2004/12/01 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「血と骨」を観た。当日は「映画の日」の特別イベントとして、崔洋一のトークショーが行われた。

「血と骨」というタイトルから、多くの人が連想するのは、イエス・キリストの「肉と血」ではなかろうか。事実わたしも「血と骨」と言うタイトルから、本作はキリスト教的世界観に則った物語ではないかと思っていたし、もしかすると本作の主人公を救世主に準えているのではないか、とも思っていた。また同時に、勿論逆説的にではあるが、「血と骨」は反キリスト者を描いている作品なのではないか、とも思っていた。

ところで、東洋では人間や生物(哺乳類)一般を「肉が詰まった袋」と表現することがあり、西洋では同様に人間や生物を「骨が詰まった袋」と表現する事がある。東洋と西洋の文化の差異を把握した上で三段論法的に考えると、「骨」と「肉」とは同義である、という事が出来るのではないだろうか。
そう考えた場合、当然の如く「血と骨」は「肉と血」と同義であると考える事が出来る訳だ。

そう考えた場合、「血と骨」と言う作品は、キリスト教を信奉する人々にとって、キリスト教を冒涜するような印象を与えかねないインパクトのある作品に仕上がっていると考えられるのである。

それを裏付けるかのように、本作「血と骨」では、キリスト教的観点から演出されているのではないか、と思えるような象徴的な描写が散見できる。

例えば、茶碗の欠片で腕の静脈を切り、自分の血を飲め、と金成貴(塩見三省)に迫る金俊平(ビートたけし)であったり、在日朝鮮人長屋の祝祭に豚を屠り振舞う金俊平。暴力とSEXに明け暮れながらも、限られた人々に不器用ながらも愛情を注ぐ金俊平・・・・。

そしてあたるを幸いに、一般的な道理が通じない、理由のわからない暴力を振るう金俊平の姿は、在日朝鮮人長屋と言う限定され閉鎖された空間における「災害(天災)」のメタファーとしても捉える事が出来る。そして、そこから論理を飛躍させると、金俊平は「神の雷(いかずち)」を具現化した存在だと解釈する事も出来る訳だ。

ここまで来ると金俊平は救世主イエス・キリストではなく、限定された世界の「嫉む神ヤハウェ(Yahweh)」のメタファーとして捉える事が出来るのではないだろうか。

ここまで読んで来て、何考えてるんだ、論理が飛躍しすぎだよ、と思う人もいると思うのだが、少なくても梁石日が自らの小説に「血と骨」というタイトルを付けた以上、自らの作品とキリスト教との関係は明らかであると思うのだ。

しかし、それを踏まえて本作「血と骨」を観ると、主人公金俊平のキャラクターを描くより、金俊平を取巻く市井の人々を描く事に尺が割かれているような気がする。
そして金俊平を捕らえるカメラは一歩引いた冷徹な視点を持っており、金俊平の感情の動きを捕らえるのではなく、感情移入を拒むかのように、金俊平の行動を真正直に冷淡に捕らえているのである。

浜田毅(撮影)のカメラは、金俊平の行動原理を解き明かすことはせず、ただ淡々と金俊平の行動、言わば天災のようなものを描いているのだ。そして胸を張り、背筋を伸ばし災害に立ち向う人々を描写しているのだ。

キャストは、誰もが言うように、ビートたけしの内に闇を秘めた様が素晴らしかった。しかし映画ファンとしては、普通の俳優に演じて欲しかったと思うのだ。ビートたけしは好演しているのだが、かつてのコントの記憶が時々顔を出してしまうのだ。

鈴木京香にしろオダギリジョーにしろ、濱田マリにしろ田畑智子にしろ、陳腐な表現だが体当り演技を見せてくれている。勿論評価すべきなのだが、本作「血と骨」については全てのキャストが与えられた仕事を100%以上の力を出して演技合戦に興じているのだから仕方が無い。正に文字通り戦いにも似た演技合戦なのだ。

あと特筆すべきは新井浩文だろう。最近話題作には必ず顔を出す、注目の俳優だが、映画によって全く違うキャラクターを演じ分けているのだ。多分近作のスチールにしろ、映像にしろ並べてみても、同一人物だとは思えないのではないだろうか。勿論顔はおんなじだが。

またオダギリジョーも良い俳優になってきたと思う。彼はこういった路線の方が良いのではないかと思う。

更に、出番は少ないながら二役を演じた伊藤淳史(龍一/俊平の少年時代)も良かった。

美術(磯見俊裕)にしろ照明(高屋齋)にしろ素晴らしい仕事をしており、「血と骨」の世界観の構築を助けている。特に美術、小道具(プロップ)が素晴らしい。

脚本は、金俊平を取巻く人々のみを描き、凡庸な脚本家であれば、背景として取り入れるであろう、時代の大きなうねりが割愛されている点には、個人的には良い印象を受けた。

本作「血と骨」は中身が薄い娯楽映画に慣れ親しんだ観客にとっては、面白くもなく退屈で、暴力を極端に取り入れた酷い映画のように受取れるかもしれない。
しかしながら、俳優の素晴らしい演技合戦が楽しめる素晴らしい映画に仕上がっている。
文芸大作とはこういうものなのだ。

=+=+=+=+=+=+=

崔洋一のトークショーは、映画の内容ではなく、映画がどのように企画され、製作されて来たかが中心となっていた。
原作を読み、ビートたけしにオファーし、鈴木京香、濱田マリ、オダギリジョー等が集まり、最早挙げた手を下ろせない状況だった、と言うような話が興味深かった。

トークショー後は、プレゼント抽選会や握手会があり、わたしは事前に準備していたパンフレットにサインを貰った。

余談だが、俳優や監督にサインを貰うには、事前準備が必要だと思うのだ。ペンは勿論、サインを貰うスチールや書籍、パンフレット等を事前に準備する必要がある。あとはタイミングなのだ。
因みに、ペンは黒と銀の2種類あれば、たいていの物には見映え良くサインが映える。

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余談だが、金花子についてだが、わたしの記憶違いかも知れないのだが、子役から田畑智子になった後に、再度子役に戻っていたような気がする。具体的にはマッコリを張賛明(柏原収史)に薦めるシーンから 金花子は田畑智子が演じているのだが、その後の室内のシーンで、金花子は子役の俳優に再び戻っていたような気がするのだ。わたしの記憶違いか、シーンの入れ替えがあったための苦肉の策なのか、謎である。

更に余談だが、ラスト近辺の金俊平の姿はスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のボーマン船長を髣髴とさせる。
 
 
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さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その11です。

とりあえず目標の再確認を・・・・

目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」
 
 
1.映画

#107 「爆裂都市」サイエンスホール 2004/11/01
#108 「パニッシャー」ヤクルトホール 2004/11/02
#109 「ソウ」VTC 六本木シネマズ スクリーン7 2004/11/04
#110 「Boundin’(原題/短編)」九段会館ホール 2004/11/13
#111 「Mr.インクレディブル」九段会館ホール 2004/11/13
#112 「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」九段会館ホール 2004/11/15
#113 「ハウルの動く城」VTC 六本木シネマズ プレミア・スクリーン 2004/11/16
#114 「笑の大学」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/11/19
#115 「カナリア」朝日ホール 2004/11/20
#116 「雲の南へ」朝日ホール 2004/11/21
#117 「おそいひと」朝日ホール 2004/11/21
#118 「柔道龍虎榜」朝日ホール 2004/11/22
#119 「カンフーハッスル」東京国際フォーラムAホール 2004/11/24
#120 「2046」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/11/26
#121 「ふたりにクギづけ」千代田区公会堂 2004/11/28
#122 「僕の彼女を紹介します」九段会館ホール 2004/11/29
 
 
2.DVD、CATV等

#167 「リロ&スティッチ」CATV 2004/11/03
#168 「デッドコースター」CATV 2004/11/05
#169 「くたばれ!ハリウッド」HDD 2004/11/05
#170 「ファム・ファタール」CATV 2004/11/06
#171 「ヴァイブレータ」CATV 2004/11/06
#172 「アリ・G」CATV 2004/11/07
#173 「いつか誰かが殺される」CATV 2004/11/11
#174 「なつかしの顔」CATV 2004/11/11
#175 「麻雀放浪記」CATV 2004/11/11
#176 「悪霊島」CATV 2004/11/11
#177 「カンニング・モンキー 天中拳」HDD 2004/11/12
#178 「少林寺木人拳」HDD 2004/11/12
#179 「地獄甲子園」HDD 2004/11/13
#180 「地獄甲子園外伝 ラーメンバカ一代(短編)」HDD 2004/11/13
#181 「漫☆画太郎SHOW ババアゾーン(他)」HDD 2004/11/13
#182 「ゴジラ対ヘドラ」CATV 2004/11/17
#183 「トーク・トゥ・ハー」CATV 2004/11/17
#184 「シュレック」DVD 2004/11/23
#185 「シュレック2」DVD 2004/11/23
 
  
3.読書

#035 「隠し剣孤影抄」藤沢周平著 文春文庫 2004/11/08
#036 「時雨のあと」藤沢周平著 新潮文庫 2004/11/19
#037 「魔法使いハウルと火の悪魔」ダイアナ・ウィン・ジョーンズ著 西村醇子訳 徳間書店 2004/11/27
 
  
映画は、劇場16本(累計122本)、DVD等19本(累計185本)で、計35本(累計307本)。300本を超えまして、目標達成です。
このままのペースで、年間335本(劇場133本)です。

読書は3冊(累計37冊)で、このままのペースでは、年間40冊です。

映画は300本を超え、目標を達成しました。しかし、読書の状況は最悪です。

※ 参考 昨年同時期の状況
映画 288本(劇場70本)
読書 55冊
 
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2004/11/29 東京九段下「九段会館大ホール」で「僕の彼女を紹介します」の試写を観た。

本作「僕の彼女を紹介します」は、クァク・ジェヨン監督待望の新作で、大ヒット作「猟奇的な彼女」のヒロイン役チョン・ジヒョンとクァク・ジェヨン監督が再び組んだという、超期待の作品なのだ。
わたし的には「猟奇的な彼女」で感涙、次の「ラブストーリー」で号泣、クァク・ジェヨンの作風は、わたしのツボだったため、本作にも、号泣させてくれよと、多大なる期待を込めて「僕カノ」こと「僕の彼女を紹介します」の試写に臨んだ訳だ。
 
 
激しい思い込みと誰よりも強い正義感に燃えて、日夜奮闘を続ける熱血巡査ヨ・ギョンジン(チョン・ジヒョン)。しかし、彼女が自信満々で捕まえたのは、犯人逮捕に協力しようとしていた善意な市民、女子高で物理を教えるまじめな新米教師コ・ミョンウ(チャン・ヒョク)だった。

とんだ災難に遭ったミョンウだったが、後日、青少年の非行防止の見回りのため訪れた交番で、ふたたびギョンジンと遭遇する。見回り中、事件に巻き込まれ逃げ出そうとする彼をすばやく手錠で捕まえる彼女。ミョンウは、あらゆる事件や揉め事に首を突っ込むギョンジンのせいで、麻薬密売組織による銃撃戦にまで巻き込まれ、命がけの一夜を過ごす。

そんな出会いにもかかわらず、二人が恋に落ちるのに時間は要らなかった。そして、彼は心に決める。この勇敢すぎるほど勇敢で、無謀なまでにまっすぐな、愛すべき彼女を、たとえ何があっても守り抜こう、と。
しかし、そんな彼らを待ち受けていたのは・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督・脚本:クァク・ジェヨン
出演: チョン・ジヒョン(ヨ・ギョンジン巡査)、チャン・ヒョク(コ・ミョンウ)、キム・テウク、チャ・テヒョン
 
 
本作「僕の彼女を紹介します」のプロモーションは「泣ける」と言う事を前面に出しているのだが、わたし的には残念ながらあまり泣けなかった。前述のように、わたしは「猟奇的な彼女」で感涙、続く「ラブストーリー」で号泣してしまっているだけに、三作目の本作に当然の如く号泣を期待していたのだ。ついでに、本作の「号泣必須プロモーション」にも踊らされていた訳だ。

余談だが、泣きたいのなら前作「ラブストーリー」がオススメである。悲しいから泣く、かわいそうだから泣くのではなく、運命的なプロットの巧みさに泣くのである。

ところで、本作を観て再確認したのだが、監督のクァク・ジェヨンの嗜好なのか、アメリカを中心とした西洋文化への憧憬が色濃く出ているようだ。特にサントラの選曲について顕著だと思う。
日本映画にもアメリカ文化への憧れが見え隠れする作品はあるのだが、現代日本映画にはほとんどそういった描写が無い。そこから考えるとかつて日本文化がそうであったように、韓国文化は現在、進行形で西洋化しつつあるのではないかと、思ってしまう。

ところで本作の根本には「猟奇的な彼女」で描かれた、自己中心的な女性に男性が振り回されつつ恋に落ちる、というメインのプロットと、「ラブストーリー」で語られたような、過去のある出来事が現代に影響を与える伏線となっている運命的なプロットが導入されている。

また本作の特徴として、「猟奇的な彼女」のイメージや演出、カットが繰り返し登場し、同作内で描かれていた、ヒロインが語る「挿話」(今回は「ロミオとジュリエット」がモチーフ)も登場している。また本作のヒロインの部屋は「ラブストーリー」のヒロインの部屋と酷似しており、鳩が来るし風の演出も踏襲されている。
また「猟奇的な彼女」でヒロインが唯一心情を吐露するシーンで強烈な印象を与える「ごめん」というセリフも本作でも重要な意味を持っている。
更にラストのシークエンスでは、正に運命的で誰もが納得できる素晴らしい印象を観客に与えると同時に、素晴らしいファン・サービス精神が感じられる。
あのエンディングは、クァク・ジェヨン監督ファンにとっては予定調和的な唯一で最高のエンディングなのだ。

従って本作は、好意的に取ればクァク・ジェヨンの三作目にして早くも集大成的な作品を製作した技量を評価できるのだが、逆に考えると監督としての底が見えた感が否定できない。
これは「猟奇的な彼女」と「ラブストーリー」の脚本がトリッキーでいながら普遍的で素晴らしい脚本に仕上がっていたのだが、それらの脚本と比較すると本作の脚本が凡庸で独自性が足りない印象を受ける。

余談だが本編に挿入される「ロミオとジュリエット」をモチーフとした「挿話」を前提にすると冒頭の空撮は勿論「ウエスト・サイド物語」の引用だし、「雨に唄えば」の引用と思われるシーンもある。校庭でヒロインの周りを自動車が走るシーンでは「サウンド・オブ・ミュージック」のジュリー・アンドリュースを回るカメラ・ワークが再現されている。このようなクラシックな作品からの引用が興味深い。
これは前述の、西洋文化への憧憬ととらえるか、古き良き時代への回顧ととらえるのかわからないが、監督の嗜好が垣間見える瞬間だと言える。

キャストは何と言ってもチョン・ジヒョンの魅力爆発である。相手役のチャン・ヒョクははっきり言って、そこそこ演技が出来れば誰でも良かったのではないか、とさえ思えてしまう程、チョン・ジヒョンのためだけに、チョン・ジヒョンを魅力的に見せるためだけに製作されたような作品なのだ。

その観点からは、脚本はまあ及第点は与えられるのだが、やはり詰めが甘く、もっと号泣させて欲しかったのだ。

とにかく、本作「僕の彼女を紹介します」は号泣指数は前作「ラブストーリー」に及ばないが、チョン・ジヒョンとクァク・ジェヨン監督のファンならば最大限に楽しめる、監督の集大成的な作品であると同時に、ファンならずとも楽しめる素晴らしい作品に仕上がっている。この冬オススメのラブ・ストーリーなのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=

余談だけど、最近、韓国映画にしろ香港・中国映画にしろ、生きの良いアジア映画をハリウッド・メジャーが本気で配給しているのが気になる。
従来、アジア映画の日本国内配給は、ほとんど日本の配給会社が担当していたのだが、最近のアジア映画の隆盛を受けて、ハリウッド・メジャーがアジア映画の製作・配給に関わってきたのだ。
製作時点でハリウッド・メジャーによる全世界配給が決まっているような作品が増加すると、従来良質のアジア映画を買い付け、日本公開して来た日本の配給会社は、どんどん厳しい状況に追い込まれていくのではないか。
おそるべし貪欲なハリウッド・メジャーなのだ。

=+=+=+=+=

更に余談だが、2004/12/01に東京有楽町「東京国際フォーラム」で、クァク・ジェヨン監督とチョン・ジヒョンの舞台挨拶付きの試写があるのだ。
チョン・ジヒョン好きのわたしとしては、何が何でも行きたい気持ちで一杯なのだがチケットが手に入らないのだ。
ついでに当日、崔洋一のトークショー付き「血と骨」のチケットを押さえてしまった。チョン・ジヒョンを思い浮かべながら、崔洋一と語るぞ。
 
 
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2004/11/28 東京九段下「千代田区公会堂」で「ふたりにクギづけ」の試写を観た。

2003年12月に北米で公開されたファレリー兄弟の新作「ふたりにクギづけ」は、日本の映画ファンの中では、その題材(「結合双生児」※を主人公としたコメディ映画)から、日本公開は難しいのではないか、と思われていた作品である。
先ずは北米公開から1年後の公開ではあるが、ファレリー兄弟の新作が日本公開されることを喜びたい。
 
 
ボブ・テナー(マット・デイモン)とウォルト・テナー(グレッグ・キニア)は双子の兄弟。地元の人気者のふたりは「クィッキー・バーガー」と言うハンバーガー・ショップを経営している。地元の舞台俳優で、社交的な性格のウォルトはプレイボーイ。一方、引っ込み思案で奥手のボブは、3年間もメールのやり取りをしているメル友のメイ・フォン(ウェン・ヤン・シー)にさえ兄弟の「秘密」を打ち明ける事が出来ない。生まれてから片時も離れず、ずっと寄り添って生きて来た兄弟の「秘密」。それは、お互いが腰の部分でくっついている結合双生児であること。

そんなふたりは、地元で知り合いだけにちやほやされる舞台俳優ではなく、本物の俳優になりたいというウォルトの夢を叶えるため住み慣れた島を離れ、夢の都ハリウッドへ向かい、滞在先のモーテルで、俳優志願のエイプリル(エヴァ・メンデス)と脚本家志望のモー(テレンス・バーニー・ハインズ)と出会う。

しかしウォルトは、ボブがくっついていることが災いし、なかなか俳優の仕事は見つからずトラブルの連続。一方、ボブもメイに結合双生児であることがバレないよう、その場を取り繕うデートを重ねていた。

そんな中、ひょんな事からウォルトがオスカー女優シェール(シェール)の相手役に抜擢される。突然のビッグ・チャンスに張り切るウォルト。ボブも「お互いの成功を邪魔しない」という誓いを守り、撮影に協力するのだが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:ボビー・ファレリー、ピーター・ファレリー
出演:マット・デイモン、グレッグ・キニア、エヴァ・メンデス、ウェン・ヤン・シー、シェール、セイモア・カッセル、メリル・ストリープ(ノン・クレジット)
 
 
本作を観て、先ず驚いたのは、本作の配給がFOXで、しかもスコープ・サイズで製作されている、と言う事であった。中小の配給会社ではなく、ハリウッド・メジャーが配給を手がけている点、そしてスコープ・サイズで本作が製作・公開されている点から、この作品はファレリー兄弟の作風を好む限られた観客ではなく、多くの一般大衆をターゲットとした作品である訳だ。(国内配給はアートポート)

そんな訳でわたしは、オープニング・クレジットの時点でわたしの本作に対する先入観(「ふたりにクギづけ」は「結合双生児」を笑いものにする、居心地の悪いコメディ映画に違いない)は、杞憂に過ぎない事を悟ったのだ。

その先入観は、ファレリー兄弟の従来の作風、内容はともかく表層的には、子供、老人、障害者、動物といった社会的弱者を笑いものにする手法から発したものであり、本作については前述のようにマット・デイモンとグレッグ・キニアが演じる「結合双生児」を笑いものにする、という先入観を持っていた。
 
 
しかし本作は、いざ蓋を開けてみると、「結合双生児」を主人公としたコメディと言うよりは、中にいる自分から見た、外にいる自分の喪失とその再生を描いた、ある意味外にいる自分探しの物語に昇華されていた。

そして物語の最大のモチーフは「オズの魔法使い」。
自分の欲しい物を求めてハリウッド(エメラルド・シティ)へ旅立つふたりの青年の物語なのだ。
勿論、オズの大魔王的キャラクターであるウォルトのエージェント、モーティー・オライリー(セイモア・カッセル)や、西の魔女的キャラクターのシェール(シェール)、俳優になりたいエイプリル(エヴァ・メンデス)、脚本家になりたいモー(テレンス・バーニー・ハインズ)等も登場し、ラストに一大ミュージカル・シーンを配するあたりは、完全な「オズの魔法使い」へのオマージュと考えられる。

余談だが、わたし的には、二人が旅立つ際のタクシーは出来れば黄色いタクシー(イエロー・キャブ)を使って欲しかった。(イエロー・ブリック・ロードの暗喩)

また、ボブとウォルトが「結合双生児」であることを、または登場する知的障害者を差別し、笑いものにするキャラクターが何人か登場するのだが、それらのキャラクターが「悪」に描かれている点が興味深かった。
従来のファレリー兄弟の作風とは若干異なり、オフビート感と言うより、ハリウッドの作風に染まってしまったような印象を受けたのだ。従来のファレリー兄弟の毒が、本作ではなりを潜め、悪く言うとファレリー兄弟もハリウッドに飼い馴らされてしまったのではないか、と思う訳だ。

脚本は、コメディと言うこともあり、小ネタを散りばめた非常に面白いものに仕上がっているし、物語の根本のプロットも素晴らしいし、「オズの魔法使い」への言及は勿論。「ムーン・リバー」をはじめとした様々な映画的記憶を呼び覚ます名曲の数々をサントラに使った点も良い印象を受けた。

また、ボブとウォルトが地元の名士として育ってきている点も興味深い。少年時代からハイスクール時代、そして現在まで、野球、アイスホッケー、ボクシング等様々なスポーツで活躍し、繁盛するハンバーガー・ショップを経営している点である。
地元の小さな島では、ボブとウォルトは差別されるどころか、隣人として愛されているのだ。
彼らは、日陰の暮らしを余儀なくされているのではなく、日向で愛情溢れる生活をしているのである。

そして、ウォルトが地元の舞台俳優ではなく、本物の俳優を目指してハリウッドに向かうのだが、ハリウッドのシークエンスでは、映画産業の内幕を楽しめる興味深い作品にも仕上がっていた。

キャストは、何と言ってもグレッグ・キニアが良かった。笑い、そして泣かせる役どころを楽しげに演じている。
マット・デイモンは若干内向的なキャラクターを好演している。
この役が、今後のキャリアに影を落すのではないか、と余計な心配をしていたのだが、特に問題なさそうだった。

二人の相手役、エイプリル(4月)とメイ(5月)を演じたエヴァ・メンデスとウェン・ヤン・シーも良かったし、シェールの自虐的なセルフ・パロディにも驚きだし、ノン・クレジットながらもラストで美味しいところを持っていってしまうメリル・ストリープにも驚きなのだ。

結局のところ本作「ふたりにクギづけ」は、「結合双生児」を描いたコメディと言う点から、観客の足を劇場に運ばせるのは難しいと思うのだが、いざ劇場に足を運んでもらえれば、2時間まるまる楽しんだ上、爽やかな気分で劇場を後に出来る良質のコメディ作品に仕上がっているのだ。

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※「結合双生児」
所謂「シャム双生児」。または「接着双生児」。
但し「シャム双生児」を表す英語(Siamese)は、差別的表現であり、「シャム双生児」とも差別的表現です。
 
 
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先週同様、劇場公開時期に合わせてレビューを紹介する
週刊「映画レビュー・インデックス」(仮称)
を継続してみます。

また同様に、最新の国内興収ベストテン(国内興行成績)作品のレビュー・インデックスもつけてみることにしました。
更に先週同様、今後継続的するかどうかは未定です。
 

■公開中
2004/11/27公開作品
「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」
http://diarynote.jp/d/29346/20041115.html
「ニュースの天才」http://diarynote.jp/d/29346/20040830.html

2004/11/20公開作品
「ハウルの動く城」http://diarynote.jp/d/29346/20041117.html

2004/11/13公開作品
「海猫」http://diarynote.jp/d/29346/20041025.html
「爆裂都市」http://diarynote.jp/d/29346/20041107.html
「パニッシャー」http://diarynote.jp/d/29346/20041103.html

2004/11/06公開作品
「オールド・ボーイ」http://diarynote.jp/d/29346/20040902.html
「TUBE チューブ」http://diarynote.jp/d/29346/20041104.html
 
 
■週末興収ベストテン
2004/11/20-21 興収ベストテン
1.「ハウルの動く城」(東宝)http://diarynote.jp/d/29346/20041117.html
2.「いま、会いにゆきます」(東宝)
3.「コラテラル」(UIP)
4.「海猫」(東映)http://diarynote.jp/d/29346/20041025.html
5.「隠し剣 鬼の爪」(松竹)http://diarynote.jp/d/29346/20041024.html
6.「笑の大学」(東宝) http://diarynote.jp/d/29346/20041119.html
7.「血と骨」(松竹=ザナドゥー)
8.「キャットウーマン」(ワーナー)
9.「2046」(ブエナビスタ)http://diarynote.jp/d/29346/20041127.html
10.「80デイズ」(日本ヘラルド映画)

余談ですが、「ハウルの動く城」が興収ベストテンのトップに躍り出て、2位以降は順送りになりましたが、現在日本映画がベストテンに6本入る、という凄い状況となっています。
過去の興収ベストテンを常にフォローしている訳ではないので、なんとも言えませんが、興収ベストテンに6本の日本映画がランクインしているのは、異例の出来事ではないでしょうか。

■公開直前
2004/12/04公開作品
「Mr.インクレディブル」http://diarynote.jp/d/29346/20041114.html

「2046」

2004年11月27日 映画
2004/11/26 ワーナーマイカルシネマズ板橋で「2046」を観た。

「その不思議な未来(2046)では、ミストリートレインが動き出し、アンドロイドが恋に落ちる。」
「2046、全世界衝撃の、近未来ラブストーリー」

先ずは、ウォン・カーウァイが誰でクリストファー・ドイルが何をしている人かを知らないような観客を「2046」に呼び込んだブエナビスタの広告宣伝手腕に脱帽である。

「2046」公開前、多くの映画ファンの間では、ウォン・カーウァイの「2046」を、木村拓哉とSFテイストを前面に押し出した戦略の下、全国拡大ロードショー公開することに対する危惧の声があがっていた。

勿論、ウォン・カーウァイの作家性や過去の作品、またはクリストファー・ドイルの撮影スタイルについて幾許かの知識を持っている観客を劇場に呼ぶのは構わないのだが、全くウォン・カーウァイやクリストフォー・ドイルを知らないような一般の観客に対して、ある意味「騙し(ミスデレクション)」とも言える広告宣伝を打ち、何も知らない素人の客を呼ぶ、と言うのはいかがなものか、と思う訳だ。

最近では「キル・ピル」や「マスター・アンド・コマンダー」、「ロード・オブ・ザ・リング」、「リディック」等で、隠された意図の下、作品の内容や前提を歪曲する傾向を持った、広告宣伝が行われている。
これは、一映画配給会社の刹那的な増益に繋がるのかも知れないが、映画業界全体にとっては、決して良いことではないのだ。結局は自分で自分の首を絞めているのに他ならない。

「あんなに宣伝している話題作なのに、なんでこんなにつまらないんだ」
「話題作でこんなにつまらないんだったら、他の作品は最悪につまらないに違いない」
「もう劇場なんかに行かない」
そう思う観客の何と多い事よ。

事実、ウォン・カーウァイの作品を知らずに、「格好良い近未来SFラブロマンス」を期待して劇場に足を運んだ観客にとって本作は、最低につまらない、何も起きない映画として評価されてしまい、もう二度とウォン・カーウァイ作品なんか観ない、という事にもなってしまうかも知れないのだ。

ちょっとは映画業界全体の将来のことも考えてくれよ、配給会社さんよ。

=+=+=+=+=+=+=

1967年 香港。
新聞記者から物書きへ転向したチャウ(トニー・レオン)は、これまで何人もの女たちと刹那的な情愛を繰り返していた。
ある日、チャウがシンガポールに滞在していた時代に交流のあった女性スー・リーチェン(コン・リー)と香港で再会したチャウは、彼女の宿泊先を訪ね、旧交を温めようとするが追い返されてしまう。彼女はそのホテルの「2046」号室に宿泊していた。

後日、チャウはそのホテルの「2046」号室に住み込もうとオーナー(ウォン・サム)を訪ねるが、「2046」号室は改装工事のため入る事が出来ず、チャウは隣の「2047」号室に住む事になる。部屋の改装はスー・リーチェンが「2046」号室で死んだ事によるものだった。

ホテルのオーナーの娘ジンウェン(フェイ・ウォン)は、日本人青年(木村拓哉)と恋をし、妹のジーウェン(ドン・ジェ)は、チャウの部屋に入り浸る。そして「2046」号室にはバイ・リン(チャン・ツィイー)が越して来た。

チャウは身の回りの実在の人物をモデルに、近未来小説「2046」の執筆をはじめるが・・・・。
 
監督・脚本・製作:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル
音楽:梅林茂
出演:トニー・レオン、木村拓哉、コン・リー、フェイ・ウォン、チャン・ツィイー、カリーナ・ラウ、チャン・チェン、マギー・チャン、ドン・ジェ
 
先ずはアジアが誇る豪華な俳優人の素晴らしい存在感に脱帽なのである。

最近、キラキラでブレブレの映像ではなく、フィックスのシックな画面が多くなってきたクリストファー・ドイルが二次元に切り取る映像の中、何もしなくても、ただ佇んでいるだけで、1分でも2分でも持たせられる俳優たちの力量、表情と身体全体から醸し出される雰囲気や空気、それだけを見ているだけでも至福の時間を過ごす事が出来る。

しかしながら、本作「2046」のように、大きな出来事が起きず、テンポがのろい作風は、派手でスピーディーな展開を好む観客にはあまりにも退屈で、はっきり言って苦痛なものかも知れない。
とは言うものの、俳優たちの演技やクリストファー・ドイルが切り取る映像を、絵画のように楽しむファンにとっては、本作「2046」は、細部に神が宿る素晴らしい絵の数々を楽しめる作品と言えるのだ。

特にトニー・レオンの甘い微笑には、女性でなくとも蕩かされてしまう。またフェイ・ウォンの陶磁器のような美しさと可憐な動き、チャン・ツィイーの勝ち気でいながら最後に見せる心の線の細さ、出番は少ないものの、ドン・ジェの瑞々しさ、そしてコン・リーの刹那的な様。どれをとっても、一幅の絵画に匹敵する、美術品、工芸品のような輝きを放つ素晴らしい演技の釣瓶打ちなのだ。
そして、1960年代を見事に再現するウィリアム・チョンの素晴らしい美術とクリストファー・ドイルの素晴らしい撮影。なんとも贅沢なのだ。

日本期待の木村拓哉は、いつものドラマの調子で良い所は特に無い。ナレーションもグタグタだし日本語台詞もまずい。ついでにアップの画が持たないのだ。また日本語がわかるダイアログ・エディタがいなかったのか、木村拓哉がセリフを噛んでいる音声がそのまま使われていたのが気になった。

音楽(梅林茂)は、オーケストレーションも美しく、多くの観客の心の琴線に触れることには成功しているのだが、残念ながら本作のメイン・タイトルは「レオン」のそれとあまりにも似ているのが残念である。

また、クレジットが格好良かった。
オープニングは、「スーパーマン」ミート市川崑と言った印象を受けるし、エンド・クレジットは、テキストの横移動が良い。余裕が無く、ポンポン変わる所は微妙だが、細かいところにも力を入れているようである。

物語は、ウォン・カーウァイの「花様年華」の後日談的な構成になっており、一部では堂々と「続編」と断言しているようである。愛を信じない男チャウの現実世界と精神世界の旅路の物語で、現実と虚構が入り混じり、時系列も入替わり、冒頭部分のカットがラストに登場し、壮大なロマン的な印象をも受けるが、伏線が上手く機能していないような残念な印象も受けた。

「カンヌ国際映画祭」の後、再編集を行い木村拓哉の登場カットを増やしたらしいが、木村拓哉の同一のカットが複数回使用されており、ケチったのか、と思う反面、本作のテーマ性を伏線として明確に描こうとする手法にも見えていた。

とにかく、本作「2046」は独特の作風で既にカルトなファンを獲得したウォン・カーウァイの最新作で、クリストファー・ドイルが切り取る数々の映像を一幅の絵画のように楽しみ、また俳優たちの素晴らしい演技と雰囲気や空気を堪能する、ある意味贅沢な作品に仕上がっている。(時間的にも贅沢だ)

観客を選ぶ作品だと思うが、機会があれば観ておけば、いろいろ役に立つのではないか、と思う。

=+=+=+=+=+=

余談だが、ウォン・カーウァイは、もしかするとデヴィッド・リンチのように解釈し、評価すべき作家なのかもしれない。
 
 
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
当ブログ「徒然雑草」のメインのコンテンツに「映画レビュー」というものがある。しかしながら実際のところ、いかに「レビュー」と言う名称を使っていたとしても、わたしの「映画レビュー」は、その名称に名前負けしてしまうような「映画に関する雑文」がほとんどなのだが、まあ「継続は力なり」と言う言葉もあるように、現在までに「徒然雑草」でレビューした作品数は既に150本を超えている。

折角なので、これを良い機会と捉え、多くの方々が行っているような「☆」による評価を導入する事にした。
 
 
■評価方法
評価方法は、全ての映画を分母とする相対評価とし、
最低「★」(0.5)、最高「☆☆☆☆☆」(5)
の10段階評価で評価する。(☆=1.0、★=0.5)

相対的な評価を行うため、標準偏差を考えた場合、どうしても、評価が中央付近に寄る傾向が推測される。従ってほとんどの作品(60%程度)が、☆☆☆(=3.0)か、☆☆☆★(=3.5)に評価される可能性がある。評価の相対的な信頼性を高めるためだと理解していただきたい。

最低
★(=0.5)
☆(=1.0)
☆★(=1.5)
☆☆(=2.0)
☆☆★(=2.5)
☆☆☆(=3.0)
☆☆☆★(=3.5)
☆☆☆☆(=4.0)
☆☆☆☆★(=4.5)
☆☆☆☆☆(=5.0)
最高

■評価基準
基本的な評価基準は、わたしの独断と偏見によるものだが、その観点は、その作品が後世に残るかどうか、または後世に残すべきかどうか、という観点による。

つまり、わたしが個人的に、素晴らしい、後世に残すべきだ、と思った作品の評価が必然的に高くなり、もう二度と観たくない、存在自体を抹殺すべきである、と思った作品の評価が必然的に低くなる事になり、その評価は他のレビュアーの評価とは一致しないし、左右もされない。

■レビューのスタンスとの齟齬
わたしは、現在の映画業界を憂いている。特に日本映画界の状況を真剣に憂いている。

劇場公開される映画は勿論商業映画であるから、製作費を回収し次回作を製作するための資金を調達させるため、ヒットさせなければならないのは充分理解しているが、だからと言って面白味に欠ける、ヒットが約束されたような映画ばかりしか製作されなくなってしまうことを真剣に危惧しているのだ。

このような状況下における、わたしの「映画レビュー」には、
1.より素晴らしい映画を製作して欲しい
2.多くの観客で劇場がいっぱいになって欲しい
という希望や期待が含まれている場合があり、その場合レビューの内容と「☆」による評価が一致しない事が予想される。

あんなに褒めているのに、☆二つかよ、という状況がままある、という事である。
評価すべき映画と、後世に残すべき映画は全く別物であり、その辺りについての齟齬は、あしからずご容赦いただきたい。
「カンフーハッスル」のレビューは、
http://diarynote.jp/d/29346/20041124.html
です。

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トラックバック先からリンクされて来た方は、
http://diarynote.jp/d/29346/20041124.html
をご覧ください。
2004/11/24 東京有楽町「東京国際フォーラムAホール」で「カンフーハッスル」の試写を観た。
舞台挨拶は監督・製作・脚本・主演のチャウ・シンチー(周星馳)。 
 
かつて香港に、世界中を沸かせたカンフー映画の一大ムーブメントがあった。
しかし、その魁であったブルース・リーは既に亡く、後継者たるジャッキー・チェンは年老いてしまい、今や世界に誇る香港カンフー映画の系譜は途絶えてしまったかに見えた。

そんな中、カンフー映画を貪欲に求める観客たちの欲求を満たすためか、かつての香港カンフー映画の系譜を継ぐ様々な作品が世に出てきた。それは「マトリックス」であり「キル・ビル」であり「マッハ!」であった。

切歯扼腕する香港映画界。
そんな中、香港カンフー映画の復権を果たすためか、一人の男が一本の映画を引っ提げ、満を持して立ち上がった。
その男の名は周星馳(チャウ・シンチー)。そしてその映画が「カンフーハッスル」なのだ。
 
 
舞台は文化革命前の中国。
強くなるために悪を目指す街の負け犬チンピラ、シン(星/チャウ・シンチー[周星馳])は、相棒(骨/ラム・チーチョン[林子聰])と共に、小さな悪事を働き糊口をしのいでいた。
ある日、シンと相棒は、貧民街「豚小屋砦」の散髪屋(半尻の床屋)で、冷酷非情なギャング団「斧頭会」の名を騙り、小金を巻き上げようとしたが、住民の団結力に負けてしまう。「斧頭会」の仲間を呼ぶぞと、脅しのつもりで投げた狼煙花火が「斧頭会」の副組長(ラム・シュー)の頭を直撃、「斧頭会」一行は狼煙花火を投げた奴を吊し上げるべく、貧民街「豚小屋砦」に乗り込んできた。

「斧頭会」の傍若無人の悪事に、業を煮やした男たちが立ち上がった。それは粥麺屋(油炸鬼/[董志華])、仕立屋(裁縫/[趙志凌])、人足(口古口厘強/[行宇])の三人の武術の達人だった。彼らは武術を極めた後、争いを嫌うが故に、在野に下り「豚小屋砦」で平和に暮らしていたのだ。

一時は、「斧頭会」を退けた「豚小屋砦」の達人たちだったが、面子を潰された「斧頭会」の組長、サム(チャン・クオックワン/[陳國坤])は、相談役(ティン・カイマン/[田啓文])等と共に、「豚小屋砦」の達人たちを倒すべく刺客を送り込む。

街の平穏な生活を願う、「豚小屋砦」の家主(女房東/[元秋])とその夫(房東/[元華])も否応無く戦いに巻き込まれていった。
かくして、「斧頭会」の面子と、「豚小屋砦」の平穏な生活をかけた戦いは、全面抗争の様相を呈してきた。
 
 
「マトリックス」「キル・ビル」「マッハ!」に対する香港の回答がここにある。「カンフーハッスル」は最高の血沸き肉踊る冒険活劇、最高の香港カンフー映画なのだ。

冒頭の「斧頭会」と「鰐革会」の抗争のシークエンスは、「キル・ビル」系のヴァイオレンス描写が続き、三人の達人と「斧頭会」との抗争は、「マッハ!」を髣髴とさせるフルコンタクト系のアクションが楽しめる。「斧頭会」の刺客との戦いはジャッキー・チェンのコミカルな道具仕立ての戦いから、「マトリックス」を超えるワイヤーアクションが炸裂する。

それと同時に、本作「カンフーハッスル」は、ブルース・リーの70年代、ジャッキー・チェンの80年代、ワイヤー・アクションが登場する90年代、CGIがアクションに導入される2000年代と、カンフー映画の歴史を一本で楽しめる構成にもなっているのだ。
アクション導演は、アクションの魔術師ユエン・ウーピン(袁和平)。脇を固めるのは、ジャッキー・チェンの盟友で、ブルース・リーの相手役も務めたサモ・ハン・キンポー。ブルース・リーのスタントマンを務めたユン・ワー等、70年代から現代までのカンフー映画の牽引者が集結している。

本作「カンフーハッスル」は、香港カンフー映画の文字通り集大成なのだ。
 
 
先ずは、コロムビア・ピクチャーズが配給を行っているのに驚いた。香港映画の日本国内の配給を日本の配給会社ではなく、ハリウッド・メジャーが行っていることに驚いたのである。しかし実際のところは、コロムビア映画が製作に名を連ねていたのである。ハリウッド資本で製作された香港映画、と言うスタンスなのだろうか。

また、映画のクオリティにも驚いた。セットにしろ、美術にしろ撮影にしろ、照明にしろ、編集にしろ、ハリウッド映画のクオリティを持っていた。最近のアジア映がでは「ブラザーフッド」のクオリティにも似た、品質を持っているのだ。

そして物語は、「少林サッカー」の系統を貫き、市井の人々が実は武術の達人である、と言う設定が素晴らしい。おじさんやおばさんが、強烈に強く、格好良いのだ。「少林サッカー」同様、おじさんやおばさんがが格好良い映画には、強烈に惹かれてしまうのだ。

気になるカンフー・シーンは、若干荒唐無稽な技が顔を出すが、はっきり言って素晴らしい。「斧頭会」と「豚小屋砦」の三人の達人の戦いのアクション・シークエンスには、あまりにも素晴らしいアクションに感涙モノなのだ。

また演出や構成も素晴らしく、例えば「斧頭会」の組長サム(チャン・クオックワン/[陳國坤])のダンス・シーンは、斧を持ち華麗に踊るメンバーが徐々に増えていくカットと、「斧頭会」が街の人々を苦しめているカットを交互に繋ぐ事により、「斧頭会」が街を支配し、構成員をどんどん増やしていく姿を見事に表現している。そんな演出の目白押しなのだ。

そして何と言っても本作は、周星馳(シャウ・シンチー)のブルース・リーやかつての香港カンフー映画に対する愛情がひしひしと感じられる素晴らしい作品に仕上がっているのだ。
その映画に対する愛が溢れるこの素晴らしい作品を是非観ていただきたいのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=
周星馳(シャウ・シンチー)の舞台挨拶中、「東京国際映画祭」同様、小川直也、グレート佐助らが舞台に乱入し、思いっきり観客の反感を買っていた。今回の試写はフジテレビが企画していたのだが、はっきり言って最低の演出だった。

何しろ、自分に人気があると勘違いしていた小川直也が最低だった。周星馳(シャウ・シンチー)を観に来た客の前で、周星馳(シャウ・シンチー)を罵倒する大馬鹿野郎だったのだ。勿論フジテレビにやらされているのだとは思うのだが、怒鳴れば怒鳴るほど、滑れば滑るほど、状況は悪くなっていった。
会場には5000人ほどの観客がいたのだが、確実に小川直也の株は暴落したと思われる。おそらく、あと少しで小川直也向けの「帰れ!コール」が起きそうな険悪なムードで、勿論演技かも知れないが、周星馳(シャウ・シンチー)も非常に不愉快な表情をしていた。

「ハッスル!ハッスル!」どころではないのだ。

こんな企画は日本のメディアの悪いところであり、これを機に「二度と来日しない」ことにならない事を切に願うのだ。

試写会等の映画のイベントや舞台挨拶には、スタッフとキャスト以外のゲストは不要なのだ。
 

☆☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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「カナリア」

2004年11月23日 映画
2004/11/20 東京有楽町「朝日ホール」
「第5回東京フィルメックス」オープニング作品/特別招待作品
「カナリア」を観た。
 
 
12歳の少年、岩瀬光一(石田法嗣)は、母親、岩瀬道子(甲田益也子)がカルト教団「ニルヴァーナ」に入信したため、妹と共に否応無く入信させられた上、母親とは別の教団施設で、他の少年信者たちと共に共同生活を営んでいた。光一は教団信者、伊沢彰 (西島秀俊)らの下、教団の教えに反発しつつも、いつしか教団の教えに染まっていった。

教団のテロ事件後、関西の児童相談所に預けられた光一だったが、祖父は妹だけを引き取り、光一の引取りを拒否する。
一方教団幹部としてテロの実行に関わっていた母親、道子は他の幹部とともに逃走し、全国指名手配までされていた。

一人残された光一は児童相談所を脱走、妹を取り戻すため東京の祖父母の家に向かう。
東京への旅の途中、偶然光一は、援助交際を持ちかけた男から逃げ出そうとした同い年の少女、由希(谷村美月)を助ける。光一がほとんど金を持っていないことを知った由希は、助けてもらったお礼に、光一の旅を助けることを決意する。
かくして、二人の旅が始まる・・・・。
(「第5回東京フィルメックス」公式カタログよりほぼ引用)

監督:塩田明彦
出演:石田法嗣、谷村美月、西島秀俊、甲田益也子、りょう、つぐみ、水橋研二、戸田昌宏、井上雪子
 
 
塩田明彦監督作品と言えば最近では「黄泉がえり」のヒットが記憶に新しいが、本作「カナリア」は、どちらかと言えばヒット作「黄泉がえり」のような一般大衆に支持される作品ではなく、「月光の囁き」「ギプス」「害虫」等のテイストを引き継ぐ、歪んだ愛を描いた作品のような傾向を持つ。おそらく本作は、塩田明彦特有の嗜好が色濃く出た作品のような気がする。

そもそも本作「カナリア」の物語は、母親が入信したカルト教団の施設で共同生活を行っていた光一(石田法嗣)が、教団が起こしたテロ事件の後、収容された児童相談所を脱走、妹を祖父の下から連れ戻すという目的で、ある意味自分探しの旅を行う物語で、一言で言えば所謂ロード・ムービーの様相を呈している。
その光一の自分探しの旅の道連れは、家庭が崩壊し、援助交際を続ける小学生由希(谷村美月)なのだ。

物語の中で光一は、無口で余計なことは何も語らない。一方、由希は、非常に感じやすく、そして雄弁なキャラクターとして描かれている。本作は、旅をする光一に感情移入し、由希の発する言葉や疑問を聴きながら、光一と共に物事を考える、という構図になっているのだ。その場合、光一の無口なキャラクター設定が、観客が物語世界の出来事について、いろいろ考えるための非常に有効な設定となっている。

そしてそんな由希の発する言葉や疑問は、理想論であり、現状の甘受でもあり、モラルであり、インモラルでもあるのだ。由希は観客が感じるであろう疑問を光一に投げかける重要なキャラクターとして設定されている。由希のキャラクターは、脚本的には、矛盾を含み複雑で、峻厳で辛辣な印象を観客に与えている。

そして、何よりそれらを演じる彼等二人、石田法嗣と谷村美月の演技が素晴らしい。二人とも1990年生まれの14歳。高々14の俳優たちに泣かされるのもなんだが、子役俳優の上手さに舌を巻く。
監督の塩田明彦は上映後のQ&A(ティーチ・イン)で、子役俳優について「子供たちは僕らが考えるよりもはるかに理解力と表現力を持っている。自意識が芝居の邪魔をする大人よりも、子供に芝居をさせるほうがはるかに楽だ」と語っていた。

正に塩田明彦の言う通りである。これは、多くの神童たちが成長するに連れ、只の凡庸な大人の俳優になってしまう所以であるのかも知れない。

ところで本作「カナリア」のタイトルは、1995年地下鉄サリン事件後のオウム真理教教団施設に対する強制捜査の際、先頭の警官隊が掲げていた「かごの中のカナリア」から取られたもので、最前線に立つ存在として「かごの中のカナリア」は「かごの中の少年」を暗喩しているのだ。

そして本作は、親がカルト教団に入信したため、否応無く入信させられてしまった少年たちのカルト教団崩壊後の姿を見事に描いている。
大人の信者は教団を離れ一般社会に溶け込んでいく一方、学校という社会に入ることも拒まれ、地域にも住民として居住することに反発を受ける、そんな身近で大きな問題の最前線に立つ少年たちを描いているのだ。
その手法は非常にリアルで、本当に起こった出来事を映画化しているような印象を受ける。事実、海外のプレスは、「これは本当にあった事なのか?」的な質問を上映後のQ&Aで発していた。

ところで「東京フィルメックス」のコピーは「今、ここに映画の天使がいる」と言うものなのだが、本作には、昭和30年代の松竹蒲田の美少女スターで、今回68年ぶりに映画に出演した89歳の女優、井上雪子が出演している。
本作「カナリア」の中では、彼女は正に映画の天使だった。なんと素敵な一瞬であろう。「東京フィルメックス」のコピーは、この映画のため、彼女のために在ったのか、と思う瞬間である。

撮影は、最近「誰も知らない」で評価を受けている山崎裕。本作でも「誰も知らない」と同様の手持ちカメラの長回しを多用したドキュメンタリー的な手法が楽しめる。その長回しの緊張感とリアリティが、本作の格を一段と高めている印象を受ける。

音楽は打楽器をフィーチャーしつつ、「銀色の道」や「君の瞳は100万ボルト」等の楽曲を俳優たちが実際に劇中歌として唄い、独特の雰囲気と効果をあげている。その楽曲の詩を噛み締めて欲しいのだ。
特に「銀色の道」を唄う谷村美月が素晴らしい。しかし、3度目の「銀色の道」はサントラとして浜田真理子のヴォーカルががぶるのだが、これは完全に興ざめである。物語に没頭している観客の意識を、現実に引き戻してしまっている。魔法がとける瞬間である。
2005年3月の公開までまだしばらく時間があるので、出来れば、「銀色の道」の楽曲をサントラとして使用するのを止め、由希の母親役の女優が「銀色の道」を子守唄のように唄うような雰囲気で入れていただきたい、と切に願うのだ。

美術は、教団施設(サティアン)内部が最高である。
本物のサティアンでロケを行ったような質感に驚かされる。

とにかく、本作「カナリア」は、題材が題材なだけに、全国拡大ロードショーにはならないと思うし、観客もそれほど入らないと思う。しかしながら、機会があれば是非観ていただきたい素晴らしい作品だと思うし、オウム真理教の過去と現在を考える上でも、社会派好きの方は是非観ておくべき作品だと思う。

また、石田法嗣と谷村美月という、二人の子役俳優の、今後のキャリアを語る場合、絶対に外せない作品となっている。おそらく本作は、彼等が大人の俳優になったとしても、代表作に数えられる作品に仕上がっているのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=+=+=

舞台挨拶は、監督の塩田明彦、キャストの石田法嗣、谷村美月、西島秀俊、甲田益也子、井上雪子。
上映後、監督、塩田明彦を迎えてのQ&A(ティーチ・イン)では、観客席には撮影を担当した山崎裕もいた。

やはり上映後のティーチ・インは非常に有意義である。物語の表層ではなく、内面を理解する上で、素晴らしい効果が感じられる。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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「柔道龍虎榜」

2004年11月22日 映画
2004/11/22 東京有楽町「朝日ホール」
「第5回東京フィルメックス」特別招待作品「柔道龍虎榜」を観た。
 
 
パブのマスターでバンドのギタリストも兼ねる司徒寶(ツェト/ルイス・クー)は、かつては偉大な柔道家だったが、ある時突然、柔道界から引退。現在はアルコールとギャンブルにまみれた生活を送っていた。
ある日、トニー(アーロン・ウォック)という名の若者がツェトのもとを訪れ、柔道の試合を申し込む。時を同じくして、歌手を目指す台湾出身の小夢(チェリー・イン)もパブに転がり込む。更に、ツェトの現役時代のライバル、阿岡(コン/レオン・カーファイ)が現われ、かつて行われなかった試合の決着をつけたいと申し出てくる。さらにツェトの師匠チェンが、自分の息子・阿正を助けて潰れかけている道場を立て直してほしいと頼んでくる。
かくしてツェトのパブは柔道家たちが技を競う場と化すのだが・・・・。
(「第5回東京フィルメックス」公式カタログよりほぼ引用)
 
 
監督:ジョニー・トー
出演:ルイス・クー(古天楽)、アーロン・クォック(郭富城)、チェリー・イン(應采兒)、レオン・カーファイ(梁家輝)
 
 
本作「柔道龍虎榜」は黒澤明に捧げられた作品であり、物語のモチーフはモロに黒澤明の「姿三四郎」。舞台背景を現代香港に置き換え、様々なオマージュを散りばめ、様々な柔道家の生き様を見事に描いている。
驚いたのはアーロン・クォックが「姿三四郎」の藤田進にそっくりなところである。

興味深いのは、主要登場人物全てが何故か柔道の達人として描かれているところである。この物語世界では誰もが柔道を習得しているのだ。そして本作は、そんな不思議な世界を舞台にした、(別に残酷描写や下品なトークは無いが)、言わば柔道版「キル・ビル」といった印象を受ける。
更に、ツェトの師匠チェンの息子・阿正が日本語で3度ほど歌う「姿三四郎」のテーマ(?)も、「キル・ビル」的な印象を強めている。また映像や演出の雰囲気は、黒澤明のそれや、かつての日活や東映のプログラム・ピクチャーの雰囲気を醸し出している。特にパブの雰囲気は「なんとかガイ」が出てきそうな気がする。

その辺りを考えると本作「柔道龍虎榜」は、日本人的には微妙な笑いに満ちた、突っ込み所満載の「映画秘宝」的な楽しみ方も出来る作品に仕上がっている、とも言えるのだ。
香港の高層ビル群をバックにススキの野原をつくっちゃうのも驚きなのだ。

とは言うものの、本作は決して「お笑い」だけに特化した作品ではなく、構図が一々格好良く、柔道シーンも迫力満点で、夜のシーンの撮影も非常に美しく、音場設計も力が入っており、作品としてのクオリティは高いものがある。特に夜のシーンが素晴らしい。凄く綺麗に撮れているのだ。

また、演出も素晴らしく、木の枝に引っかかっている赤い風船を小夢が逃がしてあげるシークエンスが大変素晴らしく、その赤い風船が何を暗喩しているかを考えると滂沱状況である。
小夢が赤い風船を取るのではなく、夜の空に逃がしてあげるところが素晴らしい。拍手ものなのだ。

更に、ツェトの師匠チェンと息子・阿正との絡みが、司徒寶(ツェト)と阿正に引き継がれるあたりもベタでお約束だが素晴らしい。また道場のチラシにこだわる阿正も泣かせるぜ。

また、「姿三四郎」の草履の鼻緒を挿げ替えるシークエンスに相当するのだが、2度登場する靴が脱げてしまうシークエンスも印象的であるし、柔道家たちが組み合い、相手の力量を測り、思わず笑みがこぼれてしまう所が素晴らしい。

そして何と言っても本作「柔道龍虎榜」は熱いのだ。
本作は、熱い柔道家たちが繰り広げる熱いドラマなのだ。
 
 
とにかく、日本人にはとっては微妙に面白い作品に仕上がっていると思うし、「キル・ビル」的「映画秘宝」的な突っ込み所満載の作品にも仕上がっている。それでいて熱くてホロリとさせられてしまう感動作品でもあるのだ。
機会があったら是非観て欲しい一本なのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=

上映前に別室でジョニー・トーの公開インタビュー(40分位)が行われ、上映後にはQ&A(ティーチ・イン)が行われた。
今回のティーチ・インは、本編上映で充分温まった観客による好意的なものだった。

ジョニー・トーの話も非常に面白く、興味深いものだった。

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2004/11/21 東京有楽町「朝日ホール」
「第5回東京フィルメックス」でコンペティション作品「おそいひと」を観た。

介護者のサポートを受け、一人暮らしをしている重度身体障害者、住田雅清(住田雅清)。住田は電動車椅子で移動し、ボイスマシーンで会話を交わす。
オバハンの介護者(有田アリコ)と罵りあい、介護者タケ(堀田直蔵)とつるんで遊び、タケのバンド仲間達の間でも、すっかりお馴染みの存在になっている。

それなりに平穏な日々を過ごす住田のもとに、大学の卒業論文の取材のために、介護を経験したいという敦子(とりいまり)が現れる。
新入りの介護者が来るという経験を何度もしている筈の住田の中で、違和感が少しづつ肥大していく。
住田の相談を受けた年長の障害者福永(福永年久)は住田を案じ助言を与えるが・・・・。
(オフィシヤル・サイトよりほぼ引用)

監督:柴田剛
出演:住田雅清(住田雅清)、敦子(とりいまり/維新派)、タケ(堀田直蔵)、彩(白井純子)、福永(福永年久)、介護のおばちゃん(有田アリコ)
 
 
本作「おそいひと」は大阪芸術大学映像学科出身の映像作家柴田剛の長編第二作目の作品である。
しかしながら本作は、一般の観客が観ている様な所謂商業映画ではなく、限りなくインディペンデント・フィルム(独立系プロダクション作品/自主制作映画)に近い作品である。

本作はハリウッド映画をはじめとした商業主義に彩られた作品に慣れ親しんだ観客の目には、もしかしたら稚拙で完成度の低い中途半端でつまらない作品に見えるかも知れない。
しかし、その道は多くの著名な映像作家が通って来た道であり、本作の監督柴田剛はその道を歩き始めたのだ。
 
 
内外を問わず、多くのフィクションに登場する障害者は、正直でピュアな善人にキャラクターが設定されている。メディアは障害者を悪人には描けないし、そんな内容の作品を商業映画として企画したような場合、そんなリスクの高い作品に誰も出資しないだろう。
そんな状況下、本作「おそいひと」で柴田剛は、障害者を殺人者として描いているのだ。

障害者と言えども、ピュアな善人ばかりではなく、悪人も居る訳で、障害者は善人ばかりだと言うイメージはメディアの嘘なのだ。当たり前と言えば当たり前のことなのだが、現在社会では障害者を悪人に描くことは大変難しく、製作サイドにとって大きなリスクが存在する訳だ。
それを真摯に描ききる柴田剛に尊敬の念を禁じえない。

キャストとスタッフは、ほとんどが顔見知りか、コネで集まった連中(大阪芸大関係者)のようである。正に本作のスタイルは自主制作映画なのである。とは言っても、キャストの演技がまずい、と言うことは全く無く、キャスト全員が素晴らしい演技を見せてくれている。

キャストは何と言っても住田雅清であろう。本作は重度身体障害者住田さんの存在が全てであると言っても良い素晴らしいキャスティングである。同様に先輩の障害者を演じた福永年久も素晴らしい。存在感にしろ、表情にしろ、目の力にしろ全て素晴らしい。
彼等二名の障害者をキャスティング出来た時点で、本作の成功は半ば決まったようなものだと言える。

他のキャストは、自分に与えられた仕事を全うしているが、前述のようにおそらく身内(大阪芸大関係者)だろう。その身内をキャスティングする事は、良い点もあれば悪い点もあるのだが、本作では比較的成功していると思う。

特に、卒論のために住田さんを介護する敦子(とりいまり)と、敦子の友人で住田に関心を持ち介護を始める彩(白井純子)、が良かった。

スタッフもおそらく身内(大阪芸大関係者)だと思うのだが、驚いたのは自主制作なのにクレーンが使われていたり、多くのエキストラが出演していたりしている点である。
 
 
少なくとも本作「おそいひと」は障害者を殺人者として描いているといった意義がある作品でもあるし、自主制作映画を観た事が無いような人でも楽しめる、比較的わかりやすい作品に仕上がっている。また、今後メジャーになっていくであろうひとりの映像作家の誕生に立ち会う意味も含めて、機会があれば是非観ていただきたい作品である。

しかし、障害者はピュアで善人ばかりである、という頑迷な先入観を持っている方々にはオススメ出来ないかも知れないし、仮にそういった方々が本作を観た場合、本作の製作者サイドに対し怒りを覚えるかも知れない。

「おそいひと」オフィシャル・サイト
http://osoihito.jp/

=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=

障害者を殺人者として描いた作品の上映後のQ&A(ティーチ・イン)は微妙な空気が流れ、監督の柴田剛に対する挑戦的な質問が続いた。平衡感覚を失わず冷静に真摯に受け答えをする柴田剛に好感を覚えた。

国際映画祭のティーチ・インにおいて、莫迦な質問をする観客の存在に、日本人として、また同じ観客として非常に恥ずかしい思いがした。

なお、舞台挨拶は、柴田剛(監督)、堀田直蔵(タケ/バミューダ★バガボンド、ボーカル)、福永年久(福永/阪神障害者解放センター代表)、仲悟志(企画/阪神障害者解放センター職員)。

なお、福永年久は阪神障害者解放センターの代表であり、住田雅清と仲悟志は阪神障害者解放センターの職員を務めている。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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先週同様、劇場公開時期に合わせてレビューを紹介する
週刊「映画レビュー・インデックス」(仮称)
を継続してみます。

また同様に、最新の国内興収ベストテン(国内興行成績)作品のレビュー・インデックスもつけてみることにしました。
更に先週同様、今後継続的するかどうかは未定です。
 

■公開中 
2004/11/20公開作品
「ハウルの動く城」http://diarynote.jp/d/29346/20041117.html

2004/11/13公開作品
「海猫」http://diarynote.jp/d/29346/20041025.html
「爆裂都市」http://diarynote.jp/d/29346/20041107.html
「パニッシャー」http://diarynote.jp/d/29346/20041103.html

2004/11/06公開作品
「オールド・ボーイ」http://diarynote.jp/d/29346/20040902.html
「TUBE チューブ」http://diarynote.jp/d/29346/20041104.html
  
2004/10/30公開作品
「隠し剣 鬼の爪」http://diarynote.jp/d/29346/20041024.html
「ソウ」http://diarynote.jp/d/29346/20041105.html
「ターンレフト ターンライト」http://diarynote.jp/d/29346/20040829.html
「笑の大学」http://diarynote.jp/d/29346/20041119.html
  
 
■週末興収ベストテン
2004/11/13-14 興収ベストテン
1.「いま、会いにゆきます」(東宝)
2.「コラテラル」(UIP)
3.「海猫」(東映)http://diarynote.jp/d/29346/20041025.html
4.「隠し剣 鬼の爪」(松竹)http://diarynote.jp/d/29346/20041024.html
5.「笑の大学」(東宝) http://diarynote.jp/d/29346/20041119.html
6.「血と骨」(松竹=ザナドゥー)
7.「キャットウーマン」(ワーナー)
8.「シークレット・ウインドウ」(ソニー)http://diarynote.jp/d/29346/20040904.html
9.「2046」(ブエナビスタ)
10.「80デイズ」(日本ヘラルド映画)

■公開直前
2004/11/27公開作品
「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」
http://diarynote.jp/d/29346/20041115.html
「ニュースの天才」http://diarynote.jp/d/29346/20040830.html

2004/12/04公開作品
「Mr.インクレディブル」http://diarynote.jp/d/29346/20041114.html

「笑の大学」

2004年11月19日 映画
2004/11/19 東京板橋「ワーナーマイカルシネマズ板橋」で「笑の大学」を観た。

日本が戦争へと突き進んでいた昭和15年。
国民の戦意高揚の妨げになると様々な娯楽が取締りの対象となっていた。
ここ浅草では、演劇も規制され、台本も上演前に検閲を受けていた。警視庁の取調室では2人の男が新作喜劇を巡って熱い火花を散らしていた。一人は、一度も笑ったことがない厳格な検閲官・向坂睦夫(役所広司)。相対するは、笑いに命をかける劇団「笑の大学」の座付作家・椿一(稲垣吾郎)。向坂は台本から「笑い」を排除しようと椿に無理難題を突きつける。上演の許可をもらうためその要求を聞き入れながらも、なんとか「笑い」を残そうと苦悩する椿だったが・・・・。
 
 
監督:星護
原作・脚本:三谷幸喜
出演:役所広司(検閲官・向坂睦夫)、稲垣吾郎(劇団「笑の大学」座付作家・椿一)

面白い事は面白い。しかし、はっきり言って残念な作品である。
本作「笑の大学」は、役所広司の素晴らしい演技に救われ、シーン毎のクオリティは素晴らしいのだが、映画全体の構成を考えると、残念な結果に終わっている。
言わばテレビあがりの演出家が、映画の文法を理解せず、長尺ものの構成が出来ず、テレビの続き物の感覚で演出してしまった作品のような印象を受けるのだ。

台本の検閲シークエンス、二人芝居部分の演出は、及第だと言えるし、時々素晴らしいカットが顔を出す。勿論、役所広司の力量によるものだと思うし、稲垣吾郎も非常に頑張っている。

しかし、先ずは、映画には不必要なカットは存在し得ない、そして本編に残ったカットには全て意味があり、存在理由がある、と言う事を理解した上で映画を製作して欲しいと切に願うのだ。
撮影されたフィルムの山から、不必要なカット、不必要なコマを極限まで削ぎ落として行くと、一本の映画が完成する、と言うことなのだ。

一方テレビドラマには、ビデオ製作の制約上、つまりカット毎のノンリニア編集ではなく、副調整室(サブ)のスイッチによるシーン毎の編集のため、無駄なカットや、不必要なフレームが本編に必然的に含まれてしまうのだ。

その辺を理解した上でひとつひとつのカットに命をかけて、映画を製作して欲しいのだ。

そんな所から本作「笑の大学」を考えた場合気になる点が何点かある。
先ずは冒頭から何度か繰り返される、椿が「笑の大学」劇場から警視庁まで歩き、警視庁の建物の前でおののき警官にお辞儀をするシークエンスである。
別にこのシークエンスがいけない、と言っているのではない。同じようなカットやシークエンスを繰り返す以上は、そのカットやシークエンスに意味を持たせろ、と言う事なのだ。
折角マエフリが出来ているのに、何故最後の日に椿がいつもと違う雰囲気で歩くカットが無いのか、いつもと違う超然として達観した歩き方をする椿のカットが見たいのだ。

星護にとっては、この椿の歩きのカットは、1日目と2日目、または3日目と4日目等のシーンのつなぎとしてしか意味を持っていないようである。
あるいは、号外や通行人の服装が変わり、椿の環境、浅草の日常、そして日本を取巻く環境を観客に伝える為に存在するようである。

更に、これも冒頭から繰り返されるのだが、「不許可」のスタンプ押印についてだ。
ラストで何故椿の台本に「許可」のスタンプを押さないのか、または「許可」のスタンプが押された椿の台本の表紙のカットを何故本編に挿入しないのか、理解に苦しむ。
例えば、昭和15年代のポスターを模したクレジットを制作するのならば、クレジットの最後のカードは「許可」のスタンプが押された台本でも良いし、台本をエンドマークに利用しても良い。本編のラストカットに台本を映し、そこからアイリスでエンド・クレジットに繋げても良いと思うのだ。

椿の歩きにしろ、向坂のスタンプ押印にしろ、何のために何度も何度もマエフリを行っていると思っているのだ。オチが無いだろ、オチが。回収されない伏線などは映画にはいらないものなんだよ。その辺を理解して欲しいのだ。

また本作「笑の大学」は、ほぼ二人芝居の様相を呈しているのだが、役所広司の演技を見ていると、役者と言うものは何かを明確にわからせてくれる。役者とは口先だけのセリフではなく、身体全体の動きや雰囲気であることや、醸し出す空気であることが良くわかる。対する稲垣吾郎も経験は圧倒的に不足している割には善戦しているとは思うのだが、残念ながら役者としての格が違いすぎる。

例えば冒頭、二人が歩くシーンだけを並べて見せるだけでも、二人の歩き方ひとつをとっても存在感、説得力が全く違う。
役所広司の歩き方を見ると、検閲官・向坂睦夫の性格が完全に見て取れるのだ。自信に満ちた独善的で不正を許さない杓子定規な性格が観客に見事に伝わってくるのだ。一方稲垣吾郎の歩き方からは椿一の性格は残念ながら読み取れない。

二人を比較するのは酷な気もするが、本作はほぼ二人芝居の作品であるから、こればかりは仕方が無いだろう。

そして興味深いのは、物語上二人の関係は、検閲と言う国家権力(向坂睦夫)に立ち向かう孤高の脚本家(椿一)、と言う構図になっており、勿論「剣」と「ペン」のメタファーになっているのだが、見様によっては、世界的な俳優(役所広司)に立ち向かう俳優に似て異なる存在(稲垣吾郎)、と言う構図にも見えてくるのが興味深い。そう、役所広司と稲垣吾郎は、風車とドン・キホーテの関係なのだ。

しかし何と言っても役所広司は凄い。
そこには確実に検閲官・向坂睦夫が居たのだ。

二人の絡みのシークエンスは言うまでもないが、「笑の大学」劇場の前の、少年のような惚けたような表情は最高である。勿論稲垣吾郎は善戦しているが、本作「笑の大学」は、役所広司の演技を、存在感を表情を、セリフを動きを背中の哀愁を、それらを見るだけでも充分価値がある映画である、と言えるのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=+=
「クレイドル・ウィル・ロック」と比較しても面白いかも。
2004/11/16 東京六本木「VIRGIN TOHO CINEMAS六本木ヒルズ プレミアスクリーン」で「ハウルの動く城」の試写を観た。

愛国主義全盛の時代。王国の兵士たちが今まさに、戦地に赴こうとしている。銃には花が飾られ、歓呼の中を行進する兵士たち。荒地には、美女の心臓をとって喰らうという魔法使い、ハウルの動く城まで現れた。

そんな町から離れて歩く、ひとりの少女がいた。ソフィー(倍賞千恵子)は18才。荒地の裾野に広がる町で生まれ育ち、亡き父の残した帽子屋を切り盛りしている。妹のレティーは八方美人で人当たりも良く、街一番のカフェ、チェザーリの看板娘。ソフィーは妹に言われる。「本当に帽子屋になりたいの?」でも、生真面目なソフィーはコツコツと働くしかない。たまにひとりになると、自分が本当になにをやりたいのか、考えてしまう娘だった。

ソフィーはある日、街で美貌の青年・ハウル(木村拓哉)と出会う。追われているらしい青年は、ソフィーと共に天へ舞い上がったかと思うと、束の間の空中散歩にいざなう。夢のような出来事に心を奪われるソフィー。

しかしその夜、ソフィーは、荒地の魔女(美輪明宏)に呪いをかけられ、90才のおばあちゃんに姿を変えられてしまう。このままでは家にはいられない!ソフィーは荷物をまとめ、人里離れた荒地を目指すのだが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

脚本・監督:宮崎駿
音楽:久石譲
声の出演:倍賞千恵子(ソフィー)、木村拓哉(ハウル)、美輪明宏(荒地の魔女)、我修院達也(カルシファー)、神木隆之介(マルクル)、伊崎充則(小姓)、大泉洋(かかしのカブ)、大塚明夫(国王)、原田大二郎(ヒン)、加藤治子(サリマン)
 
 
本作「ハウルの動く城」は、「千と千尋の神隠し」から3年、世界中が待ちわびる宮崎駿の最新作であり、一言で言うならば全世界必見の素晴らしいファンタジー作品に仕上がっている。

その卓越した世界観は「天空の城ラピュタ」「紅の豚」「魔女の宅急便」等でも描かれたような、石畳が感じられるヨーロッパ某国の街並み。その色彩は豊かで美しく、陽光の暖かさが確かに感じられる世界観を見事に構築している。

「もののけ姫」以降のスタジオ・ジブリのワールド・ワイドな戦略を考えると、続く「千と千尋の神隠し」までの世界観は東洋的なテイストを前面に押し出し、「東洋の魅力」的戦略の下セールスしていた訳だが、本作の世界観は完全に西欧テイスト。しかもイギリスの著名な原作付きと言う事もあり、完全に世界をターゲットとして見据えた作品だと言えると同時に、世界に媚びている印象も感じられる。

全世界配給はディズニー系配給会社が行うと思うが、ヨーロッパで公開された場合、果たしてこの作品が日本製だと言う事を一般の観客が信じられるかどうか疑問に思えるほどの素晴らしい西欧文化的世界観が構築されている。

更に本作は、現在世界中で猛威を揮っている「ハリー・ポッター」シリーズへの対抗馬として十二分に機能すると言える。従来のファンタジー・ファンにとって「ハリー・ボッター」シリーズは、王道ではなく亜流的な釈然としない感想を持ってしまうのだが、本作はイギリス児童文学「魔法使いハウルと火の悪魔(1986)」を原作としている事もあり、決して新参者の亜流ファンタジー作品ではなく、背筋の伸びた誇り高き正統派ファンタジー作品である。と言う印象すら観客に与えている。

脚本は、原作を2時間にまとめるためか、急ぎ過ぎのきらいは否定できない。冒頭と×××と骨子は、ほぼ原作を踏襲し、原作を自己流に改変してしまう宮崎駿にしては素直な脚本と言える。

絵で物語る手腕は流石である。その力は、既にセリフなど要らない領域まで到達しているのだが、そう考えた場合、不必要で説明的なセリフが散見されるのが気になった。尤も、その説明的なセリフは、映画的文法を理解できない若年層への配慮だと思うのだが、大人の観客としてはちょっと残念な気がした。

キャストは何と言っても美輪明宏である。なんとも愛らしいキャラクターを見事に演じている。「もののけ姫」のモロとは対称的な意味だが美輪明宏は最高である。
また加藤治子のおっとり感も素晴らしい効果を本作に与えている。おっとり間の中の恐ろしさがもう少し出ていれば、と思った。

さて、話題の木村拓哉は、演技派に囲まれ、随分善戦している印象を受けた。部分部分のセリフには、ぎこちなさが散見されるが、概ね及第点だと言えよう。役者の声を聞く事に慣れていない観客にとっては、もしかしたら木村拓哉の声には聞こえないのではないか、と思う。「木村拓哉の声」の個性が無い分、物語に没頭できる印象を受けた。

本作を観て気付くのは、木村拓哉出演のドラマがまずいのは、脚本と演出のせいだ、と言う点である。確固とした脚本に確固とした演出をすれば、木村拓哉は役者としても一皮剥けるような印象を受けた。個人的には「あすなろ白書」の際、あぁジャニーズからも良い役者が出てきたな、と思ったのだが、それ以降は完全に「ドリフのもしもシリーズ(※)」になってしまっている。
いつまでも「ドリフのもしもシリーズ」を演じている訳にはいかない、と思うのだ。

倍賞千恵子も良いのだが、脚本上、自らの心情を敢えて口にする独白的なセリフが散見され、その辺に疑問を感じる。最早心の動きを言葉に出す必要性は無いのだ。やはりこれは若年層への配慮なのだろうか。尤もこれは図らずもおばあちゃんになってしまったソフィーが心の中だけで物事を考える事ができず、考えている事を我知らず口走ってしまうことを描写しているのかも知れないのだが。

我修院達也は前作「千と千尋の神隠し」に続く登用である。彼は前作以上に大きな役柄を楽しげに演じているようだ。この役柄は本作の中で唯一と言って良いほどの漫画的キャラクターであり、他のキャストと異なるテンションの演技を要求されている。一歩間違えば物語全体を破壊してしまう可能性を秘めているが、ハイテンションながら抑制された演技は、他のキャラクターとのバランスを微妙に保っている。

また、神木隆之介にも驚かされた。彼も「千と千尋の神隠し」に続いての参加なのだが、日本映画界では「観客を泣かしたいなら神木隆之介を使え」と言われているらしいが、本作でも素晴らしい演技を見せている。

大泉洋も同様に「千と千尋の神隠し」に引き続いての参加なのだが、セリフが少なく個人的には残念な気がした。

気になる内容については、公開後にレビューの予定。

=+=+=+=

プリントのせいなのか映写上の問題なのか、ピントが甘いカットがあった。巻全体がピンボケではなく、ピントが甘いカットが時々出てくるのだ。
まさかTOHOの名前がついた劇場に不良プリントが来る事は無いと思うのだが・・・・。
要確認なのだ。

=+=+=+=
※「ドリフのもしもシリーズ」
「もしも木村拓哉がパイロットだったら・・・・」
「もしも木村拓哉がピアニストだったら・・・・」
「もしも木村拓哉が・・・・」
というような印象を受ける作品群のことを指しています。

=+=+=+=+=
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「芸術の秋」のせいなのかどうかは知りませんが、日本では秋になると多くの「映画祭」が開催されます。わたしもご多分に漏れずいくつかの「映画祭」に参加している訳ですが、今日はそんな「映画祭」のわたしなりの楽しみ方をご紹介したいと思います。(※1)

1.「特別招待作品」の楽しみ方

「特別招待作品」とは多くの場合、既に配給会社や公開時期が決定した作品を、多くのゲストを招いていち早く上映するもので、一般の観客の注目度も高く、壮絶なチケット争奪戦が繰り広げられる企画上映です。

今年の「特別招待作品」の目玉は、何と言っても「誰にでも秘密がある」(「東京国際映画祭」/ゲスト:イ・ビョンホン、チェ・ジウ、チャン・ヒョンス)でしょう。
生イ・ビョンホンに会う(見る)がために、チケット発売日当日、発売開始30秒(噂)でチケットが完売。その後オークションに出品された1枚1,500円のチケットは、なんと30万円にもなったそうです。

実際「特別招待作品」の多くは、既に配給会社や公開時期が決定しているので、少し(数日〜数ヶ月)待てば、そんなに無理しなくても劇場で普通に観ることが出来るのですが、封切まで待てないような早く観たいファンには勿論オススメですし、スタッフやキャスト等、豪華な舞台挨拶も楽しみな企画だと言えます。
普段お目にかかれない、海外のスタアを間直に見る機会だと思いますし、上手く行けば、握手したり、サインなんかも貰えちゃうかも知れません。

わたしもご多分に漏れず、少しでも早く観たい作品や、普段なかなか来日しない監督やキャスト目当てでチケットを押さえる事があります。残念ながらチケット争奪戦に破れたような場合、どうしても行きたいような作品の場合は、勿論オークションも利用します。個人的には、どうでも良い内容の映画のゲスト目当てで、オークションで7,000円程出した事があります。莫迦ですね。
 
 
2.「コンペティション」の楽しみ方

日本の監督や映画が海外で「なんとか賞」を貰ったとかどうとかマスコミが騒いでいるのは、多くの場合「映画祭」の「コンペティション」(所謂「コンペ部門」)です。

「コンペティション」の楽しみは何と言っても、「作品との出会い」だと思います。名前も聞いた事がないような監督の作品を観て、それが「当たり」だった時、「コンペティション」を通じて「新たな才能の発掘」に立ち会える喜びは、本当に例えようがありません。
新しい才能、埋もれている名作との出会いに満ちた「コンペティション」は「映画祭」の華なのです。
とは言っても、最近は、本来ならば「特別招待作品」で上映した方が良いんじゃねえの、と思えるような作品が「コンペティション」に出品されてしまうのも事実です。今後の作品選択に課題を感じてしまう昨今です。

そして、「コンペティション」作品は、配給会社や国内での公開が決まっていない場合も多く、その作品は「コンペティション」会場でしか観られない場合もありますし、また、所謂「当たり」の作品が「映画祭」後しばらく経ってから公開されたり、「映画祭」当時は新人だった監督が何年か経ってメジャーになり「特別招待作品」を引っ提げてその「映画祭」に凱旋する様を見ると感慨も一入です。「コンペティション」の観客が彼等のような映像作家を育てているのですね。

また「コンペティション」作品の上映後には、スタッフやキャストを迎えたティーチ・インが行われる事も多く、一般の舞台挨拶のような作品の表層だけではなく、作品の内面や設定、裏情報に触れる質疑応答や監督の語りも楽しめます。

更に「国際映画祭」の「コンペティション」で名を挙げようとする貪欲な監督も比較的多く、ファン・サービスに徹した彼等は、会場の隅や廊下、エントランス等で即席サイン会や即席ティーチ・インを開いたりします。
監督と映画について直接話せる、と言う信じられない程の経験も場合によっては体験できる訳です。

3.「企画上映」の楽しみ方

「企画上映」とは、例えばある映像作家の作品やある俳優の出演作品をフィーチャーした特集上映のような企画や、「東京国際映画祭」の「アジアの風」のような、特有のテーマやコンセプトに沿った作品をまとめて上映するような企画です。

映像作家や俳優の旧作をまとめて観る機会が得られる素晴らしい企画であり、例えば「アジアの風」では、新進気鋭のアジアの映像作家の最新作を楽しむ事も出来ます。

「企画上映」についてもゲストによる舞台挨拶やティーチ・インが行われる事が多く、作品の内面を深く理解する一助となります。

個人的にわたしは、最近のアジア映画に関心があるので「アジアの風」的な「企画上映」が大好きで、アジアの映画を観ることを心がけています。

また「コンペティション」同様、即席サイン会や即席ティーチ・インが行われる事も多く、アジアの監督とお互いに片言の英語で、作品について語り合う、と言うある種貴重な体験が楽しめる事もあります。
 
 
4.スケジュール調整

しがない会社員の身としては、「映画祭」の会期中会社を休んで会場に入り浸る、と言う訳にも行きませんので、自分のスケジュールと上映スケジュールを基に、どの作品を観ようか考えるのですが、これがめちゃくちゃ楽しいのです。

この作品は是非観たいが平日の昼間にしか上映しない。じゃ会社を休むか。どうせ休むならこっちの作品も観たいし・・・・。
どっちみちその作品のチケットが取れるかどうかわからず、正に捕らぬ狸のなんとやら、なのですが、これもひとつの「映画祭」の楽しみだと思います。

=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=+=

来年こそは「東京国際映画祭」の期間に長期休暇を取得したいと思ってしまう、わたしはダメな人間です。

また今週末からは「東京フィルメックス」が始まってしまうし・・・・。

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※1
わたしが2004年に参加した(する)「映画祭」は、
「東京国際ファンタスティック映画祭」(2004/10/14-17)
「東京国際映画祭」(2004/10/23-31)
「東京フィルメックス」(2004/11/20-28)
です。本文は上記「映画祭」の特徴を元にしており、他の「映画祭」の特徴と合致しない場合があります。
2004/11/15 東京九段下「九段会館大ホール」で「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」の試写を観た。

1939年、ニューヨーク万国博覧会の年。
ニューヨーク上空に到着した巨大な飛行船ヒンデンブルグIII号はエンパイアステートビルの頂上に設置された飛行船ドックに停泊した。
そんな最中、またしても著名な科学者失踪のニュースが報じられる。事件の独自調査を開始したNYクロニクル紙の敏腕女性記者ポリー・パーキンス(グウィネス・パルトロウ)は、科学者失踪事件を追う途中、街で驚くべき光景を目撃する。摩天楼の上空を巨大なロボットの大群が来襲し、人間を襲い始めたのだった。人々が逃げまどう中、無謀にもその模様をカメラに収めようとしたポリーは間一髪のところで、元恋人で空軍のエースパイロット、スカイキャプテンことジョー・サリバン(ジュード・ロウ)に救われる。科学者失踪事件と今回のロボット襲撃事件に関連を見出したスカイキャプテンはポリーと協力して事件の謎を追い、やがて一人のドイツ人科学者トーテンコフ博士(サー・ローレンス・オリビエ)の存在に行き着くのだが・・・・。

監督:ケリー・コンラン
キャスト:ジュード・ロウ(スカイキャプテン/ジョー・サリバン)、グウィネス・パルトロウ(ポリー・パーキンス)、アンジェリーナ・ジョリー(フランキー・クック)、ジョヴァンニ・リビシ(デックス・ディアボーン)、マイケル・ガンボン(ペイリー編集長)、バイ・リン(謎の女)、サー・ローレンス・オリヴィエ(トーテンコフ博士)

ボクらがドキドキワクワクした冒険活劇がここにある。
これは新世代の「スター・ウォーズ」なのだ!

と言う訳で本作「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」は「スター・ウォーズ/新たなる希望」に匹敵する(嘘)最高の冒険活劇だと言えよう。
ボクらの少年時代、ボクらが「スター・ウォーズ」を初めて観て感じたようなドキドキワクワク感を、現代の少年たちが「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」で体験できるのでないか、と思うのだ。

本作は、スカイ・シップ1が出てきたり、クレイジーゴンが出てきたり、見たことがあるようなロボットやベタなデザインのロケットが出てきたり、音楽はジョン・ウィリアムズのオーケストレーションを模倣したようなアレンジが多用されていたりしている訳で、オリジナリティの部分では残念ながら手放しで褒め称える訳にはいかない。しかし少なくても本作「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」はこの秋最高のドキドキワクワク感溢れる冒険活劇なのだ。

先ずは世界観が素晴らしい。所謂レトロ・フューチャーなデザインと現代の俳優が見事に融和する素晴らしいクオリティを持ったCGIで構築された世界観に驚きなのだ。
勿論フリッツ・ラングの「メトロポリス」やチャップリンの「モダン・タイムズ」やジョルジュ・メリエス、フライシャー兄弟やなんかの影響や借用、引用、オマージュは見え隠れする世界観については、通常の作品だとすると美術やセット、衣装やプロップがどうのこうのと言う話になるのだが、俳優やプロップ以外は全てCGIと言う本作では、美術やセットがどうのこうのとは一概には言えない。まあ美術(Production Design)は監督のケリー・コンランの兄のケビン・コンランがクレジットされているところや、限りなく自主制作に近い作品らしい、と言う話を聞くと、彼等コンラン兄弟は凄い才能と凄まじい忍耐力と、オタッキーな言及スタンスを持った素晴らしい兄弟なのかもしれない、と思うのだ。

しかし、本作のイメージの多くは前述のように先人達の作品からの借物や引用に満ちており、物語の舞台がわれわれの地球上であり、われわれ人類の歴史の中で、こういった物語が起こった、とした所が最大の問題点だと思う。できる事なら、既存のビジュアル・イメージ(飛行機とか)を使用せず、遠い彼方の銀河系の物語にして欲しかったのだ。

脚本は一言で言うと小粋である。メインのプロットは凄いと思うが、展開は結構ベタだと言わざるを得ない。しかしそれを感じさせない小粋なセリフとユーモラスな演出、そして何と言っても前述の見事に構築された世界観を、観客を夢から醒めさせないクオリティを維持し続けているのだ。
小粋なセリフや演出は、カチっと決まった「スター・ウォーズ」ミート「レイダース」的な感じなのだ。
結構笑えるしね。

あと特筆すべき点は「オズの魔法使い」への言及とそこから派生するサー・ローレンス・オリビエのオズの大魔王的使い方が印象に残る。
ジュード・ロウと「オズの魔法使い」と言えば「A.I.」が記憶に新しいが、「A.I.」のルージュ・シティ(勿論エメラルド・シティね)のとある人物(ロビン・ウィリアムズ)を髣髴とさせる素晴らしい使い方なのだ。
勿論故人の過去の作品のフッテージを本来の意図とは別の意図で使用している点に釈然としない部分を感じるのは仕方が無いだろう。

とにかく、本作「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」は、残念ながら「スター・ウォーズ」には到底及ばないが、初めて「スター・ウォーズ」を観た時のような気持ちにちょっとだけ戻ることが出来る、素晴らしい魅力と魔法の力を持った作品だと思うのだ。(他の銀河系の物語だと思ってください)
ちょっと褒めすぎかも・・・・。

=+=+=+=+=+=+=+=

それにしても、ケリー・コンランが4年かけて作ったと言う「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」のモトネタとなった6分間の作品を見てみたいものなのだ。

=+=+=+=+=+=+=+=

しかし、「Mr.インクレディブル」のスコアは「007」のコピーだし、本作「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」のスコアはジョン・ウィリアムズのオーケストレーションのコピーとは、世の中一体どうなっているのでしょうか。
(「Mr.インクレディブル」は、ジョン・バリーにスコアをオファーしたらしいしね。)

とは言うものの、本作のスコアをジョン・ウィリアムズにやって欲しかったな、と切実に思うし、もしかしたらただ単に本作のスコアと「スター・ウォーズ」のサントラを入れ替えるだけで、本作は凄い傑作に生まれ変わるような可能性が感じられた。

=+=+=+=+=+=+=

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2004/11/13 東京九段下「九段会館ホール」で「Mr.インクレディブル」の試写を観た。

スーパー・ヒーローの黄金時代。彼らスーパー・ヒーローたちは世界中で数々の危機を救っていた。しかし、その破壊力に満ちたスーパー・パワーが、一般市民の被害を拡大していると訴えられ「敗訴」。それ以降、スーパー・ヒーローとして活動することを禁じられてしまった。

それから15年後、世界有数のスーパー・ヒーローだったMr.インクレディブルは、保険会社のクレーム担当係として退屈な日々を過ごしていた。
ある日、Mr.インクレディブルに届いた一通の手紙。それはインクレディブル一家にとって、新たな冒険の始まりだった・・・・。(ちらしよりほぼ引用)
 
監督:ブラッド・バード
キャスト:クレイグ・T・ネルソン(ボブ/Mr.インクレディブル)、ホリー・ハンター(ヘレン/イラスティ・ガール)、ジェイソン・リー(シンドローム)、サミュエル・L・ジャクソン(ルシアス/フロゾン)、ミラージュ(エリザベス・ペーニャ)、エドナ(ブラッド・バード)
 
 
「ファインディング・ニモ」に続くピクサー・アニメーション・スタジオの長編作品第6作目。監督は「アイアン・ジャイアント」のブラッド・バード。

本作「Mr.インクレディブル」は、一見すると誰にでもオススメ出来る素晴らしい娯楽作品に見える。確かに面白いし、キャラクターも立っているし、手に汗握るアクション・シーンが続くし、コミカルなシーンでは笑えるし、統一された世界観も素晴らしいし、小粋なセリフや演出に満ちた楽しい映画に仕上がっている。
しかし、前作「ファインディング・ニモ」までのピクサー作品と比較すると、何かが足りないような気がする。

完全な娯楽作品で良いのか?
と言う気がするのだ。

また、本作「Mr.インクレディブル」をブラッド・バード監督作品として考えた場合、残念ながら「アイアン・ジャイアント」を監督した監督の作品だと思えないような気がする。泣きどころに乏しい、楽しいだけの映画になっているのである。

確かに「Mr.インクレディブル」は面白いよ。娯楽作品としては素晴らしいよ。でもね、ピクサー社が今まで制作してきた作品と比較すると何だか物足りない、と言う気がするのよ。今回はわざわざ外部から監督を招いている訳なのに、なんだかそれが裏目に出てしまっているような気がしちゃうのだ。

そんな脚本は単純明快。大きなひねりも無く、誰もが思いつくような順当なシーンが続く。ある意味普遍的で予定調和的な脚本だとも言える。
脚本と共に、キャラクターの描き方は、Mr.インクレディブル、インクレディブル夫人(イラスティ・ガール)、フロゾン、ミラージュ、シンドローム等の大人のキャラは充分描きこまれているのだが、ヴァイオレット(サラ・ヴォウェル)、ダッシュ(スペンサー・フォックス)、ジャック・ジャックあたりの子供のキャラクターの描き込みが若干不足しているような気がする。
勿論、本作の主役は子供たちではなく、大人たちである事はわかっているのだが、それにしても子供たちの描き方が足りないような気がした。
とは言うものの、前述のように本作は、子供たちを脇に配し、大人キャラを主役にしている点は、ある意味英断だし成功のひとつの理由だと思う。
例えば「サンダーバード」では大人を脇役にし、子供を主役に配し、失敗しているだけに、本作は良い選択を行ったのではないか、と思う訳だ。

ところで、本作「Mr.インクレディブル」のテイストだが、個人的な印象としては、スーパー・ヒーローものと言うより、「007」シリーズ(特にロジャー・ムーアの時代の作品)のような印象を受けた。例えば悪の秘密基地のビジュアルは「007」シリーズや「オースティン・パワーズ」シリーズのそれを髣髴とさせるし、飽くの組織が実行する荒唐無稽なファンタジックで雄大な作戦がなんとも楽しいのだ。音楽も「007」テイストの再現に力を入れているようだし。

CGIについては文句の付け所が無い程のクオリティで作品全体が構築されている。
 
 
とにかく、本作「Mr.インクレディブル」は誰にでも自信を持ってオススメ出来る最高に楽しめる娯楽作品に仕上がっているのは間違いない。

しかし、個人的にはそれで良いのかどうかは、また別の話だと思う。今後のピクサー社の事を考えた場合、面白いだけで中身が無い作品が次々と製作されるようになってしまうのは、残念でならない訳だ。

因みに、同時上映の「Boundin’(短編/原題)」の方が、よっぽど中身が詰まっているような気がするし、製作者が何を訴えたいのかが明確である。本作「Mr.インクレディブル」で製作者が何を言いたかったのかを考えた時、わたしは釈然としない気分になってしまうのだ。

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ピクサー社の次回作は「Cars(原題)」である。従来のピクサー社のテイストを期待するむきには、ジョン・ラセター自らが監督を務める「Cars(原題)」に期待するのが正しいのかも知れない。
因みに「Cars(原題)」はピクサー製作/ディズニー配給体制の最後の作品で、実は「Mr.インクレディブル」より前に製作が始まった作品だったのずが、途中で公開順序が入替わってしまったようである。

余談だが、本作「Mr.インクレディブル」には、「Cars(原題)」への言及がされていた。
「ファインディング・ニモ」に当時の次回作「Mr.インクレディブル」の絵本が登場したり、「モンスターズ・インク」に当時の次回作「ファインディング・ニモ」のキャラクターが登場したり、と言う時系列的には逆説的なセルフ・オマージュとなっているのだ。(完成していない作品へのオマージュと言うのもおかしな話ではあるが・・・・)

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かつてのスーパー・ヒーローが、スーパー・パワーを封じられてしまい、来るべき復活の日を願っている、と言う構図は、クリストファー・リーヴが陥っていた境遇のメタファーと考えられる。
わたしは、本作「Mr.インクレディブル」は、そういった意味も込めて、クリストファー・リーヴに捧げられるのではないか、と思っていたのだが、残念ながらそうではなかったようである。
とは言うものの、出来ることならば、クリストファー・リーヴにこそ観て欲しい作品だと思うのだ。

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☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
 
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先週同様、劇場公開時期に合わせて過去のレビューを紹介する
週刊「映画レビュー・インデックス」(仮称)
を継続してみます。

また先週同様、最新の国内興収ベストテン(国内興行成績)作品のレビュー・インデックスもつけてみることにしました。
更に先週同様、今後継続的するかどうかは未定です。
 
 
2004/10/30公開作品
「隠し剣 鬼の爪」
http://diarynote.jp/d/29346/20041024.html
「ソウ」
http://diarynote.jp/d/29346/20041105.html
「ターンレフト ターンライト」
http://diarynote.jp/d/29346/20040829.html
 
 
2004/11/06公開作品
「オールド・ボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040902.html
「TUBE チューブ」
http://diarynote.jp/d/29346/20041104.html
 
 
2004/11/13公開作品
「海猫」
http://diarynote.jp/d/29346/20041025.html
「爆裂都市」
http://diarynote.jp/d/29346/20041107.html
「パニッシャー」
http://diarynote.jp/d/29346/20041103.html
 
 
2004/11/06-07 興収ベストテン
1.「いま、会いにゆきます」(東宝)
2.「コラテラル」(UIP)
3.「隠し剣 鬼の爪」(松竹)
http://diarynote.jp/d/29346/20041024.html
4.「血と骨」(松竹=ザナドゥー)
5.「笑の大学」(東宝)
6.「キャットウーマン」(ワーナー)
7.「シークレット・ウインドウ」(ソニー)
http://diarynote.jp/d/29346/20040904.html
8.「2046」(ブエナビスタ)
9.「80デイズ」(日本ヘラルド映画)
10.「オールドボーイ」(東芝エンタテインメント)
http://diarynote.jp/d/29346/20040902.html
2004/10/15 東京新宿「新宿ミラノ座」
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」のオールナイト企画『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』で「リザレクション」を観た。
舞台挨拶は、ヒロインを演じたイム・ウンギョン。

合コンに明け暮れる冴えない出前持ちの青年ジュ(キム・ヒョンソン)は、密かにゲームセンターで働く少女に恋していた。ある晩、合コンの帰りにゲームセンターの彼女にアタックするも見事に撃沈したジュは、深夜の繁華街で、何故かライターを売り歩く「マッチ売りの少女」(イム・ウンギョン)を目撃する。ジュは「マッチ売りの少女」に押し切られる形でライターを受取ってしまう。
なんとそのライターは、とあるIT企業が提供する仮想現実で行う「マッチ売りの少女の再臨」というゲームへの招待状だったのだ。そのゲームは数々の障害や誘惑、他のプレイヤーの妨害を退け、「マッチ売りの少女」を物語同様、凍死させる事が目的で、少女が死の瞬間にプレイヤーの事を考えれば、そのプレイヤーが勝者になり、その少女と暮らせる、というものであった。
仮想現実を舞台にした、ジュの「マッチ売りの少女」を救う冒険が始まる。

監督・脚本:チャン・ソヌ
キャスト:イム・ウンギョン、キム・ヒョンソン、キム・ジンピョ、チン・シン、ミョン・ゲナム

なんとも形容し難い摩訶不思議な映画である。聞く所によると本作「リザレクション」は『韓流「マトリックス」』と呼ばれているようだが、方向性としては「アヴァロン」的なベクトルを持った作品だと思える。

また、本作の『主人公ジュは平凡な韓国の青年なのだが、「マッチ売りの少女」と出会う事により、異世界の扉を開き、冒険を繰り広げる』と言うメイン・プロットを抽出した場合は、ヤング・アダルト向けの異世界ファンタジー小説(例えば「富士見ファンタジア文庫」系)の映画化のような印象をも受けてしまう。

物語のテイストや安易な展開、突っ込ませるスキをわざわざ作っているプロットを見ると、アニメとゲームが融合し、物語のプロットより、その場その場の会話やキャラクターの設定が重要視される種類の作品のような印象を受け、観客の戦略的ターゲットを明確に定めた作品のような印象を受けた。

またその異世界の冒険を具現化するVFXは、高いクオリティとチープさが共存する摩訶不思議なギャップが楽しめる。
また新たなキャラクター(プレイヤー)が物語に登場する度に、そのキャラクターの特徴や得意技、装備している武器等の情報が、ゲームを模倣したようなウインドウで表示されるのも、面白いと言えば面白いのだが、安易と言えば安易であるし、その細かなマニアックな情報が前述のような戦略的ベクトルを物語っているような気がする。

期待のアクションについては、これも良い所もあれば、イマイチの所もあり、すげぇ〜っ、とか、そんな莫迦な〜っ的なアクションも楽しめるバラエティに富んだ構成になっている。

キャストは何と言ってもイム・ウンギョンに尽きる。
ヒロインである「マッチ売りの少女」を演じたイム・ウンギョンの可憐さには驚きである。まるでマイセンの陶磁器のようなイム・ウンギョンのルックスにゾッコン・ラブ(死語)なのだ。
こんな綺麗で、しかも(勿論当然のことなのだが)演技が出来るお嬢さん女優が沢山いる韓国映画界に羨望を禁じえないのだ。

まあ結論としては、本作「リザレクション」は、一般の観客向けの作品かどうかは微妙だが、美少女、アニメ、ゲーム等に関心がある方々には、比較的自信を持ってオススメ出来る作品のような気がする。
作品のベクトルは前述のように、一本貫いた指向性を持っているような気がした。
韓国若者のポップでキュートなアニメやゲームのようなサブカルチャーへの嗜好や傾向が垣間見れる作品だと言えるのではないだろうか。

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ヒロインを演じたイム・ウンギョンの舞台挨拶があったのだが、実物も可憐なお嬢さんなのだが、本編内の彼女は正にお人形さんのようなルックスだった。

本作では、セリフの無い役柄に苦労したようだが、実際の撮影は随分前の話で、あまり覚えていないようだった。
何しろ本作「リザレクション」は2003年の「TOKYO FILMeX」で「マッチ売りの少女の再臨」というタイトルで上映されているし、実際の制作年は2002年ということは、総製作費90億ウォン、撮影期間14ヶ月、製作期間4年と言う本作の概要から考えると、撮影を行った時期は本当に大昔だったようである。

余談だが、今回の上映は、所謂キネコ上映であり、画質に若干の問題があった。是非綺麗なプリントで再度観てみたいものである。

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tkr

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