わたしは、吾妻ひでおが好きである。
なぜなら吾妻ひでおはSFで不条理でげちょげちょでにょろにょろだからだ。
わたしは、すごい昔から吾妻ひでおに注目していたので、多分貴重な書籍もたくさん所蔵していると、個人的には思っている。
と言う訳で話題の「失踪日記」を読んでみた。
吾妻ひでおの魅力は勿論かわいいおんなのこなのだろうし、SFやげちょげちょでにょろにょろなのだろうが、忘れてはならないのが「不条理日記」等を例に挙げるまでもなく、自らを主人公にした日記ものなのだ。
SFファンとしては、SFネタ満載の日記ものが面白いのだが、今回の「失踪日記」は、非常にリアリスティックな日記だった。
引用がなく(完全にない訳ではないのだが)、物語が全て実生活から出てきているところが非常に面白い。
また、かわいいおんなのこが全く出てこなくても大変面白い、と言う、一般大衆が吾妻ひでおに対する先入観の所謂アンチテーゼともなっている、と言う面白い方向性を持っているような気もする。
余談だが、わたしも、青ジョウントで青色申告に行ってみたいものだ。
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わたしは、すごい昔から吾妻ひでおに注目していたので、多分貴重な書籍もたくさん所蔵していると、個人的には思っている。
と言う訳で話題の「失踪日記」を読んでみた。
吾妻ひでおの魅力は勿論かわいいおんなのこなのだろうし、SFやげちょげちょでにょろにょろなのだろうが、忘れてはならないのが「不条理日記」等を例に挙げるまでもなく、自らを主人公にした日記ものなのだ。
SFファンとしては、SFネタ満載の日記ものが面白いのだが、今回の「失踪日記」は、非常にリアリスティックな日記だった。
引用がなく(完全にない訳ではないのだが)、物語が全て実生活から出てきているところが非常に面白い。
また、かわいいおんなのこが全く出てこなくても大変面白い、と言う、一般大衆が吾妻ひでおに対する先入観の所謂アンチテーゼともなっている、と言う面白い方向性を持っているような気もする。
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「PLUTO 01 / プルートウ 01」
2004年10月2日 読書
以前から言われているように、手塚治虫は若い才能に対して嫉妬深い漫画家だった。
そして手塚治虫が唯一本心から嫉妬し、その才能の豊かさに切歯扼腕したのが、大友克洋その人と彼の作品だったのだ
批評家にして「手塚治虫の漫画はもう古い」と言わしめた、その原因となった大友克洋でさえ、「メロトポリス」や「スチームボーイ」で手塚治虫をやろうとしたのである。
そして今、浦沢直樹が手塚治虫をやろうとしているのだ。
その題材は傑作の呼び声高い「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を原案とした「PLUTO / プルートウ」である。
事実、浦沢直樹の「PLUTO / プルートウ」は、見事に「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を遂次継承している。
しかも、物語の周辺を掘り下げることにより、原作と比較してよりエモーショナルな作品になりつつあるのである。
あとがきによると浦沢直樹が初めて読んだ漫画は「鉄腕アトム/史上最大のロボット」と「鉄腕アトム/人工太陽球」だと言うことである。
このあたりは「アイ,ロボット」のレビューでも若干触れているが、その浦沢直樹の漫画の原初体験が今回の「PLUTO / プルートウ」にも色濃く反映されている。
特に主人公であるゲジヒトのキャラクター造形は「鉄腕アトム/人工太陽球」のシャーロック・ホームスパンの影響が見て取れるのだ。
とは言うものの、わたしの最大の驚愕ポイントは、手塚治虫の影響ではなく、大友克洋の影響である。
なんと「PLUTO / プルートウ」は大友克洋の「AKIRA / アキラ」だったのだ。
特に「PLUTO 01 / プルートウ 01」の構成は「AKIRA 1 / アキラ 1」のそれに酷似している、といわざるを得ない。
そう考えた場合、キャラクターの対比は、ゲジヒトが大佐で、ブラウ1589がアキラ、アトムが鉄雄ということになる。
これを端的に描写するシークエンスがある。
ゲジヒトがブラウ1589を訪問した際、ブラウ1589はゲジヒトにこんな言葉をかける。(このシークエンスは多くの読者に「羊たちの沈黙」のレクター博士を訪問するクラリス捜査官を思い出させるだろう。しかし、これは「AKIRA / アキラ」だったのだ。)
「滑稽なほど必死で作り上げたバリケードだろ?」
「ハイテク機器で厳重に管理していながら・・・・」
「結局、人間は、こうでもしないと恐怖を抑えきれないんだ・・・・」
一方アキラが眠るデュワー壁を前に大佐は独白する。
「見てみろ・・・・この慌て振りを・・・・」
「怖いのだ・・・・怖くてたまらずに覆い隠したのだ・・・・」
「恥も尊厳も忘れ・・・・築きあげて来た文明も科学もなぐり捨てて・・・・」
「自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ・・・・」
更に、第一巻の結末、ゲジヒトはアトムを訪ねる。
「君が・・・・アトム君だね?」
「はい。」
一方、大佐は鉄雄に手を伸ばす。
「41号・・・・」
「41・・・・号ォ・・・・?」
「そうだ・・・」
おもしろくなってきやがったぜ。
そして手塚治虫が唯一本心から嫉妬し、その才能の豊かさに切歯扼腕したのが、大友克洋その人と彼の作品だったのだ
批評家にして「手塚治虫の漫画はもう古い」と言わしめた、その原因となった大友克洋でさえ、「メロトポリス」や「スチームボーイ」で手塚治虫をやろうとしたのである。
そして今、浦沢直樹が手塚治虫をやろうとしているのだ。
その題材は傑作の呼び声高い「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を原案とした「PLUTO / プルートウ」である。
事実、浦沢直樹の「PLUTO / プルートウ」は、見事に「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を遂次継承している。
しかも、物語の周辺を掘り下げることにより、原作と比較してよりエモーショナルな作品になりつつあるのである。
あとがきによると浦沢直樹が初めて読んだ漫画は「鉄腕アトム/史上最大のロボット」と「鉄腕アトム/人工太陽球」だと言うことである。
このあたりは「アイ,ロボット」のレビューでも若干触れているが、その浦沢直樹の漫画の原初体験が今回の「PLUTO / プルートウ」にも色濃く反映されている。
特に主人公であるゲジヒトのキャラクター造形は「鉄腕アトム/人工太陽球」のシャーロック・ホームスパンの影響が見て取れるのだ。
とは言うものの、わたしの最大の驚愕ポイントは、手塚治虫の影響ではなく、大友克洋の影響である。
なんと「PLUTO / プルートウ」は大友克洋の「AKIRA / アキラ」だったのだ。
特に「PLUTO 01 / プルートウ 01」の構成は「AKIRA 1 / アキラ 1」のそれに酷似している、といわざるを得ない。
そう考えた場合、キャラクターの対比は、ゲジヒトが大佐で、ブラウ1589がアキラ、アトムが鉄雄ということになる。
これを端的に描写するシークエンスがある。
ゲジヒトがブラウ1589を訪問した際、ブラウ1589はゲジヒトにこんな言葉をかける。(このシークエンスは多くの読者に「羊たちの沈黙」のレクター博士を訪問するクラリス捜査官を思い出させるだろう。しかし、これは「AKIRA / アキラ」だったのだ。)
「滑稽なほど必死で作り上げたバリケードだろ?」
「ハイテク機器で厳重に管理していながら・・・・」
「結局、人間は、こうでもしないと恐怖を抑えきれないんだ・・・・」
一方アキラが眠るデュワー壁を前に大佐は独白する。
「見てみろ・・・・この慌て振りを・・・・」
「怖いのだ・・・・怖くてたまらずに覆い隠したのだ・・・・」
「恥も尊厳も忘れ・・・・築きあげて来た文明も科学もなぐり捨てて・・・・」
「自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ・・・・」
更に、第一巻の結末、ゲジヒトはアトムを訪ねる。
「君が・・・・アトム君だね?」
「はい。」
一方、大佐は鉄雄に手を伸ばす。
「41号・・・・」
「41・・・・号ォ・・・・?」
「そうだ・・・」
おもしろくなってきやがったぜ。
「ベストセラーを作るのは誰だ?」
2004年9月8日 読書
2004年9月1日に発売になった「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の初版は290万部だそうである。(上下巻なので実際は290万セット)
8月1日付の日本の人口は「人口推計月報」によると1億2,758万人、そのうち10〜59歳までの人口は8,250万人である。
仮に「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の購買層が10〜59歳までだとすると、10〜59歳の人100人に3.5セット分の「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」が存在することになる。
因みに2002年10月に出版された「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(初版230万部/初版6刷までで350万部に達した)は、半年後の2003年3月の時点で、35〜70万部の捌ききれない不良在庫が全国の書店にあったらしい。
ところで、書籍や雑誌の販売は一般的に委託販売である。
簡単に言うと、出版社が書籍や雑誌を製作し、全国の一般書店の店頭に置かせてもらっている、という訳である。
従って、書店は売れ残った書籍や雑誌を出版社に返品する事が出来、書店は書籍や雑誌が売れ残る(損失が出る)というリスクを負わなくて良いシステムになっているのだ。
しかし、人気のある書籍や実績のある出版社、人気作家の書籍や話題作の中には、買取で販売される書籍や雑誌もある訳で、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」もご多分に洩れず買取制度を利用しているのだ。
つまり「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の売れ残りのリスクは全国の一般書店が負う、と言うシステムになっているのだ。
従って、前述のように35〜70万部もの「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の不良在庫を抱えたのは、出版社である静山社ではなく、全国の一般書店であった、と言うことなのである。
そして、再販制度と言うしばりがある以上、書籍の販売価格を下げる事が出来ない一般書店は「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の不良在庫を抱え、新品のまま古本屋に持ち込んだり、仕方が無いので学校の図書館に寄付したり、はたまた不良在庫として死蔵したり、と言うことが一般的に行われていたらしい。
ところで、静山社は、1979年の設立以来、地道な出版活動を続けてる小さな出版社だったのだが、1999年の「ハリー・ポッターと賢者の石」以来、静山社を取り巻く環境は一変する。
何しろ、静山社はメディアに取り上げられるような書籍など、全くと言って良いほど出版した事のない弱小出版社だったのである。
事実「ハリー・ポッターと賢者の石」以前に静山社が出版した書籍をわたしは知らなかったし、あろうことか静山社という名前すら知らなかったのである。
おそらく、大多数の人達も、このような状況だったに違いない。
そして「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」を買取で販売した際は、「無名の弱小出版社がたまたまベストセラーを出したからって、買取で書籍を販売するような殿様商売をしやがって、一体お前は何様のつもりだ!」等の感情的な反発も多々あったようである。
実際、わたしには大ベストセラー本の版権を持つ出版社が、リスクを弱小書店に負わせる買取制度を利用して、続々と大ベストセラー書籍を出版する理由がよくわからないのだ。
わたしには、たまたま強者になってしまった者(静山社)が、かつて自分がそうであったような弱者(一般書店)にリスクを負わせる、という構図が、メディアに登場する静山社の現代表者兼翻訳者の松岡佑子の言動と逆方向のベクトルを持っているように見えるのだ。
世界の子供たちに良質の書籍を提供する事を目的としている松岡佑子のスタンスと、買取制度の間に一体何が存在するのだろうか。
「ベストセラー本と図書館の死」
http://diarynote.jp/d/29346/20040628.html
《NHK「クローズアップ現代」に対する図書館の見解》
http://www.city.machida.tokyo.jp/new/03new0201_05.html
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8月1日付の日本の人口は「人口推計月報」によると1億2,758万人、そのうち10〜59歳までの人口は8,250万人である。
仮に「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の購買層が10〜59歳までだとすると、10〜59歳の人100人に3.5セット分の「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」が存在することになる。
因みに2002年10月に出版された「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(初版230万部/初版6刷までで350万部に達した)は、半年後の2003年3月の時点で、35〜70万部の捌ききれない不良在庫が全国の書店にあったらしい。
ところで、書籍や雑誌の販売は一般的に委託販売である。
簡単に言うと、出版社が書籍や雑誌を製作し、全国の一般書店の店頭に置かせてもらっている、という訳である。
従って、書店は売れ残った書籍や雑誌を出版社に返品する事が出来、書店は書籍や雑誌が売れ残る(損失が出る)というリスクを負わなくて良いシステムになっているのだ。
しかし、人気のある書籍や実績のある出版社、人気作家の書籍や話題作の中には、買取で販売される書籍や雑誌もある訳で、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」もご多分に洩れず買取制度を利用しているのだ。
つまり「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の売れ残りのリスクは全国の一般書店が負う、と言うシステムになっているのだ。
従って、前述のように35〜70万部もの「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の不良在庫を抱えたのは、出版社である静山社ではなく、全国の一般書店であった、と言うことなのである。
そして、再販制度と言うしばりがある以上、書籍の販売価格を下げる事が出来ない一般書店は「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の不良在庫を抱え、新品のまま古本屋に持ち込んだり、仕方が無いので学校の図書館に寄付したり、はたまた不良在庫として死蔵したり、と言うことが一般的に行われていたらしい。
ところで、静山社は、1979年の設立以来、地道な出版活動を続けてる小さな出版社だったのだが、1999年の「ハリー・ポッターと賢者の石」以来、静山社を取り巻く環境は一変する。
何しろ、静山社はメディアに取り上げられるような書籍など、全くと言って良いほど出版した事のない弱小出版社だったのである。
事実「ハリー・ポッターと賢者の石」以前に静山社が出版した書籍をわたしは知らなかったし、あろうことか静山社という名前すら知らなかったのである。
おそらく、大多数の人達も、このような状況だったに違いない。
そして「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」を買取で販売した際は、「無名の弱小出版社がたまたまベストセラーを出したからって、買取で書籍を販売するような殿様商売をしやがって、一体お前は何様のつもりだ!」等の感情的な反発も多々あったようである。
実際、わたしには大ベストセラー本の版権を持つ出版社が、リスクを弱小書店に負わせる買取制度を利用して、続々と大ベストセラー書籍を出版する理由がよくわからないのだ。
わたしには、たまたま強者になってしまった者(静山社)が、かつて自分がそうであったような弱者(一般書店)にリスクを負わせる、という構図が、メディアに登場する静山社の現代表者兼翻訳者の松岡佑子の言動と逆方向のベクトルを持っているように見えるのだ。
世界の子供たちに良質の書籍を提供する事を目的としている松岡佑子のスタンスと、買取制度の間に一体何が存在するのだろうか。
「ベストセラー本と図書館の死」
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ベストセラー本と図書館の死
2004年6月28日 読書注)この文章は、2002年11月7日にNHK総合で放映された「クローズアップ現代」にインスパイアされて書いた文章です。
その回の「クローズアップ現代」の内容は、現代の出版業界と図書館が抱えている問題点と改善策をまとめたもので、その中で最大の問題点として挙げられていたのは、「図書館によるベストセラー本の大量購入により、図書館の本来の使命が果たせない、また、出版会社が損失を被っている」というものでした。
次の文章は、それを前提にして、現代の図書館の問題点と、わたしたち読書好きに課せられた壮大な使命をまとめ、とあるメイリング・リストに投稿したものです。
また、「【ネタ】 高等教育の死」
http://www.we-blog.jp/sun/impressions/a0000097423.php
に対するアンサー・ブログにもなっています。
(次の文章は、直前のわたしの投稿に対し誤解した人に対する説明から始まっているため、わかりづらいかも知れません)
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
昨夜の「クローズアップ現代」で出版社やペンクラブサイドが問題視していたのは、図書館による「ベストセラー本」の大量購入についてです。
例えば、ひとつの図書館に「ハリー・ポッター/炎のゴブレット」が150セットあるような状況が図書館として異常ではないか。ということです。
別に上記のようなベストセラー本を2〜3セットくらい購入するのなら、図書館としても出版社としても問題としないと思いますが、実際にはベストセラー本は、ひとつの図書館に50〜150セットもあるような状況が一般的のようです。
そして、1年も経てば、それらのベストセラー本は使命を終え、図書館の倉庫に山積みになってしまい廃棄処分を待つ、と言う事態に陥っている訳です。
そもそも図書館には、「現代の知を集約し、次世代に知を継ぐ」という大きな使命がある訳ですが、最近のリクエスト制を導入している図書館の多くは、学術書や専門書という「知の集約的書籍」を購入せずに、1年もたてば廃棄処分になってしまうようなベストセラー本を大量に購入している。ということです。
この点については、勿論図書館の予算が少ない。というのが最大の問題なのだと思いますが、その少ない予算の有効利用が、短絡的にリクエストされているベストセラー本の大量購入になってしまっている、というのが実情なのです。
これは、読書好きとしては由々しき事態だと思います。
このままでは出版業界の淘汰は勿論、ベストセラー本しか出版されないような時代の到来も容易に想像できます。
または、良い意味でのオンデマンド出版への移行とか。
出版業界サイドの問題としては、数字ははっきり覚えていませんが、昨年(2001年)の図書館の貸出しベスト10書籍の総貸出し数はのべ600万部に相当し、売上げとしては、10億円規模の損害(?)を出版社は被り、著者の印税は・・・・円の損害。という試算が出ているようです。
わたしたちはただの読書好きですが、われわれにも、「未来の出版業界を支える」という大切な使命がある訳です。
われわれが本を買うことによって、ベストセラー本が生まれ、またマニアックな書籍の市場が生まれ、結果的に出版業界が、そして作家たちが生きながら得ている訳です。
勿論われわれには、某ブック・オフで「裁断寸前の、永遠に失われてしまう直前の貴重な書籍を救出する」という使命もありますがね。
なにしろ火は楽しいのですから。
ですから、皆さんの自宅による「未読の塔の建設」は未来の出版業界に取って、作家たちにとって、非常にすばらしい行為なのかもしれません。勿論死蔵もですが。
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次の文章は、それを前提にして、現代の図書館の問題点と、わたしたち読書好きに課せられた壮大な使命をまとめ、とあるメイリング・リストに投稿したものです。
また、「【ネタ】 高等教育の死」
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(次の文章は、直前のわたしの投稿に対し誤解した人に対する説明から始まっているため、わかりづらいかも知れません)
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
昨夜の「クローズアップ現代」で出版社やペンクラブサイドが問題視していたのは、図書館による「ベストセラー本」の大量購入についてです。
例えば、ひとつの図書館に「ハリー・ポッター/炎のゴブレット」が150セットあるような状況が図書館として異常ではないか。ということです。
別に上記のようなベストセラー本を2〜3セットくらい購入するのなら、図書館としても出版社としても問題としないと思いますが、実際にはベストセラー本は、ひとつの図書館に50〜150セットもあるような状況が一般的のようです。
そして、1年も経てば、それらのベストセラー本は使命を終え、図書館の倉庫に山積みになってしまい廃棄処分を待つ、と言う事態に陥っている訳です。
そもそも図書館には、「現代の知を集約し、次世代に知を継ぐ」という大きな使命がある訳ですが、最近のリクエスト制を導入している図書館の多くは、学術書や専門書という「知の集約的書籍」を購入せずに、1年もたてば廃棄処分になってしまうようなベストセラー本を大量に購入している。ということです。
この点については、勿論図書館の予算が少ない。というのが最大の問題なのだと思いますが、その少ない予算の有効利用が、短絡的にリクエストされているベストセラー本の大量購入になってしまっている、というのが実情なのです。
これは、読書好きとしては由々しき事態だと思います。
このままでは出版業界の淘汰は勿論、ベストセラー本しか出版されないような時代の到来も容易に想像できます。
または、良い意味でのオンデマンド出版への移行とか。
出版業界サイドの問題としては、数字ははっきり覚えていませんが、昨年(2001年)の図書館の貸出しベスト10書籍の総貸出し数はのべ600万部に相当し、売上げとしては、10億円規模の損害(?)を出版社は被り、著者の印税は・・・・円の損害。という試算が出ているようです。
わたしたちはただの読書好きですが、われわれにも、「未来の出版業界を支える」という大切な使命がある訳です。
われわれが本を買うことによって、ベストセラー本が生まれ、またマニアックな書籍の市場が生まれ、結果的に出版業界が、そして作家たちが生きながら得ている訳です。
勿論われわれには、某ブック・オフで「裁断寸前の、永遠に失われてしまう直前の貴重な書籍を救出する」という使命もありますがね。
なにしろ火は楽しいのですから。
ですから、皆さんの自宅による「未読の塔の建設」は未来の出版業界に取って、作家たちにとって、非常にすばらしい行為なのかもしれません。勿論死蔵もですが。
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今日の話題は「タイム・マシン」です。
が、実は今年公開されたサイモン・ウェルズの映画「タイム・マシン」ではなく、H・G・ウエルズの小説「タイム・マシン」で、勿論サイモン・ウェルズの映画「タイム・マシン」の原作なのです。
あと余談ですが、サイモン・ウェルズはH・G・ウエルズの曾孫にあたります。
という訳で、岩波文庫版「タイム・マシン 他九篇」(H・G・ウエルズ著/橋本槇矩訳)を読了した訳です。
収録されている作品は「タイム・マシン」、「水晶の卵」、「新加速剤」、「奇跡を起こした男」、「マジック・ショップ」、「ザ・スター」、「奇妙な蘭」、「塀についた扉」、「盗まれた体」、「盲人国」の10篇。
勿論「タイム・マシン」や他の短篇の多くは子供の頃から何度も読んでいる訳ですが、今回は例によって外出中に読書中の本を読み終わってしまい、何か古典的なSF小説が読みたくなってしまったので、本屋でこの「タイム・マシン」を手に取りました。
で実際のところは、この短篇集に入っている「塀についた扉」が無性に読みたくなってしまった訳で、「タイム・マシン」を購入したのですよ。
「タイム・マシン」の物語については皆さんご存知だと思いますので、詳しくは紹介しませんが、やはり凄い小説だと思います。
あとがきにもありますが、時間をファンタジーや魔法の力で超越するのではなく、科学の力で超越する点と、ダーウィンの進化論と逆説的な退化論的な終末を物語に持ち込んでいる点、ラストの寂寥感あたりが来てますね。
この「タイム・マシン」は実際もう100年以上前の作品ですから、現在までのSF界に対する影響力は計り知れないですからね。
他の9編については、運命の皮肉さとか、無責任さとか、将来来るべく恐怖感とかが面白いですね。
皆さんはウエルズなんて、あまりにも古典過ぎて、読むつもりも無いし、機会もないかと思いますが、実際のところ誰もが少年時代に出会っている作家だと思いますし、今でも少年少女読書好きのSF的登竜門になっているのだと思います。ですから、まあ、機会があれば読んでみると楽しいかもしれませんよ。
余談ですが、今年公開されたM・ナイト・シャマランの「サイン」もウエルズに対するオマージュが感じられますね。
ところで、わたしは「サイン」肯定派です。
が、実は今年公開されたサイモン・ウェルズの映画「タイム・マシン」ではなく、H・G・ウエルズの小説「タイム・マシン」で、勿論サイモン・ウェルズの映画「タイム・マシン」の原作なのです。
あと余談ですが、サイモン・ウェルズはH・G・ウエルズの曾孫にあたります。
という訳で、岩波文庫版「タイム・マシン 他九篇」(H・G・ウエルズ著/橋本槇矩訳)を読了した訳です。
収録されている作品は「タイム・マシン」、「水晶の卵」、「新加速剤」、「奇跡を起こした男」、「マジック・ショップ」、「ザ・スター」、「奇妙な蘭」、「塀についた扉」、「盗まれた体」、「盲人国」の10篇。
勿論「タイム・マシン」や他の短篇の多くは子供の頃から何度も読んでいる訳ですが、今回は例によって外出中に読書中の本を読み終わってしまい、何か古典的なSF小説が読みたくなってしまったので、本屋でこの「タイム・マシン」を手に取りました。
で実際のところは、この短篇集に入っている「塀についた扉」が無性に読みたくなってしまった訳で、「タイム・マシン」を購入したのですよ。
「タイム・マシン」の物語については皆さんご存知だと思いますので、詳しくは紹介しませんが、やはり凄い小説だと思います。
あとがきにもありますが、時間をファンタジーや魔法の力で超越するのではなく、科学の力で超越する点と、ダーウィンの進化論と逆説的な退化論的な終末を物語に持ち込んでいる点、ラストの寂寥感あたりが来てますね。
この「タイム・マシン」は実際もう100年以上前の作品ですから、現在までのSF界に対する影響力は計り知れないですからね。
他の9編については、運命の皮肉さとか、無責任さとか、将来来るべく恐怖感とかが面白いですね。
皆さんはウエルズなんて、あまりにも古典過ぎて、読むつもりも無いし、機会もないかと思いますが、実際のところ誰もが少年時代に出会っている作家だと思いますし、今でも少年少女読書好きのSF的登竜門になっているのだと思います。ですから、まあ、機会があれば読んでみると楽しいかもしれませんよ。
余談ですが、今年公開されたM・ナイト・シャマランの「サイン」もウエルズに対するオマージュが感じられますね。
ところで、わたしは「サイン」肯定派です。
ノーマン・マクリーン著、渡辺利雄訳「マクリーンの川」を読了した。
この「マクリーンの川」であるが、映画ファンの皆さんは既にご承知のように、ロバート・レッドフォード監督作品、「リバー・ランズ・スルー・イット」(出演:ブラッド・ピット、クレイグ・シェイファー、トム・スケリット)の原作小説なのである。
そしてこの小説は、映画でクレイグ・シェイファーが演じたノーマン・マクリーンの自伝的小説なのである。
物語は、長老教会派の牧師でフライ・フィッシングの名手であるトム・スケリット演じる父親の元で宗教と同レベルでフライ・フィッシングの手ほどきを受けたノーマン(クレイグ・シェイファー)とポール(ブラッド・ピット)と、彼らマクリーンの川と最早神格化されたフライ・フィッシングを取巻く家族愛、兄弟愛、そして絆の物語なのである。
映画は、アカデミー撮影賞を受賞した程の大変美しい映画である。
フライ・フィッシングに限って言えば神の寵愛を受けてはいるのだ、人間的にはダメな人物であるポールの悲劇的人生を、兄ノーマンの視点で語っている、物語は若干盛り上がりに欠けるが、非常に詩的で叙情的な味わいのある、素晴らしい映画である。
わたし的には、映画の舞台であるモンタナの渓流でフライ・フイッシングのリーダー(透明な糸)が飛びかうだけで、感涙ものの素晴らしい映画なのである。
川の水を弾き飛ばしながら円を描くリーダー。
素晴らしいのだ。
映画ではフライ・フィッシング以外は、典型的なダメ人間であるポールを演じたブラッド・ピットが評価されがちな映画ではあるが、わたし的には前述のマクリーンの川が属しているモンタナの風景は勿論のこと、彼らの父親であるトム・スケリットが大変素晴らしい。本当に素晴らしい。ダメな息子を愛し、フライ・フィッシングを愛する厳格な父親を演じきっている。
小説は、ほとんど映画と同じストーリーで、−−というより、映画が小説を忠実に映画化した、というべきなのだが−−まあ正しい表現ではないが、映画の追体験が出来る事をお約束できる作品になっている。
フィッシングに興味の無い読者には、フライ・フィッシングの丁寧な描写に辟易とするきらいもあるが、その辺を乗り越えられれば、誰にでもお勧めできる素晴らしい作品なのだ。
なんだか映画の話ばっかりですね。
この「マクリーンの川」であるが、映画ファンの皆さんは既にご承知のように、ロバート・レッドフォード監督作品、「リバー・ランズ・スルー・イット」(出演:ブラッド・ピット、クレイグ・シェイファー、トム・スケリット)の原作小説なのである。
そしてこの小説は、映画でクレイグ・シェイファーが演じたノーマン・マクリーンの自伝的小説なのである。
物語は、長老教会派の牧師でフライ・フィッシングの名手であるトム・スケリット演じる父親の元で宗教と同レベルでフライ・フィッシングの手ほどきを受けたノーマン(クレイグ・シェイファー)とポール(ブラッド・ピット)と、彼らマクリーンの川と最早神格化されたフライ・フィッシングを取巻く家族愛、兄弟愛、そして絆の物語なのである。
映画は、アカデミー撮影賞を受賞した程の大変美しい映画である。
フライ・フィッシングに限って言えば神の寵愛を受けてはいるのだ、人間的にはダメな人物であるポールの悲劇的人生を、兄ノーマンの視点で語っている、物語は若干盛り上がりに欠けるが、非常に詩的で叙情的な味わいのある、素晴らしい映画である。
わたし的には、映画の舞台であるモンタナの渓流でフライ・フイッシングのリーダー(透明な糸)が飛びかうだけで、感涙ものの素晴らしい映画なのである。
川の水を弾き飛ばしながら円を描くリーダー。
素晴らしいのだ。
映画ではフライ・フィッシング以外は、典型的なダメ人間であるポールを演じたブラッド・ピットが評価されがちな映画ではあるが、わたし的には前述のマクリーンの川が属しているモンタナの風景は勿論のこと、彼らの父親であるトム・スケリットが大変素晴らしい。本当に素晴らしい。ダメな息子を愛し、フライ・フィッシングを愛する厳格な父親を演じきっている。
小説は、ほとんど映画と同じストーリーで、−−というより、映画が小説を忠実に映画化した、というべきなのだが−−まあ正しい表現ではないが、映画の追体験が出来る事をお約束できる作品になっている。
フィッシングに興味の無い読者には、フライ・フィッシングの丁寧な描写に辟易とするきらいもあるが、その辺を乗り越えられれば、誰にでもお勧めできる素晴らしい作品なのだ。
なんだか映画の話ばっかりですね。
「何かが道をやってくる」
2002年12月6日 読書わたしは、比較的たくさん本を読むタイプで、外出時も常に読書用の本を持ち歩いているので、外出先で本を読み終わることもしばしばです。
そんな時、わたしは外出先で、帰宅時の電車内で読むためのいわば緊急読書本を購入することが多いのです。
まあ、2冊以上本を持って歩けば良い訳ですが、いつも2冊だと大変なので、今日あたり読み終わりそうだという想定のもと、2冊持っていくという事も可能ですが、そんな面倒なことは一切しないのがわたしなのですよ。
その場合、わたしが購入するのは大抵、比較的古い本を購入するようにしています。
新しい本は、普通に購入しているので、緊急読書本は、人類が創出した過去の遺産を読むことにしている。ということです。その場合、読みたければ、既に持っている本を購入することもあります。
前置きが長いですが、先日外出先で購入した緊急読書本「何かが道をやってくる」を読了しました。
最早紹介の必要が無い、叙情詩人的SFファンタジー作家であるレイ・ブラッドベリの傑作ファンタジーである。
SF小説というと、残念ながら読者を選ぶカテゴリーだと思いますが、SFファンタジー小説は、普遍性があり、ほとんどすべての読者に受け入れられるジャンルだと思います。
このブラッドベリの小説はSF小説ファンだけではなく、あまり読書をしていないような人にもオススメできる作家の一人だと思います。
物語は、少年から大人への過渡期にある二人の少年と、もう老年にさしかかった、一人の少年の父親と、数十年おきに街にやってくる謎のカーニバルを率いる刺青の男との対決を描きつつ、大人への階段を上ってしまう少年達と、かつての少年の心をとり戻す老人とを鮮烈なまでに叙情的に描写している。
以前とある読書系の集まりで、この物語は、少年時代に読むべきだ、という話もでてましたが、今回大人になった後で再読してみると、感情移入は少年達ではなく、その老人(実際は54歳の設定で、現在では壮年というところであろうか。)に見事に感情移入し、上手くいけば大人の読者は登場人物同様、少年の心を取り戻すことが出来るのです。
詩的な表現の小説は若干とっつきにくい事もあると思いますが、是非ご一読をオススメします。
「何かが道をやってくる」
レイ・ブラッドベリ著
大久保康雄訳
創元SF文庫
そんな時、わたしは外出先で、帰宅時の電車内で読むためのいわば緊急読書本を購入することが多いのです。
まあ、2冊以上本を持って歩けば良い訳ですが、いつも2冊だと大変なので、今日あたり読み終わりそうだという想定のもと、2冊持っていくという事も可能ですが、そんな面倒なことは一切しないのがわたしなのですよ。
その場合、わたしが購入するのは大抵、比較的古い本を購入するようにしています。
新しい本は、普通に購入しているので、緊急読書本は、人類が創出した過去の遺産を読むことにしている。ということです。その場合、読みたければ、既に持っている本を購入することもあります。
前置きが長いですが、先日外出先で購入した緊急読書本「何かが道をやってくる」を読了しました。
最早紹介の必要が無い、叙情詩人的SFファンタジー作家であるレイ・ブラッドベリの傑作ファンタジーである。
SF小説というと、残念ながら読者を選ぶカテゴリーだと思いますが、SFファンタジー小説は、普遍性があり、ほとんどすべての読者に受け入れられるジャンルだと思います。
このブラッドベリの小説はSF小説ファンだけではなく、あまり読書をしていないような人にもオススメできる作家の一人だと思います。
物語は、少年から大人への過渡期にある二人の少年と、もう老年にさしかかった、一人の少年の父親と、数十年おきに街にやってくる謎のカーニバルを率いる刺青の男との対決を描きつつ、大人への階段を上ってしまう少年達と、かつての少年の心をとり戻す老人とを鮮烈なまでに叙情的に描写している。
以前とある読書系の集まりで、この物語は、少年時代に読むべきだ、という話もでてましたが、今回大人になった後で再読してみると、感情移入は少年達ではなく、その老人(実際は54歳の設定で、現在では壮年というところであろうか。)に見事に感情移入し、上手くいけば大人の読者は登場人物同様、少年の心を取り戻すことが出来るのです。
詩的な表現の小説は若干とっつきにくい事もあると思いますが、是非ご一読をオススメします。
「何かが道をやってくる」
レイ・ブラッドベリ著
大久保康雄訳
創元SF文庫
「世界の合言葉は森」
2002年11月30日 読書アーシュラ・K・ル・グィンの「世界の合言葉は森」を読了した。
とある掲示板で、宮崎駿がある雑誌で「指輪物語」を批判した件について、「指輪物語」ファンと宮崎駿の信奉者が討論してまして、その中で、ル・グィンの「ゲド戦記」についての話もありまして、ちょっとル・グィンの作品を読んでみようと思い「世界の合言葉は森」を手にとった。
この書籍にはル・グィンの中編2作品が収録されており、それらは表題作である「世界の合言葉は森(小尾芙佐訳)」と「アオサギの眼(小池美佐子訳)」である。
「世界の合言葉は森」
物語の舞台はとある植民星。人類はこの惑星を勝手に植民星とし、土着の種族を奴隷として使役していた。
ある事件をきっかけに、その土着の種族は人類に叛乱を企て、結果的にその惑星を制圧し、人類がその惑星を去るまでを描いている。
その種族は所謂無抵抗主義の種族で、人類にいいようにこき使われている。彼等にとって、それだからといって、特に問題はないのである。
また、彼等は現実の世界と夢の世界を同程度の確かさで生きているのである。
人類の多くはタカ派的な存在として描かれており、また女性の扱いは植民星の人類の繁殖用の女性という描写によるもので、物語の中の人類は完全な男性社会となっている。この辺が、女性作家でフェミニストであるル・グィンの作品として非常に興味深い。
女性の存在は人類の女性というより、土着の種族の女性の方の描写に力を入れているようである。
物語の主人公はその種族の女性をレイプし、その夫と乱闘を演じ、それが引き金となり、人類にとって最悪のカタストロフィーを招いてしまうのだ。
物語のモチーフとしては、南北戦争時代の黒人と白人の関係をモチーフとしているのかも知れない。
「アオサギの眼」
物語の舞台はとある流刑星。
当初、流刑星として開発された惑星に、人類は移住を始める事となった。
その惑星で数世代の時代が流れ、かつてこの惑星が流刑星であり、自分達は犯罪者の子孫かあるいは、その後の入植者達である記憶が薄れてきている中、二つの街の間で諍いが起きる。一方は新天地を目指して街を出ることを望み、他方はそれを諌めることとなり、その対立は日増しに強力になり、軍隊(?)の出動を辞さないようなところまで発展してしまう。しかしながら新天地を求める街の代表者のポリシーは無抵抗主義なのである。
無抵抗を貫き、主義思想のためなら命を落とす事をいとわず、種として、同じ思想を持つ集団として理想を持ちその成功を目指す生き方が潔く、美しく、そして共感を呼ぶ。
そして新天地を目指す集団の指導者が撲殺されることによって事態は急展開を見せるのである。
この物語では、ある女性の登場人物は、箱入り状態から、脱却し自ら考え自ら行動することを学ぶ。ある種その女性の成長物語ともとらえられる作品に仕上がっている。
この二編の中編はオーソン・スコット・カードの「エンダー」シリーズに多分の影響を与えているようである。アンシプルしかり、植物の生態しかりである。
これらの物語の舞台はSFテイストであるが、実際のところは、人類の種としての生き方を考えさせられる、ある種哲学的な物語なのかもしれないし、また、思想や宗教のために死を厭わない程の理想を掲げている人たちについて考えさせられてしまう。という一面をも持っている作品である。
とある掲示板で、宮崎駿がある雑誌で「指輪物語」を批判した件について、「指輪物語」ファンと宮崎駿の信奉者が討論してまして、その中で、ル・グィンの「ゲド戦記」についての話もありまして、ちょっとル・グィンの作品を読んでみようと思い「世界の合言葉は森」を手にとった。
この書籍にはル・グィンの中編2作品が収録されており、それらは表題作である「世界の合言葉は森(小尾芙佐訳)」と「アオサギの眼(小池美佐子訳)」である。
「世界の合言葉は森」
物語の舞台はとある植民星。人類はこの惑星を勝手に植民星とし、土着の種族を奴隷として使役していた。
ある事件をきっかけに、その土着の種族は人類に叛乱を企て、結果的にその惑星を制圧し、人類がその惑星を去るまでを描いている。
その種族は所謂無抵抗主義の種族で、人類にいいようにこき使われている。彼等にとって、それだからといって、特に問題はないのである。
また、彼等は現実の世界と夢の世界を同程度の確かさで生きているのである。
人類の多くはタカ派的な存在として描かれており、また女性の扱いは植民星の人類の繁殖用の女性という描写によるもので、物語の中の人類は完全な男性社会となっている。この辺が、女性作家でフェミニストであるル・グィンの作品として非常に興味深い。
女性の存在は人類の女性というより、土着の種族の女性の方の描写に力を入れているようである。
物語の主人公はその種族の女性をレイプし、その夫と乱闘を演じ、それが引き金となり、人類にとって最悪のカタストロフィーを招いてしまうのだ。
物語のモチーフとしては、南北戦争時代の黒人と白人の関係をモチーフとしているのかも知れない。
「アオサギの眼」
物語の舞台はとある流刑星。
当初、流刑星として開発された惑星に、人類は移住を始める事となった。
その惑星で数世代の時代が流れ、かつてこの惑星が流刑星であり、自分達は犯罪者の子孫かあるいは、その後の入植者達である記憶が薄れてきている中、二つの街の間で諍いが起きる。一方は新天地を目指して街を出ることを望み、他方はそれを諌めることとなり、その対立は日増しに強力になり、軍隊(?)の出動を辞さないようなところまで発展してしまう。しかしながら新天地を求める街の代表者のポリシーは無抵抗主義なのである。
無抵抗を貫き、主義思想のためなら命を落とす事をいとわず、種として、同じ思想を持つ集団として理想を持ちその成功を目指す生き方が潔く、美しく、そして共感を呼ぶ。
そして新天地を目指す集団の指導者が撲殺されることによって事態は急展開を見せるのである。
この物語では、ある女性の登場人物は、箱入り状態から、脱却し自ら考え自ら行動することを学ぶ。ある種その女性の成長物語ともとらえられる作品に仕上がっている。
この二編の中編はオーソン・スコット・カードの「エンダー」シリーズに多分の影響を与えているようである。アンシプルしかり、植物の生態しかりである。
これらの物語の舞台はSFテイストであるが、実際のところは、人類の種としての生き方を考えさせられる、ある種哲学的な物語なのかもしれないし、また、思想や宗教のために死を厭わない程の理想を掲げている人たちについて考えさせられてしまう。という一面をも持っている作品である。
「きまぐれロボット」
2002年11月21日 読書先日ふらふらと地下鉄の駅によくあるなんとか文庫を覘いてみると最近Hさんご執心の星新一の文庫本がありまして、じゃあ久しぶりに読んでみるかなと「きまぐれロボット」を手に取りました。
ショートショートの文庫本ですから、ご想像通りあっと言う間に読み終わったわけですが、この「きまぐれロボット」は和田誠のイラストとともに朝日新聞日曜版誌上に連載されていた若年層向けのショートショートをまとめたもののようでした。
物語の多くはエヌ氏等が発明した謎の機械等にまつわる悲喜劇を描写していますが、初めて読んだのかも知れませんがなんだか非常に懐かしい印象を受けます。
これは、おそらく、星新一と筒井康隆は読書ファンにとってはポプラ社の「少年探偵団シリーズ」や「アルセーヌ・ルパン・シリーズ」のような一連のシリーズを経た後たどる読書好きの道だったのではないかなと思ったりもしています。
わたしも、Hさんにならって機会があれば星新一のショートショートをまた少し読んでみたいなと思いました。
ところで、星新一ですが、短編や長編は書いているのでしょうか。
だとしたら、読んでみたいような気がします。
こんな本がありました。
星新一 ショートショート1001
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/410319426X/ref=sr_aps_d_1_1/249-3418756-4392316
30,000円です。
ショートショートの文庫本ですから、ご想像通りあっと言う間に読み終わったわけですが、この「きまぐれロボット」は和田誠のイラストとともに朝日新聞日曜版誌上に連載されていた若年層向けのショートショートをまとめたもののようでした。
物語の多くはエヌ氏等が発明した謎の機械等にまつわる悲喜劇を描写していますが、初めて読んだのかも知れませんがなんだか非常に懐かしい印象を受けます。
これは、おそらく、星新一と筒井康隆は読書ファンにとってはポプラ社の「少年探偵団シリーズ」や「アルセーヌ・ルパン・シリーズ」のような一連のシリーズを経た後たどる読書好きの道だったのではないかなと思ったりもしています。
わたしも、Hさんにならって機会があれば星新一のショートショートをまた少し読んでみたいなと思いました。
ところで、星新一ですが、短編や長編は書いているのでしょうか。
だとしたら、読んでみたいような気がします。
こんな本がありました。
星新一 ショートショート1001
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/410319426X/ref=sr_aps_d_1_1/249-3418756-4392316
30,000円です。
パトリシア・ハイスミスの短編集「風に吹かれて」を読了しました。
パトリシア・ハイスミスと言えば皆さんもご存知のように、かのアルフレッド・ヒッチコックの「見知らぬ乗客」や、ルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」、そして勿論「リプリー」の原作者として非常に有名ですね。
ハイスミスはほぼ同時期にヒッチコックとクレマンに見出されたというだけで、一躍時代の寵児となってしまったのは言うまでも無いことだと思いますが、果たして作家としてはどうなのでしょうか。
今回この「風に吹かれて」を読んで感じたのは、精神を患ったような登場人物が多く、また、彼ら登場人物の行動が非常に衝動的で、一
般の常識や論理では彼らの行動をはかれない、非常な空恐ろしさを感じてしまいました。
わたしはまた今回読んだハイスミスの作品に、女性作家をステレオタイプ的に見た典型的な印象を感じ取ることになりました。
つまり、ハイスミスの作品は、論理で構築された物語ではなく、感情により構築された物語である。ということです。
わたしはハイスミスと友達にはなれそうもありません。
が、他の作品をもう少しは読んだみたいと思います。
パトリシア・ハイスミスと言えば皆さんもご存知のように、かのアルフレッド・ヒッチコックの「見知らぬ乗客」や、ルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」、そして勿論「リプリー」の原作者として非常に有名ですね。
ハイスミスはほぼ同時期にヒッチコックとクレマンに見出されたというだけで、一躍時代の寵児となってしまったのは言うまでも無いことだと思いますが、果たして作家としてはどうなのでしょうか。
今回この「風に吹かれて」を読んで感じたのは、精神を患ったような登場人物が多く、また、彼ら登場人物の行動が非常に衝動的で、一
般の常識や論理では彼らの行動をはかれない、非常な空恐ろしさを感じてしまいました。
わたしはまた今回読んだハイスミスの作品に、女性作家をステレオタイプ的に見た典型的な印象を感じ取ることになりました。
つまり、ハイスミスの作品は、論理で構築された物語ではなく、感情により構築された物語である。ということです。
わたしはハイスミスと友達にはなれそうもありません。
が、他の作品をもう少しは読んだみたいと思います。
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