「ブロークバック・マウンテン」
2006年5月17日 映画
2006/03/04 東京渋谷「シネマライズ」で「ブロークバック・マウンテン」を観た。公開初日の第一回目。
1963年、ワイオミング。
イニス・デル・マー(ヒース・レジャー)とジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)は、ブロークバック・マウンテンの農牧場に季節労働者として雇われ、運命の出会いを果たす。ともに20歳の二人は、牧場主のジョー・アギーレ(ランディ・クエイド)から、山でキャンプをしながら羊の放牧の管理をする仕事を命じられる。寡黙なイニスと、天衣無縫なジャック。二人ともハンサムで逞しく男らしい。壮大で美しいプロークバック・マウンテンの大自然の中で仕事をしているうちに、次第に意気投合する二人の間には、友情を超えた、しかし本人たちすら意識しない、深い感情が芽生えはじめるが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アン・リー
脚本:ラリー・マクマートリー、ダイアナ・オサナ
原作:アニー・ブルー
撮影:ロドリゴ・プリエト
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:ヒース・レジャー(イニス・デル・マー)、ジェイク・ギレンホール(ジャック・ツイスト)、アン・ハサウェイ(ラリーン・ニューサム)、ミシェル・ウィリアムズ(アルマ)、ランディ・クエイド(ジョー・アギーレ)、リンダ・カーデリーニ(キャシー)、アンナ・ファリス(ラショーン・マローン)、ケイト・マーラ(アルマ Jr.)
超話題作「ブロークバック・マウンテン」が2006/03/04当時日本国内で(たしか)唯一公開されていた「シネマライズ」の周りはチケットを求める人々の長蛇の列でごった返していた。
わたし達4人(夜霧のネオンサインさん、秋林瑞佳さん、まりゅうさん、そしてわたし)は、夜霧のネオンサインさんが事前に指定席券を購入しておいてくれたおかげで、並ぶことなく、劇場に滑り込むことに成功した。
これはひとえに夜霧のネオンサインさんのおかげである。
ところで、わたしは本作「ブロークバック・マウンテン」のタイトルは「ブローバック・マウンテン」だとばかり思っていた。
その「ブローバック」と言う言葉が、本作をゲイのカウボーイの物語と単純化した場合、見事にマッチする印象を受けたからである。
ところで、その「ブローバック」とは、オートマチック・ピストル(自動拳銃)の排莢・装填を行うメカニズムの総称で、簡単に言うと、弾丸発射時の火薬の燃焼ガスの圧力を利用して、スライドがリコイル・スプリングを圧縮しつつ、後方にスライド(リコイル)し、薬莢を排出しながら撃鉄をコック(撃鉄がひかれた状態にすること)し、先ほど圧縮されたリコイル・スプリングの復元力により、スライドが前方にスライドしようとする力で、弾倉から一発の弾丸をチェンバー(薬室)に送り込むメカニズムを言う。
そんな訳で、例えば火山の噴火を拳銃に発射に例えた場合、火口以外の部分からブローバックと言う形態で、ガスを放出するイメージが、1960年代のゲイのカウボーイの物語、−−実りようのない恋路に落ち込んで行ってしまう二人のカウボーイの物語−−、に見事に符合している、とわたしには思えた訳である。
物語は、運命的な二人の男の出会いと、少しずつ人生の歯車が狂っていく二人の男と、彼等を取り巻く人々の人生の軋轢の物語である。
マスコミに大々的に取り上げられた本作は、おそらくではあるが、強いアメリカのひとつの象徴であるカウボーイと言う存在がゲイだった(はたして本当にゲイだったのか?)、と言う点がセンセーショナルにマスコミに取り上げられ、身の丈以上の評価を受けてしまった作品だったのではないか、と思う。
その扇情的とも言えるメイン・プロットを擁した原作を題材に本作「ブロークバック・マウンテン」を制作したのは、おそらく台湾出身のアン・リーの確信犯的な戦略の賜物だったのではないか、と思えてならない。
アメリカ人の監督だったら、こうは上手く行かなかったのではないか、と思う。
多分、この題材を描けるのは、アジアの監督だけではないか、と思った。(または英国の監督かな)
キャストは、ヒース・レジャー(イニス・デル・マー)にしろ、ジェイク・ギレンホール(ジャック・ツイスト)にしろ、観客の期待に違わないゲイのカウボーイ像を好演し、またその上、非常に繊細な心の機微を、そして繊細なニュアンスを観客に、特に女性の観客に明確に伝えることに成功していると思う。
脚本と演出は、極力説明を廃したもので、ハリウッドの娯楽大作程度しか観ていない人々には、−−つまり、物語の表層部分しか見ていない人たち−−、若干難しい作品だったのではないか、と思った。
例えば本作は、セリフで語られていないこと、またはそのセリフが嘘であること、を考えなければならない作品だと思うし、ひとつのカットの意味を明敏に理解し咀嚼する必要がある作品だったのではないか、と思う。
そのあたりは、やはりアン・リーの繊細な演出の賜物だったのだと思う。
余談だが、アン・リーが何を求めて「ハルク」(2003)なんぞを撮ったのかは知らないが、本作は、「ハルク」の失敗を全て帳消しにしてしまうほどの作品に仕上がっているのは、事実である。
何しろ「グリーン・デスティニー」(2000)の次が「ハルク」ですからね。
『「ハルク」なんか撮りやがって、何考えてんだよ!アン・リーよ!!』
と言う感じだったのが、「ブロークバック・マウンテン」の時点で、既に「ハルク」の過去は抹消された、と言うことなのだろう。
とにかく、本作「ブロークバック・マウンテン」は、若干評価されすぎの感は否定できないが、優れた作品のひとつだと思う。
機会があれば、是非観ていただきたいと思うところである。
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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余談だけど、ラストのセリフは、わたしは、次のように捉えています。
「ボクはいままで、ダメな人間だったけど、これからは真っ当な人間として、家族と一緒に生きることを誓うよ」
この解釈は、本作「ブロークバック・マウンテン」物語の精神と真逆のベクトルを持った解釈だと思いますが、本作「ブロークバック・マウンテン」がハリウッド映画である以上、そういった解釈が出来る構造になっていなければいけないし、多分スタジオ側に対してアン・リーはそう説明しているのではないか、とわたしには思えるのです。
そしてその解釈が、物語の文法に一番合致していると思えるのです。
何しろハリウッド映画のメジャー作品においては、なんらかの経験で主人公が成長する、と言うようなプロットがなければ、製作のための予算が取れないからです。
これもアン・リーの戦略的なものだったのだと思います。
1963年、ワイオミング。
イニス・デル・マー(ヒース・レジャー)とジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)は、ブロークバック・マウンテンの農牧場に季節労働者として雇われ、運命の出会いを果たす。ともに20歳の二人は、牧場主のジョー・アギーレ(ランディ・クエイド)から、山でキャンプをしながら羊の放牧の管理をする仕事を命じられる。寡黙なイニスと、天衣無縫なジャック。二人ともハンサムで逞しく男らしい。壮大で美しいプロークバック・マウンテンの大自然の中で仕事をしているうちに、次第に意気投合する二人の間には、友情を超えた、しかし本人たちすら意識しない、深い感情が芽生えはじめるが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アン・リー
脚本:ラリー・マクマートリー、ダイアナ・オサナ
原作:アニー・ブルー
撮影:ロドリゴ・プリエト
音楽:グスターボ・サンタオラヤ
出演:ヒース・レジャー(イニス・デル・マー)、ジェイク・ギレンホール(ジャック・ツイスト)、アン・ハサウェイ(ラリーン・ニューサム)、ミシェル・ウィリアムズ(アルマ)、ランディ・クエイド(ジョー・アギーレ)、リンダ・カーデリーニ(キャシー)、アンナ・ファリス(ラショーン・マローン)、ケイト・マーラ(アルマ Jr.)
超話題作「ブロークバック・マウンテン」が2006/03/04当時日本国内で(たしか)唯一公開されていた「シネマライズ」の周りはチケットを求める人々の長蛇の列でごった返していた。
わたし達4人(夜霧のネオンサインさん、秋林瑞佳さん、まりゅうさん、そしてわたし)は、夜霧のネオンサインさんが事前に指定席券を購入しておいてくれたおかげで、並ぶことなく、劇場に滑り込むことに成功した。
これはひとえに夜霧のネオンサインさんのおかげである。
ところで、わたしは本作「ブロークバック・マウンテン」のタイトルは「ブローバック・マウンテン」だとばかり思っていた。
その「ブローバック」と言う言葉が、本作をゲイのカウボーイの物語と単純化した場合、見事にマッチする印象を受けたからである。
ところで、その「ブローバック」とは、オートマチック・ピストル(自動拳銃)の排莢・装填を行うメカニズムの総称で、簡単に言うと、弾丸発射時の火薬の燃焼ガスの圧力を利用して、スライドがリコイル・スプリングを圧縮しつつ、後方にスライド(リコイル)し、薬莢を排出しながら撃鉄をコック(撃鉄がひかれた状態にすること)し、先ほど圧縮されたリコイル・スプリングの復元力により、スライドが前方にスライドしようとする力で、弾倉から一発の弾丸をチェンバー(薬室)に送り込むメカニズムを言う。
そんな訳で、例えば火山の噴火を拳銃に発射に例えた場合、火口以外の部分からブローバックと言う形態で、ガスを放出するイメージが、1960年代のゲイのカウボーイの物語、−−実りようのない恋路に落ち込んで行ってしまう二人のカウボーイの物語−−、に見事に符合している、とわたしには思えた訳である。
物語は、運命的な二人の男の出会いと、少しずつ人生の歯車が狂っていく二人の男と、彼等を取り巻く人々の人生の軋轢の物語である。
マスコミに大々的に取り上げられた本作は、おそらくではあるが、強いアメリカのひとつの象徴であるカウボーイと言う存在がゲイだった(はたして本当にゲイだったのか?)、と言う点がセンセーショナルにマスコミに取り上げられ、身の丈以上の評価を受けてしまった作品だったのではないか、と思う。
その扇情的とも言えるメイン・プロットを擁した原作を題材に本作「ブロークバック・マウンテン」を制作したのは、おそらく台湾出身のアン・リーの確信犯的な戦略の賜物だったのではないか、と思えてならない。
アメリカ人の監督だったら、こうは上手く行かなかったのではないか、と思う。
多分、この題材を描けるのは、アジアの監督だけではないか、と思った。(または英国の監督かな)
キャストは、ヒース・レジャー(イニス・デル・マー)にしろ、ジェイク・ギレンホール(ジャック・ツイスト)にしろ、観客の期待に違わないゲイのカウボーイ像を好演し、またその上、非常に繊細な心の機微を、そして繊細なニュアンスを観客に、特に女性の観客に明確に伝えることに成功していると思う。
脚本と演出は、極力説明を廃したもので、ハリウッドの娯楽大作程度しか観ていない人々には、−−つまり、物語の表層部分しか見ていない人たち−−、若干難しい作品だったのではないか、と思った。
例えば本作は、セリフで語られていないこと、またはそのセリフが嘘であること、を考えなければならない作品だと思うし、ひとつのカットの意味を明敏に理解し咀嚼する必要がある作品だったのではないか、と思う。
そのあたりは、やはりアン・リーの繊細な演出の賜物だったのだと思う。
余談だが、アン・リーが何を求めて「ハルク」(2003)なんぞを撮ったのかは知らないが、本作は、「ハルク」の失敗を全て帳消しにしてしまうほどの作品に仕上がっているのは、事実である。
何しろ「グリーン・デスティニー」(2000)の次が「ハルク」ですからね。
『「ハルク」なんか撮りやがって、何考えてんだよ!アン・リーよ!!』
と言う感じだったのが、「ブロークバック・マウンテン」の時点で、既に「ハルク」の過去は抹消された、と言うことなのだろう。
とにかく、本作「ブロークバック・マウンテン」は、若干評価されすぎの感は否定できないが、優れた作品のひとつだと思う。
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「ボクはいままで、ダメな人間だったけど、これからは真っ当な人間として、家族と一緒に生きることを誓うよ」
この解釈は、本作「ブロークバック・マウンテン」物語の精神と真逆のベクトルを持った解釈だと思いますが、本作「ブロークバック・マウンテン」がハリウッド映画である以上、そういった解釈が出来る構造になっていなければいけないし、多分スタジオ側に対してアン・リーはそう説明しているのではないか、とわたしには思えるのです。
そしてその解釈が、物語の文法に一番合致していると思えるのです。
何しろハリウッド映画のメジャー作品においては、なんらかの経験で主人公が成長する、と言うようなプロットがなければ、製作のための予算が取れないからです。
これもアン・リーの戦略的なものだったのだと思います。