「見えないほどの遠くの空を」 その2
さて、今日は「見えないほどの遠くの空を」の第2回目。

なお、第1回目はこちら。
「見えないほどの遠くの空を」 その1
http://29346.diarynote.jp/201106190016452359/

「見えないほどの遠くの空を」
監督・脚本:榎本憲男
撮影監督:古屋幸一
編集:石川真吾
出演:森岡龍(高橋賢)、岡本奈月(杉崎莉沙/洋子)、渡辺大知(光浦丈司)、橋本一郎(佐久間)、佐藤貴広(井上)、前野朋哉(森本)、中村無何有(山下)、桝木亜子(平川)

大きな公園の中、一本の樹の下に若い男女が座っている。その前には映画の撮影隊がいる。高橋賢(森岡龍)は、映研の仲間たちと一緒に、学生生活最後の作品「ここにいるだけ」の最後のショットを撮影しているのだ。

しかし、カットの声がかかる直前、ヒロイン役の杉崎莉沙(岡本奈月)はシナリオには書かれていない勝手な台詞をひと言口走る。その時、雨が激しく降ってきて、撮影は中断する。

撮影を再開する前日、不慮の事故によって、とつぜん莉沙は死ぬ。もともと、この映画の結末をめぐって、莉沙と賢の間には意見の対立があった。光浦(渡辺大知)に説得されて書いた賢の手紙も読まないままに莉沙は死んでしまった。最後のワンショットを撮り残したまま映画「ここにいるだけ」は完成しなかった。

そして、一年が過ぎた。ある日街で、賢は、死んでしまった莉沙にそっくりな女を見かける。おもわず後を追う賢。女との会話を重ねるうちに、やがて賢は、この女を代役に最後のショットを撮って映画を完成させようというアイディアを思いつくが・・・・。

(オフィシャル・サイトよりほほ引用)

さて、今日は本作「見えないほどの遠くの空を」の物語について考えていきたい。

本作では、一つの怪異が描かれている。

その怪異は、様々な作品で描かれ、最早手垢がついたような、比較的ありがちなものであることは否定出来ない。
しかしながら、その怪異の描き方と、特に脚本上の着地点が非常に素晴らしい。

当ブログでは、その怪異のなんたるかを具体的に紹介する事はしないが、興味深いのは、その怪異を二つの異なる立場から明確に描いている点である。

と言うのは、主人公である賢の立場からその怪異を描く一方、映研のメンバー側からも同時にその怪異を描いているのだ。

脚本上、つまり観客に対して制作者の意向としては、賢と言うキャラクターへの感情移入を望んでいる都合上、賢の立場から見た怪異が真実であるような印象を観客に与えている。
果たしてそれが本当の真実なのであろうか。

スティーヴン・キングの作品に「デッド・ゾーン」と言う小説がある。
デヴィッド・クローネンバーグが映画化しているのでご存知の方も多いと思う。

「デッド・ゾーン」の物語の中で、その主人公であるジョン・スミスは、上院議員であるグレッグ・スティルソンが将来、合衆国大統領になり、全世界を巻き込む全面核戦争を引き起こすきっかけとなる核ミサイルの発射ボタンを押す、と言うビジョンにとらわれる。

「デッド・ゾーン」の物語上、ジョン・スミスは、人に触れればその人の未来が見える超能力者として描かれているため、読者や観客は、ジョン・スミスのビジョン、つまりグレッグ・スティルソンは将来大統領になって核ミサイルの発射ボタンを押すこと、が真実であると思うだろう。

しかし、スティーヴン・キングは「デッド・ゾーン」の物語で、ジョン・スミスのビジョンがただの妄想なのではないか、と示唆しているのだ。

天啓や電波によって、ある人物を殺すように命令された殺人者のように。
例えば、天啓や電波によって、ある人物を殺せと命令されることと、グレッグ・スティルソンが核ミサイルのボタンを押すのを止めようとすることに、何の違いがあるのだろうか、と。

そして本作「見えないほどの遠くの空を」 は、怪異が描かれているのだが、その怪異が本当に賢が感じているような怪異なのか、はたまた映研のメンバーが感じている怪異なのか、どちらでにも解釈出来るように構成されている。

物語の表層だけを見ている人たちには、おそらく複数の解釈の余地などはなく、おそらくは、賢が感じている怪異が真実だと思っているのだろう。

そう感じている人たちにとっては、本作「見えないほどの遠くの空を」は怪異を描いた感動的な物語に見えているのだろう。

ところで、本作「見えないほどの遠くの空を」では複数の時制が描かれている。

現在(賢と莉沙が大学四年生の夏/「ここにいるだけ」撮影開始、中断)

過去(賢と莉沙が大学一年生の夏/賢と莉沙の出会い)

現在(莉沙が亡くなった直後)

1年後(莉沙が亡くなってから1年後/賢は社会人/洋子との出会い/撮影再開)

3年後(莉沙が亡くなってから4年後/賢は無職/洋子と出会ってから3年後)

ここで重要なのは、もちろん1年後の出来事と3年後の出来事である。

現在はプロローグでしかないし、過去はキャラクターの関係を描くために存在している。

従って、当然と言えば当然なのだが、1年後のパート、すなわち「ここにいるだけ」の撮影再開に向かう部分に、最も尺がさかれている。

勿論、怪異もここのパートで描かれている。
そして、多くの観客はここのパートで、感動的な物語を見ることになる。

ところで、ちょっと余談になるが、その怪異については、映画をよく観ている人たちにとっては、「ここにいるだけ」の撮影現場である樹木の下で、賢と洋子が最初に話し合う部分で、どうやらおかしいぞ、と言う事にに気付くと思う。
と言うか、どうやらおかしいぞ、と気付かせるための演出がされている。

従って、紙コップの執拗な描写は不要だったのではないかな、と思えてならないのだ。
あそこまで、執拗に描く必要はないんじゃないかな。
もしかしたら、制作サイドは、観客の想像力を少し甘く見ているのではないか、と思った。
あんなことをしなくても、観客はみんな気付いているよ、と。

そして、3年後。
賢は会社を退職している。

ところで、皆さんはフアン・ホセ・カンパネラの「瞳の奥の秘密」と言う作品を知っているだろうか。

素晴らしい作品なのだが、その作品では、25年前に妻が暴行殺害され、自らもその犯人によって重傷を負わされた銀行員リカルドが登場する。

リカルドは、犯人を探すため、記憶が定かではないのだが、3年間もの間、毎日まいにち駅に通いつめ、朝から晩まで駅の乗降客を監視していたのだ。そうリカルドは犯人を探す執念に取り憑かれているのである。

そして、本作「「見えないほどの遠くの空を」の賢は、3年後、街中で1人の女性に遭遇する。

遭遇する、と言うよりは、賢の執念でその女性に出会うことに成功した、と言う言い方も出来るだろう。

と言うのも、賢と言うキャラクターは、1年間の間、莉沙へ渡せなかった手紙を持ち歩くキャラクターとして、そして、3年間もの間、自作の「ここにいるだけ」の台本を持ち歩くキャラクターとして描かれているのだ。

そう、ある意味非常に執念深いキャラクターとして描かれている。
その賢の執念深さを表すセリフもいくつかあったように。

そして、3年後にその女性と出会う際の描写は、3年前に洋子と偶然出会った際のおずおずとした姿ではなく、確固とした、そして断固とした賢の意志の力を感じる。

正に会うべき時に会うべき人に、当然のごとく出会った、必然的に出会った、と言う印象を観客に与えているのだ。

これはもしや、賢は3年もの間ずっと、あの通りを何度も何度も歩いたのではないだろうか。
もしかしたら、賢は3年もの間、朝から晩まであの通りにいたのではないだろうか、とさえ思えてしまう。

そして、賢のその女性に対する会話や説明は、何度もなんどもシミュレーションしたかのような印象をも受けたりしてしまう。

そして、あのラストカット。

あのラストカットに映っているものには、賢の圧倒的な妄執を感じる。

正直、あのラストカットには驚いた。
わたしは、まるでシリアルサイコキラーが住んでいる部屋の壁を見ているような印象を受けたのだ。

そして、ラストカットにおいてわたしの本作「「見えないほどの遠くの空を」に対する印象は一変する。

本作「見えないほどの遠くの空を」は、ノスタルジックな青春感動物語ではなく、妄執に取り憑かれた1人の男が自滅していく姿を描いたホラー映画だったのだ、と。

機会があれば、是非劇場へ。
本作「見えないほどの遠くの空を」は圧倒的に面白い作品に仕上がっている。

☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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