さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その8です。

とりあえず目標の再確認を・・・・

目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」

1.映画

#063 「スウィングガールズ」イイノホール 2004/08/04
#064 「ヴァン・ヘルシング」東京国際フォーラムAホール 2004/08/05
#065 「スパイダーマン2」日劇1 2004/08/13
#066 「NIN・NIN忍者ハットリくんTHE MOVIE」よみうりホール 2004/08/14
#067 「ワー!マイキー リターンズ!」東京都写真美術館ホール 2004/08/15
#068 「華氏911」恵比寿ガーデンシネマ 2004/08/15
#069 「ジーリ」ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント試写室 2004/08/21
#070 「バイオハザードII アポカリプス」丸の内ピカデリー1 2004/08/23
#071 「コード46」銀座ガスホール 2004/08/24
#072 「愛の落日」よみうりホール 2004/08/26
#073 「テイキング・ライブス」ヤクルトホール 2004/08/27
#074 「シークレット・ウインドウ」イイノホール 2004/08/28
#075 「アイ、ロボット」イイノホール 2004/08/29
#076 「ターンレフト ターンライト」イイノホール 2004/08/29
#077 「ニュースの天才」イイノホール 2004/08/29
#078 「マイ・ボディガード」イイノホール 2004/08/31
#079 「トゥー・ブラザーズ」イイノホール 2004/08/31
 
2.DVD、CATV等

#112 「カウボーイ・ビバップ/天国の扉」DVD 2004/08/01
#113 「メトロポリス」CATV 2004/08/02
#114 「ハイ・フィデリティ」HDD 2004/08/02
#115 「王立宇宙軍 オネアミスの翼」CATV 2004/08/03
#116 「Mr.ディーズ」CATV 2004/08/03
#117 「マスター・アンド・コマンダー」DVD 2004/08/07
#118 「工場地帯(短編)」HDD 2004/08/08
#119 「アダプテーション」CATV 2004/08/11
#120 「ルパン三世 カリオストロの城」DVD 2004/08/12
#121 「天空の城ラピュタ」VTR 2004/08/12
#122 「レッド・ドラゴン」CATV 2004/08/13
#123 「キューティーガール 美少女ボウラー危機一発」CATV 2004/08/13
#124 「サクラ大戦 活動写真」HDD 2004/08/16
#125 「不思議の国のアリス」CATV 2004/08/20
#126 「ハード・デイズ・ナイト」CATV 2004/08/20
#127 「28日後」DVD 2004/08/22
#128 「ウェイキング・ライフ」DVD 2004/08/25
 
3.読書

#023 「幸運の25セント硬貨」スティーヴン・キング著 浅倉久志他訳 新潮文庫 2004/08/04
#024 「ザ・スタンド(IV)」スティーヴン・キング著 深町眞理子訳 文春文庫 2004/08/16
#025 「ザ・スタンド(V)」スティーヴン・キング著 深町眞理子訳 文春文庫 2004/08/28
 
映画は、劇場17本(累計79本)、DVD等17本(累計128本)で、計34本(累計207本)。
このままのペースで、年間311本(劇場119本)です。

読書は3冊(累計25冊)で、このままのペースでは、年間38冊です。

映画はともかく、読書の状況は厳しいです。
先は長いですが頑張ります。

※ 参考 昨年同時期の状況
映画 206本(劇場53本)
読書 38冊
2004/09/01 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」のクロージング作品「オールド・ボーイ」の試写を観た。

ごく平凡な生活を送っていた男オ・デス(チェ・ミンシク)は、娘の誕生日の晩、酔っ払った挙句に警察に留め置かれてしまう。一時はジュファン(チ・デハン)に身柄を引き取られるが、ジュファンが電話をかけている最中、オ・デスは何者かに拉致されてしまう。

その後、オ・デスはホテルの一室のような小さな部屋で意識を取り戻したのが、それ以降理由もわからないまま監禁され続け、監禁開始から15年後のある日、オ・デスは突然解放されてしまう。

一体誰が!?何の目的で!?

オ・デスは解放後に偶然出会った若い女性ミド(カン・ヘジョン)の協力を得、自分を監禁した相手を探し出し復讐することを誓う。
そんなオ・デスの前に謎の男イ・ウジン(ユ・ジテ)が現れるのだが・・・・。

監督:パク・チャヌク
出演:チェ・ミンシク、ユ・ジテ、カン・ヘジョン、チ・デハン、ユン・ジンソ

本作「オールド・ボーイ」はご承知のように、2004年カンヌ国際映画祭公式上映後のスタンディング・オベーションは10分間に及び、結果、見事グランプリ(審査員特別大賞)を獲得、審査委員長クエンティン・タランティーノにして『グレイト!最高に素晴らしい! 本当は「オールド・ボーイ」にパルムドールをあげたかった』と言わしめた作品である。

事実本作「オールド・ボーイ」は「カンヌ国際映画祭グランプリ」に恥じない、素晴らしい作品だった。

先ずは、とにかく脚本が素晴らしい。
わたしは寡聞にして原作を読んでいないため、原作と脚本の比較は出来ないが、本作「オールド・ボーイ」の脚本は緻密でいて大胆、縦横に張り巡らされた伏線を生かし、驚きに満ちた素晴らしいプロットに溢れている。

また、要所要所に描写される、「キーとなるモノ」のあっさりした描写が、わかる人にはわかる製作者の目配せ的伏線として機能しているあたりも良い印象を受けた。

本作「オールド・ボーイ」の脚本は、物語の表層部分が面白いのは勿論、物語の奥底に当たる部分も最高に面白い、と言う素晴らしく完成度が高い脚本だと言えるのだ。

キャストは、何と言ってもチェ・ミンシク(オ・デス)が素晴らしい。
観客を笑わすは、泣かすはの大活躍である。
冒頭のシークエンスでのチェ・ミンシクの酔漢振りも良いが、監禁時の鬼気迫る演技も、解放後の冒険や、ウジンとの対決も、何から何まで素晴らしいのだ。
悪い点を強いてあげるとすると、監禁前の姿のほうが、解放後の姿より年を取っているように見えるような気がする位である。

また、物語のキーとなる謎の男イ・ウジンを演じたユ・ジテも同様に素晴らしい。
本作「オールド・ボーイ」では、多くの観客は、理由はともかく15年間も監禁されていたオ・デスに感情移入すると思われ、実際ウジンは敵役を振られている事になるのだが、そんな状況の中で、知的でクールな、それでいて哀愁と喪失感を帯びた、奥深く複雑な敵役像を見せてくれている。

また、解放後のオ・デスをたまたま助けるミドを演じたカン・ヘジョンも素晴らしい。
わたしはミド登場時に、それほど良い印象を受けなかったのであるが、物語が進むに連れカン・ヘジョンは輝きを増し、ついには衝撃的な印象を残してくれる。

そして、端役やエキストラまで、末端まで真摯な態度が行き届いたキャスティングも素晴らしく、全ての役者が与えられた役柄を見事にこなしている。

一方、監禁部屋にしろ、ユジンのペントハウスにしろ、ミドの部屋にしろ、学校にしろ、美容院にしろ、インターネット・カフェにしろ、セットや美術、大小道具も素晴らしく、統一感がありながら、所有者のセンスや性格、感情が感じられる世界観の構築に貢献している。

そして、その素晴らしい世界観を冷徹に切り取り、二次元に定着させるカメラ。
撮影も大変素晴らしく、一度見たら一生忘れられない種類のカットを多数残している。
勿論、これは演出のおかげではあるのだが、妥協しない撮影の力を感じる作風だったのだ。
オ・デス(チェ・ミンシク)やイ・ウジン(ユ・ジテ)、ミド(カン・ヘジョン)等の表情や動きの切り取り方も凄いぞ。
スチール・カメラのような鋭敏さを持ったムービー・カメラなのだ。

ネタバレを避けるあまり、曖昧で抽象的な書きようになってしまっているが、これ以上の事を書くと本当にネタバレになってしまいそうなので、この辺にしておくが、わたしのオススメとしては、出来れば本作「オールド・ボーイ」に関する全ての情報をシャット・アウトした上で、一般のメディアで本作物語の内容が取り上げられる前に、出来るだけ早く観て欲しい。出来れば、チラシも見ない方が良いと思う。

そして、例えば「クライング・ゲーム」や「シックス・センス」の「秘密」を全ての観客が共有した上で「秘密」を守り、決して誰にも言わなかったように、本作「オールド・ボーイ」の「秘密」も観客全てが共有し「秘密」を守る、そんな映画になって欲しいと心から願うのだ。

とにかく、本作「オールド・ボーイ」は、今秋の目玉の作品という事もあるのだが、映画に関心を持っている人全てに観て欲しいとわたしは思う。

本作「オールド・ボーイ」は映画史に燦然と輝く作品になる可能性が高いと思うしね。

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余談

日本の劇画(漫画)を原作として、韓国にこんな素晴らしい作品を創られてしまうとは、日本人として悲しい気持ちで一杯なのだ。
日本のクリエイターの諸氏にも、もう少し頑張って欲しいと思うし、ワールド・ワイドな戦略を立てた、素晴らしい邦画を製作して欲しいと思う。

かつては香港映画に羨望の念を覚え、今は韓国映画に嫉妬の念を禁じえない状況は、果たしていつまで続くのであろうか。

余談だが、本作の脚本は「アンブレイカブル」のような、ラストでカッチリとはまる素晴らしいもので、その関係からか、サミュエル・L・ジャクソンが、ユ・ジテとかぶって見えてくる。
2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」で「マイ・ボディガード」の試写を観た。

16年間アメリカ海軍の対テロ特殊部隊に所属していたクリーシー(デンゼル・ワシントン)は飲酒で身を持ち崩していた。

それを見かねた、かつての盟友で現在メキシコに居を構えるレイバーン(クリストファー・ウォーケン)は、クリーシーにメキシコの実業家夫妻(サミュエル/マーク・アンソニー、リサ/ラダ・ミッチェル)の娘ピタ(ダコタ・ファニング)のボディガードの職を斡旋する。

メキシコでは、実業家や富豪の子供たちを組織的に営利誘拐する集団が存在し、裕福な家庭では子供のためにボディガードを雇う事は一般的な事だった。

当初クリーシーは、ビジネスに徹しピタに冷たく当たっていたのだが、ピタの水泳コーチを引き受けた頃から、ピタと打ち解け初め、クリーシーとピタの間には、ビジネスを越えたある種の絆が生まれてきた。

そんなある日、クリーシーはピタを学校に送り迎えする際、同じ自動車を何度も見かけることに気付いたが・・・・。

監督:トニー・スコット
脚本:ブライアン・ヘルゲランド
原作:A・J・クィネル(「燃える男」/”MAN ON FIRE”)
出演:デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、ラダ・ミッチェル、マーク・アンソニー、ジャンカルロ・ジャンニーニ、レイチェル・ティコティン、ミッキー・ローク

トニー・スコットと言えば、当初は「トップガン」や「ビバリーヒルズ・コップ2」、「デイズ・オブ・サンダー」等、面白いが底が浅い娯楽作を監督していたが、「トゥルー・ロマンス」や「クリムゾン・タイド」以降、娯楽作でありながら、奥底に何かを感じられる作品を監督し始め、最近では「スパイ・ゲーム」で最早押しも押されぬ実力派監督の名を欲しいままにしている。

一方、脚本のブライアン・ヘルゲランドは、なんと言っても「L.A.コンフィデンシャル」で頭角を顕し、最近では「ミスティック・リバー」でも大いに評価されている名脚本家である。

そんな二人が組んだ上に、デンゼル・ワシントン、ダコタ・ファニング、クリストファー・ウォーケン、ジャンカルロ・ジャンニーニ等が出演となれば、否応もなく期待は高まる訳であり、そんな環境下でわたしは本作「マイ・ボディガード」を観たのである。

本作「マイ・ボディガード」は、一言で言うと大傑作であった。

トニー・スコットの作品を手放しで誉めちぎるのは、なんともしゃくだが、良い作品は仕方ないが良い作品なのだ。

先ず脚本だが、メインのプロットは、「かつてのエリートが落ちぶれ、片手間仕事に就くが、一時はその仕事に失敗するのだが、自分でその失敗のけじめをつける」というありがちなものだが、そこに到る過程が、微にいり細にいり完璧で、まるで美しいモザイク模様の工芸品を見ているような出来栄えの脚本なのである。

そしてその工芸品のような脚本に乗った演出も素晴らしく、数々の詳細な伏線が、画面の端々から観客に訴えかけてくる、そういった観点からすると、内容はともかく楽しい映画に仕上がっている。

そして、その物語を演じる役者たちだが、デンゼル・ワシントンやダコタ・ファニングはさておき、クリストファー・ウォーケンが素晴らしい。
最近情けない作品が多いウォーケンだが、本作では、かつてはエリートだった老兵を情緒たっぷりに演じており、また「戦争の犬たち」を髣髴とさせる映画的記憶を利用した素晴らしい役柄を演じている。久方振りに格好良いウォーケンを見たのだ。

また、名優ジャンカルロ・ジャンニーニ(マンザーノ連邦捜査官)とレイチェル・ティコティン(マリーナ/新聞記者)の正義派・社会派コンビも素晴らしい印象を観客に与えている。
ラストのレイチェル・ティコティンの決断と、ジャンカルロ・ジャンニーニの行動に拍手を贈りたいほどである。

ミッキー・ロークはわたし的には一時はどうなることかと思ったのだが、脚本上はキャスト・ミスになるところをギリギリで踏ん張った感があるが、面白い役所を演じている。

さて、主演のデンゼル・ワシントンだが、はっきり言って素晴らしい。役柄的には知的なだけではなく非常にタフな所があり、従来のワシントンのイメージを超えた素晴らしいクリーシー像を見せてくれている。

一方、ダコタ・ファニングは、観客に対してある意味凶悪で、最早ルール違反だと言っても差支えが無いのでは無いだろうか。
あんなに愛らしく天使のような少女が、悪人の手にかかったとなれば、デンゼル・ワシントンどころか、すべての観客が怒り心頭、怒髪天を衝く状態で、その意味で言えば、ダコタ・ファニングは観客を見事に一体化してしまう手腕を持っている、と言えるのだ。

画面は、おそらく撮影時の素材をデジタル処理し、セリフや動きのタイミングに合わせて、細かなズームやパン、ティルトを多用し、下手をすると乗り物酔いに似た症状を観客に与えかねない映像スタイルを取っていた。
その画面と舞台背景からは、スタイル的にスティーヴン・ソダーバーグの「トラフィック」のような印象をも受ける。

また、セリフの中での印象的な言葉を、スーパー・インポーズしていたのが印象的である。
この手法はスタイリッシュな反面、蛇足的印象を観客に与えてしまう点も、否定できない。

本作「マイ・ボディガード」は、復讐を描いたアクション映画だが、それを超越した、叙情的でもあり、社会派的でもあり、若干ハード過ぎるきらいもあるが、文句なしの大傑作である。

この秋、アクション映画を見るのならば、オススメの一本だし、アクションが苦手な社会派系の人にも、観ていただきたい素晴らしい作品なのだ。

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余談だが、「スタートレック」的には、「キル・ビル(国際版)」の冒頭で引用された、クリンゴンのことわざ、

”Revenge is a dish best served cold.”

がデンゼル・ワシントンのセリフとして出てきた。
(実際は、爆発の音とかぶって正確には聞き取れなかった)
もしかすると、「クリムゾン・タイド」同様、クエンティン・タランティーノが脚本にノン・クレジットで一枚噛んでいるのかも知れない、と思った。

因みに日本公開された「キル・ビル Vol.1」では、”Revenge is a dish best served cold.”のタイトル・カードは、「深作欣二に捧ぐ」と言うカードに差し替えられていた。

このクリンゴンの古いことわざである”Revenge is a dish best served cold.”は、「キル・ビル Vol.1」と「キル・ビル Vol.2」を続けて観て、初めて意味が通じるひとつの伏線となっているのだが、日本では「深作欣二に捧ぐ」と言うカードに差し替えられていたため、その伏線があまり生きていなかった。

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☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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2004/08/28 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」のオープニング作品「シークレット・ウインドウ」の試写を観た。

郊外の別荘で新作を執筆中の人気作家モート・レイニー(ジョニー・デップ)。

だが彼は、妻エイミー(マリア・ベロ)との離婚調停と言う大きな問題を抱え、執筆活動に行き詰っていた。
妻エイミーとテッド(ティモシー・ハットン)の不倫現場のモーテルに踏み込み、離婚調停の問題を顕在化させたのは、他ならないモートその人であった。

そんなある日、モートのもとにジョン・シューター(ジョン・タートゥーロ)と名乗る謎の男が訪ねてくる。
その男は唐突に、自分の小説がモートに盗作された、と言うのだった。

身に覚えの無いモートは、全く取り合わないが、シューターがポーチに一方的に置いていった原稿の内容は、モートの短篇小説「秘密の窓」と全く同じモノだったのだ。
そして・・・・。

監督/脚本:デヴィッド・コープ
原作:スティーヴン・キング 「秘密の窓、秘密の窓」(「ランゴリアーズ」所収/新潮社刊、新潮文庫刊)
出演:ジョニー・デップ、ジョン・タートゥーロ、マリア・ベロ、ティモシー・ハットン、チャールズ・ダットン

おそらく本作「シークレット・ウインドウ」は、スティーヴン・キング原作作品の映画化と言うより、ティム・バートンの「シザーハンズ」以降、「妹の恋人」「ギルバート・グレイプ」「エド・ウッド」「ラスベガスをやっつけろ」「ブロウ」といった、ハリウッドでも作家性の高い作品に好んで出演し、近年は「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」で大ブレイク、2003年アカデミー賞主演男優賞にもノミネートされたジョニー・デップの出演作品として評価される作品だろう。

また本作は、「永遠に美しく・・・」「ジュラシック・パーク」「カリートの道」「ザ・ペーパー」「ミッション:インポッシブル」「スネーク・アイズ」「パニック・ルーム」「スパイダーマン」等の脚本を手がけた名脚本家デヴィッド・コープの2作目の監督作品として(事実デヴィッド・コープ監督作品としては、初めて評価される作品となるかも知れない)も評価できる作品とも言える。

しかし、これらは逆説的に言うと、本作「シークレット・ウインドウ」は、キング作品の映画化を前面に押し出し、結果的には残念な結果に終わるような作品ではなく、一般の映画作品として評価できる作品に仕上がっている、と言えるのだ。

さて、そのデヴィッド・コープ自ら手がけた脚本は、基本的には原作である「秘密の窓、秘密の窓」(「ランゴリアーズ」所収/新潮社刊、新潮文庫刊)の基本プロットに準じており、−−と言うより、キングの原作自体がプロットや伏線を生かしつつ映画にしやすい完成度の高い小説に仕上がっているのかも知れないのだが、−−また、微に入り細に入り、カッチリ破綻無く組まれた見事な脚本を楽しむことが出来る。
特に、ジョニー・デップ演じるモート・レイニーの内面との対峙部分や、ラストの独白的シークエンスは秀逸であろう。

また演出については、冒頭のモートの飼猫がジョン・タートゥーロが演じるジョン・シューターの足元に絡みつくあたりや、モートが自動車を落とすシークエンス、勿論モートの内面との対峙、エピローグ的エピソード等、きっちりと振付けられたアクションを観ているような、脚本と演出の一体感が楽しめる。

キャストは、モート・レイニーを演じたジョニー・デップは、「パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち」 同様若干オーバーアクト気味な感は否めないが、自らの内面に問題を抱える人気作家を見事に演じている。
誰も居ない部屋での独白や表情や指先等のユーモラスな動きは、−−勿論これはジュニー・デップの売りであり、個性だと言われると返す言葉が無いのだが、−−リアリティを求める観客に取っては、やはりオーバーアクトだと言わざるを得ない。

また、謎の男ジョン・シューターを演じたジョン・タートゥーロは何と言っても南部訛りの台詞回しが印象的である。わたしは寡聞にしてテキサス訛りと、ミシシッピ訛りの区別はつかないが、ミシシッピ出身のジョン・シューターの訛りは、スタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」のコング少佐(スリム・ピケンズ)を髣髴とさせる。

あと印象に残るのは、モート・レイニーが雇うアクティブな弁護士ケンを演じたチャールズ・ダットンだろう。容貌は勿論、金にうるさい、−−コンタルティング料をカウントする時計のシークエンス−−、出来る弁護士像が印象的だった。

物語の結末とエピローグについては、賛否があると思うが、余韻の残る素晴らしい幕切れではないかと思う。
しかし、物語の結末を指し示すセリフが、何度も何度も出てくるのには、若干興ざめの印象を否定できない。もう少し観客の記憶を信用し、暗にほのめかす程度で良かったのではないかとわたしは考える。

とは言っても、本作「シークレット・ウインドウ」は、全体的に見た場合、誰にでもオススメ出来る、秀作だと言えるだろう。
また、ジョニー・デップ目当てで劇場に足を運んだ人に、スティーヴン・キングを知らしめる役割を果たしてくれる、素晴らしい作品になるのかも知れない。

「デビルマン」

2004年9月5日 映画
2004/09/05 東京有楽町 東京国際フォーラムCホールで行われた「デビルマン」のプレミア試写会に行って来た。

舞台挨拶は紹介順で、監督の那須博之、出演の伊崎央登、伊崎右典、酒井彩名、渋谷飛鳥、冨永愛、阿木燿子、宇崎竜童、そして原作の永井豪。
また、舞台挨拶の冒頭にはhiroの主題歌「光の中で」のライヴがあり、明日9月6日が誕生日である永井豪の誕生祝もあった。
 
 
両親を亡くし牧村家(啓介/宇崎竜童、恵美/阿木燿子)に引き取られた不動明(伊崎央登)は平凡な高校生として、ガールフレンドの牧村美樹(酒井彩名)らと共に、穏やかな毎日を送っていた。

一方、明の親友で、飛鳥教授(本田博太郎)を父に持つ飛鳥了(伊崎右典)は何不自由なく育ち、スポーツも成績も優秀だったが、キレルと何をするかわからない恐さを秘めていた。

そんなある日、新エネルギーを探索する飛鳥教授らは南極地底湖のボーリング中に、人と合体して増殖する古代知的生命体「デーモン」を呼び覚ましてしまう。

それは他の種族の生命体と合体し、その相手の能力を取り込み進化し続ける邪悪な魂を持つ知的生命体であった。
そして、次々と人間を乗っ取り始めたデーモンたち。

了とともに飛鳥教授の研究施設を訪れた明の体にもデーモンが侵食を開始するが・・・・。
 
 
永井豪の「デビルマン」を、二つの大きな出来事を含めて、実写化したことは評価できるが、全体的に見た場合、本作「デビルマン」は残念な作品だと言わざるを得ない。

個人的には、折角の「デビルマン」実写化のチャンスを・・・・。
と言う気持ちで一杯である。

先ずは、脚本がまずい。
好意的に強引に解釈すると「行間を読め」的な脚本とも取れるのだが、一般の観客に対しては、あまりにも不親切で、どんどん話が進んでしまう感が否めないし、原作の壮大なイメージを著しく矮小化されているような印象を受ける。

また、登場人物が特異な環境や背景、状況をあまり考えずに簡単に受け入れ、納得してしまっているのはいかがなものか、と思うのだ。

そして、主演二人の演技がまずい。
二人のビジュアルは、許容範囲であり、上手く行けば上手く行くのでは、と期待していたのだが、残念な事にわたしの期待は見事に裏切られる結果になってしまったと言わざるを得ない。
キャストよりCGIの方が演技が上手いのは、まずい事だと思うのだ。

しかし、逆に吹替え上映が一般的な海外にこの作品を持って言った場合、二人の演技がダメでも、所謂声優さんが頑張れば、何とかなるのかも知れない。とも考えてしまう。

あとは、日本映画の悪い癖なのだが、不必要なカメオが多い点が気になった。
物語のテンポを崩し、シリアスな場面だったものをコミカルな場面に転化してしまい、観客の意識を物語から引き離してしまう、こんなカメオが本当に必要なのだろうか?
勿論、いろいろな「大人の理由」が存在している事は承知しているが、やはり不必要なカメオの導入には、大きな疑問を感じてしまうのだ。

とは言うものの、評価できない点ばかりかというと、そうでもなく、例えば前述の通り、原作にある「二つの大きな出来事」を正攻法で正面から描いたのは、評価できるし、気分的には拍手モノである。勿論絵面だけ再現したからと言って拍手するのも問題だと思うのだか。

特に、二つ目の方の出来事を描いたのは、素晴らしい事だと思う。そのあたりの描写に「新世紀エヴァンゲリオン」のイメージとダブる感があるが、モトネタは「デビルマン」である。

また、CGIについては、ハリウッド作品のように、画面が暗い上に、カメラが被写体に寄り過ぎていて、何が起きているかわからない、と言ったCGIアクションではなく、引きでしかも比較的明るい画面で、CGIアクションを見せたのは評価に値するだろう。

そして、実写とCGIとアニメーションを融合させた「T−VISUAL」と言う手法も評価に値するのではないか、と思うのだ。
現在一般的に行われている、モーション・キャプチャーではなく、原画マンが描いた「アニメ的に誇張された原画」を基にCGIが創られているのだ。そういった手法をあみ出した事は評価できるのだ。

これは、ストップ・モーションの第一人者フィル・ティペットがCGIのスーパーバイザー等を務めた「ジュラシック・パーク」や「マトリックス レボリューションズ」の、CGIながら、生物的で愛嬌を持った動きを再現していたり、機械でありながら、その機械の操縦者の性格を表現しているような動きをしているのと、対比する事が出来る。

誤解を恐れずに言わせて貰えば、古い技術のエッセンスを活用し、新しい手法でキャラクターに命を吹き込んでいる、と言うことなのである。

しかしながら、実写パートとCGIパートが見事に融和を拒んでいる。カメラの動きも、何もかもが牽制しあっている印象を受ける。
また編集もガタガタで、シーンの繋がりが驚きに満ちている。

キャストについては、やはり主演の二人(伊崎央登、伊崎右典)は、演技ではなく、ビジュアル先行で本作にキャスティングされたのだとは思うし、そのビジュアル先行のキャスティングに対しては、ある意味成功だと思うし、英断だと思うのだが、如何せん演技がついて行っていないのだ。
もうすこし演出でなんとかならなかったのだろうか。非常に残念な気がする。
今時の学芸会でももっとマシだと思うのだ。

一方、牧村美樹役の酒井彩名は結構良かったし、ミーコ役の渋谷飛鳥や、ススム役の子役(名前はわかりません)もまあまあ良かった。と言うか、素晴らしく見えた。
と言うか、この二人はガタガタの現場でよく頑張ったと思うぞ。

主役二人より、ススムくんの方が演技が上手だと言うのは、困ったものである。(余談だが、ススムくんを演じた子役俳優は舞台挨拶には出てこなかったのだが、親子連れで会場に顔を出していた)

シレーヌを演じた冨永愛は存在感があり、思っていたより良い印象なのだが、CGIの部分とライブ・アクションの部分でコスチュームが全然違うのは、いかがなものか、と思うのだ。
ついでに脚本上、シレーヌはいなくなってしまうし。

結論としては、
1.FLAMEファンの皆さんには、オススメの作品
2.原作「デビルマン」ファンの皆さんには、「二つの大きな出来事」が真正面から映像化されている点、CGIのデビルマン等のビジュアル・コンセプトが良い点、「その部分だけで良ければ」、結構オススメの作品
3.一般の観客の皆さんには、日本が誇るダーク・ヒーローの実写化娯楽作品として、少しだけオススメの作品と言うところだろうか。

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激怒でございます。
原作と映画は別物だと常々思っているし、そう言う発言を繰り返してきたわたしでさえ、映画を観ている間、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。

カメオ出演の永井豪の悲しげな表情は何を意味していたのだろうか。
2004/08/29 東京内幸町(霞ヶ関)イイノホールで開催されていた「GTF2004 トーキョーシネマショー」で「アイ,ロボット」の試写を観た。

アイザック・アシモフによるロボット工学三原則
第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
(A robot may not harm a human being, or, through inaction, allow a human being to come to harm.)
第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
(A robot must obey the orders given to it by the human beings, except where such orders would conflict with the First Law.)
第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
(A robot must protect its own existence, as long as such protection does not conflict the First or Second Law.)

2035年、シカゴ。
今からわずか30年後の近未来、家庭用ロボットが人間のパートナーとして普及している時代。
そしてさらに、革新的な技術による新世代ロボットNS−5型が登場し、新たなロボット社会の夜明けを迎えようとする直前、そのロボットの生みの親であり、ロボット工学の第一人者、アルフレッド・ラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)が死体で発見される。

ラニング博士と親交のあった、シカゴ市警のデル・スプーナー刑事(ウィル・スミス)は、ラニング博士の事件は、自殺ではなく殺人事件だと疑い、現場に潜んでいた最新NS−5型ロボットのサニーを重要参考人として拘留する。

「ロボット3原則」をプログラミングされ、絶対に人間に危害を加えられないはずのロボットが殺人を犯せるのか?

謎を追及するデル・スプーナー刑事とロボット心理学者スーザン・カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)は、やがて・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:アレックス・プロヤス
出演:ウィル・スミス、ブリジット・モイナハン、ジェームズ・クロムウェル、ブルース・グリーンウッド、チー・マクブライド、アラン・テュディック

果たしてロボットは殺人を犯せるのか?

正直なところ、ビジュアルは変わっても、語る物語はいつもと同じ、というような印象を受けた。

「鉄腕アトム」をはじめとして、子供の頃から様々なロボットの物語に接している日本人にとって本作「アイ, ロボット」は決して新しい物語ではなく、最早手垢がついた感のある題材を基にした物語である、と言っても差し支えはないだろう。

特に本作の物語のコンセプトは、手塚治虫の「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を原案として現在浦沢直樹が描いている「PLUTO(プルートゥ)」と似ているし、キャラクター的には、ウィル・スミス演じるデル・スプーナー刑事は「鉄腕アトム/人工太陽球の巻」の探偵シャーロック・ホームスパンのような環境下にある。勿論これは最近の「イノセンス」のバトーも同様のキャラクター造型がされているのは周知のことと思う。

また、ビジュアル的には「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」の影響をうけた「マトリックス」で使用されたアクションが、またもや使われているし、往年の「トロン」を髣髴とさせるビジュアル・イメージもある。また「スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス」的なデザインも登場するのである。

更に、ロボットの中に芽生える「魂的なモノ」のことを「ゴースト」と表現するにいたっては、オマージュなのかなんなのか、もう定かではない、釈然としない気持ちなのである。

確かにCGIのビジュアル・イメージとアクションは確かに見応えがあるし、ロボットNS-5シリーズが蜂起する様は圧倒的である。
またロボットのサニーを演じたアラン・テュディックは、評価に値する微妙な表情による演技を見せている。
またトンネル内のカーチェイスも演出的には非常に面白い。

ところで、ロボットの蜂起は、ある意味「ゾンビ」的な楽しみ方も出来るかも知れないね。

しかしビジュアル・イメージが凄いからと言って、物語が面白いか、と言うとその辺は微妙である。
物語は前述のように、日本ではよく聞く話であり、その語り口は、ハードボイルドの探偵モノなのである。
その辺をどう評価するかによって、本作「アイ, ロボット」は傑作にも駄作にもなるのではないか、と思うのだ。

余談だが、ロボットと言う言葉が始めて登場したのは、ロシアの作家カレル・チャペックの「R.U.R」(1920)と言う戯曲なのであるが、本作「アイ, ロボット」の中で、ロボットを開発している企業名は、なんと「U.S.R」。なんとなく、似ているのではないかな。

ついでにこの戯曲「R.U.R」だが、舞台は人造人間(ロボット)の製造販売を一手にまかなっているR.U.R社の工場。人間の労働を肩代わりしていたロボットたちが団結して反乱を起こし、人類抹殺を開始する。「R.U.R」は、機械文明の発達がはたして人間に幸福をもたらすのか、と言うチャペックの予言的作品、なのである。

結果的には、わたし的には、ちょっとだけ奥が深いCGI満載の娯楽作品と、言うところであろうか。
話題の作品なので、関心があるのなら、折角なので是非劇場で観て欲しい作品だと思うのだ。

そして、もしあなたが日本人でなければ、または「鉄腕アトム」をはじめとした、様々なロボットの物語を知らないのであれば結構楽しめる娯楽作品なのかも知れない。

余談だが、デル・スプーナー刑事と、探偵シャーロック・ホームスパンとバトーが似ている話をしたのだが、そのあたりを明確に示すシークエンスが何度か登場する。デル・スプーナー刑事の寝起きのシーンで、彼は右手に拳銃を持ち、左肩を揉むような行動を取る。
これは、左手が行うことを右手が信用していないことを示しているのである。
先日、東急東横線「渋谷」駅改札付近で友人と待ち合わせをした。

その改札口から右手へ、旧東急文化会館方面への通路を歩く、通路右側の窓を見やると、広大な更地が目に飛び込んできた。

その広大な更地は東急文化会館の跡地、そうかつての大劇場「渋谷パンテオン」が存在した場所なのである。

昭和31年12月の開館以来、46年以上にわたり、あまたの綺羅星のような映画を上映してきた劇場が存在していた場所なのである。

劇場とは、夢が実現する場所であり、魔法が生き残っている場所である。
そんな素晴らしい場所があたり前のように更地になってしまっているとは、非常に感慨深いものがある。

そして、ご存知のように、渋谷パンテオンは「東京国際ファンタスティック映画祭」が生まれた場所でもあり、「東京国際ファンタスティック映画祭」を育てた劇場なのでもある。

今で言う、ホラーもスプラッタも、ワイヤーアクションもマサラ・ムービーも、香港ノワールも韓国アクションも「東京ファンタ」が日本に紹介したのだ。

そして、ピーター・ジャクソンもサム・ライミも、ジョン・カーペンターもユエン・ウーピンも、スチュアート・ゴードンもポール・バーホーベンも、チン・シュウタンもツイ・ハークも、ダリオ・アルジェントもジョージ・A・ロメロも、ティム・バートンもジョン・ウーも、押井守もリドリー・スコットも、ジェームズ・キャメロンもヘンリー・セリックも、原田真人もそして雨宮慶太も、「東京ファンタ」で育ったのだ。

そして今「東京国際ファンタスティック映画祭2004」の季節がやって来た。
しかし残念ながら「渋谷パンテオン」はその使命を終え、会場は「新宿ミラノ座」へ移動して久しい。

しかし、今年は「東京ファンタ」20年目の秋、20周年記念映画祭なのだ。

「東京国際映画祭」も良いが、この秋、もしチケットが取れたならば「新宿ミラノ座」へ、「東京国際ファンタスティック映画祭2004」へ足を運んで見てはいかがだろうか。

「東京国際ファンタスティック映画祭2004」
http://tokyofanta.com/2004/

「渋谷東急文化会館上映作品の歴史」/(株)東急レクリエーション
http://www.tokyu-rec.co.jp/eizou/history.html

「渋谷パンテオン」/港町キネマ通り
http://www.cinema-st.com/road/r021.html
2004年9月1日に発売になった「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の初版は290万部だそうである。(上下巻なので実際は290万セット)

8月1日付の日本の人口は「人口推計月報」によると1億2,758万人、そのうち10〜59歳までの人口は8,250万人である。
仮に「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の購買層が10〜59歳までだとすると、10〜59歳の人100人に3.5セット分の「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」が存在することになる。

因みに2002年10月に出版された「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(初版230万部/初版6刷までで350万部に達した)は、半年後の2003年3月の時点で、35〜70万部の捌ききれない不良在庫が全国の書店にあったらしい。
 
 
ところで、書籍や雑誌の販売は一般的に委託販売である。

簡単に言うと、出版社が書籍や雑誌を製作し、全国の一般書店の店頭に置かせてもらっている、という訳である。
従って、書店は売れ残った書籍や雑誌を出版社に返品する事が出来、書店は書籍や雑誌が売れ残る(損失が出る)というリスクを負わなくて良いシステムになっているのだ。

しかし、人気のある書籍や実績のある出版社、人気作家の書籍や話題作の中には、買取で販売される書籍や雑誌もある訳で、「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」もご多分に洩れず買取制度を利用しているのだ。

つまり「ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団」の売れ残りのリスクは全国の一般書店が負う、と言うシステムになっているのだ。

従って、前述のように35〜70万部もの「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の不良在庫を抱えたのは、出版社である静山社ではなく、全国の一般書店であった、と言うことなのである。

そして、再販制度と言うしばりがある以上、書籍の販売価格を下げる事が出来ない一般書店は「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」の不良在庫を抱え、新品のまま古本屋に持ち込んだり、仕方が無いので学校の図書館に寄付したり、はたまた不良在庫として死蔵したり、と言うことが一般的に行われていたらしい。
 
 
ところで、静山社は、1979年の設立以来、地道な出版活動を続けてる小さな出版社だったのだが、1999年の「ハリー・ポッターと賢者の石」以来、静山社を取り巻く環境は一変する。
何しろ、静山社はメディアに取り上げられるような書籍など、全くと言って良いほど出版した事のない弱小出版社だったのである。

事実「ハリー・ポッターと賢者の石」以前に静山社が出版した書籍をわたしは知らなかったし、あろうことか静山社という名前すら知らなかったのである。
おそらく、大多数の人達も、このような状況だったに違いない。

そして「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」を買取で販売した際は、「無名の弱小出版社がたまたまベストセラーを出したからって、買取で書籍を販売するような殿様商売をしやがって、一体お前は何様のつもりだ!」等の感情的な反発も多々あったようである。

実際、わたしには大ベストセラー本の版権を持つ出版社が、リスクを弱小書店に負わせる買取制度を利用して、続々と大ベストセラー書籍を出版する理由がよくわからないのだ。

わたしには、たまたま強者になってしまった者(静山社)が、かつて自分がそうであったような弱者(一般書店)にリスクを負わせる、という構図が、メディアに登場する静山社の現代表者兼翻訳者の松岡佑子の言動と逆方向のベクトルを持っているように見えるのだ。

世界の子供たちに良質の書籍を提供する事を目的としている松岡佑子のスタンスと、買取制度の間に一体何が存在するのだろうか。

「ベストセラー本と図書館の死」
http://diarynote.jp/d/29346/20040628.html

《NHK「クローズアップ現代」に対する図書館の見解》
http://www.city.machida.tokyo.jp/new/03new0201_05.html

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各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。

そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
 
 
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html

2.ユーモアの欠如
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html

3.成長しない登場人物

 「スチームボーイ」 の予告編を観たわたしが最初に思い描いたのは、「スチーム・ボールと言う言わば悪魔の発明品を、複数の組織や個人が奪い合い、その渦中においてレイとスカーレットが様々な経験をし、ある種の通過儀礼を経て、その結果それぞれがそれぞれ成長する」というものだった。
 仮に「スチームボーイ」が一般の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」だとすると、「物語内で語られる何らかの契機により主人公が成長する」と言うプロットは、必要不可欠な要因だ、と言っても良いだろう。事実多くのヒーローを描いた物語は、ヒーローの通過儀礼と共にヒーローの誕生と活躍を描いている。

 しかし、この「スチームボーイ」においては、その論理は成立しないのである。何しろ、レイやスカーレットは物語の「中」では成長しないのである。

 レイは「おじいちゃんが発明したスチーム・ボールを戦争なんかには使わせない」と孤軍奮闘する中で、様々な人々と出会い、様々な人の考えに触れ、いろいろな経験をするのだが、レイの人生の転機となる強烈な事象には遭遇していないし、イニシエーションも体験していないし、特段成長したような描写もないのだ。

 一方スカーレットはスカーレットで、オハラ財団で学んでいるだろうオハラ財団の「帝王学」の行動原理に貫かれた行動を取り続けているのだ。
 例えば、イギリスとオハラ財団の戦争が始まれば、サイモンに「負けちゃダメよ」と釘を刺すし、蒸気で動く兵士の甲冑の中に人が入っているのを見ても「人が入っているじゃないの」と、一応は驚くのだが、その後の彼女の行動に変化が表れたようには見えない。

 しかし多くの物語では、例えばルーク・スカイウォーカーだって、萩野千尋だって、ピーター・パーカーだって、不動明だって、ある種の通過儀礼を経て、何らかの成長を遂げ、ヒーローになっている訳なのだ。

 そう考えた場合、見えてくるのは、この「スチームボーイ」という作品は、登場人物が「本編中」では成長しない、斬新な構成を持った物語だと言えるのだ。

 とは、言うものの、世の中には登場人物が成長しない物語はいくらでもある。物語の中で「登場人物の周りでは、いろいろなことがあったが、結局は一回りして元通り」と言う構成を持った物語である。
 例えば「ジョゼと虎と魚たち」のジョゼは成長しないキャラクターとして、−−普遍的で超然的な達観した存在として--、描かれているし、「69 sixty nine」のケンとアダマはある意味成長を拒絶した永遠の存在として描かれている。これは押井守の「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」にも通じる。

 そうなのだ、成長しないキャラクターを描く際、そのキャラクターは普遍的で超然的で神格化された存在として描かざるを得ないのである。
 しかし、「スチームボーイ」はどうだろう。レイにしろスカーレットにしろ、そのような超絶的で達観したキャラクターとして描かれているだろうか・・・・。

 そう、賢明な読者諸氏は既にお気付きの事と思うが、「本編中」では通過儀礼もないし、成長もしないレイとスカーレットだが、実際のところはなんと「スチームボーイ」の物語が終わってから見事に成長しているのだ。(次回「ヒーローの誕生」に続く・・・・)

4.ヒーローの誕生
 
 
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
「スチームボーイ」を弁護する その2
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html

「SURVIVE STYLE5+」

2004年9月10日 映画
2004/09/10 東宝本社試写室で行われた「SURVIVE STYLE5+」のティーチ・イン試写会に参加した。

 ティーチ・インのゲストは、監督の関口現、企画・原案・脚本の多田琢、キャストのJAI WEST。
 
 
1.殺しても殺しても、なぜかより凶暴になって蘇ってくる妻(橋本麗香)。その妻を殺し続けようとする男・石垣(浅野忠信)。

2.観客に催眠術をかけたまま殺し屋に殺されてしまう人気催眠術師・青山(阿部寛)。その青山の恋人CMプランナー・洋子(小泉今日子)。

3.ショーのステージで催眠術をかけられてしまい、自分を鳥だと思い込んで暮らす小林(岸部一徳)。その姿に戸惑う妻(麻生祐未)と子供たち(長女/貫地谷しほり、長男/神木隆之介)。

4.空き巣をして生活する津田(津田寛治)と森下(森下能幸)とJ(JAI WEST)の3人組。

5.いつも同時通訳(荒川良々)を連れて行動する、ロンドンからやってきた殺し屋(ヴィニー・ジョーンズ)。

 交わるはずのない彼らの運命が時に複雑に、時に微妙に絡み合い、物語は思いもよらないクライマックスを迎える・・・。
(オフィシャル・サイトからほぼ引用)
 
 
 今年の秋、一番オススメの邦画である。
 本作「SURVIVE STYLE5+」は、所謂邦画の枠を飛び越えた、一流の娯楽作品に仕上がった意欲作なのだ。

 正直なところわたしは、本作「SURVIVE STYLE5+」は、CMプランナーとCMディレクターのコンビが製作した映画だと知り「どうせひとりよがりのマスターベーション映画だろう」とか「スタイルだけでどうせ中身がないんだろう」と言うマイナスイメージの先入観を持っていた。
 そしてティーチ・インの場所でも一映画ファンとして、辛辣な意見で攻撃でもしてやろうかな、と思っていた訳である。
 しかし、その目論見は見事に外れ、そのティーチ・インの会場には「SURVIVE STYLE5+」に感動し絶賛してしまっているわたしがいた訳なのである。

 皆さんご承知のように、世の中には、CF(CM)業界やPV業界で評価され、その評価を足がかりに映画業界に進出するクリエイターが少なくない。
 例えばリドリー・スコットや大林宣彦はCF畑出身だし、最近では宇多田ヒカルの夫・紀里谷和明はPV業界での名声を足がかりにして「CASSHERN」を監督したのは記憶に新しい。

 そして、わたしが「SURVIVE STYLE5+」にマイナス・イメージの先入観を持ってしまったのは、勿論、紀里谷和明の「CASSHERN」の失敗が念頭にあった訳なのだ。

 しかし、関口現と多田琢コンビは違っていた。
 勿論、CFあがりという事もあり、美術や衣装、セットやプロップから構築される世界観は素晴らしく、撮影もシンメトリーな構図を生かした印象的なモノであり、スタイルや世界観は思ったとおりのクオリティを持っていた。
 が、「SURVIVE STYLE5+」はそれだけ、−−映像スタイルやビジュアル・イメージだけ−−、ではなかったのだ。

 何しろ脚本が素晴らしい。
 勿論脚本の根底には所謂グランド・ホテル形式が顔を出し、グランド・ホテル形式の傑作「マグノリア」の影は否めない。
 しかし、5本の並行する物語がいちいち面白く、セリフだけではなく観客の読解力を信頼した心象描写を期待する方向性を持った脚本に仕上がっているのだ。

 そして、それをビジュアル化する演出力は、まあ、あたりまえと言えばあたりまえなのだが、CFあがりのクリエイターが持つ、観客への訴求力、−−何を観客に訴え、何を感じさせ、何を観客にさせたいのか、−−が明確に感じられるのだ。このあたりはCFの仕事柄から派生したテクニック感は否めないが、訴求力が明確ではなく、スタイルのみを求めるPVあがりの監督とは一線を画しているのではないだろうか。

 更に共感を覚えたのは、関口現は映画研究会出身であり、映画を愛する一映画ファンだった、と言うことである。
 そして、本作「SURVIVE STYLE5+」は様々な映像作家へのオマージュと言うか、リスペクトと言うか、引用に満ちている。
 その映像作家へのリスペクトの矛先は、スタンリー・キューブリック、ビンセント・ギャロ、ホール・トーマン・アンダーソン、マイク・マイヤーズにはじまり、市川崑や森田芳光に至るのを見るにあたっては、監督である関口現の映画に対する愛情が、付け焼刃的なものではなく、関口現の根源的なものである、と言うことが見て取れるのだ。
 尤も、様々な映像作家の映像スタイルの引用が、果たして作品の演出上良いことなのかどうかは、諸意見あるところだと思うが、わたしは関口現の映画に対する愛情を評価し「SURVIVE STYLE5+」に対し好意的な考えを持った訳なのだ。

 キャストは、浅野忠信にしろ、橋本麗香にしろ、小泉今日子にしろ、阿部寛にしろ、岸部一徳にしろ、麻生祐未にしろ、津田寛治にしろ、森下能幸にしろ、Jai WESTにしろ、荒川良々にしろ、ヴィニー・ジョーンズにしろ全て素晴らしい。

 その中でも最近出ずっぱりの感が否めないが、岸部一徳が素晴らしい。「SURVIVE STYLE5+」の成功は岸部一徳のおかげと言っても過言ではないだろう。こんな素敵なキャラクターを飄々と演じる岸部一徳に感涙ものなのだ。

 また、小泉今日子についてだが、彼女の役柄は若干コミカルなものなのだが、演技はコメディではなく、普通の映画の演技スタイルに近く普通に感動できる演技を見せてくれている。これは相米慎二の遺作「風花」にも通じる素晴らしいものがある。特にタクシーから降りて走るシーンは素晴らしいみずみずしさに満ちている。

 そして荒川良々だが、構築された世界観も相まって素晴らしい印象を観客に与えている。最近引っ張りだこ状態の荒川良々だが、「SURVIVE STYLE5+」は彼にとって、ひとつの代表作になるのではないだろうか。

 あとは、津田寛治、森下能幸、Jai WESTの空き巣トリオが最高に素晴らしい。特に森下能幸とJai WESTのコンビは秀逸である。役柄としては、彼等は本作「SURVIVE STYLE5+」のコメディ・リリーフを担当し、5本のエピソードの中では息抜き部分、−−箸休め的シークエンス−−、となっている訳だが、「お笑い」や「箸休め」ではなく、「何か/サムシング」の存在を感じさせる素晴らしいシークエンスに仕上がっている。
 
 
 つらつらと、硬い事を言っているが、この作品は誰でも素直に楽しめる素晴らしい娯楽作品である。
 何も考えずに素直に楽しんで欲しい一本なのだ。
 日本映画に失望するのは、まだ早いのだ。

前略、関口現さま/公開ファンレター(「SURVIVE STYLE5+」)
http://diarynote.jp/d/29346/20040923.html

「ヴィレッジ」

2004年9月11日 映画
2004/09/11 東京有楽町「日劇3」で、M・ナイト・シャマランの新作「ヴィレッジ」を観た。

 年間300本以上の映画を観るわたしだが、こんなに素敵な美しい映画を観たのは本当に久しぶりのことだった。
 
 
 先ず、何と言っても脚本が美しい。
 そして、脚本がただ単に美しいだけではなく、プロットと伏線が的確で完成度が驚異的に高いのだ。

 この殺伐とした世の中で、こんな美しい素敵な脚本が書かれ、それに出資する人たちがいて、映画化する人たちがいる。そして、そんな映画に客が入り、その映画を愛する人たちがいる。
 まだまだ人間も捨てたものでは無いな、と思う瞬間である。
 
 
 そして本作「ヴィレッジ」は、サスペンス・ホラーなどではなく、最もピュアなラヴ・ストーリーなのである。
 そして、そのピュアでイノセンスな物語が観客に与える感動は、観客を動かし、観客に浸透する何らかの力を持っているのだ。

 このカタルシスは最近では「ビッグ・フィッシュ」にも似た印象を感じる。
 
 
 1897年、ペンシルヴェニア州。
 その村は深い森に囲まれ、まるで絶海の孤島のように外の世界から完全に隔絶されていた。
 人口60人ほどのこの小さな村で、人々は互いに助け合いながら自給自足の生活を営んでいる。それはまるで家族のような強い絆で結ばれた、理想のユートピアだった。
 だが、このユートピアを守るために、村人たちは不可解な「掟」を遵守することが義務付けられていた。

監督・脚本:M・ナイト・シャマラン
出演:ブライス・ダラス・ハワード(アイヴィー・エリベザス・ウォーカー)、ホアキン・フェニックス(ルシアス・ハント)、エイドリアン・ブロディ(ノア・パーシー)、ウィリアム・ハート(エドワード・ウォーカー)、シガーニー・ウィーヴァー(アリス・ハント)、ブレンダン・グリーソン(オーガスト・ニコルソン)
 
 
 M・ナイト・シャマランの作品には「サプライズ」がある。
 そして凡百の観客はその「サプライズ」の成否で、作品の評価を行う訳である。
 おそらくこれは、配給会社の戦略的公告の弊害だと言えると思うのだが、多くの観客は、その「サプライズ」=「オチ」しか見ていないのである。これは悲しむべきことだと思うのだ。
 本作「ヴィレッジ」は、その「サプライズ」の根底にある部分を理解して欲しいし、何故彼等が「サプライズ」的な行動を取ることになったのか、その理由をしっかりと考えて欲しいのだ。
 その上で、アイヴィーが取った行動を、その行動の目的を、そしてその行動を取ることになる単純なそれでいて説得力のある理由を、ピュアでイノセンスな行動原理を理解して欲しいのだ。

 そして、あの最後のセリフ、エンド・クレジットが始まる寸前のカットを見て欲しいのだ。

 そして感じて欲しい、あぁ、何と素晴らしいピュアでイノセンスな「ラヴ・ストーリー」だったなぁ、と。
 それでいて、普遍的で童話的な素敵な物語だったなぁ、と。
 
 
 前述の理由から、本作「ヴィレッジ」は、賛否両論、下手をすると多くの観客からは酷評される可能性が高いかも知れないが、サスペンス・ホラーではなく、ラヴ・ストーリーだと思って本作を楽しんで欲しいのだ。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

 キャストについてだが、先ずウィリアム・ハート(エドワード・ウォーカー)は「A.I.」のホビー教授に役柄がダブるが、論理的な村のリーダー役と、感情的な娘の親という複数の側面を持ったキャラクターを好演している。出番は少ないが、強烈な個性を観客に残している。
 特に、過去のセリフをナレーション的に語るシークエンスが感動的である。

 ホアキン・フェニックス(ルシアス・ハント)は、村の進歩的な考えを担う、木訥な好人物役を好演している。
 ピュアで不器用な恋愛表現が、おかしくも悲しい。
 そして、その不器用な恋愛表現は、勿論ウィリアム・ハートの論理的ではありながら不器用な恋愛表現と対比されている。
 これは、逆にブライス・ダラス・ハワード(アイヴィー・エリベザス・ウォーカー)と、シガーニー・ウィーヴァー(アリス・ハント)が分析する彼等の恋愛表現も面白いのだ。

 そして、ブライス・ダラス・ハワード(アイヴィー・エリベザス・ウォーカー)だが、彼女のピュアな一途さが、この映画の全てである、と言っても良いだろう。
 不幸な出来事の中で、まっすぐに行動する彼女の潔さが美しくも格好良い。彼女の一途でピュアな行動が、われわれ観客にピュアな灯りを点すのだ。余談だがハワード一家の一員として今後に期待の女優なのだ。

 そして、エイドリアン・ブロディ(ノア・パーシー)も素晴らしい印象を観客に与えている。前作である「戦場のピアニスト」とは異なる意欲的な役を好演している、と言えるだろう。あらたな側面の開花と言うことであろうか、今後の活躍に期待なのだ。

 あと特筆すべき点は、見事な世界観を構築している美術だろう。 「サプライズ」の伏線となる様々な小さな目配せも楽しいのだ。

 目配せといえば、M・ナイト・シャマランが演じた人物の組織の名称も見逃してはいけない点だろう。 

☆☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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 TOYOTA VOXYのCF(CM)のキャラクターが、トータス松本から反町隆史に変わり、変更後第一弾のCFが、この「BUBBLE GUM篇」で、撮影はドイツの会社が行い、ロケ地はハンブルグ(ドイツ)、監督はアムステルダム出身のドイツ人。
 しかしおそらく企画は日本の広告代理店が行っているのだと思うのだ。

 因みにこのCFの放映頻度は比較的高めなので、既に皆さんも一度くらいはご覧になっていることと思う。

 このCFのコピーは「僕には、キミをカッコよくする義務がある」というもので、出演は前述の反町隆史が父親役を演じ息子役の田島健吾と絡んでいる。

 で、わたしが思ったのは、このCFの企画があがったのは、トータス松本がVOXYのキャラクターだった時代で、キャラクターが反町隆史に変更になったのに、そのままのコンセプトで反町隆史を起用しCFを作ってしまったのではないか、と言う事である。
 
 
 先ず考えなければならないのは、このCFのコピー「僕には、キミをカッコよくする義務がある」は、父親の息子に対する心情である、ということだろう。

 そしてこのコピーは私見だが、父親が3枚目(2.5枚目)キャラの場合にきまるコピーであり、2枚目キャラにこのコピーをあてると、嫌味な奴か勘違い野郎に見えてしまい、世の男性諸氏に反感を買ってしまう可能性が高いとわたしは思うのである。

 更に演出的にも反町隆史が演じる格好良い父親像が、とんでもない勘違い野郎に見えてしまうのである。

 足を組み、自動車に寄りかかり、腕を組み、風船ガムを膨らませる。
 わたしには、そのスタイルが、格好良いと思い込んでいるバカな父親に見えてしまうのである。
 これは演出サイドのミスであり怠惰ではないだろうか。

 しかしながら、これをトータス松本が演じたらどうだろう、ダサ格好良い父親がちょっとだけ無理をしている感じを出せれば、万人に好かれる良いCFになったのではないか、と思うのだ。
 あとは三谷幸喜あたりが父親役を演じても、嫌味の無い良いCFになったのではないか、と思う訳だ。

 つまり、わたしはこのCFは、俳優が持つ従来のイメージを掴みきれなかった製作会社(ドイツのスタッフ)のミスが色濃く出てしまったのではないか、と思う訳なのだ。

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2004/09/23発売のDVDボックスセット「スター・ウォーズ トリロジー」に新映像が収録されている事が発表された。

http://www.nikkansports.com/ns/entertainment/p-et-tp0-040915-0004.html

以前から、「スター・ウォーズ」旧三部作のDVD化に向けて、そんな噂はチラホラ出ていたのだが、各方面から漏れ聞く情報によると、本格的に映像の修正が行われているようである。

その辺については、現在いろいろなサイトで比較画像が公開されはじめているのだが、その中で、比較的見やすいサイトを紹介しよう。

http://www.thedigitalbits.com/reviews3/starwarschanges.html

ところで、「スター・ウォーズ」という作品は、ジョージ・ルーカスの手により、公開後度ある毎にいろいろな部分に改変が加えられているのである。

例えば、公開時にはなかった「エピソードIV」の副題(”THE NEW HOPE”)が後日(日本語版公開時だったか、リバイバル時だったか記憶は定かではない)付いたり、「エピソードVI」の副題がギリギリまで”REVENGE OF THE JEDI”だったため、邦題は「ジェダイの復讐」になってしまったり、ご承知のように、旧三部作の様々な部分を修正した旧三部作「特別篇」(1997)が製作され劇場公開されたりしていた訳である。
(なお、今回のDVDから、「エピソードVI」の副題は「ジェダイの帰還」に変更になる。原題は”RETURN OF THE JEDI”。因みに、「ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還」の原題は”RETURN OF THE KING”である)

またソフト的にも「オリジナル版」、画質音質を向上させた「THX版」、シリーズとしての不具合を修正し1997年に公開された「特別篇」、そして今回の「DVD版」の4種類が存在する訳だ。

そしてルーカスは「スター・ウォーズ」を改変した場合、それ以前のバージョンを認めない、という営業戦略を取っており、おそらく今回の「DVD版」の発売に伴い、かつてのバージョンはオフィシャルな場では二度と見ることが出来なくなる、と考えられているのである。

そう考えた場合、今回の改変は、従来の「スター・ウォーズ」ファンにとって、良い事なのか、悪い事なのか、何とも釈然としないのだ。

さて、それではその辺の事情を考えつつ、先ほどのサイトを見てみよう。
 
 
ジャバの顔や皇帝の顔が格好よくなったり、残されていた英語表記がなくなったりするのは良いとして、アナキンの眉毛がなくなったり、半透明のアナキンがヘイデン・クリステンセンになってるのは、一体どういうことなのだ!
だったらサー・アレック・ギネスも引っ込めろ!
(誤解なきよう、本来はクリステンセンを引っ込めろ!の意味です)

もしかしたら、今回の「DVD版スター・ウォーズ」は、従来の「スター・ウォーズ」(1977)とは別物の作品になってしまったのではないだろうか?
1.「DAWN OF THE DEAD / ULTIMATE EDITION」北米版
 最近日本国内でも「ゾンビ 米国劇場公開版」がリリースされたり、「バイオ・ハザードII アポカリプス」が日米で興収第1位を取ったりして話題の「ゾンビ」だが、わたしが購入したのは、「DISC ONE - U.S. THEATRICAL VERSION」「DISC TWO - EXTENDED VERSION」「DISC THREE - EUROPEAN VERSION」と「DISC FOUR - DOCUMENTARIES」の4枚組のBOXなのだ。

 本編が面白い事は最初からわかっている訳だが、何と言っても4枚目のドキュメンタリーが興味深い。特に「ゾンビ」のロケ地となったショッピング・センターのツアーが楽しい。セットではなく、ロケで製作された作品の舞台を違う視点から見る事が出来る楽しい企画なのだ。

 そして、本編を見るといかに「ゾンビ」という映画が優れた作品だったのか、という事に今更ながらに気付かされる。
 「28日後・・・」も「バイオ・ハザード」シリーズも、リメイク版の「ドーン・オブ・ザ・デッド」もまあまあ面白いのだけど、「ゾンビ」には到底及ばない。
 「ゾンビ」が作品として神格化されてしまっているせいとは異なり、ただ見ているだけでも最高に面白いのだ。
 
 
2.「オールド・ボーイ」韓国版
 先日試写で「オールド・ボーイ」を観て、あまりにも素晴らしかったので、韓国版DVDに手を出してしまった。

 とは言うものの、残念ながらわたしは韓国語のヒアリングは出来ないのだが、このDVDには英語字幕が付いているので、問題なく楽しめるのだ。

 これで細かい伏線やプロット、気になっていた微妙なカットや伏線が確認できるのだ。
 
 
3.「燃えよドラゴン」国内版
 3回目くらいのDVD化だが、今回はメイキングやドキュメンタリーにインタビュー等秘蔵映像満載(特典映像だけで262分もあるのだ)の素晴らしいDVDなのだ。

 本編も言わずと知れた大傑作である。「スター・ウォーズ」にも影響を与えたと言う伝説すらある作品なのだ。

 ”Don’t think Feeeeeeeel.”なのだし、
 ”May the Jeet Kune Do be with you.”だったりするのだ。
 
 
 
「ドーン・オブ・ザ・デッド」
http://diarynote.jp/d/29346/20040611.html
「バイオハザードII アポカリプス」
http://diarynote.jp/d/29346/20040823.html
「オールド・ボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040902.html

「アラモ」

2004年9月17日 映画
2004/09/17 東京新宿 東京厚生年金会館で行われた「アラモ」の特別試写会に行ってきた。
トーク・ショーのゲストは演出家のテリー伊藤。

1836年春、テキサス、サン・アントニオ。
古い教会や修道院を十数門の大砲により要塞化したアラモ砦。

テキサス州議会との意見の相違からテキサス軍司令長官の位を剥奪されたサム・ヒューストン将軍(デニス・クエイド)は、サン・アントニオに赴く義勇兵のジム・ボウイ(ジェイソン・パトリック)に忠告する。

「アラモ砦には決して立て篭もるな。広く開けた戦場で戦わなければ負ける。アラモ砦を破壊して大砲を持ち帰ってくれ」

しかし今は亡きメキシコ人妻との思い出の地であるアラモ砦を破壊することはジム・ボウイには出来ない相談だった。

一方、アラモ砦の守備隊長の任に就いたウィリアム・トラヴィス中佐(パトリック・ウィルソン)もアラモ砦に到着するが、若すぎる上に規律に厳しい彼は、皆から冷笑で迎えられる。リーダーとして民兵の信頼を得ているのは明らかにジム・ボウイだった。

更に、伝説的な英雄デイヴィ・クロケット(ビリー・ボブ・ソーントン)の一団がテネシーからやって来た。伝説の英雄がテキサスに味方した事を喜ぶ兵士達。だが、クロケットには、かつてヒューストンから打ち明けられたテキサス共和国建設の夢に、政治的野心を持っていたのである。

敗退したばかりのメキシコ軍が冬山を越えて襲来することはない、との予想を裏切り、西のナポレオンを公言するサンタ・アナ将軍(エミリオ・エチェバリア)自ら率いるメキシコの大軍は、既に北進を開始し、アラモ砦に迫っていた。

監督にテキサス出身のジョン・リー・ハンコック。
出演は、デニス・クエイド、ビリー・ボブ・ソーントン、ジェイソン・パトリック、ジョルディ・モリャ、パトリック・ウィルソン、エミリオ・エチェバリア、レオン・リッピー、トム・デヴィッドソン、マーク・ブルカス、W・アール・ブラウン。
 
 
 「アラモ」と言えば、ご承知のように強いアメリカの象徴であるジョン・ウェインが監督・製作・主演した「アラモ」(1960)があまりにも有名だが、911の同時多発テロ後のこの時期、テキサス出身のジョン・リー・ハンコックがメガホンを取り「アラモ」の物語を再映画化した訳である。

 ところで、日本人にとって「アラモ」の物語は特に思い入れもないし、おそらくデイヴィ・クロケットが実在の人物だった事も知らない人が多いと思うのだが、アメリカ人に取って「アラモ」の物語は特別なもので、「リメンバー・パールハーバー」という言葉のモトネタである「リメンバー・ジ・アラモ」が生まれた出来事でもあり、日本で言うと例えば「忠臣蔵」や「白虎隊」のような位置にある物語だと思うのだ。

 そんな中で、史実に基づいた「アラモ」を観た訳だが、私見では、娯楽作品としてはちと厳しいのではないか、客は入らないのではないか、という印象を受けた。
 尤も本作「アラモ」は物語としては面白いし、個性的な俳優の演技合戦も楽しい。脚本も粋で、キャラクターの描写も的確である。美術や衣裳も素晴らしい仕事をしているし、戦闘シーンもそれなりに楽しめる。
 しかし日本人にはこの物語を楽しむ背景が欠如しているのではないか、と思ったのだ。

 また物語の性格上仕方がない事なのだが、女優がほとんど出てこないのである。
 そして俳優は髭面で髪ボーボーでむさ苦しく、みんな砦で野宿しており、風呂など1ケ月くらいは併記で使っていない様子なのである。
 個性的で演技派的な俳優を起用しているのであるが、地味で女性客の獲得にはいたらないのではないだろうか。

 とは言うものの、俳優の皆さんの演技合戦は見ものである。

 先ずは、独裁者サンタ・アナ将軍を演じたエミリオ・エチェバリアであるが、憎々しいキャラクターをこれでもか、と言う位憎々しげに演じており、強烈な印象を観客に与えている。

 主演のサム・ヒューストン将軍を演じたデニス・クエイドは、髭面が「X−メン」のヒュー・ジャックマンにも見えてしまうのだが、最後に美味しいところを持っていってしまう良い役を演じている。

 また、同じく主演のデイヴィ・クロケットを演じたビリー・ボブ・ソーントンも素晴らしかった。正に西部の英雄を実在感を込めて演じており、ここ1〜2年の作品の中では最高ではないだろうか。わたし的にはアライグマの帽子を期待していたのだが、それは果たされなかった。(ジョークのネタにはなっていたが)

 余談だが、エンド・クレジットのカードで、デニス・クエイドとビリー・ボブ・ソーントンが同じカードで並んでクレジットされていたのには驚いた。
(デニス・クエイドが左で、ビリー・ボブ・ソーントンが右で、デニス・クエイドより若干上にクレジットされていた)
 これは「タワーリング・インフェルノ」のスティーヴ・マックィーンとポール・ニューマンのクレジットを髣髴とさせていた。
  
 ナイフ使いのジム・ボウイを演じたジェイソン・パトリックは良いのは良いのだが、寝ているシーンが多く残念である。ナイフの技をもっと見たかったのだ。

 あとは何と言っても、ホワン・ゼギン役のジョルディ・モリャが最高である。おそらく観客の心を鷲掴みにしてしまう正義感溢れるキャラクター設定ではないだろうか。

 そして、ウィリアム・トラヴィス中佐を演じたパトリック・ウィルソンだが、人望の無い司令官が成長し逞しくなっていく役柄を見事に演じている。今後に期待の俳優である。

 また美術と衣裳は素晴らしい仕事をしており、世界観の構築に貢献していた。
 撮影もそれに劣らず素晴らしい画を切り取っており、大西部の広さと厳しさを描写していた。

 とにかく本作「アラモ」は、残念ながら客はあまり入らないと思うのだが、男臭い映画を見たければ、この秋オススメの一本である。
 西部劇ファンにも勿論オススメなのだ。

=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=

 余談だが、今回の特別試写会はウエスタン・ファッションで来場すると、何かプレゼントをもらえることになっていたため、ウエスタン調の人がところどころにいたのだが、前から5列目位に気合が入ったウエスタンファンがいた。
 おそらく60歳前後だと思うその人は、ウエスタン・ファッションに身を固め、ガンベルトにモデルガンまでささっていたのである。

「ヘルボーイ」

2004年9月22日 映画
2004/09/13 東京有楽町よみうりホールで「ヘルボーイ」の試写を観た。

第2次大戦末期、スコットランドのトランダム大修道院跡。
妖僧ラスプーチン(カレル・ローデン)は、オカルト結社トゥーレ協会会長カール・クロエネン(ラディスラフ・ベラン)、女将校イルザ(ブリジット・ホドソン)らナチスの小隊と共に「ラグナロク計画」を実行に移そうとしていた。

「ラグナロク計画」とは、独自に開発されたヘル=ホール発生機により、異界の門を開き混沌の7体の神オグドル・ヤハドを召喚しようとする計画。

ラスプーチンが異界の門を開き、オグドル・ヤハドを召喚しようとした瞬間、急襲したアメリカ軍部隊はその計画を阻止、ラスプーチンは異界に呑み込まれ、こちらの世界には真っ赤な小猿のような生き物が残された。

この事件の功労者、超常現象学者ブルーム教授(ジョン・ハート)は、フランクリン・ルーズベルト大統領に認可され、BPRD(超常現象調査/防衛局)を極秘に設立。
「ヘルボーイ」と名づけられた小猿のような生き物は、教授を父と慕い、トップ・エージェントとして極秘裏に魔物退治をすることになった。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督はギレルモ・デル・トロ
出演は ロン・パールマン(ヘルボーイ)、ジョン・ハート(ブルーム教授)、セルマ・ブレア(リズ・シャーマン)、ルパート・エヴァンス(ジョン・マイヤーズ捜査官)、カレル・ローデン(ラスプーチン)、ジェフリー・タンバー(マニング/ジョンの上司)、ラディスラフ・ベラン(クロエネン)、ブリジット・ホドソン(イルザ)、ダグ・ジョーン(エイブ・サピエン/半魚人)
 
 
 「ヘルボーイ」とは、影と色彩の魔術師と呼ばれるマイク・ミニョーラが生み出したダーク・ヒーローで、同名コミックも1990年代のアメリカン・コミックス界におけるエポック・メイキング的作品となった傑作であり、本作はそのコミックの映画化作品、と言う事になる。

 そして本作の物語は、異界の門からわれわれの世界に転げ落ちてきたヘルボーイや半魚人、パイロキネシス(念動発火)能力者らと、彼等が所属する極秘機関BPRD(超常現象調査/防衛局)が、モンスター絡みの超常現象を解決する連作シリーズの1エピソードという形式を持っており、本作で語られるのは、ヘルボーイの出自となるラスプーチンの「ラグナロク計画」の全貌、−−その発端から結末まで−−である。

 まず、印象に残ったのは、本作のヒーローであるヘルボーイは異界からわれわれの世界にたまたまやってきた所謂モンスターである、と言うところであろう。
 世の中には、人間の味方になった「良い」モンスターが、人間にとって「悪い」モンスターたちを次から次へと退治するような物語はいくつもあるが、本作「ヘルボーイ」はそんな物語のひとつである、と言えるだろう。
 例えば、最近公開された「ヴァン・ヘルシング」も同じ骨格を持った作品だと言えるし、「デビルマン」や「フランケンシュタイン」、広義の意味で考えると「ブレードランナー」なんかも同様の骨格を持った作品だと言えるかも知れない。

 そしてそれらの物語の背景には、ヒーローたるモンスターのアイデンティティの確立の描写が必須となってくる訳である。
 そのモンスターのアイデンティティの確立が上手く描写されている作品に、−−モンスターのモンスターたる所以による悲しみとそこからの脱却と浄化が描かれている作品に−−傑作が多いのではないだろうか。

 自分は果たして人間なのか、それともモンスターなのか。

 本作「ヘルボーイ」では、その辺りについては、ヘルボーイが人間の女性に恋をすることにより、モンスターの外見を持つ存在として、その女性に相応しくないのではないかと思い悩むヘルボーイが描写されている。
 世界を救うスーパーヒーローの個人的な悩みなのである。
 これはロン・パールマンの出世作であるテレビ・シリーズ「美女と野獣」にもつながるのだろう。
 しかし、ヘルボーイが恋する女性は人間か、と言うとそうでもなく、「キャリー」や「炎の少女チャーリー」のような怪物的能力を持った女性である点が非常にシニカルである。

 語弊はあるが、外見はともかく、内面をも考えると、彼らの恋はモンスター同士の恋だと言えると思うのだが、リズは外見ではなく内面をとらえ、ヘルボーイは内面ではなく外見をとらえ、外見を重要視している訳である。

 余談だが、パイロキネシス(念動発火能力)能力者リズ(セルマ・ブレア)のセリフに『「ファイアスターター」とは呼ばれたくない』という意味のセリフがあった。
 この「ファイアスターター」とは映画「炎の少女チャーリー」の原題で、宮部みゆきの「クロスファイア」に多大なる影響を与えたスティーヴン・キングの原作小説のタイトルである。

 こういったモンスターの悲哀とも言える背景を明確に描くことにより、本作「ヘルボーイ」は、一般の娯楽アクション大作と一線を画す作品に仕上がったような気がする。

 また、ヘルボーイの人格形成に大きな影響を与えているブルーム教授(ジョン・ハート)の存在も忘れてはならない。
 ブルーム教授とヘルボーイの関係は、愛情溢れる親子関係であり、フランケンシュタイン博士と彼が創造したモンスターの関係のメタファーとなっている。
 この辺はかつて、エイリアンを体内で育ててしまったジョン・ハートという役者を使う辺りが興味深いのではないだろうか、またヘルボーイのクリーチャーとしての見世物的側面を考えた場合、ジョン・ハートが演じた「エレファントマン」との対比も面白いのかもしれない。

 ブルーム教授とクロエネン(ラディスラフ・ベラン)が対峙するシークエンスで、教授自らがかけていた「We’ll meet again(また会いましょう)」も教授とヘルボーイの関係に感動を付与する効果的な使われ方をしている。
 余談だが、「We’ll meet again(また会いましょう)」はスタンリー・キューブリックの「博士の異常な愛情」のラストで素晴らしい使われ方をしている名曲である。

 クリーチャーやモンスターの造形は、ラブクラフトのクトゥルフ系と思われ、更にナチス・ドイツのオカルト主義的な背景や、ヒーローが所謂悪魔的な外見を持っているところが本作を印象深い作品に仕上げている。

 キャストは何と言ってもロン・パールマンだろう。ワンマンで強いヒーローでありながら、外見に悩む情けないヒーローを楽しげに演じている。これはロン・パールマンのルックスに因るところが大きいと思う。ロン・パールマンなくして「ヘルボーイ」の実写化は考えられないのだ。

 そしてジョン・ハートである。フランケンシュタインのモンスターを創造したフランケンシュタイン博士を髣髴とさせる、ヘルボーイへの愛情を色濃く反映させた素晴らしい父親像をクリエイトしている。

 脚本は、物語の根幹となる大掛かりなプロットは若干ありがちだが、世界観を構築するちいさなネタの数々が楽しい脚本になっている。
 
 観客を選ぶ作品かも知れないが、この秋是非劇場で観ていただきたい作品なのだ。
 個人的には「ヴァン・ヘルシング」を観るなら「ヘルボーイ」だな、と思う訳です。

☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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 前略、関口現さま

 はじめてお便り差し上げます。
 わたしは、先日東宝本社試写室で行われた「SURVIVE STYLE5+」のティーチ・イン試写会に参加したtkrと言う者です。
 「SURVIVE STYLE5+」と試写後に行われたティーチ・インの中で、関口現さまのお人柄に感じ入り、失礼とは思いましたが、お便り申し上げた次第でございます。

 さて、関口現さまと多田琢さまのCF業界における名声は勿論存じておりましたし、TVで放送されるお二人が製作された様々なCF作品を目にする機会も多く、そんなお二人が「SURVIVE STYLE5+」と言う作品で映画業界に殴りこみをかける、と言う事ですから一映画ファンとして大きな期待を持っていました。
 しかしその反面、一映画ファンとしましては、CF業界のクリエイターが映画を製作する、と言う事に対して否定的な思いがあった事も事実です。

「CFが評価されてるからって映画界を荒らすんじゃねえよ」
「どうせスタイルだけの独りよがりのマスターベーション映画じゃねえの」
 
 そして実際のところわたしは、ティーチ・インの場では「SURVIVE STYLE5+」とお二人に対して、厳しく辛辣な意見をぶつけ、泣かしてやろう、と言うような気持ちで参加したのです。
 
 そんな中、わたしは「SURVIVE STYLE5+」を体験した訳です。

 オープニング・クレジットは、最近ありがちのフラッシュ・アニメーション系のクレジットでした。最近では「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」や「69 sixty-nine」、「サンダーバード」でおなじみです。

 「なんだよ、またフラッシュかよ」と思いながらクレジットを観ていたのですが、わたしの記憶に何かが引っかかりました。それは丁度催眠術師青山を演じた阿部寛のクレジット部分でした。

 「おやっ、市川崑が入っているぞ!?」わたしは市川崑へのオマージュと思われるクレジットに愕然とし「もしかしたら、こいつら一味違うかもしれない」と思ったのです。
 一般的にわかりやすい映像作家へのリスペクトではなく、通好みの映像作家へのリスペクトらしきモノを見つけたわたしは、「もしかしたらこいつら映画莫迦なのかも知れない」わたし達に近いモノを持っている人かも知れない、と思った瞬間でした。

 本編が始まり、森のシーンから石垣(浅野忠信)が帰ってきます。その自動車のミラーにぶら下がるモノはかつての角川映画を彷彿とさせるものでした。
 そして、翌朝の朝食のシークエンスでは、石垣(浅野忠信)が食事する姿を横パンでとらえ、石垣(浅野忠信)はあろうことかコーヒーを一気飲みするのです。
 「あぁ、これは森田芳光の「家族ゲーム」だったのだ」だとすると石垣(浅野忠信)が着ている印象的なコートは松田優作のコートに対するオマージュなのか!?

 そして、青山(阿部寛)とCMプランナーの恋人洋子(小泉今日子)のシークエンスでは、モロにスタンリー・キューブリックの「シャイニング」への言及があります。しかもREDRUMの解説や、ダニーのモノマネまで阿部寛にやらせる徹底振りに驚かされてしまいます。

 さらにキューブリックへのオマージュは続き、勿論シンメトリーな構図は続くし、極めつけは空中から石垣(浅野忠信)の目前まで落ちてきた妻(橋本麗香)が石垣(浅野忠信)に殴りかかるシークエンスでは「時計じかけのオレンジ」のラストカットにかぶるベートーベンがかかった日には、映画的記憶と合わさった感動のあまり、文字通り身動きが取れなくなってしまいました。

 更に、小林(岸部一徳)一家の団欒のシーンでは、ヴィンセント・ギャロの「バッファロー’66」のカット割を再現し、動きが繋がったまま別のカットに変わる度合は「バッファロー’66」をはるかに凌ぎ、あれは一体どうやって撮ったのだろう、という疑問まで湧きました。

 また、本作自体がある意味「マグノリア」をはじめとする、「複数のエピソードを語りつつ、最後に1本のプロットで纏め上げる」と言う方式の作品であった事もあるのですが、ラストの出来事を見つめる洋子(小泉今日子)が乗るタクシーの窓にカエルのステッカーが貼られている所を見ると、「あぁ、やはりこれは「マグノリア」だったんだ」と観客に目配せを送るあたりは、なんとも粋な印象を受けました。

 そして、なんと言っても脚本が面白いのです。
 複数のエピソードをラストに1本のプロットに纏め上げる部分には、若干不満(見ているだけではなく、絡んで欲しかった)がありますが、それぞれのエピソードの脚本が素晴らしく、微に入り細に入り細かく演出されたディテイルが美術や衣裳と融和し素晴らしい世界観を構築しています。

 例えば、ロケットパンチや火を吹く理由が前のシークエンスで明確に描写されていたり、神木隆之介が描いた図画やセリフが非常に良い感動的な伏線になっていたり、しつこいまでの森下(森下能幸)とJ(JAI WEST)のズームアップ、荒川良々の衣裳や事務所の写真のディテイル、細かいプロットや伏線を挙げていくとキリがありません。

 そういった脚本の冴えと演出の冴え、俳優の演技、美術と相まって、本作「SURVIVE STYLE5+」は邦画の枠を飛び越えた、素晴らしい娯楽作品に昇華しているのだと思います。

 映画上映後のティーチ・インでも、関口現さまが大学時代映画研究会に属していたことを知り、様々なお話の中から「あぁ、この人は愛すべき映画莫迦だったのだ」と思い、

「どうせスタイルだけの独りよがりのマスターベーション映画じゃねえの」

と思っていた元映画研究会員でもあるわたしは、そんな先入観に恥じ入る始末でございました。

 そしてわたしの中には、ティーチ・インの後、出来れば関口現さまをつかまえて、キューブリックや森田芳光、そして彼らの映画について語り明かしたい、という欲求がふつふつと沸いてきましたが、初対面でそんな失礼な事も出来ないと重い、今回この公開ファンレターと言う形でわたしの気持ちをお知らせした次第なのです。

 監督とファン、と言う図式ではなく、ただの映画好きとしてお話したいと思った次第でございます。
 と言う訳なので、お返事お待ちしています。

                                      草々

 
 ところで殺し屋(ヴィニー・ジョーンズ)が何度も何度も発する質問はアイザック・アシモフの「黒後家蜘蛛の会」に対する言及でしょうか。
 

「SURVIVE STYLE5+」
http://diarynote.jp/d/29346/20040910.html
2004/08/23-26 新潟県南魚沼郡湯沢町「苗場プリンスホテル・スキー場」で行われた「2004 Naeba MTB FESTA The 23rd MAZDA CUP」に参加しました。

今回参戦したレースは25日に行われた「OGK4時間チームエンデューロ」。チーム総勢13.5名の我々は、3チームで参戦、結果は総合で最高20位くらいだったようです。(昨年は女性チームのカテゴリーで2位入賞、一昨年は3位入賞でした。男性は選手層が多く入賞は非常に困難です)

この「OGK4時間チームエンデューロ」は、1人から4人までチームを組み、苗場プリンスホテル・スキー場に設営された周回コースを4時間の間、チームのメンバーが順番に走り、周回数を競うレース。

コース・レイアウトは全長3300m、標高差38m、登り最大斜度8.0%、下り最大斜度45.5%、コース面は草地あり、ダートあり、泥あり、ウッドチップあり、ガレ(尖った小石の道)ありのパラエティに富んだ路面で楽しめるコースでした。

特に、ガレ、ダート、木の根が混在するシングルトラック(自転車1台ほどの細いコース)は、尖った大きな石の間や、木の根の脇の非常にタイトな(幅10cm以下)コースを走らなければならない区間が多く、テクニカルで楽しいものでした。

逆に小さな木の破片を敷き詰めた(ウッドチップ)路面は非常に柔らかく、トルクがかかりづらく、ハンドルが取られやすい路面で、下りなのに疲れる、という路面でした。

また、「火打ち落とし」と呼ばれる激下りも一瞬ですが爽快感がある下りが楽しめます。
登りは何度か担ぎポイント(MTBを担いで登らなければ走破出来ないポイント)がある以外は、比較的ダラダラ登りが続くき、身体に負担を与えます。

昨年もレポートした通り、わたし的には心肺機能より筋力につらいコースのような気がします。平野でも路面が厳しく(ウッドチップや泥でトルクがかかりづらい)休みどころがない感じでした。

今年の苗場のレースは、同日程で、大きな大会が別会場であったため、規模が縮小し、ちと寂しい感じでしたが、その分、上位入賞を狙うチームが続々参戦していたような印象を受けました。

MTBというスポーツは、比較的競技人口が少なく、大会によってはオリンピック級の選手たちやその予備軍の選手たちと走る機会が多いスポーツで、頑張れば世界を見やすいスポーツのような気がします。
事実、大学時代にMTBを始めて、世界に出て行った選手も居る訳です。

また年をとってもそれなりに楽しめるスポーツだと思いますので、皆さんも是非始めて見てはいかがかな、という感じです。

あとは、いろいろなショップを覗いたり、チャリティ・オークションに参加したりしまして、会場を後にしました。

オークションは、パーツ総額40万円コースのMTBのオークションがあり、最終的には10万円をわたし達のメンバーが入札して会場を後にしました。結果が楽しみです。

宿泊は、メンバーの会社の保養所(リゾート・マンション)で入浴、食事、宴会を堪能しました。

余談ですが、わたしたちの中では、宿泊施設で当日撮影したビデオや過去のビデオを見るのが恒例になっているのですが、わたしの影響でビデオの編集を始めたメンバーが、初めて作品としてまとめた28分の大作(夏の2泊3日の上高地キャンプをまとめたもの)を見ました。

はじめての作品に、28分という長尺を選んだのは驚きでした。時々鋭いカットや、鋭いつなぎはあるものの、観客を飽きさせずに28分を持たせることは難しいものでした。またパン等が比較的多く、編集のリズムがゆったりと構成されていたのもその一因かも知れません。
今後の活躍に期待です。

Naeba MTB FESTA The 22nd MAZDA CUP
http://diarynote.jp/d/29346/20030918.html
2004/09/23 東京新宿「テアトル新宿」で「オーバードライヴ」の試写を観た。

 当日は主演の柏原収史と津軽三味線音楽監督の高橋脩市郎の津軽三味線のライヴと、監督の筒井武文、出演の柏原収史、鈴木蘭々、賀集利樹、杏さゆり、阿井莉沙、新田昌弘、高橋脩市郎らの舞台挨拶があった。

 人気絶頂のユニット「ゼロデシベル」の(自称)天才ギタリスト麻田弦(柏原収史)は、記者会見の席上、ヴォーカルの美潮(鈴木蘭々)に突然クビを宣告される。おまけにひょんなことから津軽三味線の後継者探しをしている謎のジジィ五十嵐五郎(ミッキー・カーチス)に拉致され、まるで不思議の国のごとき青森の人里離れた屋敷で地獄の三味線修行を強いられる!
 あまりのハードさに一旦は逃亡を計画するも、ジジィのかわいい孫娘五十嵐晶(杏さゆり)に一目惚れをしてしまった弦は、ふらふらと思いとどまることに。やがて晶に思いを寄せる見目麗しき三味線界のプリンス大石聖一郎(新田昌弘)の登場に、ライバル心を燃やす一方で、津軽三味線という楽器の奏でる音の奥深さに気づき始めた弦は、次第にその才能を開花させるのだった。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督は筒井武文
出演は柏原収史、鈴木蘭々、杏さゆり、賀集利樹、ミッキー・カーチス、小倉一郎、阿井莉沙、諏訪太郎、石橋蓮司、新田弘志、新田昌弘、木下伸市、高橋脩市郎
 
 
 この秋オススメの青春音楽コメディ映画である。
 音楽コメディと言えば最近なにかと話題の「スウィングガールズ」があるが、「スウィングガールズ」は本来描くべき演奏シーンが少ない反面、枝葉部分に尺を割き、音楽映画としては残念な仕上がりだったのだが、本作「オーバードライヴ」では津軽三味線の演奏シーンを充分堪能できる見事な音楽映画に仕上がっている。
 その津軽三味線の演奏シーンだが、カット割で誤魔化して見せるような手法ではなく、引いたカメラでワンカットで演奏を見せるような手法を用い、ライヴ感や緊張感溢れる手法で描写されており好感が持てた。
 今回津軽三味線に挑戦する柏原収史は、元々ギターを弾いていたこともあるのだろうが、演奏自体も堂に入っており、試写前にステージ上で行われた高橋脩市郎との津軽三味線セッションもロック・スピリット溢れる見事な演奏だった。

 ところで脚本の基本プロットは「津軽三味線の後継者を探す人物が主人公に目を付け拉致の上、無理矢理津軽三味線の特訓を始める。最初はやる気がなかった主人公が様々なモチベーションの下、本気で練習を始め、大きな成果をあげ、人間的にも成長する」と言う、ベタでお約束なものなのだが、個々の細かいプロットが非常に楽しく、漫才的、漫画的脚本に仕上がっている。

 また、要所要所(物語の展開時)に挿入される阿井莉沙(歌姫)の和風ヒップホップ&ラップ調による物語進行や主人公の心象風景や、柏原収史の心の声をアニメーションで表現したりするところが大変興味深い。
 特に柏原収史の心の声については、天使と悪魔の声の対比が面白かった。

 そして物語の根底にあるのは「技術ではなく魂」である、と言うもの。このあたりはブルース・リーの「燃えよドラゴン」の”Don’t think, Feeeeeeel!”が重要なモチーフになっており、「燃えよドラゴン」の影響下にある(と一部で言われている)「スター・ウォーズ/新たなる希望」の引用らしきもの(ダーク・サイドやライト・セイバーと津軽三味線の対比)も登場する。

 キャストはなんと言っても柏原収史(麻田弦)であろう。髪型を含め顔が大きく頭身が若干低めである柏原収史の外見は、ある意味麻田弦と言う漫画的キャラクターの成立に貢献しているのではないだろうか。そして彼はコミカルな演技からシリアスな演技までをソツなくこなしているのだ。勿論津軽三味線の演奏も素晴らしく、ラストの津軽三味線バトルの選曲には若干問題を感じるものの「クロスロード」やなんかのギター・バトルのシークエンスに匹敵する津軽三味線バトルが楽しい。

 ミッキー・カーチス(五十嵐五郎)や小倉一郎(五郎の息子で晶の父)、石橋蓮司(大石派代表)は世界観の構築について大きな貢献を果たし、良い味を出している。彼等のような名バイプレイヤーの重要性を感じる瞬間である。
 彼等を生かす脚本も良い出来で、ミッキー・カーチスの津軽三味線に関する天丼的セリフや、キャラクターを生かしたマイペース小倉一郎や、いいかげん石橋蓮司が楽しませてくれる。

 新田親子(新田弘志(倉内宗之助)、新田昌弘(大石聖一郎))は親子津軽三味線奏者として国内外で活躍しているのだが、本作では二人の役柄が失敗すると映画自体が危うい状況になってしまうほどの大きな役柄だったのだが、彼等は演技初挑戦にしては上手くこなしているようである。下手をすると賀集利樹(ジン)より俳優的な演技を行っているような印象を受ける。
 特に新田弘志(倉内宗之助)は存在感が素晴らしい。

 ヒロイン役の杏さゆり(五十嵐晶)は、キャラクターが良く構築されており、非常に魅力的に見えた。これにより主人公麻田弦(柏原収史)が恋愛感情を抱く、という説得力の付与に貢献している。
 また彼女の役柄が物語の根底となる「技術ではなく魂(”Don’t think, Feeeeeeel!”)」を体現するキャラクターという、重要な役柄であるだけに、キャラクターの背景に観客が感情移入しやすい役柄になっている。

 また「ゼロデシベル」のヴォーカル美潮を演じた鈴木蘭々は、なんと言ってもラストのライヴ・シーンが圧巻である。
 勿論他のシークエンスでも充分な印象を観客に与えているのだが、下北半島の作りこまれた世界観に対比して、東京の世界観に若干見劣りするため、東京のシークエンスでは強烈な印象とならない、ということである。
 その点前述のライヴ・シーンは、「ゼロデシベル」のヴォーカリストとしての抜群の存在感と圧倒的なカリスマ性を見せてくれている。

 また物語の進行役的役柄(狂言回し)歌姫を演じた阿井莉沙も非常に音楽性が高く魅力的な印象を受けた。
 ラストカットは蛇足だが・・・・。

 美術や衣装は前述のように下北半島の素晴らしい世界観の構築に貢献し、大変素晴らしい。ハリボテ感満載の五十嵐邸も逆説的に素晴らしく、リアリティが無いところが、逆に漫画的リアリティの付与に成功しているのではないだろうか。

 とにかく本作「オーバードライヴ」は、津軽三味線が最高に格好良く、音楽作品としても十分楽しめる青春コメディ映画で、この秋「スウィングガールズ」以上に楽しめる音楽映画とも言えるのだ。
2004/09/28 東京恵比寿「恵比寿ガーデンシネマ」で「モーターサイクル・ダイアリーズ」の試写を観た。

 「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、2004年に日本公開となる作品の中で、わたし的に観たくて観たくて仕方が無かった作品のひとつである。
 過度な期待のため、わたしの中では本作の予告編映像が美化され膨張し、既に傑作としての風格と記憶を持った素晴らしい作品になってしまっていた。
 わたしはそんな中で本作「モーターサイクル・ダイアリーズ」を観た訳である。
 
 
 1952年1月、南米アルゼンチン。
 喘息もちなくせに恐れを知らない23歳の医学生エルネスト(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、親友の生化学者アルベルト(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)とともにアルベルトのおんぼろバイク(ノートン500/ポデローサ号)を駆って南米大陸を縦断する冒険の旅に出る。
 それは金も、泊まるあてもなく、好奇心のままに10,000キロを走破する無鉄砲な計画だった。

 冒険心、情熱的な魂、旅を愛する心でつながれた二人のゆるぎない友情。
 心をふれあったすべての人に、惜しみない愛を捧げた、エルネストの瞳に映る南米大陸の様々な風景。その記憶が彼の未来を変えた。

 のちに親しみを込めて「チェ」と呼ばれ、世界中から愛される20世紀最大の美しきイコンとなった青年の真実の物語。
 (オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

製作総指揮:ロバート・レッドフォード、ポール・ウェブスター、レベッカ・イェルダム
監督:ウォルター・サレス
出演:ガエル・ガルシア・ベルナル(エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナ)、ロドリゴ・デ・ラ・セルナ(アルベルト・グラナード)、ミア・マエストロ(チチナ・フェレイラ)
 
 
 本作「モーターサイクル・ダイアリーズ」は、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナが著した「モーターサイクル南米旅行日記」(現代企画室刊)とアルベルト・グラナードが著した「Con el Che por America Latina」を基に、ホセ・リベラが脚本を執筆したもので、おそらく誇張はあるものの基本的には真実の物語である、と言えよう。

 本作の作風は、−−勿論日記を原作としている事もあるのだろうが−−、散文的で脈絡が無く、一歩間違えると長大な物語のダイジェスト版的な印象を観客に与えてしまうきらいが否定できない。
 これは例えば、先のシークエンスでは体調を崩していたエルネストが次のシークエンスでは元気にバイクに跨っていたり、二人が雪山で途方にくれている次のシークエンスでは、二人が陽光溢れる通りを走っていたり、バイクで転倒してズボンの裾をめくり傷を確認したが、その伏線の回収がされない、といったような部分に顕著に表われている。

 この辺りは、物語を描く上で、事象の「発端」と「経過」と「結末」を重視する観客にとっては、違和感があるところだと思うし、伏線となるべき映像を見せておきながら、その伏線を全く回収しないのは、全く持ってけしからん、という印象を観客に与えてしまう可能性もある。
 しかし本作は、舞台やシークエンスが変わる度に、日時と場所と走行キロ数を画面に表示させるだけで、事象の「結末」を描かないし、伏線を回収せず、宙ぶらりんの状態で物語を紡ぎ続ける、と言うスタイルを確信犯的に貫いている。

 このように物語の中で起きる事象の「結末」を突き放し、観客に事象の「結末」を想像させる手法は、物語の行間を観客に読ませ、物語が描いている登場人物が直面している事象について、登場人物と一緒に考えさせる、と言った素晴らしい効果を内包しているのではないか、と思えるのだ。

 また本作は、最早神格化されてしまい、20世紀最大のイコンとなってしまっている美しい革命家チェ・ゲバラが、単なる医学生から革命家に成長する要因やその背景を若々しく描いた作品であり、その散文的で脈絡のない描写手法と相まって、わたしたちがゲバラに対して抱いている先入観や、様々な伝説とが、物語を補完し脳内で最良の「ゲバラの青春時代」を再構築する、という構図をも持っているのだ。

 そして本作は、ゲバラが神格化されてしまったが故の、世界中の人々を敵に回してしまうような取扱い注意の題材を題材としてしまった作品にもなっているのだが、本作がたおやかに指し示すのは、大らかで爽やかで、弱者に対する溢れんばかりの愛と、強者に対する漠然とした疑問に満ちた、孤高で素朴な視線なのだ。
 ゲバラの事を知っている人も知らない人も十分に明確なゲバラ像を脳内に構築できる懐の大きな作品に仕上がっている。
 
 
 とにかく、わたし的には、政治的思想的背景をおざなりにし、チェ・ゲバラをファッションのひとつとしか捉えていないような日本の若者に是非観ていただきたい作品である、と思うし、この作品を観て、911同時多発テロからのイラクへの動き、郵政民営化問題やプロ野球の再編問題、物事の大小にかかわらず、このような弱者と強者が対峙する構図を持つ様々な問題について、自分の事として、自分の頭で考えていただきたいと思う訳なのだ。

10月4日に再度「モーターサイクル・ダイアリーズ」を観る予定なので、今日のところはこんなところで失礼します。

「モーターサイクル・ダイアリーズ」その2
http://diarynote.jp/d/29346/20041004.html
tkr

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