さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その5です。

とりあえず目標の再確認を・・・・

目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」

1.映画

#024 「キル・ビル Vol.2」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/05/01
#025 「スクール・オブ・ロック」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/05/01
#026 「ゴッド・ディーバ」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/05/11
#027 「クリムゾン・リバー2 黙示録の天使たち」九段会館ホール 2004/05/12
#028 「CASSHERN」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/05/14
#029 「トロイ」日本武道館 2004/05/17
#030 「カレンダー・ガールズ」ヤクルトホール 2004/05/19
#031 「21グラム」ヤクルトホール 2004/05/19
#032 「シルミド」よみうりホール 2004/05/24

2.DVD、CATV等

#065 「ライオン・キング」CATV 2004/05/03
#066 「修羅雪姫」CATV 2004/05/03
#067 「修羅雪姫 怨み恋歌」CATV 2004/05/03
#068 「EMOTION 伝説の午後 いつか見たドラキュラ(短編)」CATV 2004/05/04
#069 「トリック」CATV 2004/05/04
#070 「エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS」CATV 2004/05/04
#071 「ジョーズ」LD 2004/05/13
#072 「ストレイト・ストーリー」CATV 2004/05/16
#073 「時計じかけのオレンジ」DVD 2004/05/22
#074 「A.I.」DVD 2004/05/23
#075 「マルホランド・ドライブ」DVD 2004/05/23
#076 「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air」DVD 2004/05/23
#077 「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 まごころを、君に」DVD 2004/05/23
#078 「ニュー・シネマ・パラダイス 完全版」CATV 2004/05/23
#079 「HOUSE ハウス」CATV 2004/05/25
#080 「ゼイラム2」CATV 2004/05/25
#081 「野ゆき山ゆき海べゆき」CATV 2004/05/26
#082 「33 1/3 r.p.m.」CATV 2004/05/26
#083 「さびしんぼう」CATV 2004/05/27

3.読書

#017 「マーチ博士の四人の息子」ブリジット・オベール著 堀茂樹・藤本優子訳 2004/05/10
#018 「ザ・スタンド(II)」スティーヴン・キング著 深町眞理子訳 文春文庫 2004/05/24

映画は、劇場9本(累計32本)、DVD等19本(累計83本)で、計28本(累計115本)。
このままのペースで、年間276本(劇場77本)です。

読書は2冊(累計18冊)で、このままのペースでは、年間43冊です。

状況は厳しいですし、先は長いですが頑張ります。

※ 参考 昨年同時期の状況
映画 126本(劇場37本)
読書 24冊
前回のお話から随分時間があいていますが、例の結婚式のビデオ編集のお話です。
既に何本かの作品は納品が済んでいる訳ですが、どんなものを作ったのか、納品した作品の一本の概要をご紹介しましょう。

作品1 「独占! ○×△□・○×△□結婚式」

以前お話したように撮影は、基本的には固定カメラ2台、ハンド・カメラ3台の5カメラ体制で撮影を行いました。
結婚式自体は、正味約27分でしたので、都合135分超の編集用の映像素材があることになります。
音声は別録しませんでしたので、比較的音声状態の良い固定カメラのステレオ音声をそのまま利用する事にしました。

前述のように、結婚式自体の時間が27分ということもあったので、30分枠の芸能人の結婚式風テレビ番組を模したような雰囲気で作品を制作する事にしました。

また、たまたまですが新郎が勤めている会社が某E社だったので、某E社が単独提供している番組の提供案内部分とCF(CM)をキャプチャーし、そのまま本編に挿入する事にしました。
これには、勿論著作権・版権の問題が出てきますが、今回の作品はあくまでも個人的な視聴のための作品制作なので、権利関係の問題はクリアしていることにしました。

作品の構成は次の通りです。

オープニングタイトル
提供 開始
CF その1
本編 Aパート
アイキャッチ その1
CF その2
本編 Bパート
アイキャッチ その2
CF その3
本編 Cパート
アイキャッチ その3
CF その4
本編 Dパート
アイキャッチ その4
提供 終了
エンディング
クレジット

オープニングタイトルは、当初はフラッシュで派手目なタイトルを作成し、結婚式の映像と合成(スクリーン合成とかマット合成とか言われる手法)するつもりだったのですが、タイトルを作成する際に、タイトル部分にグラデーション効果を入れてしまったため、マスク部分が綺麗に抜けなかったので、結果的には編集ソフトの機能を利用し、ちょっとだけ派手に動くタイトルを作成することにしました。

また、テレビ番組の前後に「この番組は○○の提供でお送りします」と流れる、提供部分については、独自のナレーションを入れるつもりは無かったので、某E社が単独提供しているテレビ番組の提供部分の音声をそのまま流用しました。

そして一番重要な本編部分の編集は、5本の映像素材をタイムコードを合わせて並べ(重ね)、一番キャッチーな映像部分を使用する、という感じで行いました。

簡単に言うと、5本の映像が記録されている5本の紙テープが重なっていて、紙テープを上から見ていると考えてください。
その5本の紙テープのうち、映像的に一番キャッチーな紙テープを切り取って、一番上に持ってきて、映像を上から見ていると思っていただくと解りやすいと思います。

なお、編集作業は5本の映像トラックを時系列に合致させ、ライヴ感を出し、別撮りしたカットは一切使わない事にしました。
また、音楽も一切入れずに、本編部分は原則的に結婚式の記録映像である、というスタンスで編集を行いました。

CF(CM)直前に挿入される、3秒程のアイキャッチを4種類作成しました。その内容は、次の本編部分のキャッチーな部分(新婦が涙を流しているとか、神父が説教しているとか、結婚誓約書にサインしているとか、)の映像をスローモーションで流し、それにジングルとかブリッジとか呼ばれる種類の音楽をかぶせました。
因みにその音楽はゲームソフトのサウンドテストから流用しました。

CF(CM)は前述のように某E社のCF(CM)をそのまま流用しました。

全体的には、CF(CM)やアイキャッチのような枝葉部分の体裁を整える事により、末端部分まできちんと作り込まれている印象を視聴者に与え、作品としてのクオリティが向上したような効果を与える事に成功していると思います。

結婚式ビデオ編集 その2 
http://diarynote.jp/d/29346/20040227.html

結婚式ビデオ編集 その1
http://diary.note.ne.jp/d/29346/20040223.html
 
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2004/06/01、東京千代田区「科学技術館サイエンスホール」で行われた「天国の本屋〜恋火」の試写会に行って来た。

完成しなかったピアノ組曲・・・。
2度と上がらなくなった「恋する花火」・・・。
地上と天国が出逢うとき、
結ばれなかった恋人たちに、奇跡がおこる。

自己中心的で協調性がないピアニスト健太(玉山鉄二)は、バイト先の管弦楽団から解雇を言い渡され、ヤケ酒で酔いつぶれてしまう。
目覚めた健太はたくさんの本が並ぶ見知らぬ部屋にいた。そこはヤマキ(原田芳雄)が店長を務める天国にある本屋だという。
健太は死んだ訳でもないのに、天国に連れて来られ、そのヤマキが店長を務める本屋で短期アルバイトをさせられることになってしまったのだ。

ヤマキ曰く、人間の寿命は100年に設定されており、地上で20年生きれば、天国で80年生き、地上で70年生きれば、天国で30年過ごす事になっている、と言うのだ。
そして地上と天国で合計100年経過したら、再び地上に輪廻する、ということらしいのだ。

「天国の本屋」で、健太は翔子(竹内結子/二役)という名の、若くして亡くなった元ピアニストの女性と出会う。翔子は健太が幼い頃に憧れ、ピアニストを志す動機を与えた女性だった。

一方地上では、その翔子の姪香夏子(竹内結子/二役)が伝説の「恋する花火」を復活させようと、長らく途絶えていた地元商店街の花火大会の再開に向け、青年団の幹事として奔走していた。

まず、物語の前提として、天国の設定が興味深い。

1.前述の通り、100年の寿命を地上と天国でシェアしている。
2.天国での外見は、地上で死んだ当時のまま。
3.天国では、地上で親しかった人と会えない。

うがった見方をすると、物語を語る上で、天国で起きると思われる様々な問題をクリアするべく作られた、神の視点を持ったルールのような気がする。

ところで、本作は「天国の本屋」を舞台にした連作小説のうち2作を原作にしているらしく、本作では大きく2つの物語が語られているのだ。

ひとつは、弟を殺してしまったと、思い込んでいる姉の物語で、
もうひとつは、「恋する花火」の花火職人瀧本(香川照之)と、その恋人だった今は亡きピアニスト翔子(竹内結子/二役)、「恋する花火」を復活させたい翔子の姪の香夏子(竹内結子/二役)と、翔子にあこがれてピアニストになった健太(玉山鉄二)が織りなす比較的複雑で、予定調和的な美しい物語である。

因みに「恋する花火」とは「それをみた二人は永遠に結ばれる」と言い伝えられている伝説の花火である。

物語の本筋は勿論後者のピアニストと「恋する花火」をめぐる物語なのであるが、その物語は、神の意思が感じられる予定調和的な物語を、音楽と花火をモチーフに描いている。
大げさに言うと、壮大な伏線が結果的にカチリと決まる種類の脚本で、いくつかの大きな伏線を生かした物語だといえよう。

音楽については、翔子が生前「恋する花火」を見ながら書いていたピアノ曲が良かった。
また、天国で翔子が健太と一緒に作曲をするのだが、その場面の中で、音楽好きの誰もがうなずくシークエンスがひとつあった。
また、ラスト近辺でピアノの音が連弾になっているところも感動的である、と言えよう。

しかし本作の第一印象は、竹内結子効果か「黄泉がえり」の二匹目の泥鰌を狙ったのではないかと勘ぐってしまうような、印象を受けた。

特に、「黄泉がえり」と似通っていると思ったのは、中盤付近の香夏子(竹内結子)と元花火職人の瀧本(香川照之)との画面はロングで長回しによるビンタの応酬、とラスト近辺の花火大会会場の人ごみの中を人を探して駆ける香夏子(竹内結子)。
「黄泉がえり」の映画的記憶を利用した演出がされていたような気がした。

作風は、部分的になんだか編集がきちんと出来ていないような印象を受けた、と言うか編集を前提とした撮影ではなく、中途半端な長回しで、行ける所まで行こう的演技を俳優にさせているような印象を受けた。
そのため、カメラが被写体を微妙に追い、ふらふらした画面が、自主制作映画のような稚拙な撮影と編集を感じさせる。
また俳優のひとつの演技をひとつのカットで表現しようとしていたのかとも思った。
勿論重要なシークエンスではきちんと編集されているのだが、所謂セカンド・ユニットが撮影しているような部分は、前述のような撮影と編集に問題があるような印象を受けた。

例えば相米慎二の長回しのような緊張感や緊迫感が画面から伝わる事も無く、中途半端な長回しのため、間が持たない演技を見せられているような気がした。
間が持たないのなら、細かいカット割で誤魔化した方が、観客に対して良い印象を与えられるのではないだろうか。

キャストについては、なんと言っても、「恋する花火」の花火職人瀧本を演じた香川照之だろう。
過去の出来事を機に自堕落な隠遁生活をおくっている姿が痛々しく、美しい。

脚本は都合が良く、ツッコミどころ満載であるが、まあ、細かいところに目をつぶれば、一般大衆に受け入れられるような普遍的で神話的な物語を現代日本風にアレンジした感動的な物語だと言えると思う。

圧倒的な感動は無いが、ちらっと泣きたい人には、ちょっとオススメの映画かも知れない。
音楽の力が感じられる映画でもある。
ティム・バートンの新作「ビッグ・フィッシュ」を観た。

出産間近の妻ジョセフィーン(マリオン・コティヤール)とパリで暮らすジャーナリストのウィル・ブルーム(ビリー・クラダップ)は、父エドワード・ブルーム(アルバート・フィニー/ユアン・マクレガー)の病状が悪化したと、母サンドラ(ジェシカ・ラング/アリソン・ローマン)から報せを受けた。

彼の父エドワードは自分の人生を幻想的でマジカルな話として語り、聞く人を魅了し楽しい気分にさせる名人だった。
ウィルも子どもの頃はそんな父の話を聞くのが大好きだった。しかし3年前の自分の結婚式で、父が行ったスピーチを基に、父と喧嘩して以来、不和が続いていた。

ウィルは妻を連れて実家へと向かうが、、病床でも相変わらずホラ話を繰り返す父と、父の本当の姿を知りたいと願う息子の溝はなかなか埋まらなかった・・・・。

第一印象としては、素晴らしい作品だった。
何しろ脚本が素晴らしいし、ティム・バートンのイメージを具現化する美術も素晴らしい。

物語は、現代のシーンと回想シーンが交互に語られる形式で進み、エドワード・ブルームとサンドラ・ブルームは、現代のシーンをアルバート・フィニーとジェシカ・ラングが、回想シーンをユアン・マクレガーとアリソン・ローマンが演じている。

描写のテイストは、現代のシーンは、色彩を押さえた堅実でリアルな表現がなされ、回想シーンは、鮮やかな原色を描写しながらもダーク・ファンタジーの雰囲気を損なわない素晴らしい効果を醸し出している。

その辺りの描写のギャップは若干否めないものの、言わば2本の映画を1本にまとめているような印象を受け、その2本が見事に融和しているのだ。

特に印象的なのは、父の死期が近づいた病室で息子ウィルが初めて物語る「父の死の物語」と、映画史上に残るだろう葬式のシークエンスである。

映画の本編を観ることにより、既にエドワードの人生を追体験しているわたし達観客に取っては、息子が物語る「父の死の物語」も父の葬式のシークエンスも、既に思い出と融和し完全に納得できる、観客の理想とも言えるシークエンスとなっているのだ。

病室のシークエンスについては、ジャン=ジャック・ベネックスの「IP5/愛を探す旅人たち」の感じもあるし、笑いのある(楽しかったから悲しい)葬式はローレンス・カスダンの「再会の時」や「ラブ・アクチュアリー」の冒頭付近のベイ・シティ・ローラーズがかかる葬式のような印象を受ける。

特に、父のホラ話を信じていなかった息子が、初めて父のように物語る「父の死の物語」が、かつての親子の断絶を解消し、自分もやはりあの父の息子である、ということを自覚させ、そして自分は、父と父の物語を、そして父の物語の登場人物を心から愛していることに気付く素晴らしいシークエンスに仕上がっている。

そして、ラストの葬式のシークエンスで音声無しに、亡きエドワードの思い出話を語りまくっているであろうスティーヴ・ブシェミ(ノザー・ウィンズロー/詩人)や、葬式に参列した父エドワードの夢の住人たち、ダニー・デヴィート(エーモス・キャロウェイ/サーカスの団長)やマシュー・マッグローリー(カール/巨人)、ヘレナ・ボナム=カーター(ジェニファー・ヒル/魔女)等の悲しげであり、そしてなんと言っても楽しげな表情が、エドワードを愛した人達にとってエドワードの人生が楽しくそして有意義であり、彼等にとっても有意義であった事を表現し、既にわれわれ観客にとっても、思い出ともなっているエドワードの生涯は、われわれ観客の人生にとっても、楽しくもあり、悲しくもあり、そして非常に有意義なものであったことに気付く素晴らしい構成となっているのである。

そして、特筆すべき事として、ラストの葬式のシークエンスにより、今までの回想シーンの、父エドワードの夢の世界であるファンタジックなホラ物語が、現実に転化されることになるのだが、その急転直下的な見事な着地が、わけわけ観客にとって大変素晴らしい効果を与えている。
描写のテイストは、原色を配したダーク・ファンタジー系の描写ではなく、無彩色を基調としたリアリスティックな描写の中で、語られる、最早魔法が薄れた夢の世界の住人の姿が美しくも悲しい。

しかし、われわれ観客の心に宿ったように、息子ウィルの心には既に魔法の力が宿っているのである。

本作「ビッグ・フィッシュ」は、このふたつのシークエンスのために存在しているのかも知れないのだ。

キャストは、先ずアルバート・フィニーとユアン・マクレガー、ジェシカ・ラングとアリソン・ローマンのキャスティングが凄い。
ユアン・マクレガーやアリソン・ローマンが、年老いアルバート・フィニーやジェシカ・ラングになる、というのも納得できるし、下手をすると声さえ似ているのではないだろうか。

また詩人ノザー・ウィンズローを演じたスティーヴ・ブシェミ、サーカスの団長で○男のダニー・デヴィート、魔女のヘレナ・ボナム=カーター等の醸し出す素晴らしい効果、そしてなんと言っても巨人カール役マシュー・マッグローリーの哲学的思索的な表情が素晴らしい効果を与えている。

音楽は前半部分はダニー・エルフマン節全開なのだが、スコアはだんだんと抑え気味になり、画面を邪魔しない静かで感動的なものになって行くのだ。

ところで、ティム・バートンについて考えてみると、わたし達にとっては、ティム・バートンは、現実世界ではなく、ファンタジー世界に生きているように考えがちなのだが、そう考えた場合、この作品でティム・バートンは、現実世界の存在に気付いてしまった。というべき作品だったのかも知れないし、ティム・バートンにとっては、この作品を通して現実とファンタジーが相容れない事、世の中にはファンタジー世界には無い、大変なつらいことが沢山あることに気付いた、ともいえるのではないだろうか。
ここにはウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」のミア・ファローとだぶる悲しみがある。

とにかく本作「ビッグ・フィッシュ」は円熟期を迎えたティム・バートンが世に送る素晴らしい傑作なのだ。
号泣必至の本作は是非劇場で体験して欲しいのだ。
 
 
☆☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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例の如く、見逃した映画のわたし的最後の砦、池袋「新文芸坐」で「シービスケット」を観た。同時上映は「ラブ・アクチュアリー」。

1929年10月、アメリカは株の大暴落で大恐慌時代に陥った。
それまで自転車修理工、自転車販売業、自動車販売業で成功を収めていたチャールズ・ハワード(ジェフ・ブリッジス)は、最愛の息子を交通事故で亡くし、妻にも去られてしまう。
しかし彼は1933年、運命的に出会った女性マーセラ(エリザベス・バンクス)と結婚。乗馬好きだった彼女の影響を受け、競馬の世界に傾倒していく。
やがてハワードは、骨折した競走馬の命を助ける程、馬に愛情を注ぐ元カウボーイのトム・スミス(クリス・クーパー)を調教師として雇い、スミスに購入を勧められた「シービスケット」と呼ばれる小柄で気性の荒いサラブレッドを購入、そして誰もが手を焼くその馬の騎手に、気が強く喧嘩っ早い男レッド・ポラード(トビー・マグワイア)を起用するのだった。

先ず驚くのは、この「シービスケット」の物語が実話である。ということである。
わたしを含め観客の多くは、このあまりにもドラマチックな物語である本作が、正真正銘実話である、と言う事をにわかには信じられないのでは無いだろうか。

そして、何よりも大恐慌時代の一般大衆の希望の象徴として機能したのが、映画スターでもスポーツ選手でもなく、2度目のチャンスを与えられた競馬馬とその騎手だった。ということが興味深い。

これは言いかえると、語弊はあるが、名も無い駄馬だった「シービスケット」とその騎手レッド・ポラードは、大恐慌時代に民衆が置かれたどん底の状況における一筋の希望を表しており、繰り返しにはなるが、その一筋の希望のメタファーとして、「シービスケット」とレッドが見事に機能している、ということなのである。

そして物語中で馬主ハワードは「シービスケット」が出走するレースにおいて、競馬場の安い席(内馬場)を開放し、多くの民衆を競馬場へ招き入れる。
これはかの「天井桟敷の人々」にも通ずるように、娯楽のような(この場合は競馬だが)、夢や希望を与える「もの」は全て民衆のものである、ということを端的に表しているのではないだろうか。

そして、本作「シービスケット」では、本作のテーマともいえる、「2度目のチャンス」に関することが、手を変え品を変え、何度も何度も語られるのである。
これが、まさしく世界大恐慌状況下において、民衆が求め欲している事なのであろう。

さて、本作の手法についてだが、先ず時間経過の処理が上手く感じた。
同じカメラ位置で登場人物がオーバーラップで結果的に動き、彼等登場人物の関係が変わっていく、または登場人物の心情が変わっていく、という表現手法である。
そして、もうひとつ時間経過による物語の省略が、行間を読む観客にとっては大変素晴らしい印象を与えている。
例えば、馬主ハワードと後に彼の妻となるマーセラと食事をしていたら、次のシーンでは既に結婚していた、とか、馬主ハワードが元カウボーイのトム・スミス出会い、不味いコーヒーをごちそうになりながら、馬の話をしていたら、次のシーンでは既に雇われていた、とか、この辺の省略の手法が物語を語る上で、観客の想像力が物語を補完する、大変素晴らしい効果を上げている。

また迫力のレース・シークエンスにおいて、広角レンズの使用が凄まじいほどの臨場感の付与に成功している。
普段決して見る事が出来ない、競走馬の疾走を目前で臨場感を持って見ることが出来るのは、この広角レンズのおかげであろう。

また本編のファイナル・カット(トップ騎手の視点カメラによる競馬場のトラックの映像)は、今まで優勝した騎手しか見ることの出来なかった映像をわたしたち観客に見せてくれているのだ。
レース・シーンは本編で何度も出てきたし、騎手の目線でのカットも何度もあった、そして「シービスケット」が優勝するシーンも何度もあったのだが、トップに立つ騎手の目線で誰も居ないトラックを見せたのは、ファイナル・カットがはじめてである。
このカットの意味する、「シービスケット」と騎手、そして観客との一体感は、全くもって圧倒的な映像体験だと言わざるを得ない。

また、冒頭付近トム・スミス(クリス・クーパー)がカウボーイとして、馬を追うシークエンスについても、スコープ・サイズの画面の効果を最大限に生かしており、ただトム・スミスの馬が、数頭の馬を追うだけの映像で泣けるという素晴らしい効果を出している。

キャストについては、先ず馬主チャールズ・ハワードを演じたジェフ・ブリッジスだが、キャラクター設定上、自転車修理から、自転車販売、自動車販売から、競馬馬の馬主と、語弊はあるが儲かれば良い的な印象を感じる。これは以前「タッカー」でジェフ・ブリッジスが演じたプレストン・タッカーにも通じる。
アメリカと日本の文化の差なのか、インチキ臭い山師のような、なんだか理解しがたい釈然としない部分がある。
また、民衆やマスコミを前にしたスピーチにもその辺が表れているような気がする。

調教師トム・スミスを演じたクリス・クーパーは、旧来のカウボーイのイメージ通りの役柄で、特にトム・スミスの過去を、ハワードやレッドの過去と比較して、明確に描いていないところが、謎っぽく、行間を読む観客にとっては深みのある、キャラクターとなっている。

騎手レッド・ポラードを演じたトビー・マグワイアは、減量に減量を重ね苦労したようだが、「サイダーハウス・ルール」や本作「シービスケット」を見る限り、「スパイダーマン」なんかをやっている場合ではない、と思ってしまう。
余談だが、本作のように髪を短くして頬をこけさせると、ジュード・ロウに似てくるような気がした。

そして、ラジオ・アナウンサーであるティック・トック・マクグローリンを演じたウィリアム・H・メイシーだが、ラジオ放送黎明期の現場と、本作のコメディ・リリーフ的な役割を見事にそして楽しげに演じている。

また、レッドのライバル騎手ジョージ・アイスマン・ウルフを演じたゲイリー・スティーヴンスは観客の心をガッチリと掴んでしまう、見事なライバル像を創り出している。

とは言うものの、全ての俳優は自分の仕事を的確にこなしているだけであり、本作において特筆すべき点は、やはりなんと言っても脚本の素晴らしさだろう。
この脚本のおかげでキャラクターが立ち、見事な存在感を持ってわれわれの前に対峙しているのだ。
全ての登場人物は魅力的であり、物語のドラマチックさとも相まって、本作「シービスケット」は、生涯忘れ得ない程の作品に仕上がっているのではないだろうか。

それを端的に表しているのは、同じ事を2度行う、ところである。
例えばハワードの「これはゴールではない」というスピーチや宇宙旅行ゲーム、「ケガをしたからといって命までとらない」というセリフ、5ドルかけるレッドとウルフ。
そしてなんと言っても、レース中、殿(しんがり)に下がったレッドとウルフの会話、そしてそこからの見事な追い上げである。
特に、殿で併走するレッドとウルフの姿には感極まってしまうのではないだろうか。

結果的に本作のテイストはロバート・レッドフォードの「ナチュラル」に似ているが、本作「シービスケット」は、とにかく非の打ちどころの無い素晴らしい作品に仕上がっている。
例によって、見逃した映画のわたし的最後の砦である池袋「新文芸坐」で「ラブ・アクチュアリー」を観た。
同時上映は先日紹介した「シービスケット」。

19人が織り成すそれぞれの愛のカタチ−−
それはあなたの物語(ストーリー)。

本作「ラブ・アクチュアリー」は、「ノッティングヒルの恋人」「ブリジット・ジョーンズの日記」の製作スタッフが、クリスマスを目前に控えたロンドンを舞台に、男女19人が織りなすさまざまな恋愛模様を同時進行で描く心暖まる群像ラブ・コメディである。

監督のリチャード・カーティスは、「ローワン・アトキンソンのブラックアダー」、「ミスター・ビーン」等テレビ・ムービーや、「彼女がステキな理由(わけ)」の脚本家としてキャリアをスタートさせ、最近では、「フォー・ウェディング」、「ノッティングヒルの恋人」、「ブリジット・ジョーンズの日記」等ヒット作の脚本、製作総指揮を務め、今回本作「ラブ・アクチュアリー」により監督デビューを果たしている。

リチャード・カーティスのキャリア自体は20年以上あるものの、携わった作品は比較的少なく、良作をおさえて脚本家からトントン拍子に監督までたどり着いた、羨ましいキャリアの持ち主である。

12月のロンドン。
クリスマスを目前に控え、誰もが愛を求め、なんとか愛を成就しようと浮き足立つ季節。
新たに英国首相となったデヴィッド(ヒュー・グラント)は、国民の熱い期待とは裏腹に、ひと目惚れした秘書のナタリー(マルティン・マカッチョン)のことで頭がいっぱい。
一方街では、最愛の妻を亡くしたダニエル(リーアム・ニーソン)が、初恋が原因とも知らず元気をなくした義理の息子サム(トーマス・サングスター)に気を揉んでいた。
恋人に裏切られ傷心の作家ジェイミー(コリン・ファース)は言葉の通じないポルトガル人家政婦オーレリア(ルシア・モニス)に恋をしてしまう。
会社の部下ミア(ハイケ・マカッシュ)のあからさまなアプローチにドギマギするハリー(アラン・リックマン)の不審な行動に妻カレン(エマ・トンプソン)の心に疑惑が芽生え、ハリーが経営する会社の内気なOLサラ(ローラ・リニー)のカール(ロドリゴ・サントロ)への2年7ヵ月に及ぶ片想いはハリーの計らいで新たな展開を迎えようとしていた・・・・。

結論から言うと、誰にでもオススメできる、大変素晴らしい「愛」に関する映画である。

しかもこの物語で語られている「愛」は、勿論男女間の恋愛から始まって、親子の愛、兄弟姉妹の愛、友達への愛、同士への愛、独りよがりの愛、多くの人々への愛等、様々な形態があり、冒頭とラストのヒースロー空港での全てのカットがそれを端的に表しているのだ。

特にラストの凄まじいほどのスプリット・スクリーンには、観客を神の視点へと導き、この暴力や憎悪に満ちたすさんだ世界にあっても、人間というものは、なかなか捨てたものではないな、というような感慨を持たせる効果を担っている。

本作「ラブ・アクチュアリー」は、あえて陳腐な表現を使わせていただくならば「心が温かくなる映画」というカテゴリーに入るの映画なのだ。

ところで、物語の形式は、古くから「グランド・ホテル」形式と呼ばれていた、閉鎖されたある環境(多くの場合建物や極限的な境遇)内にいる人々の様々な人間模様をオムニバス形式、アンサンブル形式で語りつつ、大きな物語を紡ぎ出す、という形式で、「ショート・カッツ」以降、様々な「グランド・ホテル」形式の発展的末裔と思われる作品が見られたが、最近では「マグノリア」と言うような「グランド・ホテル」形式のひとつの完成形とも言える作品を輩出するまでに至っている。

尤も、「マグノリア」が果たして「グランド・ホテル」形式を踏襲しているかどうかについては、諸意見があると思うが、本作「ラブ・アクチュアリー」は一見すると複雑で雑多な人間模様が、終盤に用意された大きなプロットに向け、登場人物の全ての行動が集約されていく様は、「マグノリア」等と比較するとちよっと弱いが、「マグノリア」系の作品だと言えるし、その大きなプロットの存在が、神の見えざる手による予定調和的なストーリー・テリングに思え、ある意味壮大な感動を覚えるのだ。

キャストについては、全てのキャストが与えられたキャラクターを気負わずあくまでも自然に観客の期待通りの演技を見せている。

本作のような、脚本で見せる群像劇は、オーバーアクトやなにかで一部の俳優が目立ってしまうと、観客は所謂興ざめ状態に陥り、作品としての評価が下がってしまうきらいがある。
周囲の状況を把握できない一部の俳優の熱い演技の為、観客が冷めてしまう事が往々にしてあるのだが、本作では、キャスト全員が生き生きと、その与えられたキャラクターを自然に、あくまでも自然に、市井の人々風のリアリティを持って演じている。

そう考えると本作は、あの俳優の演技が良いとか悪いとか言う次元を超越した作品に仕上がっている、と言えるだろう。

従って本作のキャストについては、個々の俳優の演技がどうこうではなく、その演じたキャラクターに観客として、またはひとりの人間として共感できるかどうかに転化してしまっているのである。
これは、勿論全ての俳優たちは、与えられた仕事以上の仕事を本作で果たしていることを前提としてだが。

そこまで考えて、神の視点の事を考えるとこの「ラブ・アクチュアリー」は、一気に面白みを増すのではないだろうか。

人間って些細な事に一所懸命になったり、バカなことをいろいろやるけど、本当は気の良いヤツばかりだな。
なんて感想が持てたら、人生楽しくなってしまうのではないだろうか。

本作「ラブ・アクチュアリー」は、そんな気分にさせてくれる素晴らしい作品なのだ。

余談だが、本編中でビリー・マック(ビル・ナイ)が歌っている曲だが、リチャード・カーティスが製作総指揮と脚本を担当した「フォー・ウェディング」の結婚式中でも使用されている。

「69 sixty nine」

2004年6月9日 映画
2004/06/09 東京厚生年金会館で行なわれた「69 sixty nine」の試写会に行ってきた。

6月9日は「69 sixty nine」の日、ということで、各地で試写会が行なわれたようである。
スタッフ&キャストの皆さんは、朝から取材に、舞台挨拶に大忙しだったようである。

因みに、ここ東京では、16:30から目白学園高等学校で舞台挨拶付き試写会が、18:30から有楽町よみうりホールで舞台挨拶付き試写会が、18:45から東京厚生年金会館で舞台挨拶付き試写会が行われた。

よみうりホールでは試写前に舞台挨拶が、厚生年金会館では試写後に舞台挨拶が行なわれたのだ。

さて、とりあえず舞台挨拶についてだが、東京厚生年金会館の舞台挨拶は、総勢11名のスタッフ&キャストが集結した。

東京厚生年金会館の舞台挨拶に登場したのは、次の皆さん。
監督:李相日
キャスト:妻夫木聡、安藤政信、太田莉菜、水川あさみ、星野源、三浦哲郁、柄本佑、与座嘉秋、澤田俊輔、三浦誠己

因みに、有楽町よみうりホールの舞台挨拶に登場したのは、次の皆さん。
監督:李相日
キャスト:妻夫木聡、安藤政信、太田莉菜

因みに、目白学園高等学校の舞台挨拶に登場したのは、次の皆さん。
監督:李相日
キャスト:妻夫木聡、星野源、与座嘉秋、三浦哲郁

結果的にわたしは東京厚生年金会館の試写会に行って、正解だったようだ。

1969年・・・世界中で、フラワーチルドレンと呼ばれるロックとマリワナの紫煙に包まれた若者達が、ベトナム戦争にラヴアンドピースで反対していた年。日本は太平洋戦争で失われたプライドを、円(¥)の回復で取り戻そうと必死だった。まさに高度成長タケナワである。
そんな中、マジな学生たちはヘルメットと角材で武装し、機動隊との熱いガチンコでフィーバーしていた。またその一方では、お色気番組「11PM」が高視聴率を記録し、「平凡パンチ」は創刊と共に若者たちのバイブルと化し、マサに文化闇鍋状態。そう!ナウなヤングはストーンズを聞き、奥村チヨにヨクジョーし、暇つぶしにデモに出かけたのだ!(多分)。舞台はそんな無茶苦茶な年の長崎は佐世保。一般的な高校生の日常から、日本における69年の政治的側面とポップカルチャーのアンビバレントな相関関係を考証する映画だ・・・というのは嘘で、一発目立ってモテたいが為に学校をバリケード封鎖しちゃうケンと、彼のフザけた尻馬にノリノリのハジけた仲間達が繰り広げる、デタラメでチャーミングな青春を描いたのが、この「69 sixty nine」だ!!
(「69 sixty nine」INTRODUCTIONコピーより引用)

一言で言うと、「祭り」のような映画である。

本作「69 sixty nine」は、高校時代のある種原因不明の熱病のような高揚感と、祭のあとの例え様の無い寂寥感が味わえる作品である。

方向性はともかく相米慎二「台風クラブ」を観終わった後の寂寥感に似た印象を受けた。

物語の演出、描写手法は、1969年の暗い世相を反映しつつも、底抜けに明るく、楽しい映像が続いている。
しかも脚本が最高に面白いのだ。(脚本は最近話題の宮藤官九郎)
映像のスタンスや手法は、最近の作品では、これまた方向性が異なるが「下妻物語」のように真摯に作りこまれたコメディ作品的な印象を受けた。

とは言うものの、その明るい描写の中に、社会や世相に対する批判や反骨精神が顔をもたげ、言わばロックな映画に仕上がっているのだ。

その辺りは、妻夫木聡演じる矢崎剣介=ケンと、嶋田久作演じる相原先生の関係が、当時の社会情勢の縮図として見事に機能している。

また手法的には、現実と妄想、そして嘘が表現されているのだが、違うシークエンスで同じカットが使われたり、同じシークエンスなのに違うカットが使われたり、あるシークエンスで登場人物が喋ったセリフが違うシークエンスでの同じセリフが違う意味を持ったりと、トリッキーな脚本と編集が見事であり楽しい。

脚本と言えば、名脚本家ウィリアム・ゴールドマンが書いた「明日に向って撃て」に対するオマージュのシーンが2シーンあった。
機会があれば、「明日に向って撃て」を観た上で、「69 sixty nine」を観て欲しいのだ。

また、オープニング・クレジットが素晴らしかった。
フラッシュ・アニメーション的手法をフィーチャーした形式のクレジットは、ソウル・バスが生きていたら、こんな感じのクレジットを創るのではないか、と思わせる素晴らしい出来だった。
方向性としては「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」に近いが、洗練度は本作「69 sixty nine」の方が上である。

さらに、本編中に挿入される8mmフィルムの、粒子が粗くそれでいて芸術的な編集がされた映像も、本編をノスタルジックで寂寥感を煽る効果を高めている。
今更ながらであるが、8mmフィルムの画質は素晴らしいな、と思ってしまう。

1969年を再現する美術は種田陽平。セット内はともかく、セット外特に屋外を1969年に見せる手腕は素晴らしいものがあった。

キャストはみんな良い仕事をしている。
主演の妻夫木聡(矢崎剣介=ケン)と安藤政信(山田正=アダマ)については、いつものイメージ通りで期待通りの感じだったが、三人目の男
岩瀬学=イワセを演じた金井勇太や、中村譲役の星野源、工業の番長役の新井浩文等、この作品で忘れられない存在感を醸し出している若手の台頭が嬉しかった。

また、本作がデビュー作となるヒロイン松井和子=レディ・ジェーン役の太田莉菜については、好き嫌いはあると思うが、見事なヒロイン像を創り上げている。

また、妻夫木聡(矢崎剣介=ケン)の父親役の柴田恭兵や、ケンの父親の教え子で極道の村上淳、佐々木刑事役の國村隼、そして相原先生役の嶋田久作、松永先生役の岸部一徳等の俳優達も良い仕事をしている。
彼等も忘れ得ぬ印象を観客に与えている。


つづく
ウィリアム・ゴールドマンという脚本家がいる。

「明日に向って撃て!(1969)」と「大統領の陰謀(1976)」で二度もアカデミー賞(脚本賞、脚色賞)を受賞した、言わずと知れた名脚本家である。

例えば、脚本を担当した主要作品をあげるだけでも、映画史に燦然と輝く多くの傑作・名作が名を連ねる。

主要な脚本担当作品は次の通り。
「動く標的(1966)」、「明日に向って撃て!(1969)」、「華麗なるヒコーキ野郎(1975)」、「マラソン マン(1976)」、「大統領の陰謀(1976)」、「遠すぎた橋(1977)」、「プリンセス・ブライド・ストーリー(1987)」、「ミザリー(1990)」、「アトランティスのこころ(2001)」、「ドリームキャッチャー(2003) 」 ・・・・。

しかしなんと言っても、前述の「明日に向って撃て!(1969)」である。

1890年代のアメリカ西部。銀行強盗のブッチとサンダンスは、南米ボリビアで一旗上げる夢をもっていた。列車強盗に成功した彼らは、サンダンスの恋人エッタとともにボリビアへ向かうが…。19世紀末に鮮烈な軌跡を残した2人のアウトローを、情感豊かに描き出したアメリカンニューシネマの代表作。
『スティング』などの名匠ジョージ・ロイ・ヒルが、ときにはユーモラスに、ときにはリリカルに描いていく。主役のブッチにはポール・ニューマン、サンダンスにはロバート・レッドフォード。そして女教師エッタに名花キャサリン・ロスが扮している。名曲「雨にぬれても」をはじめとするバート・バカラックの軽妙流麗なメロディが、全編を痛切に歌い上げる新感覚ウェスタンだ。(アルジオン北村/Amazon.co.jpのエディターズ・レビューより引用)

さて、その「明日に向って撃て!(1969)」だが、ウィリアム・ゴールドマンはその脚本中に、映画史に残る名セリフを書いているのだ。
全映画の名セリフのベストテン等を選出した場合、かなりの確率で上位に食い込む種類の名セリフであり、「明日に向って撃て!(1969)」を紹介するVTRには必ずといって良いほど、このシークエンスが含まれている。

銀行強盗ブッチ・キャシディ(ポール・ニューマン)とサンダンス・キッド(ロバート・レッドフォード)は、追ってに追われ、断崖絶壁に追いつめられてしまう。
追ってから逃げ延びるためには、遥か下方を流れる川に飛び降りるしかない。

ブッチ(ポール・ニューマン)に川に飛び込めと言われたサンダンス(ロバート・レッドフォード)は、

「オレは泳げないんだ!」("I can’t swim!")

と言うが、結局ブッチと一緒に川に飛び降りてしまう。

前述のように「明日に向って撃て!(1969)」を紹介するVTRや、ロバート・レッドフォードを紹介するVTRで、おそらく多くの人が見たことあるフッテージであろう。

(因みに、サンダンス映画祭で有名な、ロバート・レッドフォードが創出したサンダンス・インスティテュートは、この際のレッドフォードの役名:サンダンス・キッドから取られている。)

さて、わが日本にも最近特に評価されている脚本家がいる。
最新作「69 sixty nine」を仕上げたクドカンこと宮藤官九郎である。

主要な脚本担当作品は次の通り。
「池袋ウエストゲートパーク(2000/TV)」、「GO(2001)」、「木更津キャッツアイ(2002/TV)」、「ピンポン(2002)」、「ドラッグストアガール(2003)」、「ゼブラーマン(2003)」、「アイデン&ティティ(2003)」、「木更津キャッツアイ 日本シリーズ(2003)」、「69 sixty nine(2004)」・・・・。


最新作「69 sixty nine」の中にこんなシークエンスがある。

ケン(妻夫木聡)とアダマ(安藤政信)は、大学の全共闘団体に追われ、川にかかる橋の中央に追いつめられてしまう。
橋の両側からジリジリと近づいてくる全共闘。
全共闘から逃れるには、川に飛び込むしかない。
川に飛び込めというケンに対してアダマは、

「泳げないんだ。」

と言うが、結局は川に飛び込んでしまう。

そしてもう一本、宮藤官九郎が脚本を担当した作品「ピンポン」にこんなシークエンスがある。

橋の欄干に登るペコ(窪塚洋介)、後には警官が自転車で近づいてくる。警官の制止を無視し、ペコは橋の欄干から飛ぶ。

"I can fly!"

カメラはペコを中央におさえつつ、ショットガン撮影の発展形のように螺旋を描きつつ、橋の上から一気に上空へ向う。

いかがだろうか。

一度ならずも二度までも自らの脚本に同じようなシークエンスを潜ませる宮藤官九郎。
監督がこれらについて、気付いているかどうか、よくわからないが、これは誰の目にも、名脚本家ウィリアム・ゴールドマンへのオマージュに映るのではないだろうか。
と言うか、それ以外に考えられないのだ。

そして「69 sixty nine」には、「明日に向って撃て!(1969)」の映画史に残る素晴らしいラスト・シーンの直前のシーンを髣髴とさせるシークエンスがある。

南米の警官隊ならぬ工業高校の番長等不良どもにとり囲まれ、喫茶店「ブラックローズ」に閉じ込められてしまうケンとアダマ。
拳銃の弾が金に化けてるんですがね。

因みに、「明日に向って撃て!(1969)」は、1969年の作品である。
つまり、「明日に向って撃て!(1969)」は、「69 sixty nine」の出来事が起きている頃に制作され公開された作品だ、ということなのだ。

必然か偶然か、はたまた宮藤官九郎の目配せか、「69 sixty nine」は「明日に向って撃て!(1969)」へのオマージュに満ちているのだ。
「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、言わずと知れたジョージ・A・ロメロの傑作「ゾンビ(1978)」(原題:"DAWN OF THE DEAD")のリメイクである。

しかも脚本は、ロメロのオリジナル脚本を脚色している、ということで、当初は"George A. Romero’s DAWN OF THE DEAD"というタイトルでプロモーションが行われていた。

その表現からロメロが制作に絡んでいる、と実しやかな情報がWEB上を飛び交っていたのも記憶に新しい。
しかし結果的にロメロは制作には一切タッチしておらず、"George A. Romero’s DAWN OF THE DEAD"という表現は、"MARY SHELLEY’S FRANKENSTEIN"や"BRAM STOKER’S DRACULA"同様に原作(原案)者を意味する、ということだったのだ。

因みにロメロのゾンビ三部作のタイトルは次の通りである。
原題からして哲学的で深みがあり一般のホラー映画と一線を画す素晴らしいものである。

「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド(1968)」("NIGHT OF THE LIVING DEAD")
「ゾンビ(1978)」("DAWN OF THE DEAD")
「死霊のえじき(1985)」("DAY OF THE DEAD")

因みにわたしは、三部作の中では三作目の「死霊のえじき」が大好きである。
公開当時北米のメディアにして「ロメロはホラーを哲学にまで高めた」とまで言わせた大傑作である。
脚本、演出、描写ともに素晴らしく、わたしは映画史に残るホラー映画のひとつの頂点だと思っている。
(因みに現在国内版DVDで視聴できるバージョンは、プロデューサーが鋏を入れ、劇場公開版をいわば改悪したバージョンであり、劇場公開版DVDリリースが待たれる。)

ワシントン州エベレット。
看護婦のアナ(サラ・ポーリー)は、いつものように超過勤務を終え、夫ルイス(ジャスティン・ルイス)と暮らす自宅へ帰宅した。
翌朝、彼女たちの寝室の外には、隣家の8歳の少女ヴィヴィアン(ハンナ・ロックナー)が佇んでいた。
ルイスは、ヴィヴィアンの口元が何物かに噛み裂かれたような酷い怪我を負っているのを見て彼女に駆け寄るが、彼女は人間離れしたスピードで襲い掛かり、ルイスの首筋を噛み裂いてしまう。なんとかドアを閉じ寝室に立て籠もるが、ヴィヴィアンに首筋を噛み裂かれたルイスは絶命してしまう。
が、間もなく彼は息を吹き返し、今度は彼がアナに向かって襲い掛かってくるのだった。
何も分からないまま、アナは必死で屋外へと逃げ出したが・・・・。

本作「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、監督がCF(CM)あがりのザック・スナイダーということもあり、細かなシークエンスの構成や演出は概ね評価できるが、映画全体を通して見ると、シーンのつながりに不可解な疑問点が多く、脚本も恐ろしく強引で論理性に瑕疵がある。
とは言っても、本作は走るゾンビの圧倒的なパワーや、ごり押しの演出により、脚本の問題点を凌駕するパワーを持つ、評価すべき娯楽作品だと言えよう。

冒頭、アナ(サラ・ポーリー)の病院でのシークエンスでは、「ZOMBIO/死霊のしたたり」等のエンパイア・ピクチャーズ系のB級テイストに嫌〜な予感がしたのだが、アナが病院の外に出てからは、逆にそんな嫌〜な予感は払拭されるほどのハリウッド・テイストに満ちた作品に仕上がっていた。

ところで、その冒頭部分での特筆すべき点は、全速力で走るゾンビに追われる人間たちの描写であろう。
今までも走るゾンビを描いた作品はいくつかあるのだが、これほど全力疾走しているゾンビは初めてではないだろうか。

生き残った人々は自動車に乗って逃げるのだが、ゾンビは人間離れした恐ろしい勢いで自動車を追いかけるのである。
そして、近くに人間を発見するや否や、今までの獲物である自動車を見限り方向転換し、その近くの人間を襲うのである。
本作でのゾンビには、理性は無く本能だけで人間を捕食する存在として描かれ、人類が持つ理解できない捕食獣に対する根源的な恐怖感を煽る事に成功している。

また冒頭付近のゾンビとのカーチェイス(?)では、慌てふためく人間たちが理性を失いオーバー・スピードで自動車を運転し、次々と事故を起こす様が俯瞰(ある意味神の視点)で描かれ、脆くも崩壊する人間性と、それから派生する人類滅亡の予感を効果的に描写している。

物語の中盤は「ゾンビ」同様ショッピングモールで物語は進行するのだが、脚本の問題か「ゾンビ」ほどの緊迫感は感じられず、大量消費社会への文明批判も「ゾンビ」と比べて弱くみえる。

しかしながら、CJ(マイケル・ケリー)等ショッピング・モールの警備担当者とアナ等ショッピング・モールに逃げ込んできた人間たちとの対立は、資本主義社会における団体同士、国家同士の対立の縮図として機能していた。

ショッピング・モールのシークエンスについては、大きな危機も無く人間ドラマとモール内部に発生するゾンビの対処に終始していたのが残念である。
一度くらいは、ゾンビの集団がモール内に入り込み、危機的状況に陥って欲しかった。

終盤付近は物語の山場とも言える、マリーナへ向けての逃避行なのだが、ショッピング・モールでの立て籠もりにおいては、大量消費社会の縮図であるのだから、食料等物資の減少が明確に描写されるべきなのだが、その辺が明らかで無いため、生き残った人々のマリーナへの逃避行の決断について、脚本的に説得力が感じられない。

また、アクション・シークエンスについても、アクションを見せることに終始し、アクションで巻き起こる物語上の問題点を棚上げにしている感が否定できない。
例えば、トラック到着や、銃砲店の救出シークエンス、またヨット出帆シークエンスなどに脚本上の解決されない問題が散見される。
勿論本作は娯楽作品なので、その辺の些細な事に目くじらを立てても仕方が無いのだが、ロメロファンとしては「ドーン・オブ・ザ・デッド」を名乗っている以上、些細な点にも拘って欲しかったのである。

また、ホラー映画というものは、恐怖の対象を論理的に解釈した瞬間にただの勢力争いの映画に成り下がってしまうが、本作ではゾンビの論理的解釈が明確に行われなかったためゾンビの根源的恐怖の輝きは失われなかった。

エンド・クレジットに挿入される細かいカットもなんだか微妙である。

キャストは、アナ(サラ・ポーリー)を助ける警官ケネスにヴィング・レームズ、知的なリーダー格マイケルにジェイク・ウェバー、妊婦をいたわる夫アンドレにメキー・ファイファー、ヨットの持ち主スティーブにタイ・バーレル、ショッピング・モールの警備主任CJにマイケル・ケリーが扮し、またカメオ出演で、トム・サヴィーニが保安官、「ゾンビ」でピーターを演じたケン・フォリーがテレビ伝道師、同じく「ゾンビ」でロジャーを演じたスコット・H・ライニガーが将軍を演じている。

本作「ドーン・オブ・ザ・デッド」は、まあロメロ作品には及ばないが、現代風ゾンビモノとして見るべきところは多々ある娯楽作品だと言えよう。

余談だがチェスのシークエンスや射撃ゲームの退廃的な雰囲気が興味深かった。
また、キューブリックの「シャイニング」に対するオマージュがあった。
池袋「新文芸坐」でクリント・イーストウッド特集上映が始まった。
その特集上映の第一週は「スペース・カウボーイ」と「ミスティック・リバー」の2本立てであった。

ジミー・マーカム(ショーン・ペン/少年時代:ジェイソン・ケリー)、ショーン・ディバイン(ケヴィン・ベーコン/少年時代:コナー・パオロ)、デイブ・ボイル(ティム・ロビンス/少年時代:キャメロン・ボウエン)の3人は少年時代よく一緒に遊んでいた。
いつものように3人が路上でホッケーをしたり、生乾きの舗道に名前を書いていると、突然警察を名乗る男たちが現われる。
彼等は、公共の舗道に悪戯書きをした事を咎め、少年たちの代表としてデイブを車で連れ去ってしまう。
ジミーとショーンの2人は、それをなすすべもなく見送るだけだった。

4日後、デイブは監禁されていた場所から逃げ出し無事保護されるが、彼がどんな目にあったのかを敢えて口にする者はいなかった。
そして、その出来事以降3人は疎遠になっていった。

25年後。ジミーの19歳になる娘ケイティ(エミー・ロッサム)が死体で発見された。

殺人課の刑事となったショーンは同僚のホワイティ・パワーズ(ローレンス・フィッシュバーン)と共にこの事件を担当することになる。
ジミーは犯人への激しい怒りを募らせ、独自の捜査を開始する。
やがて警察の捜査線上にデイブが浮かび上がってきた・・・・。

監督/製作/音楽:クリント・イーストウッド、原作:デニス・ヘレイン、脚本:ブライアン・ヘルゲランド、撮影:トム・スターン、編集:ジョエル・コックス

本作「ミスティック・リバー」は全米公開されるや否や、多くの賞レースの大本命とされ、実際に多くの賞を受賞した、クリント・イーストウッド監督作品である。

物語は一見すると、少年時代の3人の友人のうちの、ひとりが娘を殺害され、ひとりが捜査し、ひとりが容疑者となる、という恐ろしい背景を持ったクライム・サスペンスであるが、語弊はあるが、そのベタで安易といった独特な3人の人間模様を捉えると、まるでシェイクスピア悲劇や、聖書の物語、はたまたマザーグースの物語のような、普遍的で予定調和的な、どんなに足掻いても決して逃れる事が出来ずに、予定調和的な結末に向かってしまう悲劇のような印象を受ける。

そして、ショーン・ペンが演じたジミー・マーカムを、世界の警察アメリカのメタファーだと捉えると、強いアメリカ、間違いを認めないアメリカ、間違っても謝らないアメリカ、という現代アメリカの暗部に鋭くメスを入れる、という構造を持った作品に様変わりする。
また、このあたりは、逆引き的に、もしかすると現在の日本国首相に捉える事が出来るかもしれない。

おそらくイーストウッドは、間接的にアメリカ批判を行っているのだろうが、アメリカ人はそこまで本作を読み込んでいるかどうかわからないが、結果的にアメリカ国内で様々な賞を本作は受賞している。

本作「ミスティック・リバー」は、もしかするとある意味マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「華氏911」にも似た思想的バックグラウンドを持った作品なのかも知れないが、「ミスティック・リバー」は、アメリカ国内で拡大ロードショー公開された上に、多くの賞を受賞する反面、「華氏911」はアメリカ国内での配給で大もめ、という点も興味深く思える。

また、十字架を背負った男(物語の上では二つの十字架を背負う事になるし、文字通り刺青の十字架をも背負っている)ショーン・ペンのキャラクターは、前述のように強いアメリカのメタファーとして機能する一方、キリスト教的観点からは、十字架を背負った男=イエス・キリストの暗喩とも取れるのではないだろうか。だとすると、アメリカが臨む全ての戦いは聖戦であり、神の名の下でアメリカは軍を進めている、という解釈も可能なのだ。
しかし、本作は、ショーン・ペンが演じたジミー・マーカムは間違っている、と同様にアメリカは間違っている、というメッセージを発しているのだ。
余談だが、そして腕の刺青の中央には漢字で「力」と書いてあるのも興味深い。

こういったアメリカという国を間接的にでも批判するような作品を、芸術的な大作として製作・公開することが出来るアメリカという国の文化の高さと懐の深さに羨望を禁じえない。
例えば、中学生同士が殺し合いをする映画の上映を、国会議員自らが止めさせようとするような国との大きな違いを感じる。

勿論ペンは剣より強いのだが、直接的なペンより、暗喩を含んだ間接的なペンの方が強く、各方面からの弾圧や検閲を受けづらい、というところなのだろうか。
もしくは、思想や言論を弾圧する人や団体は、暗喩やメタファーを読み取れない、と言うことなのだろうか。

ところで、キャストについては、なんと言っても、ショーン・ペン、ケヴィン・ベーコン、ティム・ロビンスの三人だろう。

娘が殺されるジミー・マーカム役のショーン・ペンはモラル的に理解されづらいキャラクターを見事に演じている。
しかしながら、物語の中盤までは、ジミー・マーカムのキャラクターは、昔は悪かったかも知れないが、現在は家族を大切にする良き父親像を具現化した存在であり、観客の感情移入を許していた、という点が興味深い。
「21グラム」と比較すると演技のあざとさ、計算高さが消え、演技は確かに評価できるものがある。

殺人課の刑事ショーン・ディバイン役のケヴィン・ベーコンも、良い俳優になって来たようだ。
3人の中では一番成功し、一番幸せに近い役所だが、ジミー・マーカムを見逃す、と言うこれまたモラル的に理解されづらいキャラクターであると言えよう。
また、妻の精神的な病による失踪という家庭の問題を抱えている所が役に深みを与えている。これも病めるアメリカのメタファーなのだろう。

また、このショーン・ディバインという役柄は、本作の語り部として機能するのだが、かつての友人たちを「今は友人ではない」と切り捨てるところが、後の伏線になっているし、ラストで戻ってきた妻がパレードの際に抱いていた子どもは、本当の赤ちゃんなのか、それとも病んだ妻が子どもだと思い込んでいる人形なのか、という疑問すら湧く微妙なキャラクターではないだろうか。

そしてティム・ロビンス(デイブ・ボイル役)である。
少年期のトラウマを引きずる、精神的に不安定なキャラクターを見事に演じている。これも病めるアメリカの象徴なのだろう。

結果的にはこのキャラクターもモラル的に理解されづらい行動を取っているキャラクター設定となっているが、脚本的には多くの観客が感情移入する、キャラクターとして設定されているのではないだろうか。
同情を引きやすいキャラクター設定となっているのだ。

で興味深いのは、3人の主要キャラクターは3人ともダメな人間である。ということである。
そして3人とも病めるアメリカの象徴として機能しているのだ。

ところで、音楽は、なんとクリント・イーストウッド。
ピアノの鍵盤を人差し指で、ポンポン五月雨っぽく叩いている様なサントラは、そう言う訳だったのだ。

「マトリックス」シリーズでおなじみのローレンス・フィッシュバーンも頑張っているが、3人の役者と比較すると普通かもしれない。
「地獄の黙示録」は良かったけどね。

重い話だし、共感しづらい作品だけど、観るべき作品だと思うのだ。

☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2004/06/17の「ブラザーフッド」の試写会は、ウォンビンとチャン・ドンゴン等の舞台挨拶があったのだが、わたしは諸般の事情で、2004/06/17ではなく、2004/06/16の試写会に行くことになってしまった。勿論、2004/06/16の試写会は舞台挨拶は無しなのだ。残念だ。

1950年、韓国ソウル。
兄ジンテ(チャン・ドンゴン)は靴磨きで一家の家計を支え、恋人ヨンシン(イ・ウンジュ)との結婚と、弟ジンソク(ウォンビン)の大学進学のためにと苦しいながらも充実した日々を送っていた。
一方世間知らずの弟ジンソクも頼もしく優しい兄に守られて、何不自由ない生活を送っていた。
しかし6月25日、事態は一変する。朝鮮戦争が勃発したのだ。混乱の中、ジンソクが軍人に強制的に徴兵されてしまったことから、ジンテも慌てて後を追う。
兄ジンテは、自ら危険な任務につき武功をあげ、勲章を貰ってその恩寵で、弟を戦地から遠ざけようと考えるのだった・・・・。

まず英語のタイトルの"brotherhood"と言う言葉であるが、"-hood"は「だった頃」というような意味を持つ言葉である。
"brotherhood"を直訳すると「兄弟だった頃」という意味にも取れるのだ。
そして論を進めると本作「ブラザーフッド」は、"brotherhood"と言うタイトルから、以前は兄弟関係だったが、現在は何らかの理由で「兄弟では無くなった」兄弟の物語である、と言うことが読み取れる。

まず映画を見て驚いたのは、空の色と言うか光の色がアジアの光の色では無いと感じた点と、カメラワークが異常に安定している点である。

本作「ブラザーフッド」は「シュリ」のカン・ジェギュ監督の新作なのだが、そうは思わせないハリウッド・テイスト溢れる作品だった。

以前のカン・ジェギュ作品は、ある意味稚拙で荒削りではあったが、パワーや勢いのある作品を撮る監督だったと思うのだが、本作では円熟味を増したのか、はたまたスタッフが変わったのか、語弊があるが、面白みの無い普通のハリウッド映画のようなテイストを感じた。
作品に、安心感はあるが、何が起きるかわからない、と言ったライヴ感が無い、と言う感じなのである。

かつてのエログロ映画監督ピーター・ジャクソンが文芸的な「指輪物語」を撮ったような感じだろうか。
おそらく監督の成長は成長なのだが、わたしたち観客の期待する監督像と成長を果たした監督像とのベクトルが違う感じなのである。

物語は、朝鮮戦争という大きなうねりの中に投げ込まれた、波乱の人生をおくる二人の兄弟の物語である。

当初、ウォンビン演じる弟ジンソクは世間知らずの子どもで、兄ジンテ(チャン・ドンゴン)の気持ちをわかろうとしないし、子どもの理論で背伸びをしているように取れる。
一方、兄ジンテもやっていることは大人のようだが、実際は弟ジンソクの事のみを妄信的に考え、戦争の大義や政治信条には全く関心がなく、弟ジンソクを家に返すことのみを目的として、そのため軍功を重ねていっているのである。
彼の頭の中には、祖国統一なんて考えは無いのかもしれない。

旗部隊のシークエンスは、その辺りを明確にさせているのかも知れない。あの辺は韓国の人はどう感じるのか、日本人としても疑問を感じる。

話題の戦闘シーンは激しく、「プライベート・ライアン」の冒頭部分をこれでもか、これでもか、と全編の戦闘シーンにまで引き伸ばしたような印象を受ける。
「プライベート・ライアン」の戦闘シーンや物語性は、前半から後半に進むに従って、スピルバーグの悪い癖である娯楽性が頭をもたげ、前半と後半は全く違う種類の映画になってしまっている(前半は戦争の悲惨さを描き、後半は戦争の格好よさ爽快さを描いている)のだが、本作「ブラザーフッド」は戦争の悲惨さを描くと言った統一したイメージで貫かれている点は大いに評価できる。

本作には、戦争の格好よさや、戦闘の爽快さ、変なヒロイズム等が入り込む余地は全く無いのだ。
あるのは戦争の悲惨さ、非人道的な行為、人間性を失っていく人間達だけなのである。

そして、あまりにも凄惨で重い話が続くため、本作を娯楽作品として捉える事が困難なむきもあるのではないだろうか。

そんな戦闘シーンは、「プライベート・ライアン」と同様に、おそらくカメラを機械的に動かしブレを生じさせ、さらに白と黒のコントラストを強調し、所々コマを飛ばしているような効果を与えた映像のオンパレードであった。

ところで、本作「ブラザーフッド」は、先日紹介した1,200万人が涙した「シルミド」を超え、なんと1,300万人が泣いた、らしいのだ。

試写会の連れは号泣していたのだが、わたしはほとんど泣けなかった。
あまりにも凄惨な戦闘シーンの釣瓶打ちだったため、感情移入するスキもなく、感情をしゃっとダウンし、論理的に冷静に映画に見入ってしまったような印象を受けた。

因みに、わたしが最近大泣きしたのは「ビッグ・フィッシュ」である。

しかし、脚本(伏線)といい、美術といい、演技といい、スケールといい、こういった全くスキの無い作品を作ることが出来る韓国映画界に羨望を感じてしまう。
少なくても、その辺の日本映画よりは全然面白いし、エモーショナルだし、作品としての格も上だし、日本人としてうらやましくもあり悔しくもありなのだ。

香港映画が熱い頃は香港映画に嫉妬し、現在は韓国映画に嫉妬する、と言う感じなのだ。

ところで、キャストは、ほとんどウォンビンとチャン・ドンゴンのみであり、彼等二人のためにこの映画の全てが用意されている、と言っても過言ではないような作品なのだ。
とは言っても、前述のように美術も脚本も撮影も編集も、全て良い仕事をしており、その辺のアイドル映画みたいな映画とは一線を画しているし、ウォンビンの成長と言う見方も出来るほど、ウォンビンの成長は甚だしい印象を受ける。

また韓国映画に多いのだが、過去と現在に大きな伏線を配した上で、過去と現在並列的に描く手法が本作でも素晴らしい効果を与えている。
印象的には「テラコッタ・ウォリア/秦俑」のラストシーンのような感じも受けるし、映画自体の構成は、冒頭とラストが見事に繋がる「シザーハンズ」や「ラブ・ストーリー」にも似た構造になっている。

くどくどと細かい話を書いてきたが、本作はちょっと重いが、アジアの歴史を語る上でも、また韓国映画のパワーを見る上でも、ウォンビンとチャン・ドンゴンだけを見る上でも、日本映画と比較する上でも、ハリウッド映画と比較する上でも、興味深く楽しめる作品だと思う。

題材はともかく、本作「ブラザーフッド」は手法やスタイルは完全にハリウッド映画と言えるのではないだろうか。
先日、池袋の「大戸屋」で食事をしたのだが、その時わたしの向かい側の席に座っていた女が怪しい行動を取っていた。

その女は、なんと自分の味噌汁に目薬をポタポタと垂らしていたのだ。

いけないモノを見てしまった人よろしく、わたしは慌てて目をふせてしまった。

飲物に目薬を垂らすと言えば、昔は女性の飲物に目薬を垂らすと、酔いが回って、足腰が立たなくなり、意識が朦朧としてくる、というような都市伝説があるが、あくまでもこの都市伝説は、意中の相手や嫌な相手を朦朧とさせるために使う業なのだ。※1

しかしその「大戸屋」の目薬女は、自分で自分の味噌汁の中に目薬をポタポタと垂らしている。
自分で自分の意識を朦朧とさせようとするとは、一体全体どういう女なのだろう。

その時わたしは、もしかすると味噌汁に垂らすとトリップ出来る新手のドラッグが開発されたのかな、と思ったりしていたのだが、『「大戸屋」の味噌汁にドラッグを垂らしてトリップする女性の図』はあまりにもイケテいないので、というより「味噌汁限定のドラッグ」となると確かにコンセプトとしては面白いのだが、ほとんどお笑いに近い訳で、わたしの思い違いだと言う事にしてその案は却下する事にした。

そこで原点に立ち返り、やはり自分を朦朧とさせるための作戦だろうと、確信したわたしは次のようなことを考え始めていた。

もしかすると「大戸屋」の店員に好きな男でもいるのだろうか。
この女、意識が朦朧とした状態で好きな店員にしなだれかかるつもりだろうか。

「アレ〜」倒れる女
「お、お客さん、だっ、大丈夫ですか」女のそばに駆け寄り、抱き起こす店員
「わたし、どうしたのかしら」朦朧とした焦点の合わない目で店員を見つめる女、見つめ返す店員
「お客さん・・・・」
「店員さん・・・・」恋に落ちる二人

いや、それより、例えばわたしのような近くに居る客に介抱されたいのだろうか。

「アレ〜」倒れる女
「だっ、大丈夫ですか、かっ、かっ、かっ・・・・」全ての客が立ち上がり女のそばに駆け寄り、先を争って抱き起こす客たち
「わたし、どうしたのかしら」朦朧とした焦点の合わない目で近くの客を順番に見つめる女、見つめ返す全ての客
「おぜうさん、さん、さん、さん・・・・」恋に落ちる一同

だとすると誰でもいいのか。もしかすると寂しい女なのか。
わたしの頭の中は、妄想のオーバードライブで破裂寸前なのだ。

頭の中で、そんなブレイン・ストーミングが始まったのを尻目に、その女は猛然と食事をはじめた。

そんな彼女が食べていたのは、ヘルシーな焼き魚定食だった。
わたしは彼女が食事を進めるうちに、もしかすると意識朦朧としてくるかな、と期待してチラ見していたのだが、そういう気配は皆無だった。
逆にその女は、食事が進むにつれ、なんだが元気になっていくようにも見えてきた。

そうこうしているうちに、食事を済ませたその女は何事も無かったかのように、「大戸屋」店内にわたしを残して店を出て行ってしまった。

その女を追いかけ、麻薬不法所持で任意同行していただく案もあったのだが、既にわたしの灰色の脳細胞は、彼女が味噌汁に目薬を垂らしていた正しい理由にたどり着いてしまっていたのである。

賢明な読者諸氏は既にお気づきの事だと思うのだが、彼女はただ単に「にがりダイエット」をしていただけなのである。

そして、かく言うわたしは食事をしながら、とっても楽しいひと時を過ごすことが出来た、ということなのである。

※1 因みにこれは、現在の目薬には含まれていないのだが、「ロートエキス(スコポラミン)」という神経麻痺剤に由来する都市伝説のようである。

家庭菜園の話

2004年6月23日 日常
わたしは、今年の春からガーデニングの一環として、プランターで野菜を作る事にした。

現在栽培している野菜は、枝豆、パプリカ、カラーピーマン、ししとう、トマトである。

枝豆は、現在のところ、あまり大きくなってはいないため、莢の数は少ないながら着実に成長してきている。
しかし、先日の台風の風で、葉が折れ、そこから枯れてしまっている苗もあり心配なのだ。

パプリカは、デルモンテ産のアブラムシに耐性がある苗だったのだが、なんだか知らないがアブラムシが大発生してしまい、ついでに取巻連中のアリも沢山やってきて、花がポロポロ落ちてしまい、これまた心配なのだ。
というか、おそらく厳しい状況なのだろう。

一方、ノンブランドのカラーピーマンは元気に育っている。
パプリカとカラーピーマンは実際は同じ作物なのだが、苗に付いていたタグにカラーピーマンと書いてあったのだから、多分これはパプリカと違うのだろう。

余談だが、緑色のピーマンとパプリカやカラーピーマンは、実は同じ種で、完熟するに従って緑から黄色へ、黄色から赤へと変貌するのだ。
つまり、ピーマンもほうっておくと、勝手にパプリカになってしまう、と言う事なのだ。

しかしながら、勿論、ピーマンはピーマンとして、パプリカはパプリカとして美味しく食べられるように品種改良されている訳だから、完熟したピーマンは、見た目がパプリカだと言っても、実際は熟したピーマンな訳で、パプリカと比較して美味しい訳ではない。

ししとうは非常に元気が良く、縦横無尽に伸びている。
しかし、先日の台風のため、枝が何本か折れ、茎の中央に亀裂が入ってしまい、これまた心配なのだ。

トマトは、始めたばかりなので特に問題は無く育っているが、今後の状況に乞うご期待なのだ。

で思ったのは、野菜は草花と比較して弱い、ということだ。

ガーデニング自体は、ここ数年真面目にやっているのだが、花は普通に水をやっている限り、枯れた例は無い。
尤も、チューリップやなんかは、アブラムシが発生して失敗したが、普通の苗は放っておいてもどんどん育ち、順々に花が咲いていくのだ。
一方、野菜は大変なのだ。
アブラムシは出るは、葉にナメクジの歩いた跡は残っているは、葉が病気になるは、支えは必要だと、手がかかって仕方が無い。

しかし、それがあるからこそ、収穫の喜びがあるのかも知れないのだ。

芝生の話

2004年6月24日 日常
実は、うちの庭には芝生があるんです。

尤も、芝生と言ってもいろいろな芝生があります。

皆さんが「芝生」と言われてイメージする芝生は、きちんと刈り込まれた、例えばゴルフ場のグリーンみたいな芝生ではないかと思います。
事実わたしの理想とする芝生もゴルフ場のグリーンみたいな感じの芝生です。
しかし、うちの芝生は、わたしの放任主義がたたってか、あたかも密集した「ニラ畑」みたいな状態になっているのです。

苦労してガーデニングをしたり野菜を作ったりしているわたしですが、芝生は苦労せずに大成長を遂げていると言う事なのでしょうか。
一応、普段から雑草はこまめに抜いているので、芝生の中に雑草が無いのがせめてもの救いなのかも知れません。

しかし、とうとうわたしは芝生を刈ろうと決意し、先日ホームセンターに行き、いろいろな芝刈道具を物色したのです。

わたしのイメージする理想の芝刈り機は、電動芝刈り機やなんかではなく、手動の赤いヤツで、タイヤに間に円筒状の刃がついていて、芝刈り機を押せば芝生がどんどん刈れていく、という古き良きアメリカ郊外の住宅地でよく使われているような芝刈り機でした。

勿論、そこのホームセンターにはわたしのイメージ通りの芝刈り機はあったのですが、残念ながら購入にはいたりませんでした。

と言うのも、わたしもその時知ったのですが、一般の芝刈り機は「成長した芝生」は刈れない、という事だったのです。

で、「成長した芝生」はどうすれば良いかと言うと、芝生用のハサミ等で短く切って、その上で芝刈り機で刈って下さい、ということでした。

仕方が無いので、わたしは芝生用のハサミと刈った(切った)芝を集める熊手のような道具(レーキと言うらしい)を購入したのです。

で、芝生用のハサミで芝生を切り始めたのですが、まあ想像通り大変でした。
1時間くらいで、2?程切った(刈った)ところで、右手の指に豆(水ぶくれ)が出来そうな予感がしたので、本日の作業はやむなく終了、ということにしました。

毎週少しずつ、ハサミで芝を切り(刈り)、なんとか今年の夏中に、冷たいレモネードでも飲みながら、例の赤い芝刈り機で優雅な芝刈りを楽しみたいものなのだ。

「メダリオン」

2004年6月25日 映画
ジャッキー・チェンの「生誕50年 日本公開50作品目 歴史的超大作!」と日本国内の配給会社がプロモーションを行なっている「メダリオン」を観た。

犯罪組織の首領スネークヘッド(ジュリアン・サンズ)は以前から探していた、死者を蘇らせその肉体に超人的なパワーを宿す、という中国で古くから伝わる謎の力を秘めた伝説のメダル(メダリオン)について記された伝説の聖典を入手する。
そこで彼は、そのメダリオンの力を発揮する少年ジャイ(アレクサンダー・バオ)の誘拐を画策する。

一方スネークヘッドの動向をかねてから探っていた香港警察の刑事エディ(ジャッキー・チェン)と国際刑事警察機構(インターポール)のワトソン(リー・エヴァンス)は、ジャイの誘拐を未然に防いだものの、一味の逮捕には失敗してしまう。

2週間後、一味はジャイを捕えることに成功、ジャイを連れてスネークヘッドの待つアイルランドへ飛ぶ。エディもまた、すぐさま彼らを追いアイルランドへと向かった。
アイルランドでは、エディのかつての同僚で恋人だったニコル(クレア・フォーラニ)とワトソン、そして彼等の上司スマイス(ジョン・リス=デイヴィス)が待っていた・・・・。

監督はゴードン・チャン、アクション監督はなんとサモ・ハン・キンポーである。

ジャッキー・チェンの映画は日本人の多くの観客に愛されてきた映画達であり、その愛すべき作品達が本作「メダリオン」で日本公開50作品目だと言うのは、日本国内の配給会社が一方的にプロモーションしているとは言え、感慨深いものがある。

事実、ここのDiaryNoteの中にも、ジャッキー・チェンをご贔屓にしている方が多々いらっしゃるようである。

物語はジャッキー・チェンの十八番である「型破りな刑事」が活躍するポリス・ストーリーとなっている。
が、本作は「死者を蘇らせその肉体に超人的なパワーを宿すというメダリオン」の存在が物語を従来のポリス・ストーリーと比較してファンタジックなものにしている。
また、舞台背景は現代という事も、そのファンタジックな物語に、現代の神話的色合いを加味している。

気になるアクションは、香港ではなくハリウッド製の作品では、保険の関係で身体を張ったアクションが禁じられているジャッキー・チェンであるが、本作は香港・アメリカ合作ということもあるのか、身体を張ったアクション指数は若干高めだと思いたいのだが、ジャッキー・チェン自体が50歳という事もあり、往年のアクションの再現、と言うところまでは行っていないと思う。

しかし、盟友サモ・ハン・キンポーが構築したアクション・シークエンスは、往年のアクションと比較して派手さはイマイチかも知れないが、見ていて楽しいアクションに仕上がっているのではないだろうか。特に街中の追跡劇が楽しい。

また、メダリオンの力を得たジャッキー・チェンのフィジカルなアクションと微妙なワイヤー・アクション、そしてコメディのようにコミカルに振付けられたアクションが楽しい。

またジャッキー・チェン以外の俳優のアクションとしては、なんと言っても、ヒロインであるニコル役のクレア・フォラーニと、ジャイを誘拐しようとする看護婦を演じたニコラ・バーウィックのラスト近辺のカンフー・アクションが見ものであった。
「キル・ビル」でダリル・ハンナとユマ・サーマンがこのようなカンフー・アクションをして欲しかったと思えるような素晴らしいカンフー・アクションに仕上がっていた。

ジュリアン・サンズとのバトルは、森の中での追跡劇がアクションの構成として面白く、疾走感が興味深かった。

コメディ・リリーフのリー・エヴァンスは見事なコメディアン振りを発揮し、ジャッキー・チェンとの凸凹コンビが楽しい。

またリー・エヴァンス演じたワトソンの妻を演じたクリスティン・チョンのアクションも楽しいし、コメディ・シークエンスとしても面白い。
妻にはインターポールの職員ではなく図書館の司書と偽っているワトソンであるが、妻はもしかしたら、それ以上の秘密を抱えていると思わせる素晴らしいシークエンスである。

ジョン・リス=ディヴィスは役柄としては小さい役柄なのだが、主人公が、映画の後半部分の舞台となる地域(本作の場合はアイルランド)に赴いた後のホスト役的な役柄が楽しい。
これは「レイダース/失われた聖櫃」や「インディ・ジョーンズ/最後の聖戦」的な映画的記憶を利用した興味深い役柄を演じている。

本作の脚本は、ジャッキー・チェン映画としての驚くべきプロットが含まれているのが驚きである。
また、本作は89分という非常にタイトに仕上がっており、アクション映画として齟齬が出ない、文字通りタイトな作品に仕上がっている。

エンド・クレジットのNGシーンを見ていても、撮影されたものの本編からカットされた、と思われるシークエンスを一部見ることができるのです。

ここしばらく、ジャッキー・チェン主演作品の安価なDVDの販売や、「80日間世界一周」のリメイク「アラウンド・ザ・ワールド・イン80デイズ」の公開を控えたジャッキー・チェンの最新のアクションを是非劇場で観て欲しいのだ。
注)この文章は、2002年11月7日にNHK総合で放映された「クローズアップ現代」にインスパイアされて書いた文章です。

その回の「クローズアップ現代」の内容は、現代の出版業界と図書館が抱えている問題点と改善策をまとめたもので、その中で最大の問題点として挙げられていたのは、「図書館によるベストセラー本の大量購入により、図書館の本来の使命が果たせない、また、出版会社が損失を被っている」というものでした。

次の文章は、それを前提にして、現代の図書館の問題点と、わたしたち読書好きに課せられた壮大な使命をまとめ、とあるメイリング・リストに投稿したものです。

また、「【ネタ】 高等教育の死」
http://www.we-blog.jp/sun/impressions/a0000097423.php
に対するアンサー・ブログにもなっています。

(次の文章は、直前のわたしの投稿に対し誤解した人に対する説明から始まっているため、わかりづらいかも知れません)

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

昨夜の「クローズアップ現代」で出版社やペンクラブサイドが問題視していたのは、図書館による「ベストセラー本」の大量購入についてです。

例えば、ひとつの図書館に「ハリー・ポッター/炎のゴブレット」が150セットあるような状況が図書館として異常ではないか。ということです。

別に上記のようなベストセラー本を2〜3セットくらい購入するのなら、図書館としても出版社としても問題としないと思いますが、実際にはベストセラー本は、ひとつの図書館に50〜150セットもあるような状況が一般的のようです。

そして、1年も経てば、それらのベストセラー本は使命を終え、図書館の倉庫に山積みになってしまい廃棄処分を待つ、と言う事態に陥っている訳です。

そもそも図書館には、「現代の知を集約し、次世代に知を継ぐ」という大きな使命がある訳ですが、最近のリクエスト制を導入している図書館の多くは、学術書や専門書という「知の集約的書籍」を購入せずに、1年もたてば廃棄処分になってしまうようなベストセラー本を大量に購入している。ということです。

この点については、勿論図書館の予算が少ない。というのが最大の問題なのだと思いますが、その少ない予算の有効利用が、短絡的にリクエストされているベストセラー本の大量購入になってしまっている、というのが実情なのです。

これは、読書好きとしては由々しき事態だと思います。
このままでは出版業界の淘汰は勿論、ベストセラー本しか出版されないような時代の到来も容易に想像できます。
または、良い意味でのオンデマンド出版への移行とか。

出版業界サイドの問題としては、数字ははっきり覚えていませんが、昨年(2001年)の図書館の貸出しベスト10書籍の総貸出し数はのべ600万部に相当し、売上げとしては、10億円規模の損害(?)を出版社は被り、著者の印税は・・・・円の損害。という試算が出ているようです。

わたしたちはただの読書好きですが、われわれにも、「未来の出版業界を支える」という大切な使命がある訳です。
われわれが本を買うことによって、ベストセラー本が生まれ、またマニアックな書籍の市場が生まれ、結果的に出版業界が、そして作家たちが生きながら得ている訳です。

勿論われわれには、某ブック・オフで「裁断寸前の、永遠に失われてしまう直前の貴重な書籍を救出する」という使命もありますがね。

なにしろ火は楽しいのですから。

ですから、皆さんの自宅による「未読の塔の建設」は未来の出版業界に取って、作家たちにとって、非常にすばらしい行為なのかもしれません。勿論死蔵もですが。

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わたしの家の近く、車で30分、電車で10分ほどの距離に同じ系列のシネコンが二つある。

で、わたしはそのうちの一つ、比較的大き目のシネコンをご贔屓にしているのだ。

最近のわたしのシネコン利用のパターンは、ほとんどが休前日のレイトショーを観る、と言うもの。

そして、わたしの映画選択の基準は、勿論観たい映画優先なのだが、基本的には、今週終わる映画を観ることにしているのだ。

ビデオやDVDをレンタルする習慣の無いわたしにとって、−−事実レンタル屋の会員証を持っていない−−、観たい作品の劇場公開が終わってしまった場合、余程の事がないと、その作品に二度とめぐり合う事が無い、なんていう事になってしまう可能性があるのだ。

勿論、劇場とレンタル以外にわたしの選択肢として、CATVやセルDVDがあるのだが、基本的に、最初にその映画を観るのは劇場と言う場にしたいのだ。

と、言う訳で、折角のシネコンだが、終わりかけの映画を観る機会が多い訳なのだ。

そしてもう一つの問題点は、最近試写会に行くようになったのだが、そのせいで、劇場公開がはじまる時期と、その映画を観る時期がずれてしまい、ついでに、折角スクリーンが沢山あるシネコンに行っても、試写会で観た映画ばかりになってしまうことがあるのだ。

因みに、わたしがご贔屓にしているシネコンでは、本日、次の作品がかかっている。
(レ)は、レイトショーでかかっている作品
(試)は、試写会で既に観た作品
(観)は、既に観た作品
(希)は、どちらかと言うと観たい作品
(不)は、どちらかと言うと観たくない作品

「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」(レ)(希)
「ブラザーフッド」(レ)(試)
「メダリオン」(レ)(観)
「白いカラス」(レ)(不)
「ほたるの星」(不)
「海猿」(レ)(不)
「デイ・アフター・トゥモロー」(レ)(不)
「21グラム」(試)
「天国の本屋〜恋火」(試)
「下妻物語」(試)
「トロイ」(試)(レ)
「スキャンダル」(レ)(不)
「世界の中心で、愛をさけぶ」(不)

で、実は今日これからレイトショーに行こうと思っているのだが、一体何を観ることになるのだろうか。

おそらく、
「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」
「海猿」
「デイ・アフター・トゥモロー」
「スキャンダル」
あたりだと思うのだが、この4本のうち観たい作品が1本しかない、というのが困ったものなのだ。
「ハリー・ポッター」シリーズ最新作の「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」を観た。

「ハリー・ポッターと賢者の石」の日本公開は2001/12/01、
「ハリー・ポッターと秘密の部屋」の日本公開は2002/11/23、
1年半振りにハリーが、ロンが、ハーマイオニーが帰ってきたのだ。

とは言うものの、監督がクリス・コロンバスからアルフォンソ・キュアロンに変わったせいで、キャラクターに思い入れが無いのか、1年半待ち続けていたファンの気持ちがわからないのか、主要キャストの登場シーンにはガッカリさせられた。

ハリー(ダニエル・ラドクリフ)はともかく、ロン(ルパート・グリント)とハーマイオニー(エマ・ワトソン)の登場シーンに至っては、何の思い入れも無い脚本と演出に悲しい思いがする。
例えばこれが毎週放映されているテレビシリーズならともかく、1年半もの間、本作を待ち続けていたファンの皆さんには大変失礼な印象を受けた。

少なくても、彼等主要キャラクター、世界中が愛するキャラクターの登場に敬意をはらって欲しいものである。

映画のファースト・カットやキャラクターの初登場のカットに、監督の映画人としては無神経な印象を受けたのだ。
ハリー登場のファースト・カットにしても、映画の冒頭としては非常に弱いつまらないカットとなっている。

さらに、ハリーのライバルであるマルフォイ(トム・フェルトン)の描き方にも問題があるのではないだろうか。
勿論、ハリーのおそらく壮大な人生の中では、マルフォイの存在は小さなものかも知れないが、ホグワーツ魔法学校内でのハリーの学校生活においては、マルフォイの影響力は決して小さなものではないはずなのだから。
シリーズとしての一貫性の欠如にも繋がる大きな問題かもしれない。

マルフォイは、ハリーのライバルでどうしようもないいじめっ子だが、実は二人はお互いに認め合っている、という方向性に持っていって欲しいものである。

また、冒頭から中盤までの脚本もおざなりで退屈である。
映像はそこそこ面白いので目は退屈することはないが、脚本は一本調子で頭は退屈してしまう。

とは言うものの、後半、この物語の根本となるシークエンスの脚本はよく出来ている。というか、こういった話が個人的に好きだ、という理由から来ているのかも知れないが、わたし個人としては非常に楽しめたのだ。

しかし、ラストが良ければ全て良し、という訳にはいかないのではないだろうか。
確かに中盤からラストまでの脚本は面白いし、感動的であるが、それで良いのか、誤魔化されてしまって良いのか、と思ってしまう。

また脚本には遊びが無く、−−つまり行間が無いということ−−、物語を語る上で重要なシークエンスしかない。
キャラクター造型に必要なシークエンスが少ない、ということである。

季節が変わる表現が、伏線となる柳の木というのも、どうだろうか。
手抜きではないのかな、と思ってしまう。

とは言うものの、よく出来た伏線はいくつかある。
特に物語の大きな伏線である、ルーピン先生(デヴィッド・シューリス)の「恐いもの」を描いたのは秀逸であろうし、よく見ないと気付かない程度の顔の傷も良い、鋭い観客にはネタがその時点で割れているだろう。
というか、スネイプ先生(アラン・リックマン)の授業といい、もしかすると伏線がわかり安すぎる、ということだろうか。これは児童文学の映画化という所以だろうか。残念である。

やはり物語を描くシークエンスとキャラクターを描くシークエンスのバランスが上手く無い、ということだろうか。

クリス・コロンバンス監督時代は、大人も充分楽しめる作品になっていたような気がするのだが、アルフォンソ・キュアロンになって以前の作風は薄れ、子ども向けの映画になってしまったのだろうか。

キャストについては、何と言っても、シリウス・ブラックを演じたゲイリー・オールドマンと、リーマス・ルーピン先生を演じたデヴィッド・シューリスに尽きるだろう。

特に、デヴィッド・シューリスは良い味を出していた。
ゲイリー・オールドマンの参加が鳴り物入りで喧伝されていたこともあり、結果的には、ゲイリー・オールドマンをデヴィッド・シューリスが喰ってしまった感がある。

ハリーの人生に大きな影響を与え、我々の思い出の中でも大きな位置を占める愛すべき悲しいキャラクターになっている。

リチャード・ハリス亡き後のダンブルドア校長を引き継いだマイケル・ガンボンは可も無く不可も無く、というところだが、やはりリチャード・ハリスにはかなわないのではないだろうか。

主役三人組は良かった。
冒頭のシークエンスでハリーの声が変な感じだったので、ちょっと不安を感じたが、特に問題は無かった。
ハリー(ダニエル・ラドクリフ)はともかく、ロン(ルパート・グリント)は将来、器用で何でも出来る良い俳優になるんじゃないかな、という気がした。
ハーマイオニー(エマ・ワトソン)は、ちょっと大人っぽくなりすぎの感がある。

脚本上の問題点として、ハーマイオニーの中盤の神出鬼没振りは、後半の注意事項と矛盾があるね。

余談だが、エンド・クレジットは面白かった。
ひとつひとつの足跡が細かく演出されており、ジャンプしたり、フラフラしたり、またはルーピン先生らしき足跡とかが楽しかった。
シリウス・ブラックと死を免れた相棒の足跡も出てくると思ったのだが、出てこなかったようである。

今日はこの辺で・・・・。
つづくかも。
tkr

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