「スチームボーイ」を弁護する その3
2004年9月9日 映画
各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html
3.成長しない登場人物
「スチームボーイ」 の予告編を観たわたしが最初に思い描いたのは、「スチーム・ボールと言う言わば悪魔の発明品を、複数の組織や個人が奪い合い、その渦中においてレイとスカーレットが様々な経験をし、ある種の通過儀礼を経て、その結果それぞれがそれぞれ成長する」というものだった。
仮に「スチームボーイ」が一般の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」だとすると、「物語内で語られる何らかの契機により主人公が成長する」と言うプロットは、必要不可欠な要因だ、と言っても良いだろう。事実多くのヒーローを描いた物語は、ヒーローの通過儀礼と共にヒーローの誕生と活躍を描いている。
しかし、この「スチームボーイ」においては、その論理は成立しないのである。何しろ、レイやスカーレットは物語の「中」では成長しないのである。
レイは「おじいちゃんが発明したスチーム・ボールを戦争なんかには使わせない」と孤軍奮闘する中で、様々な人々と出会い、様々な人の考えに触れ、いろいろな経験をするのだが、レイの人生の転機となる強烈な事象には遭遇していないし、イニシエーションも体験していないし、特段成長したような描写もないのだ。
一方スカーレットはスカーレットで、オハラ財団で学んでいるだろうオハラ財団の「帝王学」の行動原理に貫かれた行動を取り続けているのだ。
例えば、イギリスとオハラ財団の戦争が始まれば、サイモンに「負けちゃダメよ」と釘を刺すし、蒸気で動く兵士の甲冑の中に人が入っているのを見ても「人が入っているじゃないの」と、一応は驚くのだが、その後の彼女の行動に変化が表れたようには見えない。
しかし多くの物語では、例えばルーク・スカイウォーカーだって、萩野千尋だって、ピーター・パーカーだって、不動明だって、ある種の通過儀礼を経て、何らかの成長を遂げ、ヒーローになっている訳なのだ。
そう考えた場合、見えてくるのは、この「スチームボーイ」という作品は、登場人物が「本編中」では成長しない、斬新な構成を持った物語だと言えるのだ。
とは、言うものの、世の中には登場人物が成長しない物語はいくらでもある。物語の中で「登場人物の周りでは、いろいろなことがあったが、結局は一回りして元通り」と言う構成を持った物語である。
例えば「ジョゼと虎と魚たち」のジョゼは成長しないキャラクターとして、−−普遍的で超然的な達観した存在として--、描かれているし、「69 sixty nine」のケンとアダマはある意味成長を拒絶した永遠の存在として描かれている。これは押井守の「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」にも通じる。
そうなのだ、成長しないキャラクターを描く際、そのキャラクターは普遍的で超然的で神格化された存在として描かざるを得ないのである。
しかし、「スチームボーイ」はどうだろう。レイにしろスカーレットにしろ、そのような超絶的で達観したキャラクターとして描かれているだろうか・・・・。
そう、賢明な読者諸氏は既にお気付きの事と思うが、「本編中」では通過儀礼もないし、成長もしないレイとスカーレットだが、実際のところはなんと「スチームボーイ」の物語が終わってから見事に成長しているのだ。(次回「ヒーローの誕生」に続く・・・・)
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
「スチームボーイ」を弁護する その2
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html
3.成長しない登場人物
「スチームボーイ」 の予告編を観たわたしが最初に思い描いたのは、「スチーム・ボールと言う言わば悪魔の発明品を、複数の組織や個人が奪い合い、その渦中においてレイとスカーレットが様々な経験をし、ある種の通過儀礼を経て、その結果それぞれがそれぞれ成長する」というものだった。
仮に「スチームボーイ」が一般の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」だとすると、「物語内で語られる何らかの契機により主人公が成長する」と言うプロットは、必要不可欠な要因だ、と言っても良いだろう。事実多くのヒーローを描いた物語は、ヒーローの通過儀礼と共にヒーローの誕生と活躍を描いている。
しかし、この「スチームボーイ」においては、その論理は成立しないのである。何しろ、レイやスカーレットは物語の「中」では成長しないのである。
レイは「おじいちゃんが発明したスチーム・ボールを戦争なんかには使わせない」と孤軍奮闘する中で、様々な人々と出会い、様々な人の考えに触れ、いろいろな経験をするのだが、レイの人生の転機となる強烈な事象には遭遇していないし、イニシエーションも体験していないし、特段成長したような描写もないのだ。
一方スカーレットはスカーレットで、オハラ財団で学んでいるだろうオハラ財団の「帝王学」の行動原理に貫かれた行動を取り続けているのだ。
例えば、イギリスとオハラ財団の戦争が始まれば、サイモンに「負けちゃダメよ」と釘を刺すし、蒸気で動く兵士の甲冑の中に人が入っているのを見ても「人が入っているじゃないの」と、一応は驚くのだが、その後の彼女の行動に変化が表れたようには見えない。
しかし多くの物語では、例えばルーク・スカイウォーカーだって、萩野千尋だって、ピーター・パーカーだって、不動明だって、ある種の通過儀礼を経て、何らかの成長を遂げ、ヒーローになっている訳なのだ。
そう考えた場合、見えてくるのは、この「スチームボーイ」という作品は、登場人物が「本編中」では成長しない、斬新な構成を持った物語だと言えるのだ。
とは、言うものの、世の中には登場人物が成長しない物語はいくらでもある。物語の中で「登場人物の周りでは、いろいろなことがあったが、結局は一回りして元通り」と言う構成を持った物語である。
例えば「ジョゼと虎と魚たち」のジョゼは成長しないキャラクターとして、−−普遍的で超然的な達観した存在として--、描かれているし、「69 sixty nine」のケンとアダマはある意味成長を拒絶した永遠の存在として描かれている。これは押井守の「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」にも通じる。
そうなのだ、成長しないキャラクターを描く際、そのキャラクターは普遍的で超然的で神格化された存在として描かざるを得ないのである。
しかし、「スチームボーイ」はどうだろう。レイにしろスカーレットにしろ、そのような超絶的で達観したキャラクターとして描かれているだろうか・・・・。
そう、賢明な読者諸氏は既にお気付きの事と思うが、「本編中」では通過儀礼もないし、成長もしないレイとスカーレットだが、実際のところはなんと「スチームボーイ」の物語が終わってから見事に成長しているのだ。(次回「ヒーローの誕生」に続く・・・・)
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
「スチームボーイ」を弁護する その2
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」
2004年9月7日 映画先日、東急東横線「渋谷」駅改札付近で友人と待ち合わせをした。
その改札口から右手へ、旧東急文化会館方面への通路を歩く、通路右側の窓を見やると、広大な更地が目に飛び込んできた。
その広大な更地は東急文化会館の跡地、そうかつての大劇場「渋谷パンテオン」が存在した場所なのである。
昭和31年12月の開館以来、46年以上にわたり、あまたの綺羅星のような映画を上映してきた劇場が存在していた場所なのである。
劇場とは、夢が実現する場所であり、魔法が生き残っている場所である。
そんな素晴らしい場所があたり前のように更地になってしまっているとは、非常に感慨深いものがある。
そして、ご存知のように、渋谷パンテオンは「東京国際ファンタスティック映画祭」が生まれた場所でもあり、「東京国際ファンタスティック映画祭」を育てた劇場なのでもある。
今で言う、ホラーもスプラッタも、ワイヤーアクションもマサラ・ムービーも、香港ノワールも韓国アクションも「東京ファンタ」が日本に紹介したのだ。
そして、ピーター・ジャクソンもサム・ライミも、ジョン・カーペンターもユエン・ウーピンも、スチュアート・ゴードンもポール・バーホーベンも、チン・シュウタンもツイ・ハークも、ダリオ・アルジェントもジョージ・A・ロメロも、ティム・バートンもジョン・ウーも、押井守もリドリー・スコットも、ジェームズ・キャメロンもヘンリー・セリックも、原田真人もそして雨宮慶太も、「東京ファンタ」で育ったのだ。
そして今「東京国際ファンタスティック映画祭2004」の季節がやって来た。
しかし残念ながら「渋谷パンテオン」はその使命を終え、会場は「新宿ミラノ座」へ移動して久しい。
しかし、今年は「東京ファンタ」20年目の秋、20周年記念映画祭なのだ。
「東京国際映画祭」も良いが、この秋、もしチケットが取れたならば「新宿ミラノ座」へ、「東京国際ファンタスティック映画祭2004」へ足を運んで見てはいかがだろうか。
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」
http://tokyofanta.com/2004/
「渋谷東急文化会館上映作品の歴史」/(株)東急レクリエーション
http://www.tokyu-rec.co.jp/eizou/history.html
「渋谷パンテオン」/港町キネマ通り
http://www.cinema-st.com/road/r021.html
その改札口から右手へ、旧東急文化会館方面への通路を歩く、通路右側の窓を見やると、広大な更地が目に飛び込んできた。
その広大な更地は東急文化会館の跡地、そうかつての大劇場「渋谷パンテオン」が存在した場所なのである。
昭和31年12月の開館以来、46年以上にわたり、あまたの綺羅星のような映画を上映してきた劇場が存在していた場所なのである。
劇場とは、夢が実現する場所であり、魔法が生き残っている場所である。
そんな素晴らしい場所があたり前のように更地になってしまっているとは、非常に感慨深いものがある。
そして、ご存知のように、渋谷パンテオンは「東京国際ファンタスティック映画祭」が生まれた場所でもあり、「東京国際ファンタスティック映画祭」を育てた劇場なのでもある。
今で言う、ホラーもスプラッタも、ワイヤーアクションもマサラ・ムービーも、香港ノワールも韓国アクションも「東京ファンタ」が日本に紹介したのだ。
そして、ピーター・ジャクソンもサム・ライミも、ジョン・カーペンターもユエン・ウーピンも、スチュアート・ゴードンもポール・バーホーベンも、チン・シュウタンもツイ・ハークも、ダリオ・アルジェントもジョージ・A・ロメロも、ティム・バートンもジョン・ウーも、押井守もリドリー・スコットも、ジェームズ・キャメロンもヘンリー・セリックも、原田真人もそして雨宮慶太も、「東京ファンタ」で育ったのだ。
そして今「東京国際ファンタスティック映画祭2004」の季節がやって来た。
しかし残念ながら「渋谷パンテオン」はその使命を終え、会場は「新宿ミラノ座」へ移動して久しい。
しかし、今年は「東京ファンタ」20年目の秋、20周年記念映画祭なのだ。
「東京国際映画祭」も良いが、この秋、もしチケットが取れたならば「新宿ミラノ座」へ、「東京国際ファンタスティック映画祭2004」へ足を運んで見てはいかがだろうか。
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」
http://tokyofanta.com/2004/
「渋谷東急文化会館上映作品の歴史」/(株)東急レクリエーション
http://www.tokyu-rec.co.jp/eizou/history.html
「渋谷パンテオン」/港町キネマ通り
http://www.cinema-st.com/road/r021.html
「アイ, ロボット」
2004年9月6日 映画
2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」で「アイ,ロボット」の試写を観た。
アイザック・アシモフによるロボット工学三原則
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
(A robot may not harm a human being, or, through inaction, allow a human being to come to harm.)
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
(A robot must obey the orders given to it by the human beings, except where such orders would conflict with the First Law.)
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
(A robot must protect its own existence, as long as such protection does not conflict the First or Second Law.)
2035年、シカゴ。
今からわずか30年後の近未来、家庭用ロボットが人間のパートナーとして普及している時代。
そしてさらに、革新的な技術による新世代ロボットNS−5型が登場し、新たなロボット社会の夜明けを迎えようとする直前、そのロボットの生みの親であり、ロボット工学の第一人者、アルフレッド・ラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)が死体で発見される。
ラニング博士と親交のあった、シカゴ市警のデル・スプーナー刑事(ウィル・スミス)は、ラニング博士の事件は、自殺ではなく殺人事件だと疑い、現場に潜んでいた最新NS−5型ロボットのサニーを重要参考人として拘留する。
「ロボット3原則」をプログラミングされ、絶対に人間に危害を加えられないはずのロボットが殺人を犯せるのか?
謎を追及するデル・スプーナー刑事とロボット心理学者スーザン・カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)は、やがて・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アレックス・プロヤス
出演:ウィル・スミス、ブリジット・モイナハン、ジェームズ・クロムウェル、ブルース・グリーンウッド、チー・マクブライド、アラン・テュディック
果たしてロボットは殺人を犯せるのか?
正直なところ、ビジュアルは変わっても、語る物語はいつもと同じ、というような印象を受けた。
「鉄腕アトム」をはじめとして、子供の頃から様々なロボットの物語に接している日本人にとって本作「アイ, ロボット」は決して新しい物語ではなく、最早手垢がついた感のある題材を基にした物語である、と言っても差し支えはないだろう。
特に本作の物語のコンセプトは、手塚治虫の「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を原案として現在浦沢直樹が描いている「PLUTO(プルートゥ)」と似ているし、キャラクター的には、ウィル・スミス演じるデル・スプーナー刑事は「鉄腕アトム/人工太陽球の巻」の探偵シャーロック・ホームスパンのような環境下にある。勿論これは最近の「イノセンス」のバトーも同様のキャラクター造型がされているのは周知のことと思う。
また、ビジュアル的には「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」の影響をうけた「マトリックス」で使用されたアクションが、またもや使われているし、往年の「トロン」を髣髴とさせるビジュアル・イメージもある。また「スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス」的なデザインも登場するのである。
更に、ロボットの中に芽生える「魂的なモノ」のことを「ゴースト」と表現するにいたっては、オマージュなのかなんなのか、もう定かではない、釈然としない気持ちなのである。
確かにCGIのビジュアル・イメージとアクションは確かに見応えがあるし、ロボットNS-5シリーズが蜂起する様は圧倒的である。
またロボットのサニーを演じたアラン・テュディックは、評価に値する微妙な表情による演技を見せている。
またトンネル内のカーチェイスも演出的には非常に面白い。
ところで、ロボットの蜂起は、ある意味「ゾンビ」的な楽しみ方も出来るかも知れないね。
しかしビジュアル・イメージが凄いからと言って、物語が面白いか、と言うとその辺は微妙である。
物語は前述のように、日本ではよく聞く話であり、その語り口は、ハードボイルドの探偵モノなのである。
その辺をどう評価するかによって、本作「アイ, ロボット」は傑作にも駄作にもなるのではないか、と思うのだ。
余談だが、ロボットと言う言葉が始めて登場したのは、ロシアの作家カレル・チャペックの「R.U.R」(1920)と言う戯曲なのであるが、本作「アイ, ロボット」の中で、ロボットを開発している企業名は、なんと「U.S.R」。なんとなく、似ているのではないかな。
ついでにこの戯曲「R.U.R」だが、舞台は人造人間(ロボット)の製造販売を一手にまかなっているR.U.R社の工場。人間の労働を肩代わりしていたロボットたちが団結して反乱を起こし、人類抹殺を開始する。「R.U.R」は、機械文明の発達がはたして人間に幸福をもたらすのか、と言うチャペックの予言的作品、なのである。
結果的には、わたし的には、ちょっとだけ奥が深いCGI満載の娯楽作品と、言うところであろうか。
話題の作品なので、関心があるのなら、折角なので是非劇場で観て欲しい作品だと思うのだ。
そして、もしあなたが日本人でなければ、または「鉄腕アトム」をはじめとした、様々なロボットの物語を知らないのであれば結構楽しめる娯楽作品なのかも知れない。
余談だが、デル・スプーナー刑事と、探偵シャーロック・ホームスパンとバトーが似ている話をしたのだが、そのあたりを明確に示すシークエンスが何度か登場する。デル・スプーナー刑事の寝起きのシーンで、彼は右手に拳銃を持ち、左肩を揉むような行動を取る。
これは、左手が行うことを右手が信用していないことを示しているのである。
アイザック・アシモフによるロボット工学三原則
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
(A robot may not harm a human being, or, through inaction, allow a human being to come to harm.)
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
(A robot must obey the orders given to it by the human beings, except where such orders would conflict with the First Law.)
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
(A robot must protect its own existence, as long as such protection does not conflict the First or Second Law.)
2035年、シカゴ。
今からわずか30年後の近未来、家庭用ロボットが人間のパートナーとして普及している時代。
そしてさらに、革新的な技術による新世代ロボットNS−5型が登場し、新たなロボット社会の夜明けを迎えようとする直前、そのロボットの生みの親であり、ロボット工学の第一人者、アルフレッド・ラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)が死体で発見される。
ラニング博士と親交のあった、シカゴ市警のデル・スプーナー刑事(ウィル・スミス)は、ラニング博士の事件は、自殺ではなく殺人事件だと疑い、現場に潜んでいた最新NS−5型ロボットのサニーを重要参考人として拘留する。
「ロボット3原則」をプログラミングされ、絶対に人間に危害を加えられないはずのロボットが殺人を犯せるのか?
謎を追及するデル・スプーナー刑事とロボット心理学者スーザン・カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)は、やがて・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アレックス・プロヤス
出演:ウィル・スミス、ブリジット・モイナハン、ジェームズ・クロムウェル、ブルース・グリーンウッド、チー・マクブライド、アラン・テュディック
果たしてロボットは殺人を犯せるのか?
正直なところ、ビジュアルは変わっても、語る物語はいつもと同じ、というような印象を受けた。
「鉄腕アトム」をはじめとして、子供の頃から様々なロボットの物語に接している日本人にとって本作「アイ, ロボット」は決して新しい物語ではなく、最早手垢がついた感のある題材を基にした物語である、と言っても差し支えはないだろう。
特に本作の物語のコンセプトは、手塚治虫の「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を原案として現在浦沢直樹が描いている「PLUTO(プルートゥ)」と似ているし、キャラクター的には、ウィル・スミス演じるデル・スプーナー刑事は「鉄腕アトム/人工太陽球の巻」の探偵シャーロック・ホームスパンのような環境下にある。勿論これは最近の「イノセンス」のバトーも同様のキャラクター造型がされているのは周知のことと思う。
また、ビジュアル的には「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」の影響をうけた「マトリックス」で使用されたアクションが、またもや使われているし、往年の「トロン」を髣髴とさせるビジュアル・イメージもある。また「スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス」的なデザインも登場するのである。
更に、ロボットの中に芽生える「魂的なモノ」のことを「ゴースト」と表現するにいたっては、オマージュなのかなんなのか、もう定かではない、釈然としない気持ちなのである。
確かにCGIのビジュアル・イメージとアクションは確かに見応えがあるし、ロボットNS-5シリーズが蜂起する様は圧倒的である。
またロボットのサニーを演じたアラン・テュディックは、評価に値する微妙な表情による演技を見せている。
またトンネル内のカーチェイスも演出的には非常に面白い。
ところで、ロボットの蜂起は、ある意味「ゾンビ」的な楽しみ方も出来るかも知れないね。
しかしビジュアル・イメージが凄いからと言って、物語が面白いか、と言うとその辺は微妙である。
物語は前述のように、日本ではよく聞く話であり、その語り口は、ハードボイルドの探偵モノなのである。
その辺をどう評価するかによって、本作「アイ, ロボット」は傑作にも駄作にもなるのではないか、と思うのだ。
余談だが、ロボットと言う言葉が始めて登場したのは、ロシアの作家カレル・チャペックの「R.U.R」(1920)と言う戯曲なのであるが、本作「アイ, ロボット」の中で、ロボットを開発している企業名は、なんと「U.S.R」。なんとなく、似ているのではないかな。
ついでにこの戯曲「R.U.R」だが、舞台は人造人間(ロボット)の製造販売を一手にまかなっているR.U.R社の工場。人間の労働を肩代わりしていたロボットたちが団結して反乱を起こし、人類抹殺を開始する。「R.U.R」は、機械文明の発達がはたして人間に幸福をもたらすのか、と言うチャペックの予言的作品、なのである。
結果的には、わたし的には、ちょっとだけ奥が深いCGI満載の娯楽作品と、言うところであろうか。
話題の作品なので、関心があるのなら、折角なので是非劇場で観て欲しい作品だと思うのだ。
そして、もしあなたが日本人でなければ、または「鉄腕アトム」をはじめとした、様々なロボットの物語を知らないのであれば結構楽しめる娯楽作品なのかも知れない。
余談だが、デル・スプーナー刑事と、探偵シャーロック・ホームスパンとバトーが似ている話をしたのだが、そのあたりを明確に示すシークエンスが何度か登場する。デル・スプーナー刑事の寝起きのシーンで、彼は右手に拳銃を持ち、左肩を揉むような行動を取る。
これは、左手が行うことを右手が信用していないことを示しているのである。
2004/09/05 東京有楽町 東京国際フォーラムCホールで行われた「デビルマン」のプレミア試写会に行って来た。
舞台挨拶は紹介順で、監督の那須博之、出演の伊崎央登、伊崎右典、酒井彩名、渋谷飛鳥、冨永愛、阿木燿子、宇崎竜童、そして原作の永井豪。
また、舞台挨拶の冒頭にはhiroの主題歌「光の中で」のライヴがあり、明日9月6日が誕生日である永井豪の誕生祝もあった。
両親を亡くし牧村家(啓介/宇崎竜童、恵美/阿木燿子)に引き取られた不動明(伊崎央登)は平凡な高校生として、ガールフレンドの牧村美樹(酒井彩名)らと共に、穏やかな毎日を送っていた。
一方、明の親友で、飛鳥教授(本田博太郎)を父に持つ飛鳥了(伊崎右典)は何不自由なく育ち、スポーツも成績も優秀だったが、キレルと何をするかわからない恐さを秘めていた。
そんなある日、新エネルギーを探索する飛鳥教授らは南極地底湖のボーリング中に、人と合体して増殖する古代知的生命体「デーモン」を呼び覚ましてしまう。
それは他の種族の生命体と合体し、その相手の能力を取り込み進化し続ける邪悪な魂を持つ知的生命体であった。
そして、次々と人間を乗っ取り始めたデーモンたち。
了とともに飛鳥教授の研究施設を訪れた明の体にもデーモンが侵食を開始するが・・・・。
永井豪の「デビルマン」を、二つの大きな出来事を含めて、実写化したことは評価できるが、全体的に見た場合、本作「デビルマン」は残念な作品だと言わざるを得ない。
個人的には、折角の「デビルマン」実写化のチャンスを・・・・。
と言う気持ちで一杯である。
先ずは、脚本がまずい。
好意的に強引に解釈すると「行間を読め」的な脚本とも取れるのだが、一般の観客に対しては、あまりにも不親切で、どんどん話が進んでしまう感が否めないし、原作の壮大なイメージを著しく矮小化されているような印象を受ける。
また、登場人物が特異な環境や背景、状況をあまり考えずに簡単に受け入れ、納得してしまっているのはいかがなものか、と思うのだ。
そして、主演二人の演技がまずい。
二人のビジュアルは、許容範囲であり、上手く行けば上手く行くのでは、と期待していたのだが、残念な事にわたしの期待は見事に裏切られる結果になってしまったと言わざるを得ない。
キャストよりCGIの方が演技が上手いのは、まずい事だと思うのだ。
しかし、逆に吹替え上映が一般的な海外にこの作品を持って言った場合、二人の演技がダメでも、所謂声優さんが頑張れば、何とかなるのかも知れない。とも考えてしまう。
あとは、日本映画の悪い癖なのだが、不必要なカメオが多い点が気になった。
物語のテンポを崩し、シリアスな場面だったものをコミカルな場面に転化してしまい、観客の意識を物語から引き離してしまう、こんなカメオが本当に必要なのだろうか?
勿論、いろいろな「大人の理由」が存在している事は承知しているが、やはり不必要なカメオの導入には、大きな疑問を感じてしまうのだ。
とは言うものの、評価できない点ばかりかというと、そうでもなく、例えば前述の通り、原作にある「二つの大きな出来事」を正攻法で正面から描いたのは、評価できるし、気分的には拍手モノである。勿論絵面だけ再現したからと言って拍手するのも問題だと思うのだか。
特に、二つ目の方の出来事を描いたのは、素晴らしい事だと思う。そのあたりの描写に「新世紀エヴァンゲリオン」のイメージとダブる感があるが、モトネタは「デビルマン」である。
また、CGIについては、ハリウッド作品のように、画面が暗い上に、カメラが被写体に寄り過ぎていて、何が起きているかわからない、と言ったCGIアクションではなく、引きでしかも比較的明るい画面で、CGIアクションを見せたのは評価に値するだろう。
そして、実写とCGIとアニメーションを融合させた「T−VISUAL」と言う手法も評価に値するのではないか、と思うのだ。
現在一般的に行われている、モーション・キャプチャーではなく、原画マンが描いた「アニメ的に誇張された原画」を基にCGIが創られているのだ。そういった手法をあみ出した事は評価できるのだ。
これは、ストップ・モーションの第一人者フィル・ティペットがCGIのスーパーバイザー等を務めた「ジュラシック・パーク」や「マトリックス レボリューションズ」の、CGIながら、生物的で愛嬌を持った動きを再現していたり、機械でありながら、その機械の操縦者の性格を表現しているような動きをしているのと、対比する事が出来る。
誤解を恐れずに言わせて貰えば、古い技術のエッセンスを活用し、新しい手法でキャラクターに命を吹き込んでいる、と言うことなのである。
しかしながら、実写パートとCGIパートが見事に融和を拒んでいる。カメラの動きも、何もかもが牽制しあっている印象を受ける。
また編集もガタガタで、シーンの繋がりが驚きに満ちている。
キャストについては、やはり主演の二人(伊崎央登、伊崎右典)は、演技ではなく、ビジュアル先行で本作にキャスティングされたのだとは思うし、そのビジュアル先行のキャスティングに対しては、ある意味成功だと思うし、英断だと思うのだが、如何せん演技がついて行っていないのだ。
もうすこし演出でなんとかならなかったのだろうか。非常に残念な気がする。
今時の学芸会でももっとマシだと思うのだ。
一方、牧村美樹役の酒井彩名は結構良かったし、ミーコ役の渋谷飛鳥や、ススム役の子役(名前はわかりません)もまあまあ良かった。と言うか、素晴らしく見えた。
と言うか、この二人はガタガタの現場でよく頑張ったと思うぞ。
主役二人より、ススムくんの方が演技が上手だと言うのは、困ったものである。(余談だが、ススムくんを演じた子役俳優は舞台挨拶には出てこなかったのだが、親子連れで会場に顔を出していた)
シレーヌを演じた冨永愛は存在感があり、思っていたより良い印象なのだが、CGIの部分とライブ・アクションの部分でコスチュームが全然違うのは、いかがなものか、と思うのだ。
ついでに脚本上、シレーヌはいなくなってしまうし。
結論としては、
1.FLAMEファンの皆さんには、オススメの作品
2.原作「デビルマン」ファンの皆さんには、「二つの大きな出来事」が真正面から映像化されている点、CGIのデビルマン等のビジュアル・コンセプトが良い点、「その部分だけで良ければ」、結構オススメの作品
3.一般の観客の皆さんには、日本が誇るダーク・ヒーローの実写化娯楽作品として、少しだけオススメの作品と言うところだろうか。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
激怒でございます。
原作と映画は別物だと常々思っているし、そう言う発言を繰り返してきたわたしでさえ、映画を観ている間、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。
カメオ出演の永井豪の悲しげな表情は何を意味していたのだろうか。
舞台挨拶は紹介順で、監督の那須博之、出演の伊崎央登、伊崎右典、酒井彩名、渋谷飛鳥、冨永愛、阿木燿子、宇崎竜童、そして原作の永井豪。
また、舞台挨拶の冒頭にはhiroの主題歌「光の中で」のライヴがあり、明日9月6日が誕生日である永井豪の誕生祝もあった。
両親を亡くし牧村家(啓介/宇崎竜童、恵美/阿木燿子)に引き取られた不動明(伊崎央登)は平凡な高校生として、ガールフレンドの牧村美樹(酒井彩名)らと共に、穏やかな毎日を送っていた。
一方、明の親友で、飛鳥教授(本田博太郎)を父に持つ飛鳥了(伊崎右典)は何不自由なく育ち、スポーツも成績も優秀だったが、キレルと何をするかわからない恐さを秘めていた。
そんなある日、新エネルギーを探索する飛鳥教授らは南極地底湖のボーリング中に、人と合体して増殖する古代知的生命体「デーモン」を呼び覚ましてしまう。
それは他の種族の生命体と合体し、その相手の能力を取り込み進化し続ける邪悪な魂を持つ知的生命体であった。
そして、次々と人間を乗っ取り始めたデーモンたち。
了とともに飛鳥教授の研究施設を訪れた明の体にもデーモンが侵食を開始するが・・・・。
永井豪の「デビルマン」を、二つの大きな出来事を含めて、実写化したことは評価できるが、全体的に見た場合、本作「デビルマン」は残念な作品だと言わざるを得ない。
個人的には、折角の「デビルマン」実写化のチャンスを・・・・。
と言う気持ちで一杯である。
先ずは、脚本がまずい。
好意的に強引に解釈すると「行間を読め」的な脚本とも取れるのだが、一般の観客に対しては、あまりにも不親切で、どんどん話が進んでしまう感が否めないし、原作の壮大なイメージを著しく矮小化されているような印象を受ける。
また、登場人物が特異な環境や背景、状況をあまり考えずに簡単に受け入れ、納得してしまっているのはいかがなものか、と思うのだ。
そして、主演二人の演技がまずい。
二人のビジュアルは、許容範囲であり、上手く行けば上手く行くのでは、と期待していたのだが、残念な事にわたしの期待は見事に裏切られる結果になってしまったと言わざるを得ない。
キャストよりCGIの方が演技が上手いのは、まずい事だと思うのだ。
しかし、逆に吹替え上映が一般的な海外にこの作品を持って言った場合、二人の演技がダメでも、所謂声優さんが頑張れば、何とかなるのかも知れない。とも考えてしまう。
あとは、日本映画の悪い癖なのだが、不必要なカメオが多い点が気になった。
物語のテンポを崩し、シリアスな場面だったものをコミカルな場面に転化してしまい、観客の意識を物語から引き離してしまう、こんなカメオが本当に必要なのだろうか?
勿論、いろいろな「大人の理由」が存在している事は承知しているが、やはり不必要なカメオの導入には、大きな疑問を感じてしまうのだ。
とは言うものの、評価できない点ばかりかというと、そうでもなく、例えば前述の通り、原作にある「二つの大きな出来事」を正攻法で正面から描いたのは、評価できるし、気分的には拍手モノである。勿論絵面だけ再現したからと言って拍手するのも問題だと思うのだか。
特に、二つ目の方の出来事を描いたのは、素晴らしい事だと思う。そのあたりの描写に「新世紀エヴァンゲリオン」のイメージとダブる感があるが、モトネタは「デビルマン」である。
また、CGIについては、ハリウッド作品のように、画面が暗い上に、カメラが被写体に寄り過ぎていて、何が起きているかわからない、と言ったCGIアクションではなく、引きでしかも比較的明るい画面で、CGIアクションを見せたのは評価に値するだろう。
そして、実写とCGIとアニメーションを融合させた「T−VISUAL」と言う手法も評価に値するのではないか、と思うのだ。
現在一般的に行われている、モーション・キャプチャーではなく、原画マンが描いた「アニメ的に誇張された原画」を基にCGIが創られているのだ。そういった手法をあみ出した事は評価できるのだ。
これは、ストップ・モーションの第一人者フィル・ティペットがCGIのスーパーバイザー等を務めた「ジュラシック・パーク」や「マトリックス レボリューションズ」の、CGIながら、生物的で愛嬌を持った動きを再現していたり、機械でありながら、その機械の操縦者の性格を表現しているような動きをしているのと、対比する事が出来る。
誤解を恐れずに言わせて貰えば、古い技術のエッセンスを活用し、新しい手法でキャラクターに命を吹き込んでいる、と言うことなのである。
しかしながら、実写パートとCGIパートが見事に融和を拒んでいる。カメラの動きも、何もかもが牽制しあっている印象を受ける。
また編集もガタガタで、シーンの繋がりが驚きに満ちている。
キャストについては、やはり主演の二人(伊崎央登、伊崎右典)は、演技ではなく、ビジュアル先行で本作にキャスティングされたのだとは思うし、そのビジュアル先行のキャスティングに対しては、ある意味成功だと思うし、英断だと思うのだが、如何せん演技がついて行っていないのだ。
もうすこし演出でなんとかならなかったのだろうか。非常に残念な気がする。
今時の学芸会でももっとマシだと思うのだ。
一方、牧村美樹役の酒井彩名は結構良かったし、ミーコ役の渋谷飛鳥や、ススム役の子役(名前はわかりません)もまあまあ良かった。と言うか、素晴らしく見えた。
と言うか、この二人はガタガタの現場でよく頑張ったと思うぞ。
主役二人より、ススムくんの方が演技が上手だと言うのは、困ったものである。(余談だが、ススムくんを演じた子役俳優は舞台挨拶には出てこなかったのだが、親子連れで会場に顔を出していた)
シレーヌを演じた冨永愛は存在感があり、思っていたより良い印象なのだが、CGIの部分とライブ・アクションの部分でコスチュームが全然違うのは、いかがなものか、と思うのだ。
ついでに脚本上、シレーヌはいなくなってしまうし。
結論としては、
1.FLAMEファンの皆さんには、オススメの作品
2.原作「デビルマン」ファンの皆さんには、「二つの大きな出来事」が真正面から映像化されている点、CGIのデビルマン等のビジュアル・コンセプトが良い点、「その部分だけで良ければ」、結構オススメの作品
3.一般の観客の皆さんには、日本が誇るダーク・ヒーローの実写化娯楽作品として、少しだけオススメの作品と言うところだろうか。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
激怒でございます。
原作と映画は別物だと常々思っているし、そう言う発言を繰り返してきたわたしでさえ、映画を観ている間、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。
カメオ出演の永井豪の悲しげな表情は何を意味していたのだろうか。
「シークレット・ウインドウ」
2004年9月4日 映画
2004/08/28 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」のオープニング作品「シークレット・ウインドウ」の試写を観た。
郊外の別荘で新作を執筆中の人気作家モート・レイニー(ジョニー・デップ)。
だが彼は、妻エイミー(マリア・ベロ)との離婚調停と言う大きな問題を抱え、執筆活動に行き詰っていた。
妻エイミーとテッド(ティモシー・ハットン)の不倫現場のモーテルに踏み込み、離婚調停の問題を顕在化させたのは、他ならないモートその人であった。
そんなある日、モートのもとにジョン・シューター(ジョン・タートゥーロ)と名乗る謎の男が訪ねてくる。
その男は唐突に、自分の小説がモートに盗作された、と言うのだった。
身に覚えの無いモートは、全く取り合わないが、シューターがポーチに一方的に置いていった原稿の内容は、モートの短篇小説「秘密の窓」と全く同じモノだったのだ。
そして・・・・。
監督/脚本:デヴィッド・コープ
原作:スティーヴン・キング 「秘密の窓、秘密の窓」(「ランゴリアーズ」所収/新潮社刊、新潮文庫刊)
出演:ジョニー・デップ、ジョン・タートゥーロ、マリア・ベロ、ティモシー・ハットン、チャールズ・ダットン
おそらく本作「シークレット・ウインドウ」は、スティーヴン・キング原作作品の映画化と言うより、ティム・バートンの「シザーハンズ」以降、「妹の恋人」「ギルバート・グレイプ」「エド・ウッド」「ラスベガスをやっつけろ」「ブロウ」といった、ハリウッドでも作家性の高い作品に好んで出演し、近年は「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」で大ブレイク、2003年アカデミー賞主演男優賞にもノミネートされたジョニー・デップの出演作品として評価される作品だろう。
また本作は、「永遠に美しく・・・」「ジュラシック・パーク」「カリートの道」「ザ・ペーパー」「ミッション:インポッシブル」「スネーク・アイズ」「パニック・ルーム」「スパイダーマン」等の脚本を手がけた名脚本家デヴィッド・コープの2作目の監督作品として(事実デヴィッド・コープ監督作品としては、初めて評価される作品となるかも知れない)も評価できる作品とも言える。
しかし、これらは逆説的に言うと、本作「シークレット・ウインドウ」は、キング作品の映画化を前面に押し出し、結果的には残念な結果に終わるような作品ではなく、一般の映画作品として評価できる作品に仕上がっている、と言えるのだ。
さて、そのデヴィッド・コープ自ら手がけた脚本は、基本的には原作である「秘密の窓、秘密の窓」(「ランゴリアーズ」所収/新潮社刊、新潮文庫刊)の基本プロットに準じており、−−と言うより、キングの原作自体がプロットや伏線を生かしつつ映画にしやすい完成度の高い小説に仕上がっているのかも知れないのだが、−−また、微に入り細に入り、カッチリ破綻無く組まれた見事な脚本を楽しむことが出来る。
特に、ジョニー・デップ演じるモート・レイニーの内面との対峙部分や、ラストの独白的シークエンスは秀逸であろう。
また演出については、冒頭のモートの飼猫がジョン・タートゥーロが演じるジョン・シューターの足元に絡みつくあたりや、モートが自動車を落とすシークエンス、勿論モートの内面との対峙、エピローグ的エピソード等、きっちりと振付けられたアクションを観ているような、脚本と演出の一体感が楽しめる。
キャストは、モート・レイニーを演じたジョニー・デップは、「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」 同様若干オーバーアクト気味な感は否めないが、自らの内面に問題を抱える人気作家を見事に演じている。
誰も居ない部屋での独白や表情や指先等のユーモラスな動きは、−−勿論これはジュニー・デップの売りであり、個性だと言われると返す言葉が無いのだが、−−リアリティを求める観客に取っては、やはりオーバーアクトだと言わざるを得ない。
また、謎の男ジョン・シューターを演じたジョン・タートゥーロは何と言っても南部訛りの台詞回しが印象的である。わたしは寡聞にしてテキサス訛りと、ミシシッピ訛りの区別はつかないが、ミシシッピ出身のジョン・シューターの訛りは、スタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」のコング少佐(スリム・ピケンズ)を髣髴とさせる。
あと印象に残るのは、モート・レイニーが雇うアクティブな弁護士ケンを演じたチャールズ・ダットンだろう。容貌は勿論、金にうるさい、−−コンタルティング料をカウントする時計のシークエンス−−、出来る弁護士像が印象的だった。
物語の結末とエピローグについては、賛否があると思うが、余韻の残る素晴らしい幕切れではないかと思う。
しかし、物語の結末を指し示すセリフが、何度も何度も出てくるのには、若干興ざめの印象を否定できない。もう少し観客の記憶を信用し、暗にほのめかす程度で良かったのではないかとわたしは考える。
とは言っても、本作「シークレット・ウインドウ」は、全体的に見た場合、誰にでもオススメ出来る、秀作だと言えるだろう。
また、ジョニー・デップ目当てで劇場に足を運んだ人に、スティーヴン・キングを知らしめる役割を果たしてくれる、素晴らしい作品になるのかも知れない。
郊外の別荘で新作を執筆中の人気作家モート・レイニー(ジョニー・デップ)。
だが彼は、妻エイミー(マリア・ベロ)との離婚調停と言う大きな問題を抱え、執筆活動に行き詰っていた。
妻エイミーとテッド(ティモシー・ハットン)の不倫現場のモーテルに踏み込み、離婚調停の問題を顕在化させたのは、他ならないモートその人であった。
そんなある日、モートのもとにジョン・シューター(ジョン・タートゥーロ)と名乗る謎の男が訪ねてくる。
その男は唐突に、自分の小説がモートに盗作された、と言うのだった。
身に覚えの無いモートは、全く取り合わないが、シューターがポーチに一方的に置いていった原稿の内容は、モートの短篇小説「秘密の窓」と全く同じモノだったのだ。
そして・・・・。
監督/脚本:デヴィッド・コープ
原作:スティーヴン・キング 「秘密の窓、秘密の窓」(「ランゴリアーズ」所収/新潮社刊、新潮文庫刊)
出演:ジョニー・デップ、ジョン・タートゥーロ、マリア・ベロ、ティモシー・ハットン、チャールズ・ダットン
おそらく本作「シークレット・ウインドウ」は、スティーヴン・キング原作作品の映画化と言うより、ティム・バートンの「シザーハンズ」以降、「妹の恋人」「ギルバート・グレイプ」「エド・ウッド」「ラスベガスをやっつけろ」「ブロウ」といった、ハリウッドでも作家性の高い作品に好んで出演し、近年は「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」で大ブレイク、2003年アカデミー賞主演男優賞にもノミネートされたジョニー・デップの出演作品として評価される作品だろう。
また本作は、「永遠に美しく・・・」「ジュラシック・パーク」「カリートの道」「ザ・ペーパー」「ミッション:インポッシブル」「スネーク・アイズ」「パニック・ルーム」「スパイダーマン」等の脚本を手がけた名脚本家デヴィッド・コープの2作目の監督作品として(事実デヴィッド・コープ監督作品としては、初めて評価される作品となるかも知れない)も評価できる作品とも言える。
しかし、これらは逆説的に言うと、本作「シークレット・ウインドウ」は、キング作品の映画化を前面に押し出し、結果的には残念な結果に終わるような作品ではなく、一般の映画作品として評価できる作品に仕上がっている、と言えるのだ。
さて、そのデヴィッド・コープ自ら手がけた脚本は、基本的には原作である「秘密の窓、秘密の窓」(「ランゴリアーズ」所収/新潮社刊、新潮文庫刊)の基本プロットに準じており、−−と言うより、キングの原作自体がプロットや伏線を生かしつつ映画にしやすい完成度の高い小説に仕上がっているのかも知れないのだが、−−また、微に入り細に入り、カッチリ破綻無く組まれた見事な脚本を楽しむことが出来る。
特に、ジョニー・デップ演じるモート・レイニーの内面との対峙部分や、ラストの独白的シークエンスは秀逸であろう。
また演出については、冒頭のモートの飼猫がジョン・タートゥーロが演じるジョン・シューターの足元に絡みつくあたりや、モートが自動車を落とすシークエンス、勿論モートの内面との対峙、エピローグ的エピソード等、きっちりと振付けられたアクションを観ているような、脚本と演出の一体感が楽しめる。
キャストは、モート・レイニーを演じたジョニー・デップは、「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」 同様若干オーバーアクト気味な感は否めないが、自らの内面に問題を抱える人気作家を見事に演じている。
誰も居ない部屋での独白や表情や指先等のユーモラスな動きは、−−勿論これはジュニー・デップの売りであり、個性だと言われると返す言葉が無いのだが、−−リアリティを求める観客に取っては、やはりオーバーアクトだと言わざるを得ない。
また、謎の男ジョン・シューターを演じたジョン・タートゥーロは何と言っても南部訛りの台詞回しが印象的である。わたしは寡聞にしてテキサス訛りと、ミシシッピ訛りの区別はつかないが、ミシシッピ出身のジョン・シューターの訛りは、スタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」のコング少佐(スリム・ピケンズ)を髣髴とさせる。
あと印象に残るのは、モート・レイニーが雇うアクティブな弁護士ケンを演じたチャールズ・ダットンだろう。容貌は勿論、金にうるさい、−−コンタルティング料をカウントする時計のシークエンス−−、出来る弁護士像が印象的だった。
物語の結末とエピローグについては、賛否があると思うが、余韻の残る素晴らしい幕切れではないかと思う。
しかし、物語の結末を指し示すセリフが、何度も何度も出てくるのには、若干興ざめの印象を否定できない。もう少し観客の記憶を信用し、暗にほのめかす程度で良かったのではないかとわたしは考える。
とは言っても、本作「シークレット・ウインドウ」は、全体的に見た場合、誰にでもオススメ出来る、秀作だと言えるだろう。
また、ジョニー・デップ目当てで劇場に足を運んだ人に、スティーヴン・キングを知らしめる役割を果たしてくれる、素晴らしい作品になるのかも知れない。
「マイ・ボディガード」
2004年9月3日 映画
2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」で「マイ・ボディガード」の試写を観た。
16年間アメリカ海軍の対テロ特殊部隊に所属していたクリーシー(デンゼル・ワシントン)は飲酒で身を持ち崩していた。
それを見かねた、かつての盟友で現在メキシコに居を構えるレイバーン(クリストファー・ウォーケン)は、クリーシーにメキシコの実業家夫妻(サミュエル/マーク・アンソニー、リサ/ラダ・ミッチェル)の娘ピタ(ダコタ・ファニング)のボディガードの職を斡旋する。
メキシコでは、実業家や富豪の子供たちを組織的に営利誘拐する集団が存在し、裕福な家庭では子供のためにボディガードを雇う事は一般的な事だった。
当初クリーシーは、ビジネスに徹しピタに冷たく当たっていたのだが、ピタの水泳コーチを引き受けた頃から、ピタと打ち解け初め、クリーシーとピタの間には、ビジネスを越えたある種の絆が生まれてきた。
そんなある日、クリーシーはピタを学校に送り迎えする際、同じ自動車を何度も見かけることに気付いたが・・・・。
監督:トニー・スコット
脚本:ブライアン・ヘルゲランド
原作:A・J・クィネル(「燃える男」/”MAN ON FIRE”)
出演:デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、ラダ・ミッチェル、マーク・アンソニー、ジャンカルロ・ジャンニーニ、レイチェル・ティコティン、ミッキー・ローク
トニー・スコットと言えば、当初は「トップガン」や「ビバリーヒルズ・コップ2」、「デイズ・オブ・サンダー」等、面白いが底が浅い娯楽作を監督していたが、「トゥルー・ロマンス」や「クリムゾン・タイド」以降、娯楽作でありながら、奥底に何かを感じられる作品を監督し始め、最近では「スパイ・ゲーム」で最早押しも押されぬ実力派監督の名を欲しいままにしている。
一方、脚本のブライアン・ヘルゲランドは、なんと言っても「L.A.コンフィデンシャル」で頭角を顕し、最近では「ミスティック・リバー」でも大いに評価されている名脚本家である。
そんな二人が組んだ上に、デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、クリストファー・ウォーケン、ジャンカルロ・ジャンニーニ等が出演となれば、否応もなく期待は高まる訳であり、そんな環境下でわたしは本作「マイ・ボディガード」を観たのである。
本作「マイ・ボディガード」は、一言で言うと大傑作であった。
トニー・スコットの作品を手放しで誉めちぎるのは、なんともしゃくだが、良い作品は仕方ないが良い作品なのだ。
先ず脚本だが、メインのプロットは、「かつてのエリートが落ちぶれ、片手間仕事に就くが、一時はその仕事に失敗するのだが、自分でその失敗のけじめをつける」というありがちなものだが、そこに到る過程が、微にいり細にいり完璧で、まるで美しいモザイク模様の工芸品を見ているような出来栄えの脚本なのである。
そしてその工芸品のような脚本に乗った演出も素晴らしく、数々の詳細な伏線が、画面の端々から観客に訴えかけてくる、そういった観点からすると、内容はともかく楽しい映画に仕上がっている。
そして、その物語を演じる役者たちだが、デンゼル・ワシントンやダコタ・ファニングはさておき、クリストファー・ウォーケンが素晴らしい。
最近情けない作品が多いウォーケンだが、本作では、かつてはエリートだった老兵を情緒たっぷりに演じており、また「戦争の犬たち」を髣髴とさせる映画的記憶を利用した素晴らしい役柄を演じている。久方振りに格好良いウォーケンを見たのだ。
また、名優ジャンカルロ・ジャンニーニ(マンザーノ連邦捜査官)とレイチェル・ティコティン(マリーナ/新聞記者)の正義派・社会派コンビも素晴らしい印象を観客に与えている。
ラストのレイチェル・ティコティンの決断と、ジャンカルロ・ジャンニーニの行動に拍手を贈りたいほどである。
ミッキー・ロークはわたし的には一時はどうなることかと思ったのだが、脚本上はキャスト・ミスになるところをギリギリで踏ん張った感があるが、面白い役所を演じている。
さて、主演のデンゼル・ワシントンだが、はっきり言って素晴らしい。役柄的には知的なだけではなく非常にタフな所があり、従来のワシントンのイメージを超えた素晴らしいクリーシー像を見せてくれている。
一方、ダコタ・ファニングは、観客に対してある意味凶悪で、最早ルール違反だと言っても差支えが無いのでは無いだろうか。
あんなに愛らしく天使のような少女が、悪人の手にかかったとなれば、デンゼル・ワシントンどころか、すべての観客が怒り心頭、怒髪天を衝く状態で、その意味で言えば、ダコタ・ファニングは観客を見事に一体化してしまう手腕を持っている、と言えるのだ。
画面は、おそらく撮影時の素材をデジタル処理し、セリフや動きのタイミングに合わせて、細かなズームやパン、ティルトを多用し、下手をすると乗り物酔いに似た症状を観客に与えかねない映像スタイルを取っていた。
その画面と舞台背景からは、スタイル的にスティーヴン・ソダーバーグの「トラフィック」のような印象をも受ける。
また、セリフの中での印象的な言葉を、スーパー・インポーズしていたのが印象的である。
この手法はスタイリッシュな反面、蛇足的印象を観客に与えてしまう点も、否定できない。
本作「マイ・ボディガード」は、復讐を描いたアクション映画だが、それを超越した、叙情的でもあり、社会派的でもあり、若干ハード過ぎるきらいもあるが、文句なしの大傑作である。
この秋、アクション映画を見るのならば、オススメの一本だし、アクションが苦手な社会派系の人にも、観ていただきたい素晴らしい作品なのだ。
=+=+=+=+=+=
余談だが、「スタートレック」的には、「キル・ビル(国際版)」の冒頭で引用された、クリンゴンのことわざ、
”Revenge is a dish best served cold.”
がデンゼル・ワシントンのセリフとして出てきた。
(実際は、爆発の音とかぶって正確には聞き取れなかった)
もしかすると、「クリムゾン・タイド」同様、クエンティン・タランティーノが脚本にノン・クレジットで一枚噛んでいるのかも知れない、と思った。
因みに日本公開された「キル・ビル Vol.1」では、”Revenge is a dish best served cold.”のタイトル・カードは、「深作欣二に捧ぐ」と言うカードに差し替えられていた。
このクリンゴンの古いことわざである”Revenge is a dish best served cold.”は、「キル・ビル Vol.1」と「キル・ビル Vol.2」を続けて観て、初めて意味が通じるひとつの伏線となっているのだが、日本では「深作欣二に捧ぐ」と言うカードに差し替えられていたため、その伏線があまり生きていなかった。
=+=+=+=+=+=
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
参考になったらクリック!(人気blogランキング)
http://blog.with2.net/link.php/29604
16年間アメリカ海軍の対テロ特殊部隊に所属していたクリーシー(デンゼル・ワシントン)は飲酒で身を持ち崩していた。
それを見かねた、かつての盟友で現在メキシコに居を構えるレイバーン(クリストファー・ウォーケン)は、クリーシーにメキシコの実業家夫妻(サミュエル/マーク・アンソニー、リサ/ラダ・ミッチェル)の娘ピタ(ダコタ・ファニング)のボディガードの職を斡旋する。
メキシコでは、実業家や富豪の子供たちを組織的に営利誘拐する集団が存在し、裕福な家庭では子供のためにボディガードを雇う事は一般的な事だった。
当初クリーシーは、ビジネスに徹しピタに冷たく当たっていたのだが、ピタの水泳コーチを引き受けた頃から、ピタと打ち解け初め、クリーシーとピタの間には、ビジネスを越えたある種の絆が生まれてきた。
そんなある日、クリーシーはピタを学校に送り迎えする際、同じ自動車を何度も見かけることに気付いたが・・・・。
監督:トニー・スコット
脚本:ブライアン・ヘルゲランド
原作:A・J・クィネル(「燃える男」/”MAN ON FIRE”)
出演:デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、ラダ・ミッチェル、マーク・アンソニー、ジャンカルロ・ジャンニーニ、レイチェル・ティコティン、ミッキー・ローク
トニー・スコットと言えば、当初は「トップガン」や「ビバリーヒルズ・コップ2」、「デイズ・オブ・サンダー」等、面白いが底が浅い娯楽作を監督していたが、「トゥルー・ロマンス」や「クリムゾン・タイド」以降、娯楽作でありながら、奥底に何かを感じられる作品を監督し始め、最近では「スパイ・ゲーム」で最早押しも押されぬ実力派監督の名を欲しいままにしている。
一方、脚本のブライアン・ヘルゲランドは、なんと言っても「L.A.コンフィデンシャル」で頭角を顕し、最近では「ミスティック・リバー」でも大いに評価されている名脚本家である。
そんな二人が組んだ上に、デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、クリストファー・ウォーケン、ジャンカルロ・ジャンニーニ等が出演となれば、否応もなく期待は高まる訳であり、そんな環境下でわたしは本作「マイ・ボディガード」を観たのである。
本作「マイ・ボディガード」は、一言で言うと大傑作であった。
トニー・スコットの作品を手放しで誉めちぎるのは、なんともしゃくだが、良い作品は仕方ないが良い作品なのだ。
先ず脚本だが、メインのプロットは、「かつてのエリートが落ちぶれ、片手間仕事に就くが、一時はその仕事に失敗するのだが、自分でその失敗のけじめをつける」というありがちなものだが、そこに到る過程が、微にいり細にいり完璧で、まるで美しいモザイク模様の工芸品を見ているような出来栄えの脚本なのである。
そしてその工芸品のような脚本に乗った演出も素晴らしく、数々の詳細な伏線が、画面の端々から観客に訴えかけてくる、そういった観点からすると、内容はともかく楽しい映画に仕上がっている。
そして、その物語を演じる役者たちだが、デンゼル・ワシントンやダコタ・ファニングはさておき、クリストファー・ウォーケンが素晴らしい。
最近情けない作品が多いウォーケンだが、本作では、かつてはエリートだった老兵を情緒たっぷりに演じており、また「戦争の犬たち」を髣髴とさせる映画的記憶を利用した素晴らしい役柄を演じている。久方振りに格好良いウォーケンを見たのだ。
また、名優ジャンカルロ・ジャンニーニ(マンザーノ連邦捜査官)とレイチェル・ティコティン(マリーナ/新聞記者)の正義派・社会派コンビも素晴らしい印象を観客に与えている。
ラストのレイチェル・ティコティンの決断と、ジャンカルロ・ジャンニーニの行動に拍手を贈りたいほどである。
ミッキー・ロークはわたし的には一時はどうなることかと思ったのだが、脚本上はキャスト・ミスになるところをギリギリで踏ん張った感があるが、面白い役所を演じている。
さて、主演のデンゼル・ワシントンだが、はっきり言って素晴らしい。役柄的には知的なだけではなく非常にタフな所があり、従来のワシントンのイメージを超えた素晴らしいクリーシー像を見せてくれている。
一方、ダコタ・ファニングは、観客に対してある意味凶悪で、最早ルール違反だと言っても差支えが無いのでは無いだろうか。
あんなに愛らしく天使のような少女が、悪人の手にかかったとなれば、デンゼル・ワシントンどころか、すべての観客が怒り心頭、怒髪天を衝く状態で、その意味で言えば、ダコタ・ファニングは観客を見事に一体化してしまう手腕を持っている、と言えるのだ。
画面は、おそらく撮影時の素材をデジタル処理し、セリフや動きのタイミングに合わせて、細かなズームやパン、ティルトを多用し、下手をすると乗り物酔いに似た症状を観客に与えかねない映像スタイルを取っていた。
その画面と舞台背景からは、スタイル的にスティーヴン・ソダーバーグの「トラフィック」のような印象をも受ける。
また、セリフの中での印象的な言葉を、スーパー・インポーズしていたのが印象的である。
この手法はスタイリッシュな反面、蛇足的印象を観客に与えてしまう点も、否定できない。
本作「マイ・ボディガード」は、復讐を描いたアクション映画だが、それを超越した、叙情的でもあり、社会派的でもあり、若干ハード過ぎるきらいもあるが、文句なしの大傑作である。
この秋、アクション映画を見るのならば、オススメの一本だし、アクションが苦手な社会派系の人にも、観ていただきたい素晴らしい作品なのだ。
=+=+=+=+=+=
余談だが、「スタートレック」的には、「キル・ビル(国際版)」の冒頭で引用された、クリンゴンのことわざ、
”Revenge is a dish best served cold.”
がデンゼル・ワシントンのセリフとして出てきた。
(実際は、爆発の音とかぶって正確には聞き取れなかった)
もしかすると、「クリムゾン・タイド」同様、クエンティン・タランティーノが脚本にノン・クレジットで一枚噛んでいるのかも知れない、と思った。
因みに日本公開された「キル・ビル Vol.1」では、”Revenge is a dish best served cold.”のタイトル・カードは、「深作欣二に捧ぐ」と言うカードに差し替えられていた。
このクリンゴンの古いことわざである”Revenge is a dish best served cold.”は、「キル・ビル Vol.1」と「キル・ビル Vol.2」を続けて観て、初めて意味が通じるひとつの伏線となっているのだが、日本では「深作欣二に捧ぐ」と言うカードに差し替えられていたため、その伏線があまり生きていなかった。
=+=+=+=+=+=
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
参考になったらクリック!(人気blogランキング)
http://blog.with2.net/link.php/29604
「オールド・ボーイ」
2004年9月2日 映画
2004/09/01 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」のクロージング作品「オールド・ボーイ」の試写を観た。
ごく平凡な生活を送っていた男オ・デス(チェ・ミンシク)は、娘の誕生日の晩、酔っ払った挙句に警察に留め置かれてしまう。一時はジュファン(チ・デハン)に身柄を引き取られるが、ジュファンが電話をかけている最中、オ・デスは何者かに拉致されてしまう。
その後、オ・デスはホテルの一室のような小さな部屋で意識を取り戻したのが、それ以降理由もわからないまま監禁され続け、監禁開始から15年後のある日、オ・デスは突然解放されてしまう。
一体誰が!?何の目的で!?
オ・デスは解放後に偶然出会った若い女性ミド(カン・ヘジョン)の協力を得、自分を監禁した相手を探し出し復讐することを誓う。
そんなオ・デスの前に謎の男イ・ウジン(ユ・ジテ)が現れるのだが・・・・。
監督:パク・チャヌク
出演:チェ・ミンシク、ユ・ジテ、カン・ヘジョン、チ・デハン、ユン・ジンソ
本作「オールド・ボーイ」はご承知のように、2004年カンヌ国際映画祭公式上映後のスタンディング・オベーションは10分間に及び、結果、見事グランプリ(審査員特別大賞)を獲得、審査委員長クエンティン・タランティーノにして『グレイト!最高に素晴らしい! 本当は「オールド・ボーイ」にパルムドールをあげたかった』と言わしめた作品である。
事実本作「オールド・ボーイ」は「カンヌ国際映画祭グランプリ」に恥じない、素晴らしい作品だった。
先ずは、とにかく脚本が素晴らしい。
わたしは寡聞にして原作を読んでいないため、原作と脚本の比較は出来ないが、本作「オールド・ボーイ」の脚本は緻密でいて大胆、縦横に張り巡らされた伏線を生かし、驚きに満ちた素晴らしいプロットに溢れている。
また、要所要所に描写される、「キーとなるモノ」のあっさりした描写が、わかる人にはわかる製作者の目配せ的伏線として機能しているあたりも良い印象を受けた。
本作「オールド・ボーイ」の脚本は、物語の表層部分が面白いのは勿論、物語の奥底に当たる部分も最高に面白い、と言う素晴らしく完成度が高い脚本だと言えるのだ。
キャストは、何と言ってもチェ・ミンシク(オ・デス)が素晴らしい。
観客を笑わすは、泣かすはの大活躍である。
冒頭のシークエンスでのチェ・ミンシクの酔漢振りも良いが、監禁時の鬼気迫る演技も、解放後の冒険や、ウジンとの対決も、何から何まで素晴らしいのだ。
悪い点を強いてあげるとすると、監禁前の姿のほうが、解放後の姿より年を取っているように見えるような気がする位である。
また、物語のキーとなる謎の男イ・ウジンを演じたユ・ジテも同様に素晴らしい。
本作「オールド・ボーイ」では、多くの観客は、理由はともかく15年間も監禁されていたオ・デスに感情移入すると思われ、実際ウジンは敵役を振られている事になるのだが、そんな状況の中で、知的でクールな、それでいて哀愁と喪失感を帯びた、奥深く複雑な敵役像を見せてくれている。
また、解放後のオ・デスをたまたま助けるミドを演じたカン・ヘジョンも素晴らしい。
わたしはミド登場時に、それほど良い印象を受けなかったのであるが、物語が進むに連れカン・ヘジョンは輝きを増し、ついには衝撃的な印象を残してくれる。
そして、端役やエキストラまで、末端まで真摯な態度が行き届いたキャスティングも素晴らしく、全ての役者が与えられた役柄を見事にこなしている。
一方、監禁部屋にしろ、ユジンのペントハウスにしろ、ミドの部屋にしろ、学校にしろ、美容院にしろ、インターネット・カフェにしろ、セットや美術、大小道具も素晴らしく、統一感がありながら、所有者のセンスや性格、感情が感じられる世界観の構築に貢献している。
そして、その素晴らしい世界観を冷徹に切り取り、二次元に定着させるカメラ。
撮影も大変素晴らしく、一度見たら一生忘れられない種類のカットを多数残している。
勿論、これは演出のおかげではあるのだが、妥協しない撮影の力を感じる作風だったのだ。
オ・デス(チェ・ミンシク)やイ・ウジン(ユ・ジテ)、ミド(カン・ヘジョン)等の表情や動きの切り取り方も凄いぞ。
スチール・カメラのような鋭敏さを持ったムービー・カメラなのだ。
ネタバレを避けるあまり、曖昧で抽象的な書きようになってしまっているが、これ以上の事を書くと本当にネタバレになってしまいそうなので、この辺にしておくが、わたしのオススメとしては、出来れば本作「オールド・ボーイ」に関する全ての情報をシャット・アウトした上で、一般のメディアで本作物語の内容が取り上げられる前に、出来るだけ早く観て欲しい。出来れば、チラシも見ない方が良いと思う。
そして、例えば「クライング・ゲーム」や「シックス・センス」の「秘密」を全ての観客が共有した上で「秘密」を守り、決して誰にも言わなかったように、本作「オールド・ボーイ」の「秘密」も観客全てが共有し「秘密」を守る、そんな映画になって欲しいと心から願うのだ。
とにかく、本作「オールド・ボーイ」は、今秋の目玉の作品という事もあるのだが、映画に関心を持っている人全てに観て欲しいとわたしは思う。
本作「オールド・ボーイ」は映画史に燦然と輝く作品になる可能性が高いと思うしね。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
余談
日本の劇画(漫画)を原作として、韓国にこんな素晴らしい作品を創られてしまうとは、日本人として悲しい気持ちで一杯なのだ。
日本のクリエイターの諸氏にも、もう少し頑張って欲しいと思うし、ワールド・ワイドな戦略を立てた、素晴らしい邦画を製作して欲しいと思う。
かつては香港映画に羨望の念を覚え、今は韓国映画に嫉妬の念を禁じえない状況は、果たしていつまで続くのであろうか。
余談だが、本作の脚本は「アンブレイカブル」のような、ラストでカッチリとはまる素晴らしいもので、その関係からか、サミュエル・L・ジャクソンが、ユ・ジテとかぶって見えてくる。
ごく平凡な生活を送っていた男オ・デス(チェ・ミンシク)は、娘の誕生日の晩、酔っ払った挙句に警察に留め置かれてしまう。一時はジュファン(チ・デハン)に身柄を引き取られるが、ジュファンが電話をかけている最中、オ・デスは何者かに拉致されてしまう。
その後、オ・デスはホテルの一室のような小さな部屋で意識を取り戻したのが、それ以降理由もわからないまま監禁され続け、監禁開始から15年後のある日、オ・デスは突然解放されてしまう。
一体誰が!?何の目的で!?
オ・デスは解放後に偶然出会った若い女性ミド(カン・ヘジョン)の協力を得、自分を監禁した相手を探し出し復讐することを誓う。
そんなオ・デスの前に謎の男イ・ウジン(ユ・ジテ)が現れるのだが・・・・。
監督:パク・チャヌク
出演:チェ・ミンシク、ユ・ジテ、カン・ヘジョン、チ・デハン、ユン・ジンソ
本作「オールド・ボーイ」はご承知のように、2004年カンヌ国際映画祭公式上映後のスタンディング・オベーションは10分間に及び、結果、見事グランプリ(審査員特別大賞)を獲得、審査委員長クエンティン・タランティーノにして『グレイト!最高に素晴らしい! 本当は「オールド・ボーイ」にパルムドールをあげたかった』と言わしめた作品である。
事実本作「オールド・ボーイ」は「カンヌ国際映画祭グランプリ」に恥じない、素晴らしい作品だった。
先ずは、とにかく脚本が素晴らしい。
わたしは寡聞にして原作を読んでいないため、原作と脚本の比較は出来ないが、本作「オールド・ボーイ」の脚本は緻密でいて大胆、縦横に張り巡らされた伏線を生かし、驚きに満ちた素晴らしいプロットに溢れている。
また、要所要所に描写される、「キーとなるモノ」のあっさりした描写が、わかる人にはわかる製作者の目配せ的伏線として機能しているあたりも良い印象を受けた。
本作「オールド・ボーイ」の脚本は、物語の表層部分が面白いのは勿論、物語の奥底に当たる部分も最高に面白い、と言う素晴らしく完成度が高い脚本だと言えるのだ。
キャストは、何と言ってもチェ・ミンシク(オ・デス)が素晴らしい。
観客を笑わすは、泣かすはの大活躍である。
冒頭のシークエンスでのチェ・ミンシクの酔漢振りも良いが、監禁時の鬼気迫る演技も、解放後の冒険や、ウジンとの対決も、何から何まで素晴らしいのだ。
悪い点を強いてあげるとすると、監禁前の姿のほうが、解放後の姿より年を取っているように見えるような気がする位である。
また、物語のキーとなる謎の男イ・ウジンを演じたユ・ジテも同様に素晴らしい。
本作「オールド・ボーイ」では、多くの観客は、理由はともかく15年間も監禁されていたオ・デスに感情移入すると思われ、実際ウジンは敵役を振られている事になるのだが、そんな状況の中で、知的でクールな、それでいて哀愁と喪失感を帯びた、奥深く複雑な敵役像を見せてくれている。
また、解放後のオ・デスをたまたま助けるミドを演じたカン・ヘジョンも素晴らしい。
わたしはミド登場時に、それほど良い印象を受けなかったのであるが、物語が進むに連れカン・ヘジョンは輝きを増し、ついには衝撃的な印象を残してくれる。
そして、端役やエキストラまで、末端まで真摯な態度が行き届いたキャスティングも素晴らしく、全ての役者が与えられた役柄を見事にこなしている。
一方、監禁部屋にしろ、ユジンのペントハウスにしろ、ミドの部屋にしろ、学校にしろ、美容院にしろ、インターネット・カフェにしろ、セットや美術、大小道具も素晴らしく、統一感がありながら、所有者のセンスや性格、感情が感じられる世界観の構築に貢献している。
そして、その素晴らしい世界観を冷徹に切り取り、二次元に定着させるカメラ。
撮影も大変素晴らしく、一度見たら一生忘れられない種類のカットを多数残している。
勿論、これは演出のおかげではあるのだが、妥協しない撮影の力を感じる作風だったのだ。
オ・デス(チェ・ミンシク)やイ・ウジン(ユ・ジテ)、ミド(カン・ヘジョン)等の表情や動きの切り取り方も凄いぞ。
スチール・カメラのような鋭敏さを持ったムービー・カメラなのだ。
ネタバレを避けるあまり、曖昧で抽象的な書きようになってしまっているが、これ以上の事を書くと本当にネタバレになってしまいそうなので、この辺にしておくが、わたしのオススメとしては、出来れば本作「オールド・ボーイ」に関する全ての情報をシャット・アウトした上で、一般のメディアで本作物語の内容が取り上げられる前に、出来るだけ早く観て欲しい。出来れば、チラシも見ない方が良いと思う。
そして、例えば「クライング・ゲーム」や「シックス・センス」の「秘密」を全ての観客が共有した上で「秘密」を守り、決して誰にも言わなかったように、本作「オールド・ボーイ」の「秘密」も観客全てが共有し「秘密」を守る、そんな映画になって欲しいと心から願うのだ。
とにかく、本作「オールド・ボーイ」は、今秋の目玉の作品という事もあるのだが、映画に関心を持っている人全てに観て欲しいとわたしは思う。
本作「オールド・ボーイ」は映画史に燦然と輝く作品になる可能性が高いと思うしね。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
余談
日本の劇画(漫画)を原作として、韓国にこんな素晴らしい作品を創られてしまうとは、日本人として悲しい気持ちで一杯なのだ。
日本のクリエイターの諸氏にも、もう少し頑張って欲しいと思うし、ワールド・ワイドな戦略を立てた、素晴らしい邦画を製作して欲しいと思う。
かつては香港映画に羨望の念を覚え、今は韓国映画に嫉妬の念を禁じえない状況は、果たしていつまで続くのであろうか。
余談だが、本作の脚本は「アンブレイカブル」のような、ラストでカッチリとはまる素晴らしいもので、その関係からか、サミュエル・L・ジャクソンが、ユ・ジテとかぶって見えてくる。
2004年の目標!! 中間発表その8
2004年9月1日 映画さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その8です。
とりあえず目標の再確認を・・・・
目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」
1.映画
#063 「スウィングガールズ」イイノホール 2004/08/04
#064 「ヴァン・ヘルシング」東京国際フォーラムAホール 2004/08/05
#065 「スパイダーマン2」日劇1 2004/08/13
#066 「NIN・NIN忍者ハットリくんTHE MOVIE」よみうりホール 2004/08/14
#067 「ワー!マイキー リターンズ!」東京都写真美術館ホール 2004/08/15
#068 「華氏911」恵比寿ガーデンシネマ 2004/08/15
#069 「ジーリ」ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント試写室 2004/08/21
#070 「バイオハザードII アポカリプス」丸の内ピカデリー1 2004/08/23
#071 「コード46」銀座ガスホール 2004/08/24
#072 「愛の落日」よみうりホール 2004/08/26
#073 「テイキング・ライブス」ヤクルトホール 2004/08/27
#074 「シークレット・ウインドウ」イイノホール 2004/08/28
#075 「アイ、ロボット」イイノホール 2004/08/29
#076 「ターンレフト ターンライト」イイノホール 2004/08/29
#077 「ニュースの天才」イイノホール 2004/08/29
#078 「マイ・ボディガード」イイノホール 2004/08/31
#079 「トゥー・ブラザーズ」イイノホール 2004/08/31
2.DVD、CATV等
#112 「カウボーイ・ビバップ/天国の扉」DVD 2004/08/01
#113 「メトロポリス」CATV 2004/08/02
#114 「ハイ・フィデリティ」HDD 2004/08/02
#115 「王立宇宙軍 オネアミスの翼」CATV 2004/08/03
#116 「Mr.ディーズ」CATV 2004/08/03
#117 「マスター・アンド・コマンダー」DVD 2004/08/07
#118 「工場地帯(短編)」HDD 2004/08/08
#119 「アダプテーション」CATV 2004/08/11
#120 「ルパン三世 カリオストロの城」DVD 2004/08/12
#121 「天空の城ラピュタ」VTR 2004/08/12
#122 「レッド・ドラゴン」CATV 2004/08/13
#123 「キューティーガール 美少女ボウラー危機一発」CATV 2004/08/13
#124 「サクラ大戦 活動写真」HDD 2004/08/16
#125 「不思議の国のアリス」CATV 2004/08/20
#126 「ハード・デイズ・ナイト」CATV 2004/08/20
#127 「28日後」DVD 2004/08/22
#128 「ウェイキング・ライフ」DVD 2004/08/25
3.読書
#023 「幸運の25セント硬貨」スティーヴン・キング著 浅倉久志他訳 新潮文庫 2004/08/04
#024 「ザ・スタンド(IV)」スティーヴン・キング著 深町眞理子訳 文春文庫 2004/08/16
#025 「ザ・スタンド(V)」スティーヴン・キング著 深町眞理子訳 文春文庫 2004/08/28
映画は、劇場17本(累計79本)、DVD等17本(累計128本)で、計34本(累計207本)。
このままのペースで、年間311本(劇場119本)です。
読書は3冊(累計25冊)で、このままのペースでは、年間38冊です。
映画はともかく、読書の状況は厳しいです。
先は長いですが頑張ります。
※ 参考 昨年同時期の状況
映画 206本(劇場53本)
読書 38冊
とりあえず目標の再確認を・・・・
目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」
1.映画
#063 「スウィングガールズ」イイノホール 2004/08/04
#064 「ヴァン・ヘルシング」東京国際フォーラムAホール 2004/08/05
#065 「スパイダーマン2」日劇1 2004/08/13
#066 「NIN・NIN忍者ハットリくんTHE MOVIE」よみうりホール 2004/08/14
#067 「ワー!マイキー リターンズ!」東京都写真美術館ホール 2004/08/15
#068 「華氏911」恵比寿ガーデンシネマ 2004/08/15
#069 「ジーリ」ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント試写室 2004/08/21
#070 「バイオハザードII アポカリプス」丸の内ピカデリー1 2004/08/23
#071 「コード46」銀座ガスホール 2004/08/24
#072 「愛の落日」よみうりホール 2004/08/26
#073 「テイキング・ライブス」ヤクルトホール 2004/08/27
#074 「シークレット・ウインドウ」イイノホール 2004/08/28
#075 「アイ、ロボット」イイノホール 2004/08/29
#076 「ターンレフト ターンライト」イイノホール 2004/08/29
#077 「ニュースの天才」イイノホール 2004/08/29
#078 「マイ・ボディガード」イイノホール 2004/08/31
#079 「トゥー・ブラザーズ」イイノホール 2004/08/31
2.DVD、CATV等
#112 「カウボーイ・ビバップ/天国の扉」DVD 2004/08/01
#113 「メトロポリス」CATV 2004/08/02
#114 「ハイ・フィデリティ」HDD 2004/08/02
#115 「王立宇宙軍 オネアミスの翼」CATV 2004/08/03
#116 「Mr.ディーズ」CATV 2004/08/03
#117 「マスター・アンド・コマンダー」DVD 2004/08/07
#118 「工場地帯(短編)」HDD 2004/08/08
#119 「アダプテーション」CATV 2004/08/11
#120 「ルパン三世 カリオストロの城」DVD 2004/08/12
#121 「天空の城ラピュタ」VTR 2004/08/12
#122 「レッド・ドラゴン」CATV 2004/08/13
#123 「キューティーガール 美少女ボウラー危機一発」CATV 2004/08/13
#124 「サクラ大戦 活動写真」HDD 2004/08/16
#125 「不思議の国のアリス」CATV 2004/08/20
#126 「ハード・デイズ・ナイト」CATV 2004/08/20
#127 「28日後」DVD 2004/08/22
#128 「ウェイキング・ライフ」DVD 2004/08/25
3.読書
#023 「幸運の25セント硬貨」スティーヴン・キング著 浅倉久志他訳 新潮文庫 2004/08/04
#024 「ザ・スタンド(IV)」スティーヴン・キング著 深町眞理子訳 文春文庫 2004/08/16
#025 「ザ・スタンド(V)」スティーヴン・キング著 深町眞理子訳 文春文庫 2004/08/28
映画は、劇場17本(累計79本)、DVD等17本(累計128本)で、計34本(累計207本)。
このままのペースで、年間311本(劇場119本)です。
読書は3冊(累計25冊)で、このままのペースでは、年間38冊です。
映画はともかく、読書の状況は厳しいです。
先は長いですが頑張ります。
※ 参考 昨年同時期の状況
映画 206本(劇場53本)
読書 38冊
「トゥー・ブラザーズ」
2004年8月31日 映画
2004/08/31 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されている「GTF2004 トーキョーシネマショー」でジャン=ジャック・アノーの新作「トゥー・ブラザーズ」の試写を観た。
1920年代のカンボジア/アンコール遺跡。
ジャングルの奥地、荒れ果てた寺院跡で2頭のトラが生まれた。兄のクマルは元気な暴れん坊で、弟のサンガはおとなしい性格だった。仲のいい2頭は一緒にすくすくと育ってゆく。
そんなある日、著名なイギリス人冒険家エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)が仏像盗掘のためアンコール遺跡を訪れた。
マクロリーは、仏像盗掘の最中、突然姿を現わし人を襲った親トラ1頭を撃ち殺してしまう。
これが原因となり、やんちゃなクマルはマクロリーに、おとなしいサンガは行政長官ユージン・ノルマンダン(ジャン=クロード・ドレフュス)の息子ラウール(フレディー・ハイモア)の遊び相手として引き取られて行くのだったが・・・・。
監督:ジャン=ジャック・アノー
出演:ガイ・ピアース、ジャン=クロード・ドレフュス、フィリピーヌ・ルロワ=ボリュー、フレディー・ハイモア、マイ・アン・レー、ムーサ・マースクリ、ヴァンサン・スカリート
本作「トゥー・ブラザーズ」は、わたしがジャン=ジャック・アノーに期待したような作品ではなく、子供たちにも安心して見せられる良質なファミリー・ムービーだった。
いわば、ディズニー映画のようなテイストを持った作品である。
しかし、わたしが予告編を観て本作に期待していたのは、厳しい弱肉強食の大自然界の中、人間のエゴで飼い馴らされてしまう二頭のトラに降りかかる悲劇を、エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)とラウール(フレディー・ハイモア)の二つの視点で描き、それがラストで交差する。と言うもので、ともすれば、「子鹿物語」(1947)や「二十日鼠と人間」的な終焉を迎える悲劇的な映画を期待していた訳である。
しかし、だからと言って作品自体がつまらないか、と言うとそうでもなく、(尤もシーンの転換が唐突で、長大な作品のダイジェスト版のような印象を受ける事は否定できないが、)前述のように楽しいファミリー・ムービーに仕上がっている。
特筆すべき点はトラの演技である。部分的にフレームの外で強制的に演技させている部分や「にせもののトラ(アニマトロニクス)」が見え隠れするが、トラの演技は自然で、どうやってこんなシークエンスを破綻なく撮ったんだ、と思えるシーンの続出である。
聞くところによると、これはトラが、シーンに合った動きをするまで気長に待ち続ける、と言う手法だった、と言う事であるから、気の遠くなるような撮影作業である。
セットではなく、ほとんどがロケの作品で、こういった手法で撮影するとは、驚きを禁じえないのである。
脚本は、ファミリー・ムービーと言うことで、自然界の弱肉強食的残酷描写もなく、かわいいトラと楽しい物語、というものだが、唯一「人間のエゴの責任をとらなければならない」とマクロリーがラウールを諭す場面が秀逸である。
いわばマクロリーとラウールの演技合戦になっているのだ。
そして、このシーンを突き詰めていくと「子鹿物語」(1947)的結末に至る訳である。
またトラの親子を地元の知事(=土候の息子/貴族?)親子のメタファーとして絡めたあたりも良い印象を受けた。
キャストは、ガイ・ピアースにしろ、フレディー・ハイモアにしろ、完全にトラに食われているような印象を受ける。
勿論、ラウール少年を演じたフレディー・ハイモアには感心させられるし、ガイ・ピアースら大人のキャストもそれぞれ自分の仕事をきちんとこなしている。
しかし、やはりトラなのだ。
音楽は、若干オーバー・スコアで、トラのかわいさを前面に押し出しすぎているような印象を受けた。
本作「トゥー・ブラザーズ」は、大自然の厳しさ、弱肉強食、食物連鎖、人間のエゴ、環境破壊等のハードな部分を期待する方には、残念ながら期待はずれといわざるを得ないが、この秋家族団欒で映画体験をするには、ちょうど良い良質なファミリー・ムービーなのだ。
しかし、ファミリー・ムービーであり、子供向けの作品であるからこそ、自然界ではトラがどうやって獲物を取るのか、人間のエゴで飼いならされてしまった猛獣はどうなるのか、そういったところを描いて欲しかったのである。
ジャン=ジャック・アノーは一体、どこを目指しているのであろうか。
余談だが「メメント」のガイ・ピアースへのセルフ・オマージュも楽しいものだった。
また「ジュラシック・パーク」へのオマージュもあった。
1920年代のカンボジア/アンコール遺跡。
ジャングルの奥地、荒れ果てた寺院跡で2頭のトラが生まれた。兄のクマルは元気な暴れん坊で、弟のサンガはおとなしい性格だった。仲のいい2頭は一緒にすくすくと育ってゆく。
そんなある日、著名なイギリス人冒険家エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)が仏像盗掘のためアンコール遺跡を訪れた。
マクロリーは、仏像盗掘の最中、突然姿を現わし人を襲った親トラ1頭を撃ち殺してしまう。
これが原因となり、やんちゃなクマルはマクロリーに、おとなしいサンガは行政長官ユージン・ノルマンダン(ジャン=クロード・ドレフュス)の息子ラウール(フレディー・ハイモア)の遊び相手として引き取られて行くのだったが・・・・。
監督:ジャン=ジャック・アノー
出演:ガイ・ピアース、ジャン=クロード・ドレフュス、フィリピーヌ・ルロワ=ボリュー、フレディー・ハイモア、マイ・アン・レー、ムーサ・マースクリ、ヴァンサン・スカリート
本作「トゥー・ブラザーズ」は、わたしがジャン=ジャック・アノーに期待したような作品ではなく、子供たちにも安心して見せられる良質なファミリー・ムービーだった。
いわば、ディズニー映画のようなテイストを持った作品である。
しかし、わたしが予告編を観て本作に期待していたのは、厳しい弱肉強食の大自然界の中、人間のエゴで飼い馴らされてしまう二頭のトラに降りかかる悲劇を、エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)とラウール(フレディー・ハイモア)の二つの視点で描き、それがラストで交差する。と言うもので、ともすれば、「子鹿物語」(1947)や「二十日鼠と人間」的な終焉を迎える悲劇的な映画を期待していた訳である。
しかし、だからと言って作品自体がつまらないか、と言うとそうでもなく、(尤もシーンの転換が唐突で、長大な作品のダイジェスト版のような印象を受ける事は否定できないが、)前述のように楽しいファミリー・ムービーに仕上がっている。
特筆すべき点はトラの演技である。部分的にフレームの外で強制的に演技させている部分や「にせもののトラ(アニマトロニクス)」が見え隠れするが、トラの演技は自然で、どうやってこんなシークエンスを破綻なく撮ったんだ、と思えるシーンの続出である。
聞くところによると、これはトラが、シーンに合った動きをするまで気長に待ち続ける、と言う手法だった、と言う事であるから、気の遠くなるような撮影作業である。
セットではなく、ほとんどがロケの作品で、こういった手法で撮影するとは、驚きを禁じえないのである。
脚本は、ファミリー・ムービーと言うことで、自然界の弱肉強食的残酷描写もなく、かわいいトラと楽しい物語、というものだが、唯一「人間のエゴの責任をとらなければならない」とマクロリーがラウールを諭す場面が秀逸である。
いわばマクロリーとラウールの演技合戦になっているのだ。
そして、このシーンを突き詰めていくと「子鹿物語」(1947)的結末に至る訳である。
またトラの親子を地元の知事(=土候の息子/貴族?)親子のメタファーとして絡めたあたりも良い印象を受けた。
キャストは、ガイ・ピアースにしろ、フレディー・ハイモアにしろ、完全にトラに食われているような印象を受ける。
勿論、ラウール少年を演じたフレディー・ハイモアには感心させられるし、ガイ・ピアースら大人のキャストもそれぞれ自分の仕事をきちんとこなしている。
しかし、やはりトラなのだ。
音楽は、若干オーバー・スコアで、トラのかわいさを前面に押し出しすぎているような印象を受けた。
本作「トゥー・ブラザーズ」は、大自然の厳しさ、弱肉強食、食物連鎖、人間のエゴ、環境破壊等のハードな部分を期待する方には、残念ながら期待はずれといわざるを得ないが、この秋家族団欒で映画体験をするには、ちょうど良い良質なファミリー・ムービーなのだ。
しかし、ファミリー・ムービーであり、子供向けの作品であるからこそ、自然界ではトラがどうやって獲物を取るのか、人間のエゴで飼いならされてしまった猛獣はどうなるのか、そういったところを描いて欲しかったのである。
ジャン=ジャック・アノーは一体、どこを目指しているのであろうか。
余談だが「メメント」のガイ・ピアースへのセルフ・オマージュも楽しいものだった。
また「ジュラシック・パーク」へのオマージュもあった。
2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されている「GTF2004 トーキョーシネマショー」で「ニュースの天才」の試写を観た。
1998年、アメリカ大統領専用機エア・フォース・ワンに唯一設置され、米国内で最も権威ある政治雑誌と評される「THE NEW REPUBLIC」の記者スティーブン・グラス(ヘイデン・クリステンセン)の執筆記事が捏造であることが発覚。米国メディアに大きな衝撃が走った。
ニュースを報道する側が、自ら報道される「ニュース」な存在になっていく過程をスリリングに描き出すことで浮き彫りになる、究極の「真実」。
ピュリッツァー賞受賞作家バズ・ビッシンジャーが「Vanity Fair」誌に寄稿したスティーブン・グラスの記事捏造事件の記事をもとにトム・クルーズが製作総指揮にあたった「真実探求」の問題作。
(GTF トーキョーシネマショー パンレットよりほぼ引用)
監督・脚本:ビリー・レイ
原案:バズ・ビッシンジャー(ピュリッツァー賞受賞作家)
製作総指揮:トム・クルーズ
出演:ヘイデン・クリステンセン、ピーター・サースガード、クロエ・セヴィニー、スティーヴ・ザーン、ハンク・アザリア、メラニー・リンスキー、ロザリオ・ドーソン
社会派系の作品が大好きで、マスコミの報道や発信する情報に対しては常に懐疑的なスタンスをとりながらも、孤高なマスコミの存在を期待するわたしに取って、本作「ニュースの天才」は、大変面白く大変素晴らしい作品だった。
本作「ニュースの天才」の構成は、「THE NEW REPUBLIC」誌の編集室であがくスティーブン・グラス(ヘイデン・クリステンセン)と、母校で講演を行うグラスを交互に描くことにより、学生の前で得意げに講演するグラスと、墓穴を掘り首までずっぽりはまってしまっているグラスのギャップが非常に面白い。
余談だが、グラスがあがく様は、ケヴィン・コスナーの「追いつめられて」にも匹敵するかも知れない。
自信に溢れ魅力的なグラスと、落ちぶれて藁にもすがる情けないグラス。
その両方のグラスをヘイデン・クリステンセンは見事に演じている。
「海辺の家」はともかく、「スター・ウォーズ エピソードII クローンの攻撃」でヘイデン・クリステンセンが見せる、口を半分開けたニヤニヤ笑いはなりをひそめ、グラスの両極端な側面を見事に演じ分けている。
本作はもしかするとヘイデン・クリステンセンの今後のキャリアの足がかりになるのではないだろうか、とも思うのだ。
そして前述のように、情けないグラスは、もう最高(最低)に情けなく、言うなればヘイデン・クリステンセンは、ダメ男を見事に演じ切っている、と言う訳なのだ。
最近では「トロイ」でダメ男を見事に演じたオーランド・ブルームがいたが、ヘイデン・クリステンセンのスティーブン・グラスは本当に見事な最高(最低)のダメ男なのだ。
観客がイライラするほど、もういいかげんにしろよ、もうあきらめろよ、と思うほど情けないのだ。
また興味深かったのは、「THE NEW REPUBLIC」誌の前編集長マイケル・ケリー(ハンク・アザリア)と、現編集長チャールズ・”チャック”・レーン(ピーター・サースガード)の編集長としてのスタンスの違い、上司としての部下への対応の違いである。
ケリーは、表で、部下に見えるように部下を守っていた訳だが、チャックは表では部下を厳しく叱責する一方、裏で、部下に見られないように、部下を守っていた訳だ。
どちらが上司として理想的かは諸説あるだろうが、自分の上司や部下に置き換え、その辺をみても面白いと思った。
そういった環境下で、「THE NEW REPUBLIC」誌の編集者たちは、前編集長の人柄に惹かれ、現編集長を否定する、というスタンスを取っているのが面白い。
そして、そんな状況の中、物語の後半は、チャックとグラスの二人芝居の様相を呈するのだが、そんな彼等の演技合戦も楽しい。
特にチャックの怒りのシークエンスが素晴らしい。
そして、その演技合戦に絡むクロエ・セヴィニー(ケイトリン役)も良い味を出している、グラスに同情し目が曇るが・・・・、というところが本当に格好良いのだ。
また、グラスを追いつめる「Forbes Digital Tool」の記者アダム・ベネンバーグ(スティーヴ・ザーン)とアダムの同僚アンディ・フォックス(ロザリオ・ドーソン)のコンビも面白い。
特に、アンディの、記事捏造の告発記事に自分の名前も入れてくれ、というあたりが面白いし、恐ろしくもある。
しかし、なんと言っても、前述のように正義感溢れる「THE NEW REPUBLIC」誌の現編集長チャックを演じたピーター・サースガードが素晴らしい。役柄事態も素晴らしいのだが、編集者に嫌われ、誌の行末に苦悩する孤高な編集長を見事に表現しているのだ。
そして、わたしは前述のように、マスコミに対し懐疑的なスタンスをとっている訳だが、マスコミに完全に失望している訳ではなく、チャックの真摯で孤高な生き様に感涙なのだ。
そして、ケイトリンをはじめとした「THE NEW REPUBLIC」誌の編集者たちの生き様にも感涙なのだ。
マスコミも捨てた物ではないのだね。
本作「ニュースの天才」は、「カンバセーション…盗聴…」や「大統領の陰謀」あたりと比較しても面白いかも知れない。
とにかく、マスコミに対して何らかの意見を持っている人には是非オススメだし、マスコミを目指す人、マスコミで働いている人にも是非観ていただきたい作品なのだ。
余談だが、製作総指揮のトム・クルーズのパロディも面白かった。
本作「ニュースの天才」は、イラクの取材中の事故で亡くなったマイケル・ケリーに捧げられている。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
参考になったらクリック!(人気blogランキング)
http://blog.with2.net/link.php/29604
1998年、アメリカ大統領専用機エア・フォース・ワンに唯一設置され、米国内で最も権威ある政治雑誌と評される「THE NEW REPUBLIC」の記者スティーブン・グラス(ヘイデン・クリステンセン)の執筆記事が捏造であることが発覚。米国メディアに大きな衝撃が走った。
ニュースを報道する側が、自ら報道される「ニュース」な存在になっていく過程をスリリングに描き出すことで浮き彫りになる、究極の「真実」。
ピュリッツァー賞受賞作家バズ・ビッシンジャーが「Vanity Fair」誌に寄稿したスティーブン・グラスの記事捏造事件の記事をもとにトム・クルーズが製作総指揮にあたった「真実探求」の問題作。
(GTF トーキョーシネマショー パンレットよりほぼ引用)
監督・脚本:ビリー・レイ
原案:バズ・ビッシンジャー(ピュリッツァー賞受賞作家)
製作総指揮:トム・クルーズ
出演:ヘイデン・クリステンセン、ピーター・サースガード、クロエ・セヴィニー、スティーヴ・ザーン、ハンク・アザリア、メラニー・リンスキー、ロザリオ・ドーソン
社会派系の作品が大好きで、マスコミの報道や発信する情報に対しては常に懐疑的なスタンスをとりながらも、孤高なマスコミの存在を期待するわたしに取って、本作「ニュースの天才」は、大変面白く大変素晴らしい作品だった。
本作「ニュースの天才」の構成は、「THE NEW REPUBLIC」誌の編集室であがくスティーブン・グラス(ヘイデン・クリステンセン)と、母校で講演を行うグラスを交互に描くことにより、学生の前で得意げに講演するグラスと、墓穴を掘り首までずっぽりはまってしまっているグラスのギャップが非常に面白い。
余談だが、グラスがあがく様は、ケヴィン・コスナーの「追いつめられて」にも匹敵するかも知れない。
自信に溢れ魅力的なグラスと、落ちぶれて藁にもすがる情けないグラス。
その両方のグラスをヘイデン・クリステンセンは見事に演じている。
「海辺の家」はともかく、「スター・ウォーズ エピソードII クローンの攻撃」でヘイデン・クリステンセンが見せる、口を半分開けたニヤニヤ笑いはなりをひそめ、グラスの両極端な側面を見事に演じ分けている。
本作はもしかするとヘイデン・クリステンセンの今後のキャリアの足がかりになるのではないだろうか、とも思うのだ。
そして前述のように、情けないグラスは、もう最高(最低)に情けなく、言うなればヘイデン・クリステンセンは、ダメ男を見事に演じ切っている、と言う訳なのだ。
最近では「トロイ」でダメ男を見事に演じたオーランド・ブルームがいたが、ヘイデン・クリステンセンのスティーブン・グラスは本当に見事な最高(最低)のダメ男なのだ。
観客がイライラするほど、もういいかげんにしろよ、もうあきらめろよ、と思うほど情けないのだ。
また興味深かったのは、「THE NEW REPUBLIC」誌の前編集長マイケル・ケリー(ハンク・アザリア)と、現編集長チャールズ・”チャック”・レーン(ピーター・サースガード)の編集長としてのスタンスの違い、上司としての部下への対応の違いである。
ケリーは、表で、部下に見えるように部下を守っていた訳だが、チャックは表では部下を厳しく叱責する一方、裏で、部下に見られないように、部下を守っていた訳だ。
どちらが上司として理想的かは諸説あるだろうが、自分の上司や部下に置き換え、その辺をみても面白いと思った。
そういった環境下で、「THE NEW REPUBLIC」誌の編集者たちは、前編集長の人柄に惹かれ、現編集長を否定する、というスタンスを取っているのが面白い。
そして、そんな状況の中、物語の後半は、チャックとグラスの二人芝居の様相を呈するのだが、そんな彼等の演技合戦も楽しい。
特にチャックの怒りのシークエンスが素晴らしい。
そして、その演技合戦に絡むクロエ・セヴィニー(ケイトリン役)も良い味を出している、グラスに同情し目が曇るが・・・・、というところが本当に格好良いのだ。
また、グラスを追いつめる「Forbes Digital Tool」の記者アダム・ベネンバーグ(スティーヴ・ザーン)とアダムの同僚アンディ・フォックス(ロザリオ・ドーソン)のコンビも面白い。
特に、アンディの、記事捏造の告発記事に自分の名前も入れてくれ、というあたりが面白いし、恐ろしくもある。
しかし、なんと言っても、前述のように正義感溢れる「THE NEW REPUBLIC」誌の現編集長チャックを演じたピーター・サースガードが素晴らしい。役柄事態も素晴らしいのだが、編集者に嫌われ、誌の行末に苦悩する孤高な編集長を見事に表現しているのだ。
そして、わたしは前述のように、マスコミに対し懐疑的なスタンスをとっている訳だが、マスコミに完全に失望している訳ではなく、チャックの真摯で孤高な生き様に感涙なのだ。
そして、ケイトリンをはじめとした「THE NEW REPUBLIC」誌の編集者たちの生き様にも感涙なのだ。
マスコミも捨てた物ではないのだね。
本作「ニュースの天才」は、「カンバセーション…盗聴…」や「大統領の陰謀」あたりと比較しても面白いかも知れない。
とにかく、マスコミに対して何らかの意見を持っている人には是非オススメだし、マスコミを目指す人、マスコミで働いている人にも是非観ていただきたい作品なのだ。
余談だが、製作総指揮のトム・クルーズのパロディも面白かった。
本作「ニュースの天才」は、イラクの取材中の事故で亡くなったマイケル・ケリーに捧げられている。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
参考になったらクリック!(人気blogランキング)
http://blog.with2.net/link.php/29604
「ターンレフト ターンライト」
2004年8月29日 映画 コメント (2)2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されている「GTF2004 トーキョーシネマショー」で、「ターンレフト ターンライト」の試写を観た。
ジョン・リュウ(金城武)はバイオリニスト。
ヨーロッパのオーケストラで活躍するのが夢だが、実際に入ってくる仕事はレストランのBGM係ばかり。
イブ・チョウ(ジジ・リョン)は翻訳家。
世界中の愛の詩を訳すのが夢だが、実際に入ってくる仕事はホラー小説の翻訳ばかり。
そんな二人は、実は同じアパートの、壁一枚隔てた隣同士に暮らしていた。
隣同士と言っても、二人の部屋は棟が違い、入口も違うため、お互いの存在を全く知らなかった。
ジョンは追っかけの女性を避けるため、アパートの左側へ回るのが習慣になっていた。
イブは幽霊らしきモノを見て、それ以来アパートの右側へ回るのが習慣になっていた。
しかし・・・・。
監督・製作総指揮・脚本:ジョニー・トー、ワイ・カーファイ
原作:ジミー・リャオ(原題『向左走、向右走』)
キャスト:金城武、ジジ・リョン、エドマンド・チャン、テリー・クワン
本作「ターンレフト ターンライト」は大変な拾い物であった。
勿論「拾い物」と言う表現に語弊はあるものの、実際のところわたしは、金城武が出ている、というだけで期待もせず観に行ったのだが、わたしは本作という大変素晴らしい映画との偶然の出会いに喜んでしまっている訳である。
物語は、バイオリニスト ジョン・リュウ(金城武)と翻訳家イブ・チョウ(ジジ・リョン)のしつこいまでのすれ違いを描いたコメディ映画である。
二人は公園で偶然出会い、お互いに一目惚れし、一旦は電話番号を交換するのだが、突然の雨で電話番号メモが判読不能になってしまい、隣の部屋に住んでいながら再会できない、と言うメイン・プロットに、(突然の雨により風邪をこじらせて倒れてしまう二人に出前を届け、)ジョンに恋心を抱いてしまう88食堂のルビー(テリー・クワン)と、(二人が救急車で担ぎ込まれる病院で働く、)学生時代からイブに恋心を抱いていたウー医師(エドマンド・チャン)等の、自分たちの恋を成就させるために、二人に対して行う様々な妨害工作を絡めている。
物語は前述のとおり、ベタでお約束で陳腐で前時代的な恋愛模様とも言えるが、それは逆説的に言えば普遍的で伝承物語的な、誰にでも、そしてどんな民族にでも受け入れられる普遍的な物語構成を持っているのだ。
これは「スター・ウォーズ」や様々な神話、そして聖書物語のような物語が、世界中の人々に受け入れられるように、本作「ターンレフト ターンライト」も世界中の人々に受け入れられる種類の物語だと言えよう。
尤も、本作は台湾の絵本作家ジミー・リャオのベストセラー絵本が基になっているのだが、その点もそれを裏付している、と言えるだろう。
キャストは先ず金城武だが、以前から言われているように、日本語で喋ると大根役者だが、日本語以外の言語で喋ると演技に余裕と抑揚が出て良い、という印象を再確認できた。
そしてジジ・リョンだが、大変かわいらしく、ちょっと間抜なヒロインを見事に演じている。
今後が楽しみな女優の一人である。
一方、テリー・クワンは二人の恋路を邪魔する88食堂のルビー役なのだが、憎々しいながらもかわいらしい女性を見事に演じている。非常に自分に素直で良い役である。
また、エドマンド・チャン演じる、これまた二人の恋路を邪魔するウー医師だが、最早ストーカーまがいの行動に若干観客は引き気味だが、その直情的な求愛行動は、おかしくもあり悲しくもある。
しかしエドマンド・チャンにしろ、テリー・クワンにしろ存在感は抜群で、下手をするとこの二人がこの映画の主役だと言っても良い程である。
また脚本的には、ベタで直球勝負なのだが、韓国映画にしろ香港映画にしろ、アジア映画の特色なのか、過去のある時点の出来事を大きな伏線に生かす作品が多いのだが、本作もやはり過去のある時点の出来事を大きな伏線として生かし、普遍的な物語をより運命的な物語に昇華する事に成功している。
更に、二人の境遇をそれぞれ二回ずつ描写する手法は、時として物語のスピードを殺し、物語のテンポを台無しにしてしまう場合があるが、本作では二人の境遇をそれぞれ二回ずつ描写する手法を観客が心待ちにする程、素晴らしい構成になっている。
わたしの結論としては、本作「ターンレフト ターンライト」は、観客を幸せな気分にさせてくれる種類の作品であり、この秋絶対オススメの一本だと言えるのだ。
おそらく「猟奇的な彼女」を観た際と同じような幸せな気分を味わえると思うのだ。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
ジョン・リュウ(金城武)はバイオリニスト。
ヨーロッパのオーケストラで活躍するのが夢だが、実際に入ってくる仕事はレストランのBGM係ばかり。
イブ・チョウ(ジジ・リョン)は翻訳家。
世界中の愛の詩を訳すのが夢だが、実際に入ってくる仕事はホラー小説の翻訳ばかり。
そんな二人は、実は同じアパートの、壁一枚隔てた隣同士に暮らしていた。
隣同士と言っても、二人の部屋は棟が違い、入口も違うため、お互いの存在を全く知らなかった。
ジョンは追っかけの女性を避けるため、アパートの左側へ回るのが習慣になっていた。
イブは幽霊らしきモノを見て、それ以来アパートの右側へ回るのが習慣になっていた。
しかし・・・・。
監督・製作総指揮・脚本:ジョニー・トー、ワイ・カーファイ
原作:ジミー・リャオ(原題『向左走、向右走』)
キャスト:金城武、ジジ・リョン、エドマンド・チャン、テリー・クワン
本作「ターンレフト ターンライト」は大変な拾い物であった。
勿論「拾い物」と言う表現に語弊はあるものの、実際のところわたしは、金城武が出ている、というだけで期待もせず観に行ったのだが、わたしは本作という大変素晴らしい映画との偶然の出会いに喜んでしまっている訳である。
物語は、バイオリニスト ジョン・リュウ(金城武)と翻訳家イブ・チョウ(ジジ・リョン)のしつこいまでのすれ違いを描いたコメディ映画である。
二人は公園で偶然出会い、お互いに一目惚れし、一旦は電話番号を交換するのだが、突然の雨で電話番号メモが判読不能になってしまい、隣の部屋に住んでいながら再会できない、と言うメイン・プロットに、(突然の雨により風邪をこじらせて倒れてしまう二人に出前を届け、)ジョンに恋心を抱いてしまう88食堂のルビー(テリー・クワン)と、(二人が救急車で担ぎ込まれる病院で働く、)学生時代からイブに恋心を抱いていたウー医師(エドマンド・チャン)等の、自分たちの恋を成就させるために、二人に対して行う様々な妨害工作を絡めている。
物語は前述のとおり、ベタでお約束で陳腐で前時代的な恋愛模様とも言えるが、それは逆説的に言えば普遍的で伝承物語的な、誰にでも、そしてどんな民族にでも受け入れられる普遍的な物語構成を持っているのだ。
これは「スター・ウォーズ」や様々な神話、そして聖書物語のような物語が、世界中の人々に受け入れられるように、本作「ターンレフト ターンライト」も世界中の人々に受け入れられる種類の物語だと言えよう。
尤も、本作は台湾の絵本作家ジミー・リャオのベストセラー絵本が基になっているのだが、その点もそれを裏付している、と言えるだろう。
キャストは先ず金城武だが、以前から言われているように、日本語で喋ると大根役者だが、日本語以外の言語で喋ると演技に余裕と抑揚が出て良い、という印象を再確認できた。
そしてジジ・リョンだが、大変かわいらしく、ちょっと間抜なヒロインを見事に演じている。
今後が楽しみな女優の一人である。
一方、テリー・クワンは二人の恋路を邪魔する88食堂のルビー役なのだが、憎々しいながらもかわいらしい女性を見事に演じている。非常に自分に素直で良い役である。
また、エドマンド・チャン演じる、これまた二人の恋路を邪魔するウー医師だが、最早ストーカーまがいの行動に若干観客は引き気味だが、その直情的な求愛行動は、おかしくもあり悲しくもある。
しかしエドマンド・チャンにしろ、テリー・クワンにしろ存在感は抜群で、下手をするとこの二人がこの映画の主役だと言っても良い程である。
また脚本的には、ベタで直球勝負なのだが、韓国映画にしろ香港映画にしろ、アジア映画の特色なのか、過去のある時点の出来事を大きな伏線に生かす作品が多いのだが、本作もやはり過去のある時点の出来事を大きな伏線として生かし、普遍的な物語をより運命的な物語に昇華する事に成功している。
更に、二人の境遇をそれぞれ二回ずつ描写する手法は、時として物語のスピードを殺し、物語のテンポを台無しにしてしまう場合があるが、本作では二人の境遇をそれぞれ二回ずつ描写する手法を観客が心待ちにする程、素晴らしい構成になっている。
わたしの結論としては、本作「ターンレフト ターンライト」は、観客を幸せな気分にさせてくれる種類の作品であり、この秋絶対オススメの一本だと言えるのだ。
おそらく「猟奇的な彼女」を観た際と同じような幸せな気分を味わえると思うのだ。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったら、クリック!(現在のランキングがわかります)
http://blog.with2.net/link.php?29604
「GTF 2004 トーキョーシネマショー」
2004年8月28日 映画本日28日から、2004年秋以降に日本公開となる大作、話題作12本を一挙上映する「GTF 2004 トーキョーシネマショー」がスタートしました。
会期:2004/08/28〜2004/09/02
会場:東京内幸町 イイノホール
試写作品
「シークレット・ウインドウ」 ○
「アラモ」
「砂と霧の家」
「アイ、ロボット」 ○
「ターンレフト ターンライト」 ○
「ニュースの天才」 ○
「ヘルボーイ」
「ツイステッド」
「マイ・ボディガード」 ○
「トゥー・ブラザーズ」 ○
「TUBE/チューブ」
「オールド・ボーイ」 ○
※ ○は観る予定の作品。
地獄、いや天国のような日々です。
でも、わたし的には、身体が持つか心配です。
あぁ、元気な状態で「オールド・ボーイ」が観たい。
「GTF 2004 トーキョーシネマショー」
http://www.gtf04.com/pc/movie/01.html
会期:2004/08/28〜2004/09/02
会場:東京内幸町 イイノホール
試写作品
「シークレット・ウインドウ」 ○
「アラモ」
「砂と霧の家」
「アイ、ロボット」 ○
「ターンレフト ターンライト」 ○
「ニュースの天才」 ○
「ヘルボーイ」
「ツイステッド」
「マイ・ボディガード」 ○
「トゥー・ブラザーズ」 ○
「TUBE/チューブ」
「オールド・ボーイ」 ○
※ ○は観る予定の作品。
地獄、いや天国のような日々です。
でも、わたし的には、身体が持つか心配です。
あぁ、元気な状態で「オールド・ボーイ」が観たい。
「GTF 2004 トーキョーシネマショー」
http://www.gtf04.com/pc/movie/01.html
「テイキングライブス」
2004年8月27日 映画
2004/08/27 東京新橋ヤクルトホールで「テイキング・ライブス」の試写を観た。
1983年、カナダ。
マーティン・アッシャーという1人の少年が家を出た。
数日後、母親(ジーナ・ローランズ)の元に彼が交通事故で死亡した、という知らせが届く。
そして、現在。
絞殺の上、両腕を切断され白骨化が進んだ死体が工事現場で発見される。
広域猟奇殺人の可能性を疑ったモントリオール警察のレクレア警部(チェッキー・カリョ)は、FBIに捜査協力を要請、派遣された特別捜査官イリアナ・スコット(アンジェリーナ・ジョリー)は、限られた情報から犯人像を分析するプロファイルの天才だった。
イリアナは到着早々プロファイルを開始し、捜査は少しずつ進展をみせ始めるが、そんな矢先、新たな殺人事件が起きる。
しかし今度の事件には犯人と直面した目撃者コスタ(イーサン・ホーク)がいたのだが・・・・。
監督はD・J・カルーソー
出演はアンジェリーナ・ジョリー、イーサン・ホーク、キーファー・サザーランド、ジーナ・ローランズ、オリヴィエ・マルティネス、チェッキー・カリョ、ジャン=ユーグ・アングラード、ポール・ダノ他
本作はトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」に代表されるサイコキラーとプロファイラーが活躍する物語である。
しかし、「羊たちの沈黙」以来多くのサイコキラーもの、プロファイルものの作品が製作され、現在ではサイコキラーにしろプロファイラーにしろ、最早手垢のついた感のある題材である、と言わざるを得ない。
そして、こういった作品に付き物である「意外性がある犯人」と言っても、現代の観客は余程の事が無い限り、余程の意外性が無い限り、驚かないような状態になっている、と言えるのだ。
そんな中、本作「テイキングライブス」は、最早手垢がついた題材であるサイコキラーとプロファイラーを題材とし、意外な犯人探しが楽しめる作品として製作された訳なのだ。
言うならば、四面楚歌的な状況の中で製作された作品、と言うことなのである。
そして、その天才プロファイラーを演じるのはアンジェリーナ・ジョリー、従来は比較的アクション指数の高い娯楽作品のヒロインを得意としていたのだが、本作では今までに無い知的な役柄を演じている。
おそらく女優としての新たな一面の模索図ったものだと思うし、場合によっては、女性天才プロファイラーを主人公としたシリーズ化の構想もあったかも知れない。
そのアンジェリーナ・ジョリーが演じた特別捜査官イリアナ・スコットの役柄は、ハンニバル・レクター博士より落ちるが、頭が良く、クラリス・スターリングくらいに美しく、ララ・クロフトくらいに強い、という際立ったキャラクターとして描かれている。
そして本作「テイキングライブス」のサイコキラーは、誰かを殺し、相手の人生そのものを乗っ取り(=テイキング・ライブス)、そして、その相手の人生に飽きたら次の獲物を探し殺し乗っ取り、それを現在まで十年以上も続けている訳なのである。
さて、本作「テイキングライブス」だが、可も無い不可も無い、水準通りの普通のサイコキラー&プロファイラーものだと言えよう。
残念ながら取り立てて、ここが凄いとか、どこが凄い、と言ったところは無いのだが、主要キャラクターが脚本上きちんと立っており好感が持てた。
特にアンジェリーナ・ジョリーとイーサン・ホークが良かった。
シリーズ構成を考えると脚本的に問題は無い訳ではないが、アンジェリーナ・ジョリーが演じる特別捜査官イリアナ・スコットの成長物語とか、特別捜査官イリアナ・スコット登場編としては大変面白い作品に仕上がっているのではないだろうか。
また、脇を固める警察陣を演じたチェッキー・カリョ(レクレア警部)、オリヴィエ・マルティネス(パーケット刑事)、ジャン=ユーグ・アングラード(デュバル刑事)もそれぞれ良い味を出している。
直情的な刑事と理性的な刑事のコンビだとか、物分りは良いが部下に厳しい上司だとか、若干ステレオタイプ的な感が強いが、存在感は充分であった。
また、キーファー・サザーランドだが、おそらく多くの観客も予想していると思うのだが、比較的上手い使い方をされていた。
結果的に本作は、決して娯楽大作では無いが、小粒でピリリと辛い、こ小気味いい作品に仕上がっている。
強い女性、恐い女性を見たければ是非オススメの一本なのだ。
観客に対する目配せ的伏線も多々あるので、謎解きファンにもオススメの一本だと言えよう。
しかし、わかりやすい伏線が多く、謎解きも比較的簡単なので、コアな謎解きファンにはすすめられないかも知れない。
もしかすると本作は、謎解きより、サイコキラーのステレオタイプ的な室内や、初心者向けのプロファイルの過程、アクションやショック描写を本来は楽しむ作品なのかも知れない。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったらクリック!
http://blog.with2.net/link.php/29604
1983年、カナダ。
マーティン・アッシャーという1人の少年が家を出た。
数日後、母親(ジーナ・ローランズ)の元に彼が交通事故で死亡した、という知らせが届く。
そして、現在。
絞殺の上、両腕を切断され白骨化が進んだ死体が工事現場で発見される。
広域猟奇殺人の可能性を疑ったモントリオール警察のレクレア警部(チェッキー・カリョ)は、FBIに捜査協力を要請、派遣された特別捜査官イリアナ・スコット(アンジェリーナ・ジョリー)は、限られた情報から犯人像を分析するプロファイルの天才だった。
イリアナは到着早々プロファイルを開始し、捜査は少しずつ進展をみせ始めるが、そんな矢先、新たな殺人事件が起きる。
しかし今度の事件には犯人と直面した目撃者コスタ(イーサン・ホーク)がいたのだが・・・・。
監督はD・J・カルーソー
出演はアンジェリーナ・ジョリー、イーサン・ホーク、キーファー・サザーランド、ジーナ・ローランズ、オリヴィエ・マルティネス、チェッキー・カリョ、ジャン=ユーグ・アングラード、ポール・ダノ他
本作はトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」に代表されるサイコキラーとプロファイラーが活躍する物語である。
しかし、「羊たちの沈黙」以来多くのサイコキラーもの、プロファイルものの作品が製作され、現在ではサイコキラーにしろプロファイラーにしろ、最早手垢のついた感のある題材である、と言わざるを得ない。
そして、こういった作品に付き物である「意外性がある犯人」と言っても、現代の観客は余程の事が無い限り、余程の意外性が無い限り、驚かないような状態になっている、と言えるのだ。
そんな中、本作「テイキングライブス」は、最早手垢がついた題材であるサイコキラーとプロファイラーを題材とし、意外な犯人探しが楽しめる作品として製作された訳なのだ。
言うならば、四面楚歌的な状況の中で製作された作品、と言うことなのである。
そして、その天才プロファイラーを演じるのはアンジェリーナ・ジョリー、従来は比較的アクション指数の高い娯楽作品のヒロインを得意としていたのだが、本作では今までに無い知的な役柄を演じている。
おそらく女優としての新たな一面の模索図ったものだと思うし、場合によっては、女性天才プロファイラーを主人公としたシリーズ化の構想もあったかも知れない。
そのアンジェリーナ・ジョリーが演じた特別捜査官イリアナ・スコットの役柄は、ハンニバル・レクター博士より落ちるが、頭が良く、クラリス・スターリングくらいに美しく、ララ・クロフトくらいに強い、という際立ったキャラクターとして描かれている。
そして本作「テイキングライブス」のサイコキラーは、誰かを殺し、相手の人生そのものを乗っ取り(=テイキング・ライブス)、そして、その相手の人生に飽きたら次の獲物を探し殺し乗っ取り、それを現在まで十年以上も続けている訳なのである。
さて、本作「テイキングライブス」だが、可も無い不可も無い、水準通りの普通のサイコキラー&プロファイラーものだと言えよう。
残念ながら取り立てて、ここが凄いとか、どこが凄い、と言ったところは無いのだが、主要キャラクターが脚本上きちんと立っており好感が持てた。
特にアンジェリーナ・ジョリーとイーサン・ホークが良かった。
シリーズ構成を考えると脚本的に問題は無い訳ではないが、アンジェリーナ・ジョリーが演じる特別捜査官イリアナ・スコットの成長物語とか、特別捜査官イリアナ・スコット登場編としては大変面白い作品に仕上がっているのではないだろうか。
また、脇を固める警察陣を演じたチェッキー・カリョ(レクレア警部)、オリヴィエ・マルティネス(パーケット刑事)、ジャン=ユーグ・アングラード(デュバル刑事)もそれぞれ良い味を出している。
直情的な刑事と理性的な刑事のコンビだとか、物分りは良いが部下に厳しい上司だとか、若干ステレオタイプ的な感が強いが、存在感は充分であった。
また、キーファー・サザーランドだが、おそらく多くの観客も予想していると思うのだが、比較的上手い使い方をされていた。
結果的に本作は、決して娯楽大作では無いが、小粒でピリリと辛い、こ小気味いい作品に仕上がっている。
強い女性、恐い女性を見たければ是非オススメの一本なのだ。
観客に対する目配せ的伏線も多々あるので、謎解きファンにもオススメの一本だと言えよう。
しかし、わかりやすい伏線が多く、謎解きも比較的簡単なので、コアな謎解きファンにはすすめられないかも知れない。
もしかすると本作は、謎解きより、サイコキラーのステレオタイプ的な室内や、初心者向けのプロファイルの過程、アクションやショック描写を本来は楽しむ作品なのかも知れない。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったらクリック!
http://blog.with2.net/link.php/29604
2004/08/26 東京有楽町よみうりホールで「愛の落日」の試写を観た。
1952年、独立解放戦線と政府との争いが激化するフランス占領下ベトナムの首都サイゴン。
ロンドン・タイムズの特派員である初老の男トーマス・ファウラー(マイケル・ケイン)は、ロンドンに妻子がいながら、愛人の若く美しいベトナム人女性フォング(ドー・ハイ・イエン)と、サイゴンで幸せな日々を送っていた。
ある時、アメリカの援助団体に属する青年医師アルデン・パイル(ブレンダン・フレイザー)と知り合ったファウラーは、物静かで真摯なパイルに好感を持ち、交流を始める。
お互いを尊敬し尊重しながら友人関係を育んでゆく彼らだったが、ファウラーからフォングを紹介されたパイルは彼女に恋をしてしまう。
やがてフォングをめぐって、ファウラーとパイルの間に微妙な亀裂が生じてゆく。
そして・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督はフィリップ・ノイス
撮影はクリストファー・ドイル
出演はマイケル・ケイン、ブレンダン・フレイザー、ドー・ハイ・イエン、レイド・セルベッジア、ツィ・マー、ロバート・スタントン、ホームズ・オズボーン等
この秋、是非オススメの一本である。
とは言うものの、本作「愛の落日」の表の顔は、ファウラー(マイケル・ケイン)、フォング(ドー・ハイ・イエン)、パイル(ブレンダン・フレイザー)という3人の恋愛模様と痴情のもつれを、ベトナム戦争前夜を舞台に描いた、ありがちと言っても良い物語である。
しかし、本作「愛の落日」の裏の顔は、1952年当時のフランス占領下にあるベトナムに対し、アメリカが軍事介入する経緯をフィクションとして描き、観客に対しある種の疑問を投げかけている、と考えられるような構成を持っているのだ。
そう考えた場合、例のファウラー、フォング、パイル等の痴情のもつれは、「愛の落日」の裏の顔(真の顔)を覆い隠すカモフラージュに過ぎないかも知れないのだ。
そして製作者サイドが観客に投げかける、その疑問だが、それを考える前にこの映画の背景を考える必要がある。
本作「愛の落日」は、グレアム・グリーンの時代風刺を痛烈に盛り込んだ名作「おとなしいアメリカ人」(1955年)を映画化したものである。
そして偶然か必然なのか、2001年9月11日の同時多発テロが発生、この映画の社会的テーマ性から全米公開が延期となり、いくつかの映画祭や限定上映はあったものの、北米拡大ロードショーは翌2002年2月にずれ込んだ訳である。
皮肉なことに、このように全米公開が延期されたため、本作が観客に投げかける疑問は、より一層明確になってきた感が否めないのだ。
『ベトナム戦争前夜にアメリカはこんな事をしていたが、イラク侵攻前夜のアメリカは一体何をしていたのか』と。
偶然か必然なのかわからないが、恐ろしくシニカルな状況にこの映画は置かれてしまった訳なのだ。
そして今秋、本作「愛の落日」が日本公開となるのだが、この映画の公開は、観る人によっては、マイケル・ムーアの「華氏911」への援護射撃的側面を持つ作品と捉えられる事になる、と思われるのだ。
『ベトナムではこうだったが、イラクではどうだったんだ』と。
この映画に関心があるのならば、「愛の落日」は痴情のもつれを描いたラヴ・ストーリーではなく、政治的背景を持ち観客に疑問を投げかける作品として観て欲しいとわたしは思うのだ。
あともうひとつ、二人の男性に翻弄されるファングは何を象徴しているのかを、何のメタファーなのかを考えていただきたいと思う。
そして勿論、ファウラーとパイルが何を象徴しているのかをも、同時に考えていただきたいと思うのだ。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
ところで、キャストだが、先ずマイケル・ケインの起用が素晴らしい。
何故素晴らしいかは現段階では詳細に書けないが、マイケル・ケインの映画的記憶を見事に利用した素晴らしいキャスティングと言わざるを得ないのだ。
一方、ブレンダン・フレイザーだが、彼はホラーやコメディ、青春モノを経て「ハムナプトラ」シリーズでブレイクした訳だが、本作を見ると文芸系作品もこなせる良い俳優にやっとなって来たかなと思え、今後のキャリアを考えた場合、つまならいCGIアクション娯楽作品のような映画ではなく、本作のような、しっとりとしていながら「何か」を持っている役柄を演じて欲しいと思ってしまう。
ヒロイン役のドー・ハイ・イエンは、なんと言っても美しく魅力的である。
おそらく西洋人が東洋人女性に憧れる部分を極限的に高めた役柄となっているのだろう。ブレンダン・フレイザー演じるパイルがいきなりフォングに惚れるのは、東洋人である日本人には一般的に理解できないかも知れないが、西洋人が東洋人女性に対して持っている憧れや何かを考えると、決してリアリティが無いわけではない、と思えるのである。
あとは、ファウラーの現地のコーディネーターを演じたツィ・マーが印象的であった。彼の孤高の生き様が格好良いのだ。
また、ヴィゴ捜査官を演じたラデ・シェルベッジアも強烈な存在感を醸し出していた。
撮影はクリストファー・ドイルだが、彼の名を一躍高めたウォン・カーウァイの作品に多く見られた手持ちカメラでブレを多用した作風ではなく、美しくきっちりと落ち着いた画面を見事に切り取っていた。
ドイルはもしかすると、東洋をソツなく撮れる、貴重な西洋人カメラマン的存在なのかも知れない。
1952年、独立解放戦線と政府との争いが激化するフランス占領下ベトナムの首都サイゴン。
ロンドン・タイムズの特派員である初老の男トーマス・ファウラー(マイケル・ケイン)は、ロンドンに妻子がいながら、愛人の若く美しいベトナム人女性フォング(ドー・ハイ・イエン)と、サイゴンで幸せな日々を送っていた。
ある時、アメリカの援助団体に属する青年医師アルデン・パイル(ブレンダン・フレイザー)と知り合ったファウラーは、物静かで真摯なパイルに好感を持ち、交流を始める。
お互いを尊敬し尊重しながら友人関係を育んでゆく彼らだったが、ファウラーからフォングを紹介されたパイルは彼女に恋をしてしまう。
やがてフォングをめぐって、ファウラーとパイルの間に微妙な亀裂が生じてゆく。
そして・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督はフィリップ・ノイス
撮影はクリストファー・ドイル
出演はマイケル・ケイン、ブレンダン・フレイザー、ドー・ハイ・イエン、レイド・セルベッジア、ツィ・マー、ロバート・スタントン、ホームズ・オズボーン等
この秋、是非オススメの一本である。
とは言うものの、本作「愛の落日」の表の顔は、ファウラー(マイケル・ケイン)、フォング(ドー・ハイ・イエン)、パイル(ブレンダン・フレイザー)という3人の恋愛模様と痴情のもつれを、ベトナム戦争前夜を舞台に描いた、ありがちと言っても良い物語である。
しかし、本作「愛の落日」の裏の顔は、1952年当時のフランス占領下にあるベトナムに対し、アメリカが軍事介入する経緯をフィクションとして描き、観客に対しある種の疑問を投げかけている、と考えられるような構成を持っているのだ。
そう考えた場合、例のファウラー、フォング、パイル等の痴情のもつれは、「愛の落日」の裏の顔(真の顔)を覆い隠すカモフラージュに過ぎないかも知れないのだ。
そして製作者サイドが観客に投げかける、その疑問だが、それを考える前にこの映画の背景を考える必要がある。
本作「愛の落日」は、グレアム・グリーンの時代風刺を痛烈に盛り込んだ名作「おとなしいアメリカ人」(1955年)を映画化したものである。
そして偶然か必然なのか、2001年9月11日の同時多発テロが発生、この映画の社会的テーマ性から全米公開が延期となり、いくつかの映画祭や限定上映はあったものの、北米拡大ロードショーは翌2002年2月にずれ込んだ訳である。
皮肉なことに、このように全米公開が延期されたため、本作が観客に投げかける疑問は、より一層明確になってきた感が否めないのだ。
『ベトナム戦争前夜にアメリカはこんな事をしていたが、イラク侵攻前夜のアメリカは一体何をしていたのか』と。
偶然か必然なのかわからないが、恐ろしくシニカルな状況にこの映画は置かれてしまった訳なのだ。
そして今秋、本作「愛の落日」が日本公開となるのだが、この映画の公開は、観る人によっては、マイケル・ムーアの「華氏911」への援護射撃的側面を持つ作品と捉えられる事になる、と思われるのだ。
『ベトナムではこうだったが、イラクではどうだったんだ』と。
この映画に関心があるのならば、「愛の落日」は痴情のもつれを描いたラヴ・ストーリーではなく、政治的背景を持ち観客に疑問を投げかける作品として観て欲しいとわたしは思うのだ。
あともうひとつ、二人の男性に翻弄されるファングは何を象徴しているのかを、何のメタファーなのかを考えていただきたいと思う。
そして勿論、ファウラーとパイルが何を象徴しているのかをも、同時に考えていただきたいと思うのだ。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
ところで、キャストだが、先ずマイケル・ケインの起用が素晴らしい。
何故素晴らしいかは現段階では詳細に書けないが、マイケル・ケインの映画的記憶を見事に利用した素晴らしいキャスティングと言わざるを得ないのだ。
一方、ブレンダン・フレイザーだが、彼はホラーやコメディ、青春モノを経て「ハムナプトラ」シリーズでブレイクした訳だが、本作を見ると文芸系作品もこなせる良い俳優にやっとなって来たかなと思え、今後のキャリアを考えた場合、つまならいCGIアクション娯楽作品のような映画ではなく、本作のような、しっとりとしていながら「何か」を持っている役柄を演じて欲しいと思ってしまう。
ヒロイン役のドー・ハイ・イエンは、なんと言っても美しく魅力的である。
おそらく西洋人が東洋人女性に憧れる部分を極限的に高めた役柄となっているのだろう。ブレンダン・フレイザー演じるパイルがいきなりフォングに惚れるのは、東洋人である日本人には一般的に理解できないかも知れないが、西洋人が東洋人女性に対して持っている憧れや何かを考えると、決してリアリティが無いわけではない、と思えるのである。
あとは、ファウラーの現地のコーディネーターを演じたツィ・マーが印象的であった。彼の孤高の生き様が格好良いのだ。
また、ヴィゴ捜査官を演じたラデ・シェルベッジアも強烈な存在感を醸し出していた。
撮影はクリストファー・ドイルだが、彼の名を一躍高めたウォン・カーウァイの作品に多く見られた手持ちカメラでブレを多用した作風ではなく、美しくきっちりと落ち着いた画面を見事に切り取っていた。
ドイルはもしかすると、東洋をソツなく撮れる、貴重な西洋人カメラマン的存在なのかも知れない。
「スチームボーイ」を弁護する その2
2004年8月25日 映画
各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
「スチームボーイ」を語る上で、考えなければならないひとつの特徴として「ユーモアの欠如」があげられるだろう。
仮に「スチームボーイ」を一般的な少年少女向け「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と捉えた場合、「ユーモアの欠如」は作品として致命的な事かも知れない。
「スチームボーイ」が一般的な作品だとすれば、おそらくコメディ・リリーフとして機能すべきである、世間知らずのお嬢さんスカーレット(スカーレット・オハラ・セントジョーンズ)や、世間知らずのお嬢さんに振り回される爺や的役柄のサイモン(アーチボルド・サイモン)も、この作品ではコメディ・リリーフの役割を全く期待されていない。
そして、デザイン的には面白い要素(笑える要素)満載のオハラ財団の蒸気機関メカも、決してコミカルな演出をされていないのだ。
物語に緩急のリズムを付け、クライマックスの緊張感を煽る意味も含めて、ユーモラスな場面を挿入し、観客の緊張を弛緩させるのは、一般的な映画の文法上必要だと考えられる。
そんな状況の中で考えなければならないのは、果たして「スチームボーイ」のような物語に「ユーモア」は本当に必要なのか、という点と、製作者が「ユーモアが欠如」した「スチームボーイ」という作品を製作した理由は何か、製作者はそれにより観客に何を訴えかけているのか、という点である。
先ず前提として「スチームボーイ」の物語は、『人類が叡智を結集して創り上げた「スチームボール」という、人類に破壊や恩恵をもたらすであろうあるモノを奪い合う物語』であり、端的に言えば『破壊兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして本作では多くの人命を奪うであろう破壊兵器の技術基盤と成りうる「スチームボール」の争奪戦を描き、その過程で、多くの人命が文字通り犠牲になっている訳である。
そして「スチームボーイ」の物語は、一部のエゴイスティックな人間や集団が、自らの行動規範に基づき自らの目的を成就するため「スチームボール」を奪い合い、結果としてその行動が多くの人々の死を誘発している、という構造を持っているのである。
これは、「スチームボーイ」とよく比較される「天空の城ラピュタ」も同様である。
「天空の城ラピュタ」の物語は、『かつて大空に恐怖の代名詞として君臨したラピュタ国の失われた技術を開放するキーとなる「飛行石」の争奪戦』が描かれており、この物語も端的に言えば『兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして「天空の城ラピュタ」で宮崎駿は、最低でも百人単位の人々の死を描く一方、コミカルでユーモラスなシークエンスを演出している。
例えば、冒頭付近の「そのシャツ誰が縫うんだろうね」のシークエンスや、タイガーモス号のキッチンでの「何か手伝おうか」のシークエンス、そしてドーラのオナラのシークエンス等、物語にリズムを付け、観客を笑わせる事を目的とした演出がなされている。
このような演出はその他の「ハード」な宮崎駿の作品には無いのである。「風の谷のナウシカ」然り、「もののけ姫」然りである。
しかし「スチームボーイ」に接した今、「天空の城ラピュタ」が多くの人々の死を描いている以上、その死者やその死者の背後にいる死者の親族たちに対し、笑いを取ることを目的とした演出は、もしかすると不謹慎な手法だったのではなかったのだろうか、と思ってしまうのである。
例えば「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に「ユーモア」描写があったらどういう印象を観客に与えるか、と言うことである。
そう考えた場合、「スチームボーイ」は従前の、多くの人々の生き死にを描きながら、平然と「笑い」のシークエンスを物語に挿入してきた作品群へのアンチテーゼとして機能しているのではないだろうか。と思えるのだ。
その場合、この「スチームボーイ」の製作者が目指している(と思われる)、作品に向き合う孤高で真摯な態度に、わたしは尊敬の念を禁じえないのだ。
これは例えフィクションと言えども、登場人物の生き死にに責任を持て、と言う事であり、物語を描く以上、人の生き死には尊厳を持って取り組め、と言う事なのである。
そして「スチームボーイ」は、従前の、人々の死を描きつつ同時に笑いを描き続けてきたある意味不謹慎な作品群への大友克洋からの訣別意志表示ではなかろうか。と思うのだ。
そして大友克洋は、「スチームボーイ」の製作過程において、ただ単に従来の手法通りに「ユーモア」を加味すれば良かったのに、わざわざ「ユーモア」を加味しなかった事に、言い換えるならば従来の価値観の破壊に拍手を贈りたいのだ。
ここまで読んできた人の中には、何考えてんだ、頭おかしいんじゃないのか、これはあくまでもフィクションだぜ、何そんなに熱くなってんだよたかが映画だぜ、と思う方もいると思います。
しかし、「スチームボーイ」は、そこまで考えさせるきっかけをわたし達に提供してくれる「ハード」な作品である。と言う事なんでしょうね。
勿論わたしにとっては、ですけど。
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
「スチームボーイ」を語る上で、考えなければならないひとつの特徴として「ユーモアの欠如」があげられるだろう。
仮に「スチームボーイ」を一般的な少年少女向け「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と捉えた場合、「ユーモアの欠如」は作品として致命的な事かも知れない。
「スチームボーイ」が一般的な作品だとすれば、おそらくコメディ・リリーフとして機能すべきである、世間知らずのお嬢さんスカーレット(スカーレット・オハラ・セントジョーンズ)や、世間知らずのお嬢さんに振り回される爺や的役柄のサイモン(アーチボルド・サイモン)も、この作品ではコメディ・リリーフの役割を全く期待されていない。
そして、デザイン的には面白い要素(笑える要素)満載のオハラ財団の蒸気機関メカも、決してコミカルな演出をされていないのだ。
物語に緩急のリズムを付け、クライマックスの緊張感を煽る意味も含めて、ユーモラスな場面を挿入し、観客の緊張を弛緩させるのは、一般的な映画の文法上必要だと考えられる。
そんな状況の中で考えなければならないのは、果たして「スチームボーイ」のような物語に「ユーモア」は本当に必要なのか、という点と、製作者が「ユーモアが欠如」した「スチームボーイ」という作品を製作した理由は何か、製作者はそれにより観客に何を訴えかけているのか、という点である。
先ず前提として「スチームボーイ」の物語は、『人類が叡智を結集して創り上げた「スチームボール」という、人類に破壊や恩恵をもたらすであろうあるモノを奪い合う物語』であり、端的に言えば『破壊兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして本作では多くの人命を奪うであろう破壊兵器の技術基盤と成りうる「スチームボール」の争奪戦を描き、その過程で、多くの人命が文字通り犠牲になっている訳である。
そして「スチームボーイ」の物語は、一部のエゴイスティックな人間や集団が、自らの行動規範に基づき自らの目的を成就するため「スチームボール」を奪い合い、結果としてその行動が多くの人々の死を誘発している、という構造を持っているのである。
これは、「スチームボーイ」とよく比較される「天空の城ラピュタ」も同様である。
「天空の城ラピュタ」の物語は、『かつて大空に恐怖の代名詞として君臨したラピュタ国の失われた技術を開放するキーとなる「飛行石」の争奪戦』が描かれており、この物語も端的に言えば『兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして「天空の城ラピュタ」で宮崎駿は、最低でも百人単位の人々の死を描く一方、コミカルでユーモラスなシークエンスを演出している。
例えば、冒頭付近の「そのシャツ誰が縫うんだろうね」のシークエンスや、タイガーモス号のキッチンでの「何か手伝おうか」のシークエンス、そしてドーラのオナラのシークエンス等、物語にリズムを付け、観客を笑わせる事を目的とした演出がなされている。
このような演出はその他の「ハード」な宮崎駿の作品には無いのである。「風の谷のナウシカ」然り、「もののけ姫」然りである。
しかし「スチームボーイ」に接した今、「天空の城ラピュタ」が多くの人々の死を描いている以上、その死者やその死者の背後にいる死者の親族たちに対し、笑いを取ることを目的とした演出は、もしかすると不謹慎な手法だったのではなかったのだろうか、と思ってしまうのである。
例えば「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に「ユーモア」描写があったらどういう印象を観客に与えるか、と言うことである。
そう考えた場合、「スチームボーイ」は従前の、多くの人々の生き死にを描きながら、平然と「笑い」のシークエンスを物語に挿入してきた作品群へのアンチテーゼとして機能しているのではないだろうか。と思えるのだ。
その場合、この「スチームボーイ」の製作者が目指している(と思われる)、作品に向き合う孤高で真摯な態度に、わたしは尊敬の念を禁じえないのだ。
これは例えフィクションと言えども、登場人物の生き死にに責任を持て、と言う事であり、物語を描く以上、人の生き死には尊厳を持って取り組め、と言う事なのである。
そして「スチームボーイ」は、従前の、人々の死を描きつつ同時に笑いを描き続けてきたある意味不謹慎な作品群への大友克洋からの訣別意志表示ではなかろうか。と思うのだ。
そして大友克洋は、「スチームボーイ」の製作過程において、ただ単に従来の手法通りに「ユーモア」を加味すれば良かったのに、わざわざ「ユーモア」を加味しなかった事に、言い換えるならば従来の価値観の破壊に拍手を贈りたいのだ。
ここまで読んできた人の中には、何考えてんだ、頭おかしいんじゃないのか、これはあくまでもフィクションだぜ、何そんなに熱くなってんだよたかが映画だぜ、と思う方もいると思います。
しかし、「スチームボーイ」は、そこまで考えさせるきっかけをわたし達に提供してくれる「ハード」な作品である。と言う事なんでしょうね。
勿論わたしにとっては、ですけど。
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2004/08/24 東京銀座 銀座ガスホールで行われた「CODE46」の試写会に行ってきた。
法規46
第1条
同じ核遺伝子を持つ者は遺伝子学的に同一でありすべて血縁と見なす。
体外受精・人工受精・クローン技術に際して同じ遺伝子間の生殖はいかなる場合も避けること。従って
1.子作りの前に遺伝子検査を義務つける。遺伝子が100%、50%、25%同一の場合、受胎は許されない。
2.計画外の妊娠は胎児を検査すること。100%、50%、25%同一の両親の場合は即中絶せねばならない。
3.両親が遺伝子の同一性を知らない場合法規46違反を避けるべく医療介入する。
4.同一性を知りながらの妊娠は法規46に違反する重大な犯罪行為である。
環境破壊と砂漠化が進む近未来。
徹底した管理社会であるこの世界は、安全が保障されている都市部(内の世界)と果てしない砂漠が続く無法地帯(外の世界)を厳格に区別している。
その世界では、一部の認められた人にのみ都市間の移動を許可するパペル(滞在許可証/現在のパスポートとビザの機能を持つカード)が発行されていた。
シアトル在住の調査員ウィリアム・ゲルド(ティム・ロビンス)は、パペルを審査・発行するスフィンクス社の依頼で、頻発する違法パペル偽造犯を突き止めるため上海のスフィンクス社を訪問した。
その世界では、人類の機能を高める各種ウィルスの服用が認可されている。
ウィリアムは短い会話を交わすだけで相手の嘘を見破る事が出来る共鳴ウィルスを服用しているため、即座に偽造パペルの犯人はマリア・ゴンザレス(サマンサ・モートン)である事を知ってしまうが・・・・。
監督はマイケル・ウィンターボトム。
出演はサマンサ・モートン、ティム・ロビンス、ジャンヌ・バリバール、オム・プリ、エシー・デイヴィス他。
私見だが、
はっきり言って最高である。
おそらく、わたしの今年のベスト5くらいには確実に顔を出す程、素晴らしい作品に思える。
何と言っても、世界観が素晴らしいのだ。
そして、脚本も(若干気に入らない部分はあるが)素晴らしいし、撮影も照明も素晴らしい、美術も素晴らしいし、そして何よりもキャストが素晴らしいのだ。
先ず世界観だが、われわれの現在の世界の延長線上に確実に存在し得るだろうと誰もが思えるほどのリアリティが感じられる世界が構築されている。
そして、この世界観は洗練されていると同時に雑多で多様化し、混沌とした社会をそして、貧富の二極分化を明確に描写している。
これは、実在のサイバー都市とも言える「上海」と、摩天楼とバラック街が共存する街「ドバイ」で行ったロケーションの効果が高いと思われる。
一言で言うなれば「ブレードランナー」で構築されたような素晴らしい世界観を、セットではなくロケーションで実現している、と言う事なのだ。
実際の構造物が醸し出すリアリティ溢れる世界観は何よりであり、ロケで実際の構造物を使用することにより、照明がより自然光に近づき、一層のリアリティの付与に成功している。
このリアリティと質感は、セットではおそらく出せないだろう。
「ブレードランナー」は勿論素晴らしい作品であり、その世界観も素晴らしいのだが、残念ながらセット撮影であるため、実在の世界と比較すると若干の違和感があり、観客を取り込む「魔法の力」が、ロケで撮影された本作と比較すると弱い、という事である。
そして、様々な新技術やギミックを「どうだ!凄いだろ!」という感じではなく、あくまでもさりげなく、あたり前のように画面に登場させる上品さが心地よい。
またこれは脚本にも関係するのだが、そういった新技術やギミックを説明しない(説明的なセリフがない)のも好感が持てる。
例えば、最近流行のCGIによる圧倒的で情報量の多いヴィジュアルで近未来を描いている「フィフス・エレメント」や「マイノリティ・リポート」のような作品の、ゴリ押しで、リアリティの無いカメラ移動や、製作者サイドの「どうだ!凄いだろ!」的描写が感じられる下品な近未来のヴィジュアルと比較すると、本作「CODE46」の、近未来のあたり前の世界の日常をあたり前に表現し、控えめだが堅牢な世界観の構築に感服してしまうのだ。
物語の骨格は、ウィリアム(ティム・ロビンス)が違法パペル偽造犯を突き止める、という所謂デテクティブ・ストーリーなのだが、決して一筋縄ではいかない、物語に仕上がっている。
先ほど世界観の構築について「ブレードランナー」を比較対象として例に挙げたが、本作「CODE46」は21世紀の新しい世代向けの「ブレードランナー」なのかも知れない。
また脚本は、所謂デテクティブ・ストーリーにタイトルでもある「法規46」というSFテイストを絡め、一般のテクノロジーとバイオ・テクノロジーが進化した社会の問題点を鋭く抉っている。
更にマリアの夢のコンセプトが秀逸で、物語にスピードとタイム・リミットから派生する危機感を与えている。
また極度の管理社会を表現する事により、貧富や身分の差が二極分化した恐ろしい世界をわかりやすく、危機感をあまり煽らない程度の描写で語っている。
次いでキャストについてだが、本作はティム・ロビンスとサマンサ・モートンの二人芝居と言っても良いほど、二人は出ずっぱりである。
ティム・ロビンスはハード・ボイルド的寡黙な探偵役を見事に演じているし、ヒロインであり、物語の語り部でもあるサマンサ・モートンも体当たりの演技を見せている。
サマンサ・モートン演じるマリアが語り部として機能しているあたりが、脚本的には、実は凄いところなのである。
とにかく、わたしが思うには本作「CODE46」は、勿論観客は選ぶと思うが、この秋注目の大穴作品だと思うのだ。
大化けするかコケるか微妙だが、本作にご関心がある方は、早めに観ることを個人的にはオススメする。
法規46
第1条
同じ核遺伝子を持つ者は遺伝子学的に同一でありすべて血縁と見なす。
体外受精・人工受精・クローン技術に際して同じ遺伝子間の生殖はいかなる場合も避けること。従って
1.子作りの前に遺伝子検査を義務つける。遺伝子が100%、50%、25%同一の場合、受胎は許されない。
2.計画外の妊娠は胎児を検査すること。100%、50%、25%同一の両親の場合は即中絶せねばならない。
3.両親が遺伝子の同一性を知らない場合法規46違反を避けるべく医療介入する。
4.同一性を知りながらの妊娠は法規46に違反する重大な犯罪行為である。
環境破壊と砂漠化が進む近未来。
徹底した管理社会であるこの世界は、安全が保障されている都市部(内の世界)と果てしない砂漠が続く無法地帯(外の世界)を厳格に区別している。
その世界では、一部の認められた人にのみ都市間の移動を許可するパペル(滞在許可証/現在のパスポートとビザの機能を持つカード)が発行されていた。
シアトル在住の調査員ウィリアム・ゲルド(ティム・ロビンス)は、パペルを審査・発行するスフィンクス社の依頼で、頻発する違法パペル偽造犯を突き止めるため上海のスフィンクス社を訪問した。
その世界では、人類の機能を高める各種ウィルスの服用が認可されている。
ウィリアムは短い会話を交わすだけで相手の嘘を見破る事が出来る共鳴ウィルスを服用しているため、即座に偽造パペルの犯人はマリア・ゴンザレス(サマンサ・モートン)である事を知ってしまうが・・・・。
監督はマイケル・ウィンターボトム。
出演はサマンサ・モートン、ティム・ロビンス、ジャンヌ・バリバール、オム・プリ、エシー・デイヴィス他。
私見だが、
はっきり言って最高である。
おそらく、わたしの今年のベスト5くらいには確実に顔を出す程、素晴らしい作品に思える。
何と言っても、世界観が素晴らしいのだ。
そして、脚本も(若干気に入らない部分はあるが)素晴らしいし、撮影も照明も素晴らしい、美術も素晴らしいし、そして何よりもキャストが素晴らしいのだ。
先ず世界観だが、われわれの現在の世界の延長線上に確実に存在し得るだろうと誰もが思えるほどのリアリティが感じられる世界が構築されている。
そして、この世界観は洗練されていると同時に雑多で多様化し、混沌とした社会をそして、貧富の二極分化を明確に描写している。
これは、実在のサイバー都市とも言える「上海」と、摩天楼とバラック街が共存する街「ドバイ」で行ったロケーションの効果が高いと思われる。
一言で言うなれば「ブレードランナー」で構築されたような素晴らしい世界観を、セットではなくロケーションで実現している、と言う事なのだ。
実際の構造物が醸し出すリアリティ溢れる世界観は何よりであり、ロケで実際の構造物を使用することにより、照明がより自然光に近づき、一層のリアリティの付与に成功している。
このリアリティと質感は、セットではおそらく出せないだろう。
「ブレードランナー」は勿論素晴らしい作品であり、その世界観も素晴らしいのだが、残念ながらセット撮影であるため、実在の世界と比較すると若干の違和感があり、観客を取り込む「魔法の力」が、ロケで撮影された本作と比較すると弱い、という事である。
そして、様々な新技術やギミックを「どうだ!凄いだろ!」という感じではなく、あくまでもさりげなく、あたり前のように画面に登場させる上品さが心地よい。
またこれは脚本にも関係するのだが、そういった新技術やギミックを説明しない(説明的なセリフがない)のも好感が持てる。
例えば、最近流行のCGIによる圧倒的で情報量の多いヴィジュアルで近未来を描いている「フィフス・エレメント」や「マイノリティ・リポート」のような作品の、ゴリ押しで、リアリティの無いカメラ移動や、製作者サイドの「どうだ!凄いだろ!」的描写が感じられる下品な近未来のヴィジュアルと比較すると、本作「CODE46」の、近未来のあたり前の世界の日常をあたり前に表現し、控えめだが堅牢な世界観の構築に感服してしまうのだ。
物語の骨格は、ウィリアム(ティム・ロビンス)が違法パペル偽造犯を突き止める、という所謂デテクティブ・ストーリーなのだが、決して一筋縄ではいかない、物語に仕上がっている。
先ほど世界観の構築について「ブレードランナー」を比較対象として例に挙げたが、本作「CODE46」は21世紀の新しい世代向けの「ブレードランナー」なのかも知れない。
また脚本は、所謂デテクティブ・ストーリーにタイトルでもある「法規46」というSFテイストを絡め、一般のテクノロジーとバイオ・テクノロジーが進化した社会の問題点を鋭く抉っている。
更にマリアの夢のコンセプトが秀逸で、物語にスピードとタイム・リミットから派生する危機感を与えている。
また極度の管理社会を表現する事により、貧富や身分の差が二極分化した恐ろしい世界をわかりやすく、危機感をあまり煽らない程度の描写で語っている。
次いでキャストについてだが、本作はティム・ロビンスとサマンサ・モートンの二人芝居と言っても良いほど、二人は出ずっぱりである。
ティム・ロビンスはハード・ボイルド的寡黙な探偵役を見事に演じているし、ヒロインであり、物語の語り部でもあるサマンサ・モートンも体当たりの演技を見せている。
サマンサ・モートン演じるマリアが語り部として機能しているあたりが、脚本的には、実は凄いところなのである。
とにかく、わたしが思うには本作「CODE46」は、勿論観客は選ぶと思うが、この秋注目の大穴作品だと思うのだ。
大化けするかコケるか微妙だが、本作にご関心がある方は、早めに観ることを個人的にはオススメする。
「バイオハザードII アポカリプス」
2004年8月23日 映画
2004/08/23 東京有楽町 丸の内ピカデリー1で行われた「バイオハザードII アポカリプス」の試写会に行ってきた。
舞台挨拶は、主演のミラ・ジョヴォヴィッチ。
巨大企業アンブレラ社の拠点があるラクーン・シティでは、一般市民が、狂ったように他の一般市民を襲い、殺害する事件が頻発していた。
これはアンブレラ社が地下研究所「ハイブ」で極秘開発していた「T−ウィルス」の感染者が引き起こしたものだった。
その「T−ウィルス」の感染者は、感染後数時間で一旦は死に至るが、「T−ウィルス」の作用で活性化し、人間を食料とみなし、本能のまま人間を際限なく襲い続けるのである。
この大混乱を沈静させるため、アンブレラ社はケイン少佐(トーマス・クレッチマン)を指揮官とする私設軍隊をラクーン・シティに展開、感染者の粛清と事態の収拾を図ったが、爆発的に増加する感染者に対処しきれず、シティを物理的に隔離し、新型バイオ・モンスター ネメシスの実験と、戦術核兵器によるシティの浄化と事件の隠蔽を画策する。
一方、シティ内に取り残された特殊部隊の女性隊員ジル・バレンタイン(シエンナ・ギロリー)、アンブレラ軍隊員カルロス・オリヴィエラ(オデッド・フェール)、一般市民L.J.(マイク・エップス)、ローカル局レポーター テリ・モラレス(サンドリーヌ・ホルト)等は、シティからの脱出方法と引き換えにシティ内に残されたアンジェラ(ソフィー・ヴァヴァサー)の救出を<市外から公衆電話で接触してきた、アンジェラの父で「T−ウィルス」の開発者アシュフォード博士(ジャレッド・ハリス)に持ちかけられる。
その頃、アンブレラ社の地下研究所「ハイブ」から辛くも逃げ延びた(「バイオハザード」事件)アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、強制的に収容されていた病院で36時間の昏睡状態から目覚め、ラクーン・シティの様子が一変している事に愕然とする。
監督は撮影あがりで本作が監督デビューとなるアレクサンダー・ウィット。
第一印象としては、大変良く出来たアクション映画である、と言うものである。
おそらく本作「バイオハザードII アポカリプス」は本来、アクション・ホラーと言うジャンルにカテゴライズされるべきなのだろうが、前作「バイオハザード」で、恐怖の対象物を明確にしてしまったため、得体の知れないモノに対する恐怖の度合は少なく、ホラー的な舞台背景を利用した勢力争い的なアクション映画、と言うような印象を受けた。
まるで、「エイリアン」に対する「エイリアン2」のような感じなのである。
このコンセプトの転換は賛否あると思うが、わたしは評価したいと思うまだ。
先ず脚本についてだが、本作の脚本については評価に値する点がいくつかあると思う。
第一点目は、本作「バイオハザードII アポカリプス」の物語が、前作「バイオハザード」で語られた物語の途中から始まっている点だろう。
具体的には、「バイオハザード」事件が起きていた頃、地上では実はこんな事が起きていたんですよ、と言う構成で本作は始まるのである。本作を前作の続編として考えた場合、この構成とコンセプトは大変素晴らしい印象を与える。
このあたりは、「二つの塔」あたりと似ているかも知れない。
また、前作のダイジェストを観客に見せる手法も面白い。
平凡な脚本家ならば、「バイオハザード」のラストのカットをどう生かすか、アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)をどう活躍させるか悩むところだと思うのだが、本作では前半部分にアリスを(ほとんど)登場させない、と言う潔くも素晴らしい決断が、物語の背景や新たな登場人物を描写する時間を捻出し、それらを観客に理解させる上でも功を奏している。
同時に本作では、冒頭からのアリス登場を期待する観客に対し心憎いミス・デレクションが行われているのだが、その手法はベタでイマイチなのだが、なんとも微笑ましい印象を受けた。
更に脚本上、マスコミを上手に使っているのも良い印象を受けた。
冒頭のラクーン・シティで何が起きているのかをニュース映像のフラッシュ・バックで観客に断片的に伝えているのも好印象だし、ローカル局のレポーターであるテリ・モラレス(サンドリーヌ・ホルト)を主要キャラクターとして登場させたのも良い判断だと思う、またラスト付近では、ニュース映像を再び利用する事で、権力と財力を備えたアンブレラ社の「力」を明確に観客に伝えるあたりは只者ではない印象を受けた。
このあたりはポール・ヴァーホーヴェンの「ロボ・コップ」や「スターシップ・トゥルーパーズ」のような印象も受けた。
そしておそらく、本作で観客が一番怖い思いをする瞬間は、ラスト付近のニュース映像のコラージュではないだろうか。
このあたりは製作者サイドとしては、「華氏911」を逆手に取ったリアリティの付与を目的としているのではないか、と思われる。
また「ゾンビ」ファンをニヤリとさせるようなシークエンスがあったり、勿論ゲーム「バイオハザード」シリーズのファン向けのサービス的なシークエンスも多々あったのではないか、と思う。
更に、シリーズ構成を考えた場合、前作のお約束パターン(ラストの描き方等)が見事に踏襲されているのも、好印象である。
さて、アクションだか、ミラ・ジョヴォヴィッチにしろシエンナ・ギロリーにしろアクションは頑張っているのだが、カメラが被写体に近すぎてアクションが見切れない、という弊害が出ている。
アクションをこなせない俳優をキャスティングしてしまった場合、カメラを被写体に出来るだけ寄せ、細かいカット割を利用して編集でごまかし、様になっていないアクションをそれっぽく見せることが出来るのだが、本作の手法では、下手をするとそんな感じの印象を受けてしまうのが残念である。
もう少しカメラを引いてアクションを堪能させて欲しかったのだ。
キャストとしては、存在感としてはリチャード・ハリスの息子であるジャレッド・ハリスが良かった。
ところで、前作「バイオハザード」は、「ゾンビ」ファンに取っては、久々に「ゾンビ(みたいなもの)」を劇場で観ることが出来る喜びを体験させてくれたのだが、本作は「ゾンビ」テイストが薄れてしまい、アクション主体の作品になってしまっているのがちょっと残念である。
やはり個人的には、ゆらゆらした「ゾンビ」に囲まれてしまい、どうしようもない恐怖を出して欲しかったのだ。
とは言うものの、本作はホラー・アクションの娯楽作品としては誰にでもオススメできる楽しい作品に仕上がっているのは、事実なのだ。
この秋、「ヴァン・ヘルシング」を観るのなら、わたしだったら「バイオハザードII アポカリプス」を観るかも、なのだ。
さて、ミラ・ジョヴォヴィッチの舞台挨拶だが、もしかしたら酔っ払っているのでは、と思うくらいにミラはハイ・テンションだった。
サービス精神旺盛でアクションやジョークを入れ、大笑いしながらの舞台挨拶は、ミラの人柄を感じさせ、なんとも微笑ましく、こちらも楽しい気分になってしまう素敵なひと時だった。
もしかするとこの舞台挨拶でミラは、多くの日本人観客のハートを鷲掴みにしてしまったかも知れない。
余談だが、本作のエンド・クレジットにもちょっとした仕掛けがあるので、すぐには席を立たない方が良いかも知れない。
舞台挨拶は、主演のミラ・ジョヴォヴィッチ。
巨大企業アンブレラ社の拠点があるラクーン・シティでは、一般市民が、狂ったように他の一般市民を襲い、殺害する事件が頻発していた。
これはアンブレラ社が地下研究所「ハイブ」で極秘開発していた「T−ウィルス」の感染者が引き起こしたものだった。
その「T−ウィルス」の感染者は、感染後数時間で一旦は死に至るが、「T−ウィルス」の作用で活性化し、人間を食料とみなし、本能のまま人間を際限なく襲い続けるのである。
この大混乱を沈静させるため、アンブレラ社はケイン少佐(トーマス・クレッチマン)を指揮官とする私設軍隊をラクーン・シティに展開、感染者の粛清と事態の収拾を図ったが、爆発的に増加する感染者に対処しきれず、シティを物理的に隔離し、新型バイオ・モンスター ネメシスの実験と、戦術核兵器によるシティの浄化と事件の隠蔽を画策する。
一方、シティ内に取り残された特殊部隊の女性隊員ジル・バレンタイン(シエンナ・ギロリー)、アンブレラ軍隊員カルロス・オリヴィエラ(オデッド・フェール)、一般市民L.J.(マイク・エップス)、ローカル局レポーター テリ・モラレス(サンドリーヌ・ホルト)等は、シティからの脱出方法と引き換えにシティ内に残されたアンジェラ(ソフィー・ヴァヴァサー)の救出を<市外から公衆電話で接触してきた、アンジェラの父で「T−ウィルス」の開発者アシュフォード博士(ジャレッド・ハリス)に持ちかけられる。
その頃、アンブレラ社の地下研究所「ハイブ」から辛くも逃げ延びた(「バイオハザード」事件)アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)は、強制的に収容されていた病院で36時間の昏睡状態から目覚め、ラクーン・シティの様子が一変している事に愕然とする。
監督は撮影あがりで本作が監督デビューとなるアレクサンダー・ウィット。
第一印象としては、大変良く出来たアクション映画である、と言うものである。
おそらく本作「バイオハザードII アポカリプス」は本来、アクション・ホラーと言うジャンルにカテゴライズされるべきなのだろうが、前作「バイオハザード」で、恐怖の対象物を明確にしてしまったため、得体の知れないモノに対する恐怖の度合は少なく、ホラー的な舞台背景を利用した勢力争い的なアクション映画、と言うような印象を受けた。
まるで、「エイリアン」に対する「エイリアン2」のような感じなのである。
このコンセプトの転換は賛否あると思うが、わたしは評価したいと思うまだ。
先ず脚本についてだが、本作の脚本については評価に値する点がいくつかあると思う。
第一点目は、本作「バイオハザードII アポカリプス」の物語が、前作「バイオハザード」で語られた物語の途中から始まっている点だろう。
具体的には、「バイオハザード」事件が起きていた頃、地上では実はこんな事が起きていたんですよ、と言う構成で本作は始まるのである。本作を前作の続編として考えた場合、この構成とコンセプトは大変素晴らしい印象を与える。
このあたりは、「二つの塔」あたりと似ているかも知れない。
また、前作のダイジェストを観客に見せる手法も面白い。
平凡な脚本家ならば、「バイオハザード」のラストのカットをどう生かすか、アリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)をどう活躍させるか悩むところだと思うのだが、本作では前半部分にアリスを(ほとんど)登場させない、と言う潔くも素晴らしい決断が、物語の背景や新たな登場人物を描写する時間を捻出し、それらを観客に理解させる上でも功を奏している。
同時に本作では、冒頭からのアリス登場を期待する観客に対し心憎いミス・デレクションが行われているのだが、その手法はベタでイマイチなのだが、なんとも微笑ましい印象を受けた。
更に脚本上、マスコミを上手に使っているのも良い印象を受けた。
冒頭のラクーン・シティで何が起きているのかをニュース映像のフラッシュ・バックで観客に断片的に伝えているのも好印象だし、ローカル局のレポーターであるテリ・モラレス(サンドリーヌ・ホルト)を主要キャラクターとして登場させたのも良い判断だと思う、またラスト付近では、ニュース映像を再び利用する事で、権力と財力を備えたアンブレラ社の「力」を明確に観客に伝えるあたりは只者ではない印象を受けた。
このあたりはポール・ヴァーホーヴェンの「ロボ・コップ」や「スターシップ・トゥルーパーズ」のような印象も受けた。
そしておそらく、本作で観客が一番怖い思いをする瞬間は、ラスト付近のニュース映像のコラージュではないだろうか。
このあたりは製作者サイドとしては、「華氏911」を逆手に取ったリアリティの付与を目的としているのではないか、と思われる。
また「ゾンビ」ファンをニヤリとさせるようなシークエンスがあったり、勿論ゲーム「バイオハザード」シリーズのファン向けのサービス的なシークエンスも多々あったのではないか、と思う。
更に、シリーズ構成を考えた場合、前作のお約束パターン(ラストの描き方等)が見事に踏襲されているのも、好印象である。
さて、アクションだか、ミラ・ジョヴォヴィッチにしろシエンナ・ギロリーにしろアクションは頑張っているのだが、カメラが被写体に近すぎてアクションが見切れない、という弊害が出ている。
アクションをこなせない俳優をキャスティングしてしまった場合、カメラを被写体に出来るだけ寄せ、細かいカット割を利用して編集でごまかし、様になっていないアクションをそれっぽく見せることが出来るのだが、本作の手法では、下手をするとそんな感じの印象を受けてしまうのが残念である。
もう少しカメラを引いてアクションを堪能させて欲しかったのだ。
キャストとしては、存在感としてはリチャード・ハリスの息子であるジャレッド・ハリスが良かった。
ところで、前作「バイオハザード」は、「ゾンビ」ファンに取っては、久々に「ゾンビ(みたいなもの)」を劇場で観ることが出来る喜びを体験させてくれたのだが、本作は「ゾンビ」テイストが薄れてしまい、アクション主体の作品になってしまっているのがちょっと残念である。
やはり個人的には、ゆらゆらした「ゾンビ」に囲まれてしまい、どうしようもない恐怖を出して欲しかったのだ。
とは言うものの、本作はホラー・アクションの娯楽作品としては誰にでもオススメできる楽しい作品に仕上がっているのは、事実なのだ。
この秋、「ヴァン・ヘルシング」を観るのなら、わたしだったら「バイオハザードII アポカリプス」を観るかも、なのだ。
さて、ミラ・ジョヴォヴィッチの舞台挨拶だが、もしかしたら酔っ払っているのでは、と思うくらいにミラはハイ・テンションだった。
サービス精神旺盛でアクションやジョークを入れ、大笑いしながらの舞台挨拶は、ミラの人柄を感じさせ、なんとも微笑ましく、こちらも楽しい気分になってしまう素敵なひと時だった。
もしかするとこの舞台挨拶でミラは、多くの日本人観客のハートを鷲掴みにしてしまったかも知れない。
余談だが、本作のエンド・クレジットにもちょっとした仕掛けがあるので、すぐには席を立たない方が良いかも知れない。
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
2004年8月22日 映画
クリント・イーストウッドと言う俳優がいる。
強いアメリカの象徴的なヒーローを演じ続けてきた俳優である。
彼のキャリアは低予算のホラーやコメディ映画デスタートしたのだが、1959年からスタートしたテレビ・シリーズ「ローハイド」で人気に火がつき、1964年イタリアに招かれて主演した「荒野の用心棒」で一気にスターダムに登り、それ以降しばらくはマカロニ・ウエスタンでヒーロー(アウトロー)を演じ、1972年の「ダーティハリー」では人気は不動のものになり、不透明な時代の中で一本筋が通った無骨で食えない、オールド・アメリカ気質を体現するヒーローやアウトローを一貫して演じると共に、1971年の「恐怖のメロディ」以降は、社会派的観点を持つ様々な映画の監督や製作に携わっている。
1992年の「許されざる者」ではアカデミー賞監督賞を受賞、2003年の「ミスティック・リバー」ではアカデミー賞監督賞にノミネート等、最近は俳優と言うより監督として評価が高い。
また音楽(ジャズ)にも造形が深く、ジャズを題材とした作品も数多く手がけている。
さて「ミスティック・リバー」であるが、とりあえずこちらを読んでいただきたい。
http://diarynote.jp/d/29346/20040613.html
「ミスティック・リバー」を考える上で避けて通れないのは、3人の主要キャラクターや映画の中で起きる事件が何のメタファーなのか、と言う点である。
これらを考えないと、「ミスティック・リバー」は、少年時代の3人の友人のうちの、ひとりが娘を殺害され、ひとりが捜査し、ひとりが容疑者となる、という背景を持つ、平凡なクライム・サスペンスに成り下がってしまうのだ。
しかし、描かれた事件と登場人物が暗喩している事柄を明確にすると、「ミスティック・リバー」は凄い作品に姿を変えてしまうのだ。
※以下、私見です。ネタバレもあります。
ご自身で平衡感覚を失わずにお読みいただいた上で、「ミスティック・リバー」や「華氏911」についてお考えいただければ幸いです。
登場人物のメタファー
1.ジミー・マーカム(ショーン・ペン)
=アメリカ
2.ショーン・ディバイン(ケヴィン・ベーコン)
=国連
3.デイブ・ボイル(ティム・ロビンス)
=イラク
4.殺人犯
=911テロ実行犯/大量破壊兵器開発者
事件のメタファー
5.ケイティ・マーカム(エミー・ロッサム)殺人事件。
=911テロ/大量破壊兵器開発
6.ショーン・ディバインのケイティ殺人事件の捜査。
=国連の大量破壊兵器の捜索(核施設査察、生物化学兵器捜索)
7.デイブ・ボイルが殺人を犯す。
=イラク フセイン政権の独裁的恐怖政治
8.デイブ・ボイル殺人事件。
=国連を無視したアメリカのイラク侵攻
9.ジミー・マーカムを見逃すショーン・ディバイン。
=アメリカを告発できない国連
いかがであろうか、「ミスティック・リバー」の物語が明確に見えてきたであろうか。
わたしの目には「ミスティック・リバー」の物語は、脳内で次のように変換されて見えた訳なのだ。
娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)で怒り心頭のジミー(アメリカ)は、ショーン(国連)の煮え切らない捜査(大量破壊兵器捜索等)に、自ら娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)の捜査を開始する。
ショーン(国連)はデイブ(イラク)を参考人として一旦は取調べ(大破壊兵器捜索等)を行うが、決定的な証拠が無く(イラクに大量破壊兵器が存在する証拠は無い)、捜査の対象から外す。
一方ジミー(アメリカ)はショーン(国連)の決定(イラクに大量破壊兵器が存在する証拠は無い)に納得せず、自らデイブ(イラク)を取り調べ、予断の上(自らのシナリオ通りに)娘を殺した犯人だと確信(イラクに大量破壊兵器が存在する)する。
また、デイブ(イラク)は過去の忌まわしい事件から、変質者を殺害(イラク フセイン政権の独裁的恐怖政治)してしまう。
※ もしかしたらデイブ(イラク)は、継続的に変質者を殺害(フセイン政権の恐怖政治)し続けていたのかもしれない。
ジミー(アメリカ)は自らの確信(イラクに大量破壊兵器が存在する)を信じ、デイブを殺害(国連を無視したアメリカのイラク侵攻)してしまう。
ショーン(国連)はジミー(アメリカ)がデイブ(イラク)を殺害(イラク侵攻)した事を知っているが、告発できない。
娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)はデイブ(イラク)とは一切関係が無かった。
いかがであろう、こう考えると「ミスティック・リバー」は「華氏911」と同じような政治的、思想的バックボーンの下にアメリカの恥部をえぐり白日の下に曝し出すべく製作された映画だったのではないだろうか。
そして、気になるのは二本の映画の対照的な待遇である。
「ミスティック・リバー」は、アメリカ国内で拡大ロードショー公開された上に、多くの賞を受賞する一方「華氏911」はアメリカ国内での配給で大もめ、公開された後もマスコミに叩かれ続けている、という点も興味深く思えるのだ。
そしてアメリカの孤高なヒーロー像の象徴でもあるクリント・イーストウッドが、このようなアメリカをある意味批判する作品を製作した事も興味深い。
もしかすると、イーストウッドは古き良きフロンティア・スピリット溢れるオールド・アメリカを懐かしみ、現代のアメリカに憂慮しているのかも知れない。
「華氏911」
http://diarynote.jp/d/29346/20040816.html
「独裁者」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040819.html
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040822.html
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったらクリック!
http://blog.with2.net/link.php/29604
強いアメリカの象徴的なヒーローを演じ続けてきた俳優である。
彼のキャリアは低予算のホラーやコメディ映画デスタートしたのだが、1959年からスタートしたテレビ・シリーズ「ローハイド」で人気に火がつき、1964年イタリアに招かれて主演した「荒野の用心棒」で一気にスターダムに登り、それ以降しばらくはマカロニ・ウエスタンでヒーロー(アウトロー)を演じ、1972年の「ダーティハリー」では人気は不動のものになり、不透明な時代の中で一本筋が通った無骨で食えない、オールド・アメリカ気質を体現するヒーローやアウトローを一貫して演じると共に、1971年の「恐怖のメロディ」以降は、社会派的観点を持つ様々な映画の監督や製作に携わっている。
1992年の「許されざる者」ではアカデミー賞監督賞を受賞、2003年の「ミスティック・リバー」ではアカデミー賞監督賞にノミネート等、最近は俳優と言うより監督として評価が高い。
また音楽(ジャズ)にも造形が深く、ジャズを題材とした作品も数多く手がけている。
さて「ミスティック・リバー」であるが、とりあえずこちらを読んでいただきたい。
http://diarynote.jp/d/29346/20040613.html
「ミスティック・リバー」を考える上で避けて通れないのは、3人の主要キャラクターや映画の中で起きる事件が何のメタファーなのか、と言う点である。
これらを考えないと、「ミスティック・リバー」は、少年時代の3人の友人のうちの、ひとりが娘を殺害され、ひとりが捜査し、ひとりが容疑者となる、という背景を持つ、平凡なクライム・サスペンスに成り下がってしまうのだ。
しかし、描かれた事件と登場人物が暗喩している事柄を明確にすると、「ミスティック・リバー」は凄い作品に姿を変えてしまうのだ。
※以下、私見です。ネタバレもあります。
ご自身で平衡感覚を失わずにお読みいただいた上で、「ミスティック・リバー」や「華氏911」についてお考えいただければ幸いです。
登場人物のメタファー
1.ジミー・マーカム(ショーン・ペン)
=アメリカ
2.ショーン・ディバイン(ケヴィン・ベーコン)
=国連
3.デイブ・ボイル(ティム・ロビンス)
=イラク
4.殺人犯
=911テロ実行犯/大量破壊兵器開発者
事件のメタファー
5.ケイティ・マーカム(エミー・ロッサム)殺人事件。
=911テロ/大量破壊兵器開発
6.ショーン・ディバインのケイティ殺人事件の捜査。
=国連の大量破壊兵器の捜索(核施設査察、生物化学兵器捜索)
7.デイブ・ボイルが殺人を犯す。
=イラク フセイン政権の独裁的恐怖政治
8.デイブ・ボイル殺人事件。
=国連を無視したアメリカのイラク侵攻
9.ジミー・マーカムを見逃すショーン・ディバイン。
=アメリカを告発できない国連
いかがであろうか、「ミスティック・リバー」の物語が明確に見えてきたであろうか。
わたしの目には「ミスティック・リバー」の物語は、脳内で次のように変換されて見えた訳なのだ。
娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)で怒り心頭のジミー(アメリカ)は、ショーン(国連)の煮え切らない捜査(大量破壊兵器捜索等)に、自ら娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)の捜査を開始する。
ショーン(国連)はデイブ(イラク)を参考人として一旦は取調べ(大破壊兵器捜索等)を行うが、決定的な証拠が無く(イラクに大量破壊兵器が存在する証拠は無い)、捜査の対象から外す。
一方ジミー(アメリカ)はショーン(国連)の決定(イラクに大量破壊兵器が存在する証拠は無い)に納得せず、自らデイブ(イラク)を取り調べ、予断の上(自らのシナリオ通りに)娘を殺した犯人だと確信(イラクに大量破壊兵器が存在する)する。
また、デイブ(イラク)は過去の忌まわしい事件から、変質者を殺害(イラク フセイン政権の独裁的恐怖政治)してしまう。
※ もしかしたらデイブ(イラク)は、継続的に変質者を殺害(フセイン政権の恐怖政治)し続けていたのかもしれない。
ジミー(アメリカ)は自らの確信(イラクに大量破壊兵器が存在する)を信じ、デイブを殺害(国連を無視したアメリカのイラク侵攻)してしまう。
ショーン(国連)はジミー(アメリカ)がデイブ(イラク)を殺害(イラク侵攻)した事を知っているが、告発できない。
娘の殺人事件(911テロ/大量破壊兵器開発)はデイブ(イラク)とは一切関係が無かった。
いかがであろう、こう考えると「ミスティック・リバー」は「華氏911」と同じような政治的、思想的バックボーンの下にアメリカの恥部をえぐり白日の下に曝し出すべく製作された映画だったのではないだろうか。
そして、気になるのは二本の映画の対照的な待遇である。
「ミスティック・リバー」は、アメリカ国内で拡大ロードショー公開された上に、多くの賞を受賞する一方「華氏911」はアメリカ国内での配給で大もめ、公開された後もマスコミに叩かれ続けている、という点も興味深く思えるのだ。
そしてアメリカの孤高なヒーロー像の象徴でもあるクリント・イーストウッドが、このようなアメリカをある意味批判する作品を製作した事も興味深い。
もしかすると、イーストウッドは古き良きフロンティア・スピリット溢れるオールド・アメリカを懐かしみ、現代のアメリカに憂慮しているのかも知れない。
「華氏911」
http://diarynote.jp/d/29346/20040816.html
「独裁者」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040819.html
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040822.html
■人気blogランキング
当blog「徒然雑草」は「人気blogランキング」に登録しています。
参考になったらクリック!
http://blog.with2.net/link.php/29604
2004/08/21 ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント試写室で噂の「ジーリ」を観た。
ご承知の方はご承知のように本作「ジーリ」は、2004年のゴールデン・ラズベリー賞(ラジー賞)を総なめにした作品である。
日本の映画ファンの中には、どんなに酷いか確認してみたい、と言う「恐いもの見たさ」感覚を持った人も多く、日本公開が待たれていた作品の一本であったのだ。
しかしながら、ソニー・ピクチャーズの英断もあり、所謂ビデオ・ストレート(ビデオ・スルー)作品と相成った訳だ。
そして、DVD(ビデオ)発売を記念した試写が2度ほどあったようなのだが、わたしはたまたま21日(土)の試写を観た訳である。
ご参考までに本作「ジーリ」のゴールデン・ラジー賞の受賞歴をご紹介しよう。
2004年 ゴールデン・ラジー賞 受賞
ワースト作品賞
ワースト主演男優賞 ベン・アフレック
(※「デアデビル」、「ジーリ」、「ペイチェック 消された記憶」の三作品に対して)
ワースト主演女優賞 ジェニファー・ロペス
ワースト監督賞 マーティン・ブレスト
ワースト脚本賞 マーティン・ブレスト
ワースト・スクリーン・カップル賞 ベン・アフレック&ジェニファー・ロペス
2004年 ゴールデン・ラジー賞 ノミネート
ワースト助演男優賞 アル・パチーノ
ワースト助演男優賞 クリストファー・ウォーケン
(※「カンガルー・ジャック」、「ジーリ」の二作品に対して)
ワースト助演女優賞 レイニー・カザン
第一印象としては、普通のつまらない映画だ、と言うものだが、やはりこのおバカなカップルが共演している、と言う点がやはりラジー賞たる所以だろう。
わたしは個人的に、ベン・アフレックとジェニファー・ロペスではない他の俳優が、彼等の役柄を演じていたとしたら、おそらくラジー賞の対象にはならなかったと思うし、話題にもならなかったのではないか、と思う。
脚本は、おそらくクエンティン・タランティーノのような薀蓄満載のちょっと下品だがエスプリがきいたキャッチーで面白い物(「レザボアドッグス」のマドンナの話や「パルプ・フィクション」のビッグ・マックの話)を目指したのだと思うのが、なぜか性(sex)の話題が頻発するシモネタ系にまとまってしまい、なんだか下品なテイストを十二分に醸し出してしまっている。
従って本作は、おバカ・カップルの下品な性(SEX)に関する話題満載のサスペンス・コメディになってしまっているのだ。
そして、製作サイドとしては、おそらく二人の話題性だけで行けると思ったのか、前述のように脚本はマズいし、演出も微妙、音楽は安易、と言った印象を与えてしまっている。
キャスト的には、先ずベン・アフレックは例によってマヌケ面全開で、キャラクターもハイスクールのマッチョな俺様ヒーローが、社会に出てダメになってしまった感じのキャラクターをある意味見事に演じている。
ジェニファー・ロペスは普通だった。
と言うか、前半部分ではベン・アフレックのバカさ加減に、ジェニファー・ロペスが切れる役に見えてしまうのだ。
そんな中で、ブライアン役のジャスティン・バーサは良かった。
一応本作「ジーリ」はブライアンの成長物語とも言える事もあり、もしかするとブラインの存在に本作は救われているのかも知れない。
事実ジャスティン・バーサはラジー賞にはノミネートすらされていないのだ。
またクリストファー・ウォーケンやアル・パチーノは、各々1シーンずつの登場なのだが、一見の価値がある素晴らしい存在感を醸し出している。
特にアル・パチーノのシーンは素晴らしい。
アル・パチーノの「ゴッドファーザー」を彷彿とさせる所謂セルフ・オマージュが楽しい。
しかし大きな問題としては、大御所二人のキャラクターが脚本の他の部分に絡まないのだ。勿論プロット上はクリストファー・ウォーケンはともかく、アル・パチーノは主要キャラクターと言って言いし、話題にはなっている。しかし、他のシーンとの絡みが皆無に近いのだ。
もしかしたら、二人の大御所俳優はこの映画の全貌を知らないのかも知れないし、客寄せパンダ的な役割を担っているのかも知れない。
結果的にわたしは本作「ジーリ」を次のような人にオススメするのだ。
1.1年間に映画を100本以上観る人のうち、
2.ラジー賞がどういった賞か理解している人で、
3.おバカなカップルを見たい人
余談だが、東京では1週間で公開が打ち切られた「フォード・フェアレーンの冒険」のアンドリュー・ダイス・クレイとベン・アフレックが被るような気がした。
因みにわたしは「フォード・フェアレーンの冒険」も当時「ダイハード2」のレニー・ハーリンの作品という事で、初日に観に行っている。
わたしを誘った友人の「こんな映画いつ打ち切りになるのかわからないから、初日か二日目に観るしかない」と言う言葉を覚えている。
ご承知の方はご承知のように本作「ジーリ」は、2004年のゴールデン・ラズベリー賞(ラジー賞)を総なめにした作品である。
日本の映画ファンの中には、どんなに酷いか確認してみたい、と言う「恐いもの見たさ」感覚を持った人も多く、日本公開が待たれていた作品の一本であったのだ。
しかしながら、ソニー・ピクチャーズの英断もあり、所謂ビデオ・ストレート(ビデオ・スルー)作品と相成った訳だ。
そして、DVD(ビデオ)発売を記念した試写が2度ほどあったようなのだが、わたしはたまたま21日(土)の試写を観た訳である。
ご参考までに本作「ジーリ」のゴールデン・ラジー賞の受賞歴をご紹介しよう。
2004年 ゴールデン・ラジー賞 受賞
ワースト作品賞
ワースト主演男優賞 ベン・アフレック
(※「デアデビル」、「ジーリ」、「ペイチェック 消された記憶」の三作品に対して)
ワースト主演女優賞 ジェニファー・ロペス
ワースト監督賞 マーティン・ブレスト
ワースト脚本賞 マーティン・ブレスト
ワースト・スクリーン・カップル賞 ベン・アフレック&ジェニファー・ロペス
2004年 ゴールデン・ラジー賞 ノミネート
ワースト助演男優賞 アル・パチーノ
ワースト助演男優賞 クリストファー・ウォーケン
(※「カンガルー・ジャック」、「ジーリ」の二作品に対して)
ワースト助演女優賞 レイニー・カザン
第一印象としては、普通のつまらない映画だ、と言うものだが、やはりこのおバカなカップルが共演している、と言う点がやはりラジー賞たる所以だろう。
わたしは個人的に、ベン・アフレックとジェニファー・ロペスではない他の俳優が、彼等の役柄を演じていたとしたら、おそらくラジー賞の対象にはならなかったと思うし、話題にもならなかったのではないか、と思う。
脚本は、おそらくクエンティン・タランティーノのような薀蓄満載のちょっと下品だがエスプリがきいたキャッチーで面白い物(「レザボアドッグス」のマドンナの話や「パルプ・フィクション」のビッグ・マックの話)を目指したのだと思うのが、なぜか性(sex)の話題が頻発するシモネタ系にまとまってしまい、なんだか下品なテイストを十二分に醸し出してしまっている。
従って本作は、おバカ・カップルの下品な性(SEX)に関する話題満載のサスペンス・コメディになってしまっているのだ。
そして、製作サイドとしては、おそらく二人の話題性だけで行けると思ったのか、前述のように脚本はマズいし、演出も微妙、音楽は安易、と言った印象を与えてしまっている。
キャスト的には、先ずベン・アフレックは例によってマヌケ面全開で、キャラクターもハイスクールのマッチョな俺様ヒーローが、社会に出てダメになってしまった感じのキャラクターをある意味見事に演じている。
ジェニファー・ロペスは普通だった。
と言うか、前半部分ではベン・アフレックのバカさ加減に、ジェニファー・ロペスが切れる役に見えてしまうのだ。
そんな中で、ブライアン役のジャスティン・バーサは良かった。
一応本作「ジーリ」はブライアンの成長物語とも言える事もあり、もしかするとブラインの存在に本作は救われているのかも知れない。
事実ジャスティン・バーサはラジー賞にはノミネートすらされていないのだ。
またクリストファー・ウォーケンやアル・パチーノは、各々1シーンずつの登場なのだが、一見の価値がある素晴らしい存在感を醸し出している。
特にアル・パチーノのシーンは素晴らしい。
アル・パチーノの「ゴッドファーザー」を彷彿とさせる所謂セルフ・オマージュが楽しい。
しかし大きな問題としては、大御所二人のキャラクターが脚本の他の部分に絡まないのだ。勿論プロット上はクリストファー・ウォーケンはともかく、アル・パチーノは主要キャラクターと言って言いし、話題にはなっている。しかし、他のシーンとの絡みが皆無に近いのだ。
もしかしたら、二人の大御所俳優はこの映画の全貌を知らないのかも知れないし、客寄せパンダ的な役割を担っているのかも知れない。
結果的にわたしは本作「ジーリ」を次のような人にオススメするのだ。
1.1年間に映画を100本以上観る人のうち、
2.ラジー賞がどういった賞か理解している人で、
3.おバカなカップルを見たい人
余談だが、東京では1週間で公開が打ち切られた「フォード・フェアレーンの冒険」のアンドリュー・ダイス・クレイとベン・アフレックが被るような気がした。
因みにわたしは「フォード・フェアレーンの冒険」も当時「ダイハード2」のレニー・ハーリンの作品という事で、初日に観に行っている。
わたしを誘った友人の「こんな映画いつ打ち切りになるのかわからないから、初日か二日目に観るしかない」と言う言葉を覚えている。
「独裁者」と「華氏911」を考える。
2004年8月19日 映画
「独裁者」と言う傑作がある。
一言で「傑作」と言うのは簡単だが、本作は最早「傑作」と言う言葉自体が陳腐化してしまうほどの素晴らしい作品である。とわたしは思っている。
監督:チャールズ・チャップリン
製作:チャールズ・チャップリン
脚本:チャールズ・チャップリン
撮影:カール・ストラス、ロリー・トザロー
音楽:メレディス・ウィルソン
出演:チャールズ・チャップリン、ジャック・オーキー、ポーレット・ゴダード、チェスター・コンクリン
チャップリンが製作した「キッド」以降の長編作品の多くは、一貫して市井に生きる人々の人情味溢れる生活を切り取り、その中で巻き起こる笑いやペーソスをエモーショナルに描いていたのだが、それ以外の作品には、社会や政治を風刺し批判する作品が少なくない。
例えば、「モダン・タイムス」ではエスカレートする資本主義社会と崩壊する人間性を鋭く描き、続く「独裁者」ではヒトラーのナチス・ドイツ政権を痛烈に批判し、笑いものにしている。
そして更に「殺人狂時代」においては連続保険金殺人を描きつつ、実は国家間の戦争による大義の名の下の大量殺人を強烈に批判しているのだ。
このあたりは、次の有名なセリフが雄弁に物語っている。
「ひとり殺せば殺人者。百万殺せば英雄。その数が殺人を正当化するのです」
(「殺人狂時代」より)
そして「独裁者」だが、おそらく多くの皆さんもご存知のように、チャップリンがヒトラーとナチス・ドイツを強烈に皮肉ったブラック・コメディと位置付けられている。
しかし、この作品は所謂ブラック・コメディの範疇に留まらず、その時代的背景と環境を考えた場合、明らかなチャップリンの政治的目的意識を持った孤高の作品である、と言えるのではないだろうか。
事実、「独裁者」の批判精神は、ヒトラーとナチス・ドイツの台頭と言う、その時代が置かれている状況から考えると、正に常軌を逸しており、下手をすると命にかかわりかねない危険な作品だ、と言っても差支えはない程苛烈なものなのだ。
しかしなんと言ってもおどろくべき事は、この「独裁者」が北米で公開された1940年10月は、ご承知のように、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に端を発する、第二次世界大戦の真っ只中であり、更に驚くべき事は、この映画の製作開始時期は、ポーランド侵攻のなんと前年の1938年であった、と言うところだろう。
1938年当時、アメリカがドイツとまだ友好的だった時代、アメリカの中にもヒトラー擁護者や援助者ががいた時代、そんな時代にいながらも、チャップリンの目には、ヒトラーが「とてつもなくヤバイ」存在に映っていた訳なのだ。
そして「独裁者」の中のチャップリンは文字通りキレにキレまくっている。
映画史に残るであろう地球儀と戯れるシークエンスは勿論、これまた映画史に残る例の演説のシークエンスでは、彼の動きを見ているだけで、彼の声を聞いているだけで、その孤高な意図を感じるだけで涙が止まらないのだ。
しかし、そのヒトラーに対する攻撃的な姿は、コメディを通り越し壮絶な滑稽さまで達し、当時のマスコミに随分と叩かれ、その批判の矛先は、映画だけではなくチャップリン本人にも及び、その結果チャップリンはアメリカからの退去を余儀なくされてしまうのである。
その後、チャップリンが「独裁者」を通じて世界に指し示した政治的ベクトルとは裏腹に、ヒトラーの台頭が続き、全世界にとって悲しい時代が続いたのは、皆さんご承知の通りであろう。
そして2004年、マイケル・ムーアの「華氏911」が公開される訳である。
おそらく、誰の目にも「独裁者」と「華氏911」が置かれている背景が符合しているのが見て取れるだろう。
「独裁者」が置かれていた背景を端的に表すと次のようなものになるだろう。
1.ヒトラー及びドイツをアメリカの富裕層や実力者たちが援助し擁護していた。
2.ヒトラーとナチス・ドイツの台頭はチャップリンの目には「とてつもなくヤバイ」と映った。
3.チャップリンは「独裁者」を製作し、ヒトラーとナチス・ドイツの台頭を阻止しようとした。
それでは、「華氏911」が置かれている環境はどうであろうか。(「華氏911」の主張をわかりやすくしたもの)
1.サウジ王族ビン・ラディンファミリーとブッシュ一族は以前から友好的な関係を結び、利害関係も一致していた。
2.ブッシュ政権は、911同時多発テロの可能性を事前に知りながら、故意にテロ防止策を取らなかった。
3.ブッシュ政権は、自らの書いたシナリオ通り、911同時多発テロの首謀者はイラク(フセイン政権)が資金援助を行っているアルカイダだとし、またイラクは大量破壊兵器を極秘裏に開発していると断定、フセイン政権を打倒するべくイラク侵攻を開始した。
4.フセイン政権は倒れたが、現在までイラク国内に大量破壊兵器の存在は認められない。
5.ブッシュの存在はマイケル・ムーアにとって「とてつもなくヤバイ」と映った。
6.マイケル・ムーアは「華氏911」を製作し、ブッシュ政権の打倒と、ブッシュの再選を阻止しようとした。
勿論お分かりの事と思うが、わたしはブッシュがヒトラーである、と言っている訳ではない。
わたしが言いたいのは、二人の男が「とてつもなくヤバイ」男を止めるためにそれぞれ一本ずつ二本の映画を作った。ということである。
その一本の映画の結果、一人の男の目的は果たされたが、残念ながらその目的が達成されるのがあまりにも遅すぎたのだ。
そして、気になるのは、もう一本の映画、もう一人の男の目的は果たされるのであろうか。と言う事なのだ。
果たして、映画という虚構が、映画という芸術が、映画という娯楽が、現実の世界を動かす事が出来るのだろうか、チャールズ・チャップリンが1940年に果たせなかったことが、2004年のマイケル・ムーアに果たせるのか、わたしは多くの関心を持って今後の成行きに注目していきたいと考えるのだ。
そして、わたしは「孤高な映像作家のペンが、果たしてとてつもなく大きな財力と権力の下にある剣より強いかどうか」が知りたくてたまらない、と思うのだ。
「華氏911」
http://diarynote.jp/d/29346/20040816.html
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040822.html
一言で「傑作」と言うのは簡単だが、本作は最早「傑作」と言う言葉自体が陳腐化してしまうほどの素晴らしい作品である。とわたしは思っている。
監督:チャールズ・チャップリン
製作:チャールズ・チャップリン
脚本:チャールズ・チャップリン
撮影:カール・ストラス、ロリー・トザロー
音楽:メレディス・ウィルソン
出演:チャールズ・チャップリン、ジャック・オーキー、ポーレット・ゴダード、チェスター・コンクリン
チャップリンが製作した「キッド」以降の長編作品の多くは、一貫して市井に生きる人々の人情味溢れる生活を切り取り、その中で巻き起こる笑いやペーソスをエモーショナルに描いていたのだが、それ以外の作品には、社会や政治を風刺し批判する作品が少なくない。
例えば、「モダン・タイムス」ではエスカレートする資本主義社会と崩壊する人間性を鋭く描き、続く「独裁者」ではヒトラーのナチス・ドイツ政権を痛烈に批判し、笑いものにしている。
そして更に「殺人狂時代」においては連続保険金殺人を描きつつ、実は国家間の戦争による大義の名の下の大量殺人を強烈に批判しているのだ。
このあたりは、次の有名なセリフが雄弁に物語っている。
「ひとり殺せば殺人者。百万殺せば英雄。その数が殺人を正当化するのです」
(「殺人狂時代」より)
そして「独裁者」だが、おそらく多くの皆さんもご存知のように、チャップリンがヒトラーとナチス・ドイツを強烈に皮肉ったブラック・コメディと位置付けられている。
しかし、この作品は所謂ブラック・コメディの範疇に留まらず、その時代的背景と環境を考えた場合、明らかなチャップリンの政治的目的意識を持った孤高の作品である、と言えるのではないだろうか。
事実、「独裁者」の批判精神は、ヒトラーとナチス・ドイツの台頭と言う、その時代が置かれている状況から考えると、正に常軌を逸しており、下手をすると命にかかわりかねない危険な作品だ、と言っても差支えはない程苛烈なものなのだ。
しかしなんと言ってもおどろくべき事は、この「独裁者」が北米で公開された1940年10月は、ご承知のように、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に端を発する、第二次世界大戦の真っ只中であり、更に驚くべき事は、この映画の製作開始時期は、ポーランド侵攻のなんと前年の1938年であった、と言うところだろう。
1938年当時、アメリカがドイツとまだ友好的だった時代、アメリカの中にもヒトラー擁護者や援助者ががいた時代、そんな時代にいながらも、チャップリンの目には、ヒトラーが「とてつもなくヤバイ」存在に映っていた訳なのだ。
そして「独裁者」の中のチャップリンは文字通りキレにキレまくっている。
映画史に残るであろう地球儀と戯れるシークエンスは勿論、これまた映画史に残る例の演説のシークエンスでは、彼の動きを見ているだけで、彼の声を聞いているだけで、その孤高な意図を感じるだけで涙が止まらないのだ。
しかし、そのヒトラーに対する攻撃的な姿は、コメディを通り越し壮絶な滑稽さまで達し、当時のマスコミに随分と叩かれ、その批判の矛先は、映画だけではなくチャップリン本人にも及び、その結果チャップリンはアメリカからの退去を余儀なくされてしまうのである。
その後、チャップリンが「独裁者」を通じて世界に指し示した政治的ベクトルとは裏腹に、ヒトラーの台頭が続き、全世界にとって悲しい時代が続いたのは、皆さんご承知の通りであろう。
そして2004年、マイケル・ムーアの「華氏911」が公開される訳である。
おそらく、誰の目にも「独裁者」と「華氏911」が置かれている背景が符合しているのが見て取れるだろう。
「独裁者」が置かれていた背景を端的に表すと次のようなものになるだろう。
1.ヒトラー及びドイツをアメリカの富裕層や実力者たちが援助し擁護していた。
2.ヒトラーとナチス・ドイツの台頭はチャップリンの目には「とてつもなくヤバイ」と映った。
3.チャップリンは「独裁者」を製作し、ヒトラーとナチス・ドイツの台頭を阻止しようとした。
それでは、「華氏911」が置かれている環境はどうであろうか。(「華氏911」の主張をわかりやすくしたもの)
1.サウジ王族ビン・ラディンファミリーとブッシュ一族は以前から友好的な関係を結び、利害関係も一致していた。
2.ブッシュ政権は、911同時多発テロの可能性を事前に知りながら、故意にテロ防止策を取らなかった。
3.ブッシュ政権は、自らの書いたシナリオ通り、911同時多発テロの首謀者はイラク(フセイン政権)が資金援助を行っているアルカイダだとし、またイラクは大量破壊兵器を極秘裏に開発していると断定、フセイン政権を打倒するべくイラク侵攻を開始した。
4.フセイン政権は倒れたが、現在までイラク国内に大量破壊兵器の存在は認められない。
5.ブッシュの存在はマイケル・ムーアにとって「とてつもなくヤバイ」と映った。
6.マイケル・ムーアは「華氏911」を製作し、ブッシュ政権の打倒と、ブッシュの再選を阻止しようとした。
勿論お分かりの事と思うが、わたしはブッシュがヒトラーである、と言っている訳ではない。
わたしが言いたいのは、二人の男が「とてつもなくヤバイ」男を止めるためにそれぞれ一本ずつ二本の映画を作った。ということである。
その一本の映画の結果、一人の男の目的は果たされたが、残念ながらその目的が達成されるのがあまりにも遅すぎたのだ。
そして、気になるのは、もう一本の映画、もう一人の男の目的は果たされるのであろうか。と言う事なのだ。
果たして、映画という虚構が、映画という芸術が、映画という娯楽が、現実の世界を動かす事が出来るのだろうか、チャールズ・チャップリンが1940年に果たせなかったことが、2004年のマイケル・ムーアに果たせるのか、わたしは多くの関心を持って今後の成行きに注目していきたいと考えるのだ。
そして、わたしは「孤高な映像作家のペンが、果たしてとてつもなく大きな財力と権力の下にある剣より強いかどうか」が知りたくてたまらない、と思うのだ。
「華氏911」
http://diarynote.jp/d/29346/20040816.html
「ミスティック・リバー」と「華氏911」を考える
http://diarynote.jp/d/29346/20040822.html