と思わせる素晴らしい効果を付与している。
とは言うものの、スタンリー・トゥッチ演じるフランク・ディクソンは、脚本上の、悪役を登場させる必要性のため、設定されたキャラクターである印象が拭いきれず、無理のあるキャラクター設定だと思う。この役柄は非常に損な役回りであり、スタンリー・トゥッチが好演しているだけに、残念な気がする。
音楽は印象に残る明確なテーマ性は無いものの、ジョン・ウィリアムズ節が楽しめる。
クライマックスでビクターがエスカレーターを降り、空港のドアに向かうシークエンスでかかる曲のオーケストレーションが、「JAWS/ジョーズ」で3人の男たちが鮫退治に向かう明るい曲を髣髴とさせていた。
まあ、とにかく本作「ターミナル」は、誰にでもオススメできる面白くてちょっぴり泣ける作品ではあるが、スピルバーグがわざわざ撮る必要がある種類の作品ではない、と言わざるを得ないのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=
最近のスピルバーグのフィルモグラフィーを見て欲しい。
スタンリー・キューブリック企画の「A.I.」はともかく、ほとんどが名前で客が呼べるスター俳優が主演している。
「ターミナル」(2004)
「マイノリティ・リポート」(2002)
「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002)
「A.I.」(2000)
「プライベート・ライアン」(1998)
誰が撮ってもヒットするような映画ばかり撮ってどうするんだよ。
鬼が金棒持ってどうするつもりだ。と思う訳なのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=
余談だが、「スタートレック」ファン爆笑のシークエンスが「ターミナル」に出てくるのだが、試写場でば笑ったのは、わたしだけだった。スピルバーグ作品に「スタートレック」ネタが出てきたのには驚かされた。
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ニューヨーク、JFK国際空港。
ビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、東欧の小国クラコウジアから、ある大事な約束を果たすため、JFK国際空港に降り立った。
しかし、彼がクラコウジアを飛び立った直後、クーデターが発生、事実上国家が消滅してしまう。これによりパスポートが無効となったビクターは、アメリカへの入国を拒否されてしまう。
しかも情勢が安定するまでは帰国することもできず、空港内(インターナショナル・トランジット)に完全に足止めされてしまう。
英語も分からず通貨も持っていない彼は、やむを得ずこのターミナルの中で寝起きしながら事態の改善を待つのだったが・・・・。
監督:スティーヴン・スピルバーグ
撮影:ヤヌス・カミンスキー
音楽:ジョン・ウィリアムズ
出演:トム・ハンクス(ビクター・ナボルスキー)、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ(アメリア・ウォーレン)、スタンリー・トゥッチ(フランク・ディクソン)、チー・マクブライド(ジョー・マルロイ)、ディエゴ・ルナ(エンリケ・クルズ)、バリー・シャバカ・ヘンリー(レイ)、ゾーイ・サルダナ(トーレス)、クマール・パラーナ(グプタ)
本作「ターミナル」は、面白おかしく、ちょっぴり涙がこぼれちゃう、万人にオススメの娯楽作品なのだ。
とは言うものの、作品自体は凡庸で、取り立てて見るべきところは無い。
勿論、本作「ターミナル」では、オスカー俳優たちの素晴らしい演技、小粋な脚本や展開、素敵な演出や音楽が楽しめるのだが、ただそれだけの作品なのである。
本当にこれで良いのかよ。とわたしは思う訳だ。
わたしの映画ファンとしてのキャリアは、スティーヴン・スピルバーグ監督作品との出会いから始まった、と言っても差支えは無いだろう。
それ以来わたしは、多くのスピルバーグ作品を追いかけながら大人になってきた訳である。
かつてのそんなスピルバーグ作品は、ドキドキ感ワクワク感に満ちていたし、作品自体も、リスクを恐れない孤高な映像作家の冒険心に輝いていた。
しかし残念ながら、近年のスビルバーグ作品には、その孤高さは影を潜め、商業主義がさの多くを占めているような印象を否定できない。
現在のわたしは、そんな最近のスピルバーグ監督作品に対して、「何としてでも観たい!」という欲求が湧かないのである。
何のために、こんな題材を映画にするんだ。
何のために、アカデミー賞受賞俳優なんかをキャスティングするんだ。
一体何のためにおまえはこんな映画を撮っているんだ。
こんなの誰にでも撮れるじゃないか。
おれ達は、おまえにしか撮れないような、スピリッツ溢れる映画が観たいんだよ。
「JAWS/ジョーズ」や「未知との遭遇」、「1941」や「フック」。そんなリスクを恐れない背筋の伸びた孤高で独創的で、作家性が十二分に感じられる作品が観たいのだ。
まあ、そんな状況ではあるが、本作「ターミナル」について考えてみよう。
基本プロットは面白いのだが、映画向きのプロットではなく、テレビ・シリーズ向きのプロットだと言えよう。
舞台を空港内に限定した所謂「シットコム」形式でテレビ・シリーズ化して、トム・ハンクスが出た日にゃー大ヒット間違いなしの長寿テレビ・シリーズになるのではないだろうか。
そして、映画として考えてみても、残念ながらフランス映画「パリ空港の人々」(1995)の影響が否定できない。
脚本は、セリフも粋だしキャラクター設定も明確、遊びの部分も含めて良く出来た脚本だと思う。
政治的問題で空港内に足止めされたビクターと、空港内で働く人々が仕事のためにある意味空港内に足止めされていると思わせる部分と、それらの人々とビクターとの対比が興味深く、空港から合法的に出て行こうとするビクターが、空港から出られない多くの人々の希望になっていくあたりが素晴らしいと思う。
また、空港を人種の坩堝(るつぼ)のメタファーとして機能させている点、更にアメリカ人を悪人に、マイノリティを善人に描いているのも興味深い。
また脚本上、同じシークエンスの繰り返しやバリエーションが、または明示的な伏線が興味深かった。
キャラクター設定は、ビクターを助ける3人の労働者たち、チー・マクブライド演じるジョー・マルロイ、ディエゴ・ルナ演じるエンリケ・クルズ、クマール・パラーナ演じるグプタが一番だと思うが、エンリケが恋するゾーイ・サルダナ演じるトーレスがトレッキーだという設定には仰け反った。スピルバーグ作品にトレッキーが登場するだけではなく、トレッキーのためのお笑いシークエンスを入れているあたりは、わたし的には驚愕だった。
また観客の視点となり、観客の良心として機能するバリー・シャバカ・ヘンリー演じるレイの設定も秀逸である。一本筋は通っているものの、悪く言えば「事勿れ主義者」的なキャラクターは、多くの一般市民のメタファーであり、それ故に、事勿れ主義者だったレイのラストの行動が観客に対して、自分たちもレイのように行動したいな、と思わせる素晴らしい効果を付与している。
とは言うものの、スタンリー・トゥッチ演じるフランク・ディクソンは、脚本上の、悪役を登場させる必要性のため、設定されたキャラクターである印象が拭いきれず、無理のあるキャラクター設定だと思う。この役柄は非常に損な役回りであり、スタンリー・トゥッチが好演しているだけに、残念な気がする。
音楽は印象に残る明確なテーマ性は無いものの、ジョン・ウィリアムズ節が楽しめる。
クライマックスでビクターがエスカレーターを降り、空港のドアに向かうシークエンスでかかる曲のオーケストレーションが、「JAWS/ジョーズ」で3人の男たちが鮫退治に向かう明るい曲を髣髴とさせていた。
まあ、とにかく本作「ターミナル」は、誰にでもオススメできる面白くてちょっぴり泣ける作品ではあるが、スピルバーグがわざわざ撮る必要がある種類の作品ではない、と言わざるを得ないのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=
最近のスピルバーグのフィルモグラフィーを見て欲しい。
スタンリー・キューブリック企画の「A.I.」はともかく、ほとんどが名前で客が呼べるスター俳優が主演している。
「ターミナル」(2004)
「マイノリティ・リポート」(2002)
「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」(2002)
「A.I.」(2000)
「プライベート・ライアン」(1998)
誰が撮ってもヒットするような映画ばかり撮ってどうするんだよ。
鬼が金棒持ってどうするつもりだ。と思う訳なのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=
余談だが、「スタートレック」ファン爆笑のシークエンスが「ターミナル」に出てくるのだが、試写場でば笑ったのは、わたしだけだった。スピルバーグ作品に「スタートレック」ネタが出てきたのには驚かされた。
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「ULTRAMAN」
2004年12月7日 映画
2004/12/07 東京神保町「日本教育会館一ツ橋ホール」で「ULTRAMAN」の試写を観た。
太平洋沖に墜落した未確認飛行物体を調査していた海上自衛隊二尉・有働貴文(大澄賢也)は、突如あらわれた「青い光」に遭遇。その発光体に接触した有働はその光の影響か、体質が変容してしまう。
自衛隊の特殊機関BCST(対バイオテロ研究機関)は秘密裏に有働を拘束し、水原沙羅(遠山景織子)を中心とした科学スタッフが有働の変容の経過観察を続けていた。
しかし、有働は遺伝子レベルの変質を遂げ、他の生物を取り込み、その能力を身に付け、凶悪なビースト「ザ・ワン」に変化し、BCSTの施設から脱走し行方をくらましてしまう。
3ケ月後。
航空自衛隊F15Jパイロットの真木舜一(別所哲也)は、先天性の疾患を持つ一人息子・継夢(広田亮平)と少しでも一緒の時間を持てるように、子供の頃からの夢であった戦闘機パイロットをやめ、自衛官を退官することを決意する。その最後の日、スクランブル出動した真木は「赤い発光体」と空中衝突してしまう。その発光体は・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:小中和哉
監修:円谷一夫
音楽監修:TAK MATSUMOTO(B’z)
撮影・VFXスーパーバイザー:大岡新一
フライングシーケンスディレクター:板野一郎
特技監督:菊地雄一
出演:別所哲也(真木舜一)、遠山景織子(水原沙羅)、大澄賢也(有働貴文)、裕木奈江(真木蓉子)、広田亮平(真木継夢)、永澤俊矢、隆大介、草刈正雄(万城目)
松竹のロゴに続く円谷プロのロゴだけで感涙モノなのだ。
本作「ULTRAMAN」は脚本も演技も凡庸だし、演出も単調でスローモー。物語自体も主要ターゲットである子供たちには難しすぎるだろうし、大人にとっても演技の間を取らせる演出と俳優の演技が上手く機能しておらず、展開がのんびりしているような印象を与える。
しかし、ここには怪獣映画文法に則った、背筋の伸びた素晴らしい怪獣映画が存在していた。
これは、ウルトラマンへの、怪獣への、そして何よりもウルトラマンを愛した多くの観客への熱い思いと愛情に満ちた素晴らしい作品なのだ。
先ずは、「初代ウルトラマン」の基本プロット(逃亡する怪獣を追いかけ、ウルトラマンが地球にやってくる)を踏襲したのが良い判断だったと思う。その単純で力強い運命的なプロットが作品を普遍的で神話的、そして観客の記憶に訴えかける印象的なものに昇華する事に成功している。
そして、最大の英断は、東映の「デビルマン」のように、何から何まで自社内で全部やるのではなく、それぞれ部分部分の製作を優秀な人材に外注している点である。
クレジットによると、航空機のCGIはこの会社、新宿副都心のビル街のCGIはこの会社、と言うように、その分野の技術と高いスキルを持った会社に、部分部分の製作を外注しているようなのだ。
そして何と言っても素晴らしいのは、フライングシーケンスディレクターとして板野一郎が参加している点だろう。
板野一郎と言えば、アニメの世界では、板野サーカスと呼ばれた戦闘機やミサイルが縦横無尽に空を舞う作画テクニックで一世を風靡したのだが、今回はなんと実写作品の製作に板野一郎が協力している訳だ。
ハリウッドでも、かつての手工業的な技術で一世を風靡した特撮クリエイターが後年CGIのクリエイターとして復活することが多々あるのだが、かの板野サーカスを実写で見られるとは、本当に素晴らしい時代になったものだ。
その気になる板野サーカスのシークエンスは、本作「ULTRAMAN」のキャッチ・コピー「高度3万フィート!6.5G!極限の一戦!!」が示すとおり、本作の最大の見せ場となっている。下手をすると映画史に残り、語り継がれるような素晴らしい空中戦に仕上がっているかも知れないのだ。本作の板野一郎をフィーチャーした空中戦は、確実に「平成ガメラ」シリーズを超えた、と思うのだ。
また新宿副都心を舞台にしたアクション・シークエンスも結構納得の行くものになっているし、「ザ・ワン」と「ザ・ネクスト」の着ぐるみ同士の格闘は面白いことに、なんだか「バーチャ・ファイター」の結城晶のような動き(八極拳?)の格闘が楽しめるのだ。
街並みと怪獣の描き方は、従来の手法であるビル街や建物のミニチュアの街並みで怪獣が暴れる、と言う手法から、CGIで作られた街並みや、実際の街並みの実写映像を背景に怪獣が暴れる、と言う手法への転換期が来ているようで、来年公開の「鉄人28号」で実現したような実際の街並みでロボットが大暴れするようなクオリティの高いシークエンスが楽しめる。
しかし、特撮の手法やアクション・シークエンスが良くても、本作の基本プロットや、脚本に沢山出てくる言葉は、怪獣映画の主要ターゲットである子供たちには難しいだろうし、真木一家の物語は「ウルトラマン」の物語の背景として、勿論必要なのは理解できるのだが、実際問題としては物語のスピードを著しく殺ぎ、退屈な印象を子供たちに与えてしまっている。
本作を子供向けの怪獣映画と捉えた場合、劇場に集まった子供等は退屈して、通路を走り回ってしまいそうな印象を受けたのだ。
勿論、子供以外のもうひとつのターゲット層として、かつての「ウルトラマン」に熱狂していた世代の存在は無視できず、製作サイドとしては、子供向けと言うよりは、大人向けとして製作されたような印象が否定できない。
果たして、それは怪獣映画にとって、良いことなのだろうか。
ところで、本作はお金の使い方も良いと思った。
ギャラが高そうなキャストを避け、中堅どころで手堅くまとめたキャストもそうだが、製作サイドが見せたい映像、ファンが見たい映像を具現化するためにのみ、お金を割いているのだ。
また航空自衛隊の協力を得たロケーション効果も素晴らしいし、
新宿副都心を封鎖した(ように見える)個々のカットも頑張っているし、自衛隊の車両や、戦闘機の実機を画面の端に映しているのも、お金をかけずにちょっとした知恵で雰囲気を醸し出す手法に好印象である。
また、広角レンズを多用した撮影も印象的であるし、また夕焼けをバックにして怪獣のシルエットや、対象物のアップ等、実相寺昭雄へのオマージュ的名カットも楽しい。
キャストは、別所哲也にしろ遠山景織子にしろ大澄賢也も裕木奈江も頑張っているのだが、やはりイマイチである。言い過ぎかも知れないが、キャストにはあまり見るべきところは無いと思う。
個人的にはイメージはともかく、役所広司クラスの俳優に「ウルトラマン」を演じて欲しかったと思うのだ。(その場合予算的に他の部分にしわ寄せが出てしまうだろうが・・・・)
とにかく本作「ULTRAMAN」は、東映の「デビルマン」の50倍くらい爽快だし、アクション・シーンも素晴らしい。悪魔的なデザインの「ザ・ワン」との空中戦も素晴らしい。打倒東映の気概が見え隠れする。
脚本や演技は残念ながらしょぼいが、基本プロットと展開、アクションが素晴らしい怪獣映画に仕上がっているのだ。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
参考になったらクリック!
http://blog.with2.net/link.php/29604
太平洋沖に墜落した未確認飛行物体を調査していた海上自衛隊二尉・有働貴文(大澄賢也)は、突如あらわれた「青い光」に遭遇。その発光体に接触した有働はその光の影響か、体質が変容してしまう。
自衛隊の特殊機関BCST(対バイオテロ研究機関)は秘密裏に有働を拘束し、水原沙羅(遠山景織子)を中心とした科学スタッフが有働の変容の経過観察を続けていた。
しかし、有働は遺伝子レベルの変質を遂げ、他の生物を取り込み、その能力を身に付け、凶悪なビースト「ザ・ワン」に変化し、BCSTの施設から脱走し行方をくらましてしまう。
3ケ月後。
航空自衛隊F15Jパイロットの真木舜一(別所哲也)は、先天性の疾患を持つ一人息子・継夢(広田亮平)と少しでも一緒の時間を持てるように、子供の頃からの夢であった戦闘機パイロットをやめ、自衛官を退官することを決意する。その最後の日、スクランブル出動した真木は「赤い発光体」と空中衝突してしまう。その発光体は・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:小中和哉
監修:円谷一夫
音楽監修:TAK MATSUMOTO(B’z)
撮影・VFXスーパーバイザー:大岡新一
フライングシーケンスディレクター:板野一郎
特技監督:菊地雄一
出演:別所哲也(真木舜一)、遠山景織子(水原沙羅)、大澄賢也(有働貴文)、裕木奈江(真木蓉子)、広田亮平(真木継夢)、永澤俊矢、隆大介、草刈正雄(万城目)
松竹のロゴに続く円谷プロのロゴだけで感涙モノなのだ。
本作「ULTRAMAN」は脚本も演技も凡庸だし、演出も単調でスローモー。物語自体も主要ターゲットである子供たちには難しすぎるだろうし、大人にとっても演技の間を取らせる演出と俳優の演技が上手く機能しておらず、展開がのんびりしているような印象を与える。
しかし、ここには怪獣映画文法に則った、背筋の伸びた素晴らしい怪獣映画が存在していた。
これは、ウルトラマンへの、怪獣への、そして何よりもウルトラマンを愛した多くの観客への熱い思いと愛情に満ちた素晴らしい作品なのだ。
先ずは、「初代ウルトラマン」の基本プロット(逃亡する怪獣を追いかけ、ウルトラマンが地球にやってくる)を踏襲したのが良い判断だったと思う。その単純で力強い運命的なプロットが作品を普遍的で神話的、そして観客の記憶に訴えかける印象的なものに昇華する事に成功している。
そして、最大の英断は、東映の「デビルマン」のように、何から何まで自社内で全部やるのではなく、それぞれ部分部分の製作を優秀な人材に外注している点である。
クレジットによると、航空機のCGIはこの会社、新宿副都心のビル街のCGIはこの会社、と言うように、その分野の技術と高いスキルを持った会社に、部分部分の製作を外注しているようなのだ。
そして何と言っても素晴らしいのは、フライングシーケンスディレクターとして板野一郎が参加している点だろう。
板野一郎と言えば、アニメの世界では、板野サーカスと呼ばれた戦闘機やミサイルが縦横無尽に空を舞う作画テクニックで一世を風靡したのだが、今回はなんと実写作品の製作に板野一郎が協力している訳だ。
ハリウッドでも、かつての手工業的な技術で一世を風靡した特撮クリエイターが後年CGIのクリエイターとして復活することが多々あるのだが、かの板野サーカスを実写で見られるとは、本当に素晴らしい時代になったものだ。
その気になる板野サーカスのシークエンスは、本作「ULTRAMAN」のキャッチ・コピー「高度3万フィート!6.5G!極限の一戦!!」が示すとおり、本作の最大の見せ場となっている。下手をすると映画史に残り、語り継がれるような素晴らしい空中戦に仕上がっているかも知れないのだ。本作の板野一郎をフィーチャーした空中戦は、確実に「平成ガメラ」シリーズを超えた、と思うのだ。
また新宿副都心を舞台にしたアクション・シークエンスも結構納得の行くものになっているし、「ザ・ワン」と「ザ・ネクスト」の着ぐるみ同士の格闘は面白いことに、なんだか「バーチャ・ファイター」の結城晶のような動き(八極拳?)の格闘が楽しめるのだ。
街並みと怪獣の描き方は、従来の手法であるビル街や建物のミニチュアの街並みで怪獣が暴れる、と言う手法から、CGIで作られた街並みや、実際の街並みの実写映像を背景に怪獣が暴れる、と言う手法への転換期が来ているようで、来年公開の「鉄人28号」で実現したような実際の街並みでロボットが大暴れするようなクオリティの高いシークエンスが楽しめる。
しかし、特撮の手法やアクション・シークエンスが良くても、本作の基本プロットや、脚本に沢山出てくる言葉は、怪獣映画の主要ターゲットである子供たちには難しいだろうし、真木一家の物語は「ウルトラマン」の物語の背景として、勿論必要なのは理解できるのだが、実際問題としては物語のスピードを著しく殺ぎ、退屈な印象を子供たちに与えてしまっている。
本作を子供向けの怪獣映画と捉えた場合、劇場に集まった子供等は退屈して、通路を走り回ってしまいそうな印象を受けたのだ。
勿論、子供以外のもうひとつのターゲット層として、かつての「ウルトラマン」に熱狂していた世代の存在は無視できず、製作サイドとしては、子供向けと言うよりは、大人向けとして製作されたような印象が否定できない。
果たして、それは怪獣映画にとって、良いことなのだろうか。
ところで、本作はお金の使い方も良いと思った。
ギャラが高そうなキャストを避け、中堅どころで手堅くまとめたキャストもそうだが、製作サイドが見せたい映像、ファンが見たい映像を具現化するためにのみ、お金を割いているのだ。
また航空自衛隊の協力を得たロケーション効果も素晴らしいし、
新宿副都心を封鎖した(ように見える)個々のカットも頑張っているし、自衛隊の車両や、戦闘機の実機を画面の端に映しているのも、お金をかけずにちょっとした知恵で雰囲気を醸し出す手法に好印象である。
また、広角レンズを多用した撮影も印象的であるし、また夕焼けをバックにして怪獣のシルエットや、対象物のアップ等、実相寺昭雄へのオマージュ的名カットも楽しい。
キャストは、別所哲也にしろ遠山景織子にしろ大澄賢也も裕木奈江も頑張っているのだが、やはりイマイチである。言い過ぎかも知れないが、キャストにはあまり見るべきところは無いと思う。
個人的にはイメージはともかく、役所広司クラスの俳優に「ウルトラマン」を演じて欲しかったと思うのだ。(その場合予算的に他の部分にしわ寄せが出てしまうだろうが・・・・)
とにかく本作「ULTRAMAN」は、東映の「デビルマン」の50倍くらい爽快だし、アクション・シーンも素晴らしい。悪魔的なデザインの「ザ・ワン」との空中戦も素晴らしい。打倒東映の気概が見え隠れする。
脚本や演技は残念ながらしょぼいが、基本プロットと展開、アクションが素晴らしい怪獣映画に仕上がっているのだ。
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2004/12/03 東京新橋「ヤクルトホール」で「ネバーランド」の試写を観た。
1903年ロンドン。華やかに着飾った人々で埋め尽くされたデューク・オブ・ヨーク劇場の片隅で、劇作家のジェームズ・バリ(ジョニー・デップ)は、居心地の悪い気分を味わっていた。初日を迎えた彼の新作「リトル・メアリー」に対する客席の反応は芳しくなかった。友人アーサー・コナン・ドイル卿(イアン・ハート)や、興行主チャールズ・フローマン(ダスティン・ホフマン)からも、あてこすりを言われる始末だ。
案の定、翌朝の新聞の劇評は最悪。失意のジェームズは、愛犬のポーソスを連れ、近くの公園へ日課の散歩に出かけた。そこで彼は、デイヴィス家の4人の兄弟とその母親との運命的な出会いを果たす。4人兄弟のうち、長男のジョージ(ニック・ラウド)、次男のジャック(ジョー・プロスペロ)、末っ子のマイケル(ルーク・スピル)は、母のシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)に連れられて来たその公園で、無邪気に騎士ごっこに興じていた。が、人一倍繊細な三男のピーター(フレディ・ハイモア)は、空想の世界に遊ぶことを拒絶し、一人だけ兄弟の遊びの輪から外れていた。それを見たジェームズは、愛犬をサーカスの熊に見立ててダンスを踊り、少年たちの拍手喝采を浴びる。別れ際、一家との再会を約束したジェームズは、心弾む気分で自宅へ戻った。
早速夕食の席で、妻のメアリー(ラダ・ミッチェル)に公園での出来事を話すジェームズ。それを聞いたメアリーは、夫をガンで亡くしたシルヴィアが、社交界の名士である母のデュ・モーリエ夫人(ジュリー・クリスティ)の援助で暮らしていることを教える。野心家のメアリーは、この出会いがデュ・モーリエ夫人に近づくチャンスになると考え、ジェームズに一家を夕食に招待するようにすすめたが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:マーク・フォースター
出演:ジョニー・デップ(ジェームズ・マシュー・バリ)、フレディ・ハイモア(ピーター・ルウェリン・デイヴィス)、ニック・ラウド(ジョージ・ルウェリン・デイヴィス)、ジョー・プロスペロ(ジャック・ルウェリン・デイヴィス)、ルーク・スピル(マイケル・ルウェリン・デイヴィス)、ケイト・ウィンスレット(シルヴィア・ルウェリン・デイヴィス)、ジュリー・クリスティ(デュ・モーリエ夫人)、ダスティン・ホフマン(チャールズ・フローマン)、ラダ・ミッチェル(メアリー・アンセル・バリ)、イアン・ハート(アーサー・コナン・ドイル卿)、ケリー・マクドナルド(ピーター・パン)
一言で言うなれば、本作「ネバーランド」は、最高に素晴らしい大傑作である。
ついでに言うならば、号泣必須であり、滂沱状態であり、2004年正月映画最高の涙腺破壊兵器と言えるのだ。
特にクライマックスの、映画ならではの素晴らしい演出が凄すぎる。それは、舞台でも、テレビでも、小説でも真似が出来ない素晴らしい映像体験なのだ。
その映像体験が涙腺を破壊し滂沱の地平にぼくらを連れて行ってくれるのだ。
あぁ、映画とは何て素晴らしいんだろう。
映画と言うものが、本当に素晴らしいメディアである、と感じさせてくれる素晴らしい瞬間なのだ。
キャストは何と言ってもジョニー・デップだろう。
最近外見に特徴を持つキャラクターを演じ続けているジョニー・デップだが、内面は特徴的な性格を持っているのだが、外見的にはいたって普通の人物であるバリを見事に演じている。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」等でデップの俄ファンになったような人々にとっては、今回のデップはもしかすると退屈で、あまりにも普通の演技のように見えるかも知れないが、そんな静かで慈愛に満ち、夢見がちでいながら苦悩するバリの姿が嬉しくも悲しい。
そしてダスティン・ホフマンである。スティーヴン・スピルバーグの「フック」でフック船長を演じたダスティン・ホフマンをキャスティングするとは、何て素晴らしいのだろう。
物語上、ジェームズ・バリは当然の如く、永遠の少年ピーター・パンのメタファーとして機能すると同時に、デイヴィス家は勿論ダーリング家の暗喩なのだ。それではフック船長は?そう勿論、興行主のチャールズ・フローマンその人なのだ。
出来ることなら、一瞬登場するネバーランドのフック船長をダスティン・ホフマンに演じて欲しかったのだ。と思う。
希望的観測か気の迷いかわからないが、クレジット上は勿論異なるのだが、涙でスクリーンが歪んで見えていたわたしにとって、フック船長はダスティン・ホフマンだったのだ。
ところで物語は、劇作家として、壁にぶちあたってしまったジェームズ・バリが、ダーリング家のウェンディ、ジョン、マイケル、そしてネバーランドのピーター・パンを髣髴とさせるデイヴィス家の人々と(想像の力で)冒険した様子を描いた戯曲「ピーター・パン」を完成させ、初演を迎えるまでの物語である。
リアリストである少年ピーターと大人の癖に夢ばかり見ているバリの対比が興味深い。
ある意味、夢ばかり見ているダメな大人をリアリストの少年が悟らせるのか、ダメな大人が老成した少年に、夢を見る力を授けるのか、が興味深い訳だ。
そして前述のクライマックスのシークエンスにしろ何にしろ、バリらの夢(想像)を具現化しているシークエンスが最高に素晴らしいのだ。
また戯曲「ピーター・パン」を上演する舞台装置も単純だが非常に力強く、圧倒的な感動を与えてくれる。
例えばそれは、物語の中、舞台でピーター・パンを演じたケリー・マクドナルド等の素晴らしい演技に因るものだろう。そしてクライマックスのケリー・マクドナルドの演技は確実に「魔法の力」を持っているのだ。
脚本は一言で言えば素晴らしいのだが、ちょっと気になったのは、クライマックスに向けての、メアリーとジェームズのバリ夫婦の不和を描く描写や、シルヴィアの病気にはイライラさせられた。
勿論、その辺の描写のおかげでクライマックスのカタルシスが倍増するのだが、個人的には、「おいおいそんな細かい描写はいらないから、早く舞台を映せよ」と言う気持ちになったのは事実である。
出来ることなら、「ピーター・パン」の舞台全編を見たいと思ったわけだ。
舞台と言えば本作は「バロン」と比較しても面白いと思うし、ジョニー・デップとダスティン・ホフマンの競演と言うことから考えると監督のマーク・フォースターは、ティム・バートンとスティーヴン・スピルバーグの融合を果たそうとしていたのではないか、と勘ぐってしまう。
スピルバーグの嗜好は異常なほど、ディズニー・アニメへの傾倒が見え隠れするし、「ピーター・パン」については、「フック」や「A.I.」で言及しているし、ジョニー・デップのキャラクターは、ティム・バートンその人を描いているような印象を受けてしまうのだ。
そして、ジョニー・デップのキャラクターは「ビッグ・フィッシュ」をも髣髴とさせるような設定を感じてしまう。
本作「ネバーランド」は、はっきり言って最高の傑作である。
とりあえず、観ろ!なのだ。
☆☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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1903年ロンドン。華やかに着飾った人々で埋め尽くされたデューク・オブ・ヨーク劇場の片隅で、劇作家のジェームズ・バリ(ジョニー・デップ)は、居心地の悪い気分を味わっていた。初日を迎えた彼の新作「リトル・メアリー」に対する客席の反応は芳しくなかった。友人アーサー・コナン・ドイル卿(イアン・ハート)や、興行主チャールズ・フローマン(ダスティン・ホフマン)からも、あてこすりを言われる始末だ。
案の定、翌朝の新聞の劇評は最悪。失意のジェームズは、愛犬のポーソスを連れ、近くの公園へ日課の散歩に出かけた。そこで彼は、デイヴィス家の4人の兄弟とその母親との運命的な出会いを果たす。4人兄弟のうち、長男のジョージ(ニック・ラウド)、次男のジャック(ジョー・プロスペロ)、末っ子のマイケル(ルーク・スピル)は、母のシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)に連れられて来たその公園で、無邪気に騎士ごっこに興じていた。が、人一倍繊細な三男のピーター(フレディ・ハイモア)は、空想の世界に遊ぶことを拒絶し、一人だけ兄弟の遊びの輪から外れていた。それを見たジェームズは、愛犬をサーカスの熊に見立ててダンスを踊り、少年たちの拍手喝采を浴びる。別れ際、一家との再会を約束したジェームズは、心弾む気分で自宅へ戻った。
早速夕食の席で、妻のメアリー(ラダ・ミッチェル)に公園での出来事を話すジェームズ。それを聞いたメアリーは、夫をガンで亡くしたシルヴィアが、社交界の名士である母のデュ・モーリエ夫人(ジュリー・クリスティ)の援助で暮らしていることを教える。野心家のメアリーは、この出会いがデュ・モーリエ夫人に近づくチャンスになると考え、ジェームズに一家を夕食に招待するようにすすめたが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:マーク・フォースター
出演:ジョニー・デップ(ジェームズ・マシュー・バリ)、フレディ・ハイモア(ピーター・ルウェリン・デイヴィス)、ニック・ラウド(ジョージ・ルウェリン・デイヴィス)、ジョー・プロスペロ(ジャック・ルウェリン・デイヴィス)、ルーク・スピル(マイケル・ルウェリン・デイヴィス)、ケイト・ウィンスレット(シルヴィア・ルウェリン・デイヴィス)、ジュリー・クリスティ(デュ・モーリエ夫人)、ダスティン・ホフマン(チャールズ・フローマン)、ラダ・ミッチェル(メアリー・アンセル・バリ)、イアン・ハート(アーサー・コナン・ドイル卿)、ケリー・マクドナルド(ピーター・パン)
一言で言うなれば、本作「ネバーランド」は、最高に素晴らしい大傑作である。
ついでに言うならば、号泣必須であり、滂沱状態であり、2004年正月映画最高の涙腺破壊兵器と言えるのだ。
特にクライマックスの、映画ならではの素晴らしい演出が凄すぎる。それは、舞台でも、テレビでも、小説でも真似が出来ない素晴らしい映像体験なのだ。
その映像体験が涙腺を破壊し滂沱の地平にぼくらを連れて行ってくれるのだ。
あぁ、映画とは何て素晴らしいんだろう。
映画と言うものが、本当に素晴らしいメディアである、と感じさせてくれる素晴らしい瞬間なのだ。
キャストは何と言ってもジョニー・デップだろう。
最近外見に特徴を持つキャラクターを演じ続けているジョニー・デップだが、内面は特徴的な性格を持っているのだが、外見的にはいたって普通の人物であるバリを見事に演じている。
「パイレーツ・オブ・カリビアン」等でデップの俄ファンになったような人々にとっては、今回のデップはもしかすると退屈で、あまりにも普通の演技のように見えるかも知れないが、そんな静かで慈愛に満ち、夢見がちでいながら苦悩するバリの姿が嬉しくも悲しい。
そしてダスティン・ホフマンである。スティーヴン・スピルバーグの「フック」でフック船長を演じたダスティン・ホフマンをキャスティングするとは、何て素晴らしいのだろう。
物語上、ジェームズ・バリは当然の如く、永遠の少年ピーター・パンのメタファーとして機能すると同時に、デイヴィス家は勿論ダーリング家の暗喩なのだ。それではフック船長は?そう勿論、興行主のチャールズ・フローマンその人なのだ。
出来ることなら、一瞬登場するネバーランドのフック船長をダスティン・ホフマンに演じて欲しかったのだ。と思う。
希望的観測か気の迷いかわからないが、クレジット上は勿論異なるのだが、涙でスクリーンが歪んで見えていたわたしにとって、フック船長はダスティン・ホフマンだったのだ。
ところで物語は、劇作家として、壁にぶちあたってしまったジェームズ・バリが、ダーリング家のウェンディ、ジョン、マイケル、そしてネバーランドのピーター・パンを髣髴とさせるデイヴィス家の人々と(想像の力で)冒険した様子を描いた戯曲「ピーター・パン」を完成させ、初演を迎えるまでの物語である。
リアリストである少年ピーターと大人の癖に夢ばかり見ているバリの対比が興味深い。
ある意味、夢ばかり見ているダメな大人をリアリストの少年が悟らせるのか、ダメな大人が老成した少年に、夢を見る力を授けるのか、が興味深い訳だ。
そして前述のクライマックスのシークエンスにしろ何にしろ、バリらの夢(想像)を具現化しているシークエンスが最高に素晴らしいのだ。
また戯曲「ピーター・パン」を上演する舞台装置も単純だが非常に力強く、圧倒的な感動を与えてくれる。
例えばそれは、物語の中、舞台でピーター・パンを演じたケリー・マクドナルド等の素晴らしい演技に因るものだろう。そしてクライマックスのケリー・マクドナルドの演技は確実に「魔法の力」を持っているのだ。
脚本は一言で言えば素晴らしいのだが、ちょっと気になったのは、クライマックスに向けての、メアリーとジェームズのバリ夫婦の不和を描く描写や、シルヴィアの病気にはイライラさせられた。
勿論、その辺の描写のおかげでクライマックスのカタルシスが倍増するのだが、個人的には、「おいおいそんな細かい描写はいらないから、早く舞台を映せよ」と言う気持ちになったのは事実である。
出来ることなら、「ピーター・パン」の舞台全編を見たいと思ったわけだ。
舞台と言えば本作は「バロン」と比較しても面白いと思うし、ジョニー・デップとダスティン・ホフマンの競演と言うことから考えると監督のマーク・フォースターは、ティム・バートンとスティーヴン・スピルバーグの融合を果たそうとしていたのではないか、と勘ぐってしまう。
スピルバーグの嗜好は異常なほど、ディズニー・アニメへの傾倒が見え隠れするし、「ピーター・パン」については、「フック」や「A.I.」で言及しているし、ジョニー・デップのキャラクターは、ティム・バートンその人を描いているような印象を受けてしまうのだ。
そして、ジョニー・デップのキャラクターは「ビッグ・フィッシュ」をも髣髴とさせるような設定を感じてしまう。
本作「ネバーランド」は、はっきり言って最高の傑作である。
とりあえず、観ろ!なのだ。
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2004/12/04 東京池袋「シネ・リーブル池袋」で「恋の門」を観た。
新しいアルバイト先「ウレシー商事」に向かう、蒼木門(あおきもん/松田龍平)は、道端で見つけたハート型の石を拾おうとした手を、証恋乃(あかしこいの/酒井若菜)に踏まれてしまう。会社に急ぐ恋乃は門に詫び、パンを門に渡し、行ってしまう。
そんな門は、石で漫画を描く自称「漫画芸術家」。石の漫画など当然売れる訳もなく、当然の如くアルバイトで生活費を稼いでいた。おまけに、ハタチを過ぎても門は童貞だった。
踏まれた手を手当し「ウレシー商事」に到着する門は、初日から遅刻するとは何事だ、と幹部(尾美としのり)に叱られる。なんとそこには恋乃も勤めていたのだ。
そんな恋乃は、昼は普通のOLだが帰宅後はコスプレを楽しみ、同人誌の売れっ子漫画家だった。
その夜、門は自分の歓迎会の最中、先輩社員と喧嘩しギタギタにされてしまう。引きずられるように恋乃の部屋に向かった門は、一晩を過ごしてしまう。
互いに惹かれ合う二人。だが「芸術」と「オタク」という、相反する感性同志がぶつかり合い、惹かれ合うと同時に二人は反発しあっていた。お互いを知るためにと、恋乃はある旅行の提案をする。それはアニメソング界の人気者・安部セイキ(皆川猿時)様のファンの集い一泊旅行だった。
お金が無い門は、ウインドウに飾られた石に惹かれ入った「漫画バー・ペン」でアルバイトをすることになる。バーのオーナー毬藻田(松尾スズキ)は、かつての売れっ子漫画家だった。そして・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督・脚本:松尾スズキ
原作:羽生生純 『恋の門』(エンターブレイン刊)
出演:松田龍平(蒼木門)、酒井若菜(証恋乃)、松尾スズキ(毬藻田)、忌野清志郎(浴衣)、小島聖(園決理/メジナ)、塚本晋也(野呂)、尾美としのり(「ウレシー商会」幹部)、大竹まこと(門の父)、筒井真理子(門の母)、平泉成(恋乃のパパ/証圭一郎)、大竹しのぶ(恋乃のママ/証泰子)、三池崇史(イメクラ店長)、庵野秀明(旅館の親父)、安野モヨコ(旅館の女将)、高橋征也(キンゴ)
本作「恋の門」はとっても楽しいコメディ映画に仕上がっている。一見、CMやPV業界あがりの監督作品に見られるような、展開が早くガチャガチャした印象の作品ではあるが、舞台あがりの監督の作品という事もあり、微妙な間と勿論演出が楽しめる、舞台テイストを含んだ作品だと言える。
先ずは脚本が面白い。
尤もセリフは、舞台のセリフのように、理屈っぽくて早口、噛みそうで噛まない、まるで登場人物同士のバトルのようなセリフの応酬なのだ。しかもそのセリフは「オタク文化」特有の、暗喩や婉曲話法に満ちた難解なセリフなのだ。
また一つの長セリフの中に、そのセリフのテンションやキャラクターの感情に変化を持たせた起伏あるセリフが印象的である。
まるで舞台の独白のようなセリフの中、登場人物はいきなり激昂し、または失意のどん底に叩き落され、それに対し他の登場人物が、突っ込んでいるのだ。これは口から出てしまった「心の声」に対し登場人物が反応、さらに反応しあっている、と言う感じなのだ。
つまり、物語内部にいる自分と、自らの行動を冷静に観察している自分が共に存在し、自らが自らの行動や言動にツッコミを入れているような印象を受けるように脚本が構成されているのだ。
これは「オタク文化」への批判的精神に因るものかも知れないし、自らを含んだ「オタク文化」に対する自虐的なスタンスに因るものなのかも知れない。
そして、そのあたりは「コスプレ」という仮面(ペルソナ)を物語の導入した点も興味深い。
「コスプレ」をすることにより恋乃は別の人格を創造しているのだ。恋乃の中には、「コスプレ」を演じる自分と、それを眺める素の自分が共存しているのだ。
また登場人物の多くが恋乃同様、二面性を持ったキャラクターとして設定されているのも興味深い。つまり、恋乃の「コスプレ」は、他のキャラクターの二面性を解りやすく表現するための一つの手法として機能しているのだ。
また「コスプレ」好きのキャククターを登場させる事は、他の二面性を持つキャラクターに対する観客の理解を助ける事に役立っている。
キャストだが、先ずは酒井若菜の熱演であろう。所謂巨乳アイドルの枠にくくれない、何か(something)の存在を感じるのだ。
濡れ場は濡れ場として考えると物足りない感は否めないが、現役アイドルにしては濃厚なキス・シーンが多く、結構頑張った、と評価したい。
松田龍平は、まあ良いのだが、浅野忠信の演技スタイルにどんどん似てくる印象が否定できない。セリフのボソボソ感は浅野にそっくりではないだろうか。
出番は少ないが大竹しのぶはやはり凄い。彼女の周りの空気が違う。あんな役柄(失礼)でも、周りを十分に感動させる力を見せてくれている。
また、豪華なキャストが一癖もふた癖もあるような人物を嬉々として演じているのが楽しい。わたしは従来からカメオを不必要だとするスタンスを取っているが、本作「恋の門」では、物語の進行を止め、観客を現実世界に戻してしまうようなカメオはなかった。全ての役者が与えられた役目を見事に果たしているのである。
結局のところ、本作「恋の門」は、ただ単にガチャガチャしたジェット・コースター・ムービーに留まらず、結構奥が深い作品に仕上がった松尾スズキの意欲作であり、是非多くの人に観ていただきたい作品だと思う。
酒井若菜は所謂体当り演技です。
=+=+=+=+=
今回わたしは「恋の門」を「シネ・リーブル池袋」のレイトで観たのだが、「恋の門」のプリントの状態が悪かった。もしかしたら映写機の光量の問題かもしれないが。
「シネ・リーブル池袋」に確認したところ、「恋の門」はデジタル上映ではなくフィルムで上映している、という事なので、おそらくキネコの時点でプリントが綺麗に仕上がっていないのだと思う。
症状としては画面が著しく暗く、コントラストが不足している。勿論映写機の光量や光量に対するスクリーン・サイズの問題もあるかも知れないのだが、実際問題として、本編中の非常に重要なシークエンスのひとつである漫画を描くシーンなのだが、ペン入れしているカットはともかく、鉛筆で絵を描くカットが、何を描いているのか判別できないのだ。これはこの作品の致命的な所だと思うぞ。
=+=+=+=+=
余談だが、本作で沢山登場した漫画「同人誌」についてだが、今回気付いたのは、「同人誌」と言うものは、インディーズ作品だという事である。
あたり前だと言われればそれまでなのだが、「同人誌」とは、例えばインディーズ・バンドのデモCDや、自主制作映像作品みたいなものなのだ、と言うことである。
「同人誌」を読んで喜んでいるのは、我々映画ファンが嬉々として、自主制作映像作品を観たり、新人映像作家の作品を観て、今後の可能性を論評したりしているのと、同じ事なのだと言う事である。わたしの中で、「同人誌」と言うものに対する理解が深まった瞬間である。
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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新しいアルバイト先「ウレシー商事」に向かう、蒼木門(あおきもん/松田龍平)は、道端で見つけたハート型の石を拾おうとした手を、証恋乃(あかしこいの/酒井若菜)に踏まれてしまう。会社に急ぐ恋乃は門に詫び、パンを門に渡し、行ってしまう。
そんな門は、石で漫画を描く自称「漫画芸術家」。石の漫画など当然売れる訳もなく、当然の如くアルバイトで生活費を稼いでいた。おまけに、ハタチを過ぎても門は童貞だった。
踏まれた手を手当し「ウレシー商事」に到着する門は、初日から遅刻するとは何事だ、と幹部(尾美としのり)に叱られる。なんとそこには恋乃も勤めていたのだ。
そんな恋乃は、昼は普通のOLだが帰宅後はコスプレを楽しみ、同人誌の売れっ子漫画家だった。
その夜、門は自分の歓迎会の最中、先輩社員と喧嘩しギタギタにされてしまう。引きずられるように恋乃の部屋に向かった門は、一晩を過ごしてしまう。
互いに惹かれ合う二人。だが「芸術」と「オタク」という、相反する感性同志がぶつかり合い、惹かれ合うと同時に二人は反発しあっていた。お互いを知るためにと、恋乃はある旅行の提案をする。それはアニメソング界の人気者・安部セイキ(皆川猿時)様のファンの集い一泊旅行だった。
お金が無い門は、ウインドウに飾られた石に惹かれ入った「漫画バー・ペン」でアルバイトをすることになる。バーのオーナー毬藻田(松尾スズキ)は、かつての売れっ子漫画家だった。そして・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督・脚本:松尾スズキ
原作:羽生生純 『恋の門』(エンターブレイン刊)
出演:松田龍平(蒼木門)、酒井若菜(証恋乃)、松尾スズキ(毬藻田)、忌野清志郎(浴衣)、小島聖(園決理/メジナ)、塚本晋也(野呂)、尾美としのり(「ウレシー商会」幹部)、大竹まこと(門の父)、筒井真理子(門の母)、平泉成(恋乃のパパ/証圭一郎)、大竹しのぶ(恋乃のママ/証泰子)、三池崇史(イメクラ店長)、庵野秀明(旅館の親父)、安野モヨコ(旅館の女将)、高橋征也(キンゴ)
本作「恋の門」はとっても楽しいコメディ映画に仕上がっている。一見、CMやPV業界あがりの監督作品に見られるような、展開が早くガチャガチャした印象の作品ではあるが、舞台あがりの監督の作品という事もあり、微妙な間と勿論演出が楽しめる、舞台テイストを含んだ作品だと言える。
先ずは脚本が面白い。
尤もセリフは、舞台のセリフのように、理屈っぽくて早口、噛みそうで噛まない、まるで登場人物同士のバトルのようなセリフの応酬なのだ。しかもそのセリフは「オタク文化」特有の、暗喩や婉曲話法に満ちた難解なセリフなのだ。
また一つの長セリフの中に、そのセリフのテンションやキャラクターの感情に変化を持たせた起伏あるセリフが印象的である。
まるで舞台の独白のようなセリフの中、登場人物はいきなり激昂し、または失意のどん底に叩き落され、それに対し他の登場人物が、突っ込んでいるのだ。これは口から出てしまった「心の声」に対し登場人物が反応、さらに反応しあっている、と言う感じなのだ。
つまり、物語内部にいる自分と、自らの行動を冷静に観察している自分が共に存在し、自らが自らの行動や言動にツッコミを入れているような印象を受けるように脚本が構成されているのだ。
これは「オタク文化」への批判的精神に因るものかも知れないし、自らを含んだ「オタク文化」に対する自虐的なスタンスに因るものなのかも知れない。
そして、そのあたりは「コスプレ」という仮面(ペルソナ)を物語の導入した点も興味深い。
「コスプレ」をすることにより恋乃は別の人格を創造しているのだ。恋乃の中には、「コスプレ」を演じる自分と、それを眺める素の自分が共存しているのだ。
また登場人物の多くが恋乃同様、二面性を持ったキャラクターとして設定されているのも興味深い。つまり、恋乃の「コスプレ」は、他のキャラクターの二面性を解りやすく表現するための一つの手法として機能しているのだ。
また「コスプレ」好きのキャククターを登場させる事は、他の二面性を持つキャラクターに対する観客の理解を助ける事に役立っている。
キャストだが、先ずは酒井若菜の熱演であろう。所謂巨乳アイドルの枠にくくれない、何か(something)の存在を感じるのだ。
濡れ場は濡れ場として考えると物足りない感は否めないが、現役アイドルにしては濃厚なキス・シーンが多く、結構頑張った、と評価したい。
松田龍平は、まあ良いのだが、浅野忠信の演技スタイルにどんどん似てくる印象が否定できない。セリフのボソボソ感は浅野にそっくりではないだろうか。
出番は少ないが大竹しのぶはやはり凄い。彼女の周りの空気が違う。あんな役柄(失礼)でも、周りを十分に感動させる力を見せてくれている。
また、豪華なキャストが一癖もふた癖もあるような人物を嬉々として演じているのが楽しい。わたしは従来からカメオを不必要だとするスタンスを取っているが、本作「恋の門」では、物語の進行を止め、観客を現実世界に戻してしまうようなカメオはなかった。全ての役者が与えられた役目を見事に果たしているのである。
結局のところ、本作「恋の門」は、ただ単にガチャガチャしたジェット・コースター・ムービーに留まらず、結構奥が深い作品に仕上がった松尾スズキの意欲作であり、是非多くの人に観ていただきたい作品だと思う。
酒井若菜は所謂体当り演技です。
=+=+=+=+=
今回わたしは「恋の門」を「シネ・リーブル池袋」のレイトで観たのだが、「恋の門」のプリントの状態が悪かった。もしかしたら映写機の光量の問題かもしれないが。
「シネ・リーブル池袋」に確認したところ、「恋の門」はデジタル上映ではなくフィルムで上映している、という事なので、おそらくキネコの時点でプリントが綺麗に仕上がっていないのだと思う。
症状としては画面が著しく暗く、コントラストが不足している。勿論映写機の光量や光量に対するスクリーン・サイズの問題もあるかも知れないのだが、実際問題として、本編中の非常に重要なシークエンスのひとつである漫画を描くシーンなのだが、ペン入れしているカットはともかく、鉛筆で絵を描くカットが、何を描いているのか判別できないのだ。これはこの作品の致命的な所だと思うぞ。
=+=+=+=+=
余談だが、本作で沢山登場した漫画「同人誌」についてだが、今回気付いたのは、「同人誌」と言うものは、インディーズ作品だという事である。
あたり前だと言われればそれまでなのだが、「同人誌」とは、例えばインディーズ・バンドのデモCDや、自主制作映像作品みたいなものなのだ、と言うことである。
「同人誌」を読んで喜んでいるのは、我々映画ファンが嬉々として、自主制作映像作品を観たり、新人映像作家の作品を観て、今後の可能性を論評したりしているのと、同じ事なのだと言う事である。わたしの中で、「同人誌」と言うものに対する理解が深まった瞬間である。
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2004/10/28 東京九段下「九段会館大ホール」にて「恋文日和」の試写を観た。
先ず本作「恋文日和」の構成なのだが、本作はラブレターをモチーフにしたジョージ朝倉の同名人気コミックの映画化作品であり、その原作コミックから人気が高い「あたしをしらないキミへ」「イカルスの恋人たち」「雪に咲く花」の3篇を映像化し、「便せん日和」と言うブリッジ・ストーリーで繋いだ形態のオムニバス作品集的構成を持った作品である。
都合4篇の監督とキャストがそれぞれ異なっており、4篇の独立した物語として楽しめると同時に今流行の群像劇としても楽しめる作品に構成されている。
しかしながらラブレターをモチーフとした作品であるため、題材や世界観は現代的ではあるが、何故か懐かしくもクラシックな印象を観客に与える作品に仕上がっている。
先ず驚いたのは、「便せん日和」の映像のクオリティである。
他の3篇のエピソードのクオリティはともかく、ブリッジ・ストーリーとして機能する、言わば作品全体を考えた場合、ファーストカットとラストカットを含む最重要なエピソードである「便せん日和」の映像のクオリティが著しく低いのである。
本作は全てビデオ撮りの作品なのだが、他の3篇はビスタサイズで映像のクオリティもそこそこである。
しかし「便せん日和」はスタンダード・サイズで画質は最悪、色も飛び、モアレが発生している。
おそらく民生用(下手をすると1CCD)のデジタルビデオカメラで撮影・編集した素材をキネカする際(ビデオをフィルムに焼く際)、工程が上手く行かなかったのではないかと勘ぐってしまう程、劇場公開作品としては近年まれに見る画質の悪さなのだ。
尤もこれは、試写で使用されたフィルムだけの問題かも知れないが、念の為、付記しておく事とした。
「あたしをしらないキミへ」
監督・脚本:大森美香
出演:村川絵梨(文子)、弓削智久(増村保志)、真木よう子(片瀬理乃)
オクテな文子(村川絵梨)と、全身タトゥーで近寄りがたい増村クン(弓削智久)。
文子は、ひとりきりになりたい時、こっそり入る立入禁止の学校の屋上で、卒業した先輩の片瀬さん(真木よう子)あてのラブ・レターを拾う。それはあの怖い増村クンが書いたものだった・・・・。
外見上は恐ろしい男が、実は繊細な心を持っており、おとなしいヒロインと結ばれる、と言う少女マンガ的には定番中の定番、多くの女性が夢見る物語なのだが、手紙のやり取りの方法が秀逸であり、かつラストのシークエンスの手紙が程よいカタルシスを観客に味合せている。理想的な物語である。
「雪に咲く花」
監督:須賀大観
脚本:佐藤善木
出演:小松彩夏(宮下千雪)、田中圭(神代陽司)、田中要次
「あたし、たぶん消えちゃうけど、覚えていて。・・・あなたにだけは、わずかな断片だけでいいから、覚えていてほしい」。差出人の名前が無い手紙を受け取った陽司(田中圭)は、もしかして同級生の宮下千雪(小松彩夏)からの手紙ではないかと考え・・・・。
500円で援助交際をする、という噂がある美少女の最後の冬の日々、薄幸な美少女と朴訥な少年の心の交流を見事に描いている。物語としては小松彩夏演じる可憐で儚げな少女がおじさん相手に援助交際をしているとなると、本作のコンセプトにそぐわないダークで陰惨な印象を観客に与えかねないのだが、脚本は微妙なバランスを保ち、土俵際で踏みとどまり、物語はラストの感動的な手紙に繋がっていく。少年期からの脱却(成長)とほのかで儚げな希望を感じさせてくれる秀作である。
おそらく、4篇のエピソードの中では、一番印象的なエピソードになっているのではないだろうか。
春になると消えてしまう、そんな「千雪」という役名が最高なのだ。その千雪を演じた小松彩夏が素晴らしい。
「イカルスの恋人たち」
監督:永田琴恵
脚本:松田裕子
出演:玉山鉄二(康一)、塚本高史(健二)、當山奈央(玉音)
堅物の兄・康一(玉山鉄二)とまったくそりが合わなかった弟・健二(塚本高史)。康一が死んだ後、健二は兄が残した手紙とビデオテープを遺品の中から見つける。
「恋人に渡してくれ」と書かれた手紙に書かれた場所を訪ねてみると、そこには中国人・玉音(ユーイン/當山奈央)が・・・・。ずっと堅物だと思っていた兄の、まったく知らなかった別の顔を健二は知らされたるが・・・・。
突然亡くなった兄貴が恋人に残したビデオレターを弟が渡しに行く、と言う設定だけで涙腺破壊兵器の資格は十分である。ついでに、兄弟の不和というスパイスが振りまかれているのだから、さあ大変。勿論想像通りの作品だと想うが、それは逆説的には普遍的で誰にでも受け入れられる物語だと言える訳だ。勿論感動です。
當山奈央が好演。
「便せん日和」
監督:高成麻畝子
脚本:岡本貴也
出演:中越典子(永野美子)、大倉孝二(鈴森一成)、森ほさち(杉原万里子)
レターセットショップの主任(大倉孝二)を想い、何通も何通も書いたラブレターを一通も投函できない店員・美子(中越典子)。
一方、鈴森(大倉孝二)は、毎週金曜日の同じ時間に、同じ商品を必ず買いに来る女性客(森ほさち)に恋心を抱いていた。
美子は自分の主任への気持ちを隠し、女性客にアタックするよう鈴森にけしかけるが・・・・。
前述のように画質はガタガタであるが、映画全体を引き締め、繋ぐブリッジ・ストーリーとして機能するエピソードである。
物語としては若干弱いかなと思うのだが、深刻にならず過度なユーモアとペーソスを散りばめながら進む物語は、せつない乙女心とせつない男心の両方を見事に描いている。
両性にアピールする素晴らしい脚本を持ったエピソードである
中越典子、大倉孝二が好演している。
(あらすじはオフィシャル・サイトよりほぼ引用)
本作「恋文日和」のコンセプトは、現代のIT社会において、最早旧時代の情報伝達方法である「手紙」の復権と、回顧を目的としているようで、「手紙」ならではの4篇のエピソードが織りなす瑞々しくも鮮烈なイメージは、観客の心情を十分揺り動かす力を持っている。
結局、本作「恋文日和」は、「手紙」など書いた事も、もらった事もないような世代の人達に是非見ていただきたい作品だと思う一方、「手紙」を普通にやり取りしていた世代の人々にも、ああ昔はこんなだったな、と昔を懐かしませる作品にも仕上がっている。
そして本作は、世の中が便利になればなるほど、人間という奴は確実にダメになっていっている。そんな事を再確認させてくれる良質の作品だとも言えるのだ。
この時代、携帯やメールを使わない人生も楽しいのかも知れないのだ。
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先ず本作「恋文日和」の構成なのだが、本作はラブレターをモチーフにしたジョージ朝倉の同名人気コミックの映画化作品であり、その原作コミックから人気が高い「あたしをしらないキミへ」「イカルスの恋人たち」「雪に咲く花」の3篇を映像化し、「便せん日和」と言うブリッジ・ストーリーで繋いだ形態のオムニバス作品集的構成を持った作品である。
都合4篇の監督とキャストがそれぞれ異なっており、4篇の独立した物語として楽しめると同時に今流行の群像劇としても楽しめる作品に構成されている。
しかしながらラブレターをモチーフとした作品であるため、題材や世界観は現代的ではあるが、何故か懐かしくもクラシックな印象を観客に与える作品に仕上がっている。
先ず驚いたのは、「便せん日和」の映像のクオリティである。
他の3篇のエピソードのクオリティはともかく、ブリッジ・ストーリーとして機能する、言わば作品全体を考えた場合、ファーストカットとラストカットを含む最重要なエピソードである「便せん日和」の映像のクオリティが著しく低いのである。
本作は全てビデオ撮りの作品なのだが、他の3篇はビスタサイズで映像のクオリティもそこそこである。
しかし「便せん日和」はスタンダード・サイズで画質は最悪、色も飛び、モアレが発生している。
おそらく民生用(下手をすると1CCD)のデジタルビデオカメラで撮影・編集した素材をキネカする際(ビデオをフィルムに焼く際)、工程が上手く行かなかったのではないかと勘ぐってしまう程、劇場公開作品としては近年まれに見る画質の悪さなのだ。
尤もこれは、試写で使用されたフィルムだけの問題かも知れないが、念の為、付記しておく事とした。
「あたしをしらないキミへ」
監督・脚本:大森美香
出演:村川絵梨(文子)、弓削智久(増村保志)、真木よう子(片瀬理乃)
オクテな文子(村川絵梨)と、全身タトゥーで近寄りがたい増村クン(弓削智久)。
文子は、ひとりきりになりたい時、こっそり入る立入禁止の学校の屋上で、卒業した先輩の片瀬さん(真木よう子)あてのラブ・レターを拾う。それはあの怖い増村クンが書いたものだった・・・・。
外見上は恐ろしい男が、実は繊細な心を持っており、おとなしいヒロインと結ばれる、と言う少女マンガ的には定番中の定番、多くの女性が夢見る物語なのだが、手紙のやり取りの方法が秀逸であり、かつラストのシークエンスの手紙が程よいカタルシスを観客に味合せている。理想的な物語である。
「雪に咲く花」
監督:須賀大観
脚本:佐藤善木
出演:小松彩夏(宮下千雪)、田中圭(神代陽司)、田中要次
「あたし、たぶん消えちゃうけど、覚えていて。・・・あなたにだけは、わずかな断片だけでいいから、覚えていてほしい」。差出人の名前が無い手紙を受け取った陽司(田中圭)は、もしかして同級生の宮下千雪(小松彩夏)からの手紙ではないかと考え・・・・。
500円で援助交際をする、という噂がある美少女の最後の冬の日々、薄幸な美少女と朴訥な少年の心の交流を見事に描いている。物語としては小松彩夏演じる可憐で儚げな少女がおじさん相手に援助交際をしているとなると、本作のコンセプトにそぐわないダークで陰惨な印象を観客に与えかねないのだが、脚本は微妙なバランスを保ち、土俵際で踏みとどまり、物語はラストの感動的な手紙に繋がっていく。少年期からの脱却(成長)とほのかで儚げな希望を感じさせてくれる秀作である。
おそらく、4篇のエピソードの中では、一番印象的なエピソードになっているのではないだろうか。
春になると消えてしまう、そんな「千雪」という役名が最高なのだ。その千雪を演じた小松彩夏が素晴らしい。
「イカルスの恋人たち」
監督:永田琴恵
脚本:松田裕子
出演:玉山鉄二(康一)、塚本高史(健二)、當山奈央(玉音)
堅物の兄・康一(玉山鉄二)とまったくそりが合わなかった弟・健二(塚本高史)。康一が死んだ後、健二は兄が残した手紙とビデオテープを遺品の中から見つける。
「恋人に渡してくれ」と書かれた手紙に書かれた場所を訪ねてみると、そこには中国人・玉音(ユーイン/當山奈央)が・・・・。ずっと堅物だと思っていた兄の、まったく知らなかった別の顔を健二は知らされたるが・・・・。
突然亡くなった兄貴が恋人に残したビデオレターを弟が渡しに行く、と言う設定だけで涙腺破壊兵器の資格は十分である。ついでに、兄弟の不和というスパイスが振りまかれているのだから、さあ大変。勿論想像通りの作品だと想うが、それは逆説的には普遍的で誰にでも受け入れられる物語だと言える訳だ。勿論感動です。
當山奈央が好演。
「便せん日和」
監督:高成麻畝子
脚本:岡本貴也
出演:中越典子(永野美子)、大倉孝二(鈴森一成)、森ほさち(杉原万里子)
レターセットショップの主任(大倉孝二)を想い、何通も何通も書いたラブレターを一通も投函できない店員・美子(中越典子)。
一方、鈴森(大倉孝二)は、毎週金曜日の同じ時間に、同じ商品を必ず買いに来る女性客(森ほさち)に恋心を抱いていた。
美子は自分の主任への気持ちを隠し、女性客にアタックするよう鈴森にけしかけるが・・・・。
前述のように画質はガタガタであるが、映画全体を引き締め、繋ぐブリッジ・ストーリーとして機能するエピソードである。
物語としては若干弱いかなと思うのだが、深刻にならず過度なユーモアとペーソスを散りばめながら進む物語は、せつない乙女心とせつない男心の両方を見事に描いている。
両性にアピールする素晴らしい脚本を持ったエピソードである
中越典子、大倉孝二が好演している。
(あらすじはオフィシャル・サイトよりほぼ引用)
本作「恋文日和」のコンセプトは、現代のIT社会において、最早旧時代の情報伝達方法である「手紙」の復権と、回顧を目的としているようで、「手紙」ならではの4篇のエピソードが織りなす瑞々しくも鮮烈なイメージは、観客の心情を十分揺り動かす力を持っている。
結局、本作「恋文日和」は、「手紙」など書いた事も、もらった事もないような世代の人達に是非見ていただきたい作品だと思う一方、「手紙」を普通にやり取りしていた世代の人々にも、ああ昔はこんなだったな、と昔を懐かしませる作品にも仕上がっている。
そして本作は、世の中が便利になればなるほど、人間という奴は確実にダメになっていっている。そんな事を再確認させてくれる良質の作品だとも言えるのだ。
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2004/12/01 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「血と骨」を観た。当日は「映画の日」の特別イベントとして、崔洋一のトークショーが行われた。
「血と骨」というタイトルから、多くの人が連想するのは、イエス・キリストの「肉と血」ではなかろうか。事実わたしも「血と骨」と言うタイトルから、本作はキリスト教的世界観に則った物語ではないかと思っていたし、もしかすると本作の主人公を救世主に準えているのではないか、とも思っていた。また同時に、勿論逆説的にではあるが、「血と骨」は反キリスト者を描いている作品なのではないか、とも思っていた。
ところで、東洋では人間や生物(哺乳類)一般を「肉が詰まった袋」と表現することがあり、西洋では同様に人間や生物を「骨が詰まった袋」と表現する事がある。東洋と西洋の文化の差異を把握した上で三段論法的に考えると、「骨」と「肉」とは同義である、という事が出来るのではないだろうか。
そう考えた場合、当然の如く「血と骨」は「肉と血」と同義であると考える事が出来る訳だ。
そう考えた場合、「血と骨」と言う作品は、キリスト教を信奉する人々にとって、キリスト教を冒涜するような印象を与えかねないインパクトのある作品に仕上がっていると考えられるのである。
それを裏付けるかのように、本作「血と骨」では、キリスト教的観点から演出されているのではないか、と思えるような象徴的な描写が散見できる。
例えば、茶碗の欠片で腕の静脈を切り、自分の血を飲め、と金成貴(塩見三省)に迫る金俊平(ビートたけし)であったり、在日朝鮮人長屋の祝祭に豚を屠り振舞う金俊平。暴力とSEXに明け暮れながらも、限られた人々に不器用ながらも愛情を注ぐ金俊平・・・・。
そしてあたるを幸いに、一般的な道理が通じない、理由のわからない暴力を振るう金俊平の姿は、在日朝鮮人長屋と言う限定され閉鎖された空間における「災害(天災)」のメタファーとしても捉える事が出来る。そして、そこから論理を飛躍させると、金俊平は「神の雷(いかずち)」を具現化した存在だと解釈する事も出来る訳だ。
ここまで来ると金俊平は救世主イエス・キリストではなく、限定された世界の「嫉む神ヤハウェ(Yahweh)」のメタファーとして捉える事が出来るのではないだろうか。
ここまで読んで来て、何考えてるんだ、論理が飛躍しすぎだよ、と思う人もいると思うのだが、少なくても梁石日が自らの小説に「血と骨」というタイトルを付けた以上、自らの作品とキリスト教との関係は明らかであると思うのだ。
しかし、それを踏まえて本作「血と骨」を観ると、主人公金俊平のキャラクターを描くより、金俊平を取巻く市井の人々を描く事に尺が割かれているような気がする。
そして金俊平を捕らえるカメラは一歩引いた冷徹な視点を持っており、金俊平の感情の動きを捕らえるのではなく、感情移入を拒むかのように、金俊平の行動を真正直に冷淡に捕らえているのである。
浜田毅(撮影)のカメラは、金俊平の行動原理を解き明かすことはせず、ただ淡々と金俊平の行動、言わば天災のようなものを描いているのだ。そして胸を張り、背筋を伸ばし災害に立ち向う人々を描写しているのだ。
キャストは、誰もが言うように、ビートたけしの内に闇を秘めた様が素晴らしかった。しかし映画ファンとしては、普通の俳優に演じて欲しかったと思うのだ。ビートたけしは好演しているのだが、かつてのコントの記憶が時々顔を出してしまうのだ。
鈴木京香にしろオダギリジョーにしろ、濱田マリにしろ田畑智子にしろ、陳腐な表現だが体当り演技を見せてくれている。勿論評価すべきなのだが、本作「血と骨」については全てのキャストが与えられた仕事を100%以上の力を出して演技合戦に興じているのだから仕方が無い。正に文字通り戦いにも似た演技合戦なのだ。
あと特筆すべきは新井浩文だろう。最近話題作には必ず顔を出す、注目の俳優だが、映画によって全く違うキャラクターを演じ分けているのだ。多分近作のスチールにしろ、映像にしろ並べてみても、同一人物だとは思えないのではないだろうか。勿論顔はおんなじだが。
またオダギリジョーも良い俳優になってきたと思う。彼はこういった路線の方が良いのではないかと思う。
更に、出番は少ないながら二役を演じた伊藤淳史(龍一/俊平の少年時代)も良かった。
美術(磯見俊裕)にしろ照明(高屋齋)にしろ素晴らしい仕事をしており、「血と骨」の世界観の構築を助けている。特に美術、小道具(プロップ)が素晴らしい。
脚本は、金俊平を取巻く人々のみを描き、凡庸な脚本家であれば、背景として取り入れるであろう、時代の大きなうねりが割愛されている点には、個人的には良い印象を受けた。
本作「血と骨」は中身が薄い娯楽映画に慣れ親しんだ観客にとっては、面白くもなく退屈で、暴力を極端に取り入れた酷い映画のように受取れるかもしれない。
しかしながら、俳優の素晴らしい演技合戦が楽しめる素晴らしい映画に仕上がっている。
文芸大作とはこういうものなのだ。
=+=+=+=+=+=+=
崔洋一のトークショーは、映画の内容ではなく、映画がどのように企画され、製作されて来たかが中心となっていた。
原作を読み、ビートたけしにオファーし、鈴木京香、濱田マリ、オダギリジョー等が集まり、最早挙げた手を下ろせない状況だった、と言うような話が興味深かった。
トークショー後は、プレゼント抽選会や握手会があり、わたしは事前に準備していたパンフレットにサインを貰った。
余談だが、俳優や監督にサインを貰うには、事前準備が必要だと思うのだ。ペンは勿論、サインを貰うスチールや書籍、パンフレット等を事前に準備する必要がある。あとはタイミングなのだ。
因みに、ペンは黒と銀の2種類あれば、たいていの物には見映え良くサインが映える。
=+=+=+=+=+=+=
余談だが、金花子についてだが、わたしの記憶違いかも知れないのだが、子役から田畑智子になった後に、再度子役に戻っていたような気がする。具体的にはマッコリを張賛明(柏原収史)に薦めるシーンから 金花子は田畑智子が演じているのだが、その後の室内のシーンで、金花子は子役の俳優に再び戻っていたような気がするのだ。わたしの記憶違いか、シーンの入れ替えがあったための苦肉の策なのか、謎である。
更に余談だが、ラスト近辺の金俊平の姿はスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のボーマン船長を髣髴とさせる。
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「血と骨」というタイトルから、多くの人が連想するのは、イエス・キリストの「肉と血」ではなかろうか。事実わたしも「血と骨」と言うタイトルから、本作はキリスト教的世界観に則った物語ではないかと思っていたし、もしかすると本作の主人公を救世主に準えているのではないか、とも思っていた。また同時に、勿論逆説的にではあるが、「血と骨」は反キリスト者を描いている作品なのではないか、とも思っていた。
ところで、東洋では人間や生物(哺乳類)一般を「肉が詰まった袋」と表現することがあり、西洋では同様に人間や生物を「骨が詰まった袋」と表現する事がある。東洋と西洋の文化の差異を把握した上で三段論法的に考えると、「骨」と「肉」とは同義である、という事が出来るのではないだろうか。
そう考えた場合、当然の如く「血と骨」は「肉と血」と同義であると考える事が出来る訳だ。
そう考えた場合、「血と骨」と言う作品は、キリスト教を信奉する人々にとって、キリスト教を冒涜するような印象を与えかねないインパクトのある作品に仕上がっていると考えられるのである。
それを裏付けるかのように、本作「血と骨」では、キリスト教的観点から演出されているのではないか、と思えるような象徴的な描写が散見できる。
例えば、茶碗の欠片で腕の静脈を切り、自分の血を飲め、と金成貴(塩見三省)に迫る金俊平(ビートたけし)であったり、在日朝鮮人長屋の祝祭に豚を屠り振舞う金俊平。暴力とSEXに明け暮れながらも、限られた人々に不器用ながらも愛情を注ぐ金俊平・・・・。
そしてあたるを幸いに、一般的な道理が通じない、理由のわからない暴力を振るう金俊平の姿は、在日朝鮮人長屋と言う限定され閉鎖された空間における「災害(天災)」のメタファーとしても捉える事が出来る。そして、そこから論理を飛躍させると、金俊平は「神の雷(いかずち)」を具現化した存在だと解釈する事も出来る訳だ。
ここまで来ると金俊平は救世主イエス・キリストではなく、限定された世界の「嫉む神ヤハウェ(Yahweh)」のメタファーとして捉える事が出来るのではないだろうか。
ここまで読んで来て、何考えてるんだ、論理が飛躍しすぎだよ、と思う人もいると思うのだが、少なくても梁石日が自らの小説に「血と骨」というタイトルを付けた以上、自らの作品とキリスト教との関係は明らかであると思うのだ。
しかし、それを踏まえて本作「血と骨」を観ると、主人公金俊平のキャラクターを描くより、金俊平を取巻く市井の人々を描く事に尺が割かれているような気がする。
そして金俊平を捕らえるカメラは一歩引いた冷徹な視点を持っており、金俊平の感情の動きを捕らえるのではなく、感情移入を拒むかのように、金俊平の行動を真正直に冷淡に捕らえているのである。
浜田毅(撮影)のカメラは、金俊平の行動原理を解き明かすことはせず、ただ淡々と金俊平の行動、言わば天災のようなものを描いているのだ。そして胸を張り、背筋を伸ばし災害に立ち向う人々を描写しているのだ。
キャストは、誰もが言うように、ビートたけしの内に闇を秘めた様が素晴らしかった。しかし映画ファンとしては、普通の俳優に演じて欲しかったと思うのだ。ビートたけしは好演しているのだが、かつてのコントの記憶が時々顔を出してしまうのだ。
鈴木京香にしろオダギリジョーにしろ、濱田マリにしろ田畑智子にしろ、陳腐な表現だが体当り演技を見せてくれている。勿論評価すべきなのだが、本作「血と骨」については全てのキャストが与えられた仕事を100%以上の力を出して演技合戦に興じているのだから仕方が無い。正に文字通り戦いにも似た演技合戦なのだ。
あと特筆すべきは新井浩文だろう。最近話題作には必ず顔を出す、注目の俳優だが、映画によって全く違うキャラクターを演じ分けているのだ。多分近作のスチールにしろ、映像にしろ並べてみても、同一人物だとは思えないのではないだろうか。勿論顔はおんなじだが。
またオダギリジョーも良い俳優になってきたと思う。彼はこういった路線の方が良いのではないかと思う。
更に、出番は少ないながら二役を演じた伊藤淳史(龍一/俊平の少年時代)も良かった。
美術(磯見俊裕)にしろ照明(高屋齋)にしろ素晴らしい仕事をしており、「血と骨」の世界観の構築を助けている。特に美術、小道具(プロップ)が素晴らしい。
脚本は、金俊平を取巻く人々のみを描き、凡庸な脚本家であれば、背景として取り入れるであろう、時代の大きなうねりが割愛されている点には、個人的には良い印象を受けた。
本作「血と骨」は中身が薄い娯楽映画に慣れ親しんだ観客にとっては、面白くもなく退屈で、暴力を極端に取り入れた酷い映画のように受取れるかもしれない。
しかしながら、俳優の素晴らしい演技合戦が楽しめる素晴らしい映画に仕上がっている。
文芸大作とはこういうものなのだ。
=+=+=+=+=+=+=
崔洋一のトークショーは、映画の内容ではなく、映画がどのように企画され、製作されて来たかが中心となっていた。
原作を読み、ビートたけしにオファーし、鈴木京香、濱田マリ、オダギリジョー等が集まり、最早挙げた手を下ろせない状況だった、と言うような話が興味深かった。
トークショー後は、プレゼント抽選会や握手会があり、わたしは事前に準備していたパンフレットにサインを貰った。
余談だが、俳優や監督にサインを貰うには、事前準備が必要だと思うのだ。ペンは勿論、サインを貰うスチールや書籍、パンフレット等を事前に準備する必要がある。あとはタイミングなのだ。
因みに、ペンは黒と銀の2種類あれば、たいていの物には見映え良くサインが映える。
=+=+=+=+=+=+=
余談だが、金花子についてだが、わたしの記憶違いかも知れないのだが、子役から田畑智子になった後に、再度子役に戻っていたような気がする。具体的にはマッコリを張賛明(柏原収史)に薦めるシーンから 金花子は田畑智子が演じているのだが、その後の室内のシーンで、金花子は子役の俳優に再び戻っていたような気がするのだ。わたしの記憶違いか、シーンの入れ替えがあったための苦肉の策なのか、謎である。
更に余談だが、ラスト近辺の金俊平の姿はスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のボーマン船長を髣髴とさせる。
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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2004年の目標!! 中間発表その11
2004年12月1日 映画さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その11です。
とりあえず目標の再確認を・・・・
目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」
1.映画
#107 「爆裂都市」サイエンスホール 2004/11/01
#108 「パニッシャー」ヤクルトホール 2004/11/02
#109 「ソウ」VTC 六本木シネマズ スクリーン7 2004/11/04
#110 「Boundin’(原題/短編)」九段会館ホール 2004/11/13
#111 「Mr.インクレディブル」九段会館ホール 2004/11/13
#112 「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」九段会館ホール 2004/11/15
#113 「ハウルの動く城」VTC 六本木シネマズ プレミア・スクリーン 2004/11/16
#114 「笑の大学」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/11/19
#115 「カナリア」朝日ホール 2004/11/20
#116 「雲の南へ」朝日ホール 2004/11/21
#117 「おそいひと」朝日ホール 2004/11/21
#118 「柔道龍虎榜」朝日ホール 2004/11/22
#119 「カンフーハッスル」東京国際フォーラムAホール 2004/11/24
#120 「2046」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/11/26
#121 「ふたりにクギづけ」千代田区公会堂 2004/11/28
#122 「僕の彼女を紹介します」九段会館ホール 2004/11/29
2.DVD、CATV等
#167 「リロ&スティッチ」CATV 2004/11/03
#168 「デッドコースター」CATV 2004/11/05
#169 「くたばれ!ハリウッド」HDD 2004/11/05
#170 「ファム・ファタール」CATV 2004/11/06
#171 「ヴァイブレータ」CATV 2004/11/06
#172 「アリ・G」CATV 2004/11/07
#173 「いつか誰かが殺される」CATV 2004/11/11
#174 「なつかしの顔」CATV 2004/11/11
#175 「麻雀放浪記」CATV 2004/11/11
#176 「悪霊島」CATV 2004/11/11
#177 「カンニング・モンキー 天中拳」HDD 2004/11/12
#178 「少林寺木人拳」HDD 2004/11/12
#179 「地獄甲子園」HDD 2004/11/13
#180 「地獄甲子園外伝 ラーメンバカ一代(短編)」HDD 2004/11/13
#181 「漫☆画太郎SHOW ババアゾーン(他)」HDD 2004/11/13
#182 「ゴジラ対ヘドラ」CATV 2004/11/17
#183 「トーク・トゥ・ハー」CATV 2004/11/17
#184 「シュレック」DVD 2004/11/23
#185 「シュレック2」DVD 2004/11/23
3.読書
#035 「隠し剣孤影抄」藤沢周平著 文春文庫 2004/11/08
#036 「時雨のあと」藤沢周平著 新潮文庫 2004/11/19
#037 「魔法使いハウルと火の悪魔」ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著 西村醇子訳 徳間書店 2004/11/27
映画は、劇場16本(累計122本)、DVD等19本(累計185本)で、計35本(累計307本)。300本を超えまして、目標達成です。
このままのペースで、年間335本(劇場133本)です。
読書は3冊(累計37冊)で、このままのペースでは、年間40冊です。
映画は300本を超え、目標を達成しました。しかし、読書の状況は最悪です。
※ 参考 昨年同時期の状況
映画 288本(劇場70本)
読書 55冊
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とりあえず目標の再確認を・・・・
目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」
1.映画
#107 「爆裂都市」サイエンスホール 2004/11/01
#108 「パニッシャー」ヤクルトホール 2004/11/02
#109 「ソウ」VTC 六本木シネマズ スクリーン7 2004/11/04
#110 「Boundin’(原題/短編)」九段会館ホール 2004/11/13
#111 「Mr.インクレディブル」九段会館ホール 2004/11/13
#112 「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」九段会館ホール 2004/11/15
#113 「ハウルの動く城」VTC 六本木シネマズ プレミア・スクリーン 2004/11/16
#114 「笑の大学」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/11/19
#115 「カナリア」朝日ホール 2004/11/20
#116 「雲の南へ」朝日ホール 2004/11/21
#117 「おそいひと」朝日ホール 2004/11/21
#118 「柔道龍虎榜」朝日ホール 2004/11/22
#119 「カンフーハッスル」東京国際フォーラムAホール 2004/11/24
#120 「2046」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/11/26
#121 「ふたりにクギづけ」千代田区公会堂 2004/11/28
#122 「僕の彼女を紹介します」九段会館ホール 2004/11/29
2.DVD、CATV等
#167 「リロ&スティッチ」CATV 2004/11/03
#168 「デッドコースター」CATV 2004/11/05
#169 「くたばれ!ハリウッド」HDD 2004/11/05
#170 「ファム・ファタール」CATV 2004/11/06
#171 「ヴァイブレータ」CATV 2004/11/06
#172 「アリ・G」CATV 2004/11/07
#173 「いつか誰かが殺される」CATV 2004/11/11
#174 「なつかしの顔」CATV 2004/11/11
#175 「麻雀放浪記」CATV 2004/11/11
#176 「悪霊島」CATV 2004/11/11
#177 「カンニング・モンキー 天中拳」HDD 2004/11/12
#178 「少林寺木人拳」HDD 2004/11/12
#179 「地獄甲子園」HDD 2004/11/13
#180 「地獄甲子園外伝 ラーメンバカ一代(短編)」HDD 2004/11/13
#181 「漫☆画太郎SHOW ババアゾーン(他)」HDD 2004/11/13
#182 「ゴジラ対ヘドラ」CATV 2004/11/17
#183 「トーク・トゥ・ハー」CATV 2004/11/17
#184 「シュレック」DVD 2004/11/23
#185 「シュレック2」DVD 2004/11/23
3.読書
#035 「隠し剣孤影抄」藤沢周平著 文春文庫 2004/11/08
#036 「時雨のあと」藤沢周平著 新潮文庫 2004/11/19
#037 「魔法使いハウルと火の悪魔」ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著 西村醇子訳 徳間書店 2004/11/27
映画は、劇場16本(累計122本)、DVD等19本(累計185本)で、計35本(累計307本)。300本を超えまして、目標達成です。
このままのペースで、年間335本(劇場133本)です。
読書は3冊(累計37冊)で、このままのペースでは、年間40冊です。
映画は300本を超え、目標を達成しました。しかし、読書の状況は最悪です。
※ 参考 昨年同時期の状況
映画 288本(劇場70本)
読書 55冊
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「僕の彼女を紹介します」
2004年11月30日 映画
2004/11/29 東京九段下「九段会館大ホール」で「僕の彼女を紹介します」の試写を観た。
本作「僕の彼女を紹介します」は、クァク・ジェヨン監督待望の新作で、大ヒット作「猟奇的な彼女」のヒロイン役チョン・ジヒョンとクァク・ジェヨン監督が再び組んだという、超期待の作品なのだ。
わたし的には「猟奇的な彼女」で感涙、次の「ラブストーリー」で号泣、クァク・ジェヨンの作風は、わたしのツボだったため、本作にも、号泣させてくれよと、多大なる期待を込めて「僕カノ」こと「僕の彼女を紹介します」の試写に臨んだ訳だ。
激しい思い込みと誰よりも強い正義感に燃えて、日夜奮闘を続ける熱血巡査ヨ・ギョンジン(チョン・ジヒョン)。しかし、彼女が自信満々で捕まえたのは、犯人逮捕に協力しようとしていた善意な市民、女子高で物理を教えるまじめな新米教師コ・ミョンウ(チャン・ヒョク)だった。
とんだ災難に遭ったミョンウだったが、後日、青少年の非行防止の見回りのため訪れた交番で、ふたたびギョンジンと遭遇する。見回り中、事件に巻き込まれ逃げ出そうとする彼をすばやく手錠で捕まえる彼女。ミョンウは、あらゆる事件や揉め事に首を突っ込むギョンジンのせいで、麻薬密売組織による銃撃戦にまで巻き込まれ、命がけの一夜を過ごす。
そんな出会いにもかかわらず、二人が恋に落ちるのに時間は要らなかった。そして、彼は心に決める。この勇敢すぎるほど勇敢で、無謀なまでにまっすぐな、愛すべき彼女を、たとえ何があっても守り抜こう、と。
しかし、そんな彼らを待ち受けていたのは・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督・脚本:クァク・ジェヨン
出演: チョン・ジヒョン(ヨ・ギョンジン巡査)、チャン・ヒョク(コ・ミョンウ)、キム・テウク、チャ・テヒョン
本作「僕の彼女を紹介します」のプロモーションは「泣ける」と言う事を前面に出しているのだが、わたし的には残念ながらあまり泣けなかった。前述のように、わたしは「猟奇的な彼女」で感涙、続く「ラブストーリー」で号泣してしまっているだけに、三作目の本作に当然の如く号泣を期待していたのだ。ついでに、本作の「号泣必須プロモーション」にも踊らされていた訳だ。
余談だが、泣きたいのなら前作「ラブストーリー」がオススメである。悲しいから泣く、かわいそうだから泣くのではなく、運命的なプロットの巧みさに泣くのである。
ところで、本作を観て再確認したのだが、監督のクァク・ジェヨンの嗜好なのか、アメリカを中心とした西洋文化への憧憬が色濃く出ているようだ。特にサントラの選曲について顕著だと思う。
日本映画にもアメリカ文化への憧れが見え隠れする作品はあるのだが、現代日本映画にはほとんどそういった描写が無い。そこから考えるとかつて日本文化がそうであったように、韓国文化は現在、進行形で西洋化しつつあるのではないかと、思ってしまう。
ところで本作の根本には「猟奇的な彼女」で描かれた、自己中心的な女性に男性が振り回されつつ恋に落ちる、というメインのプロットと、「ラブストーリー」で語られたような、過去のある出来事が現代に影響を与える伏線となっている運命的なプロットが導入されている。
また本作の特徴として、「猟奇的な彼女」のイメージや演出、カットが繰り返し登場し、同作内で描かれていた、ヒロインが語る「挿話」(今回は「ロミオとジュリエット」がモチーフ)も登場している。また本作のヒロインの部屋は「ラブストーリー」のヒロインの部屋と酷似しており、鳩が来るし風の演出も踏襲されている。
また「猟奇的な彼女」でヒロインが唯一心情を吐露するシーンで強烈な印象を与える「ごめん」というセリフも本作でも重要な意味を持っている。
更にラストのシークエンスでは、正に運命的で誰もが納得できる素晴らしい印象を観客に与えると同時に、素晴らしいファン・サービス精神が感じられる。
あのエンディングは、クァク・ジェヨン監督ファンにとっては予定調和的な唯一で最高のエンディングなのだ。
従って本作は、好意的に取ればクァク・ジェヨンの三作目にして早くも集大成的な作品を製作した技量を評価できるのだが、逆に考えると監督としての底が見えた感が否定できない。
これは「猟奇的な彼女」と「ラブストーリー」の脚本がトリッキーでいながら普遍的で素晴らしい脚本に仕上がっていたのだが、それらの脚本と比較すると本作の脚本が凡庸で独自性が足りない印象を受ける。
余談だが本編に挿入される「ロミオとジュリエット」をモチーフとした「挿話」を前提にすると冒頭の空撮は勿論「ウエスト・サイド物語」の引用だし、「雨に唄えば」の引用と思われるシーンもある。校庭でヒロインの周りを自動車が走るシーンでは「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュースを回るカメラ・ワークが再現されている。このようなクラシックな作品からの引用が興味深い。
これは前述の、西洋文化への憧憬ととらえるか、古き良き時代への回顧ととらえるのかわからないが、監督の嗜好が垣間見える瞬間だと言える。
キャストは何と言ってもチョン・ジヒョンの魅力爆発である。相手役のチャン・ヒョクははっきり言って、そこそこ演技が出来れば誰でも良かったのではないか、とさえ思えてしまう程、チョン・ジヒョンのためだけに、チョン・ジヒョンを魅力的に見せるためだけに製作されたような作品なのだ。
その観点からは、脚本はまあ及第点は与えられるのだが、やはり詰めが甘く、もっと号泣させて欲しかったのだ。
とにかく、本作「僕の彼女を紹介します」は号泣指数は前作「ラブストーリー」に及ばないが、チョン・ジヒョンとクァク・ジェヨン監督のファンならば最大限に楽しめる、監督の集大成的な作品であると同時に、ファンならずとも楽しめる素晴らしい作品に仕上がっている。この冬オススメのラブ・ストーリーなのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=
余談だけど、最近、韓国映画にしろ香港・中国映画にしろ、生きの良いアジア映画をハリウッド・メジャーが本気で配給しているのが気になる。
従来、アジア映画の日本国内配給は、ほとんど日本の配給会社が担当していたのだが、最近のアジア映画の隆盛を受けて、ハリウッド・メジャーがアジア映画の製作・配給に関わってきたのだ。
製作時点でハリウッド・メジャーによる全世界配給が決まっているような作品が増加すると、従来良質のアジア映画を買い付け、日本公開して来た日本の配給会社は、どんどん厳しい状況に追い込まれていくのではないか。
おそるべし貪欲なハリウッド・メジャーなのだ。
=+=+=+=+=
更に余談だが、2004/12/01に東京有楽町「東京国際フォーラム」で、クァク・ジェヨン監督とチョン・ジヒョンの舞台挨拶付きの試写があるのだ。
チョン・ジヒョン好きのわたしとしては、何が何でも行きたい気持ちで一杯なのだがチケットが手に入らないのだ。
ついでに当日、崔洋一のトークショー付き「血と骨」のチケットを押さえてしまった。チョン・ジヒョンを思い浮かべながら、崔洋一と語るぞ。
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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本作「僕の彼女を紹介します」は、クァク・ジェヨン監督待望の新作で、大ヒット作「猟奇的な彼女」のヒロイン役チョン・ジヒョンとクァク・ジェヨン監督が再び組んだという、超期待の作品なのだ。
わたし的には「猟奇的な彼女」で感涙、次の「ラブストーリー」で号泣、クァク・ジェヨンの作風は、わたしのツボだったため、本作にも、号泣させてくれよと、多大なる期待を込めて「僕カノ」こと「僕の彼女を紹介します」の試写に臨んだ訳だ。
激しい思い込みと誰よりも強い正義感に燃えて、日夜奮闘を続ける熱血巡査ヨ・ギョンジン(チョン・ジヒョン)。しかし、彼女が自信満々で捕まえたのは、犯人逮捕に協力しようとしていた善意な市民、女子高で物理を教えるまじめな新米教師コ・ミョンウ(チャン・ヒョク)だった。
とんだ災難に遭ったミョンウだったが、後日、青少年の非行防止の見回りのため訪れた交番で、ふたたびギョンジンと遭遇する。見回り中、事件に巻き込まれ逃げ出そうとする彼をすばやく手錠で捕まえる彼女。ミョンウは、あらゆる事件や揉め事に首を突っ込むギョンジンのせいで、麻薬密売組織による銃撃戦にまで巻き込まれ、命がけの一夜を過ごす。
そんな出会いにもかかわらず、二人が恋に落ちるのに時間は要らなかった。そして、彼は心に決める。この勇敢すぎるほど勇敢で、無謀なまでにまっすぐな、愛すべき彼女を、たとえ何があっても守り抜こう、と。
しかし、そんな彼らを待ち受けていたのは・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督・脚本:クァク・ジェヨン
出演: チョン・ジヒョン(ヨ・ギョンジン巡査)、チャン・ヒョク(コ・ミョンウ)、キム・テウク、チャ・テヒョン
本作「僕の彼女を紹介します」のプロモーションは「泣ける」と言う事を前面に出しているのだが、わたし的には残念ながらあまり泣けなかった。前述のように、わたしは「猟奇的な彼女」で感涙、続く「ラブストーリー」で号泣してしまっているだけに、三作目の本作に当然の如く号泣を期待していたのだ。ついでに、本作の「号泣必須プロモーション」にも踊らされていた訳だ。
余談だが、泣きたいのなら前作「ラブストーリー」がオススメである。悲しいから泣く、かわいそうだから泣くのではなく、運命的なプロットの巧みさに泣くのである。
ところで、本作を観て再確認したのだが、監督のクァク・ジェヨンの嗜好なのか、アメリカを中心とした西洋文化への憧憬が色濃く出ているようだ。特にサントラの選曲について顕著だと思う。
日本映画にもアメリカ文化への憧れが見え隠れする作品はあるのだが、現代日本映画にはほとんどそういった描写が無い。そこから考えるとかつて日本文化がそうであったように、韓国文化は現在、進行形で西洋化しつつあるのではないかと、思ってしまう。
ところで本作の根本には「猟奇的な彼女」で描かれた、自己中心的な女性に男性が振り回されつつ恋に落ちる、というメインのプロットと、「ラブストーリー」で語られたような、過去のある出来事が現代に影響を与える伏線となっている運命的なプロットが導入されている。
また本作の特徴として、「猟奇的な彼女」のイメージや演出、カットが繰り返し登場し、同作内で描かれていた、ヒロインが語る「挿話」(今回は「ロミオとジュリエット」がモチーフ)も登場している。また本作のヒロインの部屋は「ラブストーリー」のヒロインの部屋と酷似しており、鳩が来るし風の演出も踏襲されている。
また「猟奇的な彼女」でヒロインが唯一心情を吐露するシーンで強烈な印象を与える「ごめん」というセリフも本作でも重要な意味を持っている。
更にラストのシークエンスでは、正に運命的で誰もが納得できる素晴らしい印象を観客に与えると同時に、素晴らしいファン・サービス精神が感じられる。
あのエンディングは、クァク・ジェヨン監督ファンにとっては予定調和的な唯一で最高のエンディングなのだ。
従って本作は、好意的に取ればクァク・ジェヨンの三作目にして早くも集大成的な作品を製作した技量を評価できるのだが、逆に考えると監督としての底が見えた感が否定できない。
これは「猟奇的な彼女」と「ラブストーリー」の脚本がトリッキーでいながら普遍的で素晴らしい脚本に仕上がっていたのだが、それらの脚本と比較すると本作の脚本が凡庸で独自性が足りない印象を受ける。
余談だが本編に挿入される「ロミオとジュリエット」をモチーフとした「挿話」を前提にすると冒頭の空撮は勿論「ウエスト・サイド物語」の引用だし、「雨に唄えば」の引用と思われるシーンもある。校庭でヒロインの周りを自動車が走るシーンでは「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュースを回るカメラ・ワークが再現されている。このようなクラシックな作品からの引用が興味深い。
これは前述の、西洋文化への憧憬ととらえるか、古き良き時代への回顧ととらえるのかわからないが、監督の嗜好が垣間見える瞬間だと言える。
キャストは何と言ってもチョン・ジヒョンの魅力爆発である。相手役のチャン・ヒョクははっきり言って、そこそこ演技が出来れば誰でも良かったのではないか、とさえ思えてしまう程、チョン・ジヒョンのためだけに、チョン・ジヒョンを魅力的に見せるためだけに製作されたような作品なのだ。
その観点からは、脚本はまあ及第点は与えられるのだが、やはり詰めが甘く、もっと号泣させて欲しかったのだ。
とにかく、本作「僕の彼女を紹介します」は号泣指数は前作「ラブストーリー」に及ばないが、チョン・ジヒョンとクァク・ジェヨン監督のファンならば最大限に楽しめる、監督の集大成的な作品であると同時に、ファンならずとも楽しめる素晴らしい作品に仕上がっている。この冬オススメのラブ・ストーリーなのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=
余談だけど、最近、韓国映画にしろ香港・中国映画にしろ、生きの良いアジア映画をハリウッド・メジャーが本気で配給しているのが気になる。
従来、アジア映画の日本国内配給は、ほとんど日本の配給会社が担当していたのだが、最近のアジア映画の隆盛を受けて、ハリウッド・メジャーがアジア映画の製作・配給に関わってきたのだ。
製作時点でハリウッド・メジャーによる全世界配給が決まっているような作品が増加すると、従来良質のアジア映画を買い付け、日本公開して来た日本の配給会社は、どんどん厳しい状況に追い込まれていくのではないか。
おそるべし貪欲なハリウッド・メジャーなのだ。
=+=+=+=+=
更に余談だが、2004/12/01に東京有楽町「東京国際フォーラム」で、クァク・ジェヨン監督とチョン・ジヒョンの舞台挨拶付きの試写があるのだ。
チョン・ジヒョン好きのわたしとしては、何が何でも行きたい気持ちで一杯なのだがチケットが手に入らないのだ。
ついでに当日、崔洋一のトークショー付き「血と骨」のチケットを押さえてしまった。チョン・ジヒョンを思い浮かべながら、崔洋一と語るぞ。
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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「ふたりにクギづけ」
2004年11月29日 映画2004/11/28 東京九段下「千代田区公会堂」で「ふたりにクギづけ」の試写を観た。
2003年12月に北米で公開されたファレリー兄弟の新作「ふたりにクギづけ」は、日本の映画ファンの中では、その題材(「結合双生児」※を主人公としたコメディ映画)から、日本公開は難しいのではないか、と思われていた作品である。
先ずは北米公開から1年後の公開ではあるが、ファレリー兄弟の新作が日本公開されることを喜びたい。
ボブ・テナー(マット・デイモン)とウォルト・テナー(グレッグ・キニア)は双子の兄弟。地元の人気者のふたりは「クィッキー・バーガー」と言うハンバーガー・ショップを経営している。地元の舞台俳優で、社交的な性格のウォルトはプレイボーイ。一方、引っ込み思案で奥手のボブは、3年間もメールのやり取りをしているメル友のメイ・フォン(ウェン・ヤン・シー)にさえ兄弟の「秘密」を打ち明ける事が出来ない。生まれてから片時も離れず、ずっと寄り添って生きて来た兄弟の「秘密」。それは、お互いが腰の部分でくっついている結合双生児であること。
そんなふたりは、地元で知り合いだけにちやほやされる舞台俳優ではなく、本物の俳優になりたいというウォルトの夢を叶えるため住み慣れた島を離れ、夢の都ハリウッドへ向かい、滞在先のモーテルで、俳優志願のエイプリル(エヴァ・メンデス)と脚本家志望のモー(テレンス・バーニー・ハインズ)と出会う。
しかしウォルトは、ボブがくっついていることが災いし、なかなか俳優の仕事は見つからずトラブルの連続。一方、ボブもメイに結合双生児であることがバレないよう、その場を取り繕うデートを重ねていた。
そんな中、ひょんな事からウォルトがオスカー女優シェール(シェール)の相手役に抜擢される。突然のビッグ・チャンスに張り切るウォルト。ボブも「お互いの成功を邪魔しない」という誓いを守り、撮影に協力するのだが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー
出演:マット・デイモン、グレッグ・キニア、エヴァ・メンデス、ウェン・ヤン・シー、シェール、セイモア・カッセル、メリル・ストリープ(ノン・クレジット)
本作を観て、先ず驚いたのは、本作の配給がFOXで、しかもスコープ・サイズで製作されている、と言う事であった。中小の配給会社ではなく、ハリウッド・メジャーが配給を手がけている点、そしてスコープ・サイズで本作が製作・公開されている点から、この作品はファレリー兄弟の作風を好む限られた観客ではなく、多くの一般大衆をターゲットとした作品である訳だ。(国内配給はアートポート)
そんな訳でわたしは、オープニング・クレジットの時点でわたしの本作に対する先入観(「ふたりにクギづけ」は「結合双生児」を笑いものにする、居心地の悪いコメディ映画に違いない)は、杞憂に過ぎない事を悟ったのだ。
その先入観は、ファレリー兄弟の従来の作風、内容はともかく表層的には、子供、老人、障害者、動物といった社会的弱者を笑いものにする手法から発したものであり、本作については前述のようにマット・デイモンとグレッグ・キニアが演じる「結合双生児」を笑いものにする、という先入観を持っていた。
しかし本作は、いざ蓋を開けてみると、「結合双生児」を主人公としたコメディと言うよりは、中にいる自分から見た、外にいる自分の喪失とその再生を描いた、ある意味外にいる自分探しの物語に昇華されていた。
そして物語の最大のモチーフは「オズの魔法使い」。
自分の欲しい物を求めてハリウッド(エメラルド・シティ)へ旅立つふたりの青年の物語なのだ。
勿論、オズの大魔王的キャラクターであるウォルトのエージェント、モーティー・オライリー(セイモア・カッセル)や、西の魔女的キャラクターのシェール(シェール)、俳優になりたいエイプリル(エヴァ・メンデス)、脚本家になりたいモー(テレンス・バーニー・ハインズ)等も登場し、ラストに一大ミュージカル・シーンを配するあたりは、完全な「オズの魔法使い」へのオマージュと考えられる。
余談だが、わたし的には、二人が旅立つ際のタクシーは出来れば黄色いタクシー(イエロー・キャブ)を使って欲しかった。(イエロー・ブリック・ロードの暗喩)
また、ボブとウォルトが「結合双生児」であることを、または登場する知的障害者を差別し、笑いものにするキャラクターが何人か登場するのだが、それらのキャラクターが「悪」に描かれている点が興味深かった。
従来のファレリー兄弟の作風とは若干異なり、オフビート感と言うより、ハリウッドの作風に染まってしまったような印象を受けたのだ。従来のファレリー兄弟の毒が、本作ではなりを潜め、悪く言うとファレリー兄弟もハリウッドに飼い馴らされてしまったのではないか、と思う訳だ。
脚本は、コメディと言うこともあり、小ネタを散りばめた非常に面白いものに仕上がっているし、物語の根本のプロットも素晴らしいし、「オズの魔法使い」への言及は勿論。「ムーン・リバー」をはじめとした様々な映画的記憶を呼び覚ます名曲の数々をサントラに使った点も良い印象を受けた。
また、ボブとウォルトが地元の名士として育ってきている点も興味深い。少年時代からハイスクール時代、そして現在まで、野球、アイスホッケー、ボクシング等様々なスポーツで活躍し、繁盛するハンバーガー・ショップを経営している点である。
地元の小さな島では、ボブとウォルトは差別されるどころか、隣人として愛されているのだ。
彼らは、日陰の暮らしを余儀なくされているのではなく、日向で愛情溢れる生活をしているのである。
そして、ウォルトが地元の舞台俳優ではなく、本物の俳優を目指してハリウッドに向かうのだが、ハリウッドのシークエンスでは、映画産業の内幕を楽しめる興味深い作品にも仕上がっていた。
キャストは、何と言ってもグレッグ・キニアが良かった。笑い、そして泣かせる役どころを楽しげに演じている。
マット・デイモンは若干内向的なキャラクターを好演している。
この役が、今後のキャリアに影を落すのではないか、と余計な心配をしていたのだが、特に問題なさそうだった。
二人の相手役、エイプリル(4月)とメイ(5月)を演じたエヴァ・メンデスとウェン・ヤン・シーも良かったし、シェールの自虐的なセルフ・パロディにも驚きだし、ノン・クレジットながらもラストで美味しいところを持っていってしまうメリル・ストリープにも驚きなのだ。
結局のところ本作「ふたりにクギづけ」は、「結合双生児」を描いたコメディと言う点から、観客の足を劇場に運ばせるのは難しいと思うのだが、いざ劇場に足を運んでもらえれば、2時間まるまる楽しんだ上、爽やかな気分で劇場を後に出来る良質のコメディ作品に仕上がっているのだ。
=+=+=+=+=+=+=
※「結合双生児」
所謂「シャム双生児」。または「接着双生児」。
但し「シャム双生児」を表す英語(Siamese)は、差別的表現であり、「シャム双生児」とも差別的表現です。
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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http://blog.with2.net/link.php/29604
2003年12月に北米で公開されたファレリー兄弟の新作「ふたりにクギづけ」は、日本の映画ファンの中では、その題材(「結合双生児」※を主人公としたコメディ映画)から、日本公開は難しいのではないか、と思われていた作品である。
先ずは北米公開から1年後の公開ではあるが、ファレリー兄弟の新作が日本公開されることを喜びたい。
ボブ・テナー(マット・デイモン)とウォルト・テナー(グレッグ・キニア)は双子の兄弟。地元の人気者のふたりは「クィッキー・バーガー」と言うハンバーガー・ショップを経営している。地元の舞台俳優で、社交的な性格のウォルトはプレイボーイ。一方、引っ込み思案で奥手のボブは、3年間もメールのやり取りをしているメル友のメイ・フォン(ウェン・ヤン・シー)にさえ兄弟の「秘密」を打ち明ける事が出来ない。生まれてから片時も離れず、ずっと寄り添って生きて来た兄弟の「秘密」。それは、お互いが腰の部分でくっついている結合双生児であること。
そんなふたりは、地元で知り合いだけにちやほやされる舞台俳優ではなく、本物の俳優になりたいというウォルトの夢を叶えるため住み慣れた島を離れ、夢の都ハリウッドへ向かい、滞在先のモーテルで、俳優志願のエイプリル(エヴァ・メンデス)と脚本家志望のモー(テレンス・バーニー・ハインズ)と出会う。
しかしウォルトは、ボブがくっついていることが災いし、なかなか俳優の仕事は見つからずトラブルの連続。一方、ボブもメイに結合双生児であることがバレないよう、その場を取り繕うデートを重ねていた。
そんな中、ひょんな事からウォルトがオスカー女優シェール(シェール)の相手役に抜擢される。突然のビッグ・チャンスに張り切るウォルト。ボブも「お互いの成功を邪魔しない」という誓いを守り、撮影に協力するのだが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー
出演:マット・デイモン、グレッグ・キニア、エヴァ・メンデス、ウェン・ヤン・シー、シェール、セイモア・カッセル、メリル・ストリープ(ノン・クレジット)
本作を観て、先ず驚いたのは、本作の配給がFOXで、しかもスコープ・サイズで製作されている、と言う事であった。中小の配給会社ではなく、ハリウッド・メジャーが配給を手がけている点、そしてスコープ・サイズで本作が製作・公開されている点から、この作品はファレリー兄弟の作風を好む限られた観客ではなく、多くの一般大衆をターゲットとした作品である訳だ。(国内配給はアートポート)
そんな訳でわたしは、オープニング・クレジットの時点でわたしの本作に対する先入観(「ふたりにクギづけ」は「結合双生児」を笑いものにする、居心地の悪いコメディ映画に違いない)は、杞憂に過ぎない事を悟ったのだ。
その先入観は、ファレリー兄弟の従来の作風、内容はともかく表層的には、子供、老人、障害者、動物といった社会的弱者を笑いものにする手法から発したものであり、本作については前述のようにマット・デイモンとグレッグ・キニアが演じる「結合双生児」を笑いものにする、という先入観を持っていた。
しかし本作は、いざ蓋を開けてみると、「結合双生児」を主人公としたコメディと言うよりは、中にいる自分から見た、外にいる自分の喪失とその再生を描いた、ある意味外にいる自分探しの物語に昇華されていた。
そして物語の最大のモチーフは「オズの魔法使い」。
自分の欲しい物を求めてハリウッド(エメラルド・シティ)へ旅立つふたりの青年の物語なのだ。
勿論、オズの大魔王的キャラクターであるウォルトのエージェント、モーティー・オライリー(セイモア・カッセル)や、西の魔女的キャラクターのシェール(シェール)、俳優になりたいエイプリル(エヴァ・メンデス)、脚本家になりたいモー(テレンス・バーニー・ハインズ)等も登場し、ラストに一大ミュージカル・シーンを配するあたりは、完全な「オズの魔法使い」へのオマージュと考えられる。
余談だが、わたし的には、二人が旅立つ際のタクシーは出来れば黄色いタクシー(イエロー・キャブ)を使って欲しかった。(イエロー・ブリック・ロードの暗喩)
また、ボブとウォルトが「結合双生児」であることを、または登場する知的障害者を差別し、笑いものにするキャラクターが何人か登場するのだが、それらのキャラクターが「悪」に描かれている点が興味深かった。
従来のファレリー兄弟の作風とは若干異なり、オフビート感と言うより、ハリウッドの作風に染まってしまったような印象を受けたのだ。従来のファレリー兄弟の毒が、本作ではなりを潜め、悪く言うとファレリー兄弟もハリウッドに飼い馴らされてしまったのではないか、と思う訳だ。
脚本は、コメディと言うこともあり、小ネタを散りばめた非常に面白いものに仕上がっているし、物語の根本のプロットも素晴らしいし、「オズの魔法使い」への言及は勿論。「ムーン・リバー」をはじめとした様々な映画的記憶を呼び覚ます名曲の数々をサントラに使った点も良い印象を受けた。
また、ボブとウォルトが地元の名士として育ってきている点も興味深い。少年時代からハイスクール時代、そして現在まで、野球、アイスホッケー、ボクシング等様々なスポーツで活躍し、繁盛するハンバーガー・ショップを経営している点である。
地元の小さな島では、ボブとウォルトは差別されるどころか、隣人として愛されているのだ。
彼らは、日陰の暮らしを余儀なくされているのではなく、日向で愛情溢れる生活をしているのである。
そして、ウォルトが地元の舞台俳優ではなく、本物の俳優を目指してハリウッドに向かうのだが、ハリウッドのシークエンスでは、映画産業の内幕を楽しめる興味深い作品にも仕上がっていた。
キャストは、何と言ってもグレッグ・キニアが良かった。笑い、そして泣かせる役どころを楽しげに演じている。
マット・デイモンは若干内向的なキャラクターを好演している。
この役が、今後のキャリアに影を落すのではないか、と余計な心配をしていたのだが、特に問題なさそうだった。
二人の相手役、エイプリル(4月)とメイ(5月)を演じたエヴァ・メンデスとウェン・ヤン・シーも良かったし、シェールの自虐的なセルフ・パロディにも驚きだし、ノン・クレジットながらもラストで美味しいところを持っていってしまうメリル・ストリープにも驚きなのだ。
結局のところ本作「ふたりにクギづけ」は、「結合双生児」を描いたコメディと言う点から、観客の足を劇場に運ばせるのは難しいと思うのだが、いざ劇場に足を運んでもらえれば、2時間まるまる楽しんだ上、爽やかな気分で劇場を後に出来る良質のコメディ作品に仕上がっているのだ。
=+=+=+=+=+=+=
※「結合双生児」
所謂「シャム双生児」。または「接着双生児」。
但し「シャム双生児」を表す英語(Siamese)は、差別的表現であり、「シャム双生児」とも差別的表現です。
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2004/11/26 ワーナーマイカルシネマズ板橋で「2046」を観た。
「その不思議な未来(2046)では、ミストリートレインが動き出し、アンドロイドが恋に落ちる。」
「2046、全世界衝撃の、近未来ラブストーリー」
先ずは、ウォン・カーウァイが誰でクリストファー・ドイルが何をしている人かを知らないような観客を「2046」に呼び込んだブエナビスタの広告宣伝手腕に脱帽である。
「2046」公開前、多くの映画ファンの間では、ウォン・カーウァイの「2046」を、木村拓哉とSFテイストを前面に押し出した戦略の下、全国拡大ロードショー公開することに対する危惧の声があがっていた。
勿論、ウォン・カーウァイの作家性や過去の作品、またはクリストファー・ドイルの撮影スタイルについて幾許かの知識を持っている観客を劇場に呼ぶのは構わないのだが、全くウォン・カーウァイやクリストフォー・ドイルを知らないような一般の観客に対して、ある意味「騙し(ミスデレクション)」とも言える広告宣伝を打ち、何も知らない素人の客を呼ぶ、と言うのはいかがなものか、と思う訳だ。
最近では「キル・ピル」や「マスター・アンド・コマンダー」、「ロード・オブ・ザ・リング」、「リディック」等で、隠された意図の下、作品の内容や前提を歪曲する傾向を持った、広告宣伝が行われている。
これは、一映画配給会社の刹那的な増益に繋がるのかも知れないが、映画業界全体にとっては、決して良いことではないのだ。結局は自分で自分の首を絞めているのに他ならない。
「あんなに宣伝している話題作なのに、なんでこんなにつまらないんだ」
「話題作でこんなにつまらないんだったら、他の作品は最悪につまらないに違いない」
「もう劇場なんかに行かない」
そう思う観客の何と多い事よ。
事実、ウォン・カーウァイの作品を知らずに、「格好良い近未来SFラブロマンス」を期待して劇場に足を運んだ観客にとって本作は、最低につまらない、何も起きない映画として評価されてしまい、もう二度とウォン・カーウァイ作品なんか観ない、という事にもなってしまうかも知れないのだ。
ちょっとは映画業界全体の将来のことも考えてくれよ、配給会社さんよ。
=+=+=+=+=+=+=
1967年 香港。
新聞記者から物書きへ転向したチャウ(トニー・レオン)は、これまで何人もの女たちと刹那的な情愛を繰り返していた。
ある日、チャウがシンガポールに滞在していた時代に交流のあった女性スー・リーチェン(コン・リー)と香港で再会したチャウは、彼女の宿泊先を訪ね、旧交を温めようとするが追い返されてしまう。彼女はそのホテルの「2046」号室に宿泊していた。
後日、チャウはそのホテルの「2046」号室に住み込もうとオーナー(ウォン・サム)を訪ねるが、「2046」号室は改装工事のため入る事が出来ず、チャウは隣の「2047」号室に住む事になる。部屋の改装はスー・リーチェンが「2046」号室で死んだ事によるものだった。
ホテルのオーナーの娘ジンウェン(フェイ・ウォン)は、日本人青年(木村拓哉)と恋をし、妹のジーウェン(ドン・ジェ)は、チャウの部屋に入り浸る。そして「2046」号室にはバイ・リン(チャン・ツィイー)が越して来た。
チャウは身の回りの実在の人物をモデルに、近未来小説「2046」の執筆をはじめるが・・・・。
監督・脚本・製作:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル
音楽:梅林茂
出演:トニー・レオン、木村拓哉、コン・リー、フェイ・ウォン、チャン・ツィイー、カリーナ・ラウ、チャン・チェン、マギー・チャン、ドン・ジェ
先ずはアジアが誇る豪華な俳優人の素晴らしい存在感に脱帽なのである。
最近、キラキラでブレブレの映像ではなく、フィックスのシックな画面が多くなってきたクリストファー・ドイルが二次元に切り取る映像の中、何もしなくても、ただ佇んでいるだけで、1分でも2分でも持たせられる俳優たちの力量、表情と身体全体から醸し出される雰囲気や空気、それだけを見ているだけでも至福の時間を過ごす事が出来る。
しかしながら、本作「2046」のように、大きな出来事が起きず、テンポがのろい作風は、派手でスピーディーな展開を好む観客にはあまりにも退屈で、はっきり言って苦痛なものかも知れない。
とは言うものの、俳優たちの演技やクリストファー・ドイルが切り取る映像を、絵画のように楽しむファンにとっては、本作「2046」は、細部に神が宿る素晴らしい絵の数々を楽しめる作品と言えるのだ。
特にトニー・レオンの甘い微笑には、女性でなくとも蕩かされてしまう。またフェイ・ウォンの陶磁器のような美しさと可憐な動き、チャン・ツィイーの勝ち気でいながら最後に見せる心の線の細さ、出番は少ないものの、ドン・ジェの瑞々しさ、そしてコン・リーの刹那的な様。どれをとっても、一幅の絵画に匹敵する、美術品、工芸品のような輝きを放つ素晴らしい演技の釣瓶打ちなのだ。
そして、1960年代を見事に再現するウィリアム・チョンの素晴らしい美術とクリストファー・ドイルの素晴らしい撮影。なんとも贅沢なのだ。
日本期待の木村拓哉は、いつものドラマの調子で良い所は特に無い。ナレーションもグタグタだし日本語台詞もまずい。ついでにアップの画が持たないのだ。また日本語がわかるダイアログ・エディタがいなかったのか、木村拓哉がセリフを噛んでいる音声がそのまま使われていたのが気になった。
音楽(梅林茂)は、オーケストレーションも美しく、多くの観客の心の琴線に触れることには成功しているのだが、残念ながら本作のメイン・タイトルは「レオン」のそれとあまりにも似ているのが残念である。
また、クレジットが格好良かった。
オープニングは、「スーパーマン」ミート市川崑と言った印象を受けるし、エンド・クレジットは、テキストの横移動が良い。余裕が無く、ポンポン変わる所は微妙だが、細かいところにも力を入れているようである。
物語は、ウォン・カーウァイの「花様年華」の後日談的な構成になっており、一部では堂々と「続編」と断言しているようである。愛を信じない男チャウの現実世界と精神世界の旅路の物語で、現実と虚構が入り混じり、時系列も入替わり、冒頭部分のカットがラストに登場し、壮大なロマン的な印象をも受けるが、伏線が上手く機能していないような残念な印象も受けた。
「カンヌ国際映画祭」の後、再編集を行い木村拓哉の登場カットを増やしたらしいが、木村拓哉の同一のカットが複数回使用されており、ケチったのか、と思う反面、本作のテーマ性を伏線として明確に描こうとする手法にも見えていた。
とにかく、本作「2046」は独特の作風で既にカルトなファンを獲得したウォン・カーウァイの最新作で、クリストファー・ドイルが切り取る数々の映像を一幅の絵画のように楽しみ、また俳優たちの素晴らしい演技と雰囲気や空気を堪能する、ある意味贅沢な作品に仕上がっている。(時間的にも贅沢だ)
観客を選ぶ作品だと思うが、機会があれば観ておけば、いろいろ役に立つのではないか、と思う。
=+=+=+=+=+=
余談だが、ウォン・カーウァイは、もしかするとデヴィッド・リンチのように解釈し、評価すべき作家なのかもしれない。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
「その不思議な未来(2046)では、ミストリートレインが動き出し、アンドロイドが恋に落ちる。」
「2046、全世界衝撃の、近未来ラブストーリー」
先ずは、ウォン・カーウァイが誰でクリストファー・ドイルが何をしている人かを知らないような観客を「2046」に呼び込んだブエナビスタの広告宣伝手腕に脱帽である。
「2046」公開前、多くの映画ファンの間では、ウォン・カーウァイの「2046」を、木村拓哉とSFテイストを前面に押し出した戦略の下、全国拡大ロードショー公開することに対する危惧の声があがっていた。
勿論、ウォン・カーウァイの作家性や過去の作品、またはクリストファー・ドイルの撮影スタイルについて幾許かの知識を持っている観客を劇場に呼ぶのは構わないのだが、全くウォン・カーウァイやクリストフォー・ドイルを知らないような一般の観客に対して、ある意味「騙し(ミスデレクション)」とも言える広告宣伝を打ち、何も知らない素人の客を呼ぶ、と言うのはいかがなものか、と思う訳だ。
最近では「キル・ピル」や「マスター・アンド・コマンダー」、「ロード・オブ・ザ・リング」、「リディック」等で、隠された意図の下、作品の内容や前提を歪曲する傾向を持った、広告宣伝が行われている。
これは、一映画配給会社の刹那的な増益に繋がるのかも知れないが、映画業界全体にとっては、決して良いことではないのだ。結局は自分で自分の首を絞めているのに他ならない。
「あんなに宣伝している話題作なのに、なんでこんなにつまらないんだ」
「話題作でこんなにつまらないんだったら、他の作品は最悪につまらないに違いない」
「もう劇場なんかに行かない」
そう思う観客の何と多い事よ。
事実、ウォン・カーウァイの作品を知らずに、「格好良い近未来SFラブロマンス」を期待して劇場に足を運んだ観客にとって本作は、最低につまらない、何も起きない映画として評価されてしまい、もう二度とウォン・カーウァイ作品なんか観ない、という事にもなってしまうかも知れないのだ。
ちょっとは映画業界全体の将来のことも考えてくれよ、配給会社さんよ。
=+=+=+=+=+=+=
1967年 香港。
新聞記者から物書きへ転向したチャウ(トニー・レオン)は、これまで何人もの女たちと刹那的な情愛を繰り返していた。
ある日、チャウがシンガポールに滞在していた時代に交流のあった女性スー・リーチェン(コン・リー)と香港で再会したチャウは、彼女の宿泊先を訪ね、旧交を温めようとするが追い返されてしまう。彼女はそのホテルの「2046」号室に宿泊していた。
後日、チャウはそのホテルの「2046」号室に住み込もうとオーナー(ウォン・サム)を訪ねるが、「2046」号室は改装工事のため入る事が出来ず、チャウは隣の「2047」号室に住む事になる。部屋の改装はスー・リーチェンが「2046」号室で死んだ事によるものだった。
ホテルのオーナーの娘ジンウェン(フェイ・ウォン)は、日本人青年(木村拓哉)と恋をし、妹のジーウェン(ドン・ジェ)は、チャウの部屋に入り浸る。そして「2046」号室にはバイ・リン(チャン・ツィイー)が越して来た。
チャウは身の回りの実在の人物をモデルに、近未来小説「2046」の執筆をはじめるが・・・・。
監督・脚本・製作:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル
音楽:梅林茂
出演:トニー・レオン、木村拓哉、コン・リー、フェイ・ウォン、チャン・ツィイー、カリーナ・ラウ、チャン・チェン、マギー・チャン、ドン・ジェ
先ずはアジアが誇る豪華な俳優人の素晴らしい存在感に脱帽なのである。
最近、キラキラでブレブレの映像ではなく、フィックスのシックな画面が多くなってきたクリストファー・ドイルが二次元に切り取る映像の中、何もしなくても、ただ佇んでいるだけで、1分でも2分でも持たせられる俳優たちの力量、表情と身体全体から醸し出される雰囲気や空気、それだけを見ているだけでも至福の時間を過ごす事が出来る。
しかしながら、本作「2046」のように、大きな出来事が起きず、テンポがのろい作風は、派手でスピーディーな展開を好む観客にはあまりにも退屈で、はっきり言って苦痛なものかも知れない。
とは言うものの、俳優たちの演技やクリストファー・ドイルが切り取る映像を、絵画のように楽しむファンにとっては、本作「2046」は、細部に神が宿る素晴らしい絵の数々を楽しめる作品と言えるのだ。
特にトニー・レオンの甘い微笑には、女性でなくとも蕩かされてしまう。またフェイ・ウォンの陶磁器のような美しさと可憐な動き、チャン・ツィイーの勝ち気でいながら最後に見せる心の線の細さ、出番は少ないものの、ドン・ジェの瑞々しさ、そしてコン・リーの刹那的な様。どれをとっても、一幅の絵画に匹敵する、美術品、工芸品のような輝きを放つ素晴らしい演技の釣瓶打ちなのだ。
そして、1960年代を見事に再現するウィリアム・チョンの素晴らしい美術とクリストファー・ドイルの素晴らしい撮影。なんとも贅沢なのだ。
日本期待の木村拓哉は、いつものドラマの調子で良い所は特に無い。ナレーションもグタグタだし日本語台詞もまずい。ついでにアップの画が持たないのだ。また日本語がわかるダイアログ・エディタがいなかったのか、木村拓哉がセリフを噛んでいる音声がそのまま使われていたのが気になった。
音楽(梅林茂)は、オーケストレーションも美しく、多くの観客の心の琴線に触れることには成功しているのだが、残念ながら本作のメイン・タイトルは「レオン」のそれとあまりにも似ているのが残念である。
また、クレジットが格好良かった。
オープニングは、「スーパーマン」ミート市川崑と言った印象を受けるし、エンド・クレジットは、テキストの横移動が良い。余裕が無く、ポンポン変わる所は微妙だが、細かいところにも力を入れているようである。
物語は、ウォン・カーウァイの「花様年華」の後日談的な構成になっており、一部では堂々と「続編」と断言しているようである。愛を信じない男チャウの現実世界と精神世界の旅路の物語で、現実と虚構が入り混じり、時系列も入替わり、冒頭部分のカットがラストに登場し、壮大なロマン的な印象をも受けるが、伏線が上手く機能していないような残念な印象も受けた。
「カンヌ国際映画祭」の後、再編集を行い木村拓哉の登場カットを増やしたらしいが、木村拓哉の同一のカットが複数回使用されており、ケチったのか、と思う反面、本作のテーマ性を伏線として明確に描こうとする手法にも見えていた。
とにかく、本作「2046」は独特の作風で既にカルトなファンを獲得したウォン・カーウァイの最新作で、クリストファー・ドイルが切り取る数々の映像を一幅の絵画のように楽しみ、また俳優たちの素晴らしい演技と雰囲気や空気を堪能する、ある意味贅沢な作品に仕上がっている。(時間的にも贅沢だ)
観客を選ぶ作品だと思うが、機会があれば観ておけば、いろいろ役に立つのではないか、と思う。
=+=+=+=+=+=
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「カンフーハッスル」
2004年11月25日 映画「カンフーハッスル」のレビューは、
http://diarynote.jp/d/29346/20041124.html
です。
■当ブログの仕様で、トラックバックURLの日時がずれる事があります。
当コメントは、そのずれた日時の修正のためのコメントです。
トラックバック先からリンクされて来た方は、
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をご覧ください。
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「カンフーハッスル」
2004年11月24日 映画
2004/11/24 東京有楽町「東京国際フォーラムAホール」で「カンフーハッスル」の試写を観た。
舞台挨拶は監督・製作・脚本・主演のチャウ・シンチー(周星馳)。
かつて香港に、世界中を沸かせたカンフー映画の一大ムーブメントがあった。
しかし、その魁であったブルース・リーは既に亡く、後継者たるジャッキー・チェンは年老いてしまい、今や世界に誇る香港カンフー映画の系譜は途絶えてしまったかに見えた。
そんな中、カンフー映画を貪欲に求める観客たちの欲求を満たすためか、かつての香港カンフー映画の系譜を継ぐ様々な作品が世に出てきた。それは「マトリックス」であり「キル・ビル」であり「マッハ!」であった。
切歯扼腕する香港映画界。
そんな中、香港カンフー映画の復権を果たすためか、一人の男が一本の映画を引っ提げ、満を持して立ち上がった。
その男の名は周星馳(チャウ・シンチー)。そしてその映画が「カンフーハッスル」なのだ。
舞台は文化革命前の中国。
強くなるために悪を目指す街の負け犬チンピラ、シン(星/チャウ・シンチー[周星馳])は、相棒(骨/ラム・チーチョン[林子聰])と共に、小さな悪事を働き糊口をしのいでいた。
ある日、シンと相棒は、貧民街「豚小屋砦」の散髪屋(半尻の床屋)で、冷酷非情なギャング団「斧頭会」の名を騙り、小金を巻き上げようとしたが、住民の団結力に負けてしまう。「斧頭会」の仲間を呼ぶぞと、脅しのつもりで投げた狼煙花火が「斧頭会」の副組長(ラム・シュー)の頭を直撃、「斧頭会」一行は狼煙花火を投げた奴を吊し上げるべく、貧民街「豚小屋砦」に乗り込んできた。
「斧頭会」の傍若無人の悪事に、業を煮やした男たちが立ち上がった。それは粥麺屋(油炸鬼/[董志華])、仕立屋(裁縫/[趙志凌])、人足(口古口厘強/[行宇])の三人の武術の達人だった。彼らは武術を極めた後、争いを嫌うが故に、在野に下り「豚小屋砦」で平和に暮らしていたのだ。
一時は、「斧頭会」を退けた「豚小屋砦」の達人たちだったが、面子を潰された「斧頭会」の組長、サム(チャン・クオックワン/[陳國坤])は、相談役(ティン・カイマン/[田啓文])等と共に、「豚小屋砦」の達人たちを倒すべく刺客を送り込む。
街の平穏な生活を願う、「豚小屋砦」の家主(女房東/[元秋])とその夫(房東/[元華])も否応無く戦いに巻き込まれていった。
かくして、「斧頭会」の面子と、「豚小屋砦」の平穏な生活をかけた戦いは、全面抗争の様相を呈してきた。
「マトリックス」「キル・ビル」「マッハ!」に対する香港の回答がここにある。「カンフーハッスル」は最高の血沸き肉踊る冒険活劇、最高の香港カンフー映画なのだ。
冒頭の「斧頭会」と「鰐革会」の抗争のシークエンスは、「キル・ビル」系のヴァイオレンス描写が続き、三人の達人と「斧頭会」との抗争は、「マッハ!」を髣髴とさせるフルコンタクト系のアクションが楽しめる。「斧頭会」の刺客との戦いはジャッキー・チェンのコミカルな道具仕立ての戦いから、「マトリックス」を超えるワイヤーアクションが炸裂する。
それと同時に、本作「カンフーハッスル」は、ブルース・リーの70年代、ジャッキー・チェンの80年代、ワイヤー・アクションが登場する90年代、CGIがアクションに導入される2000年代と、カンフー映画の歴史を一本で楽しめる構成にもなっているのだ。
アクション導演は、アクションの魔術師ユエン・ウーピン(袁和平)。脇を固めるのは、ジャッキー・チェンの盟友で、ブルース・リーの相手役も務めたサモ・ハン・キンポー。ブルース・リーのスタントマンを務めたユン・ワー等、70年代から現代までのカンフー映画の牽引者が集結している。
本作「カンフーハッスル」は、香港カンフー映画の文字通り集大成なのだ。
先ずは、コロムビア・ピクチャーズが配給を行っているのに驚いた。香港映画の日本国内の配給を日本の配給会社ではなく、ハリウッド・メジャーが行っていることに驚いたのである。しかし実際のところは、コロムビア映画が製作に名を連ねていたのである。ハリウッド資本で製作された香港映画、と言うスタンスなのだろうか。
また、映画のクオリティにも驚いた。セットにしろ、美術にしろ撮影にしろ、照明にしろ、編集にしろ、ハリウッド映画のクオリティを持っていた。最近のアジア映がでは「ブラザーフッド」のクオリティにも似た、品質を持っているのだ。
そして物語は、「少林サッカー」の系統を貫き、市井の人々が実は武術の達人である、と言う設定が素晴らしい。おじさんやおばさんが、強烈に強く、格好良いのだ。「少林サッカー」同様、おじさんやおばさんがが格好良い映画には、強烈に惹かれてしまうのだ。
気になるカンフー・シーンは、若干荒唐無稽な技が顔を出すが、はっきり言って素晴らしい。「斧頭会」と「豚小屋砦」の三人の達人の戦いのアクション・シークエンスには、あまりにも素晴らしいアクションに感涙モノなのだ。
また演出や構成も素晴らしく、例えば「斧頭会」の組長サム(チャン・クオックワン/[陳國坤])のダンス・シーンは、斧を持ち華麗に踊るメンバーが徐々に増えていくカットと、「斧頭会」が街の人々を苦しめているカットを交互に繋ぐ事により、「斧頭会」が街を支配し、構成員をどんどん増やしていく姿を見事に表現している。そんな演出の目白押しなのだ。
そして何と言っても本作は、周星馳(シャウ・シンチー)のブルース・リーやかつての香港カンフー映画に対する愛情がひしひしと感じられる素晴らしい作品に仕上がっているのだ。
その映画に対する愛が溢れるこの素晴らしい作品を是非観ていただきたいのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=
周星馳(シャウ・シンチー)の舞台挨拶中、「東京国際映画祭」同様、小川直也、グレート佐助らが舞台に乱入し、思いっきり観客の反感を買っていた。今回の試写はフジテレビが企画していたのだが、はっきり言って最低の演出だった。
何しろ、自分に人気があると勘違いしていた小川直也が最低だった。周星馳(シャウ・シンチー)を観に来た客の前で、周星馳(シャウ・シンチー)を罵倒する大馬鹿野郎だったのだ。勿論フジテレビにやらされているのだとは思うのだが、怒鳴れば怒鳴るほど、滑れば滑るほど、状況は悪くなっていった。
会場には5000人ほどの観客がいたのだが、確実に小川直也の株は暴落したと思われる。おそらく、あと少しで小川直也向けの「帰れ!コール」が起きそうな険悪なムードで、勿論演技かも知れないが、周星馳(シャウ・シンチー)も非常に不愉快な表情をしていた。
「ハッスル!ハッスル!」どころではないのだ。
こんな企画は日本のメディアの悪いところであり、これを機に「二度と来日しない」ことにならない事を切に願うのだ。
試写会等の映画のイベントや舞台挨拶には、スタッフとキャスト以外のゲストは不要なのだ。
☆☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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舞台挨拶は監督・製作・脚本・主演のチャウ・シンチー(周星馳)。
かつて香港に、世界中を沸かせたカンフー映画の一大ムーブメントがあった。
しかし、その魁であったブルース・リーは既に亡く、後継者たるジャッキー・チェンは年老いてしまい、今や世界に誇る香港カンフー映画の系譜は途絶えてしまったかに見えた。
そんな中、カンフー映画を貪欲に求める観客たちの欲求を満たすためか、かつての香港カンフー映画の系譜を継ぐ様々な作品が世に出てきた。それは「マトリックス」であり「キル・ビル」であり「マッハ!」であった。
切歯扼腕する香港映画界。
そんな中、香港カンフー映画の復権を果たすためか、一人の男が一本の映画を引っ提げ、満を持して立ち上がった。
その男の名は周星馳(チャウ・シンチー)。そしてその映画が「カンフーハッスル」なのだ。
舞台は文化革命前の中国。
強くなるために悪を目指す街の負け犬チンピラ、シン(星/チャウ・シンチー[周星馳])は、相棒(骨/ラム・チーチョン[林子聰])と共に、小さな悪事を働き糊口をしのいでいた。
ある日、シンと相棒は、貧民街「豚小屋砦」の散髪屋(半尻の床屋)で、冷酷非情なギャング団「斧頭会」の名を騙り、小金を巻き上げようとしたが、住民の団結力に負けてしまう。「斧頭会」の仲間を呼ぶぞと、脅しのつもりで投げた狼煙花火が「斧頭会」の副組長(ラム・シュー)の頭を直撃、「斧頭会」一行は狼煙花火を投げた奴を吊し上げるべく、貧民街「豚小屋砦」に乗り込んできた。
「斧頭会」の傍若無人の悪事に、業を煮やした男たちが立ち上がった。それは粥麺屋(油炸鬼/[董志華])、仕立屋(裁縫/[趙志凌])、人足(口古口厘強/[行宇])の三人の武術の達人だった。彼らは武術を極めた後、争いを嫌うが故に、在野に下り「豚小屋砦」で平和に暮らしていたのだ。
一時は、「斧頭会」を退けた「豚小屋砦」の達人たちだったが、面子を潰された「斧頭会」の組長、サム(チャン・クオックワン/[陳國坤])は、相談役(ティン・カイマン/[田啓文])等と共に、「豚小屋砦」の達人たちを倒すべく刺客を送り込む。
街の平穏な生活を願う、「豚小屋砦」の家主(女房東/[元秋])とその夫(房東/[元華])も否応無く戦いに巻き込まれていった。
かくして、「斧頭会」の面子と、「豚小屋砦」の平穏な生活をかけた戦いは、全面抗争の様相を呈してきた。
「マトリックス」「キル・ビル」「マッハ!」に対する香港の回答がここにある。「カンフーハッスル」は最高の血沸き肉踊る冒険活劇、最高の香港カンフー映画なのだ。
冒頭の「斧頭会」と「鰐革会」の抗争のシークエンスは、「キル・ビル」系のヴァイオレンス描写が続き、三人の達人と「斧頭会」との抗争は、「マッハ!」を髣髴とさせるフルコンタクト系のアクションが楽しめる。「斧頭会」の刺客との戦いはジャッキー・チェンのコミカルな道具仕立ての戦いから、「マトリックス」を超えるワイヤーアクションが炸裂する。
それと同時に、本作「カンフーハッスル」は、ブルース・リーの70年代、ジャッキー・チェンの80年代、ワイヤー・アクションが登場する90年代、CGIがアクションに導入される2000年代と、カンフー映画の歴史を一本で楽しめる構成にもなっているのだ。
アクション導演は、アクションの魔術師ユエン・ウーピン(袁和平)。脇を固めるのは、ジャッキー・チェンの盟友で、ブルース・リーの相手役も務めたサモ・ハン・キンポー。ブルース・リーのスタントマンを務めたユン・ワー等、70年代から現代までのカンフー映画の牽引者が集結している。
本作「カンフーハッスル」は、香港カンフー映画の文字通り集大成なのだ。
先ずは、コロムビア・ピクチャーズが配給を行っているのに驚いた。香港映画の日本国内の配給を日本の配給会社ではなく、ハリウッド・メジャーが行っていることに驚いたのである。しかし実際のところは、コロムビア映画が製作に名を連ねていたのである。ハリウッド資本で製作された香港映画、と言うスタンスなのだろうか。
また、映画のクオリティにも驚いた。セットにしろ、美術にしろ撮影にしろ、照明にしろ、編集にしろ、ハリウッド映画のクオリティを持っていた。最近のアジア映がでは「ブラザーフッド」のクオリティにも似た、品質を持っているのだ。
そして物語は、「少林サッカー」の系統を貫き、市井の人々が実は武術の達人である、と言う設定が素晴らしい。おじさんやおばさんが、強烈に強く、格好良いのだ。「少林サッカー」同様、おじさんやおばさんがが格好良い映画には、強烈に惹かれてしまうのだ。
気になるカンフー・シーンは、若干荒唐無稽な技が顔を出すが、はっきり言って素晴らしい。「斧頭会」と「豚小屋砦」の三人の達人の戦いのアクション・シークエンスには、あまりにも素晴らしいアクションに感涙モノなのだ。
また演出や構成も素晴らしく、例えば「斧頭会」の組長サム(チャン・クオックワン/[陳國坤])のダンス・シーンは、斧を持ち華麗に踊るメンバーが徐々に増えていくカットと、「斧頭会」が街の人々を苦しめているカットを交互に繋ぐ事により、「斧頭会」が街を支配し、構成員をどんどん増やしていく姿を見事に表現している。そんな演出の目白押しなのだ。
そして何と言っても本作は、周星馳(シャウ・シンチー)のブルース・リーやかつての香港カンフー映画に対する愛情がひしひしと感じられる素晴らしい作品に仕上がっているのだ。
その映画に対する愛が溢れるこの素晴らしい作品を是非観ていただきたいのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=
周星馳(シャウ・シンチー)の舞台挨拶中、「東京国際映画祭」同様、小川直也、グレート佐助らが舞台に乱入し、思いっきり観客の反感を買っていた。今回の試写はフジテレビが企画していたのだが、はっきり言って最低の演出だった。
何しろ、自分に人気があると勘違いしていた小川直也が最低だった。周星馳(シャウ・シンチー)を観に来た客の前で、周星馳(シャウ・シンチー)を罵倒する大馬鹿野郎だったのだ。勿論フジテレビにやらされているのだとは思うのだが、怒鳴れば怒鳴るほど、滑れば滑るほど、状況は悪くなっていった。
会場には5000人ほどの観客がいたのだが、確実に小川直也の株は暴落したと思われる。おそらく、あと少しで小川直也向けの「帰れ!コール」が起きそうな険悪なムードで、勿論演技かも知れないが、周星馳(シャウ・シンチー)も非常に不愉快な表情をしていた。
「ハッスル!ハッスル!」どころではないのだ。
こんな企画は日本のメディアの悪いところであり、これを機に「二度と来日しない」ことにならない事を切に願うのだ。
試写会等の映画のイベントや舞台挨拶には、スタッフとキャスト以外のゲストは不要なのだ。
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2004/11/20 東京有楽町「朝日ホール」
「第5回東京フィルメックス」オープニング作品/特別招待作品
「カナリア」を観た。
12歳の少年、岩瀬光一(石田法嗣)は、母親、岩瀬道子(甲田益也子)がカルト教団「ニルヴァーナ」に入信したため、妹と共に否応無く入信させられた上、母親とは別の教団施設で、他の少年信者たちと共に共同生活を営んでいた。光一は教団信者、伊沢彰 (西島秀俊)らの下、教団の教えに反発しつつも、いつしか教団の教えに染まっていった。
教団のテロ事件後、関西の児童相談所に預けられた光一だったが、祖父は妹だけを引き取り、光一の引取りを拒否する。
一方教団幹部としてテロの実行に関わっていた母親、道子は他の幹部とともに逃走し、全国指名手配までされていた。
一人残された光一は児童相談所を脱走、妹を取り戻すため東京の祖父母の家に向かう。
東京への旅の途中、偶然光一は、援助交際を持ちかけた男から逃げ出そうとした同い年の少女、由希(谷村美月)を助ける。光一がほとんど金を持っていないことを知った由希は、助けてもらったお礼に、光一の旅を助けることを決意する。
かくして、二人の旅が始まる・・・・。
(「第5回東京フィルメックス」公式カタログよりほぼ引用)
監督:塩田明彦
出演:石田法嗣、谷村美月、西島秀俊、甲田益也子、りょう、つぐみ、水橋研二、戸田昌宏、井上雪子
塩田明彦監督作品と言えば最近では「黄泉がえり」のヒットが記憶に新しいが、本作「カナリア」は、どちらかと言えばヒット作「黄泉がえり」のような一般大衆に支持される作品ではなく、「月光の囁き」「ギプス」「害虫」等のテイストを引き継ぐ、歪んだ愛を描いた作品のような傾向を持つ。おそらく本作は、塩田明彦特有の嗜好が色濃く出た作品のような気がする。
そもそも本作「カナリア」の物語は、母親が入信したカルト教団の施設で共同生活を行っていた光一(石田法嗣)が、教団が起こしたテロ事件の後、収容された児童相談所を脱走、妹を祖父の下から連れ戻すという目的で、ある意味自分探しの旅を行う物語で、一言で言えば所謂ロード・ムービーの様相を呈している。
その光一の自分探しの旅の道連れは、家庭が崩壊し、援助交際を続ける小学生由希(谷村美月)なのだ。
物語の中で光一は、無口で余計なことは何も語らない。一方、由希は、非常に感じやすく、そして雄弁なキャラクターとして描かれている。本作は、旅をする光一に感情移入し、由希の発する言葉や疑問を聴きながら、光一と共に物事を考える、という構図になっているのだ。その場合、光一の無口なキャラクター設定が、観客が物語世界の出来事について、いろいろ考えるための非常に有効な設定となっている。
そしてそんな由希の発する言葉や疑問は、理想論であり、現状の甘受でもあり、モラルであり、インモラルでもあるのだ。由希は観客が感じるであろう疑問を光一に投げかける重要なキャラクターとして設定されている。由希のキャラクターは、脚本的には、矛盾を含み複雑で、峻厳で辛辣な印象を観客に与えている。
そして、何よりそれらを演じる彼等二人、石田法嗣と谷村美月の演技が素晴らしい。二人とも1990年生まれの14歳。高々14の俳優たちに泣かされるのもなんだが、子役俳優の上手さに舌を巻く。
監督の塩田明彦は上映後のQ&A(ティーチ・イン)で、子役俳優について「子供たちは僕らが考えるよりもはるかに理解力と表現力を持っている。自意識が芝居の邪魔をする大人よりも、子供に芝居をさせるほうがはるかに楽だ」と語っていた。
正に塩田明彦の言う通りである。これは、多くの神童たちが成長するに連れ、只の凡庸な大人の俳優になってしまう所以であるのかも知れない。
ところで本作「カナリア」のタイトルは、1995年地下鉄サリン事件後のオウム真理教教団施設に対する強制捜査の際、先頭の警官隊が掲げていた「かごの中のカナリア」から取られたもので、最前線に立つ存在として「かごの中のカナリア」は「かごの中の少年」を暗喩しているのだ。
そして本作は、親がカルト教団に入信したため、否応無く入信させられてしまった少年たちのカルト教団崩壊後の姿を見事に描いている。
大人の信者は教団を離れ一般社会に溶け込んでいく一方、学校という社会に入ることも拒まれ、地域にも住民として居住することに反発を受ける、そんな身近で大きな問題の最前線に立つ少年たちを描いているのだ。
その手法は非常にリアルで、本当に起こった出来事を映画化しているような印象を受ける。事実、海外のプレスは、「これは本当にあった事なのか?」的な質問を上映後のQ&Aで発していた。
ところで「東京フィルメックス」のコピーは「今、ここに映画の天使がいる」と言うものなのだが、本作には、昭和30年代の松竹蒲田の美少女スターで、今回68年ぶりに映画に出演した89歳の女優、井上雪子が出演している。
本作「カナリア」の中では、彼女は正に映画の天使だった。なんと素敵な一瞬であろう。「東京フィルメックス」のコピーは、この映画のため、彼女のために在ったのか、と思う瞬間である。
撮影は、最近「誰も知らない」で評価を受けている山崎裕。本作でも「誰も知らない」と同様の手持ちカメラの長回しを多用したドキュメンタリー的な手法が楽しめる。その長回しの緊張感とリアリティが、本作の格を一段と高めている印象を受ける。
音楽は打楽器をフィーチャーしつつ、「銀色の道」や「君の瞳は100万ボルト」等の楽曲を俳優たちが実際に劇中歌として唄い、独特の雰囲気と効果をあげている。その楽曲の詩を噛み締めて欲しいのだ。
特に「銀色の道」を唄う谷村美月が素晴らしい。しかし、3度目の「銀色の道」はサントラとして浜田真理子のヴォーカルががぶるのだが、これは完全に興ざめである。物語に没頭している観客の意識を、現実に引き戻してしまっている。魔法がとける瞬間である。
2005年3月の公開までまだしばらく時間があるので、出来れば、「銀色の道」の楽曲をサントラとして使用するのを止め、由希の母親役の女優が「銀色の道」を子守唄のように唄うような雰囲気で入れていただきたい、と切に願うのだ。
美術は、教団施設(サティアン)内部が最高である。
本物のサティアンでロケを行ったような質感に驚かされる。
とにかく、本作「カナリア」は、題材が題材なだけに、全国拡大ロードショーにはならないと思うし、観客もそれほど入らないと思う。しかしながら、機会があれば是非観ていただきたい素晴らしい作品だと思うし、オウム真理教の過去と現在を考える上でも、社会派好きの方は是非観ておくべき作品だと思う。
また、石田法嗣と谷村美月という、二人の子役俳優の、今後のキャリアを語る場合、絶対に外せない作品となっている。おそらく本作は、彼等が大人の俳優になったとしても、代表作に数えられる作品に仕上がっているのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=+=+=
舞台挨拶は、監督の塩田明彦、キャストの石田法嗣、谷村美月、西島秀俊、甲田益也子、井上雪子。
上映後、監督、塩田明彦を迎えてのQ&A(ティーチ・イン)では、観客席には撮影を担当した山崎裕もいた。
やはり上映後のティーチ・インは非常に有意義である。物語の表層ではなく、内面を理解する上で、素晴らしい効果が感じられる。
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「第5回東京フィルメックス」オープニング作品/特別招待作品
「カナリア」を観た。
12歳の少年、岩瀬光一(石田法嗣)は、母親、岩瀬道子(甲田益也子)がカルト教団「ニルヴァーナ」に入信したため、妹と共に否応無く入信させられた上、母親とは別の教団施設で、他の少年信者たちと共に共同生活を営んでいた。光一は教団信者、伊沢彰 (西島秀俊)らの下、教団の教えに反発しつつも、いつしか教団の教えに染まっていった。
教団のテロ事件後、関西の児童相談所に預けられた光一だったが、祖父は妹だけを引き取り、光一の引取りを拒否する。
一方教団幹部としてテロの実行に関わっていた母親、道子は他の幹部とともに逃走し、全国指名手配までされていた。
一人残された光一は児童相談所を脱走、妹を取り戻すため東京の祖父母の家に向かう。
東京への旅の途中、偶然光一は、援助交際を持ちかけた男から逃げ出そうとした同い年の少女、由希(谷村美月)を助ける。光一がほとんど金を持っていないことを知った由希は、助けてもらったお礼に、光一の旅を助けることを決意する。
かくして、二人の旅が始まる・・・・。
(「第5回東京フィルメックス」公式カタログよりほぼ引用)
監督:塩田明彦
出演:石田法嗣、谷村美月、西島秀俊、甲田益也子、りょう、つぐみ、水橋研二、戸田昌宏、井上雪子
塩田明彦監督作品と言えば最近では「黄泉がえり」のヒットが記憶に新しいが、本作「カナリア」は、どちらかと言えばヒット作「黄泉がえり」のような一般大衆に支持される作品ではなく、「月光の囁き」「ギプス」「害虫」等のテイストを引き継ぐ、歪んだ愛を描いた作品のような傾向を持つ。おそらく本作は、塩田明彦特有の嗜好が色濃く出た作品のような気がする。
そもそも本作「カナリア」の物語は、母親が入信したカルト教団の施設で共同生活を行っていた光一(石田法嗣)が、教団が起こしたテロ事件の後、収容された児童相談所を脱走、妹を祖父の下から連れ戻すという目的で、ある意味自分探しの旅を行う物語で、一言で言えば所謂ロード・ムービーの様相を呈している。
その光一の自分探しの旅の道連れは、家庭が崩壊し、援助交際を続ける小学生由希(谷村美月)なのだ。
物語の中で光一は、無口で余計なことは何も語らない。一方、由希は、非常に感じやすく、そして雄弁なキャラクターとして描かれている。本作は、旅をする光一に感情移入し、由希の発する言葉や疑問を聴きながら、光一と共に物事を考える、という構図になっているのだ。その場合、光一の無口なキャラクター設定が、観客が物語世界の出来事について、いろいろ考えるための非常に有効な設定となっている。
そしてそんな由希の発する言葉や疑問は、理想論であり、現状の甘受でもあり、モラルであり、インモラルでもあるのだ。由希は観客が感じるであろう疑問を光一に投げかける重要なキャラクターとして設定されている。由希のキャラクターは、脚本的には、矛盾を含み複雑で、峻厳で辛辣な印象を観客に与えている。
そして、何よりそれらを演じる彼等二人、石田法嗣と谷村美月の演技が素晴らしい。二人とも1990年生まれの14歳。高々14の俳優たちに泣かされるのもなんだが、子役俳優の上手さに舌を巻く。
監督の塩田明彦は上映後のQ&A(ティーチ・イン)で、子役俳優について「子供たちは僕らが考えるよりもはるかに理解力と表現力を持っている。自意識が芝居の邪魔をする大人よりも、子供に芝居をさせるほうがはるかに楽だ」と語っていた。
正に塩田明彦の言う通りである。これは、多くの神童たちが成長するに連れ、只の凡庸な大人の俳優になってしまう所以であるのかも知れない。
ところで本作「カナリア」のタイトルは、1995年地下鉄サリン事件後のオウム真理教教団施設に対する強制捜査の際、先頭の警官隊が掲げていた「かごの中のカナリア」から取られたもので、最前線に立つ存在として「かごの中のカナリア」は「かごの中の少年」を暗喩しているのだ。
そして本作は、親がカルト教団に入信したため、否応無く入信させられてしまった少年たちのカルト教団崩壊後の姿を見事に描いている。
大人の信者は教団を離れ一般社会に溶け込んでいく一方、学校という社会に入ることも拒まれ、地域にも住民として居住することに反発を受ける、そんな身近で大きな問題の最前線に立つ少年たちを描いているのだ。
その手法は非常にリアルで、本当に起こった出来事を映画化しているような印象を受ける。事実、海外のプレスは、「これは本当にあった事なのか?」的な質問を上映後のQ&Aで発していた。
ところで「東京フィルメックス」のコピーは「今、ここに映画の天使がいる」と言うものなのだが、本作には、昭和30年代の松竹蒲田の美少女スターで、今回68年ぶりに映画に出演した89歳の女優、井上雪子が出演している。
本作「カナリア」の中では、彼女は正に映画の天使だった。なんと素敵な一瞬であろう。「東京フィルメックス」のコピーは、この映画のため、彼女のために在ったのか、と思う瞬間である。
撮影は、最近「誰も知らない」で評価を受けている山崎裕。本作でも「誰も知らない」と同様の手持ちカメラの長回しを多用したドキュメンタリー的な手法が楽しめる。その長回しの緊張感とリアリティが、本作の格を一段と高めている印象を受ける。
音楽は打楽器をフィーチャーしつつ、「銀色の道」や「君の瞳は100万ボルト」等の楽曲を俳優たちが実際に劇中歌として唄い、独特の雰囲気と効果をあげている。その楽曲の詩を噛み締めて欲しいのだ。
特に「銀色の道」を唄う谷村美月が素晴らしい。しかし、3度目の「銀色の道」はサントラとして浜田真理子のヴォーカルががぶるのだが、これは完全に興ざめである。物語に没頭している観客の意識を、現実に引き戻してしまっている。魔法がとける瞬間である。
2005年3月の公開までまだしばらく時間があるので、出来れば、「銀色の道」の楽曲をサントラとして使用するのを止め、由希の母親役の女優が「銀色の道」を子守唄のように唄うような雰囲気で入れていただきたい、と切に願うのだ。
美術は、教団施設(サティアン)内部が最高である。
本物のサティアンでロケを行ったような質感に驚かされる。
とにかく、本作「カナリア」は、題材が題材なだけに、全国拡大ロードショーにはならないと思うし、観客もそれほど入らないと思う。しかしながら、機会があれば是非観ていただきたい素晴らしい作品だと思うし、オウム真理教の過去と現在を考える上でも、社会派好きの方は是非観ておくべき作品だと思う。
また、石田法嗣と谷村美月という、二人の子役俳優の、今後のキャリアを語る場合、絶対に外せない作品となっている。おそらく本作は、彼等が大人の俳優になったとしても、代表作に数えられる作品に仕上がっているのだ。
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舞台挨拶は、監督の塩田明彦、キャストの石田法嗣、谷村美月、西島秀俊、甲田益也子、井上雪子。
上映後、監督、塩田明彦を迎えてのQ&A(ティーチ・イン)では、観客席には撮影を担当した山崎裕もいた。
やはり上映後のティーチ・インは非常に有意義である。物語の表層ではなく、内面を理解する上で、素晴らしい効果が感じられる。
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