例によって、見逃した映画のわたし的最後の砦である池袋「新文芸坐」で「ラブ・アクチュアリー」を観た。
同時上映は先日紹介した「シービスケット」。

19人が織り成すそれぞれの愛のカタチ−−
それはあなたの物語(ストーリー)。

本作「ラブ・アクチュアリー」は、「ノッティングヒルの恋人」「ブリジット・ジョーンズの日記」の製作スタッフが、クリスマスを目前に控えたロンドンを舞台に、男女19人が織りなすさまざまな恋愛模様を同時進行で描く心暖まる群像ラブ・コメディである。

監督のリチャード・カーティスは、「ローワン・アトキンソンのブラックアダー」、「ミスター・ビーン」等テレビ・ムービーや、「彼女がステキな理由(わけ)」の脚本家としてキャリアをスタートさせ、最近では、「フォー・ウェディング」、「ノッティングヒルの恋人」、「ブリジット・ジョーンズの日記」等ヒット作の脚本、製作総指揮を務め、今回本作「ラブ・アクチュアリー」により監督デビューを果たしている。

リチャード・カーティスのキャリア自体は20年以上あるものの、携わった作品は比較的少なく、良作をおさえて脚本家からトントン拍子に監督までたどり着いた、羨ましいキャリアの持ち主である。

12月のロンドン。
クリスマスを目前に控え、誰もが愛を求め、なんとか愛を成就しようと浮き足立つ季節。
新たに英国首相となったデヴィッド(ヒュー・グラント)は、国民の熱い期待とは裏腹に、ひと目惚れした秘書のナタリー(マルティン・マカッチョン)のことで頭がいっぱい。
一方街では、最愛の妻を亡くしたダニエル(リーアム・ニーソン)が、初恋が原因とも知らず元気をなくした義理の息子サム(トーマス・サングスター)に気を揉んでいた。
恋人に裏切られ傷心の作家ジェイミー(コリン・ファース)は言葉の通じないポルトガル人家政婦オーレリア(ルシア・モニス)に恋をしてしまう。
会社の部下ミア(ハイケ・マカッシュ)のあからさまなアプローチにドギマギするハリー(アラン・リックマン)の不審な行動に妻カレン(エマ・トンプソン)の心に疑惑が芽生え、ハリーが経営する会社の内気なOLサラ(ローラ・リニー)のカール(ロドリゴ・サントロ)への2年7ヵ月に及ぶ片想いはハリーの計らいで新たな展開を迎えようとしていた・・・・。

結論から言うと、誰にでもオススメできる、大変素晴らしい「愛」に関する映画である。

しかもこの物語で語られている「愛」は、勿論男女間の恋愛から始まって、親子の愛、兄弟姉妹の愛、友達への愛、同士への愛、独りよがりの愛、多くの人々への愛等、様々な形態があり、冒頭とラストのヒースロー空港での全てのカットがそれを端的に表しているのだ。

特にラストの凄まじいほどのスプリット・スクリーンには、観客を神の視点へと導き、この暴力や憎悪に満ちたすさんだ世界にあっても、人間というものは、なかなか捨てたものではないな、というような感慨を持たせる効果を担っている。

本作「ラブ・アクチュアリー」は、あえて陳腐な表現を使わせていただくならば「心が温かくなる映画」というカテゴリーに入るの映画なのだ。

ところで、物語の形式は、古くから「グランド・ホテル」形式と呼ばれていた、閉鎖されたある環境(多くの場合建物や極限的な境遇)内にいる人々の様々な人間模様をオムニバス形式、アンサンブル形式で語りつつ、大きな物語を紡ぎ出す、という形式で、「ショート・カッツ」以降、様々な「グランド・ホテル」形式の発展的末裔と思われる作品が見られたが、最近では「マグノリア」と言うような「グランド・ホテル」形式のひとつの完成形とも言える作品を輩出するまでに至っている。

尤も、「マグノリア」が果たして「グランド・ホテル」形式を踏襲しているかどうかについては、諸意見があると思うが、本作「ラブ・アクチュアリー」は一見すると複雑で雑多な人間模様が、終盤に用意された大きなプロットに向け、登場人物の全ての行動が集約されていく様は、「マグノリア」等と比較するとちよっと弱いが、「マグノリア」系の作品だと言えるし、その大きなプロットの存在が、神の見えざる手による予定調和的なストーリー・テリングに思え、ある意味壮大な感動を覚えるのだ。

キャストについては、全てのキャストが与えられたキャラクターを気負わずあくまでも自然に観客の期待通りの演技を見せている。

本作のような、脚本で見せる群像劇は、オーバーアクトやなにかで一部の俳優が目立ってしまうと、観客は所謂興ざめ状態に陥り、作品としての評価が下がってしまうきらいがある。
周囲の状況を把握できない一部の俳優の熱い演技の為、観客が冷めてしまう事が往々にしてあるのだが、本作では、キャスト全員が生き生きと、その与えられたキャラクターを自然に、あくまでも自然に、市井の人々風のリアリティを持って演じている。

そう考えると本作は、あの俳優の演技が良いとか悪いとか言う次元を超越した作品に仕上がっている、と言えるだろう。

従って本作のキャストについては、個々の俳優の演技がどうこうではなく、その演じたキャラクターに観客として、またはひとりの人間として共感できるかどうかに転化してしまっているのである。
これは、勿論全ての俳優たちは、与えられた仕事以上の仕事を本作で果たしていることを前提としてだが。

そこまで考えて、神の視点の事を考えるとこの「ラブ・アクチュアリー」は、一気に面白みを増すのではないだろうか。

人間って些細な事に一所懸命になったり、バカなことをいろいろやるけど、本当は気の良いヤツばかりだな。
なんて感想が持てたら、人生楽しくなってしまうのではないだろうか。

本作「ラブ・アクチュアリー」は、そんな気分にさせてくれる素晴らしい作品なのだ。

余談だが、本編中でビリー・マック(ビル・ナイ)が歌っている曲だが、リチャード・カーティスが製作総指揮と脚本を担当した「フォー・ウェディング」の結婚式中でも使用されている。
例の如く、見逃した映画のわたし的最後の砦、池袋「新文芸坐」で「シービスケット」を観た。同時上映は「ラブ・アクチュアリー」。

1929年10月、アメリカは株の大暴落で大恐慌時代に陥った。
それまで自転車修理工、自転車販売業、自動車販売業で成功を収めていたチャールズ・ハワード(ジェフ・ブリッジス)は、最愛の息子を交通事故で亡くし、妻にも去られてしまう。
しかし彼は1933年、運命的に出会った女性マーセラ(エリザベス・バンクス)と結婚。乗馬好きだった彼女の影響を受け、競馬の世界に傾倒していく。
やがてハワードは、骨折した競走馬の命を助ける程、馬に愛情を注ぐ元カウボーイのトム・スミス(クリス・クーパー)を調教師として雇い、スミスに購入を勧められた「シービスケット」と呼ばれる小柄で気性の荒いサラブレッドを購入、そして誰もが手を焼くその馬の騎手に、気が強く喧嘩っ早い男レッド・ポラード(トビー・マグワイア)を起用するのだった。

先ず驚くのは、この「シービスケット」の物語が実話である。ということである。
わたしを含め観客の多くは、このあまりにもドラマチックな物語である本作が、正真正銘実話である、と言う事をにわかには信じられないのでは無いだろうか。

そして、何よりも大恐慌時代の一般大衆の希望の象徴として機能したのが、映画スターでもスポーツ選手でもなく、2度目のチャンスを与えられた競馬馬とその騎手だった。ということが興味深い。

これは言いかえると、語弊はあるが、名も無い駄馬だった「シービスケット」とその騎手レッド・ポラードは、大恐慌時代に民衆が置かれたどん底の状況における一筋の希望を表しており、繰り返しにはなるが、その一筋の希望のメタファーとして、「シービスケット」とレッドが見事に機能している、ということなのである。

そして物語中で馬主ハワードは「シービスケット」が出走するレースにおいて、競馬場の安い席(内馬場)を開放し、多くの民衆を競馬場へ招き入れる。
これはかの「天井桟敷の人々」にも通ずるように、娯楽のような(この場合は競馬だが)、夢や希望を与える「もの」は全て民衆のものである、ということを端的に表しているのではないだろうか。

そして、本作「シービスケット」では、本作のテーマともいえる、「2度目のチャンス」に関することが、手を変え品を変え、何度も何度も語られるのである。
これが、まさしく世界大恐慌状況下において、民衆が求め欲している事なのであろう。

さて、本作の手法についてだが、先ず時間経過の処理が上手く感じた。
同じカメラ位置で登場人物がオーバーラップで結果的に動き、彼等登場人物の関係が変わっていく、または登場人物の心情が変わっていく、という表現手法である。
そして、もうひとつ時間経過による物語の省略が、行間を読む観客にとっては大変素晴らしい印象を与えている。
例えば、馬主ハワードと後に彼の妻となるマーセラと食事をしていたら、次のシーンでは既に結婚していた、とか、馬主ハワードが元カウボーイのトム・スミス出会い、不味いコーヒーをごちそうになりながら、馬の話をしていたら、次のシーンでは既に雇われていた、とか、この辺の省略の手法が物語を語る上で、観客の想像力が物語を補完する、大変素晴らしい効果を上げている。

また迫力のレース・シークエンスにおいて、広角レンズの使用が凄まじいほどの臨場感の付与に成功している。
普段決して見る事が出来ない、競走馬の疾走を目前で臨場感を持って見ることが出来るのは、この広角レンズのおかげであろう。

また本編のファイナル・カット(トップ騎手の視点カメラによる競馬場のトラックの映像)は、今まで優勝した騎手しか見ることの出来なかった映像をわたしたち観客に見せてくれているのだ。
レース・シーンは本編で何度も出てきたし、騎手の目線でのカットも何度もあった、そして「シービスケット」が優勝するシーンも何度もあったのだが、トップに立つ騎手の目線で誰も居ないトラックを見せたのは、ファイナル・カットがはじめてである。
このカットの意味する、「シービスケット」と騎手、そして観客との一体感は、全くもって圧倒的な映像体験だと言わざるを得ない。

また、冒頭付近トム・スミス(クリス・クーパー)がカウボーイとして、馬を追うシークエンスについても、スコープ・サイズの画面の効果を最大限に生かしており、ただトム・スミスの馬が、数頭の馬を追うだけの映像で泣けるという素晴らしい効果を出している。

キャストについては、先ず馬主チャールズ・ハワードを演じたジェフ・ブリッジスだが、キャラクター設定上、自転車修理から、自転車販売、自動車販売から、競馬馬の馬主と、語弊はあるが儲かれば良い的な印象を感じる。これは以前「タッカー」でジェフ・ブリッジスが演じたプレストン・タッカーにも通じる。
アメリカと日本の文化の差なのか、インチキ臭い山師のような、なんだか理解しがたい釈然としない部分がある。
また、民衆やマスコミを前にしたスピーチにもその辺が表れているような気がする。

調教師トム・スミスを演じたクリス・クーパーは、旧来のカウボーイのイメージ通りの役柄で、特にトム・スミスの過去を、ハワードやレッドの過去と比較して、明確に描いていないところが、謎っぽく、行間を読む観客にとっては深みのある、キャラクターとなっている。

騎手レッド・ポラードを演じたトビー・マグワイアは、減量に減量を重ね苦労したようだが、「サイダーハウス・ルール」や本作「シービスケット」を見る限り、「スパイダーマン」なんかをやっている場合ではない、と思ってしまう。
余談だが、本作のように髪を短くして頬をこけさせると、ジュード・ロウに似てくるような気がした。

そして、ラジオ・アナウンサーであるティック・トック・マクグローリンを演じたウィリアム・H・メイシーだが、ラジオ放送黎明期の現場と、本作のコメディ・リリーフ的な役割を見事にそして楽しげに演じている。

また、レッドのライバル騎手ジョージ・アイスマン・ウルフを演じたゲイリー・スティーヴンスは観客の心をガッチリと掴んでしまう、見事なライバル像を創り出している。

とは言うものの、全ての俳優は自分の仕事を的確にこなしているだけであり、本作において特筆すべき点は、やはりなんと言っても脚本の素晴らしさだろう。
この脚本のおかげでキャラクターが立ち、見事な存在感を持ってわれわれの前に対峙しているのだ。
全ての登場人物は魅力的であり、物語のドラマチックさとも相まって、本作「シービスケット」は、生涯忘れ得ない程の作品に仕上がっているのではないだろうか。

それを端的に表しているのは、同じ事を2度行う、ところである。
例えばハワードの「これはゴールではない」というスピーチや宇宙旅行ゲーム、「ケガをしたからといって命までとらない」というセリフ、5ドルかけるレッドとウルフ。
そしてなんと言っても、レース中、殿(しんがり)に下がったレッドとウルフの会話、そしてそこからの見事な追い上げである。
特に、殿で併走するレッドとウルフの姿には感極まってしまうのではないだろうか。

結果的に本作のテイストはロバート・レッドフォードの「ナチュラル」に似ているが、本作「シービスケット」は、とにかく非の打ちどころの無い素晴らしい作品に仕上がっている。
ティム・バートンの新作「ビッグ・フィッシュ」を観た。

出産間近の妻ジョセフィーン(マリオン・コティヤール)とパリで暮らすジャーナリストのウィル・ブルーム(ビリー・クラダップ)は、父エドワード・ブルーム(アルバート・フィニー/ユアン・マクレガー)の病状が悪化したと、母サンドラ(ジェシカ・ラング/アリソン・ローマン)から報せを受けた。

彼の父エドワードは自分の人生を幻想的でマジカルな話として語り、聞く人を魅了し楽しい気分にさせる名人だった。
ウィルも子どもの頃はそんな父の話を聞くのが大好きだった。しかし3年前の自分の結婚式で、父が行ったスピーチを基に、父と喧嘩して以来、不和が続いていた。

ウィルは妻を連れて実家へと向かうが、、病床でも相変わらずホラ話を繰り返す父と、父の本当の姿を知りたいと願う息子の溝はなかなか埋まらなかった・・・・。

第一印象としては、素晴らしい作品だった。
何しろ脚本が素晴らしいし、ティム・バートンのイメージを具現化する美術も素晴らしい。

物語は、現代のシーンと回想シーンが交互に語られる形式で進み、エドワード・ブルームとサンドラ・ブルームは、現代のシーンをアルバート・フィニーとジェシカ・ラングが、回想シーンをユアン・マクレガーとアリソン・ローマンが演じている。

描写のテイストは、現代のシーンは、色彩を押さえた堅実でリアルな表現がなされ、回想シーンは、鮮やかな原色を描写しながらもダーク・ファンタジーの雰囲気を損なわない素晴らしい効果を醸し出している。

その辺りの描写のギャップは若干否めないものの、言わば2本の映画を1本にまとめているような印象を受け、その2本が見事に融和しているのだ。

特に印象的なのは、父の死期が近づいた病室で息子ウィルが初めて物語る「父の死の物語」と、映画史上に残るだろう葬式のシークエンスである。

映画の本編を観ることにより、既にエドワードの人生を追体験しているわたし達観客に取っては、息子が物語る「父の死の物語」も父の葬式のシークエンスも、既に思い出と融和し完全に納得できる、観客の理想とも言えるシークエンスとなっているのだ。

病室のシークエンスについては、ジャン=ジャック・ベネックスの「IP5/愛を探す旅人たち」の感じもあるし、笑いのある(楽しかったから悲しい)葬式はローレンス・カスダンの「再会の時」や「ラブ・アクチュアリー」の冒頭付近のベイ・シティ・ローラーズがかかる葬式のような印象を受ける。

特に、父のホラ話を信じていなかった息子が、初めて父のように物語る「父の死の物語」が、かつての親子の断絶を解消し、自分もやはりあの父の息子である、ということを自覚させ、そして自分は、父と父の物語を、そして父の物語の登場人物を心から愛していることに気付く素晴らしいシークエンスに仕上がっている。

そして、ラストの葬式のシークエンスで音声無しに、亡きエドワードの思い出話を語りまくっているであろうスティーヴ・ブシェミ(ノザー・ウィンズロー/詩人)や、葬式に参列した父エドワードの夢の住人たち、ダニー・デヴィート(エーモス・キャロウェイ/サーカスの団長)やマシュー・マッグローリー(カール/巨人)、ヘレナ・ボナム=カーター(ジェニファー・ヒル/魔女)等の悲しげであり、そしてなんと言っても楽しげな表情が、エドワードを愛した人達にとってエドワードの人生が楽しくそして有意義であり、彼等にとっても有意義であった事を表現し、既にわれわれ観客にとっても、思い出ともなっているエドワードの生涯は、われわれ観客の人生にとっても、楽しくもあり、悲しくもあり、そして非常に有意義なものであったことに気付く素晴らしい構成となっているのである。

そして、特筆すべき事として、ラストの葬式のシークエンスにより、今までの回想シーンの、父エドワードの夢の世界であるファンタジックなホラ物語が、現実に転化されることになるのだが、その急転直下的な見事な着地が、わけわけ観客にとって大変素晴らしい効果を与えている。
描写のテイストは、原色を配したダーク・ファンタジー系の描写ではなく、無彩色を基調としたリアリスティックな描写の中で、語られる、最早魔法が薄れた夢の世界の住人の姿が美しくも悲しい。

しかし、われわれ観客の心に宿ったように、息子ウィルの心には既に魔法の力が宿っているのである。

本作「ビッグ・フィッシュ」は、このふたつのシークエンスのために存在しているのかも知れないのだ。

キャストは、先ずアルバート・フィニーとユアン・マクレガー、ジェシカ・ラングとアリソン・ローマンのキャスティングが凄い。
ユアン・マクレガーやアリソン・ローマンが、年老いアルバート・フィニーやジェシカ・ラングになる、というのも納得できるし、下手をすると声さえ似ているのではないだろうか。

また詩人ノザー・ウィンズローを演じたスティーヴ・ブシェミ、サーカスの団長で○男のダニー・デヴィート、魔女のヘレナ・ボナム=カーター等の醸し出す素晴らしい効果、そしてなんと言っても巨人カール役マシュー・マッグローリーの哲学的思索的な表情が素晴らしい効果を与えている。

音楽は前半部分はダニー・エルフマン節全開なのだが、スコアはだんだんと抑え気味になり、画面を邪魔しない静かで感動的なものになって行くのだ。

ところで、ティム・バートンについて考えてみると、わたし達にとっては、ティム・バートンは、現実世界ではなく、ファンタジー世界に生きているように考えがちなのだが、そう考えた場合、この作品でティム・バートンは、現実世界の存在に気付いてしまった。というべき作品だったのかも知れないし、ティム・バートンにとっては、この作品を通して現実とファンタジーが相容れない事、世の中にはファンタジー世界には無い、大変なつらいことが沢山あることに気付いた、ともいえるのではないだろうか。
ここにはウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」のミア・ファローとだぶる悲しみがある。

とにかく本作「ビッグ・フィッシュ」は円熟期を迎えたティム・バートンが世に送る素晴らしい傑作なのだ。
号泣必至の本作は是非劇場で体験して欲しいのだ。
 
 
☆☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2004/06/01、東京千代田区「科学技術館サイエンスホール」で行われた「天国の本屋〜恋火」の試写会に行って来た。

完成しなかったピアノ組曲・・・。
2度と上がらなくなった「恋する花火」・・・。
地上と天国が出逢うとき、
結ばれなかった恋人たちに、奇跡がおこる。

自己中心的で協調性がないピアニスト健太(玉山鉄二)は、バイト先の管弦楽団から解雇を言い渡され、ヤケ酒で酔いつぶれてしまう。
目覚めた健太はたくさんの本が並ぶ見知らぬ部屋にいた。そこはヤマキ(原田芳雄)が店長を務める天国にある本屋だという。
健太は死んだ訳でもないのに、天国に連れて来られ、そのヤマキが店長を務める本屋で短期アルバイトをさせられることになってしまったのだ。

ヤマキ曰く、人間の寿命は100年に設定されており、地上で20年生きれば、天国で80年生き、地上で70年生きれば、天国で30年過ごす事になっている、と言うのだ。
そして地上と天国で合計100年経過したら、再び地上に輪廻する、ということらしいのだ。

「天国の本屋」で、健太は翔子(竹内結子/二役)という名の、若くして亡くなった元ピアニストの女性と出会う。翔子は健太が幼い頃に憧れ、ピアニストを志す動機を与えた女性だった。

一方地上では、その翔子の姪香夏子(竹内結子/二役)が伝説の「恋する花火」を復活させようと、長らく途絶えていた地元商店街の花火大会の再開に向け、青年団の幹事として奔走していた。

まず、物語の前提として、天国の設定が興味深い。

1.前述の通り、100年の寿命を地上と天国でシェアしている。
2.天国での外見は、地上で死んだ当時のまま。
3.天国では、地上で親しかった人と会えない。

うがった見方をすると、物語を語る上で、天国で起きると思われる様々な問題をクリアするべく作られた、神の視点を持ったルールのような気がする。

ところで、本作は「天国の本屋」を舞台にした連作小説のうち2作を原作にしているらしく、本作では大きく2つの物語が語られているのだ。

ひとつは、弟を殺してしまったと、思い込んでいる姉の物語で、
もうひとつは、「恋する花火」の花火職人瀧本(香川照之)と、その恋人だった今は亡きピアニスト翔子(竹内結子/二役)、「恋する花火」を復活させたい翔子の姪の香夏子(竹内結子/二役)と、翔子にあこがれてピアニストになった健太(玉山鉄二)が織りなす比較的複雑で、予定調和的な美しい物語である。

因みに「恋する花火」とは「それをみた二人は永遠に結ばれる」と言い伝えられている伝説の花火である。

物語の本筋は勿論後者のピアニストと「恋する花火」をめぐる物語なのであるが、その物語は、神の意思が感じられる予定調和的な物語を、音楽と花火をモチーフに描いている。
大げさに言うと、壮大な伏線が結果的にカチリと決まる種類の脚本で、いくつかの大きな伏線を生かした物語だといえよう。

音楽については、翔子が生前「恋する花火」を見ながら書いていたピアノ曲が良かった。
また、天国で翔子が健太と一緒に作曲をするのだが、その場面の中で、音楽好きの誰もがうなずくシークエンスがひとつあった。
また、ラスト近辺でピアノの音が連弾になっているところも感動的である、と言えよう。

しかし本作の第一印象は、竹内結子効果か「黄泉がえり」の二匹目の泥鰌を狙ったのではないかと勘ぐってしまうような、印象を受けた。

特に、「黄泉がえり」と似通っていると思ったのは、中盤付近の香夏子(竹内結子)と元花火職人の瀧本(香川照之)との画面はロングで長回しによるビンタの応酬、とラスト近辺の花火大会会場の人ごみの中を人を探して駆ける香夏子(竹内結子)。
「黄泉がえり」の映画的記憶を利用した演出がされていたような気がした。

作風は、部分的になんだか編集がきちんと出来ていないような印象を受けた、と言うか編集を前提とした撮影ではなく、中途半端な長回しで、行ける所まで行こう的演技を俳優にさせているような印象を受けた。
そのため、カメラが被写体を微妙に追い、ふらふらした画面が、自主制作映画のような稚拙な撮影と編集を感じさせる。
また俳優のひとつの演技をひとつのカットで表現しようとしていたのかとも思った。
勿論重要なシークエンスではきちんと編集されているのだが、所謂セカンド・ユニットが撮影しているような部分は、前述のような撮影と編集に問題があるような印象を受けた。

例えば相米慎二の長回しのような緊張感や緊迫感が画面から伝わる事も無く、中途半端な長回しのため、間が持たない演技を見せられているような気がした。
間が持たないのなら、細かいカット割で誤魔化した方が、観客に対して良い印象を与えられるのではないだろうか。

キャストについては、なんと言っても、「恋する花火」の花火職人瀧本を演じた香川照之だろう。
過去の出来事を機に自堕落な隠遁生活をおくっている姿が痛々しく、美しい。

脚本は都合が良く、ツッコミどころ満載であるが、まあ、細かいところに目をつぶれば、一般大衆に受け入れられるような普遍的で神話的な物語を現代日本風にアレンジした感動的な物語だと言えると思う。

圧倒的な感動は無いが、ちらっと泣きたい人には、ちょっとオススメの映画かも知れない。
音楽の力が感じられる映画でもある。
さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その5です。

とりあえず目標の再確認を・・・・

目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」

1.映画

#024 「キル・ビル Vol.2」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/05/01
#025 「スクール・オブ・ロック」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/05/01
#026 「ゴッド・ディーバ」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/05/11
#027 「クリムゾン・リバー2 黙示録の天使たち」九段会館ホール 2004/05/12
#028 「CASSHERN」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/05/14
#029 「トロイ」日本武道館 2004/05/17
#030 「カレンダー・ガールズ」ヤクルトホール 2004/05/19
#031 「21グラム」ヤクルトホール 2004/05/19
#032 「シルミド」よみうりホール 2004/05/24

2.DVD、CATV等

#065 「ライオン・キング」CATV 2004/05/03
#066 「修羅雪姫」CATV 2004/05/03
#067 「修羅雪姫 怨み恋歌」CATV 2004/05/03
#068 「EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ(短編)」CATV 2004/05/04
#069 「トリック」CATV 2004/05/04
#070 「エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS」CATV 2004/05/04
#071 「ジョーズ」LD 2004/05/13
#072 「ストレイト・ストーリー」CATV 2004/05/16
#073 「時計じかけのオレンジ」DVD 2004/05/22
#074 「A.I.」DVD 2004/05/23
#075 「マルホランド・ドライブ」DVD 2004/05/23
#076 「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air」DVD 2004/05/23
#077 「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 まごころを、君に」DVD 2004/05/23
#078 「ニュー・シネマ・パラダイス 完全版」CATV 2004/05/23
#079 「HOUSE ハウス」CATV 2004/05/25
#080 「ゼイラム2」CATV 2004/05/25
#081 「野ゆき山ゆき海べゆき」CATV 2004/05/26
#082 「33 1/3 r.p.m.」CATV 2004/05/26
#083 「さびしんぼう」CATV 2004/05/27

3.読書

#017 「マーチ博士の四人の息子」ブリジット・オベール著 堀茂樹・藤本優子訳 2004/05/10
#018 「ザ・スタンド(II)」スティーヴン・キング著 深町眞理子訳 文春文庫 2004/05/24

映画は、劇場9本(累計32本)、DVD等19本(累計83本)で、計28本(累計115本)。
このままのペースで、年間276本(劇場77本)です。

読書は2冊(累計18冊)で、このままのペースでは、年間43冊です。

状況は厳しいですし、先は長いですが頑張ります。

※ 参考 昨年同時期の状況
映画 126本(劇場37本)
読書 24冊
2004/05/24、東京有楽町よみうりホールで行われた「シルミド/SILMIDO」の試写会に行ってきた。

本作「シルミド/SILMIDO」は、韓国政府によって長年に亘って隠蔽されていた、韓国政府による北朝鮮金日成暗殺計画と、それを巡る特殊工作部隊の反乱事件(「シルミド事件」)を描いたアクション・サスペンスである。

1968年1月、北朝鮮特殊工作部隊による韓国大統領府襲撃未遂事件が発生。同年4月、韓国政府はその報復のため、シルミド(実尾島)に死刑囚ら31人を集め、極秘に金日成暗殺部隊の設立を目論んだ。
カン・インチャン(684部隊第3班長/ソル・ギョング)、ハン・サンピル(684部隊第1班長/チョン・ジェヨン)ら元死刑囚31人は、その時の年月から名付けられた684部隊の特殊工作員としてジェヒョン隊長(アン・ソンギ)、チョ2曹(ホ・ジュノ)の下、過酷な訓練を開始する。
3年後、優秀な工作員に仕立て上げられた彼らに、いよいよ実行命令が下される。しかし、政府の対北政策は決行目前になって大きく転換、北潜入へ向け行動を開始した部隊に急遽命令の撤回が告げられるのだったが・・・・。

本作「シルミド/SILMIDO」は、韓国本国では、1,200万人(2004年3月現在)以上という韓国映画史上最高動員記録を樹立した作品であると同時に、実際の事件である所謂「シルミド事件(金日成暗殺を目的とする特殊工作部隊の設置と、その部隊の抹殺指令の発令、部隊の反乱と粛清)」という韓国の近代史における恥部を映画化した、ある意味志の高い作品である。

もしかすると文化の違いからかも知れないが、韓国の皆さんのようにわたしは号泣することはなかったが、軍隊という階級社会の閉鎖された環境で、軍人として生きるのか、それとも本来の人間として生きるのかを、淡々とまたは壮絶に描いている。
また細かい泣かせどころもツボを押さえており、感動の社会派ドラマという見方も出来る作品である。

そして、その物語の描き方は、冒頭部分を684部隊内部の視点から描き、反乱直前までの部分を684部隊の教官側の視点から描いているのが興味深かった。
これにより、684部隊の隊員に厳しく接するジェヒョン隊長(アン・ソンギ)やチョ2曹(ホ・ジュノ)の、軍人として684部隊に接する厳しさと、人間として愛情を持って、自らの命の危機を顧みず684部隊員の事を考える姿の対比が、素晴らしい効果を醸し出している。

特に自分の力ではどうしようもない環境に置かれてしまった684部隊の教官たちの苦悩が悲しくも美しい。
繰り返しになるが、チョ2曹(ホ・ジュノ)の人間臭い生き様が泣ける。

物語の構成は、前半部分は訓練風景、後半部分は実戦ということで、ともすれば、スタンリー・キューブリックの「フルメタルジャケット」的な印象を受けたし、また、同様の観点からクリント・イーストウッドの「ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場」のような印象も受けた。

また、後半部分のバス・ジャック辺りは、クリント・イーストウッドの「ガントレット」を髣髴とさせるアクション・シークエンスが続く。

おそらく、日本国内では、いくら韓国映画ブームだとは言っても、客がたくさん入る映画ではないと思われるが、現在日本が抱えているアジアの外交・政治問題に遠からず関連がある題材を描いている作品なので、その辺りに関心がある方は是非劇場に足を運んでいただきたい。

☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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「21グラム」

2004年5月23日 映画
2004/05/21、奇しくも21日、新橋ヤクルトホールで行われた「21グラム」の試写会に行ってきた。
何かと話題の「21グラム」である。

このままでは余命1ケ月だと診断され、心臓移植のドナーを待ち続ける大学教授のポール(ショーン・ペン)。
余命幾許も無い事を知った別居中の妻は、彼が死ぬ前に人工授精を試み、彼の子供が欲しいと提案する。

若い頃からヤクザな生活をしていた前科者のジャック(ベニチオ・デル・トロ)。
今は改心し信仰に篤く、クジで当たったピックアップトラックも神からの授かり物と信じ、貧しくも懸命に働きながら妻と2人の子供を養っている。

かつてドラッグに溺れていたクリスティーナ(ナオミ・ワッツ)。
現在は、ドラッグの依存症もおさまり、夫と2人の娘と共に幸せに暮らしていた。

そんな出会うはずのない3人の運命は、ある事故をきっかけに交わり、思いもよらぬ結末へと導かれていくのだった・・・・。

『人は死んだ時「21グラム」だけ軽くなる』という話をモチーフに、ひとつの心臓と3人の人間模様を織りなす、ヒューマン・ドラマに端を発する物語である。

しかしながら、本作「21グラム」の表現手法(ここでは編集)がトリッキーで、時間軸の分解・再構築と、舞台の転換が著しく、一般のわかりやすい娯楽作品に慣れている方には、ちょっと難しい作品かも知れない。

もしかすると本作は、「メメント」や「Re:プレイ」、「アイデンティティー」、そして「ロスト・ハイウェイ」、「マルホランド・ドライブ」等の一連のデヴィッド・リンチ作品に面白みを感じる人向きの作品かも知れない。

と言っても本作は、デヴィッド・リンチ作品のように特別難解な映画と言う訳ではなく、前述のように時間軸の分解・再構成、舞台の転換が激しく、観客の記憶と、映像に登場する些細な観客に対するヒントを読み取り、この映像は時間軸的に何時の映像かを把握する必要がある、ということである。

因みに、編集は「トラフィック」、「オーシャンズ11」、「コンフェッション」等のスティーヴン・ミリオン。
同一画面構成で別のカットを繋ぐ、と言うようなスティーヴン・ソダーバーグの「トラフィック」などでも使用されている編集手法が本作でも効果的に使われている。

また、撮影は全体的に手持ちカメラ風に揺れ動き被写体を追ってカメラはふらふらする。また被写体を追う都合か、比較的長回しのカットを生かした編集がされている上に、粒子が粗い映像と相まって、物語に対するリアリティの付与に成功している。
色彩を抑えた映像は陰鬱な状況を醸し出している。

音響も素晴らしく、銃器の音や、事故の音等SEの効果は著しい。
音楽があまりかからないことも、その効果を高めているのではないだろうか。

キャストについてだが、、主役3人組は全く素晴らしい。

しかし、ショーン・ペンの演技については、計算しつくされた、詳細に振付けられたような演技、−−特に表情だが、−−にやりすぎ感が見えてしまうような気がする。

一時期、もう俳優はやらない、今後は制作サイドで頑張っていく宣言をしていたショーン・ペンだが、現在俳優としてのキャリアのピークを迎え絶好調状態なのだ。

その当時のショーン・ペン監督作品は「インディアン・ランナー」で、ベニチオ・デル・トロも出ているし、 あとは、デヴィッド・モース、ヴィゴ・モーテンセン、パトリシア・アークエット、チャールズ・ブロンソン、デニス・ホッパー等というとんでもないキャストの作品である。
まあ、俳優が監督をやると往々にしてキャストは凄い連中が集まるのだが。

「マルホランド・ドライブ」、「ザ・リング」の2本でいきなりスターダムにのし上がってきた感のあるナオミ・ワッツは、悲しい女性をそつなくこなしていた。
個人的には「マルホランド・ドライブ」で、ノックアウトされてしまい、その後「ザ・リング」でもやられてしまった訳で、今回も非常に期待していたのであるが、期待にたがわず良い仕事をしていた。好きな女優のひとりなのだ。

そしてなんと言ってもベニチオ・デル・トロである。
最近は「トロさま」と呼ばれ日本国内でも大人気のベニチオ・デル・トロであるが、ご多分に漏れず、わたしも好きな俳優の一人である。
今回の役どころは、ちょっとした汚れ役ではあるが、かつての放蕩時代から、後に信仰に目覚め、そして結局は信仰に裏切られてしまい、結果的には・・・・、というところを熱演している。
このデル・トロのキャラクターは、観客が一番素直に感情移入できる素晴らしいキャラクターだったのではないだろうか。
神の意思による予定調和が体現されているキャラクターなのだ。

前回の「21グラム」の試写会において、監督のアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥとベニチオ・デル・トロの舞台挨拶があった訳だが、その際の舞台挨拶によると、デル・トロは非常にユーモラスでシャイでキュートな人間だった、ということである。
「トラフィック」のラストの球場の雰囲気だろうか。

本作「21グラム」は、2004年6月公開作品の中で、おそらく一番の目玉となる作品であろう。
内容はちよっと重いし、若干わかりづらい部分があるが、是非観ていただきたい素晴らしい作品なのだ。
東京新橋「ヤクルトホール」で実施された「カレンダー・ガールズ」の試写会に行ってきた。

イギリス、ヨークシャー地方近郊の小さな町ネイプリー。
地元の主婦たちの社交の場はもっぱら地元の婦人会に限られていた。
クリス(ヘレン・ミレン)とアニー(ジュリー・ウォルターズ)もこの婦人会のメンバーだったが、あまりにも平凡すぎる退屈な婦人会に疑問を感じ始めていた。
そんな中、アニーの夫ジョン(ジョン・アルダートン)が白血病で亡くなってしまう。悲しみに暮れるアニーを励ます狙いからクリスは突拍子もないアイデアを口にする。
それはなんと、毎年恒例の婦人会のカレンダーを、自分たち自身をモデルにしたヌード・カレンダーにする、というものだった。
これは園芸の仕事に携わっていたジョンが生前語っていた言葉「草花の生育の過程は、全ての過程でそれぞれ美しいが、一番美しいのは成長しきったときである」に端を発する企画なのだ。
そして、その目的はジョンが生前世話になった地元の病院にやわらかい座り心地の良いソファーを寄附したいというもの。
最初は誰も相手にしなかったが、徐々に有志が集まり始め・・・・。

本作は、1999年、イギリスの小さな田舎町で世界初の「婦人会ヌード・カレンダー」が製作され、30万部を売上げ大きな話題となった実話を基にしたヒューマン・コメディ。

一言で言うと、多くの人、特に女性におすすめできる素晴らしいコメディ映画に仕上がっている。
そしてなにより、この映画のひとつのコンセプトとして「成熟した女性が一番美しい」という視点が込められいるのが大変興味深い。

しかしながら、一言でコメディ映画と言っても、これはイギリス映画、ハリウッド的なコメディのカテゴリーではくくれない、正に一筋縄では行かないイギリス製コメディ映画となっている。

特に印象的なのは、クリスやアニー等がヌード・カレンダーのモデルとしてメディアに大々的に取り上げられた挙句、周りの環境が一変してしまい、悪意や、一山あてようとする人々の大きなビジネスに巻き込まれていくあたりである。

その辺りの描写をエスカレート・ギャグの一種と捉え笑い飛ばすか、人間の富と名声に対する執着の醜さと捉えるかにより、本作は新たな一面を観客に見せることになる。

特に、ジョンの死後アニーが善意で行っている「ある事(ココでは書きませんが)」に対するクリスの辛辣な意見は、映画本編のテイストとかけ離れているが故に、観るものの奥底をえぐるような恐ろしくも素晴らしい効果を上げている。

また、彼女等を取り上げたインタビー番組で、その番組のホストから皮肉や当てこすり、女性蔑視的なジョークの種にされているにもかかわらず、放映されたその番組を見ながら爆笑する彼女等についても、楽しく見るか、悲しく見るかで、このシークエンスの印象は一変するのではなかろうか。
楽しい笑いなのか、自虐的な笑いなのか、ということである。

堅い事をいろいろ書いているが、そんな事を考えなくても、−−勿論その辺を考えた方が、映画自体は輝きを増すのだが、−−本作は大変素晴らしい誰にでもオススメできるイギリス製コメディ映画に仕上がっている。
是非皆さんに見ていただきたい映画の一本なのだ。

「トロイ」

2004年5月17日 映画
2004年5月17日(月)、日本武道館で行なわれた「トロイ」の「ジャパン・プレミア」に行って来た。

今回の試写会は一般の試写会ではなく「ジャパン・プレミア」と言うこともあり、レッド・カーペットあり、舞台挨拶ありの近年まれに見る盛大なイベントであった。
勿論、叶野姉妹を始めとしたマスコミ試写会常連の皆さんや話題の皆さんも招待されていた。

気になるゲストであるが、スタッフは、監督のウォルフガング・ペーターゼンをはじめとして、製作のダイアナ・ラスバン、脚本のデヴィッド・ベニオフ等が登場した。
キャストは、ブラット・ピット(アキレス)をはじめとして、エリック・バナ(ヘクトル)、ダイアン・クルーガー(ヘレン)、ローズ・バーン(ブリシィス)と凄いメンバーである。

席は全席指定だったのだが、連れが早くから(13:00頃から、連れの連れは8:00から)並んでいた関係で、中央部の前から6〜7列目位、という舞台挨拶的には最適のポジションだった。

わたしたちは、「トロイ」のバスから出てきたスタッフやキャストがレッド・カーペットを歩くのを少し眺めた後、会場入りし、会場内のスクリーンに投影されているスタッフやキャストがレッド・カーペット券を持っている観客に対しサインをしたり、マスコミに取材を受けたりしている外の生映像を眺めていた。

そのうち、スタッフ&キャストは、日本武道館の正面に「トロイ」の城壁を模して設営された門の前で、一言ずつ挨拶をし、会場入りした。

舞台挨拶は、人数が多かったせいか、またまた一言ずつであった。
こんなに盛大なイベントなのに、一言ずつしか喋らないとは驚きなのである。因みに通訳は戸田奈津子であり、お決まりのフォト・セッションでは司会を差し置き、スタッフ、キャスト、マスコミのカメラ・クルー等を掌握しコントロール下に置いていた。

紀元前12世紀。
エーゲ海における交易の中心地として繁栄を極める都市国家トロイ。
トロイが蓄えるその富は各国の標的となり、長年に渡って戦いが繰り返されていた。
しかし、ある時、トロイと敵対する強国スパルタの王メネラウス(ブレンダン・グリーソン)が和平を申し出た際、事もあろうかトロイの王子の弟パリス(オーランド・ブルーム)によってメネラウスの王妃ヘレン(ダイアン・クルーガー)が誘拐される事件が勃発する。
パリスとヘレンは一目会った瞬間互いに恋に落ち、もはやその熱情を抑えることは出来なくなっていたのだ。
しかし、王の権威を汚されたスパルタの指導者たちは、王妃を奪還するため無敵の戦士アキレス(ブラット・ピット)と千隻もの船団をトロイへ差し向けるのだった・・・・。

映画自体は、大変面白い娯楽作品に仕上がっている。
勿論、「ベン・ハー」や「十戒」、「スパルタカス」やなんかの往年の史劇ものと比較すると、残念ながら遜色する点があるが、ここしばらくの史劇系の作品の中ではスケールも大きく、大変面白い娯楽作品に仕上がっている。

とは言うものの、最近の史劇ものの作品では、リドリー・スコットの「グラディエーター」という傑作があるが、物語が波乱に満ち、見せ場のつるべ打ち、画面構成の巧みさ、キャストの豪華さ、重厚感という点で、「グラディエーター」に軍配が上がるのではないだろうか。

やはり本作「トロイ」は、年老いた世代の所謂スターが比較的少なく、重厚感にかけ、ともするとアイドル映画のような印象をも受けてしまう。
また、物語は大きなひとつのプロットに集約されてしまうため、史劇もののお約束の波乱に満ちたストーリー展開という訳にはいかない。
これは、最近話題の脚本家デヴィッド・ベニオフにしても大本のプロットの問題なので、仕方がないだろう。

そんななかでも、「トロイ」のプリアモス王を演じたピーター・オトゥールには感動ものである。「グラディエーター」のオリバー・リードやリチャード・ハリスには残念ながら及ばないが、素晴らしい存在感を感じる。
またスコアもピーター・オトゥールに対するオマージュか「アラビアのロレンス」を髣髴とさせるような旋律とアレンジが含まれたスコアがかかっていた。

キャストは、ブラット・ピットがいかにもというアキレス像を構築する一方、エリック・バナ(ヘクトル)やショーン・ビーン(オデュッセウス)が美味しいところを持っていってしまっている。
ブラット・ピットのギリシャ史劇に対する違和感が盛んに喧伝されていたが、そんなに気になる事はなかった。

ここ数年売り出し中のオーランド・ブルームは、「トロイ」のダメ王子プリスを良い意味で好演し、レゴラス役やウィル・ターナー役で集めたファンをもしかしたら逃してしまうかも知れないのだ。

女性陣は、オーランド・ブルーム(パリス)と恋に落ち、トロイ戦争のきっかけとなるダイアン・クルーガー(ヘレン)は勿論、アポロの神官で、アキレス役のブラット・ピットと絡むローズ・バーン(ブリシィス)が良かった。
「スパルタカス」におけるジーン・シモンズ的な印象を受けた。

ある意味、ローズ・バーンは、観客の視点・観点を代弁する役柄なのであり、置かれた環境にも屈せず、良識を持ちった孤高の役どころとなっている。

アクション・シークエンスは、冒頭のアキレスの戦いやアキレスとヘクトルの戦いが素晴らしかった。
勿論これは、「グラディエーター」と比較されると思うのだが、余裕のあるアキレスが抑えて軽く走るあたりが良かったし、冒頭の一撃も美しい。

しかし、群集による戦闘は特に新しいものを感じなかった。
やはり「指輪物語」以降、あまり驚かされる事がなくなってしまったのではないだろうか。

美術は、なんといっても、「トロイ」の城壁と作戦室(?)だろう。作戦室(?)中央の水盤(?)が美しい。
また帆船も良いのだが、やはり「ベン・ハー」のガレー船と比較するとちとさびしい感がある。
トロイの木馬は思ったより雑だったが、材料を帆船に求めるあたりはリアリティを感じた。

しかし帆船繋がりで、1000隻の帆船で押し寄せる映像はやりすぎの感を受ける。

結論は、映画を普段見ない人にはおすすめの1年に1本の大作映画かと思う。
年に数十本も数百本も映画を見ている人には、それほど勧める訳ではないが、すすめなくともおさえで観ておくべき作品だと思う。

また、これを機に往年の史劇ものを見直してみるのも楽しいと思うのだ。

「CASSHERN」 その2

2004年5月16日 映画
さて、先日に引き続き「CASSHERN」のお話です。

監督の紀里谷和明のキャリアを前提として「CASSHERN」を考えてみた場合、「CASSHERN」との類似性が高いのは、プレイステーション2用ゲーム「鉄騎」のCFだろうと思われます。

双方の作品には、美術や色彩の方向性、画面に幾何学図形が表示され、登場人物が叫ぶ、という共通点があります。

勿論、音質周りの色彩が比較的豊かな部分は、宇多田ヒカルのPV作品との共通点を見ることが出来ます。

このあたりの演出手法に疑問を感じる点のひとつは、主人公同士の眼が合った際、目から火花(円形の図形)が出、画面中央付近でぶつかり画面周辺にその円形の図形が散る、というエフェクトが表面的に(二次元的に)挿入される。
同様に本編では、幾何学図形が表面的に表示される事が何度も出て来ている。

先日お話した「新世紀エヴァンゲリオン」との関係か、本作「CASSHERN」では、カバラの「生命の木」の円形の図形(セフィロト)らしきものが画面を飛びかう姿が観測できる。

しかし、その幾何学図形の演出意図が明確ではない、というか作品のスタンスと同化していないような違和感を感じるのである。

また色彩を押さえ、明度を調整し、ハレーション気味の映像を使用したり、画面の粒子を粗くしたりしているのだが、これも演出意図が明確ではない。

ビジュアル・コンセプトは模倣や他の作品からの影響は見え隠れするが、独自の世界観を構築しているだけに、不必要なエフェクトをかけることに残念な思いがする。

また、本作はアクション映画というカテゴリーに含まれる訳だが、そのアクションの殺陣が上手くない。
それを誤魔化すためか、アクションが見切れない程カメラは被写体により、また視認出来ないほどの細かいカットの羅列でアクション・シークエンスが展開するのである。

ジェット・リーを主演にした「キス・オブ・ザ・ドラゴン」では、アクションが出来る俳優を起用しながら、アクションが出来ない俳優を起用した場合のように、カメラは被写体に寄り、アクションが見切れない、という問題点があったが、本作はアクションが出来ない俳優を起用し、映像構成や編集で、アクションを誤魔化し誤魔化し見せているのである。

特にラスト近辺の「止め絵」を利用した「ショットガン撮影」風の映像にはガッカリしてしまう。
演出意図はともかく、この手法は自主制作レベルである。

ちょっと観点が違いますが、気になったのは、何度か出てくる回想を表現するカットであるが、これが直接的でわかり易す過ぎ、というか、観客の想像力を信頼していない、というか、行間の描写の必要性と効果を製作者が理解していない、というような印象を受けました。

意味があるなしは別として、映像から得られる情報量は本作「CASSHERN」では高めに設定されているのだが、こういった作品は、製作者サイドの編集作業中は、映像をコマ単位(24フレーム/秒)で確認することが出来る訳だが、実際劇場で本作を観た一般の観客達はコマ単位の映像を視認することは出来ないのである。

否定的な意見をつらつらと書いてきたが、勿論評価できる点もある。

劇場映画第一作とは言え、脚本に関する問題点はあるものの、きちんとライブ・アクションの演出が出来ている、という点です。
これはキャストが自らの与えられた役柄を頑張って演じている、という感もありますが、好意的に考えると監督がきちんと俳優を演出している、ということにもなります。

あとは脚本のラスト近辺の東博士(寺尾聰)と東鉄也(伊勢谷友介)の、東ミドリ(樋口可南子)と上月ルナ(麻生久美子)を挟んだ対話が良かった。
特に東博士(寺尾聰)のラストのセリフが素晴らしい。

またキャストとしては、なんと言っても、及川光博(内藤薫役)だろう。

というか、俳優は若手はともなく、概ね良い仕事をしていると思うのだ。

また、主人公東鉄也(伊勢谷友介)のキャラクターであるが、彼は「都合の悪い部分から逃げるキャラクター」として描かれている。
冒頭の戦場シーン、「僕は戻りたくない」という復活のシークエンス、「この町を救えるか」という問いかけに対する最終的な回答。
そしてこの東鉄也というキャラクターは、「何も出来ないヒーロー」として描かれている感もあります。

また、寺尾聰演じる東博士は、自らの関心事以外には関心を払わない、ステレオタイプ的な科学者として描かれています。

これがラストの名台詞を産んでいるのでしょうかね。

支離滅裂になってきましたね。

「鉄騎」
http://www3.capcom.co.jp/tekki/tk/index.html

「CASSHERN」その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040514.html

「CASSHERN」

2004年5月14日 映画
宇多田ヒカルの夫紀里谷和明の初監督作品「CASSHERN(キャシャーン)」を観た。

もしかすると、「宇多田ヒカルの夫」という枕詞が全てを語っているかも知れないと思っていたのだが、残念ながらその通りの作品であった。

いきなり余談だが、本作「CASSHERN」が置かれている状況を考えてみよう。

現在、アニメーション以外の日本映画を劇場で見ようとした場合、多くの人の選択肢は、「世界の中心で、愛をさけぶ」と「CASSHERN」の2本であろう。
あとは意表をついて第3の選択肢として「死に花」位だろうか。

ところで、各メディアの「CASSHERN」のプロモーションは、年に何十本も映画を観る映画ファンではなく、年に数本しか映画を観ない層に向かっているような気がするのである。

そして、メディアは「宇多田ヒカルの夫」と枕詞を付けて紀里谷和明を紹介し、日本のプロモーション・ビデオ界では紀里谷和明は屈指の才能の持ち主だとあおり、観客を呼んでいるきらいがあるのだ。

これは、日本映画界だけの問題ではないが、話題性に群がる利害が絡んだメディアが持つ悪い癖ではなかろうか。

事実、以前紹介した「犬と歩けば チロリとタムラ」のような良質な作品(説教臭いし、教育映画的だし、稚拙な部分もあるが)が半年以上の間、配給会社が決まらず、あわや「お蔵入り」というような状況に追いやられてしまう事実がある一方、「宇多田ヒカルの夫」という「話題性」だけで、スポンサーが続々と名乗りを上げ、大作映画が製作、公開され、メディアはこぞって作品とクリエイターの才能を誉めそやし、公開まで延長されてしまっているのだ。

そして、そんなメディアが劇場に呼んだ観客は、年に1本の日本映画として、言い換えるならば、日本映画の代表として「CASSHERN」を観る事になるのだ。
そんな観客は「CASSHERN」を観て一体どう感じるのだろう。
日本映画の新たな才能に希望を見出すのだろうか、それとも紀里谷和明にではなく日本映画に失望するのだろうか。

まあそんな環境の中で「CASSHERN」を観た訳です。

まず、第一印象としては、脚本がひどい、ということです。
映画で重要なのは、手法ではなく、語るべき物語だ、と言う事です。

ひどい部分は沢山あるのですが、わたしが個人的に最悪だと感じたのは、戦いの途中、主人公が自分は「CASSHERN」だ、と名乗る部分です。
物語上では、戦いの前に双方がそれぞれ名乗りをあげるのは、ある意味この映画のひとつの見せ場であり、観客は単純に「格好良いな」と思う部分だと思いますし、「格好良いな」と思わせるように演出されています。

しかし、この物語世界では、『昔「CASSHERN」という神が降臨し民を救った』という伝説がある訳です。
主人公はその伝説を聞いた上で、自分が「CASSHERN」であると名乗る(騙ると言ってもいいでしょう)のです。
自らの事を、最近たまたま生まれ変わったばかりなのに、救世主や神であると騙る、という神経を持った主人公を描写する脚本に驚愕というかあきれてしまいます。

一般的には、戦いが終わり、民衆が喜び、彼は「CASSHERN」だったんだ。と民衆が自然発生的に理解し、ベタですが「キャシャーン・コール」が巻き起こるところを主人公が去っていく的な描写の方が良いのではないでしょうか。
または、「悪魔め!お前のせいだ」とか言われて、民衆に追われるとか。

更に紀里谷和明は、自ら庵野秀明のファンだと自称し、「新世紀エヴァンゲリオン」が好きだと言うのは構わないとしても、「新造人間キャシャーン」を映画化していたら、「新世紀エヴァンゲリオン」が出来ちゃいました、みたいな脚本と描写にはあきれてしまいます。

あとは作品のテーマだとか、監督が言いたい事を、登場人物のセリフで直接的に表現しているのはどうでしょうか。
この脚本には観客が遊ぶべき「行間」も無いし、観客の想像する楽しみを与える婉曲な表現もありません。
あるのは、全て直接的な表現で語ってしまう、舞台劇の独白にも似た構成を持っている脚本なのです。
映像作家だとしたら、セリフではなく映像や描写で語って欲しい
と思うのだ。

つづく・・・・かも。
リュック・ベッソン脚本、ジャン・レノ主演と言う点が強調されている感のある「クリムゾン・リバー2 黙示録の天使たち」を試写会で観た。

本作「クリムゾン・リバー2 黙示録の天使たち」は、前作である「クリムゾン・リバー」のヒットを受けて、同作のジャン・レノ演じるニーマンス警視のキャラクター設定を継承し、新たな相棒レダ(ブノワ・マジメル)と新たな猟奇連続殺人事件を追う、という、サイコホラー・ポリスアクションである。
共演:クリストファー・リー。
監督:オリヴィエ・ダーン、脚本:リュック・ベッソン

結論から言うと、良くも悪くもリュック・ベッソン脚本作品である。
ここしばらく、自らメガホンを取った作品が評価されずに、制作や脚本を行った作品が評価されている感のあるリュック・ベッソンであるが、本作はベッソンの持つユーモアとギャグではないもののエスカレート・ギャグ的要素を持った過剰描写が前面に押し出されたような印象を受けた。

物語は、ある修道院の壁の中から、人間の死体が出てきた事に端を発し、イエス・キリストの使徒たちと同じ名前、同じ職業を持つ男たちが、修道僧らしき者たちに、次々と殺されていく連続猟奇殺人事件と、謎の修道僧の元締めらしきカルト集団、そして第二次大戦時の建造物をモチーフとした巧妙な物語に仕上がっている。

しかしながら、本作の伏線が単純で謎解きを楽しめる作品には達しておらず、サイコホラーものにしてはアクション指数が高く、サイコホラーとポリスアクションの融合を果たした作品だ、と言えるかもしれない。

特にアクション・シークエンスについては、ブノワ・マジメルと修道僧の追跡劇や格闘、後半の銃撃戦や、スペクタクル・シーンに顕著である。

脚本に若干不可思議な点があるが、おどろおどろしいサイコホラーな雰囲気で観客を呼び、アクションや、スペクタクル・シーンにより、観客にカタルシスを感じさせる、という良質な娯楽作品に仕上がっている。

キャストは、クリストファー・リーがわたしたちの持つクリストファー・リーのイメージを期待通りそのまま演じている。役柄のイメージとしては「テロリスト・ゲーム」と同様の印象を受けた。
ジャン・レノはいつものジャン・レノだったが、ブノワ・マジメルのアクションは結構良かった。アクション俳優としても頑張れるのではないかと思った。
エンキ・ビラルの新作「ゴッド・ディーバ」を観た。

前作の「ティコ・ムーン」を見逃したわたしにとっては、「東京国際ファンタスティック映画祭」で「バンカー・パレス・ホテル」を観て以来のエンキ・ビラル作品である。

海外のコミック・シーンについては、「HEAVY METAL」やなんかの海外雑誌を立ち読みしていた時期もあり、メビウスやビラル、フラゼッタ等のビジュアルや世界観には驚かされていたし、ビラルについては「ブレード・ランナー」や「フィフス・エレメント」等の数々の映画のビジュアル・コンセプトに影響を与えている事でも著名なビラルの自作の映画化ということで、わたしは期待していたのだ。

西暦2095年、人間、ミュータント、エイリアンが共存する混沌とした街ニューヨーク。
セントラルパークには雪と氷で覆われた「侵入口」と呼ばれる謎の空間があり、上空には浮遊する巨大なピラミッドが出現した。

古代エジプトの神々が宿るそのピラミッドの中。鷹の頭とヒトの体を持つ古代エジプトの神ホルスは、他の神アヌビスとバステトから反逆罪による死刑宣告を受けた。
だが、7日間の猶予を与えられたホルスは“ある目的”のため下界に降り、政治犯ニコポル(トーマス・クレッチマン)の体に乗り移って青い髪をした謎の美女ジル・ビオスコップ(リンダ・アルディ)を探し始める・・・・。
ジルを助ける医者エルマ・ターナーにシャーロット・ランプリングが扮する。

とにかく驚いたのは、人間の俳優は3人しか出てこず、後はCGIのキャラクターと生身の俳優との競演と言う凄い手法なのだ。
CGIについては、その表現に若干問題があるが、ビジュアル・コンセプトや美術、発想、イメージが凄いので、まあ良しだと思う。

しかし、そうは言うものの残念なことに、CGIシークエンスはビデオ・ゲームのムービー部分を見ているような気になってしまう感があった。
とは言うものの、本作は編集をきちんとやっているので、繋ぎが上手く行っていないビデオ・ゲームのムービーなんかよりは、カットやシーンだけではなく、きちんと映画として機能するCGIのシークエンスに仕上がっている。

例えば、アニメーション「メトロポリス」がカットやシーンのクオリティは高いのだが、シークエンスとして、または映画としては、ディゾルブの連続で、映画としての一体感が無く、前述のようにディゾルブで繋ぐことしか出来ずに、映画としてのリズムが狂ってしまっているのだが、本作はそんなことはなく、きちんと映画となっている。

そして、ビラルが創出する世界観は予想通りビラル節全開で雰囲気としては『明るく雨が降らない「ブレードランナー」』や『「フィフス・エレメント」冒頭のブルース・ウィリスの家やタクシー』を彷彿とさせる。

また、近未来の技術や描写は、サイバー・パンク系(スチーム・パンクではないがスチーム・パンク系かも)やレトロ・フューチャー的な印象を受けた。

物語については決して大衆受けするものではなく、既にカルトの風格を持っている。
おそらく将来は一種のカルト・ムービーとなってしまうのではないだろうか。

おそらく本作は「CASSHERN」や「アヴァロン」と比較されるのではないだろうか。と思うのだ。
先日お話したように、
2004/05/01映画の日に
「キル・ビル Vol.2」と
「スクール・オブ・ロック」を観た。

で、今日はというと「キル・ビル Vol.2」のお話です。
 
  

「キル・ビル Vol.1」のわたしの評価は、

1.構図や音楽、演出は評価できるが、脚本が単調でつまらない。
2.一部のアクションが冗長で退屈である。

という感じである。
総合的には、「キル・ビル Vol.1」公開当時同様、

『「キル・ビル Vol.2」が公開されていない今、わたしに言えるのは、態度保留ということである。』

というものである。

従って、「キル・ビル Vol.2」で、なんとか脚本の冴えを見せて欲しい。という気持ちでわたしは「キル・ビル Vol.2」を観た訳である。

個人的な第一印象的感想としては、『大変素晴らしい娯楽作品に仕上がっている。』というものである。

わたし達のような従来からのクエンティン・タランティーノ映画ファンの多くは、彼が書く脚本の、伏線やプロット、ディテール、そしてなんと言っても脚本の妙、脚本の冴えを求めているのであろう。

「キル・ビル Vol.1」は、残念ながら脚本ではなく、アクションで物語を紡ぐ、と言った手法をとっていたため、従来のタランティーノ映画ファンに取っては、決して満足の行く作品でなかったと思うのだ。

そして、映画秘宝的、東京ファンタ系ファンを集め、本来のタランティーノ作品の方向性と異なるベクトルを持った「キル・ビル Vol.1」に群がり、スノッブなにわかタランティーノ映画ファンを増やすにいたったのである。

一方「キル・ビル Vol.2」は、脚本が従来のタランティーノ作品のレベルまで達しており、そのため「キル・ビル Vol.1」と「キル・ビル Vol.2」を並べて観た際、物語のストーリー・ラインは充分評価できるもの、となっている。
そう考えた場合、退屈で脚本にひねりの無いつまらない映画「キル・ビル Vol.1」でさえ、映画的記憶のためか、素晴らしい映画に見えてくる。という機能を持っているのである。

わたしが考える「キル・ビル Vol.1」におけるつまらないシークエンスは、
1.オキナワの漫才
2.クレイジー88の退屈で冗長な殺陣
である。

オキナワの漫才は、ユーモアではなく、笑えないコメディのテイストであり、見るに耐えない。
また、クレイジー88の殺陣はユエン・ウーピンの指導とも思えないお粗末なものであった。

しかし本作「キル・ビル Vol.2」は、そういったテイストは皆無で、「キル・ビル Vol.1」のオキナワ以前のテイストを拡大したような印象を受けた。

つまり、「キル・ビル Vol.1」の評価できる部分を拡大したような作品に仕上がっている。ということである。

で、「キル・ビル Vol.2」だが、

先ず、プロットが素晴らしい。
「キル・ビル Vol.1」で棚上げされた幾つかの謎が基本的には全て解明され、脚本的にキッチリした作品に仕上がっている。
また、脚本は最早セリフ・バトルの様相を呈しており、ザ・ブライドとバド、エル、ビル等との、アクションではなく、セリフで戦う様が評価できる。

プロットと言うか伏線で興味深かった点をいくつかあげると、

ザ・ブライドの娘(B.B.)の登場シークエンスでの銃撃戦での娘のセリフ「バン!バン!」が、「キル・ビル Vol.1」のオープニング・クレジットに繋がるところが感動的である。
B.B.という名前は「Ban!Ban!」かな、とさえ思ったりする。
または、二親の名前から来ているのかも、と思ったりもする。

また、生き埋め状態からの脱出シークエンスの方法(ワン・インチ・パンチ/ワン・インチ・ブロー)も伏線として面白い。

パイ・メイには、ビル、ザ・ブライド、エルが師事していた点も面白いし、エルの眼帯の謎や、「キル・ビル Vol.1」の目玉を刳り貫くシークエンスもこれはパイ・メイの指導があった事が暗示されている。
エンディング・クレジット後のおまけ映像にも収録されているし。

バドが半蔵の日本刀を質屋に売った話も良いし、バドのザ・ブライドに対する騙し討ちのショット・ガンも良い。音楽を再開させるところが、バドと言うより、マイケル・マドセンらしい印象を受ける。
そしてバド発案のザ・ブライドの生き埋めや、そこからの脱出シークエンスも良い。(前述のワン・インチ・パンチ/ワン・インチ・ブロー)

また、演出や手法について、面白い点をあげると、

パイ・メイのシークエンスでのフィルムの粒子の粗さや、急なズーム・イン、ズーム・アウト、それにピンボケを重ねるあたりも香港テイストで面白い。

生き埋めシークエンスは観ている方も呼吸困難になってしまうほど、凄まじい効果を観客に与える事に成功している。

ビル邸に向かうザ・ブライドがロング・スカートをはいているのは謎だが、なんとも印象的である。

そしてビル、ザ・ブライド、B.B.の対面シーンが素晴らしい。
涙すら出てしまうほどの感動の再会なのだ。
さらに、ビルのB.B.への生と死の教育手法もタランティーノ節全開の素晴らしいものだった。(金魚の死)

また、ビルとザ・ブライドとの座ったままの殺陣もちょっと短いが興味深い。殺陣の中では、特に日本刀の鞘を使った点が素晴らしい。

長くなったし、まとまりが全く無いので、この辺でやめておきますが、もしかしたら、つづくかも。

「キル・ビル Vol.1」
http://diarynote.jp/d/29346/20031028.html
不運な映画「キル・ビル Vol.1」
http://diarynote.jp/d/29346/20031029.html
ここがダメだよ『キル・ビル Vol.1』
http://diarynote.jp/d/29346/20031114.html
2004/05/01は「映画の日」だった。
という訳で「キル・ビルVol.2」と「スクール・オブ・ロック」を観た。

で今日は話題の「スクール・オブ・ロック」のお話。

ロック魂を全身で体現するギタリスト、デューイ・フィン(ジャック・ブラック)。
しかし、スデージ上でのそのあまりの破天荒ぶりがアダとなり、バンド・バトルを目前にして、自分が作ったバンド(ノー・ヴァカンシー)のメンバーからクビを宣告されてしまう。
ついでに、家賃滞納のため、居候している親友ネッド(マイク・ホワイト)のアパートからも退去勧告をされてしまった。

そんな中、ネッドのアパートに名門私立小学校ホレス・グリーン学院から臨時教師の話が舞い込む。電話に出たデューイはお金欲しさからネッドになりすまし臨時教師の職に就いてしまう。

その小学校はマリンズ校長(ジョーン・キューザック)のもと、厳しい管理教育がなされ、従順な生徒たちにはまるで覇気も個性も感じられなかったが、まともに授業する気もないデューイにとってそれはどうでもいいことだった。

しかし、生徒たちの音楽の授業を垣間見、自分の生徒たちが音楽の才能にあふれていると知ったデューイには、とんでもないアイデアが浮かぶのであった・・・・。

本作「スクール・オブ・ロック」は、一言で言うと、一般の映画ファンはもとより、音楽好き、ロック好きに特に自信を持っておすすめできる大変素晴らしいコメディ映画である。

キャストはなんと言っても、「愛しのローズマリー」、「ハイ・フィデリティ」などで最近話題のジャック・ブラック(デューイ・フィン役)のロック魂をアピールする怪演振りが素晴らしい。
そのキャラクター造型の根底には、勿論ロックを含めた全ての音楽に対する愛情に満ちているのだ。
冒頭のステージ・アクトから、ロック魂全開で、中盤のロック教師としての生徒たちとの絆作り、そしてラストのバンド・バトルまで、全てが楽しいのだ。

一方、本作の脚本家でもあるマイク・ホワイト(ネッド役)の優柔不断振りも、相対的にジャック・ブラックの演技を際立たせている。
かつて、パンク・ロックに明け暮れていたが、現在は更正(?)し、夢を諦めた青年を好演している。
そしてマイク・ホワイトが演じる、バンド・バトルからエンディングに向けての心の動きが、実は夢を諦めてサラリーマン生活をしている多くの一般観客の羨望を体現する仕組みになっているのだ。

また、マリンズ校長を演じるジョーン・キューザックは、舞台女優としてのキャリアと「サタデー・ナイト・ライブ」からはじまるコメディエンヌとしてのキャリアを持つ才媛である。
ロックを愛しているりだが、その気持ちを押さえ、名門小学校の理想的で厳格な校長役を演じる、という複雑なキャラクターを見事に演じている。
コメディエンヌとしての役柄を振られているため、一見するとベタなキャラクター設定のような印象を受けるが、それは仕方ないことであろう。

ロック・バンド「スクール・オブ・ロック」のメンバーは、実際に音楽的素養のある子供たちを対象としたオーディションで発掘された子供たちである。
一見すると、ありがちなハリウッド的子役(インタビューすると妙に大人びた語りを持つ子供たち)と、リアリティを持った一般の小学生ぽい子役がチームを組んだような構成になっている。
とは言うものの、本作では一般的なハリウッド子役ではなく、本当に普通の小学生たちが演じているような、ドキュメンタリー作品的な印象を受ける。
個々の子役俳優達についてのコメントは割愛するが、全ての子役たちは良い仕事をしている。

物語の根本は、語弊があるが「社会に適応できないロック・バカが、学校や生徒たちを騙して、自分のために子供たちを利用しバンド・バトルに出場する。」というものである。

従って、本作には、厳しく言うと、ジャック・ブラック演じるデューイ・フィンの「人を騙して自分のために利用する」というモラル的問題があるのは否めない事実である。
この点について観客のモラル感が許容できるかどうか、という点にこの映画を楽しめるかどうか、がかかっているのではないだろうか。

この辺については、「ライフ・イズ・ビューティフル」の嘘にも通じる部分があるかもしれない。
その「悲しい嘘」を考えつつ本作「スクール・オブ・ロック」を観るのも興味深いと思う。コメディが一見、子供たちに取って悲しい物語に見えてくるのである。
しかし、現在の子供たちは、そんな環境でも逞しく育っていくのである。

余談だが、エンド・クレジットのライヴ・シークエンスは、オリヴァー・ストーンの「ドアーズ」のエンド・クレジットのレコーディング風景にダブり、面白い効果を映画に与えている。

今年のゴールデン・ウイーク映画は音楽映画が多いのだ。わたしが観ただけでも、
1.「フォーチュン・クッキー」
2.「スクール・オブ・ロック」
3.「永遠のモータウン」
と三本もある。(おすすめ度順)
音楽ファンとしては、嬉しい限りである。
さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その4です。

とりあえず目標の再確認を・・・・

目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」

1.映画

#016 「下妻物語」日劇2 2004/04/01
#017 「家族ゲーム」日劇2 2004/04/05
#018 「犬と歩けば チロリとタムラ」銀座ガスホール 2004/04/13
#019 「転校生」日劇2 2004/04/16
#020 「フォーチュン・クッキー」ヤクルトホール 2004/04/19
#021 「Re:プレイ」サイエンスホール 2004/04/23
#022 「永遠のモータウン」千代田区公会堂 2004/04/27
#023 「スイミング・プール」九段会館ホール 2004/04/30

2.DVD、CATV等

#048 「形見(短編)」CATV 2004/04/06
#049 「尾道(短編)」CATV 2004/04/06
#050 「ガメラ対深海怪獣ジグラ」CATV 2004/04/06
#051 「PARTY7」CATV 2004/04/07
#052 「天気予報(短編)」CATV 2004/04/08
#053 「あの、夏の日 ーとんでろ じいちゃんー」CATV 2004/04/08
#054 「喰べた人(短編)」CATV 2004/04/08
#055 「Complexe(短編)」CATV 2004/04/08
#056 「人間の証明」CATV 2004/04/09
#057 「TOKYO EYES」CATV 2004/04/09
#058 「あした」CATV 2004/04/14
#059 「鮫肌男と桃尻女」CATV 2004/04/14
#060 「野良犬」CATV 2004/04/17
#061 「用心棒」CATV 2004/04/24
#062 「はるか、ノスタルジィ」CATV 2004/04/24
#063 「ふたり」CATV 2004/04/25
#064 「ブルース・ブラザース」CATV 2004/04/29

3.読書

#013 「野獣死すべし」大藪春彦著 角川文庫 2004/04/04
#014 「贈られた手 家族狩り 第三部」天童荒太著 新潮文庫 2004/04/10
#015 「ザ・スタンド(I)」スティーヴン・キング著 深町眞理子訳 文春文庫 2004/04/22
#016 「巡礼者たち 家族狩り 第四部」天童荒太著 新潮文庫 2004/04/30

映画は、劇場8本(累計23本)、DVD等17本(累計64本)で、計25本(累計87本)。
このままのペースで、年間261本(劇場69本)です。

読書は4冊(累計16冊)で、このままのペースでは、年間48冊です。

状況は厳しいですし、先は長いですが頑張ります。

※ 参考 昨年同時期の状況
映画 89本(劇場30本)
読書 29冊
東京九段会館ホールで行なわれた「スイミング・プール」の試写会に行ってきた。

クライム小説で知られるイギリスの女流ベストセラー作家サラ・モートン(シャーロット・ランプリング)は、作家としての新たな方向性を模索していた。

そんなサラは、ある夏、出版社社長ジョン(チャールズ・ダンス)の勧めで南フランスの彼の別荘に滞在することにする。
その別荘は、明るく静かで誰にも邪魔されずに執筆できる最適な環境だと思われた。

しかし、周辺の環境にも慣れ、いよいよ執筆活動に取り掛かろうとした矢先、社長の娘と名乗るジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)が別荘にやって来る。

全裸でプールを泳ぎ、毎晩毎晩違った男を別荘に連れ込むジュリーに苛立ち筆が進まないサラ。

しかし、やがてサラは、ジュリーの若さと妖艶な振る舞いに強い刺激を受け、作家の習性か、いつしか彼女をモデルに物語を紡ぎ始めるのだった・・・・。

本作は、「8人の女たち」のフランシス・オゾンの新作である。
出演は、イギリスの女流ベストセラー作家サラ・モートンに名女優シャーロット・ランプリング。出版社社長の奔放な娘ジュリーにフランスの妖精リュディヴィーヌ・サニエ。

第一印象は、一言で言うと、非常に素晴らしい良質のミステリー(サスペンス)映画に仕上がっている。と感じた。

物語は、複数の解釈が可能な自由度があり、鑑賞後しばらくの間、反芻することにより、より深く楽しめる作品であり、また場合によってはリピートしたくなる種類の作品である。と言える。

演出的には、非常に細かい観客への伏線や不可解な行動や描写、そしてヒントや目配せが散りばめられており、解釈の幅を拡大している。
脚本をなめるだけでも充分面白い作品であるが、その監督からのヒントや目配せを汲み取ることにより、本作は新たな側面を明らかにする、と言ったような構成となっている。

キャストはなんと言ってもリュディヴィーヌ・サニエの魅力爆発である。
先日「フォーチュン・クッキー」でリンゼイ・ローハンに惚れたわたしであるが、今回の「スイミング・プール」では、リュディヴィーヌ・サニエに惚れることになってしまったのだ。

一方名女優シャーロット・ランプリングは、英国ベストセラー作家を好演している。
ジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)と関わることによる女性としての、そして作家としての心境の変化が興味深い。

そして驚いたことに、奔放な女性を演じたリュディヴィーヌ・サニエの全裸シーンは知っていたのだが、名女優シャーロット・ランプリングの全裸シーンがあるのには驚いてしまった。

昨年は「アバウト・シュミット」におけるキャシー・ベイツの全裸に驚かせられたが、今年はシャーロット・ランプリングの全裸に驚きなのだ。

また本作を格調高いものにしている印象的なスコア(ピアノとストリングス)はフィリップ・ロンビによるもので、感覚的には作品のテイストもあり、「刑事コロンボ」的な音楽のあてかたを感じた。

そして色使いである。
南フランスの素晴らしい空の青とスイミング・プールの青。
そして、その中に意味ありげに配されたいくつかの赤。
この辺も本作の解釈の多様性を深めているのではないだろうか。

とにかく、本作は多くの人におすすめできる素晴らしい良質のミステリー(サスペンス)映画なのだ。
東京千代田区公会堂で行われた「永遠のモータウン」の試写会に行ってきた。

<キャッチ・コピー>
エルヴィス、ビーチ・ボーイズ、ストーンズそしてビートルズ。
全てのNo.1ヒットを足しても、“彼ら”にはかなわない。
しかし“彼ら”の名前を知る者はいない。

1960年代以降、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソン・ファイブ、スモーキー・ロビンソン&ミラクルズをはじめ、錚々たる有名アーティストを輩出、全米音楽シーンはもとより、全世界に数々のヒット曲を送り出した「モータウン・レーベル」。

その黄金期を支え、「モータウン・サウンド」を確立したのは、レコーディング・バンド「ファンク・ブラザース」だった。

しかしレコードにバック・バンドをクレジットする習慣のなかった1960年代当時、彼ら「ファンク・ブラザース」の名前が一般に知られることはなく、彼らの偉業が顧みられることはなかったのだ。

本作は、その「モータウン・レーベル」のレコーディング・バンドとして、レーベルの黄金期を陰で支えた「ファンク・ブラザース」の実像を、インタビューや演奏シーンなどを基に、浮き彫りにした音楽ドキュメンタリーである。

先ず、本作「永遠のモータウン」は、ドキュメンタリーと言う性格上、一般の商業映画と同列に評価する事は出来ないが、全ての音楽を愛する人々に自信を持っておすすめ出来る、近年まれに見る感動の音楽映画なのだ。

事実、わたしの経験上ではあるが、本作はここ1年で一番泣けた作品ではないかと思えるほどの感動を受けた。

これは、多くのヒット曲を輩出しつつも全く評価されなかった、という、「ファンク・ブラザース」の不遇の境遇がそうさせるのかも知れないし、彼らがバック・バンドとして参加してレコーディングされた多くのヒット曲の記憶がそうさせるのかもしれない。
また、彼ら「ファンク・ブラザース」の演奏自体に因るところが大きいかも知れないのも事実だし、音楽の持つ強大な力と、事実が持つ大きな力がそうさせているのかも知れない。

とにかく、音楽好きの人、特に「モータウン・サウンド」に関心のある方、R&B系の音楽に関心のある方には、絶対的にオススメできる作品なのである。

「RE:プレイ」

2004年4月23日 映画
「アイデンティテイー」の脚本家マイケル・クーニーが舞台劇として書いた”POINT OF DEATH”をドイツの俊英ローランド・ズゾ・リヒターが監督した「Re:プレイ」の試写会に行ってきた。

「RE:プレイ」と言うと、音で言うと、ケン・グリムウッドの小説「リプレイ」を思い出す。
おそらく配給会社としては、その辺を含めて邦題を付けていると思うのだが、その辺がディレクションやミス・ディレクションになるような邦題のつけ方はいかがなものかな、と思ってしまう。

2002年7月、交通事故により救急車で聖ユダ病院に運ばれた男サイモン・ケーブル(ライアン・フィリップ)。
サイモンはその際、2分間の心拍停止に陥るが、医師たちの懸命の処置により奇跡的に命を取り留めることになる。
しかし、昏睡から覚めたサイモンは、過去2年間の記憶を失っていた事に気付く。
記憶を失ったサイモンのもとに謎の金髪の女(サラ・ポーリー)や妻だと名乗る黒髪の女アンナ(パイパー・ペラーボ)がやって来る。
しかし記憶を失ったサイモンは何も思い出せず混乱するばかりである。
やがてサイモンは、雨の中、兄ピーター(ロバート・ショーン・レナード)のもとへ向かっていて交通事故に遭ったことを思い出す。
しかしアンナは「ピーターを殺したのはあなたよ」と告げるのであった。
そしてサイモンはMRI検査の睡眠の後目覚めると、2000年の聖ユダ病院に居たのである。
これは夢なのか、それとも・・・・。

本作「RE:プレイ」は、「アイデンティティー」の脚本家が書いた戯曲を原作としていることであるから、観客としては「絶対に騙されないぞ!」という意識で本作を観るのは、仕方が無いことだと思うのである。
事実、わたしは全てを疑い、2000年と2002年の舞台の齟齬、つまり監督からのメッセージを探すことに終始していた。

「アイデンティティー」は、嵐の中のモーテルを舞台にして、登場人物等に一体何が起きているのか、そして犯人は一体誰なのか、ということがすぐわかってしまい、映画の後半は退屈な印象を受けたのであるが、本作はひとつの謎の明確な解明があるわけではなく、複数の解釈が可能な、興味深い作品、大変面白い作品に仕上がっている。

わたし個人的には、スタンリー・キューブリックの「アイズ ワイド シャット」や、デイヴィッド・リンチの一連の夢と現実とを同レベルで描いた作品群と同じような関心を持って観ることが出来た。

本作は「メメント」や「カンパニー・マン」、「イグジステンズ」等の作品、勿論リンチの一連の作品が好きな人には、おすすめできる作品である。

そういった作品を観て、「何がなんだかわからない=理解できないからつまらない=駄作」だと考えるような観客には、残念ながらおすすめできない作品だと思うのだ。

余談だが、途中のMRIのシークエンスは、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のオマージュとも言える印象を受けた。
MRIのシークエンスは、「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号の船内のようであり、広角レンズの効果的な使い方が、キューブリックを彷彿とさせるのだ。
東京新橋「ヤクルトホール」で行なわれた「フォーチュン・クッキー」の試写会に行ってきた。

一言で言うと、誰にもおすすめできる、大変面白いコメディ映画だった。特に新旧ロック・ファンにおすすめなのだ。

わかりやすく例えるならば、「転校生」ミート「バック・トゥー・ザ・フューチャー」という感じ。

因みに本作「フォーチュン・クッキー」は、1976年のコメディ映画「フリーキー・フライデー」(バーバラ・ハリス、ジョディ・フォスター主演)のリメイク。
本作の原題もそのまま"FREAKY FRIDAY"。

本作は、フォーチュン・クッキーの呪い(?)で、心と体が入れ替わってしまった精神科医の母とロック少女が、お互いの視線でお互いの生活をおくることによる大騒動を描きつつ、次第に相手の気持ちに気づいていく姿をコミカルに描いている。

主演は、ホラーからアクション、コメディまでこなす、「トゥルーライズ」、「ブルー・スチール」のジェイミー・リー・カーティスと全米ティーンのアイドル「ファミリー・ゲーム/双子の天使」のリンゼイ・ローハン。

几帳面で完璧主義者の精神科医テス(ジェイミー・リー・カーティス)は、2日後に再婚相手との結婚を控えていた。
彼女は、高校の反省室常連でロックに夢中な娘アンナ(リンゼイ・ローハン)が再婚相手と打ち解けないことに頭を抱えていた。
一方アンナも、子供の気持ちを理解しない、旧態然とした母親テスに不満を持っていた。その根底には3年前に亡くなった父親をないがしろにして再婚しようとしている母親への確執があった。

結婚式を明後日に控えた日、テスとアンナは、家族と再婚相手らと出かけたチャイニーズレストランで大喧嘩を始めてしまう。
店のオーナーの母ペイペイが仲直りのためにとふたりに「フォーチュン・クッキー(おみくじの入った中国の焼き菓子)」を2人に差し出す。そしてそれを口にした2人には、翌朝思いもよらぬ事態が待っていたのだ・・・・。

身体は女子高校生で中身は精神科医の(外見は)リンゼイ・ローハンと、身体は精神科医で再婚を控えた母親で中身はロック少女の(外見は)ジェイミー・リー・カーティス。
なんと言っても、この二人の怪演が素晴らしい。

ジェイミー・リー・カーティスは、「トゥルーライズ」系のコメディ路線、特に「トゥルーライズ」のストリップのシークエンスを突き詰めた役柄のような印象を受けます。
彼女の俳優としてのキャリアの始めは、ほとんどホラー映画でしめられていますが、最近はコメディ系の役が多いのではないでしょうか。
わたしが言うのも何ですが、素晴らしいコメディエンヌになってきたと思います。

印象的なシークエンスは、娘のボーイ・フレンドとのロック談義と、なんと言っても、ロックのオーディションのシークエンス、そして乾杯前のスピーチでしょう。
乾杯前のスピーチでは、思わず感動すらしてしまいます。
オーディションの舞台裏での姿も格好良すぎです。

一方リンゼイ・ローハンですが、わたしは彼女の女優としてのキャリアはあまり知りませんが、本作では大変素晴らしい印象を観客に与えています。
当初は母親に反抗する、嫌〜な感じのハイスクール・ガールだったのですが、表現は微妙ですが、中に母親が入ってから、いきなり魅力的になってきます。
そして、例のスピーチの場面で、なんと美味しいところを総取りしてしまうのです。
ちょっと冷静に考えてみると、例の二つのスピーチをやっているのは、実はリンゼイ・ローハンの中身である、というのも興味深いです。

あと、エンディングのリンゼイ・ローハンのライヴ・シーンもセクシーで格好良いです。いやあ、今後のキャリアが楽しみな女優の登場です。

わたし的には、最近のヤング・アダルト女優では、リーリー・ソビエスキーがお気に入りでしたが、また新たなお気に入りの女優が出てきました。ちょっと年代にずれがありますけどね。

親と子の確執、というものは、永遠のテーマだと思います。
この映画は、その永遠のテーマを親と子の心と身体が入替わる事により、結果的には相互理解させる、という一見ベタな作品ですが、コメディながら、物語に対して非常に真摯にとりくんだ作品です。
とにかく、この映画は多分見逃されてしまう可能性が高い作品だと思いますが、機会がありましたら、是非観ていただきたい良質のコメディです。

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