「キング・アーサー」
2004年7月20日 映画
東京九段下、日本武道館で行われた『「キング・アーサー」ジャパン・プレミア ナイト・オブ・ザ・ナイツ』に行って来た。
舞台挨拶は、製作のジェリー・ブラッカイマー、監督のアントワーン・フークア、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ。
ローマ帝国の支配下にあった5世紀のブリテン(現在のイギリス)。
そこでは、ローマ帝国からの独立を求めている闇の魔術師マーリン(スティーヴン・ディレイン)が率いるウォードと、セルティック(ステラン・スカルスゲールド)が息子シンリック(ティル・シュヴァイガー)と共に率いる侵略者サクソン人との間で激しい戦闘が繰り返されていた。
ブリテンの血をひくアーサー(クライヴ・オーウェン)は、ローマ軍の一司令官として、無敵を誇る「円卓の騎士」を率いブリテンを南北に分断する「ハドリアヌスの城壁」の守備に当たっていた。
しかし、衰退の途にあったローマ帝国はブリテンからの撤退を決定、アーサーに対しローマ教皇の名の下、司教ゲルマヌス(イヴァノ・マレスコッティ)から、サクソン人に包囲されたブリテン北部の地からローマ人一家を救出せよ、との過酷な最後の指令が下される。
アーサーはそこでローマ人により不当に囚われいたブリテン人の美しく勇敢な女性グウィネヴィア(キーラ・ナイトレイ)を救出する。
グウィネヴィアは、ローマ帝国に仕えてブリテン人と戦うアーサーを非難、サクソン人の前に滅亡の危機に瀕したブリテンのために一緒に戦うよう迫るのだった・・・・。
他のキャストとして、円卓の騎士ランスロットにヨアン・グリフィズ、円卓の騎士トリスタンにマッツ・ミケルセン、円卓の騎士ガラハッドにヒュー・ダンシー、円卓の騎士ボースにレイ・ウィンストン、円卓の騎士ガウェインにジョエル・エドガートン、円卓の騎士ダゴネットにレイ・スティーヴンソン。
わたしは所謂「アーサー王伝説」については、映画をせいぜい数本観た程度、小説をせいぜい5〜8冊位読んだ程度の知識しか持ち合わせがないのだが、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」とは似ても似つかない作品に仕上がっているような印象を受けた。
例えるならば、所謂「アーサー王伝説」の設定を少し借りた、二次創作物、というような印象なのだ。
所謂「アーサー王伝説」は、15世紀頃の物語なのだが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王が存在したのは5世紀だった、という新たな証拠を発見、その証拠に基づき本作を制作した、という事らしい。
という訳で、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」の物語とは似ても似つかない物語に仕上がっている訳なのだ。
「キング・アーサー」と所謂「アーサー王伝説」の違いを列挙しても、全く意味が無いので、新たに創作された「キング・アーサー」について考えてみたいと思うのだ。
先ず第一印象としては、退屈で盛り上がりに欠け、キャストに魅力が感じられない中途半端な娯楽作品だ、と言う印象であった。
製作がジェリー・ブラッカイマーである、と言えば、面白ければ良い、と言うように、あまり映画を観ない一般大衆が好むような映画、商業至上主義で中身の乏しい、こけおどし系娯楽大作が想像されたのだが、監督のアントワーン・フークアの色なのか、娯楽大作にもなりきれない中途半端な作品に感じられた。
個人的に問題点だと感じたのは次の点である。
1.キャストに魅力が感じられない。
2.キャラクターの描写が乏しい。
3.盛り上がりに欠ける。
キャストに魅力が感じられない点については、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ等では客を呼べるほどのネーム・バリューが無く、一般の超大作娯楽映画にありがちの一枚看板で客を呼ぶ作戦が使えないし、アーサー王というカリスマに溢れる英雄をヒーローとして描くにはクライヴ・オーウェンでは役不足としか思えない。
尤も、所謂「アーサー王伝説」は荒唐無稽なファンタジーな訳だが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王を政治的、環境的に抑圧された、ただの一指揮官である、と設定し等身大のアーサー王を描く、というコンセプトを実践する事が目的だったならばクライヴ・オーウェンで成功している、と言えるだろう。
強いて言うならば、ヒロイン役のキーラ・ナイトレイが唯一の客を呼べる格の俳優(女優)なのかもしれない。
また、こういった作品を格調高いものにするべく、大御所俳優が出演し画面を引き締める事が良く行われているのだが、ネーム・バリューのあるビッグ・ネームの俳優が本作に出ていないのも、残念な気がする。
キャラクターの描写が乏しい点については、映画全体の印象としては、「アーサー王伝説」の長大な物語を戦闘シーンを中心にダイジェスト版として再構成した作品であるかの印象を受けた。
つまり、編集の重要コンセプトを戦闘シーンを中心にすることにより、本来語られるべきキャラクターの描写が減少し、円卓の騎士達の関係や特色すらわかりづらい、という印象を受ける。
円卓の騎士については、特異な武器や外見、そして個別の見せ場で若干の特色を出しているのだが、所謂「アーサー王伝説」を知らない観客にとっては、円卓の騎士たちは十把一絡げの印象を否定できない。
そして戦闘シーンについては、及第点(氷上の戦闘シークエンスは良かった)をあげられるのだが、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作以降、普通の戦闘シークエンスでは観客はもう満足できない状況にある、ということを製作者は理解しなければならないと思うのだ。
盛り上がりに欠ける点は、なんといっても物語の構成なのだが、起承転結的な物語の構成がいただけない。
またラストの戦闘シーンは、物語のクライマックスとしては弱く、本来はクライマックスへの布石のような、物語の途中の山場的なシークエンスとして設定されるレベルではなかろうか。
あれをラストのクライマックスの戦いにするのならば、もうひとつぐらいは見せ場が必要だったのでは無いだろうか。
あとは、マーリンやグウィネヴィアのキャラクター造形や、聖剣エクスカリバーの設定、ランスロットやトリスタンの今後の事を考えると、所謂「アーサー王伝説」のファンは激怒するんじゃないかと思うのだ。
わたしは格好良い魔法使いマーリンを期待していたのだ。
「キング・アーサー」を見る前に、観た方が良いかも知れない、所謂「アーサー王伝説」を描いた作品。
「王様の剣」
(1963年/ウォルフガング・ライザーマン監督作品/ディズニー・アニメ)
「エクスカリバー」
(1981年/ジョン・ブアマン監督作品)
余談
わたし達は、この映画のコケ防止にキーラ・ナイトレイの舞台挨拶があるのではないか、と淡い期待を抱いていたのであるが、実際は舞台挨拶に来たのは、前述のように「濃い」4人組だった。
因みにプレゼンターとして、キーラ・ナイトレイ演じるグウィネヴィアの衣裳を着けて舞台に登場したのはなんと鈴木あみだった。
鈴木あみが舞台で語った本作「キング・アーサー」の見所は、驚くべく事に的確で、製作サイドが聞いたら涙を出して喜ぶような内容のスピーチだった。
勿論ライターがいるのかも知れないが、ライターがもしいないとすると、鈴木あみはもしかすると、観察眼とそれを的確に表現する力を持った侮れない人物なのかもしれない。
舞台挨拶は、製作のジェリー・ブラッカイマー、監督のアントワーン・フークア、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ。
ローマ帝国の支配下にあった5世紀のブリテン(現在のイギリス)。
そこでは、ローマ帝国からの独立を求めている闇の魔術師マーリン(スティーヴン・ディレイン)が率いるウォードと、セルティック(ステラン・スカルスゲールド)が息子シンリック(ティル・シュヴァイガー)と共に率いる侵略者サクソン人との間で激しい戦闘が繰り返されていた。
ブリテンの血をひくアーサー(クライヴ・オーウェン)は、ローマ軍の一司令官として、無敵を誇る「円卓の騎士」を率いブリテンを南北に分断する「ハドリアヌスの城壁」の守備に当たっていた。
しかし、衰退の途にあったローマ帝国はブリテンからの撤退を決定、アーサーに対しローマ教皇の名の下、司教ゲルマヌス(イヴァノ・マレスコッティ)から、サクソン人に包囲されたブリテン北部の地からローマ人一家を救出せよ、との過酷な最後の指令が下される。
アーサーはそこでローマ人により不当に囚われいたブリテン人の美しく勇敢な女性グウィネヴィア(キーラ・ナイトレイ)を救出する。
グウィネヴィアは、ローマ帝国に仕えてブリテン人と戦うアーサーを非難、サクソン人の前に滅亡の危機に瀕したブリテンのために一緒に戦うよう迫るのだった・・・・。
他のキャストとして、円卓の騎士ランスロットにヨアン・グリフィズ、円卓の騎士トリスタンにマッツ・ミケルセン、円卓の騎士ガラハッドにヒュー・ダンシー、円卓の騎士ボースにレイ・ウィンストン、円卓の騎士ガウェインにジョエル・エドガートン、円卓の騎士ダゴネットにレイ・スティーヴンソン。
わたしは所謂「アーサー王伝説」については、映画をせいぜい数本観た程度、小説をせいぜい5〜8冊位読んだ程度の知識しか持ち合わせがないのだが、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」とは似ても似つかない作品に仕上がっているような印象を受けた。
例えるならば、所謂「アーサー王伝説」の設定を少し借りた、二次創作物、というような印象なのだ。
所謂「アーサー王伝説」は、15世紀頃の物語なのだが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王が存在したのは5世紀だった、という新たな証拠を発見、その証拠に基づき本作を制作した、という事らしい。
という訳で、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」の物語とは似ても似つかない物語に仕上がっている訳なのだ。
「キング・アーサー」と所謂「アーサー王伝説」の違いを列挙しても、全く意味が無いので、新たに創作された「キング・アーサー」について考えてみたいと思うのだ。
先ず第一印象としては、退屈で盛り上がりに欠け、キャストに魅力が感じられない中途半端な娯楽作品だ、と言う印象であった。
製作がジェリー・ブラッカイマーである、と言えば、面白ければ良い、と言うように、あまり映画を観ない一般大衆が好むような映画、商業至上主義で中身の乏しい、こけおどし系娯楽大作が想像されたのだが、監督のアントワーン・フークアの色なのか、娯楽大作にもなりきれない中途半端な作品に感じられた。
個人的に問題点だと感じたのは次の点である。
1.キャストに魅力が感じられない。
2.キャラクターの描写が乏しい。
3.盛り上がりに欠ける。
キャストに魅力が感じられない点については、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ等では客を呼べるほどのネーム・バリューが無く、一般の超大作娯楽映画にありがちの一枚看板で客を呼ぶ作戦が使えないし、アーサー王というカリスマに溢れる英雄をヒーローとして描くにはクライヴ・オーウェンでは役不足としか思えない。
尤も、所謂「アーサー王伝説」は荒唐無稽なファンタジーな訳だが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王を政治的、環境的に抑圧された、ただの一指揮官である、と設定し等身大のアーサー王を描く、というコンセプトを実践する事が目的だったならばクライヴ・オーウェンで成功している、と言えるだろう。
強いて言うならば、ヒロイン役のキーラ・ナイトレイが唯一の客を呼べる格の俳優(女優)なのかもしれない。
また、こういった作品を格調高いものにするべく、大御所俳優が出演し画面を引き締める事が良く行われているのだが、ネーム・バリューのあるビッグ・ネームの俳優が本作に出ていないのも、残念な気がする。
キャラクターの描写が乏しい点については、映画全体の印象としては、「アーサー王伝説」の長大な物語を戦闘シーンを中心にダイジェスト版として再構成した作品であるかの印象を受けた。
つまり、編集の重要コンセプトを戦闘シーンを中心にすることにより、本来語られるべきキャラクターの描写が減少し、円卓の騎士達の関係や特色すらわかりづらい、という印象を受ける。
円卓の騎士については、特異な武器や外見、そして個別の見せ場で若干の特色を出しているのだが、所謂「アーサー王伝説」を知らない観客にとっては、円卓の騎士たちは十把一絡げの印象を否定できない。
そして戦闘シーンについては、及第点(氷上の戦闘シークエンスは良かった)をあげられるのだが、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作以降、普通の戦闘シークエンスでは観客はもう満足できない状況にある、ということを製作者は理解しなければならないと思うのだ。
盛り上がりに欠ける点は、なんといっても物語の構成なのだが、起承転結的な物語の構成がいただけない。
またラストの戦闘シーンは、物語のクライマックスとしては弱く、本来はクライマックスへの布石のような、物語の途中の山場的なシークエンスとして設定されるレベルではなかろうか。
あれをラストのクライマックスの戦いにするのならば、もうひとつぐらいは見せ場が必要だったのでは無いだろうか。
あとは、マーリンやグウィネヴィアのキャラクター造形や、聖剣エクスカリバーの設定、ランスロットやトリスタンの今後の事を考えると、所謂「アーサー王伝説」のファンは激怒するんじゃないかと思うのだ。
わたしは格好良い魔法使いマーリンを期待していたのだ。
「キング・アーサー」を見る前に、観た方が良いかも知れない、所謂「アーサー王伝説」を描いた作品。
「王様の剣」
(1963年/ウォルフガング・ライザーマン監督作品/ディズニー・アニメ)
「エクスカリバー」
(1981年/ジョン・ブアマン監督作品)
余談
わたし達は、この映画のコケ防止にキーラ・ナイトレイの舞台挨拶があるのではないか、と淡い期待を抱いていたのであるが、実際は舞台挨拶に来たのは、前述のように「濃い」4人組だった。
因みにプレゼンターとして、キーラ・ナイトレイ演じるグウィネヴィアの衣裳を着けて舞台に登場したのはなんと鈴木あみだった。
鈴木あみが舞台で語った本作「キング・アーサー」の見所は、驚くべく事に的確で、製作サイドが聞いたら涙を出して喜ぶような内容のスピーチだった。
勿論ライターがいるのかも知れないが、ライターがもしいないとすると、鈴木あみはもしかすると、観察眼とそれを的確に表現する力を持った侮れない人物なのかもしれない。
2004/07/18 東京渋谷、渋谷公会堂で行なわれた「マッハ!」のマスコミ試写に行って来た。
舞台挨拶は、主演のトニー・ジャー、ムエ役のプワマーリー・ヨートガモン、 監督 プラッチャヤー・ピンゲーオ、トニー・ジャーの師匠で今作の武術指導をつとめたパンナー・リットグライ。
また当日は、舞台挨拶だけではなく、トニー・ジャーによるムエタイの演舞(?)、トニー・ジャーとガッツ石松との対決、トニー・ジャーと共に本作に出演したアクション・チームとのムエタイや映画で行なわれたようなアクションの再現等のデモンストレーションが行なわれた。
そんなトニー・ジャーの身体能力は素晴らしく、特に跳躍能力は目を瞠るものがあった。
例えば、助走も何もなしで、まるで歩いているような軽い動作からのバク転的な跳躍は同じ人間の動きとして信じられないものがあった。
敬虔な仏教徒たちが暮らす、タイののどかな田舎の村ノンプラドゥ。
村を数々の災いから救ってきた神聖な守り神「オンバク」が作られてから24年、その記念式典の夜、「オンバク」の首が切り落とされ盗まれてしまう。
犯人は、コム・タン(スチャオ・ポンウィライ)率いるバンコクの密輸団と手を組むこの村出身のドン(ワンナキット・シリプット)だった。この事件を災いの前兆と見なし、村人たちは悲嘆に暮れ、大きな災いの到来に怯えていた。
村の長老たちは「オンバク」の首の奪還を計画、孤児のティン(トニー・ジャー)は自ら「オンバク」の首の奪還を決意する。彼は僧侶プラ・クルに師事し、古式ムエタイを極めた最強の戦士だった。
村の切なる希望を託されたティンは、早速ドンの捜索にバンコクへと向かい、同郷のハム・レイ(ペットターイ・ウォンカムラオ)を探しはじめる。
ハム・レイはバンコクではジョージと名乗り、ムエ(プワマーリー・ヨートガモン)と組んでイカサマ賭博や詐欺に手を染めており、ティンは、そんなジョージに騙され「オンバク」捜索のため、村人が集めた善意のお金を奪われてしまうが・・・・。
先ずは、本作のキャッチ・コピーにもある五つの公約の実現に驚きである。
一、CGを使いません
二、ワイヤーを使いません
三、スタントマンを使いません
四、早回しを使いません
五、最強の格闘技ムエタイを使います
そして、なんと言ってもアクションである。
トニー・ジャーのムエタイ・アクションは、ブルース・リーやリー・リン・チェイ(ジェット・リー)、そしてジャッキー・チェン等のアクションの方向性と異なり、硬軟使い分けたアクションは、言うならばブルース・リー ミート ジャッキー・チェンと言う感じであろうか。
街中の追跡劇や机や椅子のような道具を使ったアクションはジャッキー・チェンの全盛期を髣髴とさせ、またムエタイでのバトル・アクションはブルース・リー等の一撃必殺系のアクションのような印象を感じる。
特に顔や頭に容赦なく当てる一撃必殺の肘や膝の打撃には驚かされるし、冒頭の「オンバク」の衣装の争奪戦のシークエンスでも、俳優達はワンカットで木から地面に平気で落ちて行くのだ。
編集で誤魔化すのではなく、ワンカットで木から地面に落ちる潔さに感動してしまう。
また街中の追跡劇では、トニー・ジャーの跳躍能力の素晴らしさが如何なく発揮されている。
別撮カメラで同じアクションを複数のカメラで2度ずつ見せるのは映画としてどうかと思う部分がある反面、リアルなアクション感の創出に一役買っている。
こういった手法はジャッキー・チェンの大技アクションを2度見せるような編集が行なわれているのだが、本作ではそれが多用されており、純粋なアクション映画としての好印象を与えているのではないだろうか。
この本作「マッハ!」におけるアクション・スター トニー・ジャーの登場は、今後の活躍の予感はともかく、ブルース・リーやジャッキー・チェンが出てきた時のような興奮を覚えるのである。
脚本は大きな捻りも無く、観客の誰もが想像するある意味予定調和的なものだが、バンコク市内の麻薬密売や国宝級の仏像の密売、地下カジノや地下格闘賭博と言った現代の魔都バンコクが抱える問題点と、田舎の村のピュアで純朴な部分との対比が素晴らしい。
特にヒロインであるムエ役のプワマーリー・ヨートガモンの役柄(姉は麻薬の密売人でジョージと共にイカサマ賭博や詐欺をはたらいている)が現代バンコクの問題点を描いており、興味深い。
また、主要キャラクターの全てが立っており、全てのキャラクターが生き生きと描写されているのも、好印象である。
アクションとしては、先ず、蹴りを主体としたアクション映画と言えば、個人的にはジェット・リーの「キス・オブ・ザ・ドラゴン」やジャッキー・チェンの「酔拳2」辺りが印象的だが、今回の「マッハ!」ではムエタイ特有のアクロバティックで美しい蹴りを主体としたアクションが楽しくも美しい。
また、街中のアクションは全盛期のジャッキー・チェンを髣髴とさせる素晴らしいシーンの続出で、非常に楽しいものを感じる。
そして勿論、CGIやワイヤー・アクションを使わないムエタイ・アクションは正にアクションの原点とも言える素晴らしいものがある。
よく言われるのだが「リポビタンD」の「ファイト一発!」のCFが所謂特撮が使われるようになってから面白くなくなった、と言われるが、逆にCGIを使わなくなってから面白くなってきた、そんな感覚を感じられる素晴らしいアクション映画に仕上がっている。
キャストとしては、なんと言っても、ジョージ(ハム・レイ)役のペットターイ・ウォンカムラオだろうか。
コメディ・リリーフを演じつつ、感動のツボをも観客に与える良い所を持っていってしまう系の役柄である。
主演のトニー・ジャーは「マッハ!」と共にブレイクする予感は感じられるが、今後のキャリアとしては、若干の不安を感じてしまう、良い意味で「マッハ!」を打破する次のキャリアを期待するのだ。
ヒロイン ムエ役のプワマーリー・ヨートガモンは典型的なアクション映画のヒロインで取り立てて見る部分は無いが、非常に魅力的で今後の活躍が期待できる。
本編ではホーイッシュな役柄だったが、実際の彼女は非常にフェミニンな感じだった。
とにかく、もしこの夏、映画を一本だけ観ると言うならば、映画の原点とも言えるアクションを楽しめる本作「マッハ!」を一番にオススメするのだ。
舞台挨拶は、主演のトニー・ジャー、ムエ役のプワマーリー・ヨートガモン、 監督 プラッチャヤー・ピンゲーオ、トニー・ジャーの師匠で今作の武術指導をつとめたパンナー・リットグライ。
また当日は、舞台挨拶だけではなく、トニー・ジャーによるムエタイの演舞(?)、トニー・ジャーとガッツ石松との対決、トニー・ジャーと共に本作に出演したアクション・チームとのムエタイや映画で行なわれたようなアクションの再現等のデモンストレーションが行なわれた。
そんなトニー・ジャーの身体能力は素晴らしく、特に跳躍能力は目を瞠るものがあった。
例えば、助走も何もなしで、まるで歩いているような軽い動作からのバク転的な跳躍は同じ人間の動きとして信じられないものがあった。
敬虔な仏教徒たちが暮らす、タイののどかな田舎の村ノンプラドゥ。
村を数々の災いから救ってきた神聖な守り神「オンバク」が作られてから24年、その記念式典の夜、「オンバク」の首が切り落とされ盗まれてしまう。
犯人は、コム・タン(スチャオ・ポンウィライ)率いるバンコクの密輸団と手を組むこの村出身のドン(ワンナキット・シリプット)だった。この事件を災いの前兆と見なし、村人たちは悲嘆に暮れ、大きな災いの到来に怯えていた。
村の長老たちは「オンバク」の首の奪還を計画、孤児のティン(トニー・ジャー)は自ら「オンバク」の首の奪還を決意する。彼は僧侶プラ・クルに師事し、古式ムエタイを極めた最強の戦士だった。
村の切なる希望を託されたティンは、早速ドンの捜索にバンコクへと向かい、同郷のハム・レイ(ペットターイ・ウォンカムラオ)を探しはじめる。
ハム・レイはバンコクではジョージと名乗り、ムエ(プワマーリー・ヨートガモン)と組んでイカサマ賭博や詐欺に手を染めており、ティンは、そんなジョージに騙され「オンバク」捜索のため、村人が集めた善意のお金を奪われてしまうが・・・・。
先ずは、本作のキャッチ・コピーにもある五つの公約の実現に驚きである。
一、CGを使いません
二、ワイヤーを使いません
三、スタントマンを使いません
四、早回しを使いません
五、最強の格闘技ムエタイを使います
そして、なんと言ってもアクションである。
トニー・ジャーのムエタイ・アクションは、ブルース・リーやリー・リン・チェイ(ジェット・リー)、そしてジャッキー・チェン等のアクションの方向性と異なり、硬軟使い分けたアクションは、言うならばブルース・リー ミート ジャッキー・チェンと言う感じであろうか。
街中の追跡劇や机や椅子のような道具を使ったアクションはジャッキー・チェンの全盛期を髣髴とさせ、またムエタイでのバトル・アクションはブルース・リー等の一撃必殺系のアクションのような印象を感じる。
特に顔や頭に容赦なく当てる一撃必殺の肘や膝の打撃には驚かされるし、冒頭の「オンバク」の衣装の争奪戦のシークエンスでも、俳優達はワンカットで木から地面に平気で落ちて行くのだ。
編集で誤魔化すのではなく、ワンカットで木から地面に落ちる潔さに感動してしまう。
また街中の追跡劇では、トニー・ジャーの跳躍能力の素晴らしさが如何なく発揮されている。
別撮カメラで同じアクションを複数のカメラで2度ずつ見せるのは映画としてどうかと思う部分がある反面、リアルなアクション感の創出に一役買っている。
こういった手法はジャッキー・チェンの大技アクションを2度見せるような編集が行なわれているのだが、本作ではそれが多用されており、純粋なアクション映画としての好印象を与えているのではないだろうか。
この本作「マッハ!」におけるアクション・スター トニー・ジャーの登場は、今後の活躍の予感はともかく、ブルース・リーやジャッキー・チェンが出てきた時のような興奮を覚えるのである。
脚本は大きな捻りも無く、観客の誰もが想像するある意味予定調和的なものだが、バンコク市内の麻薬密売や国宝級の仏像の密売、地下カジノや地下格闘賭博と言った現代の魔都バンコクが抱える問題点と、田舎の村のピュアで純朴な部分との対比が素晴らしい。
特にヒロインであるムエ役のプワマーリー・ヨートガモンの役柄(姉は麻薬の密売人でジョージと共にイカサマ賭博や詐欺をはたらいている)が現代バンコクの問題点を描いており、興味深い。
また、主要キャラクターの全てが立っており、全てのキャラクターが生き生きと描写されているのも、好印象である。
アクションとしては、先ず、蹴りを主体としたアクション映画と言えば、個人的にはジェット・リーの「キス・オブ・ザ・ドラゴン」やジャッキー・チェンの「酔拳2」辺りが印象的だが、今回の「マッハ!」ではムエタイ特有のアクロバティックで美しい蹴りを主体としたアクションが楽しくも美しい。
また、街中のアクションは全盛期のジャッキー・チェンを髣髴とさせる素晴らしいシーンの続出で、非常に楽しいものを感じる。
そして勿論、CGIやワイヤー・アクションを使わないムエタイ・アクションは正にアクションの原点とも言える素晴らしいものがある。
よく言われるのだが「リポビタンD」の「ファイト一発!」のCFが所謂特撮が使われるようになってから面白くなくなった、と言われるが、逆にCGIを使わなくなってから面白くなってきた、そんな感覚を感じられる素晴らしいアクション映画に仕上がっている。
キャストとしては、なんと言っても、ジョージ(ハム・レイ)役のペットターイ・ウォンカムラオだろうか。
コメディ・リリーフを演じつつ、感動のツボをも観客に与える良い所を持っていってしまう系の役柄である。
主演のトニー・ジャーは「マッハ!」と共にブレイクする予感は感じられるが、今後のキャリアとしては、若干の不安を感じてしまう、良い意味で「マッハ!」を打破する次のキャリアを期待するのだ。
ヒロイン ムエ役のプワマーリー・ヨートガモンは典型的なアクション映画のヒロインで取り立てて見る部分は無いが、非常に魅力的で今後の活躍が期待できる。
本編ではホーイッシュな役柄だったが、実際の彼女は非常にフェミニンな感じだった。
とにかく、もしこの夏、映画を一本だけ観ると言うならば、映画の原点とも言えるアクションを楽しめる本作「マッハ!」を一番にオススメするのだ。
「丹下左膳 百万両の壺」
2004年7月14日 映画
2004/07/13 東京新橋ヤクルトホールで実施された「丹下左膳 百万両の壺」の試写会に行って来た。
<− 画像は1935年のオリジナル版「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」
右目と右腕を失い侍として生きる道を捨てた男、丹下左膳(豊川悦司)。
今は縁あって、勝ち気なお藤(和久井映見)の夫となり、お藤が切り盛りする矢場の用心棒として暮らしていた。
その頃、柳生の里では藩主、柳生対馬守(金田明夫)が、幕府に押し付けられた寺社再建の資金の工面に難儀していた。
しかし、柳生家先祖伝来の「こけ猿の壺」に百万両もの莫大な軍資金の隠し場所が塗り込まれていると聞き及び、大喜びするも、その壺は江戸へ婿養子に行った弟、源三郎(野村宏伸)に婿入りの祝いの品として既に贈ってしまっていたのだ。
そんな「こけ猿の壺」のいわくを知らない源三郎の妻、萩乃(麻生久美子)は、見た目が汚い「こけ猿の壺」を通りかかった回収屋(かつみ・さゆり)に売り払ってしまう。
そして「こけ猿の壺」は、その回収屋の手から5歳の少年、ちょび安(武井証)のもとへ転がり込み、ちょび安は、その「こけ猿の壺」をあろうことか金魚鉢として使いはじめたのだ。
しかしその夜、ちょび安の唯一の肉親である祖父、弥平(坂本長利)が、昼間お藤の矢場で因縁をつけてきた侍たちが左膳に襲い掛かり、巻き込まれた弥平は左膳に孫を頼むと言い残し、そのまま息を引き取ってしまう。
口では子供が大嫌いと断言するお藤だったが、左膳に押し切られる形で、ちょび安を「こけ猿の壺」ごと引きとり、面倒をみる事になったのだが・・・・・。
本作「丹下左膳 百万両の壺」は、個人的に若干気に入らないところがあるものの、それに目を瞑れば大変素晴らしい江戸人情喜劇に仕上がっている。
わたしは、丹下左膳と言うイメージから、粋でいなせで格好良い、痛快時代劇を期待していたのだが、痛快な部分はそれ程多い訳では無く、どちらかと言うと、江戸の市井に生きる真っ当な人々が織りなす、前述のように人情喜劇的な作品に思えた。
雰囲気は黒澤明の「椿三十郎」ミート「浮浪雲(ジョージ秋山の漫画)」という感じだろうか。
ところで、この映画の一番の見所はなんと言っても、左膳(豊川悦司)とお藤(和久井映見)の歯に衣着せぬやり取りであろう。
左膳とお藤のキャラクターは、頑固で照れ屋で意地っ張りで、口は悪いが根は優しい、そんな江戸っ子気質を見事に体現しているのだ。
特に和久井映見が演じたお藤のキャラクター造形は、和久井映見の気風の良い演技と相まって素晴らしいものがある。
尤もこれは、もしかすると俳優の力と言うより、脚本のなせる業なのかも知れないが。
そもそも本作の脚本は、この映画のオリジナル版である山中貞雄の「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」の脚本(三村伸太郎)をベースに今回、江戸木純が書き上げたものである。
江戸木純が凄いのか、はたまた三村伸太郎が凄いのかは定かではないが、とにかく本作は登場する全てのキャラクターが生き生きと息づいている素晴らしい作品だと思うのだ。
しかしながら物語のプロットはベタで安易で特に捻りも無く、展開は誰の目にも想像に難くないのだが、そのある意味予定調和的な安心感が、ほのぼのとしながらも懸命に生きる江戸市井の町人たちの生き様に、見事にマッチした素敵な物語に思えるのだ。
また、のほほんとした婿養子源三郎(野村宏伸)とその強気な妻、萩乃(麻生久美子)のやり取りも面白い。
さて、わたしが気に入らないところだが、先ずは不必要なSE(効果音)が入っているという点である。
例えば置物の猫である。
左膳とお藤が対立し舌戦を繰り広げるシークエンスで、左膳とお藤が何度か猫の置物の向きを変えるのであるが、その都度その都度、猫の鳴き声のSEが入っているのだ。
また、何か物を叩く際、または登場人物が何か意味ありげな行動を取る際、作品のスタイルとミス・マッチな妙なSEが入れられているのだ。
これは映画に対する感情移入を阻害するひとつの要因と考えられるのではないだろうか。
また、音楽についてだが、メインタイトル等にフィーチャーされているメインの楽器がピアノである、と言うのもいただけない。
折角物語の中で、お藤は三味線が得意で唄も歌うのだから、音楽の方向性として和楽器をフィーチャーしたスコアでサントラを構成して欲しいと思った。
あとは若干殺陣がまずいかも知れない。
右手が無い左膳と刺客らの立ち回りは、やはり難しいのかも知れない。
最近のアジアの作品のような、美しい殺陣に仕上げようとしているのは見て取れるのだが、残念ながら若干の違和感が感じられた。
余談だが、「ラストサムライ」でいきなりメジャーになった感のある福本清三も勿論斬られ役で本作に登場していた。
あと気になったのは、漫才コンビかつみ・さゆり演じる回収屋の登場するカットが無駄に長いし、無駄なお笑いがある。
いくらなんでも、セリフは無いものの、ポヨヨ〜ンはまずいだろう。
世の中には、その映画の事を思い出す度に、口元に笑みがこぼれ、幸せな気持ちに浸れる、と言う幸福な映画がたまにあるが、本作「丹下左膳 百万両の壺」は、正しくそんな映画の一本である、と言えるのだ。
今年は比較的日本映画に勢いがあり、良い作品が何本もあるが、本作「丹下左膳 百万両の壺」はそれらの今年の良い作品の一本として胸を張ってオススメできる素敵な作品なのだ。
是非劇場に足を運んでいただき、左膳とお藤の素敵な口喧嘩を楽しんで欲しいのだ。
<− 画像は1935年のオリジナル版「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」
右目と右腕を失い侍として生きる道を捨てた男、丹下左膳(豊川悦司)。
今は縁あって、勝ち気なお藤(和久井映見)の夫となり、お藤が切り盛りする矢場の用心棒として暮らしていた。
その頃、柳生の里では藩主、柳生対馬守(金田明夫)が、幕府に押し付けられた寺社再建の資金の工面に難儀していた。
しかし、柳生家先祖伝来の「こけ猿の壺」に百万両もの莫大な軍資金の隠し場所が塗り込まれていると聞き及び、大喜びするも、その壺は江戸へ婿養子に行った弟、源三郎(野村宏伸)に婿入りの祝いの品として既に贈ってしまっていたのだ。
そんな「こけ猿の壺」のいわくを知らない源三郎の妻、萩乃(麻生久美子)は、見た目が汚い「こけ猿の壺」を通りかかった回収屋(かつみ・さゆり)に売り払ってしまう。
そして「こけ猿の壺」は、その回収屋の手から5歳の少年、ちょび安(武井証)のもとへ転がり込み、ちょび安は、その「こけ猿の壺」をあろうことか金魚鉢として使いはじめたのだ。
しかしその夜、ちょび安の唯一の肉親である祖父、弥平(坂本長利)が、昼間お藤の矢場で因縁をつけてきた侍たちが左膳に襲い掛かり、巻き込まれた弥平は左膳に孫を頼むと言い残し、そのまま息を引き取ってしまう。
口では子供が大嫌いと断言するお藤だったが、左膳に押し切られる形で、ちょび安を「こけ猿の壺」ごと引きとり、面倒をみる事になったのだが・・・・・。
本作「丹下左膳 百万両の壺」は、個人的に若干気に入らないところがあるものの、それに目を瞑れば大変素晴らしい江戸人情喜劇に仕上がっている。
わたしは、丹下左膳と言うイメージから、粋でいなせで格好良い、痛快時代劇を期待していたのだが、痛快な部分はそれ程多い訳では無く、どちらかと言うと、江戸の市井に生きる真っ当な人々が織りなす、前述のように人情喜劇的な作品に思えた。
雰囲気は黒澤明の「椿三十郎」ミート「浮浪雲(ジョージ秋山の漫画)」という感じだろうか。
ところで、この映画の一番の見所はなんと言っても、左膳(豊川悦司)とお藤(和久井映見)の歯に衣着せぬやり取りであろう。
左膳とお藤のキャラクターは、頑固で照れ屋で意地っ張りで、口は悪いが根は優しい、そんな江戸っ子気質を見事に体現しているのだ。
特に和久井映見が演じたお藤のキャラクター造形は、和久井映見の気風の良い演技と相まって素晴らしいものがある。
尤もこれは、もしかすると俳優の力と言うより、脚本のなせる業なのかも知れないが。
そもそも本作の脚本は、この映画のオリジナル版である山中貞雄の「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」の脚本(三村伸太郎)をベースに今回、江戸木純が書き上げたものである。
江戸木純が凄いのか、はたまた三村伸太郎が凄いのかは定かではないが、とにかく本作は登場する全てのキャラクターが生き生きと息づいている素晴らしい作品だと思うのだ。
しかしながら物語のプロットはベタで安易で特に捻りも無く、展開は誰の目にも想像に難くないのだが、そのある意味予定調和的な安心感が、ほのぼのとしながらも懸命に生きる江戸市井の町人たちの生き様に、見事にマッチした素敵な物語に思えるのだ。
また、のほほんとした婿養子源三郎(野村宏伸)とその強気な妻、萩乃(麻生久美子)のやり取りも面白い。
さて、わたしが気に入らないところだが、先ずは不必要なSE(効果音)が入っているという点である。
例えば置物の猫である。
左膳とお藤が対立し舌戦を繰り広げるシークエンスで、左膳とお藤が何度か猫の置物の向きを変えるのであるが、その都度その都度、猫の鳴き声のSEが入っているのだ。
また、何か物を叩く際、または登場人物が何か意味ありげな行動を取る際、作品のスタイルとミス・マッチな妙なSEが入れられているのだ。
これは映画に対する感情移入を阻害するひとつの要因と考えられるのではないだろうか。
また、音楽についてだが、メインタイトル等にフィーチャーされているメインの楽器がピアノである、と言うのもいただけない。
折角物語の中で、お藤は三味線が得意で唄も歌うのだから、音楽の方向性として和楽器をフィーチャーしたスコアでサントラを構成して欲しいと思った。
あとは若干殺陣がまずいかも知れない。
右手が無い左膳と刺客らの立ち回りは、やはり難しいのかも知れない。
最近のアジアの作品のような、美しい殺陣に仕上げようとしているのは見て取れるのだが、残念ながら若干の違和感が感じられた。
余談だが、「ラストサムライ」でいきなりメジャーになった感のある福本清三も勿論斬られ役で本作に登場していた。
あと気になったのは、漫才コンビかつみ・さゆり演じる回収屋の登場するカットが無駄に長いし、無駄なお笑いがある。
いくらなんでも、セリフは無いものの、ポヨヨ〜ンはまずいだろう。
世の中には、その映画の事を思い出す度に、口元に笑みがこぼれ、幸せな気持ちに浸れる、と言う幸福な映画がたまにあるが、本作「丹下左膳 百万両の壺」は、正しくそんな映画の一本である、と言えるのだ。
今年は比較的日本映画に勢いがあり、良い作品が何本もあるが、本作「丹下左膳 百万両の壺」はそれらの今年の良い作品の一本として胸を張ってオススメできる素敵な作品なのだ。
是非劇場に足を運んでいただき、左膳とお藤の素敵な口喧嘩を楽しんで欲しいのだ。
「MAIL〜special version〜」
2004年7月13日 映画2004/07/12 東京渋谷シネクイントで行われた「MAIL〜special version〜」の完成披露試写会に行ってきた。
舞台挨拶は、監督の高橋巖、主演の須賀貴匡、栗山千明、共演のあびる優。会場には、他に共演者の久保晶等の顔も見えた。
「MAIL」はもともと、WEB上で公開される事を目的とした角川ホラーシネマの1シリーズとしてビデオで製作された9編のショート・フィルムだったのだが、その9編のショート・フィルムを110分の劇場用作品として再編集し、今回「MAIL〜special version〜」として劇場公開の運びとなった訳である。
闇に潜む悪霊を、次々と霊銃迦具土(カグツチ)で昇天させていく霊能探偵秋葉零児(須賀貴匡)と謎の美少女美琴(栗山千明)
の恐怖の心霊ストーリー。
そして、恐ろしい事件の果てに、美しくも切ない謎が解き明かされていく・・・
角川ホラーの新ページを飾る、<恐怖>と<ロマン>が、いよいよ“解禁”!
(角川ホラーシネマ/「MAIL」宣伝コピーより引用)
脚本は、各エピソード毎の心霊現象から悪霊を除霊する部分については、所謂都市伝説や素人の怪談話の域を出ない他愛の無い物語なのだが、シリーズ全体の構成については、決して見るべきものが無い訳ではない。
製作サイドとしても、各エピソード毎の心霊現象や除霊のシークエンスを描くより、秋葉零児(須賀貴匡)と謎の美少女美琴(栗山千明)の現在と過去を、シリーズ全体として伏線を構築し、物語を描きたかったのだろうと容易に推察する事が出来る。
そして、そう考えた場合、この作品は単純な都市伝説を扱ったホラー作品と言うより、人や心霊の切ない情念とその悲劇を描いた感動的な作品である、と捉える事が出来るのである。
勿論、個人的には優れたホラー作品とは恐怖と悲しみを上手く描写している事が必須要件だと考えるわたしだが、その上で考えると本作は恐怖の描写に若干の問題点はあるものの、比較的良心的で良質なホラー作品である、と言えるのではないだろうか。
とは言うものの、秋葉零児に霊銃迦具土(カグツチ)を譲る事になる謎の男(森本レオ)の存在を始めとしたプロットのいくつかに不備や消化不良の部分があるようである。
これは、本作が元々は9編のショート・フィルムだった事に因る問題点なのかも知れない。
撮影・編集・特撮等については、なんと言ってもビデオで製作されWEB上で公開される事を前提としていた作品だけに、チープと言えばチープなのだが、スタッフはチープなりに頑張っていると言う好意的な印象を受けた。
セットではなく、ほぼオールロケであったり、特撮が必要な部分を編集でごまかしたり等々。
余談だが、セットではなく、公園の本物の公衆トイレで転げまわって演技をする俳優たちにも役者魂を感じてしまうのだ。
ただ、やはり劇場公開をするにはビデオの画質に問題があるかも知れないと個人的には思ったのも事実である。
キャスト的は、特別な可も不可も無いのだが敢えて言うならば、霊能探偵秋葉零児を演じた須賀貴匡については、スタイルが固定されてしまっている探偵像ではなく、探偵になる前の過去のシークエンスが良かった。
創られた探偵像ではなく、一人の青年を演じているところに面白みを感じるのだ。
また謎の美少女美琴を演じた栗山千明については、「バトル・ロワイヤル」や「キル・ビル」と比較すると、より等身大の普通のキャラクターを軽くこなしているような印象を受けた。
ただ、衣裳は「キル・ビル」そのままであった。
余談だが舞台挨拶については、シネクイントにはステージが無いため、監督やキャストの足元までが見切れず、通常は客席の後ろか横に三脚を固定し陣取るカメラ・クルーが舞台挨拶が始まるやいなや、俳優の足元が見切れないためか、カメラを担いで客席前方まで走ってきたのには驚いた。
通常の舞台挨拶の映像は三脚固定のものなのだが、今回の映像はハンド・カメラのものだったのではないだろうか。
また、舞台挨拶については、女優としてある程度評価されている栗山千明に対するあびる優の過剰なライバル意識や前に出ようとする自意識、良く映ろうとする意識が見え隠れする一方、栗山千明はあびる優のライバル意識も自意識も「どこ吹く風」と言った風情で、狙いかもしれないが、ある意味大物の風格を感じさせられた、と言う面白い舞台挨拶であった。
主演の須賀貴匡は、「仮面ライダー龍騎」で出てきた俳優だけに、「仮面ライダー龍騎」ショー等で培ってきたであろうが、舞台挨拶のような観客の前に出る(演技する)事に慣れているような余裕を感じた。
舞台挨拶の個人的な印象としては、監督の高橋巖はともかく、落ち着きはらいある種大物然とした須賀貴匡と栗山千明に、霊感の話題で前に出ようとしてちょっと失敗しちゃた感で、若干オドオド気味のあびる優という構図が面白かった。
怖がりながら、気付いたら泣いていた、という感じの作品が好きな方にはオススメの一本だが、劇場で観るべきか、WEB上で観るべきかと言うと微妙である。
もし、怖さを追求するならば、比較的広い部屋の壁際にパソコンをセッティングし(背後には大きな空間ね)、深夜に照明を落してヘッドフォンで音を聞きながら、パソコンのディスプレイを覗き込む、というシチュエーションが良いかも知れない。
http://www.rbbtoday.com/news/20040713/17520.html
舞台挨拶は、監督の高橋巖、主演の須賀貴匡、栗山千明、共演のあびる優。会場には、他に共演者の久保晶等の顔も見えた。
「MAIL」はもともと、WEB上で公開される事を目的とした角川ホラーシネマの1シリーズとしてビデオで製作された9編のショート・フィルムだったのだが、その9編のショート・フィルムを110分の劇場用作品として再編集し、今回「MAIL〜special version〜」として劇場公開の運びとなった訳である。
闇に潜む悪霊を、次々と霊銃迦具土(カグツチ)で昇天させていく霊能探偵秋葉零児(須賀貴匡)と謎の美少女美琴(栗山千明)
の恐怖の心霊ストーリー。
そして、恐ろしい事件の果てに、美しくも切ない謎が解き明かされていく・・・
角川ホラーの新ページを飾る、<恐怖>と<ロマン>が、いよいよ“解禁”!
(角川ホラーシネマ/「MAIL」宣伝コピーより引用)
脚本は、各エピソード毎の心霊現象から悪霊を除霊する部分については、所謂都市伝説や素人の怪談話の域を出ない他愛の無い物語なのだが、シリーズ全体の構成については、決して見るべきものが無い訳ではない。
製作サイドとしても、各エピソード毎の心霊現象や除霊のシークエンスを描くより、秋葉零児(須賀貴匡)と謎の美少女美琴(栗山千明)の現在と過去を、シリーズ全体として伏線を構築し、物語を描きたかったのだろうと容易に推察する事が出来る。
そして、そう考えた場合、この作品は単純な都市伝説を扱ったホラー作品と言うより、人や心霊の切ない情念とその悲劇を描いた感動的な作品である、と捉える事が出来るのである。
勿論、個人的には優れたホラー作品とは恐怖と悲しみを上手く描写している事が必須要件だと考えるわたしだが、その上で考えると本作は恐怖の描写に若干の問題点はあるものの、比較的良心的で良質なホラー作品である、と言えるのではないだろうか。
とは言うものの、秋葉零児に霊銃迦具土(カグツチ)を譲る事になる謎の男(森本レオ)の存在を始めとしたプロットのいくつかに不備や消化不良の部分があるようである。
これは、本作が元々は9編のショート・フィルムだった事に因る問題点なのかも知れない。
撮影・編集・特撮等については、なんと言ってもビデオで製作されWEB上で公開される事を前提としていた作品だけに、チープと言えばチープなのだが、スタッフはチープなりに頑張っていると言う好意的な印象を受けた。
セットではなく、ほぼオールロケであったり、特撮が必要な部分を編集でごまかしたり等々。
余談だが、セットではなく、公園の本物の公衆トイレで転げまわって演技をする俳優たちにも役者魂を感じてしまうのだ。
ただ、やはり劇場公開をするにはビデオの画質に問題があるかも知れないと個人的には思ったのも事実である。
キャスト的は、特別な可も不可も無いのだが敢えて言うならば、霊能探偵秋葉零児を演じた須賀貴匡については、スタイルが固定されてしまっている探偵像ではなく、探偵になる前の過去のシークエンスが良かった。
創られた探偵像ではなく、一人の青年を演じているところに面白みを感じるのだ。
また謎の美少女美琴を演じた栗山千明については、「バトル・ロワイヤル」や「キル・ビル」と比較すると、より等身大の普通のキャラクターを軽くこなしているような印象を受けた。
ただ、衣裳は「キル・ビル」そのままであった。
余談だが舞台挨拶については、シネクイントにはステージが無いため、監督やキャストの足元までが見切れず、通常は客席の後ろか横に三脚を固定し陣取るカメラ・クルーが舞台挨拶が始まるやいなや、俳優の足元が見切れないためか、カメラを担いで客席前方まで走ってきたのには驚いた。
通常の舞台挨拶の映像は三脚固定のものなのだが、今回の映像はハンド・カメラのものだったのではないだろうか。
また、舞台挨拶については、女優としてある程度評価されている栗山千明に対するあびる優の過剰なライバル意識や前に出ようとする自意識、良く映ろうとする意識が見え隠れする一方、栗山千明はあびる優のライバル意識も自意識も「どこ吹く風」と言った風情で、狙いかもしれないが、ある意味大物の風格を感じさせられた、と言う面白い舞台挨拶であった。
主演の須賀貴匡は、「仮面ライダー龍騎」で出てきた俳優だけに、「仮面ライダー龍騎」ショー等で培ってきたであろうが、舞台挨拶のような観客の前に出る(演技する)事に慣れているような余裕を感じた。
舞台挨拶の個人的な印象としては、監督の高橋巖はともかく、落ち着きはらいある種大物然とした須賀貴匡と栗山千明に、霊感の話題で前に出ようとしてちょっと失敗しちゃた感で、若干オドオド気味のあびる優という構図が面白かった。
怖がりながら、気付いたら泣いていた、という感じの作品が好きな方にはオススメの一本だが、劇場で観るべきか、WEB上で観るべきかと言うと微妙である。
もし、怖さを追求するならば、比較的広い部屋の壁際にパソコンをセッティングし(背後には大きな空間ね)、深夜に照明を落してヘッドフォンで音を聞きながら、パソコンのディスプレイを覗き込む、というシチュエーションが良いかも知れない。
http://www.rbbtoday.com/news/20040713/17520.html
「バレエ・カンパニー」
2004年7月12日 映画
2004/07/12 東京九段下 九段会館大ホールで行われたロバート・アルトマンの新作「バレエ・カンパニー」の試写会に行ってきた。
本作はシカゴに本拠地を置く実在の名門バレエ・カンパニー「ジョフリー・バレエ・オブ・シカゴ」を舞台に、天才的演出家による新作バレエの創出を縦軸に、バレエ・ダンサーの群像劇を横軸にしたドキュメンタリー・タッチの作品である。
本作の作風は、先ずバレエ作品のリハーサル風景を描き、その直後のシーンでリハーサルを行っていたバレエ作品が上演されているシーンを見せる、という形式の繰り返しとなっている。
そして、そのリハーサル場面では、認められない新人バレエ・ダンサー、カンパニー側と演出家の確執、大御所ダンサーと演出家の確執、大御所ダンサーの事故による失脚、大御所ダンサーの失脚に伴う若手ダンサーの登用等様々な出来事のディテールが詳細に描かれている。
リハーサル・シーンも素晴らしいのだが、それと対をなすバレエ上演シーンも大変素晴らしい。
勿論本職のバレエ・ダンサーが演じている訳だから素晴らしいのはあたり前なのだが、彼等バレエ・ダンサーはわたし達人類がどう足掻いても逃れられない重力から、いとも軽々と解き放たれ、また筋力を総動員した極限的動作の素晴らしさは例えようも無い。
そういった観点から考えると、本作「バレエ・カンパニー」はある種アクション映画である、と言っても全く差支えは無いのではないだろうか。
例えば市川崑の「東京オリンピック」やクロード・ルルーシュの「白い恋人たち/グルノーブルの13日」と言った、人間が動いているだけの映像と音楽で、観客に滂沱の感動を与える作品に近い印象を受けた。
同様の感慨は「グリーン・デスティニー」の冒頭のミシェール・ヨーとチャン・ツィイーの空中戦的ワイヤー・アクションのシークエンスでも感じられ、彼女等の追跡劇を見ているだけで滂沱状態に陥ってしまうのだが、本作「バレエ・カンパニー」では、「グリーン・デスティニー」の必要条件として存在するワイヤー・アクション無しで空中を舞うバレエ・ダンサーの姿に驚愕的滂沱状態なのだ。
ついでだが、「リトル・ダンサー」のラストのたったひとつの跳躍にも感涙ものなのだ。
さて、キャストだが、なんと言っても主演ライ役のネイヴ・キャンベルには驚かされた。
何しろ、本作の原案はネイヴ・キャンベルのもので、実際のバレエ・ダンサーを目指していた彼女は、スタンド・イン無しにバレエ・ダンサー役を見事に演じきっていた。
と言うより、バレエ・シーンをあれほどまでにこなせる俳優の存在に驚きなのだ。
さて、わたしが敬愛してやまないマルコム・マクダウェルは、「バレエ・カンパニー」の総監督(?)Mr.Aことアルベルト・アントネリを好演していた。
ロバート・アルトマンとのコラボレーションと言えば「ザ・プレイヤー」のカメオがあるが、本作ではおそらくその関係でのキャスティングになったのではないだろうか。
マルコム・マクダウェル的には、ここ近年の代表作になったのではないかと思う。
あとは最近「スパイダーマン」シリーズで有名なジェームズ・フランコも目立たないながらも好演している。
わたしは当初、ジェームズ・フランコはバレエ・ダンサー役として出演していると思っていたのだが、実際は踊らない役だったので、個人的には安心した。
ところで、本作は、バレエ上演のシークエンスを楽しめるかどうかで評価が対極的に変わってくる、所謂観客を選ぶ作品になっているのではないだろうか。
つまり本作の評価の分岐点としてバレエ上演シークエンスが機能しているのだ。
そのバレエ上演シーンを楽しめれば、この映画は素晴らしい作品となるだろうし、もしそのバレエ上演シーンが楽しめなければ、本作は退屈で、ほとんどドラマが起きない平凡な映画の印象を観客に与えるかもしれないのだ。
しかしながら本作は、人類が創出した最高の芸術形態のひとつである「バレエ」に対する一般大衆の「敷居が高い、わかりずらい、高尚だ」というような誤った先入観を打破する力を持った作品である事は事実なのである。
バレエに対して変な先入観を持つ人達にも、是非「バレエ・カンパニー」に足を運んでもらいたいのだ。
本作はシカゴに本拠地を置く実在の名門バレエ・カンパニー「ジョフリー・バレエ・オブ・シカゴ」を舞台に、天才的演出家による新作バレエの創出を縦軸に、バレエ・ダンサーの群像劇を横軸にしたドキュメンタリー・タッチの作品である。
本作の作風は、先ずバレエ作品のリハーサル風景を描き、その直後のシーンでリハーサルを行っていたバレエ作品が上演されているシーンを見せる、という形式の繰り返しとなっている。
そして、そのリハーサル場面では、認められない新人バレエ・ダンサー、カンパニー側と演出家の確執、大御所ダンサーと演出家の確執、大御所ダンサーの事故による失脚、大御所ダンサーの失脚に伴う若手ダンサーの登用等様々な出来事のディテールが詳細に描かれている。
リハーサル・シーンも素晴らしいのだが、それと対をなすバレエ上演シーンも大変素晴らしい。
勿論本職のバレエ・ダンサーが演じている訳だから素晴らしいのはあたり前なのだが、彼等バレエ・ダンサーはわたし達人類がどう足掻いても逃れられない重力から、いとも軽々と解き放たれ、また筋力を総動員した極限的動作の素晴らしさは例えようも無い。
そういった観点から考えると、本作「バレエ・カンパニー」はある種アクション映画である、と言っても全く差支えは無いのではないだろうか。
例えば市川崑の「東京オリンピック」やクロード・ルルーシュの「白い恋人たち/グルノーブルの13日」と言った、人間が動いているだけの映像と音楽で、観客に滂沱の感動を与える作品に近い印象を受けた。
同様の感慨は「グリーン・デスティニー」の冒頭のミシェール・ヨーとチャン・ツィイーの空中戦的ワイヤー・アクションのシークエンスでも感じられ、彼女等の追跡劇を見ているだけで滂沱状態に陥ってしまうのだが、本作「バレエ・カンパニー」では、「グリーン・デスティニー」の必要条件として存在するワイヤー・アクション無しで空中を舞うバレエ・ダンサーの姿に驚愕的滂沱状態なのだ。
ついでだが、「リトル・ダンサー」のラストのたったひとつの跳躍にも感涙ものなのだ。
さて、キャストだが、なんと言っても主演ライ役のネイヴ・キャンベルには驚かされた。
何しろ、本作の原案はネイヴ・キャンベルのもので、実際のバレエ・ダンサーを目指していた彼女は、スタンド・イン無しにバレエ・ダンサー役を見事に演じきっていた。
と言うより、バレエ・シーンをあれほどまでにこなせる俳優の存在に驚きなのだ。
さて、わたしが敬愛してやまないマルコム・マクダウェルは、「バレエ・カンパニー」の総監督(?)Mr.Aことアルベルト・アントネリを好演していた。
ロバート・アルトマンとのコラボレーションと言えば「ザ・プレイヤー」のカメオがあるが、本作ではおそらくその関係でのキャスティングになったのではないだろうか。
マルコム・マクダウェル的には、ここ近年の代表作になったのではないかと思う。
あとは最近「スパイダーマン」シリーズで有名なジェームズ・フランコも目立たないながらも好演している。
わたしは当初、ジェームズ・フランコはバレエ・ダンサー役として出演していると思っていたのだが、実際は踊らない役だったので、個人的には安心した。
ところで、本作は、バレエ上演のシークエンスを楽しめるかどうかで評価が対極的に変わってくる、所謂観客を選ぶ作品になっているのではないだろうか。
つまり本作の評価の分岐点としてバレエ上演シークエンスが機能しているのだ。
そのバレエ上演シーンを楽しめれば、この映画は素晴らしい作品となるだろうし、もしそのバレエ上演シーンが楽しめなければ、本作は退屈で、ほとんどドラマが起きない平凡な映画の印象を観客に与えるかもしれないのだ。
しかしながら本作は、人類が創出した最高の芸術形態のひとつである「バレエ」に対する一般大衆の「敷居が高い、わかりずらい、高尚だ」というような誤った先入観を打破する力を持った作品である事は事実なのである。
バレエに対して変な先入観を持つ人達にも、是非「バレエ・カンパニー」に足を運んでもらいたいのだ。
2004/07/10池袋「テアトルダイヤ」で行なわれた「いかレスラー」の試写会に行って来た。
今回の試写会は、本作の監督である河崎実の舞台挨拶もあり、一般の観客に対するプレミア上映ということであった。
超日本プロレスのIMGP王者決定戦において新チャンピオンとなった田口浩二(AKIRA)。
コミッショナーからチャンピオンベルトを受けようとしたその瞬間、なんとリングに巨大ないかが乱入、田口に闘いを挑んできた。
巨大いかに関節技をかける田口だったが、関節が無いいかに関節技が効く訳も無く、田口は逆にノーザンライト・スープレックスでKOされてしまう。
このいかレスラーの正体こそ、かつて不治の病を患って失踪してしまった人気レスラーの岩田貫一(西村修)であった。
彼はパキスタンの山岳地帯の桃源郷で修行を積みいかとなることで病を克服したのだった・・・・。
岩田のかつての恋人で、現在は田口のフィアンセ鴨橋美弥子に石田香奈。
他のキャストとしてルー大柴、きくち英一、中田博久。
監督は河崎実、監修は実相寺昭雄。
先ず第一印象としては、自主制作映画のような類型的でお約束シーンが続く、ベタで捻りも無い、つまらない映画であった。
物語のメインのコンセプトは、主演二人の名前であるカンイチ&オミヤが示すようにおそらく「金色夜叉」であるのだろうが、物語は「ロッキー」や「あしたのジョー」、「ウルトラマン」や「愛の戦士レインボーマン」等々への言及があるとんでもない映画になっている。
監修が実相寺昭雄ということであるが、「新世紀エヴァンゲリオン」で庵野秀明がやった実相寺昭雄に対するオマージュ的なカット(夕日のシルエット)と同様のカットが美しいのだが、笑いを誘う。
またかつての円谷プロ系の作品群に対するリスペクトも楽しい。
脚本はベタでお約束の山。
深く考えていないのか、深く考えていないように見せかけているのか、例えば特訓のシークエンスでは、「ロッキー」の「アイ・オブ・ザ・タイガー」風の曲に合わせ、ランニングや筋力トレーニングの映像が流れ、木陰からは美弥子が覗いているし、試合に勝ったいかレスラーが周りの声に答えず「みやこ〜、みやこ〜」と叫び、ベレー帽を被った美弥子がリングにあがり抱き合い、デート・シーンはほんわかムードの曲に合わせ、恥ずかしげなシークエンスが続く。
これはもしかすると、商業映画の類型的なシーンの記号化を計り、一般大衆が面白がる商業主義の超大作映画へのシニカルな観点を表現しているのかも知れない。
しかし、そこまで深く考えないのならば、酷い映画である。
こんな映画がよく完成したものだと思うし、よくも配給会社がつき、劇場公開されることになった事に驚きを禁じえない。
因みに都内の上映館は渋谷の「シネセゾン渋谷」と池袋の「テアトルダイヤ」である。
とは言うものの、本作は正当な、または脱力系な笑いに満ち満ちたなんとも憎めない、噛めば噛むほど味が出る、もしかするとカルト的ファンが付く作品かも知れない事は残念ながら否めない事実なのだ。
わたし的には、観たいと思っている人は遠慮なく観て欲しいと思うし、観たくない人には絶対に観て欲しくない。
あとは、恐いもの見たさに観たい人にももしかするとオススメなのかも知れないし。劇場で観たことが飲み会の話題になるような作品かも知れない。
まあ、素人には手が出せない種類の映画なのだろうね。
今回の試写会は、本作の監督である河崎実の舞台挨拶もあり、一般の観客に対するプレミア上映ということであった。
超日本プロレスのIMGP王者決定戦において新チャンピオンとなった田口浩二(AKIRA)。
コミッショナーからチャンピオンベルトを受けようとしたその瞬間、なんとリングに巨大ないかが乱入、田口に闘いを挑んできた。
巨大いかに関節技をかける田口だったが、関節が無いいかに関節技が効く訳も無く、田口は逆にノーザンライト・スープレックスでKOされてしまう。
このいかレスラーの正体こそ、かつて不治の病を患って失踪してしまった人気レスラーの岩田貫一(西村修)であった。
彼はパキスタンの山岳地帯の桃源郷で修行を積みいかとなることで病を克服したのだった・・・・。
岩田のかつての恋人で、現在は田口のフィアンセ鴨橋美弥子に石田香奈。
他のキャストとしてルー大柴、きくち英一、中田博久。
監督は河崎実、監修は実相寺昭雄。
先ず第一印象としては、自主制作映画のような類型的でお約束シーンが続く、ベタで捻りも無い、つまらない映画であった。
物語のメインのコンセプトは、主演二人の名前であるカンイチ&オミヤが示すようにおそらく「金色夜叉」であるのだろうが、物語は「ロッキー」や「あしたのジョー」、「ウルトラマン」や「愛の戦士レインボーマン」等々への言及があるとんでもない映画になっている。
監修が実相寺昭雄ということであるが、「新世紀エヴァンゲリオン」で庵野秀明がやった実相寺昭雄に対するオマージュ的なカット(夕日のシルエット)と同様のカットが美しいのだが、笑いを誘う。
またかつての円谷プロ系の作品群に対するリスペクトも楽しい。
脚本はベタでお約束の山。
深く考えていないのか、深く考えていないように見せかけているのか、例えば特訓のシークエンスでは、「ロッキー」の「アイ・オブ・ザ・タイガー」風の曲に合わせ、ランニングや筋力トレーニングの映像が流れ、木陰からは美弥子が覗いているし、試合に勝ったいかレスラーが周りの声に答えず「みやこ〜、みやこ〜」と叫び、ベレー帽を被った美弥子がリングにあがり抱き合い、デート・シーンはほんわかムードの曲に合わせ、恥ずかしげなシークエンスが続く。
これはもしかすると、商業映画の類型的なシーンの記号化を計り、一般大衆が面白がる商業主義の超大作映画へのシニカルな観点を表現しているのかも知れない。
しかし、そこまで深く考えないのならば、酷い映画である。
こんな映画がよく完成したものだと思うし、よくも配給会社がつき、劇場公開されることになった事に驚きを禁じえない。
因みに都内の上映館は渋谷の「シネセゾン渋谷」と池袋の「テアトルダイヤ」である。
とは言うものの、本作は正当な、または脱力系な笑いに満ち満ちたなんとも憎めない、噛めば噛むほど味が出る、もしかするとカルト的ファンが付く作品かも知れない事は残念ながら否めない事実なのだ。
わたし的には、観たいと思っている人は遠慮なく観て欲しいと思うし、観たくない人には絶対に観て欲しくない。
あとは、恐いもの見たさに観たい人にももしかするとオススメなのかも知れないし。劇場で観たことが飲み会の話題になるような作品かも知れない。
まあ、素人には手が出せない種類の映画なのだろうね。
「宇宙大作戦パネル展」
2004年7月10日 映画
「宇宙大作戦 GALAXY BOX DVD大全集」の発売を記念してJR東京駅構内:メディアコートイベントスペースにて開催された「宇宙大作戦パネル展」に行って来た。
と言っても、本来は本日7月10日14:00から「パネル展」が開催される予定だったのだが、実際は14:00から「宇宙大作戦 GALAXY BOX DVD大全集」のプロモーションのために急遽来日したジョージ・タケイを迎えたDVDの発売記念トーク・イベントとなり、パネルの展示は17:00からに予定変更されていた。
このトーク・イベントへ行くことになったのは、7月9日夜、友人からの「大変だ〜、東京駅にジョージ・タケイが来る〜」という電話に端を発する。
で、その結果わたし達の土曜日の予定が決定、待ち合わせは東京駅の待ち合わせ場所の定番「銀の鈴」13:00集合と決定、わたしと友人、そしてその娘(ミキ:仮名)の3人で「宇宙大作戦パネル展」に行くことになったのだ。
しかし当日「宇宙大作戦パネル展」が開催されるメディアコートが見つからず、東京駅近辺を右往左往するうちに時は刻々と過ぎ、危機感を感じたわたし達は駅員にメディアコートの位置を確認した。
なんとメディアコートは東京駅の改札内にある、と言う事がわかり、わたし達はいそいそと入場券(130円)を購入、改札をくぐり会場に向った。
「宇宙大作戦パネル展」会場では既にスタートレックファンが続々と集まり始めていた。
中には勿論コスプレをするファンや日本国内のスタートレック関係者、例えば岸川靖氏や、声優界最強のスタートレックファン(と言う噂の)大川透氏の顔も見えた。
大川透氏はわたしが見るところによると、一般のスタートレックファンとしてジョージ・タケイの顔を拝むべく会場に顔を出していたような印象を受けた。
そのうち、ジョージ・タケイが普通に会場入りし観客の興奮は否応も無く高まっていくのであった。
そうこうしているうちに、ファンが増え一般客の通行に支障が出てきたため、スタッフは「パネル展」会場を開場、ファンを会場に入れた。
わたし達はステージ正面の前から2列目という好ポジションをキープ、イベントの開会を待った。
イベントのMCは、わたしは知らないのだが、ヴォイジャー佐藤と名乗る多分お笑いの人。彼はジョージ・タケイの入場までに会場を暖めるべくいくつかの芸を披露していた。
ヴォイジャー佐藤は結構コアなスタートレックファンということでコアでマニアックな芸を披露していた。
普段は一般の映画ファン向けに芸を行っているようなのだが、今回はスタートレックファンの前でスタートレックのネタを演じると言うプレッシャーがあったようである。
芸風は洋画作品のシークエンスをマイク(マイクを利用してマシンガンやヘリコプターの音のような機械の音や俳優のセリフの模写をする)で再現するもので、いくつかの映画のシーン(「ロボ・コップ」、「ターミネーター2」、「タイタニック」等)を再現しつつスタートレックネタへと移行していた。(例えば「ロボ・コップ」を少し変えるとボーグになるとか)
会場が充分に暖まったところで、満を持してジョージ・タケイ登場。会場は興奮に包まれた。おそらくこれは一種異様な光景だったに違いないのだ。
イベントはジョージ・タケイのトーク・ショーのような形式で観客やMCからの質問にジョージ・タケイが答える、という感じだった。
質問は、レナード・ニモイやウィリアム・シャトナーと会う事はあるのか、だとか、ミスター加藤という役名について、だとか、今後のスタートレックについて、だとか、来日の理由等々興味深い質問が続いた。
特に「ミスター加藤」という日本独自のキャラクター名についてのジーン・ロッデンベリーの見解やヒカル・スールーというキャラクター名の由来等、ジョージ・タケイの役柄に関する質疑が興味深かった。
そうこうしているうちに、楽しいトーク・イベントの時間は過ぎ、マスコミ向けの簡単な記者会見とフォト・セッションが行なわれた。
サインを貰うことを当初から目的としていた友人の娘:ミキちゃん(仮名)は、イベントの主催者サイドに早々にサインが欲しい旨を要請し、会場で唯一の子どもである事を最大限に利用した形で、ミキちゃんへのサインをかわきりに、予定には無いサイン会が自然発生した。
中にはジョージ・タケイのポートレイトや彼が表紙を飾った雑誌、スールーのフィギュアや以前どこかのイベントで撮影したジョージ・タケイとのツーショット写真等を会場に持ち込み、それにサインをねだるファンもいた。
しかし、その辺は流石ハリウッド・スターである。
日本の一般的な俳優と違いサインを求める全てのファンに対し、丁寧に話し掛け一言ずつでも会話をしながら、時間を惜しまずサインを行ないファン・サービスに徹していた。
また、ファンとのツーショット写真撮影の要請にも気軽に応じていた。
わたし達は、結果的に写真を沢山撮影し、3人ともサインを貰い握手をし、次のファンに場所を譲り一旦会場を後にした。
しばらく経ってから、会場の出口付近を通っていると、ちょうどジョージ・タケイ等が会場を後にするところだった。
それを見たミキちゃんは、つかつかとジョージ・タケイに歩みより、後ろからいきなり肩を叩き、無理矢理こちらを向かせ、手を振り「バイバ〜イ」とか言ってジョージ・タケイを見送った。
わたしとミキちゃんの父親は、ハリウッド・スターの肩を遠慮無く叩くミキちゃんに一瞬硬直したが、笑顔で手を振り返すジョージ・タケイに安堵し彼等を見送った。
会場を後にし喫茶店に入ったわたしたちは、今日のイベントを反芻した。
その中で「ハリウッド・スターの肩を不躾にいきなり叩いた小学生は日本でミキちゃんだけだよ」とか「ミキちゃんが叩いた人は、渡辺謙とか真田広之なんかよりもっともっと凄い人なんだよ」とか、ミキちゃんの「月曜日の日直で今日の話をするんだ」に対し「ジョージ・タケイのことなんて小学生は誰も知らないよ。でもジョージ・タケイは別としてハリウッド・スターと握手した、とか言ったら『凄え』とか言われるかもね」とか結構楽しい話題が続いた。
ところで今回のイベントの費用は、交通費とイベント会場(改札内)に入る為の入場券130円だけだった。尤も、入場券の許容時間2時間を超過していたので、改札を出る際、再度130円を取られたが、コスト/パフォーマンス的には完全なローコスト/ハイパフォーマンスで大満足のイベントだったし、非常にフレンドリーなイベントだったし。
いろいろな場所で、勿論映画の試写会の舞台挨拶等も含めて様々な俳優達や監督達と会う(見かける)事がたまにあるのだが、日本の俳優達や監督達ではなく、やはりハリウッド・スターや世界的な監督達と会える(見れる)のは嬉しいものだな、と思った。
極東の島国で、由来も何も無いただの物真似やスタイルだけのレッド・カーペットの上を歩いてちやほやされている俳優等や(日本だけで)セレブと呼ばれる人達と比較すると、やはりジョージ・タケイと言うハリウッド・スターの中でも決してランクが高い方ではない俳優でも、なんだか格が違うな。という印象を覚えた。
でも、その価値観は自分の中にあるのかな、とも思った。
今までの経験で、一番興奮したハリウッド・スターは、ルトガー・ハウアーかな。
と言っても、本来は本日7月10日14:00から「パネル展」が開催される予定だったのだが、実際は14:00から「宇宙大作戦 GALAXY BOX DVD大全集」のプロモーションのために急遽来日したジョージ・タケイを迎えたDVDの発売記念トーク・イベントとなり、パネルの展示は17:00からに予定変更されていた。
このトーク・イベントへ行くことになったのは、7月9日夜、友人からの「大変だ〜、東京駅にジョージ・タケイが来る〜」という電話に端を発する。
で、その結果わたし達の土曜日の予定が決定、待ち合わせは東京駅の待ち合わせ場所の定番「銀の鈴」13:00集合と決定、わたしと友人、そしてその娘(ミキ:仮名)の3人で「宇宙大作戦パネル展」に行くことになったのだ。
しかし当日「宇宙大作戦パネル展」が開催されるメディアコートが見つからず、東京駅近辺を右往左往するうちに時は刻々と過ぎ、危機感を感じたわたし達は駅員にメディアコートの位置を確認した。
なんとメディアコートは東京駅の改札内にある、と言う事がわかり、わたし達はいそいそと入場券(130円)を購入、改札をくぐり会場に向った。
「宇宙大作戦パネル展」会場では既にスタートレックファンが続々と集まり始めていた。
中には勿論コスプレをするファンや日本国内のスタートレック関係者、例えば岸川靖氏や、声優界最強のスタートレックファン(と言う噂の)大川透氏の顔も見えた。
大川透氏はわたしが見るところによると、一般のスタートレックファンとしてジョージ・タケイの顔を拝むべく会場に顔を出していたような印象を受けた。
そのうち、ジョージ・タケイが普通に会場入りし観客の興奮は否応も無く高まっていくのであった。
そうこうしているうちに、ファンが増え一般客の通行に支障が出てきたため、スタッフは「パネル展」会場を開場、ファンを会場に入れた。
わたし達はステージ正面の前から2列目という好ポジションをキープ、イベントの開会を待った。
イベントのMCは、わたしは知らないのだが、ヴォイジャー佐藤と名乗る多分お笑いの人。彼はジョージ・タケイの入場までに会場を暖めるべくいくつかの芸を披露していた。
ヴォイジャー佐藤は結構コアなスタートレックファンということでコアでマニアックな芸を披露していた。
普段は一般の映画ファン向けに芸を行っているようなのだが、今回はスタートレックファンの前でスタートレックのネタを演じると言うプレッシャーがあったようである。
芸風は洋画作品のシークエンスをマイク(マイクを利用してマシンガンやヘリコプターの音のような機械の音や俳優のセリフの模写をする)で再現するもので、いくつかの映画のシーン(「ロボ・コップ」、「ターミネーター2」、「タイタニック」等)を再現しつつスタートレックネタへと移行していた。(例えば「ロボ・コップ」を少し変えるとボーグになるとか)
会場が充分に暖まったところで、満を持してジョージ・タケイ登場。会場は興奮に包まれた。おそらくこれは一種異様な光景だったに違いないのだ。
イベントはジョージ・タケイのトーク・ショーのような形式で観客やMCからの質問にジョージ・タケイが答える、という感じだった。
質問は、レナード・ニモイやウィリアム・シャトナーと会う事はあるのか、だとか、ミスター加藤という役名について、だとか、今後のスタートレックについて、だとか、来日の理由等々興味深い質問が続いた。
特に「ミスター加藤」という日本独自のキャラクター名についてのジーン・ロッデンベリーの見解やヒカル・スールーというキャラクター名の由来等、ジョージ・タケイの役柄に関する質疑が興味深かった。
そうこうしているうちに、楽しいトーク・イベントの時間は過ぎ、マスコミ向けの簡単な記者会見とフォト・セッションが行なわれた。
サインを貰うことを当初から目的としていた友人の娘:ミキちゃん(仮名)は、イベントの主催者サイドに早々にサインが欲しい旨を要請し、会場で唯一の子どもである事を最大限に利用した形で、ミキちゃんへのサインをかわきりに、予定には無いサイン会が自然発生した。
中にはジョージ・タケイのポートレイトや彼が表紙を飾った雑誌、スールーのフィギュアや以前どこかのイベントで撮影したジョージ・タケイとのツーショット写真等を会場に持ち込み、それにサインをねだるファンもいた。
しかし、その辺は流石ハリウッド・スターである。
日本の一般的な俳優と違いサインを求める全てのファンに対し、丁寧に話し掛け一言ずつでも会話をしながら、時間を惜しまずサインを行ないファン・サービスに徹していた。
また、ファンとのツーショット写真撮影の要請にも気軽に応じていた。
わたし達は、結果的に写真を沢山撮影し、3人ともサインを貰い握手をし、次のファンに場所を譲り一旦会場を後にした。
しばらく経ってから、会場の出口付近を通っていると、ちょうどジョージ・タケイ等が会場を後にするところだった。
それを見たミキちゃんは、つかつかとジョージ・タケイに歩みより、後ろからいきなり肩を叩き、無理矢理こちらを向かせ、手を振り「バイバ〜イ」とか言ってジョージ・タケイを見送った。
わたしとミキちゃんの父親は、ハリウッド・スターの肩を遠慮無く叩くミキちゃんに一瞬硬直したが、笑顔で手を振り返すジョージ・タケイに安堵し彼等を見送った。
会場を後にし喫茶店に入ったわたしたちは、今日のイベントを反芻した。
その中で「ハリウッド・スターの肩を不躾にいきなり叩いた小学生は日本でミキちゃんだけだよ」とか「ミキちゃんが叩いた人は、渡辺謙とか真田広之なんかよりもっともっと凄い人なんだよ」とか、ミキちゃんの「月曜日の日直で今日の話をするんだ」に対し「ジョージ・タケイのことなんて小学生は誰も知らないよ。でもジョージ・タケイは別としてハリウッド・スターと握手した、とか言ったら『凄え』とか言われるかもね」とか結構楽しい話題が続いた。
ところで今回のイベントの費用は、交通費とイベント会場(改札内)に入る為の入場券130円だけだった。尤も、入場券の許容時間2時間を超過していたので、改札を出る際、再度130円を取られたが、コスト/パフォーマンス的には完全なローコスト/ハイパフォーマンスで大満足のイベントだったし、非常にフレンドリーなイベントだったし。
いろいろな場所で、勿論映画の試写会の舞台挨拶等も含めて様々な俳優達や監督達と会う(見かける)事がたまにあるのだが、日本の俳優達や監督達ではなく、やはりハリウッド・スターや世界的な監督達と会える(見れる)のは嬉しいものだな、と思った。
極東の島国で、由来も何も無いただの物真似やスタイルだけのレッド・カーペットの上を歩いてちやほやされている俳優等や(日本だけで)セレブと呼ばれる人達と比較すると、やはりジョージ・タケイと言うハリウッド・スターの中でも決してランクが高い方ではない俳優でも、なんだか格が違うな。という印象を覚えた。
でも、その価値観は自分の中にあるのかな、とも思った。
今までの経験で、一番興奮したハリウッド・スターは、ルトガー・ハウアーかな。
2004/07/07新橋ヤクルトホールで行われた「リディック」の試写会に行ってきた。
ヴィン・ディーゼルがブレイク前に出演した「ピッチブラック」。
本作「リディック」は、前作「ピッチブラック」の登場キャラクターである「リディック」を愛する二人の男、監督デヴィッド・トゥーヒーとヴィン・ディーゼルが、巨大な資本力をバックに撮り上げたSFアクション叙事詩である。
日本の配給会社はあまり客が入らなかった「ピッチブラック」の続編としてではなく、ヴィン・ディーゼル主演のSF叙事詩として本作「リディック」を公開しようとしているようである。
余談だが、この「リディック・アニメーテッド」(画像)は「ピッチブラック」と「リディック」の間を補完するブリッジ・ストーリーになっており(未見)、北米ではWEBで公開されていたのではないかと記憶している。
暗視能力を持ち、恐るべきエイリアンの襲撃を生き延びたリディック(ヴィン・ディーゼル)。
あれ(「ピッチブラック」事件)から5年、リディックは5つの惑星系から指名手配され、その首には法外な懸賞金がかかっていた。
賞金稼ぎを軽くいなしたリディックは、自分の首に賞金をかけた主を探し、ヘリオン第1惑星へとやって来た。
平和だったこの星は、数々の惑星を占領しつくし、いまや銀河全体に悪名と恐怖とを伝える凶悪な種族ネクロモンガーのリーダー、ロード・マーシャル(コルム・フィオール)の手に落ちようとしていた。へリオン第1惑星に暮らすエレメンタル族の使者エアリオン(ジュディ・デンチ)は、リディックが救世主と信じ助けを乞う。
その話を一笑に付すリディックだったが、ネクロモンガー艦隊の総攻撃の混乱の中、先の賞金稼ぎ一行に「わざと」捕まってしまう。
目論見通り惑星クリマトリアの刑務所へと護送されたリディックはそこで、彼に憧れていた少女(かつてはジャックと呼ばれていた)キーラ(アレクサ・ダヴァロス)と再会するのだった。そして・・・・。
本作は、ヴィン・ディーゼルのアクションとスタイル、そしてCGI爆発の一大娯楽作品である。
わたし的には、可もなく不可もなく、と言った平凡な超大作娯楽映画で、特にたいした印象を持たなかった。
そんな中で良かったなと思う点は、先ず大女優ジュディ・デンチの起用であろう。
彼女の起用により、作品の質が一段と格調高くなっている。
また「リディック」世界の世界観は様々なイメージの寄せ集め的な感は否めないが、感心する部分が結構あった。
しかし、文化が違う世界の中で、われわれ人類と同じような「メガネ」を着用するのはどうかと思う。(オープニング・アクション後、リディックがヘリオン第1惑星で訪ねる比較的主要なキャラクターがわれわれと同様のメガネをかけていた)
例えば「スター・ウォーズ」世界では、われわれの世界では一般的なジッパーやファスナーが発明されていない、という世界観を創出している訳であるが、本作「リディック」ではメガネと言う人類が発明し現在のスタイルに固めてきたメガネそのものを登場キャラクターが着用しているのだ。
おそらくメガネを使用したのは、「リディック」世界の世界観の設定上、何か理由があるだろうと思うし、何か理由が無ければいけない部分なのだが、わたしにはその理由がわからなかったし、他の比較的クリエイティブな世界観の中で、大きな違和感と思えたのだ。
例えばメガネというわれわれの人類固有の発明品が「リディック」世界で一般的に使われているとしたら、「リディック」世界でわれわれの惑星である地球が意味のある大きな存在でなければならないのである。
なぜなら、創作物において人類以外の文化を描く場合、クリエイターは例えばメガネのような人の視力を矯正する方法を、人類の既存の技術であるメガネ以外のものでデザインし、世界観を表現すべきものなのであり、そういった細かなディテールから世界観が構築されていくべきものなのだ。
さて、その「リディック」世界の世界観については、コンセプトが結構しっかりしており、叙事詩的、或いは史劇的イメージが興味深い。SFと中世ローマ帝国風イメージの融合が見事である。
あとはエンキ・ビラル系の印象も受けた。
脚本は、悪く言うと最強万能キャラクター「リディック」様様である。
その強すぎる何でもこなすキャラクターに感情移入できるかどうかが、本作の評価の分かれ目となるのではないだろうか。
また、その脚本だがラスト部分は個人的には某「スパイダーマン」シリーズの監督の某ホラーシリーズ2作目のラストを髣髴とさせる、わたし好みのオチがついていたのが非常に嬉しかった。
映画の内容を深く考えない人、年に何本かの超大作映画を観たい人、ヴィン・ディーゼル好きの人、CGIのトリッキーな映像、叙事詩的史劇的イメーズが好きな人にオススメの一本ですね。
ヴィン・ディーゼルがブレイク前に出演した「ピッチブラック」。
本作「リディック」は、前作「ピッチブラック」の登場キャラクターである「リディック」を愛する二人の男、監督デヴィッド・トゥーヒーとヴィン・ディーゼルが、巨大な資本力をバックに撮り上げたSFアクション叙事詩である。
日本の配給会社はあまり客が入らなかった「ピッチブラック」の続編としてではなく、ヴィン・ディーゼル主演のSF叙事詩として本作「リディック」を公開しようとしているようである。
余談だが、この「リディック・アニメーテッド」(画像)は「ピッチブラック」と「リディック」の間を補完するブリッジ・ストーリーになっており(未見)、北米ではWEBで公開されていたのではないかと記憶している。
暗視能力を持ち、恐るべきエイリアンの襲撃を生き延びたリディック(ヴィン・ディーゼル)。
あれ(「ピッチブラック」事件)から5年、リディックは5つの惑星系から指名手配され、その首には法外な懸賞金がかかっていた。
賞金稼ぎを軽くいなしたリディックは、自分の首に賞金をかけた主を探し、ヘリオン第1惑星へとやって来た。
平和だったこの星は、数々の惑星を占領しつくし、いまや銀河全体に悪名と恐怖とを伝える凶悪な種族ネクロモンガーのリーダー、ロード・マーシャル(コルム・フィオール)の手に落ちようとしていた。へリオン第1惑星に暮らすエレメンタル族の使者エアリオン(ジュディ・デンチ)は、リディックが救世主と信じ助けを乞う。
その話を一笑に付すリディックだったが、ネクロモンガー艦隊の総攻撃の混乱の中、先の賞金稼ぎ一行に「わざと」捕まってしまう。
目論見通り惑星クリマトリアの刑務所へと護送されたリディックはそこで、彼に憧れていた少女(かつてはジャックと呼ばれていた)キーラ(アレクサ・ダヴァロス)と再会するのだった。そして・・・・。
本作は、ヴィン・ディーゼルのアクションとスタイル、そしてCGI爆発の一大娯楽作品である。
わたし的には、可もなく不可もなく、と言った平凡な超大作娯楽映画で、特にたいした印象を持たなかった。
そんな中で良かったなと思う点は、先ず大女優ジュディ・デンチの起用であろう。
彼女の起用により、作品の質が一段と格調高くなっている。
また「リディック」世界の世界観は様々なイメージの寄せ集め的な感は否めないが、感心する部分が結構あった。
しかし、文化が違う世界の中で、われわれ人類と同じような「メガネ」を着用するのはどうかと思う。(オープニング・アクション後、リディックがヘリオン第1惑星で訪ねる比較的主要なキャラクターがわれわれと同様のメガネをかけていた)
例えば「スター・ウォーズ」世界では、われわれの世界では一般的なジッパーやファスナーが発明されていない、という世界観を創出している訳であるが、本作「リディック」ではメガネと言う人類が発明し現在のスタイルに固めてきたメガネそのものを登場キャラクターが着用しているのだ。
おそらくメガネを使用したのは、「リディック」世界の世界観の設定上、何か理由があるだろうと思うし、何か理由が無ければいけない部分なのだが、わたしにはその理由がわからなかったし、他の比較的クリエイティブな世界観の中で、大きな違和感と思えたのだ。
例えばメガネというわれわれの人類固有の発明品が「リディック」世界で一般的に使われているとしたら、「リディック」世界でわれわれの惑星である地球が意味のある大きな存在でなければならないのである。
なぜなら、創作物において人類以外の文化を描く場合、クリエイターは例えばメガネのような人の視力を矯正する方法を、人類の既存の技術であるメガネ以外のものでデザインし、世界観を表現すべきものなのであり、そういった細かなディテールから世界観が構築されていくべきものなのだ。
さて、その「リディック」世界の世界観については、コンセプトが結構しっかりしており、叙事詩的、或いは史劇的イメージが興味深い。SFと中世ローマ帝国風イメージの融合が見事である。
あとはエンキ・ビラル系の印象も受けた。
脚本は、悪く言うと最強万能キャラクター「リディック」様様である。
その強すぎる何でもこなすキャラクターに感情移入できるかどうかが、本作の評価の分かれ目となるのではないだろうか。
また、その脚本だがラスト部分は個人的には某「スパイダーマン」シリーズの監督の某ホラーシリーズ2作目のラストを髣髴とさせる、わたし好みのオチがついていたのが非常に嬉しかった。
映画の内容を深く考えない人、年に何本かの超大作映画を観たい人、ヴィン・ディーゼル好きの人、CGIのトリッキーな映像、叙事詩的史劇的イメーズが好きな人にオススメの一本ですね。
2004/07/05東京新橋ヤクルトホールで行われた「スチームボーイ」の試写会に行って来た。
本当は、横浜レンガ倉庫のプレミアに行きたかったのだが、諸般の事情で、よみうりホールで「スチームボーイ」観た訳なのだ。
因みに、わたしは大昔からの大友克洋ファンである。
以前から噂になっていた「スチームボーイ」というプロジェクトが実際に動いていた事を知ったのは、1997年冬、渋谷パルコで行われた「デイジーVISIONS 大友克洋とデジタル新世代展」においてだった。
そこでは、1999年公開予定の作品として「スチームボーイ」冒頭のレイの一輪自走蒸気機関のチェイスのシークエンスが何度も何度も上映されていた。
それから、およそ8年、「スチームボーイ」の公開予定は何度も何度も延期され、2004年7月、今回はどうやら本当に公開されるらしい。
という状況でわたしは「スチームボーイ」を観た訳なのだ。
世界初の万国博覧会を控えた19世紀半ばのイギリス。
発明一家スチム家に生まれた13歳の少年レイ(鈴木杏)は、オハラ財団にアメリカから招かれている父エディ(津嘉山正種)と祖父ロイド(中村嘉葎雄)の帰りを待ちわびながら、自らも大好きな発明に励んでいた。
そんなある日、レイのもとに祖父ロイドから謎の金属ボールが届く。
間もなく、オハラ財団の使者を名乗る者たちがそのボールを、発送先に誤りがあったと言い、受け取りにやって来た。
しかし、いきなり帰宅した祖父ロイドに従いボールを抱えて逃げるレイ。
しかし、逃走劇の末、レイは結局その一味に捕まってしまう。
そして、レイは祖父ロイドに死んだと言われた父エディと出会い、ボールの秘密を聞かされるのであった・・・・。
監督、原案、脚本に大友克洋。
オハラ財団の総帥の孫娘スカーレットに小西真奈美。オハラ財団の執事でスカーレットのお目付け役サイモンに斉藤暁。
第一印象としては、問題点や気に入らない点は部分的にあるものの、わたし的には現時点で最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本である、と思ったのだ。
尤も、この「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と言うコピーは、細かい言い回しには誤りがあるかも知れないが、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」の劇場公開時のポスターに書かれていたコピーである。
そして、勿論「天空の城ラピュタ」における宮崎駿のひとつの目標だった訳である。
まあ、わたしにとっての最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」は「天空の城ラピュタ」だった訳だが、ここに来て、大友克洋の「スチームボーイ」が、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」と並んだ。と言う感触を得たのだ。
事実、「スチームボーイ」を観ている間は、「大友はついに宮崎を超えた」とさえ思っていた。
だめだ、眠い。
この辺で、つづく・・・・。なのだ。
明日7月7日は、「ピッチ・ブラック」の続編だ、ということを隠して公開される「リディック」の試写会なのだ!!
本当は、横浜レンガ倉庫のプレミアに行きたかったのだが、諸般の事情で、よみうりホールで「スチームボーイ」観た訳なのだ。
因みに、わたしは大昔からの大友克洋ファンである。
以前から噂になっていた「スチームボーイ」というプロジェクトが実際に動いていた事を知ったのは、1997年冬、渋谷パルコで行われた「デイジーVISIONS 大友克洋とデジタル新世代展」においてだった。
そこでは、1999年公開予定の作品として「スチームボーイ」冒頭のレイの一輪自走蒸気機関のチェイスのシークエンスが何度も何度も上映されていた。
それから、およそ8年、「スチームボーイ」の公開予定は何度も何度も延期され、2004年7月、今回はどうやら本当に公開されるらしい。
という状況でわたしは「スチームボーイ」を観た訳なのだ。
世界初の万国博覧会を控えた19世紀半ばのイギリス。
発明一家スチム家に生まれた13歳の少年レイ(鈴木杏)は、オハラ財団にアメリカから招かれている父エディ(津嘉山正種)と祖父ロイド(中村嘉葎雄)の帰りを待ちわびながら、自らも大好きな発明に励んでいた。
そんなある日、レイのもとに祖父ロイドから謎の金属ボールが届く。
間もなく、オハラ財団の使者を名乗る者たちがそのボールを、発送先に誤りがあったと言い、受け取りにやって来た。
しかし、いきなり帰宅した祖父ロイドに従いボールを抱えて逃げるレイ。
しかし、逃走劇の末、レイは結局その一味に捕まってしまう。
そして、レイは祖父ロイドに死んだと言われた父エディと出会い、ボールの秘密を聞かされるのであった・・・・。
監督、原案、脚本に大友克洋。
オハラ財団の総帥の孫娘スカーレットに小西真奈美。オハラ財団の執事でスカーレットのお目付け役サイモンに斉藤暁。
第一印象としては、問題点や気に入らない点は部分的にあるものの、わたし的には現時点で最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本である、と思ったのだ。
尤も、この「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と言うコピーは、細かい言い回しには誤りがあるかも知れないが、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」の劇場公開時のポスターに書かれていたコピーである。
そして、勿論「天空の城ラピュタ」における宮崎駿のひとつの目標だった訳である。
まあ、わたしにとっての最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」は「天空の城ラピュタ」だった訳だが、ここに来て、大友克洋の「スチームボーイ」が、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」と並んだ。と言う感触を得たのだ。
事実、「スチームボーイ」を観ている間は、「大友はついに宮崎を超えた」とさえ思っていた。
だめだ、眠い。
この辺で、つづく・・・・。なのだ。
明日7月7日は、「ピッチ・ブラック」の続編だ、ということを隠して公開される「リディック」の試写会なのだ!!
「セイブ・ザ・ワールド」
2004年7月4日 映画7月1日映画の日、会社を休んだわたしは、このままではおそらく見逃してしまうだろう「スターシップ・トゥルーパーズ2」と「セイブ・ザ・ワールド」を観たのだ。
で、今日は「セイブ・ザ・ワールド」の話。
世界中を飛び回るコピー機のセールスマンを騙るスティーブ・トバイアス(マイケル・ダグラス)の正体はCIAの潜入捜査官。
今回のスティーブの任務は、武器密輸ブローカーになりすましジャン=ピエール・ティボドゥ(デヴィッド・スーシェ)が統率する国際的な武器密輸組織の壊滅。
そんな中、スティーブの息子マーク(ライアン・レイノルズ)が、神経質で小心者の足の専門医ジェリー(アルバート・ブルックス)の娘メリッサ(リンゼイ・スローン)と結婚する事になった。
両家の初顔合わせでも、スティーブは会食中のレストランのトイレで任務に絡むゴタゴタに遭遇、その現場をジェリーに目撃されてしまい、スティーブを危険人物と誤解したジェリーは、この結婚は破談にする、と宣言してしまう。
一人息子マークの幸せを壊すわけにはいかないと焦るスティーブは、なんとかジェリーの機嫌を取ろうとするのだが・・・・。
本作は、娘の結婚相手の父親がCIAエージェントだったことから、彼の極秘任務に巻き込まれてしまった神経質な中年医師の悲劇を描いたドタバタ・アクション・コメディで、ピーター・フォークとアラン・アーキン共演の1979年作品「あきれたあきれた大作戦」のリメイク。
監督は、アンドリュー・フレミング。
スティーブ(マイケル・ダグラス)と別居中の妻ジュディ役でキャンディス・バーゲン。
スティーブの部下アンジェラにロビン・タニー。
ジェリー(アルバート・ブルックス)の妻キャサリンにマリア・リコッサ。
「セイブ・ザ・ワールド」の形式は、秘密を共有する二人が、その秘密を守りつつ、二つの事件を解決する、というお決まりのパターンを踏襲したドタバタ・コメディで、最近では「フォーチュン・クッキー」あたりもこのタイプの映画である、と言えよう。
そして、このような作品の魅力のひとつは、なんと言っても主演俳優二人のコミカルなやりとりであろう。
漫才のボケとツッコミではないが、マイケル・ダグラス演じるCIAの潜入捜査官とアルバート・ブルックスの小心者の医師と言う組み合わせが、役柄に合わせ比較的良く出来た脚本と相まって、二人のやりとりは勿論、映画全体を楽しいものにしている。
この映画は決して傑作でもないし、映画史に残る作品でもないが、観ている間や、見終わった後、思い出した時に幸せな気分にさせてくれる種類の映画の一本だと言えよう。
ところで、マイケル・ダグラスのコメディと言えば「ロマンシング・ストーン」シリーズや「ローズ家の戦争」あたりが思い出されるが、本作は「ロマンシング・ストーン」シリーズのキャラクターをCIAエージェントにしたような、悪乗り系の楽しいマイケル・ダグラスが楽しめるし、アルバート・ブルックスと言えば最近国内版DVDがリリースされた「ファインディング・ニモ」のマーリン役が印象的だが、そのマーリンとドリーの漫才的やりとりを髣髴とさせる、楽しい役柄を演じている。目を瞑ると正に、マーリンそのものの声であった。
あと興味深かったのは、音楽の使い方である。
本作のサントラにはポル・マッカートニーの「死ぬのは奴らだ(”Live and Let Die”)」とか、バート・バカラックの「雨にぬれても(”Raindrops Keep Fallin’ on My Head”)」等、銀幕を飾った数々の名曲が、サントラとして使用されており、かつての名作の主題歌をサントラに使うと言う手法に疑問を感じる方もいらっしゃると思うが、映画的記憶を上手に利用しし素晴らしい効果をあげている。
特に冒頭、マイケル・ダグラス演じるCIAエージェントが窮地に陥った際(自動車の後部座席で武器密輸組織幹部と商談中、自動車を取り囲んだ連中から銃撃を受け、ドライバーが死亡、後部座席から自動車を運転し脱出を図る)にかかる「死ぬのは奴らだ(”Live and Let Die”)」の使い方は、タイミングも素晴らしいし、アクション・シークエンスとのマッチ感も素晴らしい。下手をすると感涙もののシークエンスに仕上がっている。
また、「タワーリング・インフェルノ」的シークエンスの中でかかる「雨にぬれても(”Raindrops Keep Fallin’ on My Head”)」も楽しい。
音楽の使い方ではないが、ラスト近辺のアクション・シークエンスで、マイケル・ダグラスとアルバート・ブルックスがタキシードを着ているところも良い。
勿論、息子と娘の結婚式式場が舞台なのだから彼等はタキシードで当然なのだが、スパイ・アクションと言えば、お約束だがタキシードでアクションをこなして欲しいのだ。
例えば水中からあがったスパイがドライ・スーツのジッパーをおろすと中はタキシードであって欲しいのと同様のお約束なのだ。
少なくと本作「セイブ・ザ・ワールド」は、コメディ映画ファンには絶対オススメの楽しいコメディ・アクション映画であるし、もしかしたら007ファンや「トゥルー・ライズ」ファンにもオススメの映画かも知れない。
また、重い映画で疲れた方にも超オススメの作品なのだ。
で、今日は「セイブ・ザ・ワールド」の話。
世界中を飛び回るコピー機のセールスマンを騙るスティーブ・トバイアス(マイケル・ダグラス)の正体はCIAの潜入捜査官。
今回のスティーブの任務は、武器密輸ブローカーになりすましジャン=ピエール・ティボドゥ(デヴィッド・スーシェ)が統率する国際的な武器密輸組織の壊滅。
そんな中、スティーブの息子マーク(ライアン・レイノルズ)が、神経質で小心者の足の専門医ジェリー(アルバート・ブルックス)の娘メリッサ(リンゼイ・スローン)と結婚する事になった。
両家の初顔合わせでも、スティーブは会食中のレストランのトイレで任務に絡むゴタゴタに遭遇、その現場をジェリーに目撃されてしまい、スティーブを危険人物と誤解したジェリーは、この結婚は破談にする、と宣言してしまう。
一人息子マークの幸せを壊すわけにはいかないと焦るスティーブは、なんとかジェリーの機嫌を取ろうとするのだが・・・・。
本作は、娘の結婚相手の父親がCIAエージェントだったことから、彼の極秘任務に巻き込まれてしまった神経質な中年医師の悲劇を描いたドタバタ・アクション・コメディで、ピーター・フォークとアラン・アーキン共演の1979年作品「あきれたあきれた大作戦」のリメイク。
監督は、アンドリュー・フレミング。
スティーブ(マイケル・ダグラス)と別居中の妻ジュディ役でキャンディス・バーゲン。
スティーブの部下アンジェラにロビン・タニー。
ジェリー(アルバート・ブルックス)の妻キャサリンにマリア・リコッサ。
「セイブ・ザ・ワールド」の形式は、秘密を共有する二人が、その秘密を守りつつ、二つの事件を解決する、というお決まりのパターンを踏襲したドタバタ・コメディで、最近では「フォーチュン・クッキー」あたりもこのタイプの映画である、と言えよう。
そして、このような作品の魅力のひとつは、なんと言っても主演俳優二人のコミカルなやりとりであろう。
漫才のボケとツッコミではないが、マイケル・ダグラス演じるCIAの潜入捜査官とアルバート・ブルックスの小心者の医師と言う組み合わせが、役柄に合わせ比較的良く出来た脚本と相まって、二人のやりとりは勿論、映画全体を楽しいものにしている。
この映画は決して傑作でもないし、映画史に残る作品でもないが、観ている間や、見終わった後、思い出した時に幸せな気分にさせてくれる種類の映画の一本だと言えよう。
ところで、マイケル・ダグラスのコメディと言えば「ロマンシング・ストーン」シリーズや「ローズ家の戦争」あたりが思い出されるが、本作は「ロマンシング・ストーン」シリーズのキャラクターをCIAエージェントにしたような、悪乗り系の楽しいマイケル・ダグラスが楽しめるし、アルバート・ブルックスと言えば最近国内版DVDがリリースされた「ファインディング・ニモ」のマーリン役が印象的だが、そのマーリンとドリーの漫才的やりとりを髣髴とさせる、楽しい役柄を演じている。目を瞑ると正に、マーリンそのものの声であった。
あと興味深かったのは、音楽の使い方である。
本作のサントラにはポル・マッカートニーの「死ぬのは奴らだ(”Live and Let Die”)」とか、バート・バカラックの「雨にぬれても(”Raindrops Keep Fallin’ on My Head”)」等、銀幕を飾った数々の名曲が、サントラとして使用されており、かつての名作の主題歌をサントラに使うと言う手法に疑問を感じる方もいらっしゃると思うが、映画的記憶を上手に利用しし素晴らしい効果をあげている。
特に冒頭、マイケル・ダグラス演じるCIAエージェントが窮地に陥った際(自動車の後部座席で武器密輸組織幹部と商談中、自動車を取り囲んだ連中から銃撃を受け、ドライバーが死亡、後部座席から自動車を運転し脱出を図る)にかかる「死ぬのは奴らだ(”Live and Let Die”)」の使い方は、タイミングも素晴らしいし、アクション・シークエンスとのマッチ感も素晴らしい。下手をすると感涙もののシークエンスに仕上がっている。
また、「タワーリング・インフェルノ」的シークエンスの中でかかる「雨にぬれても(”Raindrops Keep Fallin’ on My Head”)」も楽しい。
音楽の使い方ではないが、ラスト近辺のアクション・シークエンスで、マイケル・ダグラスとアルバート・ブルックスがタキシードを着ているところも良い。
勿論、息子と娘の結婚式式場が舞台なのだから彼等はタキシードで当然なのだが、スパイ・アクションと言えば、お約束だがタキシードでアクションをこなして欲しいのだ。
例えば水中からあがったスパイがドライ・スーツのジッパーをおろすと中はタキシードであって欲しいのと同様のお約束なのだ。
少なくと本作「セイブ・ザ・ワールド」は、コメディ映画ファンには絶対オススメの楽しいコメディ・アクション映画であるし、もしかしたら007ファンや「トゥルー・ライズ」ファンにもオススメの映画かも知れない。
また、重い映画で疲れた方にも超オススメの作品なのだ。
「スターシップ・トゥルーパーズ2」
2004年7月2日 映画7月1日映画の日、会社を休んだわたしは、このままではおそらく見逃してしまうだろう「スターシップ・トゥルーパーズ2」と「セイブ・ザ・ワールド」を観たのだ。
で、今日は「スターシップ・トゥルーパーズ2」の話。
人類と昆虫型生物=バグズとの激しい闘いは続いていた。
その頃の地球連邦軍は、テレパス能力を持ち作戦を立案するサイキックと、実戦を担当する兵士達によって構成されていた。
シェパード将軍(エド・ローター)率いる地球連邦軍の中隊は、辺境の惑星でバグズの猛攻に苦しめられていた。
シェパード将軍の指示で、わずかに生き残った兵士達は将軍とわずかな兵士達を戦場に残し、廃墟と化したかつての前線基地に撤退する。
そこには、上官殺しの罪でダックス大尉(リチャード・バージ)が監禁されていた。
基地に逃げ込んだ部隊は、バグズの猛攻に、一縷の望みをかけたサハラ二等兵(コリーン・ポーチ)の独断で解放されたダックス大尉の活躍で一度は攻撃を退ける事に成功する。
そして基地の復旧を進めているうち、昏睡状態のソーダ二等兵(ケリー・カールソン)を連れた、シェパード将軍とグリフ伍長(エド・ケイン)、そしてペック技術軍曹(J.P.マノウ)らが基地に逃げ込んでくる。
当初は協力してバグズの迎撃に備える彼らだった。が、一方バグズは人間に寄生し人間を操る術を身につけていた・・・・。
本作は、ポール・ヴァーホーヴェンの傑作「スターシップ・トゥルーパーズ」の続編、というか外伝的物語であり、前作で共同製作、特撮監修を務めたフィル・ティペットが監督を務めている。
フィル・ティペットは古くは「スター・ウォーズ」旧三部作や「ロボ・コップ」シリーズ、「ジュラシック・パーク」等の特撮を手がけた根っからの特撮マンで、かつては、手工業的で有機的で味わいがある特撮の手法であるストップ・モーション・アニメーションの神様レイ・ハリーハウゼンの正当な後継者と言われるほどのストップ・モーションのエキスパートだったが、当初はストップ・モーションで恐竜をアニメートする予定だった「ジュラシック・パーク」が、ほぼ全編CGIで恐竜を描くことになり、時代遅れの技術しか持たないティペットのキャリアが危ぶまれていたのだが、デジタルVFXの世界でも自分のキャリアを生かす術を見つけ、様々な作品に携わり、様々な賞を受賞しつつ現在にいたっている。
まあ、フィル・ティペットのプロフィールはともかく、本作はポール・ヴァーホーヴェンの「ロボ・コップ」系のシニカルなテイストを持つ上、前作「スターシップ・トゥルーパーズ」のバグズの大群とのバトルも楽しめるし、「ヒドゥン」や「遊星からの物体X」的楽しみも出来る、一粒で二度以上楽しめるお得な作品に仕上がっている。
しかし、残念ながら本作は前作のような超大作ではなく、低予算テイスト溢れるながらも、背筋の延びたスピリッツみなぎる意欲作になっている。
作品のテイストには一本きちんと筋が通っているし、脚本にも破綻は無く、低予算ながらも第一級の娯楽作品として仕上がっている。
但し残念なことに、予算の関係だろうか、艦隊戦シーンはほとんど無く、物語の戦闘の全てが地上戦で完結する、というのがなんとも寂しい。
とは言うものの、結局は第一線の監督達と共に多くの傑作に携わっているフィル・ティペットなだけに、演出も正攻法で初監督作品とは言え、ソツなくこなしており、鑑賞に堪えうる作品に仕上がっている。
多分、一般のお客さんはほとんど入らないと思うのだが、劇場公開してくれるに本の配給会社に感謝を捧げつつ、楽しんでいただきたいのだ。
ところで、本作の原題は、"STARSHIP TROOPERS 2: HERO OF THE FEDERATION"、その辺のシニカルな部分も是非味わっていただきたいのだ。
で、今日は「スターシップ・トゥルーパーズ2」の話。
人類と昆虫型生物=バグズとの激しい闘いは続いていた。
その頃の地球連邦軍は、テレパス能力を持ち作戦を立案するサイキックと、実戦を担当する兵士達によって構成されていた。
シェパード将軍(エド・ローター)率いる地球連邦軍の中隊は、辺境の惑星でバグズの猛攻に苦しめられていた。
シェパード将軍の指示で、わずかに生き残った兵士達は将軍とわずかな兵士達を戦場に残し、廃墟と化したかつての前線基地に撤退する。
そこには、上官殺しの罪でダックス大尉(リチャード・バージ)が監禁されていた。
基地に逃げ込んだ部隊は、バグズの猛攻に、一縷の望みをかけたサハラ二等兵(コリーン・ポーチ)の独断で解放されたダックス大尉の活躍で一度は攻撃を退ける事に成功する。
そして基地の復旧を進めているうち、昏睡状態のソーダ二等兵(ケリー・カールソン)を連れた、シェパード将軍とグリフ伍長(エド・ケイン)、そしてペック技術軍曹(J.P.マノウ)らが基地に逃げ込んでくる。
当初は協力してバグズの迎撃に備える彼らだった。が、一方バグズは人間に寄生し人間を操る術を身につけていた・・・・。
本作は、ポール・ヴァーホーヴェンの傑作「スターシップ・トゥルーパーズ」の続編、というか外伝的物語であり、前作で共同製作、特撮監修を務めたフィル・ティペットが監督を務めている。
フィル・ティペットは古くは「スター・ウォーズ」旧三部作や「ロボ・コップ」シリーズ、「ジュラシック・パーク」等の特撮を手がけた根っからの特撮マンで、かつては、手工業的で有機的で味わいがある特撮の手法であるストップ・モーション・アニメーションの神様レイ・ハリーハウゼンの正当な後継者と言われるほどのストップ・モーションのエキスパートだったが、当初はストップ・モーションで恐竜をアニメートする予定だった「ジュラシック・パーク」が、ほぼ全編CGIで恐竜を描くことになり、時代遅れの技術しか持たないティペットのキャリアが危ぶまれていたのだが、デジタルVFXの世界でも自分のキャリアを生かす術を見つけ、様々な作品に携わり、様々な賞を受賞しつつ現在にいたっている。
まあ、フィル・ティペットのプロフィールはともかく、本作はポール・ヴァーホーヴェンの「ロボ・コップ」系のシニカルなテイストを持つ上、前作「スターシップ・トゥルーパーズ」のバグズの大群とのバトルも楽しめるし、「ヒドゥン」や「遊星からの物体X」的楽しみも出来る、一粒で二度以上楽しめるお得な作品に仕上がっている。
しかし、残念ながら本作は前作のような超大作ではなく、低予算テイスト溢れるながらも、背筋の延びたスピリッツみなぎる意欲作になっている。
作品のテイストには一本きちんと筋が通っているし、脚本にも破綻は無く、低予算ながらも第一級の娯楽作品として仕上がっている。
但し残念なことに、予算の関係だろうか、艦隊戦シーンはほとんど無く、物語の戦闘の全てが地上戦で完結する、というのがなんとも寂しい。
とは言うものの、結局は第一線の監督達と共に多くの傑作に携わっているフィル・ティペットなだけに、演出も正攻法で初監督作品とは言え、ソツなくこなしており、鑑賞に堪えうる作品に仕上がっている。
多分、一般のお客さんはほとんど入らないと思うのだが、劇場公開してくれるに本の配給会社に感謝を捧げつつ、楽しんでいただきたいのだ。
ところで、本作の原題は、"STARSHIP TROOPERS 2: HERO OF THE FEDERATION"、その辺のシニカルな部分も是非味わっていただきたいのだ。
2004年の目標!! 中間発表その6
2004年7月1日 映画さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その6です。
とりあえず目標の再確認を・・・・
目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」
1.映画
#033 「天国の本屋〜恋火」サイエンスホール 2004/06/01
#034 「ビッグ・フィッシュ」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/04
#035 「シービスケット」新文芸坐 2004/06/06
#036 「ラブ・アクチュアリー」新文芸坐 2004/06/06
#037 「69 sixty nine」厚生年金会館 2004/06/09
#038 「ドーン・オブ・ザ・デッド」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/11
#039 「スペース・カウボーイ」新文芸坐 2004/06/13
#040 「ミスティック・リバー」新文芸坐 2004/06/13
#041 「ブラザーフッド」よみうりホール 2004/06/16
#042 「メダリオン」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/25
#043 「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/30
2.DVD、CATV等
#084 「レオン」LD 2004/06/03
#085 「トイ・ストーリー」LD 2004/06/05
#086 「トイ・ストーリー2」DVD 2004/06/05
#087 「ルクソー Jr.(短編)」DVD 2004/06/05
#088 「ル・ブレ」CATV 2004/06/14
#089 「フォー・ウェディング」CATV 2004/06/15
#090 「ファインディング・ニモ」DVD 2004/06/20
#091 「ニックナック(短編)」DVD 2004/06/20
#092 「モンスターズ・インク」DVD 2004/06/22
#093 「フォー・ザ・バーズ(短編)」DVD 2004/06/22
#094 「ファインディング・ニモ」DVD 2004/06/22
#095 「海底二万哩」LD 2004/06/27
#096 「バロン」LD 2004/06/27
#097 「パラダイス」DVD 2004/06/28
#098 「ギリーは首ったけ」DVD 2004/06/29
#099 「キリング・ミー・ソフトリー」DVD 2004/06/29
3.読書
#019 「ぼんくら(上)」宮部みゆき著 講談社文庫 2004/06/07
#020 「まだ遠い光 家族狩り 第五部」天童荒太著 新潮文庫 2004/06/14
映画は、劇場11本(累計43本)、DVD等16本(累計99本)で、計27本(累計142本)。
このままのペースで、年間284本(劇場86本)です。
読書は2冊(累計20冊)で、このままのペースでは、年間40冊です。
状況は厳しいですし、先は長いですが頑張ります。
※ 参考 昨年同時期の状況
映画 151本(劇場46本)
読書 28冊
とりあえず目標の再確認を・・・・
目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」
1.映画
#033 「天国の本屋〜恋火」サイエンスホール 2004/06/01
#034 「ビッグ・フィッシュ」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/04
#035 「シービスケット」新文芸坐 2004/06/06
#036 「ラブ・アクチュアリー」新文芸坐 2004/06/06
#037 「69 sixty nine」厚生年金会館 2004/06/09
#038 「ドーン・オブ・ザ・デッド」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/11
#039 「スペース・カウボーイ」新文芸坐 2004/06/13
#040 「ミスティック・リバー」新文芸坐 2004/06/13
#041 「ブラザーフッド」よみうりホール 2004/06/16
#042 「メダリオン」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/25
#043 「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/30
2.DVD、CATV等
#084 「レオン」LD 2004/06/03
#085 「トイ・ストーリー」LD 2004/06/05
#086 「トイ・ストーリー2」DVD 2004/06/05
#087 「ルクソー Jr.(短編)」DVD 2004/06/05
#088 「ル・ブレ」CATV 2004/06/14
#089 「フォー・ウェディング」CATV 2004/06/15
#090 「ファインディング・ニモ」DVD 2004/06/20
#091 「ニックナック(短編)」DVD 2004/06/20
#092 「モンスターズ・インク」DVD 2004/06/22
#093 「フォー・ザ・バーズ(短編)」DVD 2004/06/22
#094 「ファインディング・ニモ」DVD 2004/06/22
#095 「海底二万哩」LD 2004/06/27
#096 「バロン」LD 2004/06/27
#097 「パラダイス」DVD 2004/06/28
#098 「ギリーは首ったけ」DVD 2004/06/29
#099 「キリング・ミー・ソフトリー」DVD 2004/06/29
3.読書
#019 「ぼんくら(上)」宮部みゆき著 講談社文庫 2004/06/07
#020 「まだ遠い光 家族狩り 第五部」天童荒太著 新潮文庫 2004/06/14
映画は、劇場11本(累計43本)、DVD等16本(累計99本)で、計27本(累計142本)。
このままのペースで、年間284本(劇場86本)です。
読書は2冊(累計20冊)で、このままのペースでは、年間40冊です。
状況は厳しいですし、先は長いですが頑張ります。
※ 参考 昨年同時期の状況
映画 151本(劇場46本)
読書 28冊
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」
2004年6月30日 映画
「ハリー・ポッター」シリーズ最新作の「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」を観た。
「ハリー・ポッターと賢者の石」の日本公開は2001/12/01、
「ハリー・ポッターと秘密の部屋」の日本公開は2002/11/23、
1年半振りにハリーが、ロンが、ハーマイオニーが帰ってきたのだ。
とは言うものの、監督がクリス・コロンバスからアルフォンソ・キュアロンに変わったせいで、キャラクターに思い入れが無いのか、1年半待ち続けていたファンの気持ちがわからないのか、主要キャストの登場シーンにはガッカリさせられた。
ハリー(ダニエル・ラドクリフ)はともかく、ロン(ルパート・グリント)とハーマイオニー(エマ・ワトソン)の登場シーンに至っては、何の思い入れも無い脚本と演出に悲しい思いがする。
例えばこれが毎週放映されているテレビシリーズならともかく、1年半もの間、本作を待ち続けていたファンの皆さんには大変失礼な印象を受けた。
少なくても、彼等主要キャラクター、世界中が愛するキャラクターの登場に敬意をはらって欲しいものである。
映画のファースト・カットやキャラクターの初登場のカットに、監督の映画人としては無神経な印象を受けたのだ。
ハリー登場のファースト・カットにしても、映画の冒頭としては非常に弱いつまらないカットとなっている。
さらに、ハリーのライバルであるマルフォイ(トム・フェルトン)の描き方にも問題があるのではないだろうか。
勿論、ハリーのおそらく壮大な人生の中では、マルフォイの存在は小さなものかも知れないが、ホグワーツ魔法学校内でのハリーの学校生活においては、マルフォイの影響力は決して小さなものではないはずなのだから。
シリーズとしての一貫性の欠如にも繋がる大きな問題かもしれない。
マルフォイは、ハリーのライバルでどうしようもないいじめっ子だが、実は二人はお互いに認め合っている、という方向性に持っていって欲しいものである。
また、冒頭から中盤までの脚本もおざなりで退屈である。
映像はそこそこ面白いので目は退屈することはないが、脚本は一本調子で頭は退屈してしまう。
とは言うものの、後半、この物語の根本となるシークエンスの脚本はよく出来ている。というか、こういった話が個人的に好きだ、という理由から来ているのかも知れないが、わたし個人としては非常に楽しめたのだ。
しかし、ラストが良ければ全て良し、という訳にはいかないのではないだろうか。
確かに中盤からラストまでの脚本は面白いし、感動的であるが、それで良いのか、誤魔化されてしまって良いのか、と思ってしまう。
また脚本には遊びが無く、−−つまり行間が無いということ−−、物語を語る上で重要なシークエンスしかない。
キャラクター造型に必要なシークエンスが少ない、ということである。
季節が変わる表現が、伏線となる柳の木というのも、どうだろうか。
手抜きではないのかな、と思ってしまう。
とは言うものの、よく出来た伏線はいくつかある。
特に物語の大きな伏線である、ルーピン先生(デヴィッド・シューリス)の「恐いもの」を描いたのは秀逸であろうし、よく見ないと気付かない程度の顔の傷も良い、鋭い観客にはネタがその時点で割れているだろう。
というか、スネイプ先生(アラン・リックマン)の授業といい、もしかすると伏線がわかり安すぎる、ということだろうか。これは児童文学の映画化という所以だろうか。残念である。
やはり物語を描くシークエンスとキャラクターを描くシークエンスのバランスが上手く無い、ということだろうか。
クリス・コロンバンス監督時代は、大人も充分楽しめる作品になっていたような気がするのだが、アルフォンソ・キュアロンになって以前の作風は薄れ、子ども向けの映画になってしまったのだろうか。
キャストについては、何と言っても、シリウス・ブラックを演じたゲイリー・オールドマンと、リーマス・ルーピン先生を演じたデヴィッド・シューリスに尽きるだろう。
特に、デヴィッド・シューリスは良い味を出していた。
ゲイリー・オールドマンの参加が鳴り物入りで喧伝されていたこともあり、結果的には、ゲイリー・オールドマンをデヴィッド・シューリスが喰ってしまった感がある。
ハリーの人生に大きな影響を与え、我々の思い出の中でも大きな位置を占める愛すべき悲しいキャラクターになっている。
リチャード・ハリス亡き後のダンブルドア校長を引き継いだマイケル・ガンボンは可も無く不可も無く、というところだが、やはりリチャード・ハリスにはかなわないのではないだろうか。
主役三人組は良かった。
冒頭のシークエンスでハリーの声が変な感じだったので、ちょっと不安を感じたが、特に問題は無かった。
ハリー(ダニエル・ラドクリフ)はともかく、ロン(ルパート・グリント)は将来、器用で何でも出来る良い俳優になるんじゃないかな、という気がした。
ハーマイオニー(エマ・ワトソン)は、ちょっと大人っぽくなりすぎの感がある。
脚本上の問題点として、ハーマイオニーの中盤の神出鬼没振りは、後半の注意事項と矛盾があるね。
余談だが、エンド・クレジットは面白かった。
ひとつひとつの足跡が細かく演出されており、ジャンプしたり、フラフラしたり、またはルーピン先生らしき足跡とかが楽しかった。
シリウス・ブラックと死を免れた相棒の足跡も出てくると思ったのだが、出てこなかったようである。
今日はこの辺で・・・・。
つづくかも。
「ハリー・ポッターと賢者の石」の日本公開は2001/12/01、
「ハリー・ポッターと秘密の部屋」の日本公開は2002/11/23、
1年半振りにハリーが、ロンが、ハーマイオニーが帰ってきたのだ。
とは言うものの、監督がクリス・コロンバスからアルフォンソ・キュアロンに変わったせいで、キャラクターに思い入れが無いのか、1年半待ち続けていたファンの気持ちがわからないのか、主要キャストの登場シーンにはガッカリさせられた。
ハリー(ダニエル・ラドクリフ)はともかく、ロン(ルパート・グリント)とハーマイオニー(エマ・ワトソン)の登場シーンに至っては、何の思い入れも無い脚本と演出に悲しい思いがする。
例えばこれが毎週放映されているテレビシリーズならともかく、1年半もの間、本作を待ち続けていたファンの皆さんには大変失礼な印象を受けた。
少なくても、彼等主要キャラクター、世界中が愛するキャラクターの登場に敬意をはらって欲しいものである。
映画のファースト・カットやキャラクターの初登場のカットに、監督の映画人としては無神経な印象を受けたのだ。
ハリー登場のファースト・カットにしても、映画の冒頭としては非常に弱いつまらないカットとなっている。
さらに、ハリーのライバルであるマルフォイ(トム・フェルトン)の描き方にも問題があるのではないだろうか。
勿論、ハリーのおそらく壮大な人生の中では、マルフォイの存在は小さなものかも知れないが、ホグワーツ魔法学校内でのハリーの学校生活においては、マルフォイの影響力は決して小さなものではないはずなのだから。
シリーズとしての一貫性の欠如にも繋がる大きな問題かもしれない。
マルフォイは、ハリーのライバルでどうしようもないいじめっ子だが、実は二人はお互いに認め合っている、という方向性に持っていって欲しいものである。
また、冒頭から中盤までの脚本もおざなりで退屈である。
映像はそこそこ面白いので目は退屈することはないが、脚本は一本調子で頭は退屈してしまう。
とは言うものの、後半、この物語の根本となるシークエンスの脚本はよく出来ている。というか、こういった話が個人的に好きだ、という理由から来ているのかも知れないが、わたし個人としては非常に楽しめたのだ。
しかし、ラストが良ければ全て良し、という訳にはいかないのではないだろうか。
確かに中盤からラストまでの脚本は面白いし、感動的であるが、それで良いのか、誤魔化されてしまって良いのか、と思ってしまう。
また脚本には遊びが無く、−−つまり行間が無いということ−−、物語を語る上で重要なシークエンスしかない。
キャラクター造型に必要なシークエンスが少ない、ということである。
季節が変わる表現が、伏線となる柳の木というのも、どうだろうか。
手抜きではないのかな、と思ってしまう。
とは言うものの、よく出来た伏線はいくつかある。
特に物語の大きな伏線である、ルーピン先生(デヴィッド・シューリス)の「恐いもの」を描いたのは秀逸であろうし、よく見ないと気付かない程度の顔の傷も良い、鋭い観客にはネタがその時点で割れているだろう。
というか、スネイプ先生(アラン・リックマン)の授業といい、もしかすると伏線がわかり安すぎる、ということだろうか。これは児童文学の映画化という所以だろうか。残念である。
やはり物語を描くシークエンスとキャラクターを描くシークエンスのバランスが上手く無い、ということだろうか。
クリス・コロンバンス監督時代は、大人も充分楽しめる作品になっていたような気がするのだが、アルフォンソ・キュアロンになって以前の作風は薄れ、子ども向けの映画になってしまったのだろうか。
キャストについては、何と言っても、シリウス・ブラックを演じたゲイリー・オールドマンと、リーマス・ルーピン先生を演じたデヴィッド・シューリスに尽きるだろう。
特に、デヴィッド・シューリスは良い味を出していた。
ゲイリー・オールドマンの参加が鳴り物入りで喧伝されていたこともあり、結果的には、ゲイリー・オールドマンをデヴィッド・シューリスが喰ってしまった感がある。
ハリーの人生に大きな影響を与え、我々の思い出の中でも大きな位置を占める愛すべき悲しいキャラクターになっている。
リチャード・ハリス亡き後のダンブルドア校長を引き継いだマイケル・ガンボンは可も無く不可も無く、というところだが、やはりリチャード・ハリスにはかなわないのではないだろうか。
主役三人組は良かった。
冒頭のシークエンスでハリーの声が変な感じだったので、ちょっと不安を感じたが、特に問題は無かった。
ハリー(ダニエル・ラドクリフ)はともかく、ロン(ルパート・グリント)は将来、器用で何でも出来る良い俳優になるんじゃないかな、という気がした。
ハーマイオニー(エマ・ワトソン)は、ちょっと大人っぽくなりすぎの感がある。
脚本上の問題点として、ハーマイオニーの中盤の神出鬼没振りは、後半の注意事項と矛盾があるね。
余談だが、エンド・クレジットは面白かった。
ひとつひとつの足跡が細かく演出されており、ジャンプしたり、フラフラしたり、またはルーピン先生らしき足跡とかが楽しかった。
シリウス・ブラックと死を免れた相棒の足跡も出てくると思ったのだが、出てこなかったようである。
今日はこの辺で・・・・。
つづくかも。
わたしの家の近く、車で30分、電車で10分ほどの距離に同じ系列のシネコンが二つある。
で、わたしはそのうちの一つ、比較的大き目のシネコンをご贔屓にしているのだ。
最近のわたしのシネコン利用のパターンは、ほとんどが休前日のレイトショーを観る、と言うもの。
そして、わたしの映画選択の基準は、勿論観たい映画優先なのだが、基本的には、今週終わる映画を観ることにしているのだ。
ビデオやDVDをレンタルする習慣の無いわたしにとって、−−事実レンタル屋の会員証を持っていない−−、観たい作品の劇場公開が終わってしまった場合、余程の事がないと、その作品に二度とめぐり合う事が無い、なんていう事になってしまう可能性があるのだ。
勿論、劇場とレンタル以外にわたしの選択肢として、CATVやセルDVDがあるのだが、基本的に、最初にその映画を観るのは劇場と言う場にしたいのだ。
と、言う訳で、折角のシネコンだが、終わりかけの映画を観る機会が多い訳なのだ。
そしてもう一つの問題点は、最近試写会に行くようになったのだが、そのせいで、劇場公開がはじまる時期と、その映画を観る時期がずれてしまい、ついでに、折角スクリーンが沢山あるシネコンに行っても、試写会で観た映画ばかりになってしまうことがあるのだ。
因みに、わたしがご贔屓にしているシネコンでは、本日、次の作品がかかっている。
(レ)は、レイトショーでかかっている作品
(試)は、試写会で既に観た作品
(観)は、既に観た作品
(希)は、どちらかと言うと観たい作品
(不)は、どちらかと言うと観たくない作品
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(レ)(希)
「ブラザーフッド」(レ)(試)
「メダリオン」(レ)(観)
「白いカラス」(レ)(不)
「ほたるの星」(不)
「海猿」(レ)(不)
「デイ・アフター・トゥモロー」(レ)(不)
「21グラム」(試)
「天国の本屋〜恋火」(試)
「下妻物語」(試)
「トロイ」(試)(レ)
「スキャンダル」(レ)(不)
「世界の中心で、愛をさけぶ」(不)
で、実は今日これからレイトショーに行こうと思っているのだが、一体何を観ることになるのだろうか。
おそらく、
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」
「海猿」
「デイ・アフター・トゥモロー」
「スキャンダル」
あたりだと思うのだが、この4本のうち観たい作品が1本しかない、というのが困ったものなのだ。
で、わたしはそのうちの一つ、比較的大き目のシネコンをご贔屓にしているのだ。
最近のわたしのシネコン利用のパターンは、ほとんどが休前日のレイトショーを観る、と言うもの。
そして、わたしの映画選択の基準は、勿論観たい映画優先なのだが、基本的には、今週終わる映画を観ることにしているのだ。
ビデオやDVDをレンタルする習慣の無いわたしにとって、−−事実レンタル屋の会員証を持っていない−−、観たい作品の劇場公開が終わってしまった場合、余程の事がないと、その作品に二度とめぐり合う事が無い、なんていう事になってしまう可能性があるのだ。
勿論、劇場とレンタル以外にわたしの選択肢として、CATVやセルDVDがあるのだが、基本的に、最初にその映画を観るのは劇場と言う場にしたいのだ。
と、言う訳で、折角のシネコンだが、終わりかけの映画を観る機会が多い訳なのだ。
そしてもう一つの問題点は、最近試写会に行くようになったのだが、そのせいで、劇場公開がはじまる時期と、その映画を観る時期がずれてしまい、ついでに、折角スクリーンが沢山あるシネコンに行っても、試写会で観た映画ばかりになってしまうことがあるのだ。
因みに、わたしがご贔屓にしているシネコンでは、本日、次の作品がかかっている。
(レ)は、レイトショーでかかっている作品
(試)は、試写会で既に観た作品
(観)は、既に観た作品
(希)は、どちらかと言うと観たい作品
(不)は、どちらかと言うと観たくない作品
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(レ)(希)
「ブラザーフッド」(レ)(試)
「メダリオン」(レ)(観)
「白いカラス」(レ)(不)
「ほたるの星」(不)
「海猿」(レ)(不)
「デイ・アフター・トゥモロー」(レ)(不)
「21グラム」(試)
「天国の本屋〜恋火」(試)
「下妻物語」(試)
「トロイ」(試)(レ)
「スキャンダル」(レ)(不)
「世界の中心で、愛をさけぶ」(不)
で、実は今日これからレイトショーに行こうと思っているのだが、一体何を観ることになるのだろうか。
おそらく、
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」
「海猿」
「デイ・アフター・トゥモロー」
「スキャンダル」
あたりだと思うのだが、この4本のうち観たい作品が1本しかない、というのが困ったものなのだ。
ジャッキー・チェンの「生誕50年 日本公開50作品目 歴史的超大作!」と日本国内の配給会社がプロモーションを行なっている「メダリオン」を観た。
犯罪組織の首領スネークヘッド(ジュリアン・サンズ)は以前から探していた、死者を蘇らせその肉体に超人的なパワーを宿す、という中国で古くから伝わる謎の力を秘めた伝説のメダル(メダリオン)について記された伝説の聖典を入手する。
そこで彼は、そのメダリオンの力を発揮する少年ジャイ(アレクサンダー・バオ)の誘拐を画策する。
一方スネークヘッドの動向をかねてから探っていた香港警察の刑事エディ(ジャッキー・チェン)と国際刑事警察機構(インターポール)のワトソン(リー・エヴァンス)は、ジャイの誘拐を未然に防いだものの、一味の逮捕には失敗してしまう。
2週間後、一味はジャイを捕えることに成功、ジャイを連れてスネークヘッドの待つアイルランドへ飛ぶ。エディもまた、すぐさま彼らを追いアイルランドへと向かった。
アイルランドでは、エディのかつての同僚で恋人だったニコル(クレア・フォーラニ)とワトソン、そして彼等の上司スマイス(ジョン・リス=デイヴィス)が待っていた・・・・。
監督はゴードン・チャン、アクション監督はなんとサモ・ハン・キンポーである。
ジャッキー・チェンの映画は日本人の多くの観客に愛されてきた映画達であり、その愛すべき作品達が本作「メダリオン」で日本公開50作品目だと言うのは、日本国内の配給会社が一方的にプロモーションしているとは言え、感慨深いものがある。
事実、ここのDiaryNoteの中にも、ジャッキー・チェンをご贔屓にしている方が多々いらっしゃるようである。
物語はジャッキー・チェンの十八番である「型破りな刑事」が活躍するポリス・ストーリーとなっている。
が、本作は「死者を蘇らせその肉体に超人的なパワーを宿すというメダリオン」の存在が物語を従来のポリス・ストーリーと比較してファンタジックなものにしている。
また、舞台背景は現代という事も、そのファンタジックな物語に、現代の神話的色合いを加味している。
気になるアクションは、香港ではなくハリウッド製の作品では、保険の関係で身体を張ったアクションが禁じられているジャッキー・チェンであるが、本作は香港・アメリカ合作ということもあるのか、身体を張ったアクション指数は若干高めだと思いたいのだが、ジャッキー・チェン自体が50歳という事もあり、往年のアクションの再現、と言うところまでは行っていないと思う。
しかし、盟友サモ・ハン・キンポーが構築したアクション・シークエンスは、往年のアクションと比較して派手さはイマイチかも知れないが、見ていて楽しいアクションに仕上がっているのではないだろうか。特に街中の追跡劇が楽しい。
また、メダリオンの力を得たジャッキー・チェンのフィジカルなアクションと微妙なワイヤー・アクション、そしてコメディのようにコミカルに振付けられたアクションが楽しい。
またジャッキー・チェン以外の俳優のアクションとしては、なんと言っても、ヒロインであるニコル役のクレア・フォラーニと、ジャイを誘拐しようとする看護婦を演じたニコラ・バーウィックのラスト近辺のカンフー・アクションが見ものであった。
「キル・ビル」でダリル・ハンナとユマ・サーマンがこのようなカンフー・アクションをして欲しかったと思えるような素晴らしいカンフー・アクションに仕上がっていた。
ジュリアン・サンズとのバトルは、森の中での追跡劇がアクションの構成として面白く、疾走感が興味深かった。
コメディ・リリーフのリー・エヴァンスは見事なコメディアン振りを発揮し、ジャッキー・チェンとの凸凹コンビが楽しい。
またリー・エヴァンス演じたワトソンの妻を演じたクリスティン・チョンのアクションも楽しいし、コメディ・シークエンスとしても面白い。
妻にはインターポールの職員ではなく図書館の司書と偽っているワトソンであるが、妻はもしかしたら、それ以上の秘密を抱えていると思わせる素晴らしいシークエンスである。
ジョン・リス=ディヴィスは役柄としては小さい役柄なのだが、主人公が、映画の後半部分の舞台となる地域(本作の場合はアイルランド)に赴いた後のホスト役的な役柄が楽しい。
これは「レイダース/失われた聖櫃」や「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」的な映画的記憶を利用した興味深い役柄を演じている。
本作の脚本は、ジャッキー・チェン映画としての驚くべきプロットが含まれているのが驚きである。
また、本作は89分という非常にタイトに仕上がっており、アクション映画として齟齬が出ない、文字通りタイトな作品に仕上がっている。
エンド・クレジットのNGシーンを見ていても、撮影されたものの本編からカットされた、と思われるシークエンスを一部見ることができるのです。
ここしばらく、ジャッキー・チェン主演作品の安価なDVDの販売や、「80日間世界一周」のリメイク「アラウンド・ザ・ワールド・イン80デイズ」の公開を控えたジャッキー・チェンの最新のアクションを是非劇場で観て欲しいのだ。
犯罪組織の首領スネークヘッド(ジュリアン・サンズ)は以前から探していた、死者を蘇らせその肉体に超人的なパワーを宿す、という中国で古くから伝わる謎の力を秘めた伝説のメダル(メダリオン)について記された伝説の聖典を入手する。
そこで彼は、そのメダリオンの力を発揮する少年ジャイ(アレクサンダー・バオ)の誘拐を画策する。
一方スネークヘッドの動向をかねてから探っていた香港警察の刑事エディ(ジャッキー・チェン)と国際刑事警察機構(インターポール)のワトソン(リー・エヴァンス)は、ジャイの誘拐を未然に防いだものの、一味の逮捕には失敗してしまう。
2週間後、一味はジャイを捕えることに成功、ジャイを連れてスネークヘッドの待つアイルランドへ飛ぶ。エディもまた、すぐさま彼らを追いアイルランドへと向かった。
アイルランドでは、エディのかつての同僚で恋人だったニコル(クレア・フォーラニ)とワトソン、そして彼等の上司スマイス(ジョン・リス=デイヴィス)が待っていた・・・・。
監督はゴードン・チャン、アクション監督はなんとサモ・ハン・キンポーである。
ジャッキー・チェンの映画は日本人の多くの観客に愛されてきた映画達であり、その愛すべき作品達が本作「メダリオン」で日本公開50作品目だと言うのは、日本国内の配給会社が一方的にプロモーションしているとは言え、感慨深いものがある。
事実、ここのDiaryNoteの中にも、ジャッキー・チェンをご贔屓にしている方が多々いらっしゃるようである。
物語はジャッキー・チェンの十八番である「型破りな刑事」が活躍するポリス・ストーリーとなっている。
が、本作は「死者を蘇らせその肉体に超人的なパワーを宿すというメダリオン」の存在が物語を従来のポリス・ストーリーと比較してファンタジックなものにしている。
また、舞台背景は現代という事も、そのファンタジックな物語に、現代の神話的色合いを加味している。
気になるアクションは、香港ではなくハリウッド製の作品では、保険の関係で身体を張ったアクションが禁じられているジャッキー・チェンであるが、本作は香港・アメリカ合作ということもあるのか、身体を張ったアクション指数は若干高めだと思いたいのだが、ジャッキー・チェン自体が50歳という事もあり、往年のアクションの再現、と言うところまでは行っていないと思う。
しかし、盟友サモ・ハン・キンポーが構築したアクション・シークエンスは、往年のアクションと比較して派手さはイマイチかも知れないが、見ていて楽しいアクションに仕上がっているのではないだろうか。特に街中の追跡劇が楽しい。
また、メダリオンの力を得たジャッキー・チェンのフィジカルなアクションと微妙なワイヤー・アクション、そしてコメディのようにコミカルに振付けられたアクションが楽しい。
またジャッキー・チェン以外の俳優のアクションとしては、なんと言っても、ヒロインであるニコル役のクレア・フォラーニと、ジャイを誘拐しようとする看護婦を演じたニコラ・バーウィックのラスト近辺のカンフー・アクションが見ものであった。
「キル・ビル」でダリル・ハンナとユマ・サーマンがこのようなカンフー・アクションをして欲しかったと思えるような素晴らしいカンフー・アクションに仕上がっていた。
ジュリアン・サンズとのバトルは、森の中での追跡劇がアクションの構成として面白く、疾走感が興味深かった。
コメディ・リリーフのリー・エヴァンスは見事なコメディアン振りを発揮し、ジャッキー・チェンとの凸凹コンビが楽しい。
またリー・エヴァンス演じたワトソンの妻を演じたクリスティン・チョンのアクションも楽しいし、コメディ・シークエンスとしても面白い。
妻にはインターポールの職員ではなく図書館の司書と偽っているワトソンであるが、妻はもしかしたら、それ以上の秘密を抱えていると思わせる素晴らしいシークエンスである。
ジョン・リス=ディヴィスは役柄としては小さい役柄なのだが、主人公が、映画の後半部分の舞台となる地域(本作の場合はアイルランド)に赴いた後のホスト役的な役柄が楽しい。
これは「レイダース/失われた聖櫃」や「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」的な映画的記憶を利用した興味深い役柄を演じている。
本作の脚本は、ジャッキー・チェン映画としての驚くべきプロットが含まれているのが驚きである。
また、本作は89分という非常にタイトに仕上がっており、アクション映画として齟齬が出ない、文字通りタイトな作品に仕上がっている。
エンド・クレジットのNGシーンを見ていても、撮影されたものの本編からカットされた、と思われるシークエンスを一部見ることができるのです。
ここしばらく、ジャッキー・チェン主演作品の安価なDVDの販売や、「80日間世界一周」のリメイク「アラウンド・ザ・ワールド・イン80デイズ」の公開を控えたジャッキー・チェンの最新のアクションを是非劇場で観て欲しいのだ。
2004/06/17の「ブラザーフッド」の試写会は、ウォンビンとチャン・ドンゴン等の舞台挨拶があったのだが、わたしは諸般の事情で、2004/06/17ではなく、2004/06/16の試写会に行くことになってしまった。勿論、2004/06/16の試写会は舞台挨拶は無しなのだ。残念だ。
1950年、韓国ソウル。
兄ジンテ(チャン・ドンゴン)は靴磨きで一家の家計を支え、恋人ヨンシン(イ・ウンジュ)との結婚と、弟ジンソク(ウォンビン)の大学進学のためにと苦しいながらも充実した日々を送っていた。
一方世間知らずの弟ジンソクも頼もしく優しい兄に守られて、何不自由ない生活を送っていた。
しかし6月25日、事態は一変する。朝鮮戦争が勃発したのだ。混乱の中、ジンソクが軍人に強制的に徴兵されてしまったことから、ジンテも慌てて後を追う。
兄ジンテは、自ら危険な任務につき武功をあげ、勲章を貰ってその恩寵で、弟を戦地から遠ざけようと考えるのだった・・・・。
まず英語のタイトルの"brotherhood"と言う言葉であるが、"-hood"は「だった頃」というような意味を持つ言葉である。
"brotherhood"を直訳すると「兄弟だった頃」という意味にも取れるのだ。
そして論を進めると本作「ブラザーフッド」は、"brotherhood"と言うタイトルから、以前は兄弟関係だったが、現在は何らかの理由で「兄弟では無くなった」兄弟の物語である、と言うことが読み取れる。
まず映画を見て驚いたのは、空の色と言うか光の色がアジアの光の色では無いと感じた点と、カメラワークが異常に安定している点である。
本作「ブラザーフッド」は「シュリ」のカン・ジェギュ監督の新作なのだが、そうは思わせないハリウッド・テイスト溢れる作品だった。
以前のカン・ジェギュ作品は、ある意味稚拙で荒削りではあったが、パワーや勢いのある作品を撮る監督だったと思うのだが、本作では円熟味を増したのか、はたまたスタッフが変わったのか、語弊があるが、面白みの無い普通のハリウッド映画のようなテイストを感じた。
作品に、安心感はあるが、何が起きるかわからない、と言ったライヴ感が無い、と言う感じなのである。
かつてのエログロ映画監督ピーター・ジャクソンが文芸的な「指輪物語」を撮ったような感じだろうか。
おそらく監督の成長は成長なのだが、わたしたち観客の期待する監督像と成長を果たした監督像とのベクトルが違う感じなのである。
物語は、朝鮮戦争という大きなうねりの中に投げ込まれた、波乱の人生をおくる二人の兄弟の物語である。
当初、ウォンビン演じる弟ジンソクは世間知らずの子どもで、兄ジンテ(チャン・ドンゴン)の気持ちをわかろうとしないし、子どもの理論で背伸びをしているように取れる。
一方、兄ジンテもやっていることは大人のようだが、実際は弟ジンソクの事のみを妄信的に考え、戦争の大義や政治信条には全く関心がなく、弟ジンソクを家に返すことのみを目的として、そのため軍功を重ねていっているのである。
彼の頭の中には、祖国統一なんて考えは無いのかもしれない。
旗部隊のシークエンスは、その辺りを明確にさせているのかも知れない。あの辺は韓国の人はどう感じるのか、日本人としても疑問を感じる。
話題の戦闘シーンは激しく、「プライベート・ライアン」の冒頭部分をこれでもか、これでもか、と全編の戦闘シーンにまで引き伸ばしたような印象を受ける。
「プライベート・ライアン」の戦闘シーンや物語性は、前半から後半に進むに従って、スピルバーグの悪い癖である娯楽性が頭をもたげ、前半と後半は全く違う種類の映画になってしまっている(前半は戦争の悲惨さを描き、後半は戦争の格好よさ爽快さを描いている)のだが、本作「ブラザーフッド」は戦争の悲惨さを描くと言った統一したイメージで貫かれている点は大いに評価できる。
本作には、戦争の格好よさや、戦闘の爽快さ、変なヒロイズム等が入り込む余地は全く無いのだ。
あるのは戦争の悲惨さ、非人道的な行為、人間性を失っていく人間達だけなのである。
そして、あまりにも凄惨で重い話が続くため、本作を娯楽作品として捉える事が困難なむきもあるのではないだろうか。
そんな戦闘シーンは、「プライベート・ライアン」と同様に、おそらくカメラを機械的に動かしブレを生じさせ、さらに白と黒のコントラストを強調し、所々コマを飛ばしているような効果を与えた映像のオンパレードであった。
ところで、本作「ブラザーフッド」は、先日紹介した1,200万人が涙した「シルミド」を超え、なんと1,300万人が泣いた、らしいのだ。
試写会の連れは号泣していたのだが、わたしはほとんど泣けなかった。
あまりにも凄惨な戦闘シーンの釣瓶打ちだったため、感情移入するスキもなく、感情をしゃっとダウンし、論理的に冷静に映画に見入ってしまったような印象を受けた。
因みに、わたしが最近大泣きしたのは「ビッグ・フィッシュ」である。
しかし、脚本(伏線)といい、美術といい、演技といい、スケールといい、こういった全くスキの無い作品を作ることが出来る韓国映画界に羨望を感じてしまう。
少なくても、その辺の日本映画よりは全然面白いし、エモーショナルだし、作品としての格も上だし、日本人としてうらやましくもあり悔しくもありなのだ。
香港映画が熱い頃は香港映画に嫉妬し、現在は韓国映画に嫉妬する、と言う感じなのだ。
ところで、キャストは、ほとんどウォンビンとチャン・ドンゴンのみであり、彼等二人のためにこの映画の全てが用意されている、と言っても過言ではないような作品なのだ。
とは言っても、前述のように美術も脚本も撮影も編集も、全て良い仕事をしており、その辺のアイドル映画みたいな映画とは一線を画しているし、ウォンビンの成長と言う見方も出来るほど、ウォンビンの成長は甚だしい印象を受ける。
また韓国映画に多いのだが、過去と現在に大きな伏線を配した上で、過去と現在並列的に描く手法が本作でも素晴らしい効果を与えている。
印象的には「テラコッタ・ウォリア/秦俑」のラストシーンのような感じも受けるし、映画自体の構成は、冒頭とラストが見事に繋がる「シザーハンズ」や「ラブ・ストーリー」にも似た構造になっている。
くどくどと細かい話を書いてきたが、本作はちょっと重いが、アジアの歴史を語る上でも、また韓国映画のパワーを見る上でも、ウォンビンとチャン・ドンゴンだけを見る上でも、日本映画と比較する上でも、ハリウッド映画と比較する上でも、興味深く楽しめる作品だと思う。
題材はともかく、本作「ブラザーフッド」は手法やスタイルは完全にハリウッド映画と言えるのではないだろうか。
1950年、韓国ソウル。
兄ジンテ(チャン・ドンゴン)は靴磨きで一家の家計を支え、恋人ヨンシン(イ・ウンジュ)との結婚と、弟ジンソク(ウォンビン)の大学進学のためにと苦しいながらも充実した日々を送っていた。
一方世間知らずの弟ジンソクも頼もしく優しい兄に守られて、何不自由ない生活を送っていた。
しかし6月25日、事態は一変する。朝鮮戦争が勃発したのだ。混乱の中、ジンソクが軍人に強制的に徴兵されてしまったことから、ジンテも慌てて後を追う。
兄ジンテは、自ら危険な任務につき武功をあげ、勲章を貰ってその恩寵で、弟を戦地から遠ざけようと考えるのだった・・・・。
まず英語のタイトルの"brotherhood"と言う言葉であるが、"-hood"は「だった頃」というような意味を持つ言葉である。
"brotherhood"を直訳すると「兄弟だった頃」という意味にも取れるのだ。
そして論を進めると本作「ブラザーフッド」は、"brotherhood"と言うタイトルから、以前は兄弟関係だったが、現在は何らかの理由で「兄弟では無くなった」兄弟の物語である、と言うことが読み取れる。
まず映画を見て驚いたのは、空の色と言うか光の色がアジアの光の色では無いと感じた点と、カメラワークが異常に安定している点である。
本作「ブラザーフッド」は「シュリ」のカン・ジェギュ監督の新作なのだが、そうは思わせないハリウッド・テイスト溢れる作品だった。
以前のカン・ジェギュ作品は、ある意味稚拙で荒削りではあったが、パワーや勢いのある作品を撮る監督だったと思うのだが、本作では円熟味を増したのか、はたまたスタッフが変わったのか、語弊があるが、面白みの無い普通のハリウッド映画のようなテイストを感じた。
作品に、安心感はあるが、何が起きるかわからない、と言ったライヴ感が無い、と言う感じなのである。
かつてのエログロ映画監督ピーター・ジャクソンが文芸的な「指輪物語」を撮ったような感じだろうか。
おそらく監督の成長は成長なのだが、わたしたち観客の期待する監督像と成長を果たした監督像とのベクトルが違う感じなのである。
物語は、朝鮮戦争という大きなうねりの中に投げ込まれた、波乱の人生をおくる二人の兄弟の物語である。
当初、ウォンビン演じる弟ジンソクは世間知らずの子どもで、兄ジンテ(チャン・ドンゴン)の気持ちをわかろうとしないし、子どもの理論で背伸びをしているように取れる。
一方、兄ジンテもやっていることは大人のようだが、実際は弟ジンソクの事のみを妄信的に考え、戦争の大義や政治信条には全く関心がなく、弟ジンソクを家に返すことのみを目的として、そのため軍功を重ねていっているのである。
彼の頭の中には、祖国統一なんて考えは無いのかもしれない。
旗部隊のシークエンスは、その辺りを明確にさせているのかも知れない。あの辺は韓国の人はどう感じるのか、日本人としても疑問を感じる。
話題の戦闘シーンは激しく、「プライベート・ライアン」の冒頭部分をこれでもか、これでもか、と全編の戦闘シーンにまで引き伸ばしたような印象を受ける。
「プライベート・ライアン」の戦闘シーンや物語性は、前半から後半に進むに従って、スピルバーグの悪い癖である娯楽性が頭をもたげ、前半と後半は全く違う種類の映画になってしまっている(前半は戦争の悲惨さを描き、後半は戦争の格好よさ爽快さを描いている)のだが、本作「ブラザーフッド」は戦争の悲惨さを描くと言った統一したイメージで貫かれている点は大いに評価できる。
本作には、戦争の格好よさや、戦闘の爽快さ、変なヒロイズム等が入り込む余地は全く無いのだ。
あるのは戦争の悲惨さ、非人道的な行為、人間性を失っていく人間達だけなのである。
そして、あまりにも凄惨で重い話が続くため、本作を娯楽作品として捉える事が困難なむきもあるのではないだろうか。
そんな戦闘シーンは、「プライベート・ライアン」と同様に、おそらくカメラを機械的に動かしブレを生じさせ、さらに白と黒のコントラストを強調し、所々コマを飛ばしているような効果を与えた映像のオンパレードであった。
ところで、本作「ブラザーフッド」は、先日紹介した1,200万人が涙した「シルミド」を超え、なんと1,300万人が泣いた、らしいのだ。
試写会の連れは号泣していたのだが、わたしはほとんど泣けなかった。
あまりにも凄惨な戦闘シーンの釣瓶打ちだったため、感情移入するスキもなく、感情をしゃっとダウンし、論理的に冷静に映画に見入ってしまったような印象を受けた。
因みに、わたしが最近大泣きしたのは「ビッグ・フィッシュ」である。
しかし、脚本(伏線)といい、美術といい、演技といい、スケールといい、こういった全くスキの無い作品を作ることが出来る韓国映画界に羨望を感じてしまう。
少なくても、その辺の日本映画よりは全然面白いし、エモーショナルだし、作品としての格も上だし、日本人としてうらやましくもあり悔しくもありなのだ。
香港映画が熱い頃は香港映画に嫉妬し、現在は韓国映画に嫉妬する、と言う感じなのだ。
ところで、キャストは、ほとんどウォンビンとチャン・ドンゴンのみであり、彼等二人のためにこの映画の全てが用意されている、と言っても過言ではないような作品なのだ。
とは言っても、前述のように美術も脚本も撮影も編集も、全て良い仕事をしており、その辺のアイドル映画みたいな映画とは一線を画しているし、ウォンビンの成長と言う見方も出来るほど、ウォンビンの成長は甚だしい印象を受ける。
また韓国映画に多いのだが、過去と現在に大きな伏線を配した上で、過去と現在並列的に描く手法が本作でも素晴らしい効果を与えている。
印象的には「テラコッタ・ウォリア/秦俑」のラストシーンのような感じも受けるし、映画自体の構成は、冒頭とラストが見事に繋がる「シザーハンズ」や「ラブ・ストーリー」にも似た構造になっている。
くどくどと細かい話を書いてきたが、本作はちょっと重いが、アジアの歴史を語る上でも、また韓国映画のパワーを見る上でも、ウォンビンとチャン・ドンゴンだけを見る上でも、日本映画と比較する上でも、ハリウッド映画と比較する上でも、興味深く楽しめる作品だと思う。
題材はともかく、本作「ブラザーフッド」は手法やスタイルは完全にハリウッド映画と言えるのではないだろうか。
「ミスティック・リバー」
2004年6月13日 映画
池袋「新文芸坐」でクリント・イーストウッド特集上映が始まった。
その特集上映の第一週は「スペース・カウボーイ」と「ミスティック・リバー」の2本立てであった。
ジミー・マーカム(ショーン・ペン/少年時代:ジェイソン・ケリー)、ショーン・ディバイン(ケヴィン・ベーコン/少年時代:コナー・パオロ)、デイブ・ボイル(ティム・ロビンス/少年時代:キャメロン・ボウエン)の3人は少年時代よく一緒に遊んでいた。
いつものように3人が路上でホッケーをしたり、生乾きの舗道に名前を書いていると、突然警察を名乗る男たちが現われる。
彼等は、公共の舗道に悪戯書きをした事を咎め、少年たちの代表としてデイブを車で連れ去ってしまう。
ジミーとショーンの2人は、それをなすすべもなく見送るだけだった。
4日後、デイブは監禁されていた場所から逃げ出し無事保護されるが、彼がどんな目にあったのかを敢えて口にする者はいなかった。
そして、その出来事以降3人は疎遠になっていった。
25年後。ジミーの19歳になる娘ケイティ(エミー・ロッサム)が死体で発見された。
殺人課の刑事となったショーンは同僚のホワイティ・パワーズ(ローレンス・フィッシュバーン)と共にこの事件を担当することになる。
ジミーは犯人への激しい怒りを募らせ、独自の捜査を開始する。
やがて警察の捜査線上にデイブが浮かび上がってきた・・・・。
監督/製作/音楽:クリント・イーストウッド、原作:デニス・ヘレイン、脚本:ブライアン・ヘルゲランド、撮影:トム・スターン、編集:ジョエル・コックス
本作「ミスティック・リバー」は全米公開されるや否や、多くの賞レースの大本命とされ、実際に多くの賞を受賞した、クリント・イーストウッド監督作品である。
物語は一見すると、少年時代の3人の友人のうちの、ひとりが娘を殺害され、ひとりが捜査し、ひとりが容疑者となる、という恐ろしい背景を持ったクライム・サスペンスであるが、語弊はあるが、そのベタで安易といった独特な3人の人間模様を捉えると、まるでシェイクスピア悲劇や、聖書の物語、はたまたマザーグースの物語のような、普遍的で予定調和的な、どんなに足掻いても決して逃れる事が出来ずに、予定調和的な結末に向かってしまう悲劇のような印象を受ける。
そして、ショーン・ペンが演じたジミー・マーカムを、世界の警察アメリカのメタファーだと捉えると、強いアメリカ、間違いを認めないアメリカ、間違っても謝らないアメリカ、という現代アメリカの暗部に鋭くメスを入れる、という構造を持った作品に様変わりする。
また、このあたりは、逆引き的に、もしかすると現在の日本国首相に捉える事が出来るかもしれない。
おそらくイーストウッドは、間接的にアメリカ批判を行っているのだろうが、アメリカ人はそこまで本作を読み込んでいるかどうかわからないが、結果的にアメリカ国内で様々な賞を本作は受賞している。
本作「ミスティック・リバー」は、もしかするとある意味マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「華氏911」にも似た思想的バックグラウンドを持った作品なのかも知れないが、「ミスティック・リバー」は、アメリカ国内で拡大ロードショー公開された上に、多くの賞を受賞する反面、「華氏911」はアメリカ国内での配給で大もめ、という点も興味深く思える。
また、十字架を背負った男(物語の上では二つの十字架を背負う事になるし、文字通り刺青の十字架をも背負っている)ショーン・ペンのキャラクターは、前述のように強いアメリカのメタファーとして機能する一方、キリスト教的観点からは、十字架を背負った男=イエス・キリストの暗喩とも取れるのではないだろうか。だとすると、アメリカが臨む全ての戦いは聖戦であり、神の名の下でアメリカは軍を進めている、という解釈も可能なのだ。
しかし、本作は、ショーン・ペンが演じたジミー・マーカムは間違っている、と同様にアメリカは間違っている、というメッセージを発しているのだ。
余談だが、そして腕の刺青の中央には漢字で「力」と書いてあるのも興味深い。
こういったアメリカという国を間接的にでも批判するような作品を、芸術的な大作として製作・公開することが出来るアメリカという国の文化の高さと懐の深さに羨望を禁じえない。
例えば、中学生同士が殺し合いをする映画の上映を、国会議員自らが止めさせようとするような国との大きな違いを感じる。
勿論ペンは剣より強いのだが、直接的なペンより、暗喩を含んだ間接的なペンの方が強く、各方面からの弾圧や検閲を受けづらい、というところなのだろうか。
もしくは、思想や言論を弾圧する人や団体は、暗喩やメタファーを読み取れない、と言うことなのだろうか。
ところで、キャストについては、なんと言っても、ショーン・ペン、ケヴィン・ベーコン、ティム・ロビンスの三人だろう。
娘が殺されるジミー・マーカム役のショーン・ペンはモラル的に理解されづらいキャラクターを見事に演じている。
しかしながら、物語の中盤までは、ジミー・マーカムのキャラクターは、昔は悪かったかも知れないが、現在は家族を大切にする良き父親像を具現化した存在であり、観客の感情移入を許していた、という点が興味深い。
「21グラム」と比較すると演技のあざとさ、計算高さが消え、演技は確かに評価できるものがある。
殺人課の刑事ショーン・ディバイン役のケヴィン・ベーコンも、良い俳優になって来たようだ。
3人の中では一番成功し、一番幸せに近い役所だが、ジミー・マーカムを見逃す、と言うこれまたモラル的に理解されづらいキャラクターであると言えよう。
また、妻の精神的な病による失踪という家庭の問題を抱えている所が役に深みを与えている。これも病めるアメリカのメタファーなのだろう。
また、このショーン・ディバインという役柄は、本作の語り部として機能するのだが、かつての友人たちを「今は友人ではない」と切り捨てるところが、後の伏線になっているし、ラストで戻ってきた妻がパレードの際に抱いていた子どもは、本当の赤ちゃんなのか、それとも病んだ妻が子どもだと思い込んでいる人形なのか、という疑問すら湧く微妙なキャラクターではないだろうか。
そしてティム・ロビンス(デイブ・ボイル役)である。
少年期のトラウマを引きずる、精神的に不安定なキャラクターを見事に演じている。これも病めるアメリカの象徴なのだろう。
結果的にはこのキャラクターもモラル的に理解されづらい行動を取っているキャラクター設定となっているが、脚本的には多くの観客が感情移入する、キャラクターとして設定されているのではないだろうか。
同情を引きやすいキャラクター設定となっているのだ。
で興味深いのは、3人の主要キャラクターは3人ともダメな人間である。ということである。
そして3人とも病めるアメリカの象徴として機能しているのだ。
ところで、音楽は、なんとクリント・イーストウッド。
ピアノの鍵盤を人差し指で、ポンポン五月雨っぽく叩いている様なサントラは、そう言う訳だったのだ。
「マトリックス」シリーズでおなじみのローレンス・フィッシュバーンも頑張っているが、3人の役者と比較すると普通かもしれない。
「地獄の黙示録」は良かったけどね。
重い話だし、共感しづらい作品だけど、観るべき作品だと思うのだ。
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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その特集上映の第一週は「スペース・カウボーイ」と「ミスティック・リバー」の2本立てであった。
ジミー・マーカム(ショーン・ペン/少年時代:ジェイソン・ケリー)、ショーン・ディバイン(ケヴィン・ベーコン/少年時代:コナー・パオロ)、デイブ・ボイル(ティム・ロビンス/少年時代:キャメロン・ボウエン)の3人は少年時代よく一緒に遊んでいた。
いつものように3人が路上でホッケーをしたり、生乾きの舗道に名前を書いていると、突然警察を名乗る男たちが現われる。
彼等は、公共の舗道に悪戯書きをした事を咎め、少年たちの代表としてデイブを車で連れ去ってしまう。
ジミーとショーンの2人は、それをなすすべもなく見送るだけだった。
4日後、デイブは監禁されていた場所から逃げ出し無事保護されるが、彼がどんな目にあったのかを敢えて口にする者はいなかった。
そして、その出来事以降3人は疎遠になっていった。
25年後。ジミーの19歳になる娘ケイティ(エミー・ロッサム)が死体で発見された。
殺人課の刑事となったショーンは同僚のホワイティ・パワーズ(ローレンス・フィッシュバーン)と共にこの事件を担当することになる。
ジミーは犯人への激しい怒りを募らせ、独自の捜査を開始する。
やがて警察の捜査線上にデイブが浮かび上がってきた・・・・。
監督/製作/音楽:クリント・イーストウッド、原作:デニス・ヘレイン、脚本:ブライアン・ヘルゲランド、撮影:トム・スターン、編集:ジョエル・コックス
本作「ミスティック・リバー」は全米公開されるや否や、多くの賞レースの大本命とされ、実際に多くの賞を受賞した、クリント・イーストウッド監督作品である。
物語は一見すると、少年時代の3人の友人のうちの、ひとりが娘を殺害され、ひとりが捜査し、ひとりが容疑者となる、という恐ろしい背景を持ったクライム・サスペンスであるが、語弊はあるが、そのベタで安易といった独特な3人の人間模様を捉えると、まるでシェイクスピア悲劇や、聖書の物語、はたまたマザーグースの物語のような、普遍的で予定調和的な、どんなに足掻いても決して逃れる事が出来ずに、予定調和的な結末に向かってしまう悲劇のような印象を受ける。
そして、ショーン・ペンが演じたジミー・マーカムを、世界の警察アメリカのメタファーだと捉えると、強いアメリカ、間違いを認めないアメリカ、間違っても謝らないアメリカ、という現代アメリカの暗部に鋭くメスを入れる、という構造を持った作品に様変わりする。
また、このあたりは、逆引き的に、もしかすると現在の日本国首相に捉える事が出来るかもしれない。
おそらくイーストウッドは、間接的にアメリカ批判を行っているのだろうが、アメリカ人はそこまで本作を読み込んでいるかどうかわからないが、結果的にアメリカ国内で様々な賞を本作は受賞している。
本作「ミスティック・リバー」は、もしかするとある意味マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「華氏911」にも似た思想的バックグラウンドを持った作品なのかも知れないが、「ミスティック・リバー」は、アメリカ国内で拡大ロードショー公開された上に、多くの賞を受賞する反面、「華氏911」はアメリカ国内での配給で大もめ、という点も興味深く思える。
また、十字架を背負った男(物語の上では二つの十字架を背負う事になるし、文字通り刺青の十字架をも背負っている)ショーン・ペンのキャラクターは、前述のように強いアメリカのメタファーとして機能する一方、キリスト教的観点からは、十字架を背負った男=イエス・キリストの暗喩とも取れるのではないだろうか。だとすると、アメリカが臨む全ての戦いは聖戦であり、神の名の下でアメリカは軍を進めている、という解釈も可能なのだ。
しかし、本作は、ショーン・ペンが演じたジミー・マーカムは間違っている、と同様にアメリカは間違っている、というメッセージを発しているのだ。
余談だが、そして腕の刺青の中央には漢字で「力」と書いてあるのも興味深い。
こういったアメリカという国を間接的にでも批判するような作品を、芸術的な大作として製作・公開することが出来るアメリカという国の文化の高さと懐の深さに羨望を禁じえない。
例えば、中学生同士が殺し合いをする映画の上映を、国会議員自らが止めさせようとするような国との大きな違いを感じる。
勿論ペンは剣より強いのだが、直接的なペンより、暗喩を含んだ間接的なペンの方が強く、各方面からの弾圧や検閲を受けづらい、というところなのだろうか。
もしくは、思想や言論を弾圧する人や団体は、暗喩やメタファーを読み取れない、と言うことなのだろうか。
ところで、キャストについては、なんと言っても、ショーン・ペン、ケヴィン・ベーコン、ティム・ロビンスの三人だろう。
娘が殺されるジミー・マーカム役のショーン・ペンはモラル的に理解されづらいキャラクターを見事に演じている。
しかしながら、物語の中盤までは、ジミー・マーカムのキャラクターは、昔は悪かったかも知れないが、現在は家族を大切にする良き父親像を具現化した存在であり、観客の感情移入を許していた、という点が興味深い。
「21グラム」と比較すると演技のあざとさ、計算高さが消え、演技は確かに評価できるものがある。
殺人課の刑事ショーン・ディバイン役のケヴィン・ベーコンも、良い俳優になって来たようだ。
3人の中では一番成功し、一番幸せに近い役所だが、ジミー・マーカムを見逃す、と言うこれまたモラル的に理解されづらいキャラクターであると言えよう。
また、妻の精神的な病による失踪という家庭の問題を抱えている所が役に深みを与えている。これも病めるアメリカのメタファーなのだろう。
また、このショーン・ディバインという役柄は、本作の語り部として機能するのだが、かつての友人たちを「今は友人ではない」と切り捨てるところが、後の伏線になっているし、ラストで戻ってきた妻がパレードの際に抱いていた子どもは、本当の赤ちゃんなのか、それとも病んだ妻が子どもだと思い込んでいる人形なのか、という疑問すら湧く微妙なキャラクターではないだろうか。
そしてティム・ロビンス(デイブ・ボイル役)である。
少年期のトラウマを引きずる、精神的に不安定なキャラクターを見事に演じている。これも病めるアメリカの象徴なのだろう。
結果的にはこのキャラクターもモラル的に理解されづらい行動を取っているキャラクター設定となっているが、脚本的には多くの観客が感情移入する、キャラクターとして設定されているのではないだろうか。
同情を引きやすいキャラクター設定となっているのだ。
で興味深いのは、3人の主要キャラクターは3人ともダメな人間である。ということである。
そして3人とも病めるアメリカの象徴として機能しているのだ。
ところで、音楽は、なんとクリント・イーストウッド。
ピアノの鍵盤を人差し指で、ポンポン五月雨っぽく叩いている様なサントラは、そう言う訳だったのだ。
「マトリックス」シリーズでおなじみのローレンス・フィッシュバーンも頑張っているが、3人の役者と比較すると普通かもしれない。
「地獄の黙示録」は良かったけどね。
重い話だし、共感しづらい作品だけど、観るべき作品だと思うのだ。
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「ドーン・オブ・ザ・デッド」
2004年6月11日 映画
「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、言わずと知れたジョージ・A・ロメロの傑作「ゾンビ(1978)」(原題:"DAWN OF THE DEAD")のリメイクである。
しかも脚本は、ロメロのオリジナル脚本を脚色している、ということで、当初は"George A. Romero’s DAWN OF THE DEAD"というタイトルでプロモーションが行われていた。
その表現からロメロが制作に絡んでいる、と実しやかな情報がWEB上を飛び交っていたのも記憶に新しい。
しかし結果的にロメロは制作には一切タッチしておらず、"George A. Romero’s DAWN OF THE DEAD"という表現は、"MARY SHELLEY’S FRANKENSTEIN"や"BRAM STOKER’S DRACULA"同様に原作(原案)者を意味する、ということだったのだ。
因みにロメロのゾンビ三部作のタイトルは次の通りである。
原題からして哲学的で深みがあり一般のホラー映画と一線を画す素晴らしいものである。
「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド(1968)」("NIGHT OF THE LIVING DEAD")
「ゾンビ(1978)」("DAWN OF THE DEAD")
「死霊のえじき(1985)」("DAY OF THE DEAD")
因みにわたしは、三部作の中では三作目の「死霊のえじき」が大好きである。
公開当時北米のメディアにして「ロメロはホラーを哲学にまで高めた」とまで言わせた大傑作である。
脚本、演出、描写ともに素晴らしく、わたしは映画史に残るホラー映画のひとつの頂点だと思っている。
(因みに現在国内版DVDで視聴できるバージョンは、プロデューサーが鋏を入れ、劇場公開版をいわば改悪したバージョンであり、劇場公開版DVDリリースが待たれる。)
ワシントン州エベレット。
看護婦のアナ(サラ・ポーリー)は、いつものように超過勤務を終え、夫ルイス(ジャスティン・ルイス)と暮らす自宅へ帰宅した。
翌朝、彼女たちの寝室の外には、隣家の8歳の少女ヴィヴィアン(ハンナ・ロックナー)が佇んでいた。
ルイスは、ヴィヴィアンの口元が何物かに噛み裂かれたような酷い怪我を負っているのを見て彼女に駆け寄るが、彼女は人間離れしたスピードで襲い掛かり、ルイスの首筋を噛み裂いてしまう。なんとかドアを閉じ寝室に立て籠もるが、ヴィヴィアンに首筋を噛み裂かれたルイスは絶命してしまう。
が、間もなく彼は息を吹き返し、今度は彼がアナに向かって襲い掛かってくるのだった。
何も分からないまま、アナは必死で屋外へと逃げ出したが・・・・。
本作「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、監督がCF(CM)あがりのザック・スナイダーということもあり、細かなシークエンスの構成や演出は概ね評価できるが、映画全体を通して見ると、シーンのつながりに不可解な疑問点が多く、脚本も恐ろしく強引で論理性に瑕疵がある。
とは言っても、本作は走るゾンビの圧倒的なパワーや、ごり押しの演出により、脚本の問題点を凌駕するパワーを持つ、評価すべき娯楽作品だと言えよう。
冒頭、アナ(サラ・ポーリー)の病院でのシークエンスでは、「ZOMBIO/死霊のしたたり」等のエンパイア・ピクチャーズ系のB級テイストに嫌〜な予感がしたのだが、アナが病院の外に出てからは、逆にそんな嫌〜な予感は払拭されるほどのハリウッド・テイストに満ちた作品に仕上がっていた。
ところで、その冒頭部分での特筆すべき点は、全速力で走るゾンビに追われる人間たちの描写であろう。
今までも走るゾンビを描いた作品はいくつかあるのだが、これほど全力疾走しているゾンビは初めてではないだろうか。
生き残った人々は自動車に乗って逃げるのだが、ゾンビは人間離れした恐ろしい勢いで自動車を追いかけるのである。
そして、近くに人間を発見するや否や、今までの獲物である自動車を見限り方向転換し、その近くの人間を襲うのである。
本作でのゾンビには、理性は無く本能だけで人間を捕食する存在として描かれ、人類が持つ理解できない捕食獣に対する根源的な恐怖感を煽る事に成功している。
また冒頭付近のゾンビとのカーチェイス(?)では、慌てふためく人間たちが理性を失いオーバー・スピードで自動車を運転し、次々と事故を起こす様が俯瞰(ある意味神の視点)で描かれ、脆くも崩壊する人間性と、それから派生する人類滅亡の予感を効果的に描写している。
物語の中盤は「ゾンビ」同様ショッピングモールで物語は進行するのだが、脚本の問題か「ゾンビ」ほどの緊迫感は感じられず、大量消費社会への文明批判も「ゾンビ」と比べて弱くみえる。
しかしながら、CJ(マイケル・ケリー)等ショッピング・モールの警備担当者とアナ等ショッピング・モールに逃げ込んできた人間たちとの対立は、資本主義社会における団体同士、国家同士の対立の縮図として機能していた。
ショッピング・モールのシークエンスについては、大きな危機も無く人間ドラマとモール内部に発生するゾンビの対処に終始していたのが残念である。
一度くらいは、ゾンビの集団がモール内に入り込み、危機的状況に陥って欲しかった。
終盤付近は物語の山場とも言える、マリーナへ向けての逃避行なのだが、ショッピング・モールでの立て籠もりにおいては、大量消費社会の縮図であるのだから、食料等物資の減少が明確に描写されるべきなのだが、その辺が明らかで無いため、生き残った人々のマリーナへの逃避行の決断について、脚本的に説得力が感じられない。
また、アクション・シークエンスについても、アクションを見せることに終始し、アクションで巻き起こる物語上の問題点を棚上げにしている感が否定できない。
例えば、トラック到着や、銃砲店の救出シークエンス、またヨット出帆シークエンスなどに脚本上の解決されない問題が散見される。
勿論本作は娯楽作品なので、その辺の些細な事に目くじらを立てても仕方が無いのだが、ロメロファンとしては「ドーン・オブ・ザ・デッド」を名乗っている以上、些細な点にも拘って欲しかったのである。
また、ホラー映画というものは、恐怖の対象を論理的に解釈した瞬間にただの勢力争いの映画に成り下がってしまうが、本作ではゾンビの論理的解釈が明確に行われなかったためゾンビの根源的恐怖の輝きは失われなかった。
エンド・クレジットに挿入される細かいカットもなんだか微妙である。
キャストは、アナ(サラ・ポーリー)を助ける警官ケネスにヴィング・レームズ、知的なリーダー格マイケルにジェイク・ウェバー、妊婦をいたわる夫アンドレにメキー・ファイファー、ヨットの持ち主スティーブにタイ・バーレル、ショッピング・モールの警備主任CJにマイケル・ケリーが扮し、またカメオ出演で、トム・サヴィーニが保安官、「ゾンビ」でピーターを演じたケン・フォリーがテレビ伝道師、同じく「ゾンビ」でロジャーを演じたスコット・H・ライニガーが将軍を演じている。
本作「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、まあロメロ作品には及ばないが、現代風ゾンビモノとして見るべきところは多々ある娯楽作品だと言えよう。
余談だがチェスのシークエンスや射撃ゲームの退廃的な雰囲気が興味深かった。
また、キューブリックの「シャイニング」に対するオマージュがあった。
しかも脚本は、ロメロのオリジナル脚本を脚色している、ということで、当初は"George A. Romero’s DAWN OF THE DEAD"というタイトルでプロモーションが行われていた。
その表現からロメロが制作に絡んでいる、と実しやかな情報がWEB上を飛び交っていたのも記憶に新しい。
しかし結果的にロメロは制作には一切タッチしておらず、"George A. Romero’s DAWN OF THE DEAD"という表現は、"MARY SHELLEY’S FRANKENSTEIN"や"BRAM STOKER’S DRACULA"同様に原作(原案)者を意味する、ということだったのだ。
因みにロメロのゾンビ三部作のタイトルは次の通りである。
原題からして哲学的で深みがあり一般のホラー映画と一線を画す素晴らしいものである。
「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド(1968)」("NIGHT OF THE LIVING DEAD")
「ゾンビ(1978)」("DAWN OF THE DEAD")
「死霊のえじき(1985)」("DAY OF THE DEAD")
因みにわたしは、三部作の中では三作目の「死霊のえじき」が大好きである。
公開当時北米のメディアにして「ロメロはホラーを哲学にまで高めた」とまで言わせた大傑作である。
脚本、演出、描写ともに素晴らしく、わたしは映画史に残るホラー映画のひとつの頂点だと思っている。
(因みに現在国内版DVDで視聴できるバージョンは、プロデューサーが鋏を入れ、劇場公開版をいわば改悪したバージョンであり、劇場公開版DVDリリースが待たれる。)
ワシントン州エベレット。
看護婦のアナ(サラ・ポーリー)は、いつものように超過勤務を終え、夫ルイス(ジャスティン・ルイス)と暮らす自宅へ帰宅した。
翌朝、彼女たちの寝室の外には、隣家の8歳の少女ヴィヴィアン(ハンナ・ロックナー)が佇んでいた。
ルイスは、ヴィヴィアンの口元が何物かに噛み裂かれたような酷い怪我を負っているのを見て彼女に駆け寄るが、彼女は人間離れしたスピードで襲い掛かり、ルイスの首筋を噛み裂いてしまう。なんとかドアを閉じ寝室に立て籠もるが、ヴィヴィアンに首筋を噛み裂かれたルイスは絶命してしまう。
が、間もなく彼は息を吹き返し、今度は彼がアナに向かって襲い掛かってくるのだった。
何も分からないまま、アナは必死で屋外へと逃げ出したが・・・・。
本作「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、監督がCF(CM)あがりのザック・スナイダーということもあり、細かなシークエンスの構成や演出は概ね評価できるが、映画全体を通して見ると、シーンのつながりに不可解な疑問点が多く、脚本も恐ろしく強引で論理性に瑕疵がある。
とは言っても、本作は走るゾンビの圧倒的なパワーや、ごり押しの演出により、脚本の問題点を凌駕するパワーを持つ、評価すべき娯楽作品だと言えよう。
冒頭、アナ(サラ・ポーリー)の病院でのシークエンスでは、「ZOMBIO/死霊のしたたり」等のエンパイア・ピクチャーズ系のB級テイストに嫌〜な予感がしたのだが、アナが病院の外に出てからは、逆にそんな嫌〜な予感は払拭されるほどのハリウッド・テイストに満ちた作品に仕上がっていた。
ところで、その冒頭部分での特筆すべき点は、全速力で走るゾンビに追われる人間たちの描写であろう。
今までも走るゾンビを描いた作品はいくつかあるのだが、これほど全力疾走しているゾンビは初めてではないだろうか。
生き残った人々は自動車に乗って逃げるのだが、ゾンビは人間離れした恐ろしい勢いで自動車を追いかけるのである。
そして、近くに人間を発見するや否や、今までの獲物である自動車を見限り方向転換し、その近くの人間を襲うのである。
本作でのゾンビには、理性は無く本能だけで人間を捕食する存在として描かれ、人類が持つ理解できない捕食獣に対する根源的な恐怖感を煽る事に成功している。
また冒頭付近のゾンビとのカーチェイス(?)では、慌てふためく人間たちが理性を失いオーバー・スピードで自動車を運転し、次々と事故を起こす様が俯瞰(ある意味神の視点)で描かれ、脆くも崩壊する人間性と、それから派生する人類滅亡の予感を効果的に描写している。
物語の中盤は「ゾンビ」同様ショッピングモールで物語は進行するのだが、脚本の問題か「ゾンビ」ほどの緊迫感は感じられず、大量消費社会への文明批判も「ゾンビ」と比べて弱くみえる。
しかしながら、CJ(マイケル・ケリー)等ショッピング・モールの警備担当者とアナ等ショッピング・モールに逃げ込んできた人間たちとの対立は、資本主義社会における団体同士、国家同士の対立の縮図として機能していた。
ショッピング・モールのシークエンスについては、大きな危機も無く人間ドラマとモール内部に発生するゾンビの対処に終始していたのが残念である。
一度くらいは、ゾンビの集団がモール内に入り込み、危機的状況に陥って欲しかった。
終盤付近は物語の山場とも言える、マリーナへ向けての逃避行なのだが、ショッピング・モールでの立て籠もりにおいては、大量消費社会の縮図であるのだから、食料等物資の減少が明確に描写されるべきなのだが、その辺が明らかで無いため、生き残った人々のマリーナへの逃避行の決断について、脚本的に説得力が感じられない。
また、アクション・シークエンスについても、アクションを見せることに終始し、アクションで巻き起こる物語上の問題点を棚上げにしている感が否定できない。
例えば、トラック到着や、銃砲店の救出シークエンス、またヨット出帆シークエンスなどに脚本上の解決されない問題が散見される。
勿論本作は娯楽作品なので、その辺の些細な事に目くじらを立てても仕方が無いのだが、ロメロファンとしては「ドーン・オブ・ザ・デッド」を名乗っている以上、些細な点にも拘って欲しかったのである。
また、ホラー映画というものは、恐怖の対象を論理的に解釈した瞬間にただの勢力争いの映画に成り下がってしまうが、本作ではゾンビの論理的解釈が明確に行われなかったためゾンビの根源的恐怖の輝きは失われなかった。
エンド・クレジットに挿入される細かいカットもなんだか微妙である。
キャストは、アナ(サラ・ポーリー)を助ける警官ケネスにヴィング・レームズ、知的なリーダー格マイケルにジェイク・ウェバー、妊婦をいたわる夫アンドレにメキー・ファイファー、ヨットの持ち主スティーブにタイ・バーレル、ショッピング・モールの警備主任CJにマイケル・ケリーが扮し、またカメオ出演で、トム・サヴィーニが保安官、「ゾンビ」でピーターを演じたケン・フォリーがテレビ伝道師、同じく「ゾンビ」でロジャーを演じたスコット・H・ライニガーが将軍を演じている。
本作「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、まあロメロ作品には及ばないが、現代風ゾンビモノとして見るべきところは多々ある娯楽作品だと言えよう。
余談だがチェスのシークエンスや射撃ゲームの退廃的な雰囲気が興味深かった。
また、キューブリックの「シャイニング」に対するオマージュがあった。
宮藤官九郎 loves ウィリアム・ゴールドマン
2004年6月10日 映画
ウィリアム・ゴールドマンという脚本家がいる。
「明日に向って撃て!(1969)」と「大統領の陰謀(1976)」で二度もアカデミー賞(脚本賞、脚色賞)を受賞した、言わずと知れた名脚本家である。
例えば、脚本を担当した主要作品をあげるだけでも、映画史に燦然と輝く多くの傑作・名作が名を連ねる。
主要な脚本担当作品は次の通り。
「動く標的(1966)」、「明日に向って撃て!(1969)」、「華麗なるヒコーキ野郎(1975)」、「マラソン マン(1976)」、「大統領の陰謀(1976)」、「遠すぎた橋(1977)」、「プリンセス・ブライド・ストーリー(1987)」、「ミザリー(1990)」、「アトランティスのこころ(2001)」、「ドリームキャッチャー(2003) 」 ・・・・。
しかしなんと言っても、前述の「明日に向って撃て!(1969)」である。
1890年代のアメリカ西部。銀行強盗のブッチとサンダンスは、南米ボリビアで一旗上げる夢をもっていた。列車強盗に成功した彼らは、サンダンスの恋人エッタとともにボリビアへ向かうが…。19世紀末に鮮烈な軌跡を残した2人のアウトローを、情感豊かに描き出したアメリカンニューシネマの代表作。
『スティング』などの名匠ジョージ・ロイ・ヒルが、ときにはユーモラスに、ときにはリリカルに描いていく。主役のブッチにはポール・ニューマン、サンダンスにはロバート・レッドフォード。そして女教師エッタに名花キャサリン・ロスが扮している。名曲「雨にぬれても」をはじめとするバート・バカラックの軽妙流麗なメロディが、全編を痛切に歌い上げる新感覚ウェスタンだ。(アルジオン北村/Amazon.co.jpのエディターズ・レビューより引用)
さて、その「明日に向って撃て!(1969)」だが、ウィリアム・ゴールドマンはその脚本中に、映画史に残る名セリフを書いているのだ。
全映画の名セリフのベストテン等を選出した場合、かなりの確率で上位に食い込む種類の名セリフであり、「明日に向って撃て!(1969)」を紹介するVTRには必ずといって良いほど、このシークエンスが含まれている。
銀行強盗ブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)とサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)は、追ってに追われ、断崖絶壁に追いつめられてしまう。
追ってから逃げ延びるためには、遥か下方を流れる川に飛び降りるしかない。
ブッチ(ポール・ニューマン)に川に飛び込めと言われたサンダンス(ロバート・レッドフォード)は、
「オレは泳げないんだ!」("I can’t swim!")
と言うが、結局ブッチと一緒に川に飛び降りてしまう。
前述のように「明日に向って撃て!(1969)」を紹介するVTRや、ロバート・レッドフォードを紹介するVTRで、おそらく多くの人が見たことあるフッテージであろう。
(因みに、サンダンス映画祭で有名な、ロバート・レッドフォードが創出したサンダンス・インスティテュートは、この際のレッドフォードの役名:サンダンス・キッドから取られている。)
さて、わが日本にも最近特に評価されている脚本家がいる。
最新作「69 sixty nine」を仕上げたクドカンこと宮藤官九郎である。
主要な脚本担当作品は次の通り。
「池袋ウエストゲートパーク(2000/TV)」、「GO(2001)」、「木更津キャッツアイ(2002/TV)」、「ピンポン(2002)」、「ドラッグストアガール(2003)」、「ゼブラーマン(2003)」、「アイデン&ティティ(2003)」、「木更津キャッツアイ 日本シリーズ(2003)」、「69 sixty nine(2004)」・・・・。
最新作「69 sixty nine」の中にこんなシークエンスがある。
ケン(妻夫木聡)とアダマ(安藤政信)は、大学の全共闘団体に追われ、川にかかる橋の中央に追いつめられてしまう。
橋の両側からジリジリと近づいてくる全共闘。
全共闘から逃れるには、川に飛び込むしかない。
川に飛び込めというケンに対してアダマは、
「泳げないんだ。」
と言うが、結局は川に飛び込んでしまう。
そしてもう一本、宮藤官九郎が脚本を担当した作品「ピンポン」にこんなシークエンスがある。
橋の欄干に登るペコ(窪塚洋介)、後には警官が自転車で近づいてくる。警官の制止を無視し、ペコは橋の欄干から飛ぶ。
"I can fly!"
カメラはペコを中央におさえつつ、ショットガン撮影の発展形のように螺旋を描きつつ、橋の上から一気に上空へ向う。
いかがだろうか。
一度ならずも二度までも自らの脚本に同じようなシークエンスを潜ませる宮藤官九郎。
監督がこれらについて、気付いているかどうか、よくわからないが、これは誰の目にも、名脚本家ウィリアム・ゴールドマンへのオマージュに映るのではないだろうか。
と言うか、それ以外に考えられないのだ。
そして「69 sixty nine」には、「明日に向って撃て!(1969)」の映画史に残る素晴らしいラスト・シーンの直前のシーンを髣髴とさせるシークエンスがある。
南米の警官隊ならぬ工業高校の番長等不良どもにとり囲まれ、喫茶店「ブラックローズ」に閉じ込められてしまうケンとアダマ。
拳銃の弾が金に化けてるんですがね。
因みに、「明日に向って撃て!(1969)」は、1969年の作品である。
つまり、「明日に向って撃て!(1969)」は、「69 sixty nine」の出来事が起きている頃に制作され公開された作品だ、ということなのだ。
必然か偶然か、はたまた宮藤官九郎の目配せか、「69 sixty nine」は「明日に向って撃て!(1969)」へのオマージュに満ちているのだ。
「明日に向って撃て!(1969)」と「大統領の陰謀(1976)」で二度もアカデミー賞(脚本賞、脚色賞)を受賞した、言わずと知れた名脚本家である。
例えば、脚本を担当した主要作品をあげるだけでも、映画史に燦然と輝く多くの傑作・名作が名を連ねる。
主要な脚本担当作品は次の通り。
「動く標的(1966)」、「明日に向って撃て!(1969)」、「華麗なるヒコーキ野郎(1975)」、「マラソン マン(1976)」、「大統領の陰謀(1976)」、「遠すぎた橋(1977)」、「プリンセス・ブライド・ストーリー(1987)」、「ミザリー(1990)」、「アトランティスのこころ(2001)」、「ドリームキャッチャー(2003) 」 ・・・・。
しかしなんと言っても、前述の「明日に向って撃て!(1969)」である。
1890年代のアメリカ西部。銀行強盗のブッチとサンダンスは、南米ボリビアで一旗上げる夢をもっていた。列車強盗に成功した彼らは、サンダンスの恋人エッタとともにボリビアへ向かうが…。19世紀末に鮮烈な軌跡を残した2人のアウトローを、情感豊かに描き出したアメリカンニューシネマの代表作。
『スティング』などの名匠ジョージ・ロイ・ヒルが、ときにはユーモラスに、ときにはリリカルに描いていく。主役のブッチにはポール・ニューマン、サンダンスにはロバート・レッドフォード。そして女教師エッタに名花キャサリン・ロスが扮している。名曲「雨にぬれても」をはじめとするバート・バカラックの軽妙流麗なメロディが、全編を痛切に歌い上げる新感覚ウェスタンだ。(アルジオン北村/Amazon.co.jpのエディターズ・レビューより引用)
さて、その「明日に向って撃て!(1969)」だが、ウィリアム・ゴールドマンはその脚本中に、映画史に残る名セリフを書いているのだ。
全映画の名セリフのベストテン等を選出した場合、かなりの確率で上位に食い込む種類の名セリフであり、「明日に向って撃て!(1969)」を紹介するVTRには必ずといって良いほど、このシークエンスが含まれている。
銀行強盗ブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)とサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)は、追ってに追われ、断崖絶壁に追いつめられてしまう。
追ってから逃げ延びるためには、遥か下方を流れる川に飛び降りるしかない。
ブッチ(ポール・ニューマン)に川に飛び込めと言われたサンダンス(ロバート・レッドフォード)は、
「オレは泳げないんだ!」("I can’t swim!")
と言うが、結局ブッチと一緒に川に飛び降りてしまう。
前述のように「明日に向って撃て!(1969)」を紹介するVTRや、ロバート・レッドフォードを紹介するVTRで、おそらく多くの人が見たことあるフッテージであろう。
(因みに、サンダンス映画祭で有名な、ロバート・レッドフォードが創出したサンダンス・インスティテュートは、この際のレッドフォードの役名:サンダンス・キッドから取られている。)
さて、わが日本にも最近特に評価されている脚本家がいる。
最新作「69 sixty nine」を仕上げたクドカンこと宮藤官九郎である。
主要な脚本担当作品は次の通り。
「池袋ウエストゲートパーク(2000/TV)」、「GO(2001)」、「木更津キャッツアイ(2002/TV)」、「ピンポン(2002)」、「ドラッグストアガール(2003)」、「ゼブラーマン(2003)」、「アイデン&ティティ(2003)」、「木更津キャッツアイ 日本シリーズ(2003)」、「69 sixty nine(2004)」・・・・。
最新作「69 sixty nine」の中にこんなシークエンスがある。
ケン(妻夫木聡)とアダマ(安藤政信)は、大学の全共闘団体に追われ、川にかかる橋の中央に追いつめられてしまう。
橋の両側からジリジリと近づいてくる全共闘。
全共闘から逃れるには、川に飛び込むしかない。
川に飛び込めというケンに対してアダマは、
「泳げないんだ。」
と言うが、結局は川に飛び込んでしまう。
そしてもう一本、宮藤官九郎が脚本を担当した作品「ピンポン」にこんなシークエンスがある。
橋の欄干に登るペコ(窪塚洋介)、後には警官が自転車で近づいてくる。警官の制止を無視し、ペコは橋の欄干から飛ぶ。
"I can fly!"
カメラはペコを中央におさえつつ、ショットガン撮影の発展形のように螺旋を描きつつ、橋の上から一気に上空へ向う。
いかがだろうか。
一度ならずも二度までも自らの脚本に同じようなシークエンスを潜ませる宮藤官九郎。
監督がこれらについて、気付いているかどうか、よくわからないが、これは誰の目にも、名脚本家ウィリアム・ゴールドマンへのオマージュに映るのではないだろうか。
と言うか、それ以外に考えられないのだ。
そして「69 sixty nine」には、「明日に向って撃て!(1969)」の映画史に残る素晴らしいラスト・シーンの直前のシーンを髣髴とさせるシークエンスがある。
南米の警官隊ならぬ工業高校の番長等不良どもにとり囲まれ、喫茶店「ブラックローズ」に閉じ込められてしまうケンとアダマ。
拳銃の弾が金に化けてるんですがね。
因みに、「明日に向って撃て!(1969)」は、1969年の作品である。
つまり、「明日に向って撃て!(1969)」は、「69 sixty nine」の出来事が起きている頃に制作され公開された作品だ、ということなのだ。
必然か偶然か、はたまた宮藤官九郎の目配せか、「69 sixty nine」は「明日に向って撃て!(1969)」へのオマージュに満ちているのだ。
「69 sixty nine」
2004年6月9日 映画
2004/06/09 東京厚生年金会館で行なわれた「69 sixty nine」の試写会に行ってきた。
6月9日は「69 sixty nine」の日、ということで、各地で試写会が行なわれたようである。
スタッフ&キャストの皆さんは、朝から取材に、舞台挨拶に大忙しだったようである。
因みに、ここ東京では、16:30から目白学園高等学校で舞台挨拶付き試写会が、18:30から有楽町よみうりホールで舞台挨拶付き試写会が、18:45から東京厚生年金会館で舞台挨拶付き試写会が行われた。
よみうりホールでは試写前に舞台挨拶が、厚生年金会館では試写後に舞台挨拶が行なわれたのだ。
さて、とりあえず舞台挨拶についてだが、東京厚生年金会館の舞台挨拶は、総勢11名のスタッフ&キャストが集結した。
東京厚生年金会館の舞台挨拶に登場したのは、次の皆さん。
監督:李相日
キャスト:妻夫木聡、安藤政信、太田莉菜、水川あさみ、星野源、三浦哲郁、柄本佑、与座嘉秋、澤田俊輔、三浦誠己
因みに、有楽町よみうりホールの舞台挨拶に登場したのは、次の皆さん。
監督:李相日
キャスト:妻夫木聡、安藤政信、太田莉菜
因みに、目白学園高等学校の舞台挨拶に登場したのは、次の皆さん。
監督:李相日
キャスト:妻夫木聡、星野源、与座嘉秋、三浦哲郁
結果的にわたしは東京厚生年金会館の試写会に行って、正解だったようだ。
1969年・・・世界中で、フラワーチルドレンと呼ばれるロックとマリワナの紫煙に包まれた若者達が、ベトナム戦争にラヴアンドピースで反対していた年。日本は太平洋戦争で失われたプライドを、円(¥)の回復で取り戻そうと必死だった。まさに高度成長タケナワである。
そんな中、マジな学生たちはヘルメットと角材で武装し、機動隊との熱いガチンコでフィーバーしていた。またその一方では、お色気番組「11PM」が高視聴率を記録し、「平凡パンチ」は創刊と共に若者たちのバイブルと化し、マサに文化闇鍋状態。そう!ナウなヤングはストーンズを聞き、奥村チヨにヨクジョーし、暇つぶしにデモに出かけたのだ!(多分)。舞台はそんな無茶苦茶な年の長崎は佐世保。一般的な高校生の日常から、日本における69年の政治的側面とポップカルチャーのアンビバレントな相関関係を考証する映画だ・・・というのは嘘で、一発目立ってモテたいが為に学校をバリケード封鎖しちゃうケンと、彼のフザけた尻馬にノリノリのハジけた仲間達が繰り広げる、デタラメでチャーミングな青春を描いたのが、この「69 sixty nine」だ!!
(「69 sixty nine」INTRODUCTIONコピーより引用)
一言で言うと、「祭り」のような映画である。
本作「69 sixty nine」は、高校時代のある種原因不明の熱病のような高揚感と、祭のあとの例え様の無い寂寥感が味わえる作品である。
方向性はともかく相米慎二「台風クラブ」を観終わった後の寂寥感に似た印象を受けた。
物語の演出、描写手法は、1969年の暗い世相を反映しつつも、底抜けに明るく、楽しい映像が続いている。
しかも脚本が最高に面白いのだ。(脚本は最近話題の宮藤官九郎)
映像のスタンスや手法は、最近の作品では、これまた方向性が異なるが「下妻物語」のように真摯に作りこまれたコメディ作品的な印象を受けた。
とは言うものの、その明るい描写の中に、社会や世相に対する批判や反骨精神が顔をもたげ、言わばロックな映画に仕上がっているのだ。
その辺りは、妻夫木聡演じる矢崎剣介=ケンと、嶋田久作演じる相原先生の関係が、当時の社会情勢の縮図として見事に機能している。
また手法的には、現実と妄想、そして嘘が表現されているのだが、違うシークエンスで同じカットが使われたり、同じシークエンスなのに違うカットが使われたり、あるシークエンスで登場人物が喋ったセリフが違うシークエンスでの同じセリフが違う意味を持ったりと、トリッキーな脚本と編集が見事であり楽しい。
脚本と言えば、名脚本家ウィリアム・ゴールドマンが書いた「明日に向って撃て」に対するオマージュのシーンが2シーンあった。
機会があれば、「明日に向って撃て」を観た上で、「69 sixty nine」を観て欲しいのだ。
また、オープニング・クレジットが素晴らしかった。
フラッシュ・アニメーション的手法をフィーチャーした形式のクレジットは、ソウル・バスが生きていたら、こんな感じのクレジットを創るのではないか、と思わせる素晴らしい出来だった。
方向性としては「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」に近いが、洗練度は本作「69 sixty nine」の方が上である。
さらに、本編中に挿入される8mmフィルムの、粒子が粗くそれでいて芸術的な編集がされた映像も、本編をノスタルジックで寂寥感を煽る効果を高めている。
今更ながらであるが、8mmフィルムの画質は素晴らしいな、と思ってしまう。
1969年を再現する美術は種田陽平。セット内はともかく、セット外特に屋外を1969年に見せる手腕は素晴らしいものがあった。
キャストはみんな良い仕事をしている。
主演の妻夫木聡(矢崎剣介=ケン)と安藤政信(山田正=アダマ)については、いつものイメージ通りで期待通りの感じだったが、三人目の男
岩瀬学=イワセを演じた金井勇太や、中村譲役の星野源、工業の番長役の新井浩文等、この作品で忘れられない存在感を醸し出している若手の台頭が嬉しかった。
また、本作がデビュー作となるヒロイン松井和子=レディ・ジェーン役の太田莉菜については、好き嫌いはあると思うが、見事なヒロイン像を創り上げている。
また、妻夫木聡(矢崎剣介=ケン)の父親役の柴田恭兵や、ケンの父親の教え子で極道の村上淳、佐々木刑事役の國村隼、そして相原先生役の嶋田久作、松永先生役の岸部一徳等の俳優達も良い仕事をしている。
彼等も忘れ得ぬ印象を観客に与えている。
つづく
6月9日は「69 sixty nine」の日、ということで、各地で試写会が行なわれたようである。
スタッフ&キャストの皆さんは、朝から取材に、舞台挨拶に大忙しだったようである。
因みに、ここ東京では、16:30から目白学園高等学校で舞台挨拶付き試写会が、18:30から有楽町よみうりホールで舞台挨拶付き試写会が、18:45から東京厚生年金会館で舞台挨拶付き試写会が行われた。
よみうりホールでは試写前に舞台挨拶が、厚生年金会館では試写後に舞台挨拶が行なわれたのだ。
さて、とりあえず舞台挨拶についてだが、東京厚生年金会館の舞台挨拶は、総勢11名のスタッフ&キャストが集結した。
東京厚生年金会館の舞台挨拶に登場したのは、次の皆さん。
監督:李相日
キャスト:妻夫木聡、安藤政信、太田莉菜、水川あさみ、星野源、三浦哲郁、柄本佑、与座嘉秋、澤田俊輔、三浦誠己
因みに、有楽町よみうりホールの舞台挨拶に登場したのは、次の皆さん。
監督:李相日
キャスト:妻夫木聡、安藤政信、太田莉菜
因みに、目白学園高等学校の舞台挨拶に登場したのは、次の皆さん。
監督:李相日
キャスト:妻夫木聡、星野源、与座嘉秋、三浦哲郁
結果的にわたしは東京厚生年金会館の試写会に行って、正解だったようだ。
1969年・・・世界中で、フラワーチルドレンと呼ばれるロックとマリワナの紫煙に包まれた若者達が、ベトナム戦争にラヴアンドピースで反対していた年。日本は太平洋戦争で失われたプライドを、円(¥)の回復で取り戻そうと必死だった。まさに高度成長タケナワである。
そんな中、マジな学生たちはヘルメットと角材で武装し、機動隊との熱いガチンコでフィーバーしていた。またその一方では、お色気番組「11PM」が高視聴率を記録し、「平凡パンチ」は創刊と共に若者たちのバイブルと化し、マサに文化闇鍋状態。そう!ナウなヤングはストーンズを聞き、奥村チヨにヨクジョーし、暇つぶしにデモに出かけたのだ!(多分)。舞台はそんな無茶苦茶な年の長崎は佐世保。一般的な高校生の日常から、日本における69年の政治的側面とポップカルチャーのアンビバレントな相関関係を考証する映画だ・・・というのは嘘で、一発目立ってモテたいが為に学校をバリケード封鎖しちゃうケンと、彼のフザけた尻馬にノリノリのハジけた仲間達が繰り広げる、デタラメでチャーミングな青春を描いたのが、この「69 sixty nine」だ!!
(「69 sixty nine」INTRODUCTIONコピーより引用)
一言で言うと、「祭り」のような映画である。
本作「69 sixty nine」は、高校時代のある種原因不明の熱病のような高揚感と、祭のあとの例え様の無い寂寥感が味わえる作品である。
方向性はともかく相米慎二「台風クラブ」を観終わった後の寂寥感に似た印象を受けた。
物語の演出、描写手法は、1969年の暗い世相を反映しつつも、底抜けに明るく、楽しい映像が続いている。
しかも脚本が最高に面白いのだ。(脚本は最近話題の宮藤官九郎)
映像のスタンスや手法は、最近の作品では、これまた方向性が異なるが「下妻物語」のように真摯に作りこまれたコメディ作品的な印象を受けた。
とは言うものの、その明るい描写の中に、社会や世相に対する批判や反骨精神が顔をもたげ、言わばロックな映画に仕上がっているのだ。
その辺りは、妻夫木聡演じる矢崎剣介=ケンと、嶋田久作演じる相原先生の関係が、当時の社会情勢の縮図として見事に機能している。
また手法的には、現実と妄想、そして嘘が表現されているのだが、違うシークエンスで同じカットが使われたり、同じシークエンスなのに違うカットが使われたり、あるシークエンスで登場人物が喋ったセリフが違うシークエンスでの同じセリフが違う意味を持ったりと、トリッキーな脚本と編集が見事であり楽しい。
脚本と言えば、名脚本家ウィリアム・ゴールドマンが書いた「明日に向って撃て」に対するオマージュのシーンが2シーンあった。
機会があれば、「明日に向って撃て」を観た上で、「69 sixty nine」を観て欲しいのだ。
また、オープニング・クレジットが素晴らしかった。
フラッシュ・アニメーション的手法をフィーチャーした形式のクレジットは、ソウル・バスが生きていたら、こんな感じのクレジットを創るのではないか、と思わせる素晴らしい出来だった。
方向性としては「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」に近いが、洗練度は本作「69 sixty nine」の方が上である。
さらに、本編中に挿入される8mmフィルムの、粒子が粗くそれでいて芸術的な編集がされた映像も、本編をノスタルジックで寂寥感を煽る効果を高めている。
今更ながらであるが、8mmフィルムの画質は素晴らしいな、と思ってしまう。
1969年を再現する美術は種田陽平。セット内はともかく、セット外特に屋外を1969年に見せる手腕は素晴らしいものがあった。
キャストはみんな良い仕事をしている。
主演の妻夫木聡(矢崎剣介=ケン)と安藤政信(山田正=アダマ)については、いつものイメージ通りで期待通りの感じだったが、三人目の男
岩瀬学=イワセを演じた金井勇太や、中村譲役の星野源、工業の番長役の新井浩文等、この作品で忘れられない存在感を醸し出している若手の台頭が嬉しかった。
また、本作がデビュー作となるヒロイン松井和子=レディ・ジェーン役の太田莉菜については、好き嫌いはあると思うが、見事なヒロイン像を創り上げている。
また、妻夫木聡(矢崎剣介=ケン)の父親役の柴田恭兵や、ケンの父親の教え子で極道の村上淳、佐々木刑事役の國村隼、そして相原先生役の嶋田久作、松永先生役の岸部一徳等の俳優達も良い仕事をしている。
彼等も忘れ得ぬ印象を観客に与えている。
つづく