各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。

そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
 
 
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html

2.ユーモアの欠如

 「スチームボーイ」を語る上で、考えなければならないひとつの特徴として「ユーモアの欠如」があげられるだろう。
 仮に「スチームボーイ」を一般的な少年少女向け「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と捉えた場合、「ユーモアの欠如」は作品として致命的な事かも知れない。

 「スチームボーイ」が一般的な作品だとすれば、おそらくコメディ・リリーフとして機能すべきである、世間知らずのお嬢さんスカーレット(スカーレット・オハラ・セントジョーンズ)や、世間知らずのお嬢さんに振り回される爺や的役柄のサイモン(アーチボルド・サイモン)も、この作品ではコメディ・リリーフの役割を全く期待されていない。
 そして、デザイン的には面白い要素(笑える要素)満載のオハラ財団の蒸気機関メカも、決してコミカルな演出をされていないのだ。

 物語に緩急のリズムを付け、クライマックスの緊張感を煽る意味も含めて、ユーモラスな場面を挿入し、観客の緊張を弛緩させるのは、一般的な映画の文法上必要だと考えられる。

 そんな状況の中で考えなければならないのは、果たして「スチームボーイ」のような物語に「ユーモア」は本当に必要なのか、という点と、製作者が「ユーモアが欠如」した「スチームボーイ」という作品を製作した理由は何か、製作者はそれにより観客に何を訴えかけているのか、という点である。

 先ず前提として「スチームボーイ」の物語は、『人類が叡智を結集して創り上げた「スチームボール」という、人類に破壊や恩恵をもたらすであろうあるモノを奪い合う物語』であり、端的に言えば『破壊兵器を奪い合う物語』と言えるのである。

 そして本作では多くの人命を奪うであろう破壊兵器の技術基盤と成りうる「スチームボール」の争奪戦を描き、その過程で、多くの人命が文字通り犠牲になっている訳である。

 そして「スチームボーイ」の物語は、一部のエゴイスティックな人間や集団が、自らの行動規範に基づき自らの目的を成就するため「スチームボール」を奪い合い、結果としてその行動が多くの人々の死を誘発している、という構造を持っているのである。

 これは、「スチームボーイ」とよく比較される「天空の城ラピュタ」も同様である。

 「天空の城ラピュタ」の物語は、『かつて大空に恐怖の代名詞として君臨したラピュタ国の失われた技術を開放するキーとなる「飛行石」の争奪戦』が描かれており、この物語も端的に言えば『兵器を奪い合う物語』と言えるのである。

 そして「天空の城ラピュタ」で宮崎駿は、最低でも百人単位の人々の死を描く一方、コミカルでユーモラスなシークエンスを演出している。
 例えば、冒頭付近の「そのシャツ誰が縫うんだろうね」のシークエンスや、タイガーモス号のキッチンでの「何か手伝おうか」のシークエンス、そしてドーラのオナラのシークエンス等、物語にリズムを付け、観客を笑わせる事を目的とした演出がなされている。
 このような演出はその他の「ハード」な宮崎駿の作品には無いのである。「風の谷のナウシカ」然り、「もののけ姫」然りである。

 しかし「スチームボーイ」に接した今、「天空の城ラピュタ」が多くの人々の死を描いている以上、その死者やその死者の背後にいる死者の親族たちに対し、笑いを取ることを目的とした演出は、もしかすると不謹慎な手法だったのではなかったのだろうか、と思ってしまうのである。
 例えば「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に「ユーモア」描写があったらどういう印象を観客に与えるか、と言うことである。

 そう考えた場合、「スチームボーイ」は従前の、多くの人々の生き死にを描きながら、平然と「笑い」のシークエンスを物語に挿入してきた作品群へのアンチテーゼとして機能しているのではないだろうか。と思えるのだ。
 その場合、この「スチームボーイ」の製作者が目指している(と思われる)、作品に向き合う孤高で真摯な態度に、わたしは尊敬の念を禁じえないのだ。
 これは例えフィクションと言えども、登場人物の生き死にに責任を持て、と言う事であり、物語を描く以上、人の生き死には尊厳を持って取り組め、と言う事なのである。

 そして「スチームボーイ」は、従前の、人々の死を描きつつ同時に笑いを描き続けてきたある意味不謹慎な作品群への大友克洋からの訣別意志表示ではなかろうか。と思うのだ。
 そして大友克洋は、「スチームボーイ」の製作過程において、ただ単に従来の手法通りに「ユーモア」を加味すれば良かったのに、わざわざ「ユーモア」を加味しなかった事に、言い換えるならば従来の価値観の破壊に拍手を贈りたいのだ。

 ここまで読んできた人の中には、何考えてんだ、頭おかしいんじゃないのか、これはあくまでもフィクションだぜ、何そんなに熱くなってんだよたかが映画だぜ、と思う方もいると思います。

 しかし、「スチームボーイ」は、そこまで考えさせるきっかけをわたし達に提供してくれる「ハード」な作品である。と言う事なんでしょうね。
 勿論わたしにとっては、ですけど。
 
 
3.成長しない登場人物

4.ヒーローの誕生
 
 
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html

「愛の落日」

2004年8月26日 映画
2004/08/26 東京有楽町よみうりホールで「愛の落日」の試写を観た。

1952年、独立解放戦線と政府との争いが激化するフランス占領下ベトナムの首都サイゴン。
ロンドン・タイムズの特派員である初老の男トーマス・ファウラー(マイケル・ケイン)は、ロンドンに妻子がいながら、愛人の若く美しいベトナム人女性フォング(ドー・ハイ・イエン)と、サイゴンで幸せな日々を送っていた。

ある時、アメリカの援助団体に属する青年医師アルデン・パイル(ブレンダン・フレイザー)と知り合ったファウラーは、物静かで真摯なパイルに好感を持ち、交流を始める。

お互いを尊敬し尊重しながら友人関係を育んでゆく彼らだったが、ファウラーからフォングを紹介されたパイルは彼女に恋をしてしまう。
やがてフォングをめぐって、ファウラーとパイルの間に微妙な亀裂が生じてゆく。
そして・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督はフィリップ・ノイス
撮影はクリストファー・ドイル
出演はマイケル・ケイン、ブレンダン・フレイザー、ドー・ハイ・イエン、レイド・セルベッジア、ツィ・マー、ロバート・スタントン、ホームズ・オズボーン等
 
 
この秋、是非オススメの一本である。

とは言うものの、本作「愛の落日」の表の顔は、ファウラー(マイケル・ケイン)、フォング(ドー・ハイ・イエン)、パイル(ブレンダン・フレイザー)という3人の恋愛模様と痴情のもつれを、ベトナム戦争前夜を舞台に描いた、ありがちと言っても良い物語である。

しかし、本作「愛の落日」の裏の顔は、1952年当時のフランス占領下にあるベトナムに対し、アメリカが軍事介入する経緯をフィクションとして描き、観客に対しある種の疑問を投げかけている、と考えられるような構成を持っているのだ。

そう考えた場合、例のファウラー、フォング、パイル等の痴情のもつれは、「愛の落日」の裏の顔(真の顔)を覆い隠すカモフラージュに過ぎないかも知れないのだ。

そして製作者サイドが観客に投げかける、その疑問だが、それを考える前にこの映画の背景を考える必要がある。

本作「愛の落日」は、グレアム・グリーンの時代風刺を痛烈に盛り込んだ名作「おとなしいアメリカ人」(1955年)を映画化したものである。

そして偶然か必然なのか、2001年9月11日の同時多発テロが発生、この映画の社会的テーマ性から全米公開が延期となり、いくつかの映画祭や限定上映はあったものの、北米拡大ロードショーは翌2002年2月にずれ込んだ訳である。

皮肉なことに、このように全米公開が延期されたため、本作が観客に投げかける疑問は、より一層明確になってきた感が否めないのだ。

『ベトナム戦争前夜にアメリカはこんな事をしていたが、イラク侵攻前夜のアメリカは一体何をしていたのか』と。

偶然か必然なのかわからないが、恐ろしくシニカルな状況にこの映画は置かれてしまった訳なのだ。

そして今秋、本作「愛の落日」が日本公開となるのだが、この映画の公開は、観る人によっては、マイケル・ムーアの「華氏911」への援護射撃的側面を持つ作品と捉えられる事になる、と思われるのだ。

『ベトナムではこうだったが、イラクではどうだったんだ』と。

この映画に関心があるのならば、「愛の落日」は痴情のもつれを描いたラヴ・ストーリーではなく、政治的背景を持ち観客に疑問を投げかける作品として観て欲しいとわたしは思うのだ。

あともうひとつ、二人の男性に翻弄されるファングは何を象徴しているのかを、何のメタファーなのかを考えていただきたいと思う。

そして勿論、ファウラーとパイルが何を象徴しているのかをも、同時に考えていただきたいと思うのだ。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

ところで、キャストだが、先ずマイケル・ケインの起用が素晴らしい。
何故素晴らしいかは現段階では詳細に書けないが、マイケル・ケインの映画的記憶を見事に利用した素晴らしいキャスティングと言わざるを得ないのだ。

一方、ブレンダン・フレイザーだが、彼はホラーやコメディ、青春モノを経て「ハムナプトラ」シリーズでブレイクした訳だが、本作を見ると文芸系作品もこなせる良い俳優にやっとなって来たかなと思え、今後のキャリアを考えた場合、つまならいCGIアクション娯楽作品のような映画ではなく、本作のような、しっとりとしていながら「何か」を持っている役柄を演じて欲しいと思ってしまう。

ヒロイン役のドー・ハイ・イエンは、なんと言っても美しく魅力的である。
おそらく西洋人が東洋人女性に憧れる部分を極限的に高めた役柄となっているのだろう。ブレンダン・フレイザー演じるパイルがいきなりフォングに惚れるのは、東洋人である日本人には一般的に理解できないかも知れないが、西洋人が東洋人女性に対して持っている憧れや何かを考えると、決してリアリティが無いわけではない、と思えるのである。

あとは、ファウラーの現地のコーディネーターを演じたツィ・マーが印象的であった。彼の孤高の生き様が格好良いのだ。

また、ヴィゴ捜査官を演じたラデ・シェルベッジアも強烈な存在感を醸し出していた。

撮影はクリストファー・ドイルだが、彼の名を一躍高めたウォン・カーウァイの作品に多く見られた手持ちカメラでブレを多用した作風ではなく、美しくきっちりと落ち着いた画面を見事に切り取っていた。

ドイルはもしかすると、東洋をソツなく撮れる、貴重な西洋人カメラマン的存在なのかも知れない。
2004/08/27 東京新橋ヤクルトホールで「テイキング・ライブス」の試写を観た。
 
1983年、カナダ。
マーティン・アッシャーという1人の少年が家を出た。
数日後、母親(ジーナ・ローランズ)の元に彼が交通事故で死亡した、という知らせが届く。

そして、現在。
絞殺の上、両腕を切断され白骨化が進んだ死体が工事現場で発見される。
広域猟奇殺人の可能性を疑ったモントリオール警察のレクレア警部(チェッキー・カリョ)は、FBIに捜査協力を要請、派遣された特別捜査官イリアナ・スコット(アンジェリーナ・ジョリー)は、限られた情報から犯人像を分析するプロファイルの天才だった。

イリアナは到着早々プロファイルを開始し、捜査は少しずつ進展をみせ始めるが、そんな矢先、新たな殺人事件が起きる。

しかし今度の事件には犯人と直面した目撃者コスタ(イーサン・ホーク)がいたのだが・・・・。

監督はD・J・カルーソー
出演はアンジェリーナ・ジョリー、イーサン・ホーク、キーファー・サザーランド、ジーナ・ローランズ、オリヴィエ・マルティネス、チェッキー・カリョ、ジャン=ユーグ・アングラード、ポール・ダノ他
 
 
本作はトマス・ハリスの「羊たちの沈黙」に代表されるサイコキラーとプロファイラーが活躍する物語である。

しかし、「羊たちの沈黙」以来多くのサイコキラーもの、プロファイルものの作品が製作され、現在ではサイコキラーにしろプロファイラーにしろ、最早手垢のついた感のある題材である、と言わざるを得ない。

そして、こういった作品に付き物である「意外性がある犯人」と言っても、現代の観客は余程の事が無い限り、余程の意外性が無い限り、驚かないような状態になっている、と言えるのだ。

そんな中、本作「テイキングライブス」は、最早手垢がついた題材であるサイコキラーとプロファイラーを題材とし、意外な犯人探しが楽しめる作品として製作された訳なのだ。
言うならば、四面楚歌的な状況の中で製作された作品、と言うことなのである。

そして、その天才プロファイラーを演じるのはアンジェリーナ・ジョリー、従来は比較的アクション指数の高い娯楽作品のヒロインを得意としていたのだが、本作では今までに無い知的な役柄を演じている。

おそらく女優としての新たな一面の模索図ったものだと思うし、場合によっては、女性天才プロファイラーを主人公としたシリーズ化の構想もあったかも知れない。

そのアンジェリーナ・ジョリーが演じた特別捜査官イリアナ・スコットの役柄は、ハンニバル・レクター博士より落ちるが、頭が良く、クラリス・スターリングくらいに美しく、ララ・クロフトくらいに強い、という際立ったキャラクターとして描かれている。

そして本作「テイキングライブス」のサイコキラーは、誰かを殺し、相手の人生そのものを乗っ取り(=テイキング・ライブス)、そして、その相手の人生に飽きたら次の獲物を探し殺し乗っ取り、それを現在まで十年以上も続けている訳なのである。
 
 
さて、本作「テイキングライブス」だが、可も無い不可も無い、水準通りの普通のサイコキラー&プロファイラーものだと言えよう。

残念ながら取り立てて、ここが凄いとか、どこが凄い、と言ったところは無いのだが、主要キャラクターが脚本上きちんと立っており好感が持てた。

特にアンジェリーナ・ジョリーとイーサン・ホークが良かった。

シリーズ構成を考えると脚本的に問題は無い訳ではないが、アンジェリーナ・ジョリーが演じる特別捜査官イリアナ・スコットの成長物語とか、特別捜査官イリアナ・スコット登場編としては大変面白い作品に仕上がっているのではないだろうか。

また、脇を固める警察陣を演じたチェッキー・カリョ(レクレア警部)、オリヴィエ・マルティネス(パーケット刑事)、ジャン=ユーグ・アングラード(デュバル刑事)もそれぞれ良い味を出している。
直情的な刑事と理性的な刑事のコンビだとか、物分りは良いが部下に厳しい上司だとか、若干ステレオタイプ的な感が強いが、存在感は充分であった。

また、キーファー・サザーランドだが、おそらく多くの観客も予想していると思うのだが、比較的上手い使い方をされていた。

結果的に本作は、決して娯楽大作では無いが、小粒でピリリと辛い、こ小気味いい作品に仕上がっている。
強い女性、恐い女性を見たければ是非オススメの一本なのだ。

観客に対する目配せ的伏線も多々あるので、謎解きファンにもオススメの一本だと言えよう。
しかし、わかりやすい伏線が多く、謎解きも比較的簡単なので、コアな謎解きファンにはすすめられないかも知れない。

もしかすると本作は、謎解きより、サイコキラーのステレオタイプ的な室内や、初心者向けのプロファイルの過程、アクションやショック描写を本来は楽しむ作品なのかも知れない。

☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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本日28日から、2004年秋以降に日本公開となる大作、話題作12本を一挙上映する「GTF 2004 トーキョーシネマショー」がスタートしました。

会期:2004/08/28〜2004/09/02
会場:東京内幸町 イイノホール

試写作品
「シークレット・ウインドウ」 ○
「アラモ」
「砂と霧の家」
「アイ、ロボット」 ○
「ターンレフト ターンライト」 ○
「ニュースの天才」 ○
「ヘルボーイ」
「ツイステッド」
「マイ・ボディガード」 ○
「トゥー・ブラザーズ」 ○
「TUBE/チューブ」
「オールド・ボーイ」 ○

※ ○は観る予定の作品。

地獄、いや天国のような日々です。
でも、わたし的には、身体が持つか心配です。

あぁ、元気な状態で「オールド・ボーイ」が観たい。
 
 
「GTF 2004 トーキョーシネマショー」
http://www.gtf04.com/pc/movie/01.html
2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されている「GTF2004 トーキョーシネマショー」で、「ターンレフト ターンライト」の試写を観た。
 
ジョン・リュウ(金城武)はバイオリニスト。
ヨーロッパのオーケストラで活躍するのが夢だが、実際に入ってくる仕事はレストランのBGM係ばかり。

イブ・チョウ(ジジ・リョン)は翻訳家。
世界中の愛の詩を訳すのが夢だが、実際に入ってくる仕事はホラー小説の翻訳ばかり。

そんな二人は、実は同じアパートの、壁一枚隔てた隣同士に暮らしていた。
隣同士と言っても、二人の部屋は棟が違い、入口も違うため、お互いの存在を全く知らなかった。

ジョンは追っかけの女性を避けるため、アパートの左側へ回るのが習慣になっていた。

イブは幽霊らしきモノを見て、それ以来アパートの右側へ回るのが習慣になっていた。

しかし・・・・。

監督・製作総指揮・脚本:ジョニー・トー、ワイ・カーファイ
原作:ジミー・リャオ(原題『向左走、向右走』)
キャスト:金城武、ジジ・リョン、エドマンド・チャン、テリー・クワン
 
本作「ターンレフト ターンライト」は大変な拾い物であった。

勿論「拾い物」と言う表現に語弊はあるものの、実際のところわたしは、金城武が出ている、というだけで期待もせず観に行ったのだが、わたしは本作という大変素晴らしい映画との偶然の出会いに喜んでしまっている訳である。

物語は、バイオリニスト ジョン・リュウ(金城武)と翻訳家イブ・チョウ(ジジ・リョン)のしつこいまでのすれ違いを描いたコメディ映画である。

二人は公園で偶然出会い、お互いに一目惚れし、一旦は電話番号を交換するのだが、突然の雨で電話番号メモが判読不能になってしまい、隣の部屋に住んでいながら再会できない、と言うメイン・プロットに、(突然の雨により風邪をこじらせて倒れてしまう二人に出前を届け、)ジョンに恋心を抱いてしまう88食堂のルビー(テリー・クワン)と、(二人が救急車で担ぎ込まれる病院で働く、)学生時代からイブに恋心を抱いていたウー医師(エドマンド・チャン)等の、自分たちの恋を成就させるために、二人に対して行う様々な妨害工作を絡めている。

物語は前述のとおり、ベタでお約束で陳腐で前時代的な恋愛模様とも言えるが、それは逆説的に言えば普遍的で伝承物語的な、誰にでも、そしてどんな民族にでも受け入れられる普遍的な物語構成を持っているのだ。

これは「スター・ウォーズ」や様々な神話、そして聖書物語のような物語が、世界中の人々に受け入れられるように、本作「ターンレフト ターンライト」も世界中の人々に受け入れられる種類の物語だと言えよう。

尤も、本作は台湾の絵本作家ジミー・リャオのベストセラー絵本が基になっているのだが、その点もそれを裏付している、と言えるだろう。

キャストは先ず金城武だが、以前から言われているように、日本語で喋ると大根役者だが、日本語以外の言語で喋ると演技に余裕と抑揚が出て良い、という印象を再確認できた。

そしてジジ・リョンだが、大変かわいらしく、ちょっと間抜なヒロインを見事に演じている。
今後が楽しみな女優の一人である。

一方、テリー・クワンは二人の恋路を邪魔する88食堂のルビー役なのだが、憎々しいながらもかわいらしい女性を見事に演じている。非常に自分に素直で良い役である。

また、エドマンド・チャン演じる、これまた二人の恋路を邪魔するウー医師だが、最早ストーカーまがいの行動に若干観客は引き気味だが、その直情的な求愛行動は、おかしくもあり悲しくもある。

しかしエドマンド・チャンにしろ、テリー・クワンにしろ存在感は抜群で、下手をするとこの二人がこの映画の主役だと言っても良い程である。

また脚本的には、ベタで直球勝負なのだが、韓国映画にしろ香港映画にしろ、アジア映画の特色なのか、過去のある時点の出来事を大きな伏線に生かす作品が多いのだが、本作もやはり過去のある時点の出来事を大きな伏線として生かし、普遍的な物語をより運命的な物語に昇華する事に成功している。

更に、二人の境遇をそれぞれ二回ずつ描写する手法は、時として物語のスピードを殺し、物語のテンポを台無しにしてしまう場合があるが、本作では二人の境遇をそれぞれ二回ずつ描写する手法を観客が心待ちにする程、素晴らしい構成になっている。
 
わたしの結論としては、本作「ターンレフト ターンライト」は、観客を幸せな気分にさせてくれる種類の作品であり、この秋絶対オススメの一本だと言えるのだ。

おそらく「猟奇的な彼女」を観た際と同じような幸せな気分を味わえると思うのだ。

☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されている「GTF2004 トーキョーシネマショー」で「ニュースの天才」の試写を観た。

1998年、アメリカ大統領専用機エア・フォース・ワンに唯一設置され、米国内で最も権威ある政治雑誌と評される「THE NEW REPUBLIC」の記者スティーブン・グラス(ヘイデン・クリステンセン)の執筆記事が捏造であることが発覚。米国メディアに大きな衝撃が走った。

ニュースを報道する側が、自ら報道される「ニュース」な存在になっていく過程をスリリングに描き出すことで浮き彫りになる、究極の「真実」。

ピュリッツァー賞受賞作家バズ・ビッシンジャーが「Vanity Fair」誌に寄稿したスティーブン・グラスの記事捏造事件の記事をもとにトム・クルーズが製作総指揮にあたった「真実探求」の問題作。
(GTF トーキョーシネマショー パンレットよりほぼ引用)

監督・脚本:ビリー・レイ
原案:バズ・ビッシンジャー(ピュリッツァー賞受賞作家)
製作総指揮:トム・クルーズ
出演:ヘイデン・クリステンセン、ピーター・サースガード、クロエ・セヴィニー、スティーヴ・ザーン、ハンク・アザリア、メラニー・リンスキー、ロザリオ・ドーソン
 
社会派系の作品が大好きで、マスコミの報道や発信する情報に対しては常に懐疑的なスタンスをとりながらも、孤高なマスコミの存在を期待するわたしに取って、本作「ニュースの天才」は、大変面白く大変素晴らしい作品だった。

本作「ニュースの天才」の構成は、「THE NEW REPUBLIC」誌の編集室であがくスティーブン・グラス(ヘイデン・クリステンセン)と、母校で講演を行うグラスを交互に描くことにより、学生の前で得意げに講演するグラスと、墓穴を掘り首までずっぽりはまってしまっているグラスのギャップが非常に面白い。

余談だが、グラスがあがく様は、ケヴィン・コスナーの「追いつめられて」にも匹敵するかも知れない。

自信に溢れ魅力的なグラスと、落ちぶれて藁にもすがる情けないグラス。
その両方のグラスをヘイデン・クリステンセンは見事に演じている。
「海辺の家」はともかく、「スター・ウォーズ エピソードII クローンの攻撃」でヘイデン・クリステンセンが見せる、口を半分開けたニヤニヤ笑いはなりをひそめ、グラスの両極端な側面を見事に演じ分けている。
本作はもしかするとヘイデン・クリステンセンの今後のキャリアの足がかりになるのではないだろうか、とも思うのだ。

そして前述のように、情けないグラスは、もう最高(最低)に情けなく、言うなればヘイデン・クリステンセンは、ダメ男を見事に演じ切っている、と言う訳なのだ。

最近では「トロイ」でダメ男を見事に演じたオーランド・ブルームがいたが、ヘイデン・クリステンセンのスティーブン・グラスは本当に見事な最高(最低)のダメ男なのだ。

観客がイライラするほど、もういいかげんにしろよ、もうあきらめろよ、と思うほど情けないのだ。

また興味深かったのは、「THE NEW REPUBLIC」誌の前編集長マイケル・ケリー(ハンク・アザリア)と、現編集長チャールズ・”チャック”・レーン(ピーター・サースガード)の編集長としてのスタンスの違い、上司としての部下への対応の違いである。

ケリーは、表で、部下に見えるように部下を守っていた訳だが、チャックは表では部下を厳しく叱責する一方、裏で、部下に見られないように、部下を守っていた訳だ。

どちらが上司として理想的かは諸説あるだろうが、自分の上司や部下に置き換え、その辺をみても面白いと思った。

そういった環境下で、「THE NEW REPUBLIC」誌の編集者たちは、前編集長の人柄に惹かれ、現編集長を否定する、というスタンスを取っているのが面白い。

そして、そんな状況の中、物語の後半は、チャックとグラスの二人芝居の様相を呈するのだが、そんな彼等の演技合戦も楽しい。
特にチャックの怒りのシークエンスが素晴らしい。

そして、その演技合戦に絡むクロエ・セヴィニー(ケイトリン役)も良い味を出している、グラスに同情し目が曇るが・・・・、というところが本当に格好良いのだ。

また、グラスを追いつめる「Forbes Digital Tool」の記者アダム・ベネンバーグ(スティーヴ・ザーン)とアダムの同僚アンディ・フォックス(ロザリオ・ドーソン)のコンビも面白い。
特に、アンディの、記事捏造の告発記事に自分の名前も入れてくれ、というあたりが面白いし、恐ろしくもある。

しかし、なんと言っても、前述のように正義感溢れる「THE NEW REPUBLIC」誌の現編集長チャックを演じたピーター・サースガードが素晴らしい。役柄事態も素晴らしいのだが、編集者に嫌われ、誌の行末に苦悩する孤高な編集長を見事に表現しているのだ。

そして、わたしは前述のように、マスコミに対し懐疑的なスタンスをとっている訳だが、マスコミに完全に失望している訳ではなく、チャックの真摯で孤高な生き様に感涙なのだ。
そして、ケイトリンをはじめとした「THE NEW REPUBLIC」誌の編集者たちの生き様にも感涙なのだ。

マスコミも捨てた物ではないのだね。

本作「ニュースの天才」は、「カンバセーション…盗聴…」や「大統領の陰謀」あたりと比較しても面白いかも知れない。

とにかく、マスコミに対して何らかの意見を持っている人には是非オススメだし、マスコミを目指す人、マスコミで働いている人にも是非観ていただきたい作品なのだ。

余談だが、製作総指揮のトム・クルーズのパロディも面白かった。

本作「ニュースの天才」は、イラクの取材中の事故で亡くなったマイケル・ケリーに捧げられている。
 
 
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
 
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2004/08/31 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されている「GTF2004 トーキョーシネマショー」でジャン=ジャック・アノーの新作「トゥー・ブラザーズ」の試写を観た。

1920年代のカンボジア/アンコール遺跡。
ジャングルの奥地、荒れ果てた寺院跡で2頭のトラが生まれた。兄のクマルは元気な暴れん坊で、弟のサンガはおとなしい性格だった。仲のいい2頭は一緒にすくすくと育ってゆく。

そんなある日、著名なイギリス人冒険家エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)が仏像盗掘のためアンコール遺跡を訪れた。
マクロリーは、仏像盗掘の最中、突然姿を現わし人を襲った親トラ1頭を撃ち殺してしまう。

これが原因となり、やんちゃなクマルはマクロリーに、おとなしいサンガは行政長官ユージン・ノルマンダン(ジャン=クロード・ドレフュス)の息子ラウール(フレディー・ハイモア)の遊び相手として引き取られて行くのだったが・・・・。

監督:ジャン=ジャック・アノー
出演:ガイ・ピアース、ジャン=クロード・ドレフュス、フィリピーヌ・ルロワ=ボリュー、フレディー・ハイモア、マイ・アン・レー、ムーサ・マースクリ、ヴァンサン・スカリート
 
 
本作「トゥー・ブラザーズ」は、わたしがジャン=ジャック・アノーに期待したような作品ではなく、子供たちにも安心して見せられる良質なファミリー・ムービーだった。
いわば、ディズニー映画のようなテイストを持った作品である。

しかし、わたしが予告編を観て本作に期待していたのは、厳しい弱肉強食の大自然界の中、人間のエゴで飼い馴らされてしまう二頭のトラに降りかかる悲劇を、エイダン・マクロリー(ガイ・ピアース)とラウール(フレディー・ハイモア)の二つの視点で描き、それがラストで交差する。と言うもので、ともすれば、「子鹿物語」(1947)や「二十日鼠と人間」的な終焉を迎える悲劇的な映画を期待していた訳である。

しかし、だからと言って作品自体がつまらないか、と言うとそうでもなく、(尤もシーンの転換が唐突で、長大な作品のダイジェスト版のような印象を受ける事は否定できないが、)前述のように楽しいファミリー・ムービーに仕上がっている。

特筆すべき点はトラの演技である。部分的にフレームの外で強制的に演技させている部分や「にせもののトラ(アニマトロニクス)」が見え隠れするが、トラの演技は自然で、どうやってこんなシークエンスを破綻なく撮ったんだ、と思えるシーンの続出である。

聞くところによると、これはトラが、シーンに合った動きをするまで気長に待ち続ける、と言う手法だった、と言う事であるから、気の遠くなるような撮影作業である。
セットではなく、ほとんどがロケの作品で、こういった手法で撮影するとは、驚きを禁じえないのである。

脚本は、ファミリー・ムービーと言うことで、自然界の弱肉強食的残酷描写もなく、かわいいトラと楽しい物語、というものだが、唯一「人間のエゴの責任をとらなければならない」とマクロリーがラウールを諭す場面が秀逸である。
いわばマクロリーとラウールの演技合戦になっているのだ。
そして、このシーンを突き詰めていくと「子鹿物語」(1947)的結末に至る訳である。

またトラの親子を地元の知事(=土候の息子/貴族?)親子のメタファーとして絡めたあたりも良い印象を受けた。

キャストは、ガイ・ピアースにしろ、フレディー・ハイモアにしろ、完全にトラに食われているような印象を受ける。
勿論、ラウール少年を演じたフレディー・ハイモアには感心させられるし、ガイ・ピアースら大人のキャストもそれぞれ自分の仕事をきちんとこなしている。
しかし、やはりトラなのだ。

音楽は、若干オーバー・スコアで、トラのかわいさを前面に押し出しすぎているような印象を受けた。

本作「トゥー・ブラザーズ」は、大自然の厳しさ、弱肉強食、食物連鎖、人間のエゴ、環境破壊等のハードな部分を期待する方には、残念ながら期待はずれといわざるを得ないが、この秋家族団欒で映画体験をするには、ちょうど良い良質なファミリー・ムービーなのだ。

しかし、ファミリー・ムービーであり、子供向けの作品であるからこそ、自然界ではトラがどうやって獲物を取るのか、人間のエゴで飼いならされてしまった猛獣はどうなるのか、そういったところを描いて欲しかったのである。
ジャン=ジャック・アノーは一体、どこを目指しているのであろうか。

余談だが「メメント」のガイ・ピアースへのセルフ・オマージュも楽しいものだった。
また「ジュラシック・パーク」へのオマージュもあった。

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tkr

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