さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その6です。

とりあえず目標の再確認を・・・・

目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」

1.映画

#033 「天国の本屋〜恋火」サイエンスホール 2004/06/01
#034 「ビッグ・フィッシュ」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/04
#035 「シービスケット」新文芸坐 2004/06/06
#036 「ラブ・アクチュアリー」新文芸坐 2004/06/06
#037 「69 sixty nine」厚生年金会館 2004/06/09
#038 「ドーン・オブ・ザ・デッド」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/11
#039 「スペース・カウボーイ」新文芸坐 2004/06/13
#040 「ミスティック・リバー」新文芸坐 2004/06/13
#041 「ブラザーフッド」よみうりホール 2004/06/16
#042 「メダリオン」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/25
#043 「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」ワーナーマイカルシネマズ板橋 2004/06/30

2.DVD、CATV等

#084 「レオン」LD 2004/06/03
#085 「トイ・ストーリー」LD 2004/06/05
#086 「トイ・ストーリー2」DVD 2004/06/05
#087 「ルクソー Jr.(短編)」DVD 2004/06/05
#088 「ル・ブレ」CATV 2004/06/14
#089 「フォー・ウェディング」CATV 2004/06/15
#090 「ファインディング・ニモ」DVD 2004/06/20
#091 「ニックナック(短編)」DVD 2004/06/20
#092 「モンスターズ・インク」DVD 2004/06/22
#093 「フォー・ザ・バーズ(短編)」DVD 2004/06/22
#094 「ファインディング・ニモ」DVD 2004/06/22
#095 「海底二万哩」LD 2004/06/27
#096 「バロン」LD 2004/06/27
#097 「パラダイス」DVD 2004/06/28
#098 「ギリーは首ったけ」DVD 2004/06/29
#099 「キリング・ミー・ソフトリー」DVD 2004/06/29

3.読書

#019 「ぼんくら(上)」宮部みゆき著 講談社文庫 2004/06/07
#020 「まだ遠い光 家族狩り 第五部」天童荒太著 新潮文庫 2004/06/14

映画は、劇場11本(累計43本)、DVD等16本(累計99本)で、計27本(累計142本)。
このままのペースで、年間284本(劇場86本)です。

読書は2冊(累計20冊)で、このままのペースでは、年間40冊です。

状況は厳しいですし、先は長いですが頑張ります。

※ 参考 昨年同時期の状況
映画 151本(劇場46本)
読書 28冊
7月1日映画の日、会社を休んだわたしは、このままではおそらく見逃してしまうだろう「スターシップ・トゥルーパーズ2」と「セイブ・ザ・ワールド」を観たのだ。

で、今日は「スターシップ・トゥルーパーズ2」の話。

人類と昆虫型生物=バグズとの激しい闘いは続いていた。
その頃の地球連邦軍は、テレパス能力を持ち作戦を立案するサイキックと、実戦を担当する兵士達によって構成されていた。

シェパード将軍(エド・ローター)率いる地球連邦軍の中隊は、辺境の惑星でバグズの猛攻に苦しめられていた。
シェパード将軍の指示で、わずかに生き残った兵士達は将軍とわずかな兵士達を戦場に残し、廃墟と化したかつての前線基地に撤退する。
そこには、上官殺しの罪でダックス大尉(リチャード・バージ)が監禁されていた。

基地に逃げ込んだ部隊は、バグズの猛攻に、一縷の望みをかけたサハラ二等兵(コリーン・ポーチ)の独断で解放されたダックス大尉の活躍で一度は攻撃を退ける事に成功する。
そして基地の復旧を進めているうち、昏睡状態のソーダ二等兵(ケリー・カールソン)を連れた、シェパード将軍とグリフ伍長(エド・ケイン)、そしてペック技術軍曹(J.P.マノウ)らが基地に逃げ込んでくる。
当初は協力してバグズの迎撃に備える彼らだった。が、一方バグズは人間に寄生し人間を操る術を身につけていた・・・・。

本作は、ポール・ヴァーホーヴェンの傑作「スターシップ・トゥルーパーズ」の続編、というか外伝的物語であり、前作で共同製作、特撮監修を務めたフィル・ティペットが監督を務めている。

フィル・ティペットは古くは「スター・ウォーズ」旧三部作や「ロボ・コップ」シリーズ、「ジュラシック・パーク」等の特撮を手がけた根っからの特撮マンで、かつては、手工業的で有機的で味わいがある特撮の手法であるストップ・モーション・アニメーションの神様レイ・ハリーハウゼンの正当な後継者と言われるほどのストップ・モーションのエキスパートだったが、当初はストップ・モーションで恐竜をアニメートする予定だった「ジュラシック・パーク」が、ほぼ全編CGIで恐竜を描くことになり、時代遅れの技術しか持たないティペットのキャリアが危ぶまれていたのだが、デジタルVFXの世界でも自分のキャリアを生かす術を見つけ、様々な作品に携わり、様々な賞を受賞しつつ現在にいたっている。

まあ、フィル・ティペットのプロフィールはともかく、本作はポール・ヴァーホーヴェンの「ロボ・コップ」系のシニカルなテイストを持つ上、前作「スターシップ・トゥルーパーズ」のバグズの大群とのバトルも楽しめるし、「ヒドゥン」や「遊星からの物体X」的楽しみも出来る、一粒で二度以上楽しめるお得な作品に仕上がっている。

しかし、残念ながら本作は前作のような超大作ではなく、低予算テイスト溢れるながらも、背筋の延びたスピリッツみなぎる意欲作になっている。
作品のテイストには一本きちんと筋が通っているし、脚本にも破綻は無く、低予算ながらも第一級の娯楽作品として仕上がっている。
但し残念なことに、予算の関係だろうか、艦隊戦シーンはほとんど無く、物語の戦闘の全てが地上戦で完結する、というのがなんとも寂しい。

とは言うものの、結局は第一線の監督達と共に多くの傑作に携わっているフィル・ティペットなだけに、演出も正攻法で初監督作品とは言え、ソツなくこなしており、鑑賞に堪えうる作品に仕上がっている。

多分、一般のお客さんはほとんど入らないと思うのだが、劇場公開してくれるに本の配給会社に感謝を捧げつつ、楽しんでいただきたいのだ。

ところで、本作の原題は、"STARSHIP TROOPERS 2: HERO OF THE FEDERATION"、その辺のシニカルな部分も是非味わっていただきたいのだ。
日本国内の一般メディアで目にするような映像の中に、なんとなく既視感を覚える映像がある場合がある。

これが、リスペクトなのかオマージュなのかパスティーシュなのかパロディなのか剽窃なのか盗作なのか判断に困ることがある。

でお題の「ミニッツメイドデリ フルーティ・キャロット」のCF(CM)"Sound of DELI"篇(日本コカ・コーラ株式会社)なのだが、これはおそらく皆さんも見たことがあると思うのだが、言葉で表現すると、次のようなCF(CM)である。

舞台は、セットの中央にテーブル(調理台)がセットされたキッチン。テーブルを中央に左右対称に配された料理人が、ミニッツメイドデリで使用されている野菜や果物を小気味好くリズミカルにスタイリッシュにナイフで切っている。

そしてその料理人たちは、ただ野菜や果物を切るだけではなく、テーブルについたまま、左右対称のまま踊りだすのである。

どうです。思い出しましたか、そう、あの格好良さげなちょっとスタイリッシュなCF(CM)です。

でこのCF(CM)にどんな映像の既視感を感じたかと言うと、2004年11月に北米を始めとして世界中で公開される「ポーラー・エクスプレス」("THE POLAR EXPRESS")で、「急行北極号」内で踊りまわる北極号の乗務員たちである。
その乗務員たちは、北極号の通路で、客にお茶を注ぎながら、横並びで完全にシンクロした状態でバック転等をしながら踊りまくるのである。

両方の映像を見ていただければ、わたしの既視感の理由は一目瞭然だと思う。

海外で製作された映像等が、日本国内で紹介される前に、日本国内で同じようなコンセプトの映像を作ってしまえ、という事は一般に行なわれていることである。

古くは「スター・ウォーズ/"THE NEW HOPE"」に対する「宇宙からのメッセージ」であったり、同じ国内で考えても「フルメタル・ジャケット」に対する「プラトーン」であったり、映画「丹下左膳百万両の壷」(2004/7/17公開)に対するテレビ・ドラマ「丹下左膳」(2004/6/30放映)だったりする訳である。

で、今回の「ミニッツメイドデリ フルーティ・キャロット」のCF(CM)"Sound of DELI"篇(日本コカ・コーラ株式会社)が、仮に、まだ未公開で評価が定まっていない作品である「ポーラー・エクスプレス」("THE POLAR EXPRESS")の一場面のコンセプトを模倣しているというのならば、−−ついでにこの作品は2004年11月公開であるのだから−−、内容もわからずにリスペクトやオマージュする、という観点は無いだろう。

そこで、今回のケースを悪く考えると、おそらく製作サイドとしては、今年の冬に公開される映画のを予告編を見たスタッフが、良いねえ格好良いじゃん、これ使ってみようかな、的な感じでコンセプトが借用され、顧客には内緒でプレゼンテーションが行なわれたのではないか、という広告代理店のクリエイターの確信犯的な釈然としない印象を覚えてしまうのだ。

まあ、勿論偶然かもしれないけど、日本で公開されていない映像や書籍等の盗作ではないか騒ぎは日本国内でも結構ありますからね。

ところで、このCF(CM)は、韓国発のキッチン・エンターテインメント"NANTA"にも似ていますね。
CF(CM)のタイトルが、”Sound of DELI”ということですから、本当は"NANTA"に対するオマージュに「ポーラー・エクスプレス」("THE POLAR EXPRESS")のコンセプトを借用した。というところかも知れませんね。

"THE POLAR EXPRESS"オフィシャル・サイト
http://polarexpressmovie.warnerbros.com/
「ポーラー・エクスプレス」オフィシャル・サイト
http://www.polar-express.jp/
7月1日映画の日、会社を休んだわたしは、このままではおそらく見逃してしまうだろう「スターシップ・トゥルーパーズ2」と「セイブ・ザ・ワールド」を観たのだ。

で、今日は「セイブ・ザ・ワールド」の話。

世界中を飛び回るコピー機のセールスマンを騙るスティーブ・トバイアス(マイケル・ダグラス)の正体はCIAの潜入捜査官。
今回のスティーブの任務は、武器密輸ブローカーになりすましジャン=ピエール・ティボドゥ(デヴィッド・スーシェ)が統率する国際的な武器密輸組織の壊滅。

そんな中、スティーブの息子マーク(ライアン・レイノルズ)が、神経質で小心者の足の専門医ジェリー(アルバート・ブルックス)の娘メリッサ(リンゼイ・スローン)と結婚する事になった。

両家の初顔合わせでも、スティーブは会食中のレストランのトイレで任務に絡むゴタゴタに遭遇、その現場をジェリーに目撃されてしまい、スティーブを危険人物と誤解したジェリーは、この結婚は破談にする、と宣言してしまう。

一人息子マークの幸せを壊すわけにはいかないと焦るスティーブは、なんとかジェリーの機嫌を取ろうとするのだが・・・・。

本作は、娘の結婚相手の父親がCIAエージェントだったことから、彼の極秘任務に巻き込まれてしまった神経質な中年医師の悲劇を描いたドタバタ・アクション・コメディで、ピーター・フォークとアラン・アーキン共演の1979年作品「あきれたあきれた大作戦」のリメイク。

監督は、アンドリュー・フレミング。
スティーブ(マイケル・ダグラス)と別居中の妻ジュディ役でキャンディス・バーゲン。
スティーブの部下アンジェラにロビン・タニー。
ジェリー(アルバート・ブルックス)の妻キャサリンにマリア・リコッサ。

「セイブ・ザ・ワールド」の形式は、秘密を共有する二人が、その秘密を守りつつ、二つの事件を解決する、というお決まりのパターンを踏襲したドタバタ・コメディで、最近では「フォーチュン・クッキー」あたりもこのタイプの映画である、と言えよう。

そして、このような作品の魅力のひとつは、なんと言っても主演俳優二人のコミカルなやりとりであろう。
漫才のボケとツッコミではないが、マイケル・ダグラス演じるCIAの潜入捜査官とアルバート・ブルックスの小心者の医師と言う組み合わせが、役柄に合わせ比較的良く出来た脚本と相まって、二人のやりとりは勿論、映画全体を楽しいものにしている。

この映画は決して傑作でもないし、映画史に残る作品でもないが、観ている間や、見終わった後、思い出した時に幸せな気分にさせてくれる種類の映画の一本だと言えよう。

ところで、マイケル・ダグラスのコメディと言えば「ロマンシング・ストーン」シリーズや「ローズ家の戦争」あたりが思い出されるが、本作は「ロマンシング・ストーン」シリーズのキャラクターをCIAエージェントにしたような、悪乗り系の楽しいマイケル・ダグラスが楽しめるし、アルバート・ブルックスと言えば最近国内版DVDがリリースされた「ファインディング・ニモ」のマーリン役が印象的だが、そのマーリンとドリーの漫才的やりとりを髣髴とさせる、楽しい役柄を演じている。目を瞑ると正に、マーリンそのものの声であった。

あと興味深かったのは、音楽の使い方である。
本作のサントラにはポル・マッカートニーの「死ぬのは奴らだ(”Live and Let Die”)」とか、バート・バカラックの「雨にぬれても(”Raindrops Keep Fallin’ on My Head”)」等、銀幕を飾った数々の名曲が、サントラとして使用されており、かつての名作の主題歌をサントラに使うと言う手法に疑問を感じる方もいらっしゃると思うが、映画的記憶を上手に利用しし素晴らしい効果をあげている。

特に冒頭、マイケル・ダグラス演じるCIAエージェントが窮地に陥った際(自動車の後部座席で武器密輸組織幹部と商談中、自動車を取り囲んだ連中から銃撃を受け、ドライバーが死亡、後部座席から自動車を運転し脱出を図る)にかかる「死ぬのは奴らだ(”Live and Let Die”)」の使い方は、タイミングも素晴らしいし、アクション・シークエンスとのマッチ感も素晴らしい。下手をすると感涙もののシークエンスに仕上がっている。

また、「タワーリング・インフェルノ」的シークエンスの中でかかる「雨にぬれても(”Raindrops Keep Fallin’ on My Head”)」も楽しい。

音楽の使い方ではないが、ラスト近辺のアクション・シークエンスで、マイケル・ダグラスとアルバート・ブルックスがタキシードを着ているところも良い。
勿論、息子と娘の結婚式式場が舞台なのだから彼等はタキシードで当然なのだが、スパイ・アクションと言えば、お約束だがタキシードでアクションをこなして欲しいのだ。

例えば水中からあがったスパイがドライ・スーツのジッパーをおろすと中はタキシードであって欲しいのと同様のお約束なのだ。

少なくと本作「セイブ・ザ・ワールド」は、コメディ映画ファンには絶対オススメの楽しいコメディ・アクション映画であるし、もしかしたら007ファンや「トゥルー・ライズ」ファンにもオススメの映画かも知れない。
また、重い映画で疲れた方にも超オススメの作品なのだ。
2004/07/05東京新橋ヤクルトホールで行われた「スチームボーイ」の試写会に行って来た。

本当は、横浜レンガ倉庫のプレミアに行きたかったのだが、諸般の事情で、よみうりホールで「スチームボーイ」観た訳なのだ。

因みに、わたしは大昔からの大友克洋ファンである。

以前から噂になっていた「スチームボーイ」というプロジェクトが実際に動いていた事を知ったのは、1997年冬、渋谷パルコで行われた「デイジーVISIONS 大友克洋とデジタル新世代展」においてだった。
そこでは、1999年公開予定の作品として「スチームボーイ」冒頭のレイの一輪自走蒸気機関のチェイスのシークエンスが何度も何度も上映されていた。
それから、およそ8年、「スチームボーイ」の公開予定は何度も何度も延期され、2004年7月、今回はどうやら本当に公開されるらしい。

という状況でわたしは「スチームボーイ」を観た訳なのだ。

世界初の万国博覧会を控えた19世紀半ばのイギリス。
発明一家スチム家に生まれた13歳の少年レイ(鈴木杏)は、オハラ財団にアメリカから招かれている父エディ(津嘉山正種)と祖父ロイド(中村嘉葎雄)の帰りを待ちわびながら、自らも大好きな発明に励んでいた。
そんなある日、レイのもとに祖父ロイドから謎の金属ボールが届く。
間もなく、オハラ財団の使者を名乗る者たちがそのボールを、発送先に誤りがあったと言い、受け取りにやって来た。
しかし、いきなり帰宅した祖父ロイドに従いボールを抱えて逃げるレイ。
しかし、逃走劇の末、レイは結局その一味に捕まってしまう。
そして、レイは祖父ロイドに死んだと言われた父エディと出会い、ボールの秘密を聞かされるのであった・・・・。

監督、原案、脚本に大友克洋。
オハラ財団の総帥の孫娘スカーレットに小西真奈美。オハラ財団の執事でスカーレットのお目付け役サイモンに斉藤暁。

第一印象としては、問題点や気に入らない点は部分的にあるものの、わたし的には現時点で最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本である、と思ったのだ。

尤も、この「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と言うコピーは、細かい言い回しには誤りがあるかも知れないが、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」の劇場公開時のポスターに書かれていたコピーである。
そして、勿論「天空の城ラピュタ」における宮崎駿のひとつの目標だった訳である。

まあ、わたしにとっての最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」は「天空の城ラピュタ」だった訳だが、ここに来て、大友克洋の「スチームボーイ」が、宮崎駿の「天空の城ラピュタ」と並んだ。と言う感触を得たのだ。
事実、「スチームボーイ」を観ている間は、「大友はついに宮崎を超えた」とさえ思っていた。

だめだ、眠い。
この辺で、つづく・・・・。なのだ。

明日7月7日は、「ピッチ・ブラック」の続編だ、ということを隠して公開される「リディック」の試写会なのだ!!

「リディック」

2004年7月7日 映画
2004/07/07新橋ヤクルトホールで行われた「リディック」の試写会に行ってきた。

ヴィン・ディーゼルがブレイク前に出演した「ピッチブラック」。
本作「リディック」は、前作「ピッチブラック」の登場キャラクターである「リディック」を愛する二人の男、監督デヴィッド・トゥーヒーとヴィン・ディーゼルが、巨大な資本力をバックに撮り上げたSFアクション叙事詩である。

日本の配給会社はあまり客が入らなかった「ピッチブラック」の続編としてではなく、ヴィン・ディーゼル主演のSF叙事詩として本作「リディック」を公開しようとしているようである。

余談だが、この「リディック・アニメーテッド」(画像)は「ピッチブラック」と「リディック」の間を補完するブリッジ・ストーリーになっており(未見)、北米ではWEBで公開されていたのではないかと記憶している。

暗視能力を持ち、恐るべきエイリアンの襲撃を生き延びたリディック(ヴィン・ディーゼル)。
あれ(「ピッチブラック」事件)から5年、リディックは5つの惑星系から指名手配され、その首には法外な懸賞金がかかっていた。
賞金稼ぎを軽くいなしたリディックは、自分の首に賞金をかけた主を探し、ヘリオン第1惑星へとやって来た。

平和だったこの星は、数々の惑星を占領しつくし、いまや銀河全体に悪名と恐怖とを伝える凶悪な種族ネクロモンガーのリーダー、ロード・マーシャル(コルム・フィオール)の手に落ちようとしていた。へリオン第1惑星に暮らすエレメンタル族の使者エアリオン(ジュディ・デンチ)は、リディックが救世主と信じ助けを乞う。
その話を一笑に付すリディックだったが、ネクロモンガー艦隊の総攻撃の混乱の中、先の賞金稼ぎ一行に「わざと」捕まってしまう。
目論見通り惑星クリマトリアの刑務所へと護送されたリディックはそこで、彼に憧れていた少女(かつてはジャックと呼ばれていた)キーラ(アレクサ・ダヴァロス)と再会するのだった。そして・・・・。

本作は、ヴィン・ディーゼルのアクションとスタイル、そしてCGI爆発の一大娯楽作品である。
わたし的には、可もなく不可もなく、と言った平凡な超大作娯楽映画で、特にたいした印象を持たなかった。

そんな中で良かったなと思う点は、先ず大女優ジュディ・デンチの起用であろう。
彼女の起用により、作品の質が一段と格調高くなっている。

また「リディック」世界の世界観は様々なイメージの寄せ集め的な感は否めないが、感心する部分が結構あった。

しかし、文化が違う世界の中で、われわれ人類と同じような「メガネ」を着用するのはどうかと思う。(オープニング・アクション後、リディックがヘリオン第1惑星で訪ねる比較的主要なキャラクターがわれわれと同様のメガネをかけていた)

例えば「スター・ウォーズ」世界では、われわれの世界では一般的なジッパーやファスナーが発明されていない、という世界観を創出している訳であるが、本作「リディック」ではメガネと言う人類が発明し現在のスタイルに固めてきたメガネそのものを登場キャラクターが着用しているのだ。

おそらくメガネを使用したのは、「リディック」世界の世界観の設定上、何か理由があるだろうと思うし、何か理由が無ければいけない部分なのだが、わたしにはその理由がわからなかったし、他の比較的クリエイティブな世界観の中で、大きな違和感と思えたのだ。

例えばメガネというわれわれの人類固有の発明品が「リディック」世界で一般的に使われているとしたら、「リディック」世界でわれわれの惑星である地球が意味のある大きな存在でなければならないのである。

なぜなら、創作物において人類以外の文化を描く場合、クリエイターは例えばメガネのような人の視力を矯正する方法を、人類の既存の技術であるメガネ以外のものでデザインし、世界観を表現すべきものなのであり、そういった細かなディテールから世界観が構築されていくべきものなのだ。

さて、その「リディック」世界の世界観については、コンセプトが結構しっかりしており、叙事詩的、或いは史劇的イメージが興味深い。SFと中世ローマ帝国風イメージの融合が見事である。
あとはエンキ・ビラル系の印象も受けた。

脚本は、悪く言うと最強万能キャラクター「リディック」様様である。
その強すぎる何でもこなすキャラクターに感情移入できるかどうかが、本作の評価の分かれ目となるのではないだろうか。

また、その脚本だがラスト部分は個人的には某「スパイダーマン」シリーズの監督の某ホラーシリーズ2作目のラストを髣髴とさせる、わたし好みのオチがついていたのが非常に嬉しかった。

映画の内容を深く考えない人、年に何本かの超大作映画を観たい人、ヴィン・ディーゼル好きの人、CGIのトリッキーな映像、叙事詩的史劇的イメーズが好きな人にオススメの一本ですね。
とりあえず、こちらを見て欲しい。

http://ent2.excite.co.jp/cinema/feature/mach/

映画「マッハ!」予告編コンテストが開催されている事を知ったのが、今日7月8日。
で応募締め切りが7月12日。

あぁ、悔やまれる。悔やまれる。もっと早く知りたかったのだ。

果たして、明日7月9日の夜だけでなんとかなるのか!
 
 
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「宇宙大作戦 GALAXY BOX DVD大全集」の発売を記念してJR東京駅構内:メディアコートイベントスペースにて開催された「宇宙大作戦パネル展」に行って来た。

と言っても、本来は本日7月10日14:00から「パネル展」が開催される予定だったのだが、実際は14:00から「宇宙大作戦 GALAXY BOX DVD大全集」のプロモーションのために急遽来日したジョージ・タケイを迎えたDVDの発売記念トーク・イベントとなり、パネルの展示は17:00からに予定変更されていた。

このトーク・イベントへ行くことになったのは、7月9日夜、友人からの「大変だ〜、東京駅にジョージ・タケイが来る〜」という電話に端を発する。

で、その結果わたし達の土曜日の予定が決定、待ち合わせは東京駅の待ち合わせ場所の定番「銀の鈴」13:00集合と決定、わたしと友人、そしてその娘(ミキ:仮名)の3人で「宇宙大作戦パネル展」に行くことになったのだ。

しかし当日「宇宙大作戦パネル展」が開催されるメディアコートが見つからず、東京駅近辺を右往左往するうちに時は刻々と過ぎ、危機感を感じたわたし達は駅員にメディアコートの位置を確認した。
なんとメディアコートは東京駅の改札内にある、と言う事がわかり、わたし達はいそいそと入場券(130円)を購入、改札をくぐり会場に向った。

「宇宙大作戦パネル展」会場では既にスタートレックファンが続々と集まり始めていた。
中には勿論コスプレをするファンや日本国内のスタートレック関係者、例えば岸川靖氏や、声優界最強のスタートレックファン(と言う噂の)大川透氏の顔も見えた。
大川透氏はわたしが見るところによると、一般のスタートレックファンとしてジョージ・タケイの顔を拝むべく会場に顔を出していたような印象を受けた。

そのうち、ジョージ・タケイが普通に会場入りし観客の興奮は否応も無く高まっていくのであった。

そうこうしているうちに、ファンが増え一般客の通行に支障が出てきたため、スタッフは「パネル展」会場を開場、ファンを会場に入れた。
わたし達はステージ正面の前から2列目という好ポジションをキープ、イベントの開会を待った。

イベントのMCは、わたしは知らないのだが、ヴォイジャー佐藤と名乗る多分お笑いの人。彼はジョージ・タケイの入場までに会場を暖めるべくいくつかの芸を披露していた。

ヴォイジャー佐藤は結構コアなスタートレックファンということでコアでマニアックな芸を披露していた。
普段は一般の映画ファン向けに芸を行っているようなのだが、今回はスタートレックファンの前でスタートレックのネタを演じると言うプレッシャーがあったようである。

芸風は洋画作品のシークエンスをマイク(マイクを利用してマシンガンやヘリコプターの音のような機械の音や俳優のセリフの模写をする)で再現するもので、いくつかの映画のシーン(「ロボ・コップ」、「ターミネーター2」、「タイタニック」等)を再現しつつスタートレックネタへと移行していた。(例えば「ロボ・コップ」を少し変えるとボーグになるとか)

会場が充分に暖まったところで、満を持してジョージ・タケイ登場。会場は興奮に包まれた。おそらくこれは一種異様な光景だったに違いないのだ。

イベントはジョージ・タケイのトーク・ショーのような形式で観客やMCからの質問にジョージ・タケイが答える、という感じだった。

質問は、レナード・ニモイやウィリアム・シャトナーと会う事はあるのか、だとか、ミスター加藤という役名について、だとか、今後のスタートレックについて、だとか、来日の理由等々興味深い質問が続いた。

特に「ミスター加藤」という日本独自のキャラクター名についてのジーン・ロッデンベリーの見解やヒカル・スールーというキャラクター名の由来等、ジョージ・タケイの役柄に関する質疑が興味深かった。

そうこうしているうちに、楽しいトーク・イベントの時間は過ぎ、マスコミ向けの簡単な記者会見とフォト・セッションが行なわれた。

サインを貰うことを当初から目的としていた友人の娘:ミキちゃん(仮名)は、イベントの主催者サイドに早々にサインが欲しい旨を要請し、会場で唯一の子どもである事を最大限に利用した形で、ミキちゃんへのサインをかわきりに、予定には無いサイン会が自然発生した。

中にはジョージ・タケイのポートレイトや彼が表紙を飾った雑誌、スールーのフィギュアや以前どこかのイベントで撮影したジョージ・タケイとのツーショット写真等を会場に持ち込み、それにサインをねだるファンもいた。

しかし、その辺は流石ハリウッド・スターである。
日本の一般的な俳優と違いサインを求める全てのファンに対し、丁寧に話し掛け一言ずつでも会話をしながら、時間を惜しまずサインを行ないファン・サービスに徹していた。
また、ファンとのツーショット写真撮影の要請にも気軽に応じていた。

わたし達は、結果的に写真を沢山撮影し、3人ともサインを貰い握手をし、次のファンに場所を譲り一旦会場を後にした。

しばらく経ってから、会場の出口付近を通っていると、ちょうどジョージ・タケイ等が会場を後にするところだった。
それを見たミキちゃんは、つかつかとジョージ・タケイに歩みより、後ろからいきなり肩を叩き、無理矢理こちらを向かせ、手を振り「バイバ〜イ」とか言ってジョージ・タケイを見送った。

わたしとミキちゃんの父親は、ハリウッド・スターの肩を遠慮無く叩くミキちゃんに一瞬硬直したが、笑顔で手を振り返すジョージ・タケイに安堵し彼等を見送った。

会場を後にし喫茶店に入ったわたしたちは、今日のイベントを反芻した。

その中で「ハリウッド・スターの肩を不躾にいきなり叩いた小学生は日本でミキちゃんだけだよ」とか「ミキちゃんが叩いた人は、渡辺謙とか真田広之なんかよりもっともっと凄い人なんだよ」とか、ミキちゃんの「月曜日の日直で今日の話をするんだ」に対し「ジョージ・タケイのことなんて小学生は誰も知らないよ。でもジョージ・タケイは別としてハリウッド・スターと握手した、とか言ったら『凄え』とか言われるかもね」とか結構楽しい話題が続いた。

ところで今回のイベントの費用は、交通費とイベント会場(改札内)に入る為の入場券130円だけだった。尤も、入場券の許容時間2時間を超過していたので、改札を出る際、再度130円を取られたが、コスト/パフォーマンス的には完全なローコスト/ハイパフォーマンスで大満足のイベントだったし、非常にフレンドリーなイベントだったし。

いろいろな場所で、勿論映画の試写会の舞台挨拶等も含めて様々な俳優達や監督達と会う(見かける)事がたまにあるのだが、日本の俳優達や監督達ではなく、やはりハリウッド・スターや世界的な監督達と会える(見れる)のは嬉しいものだな、と思った。

極東の島国で、由来も何も無いただの物真似やスタイルだけのレッド・カーペットの上を歩いてちやほやされている俳優等や(日本だけで)セレブと呼ばれる人達と比較すると、やはりジョージ・タケイと言うハリウッド・スターの中でも決してランクが高い方ではない俳優でも、なんだか格が違うな。という印象を覚えた。
でも、その価値観は自分の中にあるのかな、とも思った。

今までの経験で、一番興奮したハリウッド・スターは、ルトガー・ハウアーかな。
2004/07/10池袋「テアトルダイヤ」で行なわれた「いかレスラー」の試写会に行って来た。
今回の試写会は、本作の監督である河崎実の舞台挨拶もあり、一般の観客に対するプレミア上映ということであった。

超日本プロレスのIMGP王者決定戦において新チャンピオンとなった田口浩二(AKIRA)。
コミッショナーからチャンピオンベルトを受けようとしたその瞬間、なんとリングに巨大ないかが乱入、田口に闘いを挑んできた。
巨大いかに関節技をかける田口だったが、関節が無いいかに関節技が効く訳も無く、田口は逆にノーザンライト・スープレックスでKOされてしまう。

このいかレスラーの正体こそ、かつて不治の病を患って失踪してしまった人気レスラーの岩田貫一(西村修)であった。
彼はパキスタンの山岳地帯の桃源郷で修行を積みいかとなることで病を克服したのだった・・・・。

岩田のかつての恋人で、現在は田口のフィアンセ鴨橋美弥子に石田香奈。
他のキャストとしてルー大柴、きくち英一、中田博久。
監督は河崎実、監修は実相寺昭雄。

先ず第一印象としては、自主制作映画のような類型的でお約束シーンが続く、ベタで捻りも無い、つまらない映画であった。

物語のメインのコンセプトは、主演二人の名前であるカンイチ&オミヤが示すようにおそらく「金色夜叉」であるのだろうが、物語は「ロッキー」や「あしたのジョー」、「ウルトラマン」や「愛の戦士レインボーマン」等々への言及があるとんでもない映画になっている。

監修が実相寺昭雄ということであるが、「新世紀エヴァンゲリオン」で庵野秀明がやった実相寺昭雄に対するオマージュ的なカット(夕日のシルエット)と同様のカットが美しいのだが、笑いを誘う。

またかつての円谷プロ系の作品群に対するリスペクトも楽しい。

脚本はベタでお約束の山。
深く考えていないのか、深く考えていないように見せかけているのか、例えば特訓のシークエンスでは、「ロッキー」の「アイ・オブ・ザ・タイガー」風の曲に合わせ、ランニングや筋力トレーニングの映像が流れ、木陰からは美弥子が覗いているし、試合に勝ったいかレスラーが周りの声に答えず「みやこ〜、みやこ〜」と叫び、ベレー帽を被った美弥子がリングにあがり抱き合い、デート・シーンはほんわかムードの曲に合わせ、恥ずかしげなシークエンスが続く。

これはもしかすると、商業映画の類型的なシーンの記号化を計り、一般大衆が面白がる商業主義の超大作映画へのシニカルな観点を表現しているのかも知れない。

しかし、そこまで深く考えないのならば、酷い映画である。
こんな映画がよく完成したものだと思うし、よくも配給会社がつき、劇場公開されることになった事に驚きを禁じえない。
因みに都内の上映館は渋谷の「シネセゾン渋谷」と池袋の「テアトルダイヤ」である。

とは言うものの、本作は正当な、または脱力系な笑いに満ち満ちたなんとも憎めない、噛めば噛むほど味が出る、もしかするとカルト的ファンが付く作品かも知れない事は残念ながら否めない事実なのだ。

わたし的には、観たいと思っている人は遠慮なく観て欲しいと思うし、観たくない人には絶対に観て欲しくない。

あとは、恐いもの見たさに観たい人にももしかするとオススメなのかも知れないし。劇場で観たことが飲み会の話題になるような作品かも知れない。

まあ、素人には手が出せない種類の映画なのだろうね。
2004/07/12 東京九段下 九段会館大ホールで行われたロバート・アルトマンの新作「バレエ・カンパニー」の試写会に行ってきた。

本作はシカゴに本拠地を置く実在の名門バレエ・カンパニー「ジョフリー・バレエ・オブ・シカゴ」を舞台に、天才的演出家による新作バレエの創出を縦軸に、バレエ・ダンサーの群像劇を横軸にしたドキュメンタリー・タッチの作品である。

本作の作風は、先ずバレエ作品のリハーサル風景を描き、その直後のシーンでリハーサルを行っていたバレエ作品が上演されているシーンを見せる、という形式の繰り返しとなっている。

そして、そのリハーサル場面では、認められない新人バレエ・ダンサー、カンパニー側と演出家の確執、大御所ダンサーと演出家の確執、大御所ダンサーの事故による失脚、大御所ダンサーの失脚に伴う若手ダンサーの登用等様々な出来事のディテールが詳細に描かれている。

リハーサル・シーンも素晴らしいのだが、それと対をなすバレエ上演シーンも大変素晴らしい。
勿論本職のバレエ・ダンサーが演じている訳だから素晴らしいのはあたり前なのだが、彼等バレエ・ダンサーはわたし達人類がどう足掻いても逃れられない重力から、いとも軽々と解き放たれ、また筋力を総動員した極限的動作の素晴らしさは例えようも無い。

そういった観点から考えると、本作「バレエ・カンパニー」はある種アクション映画である、と言っても全く差支えは無いのではないだろうか。

例えば市川崑の「東京オリンピック」やクロード・ルルーシュの「白い恋人たち/グルノーブルの13日」と言った、人間が動いているだけの映像と音楽で、観客に滂沱の感動を与える作品に近い印象を受けた。

同様の感慨は「グリーン・デスティニー」の冒頭のミシェール・ヨーとチャン・ツィイーの空中戦的ワイヤー・アクションのシークエンスでも感じられ、彼女等の追跡劇を見ているだけで滂沱状態に陥ってしまうのだが、本作「バレエ・カンパニー」では、「グリーン・デスティニー」の必要条件として存在するワイヤー・アクション無しで空中を舞うバレエ・ダンサーの姿に驚愕的滂沱状態なのだ。
ついでだが、「リトル・ダンサー」のラストのたったひとつの跳躍にも感涙ものなのだ。

さて、キャストだが、なんと言っても主演ライ役のネイヴ・キャンベルには驚かされた。
何しろ、本作の原案はネイヴ・キャンベルのもので、実際のバレエ・ダンサーを目指していた彼女は、スタンド・イン無しにバレエ・ダンサー役を見事に演じきっていた。
と言うより、バレエ・シーンをあれほどまでにこなせる俳優の存在に驚きなのだ。

さて、わたしが敬愛してやまないマルコム・マクダウェルは、「バレエ・カンパニー」の総監督(?)Mr.Aことアルベルト・アントネリを好演していた。
ロバート・アルトマンとのコラボレーションと言えば「ザ・プレイヤー」のカメオがあるが、本作ではおそらくその関係でのキャスティングになったのではないだろうか。
マルコム・マクダウェル的には、ここ近年の代表作になったのではないかと思う。

あとは最近「スパイダーマン」シリーズで有名なジェームズ・フランコも目立たないながらも好演している。
わたしは当初、ジェームズ・フランコはバレエ・ダンサー役として出演していると思っていたのだが、実際は踊らない役だったので、個人的には安心した。

ところで、本作は、バレエ上演のシークエンスを楽しめるかどうかで評価が対極的に変わってくる、所謂観客を選ぶ作品になっているのではないだろうか。

つまり本作の評価の分岐点としてバレエ上演シークエンスが機能しているのだ。
そのバレエ上演シーンを楽しめれば、この映画は素晴らしい作品となるだろうし、もしそのバレエ上演シーンが楽しめなければ、本作は退屈で、ほとんどドラマが起きない平凡な映画の印象を観客に与えるかもしれないのだ。

しかしながら本作は、人類が創出した最高の芸術形態のひとつである「バレエ」に対する一般大衆の「敷居が高い、わかりずらい、高尚だ」というような誤った先入観を打破する力を持った作品である事は事実なのである。

バレエに対して変な先入観を持つ人達にも、是非「バレエ・カンパニー」に足を運んでもらいたいのだ。
2004/07/12 東京渋谷シネクイントで行われた「MAIL〜special version〜」の完成披露試写会に行ってきた。
舞台挨拶は、監督の高橋巖、主演の須賀貴匡、栗山千明、共演のあびる優。会場には、他に共演者の久保晶等の顔も見えた。

「MAIL」はもともと、WEB上で公開される事を目的とした角川ホラーシネマの1シリーズとしてビデオで製作された9編のショート・フィルムだったのだが、その9編のショート・フィルムを110分の劇場用作品として再編集し、今回「MAIL〜special version〜」として劇場公開の運びとなった訳である。

闇に潜む悪霊を、次々と霊銃迦具土(カグツチ)で昇天させていく霊能探偵秋葉零児(須賀貴匡)と謎の美少女美琴(栗山千明)
の恐怖の心霊ストーリー。
そして、恐ろしい事件の果てに、美しくも切ない謎が解き明かされていく・・・
角川ホラーの新ページを飾る、<恐怖>と<ロマン>が、いよいよ“解禁”!
(角川ホラーシネマ/「MAIL」宣伝コピーより引用)

脚本は、各エピソード毎の心霊現象から悪霊を除霊する部分については、所謂都市伝説や素人の怪談話の域を出ない他愛の無い物語なのだが、シリーズ全体の構成については、決して見るべきものが無い訳ではない。

製作サイドとしても、各エピソード毎の心霊現象や除霊のシークエンスを描くより、秋葉零児(須賀貴匡)と謎の美少女美琴(栗山千明)の現在と過去を、シリーズ全体として伏線を構築し、物語を描きたかったのだろうと容易に推察する事が出来る。

そして、そう考えた場合、この作品は単純な都市伝説を扱ったホラー作品と言うより、人や心霊の切ない情念とその悲劇を描いた感動的な作品である、と捉える事が出来るのである。

勿論、個人的には優れたホラー作品とは恐怖と悲しみを上手く描写している事が必須要件だと考えるわたしだが、その上で考えると本作は恐怖の描写に若干の問題点はあるものの、比較的良心的で良質なホラー作品である、と言えるのではないだろうか。

とは言うものの、秋葉零児に霊銃迦具土(カグツチ)を譲る事になる謎の男(森本レオ)の存在を始めとしたプロットのいくつかに不備や消化不良の部分があるようである。
これは、本作が元々は9編のショート・フィルムだった事に因る問題点なのかも知れない。

撮影・編集・特撮等については、なんと言ってもビデオで製作されWEB上で公開される事を前提としていた作品だけに、チープと言えばチープなのだが、スタッフはチープなりに頑張っていると言う好意的な印象を受けた。
セットではなく、ほぼオールロケであったり、特撮が必要な部分を編集でごまかしたり等々。

余談だが、セットではなく、公園の本物の公衆トイレで転げまわって演技をする俳優たちにも役者魂を感じてしまうのだ。

ただ、やはり劇場公開をするにはビデオの画質に問題があるかも知れないと個人的には思ったのも事実である。

キャスト的は、特別な可も不可も無いのだが敢えて言うならば、霊能探偵秋葉零児を演じた須賀貴匡については、スタイルが固定されてしまっている探偵像ではなく、探偵になる前の過去のシークエンスが良かった。
創られた探偵像ではなく、一人の青年を演じているところに面白みを感じるのだ。

また謎の美少女美琴を演じた栗山千明については、「バトル・ロワイヤル」や「キル・ビル」と比較すると、より等身大の普通のキャラクターを軽くこなしているような印象を受けた。
ただ、衣裳は「キル・ビル」そのままであった。

余談だが舞台挨拶については、シネクイントにはステージが無いため、監督やキャストの足元までが見切れず、通常は客席の後ろか横に三脚を固定し陣取るカメラ・クルーが舞台挨拶が始まるやいなや、俳優の足元が見切れないためか、カメラを担いで客席前方まで走ってきたのには驚いた。
通常の舞台挨拶の映像は三脚固定のものなのだが、今回の映像はハンド・カメラのものだったのではないだろうか。

また、舞台挨拶については、女優としてある程度評価されている栗山千明に対するあびる優の過剰なライバル意識や前に出ようとする自意識、良く映ろうとする意識が見え隠れする一方、栗山千明はあびる優のライバル意識も自意識も「どこ吹く風」と言った風情で、狙いかもしれないが、ある意味大物の風格を感じさせられた、と言う面白い舞台挨拶であった。

主演の須賀貴匡は、「仮面ライダー龍騎」で出てきた俳優だけに、「仮面ライダー龍騎」ショー等で培ってきたであろうが、舞台挨拶のような観客の前に出る(演技する)事に慣れているような余裕を感じた。

舞台挨拶の個人的な印象としては、監督の高橋巖はともかく、落ち着きはらいある種大物然とした須賀貴匡と栗山千明に、霊感の話題で前に出ようとしてちょっと失敗しちゃた感で、若干オドオド気味のあびる優という構図が面白かった。

怖がりながら、気付いたら泣いていた、という感じの作品が好きな方にはオススメの一本だが、劇場で観るべきか、WEB上で観るべきかと言うと微妙である。

もし、怖さを追求するならば、比較的広い部屋の壁際にパソコンをセッティングし(背後には大きな空間ね)、深夜に照明を落してヘッドフォンで音を聞きながら、パソコンのディスプレイを覗き込む、というシチュエーションが良いかも知れない。

http://www.rbbtoday.com/news/20040713/17520.html
2004/07/13 東京新橋ヤクルトホールで実施された「丹下左膳 百万両の壺」の試写会に行って来た。

<− 画像は1935年のオリジナル版「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」

右目と右腕を失い侍として生きる道を捨てた男、丹下左膳(豊川悦司)。
今は縁あって、勝ち気なお藤(和久井映見)の夫となり、お藤が切り盛りする矢場の用心棒として暮らしていた。

その頃、柳生の里では藩主、柳生対馬守(金田明夫)が、幕府に押し付けられた寺社再建の資金の工面に難儀していた。
しかし、柳生家先祖伝来の「こけ猿の壺」に百万両もの莫大な軍資金の隠し場所が塗り込まれていると聞き及び、大喜びするも、その壺は江戸へ婿養子に行った弟、源三郎(野村宏伸)に婿入りの祝いの品として既に贈ってしまっていたのだ。

そんな「こけ猿の壺」のいわくを知らない源三郎の妻、萩乃(麻生久美子)は、見た目が汚い「こけ猿の壺」を通りかかった回収屋(かつみ・さゆり)に売り払ってしまう。
そして「こけ猿の壺」は、その回収屋の手から5歳の少年、ちょび安(武井証)のもとへ転がり込み、ちょび安は、その「こけ猿の壺」をあろうことか金魚鉢として使いはじめたのだ。

しかしその夜、ちょび安の唯一の肉親である祖父、弥平(坂本長利)が、昼間お藤の矢場で因縁をつけてきた侍たちが左膳に襲い掛かり、巻き込まれた弥平は左膳に孫を頼むと言い残し、そのまま息を引き取ってしまう。

口では子供が大嫌いと断言するお藤だったが、左膳に押し切られる形で、ちょび安を「こけ猿の壺」ごと引きとり、面倒をみる事になったのだが・・・・・。

本作「丹下左膳 百万両の壺」は、個人的に若干気に入らないところがあるものの、それに目を瞑れば大変素晴らしい江戸人情喜劇に仕上がっている。

わたしは、丹下左膳と言うイメージから、粋でいなせで格好良い、痛快時代劇を期待していたのだが、痛快な部分はそれ程多い訳では無く、どちらかと言うと、江戸の市井に生きる真っ当な人々が織りなす、前述のように人情喜劇的な作品に思えた。

雰囲気は黒澤明の「椿三十郎」ミート「浮浪雲(ジョージ秋山の漫画)」という感じだろうか。

ところで、この映画の一番の見所はなんと言っても、左膳(豊川悦司)とお藤(和久井映見)の歯に衣着せぬやり取りであろう。
左膳とお藤のキャラクターは、頑固で照れ屋で意地っ張りで、口は悪いが根は優しい、そんな江戸っ子気質を見事に体現しているのだ。
特に和久井映見が演じたお藤のキャラクター造形は、和久井映見の気風の良い演技と相まって素晴らしいものがある。

尤もこれは、もしかすると俳優の力と言うより、脚本のなせる業なのかも知れないが。

そもそも本作の脚本は、この映画のオリジナル版である山中貞雄の「丹下左膳餘話 百萬兩の壺」の脚本(三村伸太郎)をベースに今回、江戸木純が書き上げたものである。
江戸木純が凄いのか、はたまた三村伸太郎が凄いのかは定かではないが、とにかく本作は登場する全てのキャラクターが生き生きと息づいている素晴らしい作品だと思うのだ。

しかしながら物語のプロットはベタで安易で特に捻りも無く、展開は誰の目にも想像に難くないのだが、そのある意味予定調和的な安心感が、ほのぼのとしながらも懸命に生きる江戸市井の町人たちの生き様に、見事にマッチした素敵な物語に思えるのだ。

また、のほほんとした婿養子源三郎(野村宏伸)とその強気な妻、萩乃(麻生久美子)のやり取りも面白い。

さて、わたしが気に入らないところだが、先ずは不必要なSE(効果音)が入っているという点である。

例えば置物の猫である。
左膳とお藤が対立し舌戦を繰り広げるシークエンスで、左膳とお藤が何度か猫の置物の向きを変えるのであるが、その都度その都度、猫の鳴き声のSEが入っているのだ。
また、何か物を叩く際、または登場人物が何か意味ありげな行動を取る際、作品のスタイルとミス・マッチな妙なSEが入れられているのだ。
これは映画に対する感情移入を阻害するひとつの要因と考えられるのではないだろうか。

また、音楽についてだが、メインタイトル等にフィーチャーされているメインの楽器がピアノである、と言うのもいただけない。
折角物語の中で、お藤は三味線が得意で唄も歌うのだから、音楽の方向性として和楽器をフィーチャーしたスコアでサントラを構成して欲しいと思った。

あとは若干殺陣がまずいかも知れない。
右手が無い左膳と刺客らの立ち回りは、やはり難しいのかも知れない。
最近のアジアの作品のような、美しい殺陣に仕上げようとしているのは見て取れるのだが、残念ながら若干の違和感が感じられた。
余談だが、「ラストサムライ」でいきなりメジャーになった感のある福本清三も勿論斬られ役で本作に登場していた。

あと気になったのは、漫才コンビかつみ・さゆり演じる回収屋の登場するカットが無駄に長いし、無駄なお笑いがある。
いくらなんでも、セリフは無いものの、ポヨヨ〜ンはまずいだろう。

世の中には、その映画の事を思い出す度に、口元に笑みがこぼれ、幸せな気持ちに浸れる、と言う幸福な映画がたまにあるが、本作「丹下左膳 百万両の壺」は、正しくそんな映画の一本である、と言えるのだ。

今年は比較的日本映画に勢いがあり、良い作品が何本もあるが、本作「丹下左膳 百万両の壺」はそれらの今年の良い作品の一本として胸を張ってオススメできる素敵な作品なのだ。
是非劇場に足を運んでいただき、左膳とお藤の素敵な口喧嘩を楽しんで欲しいのだ。

「マッハ!」

2004年7月18日 映画
2004/07/18 東京渋谷、渋谷公会堂で行なわれた「マッハ!」のマスコミ試写に行って来た。

舞台挨拶は、主演のトニー・ジャー、ムエ役のプワマーリー・ヨートガモン、 監督 プラッチャヤー・ピンゲーオ、トニー・ジャーの師匠で今作の武術指導をつとめたパンナー・リットグライ。

また当日は、舞台挨拶だけではなく、トニー・ジャーによるムエタイの演舞(?)、トニー・ジャーとガッツ石松との対決、トニー・ジャーと共に本作に出演したアクション・チームとのムエタイや映画で行なわれたようなアクションの再現等のデモンストレーションが行なわれた。

そんなトニー・ジャーの身体能力は素晴らしく、特に跳躍能力は目を瞠るものがあった。
例えば、助走も何もなしで、まるで歩いているような軽い動作からのバク転的な跳躍は同じ人間の動きとして信じられないものがあった。

敬虔な仏教徒たちが暮らす、タイののどかな田舎の村ノンプラドゥ。
村を数々の災いから救ってきた神聖な守り神「オンバク」が作られてから24年、その記念式典の夜、「オンバク」の首が切り落とされ盗まれてしまう。
犯人は、コム・タン(スチャオ・ポンウィライ)率いるバンコクの密輸団と手を組むこの村出身のドン(ワンナキット・シリプット)だった。この事件を災いの前兆と見なし、村人たちは悲嘆に暮れ、大きな災いの到来に怯えていた。
村の長老たちは「オンバク」の首の奪還を計画、孤児のティン(トニー・ジャー)は自ら「オンバク」の首の奪還を決意する。彼は僧侶プラ・クルに師事し、古式ムエタイを極めた最強の戦士だった。
村の切なる希望を託されたティンは、早速ドンの捜索にバンコクへと向かい、同郷のハム・レイ(ペットターイ・ウォンカムラオ)を探しはじめる。
ハム・レイはバンコクではジョージと名乗り、ムエ(プワマーリー・ヨートガモン)と組んでイカサマ賭博や詐欺に手を染めており、ティンは、そんなジョージに騙され「オンバク」捜索のため、村人が集めた善意のお金を奪われてしまうが・・・・。

先ずは、本作のキャッチ・コピーにもある五つの公約の実現に驚きである。
一、CGを使いません
二、ワイヤーを使いません
三、スタントマンを使いません
四、早回しを使いません
五、最強の格闘技ムエタイを使います

そして、なんと言ってもアクションである。
トニー・ジャーのムエタイ・アクションは、ブルース・リーやリー・リン・チェイ(ジェット・リー)、そしてジャッキー・チェン等のアクションの方向性と異なり、硬軟使い分けたアクションは、言うならばブルース・リー ミート ジャッキー・チェンと言う感じであろうか。

街中の追跡劇や机や椅子のような道具を使ったアクションはジャッキー・チェンの全盛期を髣髴とさせ、またムエタイでのバトル・アクションはブルース・リー等の一撃必殺系のアクションのような印象を感じる。

特に顔や頭に容赦なく当てる一撃必殺の肘や膝の打撃には驚かされるし、冒頭の「オンバク」の衣装の争奪戦のシークエンスでも、俳優達はワンカットで木から地面に平気で落ちて行くのだ。
編集で誤魔化すのではなく、ワンカットで木から地面に落ちる潔さに感動してしまう。

また街中の追跡劇では、トニー・ジャーの跳躍能力の素晴らしさが如何なく発揮されている。
別撮カメラで同じアクションを複数のカメラで2度ずつ見せるのは映画としてどうかと思う部分がある反面、リアルなアクション感の創出に一役買っている。
こういった手法はジャッキー・チェンの大技アクションを2度見せるような編集が行なわれているのだが、本作ではそれが多用されており、純粋なアクション映画としての好印象を与えているのではないだろうか。

この本作「マッハ!」におけるアクション・スター トニー・ジャーの登場は、今後の活躍の予感はともかく、ブルース・リーやジャッキー・チェンが出てきた時のような興奮を覚えるのである。

脚本は大きな捻りも無く、観客の誰もが想像するある意味予定調和的なものだが、バンコク市内の麻薬密売や国宝級の仏像の密売、地下カジノや地下格闘賭博と言った現代の魔都バンコクが抱える問題点と、田舎の村のピュアで純朴な部分との対比が素晴らしい。
特にヒロインであるムエ役のプワマーリー・ヨートガモンの役柄(姉は麻薬の密売人でジョージと共にイカサマ賭博や詐欺をはたらいている)が現代バンコクの問題点を描いており、興味深い。

また、主要キャラクターの全てが立っており、全てのキャラクターが生き生きと描写されているのも、好印象である。

アクションとしては、先ず、蹴りを主体としたアクション映画と言えば、個人的にはジェット・リーの「キス・オブ・ザ・ドラゴン」やジャッキー・チェンの「酔拳2」辺りが印象的だが、今回の「マッハ!」ではムエタイ特有のアクロバティックで美しい蹴りを主体としたアクションが楽しくも美しい。

また、街中のアクションは全盛期のジャッキー・チェンを髣髴とさせる素晴らしいシーンの続出で、非常に楽しいものを感じる。

そして勿論、CGIやワイヤー・アクションを使わないムエタイ・アクションは正にアクションの原点とも言える素晴らしいものがある。
よく言われるのだが「リポビタンD」の「ファイト一発!」のCFが所謂特撮が使われるようになってから面白くなくなった、と言われるが、逆にCGIを使わなくなってから面白くなってきた、そんな感覚を感じられる素晴らしいアクション映画に仕上がっている。

キャストとしては、なんと言っても、ジョージ(ハム・レイ)役のペットターイ・ウォンカムラオだろうか。
コメディ・リリーフを演じつつ、感動のツボをも観客に与える良い所を持っていってしまう系の役柄である。

主演のトニー・ジャーは「マッハ!」と共にブレイクする予感は感じられるが、今後のキャリアとしては、若干の不安を感じてしまう、良い意味で「マッハ!」を打破する次のキャリアを期待するのだ。

ヒロイン ムエ役のプワマーリー・ヨートガモンは典型的なアクション映画のヒロインで取り立てて見る部分は無いが、非常に魅力的で今後の活躍が期待できる。
本編ではホーイッシュな役柄だったが、実際の彼女は非常にフェミニンな感じだった。

とにかく、もしこの夏、映画を一本だけ観ると言うならば、映画の原点とも言えるアクションを楽しめる本作「マッハ!」を一番にオススメするのだ。
東京九段下、日本武道館で行われた『「キング・アーサー」ジャパン・プレミア ナイト・オブ・ザ・ナイツ』に行って来た。

舞台挨拶は、製作のジェリー・ブラッカイマー、監督のアントワーン・フークア、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ。

ローマ帝国の支配下にあった5世紀のブリテン(現在のイギリス)。
そこでは、ローマ帝国からの独立を求めている闇の魔術師マーリン(スティーヴン・ディレイン)が率いるウォードと、セルティック(ステラン・スカルスゲールド)が息子シンリック(ティル・シュヴァイガー)と共に率いる侵略者サクソン人との間で激しい戦闘が繰り返されていた。
ブリテンの血をひくアーサー(クライヴ・オーウェン)は、ローマ軍の一司令官として、無敵を誇る「円卓の騎士」を率いブリテンを南北に分断する「ハドリアヌスの城壁」の守備に当たっていた。
しかし、衰退の途にあったローマ帝国はブリテンからの撤退を決定、アーサーに対しローマ教皇の名の下、司教ゲルマヌス(イヴァノ・マレスコッティ)から、サクソン人に包囲されたブリテン北部の地からローマ人一家を救出せよ、との過酷な最後の指令が下される。

アーサーはそこでローマ人により不当に囚われいたブリテン人の美しく勇敢な女性グウィネヴィア(キーラ・ナイトレイ)を救出する。
グウィネヴィアは、ローマ帝国に仕えてブリテン人と戦うアーサーを非難、サクソン人の前に滅亡の危機に瀕したブリテンのために一緒に戦うよう迫るのだった・・・・。

他のキャストとして、円卓の騎士ランスロットにヨアン・グリフィズ、円卓の騎士トリスタンにマッツ・ミケルセン、円卓の騎士ガラハッドにヒュー・ダンシー、円卓の騎士ボースにレイ・ウィンストン、円卓の騎士ガウェインにジョエル・エドガートン、円卓の騎士ダゴネットにレイ・スティーヴンソン。

わたしは所謂「アーサー王伝説」については、映画をせいぜい数本観た程度、小説をせいぜい5〜8冊位読んだ程度の知識しか持ち合わせがないのだが、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」とは似ても似つかない作品に仕上がっているような印象を受けた。

例えるならば、所謂「アーサー王伝説」の設定を少し借りた、二次創作物、というような印象なのだ。

所謂「アーサー王伝説」は、15世紀頃の物語なのだが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王が存在したのは5世紀だった、という新たな証拠を発見、その証拠に基づき本作を制作した、という事らしい。

という訳で、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」の物語とは似ても似つかない物語に仕上がっている訳なのだ。

「キング・アーサー」と所謂「アーサー王伝説」の違いを列挙しても、全く意味が無いので、新たに創作された「キング・アーサー」について考えてみたいと思うのだ。

先ず第一印象としては、退屈で盛り上がりに欠け、キャストに魅力が感じられない中途半端な娯楽作品だ、と言う印象であった。

製作がジェリー・ブラッカイマーである、と言えば、面白ければ良い、と言うように、あまり映画を観ない一般大衆が好むような映画、商業至上主義で中身の乏しい、こけおどし系娯楽大作が想像されたのだが、監督のアントワーン・フークアの色なのか、娯楽大作にもなりきれない中途半端な作品に感じられた。

個人的に問題点だと感じたのは次の点である。

1.キャストに魅力が感じられない。
2.キャラクターの描写が乏しい。
3.盛り上がりに欠ける。

キャストに魅力が感じられない点については、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ等では客を呼べるほどのネーム・バリューが無く、一般の超大作娯楽映画にありがちの一枚看板で客を呼ぶ作戦が使えないし、アーサー王というカリスマに溢れる英雄をヒーローとして描くにはクライヴ・オーウェンでは役不足としか思えない。

尤も、所謂「アーサー王伝説」は荒唐無稽なファンタジーな訳だが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王を政治的、環境的に抑圧された、ただの一指揮官である、と設定し等身大のアーサー王を描く、というコンセプトを実践する事が目的だったならばクライヴ・オーウェンで成功している、と言えるだろう。

強いて言うならば、ヒロイン役のキーラ・ナイトレイが唯一の客を呼べる格の俳優(女優)なのかもしれない。

また、こういった作品を格調高いものにするべく、大御所俳優が出演し画面を引き締める事が良く行われているのだが、ネーム・バリューのあるビッグ・ネームの俳優が本作に出ていないのも、残念な気がする。

キャラクターの描写が乏しい点については、映画全体の印象としては、「アーサー王伝説」の長大な物語を戦闘シーンを中心にダイジェスト版として再構成した作品であるかの印象を受けた。
つまり、編集の重要コンセプトを戦闘シーンを中心にすることにより、本来語られるべきキャラクターの描写が減少し、円卓の騎士達の関係や特色すらわかりづらい、という印象を受ける。

円卓の騎士については、特異な武器や外見、そして個別の見せ場で若干の特色を出しているのだが、所謂「アーサー王伝説」を知らない観客にとっては、円卓の騎士たちは十把一絡げの印象を否定できない。

そして戦闘シーンについては、及第点(氷上の戦闘シークエンスは良かった)をあげられるのだが、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作以降、普通の戦闘シークエンスでは観客はもう満足できない状況にある、ということを製作者は理解しなければならないと思うのだ。

盛り上がりに欠ける点は、なんといっても物語の構成なのだが、起承転結的な物語の構成がいただけない。

またラストの戦闘シーンは、物語のクライマックスとしては弱く、本来はクライマックスへの布石のような、物語の途中の山場的なシークエンスとして設定されるレベルではなかろうか。

あれをラストのクライマックスの戦いにするのならば、もうひとつぐらいは見せ場が必要だったのでは無いだろうか。

あとは、マーリンやグウィネヴィアのキャラクター造形や、聖剣エクスカリバーの設定、ランスロットやトリスタンの今後の事を考えると、所謂「アーサー王伝説」のファンは激怒するんじゃないかと思うのだ。

わたしは格好良い魔法使いマーリンを期待していたのだ。

「キング・アーサー」を見る前に、観た方が良いかも知れない、所謂「アーサー王伝説」を描いた作品。

「王様の剣」
(1963年/ウォルフガング・ライザーマン監督作品/ディズニー・アニメ)
「エクスカリバー」
(1981年/ジョン・ブアマン監督作品)

余談

わたし達は、この映画のコケ防止にキーラ・ナイトレイの舞台挨拶があるのではないか、と淡い期待を抱いていたのであるが、実際は舞台挨拶に来たのは、前述のように「濃い」4人組だった。

因みにプレゼンターとして、キーラ・ナイトレイ演じるグウィネヴィアの衣裳を着けて舞台に登場したのはなんと鈴木あみだった。

鈴木あみが舞台で語った本作「キング・アーサー」の見所は、驚くべく事に的確で、製作サイドが聞いたら涙を出して喜ぶような内容のスピーチだった。
勿論ライターがいるのかも知れないが、ライターがもしいないとすると、鈴木あみはもしかすると、観察眼とそれを的確に表現する力を持った侮れない人物なのかもしれない。
2004/07/22 東京九段下、日本武道館で行われた『「サンダーバード」ジャパン・スーパー・プレミア 〜V6&トレイシーボーイズ ARE GO!!〜』に行ってきた。

舞台挨拶は監督のジョナサン・フレイクス、アラン役のブラディ・コーベット、スコット役のフィリップ・ウィンチェスター、ジョン役のレックス・シャープネル、ヴァージル役のドミニク・コレンソ、ゴードン役のベン・トージャーセン、そして日本語吹替版の声優と主題歌を担当するV6、司会は襟川クロ。

元NASAの宇宙飛行士で億万長者のジェフ・トレイシー(ビル・パクストン)は、とある無人島(トレイシー・アイランド)を拠点に世界的科学者ブレインズ(アンソニー・エドワーズ)と4人の息子(スコット、ジョン、ヴァージル、ゴードン)と共に国際救助隊IR(インターナショナル・レスキュー)を組織、ブレインズが開発した最新鋭メカ「サンダーバード」を駆使し世界中の災害救助活動を行っていた。

そんなトレイシー家の末っ子でまだ学生のアラン(ブラディ・コーベット)は、世界中で活躍する家族を誇りに思い、自分も早く国際救助隊の正式な隊員になりたいと願っていた。

ところがある時、悪漢フッド(ベン・キングスレー)の策略で起こされた(と思われる)、ロシアの油田火災事故に出動したサンダーバード1号に、フッドの部下がケミカル発信器をしかけ、その結果トレイシー・アイランドの所在地がフッドに知られてしまう。

フッドは、衛星軌道上にあり、世界中の災害情報を調査分析する宇宙ステーション(サンダーバード5号)をミサイル攻撃する。ジェフ、スコット、ヴァージル、ゴードン等は、サンダーバード3号でサンダーバード5号のジョンの救助に向かう。

フッドはジェフ等不在の隙をつき国際救助隊の中枢部トレイシー・アイランドの乗っ取りを謀る。

トレイシー・アイランドに残されたアランは親友のファーマット(ソレン・フルトン)、ティンティン(ヴァネッサ・アン・ハジェンス)と共に、フッドの野望を阻止し、衛星軌道上のジェフ等を救出するため立ち上がった。

一方ロンドン・エージェント レディ・ペネロープ(ソフィア・マイルズ)は国際救助隊の危機を独自に察知、執事で運転手のパーカー(ロン・クック)と共にトレイシー・アイランドへ向かう。

一言で言うと本作「サンダーバード」は、往年のスーパー・マリオネーション作品「サンダーバード」の世代が、自分の子供等を連れて劇場に足を運び親子揃って「サンダーバード」を体験『パパが子供の頃の「サンダーバード」は人形劇だったんだよ』『へぇ〜、でも今の「サンダーバード」の方が格好良いよね』というような家族団欒の一助として機能する良質なファミリー・ムービーに仕上がっている。

と言うものの、大人のファンが満足できる作品ではなく子供達は大活躍、大人はたじたじと言った「スパイ・キッズ」シリーズのような傾向を持った作品である。

おそらく本作の最大のコンセプトは、親子の「サンダーバード」体験の共有だろうし、その為キャラクター同士の関係や設定は旧作のそれを踏襲している。
トレイシー一家の設定や構成は勿論、フッドとキラノの関係やペネロープやパーカー、ブレインズといった脇役の設定も全てそのままであるしメカ設定やコンセプトも旧作同様であった。

例外として、旧作に登場しないブレインズの息子ファーマットの存在。あとは旧作の日本語版ではミンミンと表記されていたキラノの娘がオリジナル版同様ティンティンとなっていた点くらいであろうか。

わたしは、旧作と同設定、同コンセプトで本作を制作する話を聞いた際、それだったら何故わざわざリメイクする必要があるのか、と否定的な意見を持っていたのだが、親子の「サンダーバード」体験の共有、を考えると、同設定、同コンセプトでリメイクする必要性があった事に気付かされてしまった。ジョナサン・フレイクスは正しかった、という事である。

あとトリビアとしては、旧作「サンダーバード」では国際救助隊のメカや隊員を撮影する事は禁じられており、その救助場面が本作のようにテレビ中継されるとはもってのほかなのだ。

さて、本編だが、先ずオープニング・クレジットが素晴らしい。最近流行のフラッシュアニメーション系のクレジットなのだが、物語の舞台背景(国際救助隊は毎日毎日世界中で人命救助してるが、アランは毎日毎日学校に通っている)をアニメーションでしっかり描いている。

更に、サンダーバード・メカが橋や建物の倒壊を防いだり、火山の噴火や津波を防いでいるとその橋や建物、火山や津波がスタッフやキャストのクレジットになっている、という効果的で素晴らしいクレジットなのだ。これを観るだけでも、この映画を観た甲斐がある、というような近年稀に見る素晴らしいクレジットだと思うのだ。

脚本については、最大の問題点として、「サンダーバード」の最大のコンセプトは、「国際救助隊が災害や事故現場で人命を救助する」というもので、決して「敵と戦う」というものではないのだから、本作のような脚本(フッドに島を押さえられ、フッドと国際救助隊が戦う)はいかん、と言う点である。更に国際救助隊を国際救助隊の準メンバーが助ける、というのもどうかと思うのだ。

その災害救助のシークエンスは冒頭と、ラストにおざなり程度にあるだけなのだ。
本来は災害救助のシークエンスに多くの時間を割くべきだと思うし、本編は95分なのだから、もう少しメカの見せ場である災害救助シーンを入れて欲しかった。

キャストはベン・キングスレーを始めとしたフッド一味、ブレインズ、レディ・ペネロープとパーカーが良かった。
トレイシー一家や主役3人組は期待通りの印象である。

ところで舞台挨拶だが、内容はともかくイベントとしては結構バジェットを使ったよく出来たイベントだった。

日本語版声優と主題歌をつとめるV6の主題歌熱唱で幕を開けた舞台挨拶は、会場を埋め尽くしたV6ファンの異様な熱気に包まれた訳である。わたしはアリーナ席の前から8〜9列目位に居たのだが、舞台挨拶の冒頭はV6のコンサート状態で、周りの席からV6の顔がプリントされた団扇が沢山出てきたのには正直驚いた。

トレイシーボーイズとジョナサン・フレイクスは、それぞれ吹替を行ったV6のメンバーとハグしつつ登場(監督はパパね)、それぞれ並んでステージに立ち、キャストも半ばV6に向けられた歓声に楽しい思いをしたのではないだろうか。彼等若い実績の無いキャストは、これほどの歓声(半分以上はV6向けだが)に囲まれたのは初体験だと思うし、興奮し高揚している様が好意的に感じられた。

できれば、V6ファンの皆さんも、トレイシーボーイズのファンになっていただければ幸いだと思った。

ジョナサン・フレイクスもV6のステージ・アクトを見て、次回作はV6を起用したダンス・シーンを入れる、という発言もあった。

驚いたのは、正面スクリーンに投影されたレーザー光線のアートワークである、レーザー光線で描かれたサンダーバードのメカがモーフィング的効果で、キャスト名や役名に変化していくのである。(サンダーバード1号>スコット・トレイシー>フィリップ・ウィンチェスターという具合)

ジョナサン・フレイクスやキャストも楽しい日本の思い出が出来たのではないだろうか。 
2004/07/23 東京六本木 ギャガ・コミュニケーションズ試写室で、「ヴァン・ヘルシング」を観た。

時は19世紀、ヨーロッパ中に殺人者としてその名をとどろかせるヴァン・ヘルシング(ヒュー・ジャックマン)は、実はモンスター・ハンターとしての顔を持っていた。

「ジキル博士とハイド氏」の事件を解決したヘルシングは、ローマ・バチカンの秘密組織の命を受け、修道僧カール(デヴィッド・ウェンハム)とともにドラキュラ伯爵(リチャード・ロクスバーグ)が住むトランシルバニアへと旅立った。

そこでヘルシングは、代々ドラキュラ一族と戦い続けている一族の末裔アナ(ケイト・ベッキンセール)と出会う。
そこへ、コウモリ状の翼膜を持ったドラキュラ伯爵の花嫁達が空から襲い掛かってきた。

本作はユニバーサル映画が自社で版権を持つモンスター達を一同に集めて製作したアクション娯楽大作映画である。

登場するモンスターやキャラクターは、(ジキル博士と)ハイド氏、ドラキュラ伯爵とその花嫁たち、ウルフマン(狼男)、フランケンシュタイン博士とフランケンシュタインの怪物等々。

監督・脚本・製作は「ハムナプトラ」シリーズのスティーヴン・ソマーズ、出演はヒュー・ジャックマン、ケイト・ベッキンセール、ウィル・ケンプ、リチャード・ロクスバーグ、デヴィッド・ウェンハイム。
音楽はアラン・シルベストリ。

本作は一言で言うと、最近ありがちなCGI満載のアクション娯楽大作映画であり、モンスターを人間が退治する、またはモンスター同士が戦うアクション映画と言う観点からは、「ブレイド」シリーズや「アンダーワールド」、「リーグ・オブ・レジェンド/時空を超えた戦い」等の傾向を持つ作品だと言えよう。

また物語の構成からは「007」シリーズのような印象をも受ける。
事実修道僧カール(デヴィッド・ウェンハム)は「007」シリーズの秘密兵器研究開発を行っている「Q」のような役柄をも担っている。

ついでに、本作は「ヴァン・ヘルシング」は、ヘルシングが各地でモンスターを退治する連作シリーズの1エピソードのようなパターン構成を持っている。

簡単に言うと、次のような構成になっているのだ。

オープニング・アクションでモンスターを退治したヘルシングは、バチカンに戻り、新たな指令を受け、新秘密兵器の説明を聞き、現地に旅立ちメインのモンスターと対峙する、と言う構成なのだ。
つまり「007」か「インディ・ジョーンズ」か、というような構成なのだ。

脚本はおそらくシリーズ化の構想があったのか、ヘルシングの過去の秘密や謎に対する明確な回答をせず、次回に持ち越し的な印象を受けた。

キャストは、ヒュー・ジャックマンは「X−メン」シリーズと若干かぶる部分があるが、新たなヒーロー像の創出に成功している。
「ヴァン・ヘルシング」というキャラクターは、フランシス・フォード・コッポラの「ドラキュラ」ではアンソニー・ホプキンスが演じているのが興味深いかも。

ケイト・ベッキンセールも同様に「アンダーワールド」系かも知れないが、強くて美しいヒロインを好演している。

またデヴィッド・ウェンハムは、猫背にして身長を小さく見せ、コミカルで小心者な役を好演し、新境地をひらいていると言えるだろう。
「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズのファラミア役より生き生きとした魅力的なキャラクターとなっている。

さて敵役のリチャード・ロクスバーグだが、残念ながら役不足と言わざるを得ない。ドラキュラ伯爵は年齢不詳なのであるから、往年の大俳優の起用等が必要だったのではないだろうか。
因みに前述のコッポラの「ドラキュラ」ではゲイリー・オールドマンがドラキュラ伯爵を演じている。

さて、「マトリックス」以降(本来は「ジュラシック・パーク」以降と言うべきなのか)、使いどころを誤ると、確実に映画をダメにするCGIという手法であるが、本作も例によってCGI大爆発である。

「ハルク」同様、映画の見せ場で登場するキャラクターが、全てCGキャラクターである、という状況は、果たして映画というメディアに取って良いことなのだろうか、と考えさせられる瞬間である。

そろそろCGIについて本気で考えなければならない時期に差し掛かっているのではないかと思うのだ。何しろ特撮は手法ではなく、効果なのであるから。

余談だが、冒頭のハイド氏のシークエンスは、「ノートルダムの鐘」のカジモドを髣髴とさせる。
というかリスペクトなのだろうか。パロディなのだろうか。

またフランケンシュタイン博士とフランケンシュタインの怪物(シュラー・ヘンズリー)のシークエンスがベタだが涙を誘うし、ケイト・ベッキンセールがフランケンシュタインの怪物に「Thank you」というシークエンスも泣かせる。

お笑いはデヴィッド・ウェンハム、お涙はシュラー・ヘンズリーが担当ということなのだろうか。

音楽はアラン・シルベストリだが、ダニー・エルフマンが若干入っているようである。
また世界観はダニー・エルフマン繋がりでティム・バートンの世界観や美術の影響が見て取れるような気がする。

特にエンディング・クレジットはティム・バートン系で個人的には好みである。

本作は今年の秋の超大作娯楽作品という扱いであろうし、おそらく多くの観客を満足させる作品なのだと思うが、わたし的には退屈な普通の娯楽作品というような印象を受けた。

何も考えないで映像と音楽に身を任せる種類の映画は退屈で仕方が無いのだ。
以前お話した通り、わたしは庭にいくつかプランターを置き野菜を作っている。

昨年までは、花や観葉植物を中心とした所謂ガーデニングを行っていたのだが、今年は収穫できる作物も面白かろうと思い、家庭菜園なるものを始めた訳である。

ところで、今日のお話は「プチトマト」である。

実はわたしは最近まで「プチトマト」を栽培している自覚がなかったのである。

と言うのも、わたしは「ししとう」と書かれたカートンに入った苗を購入したのだが、どうやら「プチトマト」の苗が「ししとう」のカートンに紛れ込んでいたらしいのだ。

「ししとう」の生育の過程で、どう見ても「プチトマト」のような実が出来始め、おいおいこれは「ししとう」じゃなくて「プチトマト」だぞ、と気付いたというお粗末なお話なのだ。

で、そのプチトマトの苗自体はここ1〜2ケ月の間に爆発的に生育し、背丈は1m以上、横幅も1m近くまで生育しており、
現在は苗が自重に耐え切れないので、何本か支柱を立てたり、紐で枝を吊ったりしている。

本来プチトマトを栽培する場合は、おそらく間引くことにより、数少ないながらも美味しい実が出来るのだろうが、わたしは実を間引く事をせず、放任主義で栽培する事にしたのだ。

その甲斐あってか、わたしのところのプチトマトは、実が出来る場所(枝)に、大体5〜7個ほどの実が並んで出来、その実が出来る場所が、苗に5〜6ケ所あり、都合20〜30個程度の実が出来そうな状況なのである。

因みに、現在は緑色のプチトマトの実が20〜30個位付いており、毎日1〜2個位ずつ赤くなっている、という状況なのである。
緑の実が赤くなる瞬間はよくわからないのであるが、朝家庭菜園に水をやる際、昨日は緑だったのに、今日はオレンジ、明日は赤、という具合にひとつひとつ徐々に色が変わっていくのである。
なんだか楽しい気分である。

そんな中、2004/07/24に初収穫を行った。
取りあえずプチトマトを3個収穫し食べてみた。
まだ熟していなかったのか、皮が若干堅かったが立派なプチトマトだった。

味は若干未成熟だったのか少しだけ青臭く、子供の頃食べたグスベリの実のような印象を受けた。
事実緑の状態のプチトマトはなんとなくグスベリの実のような感じなのだ。

今後はおそらく、1日に1〜2個位の収穫が見込め、毎日毎日楽しい朝が迎えられそうなのである。

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2004/07/16 東京新宿 明治安田生命ホールで「堕天使のパスポート」を観た。

イギリスの首都ロンドン。
伝統とポップ・カルチャーが共存するこの街には、パスポートを持たない不法滞在者や難民たちがひしめきあっている。

トルコ出身のシェナイ(オドレイ・トトゥ)も、そのひとりだ。
彼女は、従姉妹のいるニューヨークへ脱出する日が来ることを夢見ながら、バルティック・ホテルのメイドとしてつつましく暮らしていた。

そんなシェナイには、オクウェ(キウェテル・イジョフォー)というアフリカ人の同居人がいた。
同居と言っても、オクウェはシェナイと同じホテルのフロントで夜勤をしているので、ふたりがアパートで顔を合わせることはない。しかも彼は、アパートでもほとんど眠ることはなく、昼間はタクシーの運転手をしていた。

ある夜、娼婦ジュリエット(ソフィ・オコネドー)の言葉に従ってホテルの部屋をチェックしに行ったオクウェは、510号室のバスルームで驚くべきものを発見する。
そこに常軌を逸した事件の匂いを嗅ぎつけた彼は、支配人のファン(セルジ・ロペス)に警察への通報を進言するが、ファンはまったくとりあわず、オクウェに口封じの金を握らせようとした。金を受け取るのを拒んだオクウェだったが、不法滞在者の彼には、自身で警察に通報することはできない相談だった。

ホテルのドアマン、アイヴァンにズラッコ・ブリッチ、オクウェの友人で剖検医師グオイにベネディクト・ウォン。
監督はスティーヴン・フリアーズ。

本作「堕天使のパスポート」は、現代のロンドンが内包している様々な問題、難民や不法滞在者、貧富の差や偽造パスポート、臓器売買等の社会的問題に鋭くメスを入れる社会派作品である。
と言えよう。

とは言うものの、本作の監督はスティーヴン・フリアーズ。
前半部分は前述のようにハードな内容の社会派作品なのだが、後半部分はある種のファンタジー作品に見事に転化し、ハードで重い内容の映画にも関わらず、さわやかな気持ちで観客を劇場から帰す事に成功しているのではないだろうか。

脚本的には、偽造パスポートを入手することにより、アイデンティティーを得る、という関連付けが含みがあって良い。
また、物語の持って行き方、社会派的問題を物語の俎上に乗せる手法が上手いのではないかと思った。

この辺りは「ダンサー・イン・ザ・ダーク」的かも知れない。

キャストは、まずはシェナイ役の世界の恋人「アメリ」のオドレイ・トトゥだが、「アメリ」からは考えられないようなダメな人間、そして恐ろしいほどの汚れ役を演じきっている。
彼女の目的(偽造パスポートの入手)の為の手段やそこにいたる境遇が悲しくも恐ろしい。
この辺りは、オドレイ・トトゥの容貌も相まってか、リアリティの付与に成功しているのではないだろうか。

オクウェ役のキウェテル・イジョフォーは、この映画の良心とも言える存在で、犯罪渦巻くロンドンにおいて孤高を貫く様は、潔くも美しい。
おそらく多くの観客が共感するキャラクターとして描かれているのではないだろうか。

ホテルのドアマン、アイヴァンを演じたズラッコ・ブリッチは、本作のコメディ・リリーフ的な存在で、時にして重くなりがちな映画の雰囲気を打破している。ロシア訛りも面白いのだ。
ただ、自分の好きなように正直に生きる様も他のキャラクターと対比する事により、面白い印象を与えている。

オクウェの友人で、剖検医師グオイのベネディクト・ウォンは、非常に知的な印象を受ける。本作の知を象徴する論理的なキャラクターとして描かれているのではないだろうか。
シェナイ(オドレイ・トトゥ)やオクウェ(キウェテル・イジョフォー)の役柄と対比すると面白いのではないだろうか。

ホテルの支配人ファンを演じたセルジ・ロペスの存在感も素晴らしいし、非常に重要な役柄となっている。

ラストの描き方には若干好き嫌いはあると思うし、実際わたしは個人的に、あの解決策により映画自体が、社会派作品からファンタジー作品へ転化してしまうのは、よろしく無いと考えるし、脚本としては甘いと思う。

しかし、ああでもしないと、映画の結末を見た観客は、恐ろしく重い気持ちで肩を落して劇場を後にしなければならなくなってしまう訳だから、あの解決策は監督の英断だった、と評価せざるを得ないのだろう。

あのようなラストへの持って行き方(作品自体のベクトルの転化方法)は、「プライベート・ライアン」や「ディナー・ラッシュ」的なベクトル転化を髣髴とさせる。

とは言うものの「プライベート・ライアン」のベクトル転化は甘く、スティーヴン・スピルバーグの悪い癖である娯楽嗜好が顔を出しているが、「ディナー・ラッシュ」のベクトル転化は颯爽としていて美しい。
「堕天使のパスポート」のベクトル転化は颯爽としていて甘い。というところであろうか。

本作「堕天使のパスポート」は、山椒は小粒でピリリと辛い的な作品なのである。
機会があったら、目をそらさずに観て欲しい作品のひとつなのだ。
2004/07/26 東京新宿 朝日生命ホールで「モナリザ・スマイル」を観た。

1953年秋。
カリフォルニアからニューイングランド地方にある、名門女子大ウェルズリー大学に向かう列車の中で、美術史の新任女性教師キャサリン・ワトソン(ジュリア・ロバーツ)は、夢の実現に胸を高鳴らせていた。
彼女は美術史の助教授としてウェルズリー大学に赴任し、米国一保守的という評判を持つこの大学に自分なりの変化をもたらそうと考えていたのである。

しかし到着してまもなく、彼女はこの名門校の予想以上に厳しい伝統にとらわれた環境を知る事になる。
先輩教師ナンシー・アビー(マーシャ・ゲイ・ハーデン)によると、学生たちにとって最も価値があるのは、充実した教育や高学歴、より高い志ではなく、エリートのボーイフレンドと結婚する事である、と言うのだ。

それでも彼女は期待を込めて初日の授業に臨むが、女生徒たちのリーダー的存在の優等生ベティ(キルスティン・ダンスト)ら女生徒たちの反発に翻弄されてしまう・・・・。

監督は「フォー・ウェディング」のマイク・ニューウェル。
主演はジュリア・ロバーツ。
共演の女生徒役は、キルステン・ダンスト(ベティ役)、ジュリア・スタイルズ(ジョーン役)、マギー・ギレンホール(ジゼル役)。

本作「モナリザ・スマイル」は、保守的な名門女子大学に赴任してきた進歩的な女性教師が、伝統を重んじる生徒や学校関係者との摩擦を繰り返しながらも女性の自立と自由な精神を説き続け、少しずつ学園に変化をもたらしていく、というありがちな題材である。

しかしながら、ありがちな題材であるからと言って、ありがちな展開になるかと言うと、さすがはマイク・ニューウェル(監督)である。一筋縄ではいかない、含みのある、考えさせられる作品に仕上がっている。

時として、このような題材の映画は、旧体制=悪、新しい風=善として捕らえられがちであり、物語の構成も「結局は新しい風は旧体制の前に、夢破れて去っていくが、そこには着実に新しい種が育っている」的なステレオタイプ的な物語になりがちなのである。

しかし本作「モナリザ・スマイル」は、ステレオタイプ的、または、旧体制=悪、新しい風=善というような勧善懲悪的な発想ではなく、両社を描くスタンスにおいて、平衡感覚を失わない平等な視線が、製作者の考えを観客に押し付けることなく、観客が自由な感想を持つ事が可能な、懐の深い作品に仕上がっている。

これは特に、新しい風である美術史の新任女性教師キャサリン・ワトソンの良いところだけではなく欠点を描く事により、またキャサリンの信奉者であったジョーンが選択する道を明確に描き、キャサリンとの対決を描く事により、従来の作品群と一線を画す素晴らしい作品に仕上がっているのではないだろうか。

またキャサリンのコンテンポラリー・アートの授業や、エンディング・クレジットで続々と描かれる「女性の役割」を端的に表した雑誌広告やCFが非常にシニカルでかつ悲しい。

キャストは、ジュリア・ロバーツはともかく、女生徒役が良かった。

先ず最近話題のキルスティン・ダンストであるが、彼女は女生徒たちのリーダーで、政治的にも力を持つベティを好演している。
基本的にベティは本作では悪役(勿論単純な悪役では無い)なのだが、その悪役が素晴らしいだけにラストのカタルシスも際立っている。
「スパイダーマン」でやいのやいの言われるより、こういった作品に出るべきなのかも知れない、と思うのだ。

そしてジョーン役のジュリア・スタイルズは、キャサリンの信奉者で優秀な女生徒で、イェール大に合格するも、自ら家庭に入る事を前向きに選択する役柄である。
ステレオタイプ的な作風では出てこないような役柄であり、理想と現実と理想的現実という選択肢の中で、ポリシーを持って理想的現実を選択する素晴らしい女性である。
今後が楽しみな女優のひとりである。

そしてジゼル役のマギー・ギレンホールだが、役柄的にはキャサリン以前に、既に新しい風にさらされているような役柄なのだが、懐が大きい素晴らしい役である。
物語の中では、ベティに対峙できる唯一のキャラクターとして設定されており、おそらく観客の感情移入の度合が一番高く、作品の良心的な役柄を担い、一番魅力的な役柄なのでは無いか、と思うのだ。
目と表情の演技は素晴らしいものがあり、ラスト近辺のベティ(キルスティン・ダンスト)との対決は大変素晴らしい。
こんな素晴らしい対決シーンは見たことが無い。

さて、コニー役のジニファー・グッドウィンだが、彼女も非常に素晴らしい役柄を演じている。女優としてのキャリアは、ほとんど無いようだが、キャリアのスタートとして非常に美味しい役を演じている。

因みに、結局コニーの相手役が一番良い男だったと思うのだ。

余談だが全寮制の学園もの、というジャンルを考えると、ほとんどの場合男子学生を描いたものが多いのだが、本作はその辺りでも異色作と言えるのではないだろうか。

作品の感覚としては、舞台や年代を含めて「いまを生きる」に重なる部分があるが、女生徒を題材の中心に据えた分、こちらの方が社会派的な印象が出てくるが、比較してみるのも面白いかも知れない。

結婚を間じかに控えるカップルに是非オススメの一本かもしれない。作品の感じ方により、ひと波乱あるかもしれないですが。

「LOVERS」

2004年7月28日 映画
2004/07/28 東京原宿 NHKホールで行われた『「LOVERS」ジャパン・プレミア』に行ってきた。

舞台挨拶は登場順で、監督:チャン・イーモウ、アクション監督:チン・シウトン、アンディ・ラウ、チャン・ツィイー、金城武、衣裳デザイン:ワダ・エミ、音楽:梅林茂、製作:ビル・コン。司会は襟川クロ。

西暦859年、唐代の中国。
朝廷は反乱勢力最大の一派で、民衆の支持をも集めている「飛刀門」撲滅を画策、一時は首領の暗殺に成功する。
しかし「飛刀門」は新しい首領をたて勢力の拡大を図っていた。

そんな中、朝廷は捕吏の瀏(リウ/アンディ・ラウ)と金(ジン/金城武)に「飛刀門」の新しい首領を10日以内に捕らえるよう厳命。
瀏は「飛刀門」の元首領の娘が盲目であることから、最近遊郭「牡丹坊」で評判を呼ぶ盲目の踊り子小妹(シャオメイ/チャン・ツィイー)が「飛刀門」の元首領の娘ではないかと疑い、「牡丹坊」に酔客になりすました金を潜入させる。

一時は目論見通り小妹を捕えるが、小妹の口が堅いと知った瀏は、金に小妹の脱獄を手助けさせる。
小妹に金を反乱戦士と信じ込ませ、「飛刀門」の新首領の元へ案内させるよう謀るのだったが・・・・。

本作「LOVERS」は、「HERO/英雄」に続くチャン・イーモウの中国歴史絵巻である。
「HERO/英雄」同様、悲劇をワイヤーアクションと美しい美術・衣裳で描く作風となっている。
「HERO/英雄」は秦の時代を舞台とした始皇帝の苦悩を描いていたが、本作「LOVERS」は唐の時代を舞台に、朝廷と朝廷に対峙する反乱一派「飛刀門」と言う大きなうねりに翻弄される三者三様の愛を描いている。

物語の最大のモチーフは「傾城・傾国の美女※」。
本作は、チャン・ツィイー演じる小妹を取り巻く、瀏(リウ/アンディ・ラウ)と金(ジン/金城武)の愚かさを見事に描いている。

しかしながら、「傾城・傾国の美女」を理解しないと、本作の脚本は一見つまらなく、前半から中盤はともかく後半からラストは退屈な映画に思えてしまうきらいがあるのだ。
事実、今回の『「LOVERS」ジャパン・プレミア』において、多くの観客が本作について否定的な感想を持っていたようである。

これの多くは、冒頭から中盤にかけては、脚本もアクションも大変素晴らしいのであるが、後半からラストにかけての瀏(リウ/アンディ・ラウ)と金(ジン/金城武)の莫迦さ加減はあきれてしまう、というところだろう。

勿論、それはチャン・イーモウの狙いなのだから仕方が無いのだが、一般の観客はそこまで読み取れずに、映画の表層を見て「LOVERS」は駄作だ、というレッテルを貼ってしまう可能性がある、と言えるのだ。

ところで美術や衣裳は大変良い仕事をしている。
「HERO/英雄」では物語の性格上、美術や衣裳はファンタジックで美しい反面、残念ながらリアリティが欠如していた。
しかし本作の美術は落ち着いた色彩で、しかも使い込まれた風情でしっかりとまとめられており、また衣裳については、色彩を含めてリアリティのある、重厚でかつ繊細なデザインにまとめられている。

音楽は、若干日本的なテイストが顔を出すが、概ね良かったのではないだろうか。

また撮影はスコープサイズを意識したレイアウトに、良い印象を受けた。
最近はビデオやDVD化を目論んだテレビサイズで見映えの良い画面レイアウトを撮る作家がいる中、劇場公開を大前提としたレイアウトには感激なのだ。

このスコープサイズを意識した点は、例えば「理由なき反抗」の冒頭シーンにも匹敵するような、金と瀏の冒頭のカットからして凄かった。勿論、小妹の舞のシークエンスも然りである。

チン・シウトン指導のアクション・シークエンスは、小妹の舞の部分、前半から中盤にかけて、金と小妹の逃亡のシークエンスでの追手との戦いが良かった反面、ラストの戦いはイマイチだった。

前作「HERO/英雄」はジェット・リーという素材が良かったせいか、本作のアクション・シークエンスは「HERO/英雄」レベルまでは達していない、というのが実情だろう。

また、アクション・シークエンスにおいて時々リアリティの欠如が垣間見えたのは残念である。一歩間違えば失笑寸前のシークエンスに肝を冷やした。

脚本は、前述のように「傾城・傾国の美女」というモチーフを実現する為に、一般の観客には受け入れられないようなものになってしまっているようだ。

勿論、チャン・イーモウとしては、確信犯的な脚本だと思うのだが、下手をすると一般の観客に「LOVERS」は駄作だ、というレッテルを貼られてしまう可能性があるだけに、また前半から中盤にかけての脚本もアクションも描写も素晴らしいので、非常に残念な思いがする。
もう少し、一般の観客に迎合した娯楽作品的な脚本でもよかったのでは無いだろうか。

言うならば本作「LOVERS」は、朝廷と「飛刀門」との対峙、という大きな、スケール感に富んだ舞台背景の中、三者が三様に織りなす小さなドラマにしか過ぎない、と思われがちな作品なのである。

また、「HERO/英雄」同様、「藪の中」的な脚本は本作にも生きているのだが、「藪の中」にまた「藪の中」がある脚本の構成はいかがなものだろうか。と思った。

キャストは、三者三様に素晴らしかった。
一度目は、金城武とチャン・ツィイーに目が行きがちだが、二度目はアンディ・ラウとチャン・ツィイーに焦点を絞って観ると、違った印象を受けるのではないか、と思った。

「LOVERS」の映画としての評価は分かれるところだが、アジアの才能が結集した本作は、是非劇場で観て欲しいのだ。

※ 「傾城・傾国の美女」
中国の故事「一顧傾人城、再顧傾人城」による、一度会えば城が傾き、再び会えば国が傾く程の美女のこと。
冒頭「牡丹坊」で小妹が舞を見せつつ唄った曲は「一顧傾人城、再顧傾人城」そのものである。

因みに、今回の『「LOVERS」ジャパン・プレミア』のチケットは、抽選で招待客に配付されたものなのだが、オークションでは(わたしが知る限り)最高24万円(2名分)で落札されていた。(次は15万6千円)

唐大中十三年,皇帝昏庸,朝廷腐敗,民間湧現不少反官府的組織,其中以飛刀門的勢力最大。飛刀門旗下高手如雲,
以「殺富濟貧、推翻朝廷」為旗號,甚得百姓擁戴。飛刀門總部設在靠近都城長安的奉天縣境?,因而直接威脅長安的安全。
朝廷深以為患,逐嚴令奉天縣加以剿滅。飛刀門?主柳雲飛雖在與奉天縣官兵的戰鬥中犧牲,但在新任?主領導之下,
飛刀門的勢頭不減反?。奉天縣兩大捕頭:劉捕頭(劉?華飾)、金捕頭(金城武飾)奉命於十日之?,
將飛刀門新任?主緝拿歸案。劉捕頭懷疑新店牡丹坊的舞伎小妹(章子怡飾)是飛刀門前?主柳雲飛的女兒,
逐用計將?拿下,押入天牢。二人並再度設下圈套:由金捕頭化名隨風大?,乘夜劫獄,救出小妹;藉此騙取小妹的信任,
?出飛刀門的?穴,以便一舉剿滅。

隨風依計救走小妹。逃亡路上,隨風對小妹呵護備致,小?不禁對他漸生情?;而隨風與小妹朝夕相對,
亦被?的出塵氣質深深吸引。星月之夜,二人終究按捺不住,狂烈戀火,眼看一發不可收拾…

林外,?風凜冽,隱隱殺機正悄悄地向他們進逼…

隨風、小妹,這對不應相愛、卻愛得熾熱的戀人,將面臨怎樣的命運?明明有愛,為何?心深處,總埋伏著深不可測的陰謀?
與及看不見的顫抖…

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