「見えないほどの遠くの空を」 その1
2011年6月16日 東京渋谷「ヒューマントラストシネマ渋谷」で「見えないほどの遠くの空を」を観た。

「見えないほどの遠くの空を」
監督・脚本:榎本憲男
撮影監督:古屋幸一
編集:石川真吾
出演:森岡龍(高橋賢)、岡本奈月(杉崎莉沙/洋子)、渡辺大知(光浦丈司)、橋本一郎(佐久間)、佐藤貴広(井上)、前野朋哉(森本)、中村無何有(山下)、桝木亜子(平川)

大きな公園の中、一本の樹の下に若い男女が座っている。その前には映画の撮影隊がいる。高橋賢(森岡龍)は、映研の仲間たちと一緒に、学生生活最後の作品「ここにいるだけ」の最後のショットを撮影しているのだ。

しかし、カットの声がかかる直前、ヒロイン役の杉崎莉沙(岡本奈月)はシナリオには書かれていない勝手な台詞をひと言口走る。その時、雨が激しく降ってきて、撮影は中断する。

撮影を再開する前日、不慮の事故によって、とつぜん莉沙は死ぬ。もともと、この映画の結末をめぐって、莉沙と賢の間には意見の対立があった。光浦(渡辺大知)に説得されて書いた賢の手紙も読まないままに莉沙は死んでしまった。最後のワンショットを撮り残したまま映画「ここにいるだけ」は完成しなかった。

そして、一年が過ぎた。ある日街で、賢は、死んでしまった莉沙にそっくりな女を見かける。おもわず後を追う賢。女との会話を重ねるうちに、やがて賢は、この女を代役に最後のショットを撮って映画を完成させようというアイディアを思いつくが・・・・。

(オフィシャル・サイトよりほほ引用)

わたしは大学時代8mmフィルムで映画を撮っていた。
この作品の登場人物と同様に大学の映画研究会に属していたのだ。

そんな訳でわたしは、大学の映研を舞台にしたこの作品に、ノスタルジックな何かを期待していたのだと思う。
言い換えるならば、わたしは本作「見えないほどの遠くの空を」の物語より、雰囲気や登場人物が置かれているその環境に期待していたのかも知れない。

しかし、本作のファーストカットを視たわたしは驚愕した。
このファーストカットにより、わたしの映画的関心がむくむくと鎌首を擡げてきたのだ。

まるで映画館のスクリーンのような真っ白い何かを映すカメラ、その映像に登場人物たちの声が被る。どうやら彼らは自主制作映画の撮影をしているらしい。

監督の「よーい、スタート」の声の直後、カメラが縦パンしていくと大きな樹木が見えてくる。白かったのは空だったのだ。真っ白い映画館のスクリーンのような空。
その樹木の下に2人の人物が座って何かを話している。

そんな2人を写したカメラがどんどん引いて行くと、音声スタッフや撮影スタッフがフレームに映り込んでくる。このカメラは自主映画のカメラではなかったようだ。

そして、引ききったカメラは、カメラが切り取る映像が映るモニターと台本とを交互にチェックする人物に寄って行く。どうやらこの人物がこの自主映画の監督らしい。

ここで、縦横無尽に動いていたカメラがフィックスのカメラに切り替わる。

この信じられないように動きまわるファーストカットのおかけでわたしは、映画のスクリーンに釘付けになってしまった。

そして、もう一つ驚くべきカットがあった。

あらすじで紹介したように、突然の雨で中断した撮影が再開する予定の前夜、主演女優の莉沙が亡くなったのだ。

そして、莉沙の葬式の後、一旦部室に集まった映研の連中は、莉沙の思い出を語り始める。
しかし、賢の軽率な発言により口論が始まり、映研のメンバーは部室を後にするが、賢は忘れ物を取りに行くため部室に戻ろうとする。

賢が部室のある校舎の玄関に入ろうとするその瞬間、時間が巻き戻る。
このカットはスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のあのジャンプカットにも比肩するような素晴らしいカットだった。

まるで、スティーヴン・キングの「IT」の、

学校が、



終わった。

のように。

何故、こんな撮影手法的な事を書いているか、と言うと本作「見えないほどの遠くの空を」は、このような映画的興奮にも満ちていたからである。

つづく・・・・

余談だけど、ファーストカットはどうやって撮ったのだろうか。
公園の芝生の上で撮影されているのに、芝生に何の跡もない。
クレーンの限界を超越しているんじゃないかな。
スカイカム的な方法かな?

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tkr

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