いろいろ書いてます。
2013年1月31日 日常スティーヴン・キング研究序説 ココログ分室
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ホンヤクモンスキーの憂鬱
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徒然雑草 ココログ分室
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「ちはやふる」をめぐる冒険
2011年11月16日 アニメ・マンガ コメント (1)わたしの家系は雅な家系なので(嘘)、子どもの頃から「百人一首」を嗜んでいた。
と言うのも、わたしの母親が「百人一首」の結構な読み手だったので、わたしも子どもの頃からかるたを取るだけではなく、読み手もやっていた。
そんなわたしの家の「百人一首」の取り札は木製の札で、独特な書体の変体仮名で書かれた札だった。
調べてみると、どうやら「北海道地域限定かるた(小倉百人一首下の句かるた)」( http://www.nintendo.co.jp/n09/hyaku/kifuda/ )と言うものだったようである。
この「百人一首」の面白いところは、「競技かるた」と同様に競技性が高いことである。
そして、わたしが一番面白いと思ったのは、読み手の技術や癖により、前の句から次の句を読む際のイントネーションの流れだとか、ブレスで次の句を推測できる事であった。
尤も、「競技かるた」では、そのような事を読み手がしてはいけないと思うのだが、家族で「百人一首」をやる場合はその読み手の癖と言うか、イントネーションのゆらぎと言うか、ブレスとかの感じがとっても楽しかった。
また、木製の札を使うかるたである以上、ある程度危険な遊びでもあった。
事実、ガラスが割れたり、花瓶のようなものが壊れたりしたこともある。
そんな中で「ちはやふる」を観ている訳である。
物語は、小学校時代に「競技かるた」が縁で結ばれた仲間同士が、一度は離ればなれになるが、「競技かるた」で強くなれば、どこかできっと再会できると信じて「競技かるた」にのめり込んでいく物語である。(と思われる)
そして昨日の第七首「ひとこそみえねあきはきにけり」で、ひとつの感動の頂点をむかえた。
高校生になった千早と太一は、かるたを続けていれば、小学生時代に転校してしまった新とどこかで再会できると信じ、高校で競技かるた部を立ち上げるが、5名以上の部員がいなければ、正式な部活動として認められない、と言う状況におかれている。
そんな中、部員募集を続ける千早の目にとまったのは、学年一位の太一に次ぐ学年二位の勉。
勉は無理矢理競技かるた部に勧誘する千早に対し、競技かるた部に入らない理由を列挙するが千早は「やらない理由なんかどうでもいい!」と言い放ち、勉を無理矢理部室に連れてくる。
学年一位の太一が競技かるた部に所属している事を知った勉は、千早と太一に難題をふっかける。
「全ての取り札を記憶しているんだったら、取り札を裏返してかるたをやってみろ!」と。
いま、素晴らしい競技かるたの試合が始まる!
と言うのも、わたしの母親が「百人一首」の結構な読み手だったので、わたしも子どもの頃からかるたを取るだけではなく、読み手もやっていた。
そんなわたしの家の「百人一首」の取り札は木製の札で、独特な書体の変体仮名で書かれた札だった。
調べてみると、どうやら「北海道地域限定かるた(小倉百人一首下の句かるた)」( http://www.nintendo.co.jp/n09/hyaku/kifuda/ )と言うものだったようである。
この「百人一首」の面白いところは、「競技かるた」と同様に競技性が高いことである。
そして、わたしが一番面白いと思ったのは、読み手の技術や癖により、前の句から次の句を読む際のイントネーションの流れだとか、ブレスで次の句を推測できる事であった。
尤も、「競技かるた」では、そのような事を読み手がしてはいけないと思うのだが、家族で「百人一首」をやる場合はその読み手の癖と言うか、イントネーションのゆらぎと言うか、ブレスとかの感じがとっても楽しかった。
また、木製の札を使うかるたである以上、ある程度危険な遊びでもあった。
事実、ガラスが割れたり、花瓶のようなものが壊れたりしたこともある。
そんな中で「ちはやふる」を観ている訳である。
物語は、小学校時代に「競技かるた」が縁で結ばれた仲間同士が、一度は離ればなれになるが、「競技かるた」で強くなれば、どこかできっと再会できると信じて「競技かるた」にのめり込んでいく物語である。(と思われる)
そして昨日の第七首「ひとこそみえねあきはきにけり」で、ひとつの感動の頂点をむかえた。
高校生になった千早と太一は、かるたを続けていれば、小学生時代に転校してしまった新とどこかで再会できると信じ、高校で競技かるた部を立ち上げるが、5名以上の部員がいなければ、正式な部活動として認められない、と言う状況におかれている。
そんな中、部員募集を続ける千早の目にとまったのは、学年一位の太一に次ぐ学年二位の勉。
勉は無理矢理競技かるた部に勧誘する千早に対し、競技かるた部に入らない理由を列挙するが千早は「やらない理由なんかどうでもいい!」と言い放ち、勉を無理矢理部室に連れてくる。
学年一位の太一が競技かるた部に所属している事を知った勉は、千早と太一に難題をふっかける。
「全ての取り札を記憶しているんだったら、取り札を裏返してかるたをやってみろ!」と。
いま、素晴らしい競技かるたの試合が始まる!
「陽はまた昇る」をめぐる冒険
2011年8月5日 TV コメント (1)2011年8月4日 テレビ朝日で「陽はまた昇る」を観て驚いた。
とっても驚いたので、驚いた点を紹介したいと思う。
「陽はまた昇る」
監督:秋山純、今井和久
脚本:井上由美子
出演:佐藤浩市、三浦春馬、池松壮亮、真矢みき、橋爪功
物語の骨子は、警視庁警察学校を舞台にした青春・人間ドラマで、おそらくは「愛と青春の旅立ち」を念頭に置いているのではないか、と思う。
つまり、佐藤浩市がルイス・ゴセット・ジュニアで、三浦春馬がリチャード・ギアね。
まだ第3話目だけど、多分訓練生の誰かがあとで自殺すると思うよ。
あとは最終回は卒業式でみんな泣くよ。きっと。
敬礼の件もあるかもね。
さて、今日の本題。
第3話は、警察官から拳銃を奪って逃走した男のニュースを背景に、警視庁警察学校では訓練生に対し拳銃貸与式があったり、初めての射撃の訓練があったりと、拳銃にまつわるエピソードが描かれている。
1.あれが射撃場だとは思えない
警察官が射撃訓練をするシーンをわたしたちは映画やドラマで目にする機会が多い。
射撃場は、射座(射手が射撃をする場所)は壁と天井で一人ずつ区切られており、隣の人たちに物理的に銃を向ける事が出来ない構造になっている。
また、射撃訓練用の標的もレール等で自動的に手元に戻ってくるシステムで、射座と標的の間には人が絶対に入れない構造になっている。
しかし、「陽はまた昇る」の警察学校の射撃場は、天井の高い広い部屋に長テーブルを置いたような摩訶不思議な空間だった。
また、射撃後の標的は、回収する仕組みが見当たらなかったので、多分人間が回収するのだろうと思う。
撃ち方やめー、これより標的を回収する。
とかやるのだろうか。
更に、標的に向かって左側には階段があり、右奥には普通の通路が続いている。
背面は窓だったように記憶している。
射撃場に、つまり拳銃や弾薬が転がっている場所に、誰でも入れるような構造に描写されているのだ。
素人目に見ても、あんな危ない射撃場はないだろう。
ライフル銃の射撃場でさえ、つまり長くて取り回しにくい銃の射撃場でも、物理的に隣の人を狙えない構造になっているのに、拳銃の射撃訓練をするというのに、あんな構造、隣だろうが何だろうが狙い放題の射撃場は考えられない。
リアリティがどうのこうの、と言うより製作サイドとして、真摯にドラマに向かっていない、と思えてならない。
2.拳銃について教育を受けていない訓練生
第3話では、射撃訓練後に薬莢がひとつ紛失する。
これが大きなドラマに発展していくのだ。
ところで、わたしは大学時代に、自主制作映画のため、大学のライフル射撃部の射撃場で撮影をした事がある。
その撮影の際、射撃場について最初に行われたのは射撃場及びライフル銃に関する注意事項の説明だった。
と言うか、それはほとんど講習だった。
勿論、撮影には実際のライフル銃を使用したため、銃の危険性と銃の取扱い、射撃場においての立ち居振る舞い、また、立って良い場所と絶対に立ってはいけない場所。
当然実際に弾丸は発射できないよう、ライフル銃のボルトは抜いてあり、盗難や事故防止用にライフル銃はワイヤーロックで射撃場にくくられた状態で撮影が行われた。
また、基本的にライフル射撃部員が、常にライフル銃を保持していた。撮影中もカメラに映らないように。
撮影サイドとしては、銃口を真正面からとらえる画も欲しかったのだが、当然の如く、ライフル射撃部サイドに拒否された。
何を言っているかと言うと、ただ単に、ライフル射撃場で撮影をするだけで、いろいろな説明や注意事項等のレクチャーを受け、ライフル射撃部員の指導のもと、撮影が行われたのだ。
しかし「陽はまた昇る」の警察学校の訓練生は、拳銃貸与式が行われ、射撃訓練が行われているのに、拳銃の危険性や重要性の教育を受けていないようなのだ。
何も知らないばかどもが、射撃の訓練をしているとしか思えない。
ドラマで描かれていなくとも、ドラマの背景に拳銃についての教育や講義が行われている様子が皆無なのだ。
先ずは、射撃姿勢がみんなばらばらだったのには驚いた。
両手で拳銃を腰だめで構えている者、視線を拳銃越しに標的に向けている者、片手で拳銃を構えている者。
基本の射撃姿勢の講義や訓練はなかったのか。
さらに、薬莢が紛失した理由が酷すぎる。
「ひとつくらいなら薬莢を記念に持ち帰っても、大丈夫だと思った」
どっか外国の射撃場に行った旅行者かよ。
もう、一般人よりレベルが低い。
警察官になろうとしている訓練生とは全く思えない。
その辺にいる中学生ですら、この日本の社会において、警察官の拳銃の薬莢がなくなったらやばいと思うんじゃねーの。
警察学校の訓練生のモラルや意識が低すぎるのだ。
ドラマなので、これから意識やモラルを学ぶのかも知れないが、彼らは少なくても、警察官になろうとして警察学校に入学しているはずなのだ。
しかも入学から一体どれくらいの期間が経っているのか。
昨日入学したのかよ。
3.セキュリティ教育が行われていない
薬莢が紛失した事を警察学校の大食堂で大声で議論するばか者ども。
他のクラスに事故の情報が漏えいして大問題になるぞ。
そんな意識は誰も持ち合わせておらず、おそらくは警察学校の授業ではセキュリティ教育すら受けていないのだろう。
本当にばか。
4.賞罰委員会もないのね
結局は薬莢を窃盗した訓練生の顛末書と指導教官の報告書が学校長に提出され、その場で処分が決定した。
これは恐ろしい。
報告書も何も読まずに、窃盗した訓練生には1ケ月間の外出禁止と指導教官には1ケ月の減俸の処分が決定した。どうなっているのか。
5.飲み屋がマンションの一室
まあたいした話ではないのだが、不思議だったのは、石野真子が経営している飲み屋がマンションの対面カウンターみたいなつくりだった。
佐藤浩市と真矢みきが飲んでいたのは、誰かの自宅かと思ったよ。
6.大学時代の射撃大会で優秀な成績を・・・・
警察学校に入ってしばらく経っている設定だと思うのだが、射撃訓練後に池松壮亮が大学時代に射撃部にいて、全国2位だか3位になったことを知るクラスメイトって何よ。
おかしすぎる。
池松壮亮は別に射撃部で全国大会で上位入賞したことを隠しているそぶりはなかったのに、情報の伝達スピードが遅すぎる。
7.拳銃を撃てないやつは辞職勧告だ
これは「愛と青春の旅立ち」のDOR(任意除隊)ですね。
8.ペットボトルのゴミ箱が
ラウンジみたいなところで、訓練生同士が殴りあいの喧嘩になるんだけど、殴られて吹っ飛んだ先にはペットポトルがたくさん入ったゴミ箱があり、それをぶちまけるんだけど、なぜか全てのペットポトルがきれいにフィルムが剥がされていた。
だからどう、と言う話ではないのだが、そこまでして、つまりリアリティを無くしてまでペットボトルのゴミ箱が吹っ飛ぶ様を撮りたかったのか?
まあ、そんな感じですね。
テクニカルアドバイザーとかいなかったんですかね。
脚本家も世の中の事、と言うか一般常識と言うか、一般の人がどう感じているのか、と言う点が超弱いですね。
そんな訳で来週も観てみようかと思いました。
ツイッターをやったり電話をかけながら見ていたので間違いがあるかも知れません。
間違いがあったら教えてくださいね。
とっても驚いたので、驚いた点を紹介したいと思う。
「陽はまた昇る」
監督:秋山純、今井和久
脚本:井上由美子
出演:佐藤浩市、三浦春馬、池松壮亮、真矢みき、橋爪功
物語の骨子は、警視庁警察学校を舞台にした青春・人間ドラマで、おそらくは「愛と青春の旅立ち」を念頭に置いているのではないか、と思う。
つまり、佐藤浩市がルイス・ゴセット・ジュニアで、三浦春馬がリチャード・ギアね。
まだ第3話目だけど、多分訓練生の誰かがあとで自殺すると思うよ。
あとは最終回は卒業式でみんな泣くよ。きっと。
敬礼の件もあるかもね。
さて、今日の本題。
第3話は、警察官から拳銃を奪って逃走した男のニュースを背景に、警視庁警察学校では訓練生に対し拳銃貸与式があったり、初めての射撃の訓練があったりと、拳銃にまつわるエピソードが描かれている。
1.あれが射撃場だとは思えない
警察官が射撃訓練をするシーンをわたしたちは映画やドラマで目にする機会が多い。
射撃場は、射座(射手が射撃をする場所)は壁と天井で一人ずつ区切られており、隣の人たちに物理的に銃を向ける事が出来ない構造になっている。
また、射撃訓練用の標的もレール等で自動的に手元に戻ってくるシステムで、射座と標的の間には人が絶対に入れない構造になっている。
しかし、「陽はまた昇る」の警察学校の射撃場は、天井の高い広い部屋に長テーブルを置いたような摩訶不思議な空間だった。
また、射撃後の標的は、回収する仕組みが見当たらなかったので、多分人間が回収するのだろうと思う。
撃ち方やめー、これより標的を回収する。
とかやるのだろうか。
更に、標的に向かって左側には階段があり、右奥には普通の通路が続いている。
背面は窓だったように記憶している。
射撃場に、つまり拳銃や弾薬が転がっている場所に、誰でも入れるような構造に描写されているのだ。
素人目に見ても、あんな危ない射撃場はないだろう。
ライフル銃の射撃場でさえ、つまり長くて取り回しにくい銃の射撃場でも、物理的に隣の人を狙えない構造になっているのに、拳銃の射撃訓練をするというのに、あんな構造、隣だろうが何だろうが狙い放題の射撃場は考えられない。
リアリティがどうのこうの、と言うより製作サイドとして、真摯にドラマに向かっていない、と思えてならない。
2.拳銃について教育を受けていない訓練生
第3話では、射撃訓練後に薬莢がひとつ紛失する。
これが大きなドラマに発展していくのだ。
ところで、わたしは大学時代に、自主制作映画のため、大学のライフル射撃部の射撃場で撮影をした事がある。
その撮影の際、射撃場について最初に行われたのは射撃場及びライフル銃に関する注意事項の説明だった。
と言うか、それはほとんど講習だった。
勿論、撮影には実際のライフル銃を使用したため、銃の危険性と銃の取扱い、射撃場においての立ち居振る舞い、また、立って良い場所と絶対に立ってはいけない場所。
当然実際に弾丸は発射できないよう、ライフル銃のボルトは抜いてあり、盗難や事故防止用にライフル銃はワイヤーロックで射撃場にくくられた状態で撮影が行われた。
また、基本的にライフル射撃部員が、常にライフル銃を保持していた。撮影中もカメラに映らないように。
撮影サイドとしては、銃口を真正面からとらえる画も欲しかったのだが、当然の如く、ライフル射撃部サイドに拒否された。
何を言っているかと言うと、ただ単に、ライフル射撃場で撮影をするだけで、いろいろな説明や注意事項等のレクチャーを受け、ライフル射撃部員の指導のもと、撮影が行われたのだ。
しかし「陽はまた昇る」の警察学校の訓練生は、拳銃貸与式が行われ、射撃訓練が行われているのに、拳銃の危険性や重要性の教育を受けていないようなのだ。
何も知らないばかどもが、射撃の訓練をしているとしか思えない。
ドラマで描かれていなくとも、ドラマの背景に拳銃についての教育や講義が行われている様子が皆無なのだ。
先ずは、射撃姿勢がみんなばらばらだったのには驚いた。
両手で拳銃を腰だめで構えている者、視線を拳銃越しに標的に向けている者、片手で拳銃を構えている者。
基本の射撃姿勢の講義や訓練はなかったのか。
さらに、薬莢が紛失した理由が酷すぎる。
「ひとつくらいなら薬莢を記念に持ち帰っても、大丈夫だと思った」
どっか外国の射撃場に行った旅行者かよ。
もう、一般人よりレベルが低い。
警察官になろうとしている訓練生とは全く思えない。
その辺にいる中学生ですら、この日本の社会において、警察官の拳銃の薬莢がなくなったらやばいと思うんじゃねーの。
警察学校の訓練生のモラルや意識が低すぎるのだ。
ドラマなので、これから意識やモラルを学ぶのかも知れないが、彼らは少なくても、警察官になろうとして警察学校に入学しているはずなのだ。
しかも入学から一体どれくらいの期間が経っているのか。
昨日入学したのかよ。
3.セキュリティ教育が行われていない
薬莢が紛失した事を警察学校の大食堂で大声で議論するばか者ども。
他のクラスに事故の情報が漏えいして大問題になるぞ。
そんな意識は誰も持ち合わせておらず、おそらくは警察学校の授業ではセキュリティ教育すら受けていないのだろう。
本当にばか。
4.賞罰委員会もないのね
結局は薬莢を窃盗した訓練生の顛末書と指導教官の報告書が学校長に提出され、その場で処分が決定した。
これは恐ろしい。
報告書も何も読まずに、窃盗した訓練生には1ケ月間の外出禁止と指導教官には1ケ月の減俸の処分が決定した。どうなっているのか。
5.飲み屋がマンションの一室
まあたいした話ではないのだが、不思議だったのは、石野真子が経営している飲み屋がマンションの対面カウンターみたいなつくりだった。
佐藤浩市と真矢みきが飲んでいたのは、誰かの自宅かと思ったよ。
6.大学時代の射撃大会で優秀な成績を・・・・
警察学校に入ってしばらく経っている設定だと思うのだが、射撃訓練後に池松壮亮が大学時代に射撃部にいて、全国2位だか3位になったことを知るクラスメイトって何よ。
おかしすぎる。
池松壮亮は別に射撃部で全国大会で上位入賞したことを隠しているそぶりはなかったのに、情報の伝達スピードが遅すぎる。
7.拳銃を撃てないやつは辞職勧告だ
これは「愛と青春の旅立ち」のDOR(任意除隊)ですね。
8.ペットボトルのゴミ箱が
ラウンジみたいなところで、訓練生同士が殴りあいの喧嘩になるんだけど、殴られて吹っ飛んだ先にはペットポトルがたくさん入ったゴミ箱があり、それをぶちまけるんだけど、なぜか全てのペットポトルがきれいにフィルムが剥がされていた。
だからどう、と言う話ではないのだが、そこまでして、つまりリアリティを無くしてまでペットボトルのゴミ箱が吹っ飛ぶ様を撮りたかったのか?
まあ、そんな感じですね。
テクニカルアドバイザーとかいなかったんですかね。
脚本家も世の中の事、と言うか一般常識と言うか、一般の人がどう感じているのか、と言う点が超弱いですね。
そんな訳で来週も観てみようかと思いました。
ツイッターをやったり電話をかけながら見ていたので間違いがあるかも知れません。
間違いがあったら教えてくださいね。
「見えないほどの遠くの空を」 その2
2011年6月19日 映画
さて、今日は「見えないほどの遠くの空を」の第2回目。
なお、第1回目はこちら。
「見えないほどの遠くの空を」 その1
http://29346.diarynote.jp/201106190016452359/
「見えないほどの遠くの空を」
監督・脚本:榎本憲男
撮影監督:古屋幸一
編集:石川真吾
出演:森岡龍(高橋賢)、岡本奈月(杉崎莉沙/洋子)、渡辺大知(光浦丈司)、橋本一郎(佐久間)、佐藤貴広(井上)、前野朋哉(森本)、中村無何有(山下)、桝木亜子(平川)
大きな公園の中、一本の樹の下に若い男女が座っている。その前には映画の撮影隊がいる。高橋賢(森岡龍)は、映研の仲間たちと一緒に、学生生活最後の作品「ここにいるだけ」の最後のショットを撮影しているのだ。
しかし、カットの声がかかる直前、ヒロイン役の杉崎莉沙(岡本奈月)はシナリオには書かれていない勝手な台詞をひと言口走る。その時、雨が激しく降ってきて、撮影は中断する。
撮影を再開する前日、不慮の事故によって、とつぜん莉沙は死ぬ。もともと、この映画の結末をめぐって、莉沙と賢の間には意見の対立があった。光浦(渡辺大知)に説得されて書いた賢の手紙も読まないままに莉沙は死んでしまった。最後のワンショットを撮り残したまま映画「ここにいるだけ」は完成しなかった。
そして、一年が過ぎた。ある日街で、賢は、死んでしまった莉沙にそっくりな女を見かける。おもわず後を追う賢。女との会話を重ねるうちに、やがて賢は、この女を代役に最後のショットを撮って映画を完成させようというアイディアを思いつくが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほほ引用)
さて、今日は本作「見えないほどの遠くの空を」の物語について考えていきたい。
本作では、一つの怪異が描かれている。
その怪異は、様々な作品で描かれ、最早手垢がついたような、比較的ありがちなものであることは否定出来ない。
しかしながら、その怪異の描き方と、特に脚本上の着地点が非常に素晴らしい。
当ブログでは、その怪異のなんたるかを具体的に紹介する事はしないが、興味深いのは、その怪異を二つの異なる立場から明確に描いている点である。
と言うのは、主人公である賢の立場からその怪異を描く一方、映研のメンバー側からも同時にその怪異を描いているのだ。
脚本上、つまり観客に対して制作者の意向としては、賢と言うキャラクターへの感情移入を望んでいる都合上、賢の立場から見た怪異が真実であるような印象を観客に与えている。
果たしてそれが本当の真実なのであろうか。
スティーヴン・キングの作品に「デッド・ゾーン」と言う小説がある。
デヴィッド・クローネンバーグが映画化しているのでご存知の方も多いと思う。
「デッド・ゾーン」の物語の中で、その主人公であるジョン・スミスは、上院議員であるグレッグ・スティルソンが将来、合衆国大統領になり、全世界を巻き込む全面核戦争を引き起こすきっかけとなる核ミサイルの発射ボタンを押す、と言うビジョンにとらわれる。
「デッド・ゾーン」の物語上、ジョン・スミスは、人に触れればその人の未来が見える超能力者として描かれているため、読者や観客は、ジョン・スミスのビジョン、つまりグレッグ・スティルソンは将来大統領になって核ミサイルの発射ボタンを押すこと、が真実であると思うだろう。
しかし、スティーヴン・キングは「デッド・ゾーン」の物語で、ジョン・スミスのビジョンがただの妄想なのではないか、と示唆しているのだ。
天啓や電波によって、ある人物を殺すように命令された殺人者のように。
例えば、天啓や電波によって、ある人物を殺せと命令されることと、グレッグ・スティルソンが核ミサイルのボタンを押すのを止めようとすることに、何の違いがあるのだろうか、と。
そして本作「見えないほどの遠くの空を」 は、怪異が描かれているのだが、その怪異が本当に賢が感じているような怪異なのか、はたまた映研のメンバーが感じている怪異なのか、どちらでにも解釈出来るように構成されている。
物語の表層だけを見ている人たちには、おそらく複数の解釈の余地などはなく、おそらくは、賢が感じている怪異が真実だと思っているのだろう。
そう感じている人たちにとっては、本作「見えないほどの遠くの空を」は怪異を描いた感動的な物語に見えているのだろう。
ところで、本作「見えないほどの遠くの空を」では複数の時制が描かれている。
現在(賢と莉沙が大学四年生の夏/「ここにいるだけ」撮影開始、中断)
↓
過去(賢と莉沙が大学一年生の夏/賢と莉沙の出会い)
↓
現在(莉沙が亡くなった直後)
↓
1年後(莉沙が亡くなってから1年後/賢は社会人/洋子との出会い/撮影再開)
↓
3年後(莉沙が亡くなってから4年後/賢は無職/洋子と出会ってから3年後)
ここで重要なのは、もちろん1年後の出来事と3年後の出来事である。
現在はプロローグでしかないし、過去はキャラクターの関係を描くために存在している。
従って、当然と言えば当然なのだが、1年後のパート、すなわち「ここにいるだけ」の撮影再開に向かう部分に、最も尺がさかれている。
勿論、怪異もここのパートで描かれている。
そして、多くの観客はここのパートで、感動的な物語を見ることになる。
ところで、ちょっと余談になるが、その怪異については、映画をよく観ている人たちにとっては、「ここにいるだけ」の撮影現場である樹木の下で、賢と洋子が最初に話し合う部分で、どうやらおかしいぞ、と言う事にに気付くと思う。
と言うか、どうやらおかしいぞ、と気付かせるための演出がされている。
従って、紙コップの執拗な描写は不要だったのではないかな、と思えてならないのだ。
あそこまで、執拗に描く必要はないんじゃないかな。
もしかしたら、制作サイドは、観客の想像力を少し甘く見ているのではないか、と思った。
あんなことをしなくても、観客はみんな気付いているよ、と。
そして、3年後。
賢は会社を退職している。
ところで、皆さんはフアン・ホセ・カンパネラの「瞳の奥の秘密」と言う作品を知っているだろうか。
素晴らしい作品なのだが、その作品では、25年前に妻が暴行殺害され、自らもその犯人によって重傷を負わされた銀行員リカルドが登場する。
リカルドは、犯人を探すため、記憶が定かではないのだが、3年間もの間、毎日まいにち駅に通いつめ、朝から晩まで駅の乗降客を監視していたのだ。そうリカルドは犯人を探す執念に取り憑かれているのである。
そして、本作「「見えないほどの遠くの空を」の賢は、3年後、街中で1人の女性に遭遇する。
遭遇する、と言うよりは、賢の執念でその女性に出会うことに成功した、と言う言い方も出来るだろう。
と言うのも、賢と言うキャラクターは、1年間の間、莉沙へ渡せなかった手紙を持ち歩くキャラクターとして、そして、3年間もの間、自作の「ここにいるだけ」の台本を持ち歩くキャラクターとして描かれているのだ。
そう、ある意味非常に執念深いキャラクターとして描かれている。
その賢の執念深さを表すセリフもいくつかあったように。
そして、3年後にその女性と出会う際の描写は、3年前に洋子と偶然出会った際のおずおずとした姿ではなく、確固とした、そして断固とした賢の意志の力を感じる。
正に会うべき時に会うべき人に、当然のごとく出会った、必然的に出会った、と言う印象を観客に与えているのだ。
これはもしや、賢は3年もの間ずっと、あの通りを何度も何度も歩いたのではないだろうか。
もしかしたら、賢は3年もの間、朝から晩まであの通りにいたのではないだろうか、とさえ思えてしまう。
そして、賢のその女性に対する会話や説明は、何度もなんどもシミュレーションしたかのような印象をも受けたりしてしまう。
そして、あのラストカット。
あのラストカットに映っているものには、賢の圧倒的な妄執を感じる。
正直、あのラストカットには驚いた。
わたしは、まるでシリアルサイコキラーが住んでいる部屋の壁を見ているような印象を受けたのだ。
そして、ラストカットにおいてわたしの本作「「見えないほどの遠くの空を」に対する印象は一変する。
本作「見えないほどの遠くの空を」は、ノスタルジックな青春感動物語ではなく、妄執に取り憑かれた1人の男が自滅していく姿を描いたホラー映画だったのだ、と。
機会があれば、是非劇場へ。
本作「見えないほどの遠くの空を」は圧倒的に面白い作品に仕上がっている。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
なお、第1回目はこちら。
「見えないほどの遠くの空を」 その1
http://29346.diarynote.jp/201106190016452359/
「見えないほどの遠くの空を」
監督・脚本:榎本憲男
撮影監督:古屋幸一
編集:石川真吾
出演:森岡龍(高橋賢)、岡本奈月(杉崎莉沙/洋子)、渡辺大知(光浦丈司)、橋本一郎(佐久間)、佐藤貴広(井上)、前野朋哉(森本)、中村無何有(山下)、桝木亜子(平川)
大きな公園の中、一本の樹の下に若い男女が座っている。その前には映画の撮影隊がいる。高橋賢(森岡龍)は、映研の仲間たちと一緒に、学生生活最後の作品「ここにいるだけ」の最後のショットを撮影しているのだ。
しかし、カットの声がかかる直前、ヒロイン役の杉崎莉沙(岡本奈月)はシナリオには書かれていない勝手な台詞をひと言口走る。その時、雨が激しく降ってきて、撮影は中断する。
撮影を再開する前日、不慮の事故によって、とつぜん莉沙は死ぬ。もともと、この映画の結末をめぐって、莉沙と賢の間には意見の対立があった。光浦(渡辺大知)に説得されて書いた賢の手紙も読まないままに莉沙は死んでしまった。最後のワンショットを撮り残したまま映画「ここにいるだけ」は完成しなかった。
そして、一年が過ぎた。ある日街で、賢は、死んでしまった莉沙にそっくりな女を見かける。おもわず後を追う賢。女との会話を重ねるうちに、やがて賢は、この女を代役に最後のショットを撮って映画を完成させようというアイディアを思いつくが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほほ引用)
さて、今日は本作「見えないほどの遠くの空を」の物語について考えていきたい。
本作では、一つの怪異が描かれている。
その怪異は、様々な作品で描かれ、最早手垢がついたような、比較的ありがちなものであることは否定出来ない。
しかしながら、その怪異の描き方と、特に脚本上の着地点が非常に素晴らしい。
当ブログでは、その怪異のなんたるかを具体的に紹介する事はしないが、興味深いのは、その怪異を二つの異なる立場から明確に描いている点である。
と言うのは、主人公である賢の立場からその怪異を描く一方、映研のメンバー側からも同時にその怪異を描いているのだ。
脚本上、つまり観客に対して制作者の意向としては、賢と言うキャラクターへの感情移入を望んでいる都合上、賢の立場から見た怪異が真実であるような印象を観客に与えている。
果たしてそれが本当の真実なのであろうか。
スティーヴン・キングの作品に「デッド・ゾーン」と言う小説がある。
デヴィッド・クローネンバーグが映画化しているのでご存知の方も多いと思う。
「デッド・ゾーン」の物語の中で、その主人公であるジョン・スミスは、上院議員であるグレッグ・スティルソンが将来、合衆国大統領になり、全世界を巻き込む全面核戦争を引き起こすきっかけとなる核ミサイルの発射ボタンを押す、と言うビジョンにとらわれる。
「デッド・ゾーン」の物語上、ジョン・スミスは、人に触れればその人の未来が見える超能力者として描かれているため、読者や観客は、ジョン・スミスのビジョン、つまりグレッグ・スティルソンは将来大統領になって核ミサイルの発射ボタンを押すこと、が真実であると思うだろう。
しかし、スティーヴン・キングは「デッド・ゾーン」の物語で、ジョン・スミスのビジョンがただの妄想なのではないか、と示唆しているのだ。
天啓や電波によって、ある人物を殺すように命令された殺人者のように。
例えば、天啓や電波によって、ある人物を殺せと命令されることと、グレッグ・スティルソンが核ミサイルのボタンを押すのを止めようとすることに、何の違いがあるのだろうか、と。
そして本作「見えないほどの遠くの空を」 は、怪異が描かれているのだが、その怪異が本当に賢が感じているような怪異なのか、はたまた映研のメンバーが感じている怪異なのか、どちらでにも解釈出来るように構成されている。
物語の表層だけを見ている人たちには、おそらく複数の解釈の余地などはなく、おそらくは、賢が感じている怪異が真実だと思っているのだろう。
そう感じている人たちにとっては、本作「見えないほどの遠くの空を」は怪異を描いた感動的な物語に見えているのだろう。
ところで、本作「見えないほどの遠くの空を」では複数の時制が描かれている。
現在(賢と莉沙が大学四年生の夏/「ここにいるだけ」撮影開始、中断)
↓
過去(賢と莉沙が大学一年生の夏/賢と莉沙の出会い)
↓
現在(莉沙が亡くなった直後)
↓
1年後(莉沙が亡くなってから1年後/賢は社会人/洋子との出会い/撮影再開)
↓
3年後(莉沙が亡くなってから4年後/賢は無職/洋子と出会ってから3年後)
ここで重要なのは、もちろん1年後の出来事と3年後の出来事である。
現在はプロローグでしかないし、過去はキャラクターの関係を描くために存在している。
従って、当然と言えば当然なのだが、1年後のパート、すなわち「ここにいるだけ」の撮影再開に向かう部分に、最も尺がさかれている。
勿論、怪異もここのパートで描かれている。
そして、多くの観客はここのパートで、感動的な物語を見ることになる。
ところで、ちょっと余談になるが、その怪異については、映画をよく観ている人たちにとっては、「ここにいるだけ」の撮影現場である樹木の下で、賢と洋子が最初に話し合う部分で、どうやらおかしいぞ、と言う事にに気付くと思う。
と言うか、どうやらおかしいぞ、と気付かせるための演出がされている。
従って、紙コップの執拗な描写は不要だったのではないかな、と思えてならないのだ。
あそこまで、執拗に描く必要はないんじゃないかな。
もしかしたら、制作サイドは、観客の想像力を少し甘く見ているのではないか、と思った。
あんなことをしなくても、観客はみんな気付いているよ、と。
そして、3年後。
賢は会社を退職している。
ところで、皆さんはフアン・ホセ・カンパネラの「瞳の奥の秘密」と言う作品を知っているだろうか。
素晴らしい作品なのだが、その作品では、25年前に妻が暴行殺害され、自らもその犯人によって重傷を負わされた銀行員リカルドが登場する。
リカルドは、犯人を探すため、記憶が定かではないのだが、3年間もの間、毎日まいにち駅に通いつめ、朝から晩まで駅の乗降客を監視していたのだ。そうリカルドは犯人を探す執念に取り憑かれているのである。
そして、本作「「見えないほどの遠くの空を」の賢は、3年後、街中で1人の女性に遭遇する。
遭遇する、と言うよりは、賢の執念でその女性に出会うことに成功した、と言う言い方も出来るだろう。
と言うのも、賢と言うキャラクターは、1年間の間、莉沙へ渡せなかった手紙を持ち歩くキャラクターとして、そして、3年間もの間、自作の「ここにいるだけ」の台本を持ち歩くキャラクターとして描かれているのだ。
そう、ある意味非常に執念深いキャラクターとして描かれている。
その賢の執念深さを表すセリフもいくつかあったように。
そして、3年後にその女性と出会う際の描写は、3年前に洋子と偶然出会った際のおずおずとした姿ではなく、確固とした、そして断固とした賢の意志の力を感じる。
正に会うべき時に会うべき人に、当然のごとく出会った、必然的に出会った、と言う印象を観客に与えているのだ。
これはもしや、賢は3年もの間ずっと、あの通りを何度も何度も歩いたのではないだろうか。
もしかしたら、賢は3年もの間、朝から晩まであの通りにいたのではないだろうか、とさえ思えてしまう。
そして、賢のその女性に対する会話や説明は、何度もなんどもシミュレーションしたかのような印象をも受けたりしてしまう。
そして、あのラストカット。
あのラストカットに映っているものには、賢の圧倒的な妄執を感じる。
正直、あのラストカットには驚いた。
わたしは、まるでシリアルサイコキラーが住んでいる部屋の壁を見ているような印象を受けたのだ。
そして、ラストカットにおいてわたしの本作「「見えないほどの遠くの空を」に対する印象は一変する。
本作「見えないほどの遠くの空を」は、ノスタルジックな青春感動物語ではなく、妄執に取り憑かれた1人の男が自滅していく姿を描いたホラー映画だったのだ、と。
機会があれば、是非劇場へ。
本作「見えないほどの遠くの空を」は圧倒的に面白い作品に仕上がっている。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
「見えないほどの遠くの空を」 その1
2011年6月18日 映画
2011年6月16日 東京渋谷「ヒューマントラストシネマ渋谷」で「見えないほどの遠くの空を」を観た。
「見えないほどの遠くの空を」
監督・脚本:榎本憲男
撮影監督:古屋幸一
編集:石川真吾
出演:森岡龍(高橋賢)、岡本奈月(杉崎莉沙/洋子)、渡辺大知(光浦丈司)、橋本一郎(佐久間)、佐藤貴広(井上)、前野朋哉(森本)、中村無何有(山下)、桝木亜子(平川)
大きな公園の中、一本の樹の下に若い男女が座っている。その前には映画の撮影隊がいる。高橋賢(森岡龍)は、映研の仲間たちと一緒に、学生生活最後の作品「ここにいるだけ」の最後のショットを撮影しているのだ。
しかし、カットの声がかかる直前、ヒロイン役の杉崎莉沙(岡本奈月)はシナリオには書かれていない勝手な台詞をひと言口走る。その時、雨が激しく降ってきて、撮影は中断する。
撮影を再開する前日、不慮の事故によって、とつぜん莉沙は死ぬ。もともと、この映画の結末をめぐって、莉沙と賢の間には意見の対立があった。光浦(渡辺大知)に説得されて書いた賢の手紙も読まないままに莉沙は死んでしまった。最後のワンショットを撮り残したまま映画「ここにいるだけ」は完成しなかった。
そして、一年が過ぎた。ある日街で、賢は、死んでしまった莉沙にそっくりな女を見かける。おもわず後を追う賢。女との会話を重ねるうちに、やがて賢は、この女を代役に最後のショットを撮って映画を完成させようというアイディアを思いつくが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほほ引用)
わたしは大学時代8mmフィルムで映画を撮っていた。
この作品の登場人物と同様に大学の映画研究会に属していたのだ。
そんな訳でわたしは、大学の映研を舞台にしたこの作品に、ノスタルジックな何かを期待していたのだと思う。
言い換えるならば、わたしは本作「見えないほどの遠くの空を」の物語より、雰囲気や登場人物が置かれているその環境に期待していたのかも知れない。
しかし、本作のファーストカットを視たわたしは驚愕した。
このファーストカットにより、わたしの映画的関心がむくむくと鎌首を擡げてきたのだ。
まるで映画館のスクリーンのような真っ白い何かを映すカメラ、その映像に登場人物たちの声が被る。どうやら彼らは自主制作映画の撮影をしているらしい。
監督の「よーい、スタート」の声の直後、カメラが縦パンしていくと大きな樹木が見えてくる。白かったのは空だったのだ。真っ白い映画館のスクリーンのような空。
その樹木の下に2人の人物が座って何かを話している。
そんな2人を写したカメラがどんどん引いて行くと、音声スタッフや撮影スタッフがフレームに映り込んでくる。このカメラは自主映画のカメラではなかったようだ。
そして、引ききったカメラは、カメラが切り取る映像が映るモニターと台本とを交互にチェックする人物に寄って行く。どうやらこの人物がこの自主映画の監督らしい。
ここで、縦横無尽に動いていたカメラがフィックスのカメラに切り替わる。
この信じられないように動きまわるファーストカットのおかけでわたしは、映画のスクリーンに釘付けになってしまった。
そして、もう一つ驚くべきカットがあった。
あらすじで紹介したように、突然の雨で中断した撮影が再開する予定の前夜、主演女優の莉沙が亡くなったのだ。
そして、莉沙の葬式の後、一旦部室に集まった映研の連中は、莉沙の思い出を語り始める。
しかし、賢の軽率な発言により口論が始まり、映研のメンバーは部室を後にするが、賢は忘れ物を取りに行くため部室に戻ろうとする。
賢が部室のある校舎の玄関に入ろうとするその瞬間、時間が巻き戻る。
このカットはスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のあのジャンプカットにも比肩するような素晴らしいカットだった。
まるで、スティーヴン・キングの「IT」の、
学校が、
2
終わった。
のように。
何故、こんな撮影手法的な事を書いているか、と言うと本作「見えないほどの遠くの空を」は、このような映画的興奮にも満ちていたからである。
つづく・・・・
余談だけど、ファーストカットはどうやって撮ったのだろうか。
公園の芝生の上で撮影されているのに、芝生に何の跡もない。
クレーンの限界を超越しているんじゃないかな。
スカイカム的な方法かな?
「見えないほどの遠くの空を」
監督・脚本:榎本憲男
撮影監督:古屋幸一
編集:石川真吾
出演:森岡龍(高橋賢)、岡本奈月(杉崎莉沙/洋子)、渡辺大知(光浦丈司)、橋本一郎(佐久間)、佐藤貴広(井上)、前野朋哉(森本)、中村無何有(山下)、桝木亜子(平川)
大きな公園の中、一本の樹の下に若い男女が座っている。その前には映画の撮影隊がいる。高橋賢(森岡龍)は、映研の仲間たちと一緒に、学生生活最後の作品「ここにいるだけ」の最後のショットを撮影しているのだ。
しかし、カットの声がかかる直前、ヒロイン役の杉崎莉沙(岡本奈月)はシナリオには書かれていない勝手な台詞をひと言口走る。その時、雨が激しく降ってきて、撮影は中断する。
撮影を再開する前日、不慮の事故によって、とつぜん莉沙は死ぬ。もともと、この映画の結末をめぐって、莉沙と賢の間には意見の対立があった。光浦(渡辺大知)に説得されて書いた賢の手紙も読まないままに莉沙は死んでしまった。最後のワンショットを撮り残したまま映画「ここにいるだけ」は完成しなかった。
そして、一年が過ぎた。ある日街で、賢は、死んでしまった莉沙にそっくりな女を見かける。おもわず後を追う賢。女との会話を重ねるうちに、やがて賢は、この女を代役に最後のショットを撮って映画を完成させようというアイディアを思いつくが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほほ引用)
わたしは大学時代8mmフィルムで映画を撮っていた。
この作品の登場人物と同様に大学の映画研究会に属していたのだ。
そんな訳でわたしは、大学の映研を舞台にしたこの作品に、ノスタルジックな何かを期待していたのだと思う。
言い換えるならば、わたしは本作「見えないほどの遠くの空を」の物語より、雰囲気や登場人物が置かれているその環境に期待していたのかも知れない。
しかし、本作のファーストカットを視たわたしは驚愕した。
このファーストカットにより、わたしの映画的関心がむくむくと鎌首を擡げてきたのだ。
まるで映画館のスクリーンのような真っ白い何かを映すカメラ、その映像に登場人物たちの声が被る。どうやら彼らは自主制作映画の撮影をしているらしい。
監督の「よーい、スタート」の声の直後、カメラが縦パンしていくと大きな樹木が見えてくる。白かったのは空だったのだ。真っ白い映画館のスクリーンのような空。
その樹木の下に2人の人物が座って何かを話している。
そんな2人を写したカメラがどんどん引いて行くと、音声スタッフや撮影スタッフがフレームに映り込んでくる。このカメラは自主映画のカメラではなかったようだ。
そして、引ききったカメラは、カメラが切り取る映像が映るモニターと台本とを交互にチェックする人物に寄って行く。どうやらこの人物がこの自主映画の監督らしい。
ここで、縦横無尽に動いていたカメラがフィックスのカメラに切り替わる。
この信じられないように動きまわるファーストカットのおかけでわたしは、映画のスクリーンに釘付けになってしまった。
そして、もう一つ驚くべきカットがあった。
あらすじで紹介したように、突然の雨で中断した撮影が再開する予定の前夜、主演女優の莉沙が亡くなったのだ。
そして、莉沙の葬式の後、一旦部室に集まった映研の連中は、莉沙の思い出を語り始める。
しかし、賢の軽率な発言により口論が始まり、映研のメンバーは部室を後にするが、賢は忘れ物を取りに行くため部室に戻ろうとする。
賢が部室のある校舎の玄関に入ろうとするその瞬間、時間が巻き戻る。
このカットはスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のあのジャンプカットにも比肩するような素晴らしいカットだった。
まるで、スティーヴン・キングの「IT」の、
学校が、
2
終わった。
のように。
何故、こんな撮影手法的な事を書いているか、と言うと本作「見えないほどの遠くの空を」は、このような映画的興奮にも満ちていたからである。
つづく・・・・
余談だけど、ファーストカットはどうやって撮ったのだろうか。
公園の芝生の上で撮影されているのに、芝生に何の跡もない。
クレーンの限界を超越しているんじゃないかな。
スカイカム的な方法かな?
KIRIN(キリンビール/麒麟麦酒株式会社)の「麒麟淡麗」のCF(CM)「淡麗 飲む顔は、上を向いている」篇が最高だ。
先ずは、こちらを観ていただきたい。
http://www.kirin.co.jp/about/toku/ad/TR/index.html
いかがだろう。このCMの意図が理解出来ただろうか。
「飲む顔は、上を向いている。」
なにしろ、このコピーが素晴らしい。
最初にこのCMを観たとき、不覚にも胸が熱くなってしまった。
この時期に、この素晴らしいコピーを使ってCMを制作する意図はたったひとつ。
震災からの復興あるのみだ。
この背筋を伸ばし、前方をしっかりと見据えた孤高なキリンの精神を見よ!
最近話題になったサントリーのCM「上を向いて歩こう」篇、「見上げてごらん夜の星を」篇と言うような、まったくもってふざけたCMと比較して、何十倍も素晴らしい。
「上を向いて歩こう」篇、「見上げてごらん夜の星を」篇
http://www.suntory.co.jp/enjoy/movie/l_s/corp.html?fromid=movt_corp
そして、この「淡麗 飲む顔は、上を向いている」篇は、サントリーのCMへのアンサーCMになっているし、花見自粛を訴えた東京都知事へのアンチテーゼとしても機能している。
わたしは実はサントリーモルツが大好きなのだが、これからはキリン一番搾りを飲む事にする。
先ずは、こちらを観ていただきたい。
http://www.kirin.co.jp/about/toku/ad/TR/index.html
いかがだろう。このCMの意図が理解出来ただろうか。
「飲む顔は、上を向いている。」
なにしろ、このコピーが素晴らしい。
最初にこのCMを観たとき、不覚にも胸が熱くなってしまった。
この時期に、この素晴らしいコピーを使ってCMを制作する意図はたったひとつ。
震災からの復興あるのみだ。
この背筋を伸ばし、前方をしっかりと見据えた孤高なキリンの精神を見よ!
最近話題になったサントリーのCM「上を向いて歩こう」篇、「見上げてごらん夜の星を」篇と言うような、まったくもってふざけたCMと比較して、何十倍も素晴らしい。
「上を向いて歩こう」篇、「見上げてごらん夜の星を」篇
http://www.suntory.co.jp/enjoy/movie/l_s/corp.html?fromid=movt_corp
そして、この「淡麗 飲む顔は、上を向いている」篇は、サントリーのCMへのアンサーCMになっているし、花見自粛を訴えた東京都知事へのアンチテーゼとしても機能している。
わたしは実はサントリーモルツが大好きなのだが、これからはキリン一番搾りを飲む事にする。
「原子力ポスターコンクール中止要求署名」をめぐる冒険
2011年4月30日 エッセイ/コラム2011年4月30日を締め切りとした「原子力ポスターコンクール」の中止を要求する署名活動が行われている。 http://i-wind.jp/stop_nuke/index.php
この署名活動の主旨は、例年行われている「原子力ポスターコンクール」を署名活動によって中止に追い込もう、と言うものである。
因みに「原子力ポスターコンクール」とは、文部科学省及び経済産業省資源エネルギー庁の委託を受け、財団法人日本原子力文化振興財団が運営するポスターコンクールで、そのテーマは「原子力発電や放射能に関する事」と規定されている。
対象は「子ども部門」:小学生以下、「一般部門」:中学生以上に分かれているが、応募者は小中学生が多いようである。
おそらくは学校やクラスの美術教育の一環として応募するケースが多いのではないか、と推測する事が出来る。
わたしがはじめて今回の署名活動のことを知ったのは、2011年4月20日頃の事だった。
わたしが最初に感じたのは、この「ポスターコンクール」を中止に追い込んではいけないのではないか、と言う事。
と言うのも、2011年3月11日の東日本大震災以降に、もし例年通り「原子力ポスターコンクール」が実施されたとしたら、次のようなコンセプトのポスターが集まるのでないか、と思ったためである。
1.反原発ポスター
2.海を返せ、自然を返せポスター
3.家を返せポスター
4.原発は悪くないポスター
1〜3については、誰もが想像出来るコンセプトだろうし、おそらくは現状から考えると一般的なポスターになると思う。
しかしながら、東京電力や福島第一原子力発電所で家族が働いている子ども達視点の4のポスターが数多く描かれるのではないか、と思えてならない。
現在の東京電力そして福島第一原子力発電所に対する世論の動きは苛烈である。
その苛烈な世論にさらされている子ども達の感性から、その子ども達の叫びにも似た強烈なポスターが描かれる可能性をわたしは否定する事は出来ない。
ここで、「原子力ポスターコンクール中止要求署名」に関わる「要求書」を紹介する。
http://i-wind.jp/stop_nuke/yokyusho.pdf
趣旨は次の通り。
このような状況の中、電力供給の安全性及び、「地球にやさしいエネルギー」源であることの広報及び原子力エネルギーの推進を目的とする、本コンクールの開催は、到底国民の理解が得られるものではありません。
さらに、原子力エネルギーを安全且つ「地球にやさしいエネルギー」というイメージを抱かせるこのようなコンクールに、小中学生や青少年を参加させる行為は、健全な教育の推進に悖る行為と言わざるをえません。よって本年度以降、このような趣旨のコンクール等を一切中止することを強く要求します。
因みにこの「要求書」には日付が入っていない。
いかがだろうか、私見だが「要求書」の内容のレベルの低さにがっかりする。
なお、例年この「原子力ポスターコンクール」の開催がアナウンスされるのは6月頃。
つまり、2011年については4月30日現在「原子力ポスターコンクール」の開催はアナウンスされていない。
因みに、今年の状況だが、平成23年2月28日に経済産業省資源エネルギー庁から一般競争入札が広告されている。(当初の予定では、3月24日に開札が行われる予定だった。)
つまり、今回の署名活動は、開催するとも言っていない「ポスターコンクール」の中止を求めている訳だ。
結果的にこの「ポスターコンクール」が、いざ中止となった場合、われわれの署名活動で中止に追い込んだぞ、といった流れになるのは、とっても怖いことだと思う。
繰り返しになるが、わたしは前述の1〜4のようなポスター、特に4のポスターを見てみたいと思う。
この署名活動の主旨は、例年行われている「原子力ポスターコンクール」を署名活動によって中止に追い込もう、と言うものである。
因みに「原子力ポスターコンクール」とは、文部科学省及び経済産業省資源エネルギー庁の委託を受け、財団法人日本原子力文化振興財団が運営するポスターコンクールで、そのテーマは「原子力発電や放射能に関する事」と規定されている。
対象は「子ども部門」:小学生以下、「一般部門」:中学生以上に分かれているが、応募者は小中学生が多いようである。
おそらくは学校やクラスの美術教育の一環として応募するケースが多いのではないか、と推測する事が出来る。
わたしがはじめて今回の署名活動のことを知ったのは、2011年4月20日頃の事だった。
わたしが最初に感じたのは、この「ポスターコンクール」を中止に追い込んではいけないのではないか、と言う事。
と言うのも、2011年3月11日の東日本大震災以降に、もし例年通り「原子力ポスターコンクール」が実施されたとしたら、次のようなコンセプトのポスターが集まるのでないか、と思ったためである。
1.反原発ポスター
2.海を返せ、自然を返せポスター
3.家を返せポスター
4.原発は悪くないポスター
1〜3については、誰もが想像出来るコンセプトだろうし、おそらくは現状から考えると一般的なポスターになると思う。
しかしながら、東京電力や福島第一原子力発電所で家族が働いている子ども達視点の4のポスターが数多く描かれるのではないか、と思えてならない。
現在の東京電力そして福島第一原子力発電所に対する世論の動きは苛烈である。
その苛烈な世論にさらされている子ども達の感性から、その子ども達の叫びにも似た強烈なポスターが描かれる可能性をわたしは否定する事は出来ない。
ここで、「原子力ポスターコンクール中止要求署名」に関わる「要求書」を紹介する。
http://i-wind.jp/stop_nuke/yokyusho.pdf
趣旨は次の通り。
このような状況の中、電力供給の安全性及び、「地球にやさしいエネルギー」源であることの広報及び原子力エネルギーの推進を目的とする、本コンクールの開催は、到底国民の理解が得られるものではありません。
さらに、原子力エネルギーを安全且つ「地球にやさしいエネルギー」というイメージを抱かせるこのようなコンクールに、小中学生や青少年を参加させる行為は、健全な教育の推進に悖る行為と言わざるをえません。よって本年度以降、このような趣旨のコンクール等を一切中止することを強く要求します。
因みにこの「要求書」には日付が入っていない。
いかがだろうか、私見だが「要求書」の内容のレベルの低さにがっかりする。
なお、例年この「原子力ポスターコンクール」の開催がアナウンスされるのは6月頃。
つまり、2011年については4月30日現在「原子力ポスターコンクール」の開催はアナウンスされていない。
因みに、今年の状況だが、平成23年2月28日に経済産業省資源エネルギー庁から一般競争入札が広告されている。(当初の予定では、3月24日に開札が行われる予定だった。)
つまり、今回の署名活動は、開催するとも言っていない「ポスターコンクール」の中止を求めている訳だ。
結果的にこの「ポスターコンクール」が、いざ中止となった場合、われわれの署名活動で中止に追い込んだぞ、といった流れになるのは、とっても怖いことだと思う。
繰り返しになるが、わたしは前述の1〜4のようなポスター、特に4のポスターを見てみたいと思う。
[Todoke!]をめぐる冒険
2011年4月4日 エッセイところで、みなさん、[Todoke!]と言うプロジェクトはご存知だろうか。
新聞やテレビ、WEB上で喧伝されているので、多くの人たちはご存知ではないだろうか。
もしかしたら、既に協力している人たちもいるのかも知れない。
[Todoke!]
http://todoke.org/
[Todoke!]のコンセプトはオフィシャル・サイトによると、
1.届けたい物を選んでクリック
被災地のニーズをもとに、下記の支援物資を選びました。賛同される方は「届け!」ボタンをクリックし、ツイートしてください。
2.あなたの想いを企業に届ける
リツイート数やコメントを皆さんの声として企業に届けます。多くの皆さんの声で、企業を後押しして下さい。
3.被災地に物資を届ける
企業にご提供いただいた物資を、運送会社様のご協力のもと、現地の行政機関と連絡を取りつつ速やかに被災地に届けます。
と言うものである。
つまり、ツイッターでリツイートされた数により、その支援物資のメーカー企業に物資の提供を要望し、その物資を運送会社の協力のもと、被災地に送る、と言うブロジェクトである。
このプロジェクトの内容を知り、わたしは釈然としない気持ちになってしまった。
果たして、これは本当に良い事なのだろうか、と。
もしかして、数の暴力による支援物資の提供の強要になってしまうのではないだろうか、と。
勿論、[Todoke!]を運営している人たちは善意で行動しているだろうと思うし、このプロジェクトに賛同し、リツイートしている人たちも善意でツイートしているのだと思う。
だからと言って、本当に良い事なのだろうか。
善意のツイートは時には恐ろしいものだから。
一番不安に思うのは、従来の署名活動等にあるように、「こんなに多くの人々がこれを求めています。だからあなたはこれをすべきです」と、そうすることを人や企業に強要し、そうしてくれない人や企業をマスメディアを使って攻撃する、と言う図式です。
勿論、[Todoke!]の運営チームはそんなことはしないと思いますが、リツイートした人たちは何の責任も持たない一般大衆であるのが怖いのです。
しかもその一般大衆は全てツイッターのユーザーなのです。
『[Todoke!]プロジェクトに賛同したのに、あの企業、物資の提供を断ったんだって』
例えば、こんなツイートを誰かが発信したとしたら、それはあっと言う間に拡散してしまいます。
それが本当であろうとデマであろうと。
なぜなら、[Todoke!]と自分は善であり、[Todoke!]の要望を断った企業は悪である、と言う図式は非常に簡単で、しかも大きな力を持っているからです。
ところで、この[Todoke!]運営チームのメンバーは、現在公になっているだけで、プログラマー(2名)、編集者、弁護士、デザイナー、表現研究者、コフレ・プロジェクトが名を連ねています。
つまり、この[Todoke!]プロジェクトのコンセプトからすると、素人の集団だと言う事だと言えます。
つまり専門家がいない状態でアイディアだけが先行し、動き始めてしまったプロジェクトだと言えると思います。(とは言うもののサイトの更新は半月位滞っており、WEBで公開されている情報は最新のものかどうかわかりません)
おそらく、この[Todoke!]プロジェクトの法務関係は弁護士が担当するのだと思いますが、法的には合法だとしても、基本的にお金を集める手段がないので、全てお金は持ち出しでボランティアで活動をしているのだと思います。
交通費もサーバーの運営費も、WEBの開発費用も、企業との交渉費用も持ち出しです。
これはこれで頭が下がる事なのですが、それはそれで良いのでしょうか。
ところで、この[Todoke!]プロジェクトに似たシステムに、【たのみこむ】だとか、【グルーポン】とか【ドリパス】とかありますが、これらはビジネスモデルとして優れていると思います。
つまり、これらのシステムでは、そのプロジェクトに賛同する人たちは声も出すけど、当然ながらお金も出す、と言うシステムになっているのです。
つまり、ビジネスとして成り立っているのです。
そして、[Todoke!]プロジェクトは、声を出すのは一般のツイッターのユーザーで、お金を出すのは支援物資のメーカー企業や商材として扱っている企業、そして支援物資を被災地に運ぶ運送会社です。
わたしには、[Todoke!]プロジェクトは、ちょっと歪んだプロジェクトに見えてなりません。
つまり、これはビジネスにはなっていないのです。
そこで、わたしが考えるのは、そのプロジェクトに賛同しリツイートする一般大衆にも責任を負わせる必要があるのではないか、と言う事です。
声は出すけどお金は出さないツイッターのユーザーと、お金を出す企業のバランスが歪んでいる、と言わざるを得ません。
例えば、1リツイート100円でも良いので、寄付金や義援金を集め、そのお金を集めて企業と交渉すべきではないか、と思えてなりません。
自分は1円も出さないのに、企業に金を出させ、企業に支援物資を提供させ、企業に支援物資を運ばせるのは、わたしにとっては非常に虫がよい、と思えてならないのです。
そんな事を考えてるのはわたしだけでしょうか。
追記:書き忘れてました。
[Todoke!]プロジェクトは、リツイートが集まった時点で支援物資のメーカーと交渉すると言うシステムでした。
以下引用します。
【先に申し上げておくと、こちらで紹介する企業には、まだ協力の意思確認はしていません。】
新聞やテレビ、WEB上で喧伝されているので、多くの人たちはご存知ではないだろうか。
もしかしたら、既に協力している人たちもいるのかも知れない。
[Todoke!]
http://todoke.org/
[Todoke!]のコンセプトはオフィシャル・サイトによると、
1.届けたい物を選んでクリック
被災地のニーズをもとに、下記の支援物資を選びました。賛同される方は「届け!」ボタンをクリックし、ツイートしてください。
2.あなたの想いを企業に届ける
リツイート数やコメントを皆さんの声として企業に届けます。多くの皆さんの声で、企業を後押しして下さい。
3.被災地に物資を届ける
企業にご提供いただいた物資を、運送会社様のご協力のもと、現地の行政機関と連絡を取りつつ速やかに被災地に届けます。
と言うものである。
つまり、ツイッターでリツイートされた数により、その支援物資のメーカー企業に物資の提供を要望し、その物資を運送会社の協力のもと、被災地に送る、と言うブロジェクトである。
このプロジェクトの内容を知り、わたしは釈然としない気持ちになってしまった。
果たして、これは本当に良い事なのだろうか、と。
もしかして、数の暴力による支援物資の提供の強要になってしまうのではないだろうか、と。
勿論、[Todoke!]を運営している人たちは善意で行動しているだろうと思うし、このプロジェクトに賛同し、リツイートしている人たちも善意でツイートしているのだと思う。
だからと言って、本当に良い事なのだろうか。
善意のツイートは時には恐ろしいものだから。
一番不安に思うのは、従来の署名活動等にあるように、「こんなに多くの人々がこれを求めています。だからあなたはこれをすべきです」と、そうすることを人や企業に強要し、そうしてくれない人や企業をマスメディアを使って攻撃する、と言う図式です。
勿論、[Todoke!]の運営チームはそんなことはしないと思いますが、リツイートした人たちは何の責任も持たない一般大衆であるのが怖いのです。
しかもその一般大衆は全てツイッターのユーザーなのです。
『[Todoke!]プロジェクトに賛同したのに、あの企業、物資の提供を断ったんだって』
例えば、こんなツイートを誰かが発信したとしたら、それはあっと言う間に拡散してしまいます。
それが本当であろうとデマであろうと。
なぜなら、[Todoke!]と自分は善であり、[Todoke!]の要望を断った企業は悪である、と言う図式は非常に簡単で、しかも大きな力を持っているからです。
ところで、この[Todoke!]運営チームのメンバーは、現在公になっているだけで、プログラマー(2名)、編集者、弁護士、デザイナー、表現研究者、コフレ・プロジェクトが名を連ねています。
つまり、この[Todoke!]プロジェクトのコンセプトからすると、素人の集団だと言う事だと言えます。
つまり専門家がいない状態でアイディアだけが先行し、動き始めてしまったプロジェクトだと言えると思います。(とは言うもののサイトの更新は半月位滞っており、WEBで公開されている情報は最新のものかどうかわかりません)
おそらく、この[Todoke!]プロジェクトの法務関係は弁護士が担当するのだと思いますが、法的には合法だとしても、基本的にお金を集める手段がないので、全てお金は持ち出しでボランティアで活動をしているのだと思います。
交通費もサーバーの運営費も、WEBの開発費用も、企業との交渉費用も持ち出しです。
これはこれで頭が下がる事なのですが、それはそれで良いのでしょうか。
ところで、この[Todoke!]プロジェクトに似たシステムに、【たのみこむ】だとか、【グルーポン】とか【ドリパス】とかありますが、これらはビジネスモデルとして優れていると思います。
つまり、これらのシステムでは、そのプロジェクトに賛同する人たちは声も出すけど、当然ながらお金も出す、と言うシステムになっているのです。
つまり、ビジネスとして成り立っているのです。
そして、[Todoke!]プロジェクトは、声を出すのは一般のツイッターのユーザーで、お金を出すのは支援物資のメーカー企業や商材として扱っている企業、そして支援物資を被災地に運ぶ運送会社です。
わたしには、[Todoke!]プロジェクトは、ちょっと歪んだプロジェクトに見えてなりません。
つまり、これはビジネスにはなっていないのです。
そこで、わたしが考えるのは、そのプロジェクトに賛同しリツイートする一般大衆にも責任を負わせる必要があるのではないか、と言う事です。
声は出すけどお金は出さないツイッターのユーザーと、お金を出す企業のバランスが歪んでいる、と言わざるを得ません。
例えば、1リツイート100円でも良いので、寄付金や義援金を集め、そのお金を集めて企業と交渉すべきではないか、と思えてなりません。
自分は1円も出さないのに、企業に金を出させ、企業に支援物資を提供させ、企業に支援物資を運ばせるのは、わたしにとっては非常に虫がよい、と思えてならないのです。
そんな事を考えてるのはわたしだけでしょうか。
追記:書き忘れてました。
[Todoke!]プロジェクトは、リツイートが集まった時点で支援物資のメーカーと交渉すると言うシステムでした。
以下引用します。
【先に申し上げておくと、こちらで紹介する企業には、まだ協力の意思確認はしていません。】
災害派遣車輌をめぐる冒険
2011年3月14日 日常
2011年3月13日
環状八号線と国道254号の交差点(埼玉県和光市と東京都板橋区の境界)付近を散歩がてら歩いていた。
付近の複数のガソリンスタンドでは、ガソリンが売り切れ、ハイオクガソリンと軽油だけが売られている。
そんな中、気が付いたのだが、環状八号線の歩道に陸上自衛隊員が一定の間隔をあけて立っているのだ。
何をしているのかな、と思いながら、環状八号線を南下していくと、南の方から災害派遣の表示をした陸上自衛隊の車輌が何台も何台も北上してきた。
その時わたしは、先日ツイッター上で目にした、 @merimacco さん( http://twitter.com/#!/merimacco )のこんなツイートを思い出した。
環状八号線にて、大量の救急車と消防車とすれ違う。なんだなんだと思って見ていると、「鳥取西部」と書いてある。一般道通って被災地へ向かっているんだ!胸が熱くなって ゾクッとした。リアルに触れてまた涙が出た。我々一家、声に出して支援せずにはいられなかった。
http://twitter.com/#!/merimacco/status/46757244066467840
そのあどけない表情をした陸上自衛隊員は、災害派遣の車輌を見つけると居住まいをただし、しゃんと背筋を伸ばしてきぱきと車輌の誘導を始めた。
そんな中、わたしは複数の自衛隊員に話しかけてみた。
Q「災害派遣の車輌はどこから来ているんですか?」
A「今走っているのは九州の部隊です。」
Q「どこに向かっているんですか?」
A「一旦、朝霞駐屯地に集結し被災地に向かいます。」
Q「今日は朝から立っているんですか?」
A「ふっ(笑)、そうですね。」
災害派遣の車輌には、兵員輸送用の車輌、タンクを牽引した車輌、装甲車のような車輌、クレーン車を積んだ車輌、4艘のボートを牽引した車輌、様々な車輌が走っていた。
九州から陸送で東北へ向かう。
兵員輸送のトラックでの移動は苦痛だろう。
それだけでも大変な事だと思う。
それを事も無げにあっけらかんと、当り前の事のように語っていた。
わたしはそんな会話を交わすだけで涙がこぼれ、思わず握手を求めていた。
聞くところによると、警察官、消防隊員、自衛隊員らは家族や親戚を優先しない、と言う誓約を結んでいるらしい。
彼らは、家族や親戚が被災地にいようがいまいが、仮に瀕死の状況にあろうが、見ず知らずの我々のために命がけで働いているのだ。
当り前だろ、それが仕事だ、その仕事を選んだろうよ、と考える人もいるだろうが、わたしは彼らの行動に頭を下げずにいられない。
出来る事ならば、一人でも多くの命を救って欲しい。
環状八号線と国道254号の交差点(埼玉県和光市と東京都板橋区の境界)付近を散歩がてら歩いていた。
付近の複数のガソリンスタンドでは、ガソリンが売り切れ、ハイオクガソリンと軽油だけが売られている。
そんな中、気が付いたのだが、環状八号線の歩道に陸上自衛隊員が一定の間隔をあけて立っているのだ。
何をしているのかな、と思いながら、環状八号線を南下していくと、南の方から災害派遣の表示をした陸上自衛隊の車輌が何台も何台も北上してきた。
その時わたしは、先日ツイッター上で目にした、 @merimacco さん( http://twitter.com/#!/merimacco )のこんなツイートを思い出した。
環状八号線にて、大量の救急車と消防車とすれ違う。なんだなんだと思って見ていると、「鳥取西部」と書いてある。一般道通って被災地へ向かっているんだ!胸が熱くなって ゾクッとした。リアルに触れてまた涙が出た。我々一家、声に出して支援せずにはいられなかった。
http://twitter.com/#!/merimacco/status/46757244066467840
そのあどけない表情をした陸上自衛隊員は、災害派遣の車輌を見つけると居住まいをただし、しゃんと背筋を伸ばしてきぱきと車輌の誘導を始めた。
そんな中、わたしは複数の自衛隊員に話しかけてみた。
Q「災害派遣の車輌はどこから来ているんですか?」
A「今走っているのは九州の部隊です。」
Q「どこに向かっているんですか?」
A「一旦、朝霞駐屯地に集結し被災地に向かいます。」
Q「今日は朝から立っているんですか?」
A「ふっ(笑)、そうですね。」
災害派遣の車輌には、兵員輸送用の車輌、タンクを牽引した車輌、装甲車のような車輌、クレーン車を積んだ車輌、4艘のボートを牽引した車輌、様々な車輌が走っていた。
九州から陸送で東北へ向かう。
兵員輸送のトラックでの移動は苦痛だろう。
それだけでも大変な事だと思う。
それを事も無げにあっけらかんと、当り前の事のように語っていた。
わたしはそんな会話を交わすだけで涙がこぼれ、思わず握手を求めていた。
聞くところによると、警察官、消防隊員、自衛隊員らは家族や親戚を優先しない、と言う誓約を結んでいるらしい。
彼らは、家族や親戚が被災地にいようがいまいが、仮に瀕死の状況にあろうが、見ず知らずの我々のために命がけで働いているのだ。
当り前だろ、それが仕事だ、その仕事を選んだろうよ、と考える人もいるだろうが、わたしは彼らの行動に頭を下げずにいられない。
出来る事ならば、一人でも多くの命を救って欲しい。
2011.3.11 その1
2011年3月13日 日常被災された方々、そしてそのご家族に、心よりお見舞い申し上げます。
2011年3月11日 14時46分頃
太平洋三陸沖を震源として、マグニチュード8.8の地震が東北から関東を襲った。
その地震は後に気象庁により「東北地方太平洋沖地震」と命名される。
当時、わたしは東京都文京区にあるビルの9Fにいた。
文京区は比較的低い建物が多く、そのビルも交差点付近の道路側、低い建物に囲まれている。
勿論その関係があるのか、それとも免震構造なのか、そのビルは強い風が吹いても結構揺れるビルだった。
来客中だったわたしは、揺れを感じた客に対し、「いやあ、このビル結構揺れるんですよね」とか言いながら、何気なく立ち上がり、ドアのフレームが歪んで出られなくなるのを防ぐため会議室のドアを解放した。
後の報道によると、東京では震度5の揺れがその後5分間程続いたらしいのだが、わたしの感覚ではビルはいつまでも揺れ続け、その時間は10分にも15分にも感じられた。
そしてその揺れはまるで船にでも乗っているような横揺れだった。
わたしは、会議室のドアを開けた状態でドアが閉じないように保持している、と言うよりは、ドアとドアのフレームの間でドアにしがみついて、揺れに合わせてドアのフレーム内を行ったり来たりしているような状況であった。
そうしているうちに、社内のそこここからは小さな悲鳴が聞こえはじめ、いろいろものが床に落ち、何かが割れるような音が聞こえてきた。
第一波の地震が収まった時点で、ビルのエレベータは停止し、わたしは非常階段のドアを解放した。先ほどと同様に、来るべき余震によって、ドアのフレームが潰れてしまい、建物の中に閉じ込められてしまうのを避けるためである。
幸いな事にエレベータ内に閉じ込められた人は居なかったのだが、ビルの管理会社とエレベータの管理会社によると、都内でも数百数千のエレベータが停止しており、多くの人がエレベータ内に閉じ込められていたようである。
エレベータの点検修理は、人が閉じ込められているエレベータを優先にしているので、今日中には修理に伺えない、との話であった。
都内の電車は全て不通。
足止めを食らった客と一緒に会議室のテレビをつけた。
電話も携帯電話もほぼ不通。
インターネット回線は生きているが、携帯メールは遅延しているような状況。
メールや電話で、本社外から続々と安否確認の連絡が入るが、通信が不安定で確実な状況はわからない。
そうこうしているうちに、余震による転落防止のため床に移したテレビが東北地方の被害の様子を放送し始めた。
皆さんご承知の通り、被害状況は想像を超えていた。
しかしながら、会社に缶詰になった状態で余震を受けつつ待機していると、震度3とか震度4程度の揺れには慣れてしまったし、東北地方の被害状況の映像にも慣れてしまい、麻痺が始まっていた。
これは恐ろしい事だと思った。
つづく・・・・
2011年3月11日 14時46分頃
太平洋三陸沖を震源として、マグニチュード8.8の地震が東北から関東を襲った。
その地震は後に気象庁により「東北地方太平洋沖地震」と命名される。
当時、わたしは東京都文京区にあるビルの9Fにいた。
文京区は比較的低い建物が多く、そのビルも交差点付近の道路側、低い建物に囲まれている。
勿論その関係があるのか、それとも免震構造なのか、そのビルは強い風が吹いても結構揺れるビルだった。
来客中だったわたしは、揺れを感じた客に対し、「いやあ、このビル結構揺れるんですよね」とか言いながら、何気なく立ち上がり、ドアのフレームが歪んで出られなくなるのを防ぐため会議室のドアを解放した。
後の報道によると、東京では震度5の揺れがその後5分間程続いたらしいのだが、わたしの感覚ではビルはいつまでも揺れ続け、その時間は10分にも15分にも感じられた。
そしてその揺れはまるで船にでも乗っているような横揺れだった。
わたしは、会議室のドアを開けた状態でドアが閉じないように保持している、と言うよりは、ドアとドアのフレームの間でドアにしがみついて、揺れに合わせてドアのフレーム内を行ったり来たりしているような状況であった。
そうしているうちに、社内のそこここからは小さな悲鳴が聞こえはじめ、いろいろものが床に落ち、何かが割れるような音が聞こえてきた。
第一波の地震が収まった時点で、ビルのエレベータは停止し、わたしは非常階段のドアを解放した。先ほどと同様に、来るべき余震によって、ドアのフレームが潰れてしまい、建物の中に閉じ込められてしまうのを避けるためである。
幸いな事にエレベータ内に閉じ込められた人は居なかったのだが、ビルの管理会社とエレベータの管理会社によると、都内でも数百数千のエレベータが停止しており、多くの人がエレベータ内に閉じ込められていたようである。
エレベータの点検修理は、人が閉じ込められているエレベータを優先にしているので、今日中には修理に伺えない、との話であった。
都内の電車は全て不通。
足止めを食らった客と一緒に会議室のテレビをつけた。
電話も携帯電話もほぼ不通。
インターネット回線は生きているが、携帯メールは遅延しているような状況。
メールや電話で、本社外から続々と安否確認の連絡が入るが、通信が不安定で確実な状況はわからない。
そうこうしているうちに、余震による転落防止のため床に移したテレビが東北地方の被害の様子を放送し始めた。
皆さんご承知の通り、被害状況は想像を超えていた。
しかしながら、会社に缶詰になった状態で余震を受けつつ待機していると、震度3とか震度4程度の揺れには慣れてしまったし、東北地方の被害状況の映像にも慣れてしまい、麻痺が始まっていた。
これは恐ろしい事だと思った。
つづく・・・・
「第83回アカデミー賞」予想結果
2011年3月8日 映画で、予想の結果です。
ルールは、例年通り、本命と対抗をあげて、本命があたれば3点、対抗が当たれば1点だったたかな。
【作品賞】
「127時間」
「インセプション」
「Winter’s Bone」
「英国王のスピーチ」
「キッズ・オールライト」
「ソーシャル・ネットワーク」
「ザ・ファイター」
「ブラック・スワン」
「トイ・ストーリー3」
「トゥルー・グリット」
本命:「英国王のスピーチ」
対抗:「ソーシャル・ネットワーク」
結果:「英国王のスピーチ」
あたり(本命):3点
【監督賞】
ダーレン・アロノフスキー(「ブラック・スワン」)
ジョエル&イーサン・コーエン(「トゥルー・グリット」)
デビッド・フィンチャー(「ソーシャル・ネットワーク」)
トム・フーパー(「英国王のスピーチ」)
デビッド・O・ラッセル(「ザ・ファイター」)
本命:トム・フーパー
対抗:デビッド・フィンチャー
結果:トム・フーパー
あたり(本命):3点 計6点
【主演男優賞】
コリン・ファース(「英国王のスピーチ」)
ジェームズ・フランコ(「127時間」)
ジェフ・ブリッジス(「トゥルー・グリット」)
ジェシー・アイゼンバーグ(「ソーシャル・ネットワーク」)
ビエル・バルデム(「ビューティフル BIUTIFUL」)
本命:コリン・ファース
対抗:ジェイムズ・フランコ
結果:コリン・ファース
あたり(本命):3点 計9点
【主演女優賞】
アネット・ベニング(「キッズ・オールライト」)
ニコール・キッドマン(「Rabbit Hole」)
ジェニファー・ローレンス(「Winter’s Bone」)
ナタリー・ポートマン(「ブラック・スワン」)
ミシェル・ウィリアムズ(「ブルーバレンタイン」)
本命:ナタリー・ポートマン
対抗:ニコール・キッドマン
結果:ナタリー・ポートマン
あたり(本命):3点 計12点
【助演男優賞】
ジェフリー・ラッシュ(「英国王のスピーチ」)
クリスチャン・ベイル(「ザ・ファイター」)
ジェレミー・レナー(「ザ・タウン」)
マーク・ラファロ(「キッズ・オールライト」)
ジョン・ホークス(「Winter’s Bone」)
本命:ジェフリー・ラッシュ
対抗:クリスチャン・ベイル
結果:クリスチャン・ベイル
あたり(対抗):1点 計13点
【助演女優賞】
エイミー・アダムス(「ザ・ファイター」)
ヘレナ・ボナム・カーター(「英国王のスピーチ」)
メリッサ・レオ(「ザ・ファイター」)
ヘイリー・スタインフェルド(「トゥルー・グリット」)
ジャッキー・ウィーバー (「Animal Kingdom」)
本命:メリッサ・レオ
対抗:ヘイリー・スタインフェルド
結果:メリッサ・レオ
あたり(本命):3点 計16点
以上です。
今年は固かったので、ほとんどあたりました。
ルールは、例年通り、本命と対抗をあげて、本命があたれば3点、対抗が当たれば1点だったたかな。
【作品賞】
「127時間」
「インセプション」
「Winter’s Bone」
「英国王のスピーチ」
「キッズ・オールライト」
「ソーシャル・ネットワーク」
「ザ・ファイター」
「ブラック・スワン」
「トイ・ストーリー3」
「トゥルー・グリット」
本命:「英国王のスピーチ」
対抗:「ソーシャル・ネットワーク」
結果:「英国王のスピーチ」
あたり(本命):3点
【監督賞】
ダーレン・アロノフスキー(「ブラック・スワン」)
ジョエル&イーサン・コーエン(「トゥルー・グリット」)
デビッド・フィンチャー(「ソーシャル・ネットワーク」)
トム・フーパー(「英国王のスピーチ」)
デビッド・O・ラッセル(「ザ・ファイター」)
本命:トム・フーパー
対抗:デビッド・フィンチャー
結果:トム・フーパー
あたり(本命):3点 計6点
【主演男優賞】
コリン・ファース(「英国王のスピーチ」)
ジェームズ・フランコ(「127時間」)
ジェフ・ブリッジス(「トゥルー・グリット」)
ジェシー・アイゼンバーグ(「ソーシャル・ネットワーク」)
ビエル・バルデム(「ビューティフル BIUTIFUL」)
本命:コリン・ファース
対抗:ジェイムズ・フランコ
結果:コリン・ファース
あたり(本命):3点 計9点
【主演女優賞】
アネット・ベニング(「キッズ・オールライト」)
ニコール・キッドマン(「Rabbit Hole」)
ジェニファー・ローレンス(「Winter’s Bone」)
ナタリー・ポートマン(「ブラック・スワン」)
ミシェル・ウィリアムズ(「ブルーバレンタイン」)
本命:ナタリー・ポートマン
対抗:ニコール・キッドマン
結果:ナタリー・ポートマン
あたり(本命):3点 計12点
【助演男優賞】
ジェフリー・ラッシュ(「英国王のスピーチ」)
クリスチャン・ベイル(「ザ・ファイター」)
ジェレミー・レナー(「ザ・タウン」)
マーク・ラファロ(「キッズ・オールライト」)
ジョン・ホークス(「Winter’s Bone」)
本命:ジェフリー・ラッシュ
対抗:クリスチャン・ベイル
結果:クリスチャン・ベイル
あたり(対抗):1点 計13点
【助演女優賞】
エイミー・アダムス(「ザ・ファイター」)
ヘレナ・ボナム・カーター(「英国王のスピーチ」)
メリッサ・レオ(「ザ・ファイター」)
ヘイリー・スタインフェルド(「トゥルー・グリット」)
ジャッキー・ウィーバー (「Animal Kingdom」)
本命:メリッサ・レオ
対抗:ヘイリー・スタインフェルド
結果:メリッサ・レオ
あたり(本命):3点 計16点
以上です。
今年は固かったので、ほとんどあたりました。
「第83回アカデミー賞」予想
2011年2月27日 映画お約束ですが、「第83回アカデミー賞」主要6賞の予想です。
ルールは、例年通り、本命と対抗をあげて、本命があたれば3点、対抗が当たれば1点だったたかな。
明日は仕事をお休みして朝から生で授賞式を見ようかとおもっていたのですが、休めなくなりました。残念。
テキストは秋林瑞佳さんところ( http://akirine.diarynote.jp/201102271926047628/ )からコピーしました。ごめんなさい。
【作品賞】
「127時間」
「インセプション」
「Winter’s Bone」
「英国王のスピーチ」
「キッズ・オールライト」
「ソーシャル・ネットワーク」
「ザ・ファイター」
「ブラック・スワン」
「トイ・ストーリー3」
「トゥルー・グリット」
本命:「英国王のスピーチ」
対抗:「ソーシャル・ネットワーク」
両方観たけど、個人的には「ソーシャル・ネットワーク」だが、年取った会員は「英国王のスピーチ」に入れると思うので「英国王のスピーチ」。
「英国王のスピーチ」は普通の映画だと思うよ。
【監督賞】
ダーレン・アロノフスキー(「ブラック・スワン」)
ジョエル&イーサン・コーエン(「トゥルー・グリット」)
デビッド・フィンチャー(「ソーシャル・ネットワーク」)
トム・フーパー(「英国王のスピーチ」)
デビッド・O・ラッセル(「ザ・ファイター」)
本命:トム・フーパー
対抗:デビッド・フィンチャー
これもさっきと同じ理由。
年取った会員票が「英国王のスピーチ」に流れると予想。
【主演男優賞】
コリン・ファース(「英国王のスピーチ」)
ジェームズ・フランコ(「127時間」)
ジェフ・ブリッジス(「トゥルー・グリット」)
ジェシー・アイゼンバーグ(「ソーシャル・ネットワーク」)
ビエル・バルデム(「ビューティフル BIUTIFUL」)
本命:コリン・ファース
対抗:ジェイムズ・フランコ
これは本当はジェイムズ・フランコだと思うけど、流れは「英国王のスピーチ」かと。
でもジェイムズ・フランコ来るかな。来たら面白いんだけどね。
コリン・ファームの受賞スピーチが笑えるはず。
【主演女優賞】
アネット・ベニング(「キッズ・オールライト」)
ニコール・キッドマン(「Rabbit Hole」)
ジェニファー・ローレンス(「Winter’s Bone」)
ナタリー・ポートマン(「ブラック・スワン」)
ミシェル・ウィリアムズ(「ブルーバレンタイン」)
本命:ナタリー・ポートマン
対抗:ニコール・キッドマン
これはナタリー・ポートマンでしょ。
対抗はわかりませんので、取りあえずにコール・キッドマンで。
【助演男優賞】
ジェフリー・ラッシュ(「英国王のスピーチ」)
クリスチャン・ベイル(「ザ・ファイター」)
ジェレミー・レナー(「ザ・タウン」)
マーク・ラファロ(「キッズ・オールライト」)
ジョン・ホークス(「Winter’s Bone」)
本命:ジェフリー・ラッシュ
対抗:クリスチャン・ベイル
クリスチャン・ベイルの前評判が高いけど、ジェフリー・ラッシュでしょ、多分。
【助演女優賞】
エイミー・アダムス(「ザ・ファイター」)
ヘレナ・ボナム・カーター(「英国王のスピーチ」)
メリッサ・レオ(「ザ・ファイター」)
ヘイリー・スタインフェルド(「トゥルー・グリット」)
ジャッキー・ウィーバー (「Animal Kingdom」)
本命:メリッサ・レオ
対抗:ヘイリー・スタインフェルド
ヘレナ・ボナム・カーターは無いと思うので、「ザ・ファイター」からメリッサ・レオを入れておく。
まだ14歳のヘイリー・スタインフェルドがスピーチするのを見てみたいので、対抗に入れておく。
今年はサプライズなさそうで、めちゃくちゃ固そうな感じですね。
ルールは、例年通り、本命と対抗をあげて、本命があたれば3点、対抗が当たれば1点だったたかな。
明日は仕事をお休みして朝から生で授賞式を見ようかとおもっていたのですが、休めなくなりました。残念。
テキストは秋林瑞佳さんところ( http://akirine.diarynote.jp/201102271926047628/ )からコピーしました。ごめんなさい。
【作品賞】
「127時間」
「インセプション」
「Winter’s Bone」
「英国王のスピーチ」
「キッズ・オールライト」
「ソーシャル・ネットワーク」
「ザ・ファイター」
「ブラック・スワン」
「トイ・ストーリー3」
「トゥルー・グリット」
本命:「英国王のスピーチ」
対抗:「ソーシャル・ネットワーク」
両方観たけど、個人的には「ソーシャル・ネットワーク」だが、年取った会員は「英国王のスピーチ」に入れると思うので「英国王のスピーチ」。
「英国王のスピーチ」は普通の映画だと思うよ。
【監督賞】
ダーレン・アロノフスキー(「ブラック・スワン」)
ジョエル&イーサン・コーエン(「トゥルー・グリット」)
デビッド・フィンチャー(「ソーシャル・ネットワーク」)
トム・フーパー(「英国王のスピーチ」)
デビッド・O・ラッセル(「ザ・ファイター」)
本命:トム・フーパー
対抗:デビッド・フィンチャー
これもさっきと同じ理由。
年取った会員票が「英国王のスピーチ」に流れると予想。
【主演男優賞】
コリン・ファース(「英国王のスピーチ」)
ジェームズ・フランコ(「127時間」)
ジェフ・ブリッジス(「トゥルー・グリット」)
ジェシー・アイゼンバーグ(「ソーシャル・ネットワーク」)
ビエル・バルデム(「ビューティフル BIUTIFUL」)
本命:コリン・ファース
対抗:ジェイムズ・フランコ
これは本当はジェイムズ・フランコだと思うけど、流れは「英国王のスピーチ」かと。
でもジェイムズ・フランコ来るかな。来たら面白いんだけどね。
コリン・ファームの受賞スピーチが笑えるはず。
【主演女優賞】
アネット・ベニング(「キッズ・オールライト」)
ニコール・キッドマン(「Rabbit Hole」)
ジェニファー・ローレンス(「Winter’s Bone」)
ナタリー・ポートマン(「ブラック・スワン」)
ミシェル・ウィリアムズ(「ブルーバレンタイン」)
本命:ナタリー・ポートマン
対抗:ニコール・キッドマン
これはナタリー・ポートマンでしょ。
対抗はわかりませんので、取りあえずにコール・キッドマンで。
【助演男優賞】
ジェフリー・ラッシュ(「英国王のスピーチ」)
クリスチャン・ベイル(「ザ・ファイター」)
ジェレミー・レナー(「ザ・タウン」)
マーク・ラファロ(「キッズ・オールライト」)
ジョン・ホークス(「Winter’s Bone」)
本命:ジェフリー・ラッシュ
対抗:クリスチャン・ベイル
クリスチャン・ベイルの前評判が高いけど、ジェフリー・ラッシュでしょ、多分。
【助演女優賞】
エイミー・アダムス(「ザ・ファイター」)
ヘレナ・ボナム・カーター(「英国王のスピーチ」)
メリッサ・レオ(「ザ・ファイター」)
ヘイリー・スタインフェルド(「トゥルー・グリット」)
ジャッキー・ウィーバー (「Animal Kingdom」)
本命:メリッサ・レオ
対抗:ヘイリー・スタインフェルド
ヘレナ・ボナム・カーターは無いと思うので、「ザ・ファイター」からメリッサ・レオを入れておく。
まだ14歳のヘイリー・スタインフェルドがスピーチするのを見てみたいので、対抗に入れておく。
今年はサプライズなさそうで、めちゃくちゃ固そうな感じですね。
【公立図書館のみなさまへ この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます。】
これは、2011年2月25日に新潮社から発行された樋口毅宏の「雑司ヶ谷 R.I.P.」の奥付直前のページに明記されたものである。(写真参照→ http://bit.ly/fY0cxk )
これは、2011年1月23日の @joenaha のツイート【樋口毅宏『民宿雪国』をAmazonで買おうとしたら絶賛売切中なのでとりあえず図書館で予約しといた.44人待ちだったよ 】(ツイート参照→ http://bit.ly/fmXJAs )に端を発する【「民宿雪国」から始まる図書館論議】(経緯参照→ http://bit.ly/hHJEuQ )の流れの中、「民宿雪国」の著者:樋口毅宏( @takehirohiguchi )が決断した結果である。
樋口毅宏( @takehirohiguchi )が決断した経緯【もしかしたら、とても大きな事が起きようとしているのかも知れないよ。】(経緯参照→ http://bit.ly/hwSUb5 )から引用する。
石井昂( @blackfox711 )
【どうも誤解がありますね。図書館に新刊を買うな、なんて少しも言ってないんです。著者の意志があれば新刊の貸し出しは、少し猶予していただけないか、という図書館に対するお願いなんです。】
【図書館問題の解決は、意外に簡単な事なんですよ。明らかに影響を被っている著者は自分の本の奥付に、「図書館では初版から6ヶ月間は貸し出しをしないで欲しい」とメッセージを入れる。それを図書館側が尊重して自粛してくれればいいんです。】
樋口毅宏( @takehirohiguchi )
【僕が「明らかに影響を被っている著者」かどうかはわかりません。でも、先ほどの石井さんのツイートで決めました。自分の本の奥付に、「図書館では初版から6ヶ月間は貸し出しをしないで欲しい」とメッセージを入れる。その第一号に僕がなります。】
【来月、新潮社から出版する「雑司ヶ谷RIP」の奥付に、「図書館では初版から6ヶ月間は貸し出しをしないで欲しい」と入れます。田中ノリーさま、よろしくです!】
石井昂( @blackfox711 )
【素敵なご返事ありがとうございます。これは各出版社、著者団体を巻き込んだ、ひとつの運動体にしたいのです。つまり図書館側に納得してもらう大きさにする戦略を立てますので、しばし時間を下さい。】
どうだろう。興奮しないかい。
今、時代が動こうとしているのだ。
しかしながら、多くの人が考えるように、「雑司ヶ谷 R.I.P.」の奥付に明記された、
【公立図書館のみなさまへ この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます。】
と言う、樋口毅宏の決断を批判したり冷笑したりするのは容易だ。
しかしぼくは、樋口毅宏のその決断に、その行動力に心からの拍手を贈りたい。
樋口毅宏の戦いは、表向きは図書館の新刊貸し出しにより、新刊の販売機会が失われる作家の生活を守るため、と言うことになっているが、わたしが思うには、前述のような金や、そして名誉のためではなく、図書館を愛する作家自身による、理想のための戦いなのだ。
もしかしたら、樋口毅宏は、かつて巨大な風車の群れに立ち向かった騎士の様に、無惨に敗れ去るのかも知れない。
「あぁ、やっぱりダメだったね。ぼくは最初からそう思っていたんだよ」
訳知り顔でそんな言葉をつぶやくのは簡単だ。
実際のところ、多分、そんなつぶやきがあふれてしまうのだろう。
しかし、ぼくはそうはなりたくない。
読書を趣味としている人間にとって、このままの状況が続き、作者の生活が脅かされ、結果的に、リスクを恐れる出版社が、話題になりそうなベストセラー本しか出版しないようになり、好きな本が読めなくなるような状況の到来は許せないのだ。
これは映画を趣味としている人間が、映画の海賊版や、違法ダウンロード、DVDのリッピングを憎むのと同じ理由である。作品の製作費が回収されないために業界全体が縮小してしまった場合、誰もが安心して観られる最大公約数的な、つまり映画ファンにとってつまらない作品だらけになってしまうのは許せないのだ。
わたしは、面白い本が読めなくなったり、面白い映画が観られなくなったりする時代の到来を危惧しているのだ。
なお、この樋口毅宏の決断に対する、意見や批判、そして冷笑は、このまとめ【もしかしたら、とても大きな事が起きようとしているのかも知れないよ。】(経緯参照→ http://bit.ly/hwSUb5 )の下段のコメントを参照いただきたい。
肯定、否定、様々な意見の交換が行われている。
そもそも図書館の本来の使命は「現代の知を集約し、次の世代にその知を継ぐ」であるはずだ。
しかしながら、利用者のリクエストにより書籍を購入する図書館の多くは、話題になっている書籍や所謂ベストセラー本を大量に、--場合によっては1館の図書館あたり50〜150セットも--、購入しているのが実情なのである。
その大量購入されたベストセラー本は、勿論ボランティアでいろいろな施設や図書コーナーで再利用される事もあるが、それは全体から見たら僅かな部数であり、再利用されなかった多くのベストセラー本は、最終的に裁断破棄されてしまうか、死蔵されてしまう。
これは、図書館の健全な運営とは考えられない。
図書館にとっても、著者にとっても、読者にとっても、だ。
その辺りについては以前書いたエントリー【ベストセラー本と図書館の死】( http://bit.ly/bNIBCv )を参照していただきたい。
なお、今回の件については、読売新聞(YOMIURI ONLINE)でも記事になっている。
【図書館貸し出し猶予を…小説家が巻末にお願い】( http://bit.ly/dHhD6H )
以下、本文を引用する。
気鋭の小説家、樋口毅宏(たけひろ)さん(39)が、25日発売の「雑司ヶ谷R.I.P.」の巻末に、公立図書館での貸し出しを、新刊の売れ行きに影響が大きい刊行から半年間、猶予するよう求める一文を掲載した。
図書館がベストセラーを大量購入して貸し出す現状については、複数の作家が「無料貸本屋」と異議を唱えてきたが、作家が自著に、このような一文を載せるのは「おそらく前例がない」(版元の新潮社)という。
樋口さんは「さらば雑司ヶ谷」で一昨年デビュー。続編となる新作は、昨年1年の大半を執筆にあてた力作だが、定価1600円で初版6000部のため、印税は96万円。一方で、昨年12月刊の自著「民宿雪国」が、ある図書館で44人もの貸し出し予約が入っていることを知り、それが今回の行動のきっかけとなった。
日本文芸家協会は、図書館の貸し出し実績に応じた補償金を著者へ払う制度の導入を国に求めているが、実現していない。
樋口さんは「(増刷されなければ)僕の昨年の労働の対価は、印税の96万円だけ。このままでは、皆が卵(本)をただでもらううち、鶏(著者)はやせ細り、死んでしまう」と話している。
(2011年2月25日16時08分 読売新聞)
記事の内容は、既にお気づきのように、わたしが今回書いたエントリーとほぼ同様である。
もしかしたら、わたしのまとめ記事【「民宿雪国」から始まる図書館論議】( http://bit.ly/hHJEuQ )、【もしかしたら、とても大きな事が起きようとしているのかも知れないよ。】( http://bit.ly/hwSUb5 )を参照しているのかな、とも思える位である。
が、全て公開情報からの記事なので、わたしの気のせいだろう。
さて、ここで考えなければならないのは、日本の印税制度である。
日本の著者印税は、欧米の印税のように実際の販売部数によるものではなく、印刷部数によって決定される。
従って、一旦出版されてしてしまえば、著者にとっては売れようが売れまいが、つまり返本の嵐になってしまおうが、出版社の大量の不良在庫になってしまおうが、ある意味関係ない、と言えるのだ。
尤も、これは初版第一刷に限って、の話だが。
当然ながら、不良在庫になってしまった本は重版されない。
その場合、初版第一刷による著者印税が著者が得られる収入の全て、と言う事になる。
つまり、逆に言うと、重版されれば、重版の時点で著者印税が再度発生する事になる、と言う事だ。
日本の印税制度においては、重版がいかに重要か、と言うところである。
この状況の中、図書館は話題の本を1館あたり複数を、図書館によっては50〜150セット購入しているのである。
こんな状況では、重版は難しいだろう。
こんな状況では、作家の収入増は期待出来ないだろう。
こんな状況では・・・・
ともかく、今回の樋口毅宏の決断が巻き起こす事象に、今後も注目して行きたいと考えている。
なお、樋口毅宏( @takehirohiguchi )のツイート( http://bit.ly/eKJyMC )によると、
【3月12日発売の「Feel Love」(祥伝社の文芸誌)で僕の主張がほぼ全文掲載されます。それまでみなさんの関心が続いていたら、手に取って読んでみて下さい。】
とのことである。
今後の動きに乞うご期待である。
これは、2011年2月25日に新潮社から発行された樋口毅宏の「雑司ヶ谷 R.I.P.」の奥付直前のページに明記されたものである。(写真参照→ http://bit.ly/fY0cxk )
これは、2011年1月23日の @joenaha のツイート【樋口毅宏『民宿雪国』をAmazonで買おうとしたら絶賛売切中なのでとりあえず図書館で予約しといた.44人待ちだったよ 】(ツイート参照→ http://bit.ly/fmXJAs )に端を発する【「民宿雪国」から始まる図書館論議】(経緯参照→ http://bit.ly/hHJEuQ )の流れの中、「民宿雪国」の著者:樋口毅宏( @takehirohiguchi )が決断した結果である。
樋口毅宏( @takehirohiguchi )が決断した経緯【もしかしたら、とても大きな事が起きようとしているのかも知れないよ。】(経緯参照→ http://bit.ly/hwSUb5 )から引用する。
石井昂( @blackfox711 )
【どうも誤解がありますね。図書館に新刊を買うな、なんて少しも言ってないんです。著者の意志があれば新刊の貸し出しは、少し猶予していただけないか、という図書館に対するお願いなんです。】
【図書館問題の解決は、意外に簡単な事なんですよ。明らかに影響を被っている著者は自分の本の奥付に、「図書館では初版から6ヶ月間は貸し出しをしないで欲しい」とメッセージを入れる。それを図書館側が尊重して自粛してくれればいいんです。】
樋口毅宏( @takehirohiguchi )
【僕が「明らかに影響を被っている著者」かどうかはわかりません。でも、先ほどの石井さんのツイートで決めました。自分の本の奥付に、「図書館では初版から6ヶ月間は貸し出しをしないで欲しい」とメッセージを入れる。その第一号に僕がなります。】
【来月、新潮社から出版する「雑司ヶ谷RIP」の奥付に、「図書館では初版から6ヶ月間は貸し出しをしないで欲しい」と入れます。田中ノリーさま、よろしくです!】
石井昂( @blackfox711 )
【素敵なご返事ありがとうございます。これは各出版社、著者団体を巻き込んだ、ひとつの運動体にしたいのです。つまり図書館側に納得してもらう大きさにする戦略を立てますので、しばし時間を下さい。】
どうだろう。興奮しないかい。
今、時代が動こうとしているのだ。
しかしながら、多くの人が考えるように、「雑司ヶ谷 R.I.P.」の奥付に明記された、
【公立図書館のみなさまへ この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます。】
と言う、樋口毅宏の決断を批判したり冷笑したりするのは容易だ。
しかしぼくは、樋口毅宏のその決断に、その行動力に心からの拍手を贈りたい。
樋口毅宏の戦いは、表向きは図書館の新刊貸し出しにより、新刊の販売機会が失われる作家の生活を守るため、と言うことになっているが、わたしが思うには、前述のような金や、そして名誉のためではなく、図書館を愛する作家自身による、理想のための戦いなのだ。
もしかしたら、樋口毅宏は、かつて巨大な風車の群れに立ち向かった騎士の様に、無惨に敗れ去るのかも知れない。
「あぁ、やっぱりダメだったね。ぼくは最初からそう思っていたんだよ」
訳知り顔でそんな言葉をつぶやくのは簡単だ。
実際のところ、多分、そんなつぶやきがあふれてしまうのだろう。
しかし、ぼくはそうはなりたくない。
読書を趣味としている人間にとって、このままの状況が続き、作者の生活が脅かされ、結果的に、リスクを恐れる出版社が、話題になりそうなベストセラー本しか出版しないようになり、好きな本が読めなくなるような状況の到来は許せないのだ。
これは映画を趣味としている人間が、映画の海賊版や、違法ダウンロード、DVDのリッピングを憎むのと同じ理由である。作品の製作費が回収されないために業界全体が縮小してしまった場合、誰もが安心して観られる最大公約数的な、つまり映画ファンにとってつまらない作品だらけになってしまうのは許せないのだ。
わたしは、面白い本が読めなくなったり、面白い映画が観られなくなったりする時代の到来を危惧しているのだ。
なお、この樋口毅宏の決断に対する、意見や批判、そして冷笑は、このまとめ【もしかしたら、とても大きな事が起きようとしているのかも知れないよ。】(経緯参照→ http://bit.ly/hwSUb5 )の下段のコメントを参照いただきたい。
肯定、否定、様々な意見の交換が行われている。
そもそも図書館の本来の使命は「現代の知を集約し、次の世代にその知を継ぐ」であるはずだ。
しかしながら、利用者のリクエストにより書籍を購入する図書館の多くは、話題になっている書籍や所謂ベストセラー本を大量に、--場合によっては1館の図書館あたり50〜150セットも--、購入しているのが実情なのである。
その大量購入されたベストセラー本は、勿論ボランティアでいろいろな施設や図書コーナーで再利用される事もあるが、それは全体から見たら僅かな部数であり、再利用されなかった多くのベストセラー本は、最終的に裁断破棄されてしまうか、死蔵されてしまう。
これは、図書館の健全な運営とは考えられない。
図書館にとっても、著者にとっても、読者にとっても、だ。
その辺りについては以前書いたエントリー【ベストセラー本と図書館の死】( http://bit.ly/bNIBCv )を参照していただきたい。
なお、今回の件については、読売新聞(YOMIURI ONLINE)でも記事になっている。
【図書館貸し出し猶予を…小説家が巻末にお願い】( http://bit.ly/dHhD6H )
以下、本文を引用する。
気鋭の小説家、樋口毅宏(たけひろ)さん(39)が、25日発売の「雑司ヶ谷R.I.P.」の巻末に、公立図書館での貸し出しを、新刊の売れ行きに影響が大きい刊行から半年間、猶予するよう求める一文を掲載した。
図書館がベストセラーを大量購入して貸し出す現状については、複数の作家が「無料貸本屋」と異議を唱えてきたが、作家が自著に、このような一文を載せるのは「おそらく前例がない」(版元の新潮社)という。
樋口さんは「さらば雑司ヶ谷」で一昨年デビュー。続編となる新作は、昨年1年の大半を執筆にあてた力作だが、定価1600円で初版6000部のため、印税は96万円。一方で、昨年12月刊の自著「民宿雪国」が、ある図書館で44人もの貸し出し予約が入っていることを知り、それが今回の行動のきっかけとなった。
日本文芸家協会は、図書館の貸し出し実績に応じた補償金を著者へ払う制度の導入を国に求めているが、実現していない。
樋口さんは「(増刷されなければ)僕の昨年の労働の対価は、印税の96万円だけ。このままでは、皆が卵(本)をただでもらううち、鶏(著者)はやせ細り、死んでしまう」と話している。
(2011年2月25日16時08分 読売新聞)
記事の内容は、既にお気づきのように、わたしが今回書いたエントリーとほぼ同様である。
もしかしたら、わたしのまとめ記事【「民宿雪国」から始まる図書館論議】( http://bit.ly/hHJEuQ )、【もしかしたら、とても大きな事が起きようとしているのかも知れないよ。】( http://bit.ly/hwSUb5 )を参照しているのかな、とも思える位である。
が、全て公開情報からの記事なので、わたしの気のせいだろう。
さて、ここで考えなければならないのは、日本の印税制度である。
日本の著者印税は、欧米の印税のように実際の販売部数によるものではなく、印刷部数によって決定される。
従って、一旦出版されてしてしまえば、著者にとっては売れようが売れまいが、つまり返本の嵐になってしまおうが、出版社の大量の不良在庫になってしまおうが、ある意味関係ない、と言えるのだ。
尤も、これは初版第一刷に限って、の話だが。
当然ながら、不良在庫になってしまった本は重版されない。
その場合、初版第一刷による著者印税が著者が得られる収入の全て、と言う事になる。
つまり、逆に言うと、重版されれば、重版の時点で著者印税が再度発生する事になる、と言う事だ。
日本の印税制度においては、重版がいかに重要か、と言うところである。
この状況の中、図書館は話題の本を1館あたり複数を、図書館によっては50〜150セット購入しているのである。
こんな状況では、重版は難しいだろう。
こんな状況では、作家の収入増は期待出来ないだろう。
こんな状況では・・・・
ともかく、今回の樋口毅宏の決断が巻き起こす事象に、今後も注目して行きたいと考えている。
なお、樋口毅宏( @takehirohiguchi )のツイート( http://bit.ly/eKJyMC )によると、
【3月12日発売の「Feel Love」(祥伝社の文芸誌)で僕の主張がほぼ全文掲載されます。それまでみなさんの関心が続いていたら、手に取って読んでみて下さい。】
とのことである。
今後の動きに乞うご期待である。
「週刊トロ・ステーション No.066」と「木曜洋画劇場」をめぐる冒険
2011年2月11日 映画 コメント (1)
「週刊トロ・ステーション」にテレビ東京のダークボさん( @darkbo )さんが登場したので、それをテキストに起こした。
かつて、伝説の映画番組があった・・・
木曜洋画劇場
その数々のCMは、常に人々(主にB級映画好き)を魅了し続けたー。
クロ ハイもういちど!
クロ ジャンジャンジャジャンジャンクロード!
トロ ニャンニャンニャニャンニャンクロード!
クロ バンバンババンバンバヴァンダム!
トロ ニャンニャンニャニャンニャンニャニャン・・・
トロ ガリッ(舌噛んで)あいたっ
クロ おいおい、さっきから噛んでばっかじゃんよ〜
クロ そんなことじゃヴァンダミングの何たるかは身につきませんよ?
クロ ニャーニャー言ってないでマジメにやれっつーの!
トロ だ・・・だってトロはネコだし・・・
トロ っていうかヴァンダミングってなんなのニャ〜
クロ これだからトロはおこさまなのみャ
クロ これらのアオリはかつてテレビ東京で放送されていた木曜洋画劇場の番宣で使われたモノみャ!
クロ キャッチー!ハイテンポ!そして華麗なオヤジギャグ!
クロ オレっちらの心を映画本編よりワシづかみにしたCMなのみャ
トロ へーっ!そんなにおもしろかったのニャ!
クロ あれだけまとめてソフト化して欲しいくらいみャ
クロ そのあかつきにはオレっち全力で買うんで、テレビ東京さん是非ご検討下さい
トロ そんでそんで?
トロ 木曜洋画劇場って、ヴァンダムさんがやってたのニャ?
クロ やってねーよ!
クロ そこから説明しないといけませんか?
トロ はい、お願いしますニャ
クロ しかたないみャ〜
クロ ヴァンダムってのはジャン=クロード・ヴァン・ダム・・・
クロ 数々の映画で活躍するアクション映画スターなのみャ!
クロ 「ストリートファイター・ザ・ムービー」のガイル大佐といえばわかる人もいるかみャ
トロ あっ、キャプテンサワダのお友だちなのニャ!
クロ 共に戦った仲間だみャ
クロ ヴァンダムはテレ東三羽ガラスとも呼ばれてて、映画スキーの間でもファンが多いのみャ
トロ うわ〜っスゴい人にゃんだ!
クロ これなのスター、もとろんアメリカでも大スターなんだけど・・・
クロ とりわけ日本ではお茶の間で見る「テレビ映画」のスターとして有名なのみャ
トロ 「テレビの映画」・・・?
トロ 映画って映画館で見るモノじゃにゃいの?
クロ ふっふーん
クロ 映画は映画館で見る事がすべてであり至高・・・
クロ そう思っていた頃がオレっちにもありました
クロ テレビで放送される映画にはテレビならではの魅力があるのみャ
トロ そ・・・そうにゃんだ・・・?
トロ でも、テレビでやってる映画ってイイトコロでCMになっちゃうし・・・
トロ やっぱり最初から最後まで続けて見たいし・・・
クロ あれだってちゃーんと理由があるのみャ
トロ へっそうにゃの?
クロ おうよ!
クロ 今日はそんな、なじみ深くて意外と知らない、「テレビ映画」についてその道のプロに教えてもらうのみャ
トロ わ〜っ いく〜いく〜!
クロ ってことでくれぐれも失礼のないようにヴァンダミングの何たるかを勉強・・・
トロ う〜んヴァンダム
クロ やるじゃネーか・・・
クロ ってことでやってきましたテレピ東京!
クロ 言わずと知れた、かつて木曜洋画劇場を放映していたテレビ局・・・
クロ 言わばB級アクション映画の総本山みャ!
トロ うわ〜 ここがテレビ局なのニャ〜!
トロ ここにヴァンダムさんやセガールさんが待ってる・・・
クロ 肉密度100%(ツッコミ)だからヴァンダムはテレ東の社員じゃないから!
トロ そ・・・そうだったニャ・・・
クロ ま、小意気なトークはいいから早速入ってみようぜ(ママ)
クロ うひょ〜 生でタレントとか見れちゃうかみャ〜
トロ クロのほうがはしゃいでるのニャ〜
クロ おーい、はやくしないとおいてくみャ〜
トロ ま・・・まってニャ〜
トロ ごめんくださいニャ〜
クロ 映画の事教えてくださいみャ〜
ダークボ やあ、いらっしゃい
トロ はしめまして、トロですニャ
クロ こちらはダークボさん・・・ 長年木曜洋画劇場のプロデューサーとして「テレビの映画」に携わってきた、この道の酸いも甘いもかみ分けた映画通なのみャ!
トロ うわ〜っ とってもスゴい人なのニャ〜
ダークボ すでに映画担当の現役は退きましたが・・・ 現在はシネ通!の黒幕をさせてもらっています
トロ シネ通?
ダークボ 映画好きのための映画情報番組です
ダークボ この番組を見れば映画通になれることまちがいナシですよ
クロ なるほど!
トロ それでシネ通!なのニャ
クロ ってことで〜
クロ 今日はダークボさんに「テレビの映画」についてお話をうかがっちゃうみャ〜
トロ わ〜 おねがいしますニャ〜
ダークボ はい、よろしくおねがいします
「木曜洋画劇場」の思い出
クロ ダークボさんにお話を聞く上で・・・
クロ やっぱり木曜洋画劇場のハナシはハズせないよみャ
クロ 木曜洋画劇場といえば、やっぱあの数々の番宣CMとアクション映画!
クロ ジャンジャンジャジャンジャンクロード!
トロ ヴァンダミングアクション!
ダークボ ご存知ですか?
クロ 映画のCMとは思えない、ハジけたCMだったよみャ
ダークボ 「レジョネア戦場の狼たち」の番宣・・・
ダークボ あれが木曜洋画劇場のCMが話題になるきっかけとなったのですが、実を言うと、あれは苦肉の策だったんです
クロ そうなの?
ダークボ その頃、丁度自衛隊が海外に出かけようかという時期だったんです
クロ あ〜、あー・・・
クロ アレって堂々たる戦争映画だったもんみャ〜
トロ そ・・・そうにゃんだ?
ダークボ そんな時期にアフリカでひどい目に遭う外人部隊の映画は・・・
クロ さすがに怒られちゃうカモしれないみャ〜
ダークボ ですので、予告編を作る際には
ダークボ これは戦争映画じゃないヴァン・ダムの痛快アクション映画だ! ・・・ってコトにしました
トロ なんという発想の転換ニャ・・・
クロ モノは言い様ってやつだみャ
クロ しかし、あのCMにダマされたんだよみャ〜
クロ ぶっちゃけCMの方が本編より面白かっ・・・
トロ (ツッコミ)そんなにぶっちゃけちゃ失礼ニャ〜
クロ だが、見たことを後悔はしていない・・・
クロ ヴァンダムのやたらセクシーな背中から学んだモノは、きっとオレっちの血肉になったはず・・・っ!
ダークボ おかげでとてもハジけた予告編ができたわけなんです
トロ にゃるほど〜
クロ ケガの功名ってヤツだみャ
クロ きっとさぞや視聴率の方も・・・
ダークボ いやぁネットでは後々話題になったのですが・・・木曜洋画劇場を見てくれていた中高年層の男性には、ヴァンダミングアクションと言ってもわかって貰えないんですよね
トロ ありゃ〜
クロ オレっち一発で釣られたのに・・・
クロ ま、オレっちの若さゆえ・・・ということか・・・
トロ それはともかく、きっと記憶に残るCMだったのニャ
トロ だって今でもファンがおおいんだもん
ダークボ でも、映画館やレンタルビデオ、映画配信など・・・色々な映画の見方がある中で、テレビで見る必然性を持たせるために番組宣伝はとにかく派手にやろうと思っていましたね
トロ おお〜っ
クロ それでその後もはっちゃけたCMを続けたんだみャ
ダークボ やりすぎてえらい人からお叱りを受けたりもしましたけどね
クロ で・・・ですよね〜
テレビの映画=テレビ番組?
トロ ねぇねぇダークボさん、「テレビの映画」って映画館で見る映画と何がちがうのニャ?
ダークボ テレビで放映する映画と映画館で上映する映画・・・元は同じ素材としての映画ですが、テレビで放送する場合はテレビ番組になるんですね
トロ にゃ・・・にゃるほど・・・?
クロ それってどういうコト・・・?
ダークボ 映画館とテレビとの違いを考えると答えが見えてきます
クロ テレビにはCMがあったり、時間制限があったり・・・とか?
テロッブ 時間制限 CM 多様な視聴者・視聴環境に対応
ダークボ そうそう テレビで映画を放送する場合、こういった事情がありまして・・・これらをクリアしてはじめて「テレビの映画」たりうるわけです
トロ にゃるほど!
クロ 言われてみればどれも当然だけど・・・結構しばりがあるんだみャ〜
放送時間に、映画を合わせる!
ダークボ まず、放送時間についての制限ですが・・・一般的な2時間の洋画枠だと、実際に流せる分量は90分強になります
ダークボ つまり、この90分強に合わせて、映画をカットする必要があるワケです
クロ CMや予告編でずいぶんへっちゃうんだみャ
トロ そんなことしてお話がわからなくなったりとないのニャ?
クロ 切るってコトはシーンが減っちゃうってコトだもんみャ
ダークボ もちろん、そうならないように考えて編集をします
ダークボ たとえば1日分のシーンを丸々カットしたら、セリフで「おととい」と言っている部分を「昨日」にしたり・・・時には本編に無かったセリフを吹き替えで足す事もあります
トロ え〜っ!
クロ 英語をそのまま日本語にするワケじゃないのみャ?
ダークボ それではどうしてもつじつまが合わなくなってしまいますから・・・
ダークボ また、CMの後では途中から見る視聴者のために、状況を説明する様なセリフを足す場合もありますね
クロ ほほうなかなかの親切設計! だから酔っててもCM直後になると話がわかった気がするんだみャ
トロ クロってば いつもそんなカンジだよね・・・
クロ フロ上がりで一杯やりながらのセガールは最高だからみャ
ダークボ 映画の後半になってくると説明する事が多くなってしまい、だんだんとくどくなってしまうこともありますが・・・
トロ それでけしっかりフォローしてるんですにャ
クロ これだけでもずいぶん映画館の映画とは違うんだみャ
トロ 映画館だとトイレに行ったらお話わかんなくなるコトあるもんね・・・
クロ それは最初に行っておかないからダロ
トロ だって〜
ダークボ CMについては他にも気を使っている事がありまして、
トロ どんなコトニャ?
ダークボ もちろんちゃんと盛り上がる所でCMを入れる事が大切です
ダークボ 時間だけを見て切ってしまうと盛り上がらない事も多いので・・・
ダークボ さらにCMに入る前にはちゃんと続きを見てもらえるよう、声優さんにオリジナルより盛り上げてもらうような演技をお願いします
トロ それじゃ盛り上がった場面で「ココでCM〜?」って思うトキは・・・
クロ むしろ術中にハマっているってワケだみャ
トロ あわわ・・・「テレビの映画」おそるべしニャ〜
時にはこんな大改造まで・・・!?
ダークボ また、2時間の枠の中で複数の作品を1本の映画として放映する場合もあります
クロ ちょっ!!
トロ そ・・・そんにゃコトしちゃっていいまニャ〜?
ダークボ 放送枠や権利などいろんな要素が絡んでそういうことが起きたりするんです
クロ むしろやらないといけないんだみャ
ダークボ 例えば、「C.A.T.スクワッド」という作品では・・・いろんな事情で1と2を1本にまとめて放送する必要が出てしまいました
クロ な・・・なんというスペシャルエディション・・・
ダークボ 困ったことに、1と2で主人公の恋人役の女優さんが異なっていたんですよ
クロ ど・・・どうすんのよそれ〜
トロ 映画の途中で役者さんが変わっちゃうのニャ〜
クロ わかった!
クロ 1の恋人と2の恋人で、新たな三角関係の誕生みャ!こいつは萌えるぜ〜
ダークボ さすがにそれはちょっと・・・
ダークボ 結局吹き替えで名前を変え、それぞれ別のキャラということにして・・・後半に登場する2の彼女は妹という設定に変更しました
トロ なんとも大胆な変更ニャ・・・
クロ わりと別の話になってるみャ
ダークボ そこまでやるともはや二カ国語放送は出来ません
トロ バレちゃうもんね
クロ 英語わかる人が聞いたら大混乱みャ
手が入る事で、元より面白くなることも!?
ダークボ こんな風に大きく手を入れる場合もありますから、映画館で見たらちょっと微妙だった映画も、テレビ的に加工したら面白くなる可能性がある作品もあるんです
ダークボ それを見越して作品を発掘するのも、テレビ放映権購入担当者のセンスですね
クロ なるほど、編集する過程で面白くなったりするコトもあるんだみャ
クロ そういや、昔テレビで大笑いした映画のDVDを買ってみたら・・・な〜んか微妙だったコトあったみャ〜
クロ あれって気のせいじゃなかったのかもみャ
トロ 「テレビの映画」になって名作に生まれ変わってたのカモ!
トロ あ・・・でも、日本の映画でそんなことしたら怒られちゃうのかニャ?
クロ つーか、吹き替えが使えないから無理じゃね?
ダークボ 邦画も、CMのタイミングや放送時間の関係で編集する事はあります その場合、映画会社から監督やスッフが立ち会い、共同で編集作業をするのが通例なんです
トロ わ〜っ 作った人がやってくれるのニャ!
クロ それなら安心だみャ
クロ ていうか もはや、テレビ版ディレクターズカットなんじゃ!
ダークボ そうとも言えますね
ダークボ 以前「男はつらいよ」シリーズ全48作を一挙放送! ・・・という大きな企画をやったコトがあるんです
クロ うおー! 全部!
クロ 量もそうだけど気を使いそうだみャ
ダークボ 山田洋次監督の作品にハサミを入れるのはなかなか大変なのですが、特別に許可をいただいて、テレビ用に再編集しました
トロ まったくも〜ってくらいにキンチョウしちゃうカモ・・・
ダークボ そのときはオリジナルの映画自体を編集された石井巌さんと、たっぷり時間をかけて、とことんこだわって編集をしましたよ
クロ 本職の方がやってくれたのャ
トロ それって心強いのニャ
ダークボ 結局2年半にわたる作業の末、すべて編集をしたわけですが、その打ち上げの席で「楽しかったよ」と握手を求められた時は・・・
クロ く〜っ それは感無量でんみャ〜
トロ じっくり磨いてさらにイイ作品になったのニャ
ダークボ 編集する事によって原典を知る方からは「どこそこが違う」といった厳しい感想やご意見を頂くコトもあるのですが・・・テレビで放映する事による「テレビならでは」の変化も、楽しんでいただけると嬉しいですね
トロ にゃるほど〜!
ダークボ なにより大切なことですが、こういう作業はオリジナルへの深い愛情と理解が無いとできない、この点をみなさんにわかって頂きたいです
クロ 愛をもって編集にあたるからこそ、映画がよりよくなるんだみャ
トロ トロたちもみならわにゃいと!
「テレ東三羽ガラス」ってぶっちゃけ人気あるの?
クロ あっ最後にひとつだけ質問みャ〜!
ダークボ なんでしょうか?
クロ オレっちすっごく気になってたコトがあるんだけど・・・テレ東三羽ガラスっているよみャ?
ダークボ ヴァン・ダム、セガール、チャック・ノリスをそう呼ばれる方がいます
クロ ぶっちゃけあの3人でダレが人気あんのかみャ?
ダークボ 視聴率から見ると スティーブン・セガールが圧勝でした!
トロ わ〜 そうにゃんだ!
さすがは理想の父親像No.1スティーブン “パパ・ザ” セガールよのう・・・
ダークボ チャック・ノリスはゴールデンタイムに放送できるレベルの作品がほとんど無かったのですが・・・「プレジデントマン地獄のステルスコマンド」というTVムービーを、オヤジアクションの決定版と番宣したところ・・・
クロ プレジデントマンは心も優しい、とチャックが犬と戯れるCMだみャ
トロ そのワンちゃんが心配ニャ・・・
クロ ばっか、チャックは心が広いんですよ?
クロ アメリカにはこんなコトワザがあるみャ
チャック・ノリスはしばしば赤十字に献血する。
彼の血ではないが。
クロ どうよ? チャック・ノリスの優しさがわかるみャ?
トロ コト・・・ワザ・・・?
ダークボ その甲斐あってか10.1%という高視聴率を記録しました
クロ さすがチャック・ノリスは格が違ったみャ
トロ ヴァンダムさんはどうだったのかニャ?
ダークボ ヴァン・ダムはどんな番宣をしてもダメでしたねぇ
クロ ちょっ! 番宣で引っかかったのはオレっちみたいなのだけかよ〜
トロ どんな宣伝が多かったのニャ?
クロ こんなカンジ?
「これが究極、ダブルゼータヴァンダム」
「同じ筋肉、大激突!! どっちが勝っても・・・、ヴァンダボー!!」
(「レプリカント」のCMより)
「ジャンジャンジャジャン、ジャンクロード ヴァンヴァンヴァヴァン、ヴァンヴァンダム」
「ヴァンダムが香港で、筋肉・・・フィーバー!!」
(「ノック・オフ」のCMより)
「スーパー《ヴァンダミング》アクション、行くぜ!!」
(「レジョネア戦場の狼たち」のCMより)
クロ ちなみにヴァンダボー! はヴァンダムがダブルって意味みャ
トロ にゃ・・・にゃるほど・・・
そんなこんなで・・・
ダークボ 僕が関わってきた木曜洋画劇場は、その後、水曜シアター9に移り、それも2010年9月で終了しました
ダークボ 1968年に始まり、42年半もの間続いたレギュラー映画番組枠が、テレビ東京のゴールデンタイムからなくなったのは残念です
クロ オレっちも残念みャ・・・ 1週間の疲れがピークを迎える木曜日の晩に、アクション映画でリフレッシュするのが好きだったのにみャ〜・・・
ダークボ でも、テレビ東京は長い映画番組の歴史をもった放送局として、これからもいろんな映画を放送していくので楽しみにして下さいね
トロ 面白い映画をたくさん紹介してくださいニャ
クロ オレっち正座して待ってるみャ〜
テレビ東京2011年2月の映画ラインナップ
午後のロードショー(午後1:30〜)にて放送予定!
ダークボ 2月のテレ東での映画放送予定はこちらです!
テロップ割愛
ダークボ この週は真冬のサスペンス劇場と銘打った特集です!
ダークボ 特に2月7日放送の「逆転」はDVD未発売のレアものです
ダークボ 僕もまだ見たことがないんですよ
クロ うおっ そう聞くとがぜん興味が湧いてきたみャ〜
ダークボ そして番組プロデューサーイチ押しなのが、バレンタインデー・スペシャル「50回目のファースト・キス」です!
ダークボ ピュアな主人公たちに何度も感動させられ優しい気持ちになれる映画ですよ
トロ ふにゃ〜トロもみとみよっと!
ダークボ つづいては午後ロード恒例のクリント・イーストウッド特集!
ダークボ 実はイーストウッド御大が新作を公開する度にこの特集を編成しています
ダークボ 「荒鷲の要塞」では160分の映画を90分強にまで凝縮したという・・・「テレビの映画」のワザがこめられています!
クロ まさに今日の内容にぴったりの映画だみャ
トロ 楽しみなのニャ〜
ダークボ さらには番組プロデューサー渾身の企画アカデミー女優特集です
ダークボ 「ミザリー」では吹き替えの藤田弓子さんがハマリすぎて怖ぇ〜!
ダークボ ちなみに、2月24日放送の「モンスター」は地上波初放送の作品なんです! 昼間っからでもやる!
クロ うおー! それがテレ東の心意気みャ〜!
トロ まったくも〜ってくらいにふとっぱらなのニャ〜
ダークボ 3月もラジー賞特集とか・・・とんでもないラインナップを予定してますよ〜
クロ うおおおラジー賞! そんなんやっちゃっていいの?
トロ ラジー賞?
クロ 毎年アカデミー賞の前日に発表される・・・その年の最低の映画に与えられる賞みャ
トロ あわわ、なんという特集・・・でもちょっと気になるかも♥
クロ だよみャ
クロ こうしてみると毎日盛りだくさんだみャ〜
トロ お昼からこんなに映画をみれるってとってもゼイタクなのニャ
ダークボ 最近は吹き替えをせずにDVD版の音源を使用する場合が増えていますが・・・往年の名吹き替えを最新のHD画像にシンクロさせる作業もやっています!
ダークボ 午後ロードはいわばテレビ用吹き替え版のライブラリー工場と、言えるでしょうか
トロ うわ〜っ そうにゃんだ!
クロ 名吹き替えはぜひ後世まで残してほしいみャ〜
トロ それじゃダークボさん、今日はどうもありがとうニャ
クロ お会いできて楽しかったみャ〜
ダークボ いえいえ、こちらこそ! みなさん「テレビの映画」を楽しんで下さいね〜
トロ 「テレビの映画」って単に映画を流してるダケじゃないんだね〜
クロ テレビ番組としての条件満たしつつ いかに盛り上げるか・・・
クロ 常に考えながら番組を作っているんだみャ
トロ その時しか見られない特別バージョンになることもあるのニャ
クロ 映画館じゃとても上映されないような映画を・・・掘り起して来る眼力と知識も大したモンだよみャ
トロ ダークボさん、まったくも〜ってくらいに映画大好きだったもんね
クロ 仕事そっちのけで延々映画トークをし続けてたからみャ ホントはもっと沢山いろんなお話を聞いたんだけど・・・
トロ 全部紹介できないのが残念ですニャ
クロ ま、その辺はシネ通!を見てもらうってコトで!
トロ うんうん
トロ ってコトで〜
クロ ダークボさん、テレビ東京さん・・・ご協力ありがとうございました〜!
トロ tkr2000も「テレビの映画」の世界を楽しんでニャ
クロ 劇場の映画とはまた違った味わいがあるのみャ〜
トロ そんじゃ またですニャ〜
クロ またみャ〜
おわり
かつて、伝説の映画番組があった・・・
木曜洋画劇場
その数々のCMは、常に人々(主にB級映画好き)を魅了し続けたー。
クロ ハイもういちど!
クロ ジャンジャンジャジャンジャンクロード!
トロ ニャンニャンニャニャンニャンクロード!
クロ バンバンババンバンバヴァンダム!
トロ ニャンニャンニャニャンニャンニャニャン・・・
トロ ガリッ(舌噛んで)あいたっ
クロ おいおい、さっきから噛んでばっかじゃんよ〜
クロ そんなことじゃヴァンダミングの何たるかは身につきませんよ?
クロ ニャーニャー言ってないでマジメにやれっつーの!
トロ だ・・・だってトロはネコだし・・・
トロ っていうかヴァンダミングってなんなのニャ〜
クロ これだからトロはおこさまなのみャ
クロ これらのアオリはかつてテレビ東京で放送されていた木曜洋画劇場の番宣で使われたモノみャ!
クロ キャッチー!ハイテンポ!そして華麗なオヤジギャグ!
クロ オレっちらの心を映画本編よりワシづかみにしたCMなのみャ
トロ へーっ!そんなにおもしろかったのニャ!
クロ あれだけまとめてソフト化して欲しいくらいみャ
クロ そのあかつきにはオレっち全力で買うんで、テレビ東京さん是非ご検討下さい
トロ そんでそんで?
トロ 木曜洋画劇場って、ヴァンダムさんがやってたのニャ?
クロ やってねーよ!
クロ そこから説明しないといけませんか?
トロ はい、お願いしますニャ
クロ しかたないみャ〜
クロ ヴァンダムってのはジャン=クロード・ヴァン・ダム・・・
クロ 数々の映画で活躍するアクション映画スターなのみャ!
クロ 「ストリートファイター・ザ・ムービー」のガイル大佐といえばわかる人もいるかみャ
トロ あっ、キャプテンサワダのお友だちなのニャ!
クロ 共に戦った仲間だみャ
クロ ヴァンダムはテレ東三羽ガラスとも呼ばれてて、映画スキーの間でもファンが多いのみャ
トロ うわ〜っスゴい人にゃんだ!
クロ これなのスター、もとろんアメリカでも大スターなんだけど・・・
クロ とりわけ日本ではお茶の間で見る「テレビ映画」のスターとして有名なのみャ
トロ 「テレビの映画」・・・?
トロ 映画って映画館で見るモノじゃにゃいの?
クロ ふっふーん
クロ 映画は映画館で見る事がすべてであり至高・・・
クロ そう思っていた頃がオレっちにもありました
クロ テレビで放送される映画にはテレビならではの魅力があるのみャ
トロ そ・・・そうにゃんだ・・・?
トロ でも、テレビでやってる映画ってイイトコロでCMになっちゃうし・・・
トロ やっぱり最初から最後まで続けて見たいし・・・
クロ あれだってちゃーんと理由があるのみャ
トロ へっそうにゃの?
クロ おうよ!
クロ 今日はそんな、なじみ深くて意外と知らない、「テレビ映画」についてその道のプロに教えてもらうのみャ
トロ わ〜っ いく〜いく〜!
クロ ってことでくれぐれも失礼のないようにヴァンダミングの何たるかを勉強・・・
トロ う〜んヴァンダム
クロ やるじゃネーか・・・
クロ ってことでやってきましたテレピ東京!
クロ 言わずと知れた、かつて木曜洋画劇場を放映していたテレビ局・・・
クロ 言わばB級アクション映画の総本山みャ!
トロ うわ〜 ここがテレビ局なのニャ〜!
トロ ここにヴァンダムさんやセガールさんが待ってる・・・
クロ 肉密度100%(ツッコミ)だからヴァンダムはテレ東の社員じゃないから!
トロ そ・・・そうだったニャ・・・
クロ ま、小意気なトークはいいから早速入ってみようぜ(ママ)
クロ うひょ〜 生でタレントとか見れちゃうかみャ〜
トロ クロのほうがはしゃいでるのニャ〜
クロ おーい、はやくしないとおいてくみャ〜
トロ ま・・・まってニャ〜
トロ ごめんくださいニャ〜
クロ 映画の事教えてくださいみャ〜
ダークボ やあ、いらっしゃい
トロ はしめまして、トロですニャ
クロ こちらはダークボさん・・・ 長年木曜洋画劇場のプロデューサーとして「テレビの映画」に携わってきた、この道の酸いも甘いもかみ分けた映画通なのみャ!
トロ うわ〜っ とってもスゴい人なのニャ〜
ダークボ すでに映画担当の現役は退きましたが・・・ 現在はシネ通!の黒幕をさせてもらっています
トロ シネ通?
ダークボ 映画好きのための映画情報番組です
ダークボ この番組を見れば映画通になれることまちがいナシですよ
クロ なるほど!
トロ それでシネ通!なのニャ
クロ ってことで〜
クロ 今日はダークボさんに「テレビの映画」についてお話をうかがっちゃうみャ〜
トロ わ〜 おねがいしますニャ〜
ダークボ はい、よろしくおねがいします
「木曜洋画劇場」の思い出
クロ ダークボさんにお話を聞く上で・・・
クロ やっぱり木曜洋画劇場のハナシはハズせないよみャ
クロ 木曜洋画劇場といえば、やっぱあの数々の番宣CMとアクション映画!
クロ ジャンジャンジャジャンジャンクロード!
トロ ヴァンダミングアクション!
ダークボ ご存知ですか?
クロ 映画のCMとは思えない、ハジけたCMだったよみャ
ダークボ 「レジョネア戦場の狼たち」の番宣・・・
ダークボ あれが木曜洋画劇場のCMが話題になるきっかけとなったのですが、実を言うと、あれは苦肉の策だったんです
クロ そうなの?
ダークボ その頃、丁度自衛隊が海外に出かけようかという時期だったんです
クロ あ〜、あー・・・
クロ アレって堂々たる戦争映画だったもんみャ〜
トロ そ・・・そうにゃんだ?
ダークボ そんな時期にアフリカでひどい目に遭う外人部隊の映画は・・・
クロ さすがに怒られちゃうカモしれないみャ〜
ダークボ ですので、予告編を作る際には
ダークボ これは戦争映画じゃないヴァン・ダムの痛快アクション映画だ! ・・・ってコトにしました
トロ なんという発想の転換ニャ・・・
クロ モノは言い様ってやつだみャ
クロ しかし、あのCMにダマされたんだよみャ〜
クロ ぶっちゃけCMの方が本編より面白かっ・・・
トロ (ツッコミ)そんなにぶっちゃけちゃ失礼ニャ〜
クロ だが、見たことを後悔はしていない・・・
クロ ヴァンダムのやたらセクシーな背中から学んだモノは、きっとオレっちの血肉になったはず・・・っ!
ダークボ おかげでとてもハジけた予告編ができたわけなんです
トロ にゃるほど〜
クロ ケガの功名ってヤツだみャ
クロ きっとさぞや視聴率の方も・・・
ダークボ いやぁネットでは後々話題になったのですが・・・木曜洋画劇場を見てくれていた中高年層の男性には、ヴァンダミングアクションと言ってもわかって貰えないんですよね
トロ ありゃ〜
クロ オレっち一発で釣られたのに・・・
クロ ま、オレっちの若さゆえ・・・ということか・・・
トロ それはともかく、きっと記憶に残るCMだったのニャ
トロ だって今でもファンがおおいんだもん
ダークボ でも、映画館やレンタルビデオ、映画配信など・・・色々な映画の見方がある中で、テレビで見る必然性を持たせるために番組宣伝はとにかく派手にやろうと思っていましたね
トロ おお〜っ
クロ それでその後もはっちゃけたCMを続けたんだみャ
ダークボ やりすぎてえらい人からお叱りを受けたりもしましたけどね
クロ で・・・ですよね〜
テレビの映画=テレビ番組?
トロ ねぇねぇダークボさん、「テレビの映画」って映画館で見る映画と何がちがうのニャ?
ダークボ テレビで放映する映画と映画館で上映する映画・・・元は同じ素材としての映画ですが、テレビで放送する場合はテレビ番組になるんですね
トロ にゃ・・・にゃるほど・・・?
クロ それってどういうコト・・・?
ダークボ 映画館とテレビとの違いを考えると答えが見えてきます
クロ テレビにはCMがあったり、時間制限があったり・・・とか?
テロッブ 時間制限 CM 多様な視聴者・視聴環境に対応
ダークボ そうそう テレビで映画を放送する場合、こういった事情がありまして・・・これらをクリアしてはじめて「テレビの映画」たりうるわけです
トロ にゃるほど!
クロ 言われてみればどれも当然だけど・・・結構しばりがあるんだみャ〜
放送時間に、映画を合わせる!
ダークボ まず、放送時間についての制限ですが・・・一般的な2時間の洋画枠だと、実際に流せる分量は90分強になります
ダークボ つまり、この90分強に合わせて、映画をカットする必要があるワケです
クロ CMや予告編でずいぶんへっちゃうんだみャ
トロ そんなことしてお話がわからなくなったりとないのニャ?
クロ 切るってコトはシーンが減っちゃうってコトだもんみャ
ダークボ もちろん、そうならないように考えて編集をします
ダークボ たとえば1日分のシーンを丸々カットしたら、セリフで「おととい」と言っている部分を「昨日」にしたり・・・時には本編に無かったセリフを吹き替えで足す事もあります
トロ え〜っ!
クロ 英語をそのまま日本語にするワケじゃないのみャ?
ダークボ それではどうしてもつじつまが合わなくなってしまいますから・・・
ダークボ また、CMの後では途中から見る視聴者のために、状況を説明する様なセリフを足す場合もありますね
クロ ほほうなかなかの親切設計! だから酔っててもCM直後になると話がわかった気がするんだみャ
トロ クロってば いつもそんなカンジだよね・・・
クロ フロ上がりで一杯やりながらのセガールは最高だからみャ
ダークボ 映画の後半になってくると説明する事が多くなってしまい、だんだんとくどくなってしまうこともありますが・・・
トロ それでけしっかりフォローしてるんですにャ
クロ これだけでもずいぶん映画館の映画とは違うんだみャ
トロ 映画館だとトイレに行ったらお話わかんなくなるコトあるもんね・・・
クロ それは最初に行っておかないからダロ
トロ だって〜
ダークボ CMについては他にも気を使っている事がありまして、
トロ どんなコトニャ?
ダークボ もちろんちゃんと盛り上がる所でCMを入れる事が大切です
ダークボ 時間だけを見て切ってしまうと盛り上がらない事も多いので・・・
ダークボ さらにCMに入る前にはちゃんと続きを見てもらえるよう、声優さんにオリジナルより盛り上げてもらうような演技をお願いします
トロ それじゃ盛り上がった場面で「ココでCM〜?」って思うトキは・・・
クロ むしろ術中にハマっているってワケだみャ
トロ あわわ・・・「テレビの映画」おそるべしニャ〜
時にはこんな大改造まで・・・!?
ダークボ また、2時間の枠の中で複数の作品を1本の映画として放映する場合もあります
クロ ちょっ!!
トロ そ・・・そんにゃコトしちゃっていいまニャ〜?
ダークボ 放送枠や権利などいろんな要素が絡んでそういうことが起きたりするんです
クロ むしろやらないといけないんだみャ
ダークボ 例えば、「C.A.T.スクワッド」という作品では・・・いろんな事情で1と2を1本にまとめて放送する必要が出てしまいました
クロ な・・・なんというスペシャルエディション・・・
ダークボ 困ったことに、1と2で主人公の恋人役の女優さんが異なっていたんですよ
クロ ど・・・どうすんのよそれ〜
トロ 映画の途中で役者さんが変わっちゃうのニャ〜
クロ わかった!
クロ 1の恋人と2の恋人で、新たな三角関係の誕生みャ!こいつは萌えるぜ〜
ダークボ さすがにそれはちょっと・・・
ダークボ 結局吹き替えで名前を変え、それぞれ別のキャラということにして・・・後半に登場する2の彼女は妹という設定に変更しました
トロ なんとも大胆な変更ニャ・・・
クロ わりと別の話になってるみャ
ダークボ そこまでやるともはや二カ国語放送は出来ません
トロ バレちゃうもんね
クロ 英語わかる人が聞いたら大混乱みャ
手が入る事で、元より面白くなることも!?
ダークボ こんな風に大きく手を入れる場合もありますから、映画館で見たらちょっと微妙だった映画も、テレビ的に加工したら面白くなる可能性がある作品もあるんです
ダークボ それを見越して作品を発掘するのも、テレビ放映権購入担当者のセンスですね
クロ なるほど、編集する過程で面白くなったりするコトもあるんだみャ
クロ そういや、昔テレビで大笑いした映画のDVDを買ってみたら・・・な〜んか微妙だったコトあったみャ〜
クロ あれって気のせいじゃなかったのかもみャ
トロ 「テレビの映画」になって名作に生まれ変わってたのカモ!
トロ あ・・・でも、日本の映画でそんなことしたら怒られちゃうのかニャ?
クロ つーか、吹き替えが使えないから無理じゃね?
ダークボ 邦画も、CMのタイミングや放送時間の関係で編集する事はあります その場合、映画会社から監督やスッフが立ち会い、共同で編集作業をするのが通例なんです
トロ わ〜っ 作った人がやってくれるのニャ!
クロ それなら安心だみャ
クロ ていうか もはや、テレビ版ディレクターズカットなんじゃ!
ダークボ そうとも言えますね
ダークボ 以前「男はつらいよ」シリーズ全48作を一挙放送! ・・・という大きな企画をやったコトがあるんです
クロ うおー! 全部!
クロ 量もそうだけど気を使いそうだみャ
ダークボ 山田洋次監督の作品にハサミを入れるのはなかなか大変なのですが、特別に許可をいただいて、テレビ用に再編集しました
トロ まったくも〜ってくらいにキンチョウしちゃうカモ・・・
ダークボ そのときはオリジナルの映画自体を編集された石井巌さんと、たっぷり時間をかけて、とことんこだわって編集をしましたよ
クロ 本職の方がやってくれたのャ
トロ それって心強いのニャ
ダークボ 結局2年半にわたる作業の末、すべて編集をしたわけですが、その打ち上げの席で「楽しかったよ」と握手を求められた時は・・・
クロ く〜っ それは感無量でんみャ〜
トロ じっくり磨いてさらにイイ作品になったのニャ
ダークボ 編集する事によって原典を知る方からは「どこそこが違う」といった厳しい感想やご意見を頂くコトもあるのですが・・・テレビで放映する事による「テレビならでは」の変化も、楽しんでいただけると嬉しいですね
トロ にゃるほど〜!
ダークボ なにより大切なことですが、こういう作業はオリジナルへの深い愛情と理解が無いとできない、この点をみなさんにわかって頂きたいです
クロ 愛をもって編集にあたるからこそ、映画がよりよくなるんだみャ
トロ トロたちもみならわにゃいと!
「テレ東三羽ガラス」ってぶっちゃけ人気あるの?
クロ あっ最後にひとつだけ質問みャ〜!
ダークボ なんでしょうか?
クロ オレっちすっごく気になってたコトがあるんだけど・・・テレ東三羽ガラスっているよみャ?
ダークボ ヴァン・ダム、セガール、チャック・ノリスをそう呼ばれる方がいます
クロ ぶっちゃけあの3人でダレが人気あんのかみャ?
ダークボ 視聴率から見ると スティーブン・セガールが圧勝でした!
トロ わ〜 そうにゃんだ!
さすがは理想の父親像No.1スティーブン “パパ・ザ” セガールよのう・・・
ダークボ チャック・ノリスはゴールデンタイムに放送できるレベルの作品がほとんど無かったのですが・・・「プレジデントマン地獄のステルスコマンド」というTVムービーを、オヤジアクションの決定版と番宣したところ・・・
クロ プレジデントマンは心も優しい、とチャックが犬と戯れるCMだみャ
トロ そのワンちゃんが心配ニャ・・・
クロ ばっか、チャックは心が広いんですよ?
クロ アメリカにはこんなコトワザがあるみャ
チャック・ノリスはしばしば赤十字に献血する。
彼の血ではないが。
クロ どうよ? チャック・ノリスの優しさがわかるみャ?
トロ コト・・・ワザ・・・?
ダークボ その甲斐あってか10.1%という高視聴率を記録しました
クロ さすがチャック・ノリスは格が違ったみャ
トロ ヴァンダムさんはどうだったのかニャ?
ダークボ ヴァン・ダムはどんな番宣をしてもダメでしたねぇ
クロ ちょっ! 番宣で引っかかったのはオレっちみたいなのだけかよ〜
トロ どんな宣伝が多かったのニャ?
クロ こんなカンジ?
「これが究極、ダブルゼータヴァンダム」
「同じ筋肉、大激突!! どっちが勝っても・・・、ヴァンダボー!!」
(「レプリカント」のCMより)
「ジャンジャンジャジャン、ジャンクロード ヴァンヴァンヴァヴァン、ヴァンヴァンダム」
「ヴァンダムが香港で、筋肉・・・フィーバー!!」
(「ノック・オフ」のCMより)
「スーパー《ヴァンダミング》アクション、行くぜ!!」
(「レジョネア戦場の狼たち」のCMより)
クロ ちなみにヴァンダボー! はヴァンダムがダブルって意味みャ
トロ にゃ・・・にゃるほど・・・
そんなこんなで・・・
ダークボ 僕が関わってきた木曜洋画劇場は、その後、水曜シアター9に移り、それも2010年9月で終了しました
ダークボ 1968年に始まり、42年半もの間続いたレギュラー映画番組枠が、テレビ東京のゴールデンタイムからなくなったのは残念です
クロ オレっちも残念みャ・・・ 1週間の疲れがピークを迎える木曜日の晩に、アクション映画でリフレッシュするのが好きだったのにみャ〜・・・
ダークボ でも、テレビ東京は長い映画番組の歴史をもった放送局として、これからもいろんな映画を放送していくので楽しみにして下さいね
トロ 面白い映画をたくさん紹介してくださいニャ
クロ オレっち正座して待ってるみャ〜
テレビ東京2011年2月の映画ラインナップ
午後のロードショー(午後1:30〜)にて放送予定!
ダークボ 2月のテレ東での映画放送予定はこちらです!
テロップ割愛
ダークボ この週は真冬のサスペンス劇場と銘打った特集です!
ダークボ 特に2月7日放送の「逆転」はDVD未発売のレアものです
ダークボ 僕もまだ見たことがないんですよ
クロ うおっ そう聞くとがぜん興味が湧いてきたみャ〜
ダークボ そして番組プロデューサーイチ押しなのが、バレンタインデー・スペシャル「50回目のファースト・キス」です!
ダークボ ピュアな主人公たちに何度も感動させられ優しい気持ちになれる映画ですよ
トロ ふにゃ〜トロもみとみよっと!
ダークボ つづいては午後ロード恒例のクリント・イーストウッド特集!
ダークボ 実はイーストウッド御大が新作を公開する度にこの特集を編成しています
ダークボ 「荒鷲の要塞」では160分の映画を90分強にまで凝縮したという・・・「テレビの映画」のワザがこめられています!
クロ まさに今日の内容にぴったりの映画だみャ
トロ 楽しみなのニャ〜
ダークボ さらには番組プロデューサー渾身の企画アカデミー女優特集です
ダークボ 「ミザリー」では吹き替えの藤田弓子さんがハマリすぎて怖ぇ〜!
ダークボ ちなみに、2月24日放送の「モンスター」は地上波初放送の作品なんです! 昼間っからでもやる!
クロ うおー! それがテレ東の心意気みャ〜!
トロ まったくも〜ってくらいにふとっぱらなのニャ〜
ダークボ 3月もラジー賞特集とか・・・とんでもないラインナップを予定してますよ〜
クロ うおおおラジー賞! そんなんやっちゃっていいの?
トロ ラジー賞?
クロ 毎年アカデミー賞の前日に発表される・・・その年の最低の映画に与えられる賞みャ
トロ あわわ、なんという特集・・・でもちょっと気になるかも♥
クロ だよみャ
クロ こうしてみると毎日盛りだくさんだみャ〜
トロ お昼からこんなに映画をみれるってとってもゼイタクなのニャ
ダークボ 最近は吹き替えをせずにDVD版の音源を使用する場合が増えていますが・・・往年の名吹き替えを最新のHD画像にシンクロさせる作業もやっています!
ダークボ 午後ロードはいわばテレビ用吹き替え版のライブラリー工場と、言えるでしょうか
トロ うわ〜っ そうにゃんだ!
クロ 名吹き替えはぜひ後世まで残してほしいみャ〜
トロ それじゃダークボさん、今日はどうもありがとうニャ
クロ お会いできて楽しかったみャ〜
ダークボ いえいえ、こちらこそ! みなさん「テレビの映画」を楽しんで下さいね〜
トロ 「テレビの映画」って単に映画を流してるダケじゃないんだね〜
クロ テレビ番組としての条件満たしつつ いかに盛り上げるか・・・
クロ 常に考えながら番組を作っているんだみャ
トロ その時しか見られない特別バージョンになることもあるのニャ
クロ 映画館じゃとても上映されないような映画を・・・掘り起して来る眼力と知識も大したモンだよみャ
トロ ダークボさん、まったくも〜ってくらいに映画大好きだったもんね
クロ 仕事そっちのけで延々映画トークをし続けてたからみャ ホントはもっと沢山いろんなお話を聞いたんだけど・・・
トロ 全部紹介できないのが残念ですニャ
クロ ま、その辺はシネ通!を見てもらうってコトで!
トロ うんうん
トロ ってコトで〜
クロ ダークボさん、テレビ東京さん・・・ご協力ありがとうございました〜!
トロ tkr2000も「テレビの映画」の世界を楽しんでニャ
クロ 劇場の映画とはまた違った味わいがあるのみャ〜
トロ そんじゃ またですニャ〜
クロ またみャ〜
おわり
「ソーシャル・ネットワーク」
2011年1月23日 映画2011年1月23日 東京有楽町「丸の内ピカデリー1」で「ソーシャル・ネットワーク」を観た。
「ソーシャル・ネットワーク」
監督:デヴィッド・フィンチャー
製作総指揮:ケヴィン・スペイシー
原作:ベン・メズリック
脚本:アーロン・ソーキン
出演:ジェシー・アイゼンバーグ(マーク・ザッカーバーグ)、アンドリュー・ガーフィールド(エドゥアルド・サベリン)、ジャスティン・ティンバーレイク(ショーン・パーカー)、アーミー・ハマー(キェメロン&タイラー・ウィンクルボス)、マックス・ミンゲラ(ディビヤ・ナレンドラ)、ブレンダ・ソング(クリスティ・リン)、ルーニー・マーラ(エリカ)
先ずは、本作「ソーシャル・ネットワーク」は大変素晴らしい作品に仕上がっていた。
この2011年1月の時点でこんな素晴らしい作品に遭遇するとは・・・・。
今年の映画は全て、「ソーシャル・ネットワーク」と比較される運命を持ってしまった訳だ。
冒頭、ソニー・ピクチャーズのロゴが表示され、コロムビア映画のコロムビアレディのロゴが表示される。
コロムビアレディのバックにビートがきいた曲が流れ始める。
それは、ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)とエリカ(ルーニー・マーラ)のパブでのデート・シーンに繋がるブリッジとなるスコアである。
その曲がかかりはじめた時点で、わたしはこの映画の虜になっていた。
この映画は何か違うぞ、と。
そのファースト・シーン。
それは、ザッカーバーグとエリカのデート・シーン。
楽しいデートの会話から、別れを描くわずか数分のシーンである。
しかし、その数分で描かれているのは、映画にして2時間分もの情報量をぶち込んだ圧倒的な濃密さを感じさせている。
行間が読み放題なのだ。
マシンガントークの台詞の応酬に見え隠れする、エリカとザッカーバーグの過去。
そしてこの映画の本質が。
とっても重要なシーンが冒頭の数分間に隠れている。
特に、ザッカーバーグがもしかしてアスペルガー症候群じゃないの、と、ファーストシーンにて観客に思わせる手腕に驚きである。
そして、その濃密感は本作のラストまで維持されているのだ。
なんと濃密で芳醇な作品なんだろうか。
言わば数十時間分の物語を2時間にまで濃縮された作品だと感じられる。
そして、その濃密感あふれるシーンの連続は、それらのシーンそれぞれが独立した短編映画にも匹敵する完成度を持っている。
つまり、短編映画として金を取れる程のクオリティを持つシーンを贅沢に散りばめて製作したのが、本作「ソーシャル・ネットワーク」、と言う事なのだ。
何を言ってるかわからない人もいると思うのだが、ワンカットワンカットに力を入れるのは短編でも長編でも同じだと思うのだが、例えば短編やPV、CMと尺が短くなればなるほど、ワンカットへの執念と言うか作り込みの度合いは一般的に高まって行く、と言えるのではないだろうか。作品の予算的に考えても、例えば2時間の作品に20億かけるのと、30秒のCMに1億かけるのとは違うだろう。
別に長編は手を抜いている、と言う事ではないよ、念の為。
で、この「ソーシャル・ネットワーク」は、CMやPVのような秒単価、フレーム単価の仕事が、執念のこもった絵作りや演技、そして演出が行われているような印象を受けるのだ。
まるで、スタンリー・キューブリックがテイクを数十回も繰り返したかのように。
テイクを繰り返す事により、キャストは演技ではなく、素でキャラクターになりきってしまうのだ。
キャストはなんといっても、マーク・ザッカーバーグを演じたジェシー・アイゼンバーグだろう。
もう本作「ソーシャル・ネットワーク」 のザッカーバーグが登場するシーンは、ドキュメンタリーじゃないの、と思うほどに、キャラクターが自然と確立しており、正にザッカーバーグがそこに居たのである。
そして、リフレッシュ、リフレッシュ、リフレッシュ。
いやぁ、本当に良い映画でした。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
余談のチケット購入について。
皆さんご承知のように「丸の内ピカデリー1」は、「有楽町マリオン」の9Fにある、座席指定・定員入替制の劇場で、「ピカデリー1」で映画を観るためには、マリオンの1Fの劇場窓口で、当日入場券を購入したり、前売券を当日入場券に引き換える必要があります。
その目安として、1F劇場窓口には、残席の表示がされています。
その日の表示は二重丸(◎)だったので、残席が沢山あり、ゆったりと観られると思い、次の回の「ソーシャル・ネットワーク」を観る事に決定、前売券を近くのプレイガイドで購入し、再び窓口に舞い戻った。
列に並んでいる人は20人程度。
表示はまだ◎のまま。
しかしながら、窓口に到着したわたしは驚愕する。
実は残席は少なくなっていたのだ。表示は◎なのに。
窓口担当者によると、残席があとわずかにならないと◎の表示は変わらないとのこと。
どうやら同様の苦情が多い様子だった。
◎の表示を信じて列んだのに。
「ソーシャル・ネットワーク」
監督:デヴィッド・フィンチャー
製作総指揮:ケヴィン・スペイシー
原作:ベン・メズリック
脚本:アーロン・ソーキン
出演:ジェシー・アイゼンバーグ(マーク・ザッカーバーグ)、アンドリュー・ガーフィールド(エドゥアルド・サベリン)、ジャスティン・ティンバーレイク(ショーン・パーカー)、アーミー・ハマー(キェメロン&タイラー・ウィンクルボス)、マックス・ミンゲラ(ディビヤ・ナレンドラ)、ブレンダ・ソング(クリスティ・リン)、ルーニー・マーラ(エリカ)
先ずは、本作「ソーシャル・ネットワーク」は大変素晴らしい作品に仕上がっていた。
この2011年1月の時点でこんな素晴らしい作品に遭遇するとは・・・・。
今年の映画は全て、「ソーシャル・ネットワーク」と比較される運命を持ってしまった訳だ。
冒頭、ソニー・ピクチャーズのロゴが表示され、コロムビア映画のコロムビアレディのロゴが表示される。
コロムビアレディのバックにビートがきいた曲が流れ始める。
それは、ザッカーバーグ(ジェシー・アイゼンバーグ)とエリカ(ルーニー・マーラ)のパブでのデート・シーンに繋がるブリッジとなるスコアである。
その曲がかかりはじめた時点で、わたしはこの映画の虜になっていた。
この映画は何か違うぞ、と。
そのファースト・シーン。
それは、ザッカーバーグとエリカのデート・シーン。
楽しいデートの会話から、別れを描くわずか数分のシーンである。
しかし、その数分で描かれているのは、映画にして2時間分もの情報量をぶち込んだ圧倒的な濃密さを感じさせている。
行間が読み放題なのだ。
マシンガントークの台詞の応酬に見え隠れする、エリカとザッカーバーグの過去。
そしてこの映画の本質が。
とっても重要なシーンが冒頭の数分間に隠れている。
特に、ザッカーバーグがもしかしてアスペルガー症候群じゃないの、と、ファーストシーンにて観客に思わせる手腕に驚きである。
そして、その濃密感は本作のラストまで維持されているのだ。
なんと濃密で芳醇な作品なんだろうか。
言わば数十時間分の物語を2時間にまで濃縮された作品だと感じられる。
そして、その濃密感あふれるシーンの連続は、それらのシーンそれぞれが独立した短編映画にも匹敵する完成度を持っている。
つまり、短編映画として金を取れる程のクオリティを持つシーンを贅沢に散りばめて製作したのが、本作「ソーシャル・ネットワーク」、と言う事なのだ。
何を言ってるかわからない人もいると思うのだが、ワンカットワンカットに力を入れるのは短編でも長編でも同じだと思うのだが、例えば短編やPV、CMと尺が短くなればなるほど、ワンカットへの執念と言うか作り込みの度合いは一般的に高まって行く、と言えるのではないだろうか。作品の予算的に考えても、例えば2時間の作品に20億かけるのと、30秒のCMに1億かけるのとは違うだろう。
別に長編は手を抜いている、と言う事ではないよ、念の為。
で、この「ソーシャル・ネットワーク」は、CMやPVのような秒単価、フレーム単価の仕事が、執念のこもった絵作りや演技、そして演出が行われているような印象を受けるのだ。
まるで、スタンリー・キューブリックがテイクを数十回も繰り返したかのように。
テイクを繰り返す事により、キャストは演技ではなく、素でキャラクターになりきってしまうのだ。
キャストはなんといっても、マーク・ザッカーバーグを演じたジェシー・アイゼンバーグだろう。
もう本作「ソーシャル・ネットワーク」 のザッカーバーグが登場するシーンは、ドキュメンタリーじゃないの、と思うほどに、キャラクターが自然と確立しており、正にザッカーバーグがそこに居たのである。
そして、リフレッシュ、リフレッシュ、リフレッシュ。
いやぁ、本当に良い映画でした。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
余談のチケット購入について。
皆さんご承知のように「丸の内ピカデリー1」は、「有楽町マリオン」の9Fにある、座席指定・定員入替制の劇場で、「ピカデリー1」で映画を観るためには、マリオンの1Fの劇場窓口で、当日入場券を購入したり、前売券を当日入場券に引き換える必要があります。
その目安として、1F劇場窓口には、残席の表示がされています。
その日の表示は二重丸(◎)だったので、残席が沢山あり、ゆったりと観られると思い、次の回の「ソーシャル・ネットワーク」を観る事に決定、前売券を近くのプレイガイドで購入し、再び窓口に舞い戻った。
列に並んでいる人は20人程度。
表示はまだ◎のまま。
しかしながら、窓口に到着したわたしは驚愕する。
実は残席は少なくなっていたのだ。表示は◎なのに。
窓口担当者によると、残席があとわずかにならないと◎の表示は変わらないとのこと。
どうやら同様の苦情が多い様子だった。
◎の表示を信じて列んだのに。
2010年12月23日 東京池袋「池袋テアトルダイヤ」で「やぎの冒険」を観た。
今回の試写はマスコミ試写で、上映前に監督の仲村颯悟、プロデューサーの井手裕一の舞台挨拶、上映後にティーチインが行われた。
「やぎの冒険」
2011年1月8日公開:池袋テアトルダイヤ、キネカ大森、ブリリア ショートショート シアター
2月19日公開:テアトル梅田
監督:仲村颯悟
プロデューサー:井手裕一
協力プロデューサー・監督補:月夜見倭建
脚本:山田優樹、岸本司、月夜見倭建
撮影:新田昭仁
編集:森田祥悟
出演:上原宗司(金城裕人)、儀間盛真(大城琉也)、平良進(東江茂)、吉田妙子(東江ヨシ子)、城間やよい(金城裕子)、津波信一(儀間信二)、山城智二(バスの運転手)、仲座健太(東江裕志)、金城博之(良太)
「日本映画史上初、カントクは中学生!!」
冬休み、裕人(上原宗司)はひとりで那覇からバスに乗り、母親(城間やよい)の実家があるヤンバル(沖縄本島北部)・今帰仁村で過ごすことになった。
山と海に囲まれた緑深い集落、赤瓦の家屋、おばぁ(吉田妙子)とおじぃ(平良進)、口の悪い伯父(仲座健太)・・・。
街育ちの裕人だが、同じ歳の従兄弟・琉也(儀間盛真)やその友だちと遊びながら、12歳の感覚をもってぐんぐんとヤンバルの風景の中になじんでいく。
そんなある日、ヤギ小屋にいた2頭の子ヤギのうち1頭がいなくなっていることに気づく・・・。
先ずは本作「やぎの冒険」は大変素晴らしい作品に仕上がっていた。
監督は前述のように現役中学生の仲村颯悟。
わたしは自主制作映画をやっていたので、おそらく多くの人が思うように、本作「やぎの冒険」は、映画制作の実情は、まわりのスタッフが制作を行い、監督が中学生である事を作品の売りとしてプロモーションを行う、言わば監督はお飾り、と言うような作品だと思っていた。
しかしながら、上映後のティーチインでの質疑応答に伴う監督としての語り、そしてティーチイン後、気になった事を監督に直接ぶつけた監督の対応を聞いて驚いたのだが、仲村颯悟は恐るべき中学生だった。
その辺の映画監督でさえ、物語やテーマを恥ずかしげもなくセリフで語らせる時代なのに、それをせずに、婉曲な表現や暗喩で作品のテーマや物語を語る、と言う事を本作でやってのけているのだ。
仲村颯悟恐るべし。
しかし、それを成し遂げたのは、仲村颯悟だけの力ではなく、--もちろんクリエイターとしての力の話ではなく、大人の事情の話である--、井手裕一をはじめとした製作陣の対応が素晴らしかったのだと思う。
例えば、北野武が「その男、凶暴につき」を制作した際、お笑い業界から映画業界に殴り込みをかけた北野武を現場スタッフはバカにし、当初は北野武の思うように撮影がすすまなかったと聞く、しかし、本作「やぎの冒険」のスタッフは違っていた。
中学生の仲村颯悟を子供だと考えずに一人のクリエイターとして扱っていたのだ。
そして、そんな大人たちの中、脚本にしろ、撮影にしろ、編集にしろ、仲村颯悟が自分の好きなように撮ったのがこの「やぎの冒険」なのだ。
ファーストカットはクレーンを使った非常にクオリティの高い映像だったのだが、--カットのラストのカメラをよけるのはご愛嬌だが--、その後、主人公の裕人(金城裕人)が自分の部屋で目覚め、アパートを出るまでのシークエンスは非常に素人っぽく、正に自主制作テイスト、意味ありげに登場する水槽のカットとかもちょっと長く、あぁやっぱりこの程度のレベルの作品なんだな、とわたしは正直思ったが、主人公がアパートを出たカットの高速道路のトラックで驚愕したのを皮切りに、バスに乗って那覇からヤンバルに向かうシークエンスは正直驚きの連続だった。
こいつできるな、と。
特に普天間基地や、基地誘致を公約にする政治家が登場するあたりについては、製作サイドは中学生の撮った作品だと考えると、外すべきではないか、と考えたらしいのだが、そのシーンも普段の沖縄を描きたい、と言う仲村颯悟の意向で残されたそうだ。
更に驚く事に、普天間基地前をバスが通る際、バスの中で主人公の裕人が眠っている、と言う演出まで意図的にしているのだ。
おそらく、本作はほとんどシーン順に撮影していると思うのだが、冒頭の裕人が目覚めるシークエンスから、どんどん巧くなっていくのが、わかるのが気持ちいい。
あぁ、本当に仲村颯悟が演出をしているのだ、と。
映像作家として、良い経験をしているのだな、と。
物語は、前述のように、那覇と言う都会からヤンバルの村に遊びに来た少年が、自分が世話をしたヤギを食べる文化に触れて・・・・、と言う物語である。
あらすじを一読すると、前田哲の「ブタがいた教室」のような傾向の作品かな、と思ったのだが、個人的な感覚としてはロブ・ライナーの「スタンド・バイ・ミー」のような印象を受けた。
命の尊さを問うのではなく、少年の成長を描いているのだろう、と。
それは特に、裕人と琉也と2人の少年、都合4人の少年たちが遊んでいる姿だとか、ヤギを追い、裕人と琉也が焚き火の側で一晩過ごすシークエンスから、そんな印象を受けたのだと思う。
物語はそれほど複雑な物語ではなく、ありきたりで当たり前の物語なのだが、驚くべきほどの暗喩に満ちた作品である。
つまり、行間がめちゃくちゃ多く、行間を楽しめる観客にとっては、--監督の意図を探ろうとする観客に取っては--、めちゃくちゃ楽しめる作品なのだ。
例えば、上映後のティーチインで、ファーストカットとラストカットの意味がわからなかった観客から質問が出た際の演出意図を明示した驚くべき回答や、ティーチイン後の立ち話の際の水槽の暗喩の軽い説明、--しかし彼は決して全てを語ってはいない--、そして普天間基地を通る際、意図的に眠っている裕人。
ちょっと余談だが、脚本で最初に驚いたのは、裕人の母親は朝食はおにぎりを食べなさい、としつこく言うのだが、なんと裕人はパンを食べるのである。
やるな、仲村颯悟。
と思って、笑いがこぼれた。
また余談だが、井手裕一(プロデューサー)は東京の観客のために沖縄の方言に字幕をつけるべきではないか、と進言したそうなのだが、仲村颯悟はそれを退けた。
曰く、「字幕をつけて字幕に集中したら、内容がわからなくなるでしょ」。
なんとも恐ろしい中学生だ。
実際のところ、わたしは沖縄の方言がほとんどわからないので、全編にかけて沖縄の方言、特に興奮したキャラクターが喋る言葉はほとんど何を言っているのか理解できなかった。
でも、伝わるのである。
セリフに頼らない作品は素晴らしいと思う。
もしかしたら、優秀な作品は登場人物が話している言葉を全く知らなくても観客に伝わるんじゃないかな、とも思った。
セリフでテーマを語る凡百の無能な監督に見せてやりたい。
来年1月の公開なので、これ以上は内容に触れないが、本作「やぎの冒険」は、その辺のテレビ局が製作に名を連ねている作品より全然面白い作品に仕上がっている。
恥ずかし気もなく自局でガンガンプロモーションを行い、つまらない映画なのにも関わらず、大傑作だとか大人気上映中とか言って、観客を騙して劇場に呼んでいる作品と比べると雲泥の差を感じる。
このような良質な作品は、きちんとプロモーションを行い、確実にヒットさせなければならない。
それはわたしたち映画を愛する人々の義務である。
映画の未来のために。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
今回の試写はマスコミ試写で、上映前に監督の仲村颯悟、プロデューサーの井手裕一の舞台挨拶、上映後にティーチインが行われた。
「やぎの冒険」
2011年1月8日公開:池袋テアトルダイヤ、キネカ大森、ブリリア ショートショート シアター
2月19日公開:テアトル梅田
監督:仲村颯悟
プロデューサー:井手裕一
協力プロデューサー・監督補:月夜見倭建
脚本:山田優樹、岸本司、月夜見倭建
撮影:新田昭仁
編集:森田祥悟
出演:上原宗司(金城裕人)、儀間盛真(大城琉也)、平良進(東江茂)、吉田妙子(東江ヨシ子)、城間やよい(金城裕子)、津波信一(儀間信二)、山城智二(バスの運転手)、仲座健太(東江裕志)、金城博之(良太)
「日本映画史上初、カントクは中学生!!」
冬休み、裕人(上原宗司)はひとりで那覇からバスに乗り、母親(城間やよい)の実家があるヤンバル(沖縄本島北部)・今帰仁村で過ごすことになった。
山と海に囲まれた緑深い集落、赤瓦の家屋、おばぁ(吉田妙子)とおじぃ(平良進)、口の悪い伯父(仲座健太)・・・。
街育ちの裕人だが、同じ歳の従兄弟・琉也(儀間盛真)やその友だちと遊びながら、12歳の感覚をもってぐんぐんとヤンバルの風景の中になじんでいく。
そんなある日、ヤギ小屋にいた2頭の子ヤギのうち1頭がいなくなっていることに気づく・・・。
先ずは本作「やぎの冒険」は大変素晴らしい作品に仕上がっていた。
監督は前述のように現役中学生の仲村颯悟。
わたしは自主制作映画をやっていたので、おそらく多くの人が思うように、本作「やぎの冒険」は、映画制作の実情は、まわりのスタッフが制作を行い、監督が中学生である事を作品の売りとしてプロモーションを行う、言わば監督はお飾り、と言うような作品だと思っていた。
しかしながら、上映後のティーチインでの質疑応答に伴う監督としての語り、そしてティーチイン後、気になった事を監督に直接ぶつけた監督の対応を聞いて驚いたのだが、仲村颯悟は恐るべき中学生だった。
その辺の映画監督でさえ、物語やテーマを恥ずかしげもなくセリフで語らせる時代なのに、それをせずに、婉曲な表現や暗喩で作品のテーマや物語を語る、と言う事を本作でやってのけているのだ。
仲村颯悟恐るべし。
しかし、それを成し遂げたのは、仲村颯悟だけの力ではなく、--もちろんクリエイターとしての力の話ではなく、大人の事情の話である--、井手裕一をはじめとした製作陣の対応が素晴らしかったのだと思う。
例えば、北野武が「その男、凶暴につき」を制作した際、お笑い業界から映画業界に殴り込みをかけた北野武を現場スタッフはバカにし、当初は北野武の思うように撮影がすすまなかったと聞く、しかし、本作「やぎの冒険」のスタッフは違っていた。
中学生の仲村颯悟を子供だと考えずに一人のクリエイターとして扱っていたのだ。
そして、そんな大人たちの中、脚本にしろ、撮影にしろ、編集にしろ、仲村颯悟が自分の好きなように撮ったのがこの「やぎの冒険」なのだ。
ファーストカットはクレーンを使った非常にクオリティの高い映像だったのだが、--カットのラストのカメラをよけるのはご愛嬌だが--、その後、主人公の裕人(金城裕人)が自分の部屋で目覚め、アパートを出るまでのシークエンスは非常に素人っぽく、正に自主制作テイスト、意味ありげに登場する水槽のカットとかもちょっと長く、あぁやっぱりこの程度のレベルの作品なんだな、とわたしは正直思ったが、主人公がアパートを出たカットの高速道路のトラックで驚愕したのを皮切りに、バスに乗って那覇からヤンバルに向かうシークエンスは正直驚きの連続だった。
こいつできるな、と。
特に普天間基地や、基地誘致を公約にする政治家が登場するあたりについては、製作サイドは中学生の撮った作品だと考えると、外すべきではないか、と考えたらしいのだが、そのシーンも普段の沖縄を描きたい、と言う仲村颯悟の意向で残されたそうだ。
更に驚く事に、普天間基地前をバスが通る際、バスの中で主人公の裕人が眠っている、と言う演出まで意図的にしているのだ。
おそらく、本作はほとんどシーン順に撮影していると思うのだが、冒頭の裕人が目覚めるシークエンスから、どんどん巧くなっていくのが、わかるのが気持ちいい。
あぁ、本当に仲村颯悟が演出をしているのだ、と。
映像作家として、良い経験をしているのだな、と。
物語は、前述のように、那覇と言う都会からヤンバルの村に遊びに来た少年が、自分が世話をしたヤギを食べる文化に触れて・・・・、と言う物語である。
あらすじを一読すると、前田哲の「ブタがいた教室」のような傾向の作品かな、と思ったのだが、個人的な感覚としてはロブ・ライナーの「スタンド・バイ・ミー」のような印象を受けた。
命の尊さを問うのではなく、少年の成長を描いているのだろう、と。
それは特に、裕人と琉也と2人の少年、都合4人の少年たちが遊んでいる姿だとか、ヤギを追い、裕人と琉也が焚き火の側で一晩過ごすシークエンスから、そんな印象を受けたのだと思う。
物語はそれほど複雑な物語ではなく、ありきたりで当たり前の物語なのだが、驚くべきほどの暗喩に満ちた作品である。
つまり、行間がめちゃくちゃ多く、行間を楽しめる観客にとっては、--監督の意図を探ろうとする観客に取っては--、めちゃくちゃ楽しめる作品なのだ。
例えば、上映後のティーチインで、ファーストカットとラストカットの意味がわからなかった観客から質問が出た際の演出意図を明示した驚くべき回答や、ティーチイン後の立ち話の際の水槽の暗喩の軽い説明、--しかし彼は決して全てを語ってはいない--、そして普天間基地を通る際、意図的に眠っている裕人。
ちょっと余談だが、脚本で最初に驚いたのは、裕人の母親は朝食はおにぎりを食べなさい、としつこく言うのだが、なんと裕人はパンを食べるのである。
やるな、仲村颯悟。
と思って、笑いがこぼれた。
また余談だが、井手裕一(プロデューサー)は東京の観客のために沖縄の方言に字幕をつけるべきではないか、と進言したそうなのだが、仲村颯悟はそれを退けた。
曰く、「字幕をつけて字幕に集中したら、内容がわからなくなるでしょ」。
なんとも恐ろしい中学生だ。
実際のところ、わたしは沖縄の方言がほとんどわからないので、全編にかけて沖縄の方言、特に興奮したキャラクターが喋る言葉はほとんど何を言っているのか理解できなかった。
でも、伝わるのである。
セリフに頼らない作品は素晴らしいと思う。
もしかしたら、優秀な作品は登場人物が話している言葉を全く知らなくても観客に伝わるんじゃないかな、とも思った。
セリフでテーマを語る凡百の無能な監督に見せてやりたい。
来年1月の公開なので、これ以上は内容に触れないが、本作「やぎの冒険」は、その辺のテレビ局が製作に名を連ねている作品より全然面白い作品に仕上がっている。
恥ずかし気もなく自局でガンガンプロモーションを行い、つまらない映画なのにも関わらず、大傑作だとか大人気上映中とか言って、観客を騙して劇場に呼んでいる作品と比べると雲泥の差を感じる。
このような良質な作品は、きちんとプロモーションを行い、確実にヒットさせなければならない。
それはわたしたち映画を愛する人々の義務である。
映画の未来のために。
☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その4
2010年12月11日 映画2010年12月1日 東京板橋「ワーナーマイカルシネマズ板橋」で「SPACE BATTLE SHIP ヤマト」を観た。
と言う話は書きましたね。
でも今日も書いてみようと思います。だって、語り甲斐がある作品なんだもん。
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険
http://29346.diarynote.jp/201012012009113939/
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その2
http://29346.diarynote.jp/201012040039316354/
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その3
http://29346.diarynote.jp/201012040202165809/
3.脚本
今日は脚本について考えていきたいと思います。
しかしながら本作公開されてからまだ10日位なので、メインプロットや大きなネタバレについてはまだ書かないことにしたいと思います。
従って、重箱の隅をつつくような、細部のプロットについて考えていきたいと思います。
まあ、神は細部に宿る、って言う言葉もありますけどね。
さて、本作「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の脚本は佐藤嗣麻子です。
ご存知の方はご存知だと思いますが、彼女は本作の監督である山崎貴の奥さんです。
だからどうこうと言う話ではありませんが、監督と脚本が夫婦という事になりますと、一般の映画と比較すると、監督の意向が脚本に生かされている可能性が高い、と考えるのが一般的だと思いますよね。
因みに、佐藤嗣麻子が脚本を務めた最近の映画をあげてみましょう。
2010「SPACE BATTLESHIP ヤマト」(脚本)
2010「ゴースト もういちど抱きしめたい」(脚本)
2009「BALLAD 名もなき恋のうた」(脚本協力/脚本は山崎貴)
2008「K-20(TWENTY) 怪人二十面相・伝」(監督、脚本)
2007「アンフェア the movie」(脚本)
いかがでしょう。結構話題作が並んでいますね。多分佐藤嗣麻子は一般的に、売れっ子脚本家と言う評価なのだと思います。
因みに、上記以外のキャリアはテレビムービーが多く、またテレビムービーの監督(演出)も結構やっていますね。
さて、今日の本題ですが、本作「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の脚本について、気になる部分をあげていきたいと思います。
先ほどお話ししたように細部についてのお話ですので、「ヤマト」と言う重箱の隅をちょこちょことつついていきたいと思います。
1)日本の皆さん
ヤマトのイスカンダル星への派遣が決定した後、橋爪功演じる地球防衛軍司令長官はテレビでその事を発表するのですが、その演説の際、驚いた事に「日本の皆さん!」と語りかけるのです。
ということは、地球防衛軍は日本の組織だと言う事なのでしょうか。
それとも、日本以外の国はガミラスの遊星爆弾により壊滅してしまったのでしょうか。
一気に夢から醒める瞬間でした。
2)14万8千光年
ヤマトは14万8千光年の彼方のイスカンダル星へ向かっているはずなのですが、脚本上、地球とイスカンダル星との距離が明確に語られるのは物語の終盤なのです。
あまりにも遠い、絶望的な旅だという事が明示されないまま物語がすすみます。
また、その絶望的に遠い距離のはずなのに、あっと言う間にイスカンダル星に到着してしまうのも問題だと思います。
先日お話ししたようにワープが簡単にできてしまうためなのか、またどの辺を航宙しているのかが明確に描写されていないせいか、脚本からは時間経過が全く感じられません。
また、宇宙空間を航宙しているのにも関わらず、宇宙空間の描写に乏しく、艦内だけの描写に終始しているのは何故なんでしょう。
絶望的な旅である感じが伝わってきません。
3)古代、波動砲のマニュアルは読んであるな
新造戦艦宇宙戦艦ヤマトの艦橋にやってきた古代進(木村拓哉)に対し、沖田艦長が波動砲を撃つように指示をするシークエンスで、真田さん(柳葉敏郎)が「古代、波動砲のマニュアルは読んであるな」と念をおすのですが、新造戦艦の必殺兵器の発射シークエンスだと言うのに、あまりにもリアリティが欠如していると言わざるを得ません。
そのシークエンスでは、ヤマト発進時にガミラスの惑星間ミサイルがヤマト目がけて飛んでくるのですが、古代はそれを波動砲で撃ち落とそうとする訳です。
しかも大気圏内、と言うか地表近くで。
オリジナルの「ヤマト」では主砲で大型ミサイルを撃ち落とすシークエンスが描かれ、ミサイルのヤマト直撃寸前でミサイルを落とす素晴らしいシークエンスなのですが、先日お話ししたように約70キロ先の惑星間ミサイルを波動砲で撃つ、しかもマニュアルしか読んだ事が無い戦闘班班長の古代がはじめて訪れたブリッジで、見よう見まねで撃っちゃうんですよ。びっくりですよね。
あと脚本と言うか、盛り上がりを考えると、いきなり必殺技(波動砲)じゃなくて、軽いジャブ(主砲)を見せて欲しいですよね。
4)あれは嘘だ
あるプロットと言うか設定について、登場人物があれは嘘だったんだ、と言うのですが、そりゃ無いぜ、と思ってしまう。
まあ嘘なら嘘でも良いのですが、脚本上、もうすこし上手に処理できたのではないか、と思います。
何のために、何を目的としてそんなプロットを採用したのか理解に苦しむ次第です。
5)エピソードの取捨選択が意味不明
冒頭の戦闘が、冥王星から火星になり、古代がカプセルを見つけるのが火星から地球になったのは良いとしても、初波動砲と初ワープのシークエンスが急ぎ過ぎです。
あと、反射衛星砲はやろうよ、と思った。
地球との最後の通信のシークエンスをやる位だったら反射衛星砲を実写化しろよ、と。
地球との最後の通信により、古代の過去やクルーのお涙頂戴的なシーンは排除して良かったんじゃないかと思う。
それより描くべきシーンがあったのではないか、と。
今回のガミラスの設定上、敵の存在感が希薄なのは仕方がないのかも知れないが、ヤマトが地球以上のオーバーテクノロジーを誇る敵対宇宙人の攻撃にさらされているようには全く思えないのだ。
通り一遍の攻撃を繰り返すガミラスに失望してしまう。
また、ドリルミサイルの脚本上の処理もおかしい。
先ほどの通り、ガミラスの設定があれなので、ドメル艦隊をだせ、とは言わないが、ドリルミサイルに関するシークエンスについて、脚本を適当にでっちあげた感が否めない。
これについては、全般的に古代の活躍が多くなる反面、他のクルーの見せ場が減っているのだが、例えば中盤までに真田さんの活躍がないため、ラスト付近の真田さんの活躍の説得力がない。
伏線がないまま、活躍する流れになっているのだ。
そして何より、真田さんのワープの説明がないのは致命的だと思う。
あの緑の照明の暗い作戦室で、床の大型スクリーンでワープの説明をしたり、ヤマトの航路の説明をして欲しかった。
「ヤマト」好きの柳葉敏郎もやりたかったと思うよ。
また驚いちゃうのは、「宇宙戦艦ヤマト」の映画化なんだから、「ヤマト」だけ描いていれば良いのに、「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」のエピソードやプロットを突っ込むのはいかがなものかと思った。
ただでさえ2時間しかないのに、映画2本のプロットをぶち込んだ挙げ句、ファンが重要だと思うようなシークエンスをポコポコと落とすのはどう考えてもおかしいと言わざるを得ない。
本作に、「さらば宇宙戦艦ヤマト」で登場するはずの斉藤始(池内博之)が出て来たんで、こりゃ「さらば・・」の仁王立をやらせたいんだな、と思ったけど、そんなのやらなくて良かった、と言うかそのエピソードは「ヤマト」にはいらないたろう、と思った。
6)ラストのキャラクターは何よ
ラストに出てくるキャラクターとその舞台(風景の意)は、多分「GALACTICA/ギャラクティカ」のラスト付近を意識している、と言うか影響を受けているんだと思うけど、そんな暇あったのかよ、と思った。
まあ、途中でフェードアウトするカットがあるので、普通の映画ファンなら想像できるラストだと思うけど、いかがなものかと思ったね。
7)志願兵って何よ
地球は壊滅状態で、最後の希望としてヤマトのクルーを地球全土から募集しているはずなのに、残される人類の暴動も起きないし、クルー選抜の描写もないのは何故。
想像力がなさ過ぎると思う。
地球防衛軍指令長官の演説が「日本の皆さん」だから、ヤマトのクルーは日本人ばかりなのは仕方ないけど。(本当は仕方なくはないんだけど)
もう少し、背景を描写して欲しいと思ったね。
8)大和は希望の戦艦だったのか
古代は「大和は最後の希望のために戦った戦艦だ」的な発言をするのだけど、第二次世界大戦の戦艦大和は、一億総特攻のさきがけだったのではないかな。
この辺りに日本人が「ヤマト」を描く難しさがあるのだと思うのだが、脚本上クリアできない問題ではないと思った。
9)ガミラスの処理
おそらく、大人の事情で人類が人型ヒューマノイドと戦争する映画を作る事が出来なかったため、ガミラス人やイスカンダル人があんな処理になってしまったのだと思うが、それならそれで、ガミラスとかイスカンダルとか言う名詞や人類の事を、イスカンダルやガミラスが理解している理由が不明確で納得性に欠ける。
プロットを変えるのなら変えるで、多くの人が納得する合理的なルール作りを心がけて欲しい。
ガミラスにもガミラスの理由があり、ガミラスも地球と同様の人類である、と言う観点から勧善懲悪ではない物語が期待されているのではないか、と思う。
10)ガミラス艦の強度が以前のデータと異なっています
これは、冒頭の火星域での戦闘の際の相原のセリフ。
これも多分「GALACTICA/ギャラクティカ」の影響だと思うんだけど、そんなの想像できるでしょ。何しろガミラスは超オーバーテクノロジーの存在なんだよ。
このセリフは、ガミラスの描き方のひとつの伏線になっているんだけどね。
一時保存です。
と言う話は書きましたね。
でも今日も書いてみようと思います。だって、語り甲斐がある作品なんだもん。
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険
http://29346.diarynote.jp/201012012009113939/
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その2
http://29346.diarynote.jp/201012040039316354/
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その3
http://29346.diarynote.jp/201012040202165809/
3.脚本
今日は脚本について考えていきたいと思います。
しかしながら本作公開されてからまだ10日位なので、メインプロットや大きなネタバレについてはまだ書かないことにしたいと思います。
従って、重箱の隅をつつくような、細部のプロットについて考えていきたいと思います。
まあ、神は細部に宿る、って言う言葉もありますけどね。
さて、本作「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の脚本は佐藤嗣麻子です。
ご存知の方はご存知だと思いますが、彼女は本作の監督である山崎貴の奥さんです。
だからどうこうと言う話ではありませんが、監督と脚本が夫婦という事になりますと、一般の映画と比較すると、監督の意向が脚本に生かされている可能性が高い、と考えるのが一般的だと思いますよね。
因みに、佐藤嗣麻子が脚本を務めた最近の映画をあげてみましょう。
2010「SPACE BATTLESHIP ヤマト」(脚本)
2010「ゴースト もういちど抱きしめたい」(脚本)
2009「BALLAD 名もなき恋のうた」(脚本協力/脚本は山崎貴)
2008「K-20(TWENTY) 怪人二十面相・伝」(監督、脚本)
2007「アンフェア the movie」(脚本)
いかがでしょう。結構話題作が並んでいますね。多分佐藤嗣麻子は一般的に、売れっ子脚本家と言う評価なのだと思います。
因みに、上記以外のキャリアはテレビムービーが多く、またテレビムービーの監督(演出)も結構やっていますね。
さて、今日の本題ですが、本作「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の脚本について、気になる部分をあげていきたいと思います。
先ほどお話ししたように細部についてのお話ですので、「ヤマト」と言う重箱の隅をちょこちょことつついていきたいと思います。
1)日本の皆さん
ヤマトのイスカンダル星への派遣が決定した後、橋爪功演じる地球防衛軍司令長官はテレビでその事を発表するのですが、その演説の際、驚いた事に「日本の皆さん!」と語りかけるのです。
ということは、地球防衛軍は日本の組織だと言う事なのでしょうか。
それとも、日本以外の国はガミラスの遊星爆弾により壊滅してしまったのでしょうか。
一気に夢から醒める瞬間でした。
2)14万8千光年
ヤマトは14万8千光年の彼方のイスカンダル星へ向かっているはずなのですが、脚本上、地球とイスカンダル星との距離が明確に語られるのは物語の終盤なのです。
あまりにも遠い、絶望的な旅だという事が明示されないまま物語がすすみます。
また、その絶望的に遠い距離のはずなのに、あっと言う間にイスカンダル星に到着してしまうのも問題だと思います。
先日お話ししたようにワープが簡単にできてしまうためなのか、またどの辺を航宙しているのかが明確に描写されていないせいか、脚本からは時間経過が全く感じられません。
また、宇宙空間を航宙しているのにも関わらず、宇宙空間の描写に乏しく、艦内だけの描写に終始しているのは何故なんでしょう。
絶望的な旅である感じが伝わってきません。
3)古代、波動砲のマニュアルは読んであるな
新造戦艦宇宙戦艦ヤマトの艦橋にやってきた古代進(木村拓哉)に対し、沖田艦長が波動砲を撃つように指示をするシークエンスで、真田さん(柳葉敏郎)が「古代、波動砲のマニュアルは読んであるな」と念をおすのですが、新造戦艦の必殺兵器の発射シークエンスだと言うのに、あまりにもリアリティが欠如していると言わざるを得ません。
そのシークエンスでは、ヤマト発進時にガミラスの惑星間ミサイルがヤマト目がけて飛んでくるのですが、古代はそれを波動砲で撃ち落とそうとする訳です。
しかも大気圏内、と言うか地表近くで。
オリジナルの「ヤマト」では主砲で大型ミサイルを撃ち落とすシークエンスが描かれ、ミサイルのヤマト直撃寸前でミサイルを落とす素晴らしいシークエンスなのですが、先日お話ししたように約70キロ先の惑星間ミサイルを波動砲で撃つ、しかもマニュアルしか読んだ事が無い戦闘班班長の古代がはじめて訪れたブリッジで、見よう見まねで撃っちゃうんですよ。びっくりですよね。
あと脚本と言うか、盛り上がりを考えると、いきなり必殺技(波動砲)じゃなくて、軽いジャブ(主砲)を見せて欲しいですよね。
4)あれは嘘だ
あるプロットと言うか設定について、登場人物があれは嘘だったんだ、と言うのですが、そりゃ無いぜ、と思ってしまう。
まあ嘘なら嘘でも良いのですが、脚本上、もうすこし上手に処理できたのではないか、と思います。
何のために、何を目的としてそんなプロットを採用したのか理解に苦しむ次第です。
5)エピソードの取捨選択が意味不明
冒頭の戦闘が、冥王星から火星になり、古代がカプセルを見つけるのが火星から地球になったのは良いとしても、初波動砲と初ワープのシークエンスが急ぎ過ぎです。
あと、反射衛星砲はやろうよ、と思った。
地球との最後の通信のシークエンスをやる位だったら反射衛星砲を実写化しろよ、と。
地球との最後の通信により、古代の過去やクルーのお涙頂戴的なシーンは排除して良かったんじゃないかと思う。
それより描くべきシーンがあったのではないか、と。
今回のガミラスの設定上、敵の存在感が希薄なのは仕方がないのかも知れないが、ヤマトが地球以上のオーバーテクノロジーを誇る敵対宇宙人の攻撃にさらされているようには全く思えないのだ。
通り一遍の攻撃を繰り返すガミラスに失望してしまう。
また、ドリルミサイルの脚本上の処理もおかしい。
先ほどの通り、ガミラスの設定があれなので、ドメル艦隊をだせ、とは言わないが、ドリルミサイルに関するシークエンスについて、脚本を適当にでっちあげた感が否めない。
これについては、全般的に古代の活躍が多くなる反面、他のクルーの見せ場が減っているのだが、例えば中盤までに真田さんの活躍がないため、ラスト付近の真田さんの活躍の説得力がない。
伏線がないまま、活躍する流れになっているのだ。
そして何より、真田さんのワープの説明がないのは致命的だと思う。
あの緑の照明の暗い作戦室で、床の大型スクリーンでワープの説明をしたり、ヤマトの航路の説明をして欲しかった。
「ヤマト」好きの柳葉敏郎もやりたかったと思うよ。
また驚いちゃうのは、「宇宙戦艦ヤマト」の映画化なんだから、「ヤマト」だけ描いていれば良いのに、「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」のエピソードやプロットを突っ込むのはいかがなものかと思った。
ただでさえ2時間しかないのに、映画2本のプロットをぶち込んだ挙げ句、ファンが重要だと思うようなシークエンスをポコポコと落とすのはどう考えてもおかしいと言わざるを得ない。
本作に、「さらば宇宙戦艦ヤマト」で登場するはずの斉藤始(池内博之)が出て来たんで、こりゃ「さらば・・」の仁王立をやらせたいんだな、と思ったけど、そんなのやらなくて良かった、と言うかそのエピソードは「ヤマト」にはいらないたろう、と思った。
6)ラストのキャラクターは何よ
ラストに出てくるキャラクターとその舞台(風景の意)は、多分「GALACTICA/ギャラクティカ」のラスト付近を意識している、と言うか影響を受けているんだと思うけど、そんな暇あったのかよ、と思った。
まあ、途中でフェードアウトするカットがあるので、普通の映画ファンなら想像できるラストだと思うけど、いかがなものかと思ったね。
7)志願兵って何よ
地球は壊滅状態で、最後の希望としてヤマトのクルーを地球全土から募集しているはずなのに、残される人類の暴動も起きないし、クルー選抜の描写もないのは何故。
想像力がなさ過ぎると思う。
地球防衛軍指令長官の演説が「日本の皆さん」だから、ヤマトのクルーは日本人ばかりなのは仕方ないけど。(本当は仕方なくはないんだけど)
もう少し、背景を描写して欲しいと思ったね。
8)大和は希望の戦艦だったのか
古代は「大和は最後の希望のために戦った戦艦だ」的な発言をするのだけど、第二次世界大戦の戦艦大和は、一億総特攻のさきがけだったのではないかな。
この辺りに日本人が「ヤマト」を描く難しさがあるのだと思うのだが、脚本上クリアできない問題ではないと思った。
9)ガミラスの処理
おそらく、大人の事情で人類が人型ヒューマノイドと戦争する映画を作る事が出来なかったため、ガミラス人やイスカンダル人があんな処理になってしまったのだと思うが、それならそれで、ガミラスとかイスカンダルとか言う名詞や人類の事を、イスカンダルやガミラスが理解している理由が不明確で納得性に欠ける。
プロットを変えるのなら変えるで、多くの人が納得する合理的なルール作りを心がけて欲しい。
ガミラスにもガミラスの理由があり、ガミラスも地球と同様の人類である、と言う観点から勧善懲悪ではない物語が期待されているのではないか、と思う。
10)ガミラス艦の強度が以前のデータと異なっています
これは、冒頭の火星域での戦闘の際の相原のセリフ。
これも多分「GALACTICA/ギャラクティカ」の影響だと思うんだけど、そんなの想像できるでしょ。何しろガミラスは超オーバーテクノロジーの存在なんだよ。
このセリフは、ガミラスの描き方のひとつの伏線になっているんだけどね。
一時保存です。
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その3
2010年12月4日 映画2010年12月1日 東京板橋「ワーナーマイカルシネマズ板橋」で「SPACE BATTLE SHIP ヤマト」を観た。
と言う話は先日書きましたね。
でも今日も書いてみようと思います。
だって、語り甲斐がある作品なんだもん。
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険
http://29346.diarynote.jp/201012012009113939/
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その2
http://29346.diarynote.jp/201012040039316354/
2.SFとしての「宇宙戦艦ヤマト」
時に西暦2199年。
そう、「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の舞台は2199年。
しかも地球は、ガミラスから無数の遊星爆弾の無差別攻撃を受け、地表に住めなくなってしまった人類は、その赤茶けた地表から地下都市へと移り住んでいるのだ。
そんな中、製作された「SPACE BATTLESHIP ヤマト」に期待されているのは、21世紀のSF作品であろう。
ぼくだけじゃないでしょ。骨太なSFドラマを期待しているのは。
ところで、最近のSF映画のトレンドは、ハードなSF世界の構築に腐心しているのではないだろうか。
そんな状況の中、当然ながら我が国が誇るSF映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」もハードSFとしての作風が期待されていたのではないかと思う。
表層だけではなく、根底に流れる精神もね。
と言う訳で、本作をSF映画として考えた場合、「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の世界観の構築にとっては、所謂SF考証が非常に重要になってくると考えられるのだ。
まあ、今日はSF考証だなんてなんだか小難しい固い事を言うのではなく、SF映画として本作を眺めた場合の違和感を考えていきたいと思う。
1)ユニフォームは皮革製!?
ヤマト乗組員のユニフォームのデザインはテレビアニメのデザインを踏襲しているのだが、上着はどうやら皮革製であるように描写されている。
ユニフォームの下(パンツ)はちとださいですけどね。
おいおい、地球の地表は放射能汚染で誰も住めない環境で人類は細々と地下都市で暮らしてるんだぞ、なのにユニフォームは皮革製品かよ。
牛とか羊とか馬とかの皮革だよ。
人間が地下で細々と暮らしているのに・・・・
もしそうなら、状況的に考えて超高級品じゃねーか、と思います。
まあ合成皮革かも知れませんが、見るからに普通の皮革みたいですよね。
こんな環境で、皮革を使うのはおかしいんじゃない、と思う人はいなかったのでしょうか。
2)酒ばっかり呑んでんじゃねーよ
まあ、ヤマトなんですから、別に艦内で酒を飲んでも構わないのですが、暇さえあれば誰もがみんな酒を飲んでます。
ヤマトが地球を旅立った後、ヤマト艦内では、戦闘しているか酒呑んでいるかのどちらかのシーンしかありません。
で面白いのは、クルーの皆さんはソフトドリンクを飲む場合はガラス製のグラスやデキャンタを使っているのですが、酒を呑む場合は金属製のカップ、(おそらく錫のカップだと思います)を使っているようなのです。
日本酒に錫のカップ、と言うこだわりなのだと思いますが、こだわる意味がわかりません。
美術のコンセプトと言うか、世界観の構築に錫のカップが貢献しているのでしょうか。
意味がわからないと言えば、娯楽室とか食堂のプロダクションデザインがおかしいです。
その辺の家具屋で売っているような椅子やテーブルがそのまま置いてあるのです。
従って、2199年の宇宙戦艦の内装とは思えないのです。
前述のように、SF映画としては世界観の構築が重要だと思うのですが、その重要な世界観の構築がなされていない訳ですね。
しかも、無重力状態になったら、使い物にならないような家具や食器ですよ。
って言うか、艦船としても考えられない位の普通の家具です。
狭い艦船内を有効に活用していない戦艦なんですね。ヤマトは。
無重力に耐えられる家具や食器にしようとは、誰も考えつかなかったのでしょうか。
ヤマトの艦内は狭いので、コンパクトで合理的な家具にしようと思わなかったのでしょうか。
SF映画なのに、家具とか食器とか言ってる時点でおかしいですよね。
3)第三艦橋が!
まあ、第三艦橋が壊れたりするのはヤマトのお約束なので良いのですが、伏線がしょぼいし(「ローレライ」の野球のボールかと思いましたよ)、その壊し方がまたもや「GALACTICA/ギャラクティカ」です。
脚本上、ただ単に、第三艦橋を破壊するために存在する伏線が哀れです。
ところで、「GALACTICA/ギャラクティカ」の女性戦闘機パイロットであるスターバックがオリンピックキャリアと言う民間船を撃つエピソードがあるのですが、これはそのエピソードのパクリです。
まあ、黒木メイサが演じる森雪のキャラクター自体が「GALACTICA/ギャラクティカ」のスターバックのパクリなんですから仕方がないんですけどね。
で、第三艦橋の壊れ方なんですが、不思議な事に宇宙空間なのに下に落ちていくんですね。これが。
無重力なのにおかしいな、と思う人はいなかったんでしょうか。
4)キーボード!?
ヤマトのブリッジにキーボードがたくさんあります。
2199年に現代のキーボードみたいなものが残っているのかな。
そのキーボードで宇宙戦艦をコントロールしているのかな。
キーボードで宇宙戦艦を動かすなんて安易ですよね。
誰もおかしいとおもわなかったのかな。
5)通信室
クルーのIDは4桁でした。
通信室での通信には、認識票(ドッグタグ)に表示されている認識番号が必要な設定だったのですが、その桁数はなんと4桁でした。
いくらなんでも4桁はないでしょう。
アメリカの社会保障番号は9桁なので、それにおまけがついて10〜12桁くらいじゃないですかね。
ところで、この通信は、即時性が維持されているんですが、ヤマトは亜空間通信でしたっけ。説明なかったですよね。
誰もおかしいと思わなかったのでしょうか。
6) I have control.
波動砲を撃つ際、古代は島から操舵を受け取るのですが、所謂You have control. I have control. ですね。(ヤマトではそんなこと言ってないけど)操舵を受け取る際の古代の操縦桿らしきもの、がとっても小さいし、操舵を受け取った瞬間ヤマトが揺れるんですよ。
これは設定上どうなんでしょうか。
例えば、南部に操舵を渡した方が良いんじゃないのかな、と思ったね。
目標、ヤマトの軸線に乗りました、とか言ってるのは南部だし。
船体を固定するのもどうかな。
あと、数十キロ先の目標を波動砲で撃つのは良いとして、目標が描写されないので、当たったのか外れたのかもわからないですね。
観客に危機感が全く伝わらないのです。
7)次元レーダーと作戦室
オリジナルのヤマトのブリッジ(第一艦橋)の中央には次元レーダーと言う半球状のレーダーが置いてあったのですが、今回のヤマトにはありませんでした。
と言うか、「GALACTICA/ギャラクティカ」でおなじみの作戦用のテーブルみたいのが、ブリッジの中央、艦長席と古代の席の間に、ありますね。
「GALACTICA/ギャラクティカ」へのオマージュ以外の理由で、次元レーダーをブリッジに置かないで、作戦用のテーブルを置く意味がわからない。
あと真田さんがワープの説明をする作戦室がなかった。
この作戦室は「新世紀エヴァンゲリオン」とかでも引用されているビジュアル的に大変素晴らしいプロップなのに何故出てこなかったのかな。非常にもったいないですね。
そういった細部の描写が重要だと思うのですがね。
8)ワープと波動砲って簡単ね。
エネルギーの充填のタイムラグはまあ良いんだけど、ワープも波動砲も危機感が全くない。
ワープについての真田さんの説明がなかったせいか設定の問題か、ワープのタイミングを間違えると宇宙が吹っ飛ぶ、と言う設定でもなかったし、古代が無理矢理ワープするシークエンスも全く危機感がない。
因みに、古代が無理矢理ワープするのも、「GALACTICA/ギャラクティカ」の最終回のジャンプのシークエンスのパクリでしょうかね。
9)アナライザー!
あの使い方はどうよ。
あの愛すべきキャラクターがあんな扱いに・・・・
10)ワープ
ワープのビジュアルどうですか。
煙と言うか水蒸気みたいの出てるけど大丈夫ですかね。
11)コスモ・ゼロ
発進する際、古代の首ガクってなんだよ。
いつの時代の演出だよ。
今時、F1だって首ガクってならないようにヘッドレストついてるよ。
まだまだつづくね・・・・
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その4
http://29346.diarynote.jp/201012112316056938/
と言う話は先日書きましたね。
でも今日も書いてみようと思います。
だって、語り甲斐がある作品なんだもん。
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険
http://29346.diarynote.jp/201012012009113939/
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その2
http://29346.diarynote.jp/201012040039316354/
2.SFとしての「宇宙戦艦ヤマト」
時に西暦2199年。
そう、「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の舞台は2199年。
しかも地球は、ガミラスから無数の遊星爆弾の無差別攻撃を受け、地表に住めなくなってしまった人類は、その赤茶けた地表から地下都市へと移り住んでいるのだ。
そんな中、製作された「SPACE BATTLESHIP ヤマト」に期待されているのは、21世紀のSF作品であろう。
ぼくだけじゃないでしょ。骨太なSFドラマを期待しているのは。
ところで、最近のSF映画のトレンドは、ハードなSF世界の構築に腐心しているのではないだろうか。
そんな状況の中、当然ながら我が国が誇るSF映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」もハードSFとしての作風が期待されていたのではないかと思う。
表層だけではなく、根底に流れる精神もね。
と言う訳で、本作をSF映画として考えた場合、「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の世界観の構築にとっては、所謂SF考証が非常に重要になってくると考えられるのだ。
まあ、今日はSF考証だなんてなんだか小難しい固い事を言うのではなく、SF映画として本作を眺めた場合の違和感を考えていきたいと思う。
1)ユニフォームは皮革製!?
ヤマト乗組員のユニフォームのデザインはテレビアニメのデザインを踏襲しているのだが、上着はどうやら皮革製であるように描写されている。
ユニフォームの下(パンツ)はちとださいですけどね。
おいおい、地球の地表は放射能汚染で誰も住めない環境で人類は細々と地下都市で暮らしてるんだぞ、なのにユニフォームは皮革製品かよ。
牛とか羊とか馬とかの皮革だよ。
人間が地下で細々と暮らしているのに・・・・
もしそうなら、状況的に考えて超高級品じゃねーか、と思います。
まあ合成皮革かも知れませんが、見るからに普通の皮革みたいですよね。
こんな環境で、皮革を使うのはおかしいんじゃない、と思う人はいなかったのでしょうか。
2)酒ばっかり呑んでんじゃねーよ
まあ、ヤマトなんですから、別に艦内で酒を飲んでも構わないのですが、暇さえあれば誰もがみんな酒を飲んでます。
ヤマトが地球を旅立った後、ヤマト艦内では、戦闘しているか酒呑んでいるかのどちらかのシーンしかありません。
で面白いのは、クルーの皆さんはソフトドリンクを飲む場合はガラス製のグラスやデキャンタを使っているのですが、酒を呑む場合は金属製のカップ、(おそらく錫のカップだと思います)を使っているようなのです。
日本酒に錫のカップ、と言うこだわりなのだと思いますが、こだわる意味がわかりません。
美術のコンセプトと言うか、世界観の構築に錫のカップが貢献しているのでしょうか。
意味がわからないと言えば、娯楽室とか食堂のプロダクションデザインがおかしいです。
その辺の家具屋で売っているような椅子やテーブルがそのまま置いてあるのです。
従って、2199年の宇宙戦艦の内装とは思えないのです。
前述のように、SF映画としては世界観の構築が重要だと思うのですが、その重要な世界観の構築がなされていない訳ですね。
しかも、無重力状態になったら、使い物にならないような家具や食器ですよ。
って言うか、艦船としても考えられない位の普通の家具です。
狭い艦船内を有効に活用していない戦艦なんですね。ヤマトは。
無重力に耐えられる家具や食器にしようとは、誰も考えつかなかったのでしょうか。
ヤマトの艦内は狭いので、コンパクトで合理的な家具にしようと思わなかったのでしょうか。
SF映画なのに、家具とか食器とか言ってる時点でおかしいですよね。
3)第三艦橋が!
まあ、第三艦橋が壊れたりするのはヤマトのお約束なので良いのですが、伏線がしょぼいし(「ローレライ」の野球のボールかと思いましたよ)、その壊し方がまたもや「GALACTICA/ギャラクティカ」です。
脚本上、ただ単に、第三艦橋を破壊するために存在する伏線が哀れです。
ところで、「GALACTICA/ギャラクティカ」の女性戦闘機パイロットであるスターバックがオリンピックキャリアと言う民間船を撃つエピソードがあるのですが、これはそのエピソードのパクリです。
まあ、黒木メイサが演じる森雪のキャラクター自体が「GALACTICA/ギャラクティカ」のスターバックのパクリなんですから仕方がないんですけどね。
で、第三艦橋の壊れ方なんですが、不思議な事に宇宙空間なのに下に落ちていくんですね。これが。
無重力なのにおかしいな、と思う人はいなかったんでしょうか。
4)キーボード!?
ヤマトのブリッジにキーボードがたくさんあります。
2199年に現代のキーボードみたいなものが残っているのかな。
そのキーボードで宇宙戦艦をコントロールしているのかな。
キーボードで宇宙戦艦を動かすなんて安易ですよね。
誰もおかしいとおもわなかったのかな。
5)通信室
クルーのIDは4桁でした。
通信室での通信には、認識票(ドッグタグ)に表示されている認識番号が必要な設定だったのですが、その桁数はなんと4桁でした。
いくらなんでも4桁はないでしょう。
アメリカの社会保障番号は9桁なので、それにおまけがついて10〜12桁くらいじゃないですかね。
ところで、この通信は、即時性が維持されているんですが、ヤマトは亜空間通信でしたっけ。説明なかったですよね。
誰もおかしいと思わなかったのでしょうか。
6) I have control.
波動砲を撃つ際、古代は島から操舵を受け取るのですが、所謂You have control. I have control. ですね。(ヤマトではそんなこと言ってないけど)操舵を受け取る際の古代の操縦桿らしきもの、がとっても小さいし、操舵を受け取った瞬間ヤマトが揺れるんですよ。
これは設定上どうなんでしょうか。
例えば、南部に操舵を渡した方が良いんじゃないのかな、と思ったね。
目標、ヤマトの軸線に乗りました、とか言ってるのは南部だし。
船体を固定するのもどうかな。
あと、数十キロ先の目標を波動砲で撃つのは良いとして、目標が描写されないので、当たったのか外れたのかもわからないですね。
観客に危機感が全く伝わらないのです。
7)次元レーダーと作戦室
オリジナルのヤマトのブリッジ(第一艦橋)の中央には次元レーダーと言う半球状のレーダーが置いてあったのですが、今回のヤマトにはありませんでした。
と言うか、「GALACTICA/ギャラクティカ」でおなじみの作戦用のテーブルみたいのが、ブリッジの中央、艦長席と古代の席の間に、ありますね。
「GALACTICA/ギャラクティカ」へのオマージュ以外の理由で、次元レーダーをブリッジに置かないで、作戦用のテーブルを置く意味がわからない。
あと真田さんがワープの説明をする作戦室がなかった。
この作戦室は「新世紀エヴァンゲリオン」とかでも引用されているビジュアル的に大変素晴らしいプロップなのに何故出てこなかったのかな。非常にもったいないですね。
そういった細部の描写が重要だと思うのですがね。
8)ワープと波動砲って簡単ね。
エネルギーの充填のタイムラグはまあ良いんだけど、ワープも波動砲も危機感が全くない。
ワープについての真田さんの説明がなかったせいか設定の問題か、ワープのタイミングを間違えると宇宙が吹っ飛ぶ、と言う設定でもなかったし、古代が無理矢理ワープするシークエンスも全く危機感がない。
因みに、古代が無理矢理ワープするのも、「GALACTICA/ギャラクティカ」の最終回のジャンプのシークエンスのパクリでしょうかね。
9)アナライザー!
あの使い方はどうよ。
あの愛すべきキャラクターがあんな扱いに・・・・
10)ワープ
ワープのビジュアルどうですか。
煙と言うか水蒸気みたいの出てるけど大丈夫ですかね。
11)コスモ・ゼロ
発進する際、古代の首ガクってなんだよ。
いつの時代の演出だよ。
今時、F1だって首ガクってならないようにヘッドレストついてるよ。
まだまだつづくね・・・・
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その4
http://29346.diarynote.jp/201012112316056938/
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その2
2010年12月3日 映画2010年12月1日 東京板橋「ワーナーマイカルシネマズ板橋」で「SPACE BATTLE SHIP ヤマト」を観た。
と言う話は先日書きましたね。( http://29346.diarynote.jp/201012012009113939/ )
でも今日も書いてみようと思います。
だって、語り甲斐がある作品なんだもん。
1.「引用と剽窃の境界」
オマージュやリスペクト、引用や剽窃、パクリや盗作。
世の中にはいろんな言葉がある。
映画の世界で、その作品が好きで好きで仕方がないから、そんな素敵な作品が撮りたいから、そんな格好良いシークエンスが撮りたいから、あのカットを撮りたいから、ちょっとだけ真似してみよう、と言う作品はたくさんある。
その気持ちはわかるけど、真似しちゃいけない部分、て言うのがあると思う。
先人たちが知恵を絞って考え抜いた設定やプロット、そしてトリックとかネタ。
表層ではなく、物語に真摯に向き合った結果、産まれた部分である。
それらを、言わばその作品の肝とも言うべき大きなトリックやネタを、格好良い表層だけ軽くパクるのは我慢が出来ない。
例えば、例に出して悪いが、「踊る大捜査線」シリーズが黒澤明やアルフレッド・ヒッチコックをリスペクトやオマージュの名のもとに、パクるのは許せないのだ。
例えば、上記の「踊る大捜査線」シリーズが、「羊たちの沈黙」とか「機動警察パトレイバー」、「機動戦士ガンダム」、「ジャガーノート」や「サブウェイ・パニック」、「オデッサ・ファイル」、「砂の器」などのちょっとしたシーンやカットを真似しちゃうのはまあ許せるとしても(あんまり許したくないけど)、「天国と地獄」の一番の大ネタや「知りすぎていた男」の大ネタを、作品最大の見せ場としてパクるのは絶対的に許せないのだ。
何故こんな事を書いているか、と言うと本作「SPACE BATTLESHIP ヤマト」は米テレビシリーズ「GALACTICA/ギャラクティカ」の影響をめちゃくちゃ受けていると言わざるを得ないからである。まあ、その他いろいろな作品の引用もあるんだけど、「GALACTICA/ギャラクティカ」の影響が一番多いと思えるのね。
まあ端的に言うと「GALACTICA/ギャラクティカ」の劣化コピーが「SPACE BATTLESHIP ヤマト」だと言えるのだね。
因みに「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の監督である山崎貴は「GALACTICA/ギャラクティカ」の大ファンであると言って差し支えないだろう。
「GALACTICA/ギャラクティカ」のオフィシャル・サイトで山崎貴は、「GALACTICA/ギャラクティカ」の魅力を語り尽くしているのだから。( http://www.galactica-saga.com/int01.html )
これは非常に興味深いコラムなので、是非多くの人、特に「SPACE BATTLESHIP ヤマト」と「GALACTICA/ギャラクティカ」を観た人に読んでいただきたいと思う。
印象的な部分を引用する。
── 旧作の「リ・イマジネーション」という点については、どう思われますか?
山崎 『GALACTICA/ギャラクティカ』の「リ・イマジネーション」って、僕はマンガの『PLUTO(プルートウ)』(※3)に近い感覚だと思うんですよ。オリジナルを大切にしながらも、21世紀の作品として仕上げてるところが。この人たち、ちゃんとオリジナルのいい面に敬意を払ってるというのが素敵です。
── 日本のVFXの第一人者から見て、『GALACTICA/ギャラクティカ』のVFXは?
山崎 いい仕事してますよね。目指していた「ミニチュアで撮った感じ」を本当に大事にしてる。ことさらにVFXを強調しすぎてるカットがない、という点もスゴいです。ニュースやドキュメンタリーの映像みたいですもんね。戦場カメラマンのようなカメラワーク── 。手ブレもあるし、急にズームしたりもする。戦闘シーンのBGMが太鼓の音だけという潔さもカッコいいです。
VFXの使い方がすごく大人ですよ。当然こういう作品だから、VFXというのは必要。かつては戦闘機が出てくるSFだったら、必ず“VFX大会”になってしまっていたんですけど、『GALACTICA/ギャラクティカ』にはストイックな戒めがある。ルールを作っている。「今、撮りに行ってきました!」みたいな絵にしているところは、共感できますね。そうしないと、今はもう駄目なんです。これ見よがしな絵なんてどうでもいいんですよ。そんなものは誰も求めてない。宇宙船の戦闘シーンなんて、過去に何百回と繰り返されてる絵だから、何か新しい要素を加えるためには、ドキュメンタリー風な撮り方はいいですよね。
── 『GALACTICA/ギャラクティカ』の中で、監督も使ってみたい技法はありましたか?
山崎 いろいろありますよ。でも、それは内緒、ということで(笑)。
どうです。
いろいろと凄い事言ってるでしょ。
穿った見方かも知れないけど、山崎貴が自ら封印していた「SF魂」を目覚めさせた作品である「GALACTICA/ギャラクティカ」みたいな作品をつくろうとして「SPACE BATTLESHIP ヤマト」を作っちゃった、と読み取れてしまうのが恐ろしいですね。
「GALACTICA/ギャラクティカ」の根底に流れる精神ではなく表層を。
つづく・・・・
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その3
http://29346.diarynote.jp/201012040202165809/
と言う話は先日書きましたね。( http://29346.diarynote.jp/201012012009113939/ )
でも今日も書いてみようと思います。
だって、語り甲斐がある作品なんだもん。
1.「引用と剽窃の境界」
オマージュやリスペクト、引用や剽窃、パクリや盗作。
世の中にはいろんな言葉がある。
映画の世界で、その作品が好きで好きで仕方がないから、そんな素敵な作品が撮りたいから、そんな格好良いシークエンスが撮りたいから、あのカットを撮りたいから、ちょっとだけ真似してみよう、と言う作品はたくさんある。
その気持ちはわかるけど、真似しちゃいけない部分、て言うのがあると思う。
先人たちが知恵を絞って考え抜いた設定やプロット、そしてトリックとかネタ。
表層ではなく、物語に真摯に向き合った結果、産まれた部分である。
それらを、言わばその作品の肝とも言うべき大きなトリックやネタを、格好良い表層だけ軽くパクるのは我慢が出来ない。
例えば、例に出して悪いが、「踊る大捜査線」シリーズが黒澤明やアルフレッド・ヒッチコックをリスペクトやオマージュの名のもとに、パクるのは許せないのだ。
例えば、上記の「踊る大捜査線」シリーズが、「羊たちの沈黙」とか「機動警察パトレイバー」、「機動戦士ガンダム」、「ジャガーノート」や「サブウェイ・パニック」、「オデッサ・ファイル」、「砂の器」などのちょっとしたシーンやカットを真似しちゃうのはまあ許せるとしても(あんまり許したくないけど)、「天国と地獄」の一番の大ネタや「知りすぎていた男」の大ネタを、作品最大の見せ場としてパクるのは絶対的に許せないのだ。
何故こんな事を書いているか、と言うと本作「SPACE BATTLESHIP ヤマト」は米テレビシリーズ「GALACTICA/ギャラクティカ」の影響をめちゃくちゃ受けていると言わざるを得ないからである。まあ、その他いろいろな作品の引用もあるんだけど、「GALACTICA/ギャラクティカ」の影響が一番多いと思えるのね。
まあ端的に言うと「GALACTICA/ギャラクティカ」の劣化コピーが「SPACE BATTLESHIP ヤマト」だと言えるのだね。
因みに「SPACE BATTLESHIP ヤマト」の監督である山崎貴は「GALACTICA/ギャラクティカ」の大ファンであると言って差し支えないだろう。
「GALACTICA/ギャラクティカ」のオフィシャル・サイトで山崎貴は、「GALACTICA/ギャラクティカ」の魅力を語り尽くしているのだから。( http://www.galactica-saga.com/int01.html )
これは非常に興味深いコラムなので、是非多くの人、特に「SPACE BATTLESHIP ヤマト」と「GALACTICA/ギャラクティカ」を観た人に読んでいただきたいと思う。
印象的な部分を引用する。
── 旧作の「リ・イマジネーション」という点については、どう思われますか?
山崎 『GALACTICA/ギャラクティカ』の「リ・イマジネーション」って、僕はマンガの『PLUTO(プルートウ)』(※3)に近い感覚だと思うんですよ。オリジナルを大切にしながらも、21世紀の作品として仕上げてるところが。この人たち、ちゃんとオリジナルのいい面に敬意を払ってるというのが素敵です。
── 日本のVFXの第一人者から見て、『GALACTICA/ギャラクティカ』のVFXは?
山崎 いい仕事してますよね。目指していた「ミニチュアで撮った感じ」を本当に大事にしてる。ことさらにVFXを強調しすぎてるカットがない、という点もスゴいです。ニュースやドキュメンタリーの映像みたいですもんね。戦場カメラマンのようなカメラワーク── 。手ブレもあるし、急にズームしたりもする。戦闘シーンのBGMが太鼓の音だけという潔さもカッコいいです。
VFXの使い方がすごく大人ですよ。当然こういう作品だから、VFXというのは必要。かつては戦闘機が出てくるSFだったら、必ず“VFX大会”になってしまっていたんですけど、『GALACTICA/ギャラクティカ』にはストイックな戒めがある。ルールを作っている。「今、撮りに行ってきました!」みたいな絵にしているところは、共感できますね。そうしないと、今はもう駄目なんです。これ見よがしな絵なんてどうでもいいんですよ。そんなものは誰も求めてない。宇宙船の戦闘シーンなんて、過去に何百回と繰り返されてる絵だから、何か新しい要素を加えるためには、ドキュメンタリー風な撮り方はいいですよね。
── 『GALACTICA/ギャラクティカ』の中で、監督も使ってみたい技法はありましたか?
山崎 いろいろありますよ。でも、それは内緒、ということで(笑)。
どうです。
いろいろと凄い事言ってるでしょ。
穿った見方かも知れないけど、山崎貴が自ら封印していた「SF魂」を目覚めさせた作品である「GALACTICA/ギャラクティカ」みたいな作品をつくろうとして「SPACE BATTLESHIP ヤマト」を作っちゃった、と読み取れてしまうのが恐ろしいですね。
「GALACTICA/ギャラクティカ」の根底に流れる精神ではなく表層を。
つづく・・・・
「SPACE BATTLESHIP ヤマト」をめぐる冒険 その3
http://29346.diarynote.jp/201012040202165809/