2004年の目標!! 中間発表その9
2004年10月1日 映画さて、早速ですが2004年の目標の中間発表その9です。
とりあえず目標の再確認を・・・・
目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」
1.映画
#080 「オールド・ボーイ」イイノホール 2004/09/01
#081 「デビルマン」東京国際フォーラムCホール 2004/09/05
#082 「SURVIVE STYLE5+」東宝本社試写室 2004/09/10
#083 「ヴィレッジ」日劇3 2004/09/11
#084 「ヘルボーイ」よみうりホール 2004/09/13
#085 「アラモ」東京厚生年金会館 2004/09/17
#086 「オーバードライヴ」テアトル新宿 2004/09/23
#087 「モーターサイクル・ダイアリーズ」恵比寿ガーデンシネマ 2004/09/28
2.DVD、CATV等
#129 「スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス」DVD 2004/09/02
#130 「スター・ウォーズ エピソードII クローンの攻撃」DVD 2004/09/02
#131 「ノンストップ・ガール」CATV 2004/09/03
#132 「水風船(短篇)」CATV 2004/09/04
#133 「夜明け前(短篇)」CATV 2004/09/04
#134 「宿題(短篇)」CATV 2004/09/04
#135 「アイ・スパイ」CATV 2004/09/04
#136 「猟奇的な彼女」CATV 2004/09/06
#137 「エイリアン」CATV 2004/09/07
#138 「エイリアン2」CATV 2004/09/08
#139 「エイリアン3」CATV 2004/09/09
#140 「ゾンビ U.S. THEATRICAL VERSION」DVD 2004/09/09
#141 「恋愛寫眞 Collage of Our Life」CATV 2004/09/16
#142 「2LDK」CATV 2004/09/16
#143 「ゾンビ EUROPEAN VERSION」DVD 2004/09/16
#144 「荒神」CATV 2004/09/16
#145 「インファナル・アフェア」DVD 2004/09/19
#146 「ブラック・ダイヤモンド」DVD 2004/09/19
#147 「スター・ウォーズ エピソードIV 新たなる希望」DVD 2004/09/24
#148 「スター・ウォーズ エピソーV 帝国の逆襲」DVD 2004/09/27
#149 「スター・ウォーズ エピソーVI ジェダイの帰還」DVD 2004/09/29
3.読書
#026 「ランゴリアーズ」スティーヴン・キング著 小尾芙佐訳 文春文庫 2004/09/11
#027 「池袋ウエストゲートパーク」石田衣良著 文春文庫 2004/09/17
#028 「骨音/池袋ウエストゲートパークIII」石田衣良著 文藝春秋 2004/09/24
映画は、劇場8本(累計87本)、DVD等21本(累計149本)で、計29本(累計236本)。
このままのペースで、年間315本(劇場116本)です。
読書は3冊(累計28冊)で、このままのペースでは、年間37冊です。
映画はともかく、読書の状況は厳しいです。
先は長いですが頑張ります。
※ 参考 昨年同時期の状況
映画 229本(劇場60本)
読書 42冊
とりあえず目標の再確認を・・・・
目標第一弾 「映画を300本観るぞ!!」(DVD等含む)
目標第二弾 「本を100冊読むぞ!!」
1.映画
#080 「オールド・ボーイ」イイノホール 2004/09/01
#081 「デビルマン」東京国際フォーラムCホール 2004/09/05
#082 「SURVIVE STYLE5+」東宝本社試写室 2004/09/10
#083 「ヴィレッジ」日劇3 2004/09/11
#084 「ヘルボーイ」よみうりホール 2004/09/13
#085 「アラモ」東京厚生年金会館 2004/09/17
#086 「オーバードライヴ」テアトル新宿 2004/09/23
#087 「モーターサイクル・ダイアリーズ」恵比寿ガーデンシネマ 2004/09/28
2.DVD、CATV等
#129 「スター・ウォーズ エピソードI ファントム・メナス」DVD 2004/09/02
#130 「スター・ウォーズ エピソードII クローンの攻撃」DVD 2004/09/02
#131 「ノンストップ・ガール」CATV 2004/09/03
#132 「水風船(短篇)」CATV 2004/09/04
#133 「夜明け前(短篇)」CATV 2004/09/04
#134 「宿題(短篇)」CATV 2004/09/04
#135 「アイ・スパイ」CATV 2004/09/04
#136 「猟奇的な彼女」CATV 2004/09/06
#137 「エイリアン」CATV 2004/09/07
#138 「エイリアン2」CATV 2004/09/08
#139 「エイリアン3」CATV 2004/09/09
#140 「ゾンビ U.S. THEATRICAL VERSION」DVD 2004/09/09
#141 「恋愛寫眞 Collage of Our Life」CATV 2004/09/16
#142 「2LDK」CATV 2004/09/16
#143 「ゾンビ EUROPEAN VERSION」DVD 2004/09/16
#144 「荒神」CATV 2004/09/16
#145 「インファナル・アフェア」DVD 2004/09/19
#146 「ブラック・ダイヤモンド」DVD 2004/09/19
#147 「スター・ウォーズ エピソードIV 新たなる希望」DVD 2004/09/24
#148 「スター・ウォーズ エピソーV 帝国の逆襲」DVD 2004/09/27
#149 「スター・ウォーズ エピソーVI ジェダイの帰還」DVD 2004/09/29
3.読書
#026 「ランゴリアーズ」スティーヴン・キング著 小尾芙佐訳 文春文庫 2004/09/11
#027 「池袋ウエストゲートパーク」石田衣良著 文春文庫 2004/09/17
#028 「骨音/池袋ウエストゲートパークIII」石田衣良著 文藝春秋 2004/09/24
映画は、劇場8本(累計87本)、DVD等21本(累計149本)で、計29本(累計236本)。
このままのペースで、年間315本(劇場116本)です。
読書は3冊(累計28冊)で、このままのペースでは、年間37冊です。
映画はともかく、読書の状況は厳しいです。
先は長いですが頑張ります。
※ 参考 昨年同時期の状況
映画 229本(劇場60本)
読書 42冊
「PLUTO 01 / プルートウ 01」
2004年10月2日 読書
以前から言われているように、手塚治虫は若い才能に対して嫉妬深い漫画家だった。
そして手塚治虫が唯一本心から嫉妬し、その才能の豊かさに切歯扼腕したのが、大友克洋その人と彼の作品だったのだ
批評家にして「手塚治虫の漫画はもう古い」と言わしめた、その原因となった大友克洋でさえ、「メロトポリス」や「スチームボーイ」で手塚治虫をやろうとしたのである。
そして今、浦沢直樹が手塚治虫をやろうとしているのだ。
その題材は傑作の呼び声高い「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を原案とした「PLUTO / プルートウ」である。
事実、浦沢直樹の「PLUTO / プルートウ」は、見事に「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を遂次継承している。
しかも、物語の周辺を掘り下げることにより、原作と比較してよりエモーショナルな作品になりつつあるのである。
あとがきによると浦沢直樹が初めて読んだ漫画は「鉄腕アトム/史上最大のロボット」と「鉄腕アトム/人工太陽球」だと言うことである。
このあたりは「アイ,ロボット」のレビューでも若干触れているが、その浦沢直樹の漫画の原初体験が今回の「PLUTO / プルートウ」にも色濃く反映されている。
特に主人公であるゲジヒトのキャラクター造形は「鉄腕アトム/人工太陽球」のシャーロック・ホームスパンの影響が見て取れるのだ。
とは言うものの、わたしの最大の驚愕ポイントは、手塚治虫の影響ではなく、大友克洋の影響である。
なんと「PLUTO / プルートウ」は大友克洋の「AKIRA / アキラ」だったのだ。
特に「PLUTO 01 / プルートウ 01」の構成は「AKIRA 1 / アキラ 1」のそれに酷似している、といわざるを得ない。
そう考えた場合、キャラクターの対比は、ゲジヒトが大佐で、ブラウ1589がアキラ、アトムが鉄雄ということになる。
これを端的に描写するシークエンスがある。
ゲジヒトがブラウ1589を訪問した際、ブラウ1589はゲジヒトにこんな言葉をかける。(このシークエンスは多くの読者に「羊たちの沈黙」のレクター博士を訪問するクラリス捜査官を思い出させるだろう。しかし、これは「AKIRA / アキラ」だったのだ。)
「滑稽なほど必死で作り上げたバリケードだろ?」
「ハイテク機器で厳重に管理していながら・・・・」
「結局、人間は、こうでもしないと恐怖を抑えきれないんだ・・・・」
一方アキラが眠るデュワー壁を前に大佐は独白する。
「見てみろ・・・・この慌て振りを・・・・」
「怖いのだ・・・・怖くてたまらずに覆い隠したのだ・・・・」
「恥も尊厳も忘れ・・・・築きあげて来た文明も科学もなぐり捨てて・・・・」
「自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ・・・・」
更に、第一巻の結末、ゲジヒトはアトムを訪ねる。
「君が・・・・アトム君だね?」
「はい。」
一方、大佐は鉄雄に手を伸ばす。
「41号・・・・」
「41・・・・号ォ・・・・?」
「そうだ・・・」
おもしろくなってきやがったぜ。
そして手塚治虫が唯一本心から嫉妬し、その才能の豊かさに切歯扼腕したのが、大友克洋その人と彼の作品だったのだ
批評家にして「手塚治虫の漫画はもう古い」と言わしめた、その原因となった大友克洋でさえ、「メロトポリス」や「スチームボーイ」で手塚治虫をやろうとしたのである。
そして今、浦沢直樹が手塚治虫をやろうとしているのだ。
その題材は傑作の呼び声高い「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を原案とした「PLUTO / プルートウ」である。
事実、浦沢直樹の「PLUTO / プルートウ」は、見事に「鉄腕アトム/史上最大のロボット」を遂次継承している。
しかも、物語の周辺を掘り下げることにより、原作と比較してよりエモーショナルな作品になりつつあるのである。
あとがきによると浦沢直樹が初めて読んだ漫画は「鉄腕アトム/史上最大のロボット」と「鉄腕アトム/人工太陽球」だと言うことである。
このあたりは「アイ,ロボット」のレビューでも若干触れているが、その浦沢直樹の漫画の原初体験が今回の「PLUTO / プルートウ」にも色濃く反映されている。
特に主人公であるゲジヒトのキャラクター造形は「鉄腕アトム/人工太陽球」のシャーロック・ホームスパンの影響が見て取れるのだ。
とは言うものの、わたしの最大の驚愕ポイントは、手塚治虫の影響ではなく、大友克洋の影響である。
なんと「PLUTO / プルートウ」は大友克洋の「AKIRA / アキラ」だったのだ。
特に「PLUTO 01 / プルートウ 01」の構成は「AKIRA 1 / アキラ 1」のそれに酷似している、といわざるを得ない。
そう考えた場合、キャラクターの対比は、ゲジヒトが大佐で、ブラウ1589がアキラ、アトムが鉄雄ということになる。
これを端的に描写するシークエンスがある。
ゲジヒトがブラウ1589を訪問した際、ブラウ1589はゲジヒトにこんな言葉をかける。(このシークエンスは多くの読者に「羊たちの沈黙」のレクター博士を訪問するクラリス捜査官を思い出させるだろう。しかし、これは「AKIRA / アキラ」だったのだ。)
「滑稽なほど必死で作り上げたバリケードだろ?」
「ハイテク機器で厳重に管理していながら・・・・」
「結局、人間は、こうでもしないと恐怖を抑えきれないんだ・・・・」
一方アキラが眠るデュワー壁を前に大佐は独白する。
「見てみろ・・・・この慌て振りを・・・・」
「怖いのだ・・・・怖くてたまらずに覆い隠したのだ・・・・」
「恥も尊厳も忘れ・・・・築きあげて来た文明も科学もなぐり捨てて・・・・」
「自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ・・・・」
更に、第一巻の結末、ゲジヒトはアトムを訪ねる。
「君が・・・・アトム君だね?」
「はい。」
一方、大佐は鉄雄に手を伸ばす。
「41号・・・・」
「41・・・・号ォ・・・・?」
「そうだ・・・」
おもしろくなってきやがったぜ。
「Nintendo DS/登場編・実感編」任天堂株式会社
2004年10月3日 CF(CM)/PV
2004年12月2日発売予定の「NINTENDO DS」のCF(CM)が公開された。(※1)
公開された「NINTENDO DS」のCF(CM)は「真白い空間」の中、「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着た「Utada」(※2)と「白いテーブル」と「Nintendo DS」本体というシンプルなもので、キャッチ・コピーは「Touch!」である。
ところで、日本国内で販売された「ファミリーコンピュータ」、「スーパーファミコン」、「ニンテンドウ64」、「ニンテンドーゲームキューブ」等の任天堂の据置型家庭用ゲーム機の中で商標に「ニンテンドウ/ニンテンドー」の文字が付いているのは「ニンテンドウ64」以降であり、しかも「ニンテンドウ64」以降は、北米を中心とした海外のマーケットで同じ商標の英字表記を商標として使用している。(※3)
そして今冬発売となる「NINTENDO DS/ニンテンドー DS」も同様に、商標に「ニンテンドー」の文字が入っている。(※4)
これは「ニンテンドウ64」以降続く海外戦略のひとつだと考えられるし、CF(CM)に登場するのが「宇多田ヒカル」ではなく先ごろ北米デビューを果たした「Utada」とクレジットされている事もそれを肯定しているのではないだろうか。
そして「Utada」の衣裳である。
何故「Utada」は「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着なければならなかったのか。
先ず単純に考えられるのは、今回のキャッチ・コピーである「Touch!」である。
これは「NINTENDO DS」に搭載された「タッチ・バネル」に因るコピーで、この「NINTENDO DS」は、搭載された「タッチ・パネル」に触れることにより、新次元のゲーム体験を可能にするゲーム機である、という事を明確に謳っているのだ。
そして同時に「Touch!」と言うコピーは、「Utada」が「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着ていることから、思春期の少年たちが女の子の胸に初めて触れる「ドキドキ感」や「ワクワク感」、そしてその少年たちが女の子の胸の感触を思う「無限の想像力」をも実現するゲーム機だと、言っているのであろう。
更に「Utada」が着用した、「真白い空間」の中の「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」が暗喩するものは、勿論図案化された「日本の国旗」であり、これにより「NINTENDO DS」を開発したのは日本の企業であることを明示し、その日本の企業任天堂はグローバルな戦略の下、世界中のマーケットを席巻するであろう事を宣言しているのである。
ついでに「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」により、「NINTENDO DS」は「胸にポッカリと開いた穴」を補完する存在である。と言うことも同時に言っているのである。
つまり「心を持ったゲーム機」である、と言っているのである。
そしてこのCF(CM)では、人類が「NINTENDO DS」に「Touch!」することにより、「新たな人類への飛躍」、「新たな人類の誕生」を迎える事をも意味しているのである。
これはこのCF(CM)の世界観がスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号等の世界観に似ている点や、「赤いワンピース」のシルエットはあたかも「黒いモノリス」のように見える点からもあきらかであろう。(※5)
更に「真白い空間」の中「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着て歩く「Utada」は、「白いディスカバリー号の中」を歩く「違う色のヘルメット」を被り「赤い宇宙服」を着た「ボウマン船長」をも髣髴とさせるし、「胸元の円形の穴」は「ヘルメットが無い宇宙服」を示しているのかも知れない。
更に深読みすると「NINTENDO DS」のロゴマークには、2画面を意味するO(四角に見える)が縦に2個並んでおり、それは:(コロン)にも見え、CF(CM)ではその:(コロン)がビジュアル的に効果的に使用されている。
そしてなんと言っても、:(コロン)から想起されるのは、「2001年宇宙の旅」の原題「2001: A Space Odyssey」のタイトルの:(コロン)であろう。(完全に誇大妄想的意見に思えますね)
さあ君も「NINTENDO DS」に「Touch!」して、ボウマン船長のように、新人類になろう!
と言う訳なのだ。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
余談だが、「Utada」の「赤い靴」は同考えても「オズの魔法使い」の「ルビーの靴」をイメージしているのだと思われますが、だとすると「NINTENDO DS」は「オズの大魔王」のメタファーで「インチキ」を意味する事になりかねませんが、その辺はどうなんでしょうね。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
※1 「NINTENDO DS」のCF(CM)は、2004/09/23に「Nintendo DS/登場編」が、2004/09/24には「Nintendo DS/実感編」が公開された。
※2 CF(CM)では「宇多田ヒカル」ではなく「Utada」とクレジットされている。
「Utada」とは、北米デビューの際の「宇多田ヒカル」のアーティスト名(商標か?)
※3 「ファミリーコンピュータ」は北米では「NES(Nintendo Entertainment System)」、「スーパーファミコン」は「SUPER NES(Super Nintendo Entertainment System)」という商標で販売された。なお「ニンテンドウ64」は「Nintendo 64」、「ニンテンドーゲームキューブ」は「NINTENDO GAMECUBE」である。
※4 「NINTENDO DS」は、任天堂の持運び型家庭用ゲーム機の中で商標に「ニンテンドウ/ニンテンドー」の文字が付く最初のゲーム機となる。
※5 おそらく多くの読者は、「赤いワンピース」が「黒いモノリス」であるとか、「Utada」は「ボウマン船長」だとか、「NINTENDO DS」に触れて新人類になろう、だとかの「NINTENDO DS」のCF(CM)は、スタンリー・キューブリックへのリスペクトでありオマージュであると言う意見は、わたしの誇大妄想的こじ付けだと思う人が多いとわたしは思うが、実際のところ、CF(CM)を製作する広告代理店がその企画を持って企業にプレゼンテーションするような場合は、その辺まで言葉を弄して、プレゼンするのである。
わたしだって任天堂のお偉方を納得させる為には、その辺の背景を含めた企画を立ててプレゼンすると思います。
なにしろ、あんな「胸に大きく穴が開いている」ダサダサの「赤いワンピース」を「Utada」に着せる事由が、そして任天堂や「宇多田ヒカル」を納得させることが出来る事由が、広告代理店には必要なんですから。
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公開された「NINTENDO DS」のCF(CM)は「真白い空間」の中、「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着た「Utada」(※2)と「白いテーブル」と「Nintendo DS」本体というシンプルなもので、キャッチ・コピーは「Touch!」である。
ところで、日本国内で販売された「ファミリーコンピュータ」、「スーパーファミコン」、「ニンテンドウ64」、「ニンテンドーゲームキューブ」等の任天堂の据置型家庭用ゲーム機の中で商標に「ニンテンドウ/ニンテンドー」の文字が付いているのは「ニンテンドウ64」以降であり、しかも「ニンテンドウ64」以降は、北米を中心とした海外のマーケットで同じ商標の英字表記を商標として使用している。(※3)
そして今冬発売となる「NINTENDO DS/ニンテンドー DS」も同様に、商標に「ニンテンドー」の文字が入っている。(※4)
これは「ニンテンドウ64」以降続く海外戦略のひとつだと考えられるし、CF(CM)に登場するのが「宇多田ヒカル」ではなく先ごろ北米デビューを果たした「Utada」とクレジットされている事もそれを肯定しているのではないだろうか。
そして「Utada」の衣裳である。
何故「Utada」は「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着なければならなかったのか。
先ず単純に考えられるのは、今回のキャッチ・コピーである「Touch!」である。
これは「NINTENDO DS」に搭載された「タッチ・バネル」に因るコピーで、この「NINTENDO DS」は、搭載された「タッチ・パネル」に触れることにより、新次元のゲーム体験を可能にするゲーム機である、という事を明確に謳っているのだ。
そして同時に「Touch!」と言うコピーは、「Utada」が「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着ていることから、思春期の少年たちが女の子の胸に初めて触れる「ドキドキ感」や「ワクワク感」、そしてその少年たちが女の子の胸の感触を思う「無限の想像力」をも実現するゲーム機だと、言っているのであろう。
更に「Utada」が着用した、「真白い空間」の中の「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」が暗喩するものは、勿論図案化された「日本の国旗」であり、これにより「NINTENDO DS」を開発したのは日本の企業であることを明示し、その日本の企業任天堂はグローバルな戦略の下、世界中のマーケットを席巻するであろう事を宣言しているのである。
ついでに「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」により、「NINTENDO DS」は「胸にポッカリと開いた穴」を補完する存在である。と言うことも同時に言っているのである。
つまり「心を持ったゲーム機」である、と言っているのである。
そしてこのCF(CM)では、人類が「NINTENDO DS」に「Touch!」することにより、「新たな人類への飛躍」、「新たな人類の誕生」を迎える事をも意味しているのである。
これはこのCF(CM)の世界観がスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号等の世界観に似ている点や、「赤いワンピース」のシルエットはあたかも「黒いモノリス」のように見える点からもあきらかであろう。(※5)
更に「真白い空間」の中「胸元に円形の穴が開いた」「赤いワンピース」を着て歩く「Utada」は、「白いディスカバリー号の中」を歩く「違う色のヘルメット」を被り「赤い宇宙服」を着た「ボウマン船長」をも髣髴とさせるし、「胸元の円形の穴」は「ヘルメットが無い宇宙服」を示しているのかも知れない。
更に深読みすると「NINTENDO DS」のロゴマークには、2画面を意味するO(四角に見える)が縦に2個並んでおり、それは:(コロン)にも見え、CF(CM)ではその:(コロン)がビジュアル的に効果的に使用されている。
そしてなんと言っても、:(コロン)から想起されるのは、「2001年宇宙の旅」の原題「2001: A Space Odyssey」のタイトルの:(コロン)であろう。(完全に誇大妄想的意見に思えますね)
さあ君も「NINTENDO DS」に「Touch!」して、ボウマン船長のように、新人類になろう!
と言う訳なのだ。
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余談だが、「Utada」の「赤い靴」は同考えても「オズの魔法使い」の「ルビーの靴」をイメージしているのだと思われますが、だとすると「NINTENDO DS」は「オズの大魔王」のメタファーで「インチキ」を意味する事になりかねませんが、その辺はどうなんでしょうね。
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※1 「NINTENDO DS」のCF(CM)は、2004/09/23に「Nintendo DS/登場編」が、2004/09/24には「Nintendo DS/実感編」が公開された。
※2 CF(CM)では「宇多田ヒカル」ではなく「Utada」とクレジットされている。
「Utada」とは、北米デビューの際の「宇多田ヒカル」のアーティスト名(商標か?)
※3 「ファミリーコンピュータ」は北米では「NES(Nintendo Entertainment System)」、「スーパーファミコン」は「SUPER NES(Super Nintendo Entertainment System)」という商標で販売された。なお「ニンテンドウ64」は「Nintendo 64」、「ニンテンドーゲームキューブ」は「NINTENDO GAMECUBE」である。
※4 「NINTENDO DS」は、任天堂の持運び型家庭用ゲーム機の中で商標に「ニンテンドウ/ニンテンドー」の文字が付く最初のゲーム機となる。
※5 おそらく多くの読者は、「赤いワンピース」が「黒いモノリス」であるとか、「Utada」は「ボウマン船長」だとか、「NINTENDO DS」に触れて新人類になろう、だとかの「NINTENDO DS」のCF(CM)は、スタンリー・キューブリックへのリスペクトでありオマージュであると言う意見は、わたしの誇大妄想的こじ付けだと思う人が多いとわたしは思うが、実際のところ、CF(CM)を製作する広告代理店がその企画を持って企業にプレゼンテーションするような場合は、その辺まで言葉を弄して、プレゼンするのである。
わたしだって任天堂のお偉方を納得させる為には、その辺の背景を含めた企画を立ててプレゼンすると思います。
なにしろ、あんな「胸に大きく穴が開いている」ダサダサの「赤いワンピース」を「Utada」に着せる事由が、そして任天堂や「宇多田ヒカル」を納得させることが出来る事由が、広告代理店には必要なんですから。
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「モーターサイクル・ダイアリーズ」その2
2004年10月4日 映画
2004/10/04 日本ヘラルド映画試写室で「モーターサイクル・ダイアリーズ」を観た。
ご参考までに、先日「恵比寿ガーデンシネマ」で観た際のレビューはこちら。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040930.html
今回でわたしは「モーターサイクル・ダイアリーズ」を2回観た訳であるが、個人的な印象としては2回目である今回の方が感涙の度合が高かった。これはゲバラの生涯について若干勉強した上で2回目の上映に望んだ事に起因するのかも知れないし、大きな劇場ではなく小さな試写室で観た事により本作への没頭の度合が高まり、感涙指数をも高めていたのかも知れない。
泣ければそれは良い映画だ、と言うつもりはさらさらないが、この映画は程よく泣ける素晴らしい作品に思えるのである。
今回特に印象に残ったのは前回同様サン・パブロのハンセン病隔離医療施設のシークエンスである。
旅を始めた当初は、エルネスト(ガエル・ガルシア・ベルナル)とアルベルト(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)は、アルベルトのおんぼろバイク「ポデローサ号」の上から南米を眺めており、視線は一段高く、しかもスピードも速い視線、言うならば当事者ではなく部外者の視線で南米全土を見ていた訳なのだ。
しかし、旅の後半、徒歩旅行を余儀なくされた彼等の視線は、より弱者である民衆のそれに近づき、彼等は部外者ではなく当事者の視線で南米が置かれている現状に目を向けるのである。
そしてそんな旅の途中、彼等はリマのペシェ博士(グスターボ・ブエノ)のはからいで、サン・パブロにあるハンセン病の隔離医療施設でボランティア医師として働く事になる。
勿論本作「モーターサイクル・ダイアリーズ」自体が、エルネストとアルベルトの成長物語と捉える事が出来るのだが、その中でも、ハンセン病の隔離医療施設での出来事は、将来の二人の生き様に大きな影響を与える象徴的な出来事に満ちている。
さて、その隔離医療施設だが、施設自体は地元の修道院の隔離方針に則って運営されており、医師等スタッフと重篤な患者たちは、その他大勢の患者たちとアマゾン川を隔てたそれぞれの対岸で暮らしており、医療行為において患者に触れる際は医師にはゴム手袋の着用が義務付けられていた。
修道院長は、エルネストとアルベルトにも施設の医師同様、ゴム手袋の着用を要請するが、彼等はそれを拒否し、素手でハンセン病患者と触れ合うのである。
そしてそれはいつしか施設の医師たちにも広がって行く。
また、隔離医療施設で24歳の誕生日を迎えたエルネストは、誕生パーティのスピーチで南米の現状と将来の理想像に触れ、パーティ開場には微妙な空気が流れるが、その微妙な空気の中、アルベルトはエルネストが変わってしまった事を確信するのである。
更にエルネストは、アマゾン川対岸にいる多くのハンセン病患者たちに、誕生日を祝ってもらう為、ある行動を取る。
その行動に対し、アルベルトを始とした医師等がかける言葉と、ハンセン病患者たちがかける言葉との対比が、エルネストの革命家としての将来を象徴的に表しているのではないだろうか。
この時点で、エルネストは強者側ではなく、弱者側に自分の足で立った訳である。
そんなエルネストが後年20世紀最高のイコン、世界で一番美しい革命家チェ・ゲバラになる訳なのである。
それを思うと、文字通り涙が止まらないのだ。
更にアルベルトがエルネストの志を受け、後年行うある行動にも滂沱なのだ。
何しろ、エルネストが転がした小さな石は、アルベルトの心の中でも転がり続けているだろうし、勿論われわれの心の中でも転がり続けているはずなのだから。
「これは偉業の物語ではない、同じ大志と夢を持った二人の人生がしばし併走した物語なのだ」
とにかく見ろ!
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
脚本は、先日お話したように散文的で下手をすると伏線を無視した脈絡のないものだと言われかねない。
しかし、編集も繋がりをあまり重視せずに見せたいものを見せたい順序で見せる散文的な手法を取っており、それが観客の記憶にも似た効果をあげている。
腫瘍の告知と、小説の感想を告げるシークエンスも興味深い。
25米ドルの行方と、喘息の薬の行方も興味深い。
音楽は、特にモノクロで南米の底辺で暮らす弱者の人々を映す部分で、居心地が悪く心を逆撫でするような、音楽が印象的であった。
エルネストの怒りを感じるのだ。
ラストの歌モノの局も素晴らしい。
キャストはダメな俳優は全くいない。
完璧である。主要キャストからエキストラまで、自分の仕事を120%こなしている。
ドキュメンタリー的な手法とも相まって、素晴らしい効果を付与している。
また、南米のロケーション効果は素晴らしく、是非劇場で体験して欲しい作品だと思う。
製作総指揮に名を連ねるロバート・レッドフォードだが、彼のキャリアを見渡すと、語弊はあるが「弱者が強者に歯向かう」映画が多いような気がする。本作もレッドフォードが好きそうな題材だと思える。
ご参考までに、先日「恵比寿ガーデンシネマ」で観た際のレビューはこちら。
「モーターサイクル・ダイアリーズ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040930.html
今回でわたしは「モーターサイクル・ダイアリーズ」を2回観た訳であるが、個人的な印象としては2回目である今回の方が感涙の度合が高かった。これはゲバラの生涯について若干勉強した上で2回目の上映に望んだ事に起因するのかも知れないし、大きな劇場ではなく小さな試写室で観た事により本作への没頭の度合が高まり、感涙指数をも高めていたのかも知れない。
泣ければそれは良い映画だ、と言うつもりはさらさらないが、この映画は程よく泣ける素晴らしい作品に思えるのである。
今回特に印象に残ったのは前回同様サン・パブロのハンセン病隔離医療施設のシークエンスである。
旅を始めた当初は、エルネスト(ガエル・ガルシア・ベルナル)とアルベルト(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)は、アルベルトのおんぼろバイク「ポデローサ号」の上から南米を眺めており、視線は一段高く、しかもスピードも速い視線、言うならば当事者ではなく部外者の視線で南米全土を見ていた訳なのだ。
しかし、旅の後半、徒歩旅行を余儀なくされた彼等の視線は、より弱者である民衆のそれに近づき、彼等は部外者ではなく当事者の視線で南米が置かれている現状に目を向けるのである。
そしてそんな旅の途中、彼等はリマのペシェ博士(グスターボ・ブエノ)のはからいで、サン・パブロにあるハンセン病の隔離医療施設でボランティア医師として働く事になる。
勿論本作「モーターサイクル・ダイアリーズ」自体が、エルネストとアルベルトの成長物語と捉える事が出来るのだが、その中でも、ハンセン病の隔離医療施設での出来事は、将来の二人の生き様に大きな影響を与える象徴的な出来事に満ちている。
さて、その隔離医療施設だが、施設自体は地元の修道院の隔離方針に則って運営されており、医師等スタッフと重篤な患者たちは、その他大勢の患者たちとアマゾン川を隔てたそれぞれの対岸で暮らしており、医療行為において患者に触れる際は医師にはゴム手袋の着用が義務付けられていた。
修道院長は、エルネストとアルベルトにも施設の医師同様、ゴム手袋の着用を要請するが、彼等はそれを拒否し、素手でハンセン病患者と触れ合うのである。
そしてそれはいつしか施設の医師たちにも広がって行く。
また、隔離医療施設で24歳の誕生日を迎えたエルネストは、誕生パーティのスピーチで南米の現状と将来の理想像に触れ、パーティ開場には微妙な空気が流れるが、その微妙な空気の中、アルベルトはエルネストが変わってしまった事を確信するのである。
更にエルネストは、アマゾン川対岸にいる多くのハンセン病患者たちに、誕生日を祝ってもらう為、ある行動を取る。
その行動に対し、アルベルトを始とした医師等がかける言葉と、ハンセン病患者たちがかける言葉との対比が、エルネストの革命家としての将来を象徴的に表しているのではないだろうか。
この時点で、エルネストは強者側ではなく、弱者側に自分の足で立った訳である。
そんなエルネストが後年20世紀最高のイコン、世界で一番美しい革命家チェ・ゲバラになる訳なのである。
それを思うと、文字通り涙が止まらないのだ。
更にアルベルトがエルネストの志を受け、後年行うある行動にも滂沱なのだ。
何しろ、エルネストが転がした小さな石は、アルベルトの心の中でも転がり続けているだろうし、勿論われわれの心の中でも転がり続けているはずなのだから。
「これは偉業の物語ではない、同じ大志と夢を持った二人の人生がしばし併走した物語なのだ」
とにかく見ろ!
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脚本は、先日お話したように散文的で下手をすると伏線を無視した脈絡のないものだと言われかねない。
しかし、編集も繋がりをあまり重視せずに見せたいものを見せたい順序で見せる散文的な手法を取っており、それが観客の記憶にも似た効果をあげている。
腫瘍の告知と、小説の感想を告げるシークエンスも興味深い。
25米ドルの行方と、喘息の薬の行方も興味深い。
音楽は、特にモノクロで南米の底辺で暮らす弱者の人々を映す部分で、居心地が悪く心を逆撫でするような、音楽が印象的であった。
エルネストの怒りを感じるのだ。
ラストの歌モノの局も素晴らしい。
キャストはダメな俳優は全くいない。
完璧である。主要キャストからエキストラまで、自分の仕事を120%こなしている。
ドキュメンタリー的な手法とも相まって、素晴らしい効果を付与している。
また、南米のロケーション効果は素晴らしく、是非劇場で体験して欲しい作品だと思う。
製作総指揮に名を連ねるロバート・レッドフォードだが、彼のキャリアを見渡すと、語弊はあるが「弱者が強者に歯向かう」映画が多いような気がする。本作もレッドフォードが好きそうな題材だと思える。
夢は最高の映像体験なのだ。
もし、自分の好きな夢を自由自在に見ることが出来るとしたら、人生の三分の一は文字通り薔薇色なのだ。
それでは、そんな「好きな夢を見るひみつどうぐ/ドリーム・メイカー(仮称)」を身の回りのもので作ってみましょう。
いきなり余談だが、わたしの夢は凄まじい程のリアリティを持っている。
勿論わたしの夢は「カラー」で「音」や「匂い」もあるし、「感触」まで完璧に再現されているのだ。
先日もこんな夢を見た。
わたしは金縛り状態で目が覚めた。
(これは、寝ている状態で、目が覚める夢を見ている、ということ)
目を開けると、長い髪をした美しい女性がわたしの身体の上に乗っている。
彼女の重量感は勿論、彼女の髪の先端がわたしの肌に触れる感触は、身震いする程素晴らしいリアリティを持っていた。
どうやら彼女はわたしを連れてどこかに行きたいようである。
彼女はわたしの手を引きながら、わたしの寝室の宙に浮かびはじめた。
わたしは彼女に抵抗しつつ、彼女が行こうとしている方向を見やる。
彼女の向こう側、丁度わたしの寝室の壁あたりには、トンネル状の通路のようなモノがあり、そこからは明るい光が差し込んでいる。
彼女に引かれたまま、あのトンネル状のモノを通過してしまうと、幽体離脱してしまうかも知れないし、どこかあちら側に行ってしまうかも知れない。
戻れなくなったら困るな、と思ったわたしは・・・・(以下略)
さて、本題だが、夢のメカニズムを考えて見よう。
睡眠は、約90分毎に繰り返されるレム睡眠とノンレム睡眠から成り立っています。
夢を見るのはレム睡眠の時で、その夢の多くは外部からの刺激に対応しています。
例えば、電話が鳴っている夢は、目覚まし時計の音の刺激によって、崖から落ちる夢は、ベッドから落ちる衝撃の刺激によって、脳内で瞬時に構築されている訳です。
レム睡眠とノンレム睡眠
http://allabout.co.jp/health/sleep/closeup/CU20030822/index3.htm
だとすると、90分周期で繰り返されるレム睡眠とノンレム睡眠の周期のうち、レム睡眠のタイミングに適当な刺激を外部から与える事が出来れば、もしかしたら自分の好きな夢が見られるのではないでしょうか。
■「好きな夢を見るひみつどうぐ/ドリーム・メイカー(仮称)」のつくり方■
(一人で寝ている人で、睡眠時間が6時間以内の人限定)
1.「好きな夢を見るひみつどうぐ」の材料(1人分)
ビデオデッキ 1台
(通電させて温めておく)
120分ビデオテープ 1本
(シュリンクを破りパッケージから出しておく)
刺激的な音声素材 少々
(睡眠を妨げない音声レベルのものを選択しておく)
2.「好きな夢を見るひみつどうぐ」のつくり方
120分ビデオテープを3倍で使用し、刺激的な音声を90分間隔で、5分程度ずつ録音する。(※1)
6時間(360分)のビデオテープに、90分毎に5分ずつの刺激的な音声が4回入ったビデオテープが出来上がります。
これが「好きな夢を見るひみつどうぐ/ドリーム・メイカー(仮称)」です。
3.「好きな夢を見るひみつどうぐ」の使い方
「好きな夢を見るひみつどうぐ」をビデオデッキにセットし、音声だけが聞こえるようにセッティングし、「好きな夢を見るひみつどうぐ」を再生したまま眠る。(※2)
あ〜ら不思議、睡眠時間360分のうち、あなたは90分毎に、自分の見たい素敵な夢が見られる訳です。(※3)
※1 レム睡眠とノンレム睡眠の周期には個人差があります。ご自分の周期を把握する事を強くオススメします。
※2 ビデオデッキとテレビが直結されているような環境の場合は、なんらかの映像を録画してしまうと、その録画されている映像が90分毎に再生されてしまい、必然的に周りが明るくなり、目が覚めてしまう可能性があるので注意が必要です。
出来ましたら、360分の間、映像も音声も入力せずに録画状態にしたビデオテープを1本用意し、そのビデオテープのタイムコードを利用し、90分毎に刺激的な音声のみを録音する事をオススメします。
※3 「好きな夢を見るひみつどうぐ」は、タイマーやパソコン等を利用すれば、6時間以上睡眠を取っている人にも応用が可能です。
出来れば、最後のレム睡眠の周期に好きな夢を見た方が、記憶にも残るし、楽しいと思いますので、その辺は各自調整して、最後のレム睡眠に好きな夢が見られるようご活用ください。
さあ、明日から、いや今晩からは、夜が楽しみで楽しみで仕方がないぞ!!
このページの全てのドキュメントは tkr によるもので、全ての著作権は tkr に属します。
このページから得られる全てのドキュメントに関して、tkr はそのドキュメントに記載された情報の正確度、有用性、完全性、或いはそれらの情報を利用することから生じる損害に対する一切の責任を負いません。
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もし、自分の好きな夢を自由自在に見ることが出来るとしたら、人生の三分の一は文字通り薔薇色なのだ。
それでは、そんな「好きな夢を見るひみつどうぐ/ドリーム・メイカー(仮称)」を身の回りのもので作ってみましょう。
いきなり余談だが、わたしの夢は凄まじい程のリアリティを持っている。
勿論わたしの夢は「カラー」で「音」や「匂い」もあるし、「感触」まで完璧に再現されているのだ。
先日もこんな夢を見た。
わたしは金縛り状態で目が覚めた。
(これは、寝ている状態で、目が覚める夢を見ている、ということ)
目を開けると、長い髪をした美しい女性がわたしの身体の上に乗っている。
彼女の重量感は勿論、彼女の髪の先端がわたしの肌に触れる感触は、身震いする程素晴らしいリアリティを持っていた。
どうやら彼女はわたしを連れてどこかに行きたいようである。
彼女はわたしの手を引きながら、わたしの寝室の宙に浮かびはじめた。
わたしは彼女に抵抗しつつ、彼女が行こうとしている方向を見やる。
彼女の向こう側、丁度わたしの寝室の壁あたりには、トンネル状の通路のようなモノがあり、そこからは明るい光が差し込んでいる。
彼女に引かれたまま、あのトンネル状のモノを通過してしまうと、幽体離脱してしまうかも知れないし、どこかあちら側に行ってしまうかも知れない。
戻れなくなったら困るな、と思ったわたしは・・・・(以下略)
さて、本題だが、夢のメカニズムを考えて見よう。
睡眠は、約90分毎に繰り返されるレム睡眠とノンレム睡眠から成り立っています。
夢を見るのはレム睡眠の時で、その夢の多くは外部からの刺激に対応しています。
例えば、電話が鳴っている夢は、目覚まし時計の音の刺激によって、崖から落ちる夢は、ベッドから落ちる衝撃の刺激によって、脳内で瞬時に構築されている訳です。
レム睡眠とノンレム睡眠
http://allabout.co.jp/health/sleep/closeup/CU20030822/index3.htm
だとすると、90分周期で繰り返されるレム睡眠とノンレム睡眠の周期のうち、レム睡眠のタイミングに適当な刺激を外部から与える事が出来れば、もしかしたら自分の好きな夢が見られるのではないでしょうか。
■「好きな夢を見るひみつどうぐ/ドリーム・メイカー(仮称)」のつくり方■
(一人で寝ている人で、睡眠時間が6時間以内の人限定)
1.「好きな夢を見るひみつどうぐ」の材料(1人分)
ビデオデッキ 1台
(通電させて温めておく)
120分ビデオテープ 1本
(シュリンクを破りパッケージから出しておく)
刺激的な音声素材 少々
(睡眠を妨げない音声レベルのものを選択しておく)
2.「好きな夢を見るひみつどうぐ」のつくり方
120分ビデオテープを3倍で使用し、刺激的な音声を90分間隔で、5分程度ずつ録音する。(※1)
6時間(360分)のビデオテープに、90分毎に5分ずつの刺激的な音声が4回入ったビデオテープが出来上がります。
これが「好きな夢を見るひみつどうぐ/ドリーム・メイカー(仮称)」です。
3.「好きな夢を見るひみつどうぐ」の使い方
「好きな夢を見るひみつどうぐ」をビデオデッキにセットし、音声だけが聞こえるようにセッティングし、「好きな夢を見るひみつどうぐ」を再生したまま眠る。(※2)
あ〜ら不思議、睡眠時間360分のうち、あなたは90分毎に、自分の見たい素敵な夢が見られる訳です。(※3)
※1 レム睡眠とノンレム睡眠の周期には個人差があります。ご自分の周期を把握する事を強くオススメします。
※2 ビデオデッキとテレビが直結されているような環境の場合は、なんらかの映像を録画してしまうと、その録画されている映像が90分毎に再生されてしまい、必然的に周りが明るくなり、目が覚めてしまう可能性があるので注意が必要です。
出来ましたら、360分の間、映像も音声も入力せずに録画状態にしたビデオテープを1本用意し、そのビデオテープのタイムコードを利用し、90分毎に刺激的な音声のみを録音する事をオススメします。
※3 「好きな夢を見るひみつどうぐ」は、タイマーやパソコン等を利用すれば、6時間以上睡眠を取っている人にも応用が可能です。
出来れば、最後のレム睡眠の周期に好きな夢を見た方が、記憶にも残るし、楽しいと思いますので、その辺は各自調整して、最後のレム睡眠に好きな夢が見られるようご活用ください。
さあ、明日から、いや今晩からは、夜が楽しみで楽しみで仕方がないぞ!!
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宇宙人はどうして裸なの
2004年10月6日 エッセイ/コラム 私見だが、世界各国で目撃されている宇宙人の多くは、衣服(のようなもの)を着ていない事が多いような気がする。
彼等宇宙人は既に恒星間旅行を実用化している訳であるから、恥とか外聞とか言う低次元な考えをとっくに超越した存在なのだろうか。
それとも、もともと恥とか外聞とかいう低次元な観念を持たない文化を彼等は構築したのだろうか。
ところで、現在よく目撃されている「グレイ」と呼ばれる宇宙人の目撃報告が増加したのは、1970年代末以降だそうである。
この辺の話には諸説あるようだが、わたしは、初めて宇宙人をひとつの種として真面目に描いたスティーヴン・スピルバーグ監督作品「未知との遭遇」(1977)のラストに現在「グレイ」と呼ばれているような外見の宇宙人が登場したことに、何か因果関係があるのではないか、と思っている。
「未知との遭遇」のラスト、シャンデリアのような美しいマザーシップから降りてくる宇宙人たちは、逆光でディテールが判然としないが、どうやら衣服(のようなもの)を着用していないように見えるのである。
そして、現在世界各国で目撃されている宇宙人の多くは「未知との遭遇」で描かれた宇宙人と酷似した外見を持っており、なぜか衣服(のようなもの)を着用していないようなのだ。
ところで、われわれ人類の視覚について考えてみよう。
われわれ人類は、太陽光線下において、様々な物体に反射した光を見て、その物体の色や形を知ることが出来る訳である。
例えば赤いリンゴは7色の太陽光線のうち赤い光線だけを反射しているから、赤い色のリンゴに見える訳なのだ。黄色いバナナが黄色く見えるのは、バナナの表面は黄色い光線を反射する性質を持っているからなのである。
因みに赤外線盗撮も基本的にはこれと同じ原理なのだ。
簡単に言うと、赤外線はある種の色や素材の衣類を透過しやすく、かつ体には反射しやすい性質を持っており、その性質を利用し、衣服を透過し体に反射した赤外線を、赤外線のみを捉える事が出来るカメラを利用して盗撮している訳なのだ。
勿論レントゲンも基本的には同じ原理である。
人類の目は残念ながら赤外線や放射線を捉える事はできないが、仮に捉える事が出来る人類がいたとしたら、毎日が楽しくて仕方が無いかもしれない。尤も、炎天下の中には眩しくて出歩けないかもしれないが・・・・。
さて、本題に戻ろう。
賢明な読者諸氏におかれては、わたしが言いたい事は既におわかりのことと思う。
そう、わたしの仮説はこうである。
「宇宙人は決して裸なのではなく、われわれ人類には見えない素材の衣服を着ているのではないか」
つまり地球上に存在する様々な光線を完全に透過してしまう種類の物質で作られた衣服(のようなもの)を宇宙人は着用しているのではないだろうか。
われわれ人類にとって、全ての可視光線を透過してしまう衣服(のようなもの)は、完全に透明な衣服(のようなもの)としてわれわれに認知されてしまう訳である。
そして、奴等は、われわれ人類がやつらの衣類を透過して裸を見る能力を持っている事を知らないのだ。
奴等はなんて恥ずかしい種なのだろうか。
彼等宇宙人は既に恒星間旅行を実用化している訳であるから、恥とか外聞とか言う低次元な考えをとっくに超越した存在なのだろうか。
それとも、もともと恥とか外聞とかいう低次元な観念を持たない文化を彼等は構築したのだろうか。
ところで、現在よく目撃されている「グレイ」と呼ばれる宇宙人の目撃報告が増加したのは、1970年代末以降だそうである。
この辺の話には諸説あるようだが、わたしは、初めて宇宙人をひとつの種として真面目に描いたスティーヴン・スピルバーグ監督作品「未知との遭遇」(1977)のラストに現在「グレイ」と呼ばれているような外見の宇宙人が登場したことに、何か因果関係があるのではないか、と思っている。
「未知との遭遇」のラスト、シャンデリアのような美しいマザーシップから降りてくる宇宙人たちは、逆光でディテールが判然としないが、どうやら衣服(のようなもの)を着用していないように見えるのである。
そして、現在世界各国で目撃されている宇宙人の多くは「未知との遭遇」で描かれた宇宙人と酷似した外見を持っており、なぜか衣服(のようなもの)を着用していないようなのだ。
ところで、われわれ人類の視覚について考えてみよう。
われわれ人類は、太陽光線下において、様々な物体に反射した光を見て、その物体の色や形を知ることが出来る訳である。
例えば赤いリンゴは7色の太陽光線のうち赤い光線だけを反射しているから、赤い色のリンゴに見える訳なのだ。黄色いバナナが黄色く見えるのは、バナナの表面は黄色い光線を反射する性質を持っているからなのである。
因みに赤外線盗撮も基本的にはこれと同じ原理なのだ。
簡単に言うと、赤外線はある種の色や素材の衣類を透過しやすく、かつ体には反射しやすい性質を持っており、その性質を利用し、衣服を透過し体に反射した赤外線を、赤外線のみを捉える事が出来るカメラを利用して盗撮している訳なのだ。
勿論レントゲンも基本的には同じ原理である。
人類の目は残念ながら赤外線や放射線を捉える事はできないが、仮に捉える事が出来る人類がいたとしたら、毎日が楽しくて仕方が無いかもしれない。尤も、炎天下の中には眩しくて出歩けないかもしれないが・・・・。
さて、本題に戻ろう。
賢明な読者諸氏におかれては、わたしが言いたい事は既におわかりのことと思う。
そう、わたしの仮説はこうである。
「宇宙人は決して裸なのではなく、われわれ人類には見えない素材の衣服を着ているのではないか」
つまり地球上に存在する様々な光線を完全に透過してしまう種類の物質で作られた衣服(のようなもの)を宇宙人は着用しているのではないだろうか。
われわれ人類にとって、全ての可視光線を透過してしまう衣服(のようなもの)は、完全に透明な衣服(のようなもの)としてわれわれに認知されてしまう訳である。
そして、奴等は、われわれ人類がやつらの衣類を透過して裸を見る能力を持っている事を知らないのだ。
奴等はなんて恥ずかしい種なのだろうか。
「インファナル・アフェア 無間序曲」
2004年10月7日 映画
2004/10/01 ワーナーマイカルシネマズ板橋で「インファナル・アフェア 無間序曲」を観た。
1991年、香港。
尖沙咀(チムサアチョイ)に君臨する香港黒社会(マフィア)の大ボス、ンガイ・クワンが暗殺された。
その混乱に乗じて一派から離反をもくろむ配下のボス4人。組織犯罪課(OCTB)のウォン警部(アンソニー・ウォン)と相棒のルク警部(フー・ジュン)は、抗争勃発に備えて厳戒体制を敷く。
だが、新参者の5人目のボス、サム(エリック・ツァン)だけは静観を決め込む。因果応報を信じるサムは、時機を待つ気でいたのだ。そのために彼はラウ(エディソン・チャン)を警察に潜入させようと考えていた。ひそかに想いを寄せていたサムの妻マ
リー(カリーナ・ラウ)の口からそのことを告げられたラウは、
危険を覚悟で引き受ける。
クワンの跡を継いだ次男ハウ(フランシス・ン)は、知的で物静かな外見の下に策略家と野心家の顔を隠していた。
4人のボス各々の弱みを握った彼は、一夜にして新たな大ボスとしての地位を固めてしまう。
一方ウォン警部は、警察学校の優等生でありながら、クワンの私生児であることが発覚して退学処分になったヤン(ショーン・ユー)の存在を知り、秘策を思いつく。その血筋を利用してヤンをハウの組織に潜入させるのだ。無謀とも言える作戦だが、ヤンにとっては警官になれる唯一のチャンスだった。
そして・・・・
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督は、アンドリュー・ラウとアラン・マック。
出演は、エディソン・チャン(若き日のラウ)、ショーン・ユー(若き日のヤン)、アンソニー・ウォン(ウォン警部)、エリック・ツァン(サム)、カリーナ・ラウ(マリー)、フランシス・ン(ハウ)、チャップマン・トウ(キョン)、フー・ジュン(ルク)。
本作「インファナル・アフェア 無間序曲」は、現代の香港が世界に誇る「インファナル・アフェア」の続編であり、時系列的には「インファナル・アフェア」三部作の第一作目に位置する作品である。
前作「インファナル・アフェア」は聞くところによると、脚本に3年程かけたらしいが、本作「インファナル・アフェア 無間序曲」と2005年GWに日本公開予定の「インファナル・アフェア 終極無間」の脚本はおそらく突貫工事だったのではないだろうか。事実、主要プロット上に気になる点がいくつかあった。
本作「インファナル・アフェア 無間序曲」は、前作「インファナル・アフェア」の大ヒットを受けて、製作・公開された作品である以上、当然の如く前作と比較されてしまうのは仕方がないだろう。
前作「インファナル・アフェア」は単純で骨太な力強いプロットに、細かなプロットと伏線が見事に絡み合った素晴らしい脚本だったのだが、本作「インファナル・アフェア 無間序曲」の基本プロットは複雑でわかりづらく、新たなファン層を獲得するのは難しい仕上がりが否めない。
時系列的に考えた場合、三部作の一作目に当たる作品に取っては、若干の問題点を抱えている、といえるのではないだろうか。
それに加えて、若き日のラウ(エディソン・チャン)とヤン(ショーン・ユー)のキャラクターが似ているため、余計に物語がわかりづらい印象を観客に与えている。
どうせなら、どちらかを血気盛んな感じのキャラクターにして、もうひとりは従来通りのクールな感じで演出し、本作か次回作「インファナル・アフェア 終極無間」の物語の途中で何か大きな出来事により、血気盛んなキャラクターがクールなキャラクターに転化する、と言ったプロットが必要だったのではないだろうか。
また、プロット上の気になった点だが、一番凄いのは何と言っても、ハウ(フランシス・ン)とヤン(ショーン・ユー)とを血縁関係にしてしまった事だろう。
この仰天プロットでは一般的に考えてヤンをどうやってサムの部下にするのは困難だろう。
好意的に考えて、ヤンをどうやってサム(エリック・ツァン)の配下にするのかお手並み拝見なのだ。見事な着地を期待したい。
この辺は「ギャング・オブ・ニューヨーク」のダイエル・デイ・ルイスとレオナルド・ディカプリオの関係と比較するとおもしろいかもしれない。
また、前作ではヤンを兄貴と呼んでいた(わたしの記憶では)キョン(チャップマン・トウ)が、サムの現在の配下の中では古株で、新参者ヤンの兄貴分にあたるのではないかと思うのだが、その辺はどうなんだろう。何か立場が逆転するエピソードでもあるのだろうか。
キャストについては、サム(エリック・ツァン)、ハウ(フランシス・ン)、ウォン警部(アンソニー・ウォン)に尽きるだろう。
最初に印象的な動きをするのは、インテリ黒社会(マフィア/ヤクザ)を見事に演じたハウである。冒頭付近、電話を何本かかけるだけで、抗争勃発寸前の尖沙咀(チムサアチョイ)を掌握してしまう様は、格好良すぎなのだ。あとは潜入捜査官を処刑するシークエンスや、ヤンのケーブルを見つける所など、感涙モノだと言えよう。
そして、ハウが観客に見せてくれるのは、黒社会の中心にいながらも家族を愛する一般の家庭人の姿なのである。その辺りはおそらくフランシス・フォード・コッポラの「ゴッド・ファーザー」への言及やリスペクトなのだと思うが、わたし的には非常に良い印象を受けた。
そして何と言ってもサム(エリック・ツァン)である。もう格好良すぎの美味しいキャラクターなのだ。
冒頭のウォン警部を前にしての食事のシークエンスも、前作を髣髴とさせる良いシークエンスだし、警察の正門を出た後のドタバタも楽しい。そして前作で描写された頭の良い大ボスになる片鱗を随所で見せてくれているのは、とっても楽しいのである。
一方ウォン警部(アンソニー・ウォン)は微妙である。
と言うのも、本作の物語の根幹に関わるある行動を行うのだが、その辺りが前作のキャラクターと、ちと乖離しているような印象を受ける。
勿論、演技は素晴らしいし、ルク警部(フー・ジュン)とのコンビも楽しいのだが、三部作を考えた場合、キャラクター設定に若干無理があるような気がした。それとも次回作に大きな転換があるのかな。
脚本は前述のように若干突貫工事的な印象が拭いきれず、少し残念だが、だからと言って物語がつまらない訳ではなく、物語世界にどっぷりと浸れる非常に楽しい脚本に仕上がっている。
また、冒頭のラウ(エディソン・チャン)の前作同様の癖や、音楽やコンポへの言及あたりが前作ファンへの心憎いサービスになっている。
ああ、早く「インファナル・アフェア 終極無間」が観たいのだ。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
「インファナル・アフェア」
http://diarynote.jp/d/29346/20040115.html
「インファナル・アフェアIII/終極無間」
http://diarynote.jp/d/29346/20050407.html
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余談だが、英題の「Infernal affairs」は「Internal affairs」(内務)のもじりで、直訳すると「地獄の事務」(ひどい仕事)と言う事になる。
因みに、「Internal-affairs investigation」で「内務調査」という意味である。
1991年、香港。
尖沙咀(チムサアチョイ)に君臨する香港黒社会(マフィア)の大ボス、ンガイ・クワンが暗殺された。
その混乱に乗じて一派から離反をもくろむ配下のボス4人。組織犯罪課(OCTB)のウォン警部(アンソニー・ウォン)と相棒のルク警部(フー・ジュン)は、抗争勃発に備えて厳戒体制を敷く。
だが、新参者の5人目のボス、サム(エリック・ツァン)だけは静観を決め込む。因果応報を信じるサムは、時機を待つ気でいたのだ。そのために彼はラウ(エディソン・チャン)を警察に潜入させようと考えていた。ひそかに想いを寄せていたサムの妻マ
リー(カリーナ・ラウ)の口からそのことを告げられたラウは、
危険を覚悟で引き受ける。
クワンの跡を継いだ次男ハウ(フランシス・ン)は、知的で物静かな外見の下に策略家と野心家の顔を隠していた。
4人のボス各々の弱みを握った彼は、一夜にして新たな大ボスとしての地位を固めてしまう。
一方ウォン警部は、警察学校の優等生でありながら、クワンの私生児であることが発覚して退学処分になったヤン(ショーン・ユー)の存在を知り、秘策を思いつく。その血筋を利用してヤンをハウの組織に潜入させるのだ。無謀とも言える作戦だが、ヤンにとっては警官になれる唯一のチャンスだった。
そして・・・・
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督は、アンドリュー・ラウとアラン・マック。
出演は、エディソン・チャン(若き日のラウ)、ショーン・ユー(若き日のヤン)、アンソニー・ウォン(ウォン警部)、エリック・ツァン(サム)、カリーナ・ラウ(マリー)、フランシス・ン(ハウ)、チャップマン・トウ(キョン)、フー・ジュン(ルク)。
本作「インファナル・アフェア 無間序曲」は、現代の香港が世界に誇る「インファナル・アフェア」の続編であり、時系列的には「インファナル・アフェア」三部作の第一作目に位置する作品である。
前作「インファナル・アフェア」は聞くところによると、脚本に3年程かけたらしいが、本作「インファナル・アフェア 無間序曲」と2005年GWに日本公開予定の「インファナル・アフェア 終極無間」の脚本はおそらく突貫工事だったのではないだろうか。事実、主要プロット上に気になる点がいくつかあった。
本作「インファナル・アフェア 無間序曲」は、前作「インファナル・アフェア」の大ヒットを受けて、製作・公開された作品である以上、当然の如く前作と比較されてしまうのは仕方がないだろう。
前作「インファナル・アフェア」は単純で骨太な力強いプロットに、細かなプロットと伏線が見事に絡み合った素晴らしい脚本だったのだが、本作「インファナル・アフェア 無間序曲」の基本プロットは複雑でわかりづらく、新たなファン層を獲得するのは難しい仕上がりが否めない。
時系列的に考えた場合、三部作の一作目に当たる作品に取っては、若干の問題点を抱えている、といえるのではないだろうか。
それに加えて、若き日のラウ(エディソン・チャン)とヤン(ショーン・ユー)のキャラクターが似ているため、余計に物語がわかりづらい印象を観客に与えている。
どうせなら、どちらかを血気盛んな感じのキャラクターにして、もうひとりは従来通りのクールな感じで演出し、本作か次回作「インファナル・アフェア 終極無間」の物語の途中で何か大きな出来事により、血気盛んなキャラクターがクールなキャラクターに転化する、と言ったプロットが必要だったのではないだろうか。
また、プロット上の気になった点だが、一番凄いのは何と言っても、ハウ(フランシス・ン)とヤン(ショーン・ユー)とを血縁関係にしてしまった事だろう。
この仰天プロットでは一般的に考えてヤンをどうやってサムの部下にするのは困難だろう。
好意的に考えて、ヤンをどうやってサム(エリック・ツァン)の配下にするのかお手並み拝見なのだ。見事な着地を期待したい。
この辺は「ギャング・オブ・ニューヨーク」のダイエル・デイ・ルイスとレオナルド・ディカプリオの関係と比較するとおもしろいかもしれない。
また、前作ではヤンを兄貴と呼んでいた(わたしの記憶では)キョン(チャップマン・トウ)が、サムの現在の配下の中では古株で、新参者ヤンの兄貴分にあたるのではないかと思うのだが、その辺はどうなんだろう。何か立場が逆転するエピソードでもあるのだろうか。
キャストについては、サム(エリック・ツァン)、ハウ(フランシス・ン)、ウォン警部(アンソニー・ウォン)に尽きるだろう。
最初に印象的な動きをするのは、インテリ黒社会(マフィア/ヤクザ)を見事に演じたハウである。冒頭付近、電話を何本かかけるだけで、抗争勃発寸前の尖沙咀(チムサアチョイ)を掌握してしまう様は、格好良すぎなのだ。あとは潜入捜査官を処刑するシークエンスや、ヤンのケーブルを見つける所など、感涙モノだと言えよう。
そして、ハウが観客に見せてくれるのは、黒社会の中心にいながらも家族を愛する一般の家庭人の姿なのである。その辺りはおそらくフランシス・フォード・コッポラの「ゴッド・ファーザー」への言及やリスペクトなのだと思うが、わたし的には非常に良い印象を受けた。
そして何と言ってもサム(エリック・ツァン)である。もう格好良すぎの美味しいキャラクターなのだ。
冒頭のウォン警部を前にしての食事のシークエンスも、前作を髣髴とさせる良いシークエンスだし、警察の正門を出た後のドタバタも楽しい。そして前作で描写された頭の良い大ボスになる片鱗を随所で見せてくれているのは、とっても楽しいのである。
一方ウォン警部(アンソニー・ウォン)は微妙である。
と言うのも、本作の物語の根幹に関わるある行動を行うのだが、その辺りが前作のキャラクターと、ちと乖離しているような印象を受ける。
勿論、演技は素晴らしいし、ルク警部(フー・ジュン)とのコンビも楽しいのだが、三部作を考えた場合、キャラクター設定に若干無理があるような気がした。それとも次回作に大きな転換があるのかな。
脚本は前述のように若干突貫工事的な印象が拭いきれず、少し残念だが、だからと言って物語がつまらない訳ではなく、物語世界にどっぷりと浸れる非常に楽しい脚本に仕上がっている。
また、冒頭のラウ(エディソン・チャン)の前作同様の癖や、音楽やコンポへの言及あたりが前作ファンへの心憎いサービスになっている。
ああ、早く「インファナル・アフェア 終極無間」が観たいのだ。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
「インファナル・アフェア」
http://diarynote.jp/d/29346/20040115.html
「インファナル・アフェアIII/終極無間」
http://diarynote.jp/d/29346/20050407.html
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余談だが、英題の「Infernal affairs」は「Internal affairs」(内務)のもじりで、直訳すると「地獄の事務」(ひどい仕事)と言う事になる。
因みに、「Internal-affairs investigation」で「内務調査」という意味である。
「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」
2004年10月10日 映画
2001/10/10 東京銀座「ヤマハホール」で「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」の試写を観た。
スーパー・ナチュラルな事件が起きればどこへでも、サイケなペイントを施したスペシャル・バン“ミステリー・マシーン”に乗ってかけつけ、アッという間にナゾを解決、モンスターを退治する、今や向かうところ敵なしの全米中のスーパー・アイドルになってしまった“ミステリー社”の4人と1匹。
ところが、“ミステリー社”が今まで退治したさまざまなモンスターの衣装を展示し、パトリック・ワイズリー(セス・グリーン)が館長を務めるクールソニアン犯罪博物館のオープニング・セレモニー中に仮面の男が率いるモンスターが現れセレモニーは大混乱、“ミステリー社”の人気も地に落ちてしまう。
TVレポーター、へザー・ジャスパー=ハウ(アリシア・シルバーストーン)は“ミステリー社”を激しく攻撃し、クールズヴィル市民はモンスターの恐怖に怯えていた。
そして・・・・。
監督は前作同様ラージャ・ゴスネル
出演は、フィレディー・プリンズ,Jr(フレッド/ミステリー社)、サラ・ミシェル・ゲラー(ダフネ/ミステリー社)、マシュー・リラード(シャギー/ミステリー社)、リンダ・カーデリーニ(ヴェルマ/ミステリー社)、セス・グリーン(パトリック・ワイズリー)、ピーター・ボイル(ジェレマイア・ウィックルス)、アリシア・シルバーストーン(へザー・ジャスパー=ハウ)
本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」は、1969年から91年まで22年間に渡って放映されたアメリカの人気テレビアニメ「スクービー・ドゥー」の実写版第二弾である。
一言で言えば、本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」は往年のアニメーション作品「スクービー・ドゥー」のイメージを完全に踏襲した楽しいファミリー・ムービーである。
特筆すべき点としては、CGIで表現されているスクービーはともかく、ミステリー社の4人のキャラクターの動きは、アニメーション特有の動きを完全に模倣している。
従って本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」はアニメーション作品「スクービー・ドゥー」のイメージを最大限に生かし、ファンのイメージを壊さず、アニメーション作品の実写化作品としては素晴らしい出来に仕上がっている。
特にキャラクターのそっくりさ加減は賞賛に値する。
とは言うものの、アニメーションで描かれていた(と記憶している)完璧な能天気さは、実写化により幾分薄められ、4人のキャラクターは、それぞれ悩めるキャラクターとして描かれている。
そのあたりのさじ加減は絶妙で、本作はキャラクターの成長物語としても機能する作品に仕上がっている。
しかしながら本作の物語はお約束でベタでチープな展開の目白押しだが、その辺りが本作を家族で安心して楽しめるファミリー・ムービーにしている所以なのだろう。
キャストは、やはりなんと言ってもタイトル・ロールであるスクービーと、スクービーに絡むマシュー・リラード(シャギー)だろう。
マシュー・リラードの演技と言うか、アニメ的な動きは大変素晴らしく、CGIで表現されているスクービーと見事に融和し、見事なコンビ振りを発揮している。
また、アニメ的キャラクターとして忘れてはならないのはセス・グリーン(パトリック・ワイズリー)であろう。彼の身長の低さと髪型を含めた頭の大きさは、他の俳優と比較して等身が低く、アニメ的な印象を観客に与えている。
また彼の「オースティン・パワーズ」シリーズで演じたキャラクターの映画的記憶を利用した脚本により、素晴らしいキャラクターに描かれているのではないだろうか。
個人的には、今後のキャリアが非常に楽しみな俳優の一人である。
女優陣は、サラ・ミシェル・ゲラー(ダフネ)は、キュートでセクシーな魅力爆発だし、リンダ・カーデリーニ(ヴェルマ)は知的キャラだが、とあるシーンではセクシーさをアピールし、多面性のあるおもしろいキャラクターを演じている。
また、アリシア・シルバーストーン(へザー・ジャスパー=ハウ)は憎々しげなTVリポーターを楽しげに演じている。
VFXは何と言ってもスクービーだが、本作ではCGIと着ぐるみ等の従来の手法を使用し、CGIと従来の手法の融和に成功しているのではないだろうか。
スクービーらの上っ面だけではなく、重量が感じられるCGIに好意的な印象を受けた。
あとは、サイケでヒップでキュートでセクシーな世界観が素晴らしい。特に“ミステリー社”の事務所が素晴らしい。
本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」、大人でも、素直な少年の心で見ることができれば、大変楽しい作品である、と言えるし、楽しい仕上がりを見せた素敵なファミリー・ムービーと言えるだろう。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
アニメーション作品の実写化と言えば、最近の邦画では「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」があるが、スクービー同様に、忍者犬獅子丸や忍者猫影千代はCGIで映像化して欲しかったと思うのだ。
「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」
http://diarynote.jp/d/29346/20040815.html
スーパー・ナチュラルな事件が起きればどこへでも、サイケなペイントを施したスペシャル・バン“ミステリー・マシーン”に乗ってかけつけ、アッという間にナゾを解決、モンスターを退治する、今や向かうところ敵なしの全米中のスーパー・アイドルになってしまった“ミステリー社”の4人と1匹。
ところが、“ミステリー社”が今まで退治したさまざまなモンスターの衣装を展示し、パトリック・ワイズリー(セス・グリーン)が館長を務めるクールソニアン犯罪博物館のオープニング・セレモニー中に仮面の男が率いるモンスターが現れセレモニーは大混乱、“ミステリー社”の人気も地に落ちてしまう。
TVレポーター、へザー・ジャスパー=ハウ(アリシア・シルバーストーン)は“ミステリー社”を激しく攻撃し、クールズヴィル市民はモンスターの恐怖に怯えていた。
そして・・・・。
監督は前作同様ラージャ・ゴスネル
出演は、フィレディー・プリンズ,Jr(フレッド/ミステリー社)、サラ・ミシェル・ゲラー(ダフネ/ミステリー社)、マシュー・リラード(シャギー/ミステリー社)、リンダ・カーデリーニ(ヴェルマ/ミステリー社)、セス・グリーン(パトリック・ワイズリー)、ピーター・ボイル(ジェレマイア・ウィックルス)、アリシア・シルバーストーン(へザー・ジャスパー=ハウ)
本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」は、1969年から91年まで22年間に渡って放映されたアメリカの人気テレビアニメ「スクービー・ドゥー」の実写版第二弾である。
一言で言えば、本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」は往年のアニメーション作品「スクービー・ドゥー」のイメージを完全に踏襲した楽しいファミリー・ムービーである。
特筆すべき点としては、CGIで表現されているスクービーはともかく、ミステリー社の4人のキャラクターの動きは、アニメーション特有の動きを完全に模倣している。
従って本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」はアニメーション作品「スクービー・ドゥー」のイメージを最大限に生かし、ファンのイメージを壊さず、アニメーション作品の実写化作品としては素晴らしい出来に仕上がっている。
特にキャラクターのそっくりさ加減は賞賛に値する。
とは言うものの、アニメーションで描かれていた(と記憶している)完璧な能天気さは、実写化により幾分薄められ、4人のキャラクターは、それぞれ悩めるキャラクターとして描かれている。
そのあたりのさじ加減は絶妙で、本作はキャラクターの成長物語としても機能する作品に仕上がっている。
しかしながら本作の物語はお約束でベタでチープな展開の目白押しだが、その辺りが本作を家族で安心して楽しめるファミリー・ムービーにしている所以なのだろう。
キャストは、やはりなんと言ってもタイトル・ロールであるスクービーと、スクービーに絡むマシュー・リラード(シャギー)だろう。
マシュー・リラードの演技と言うか、アニメ的な動きは大変素晴らしく、CGIで表現されているスクービーと見事に融和し、見事なコンビ振りを発揮している。
また、アニメ的キャラクターとして忘れてはならないのはセス・グリーン(パトリック・ワイズリー)であろう。彼の身長の低さと髪型を含めた頭の大きさは、他の俳優と比較して等身が低く、アニメ的な印象を観客に与えている。
また彼の「オースティン・パワーズ」シリーズで演じたキャラクターの映画的記憶を利用した脚本により、素晴らしいキャラクターに描かれているのではないだろうか。
個人的には、今後のキャリアが非常に楽しみな俳優の一人である。
女優陣は、サラ・ミシェル・ゲラー(ダフネ)は、キュートでセクシーな魅力爆発だし、リンダ・カーデリーニ(ヴェルマ)は知的キャラだが、とあるシーンではセクシーさをアピールし、多面性のあるおもしろいキャラクターを演じている。
また、アリシア・シルバーストーン(へザー・ジャスパー=ハウ)は憎々しげなTVリポーターを楽しげに演じている。
VFXは何と言ってもスクービーだが、本作ではCGIと着ぐるみ等の従来の手法を使用し、CGIと従来の手法の融和に成功しているのではないだろうか。
スクービーらの上っ面だけではなく、重量が感じられるCGIに好意的な印象を受けた。
あとは、サイケでヒップでキュートでセクシーな世界観が素晴らしい。特に“ミステリー社”の事務所が素晴らしい。
本作「スクービー・ドゥー 2 モンスターパニック」、大人でも、素直な少年の心で見ることができれば、大変楽しい作品である、と言えるし、楽しい仕上がりを見せた素敵なファミリー・ムービーと言えるだろう。
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アニメーション作品の実写化と言えば、最近の邦画では「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」があるが、スクービー同様に、忍者犬獅子丸や忍者猫影千代はCGIで映像化して欲しかったと思うのだ。
「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」
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追悼 クリストファー・リーヴ
2004年10月11日 エッセイ/コラム
クリストファー・リーヴという名の俳優がいた。
1952年に生まれた彼は、舞台俳優、TV俳優を経て、1978年「原子力潜水艦浮上せず」の端役で映画デビューすることになる。
そして同年彼は「スーパーマン」のタイトル・ロールに大抜擢され、一夜にしてそのさわやかな笑顔と共にスターダムに登りつめ、世界中の恋人になった訳である。
そして「スーパーマン」以降現代まで、ありとあらゆるアメコミ・ヒーローが映画化され、その映画化作品の数は、枚挙に暇がない。
傑作もあり駄作もある、それらスーパー・ヒーローの映画化作品は、その時代のヒーロー像のイメージ通りの俳優がそれぞれスーパー・ヒーローを演じている。
例えば「バットマン」であればマイケル・キートンが、「スパイダーマン」であればトビー・マグワイアが、と言う具合に、その時代のスーパー・ヒーローのイメージを様々な俳優たちが、その時代その時代の社会情勢にマッチしたヒーロー像を見事に具現化している。
しかし、残念ながらクリストファー・リーヴの「スーパーマン」を超えるスーパー・ヒーロー像にわたし達は出会っていないのである。
彼は「スーパーマン」を通じて、世界中の観客を愛し、世界中の観客に愛され、そして夢と正義と希望を象徴するキャラクター像を具現化し、何よりもわたし達を最大限満足させてくれる素晴らしいスーパー・ヒーローになったのである。
そして彼は、「スーパーマン」という映画を通じて、勿論スーパーマンとなり、クラーク・ケントとなり、それと同時にクリストファー・リーヴと言う名のヒーロー像のイコンになったのである。
そして、1995年の落馬事故である。
彼はその落馬事故で脊髄を損傷し、首より下が不随となり、車椅子生活を余儀なくされてしまう。
彼はそれ以来リハビリに努め、努力の人となり、脊髄損傷者たちのための財団を立ち上げ、ある意味脊髄損傷者たちのスポークスマンになったのである。
そして彼は、彼特有の不屈の精神によりリハビリを続け、その努力の甲斐があり、2002年には手や足の指先を少しだけ動かせるまでに回復していたのである。
当初は不可能とされていた回復を超人的な力で次々と成し遂げてきていたのである。
そう、クリストファー・リーヴは、世界中の恋人であり、スーパー・ヒーローそのものであり、そして脊髄損傷者たちの治癒の希望の象徴になったのである。
脊髄損傷者たちは、あなたがリハビリに努力し、超人的なスピードで回復していく様を、そして脊髄損傷者たちの代表としてスピーチする姿を見て、どんなに勇気づけられたであろうか。
わたし達はスーパー・ヒーローを、そして希望の象徴を失ったのである。
わたしの記憶の中で、あなたが最高に輝いている瞬間がある。
「スーパーマン」シリーズのラストに、あなたがファン・サービスとして必ず挿入した映像である。
地球の周りを飛ぶあなたはカメラ越しに世界中のわたし達観客に微笑みかけ、わたし達に手を振る。
その笑顔は、映画の中のヒロインであるロイス・レーンに向けられたものではなく、映画の外、現実の世界に存在するわたし達観客に向けられていたのだ。
その瞬間、わたし達はあなたを確実に愛していた。
その笑顔を、夢と正義と希望を象徴する、あなたの爽やかな笑顔をわたし達は決して忘れない。
映画俳優は観客の愛により永遠の命を得ると言う。
もしそれが本当の事ならば、世界中に愛されたあなたは、永遠の命を得ていたはずなのだ。
ぼく達は、あなたがもう一度立ち上がりスクリーンによみがえる事を信じていた。
あなたに課せられた脊髄損傷は、スーパー・ヒーローの試練に過ぎない事を信じていた。
ぼく達は、新たな世代のスーパーマンと対峙する、あの小憎らしいレックス・ルーサーを楽しげに演じるあなたの姿を夢見ていた。
なんなら、ラストに立ち上がってくれれば、普段は車椅子に乗っているレックス・ルーサーでも構わない。
ぼく達は、あなたのレックス・ルーサーが、いずれ見れると思っていた。
あなたの死はわたし達にとってあまりにも突然で、とてつもなく大きい。
映画ファンのエゴを承知で酷な事を言わせていただければ、あなたは死んではいけない人だったのだ。
C・リーブ氏死去 「スーパーマン」主演俳優
【ニューヨーク11日共同】
人気映画「スーパーマン」に主演、落馬事故で首から下が不自由になった後は障害者の権利向上などに尽力していた米国の俳優クリストファー・リーブ氏が10日、心不全のためニューヨークの病院で死去した。52歳。AP通信が伝えた。
身体のまひにともなう合併症が悪化し、9日にニューヨークの自宅で心臓発作を起こし、手当てを受けていた。
1952年ニューヨーク生まれ。ジュリアード音楽院で学び、ロンドンに留学。78年「原子力潜水艦浮上せず」で映画に初出演した。同年の映画「スーパーマン」の主役クラーク・ケントに抜てきされ、大スターの仲間入りを果たした。「スーパーマン」は87年の第4作までシリーズ化された。
95年5月、バージニア州で落馬して脊髄(せきずい)を傷めて首から下が不随となったが、病院や自宅で懸命にリハビリを続け、2002年には手や足の指先を少しだけ動かせるまでに回復していた。(共同通信)
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1952年に生まれた彼は、舞台俳優、TV俳優を経て、1978年「原子力潜水艦浮上せず」の端役で映画デビューすることになる。
そして同年彼は「スーパーマン」のタイトル・ロールに大抜擢され、一夜にしてそのさわやかな笑顔と共にスターダムに登りつめ、世界中の恋人になった訳である。
そして「スーパーマン」以降現代まで、ありとあらゆるアメコミ・ヒーローが映画化され、その映画化作品の数は、枚挙に暇がない。
傑作もあり駄作もある、それらスーパー・ヒーローの映画化作品は、その時代のヒーロー像のイメージ通りの俳優がそれぞれスーパー・ヒーローを演じている。
例えば「バットマン」であればマイケル・キートンが、「スパイダーマン」であればトビー・マグワイアが、と言う具合に、その時代のスーパー・ヒーローのイメージを様々な俳優たちが、その時代その時代の社会情勢にマッチしたヒーロー像を見事に具現化している。
しかし、残念ながらクリストファー・リーヴの「スーパーマン」を超えるスーパー・ヒーロー像にわたし達は出会っていないのである。
彼は「スーパーマン」を通じて、世界中の観客を愛し、世界中の観客に愛され、そして夢と正義と希望を象徴するキャラクター像を具現化し、何よりもわたし達を最大限満足させてくれる素晴らしいスーパー・ヒーローになったのである。
そして彼は、「スーパーマン」という映画を通じて、勿論スーパーマンとなり、クラーク・ケントとなり、それと同時にクリストファー・リーヴと言う名のヒーロー像のイコンになったのである。
そして、1995年の落馬事故である。
彼はその落馬事故で脊髄を損傷し、首より下が不随となり、車椅子生活を余儀なくされてしまう。
彼はそれ以来リハビリに努め、努力の人となり、脊髄損傷者たちのための財団を立ち上げ、ある意味脊髄損傷者たちのスポークスマンになったのである。
そして彼は、彼特有の不屈の精神によりリハビリを続け、その努力の甲斐があり、2002年には手や足の指先を少しだけ動かせるまでに回復していたのである。
当初は不可能とされていた回復を超人的な力で次々と成し遂げてきていたのである。
そう、クリストファー・リーヴは、世界中の恋人であり、スーパー・ヒーローそのものであり、そして脊髄損傷者たちの治癒の希望の象徴になったのである。
脊髄損傷者たちは、あなたがリハビリに努力し、超人的なスピードで回復していく様を、そして脊髄損傷者たちの代表としてスピーチする姿を見て、どんなに勇気づけられたであろうか。
わたし達はスーパー・ヒーローを、そして希望の象徴を失ったのである。
わたしの記憶の中で、あなたが最高に輝いている瞬間がある。
「スーパーマン」シリーズのラストに、あなたがファン・サービスとして必ず挿入した映像である。
地球の周りを飛ぶあなたはカメラ越しに世界中のわたし達観客に微笑みかけ、わたし達に手を振る。
その笑顔は、映画の中のヒロインであるロイス・レーンに向けられたものではなく、映画の外、現実の世界に存在するわたし達観客に向けられていたのだ。
その瞬間、わたし達はあなたを確実に愛していた。
その笑顔を、夢と正義と希望を象徴する、あなたの爽やかな笑顔をわたし達は決して忘れない。
映画俳優は観客の愛により永遠の命を得ると言う。
もしそれが本当の事ならば、世界中に愛されたあなたは、永遠の命を得ていたはずなのだ。
ぼく達は、あなたがもう一度立ち上がりスクリーンによみがえる事を信じていた。
あなたに課せられた脊髄損傷は、スーパー・ヒーローの試練に過ぎない事を信じていた。
ぼく達は、新たな世代のスーパーマンと対峙する、あの小憎らしいレックス・ルーサーを楽しげに演じるあなたの姿を夢見ていた。
なんなら、ラストに立ち上がってくれれば、普段は車椅子に乗っているレックス・ルーサーでも構わない。
ぼく達は、あなたのレックス・ルーサーが、いずれ見れると思っていた。
あなたの死はわたし達にとってあまりにも突然で、とてつもなく大きい。
映画ファンのエゴを承知で酷な事を言わせていただければ、あなたは死んではいけない人だったのだ。
C・リーブ氏死去 「スーパーマン」主演俳優
【ニューヨーク11日共同】
人気映画「スーパーマン」に主演、落馬事故で首から下が不自由になった後は障害者の権利向上などに尽力していた米国の俳優クリストファー・リーブ氏が10日、心不全のためニューヨークの病院で死去した。52歳。AP通信が伝えた。
身体のまひにともなう合併症が悪化し、9日にニューヨークの自宅で心臓発作を起こし、手当てを受けていた。
1952年ニューヨーク生まれ。ジュリアード音楽院で学び、ロンドンに留学。78年「原子力潜水艦浮上せず」で映画に初出演した。同年の映画「スーパーマン」の主役クラーク・ケントに抜てきされ、大スターの仲間入りを果たした。「スーパーマン」は87年の第4作までシリーズ化された。
95年5月、バージニア州で落馬して脊髄(せきずい)を傷めて首から下が不随となったが、病院や自宅で懸命にリハビリを続け、2002年には手や足の指先を少しだけ動かせるまでに回復していた。(共同通信)
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「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」
2004年10月12日 映画
2004/10/12 東京新宿「東京厚生年金会館」で「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」の試写を観た。
ゲストは「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ファンを代表したベッキー。
ハロウィン・タウンの王ジャック・スケリントンは、毎年繰り返されるハロウィンのお祭りにうんざりしていた。
ハロウィンの祭りの後、街を出て森をさまようジャックは、クリスマス・タウンに迷い込んでしまう。
そこは・・・・
監督:ヘンリー・セリック
製作・原案:ティム・バートン
音楽:ダニー・エルフマン
声の出演:クリス・サランドン(ジャック・スケリントン)、キャサリン・オハラ(サリー/ショック)、ウィリアム・ヒッキー(フィンケルスタイン博士)、ダニー・エルフマン(ジャックの歌/バレル他)、ポール・ルーベンス(ロック)、ケン・ページ(ウギー・ブギー)、グレン・シャーディックス(メイヤー)
本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」は、1993年に製作され、1994年に日本公開された「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のデジタルリマスター版であり、日本公開10周年記念として、2004年に日本公開されることになった作品である。
どの辺がデジタルリマスター版なのかは、チラシやオフィシャル・サイトを見ても判然としないが、フィルム自体は新作同様と言っても差支えないほどのクリアなものだった。
わたしの記憶では、旧「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のフィルムでは、ジャックの目の中や口の中ははっきりと見えなかったように記憶しているのだが、今回のリマスター版では、明度が上がったのか、ライトがあたったジャックの目の中や口の中がはっきり見えてしまっているカットが多々あり、若干興ざめの印象を受けた。
本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は、もう10年前の作品であり、既に語りつくされた感があり、わたしはこの作品について特に解説をするつもりはないのだが、本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は、ストップ・モーションと言うアニメーション手法を使った作品の最高峰のひとつだと言って差支えは無いだろう
また、映画やキャラクターの魅力を取り上げても、既にクラシックなカルト・ムービーの域に達しており、ファッションやサブ・カルチャーにも多くの影響を与える文字通りエポック・メイキングな作品としても高く評価されている。
ストップ・モーション技法については、それまでは、基本的にフィックスした画面の中(勿論それまでの映画にもカメラの動きはあったが、)で、ストップ・モーション・アニメが展開していたのであるが、本作では、カメラが信じられないほど縦横無尽に動き回り、一般の映画並みのカメラ・ワークが味わえるのである。
また、ヘンリー・セリックのストップ・モーション技術自体の冴えは言うまでも無く、中盤に登場するウギー・ブギーのダンスのシークエンスなどは、あの袋の中には、人が入ってるんじゃねえの、と思えるほど素晴らしい動きをしている。
更に、カメラの動きと俳優(人形)やプロップの動きのタイミングや間が絶妙であるし、ダニー・エルフマンのあまりにもエモーショナルな楽曲が、観客の心を鷲掴みにした上、揺さぶり続けている。
余談だが、古くはレイ・ハリーハウゼンの一連の作品から、「スター・ウォーズ エピソードV 帝国の逆襲」(1980)のトーントーンやATTAスノー・ウォーカーのシークエンス、フィル・ティペットが担当したストップ・モーションと比較して見ると興味深いかもしれない。
更に余談だが、ヘンリー・セリックの次の作品「ジャイアント・ピーチ」も凄いぞ。
まあ、結論としては今回の上映は、バージョンはともかく「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」を劇場で観ることが出来る貴重なチャンスであるから、そのチャンスを生かして多くの人々に観て欲しい作品なのだ。
あと本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」はなんだかんだ言ってティム・バートンの名前が冠についているが、きちんとヘンリー・セリックの作品として、認知しそして評価しなければならない作品んのではないか、とわたしは思うのだ。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
舞台挨拶だが、この前に「東京厚生年金会館」で試写が行われた「アラモ」のテリー伊藤同様、「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ファン代表のベッキー、というのはよくわからない人選だった。司会の映画パーソナリティ某も多分同一人物だったと思う。
しかも、話の内容は作品からどんどんかけ離れベッキーのハロウィンやクリスマスの過ごし方の話になってしまうし、映画パーソナリティ某は「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は「シザー・ハンズ」と並びティム・バートン監督作品の傑作だ、と言うにいたっては、呆れてモノが言えない。
キャストやスタッフを呼べないなら、イベントなどやらずに、即映画を上映して欲しいものだ。
なお、10月14日の「東京国際ファンタスティック映画祭」で上映される際の舞台挨拶は、ジヤックの日本語吹替えを行った市村正親が舞台挨拶に登場するらしい。(これも観にいく予定)
更に余談だが、今回の試写会には「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ファッションに身を包んだ人々が結構いた。
そんなんじゃダメだ、とは言わないが、何か勘違いしているんじゃないかな、と個人的に思った。
ファッションではなく、本質を捉えて欲しいのだ。
ゲストは「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ファンを代表したベッキー。
ハロウィン・タウンの王ジャック・スケリントンは、毎年繰り返されるハロウィンのお祭りにうんざりしていた。
ハロウィンの祭りの後、街を出て森をさまようジャックは、クリスマス・タウンに迷い込んでしまう。
そこは・・・・
監督:ヘンリー・セリック
製作・原案:ティム・バートン
音楽:ダニー・エルフマン
声の出演:クリス・サランドン(ジャック・スケリントン)、キャサリン・オハラ(サリー/ショック)、ウィリアム・ヒッキー(フィンケルスタイン博士)、ダニー・エルフマン(ジャックの歌/バレル他)、ポール・ルーベンス(ロック)、ケン・ページ(ウギー・ブギー)、グレン・シャーディックス(メイヤー)
本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」は、1993年に製作され、1994年に日本公開された「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のデジタルリマスター版であり、日本公開10周年記念として、2004年に日本公開されることになった作品である。
どの辺がデジタルリマスター版なのかは、チラシやオフィシャル・サイトを見ても判然としないが、フィルム自体は新作同様と言っても差支えないほどのクリアなものだった。
わたしの記憶では、旧「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のフィルムでは、ジャックの目の中や口の中ははっきりと見えなかったように記憶しているのだが、今回のリマスター版では、明度が上がったのか、ライトがあたったジャックの目の中や口の中がはっきり見えてしまっているカットが多々あり、若干興ざめの印象を受けた。
本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は、もう10年前の作品であり、既に語りつくされた感があり、わたしはこの作品について特に解説をするつもりはないのだが、本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は、ストップ・モーションと言うアニメーション手法を使った作品の最高峰のひとつだと言って差支えは無いだろう
また、映画やキャラクターの魅力を取り上げても、既にクラシックなカルト・ムービーの域に達しており、ファッションやサブ・カルチャーにも多くの影響を与える文字通りエポック・メイキングな作品としても高く評価されている。
ストップ・モーション技法については、それまでは、基本的にフィックスした画面の中(勿論それまでの映画にもカメラの動きはあったが、)で、ストップ・モーション・アニメが展開していたのであるが、本作では、カメラが信じられないほど縦横無尽に動き回り、一般の映画並みのカメラ・ワークが味わえるのである。
また、ヘンリー・セリックのストップ・モーション技術自体の冴えは言うまでも無く、中盤に登場するウギー・ブギーのダンスのシークエンスなどは、あの袋の中には、人が入ってるんじゃねえの、と思えるほど素晴らしい動きをしている。
更に、カメラの動きと俳優(人形)やプロップの動きのタイミングや間が絶妙であるし、ダニー・エルフマンのあまりにもエモーショナルな楽曲が、観客の心を鷲掴みにした上、揺さぶり続けている。
余談だが、古くはレイ・ハリーハウゼンの一連の作品から、「スター・ウォーズ エピソードV 帝国の逆襲」(1980)のトーントーンやATTAスノー・ウォーカーのシークエンス、フィル・ティペットが担当したストップ・モーションと比較して見ると興味深いかもしれない。
更に余談だが、ヘンリー・セリックの次の作品「ジャイアント・ピーチ」も凄いぞ。
まあ、結論としては今回の上映は、バージョンはともかく「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」を劇場で観ることが出来る貴重なチャンスであるから、そのチャンスを生かして多くの人々に観て欲しい作品なのだ。
あと本作「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」はなんだかんだ言ってティム・バートンの名前が冠についているが、きちんとヘンリー・セリックの作品として、認知しそして評価しなければならない作品んのではないか、とわたしは思うのだ。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
舞台挨拶だが、この前に「東京厚生年金会館」で試写が行われた「アラモ」のテリー伊藤同様、「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ファン代表のベッキー、というのはよくわからない人選だった。司会の映画パーソナリティ某も多分同一人物だったと思う。
しかも、話の内容は作品からどんどんかけ離れベッキーのハロウィンやクリスマスの過ごし方の話になってしまうし、映画パーソナリティ某は「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」は「シザー・ハンズ」と並びティム・バートン監督作品の傑作だ、と言うにいたっては、呆れてモノが言えない。
キャストやスタッフを呼べないなら、イベントなどやらずに、即映画を上映して欲しいものだ。
なお、10月14日の「東京国際ファンタスティック映画祭」で上映される際の舞台挨拶は、ジヤックの日本語吹替えを行った市村正親が舞台挨拶に登場するらしい。(これも観にいく予定)
更に余談だが、今回の試写会には「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」ファッションに身を包んだ人々が結構いた。
そんなんじゃダメだ、とは言わないが、何か勘違いしているんじゃないかな、と個人的に思った。
ファッションではなく、本質を捉えて欲しいのだ。
「東京国際ファンタスティック映画祭」「東京国際映画祭」
2004年10月14日 映画 今年も映画祭の季節がやって来ました。以前のように会場に入り浸り、ということもできないし、週末の旅行の予定も入っているので、今のところはこんな予定です。
『東京国際ファンタスティック映画祭』
10/14
『ナイトメアー・ビフォア・ファンタ アトラクション劇場1』
「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」
(日本語吹替版)
10/15
『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』
「TUBE チューブ」
「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」
「ガルーダ」
「リザレクション」
10/16
「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」
10/16 元気だったら当日券で見ようかな
『恐怖!恒例!プレミアムホラーナイト 20周年記念版』
「ソウ」
「スピーシーズ3」
「ハウス・オブ・ザ・デッド」
10/17 当日券が買えたら立ち見の予定
「機動戦士Zガンダム−星を継ぐ者−」
『東京国際映画祭』
10/23 オールナイト明けの一般売りにかけてます
「ハウルの動く城」
10/24
「海猫」
10/24 現在チケット未入手なんとか見たい
「ライフ・イズ・コメディ!」
10/26 現在チケット未入手なんとか見たい
「スカイキャプテン −ワールド・オブ・トゥモロー」
『東京国際ファンタスティック映画祭』
10/14
『ナイトメアー・ビフォア・ファンタ アトラクション劇場1』
「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」
(日本語吹替版)
10/15
『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』
「TUBE チューブ」
「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」
「ガルーダ」
「リザレクション」
10/16
「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」
10/16 元気だったら当日券で見ようかな
『恐怖!恒例!プレミアムホラーナイト 20周年記念版』
「ソウ」
「スピーシーズ3」
「ハウス・オブ・ザ・デッド」
10/17 当日券が買えたら立ち見の予定
「機動戦士Zガンダム−星を継ぐ者−」
『東京国際映画祭』
10/23 オールナイト明けの一般売りにかけてます
「ハウルの動く城」
10/24
「海猫」
10/24 現在チケット未入手なんとか見たい
「ライフ・イズ・コメディ!」
10/26 現在チケット未入手なんとか見たい
「スカイキャプテン −ワールド・オブ・トゥモロー」
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」
2004年10月17日 映画 さて先日お話しした「東京国際ファンタスティック映画祭2004」が終了しました。
で、結果的にわたしは次の作品を見ました。近日中に全作品のレビューを行う予定ですが、とりあえずご報告まで。
10/14
『ナイトメアー・ビフォア・ファンタ アトラクション劇場1』
「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」
(日本語吹替版)
10/15
『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』
「TUBE チューブ」
「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」
「ガルーダ」
「リザレクション」
10/16
「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」
10/17
「機動戦士Zガンダム−星を継ぐ者−」
余談ですが10/16の『東京国際映画祭』オープニング・ナイトの「ハウルの動く城」の一般販売は『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』のオールナイト明けに、チケットぴあに直行し3時間程並んだのですが、約5分程でチケットが完売、わたしは残念ながら入手できませんでした。
現在転売目的で購入されたチケットが多数オークションに出ています。
ちなみに当日同時に発売になったナビスコカップの決勝のチケットは2分で完売でした。
今回の「ハウルの動く城」チケットをわたしが購入できなかった大きな理由のひとつは会場(VTC六本木ヒルズ スクリーン7)のキャパシティが640名だ、ということだと個人的には思いました。渋谷のオーチャード・ホールは2150席ですからね。
まあいろいろ大人の事情があるのだと思いますが、従来のように渋谷で開催して欲しかったな。と思うしだいでございます。
で、結果的にわたしは次の作品を見ました。近日中に全作品のレビューを行う予定ですが、とりあえずご報告まで。
10/14
『ナイトメアー・ビフォア・ファンタ アトラクション劇場1』
「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス デジタルリマスター版」
(日本語吹替版)
10/15
『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』
「TUBE チューブ」
「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」
「ガルーダ」
「リザレクション」
10/16
「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」
10/17
「機動戦士Zガンダム−星を継ぐ者−」
余談ですが10/16の『東京国際映画祭』オープニング・ナイトの「ハウルの動く城」の一般販売は『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』のオールナイト明けに、チケットぴあに直行し3時間程並んだのですが、約5分程でチケットが完売、わたしは残念ながら入手できませんでした。
現在転売目的で購入されたチケットが多数オークションに出ています。
ちなみに当日同時に発売になったナビスコカップの決勝のチケットは2分で完売でした。
今回の「ハウルの動く城」チケットをわたしが購入できなかった大きな理由のひとつは会場(VTC六本木ヒルズ スクリーン7)のキャパシティが640名だ、ということだと個人的には思いました。渋谷のオーチャード・ホールは2150席ですからね。
まあいろいろ大人の事情があるのだと思いますが、従来のように渋谷で開催して欲しかったな。と思うしだいでございます。
「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」
2004年10月18日 映画
2004/10/17 東京新宿「新宿ミラノ座」
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」で上映された「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」を観た。
今回の上映は、総監督:富野由悠季、声の出演:池田秀一(クワトロ・バジーナ/シャア・アズナブル)、飛田展男(カミーユ・ビダン)、古谷徹(アムロ・レイ)を迎えたワールド・プレミアだった。
本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は今から20年前、1985年3月から翌年2月の間にテレビ放映された「機動戦士Zガンダム」の劇場版であり、2005年5月以降、順次公開される「機動戦士Zガンダム」全三部作の第一作目、第一部にあたる。
まず、特筆すべき点は、本作のタイトル・ロゴの「A New Translation」が示すとおり、本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は、旧「機動戦士Zガンダム」の新解釈版である、と言う事であろう。(新訳)
この辺りは、上映前の富野由悠季の挨拶『お互いに年をとりましたね。制作当初に比べ自分がイヤになっているほど中身が悪くないと気づきました。みんなが思っている「Zガンダム」とはちょっと違うかもしれないが,新しい解釈を取り入れた「Zガンダム」をぜひ読みとって欲しい。』=『本作は、以前の「Zガンダム」の物語と全く違うが、内容は全く同じである。こんな物語の表現方法もある』的は発言は全くその通りで、本作は従来の「Zガンダム」の物語を踏襲しながらも、異なる印象を観客に与える事に成功しそうな作品に思えた。(第一部のみで考えるとその手法は見事に成功している)
つまり本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は、根底に流れる物語(事実/fact)は同じでも視点を変えると違った物語(真実/truth)が見えてくると言った、黒澤明の「羅生門」をはじめとする、所謂「藪の中」的な構造を持った作品のひとつだと言えるのではないだろうか。
そして第一部である本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の物語は、わたしの目には、旧テレビ・シリーズの主人公だったカミーユが脇役となり、その脇に退いたカミーユの視点でシャアとアムロの物語を見ている、というような構成の物語に見えた訳である。
特にラストのシークエンスはその傾向が非常に強く、カミーユの少年の心と視点が、われわれ観客の少年の心と共に、凄まじいほどの憧憬の、そして羨望の念に駆られる幸せな瞬間であった。
さて気になる作画のクオリティだが、いかんせん20年前の作画と最新の作画が共存する本作は、やはり若干の違和感の存在を否めない。特にカミーユの表情のギャップが大きな違和感を醸し出しているような印象を受けた。
個人的には、出来る事ならば、本編全てを新作のカットで構成して欲しかったと思う。逆に言うと、新作カットにはそれほど力が入っているような印象を受けた、という訳だ。
しかし、この時代、20年前の作品の作画を残したまま、新作劇場作品を制作する、ということは凄いことだな、と思う。
この時代に、旧作のカットを流用した新作アニメーション作品が存在することに驚きの念を禁じえない。
まあ、2005年5月公開の作品について現時点であれこれ言っても仕方がないので、細かい話は割愛するが、少なくても大興奮の素晴らしい作品に仕上がっているのは事実なのだが、果たして旧「Zガンダム」を知らない人が見ておもしろいかどうかは残念ながら疑問である。
旧「Zガンダム」は、30分のプログラムが50本あった訳であるから、正味23分かける50本で、トータル19時間あまりの作品を6時間に仕上げる訳であるから、物語の展開は早く、いわゆるダイジェスト版的な印象は否めないのではないだろうか。
尤も、前述のとおり「A New Translation」的な手法は充分機能していると思うのだが、それが全ての観客に理解されるかどうかは難しいのかな、と思うわけだ。
余談だが「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」のレビューが多くのサイトや、ブログで公開されている。
比較的多くのサイトやブログが、旧「機動戦士Zガンダム」と本作との相違点をあげつらう事に終始している。
作品の枝葉ではなく、大元の物語を見ることを考えていただきたいと思うのだ。
重要なのは、捨てられた野菜の葉や、魚の骨ではなく、器に盛られた料理を味わうことだと思うのだ。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」チケットにまつわるお話
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」チケット販売日当日、わたしは池袋東武のチケットぴあに9:00頃から並んでいた。
10:00の開店と同時にチケットの販売が始まり、わたしの計画では、おそらく一番人気の「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」を早めに抑えるつもりだったのだが、どうしても見たかった『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』と『ナイトメアー・ビフォア・ファンタ アトラクション劇場1』を先に押さえてしまった。
その微妙なタイムラグのため、「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は完売、仕方がなく次点の「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」を押さえた。
さて当日券だが、「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の当日券は10:00から150枚だけ販売するという情報を得たわたしは、8:20頃に会場に到着するが、既に整理券の配布は済み、150枚のチケットの購入者は決定されていた。あきらめきりないわたしは、係の人と雑談をしていたところ、一人の女性が列から出て来た。
体調が悪くなったので帰ります。という彼女の手には一枚の整理券が・・・・。
たまたまそこにいたわたしは、その女性からその整理券を譲り受け、列の最後尾につく事になった。世の中不思議なことはあるものですね。
さて、その女性だが、係の人が救急車を呼びましょうか、とかいいながら連れて行ってしまったので、きちんとしたお礼が出来なかったわたしは残念な思いでいっぱいなのだ。
もし、このブログを見ていただけたなら、ご連絡をいただければ幸いです。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
ところで、当日券の最後尾だったわたしは、予定通り立ち見だった。
立ち見といっても、舞台挨拶や、本編を見る分にはぜんぜん問題はなかった。
わたしが選んだ立ち見の場所はスクリーンに向かって右端の通路であったのだが、本編終了後、実はゲストの皆さんが座っていた席のすぐ近くであった。
拍手に送られたゲスト4名は、すたすたと新宿歌舞伎町を歩いていく。立ち見だったわたしは何の気なしに、彼等を尾行したわけだ。
歌舞伎町の街を平然と歩く富野由悠季、池田秀一、飛田展男、古谷徹の4人組。なんとも不思議な光景であった。
☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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「東京国際ファンタスティック映画祭2004」で上映された「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」を観た。
今回の上映は、総監督:富野由悠季、声の出演:池田秀一(クワトロ・バジーナ/シャア・アズナブル)、飛田展男(カミーユ・ビダン)、古谷徹(アムロ・レイ)を迎えたワールド・プレミアだった。
本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は今から20年前、1985年3月から翌年2月の間にテレビ放映された「機動戦士Zガンダム」の劇場版であり、2005年5月以降、順次公開される「機動戦士Zガンダム」全三部作の第一作目、第一部にあたる。
まず、特筆すべき点は、本作のタイトル・ロゴの「A New Translation」が示すとおり、本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は、旧「機動戦士Zガンダム」の新解釈版である、と言う事であろう。(新訳)
この辺りは、上映前の富野由悠季の挨拶『お互いに年をとりましたね。制作当初に比べ自分がイヤになっているほど中身が悪くないと気づきました。みんなが思っている「Zガンダム」とはちょっと違うかもしれないが,新しい解釈を取り入れた「Zガンダム」をぜひ読みとって欲しい。』=『本作は、以前の「Zガンダム」の物語と全く違うが、内容は全く同じである。こんな物語の表現方法もある』的は発言は全くその通りで、本作は従来の「Zガンダム」の物語を踏襲しながらも、異なる印象を観客に与える事に成功しそうな作品に思えた。(第一部のみで考えるとその手法は見事に成功している)
つまり本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は、根底に流れる物語(事実/fact)は同じでも視点を変えると違った物語(真実/truth)が見えてくると言った、黒澤明の「羅生門」をはじめとする、所謂「藪の中」的な構造を持った作品のひとつだと言えるのではないだろうか。
そして第一部である本作「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の物語は、わたしの目には、旧テレビ・シリーズの主人公だったカミーユが脇役となり、その脇に退いたカミーユの視点でシャアとアムロの物語を見ている、というような構成の物語に見えた訳である。
特にラストのシークエンスはその傾向が非常に強く、カミーユの少年の心と視点が、われわれ観客の少年の心と共に、凄まじいほどの憧憬の、そして羨望の念に駆られる幸せな瞬間であった。
さて気になる作画のクオリティだが、いかんせん20年前の作画と最新の作画が共存する本作は、やはり若干の違和感の存在を否めない。特にカミーユの表情のギャップが大きな違和感を醸し出しているような印象を受けた。
個人的には、出来る事ならば、本編全てを新作のカットで構成して欲しかったと思う。逆に言うと、新作カットにはそれほど力が入っているような印象を受けた、という訳だ。
しかし、この時代、20年前の作品の作画を残したまま、新作劇場作品を制作する、ということは凄いことだな、と思う。
この時代に、旧作のカットを流用した新作アニメーション作品が存在することに驚きの念を禁じえない。
まあ、2005年5月公開の作品について現時点であれこれ言っても仕方がないので、細かい話は割愛するが、少なくても大興奮の素晴らしい作品に仕上がっているのは事実なのだが、果たして旧「Zガンダム」を知らない人が見ておもしろいかどうかは残念ながら疑問である。
旧「Zガンダム」は、30分のプログラムが50本あった訳であるから、正味23分かける50本で、トータル19時間あまりの作品を6時間に仕上げる訳であるから、物語の展開は早く、いわゆるダイジェスト版的な印象は否めないのではないだろうか。
尤も、前述のとおり「A New Translation」的な手法は充分機能していると思うのだが、それが全ての観客に理解されるかどうかは難しいのかな、と思うわけだ。
余談だが「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」のレビューが多くのサイトや、ブログで公開されている。
比較的多くのサイトやブログが、旧「機動戦士Zガンダム」と本作との相違点をあげつらう事に終始している。
作品の枝葉ではなく、大元の物語を見ることを考えていただきたいと思うのだ。
重要なのは、捨てられた野菜の葉や、魚の骨ではなく、器に盛られた料理を味わうことだと思うのだ。
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「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」チケットにまつわるお話
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」チケット販売日当日、わたしは池袋東武のチケットぴあに9:00頃から並んでいた。
10:00の開店と同時にチケットの販売が始まり、わたしの計画では、おそらく一番人気の「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」を早めに抑えるつもりだったのだが、どうしても見たかった『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』と『ナイトメアー・ビフォア・ファンタ アトラクション劇場1』を先に押さえてしまった。
その微妙なタイムラグのため、「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」は完売、仕方がなく次点の「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」を押さえた。
さて当日券だが、「機動戦士Zガンダム 星を継ぐ者」の当日券は10:00から150枚だけ販売するという情報を得たわたしは、8:20頃に会場に到着するが、既に整理券の配布は済み、150枚のチケットの購入者は決定されていた。あきらめきりないわたしは、係の人と雑談をしていたところ、一人の女性が列から出て来た。
体調が悪くなったので帰ります。という彼女の手には一枚の整理券が・・・・。
たまたまそこにいたわたしは、その女性からその整理券を譲り受け、列の最後尾につく事になった。世の中不思議なことはあるものですね。
さて、その女性だが、係の人が救急車を呼びましょうか、とかいいながら連れて行ってしまったので、きちんとしたお礼が出来なかったわたしは残念な思いでいっぱいなのだ。
もし、このブログを見ていただけたなら、ご連絡をいただければ幸いです。
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ところで、当日券の最後尾だったわたしは、予定通り立ち見だった。
立ち見といっても、舞台挨拶や、本編を見る分にはぜんぜん問題はなかった。
わたしが選んだ立ち見の場所はスクリーンに向かって右端の通路であったのだが、本編終了後、実はゲストの皆さんが座っていた席のすぐ近くであった。
拍手に送られたゲスト4名は、すたすたと新宿歌舞伎町を歩いていく。立ち見だったわたしは何の気なしに、彼等を尾行したわけだ。
歌舞伎町の街を平然と歩く富野由悠季、池田秀一、飛田展男、古谷徹の4人組。なんとも不思議な光景であった。
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「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」
2004年10月19日 映画
2004/10/16 東京新宿「新宿ミラノ座」
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」で上映された、『東京ファンタ20周年記念上映「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」』を観た。
今回の上映は、監督:冨樫森、出演:池松壮亮(金田正太郎)、蒼井優(立花真美)、視覚効果:松本肇を迎えたワールド・プレミアだった。
首都東京で突然サイバーテロが発生した。さらに巨大ロボット「ブラックオックス」が飛来、街を次々と破壊していく。首謀者「ゼロ」の目的は自らが開発したバイオコンピュータで理想郷をつくりあげることだった。
金田正太郎(池松壮亮)は、母陽子(薬師丸ひろ子)と二人暮しの小学生。そんな正太郎の元に謎の老人綾部達蔵(中村嘉葎雄)から一本の電話が入る。「あなたのお父さんのことでお話があります」それは亡き父正一郎(阿部寛)が遺した「鉄人28号」の話だった。
綾部は正一郎の遺言と正太郎のロボット操縦適正を説き、鉄人28号を操縦しブラックオックスと戦うよう正太郎を説く。正太郎はとまどいながらもリモコンを手に、ブラックオックスに立ち向かうが・・・・。
(「東京ファンタ」オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
スタッフ
監督:冨樫森
原作:横山光輝
脚本:斉藤ひろし、山田耕大
音楽:千住明
撮影:山本英夫
照明:小野晃
視覚効果:松本肇
キャスト
金田正太郎:池松壮亮
立花真美:蒼井優
金田陽子:薬師丸ひろ子(友情出演)
宅見零児:香川照之
貴島レイラ・ニールソン:川原亜矢子
江島香奈:中澤裕子
村雨研二:高岡蒼佑
田浦慶太郎:伊武雅刀
金田正一郎:阿部寛
大塚雄之助:柄本明
綾部達蔵:中村嘉葎雄
最近流行の漫画の実写化作品のとりを飾るのは、企画や撮影は比較的早かったのだが、CGI等ポスト・プロダクションに多くの年月を費やして完成した「鉄人28号」だった。
全てのロボットはシルエット等間接的な手法で描かれ、一切画面には登場しない、と言う噂が流れていた「鉄人28号」だったのだが、蓋を開けてみると、画面狭しとCGIの鉄人やブラック・オックスが大暴れする作品に仕上がっていた。
とは言うものの、監督は冨樫森である。
映画の冒頭部分で、金田正太郎少年(池松壮亮)の境遇を丹念に描いていく。描写のスタンスは、母子家庭の少年の生活を描いた一般的な映画のそれであって、ロボット映画のそれではない。
そしてその描写は、正太郎少年の境遇を、嗜好を、特技を、間接的に或いは直接的に丹念に描いていく。
更にその背景となる街並みは平凡でノスタルジックな、どこにでもある街並みを見事に切り取っている。
その中で、正太郎の母陽子を演じた薬師丸ひろ子が特に素晴らしかった。彼女が登場する食卓のシークエンスにしろ、病院のシークエンスにしろ抜群の存在感と演技が楽しめるのである。
セリフは勿論、女優が表情や仕草、身体の動きで心象を表現する様は見ていて楽しいものがある。特に病院で正太郎の背中を押した後の長回しの表情と仕草は絶品である。
いつになったらロボットが出て来るんだよ、と観客がしびれを切らし始めた瞬間、ブラック・オックスが首都東京に襲来する。
ワックスをかけた自動車のような、ロボットの表面処理に賛否はあろうが、ブラック・オックス襲来のシークエンスは圧巻である。
特にブラック・オックスが東京タワーをナニするシークエンスは、構図や背景は勿論、東京タワーの質感や動きを含めて大変素晴らしいシークエンスに仕上がっている。本作をロボット大活劇と捉えた場合、このシークエンスが本作最大の見せ場だと言っても差支えないだろう。
また増上寺の境内に降りたブラック・オックスに対するカラスの演出が憎い。
こういったロボット大活躍シークエンスの成功は、首都東京の街並みをロケ撮影した映像を大きな改変を行わずに背景に利用した点が大きいと思う。
またブラック・オックスや鉄人のサイズも「ビルの谷間でガオー」的に丁度良いサイズだと思った。
とは言うものの、ロボットのアップの質感に違和感があるのは否めない。尤も引いた画面で背景の中にロボットを溶け込ませることには概ね成功しているので、アップではなく、引いた映像の多用が成功の鍵ではないだろうか。
しかし、その後本作は「ロボット大活劇」より「少年の成長を描いた人間ドラマ」になっていくあたりは、非常に残念である。
勿論、鉄人28号とブラック・オックスの戦いの様子は、リアリティがある、と言えば抜群にリアリティがあり、言わば従来のロボット・プロレスものに対するアンチテーゼとして機能するような意欲的な演出である、とも言えるのだが、だとしても多くの観客は納得しないだろう。
なにしろ本作を「ロボット大活劇」と捉えた場合、何よりも必要なカタルシスが感じられないのだ。
また鉄人28号の質感に違和感を感じる。
一応物語では、職人たちの手作業で鉄人が作られた設定になっているのだから、光沢仕様ではなくマットな感じにするとか、リベットをたくさん打つとか、ブラック・オックスとの相違を見せるべきだと思う。
あれだと同じ技術基盤の上で、両ロボットが開発されたような印象を受ける。
とは言え、本作を「少年の成長を描いた人間ドラマ」と捉えた場合は、見事な作品に見えてくるから映画と言うものは面白い。
とにかく、ビルの谷間で大暴れする「リアル」な怪獣(ロボット)を見たい方には、結構おすすめの作品である。もれなく人間ドラマも付いてくるし。
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キャスト的には、前述の陽子を演じた薬師丸ひろ子が素晴らしい。本作を「人間ドラマ」として考えた場合彼女の存在は必要不可欠である。
また、トム・クルーズと共演した池松壮亮(金田正太郎)も良かった。何しろ薬師丸ひろ子に負けていない。
正太郎を引き込む綾部を演じた中村嘉葎雄は、この映画最高のセリフを吐くし、存在感があって良いのだが、テンポが若干のろい。それは勿論俳優としての「間」なんだろうが、他の役者のテンポと比較し違和感を覚える。
田浦慶太郎の伊武雅刀と大塚雄之助の柄本明は、コメディ・リリーフとは言え、若干オーバー・アクトだと思う。コミカルなシーンなど挿入する必要が無い映画ではないだろうか。
天才科学者立花真美を演じた蒼井優は、脚本上セリフがあまり良くなかったのだと思うし、残念ながら役不足だと言わざるを得ない。天才科学者をステレオタイプに描くのではなく、普通の人間として描くべきだった。
宅見零児を演じた香川照之はミス・キャストだろう。彼の役どころとしては、生真面目で泥臭い役柄、丁度「鉄人28号」を作った職人さんにピッタリだと思う。
金田正一郎を演じた阿部寛はソツなくこなしていたが、阿部寛のインチキ臭い感じが若干残っていた。
二人の刑事、江島香奈(中澤裕子)と村雨研二(高岡蒼佑)については、中澤裕子はまあまあ良かったのだが、高岡蒼佑は脚本上、問題があったような気がする。
余談だがオープニング・タイトルも泣けるぞ。
舞台挨拶では、松本肇が「東京ファンタ」への熱い思いを語ったのが印象的であった。かつての「東京ファンタ」を知らない、いとうせいこうは何も言えなかった。
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」で上映された、『東京ファンタ20周年記念上映「鉄人28号 インターナショナル・ヴァージョン」』を観た。
今回の上映は、監督:冨樫森、出演:池松壮亮(金田正太郎)、蒼井優(立花真美)、視覚効果:松本肇を迎えたワールド・プレミアだった。
首都東京で突然サイバーテロが発生した。さらに巨大ロボット「ブラックオックス」が飛来、街を次々と破壊していく。首謀者「ゼロ」の目的は自らが開発したバイオコンピュータで理想郷をつくりあげることだった。
金田正太郎(池松壮亮)は、母陽子(薬師丸ひろ子)と二人暮しの小学生。そんな正太郎の元に謎の老人綾部達蔵(中村嘉葎雄)から一本の電話が入る。「あなたのお父さんのことでお話があります」それは亡き父正一郎(阿部寛)が遺した「鉄人28号」の話だった。
綾部は正一郎の遺言と正太郎のロボット操縦適正を説き、鉄人28号を操縦しブラックオックスと戦うよう正太郎を説く。正太郎はとまどいながらもリモコンを手に、ブラックオックスに立ち向かうが・・・・。
(「東京ファンタ」オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
スタッフ
監督:冨樫森
原作:横山光輝
脚本:斉藤ひろし、山田耕大
音楽:千住明
撮影:山本英夫
照明:小野晃
視覚効果:松本肇
キャスト
金田正太郎:池松壮亮
立花真美:蒼井優
金田陽子:薬師丸ひろ子(友情出演)
宅見零児:香川照之
貴島レイラ・ニールソン:川原亜矢子
江島香奈:中澤裕子
村雨研二:高岡蒼佑
田浦慶太郎:伊武雅刀
金田正一郎:阿部寛
大塚雄之助:柄本明
綾部達蔵:中村嘉葎雄
最近流行の漫画の実写化作品のとりを飾るのは、企画や撮影は比較的早かったのだが、CGI等ポスト・プロダクションに多くの年月を費やして完成した「鉄人28号」だった。
全てのロボットはシルエット等間接的な手法で描かれ、一切画面には登場しない、と言う噂が流れていた「鉄人28号」だったのだが、蓋を開けてみると、画面狭しとCGIの鉄人やブラック・オックスが大暴れする作品に仕上がっていた。
とは言うものの、監督は冨樫森である。
映画の冒頭部分で、金田正太郎少年(池松壮亮)の境遇を丹念に描いていく。描写のスタンスは、母子家庭の少年の生活を描いた一般的な映画のそれであって、ロボット映画のそれではない。
そしてその描写は、正太郎少年の境遇を、嗜好を、特技を、間接的に或いは直接的に丹念に描いていく。
更にその背景となる街並みは平凡でノスタルジックな、どこにでもある街並みを見事に切り取っている。
その中で、正太郎の母陽子を演じた薬師丸ひろ子が特に素晴らしかった。彼女が登場する食卓のシークエンスにしろ、病院のシークエンスにしろ抜群の存在感と演技が楽しめるのである。
セリフは勿論、女優が表情や仕草、身体の動きで心象を表現する様は見ていて楽しいものがある。特に病院で正太郎の背中を押した後の長回しの表情と仕草は絶品である。
いつになったらロボットが出て来るんだよ、と観客がしびれを切らし始めた瞬間、ブラック・オックスが首都東京に襲来する。
ワックスをかけた自動車のような、ロボットの表面処理に賛否はあろうが、ブラック・オックス襲来のシークエンスは圧巻である。
特にブラック・オックスが東京タワーをナニするシークエンスは、構図や背景は勿論、東京タワーの質感や動きを含めて大変素晴らしいシークエンスに仕上がっている。本作をロボット大活劇と捉えた場合、このシークエンスが本作最大の見せ場だと言っても差支えないだろう。
また増上寺の境内に降りたブラック・オックスに対するカラスの演出が憎い。
こういったロボット大活躍シークエンスの成功は、首都東京の街並みをロケ撮影した映像を大きな改変を行わずに背景に利用した点が大きいと思う。
またブラック・オックスや鉄人のサイズも「ビルの谷間でガオー」的に丁度良いサイズだと思った。
とは言うものの、ロボットのアップの質感に違和感があるのは否めない。尤も引いた画面で背景の中にロボットを溶け込ませることには概ね成功しているので、アップではなく、引いた映像の多用が成功の鍵ではないだろうか。
しかし、その後本作は「ロボット大活劇」より「少年の成長を描いた人間ドラマ」になっていくあたりは、非常に残念である。
勿論、鉄人28号とブラック・オックスの戦いの様子は、リアリティがある、と言えば抜群にリアリティがあり、言わば従来のロボット・プロレスものに対するアンチテーゼとして機能するような意欲的な演出である、とも言えるのだが、だとしても多くの観客は納得しないだろう。
なにしろ本作を「ロボット大活劇」と捉えた場合、何よりも必要なカタルシスが感じられないのだ。
また鉄人28号の質感に違和感を感じる。
一応物語では、職人たちの手作業で鉄人が作られた設定になっているのだから、光沢仕様ではなくマットな感じにするとか、リベットをたくさん打つとか、ブラック・オックスとの相違を見せるべきだと思う。
あれだと同じ技術基盤の上で、両ロボットが開発されたような印象を受ける。
とは言え、本作を「少年の成長を描いた人間ドラマ」と捉えた場合は、見事な作品に見えてくるから映画と言うものは面白い。
とにかく、ビルの谷間で大暴れする「リアル」な怪獣(ロボット)を見たい方には、結構おすすめの作品である。もれなく人間ドラマも付いてくるし。
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キャスト的には、前述の陽子を演じた薬師丸ひろ子が素晴らしい。本作を「人間ドラマ」として考えた場合彼女の存在は必要不可欠である。
また、トム・クルーズと共演した池松壮亮(金田正太郎)も良かった。何しろ薬師丸ひろ子に負けていない。
正太郎を引き込む綾部を演じた中村嘉葎雄は、この映画最高のセリフを吐くし、存在感があって良いのだが、テンポが若干のろい。それは勿論俳優としての「間」なんだろうが、他の役者のテンポと比較し違和感を覚える。
田浦慶太郎の伊武雅刀と大塚雄之助の柄本明は、コメディ・リリーフとは言え、若干オーバー・アクトだと思う。コミカルなシーンなど挿入する必要が無い映画ではないだろうか。
天才科学者立花真美を演じた蒼井優は、脚本上セリフがあまり良くなかったのだと思うし、残念ながら役不足だと言わざるを得ない。天才科学者をステレオタイプに描くのではなく、普通の人間として描くべきだった。
宅見零児を演じた香川照之はミス・キャストだろう。彼の役どころとしては、生真面目で泥臭い役柄、丁度「鉄人28号」を作った職人さんにピッタリだと思う。
金田正一郎を演じた阿部寛はソツなくこなしていたが、阿部寛のインチキ臭い感じが若干残っていた。
二人の刑事、江島香奈(中澤裕子)と村雨研二(高岡蒼佑)については、中澤裕子はまあまあ良かったのだが、高岡蒼佑は脚本上、問題があったような気がする。
余談だがオープニング・タイトルも泣けるぞ。
舞台挨拶では、松本肇が「東京ファンタ」への熱い思いを語ったのが印象的であった。かつての「東京ファンタ」を知らない、いとうせいこうは何も言えなかった。
「TEAM AMERICA: WORLD POLICE」情報
2004年10月20日 映画 全くの余談だが、本日10月20日(水)、WOWOWで放送された「Holliwood Express」で「TEAM AMERICA: WORLD POLICE」が紹介された。
映像自体はWEBで公開されている予告編に字幕が付いたものだと思うのだが、若干部分部分が長いような気がした。
23日(土)に同名の番組が放映されるが、もしかしたら本日放映された番組の再放送かも知れないので、お知らせするのだ。
まあ、それだけである。
映像自体はWEBで公開されている予告編に字幕が付いたものだと思うのだが、若干部分部分が長いような気がした。
23日(土)に同名の番組が放映されるが、もしかしたら本日放映された番組の再放送かも知れないので、お知らせするのだ。
まあ、それだけである。
2004/10/15 東京新宿「新宿ミラノ座」
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」のオールナイト企画『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』で上映されたタイ映画「ガルーダ」を観た。
舞台挨拶は、監督のモントン・アラヤンクン、プロダクションデザインのヴォラウ・ヌンゴン。
バンコクの地下鉄工事現場で謎の化石が発見された。
タイ政府の依頼で調査に訪れた科学者リーナは、亡き父が追い求めていた伝説の神鳥ガルーダの化石ではないか、と考える。
リーナはこの歴史的発見の公表を望むが、民衆のガルーダ信仰を揺るがすことを恐れたタイ政府は現場を封鎖、その事実を隠蔽しようとする。
そんな中、太古の昔に幽閉された一体のガルーダが長く深い眠りから目覚め、人食い獣と化し、タイ軍特殊部隊に襲い掛かってきた。
リーナ等科学者とタイ軍特殊部隊は急遽団結、「最強の鳥の王」ガルーダに命がけの闘いを挑む! (「東京ファンタ」オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
タイ映画界の技術力の高さに驚かされた。
わたしが「ガルーダ」を観た時点で、観た事があるタイ映画は「マッハ!」と「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」(後日レビュー予定)位であった。
そんな経験からか、わたしはタイ映画の技術に対して漠然とした先入観を持っていたのだ。
それは、ジャッキー・チェンやツイ・ハークが描く香港映画に登場する村々のイメージや、それをフィルムに収めた画質のテイストと、「マッハ!」や「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」に登場する村々のイメージやフィルムのテイストには類似点が多いことから、おそらくタイ映画の技術力は当時の香港レベルではないかと思っていた訳である。
しかし「ガルーダ」の技術レベルは、わたしの先入観を遥かに凌ぐものであった。
そのレベルは日本映画どころではなく、ハリウッド映画をも凌ぐ勢いなのだ。
私見だが、CGIと人間が同じ画面で戦うような映像のクオリティは、最近作では「バイオ・ハザードII アポカリプス」や「ヴァン・ヘルシング」等の作品をも凌いでいる。
しかも、本作「ガルーダ」は、モントン・アラヤンクン監督の初監督作品だ、というのにも驚かされた。
初監督作品で、このような大掛かりな、技術レベルを要求される作品を撮ってしまう、または出資してしまう事に驚きなのだ。
物語は地下鉄工事現場と言う閉鎖された空間で、CGIで描かれた一体の「ガルーダ」とタイ軍特殊部隊が戦う、と言うもので、わかりやすく言うと「エイリアン」や「ジュラシック・パーク」のような舞台設定とテイストを持つ作品だと言えるのではないだろうか。
物語は残念ながらありがちなものなのだが、演出もカット割りも構図もソツが無く、なによりCGIキャラクターと人間や背景との融和が素晴らしい。
私見だが、例えばハリウッド大作「ヴァン・ヘルシング」でさえ、CGIキャラクターと人間や背景との間に違和感や齟齬が感じられると言うのに、「ガルーダ」では、そんな違和感がほとんど気にならないのである。
しかもガルーダが格好良い。
余談だが、タイに「デビルマン」の権利を売るのも、ありかも知れない、と個人的に思った。
わたしがいつも言うように、日本人として香港映画や韓国映画に嫉妬や羨望を感じる昨今だが、それがタイ映画にまで広がってしまった訳なのだ、危うし!日本映画!!
邦画は一体どうなってしまうのだろうか。
例えば「マッハ!」や「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」のような、語弊はあるが、粗雑だが勢いがあるような作品ではなく、CGIを駆使し、大胆で緻密な娯楽作品を制作することができるタイ映画に羨望と恐怖を禁じえないのだ。
何しろ本作「ガルーダ」は、普通に鑑賞できる普通の娯楽作品に仕上がっているのだ。
下手をすると、ハリウッド映画だよ、と言って公開しても誰も気がつかないのではないだろうか。そんなVFXや作品自体のクオリティの高い娯楽作品なのだ。
タイ映画の実力を測る意味からも、機会があれば、是非観て欲しい作品である。
観る人が観れば、タイ映画の底力を垣間見ることが出来る、ある意味恐ろしい作品に姿を変えてしまうかもしれない。
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因みにこの作品はタイ初の「怪獣映画」だそうである。
日本人が考える所謂「怪獣映画」とは異なり、前述したように「エイリアン」や「ジュラシック・パーク」のような作品だと思う。もしかしたらタイでは「エイリアン」のような作品も「怪獣映画」とカテゴライズされるのかな、と思った。
ポスター等のアートワークを見ると、「デビルマン」ミート「ガッチャマン」的な印象を受けた。
驚いたのは、監督のモントン・アラヤンクンやプロダクションデザイナーのヴォラウ・ヌンゴンらの舞台挨拶の中で、「東京ファンタ」のスクリーンで、「東京ファンタ」の観客の前で、自分たちの作品が上映される事に対する喜びがひしひしと伝わって来たことである。
「東京ファンタ」は彼等にとっての「夢の舞台」だった訳である。
かつて、ホラーやスプラッタ、香港ノワールや初期のワイヤー・アクション、マサラ・ムービーや韓流、タイ映画と、時代に先駆け様々なジャンルの先駆的作品や鬼子のような作品を次々と日本や世界に紹介してきた「東京国際ファンタスティック映画祭」の存在意義とその影響力を再確認した思いがする。
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スタッフ
監督・脚本:モントン・アラヤンクン
美術:ヴォラウ・ヌンゴン
キャスト
ソンラン・テピタック
サラ・レッグ
ダニエル・B・フレイザー
ヤニー・トラモン
チャラニ・ナ・ソンクラ
「ガルーダ」ポスター
http://tokyofanta.com/tfanta_saku/image/m040826223348.jpg
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」のオールナイト企画『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』で上映されたタイ映画「ガルーダ」を観た。
舞台挨拶は、監督のモントン・アラヤンクン、プロダクションデザインのヴォラウ・ヌンゴン。
バンコクの地下鉄工事現場で謎の化石が発見された。
タイ政府の依頼で調査に訪れた科学者リーナは、亡き父が追い求めていた伝説の神鳥ガルーダの化石ではないか、と考える。
リーナはこの歴史的発見の公表を望むが、民衆のガルーダ信仰を揺るがすことを恐れたタイ政府は現場を封鎖、その事実を隠蔽しようとする。
そんな中、太古の昔に幽閉された一体のガルーダが長く深い眠りから目覚め、人食い獣と化し、タイ軍特殊部隊に襲い掛かってきた。
リーナ等科学者とタイ軍特殊部隊は急遽団結、「最強の鳥の王」ガルーダに命がけの闘いを挑む! (「東京ファンタ」オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
タイ映画界の技術力の高さに驚かされた。
わたしが「ガルーダ」を観た時点で、観た事があるタイ映画は「マッハ!」と「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」(後日レビュー予定)位であった。
そんな経験からか、わたしはタイ映画の技術に対して漠然とした先入観を持っていたのだ。
それは、ジャッキー・チェンやツイ・ハークが描く香港映画に登場する村々のイメージや、それをフィルムに収めた画質のテイストと、「マッハ!」や「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」に登場する村々のイメージやフィルムのテイストには類似点が多いことから、おそらくタイ映画の技術力は当時の香港レベルではないかと思っていた訳である。
しかし「ガルーダ」の技術レベルは、わたしの先入観を遥かに凌ぐものであった。
そのレベルは日本映画どころではなく、ハリウッド映画をも凌ぐ勢いなのだ。
私見だが、CGIと人間が同じ画面で戦うような映像のクオリティは、最近作では「バイオ・ハザードII アポカリプス」や「ヴァン・ヘルシング」等の作品をも凌いでいる。
しかも、本作「ガルーダ」は、モントン・アラヤンクン監督の初監督作品だ、というのにも驚かされた。
初監督作品で、このような大掛かりな、技術レベルを要求される作品を撮ってしまう、または出資してしまう事に驚きなのだ。
物語は地下鉄工事現場と言う閉鎖された空間で、CGIで描かれた一体の「ガルーダ」とタイ軍特殊部隊が戦う、と言うもので、わかりやすく言うと「エイリアン」や「ジュラシック・パーク」のような舞台設定とテイストを持つ作品だと言えるのではないだろうか。
物語は残念ながらありがちなものなのだが、演出もカット割りも構図もソツが無く、なによりCGIキャラクターと人間や背景との融和が素晴らしい。
私見だが、例えばハリウッド大作「ヴァン・ヘルシング」でさえ、CGIキャラクターと人間や背景との間に違和感や齟齬が感じられると言うのに、「ガルーダ」では、そんな違和感がほとんど気にならないのである。
しかもガルーダが格好良い。
余談だが、タイに「デビルマン」の権利を売るのも、ありかも知れない、と個人的に思った。
わたしがいつも言うように、日本人として香港映画や韓国映画に嫉妬や羨望を感じる昨今だが、それがタイ映画にまで広がってしまった訳なのだ、危うし!日本映画!!
邦画は一体どうなってしまうのだろうか。
例えば「マッハ!」や「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」のような、語弊はあるが、粗雑だが勢いがあるような作品ではなく、CGIを駆使し、大胆で緻密な娯楽作品を制作することができるタイ映画に羨望と恐怖を禁じえないのだ。
何しろ本作「ガルーダ」は、普通に鑑賞できる普通の娯楽作品に仕上がっているのだ。
下手をすると、ハリウッド映画だよ、と言って公開しても誰も気がつかないのではないだろうか。そんなVFXや作品自体のクオリティの高い娯楽作品なのだ。
タイ映画の実力を測る意味からも、機会があれば、是非観て欲しい作品である。
観る人が観れば、タイ映画の底力を垣間見ることが出来る、ある意味恐ろしい作品に姿を変えてしまうかもしれない。
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因みにこの作品はタイ初の「怪獣映画」だそうである。
日本人が考える所謂「怪獣映画」とは異なり、前述したように「エイリアン」や「ジュラシック・パーク」のような作品だと思う。もしかしたらタイでは「エイリアン」のような作品も「怪獣映画」とカテゴライズされるのかな、と思った。
ポスター等のアートワークを見ると、「デビルマン」ミート「ガッチャマン」的な印象を受けた。
驚いたのは、監督のモントン・アラヤンクンやプロダクションデザイナーのヴォラウ・ヌンゴンらの舞台挨拶の中で、「東京ファンタ」のスクリーンで、「東京ファンタ」の観客の前で、自分たちの作品が上映される事に対する喜びがひしひしと伝わって来たことである。
「東京ファンタ」は彼等にとっての「夢の舞台」だった訳である。
かつて、ホラーやスプラッタ、香港ノワールや初期のワイヤー・アクション、マサラ・ムービーや韓流、タイ映画と、時代に先駆け様々なジャンルの先駆的作品や鬼子のような作品を次々と日本や世界に紹介してきた「東京国際ファンタスティック映画祭」の存在意義とその影響力を再確認した思いがする。
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スタッフ
監督・脚本:モントン・アラヤンクン
美術:ヴォラウ・ヌンゴン
キャスト
ソンラン・テピタック
サラ・レッグ
ダニエル・B・フレイザー
ヤニー・トラモン
チャラニ・ナ・ソンクラ
「ガルーダ」ポスター
http://tokyofanta.com/tfanta_saku/image/m040826223348.jpg
「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」
2004年10月22日 映画2004/10/15 東京新宿「新宿ミラノ座」
「東京国際ファンタスティック映画祭2004」のオールナイト企画『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』で上映されたタイ映画「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」を観た。
アクション危険度・極限値!もはやノー・ワイヤー&ノー・CGは当たり前!「マッハ!」のアクション監督が、「マッハ!」を超える極限の危険に挑む。
麻薬密売組織の首領を逮捕したものの、その最中、同僚刑事を失った刑事ダン・チューポン(ディアウ)は、自らを責め意気消沈していた。
それを見かねたダンの妹は、自分たちと一緒に国境付近の小さな村を訪問しないかと誘いかける。
それは、タイを代表するムエタイ、サッカー、体操、ラグビー、テコンドー、ボクシング、セパタクローのナショナルチャンピオン達が小さな村々をスポーツ慰問するボランティア活動だった。
スポーツ用品や、衣類、食料、オモチャ等様々な物資を村人たちに配るスポーツ慰問団。
しかし突然、村に武装軍団が現れ、多くの村人たちを射殺しつつ、あっと言う間に村を占拠してしまう。
武装軍団は村全体を人質として、タイ政府に麻薬密売組織首領の解放を要求する。
武装軍団に捕らえられた刑事とナショナルチャンピオン達は、村の奪還のために立ち上がるが・・・・。
本作「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」は、WEBで予告編が公開されるや否や、各方面で話題沸騰の超絶アクション映画である。
事実、わたしも予告編を見て驚いた口で、「東京国際ファンタスティック映画祭」で本作が上映される事を知り、即効チケットゲットに走った次第である。
本作の制作の背景は「マッハ!」につながり、「マッハ!」の監督だったプラッチャヤー・ピンゲ−オが制作を務め、「マッハ!」のアクション監督だったパンナー・リットグライが監督を務めており、「マッハ!」以上に身体を張ったアクションが連続するアクション映画に仕上がっていた。
そしてその超絶アクションは「マッハ!」同様、ノー・ワイヤー&ノー・CGが貫かれ、文字通り身体がいくつあっても足りないようなアクション・シークエンスが連続する。
因みに監督のパンナー・リットグライはタイのブルース・リーと呼ばれる伝説的なアクション・スターで、タイのアクション映画に多くの影響を与えた存在である。
また本作「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」のコンセプトのひとつになっている、ムエタイ、サッカー、体操、ラグビー、テコンドー、ボクシング、セパタクロー等の実際の選手を起用したアクションは、武装軍団を倒す事を目的としたアクションなのだが、その動きは美しい上にコミカルである、観客を驚嘆させ、感心させられながら最後には熱くなってしまうという楽しいアクションに仕上がっている。
やはり本物の一流アスリート達を起用した事は、上手く機能しており、そのアクションは、勿論動きが本物だと言う事もあるのだが、その美しいアクションを戦いに転化させるすばらしい演出がついている、と言う事なのである。
また、それらアスリート達以外でも、例えばセパタクローの選手と絡む片足の籠職人が松葉杖を利用して繰り出す蹴り(オーバーヘッド・キック)や、幼児といっても良いほどのムエタイ少女のトニー・ジャーばりのフルコンタクト・アクション、そしてムエタイ使いの老子様が繰り出すスローモーだが力強い技々はなんとも格好良いのだ。
またオープニング・アクションに相当するトラック・チェイスでは、本当に死人が出そうなアクションの連続で、更にラスト近辺では土手から突っ込んでくるトラックを文字通り間一髪でかわすシーンをはじめとして、スタントマン冥利に尽きるアクションの連続で、あまりのアクションに素直に歓声や拍手が出てしまうような印象を受ける。
ついでに本作では、ガン・アクションも楽しめ、特にダンのすぐ背後からの広角レンズを使用した主観ステディカムの長回しのガン・アクションでは、まるで「バーチャ・コップ」や何かのようなアクションと鋭いカメラ・ワークが楽しめる。
とは言っても、本作に問題が無いのか、と言うとそう言う訳ではなく、爽快で格好良く楽しいアクション映画にしては、人の生き死にが軽く描かれているのが気になった。
尤も、虚構の物語世界の人の生き死にに、いちいち目くじらをたてるのはどうかと思うむきもあろうかと思うが、例えば武装軍団が村を襲うシークエンスでは、逃げ惑う村人が一方的に銃撃を受けバタバタと倒れていくし、武装軍団がタイ政府と交渉するシークエンスでは、彼等は平気で人質を次々と撃ち殺してしまうのだ。
おそらく、その辺りの描写に対してモラル的にどう感じるかで、本作の評価も変わってくるのではないかと思う。
結論として本作「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」は少なくとも、純粋なアクション映画としては白眉な作品だと言えるだろう。
しかし物語はコンセプトはともかく、残念ながらな安直な印象は否定できない。
とは言うものの、物語自体は破綻無くまとまっており、アクションの演出は面白く楽しい。何度も言うが、純粋にアクションを楽しめる素晴らしい作品に仕上がっていると思うのだ。
本作「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」は個人的には、アクション映画ファンにとっての義務と言っても良い程の必修作品だと言えるのではないだろうか。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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スタッフ
制作:プラッチャヤー・ピンゲ−オ
監督:パンナー・リットグライ
キャスト
ディアウ
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余談だが、監督プラッチャヤー・ピンゲ−オ、アクション監督パンナー・リットグライ、主演トニー・ジャーで制作しているタイ映画「トム・ヤム・クン(原題)」も凄いらしい。
タイからオーストラリアに留学しているトニー・ジャーの妹が、何らかの事件に巻き込まれ失踪してしまい、妹失踪の謎を追って象使いトニー・ジャーがオーストラリアに渡ると言う物語らしい。(2005/10/15追記 妹の失踪ではなく、象の誘拐のため、トニー・ジャーがオーストラリアへ渡る。)
2005/10/15追記
「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」は、「七人のマッハ!」と言うタイトルで、2005年12月に公開される事になりました。
「トム・ヤム・クン!」
http://diarynote.jp/d/29346/20051014.html
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「東京国際ファンタスティック映画祭2004」のオールナイト企画『激突!! 亜細亜颱風 韓流VS.タイ道』で上映されたタイ映画「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」を観た。
アクション危険度・極限値!もはやノー・ワイヤー&ノー・CGは当たり前!「マッハ!」のアクション監督が、「マッハ!」を超える極限の危険に挑む。
麻薬密売組織の首領を逮捕したものの、その最中、同僚刑事を失った刑事ダン・チューポン(ディアウ)は、自らを責め意気消沈していた。
それを見かねたダンの妹は、自分たちと一緒に国境付近の小さな村を訪問しないかと誘いかける。
それは、タイを代表するムエタイ、サッカー、体操、ラグビー、テコンドー、ボクシング、セパタクローのナショナルチャンピオン達が小さな村々をスポーツ慰問するボランティア活動だった。
スポーツ用品や、衣類、食料、オモチャ等様々な物資を村人たちに配るスポーツ慰問団。
しかし突然、村に武装軍団が現れ、多くの村人たちを射殺しつつ、あっと言う間に村を占拠してしまう。
武装軍団は村全体を人質として、タイ政府に麻薬密売組織首領の解放を要求する。
武装軍団に捕らえられた刑事とナショナルチャンピオン達は、村の奪還のために立ち上がるが・・・・。
本作「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」は、WEBで予告編が公開されるや否や、各方面で話題沸騰の超絶アクション映画である。
事実、わたしも予告編を見て驚いた口で、「東京国際ファンタスティック映画祭」で本作が上映される事を知り、即効チケットゲットに走った次第である。
本作の制作の背景は「マッハ!」につながり、「マッハ!」の監督だったプラッチャヤー・ピンゲ−オが制作を務め、「マッハ!」のアクション監督だったパンナー・リットグライが監督を務めており、「マッハ!」以上に身体を張ったアクションが連続するアクション映画に仕上がっていた。
そしてその超絶アクションは「マッハ!」同様、ノー・ワイヤー&ノー・CGが貫かれ、文字通り身体がいくつあっても足りないようなアクション・シークエンスが連続する。
因みに監督のパンナー・リットグライはタイのブルース・リーと呼ばれる伝説的なアクション・スターで、タイのアクション映画に多くの影響を与えた存在である。
また本作「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」のコンセプトのひとつになっている、ムエタイ、サッカー、体操、ラグビー、テコンドー、ボクシング、セパタクロー等の実際の選手を起用したアクションは、武装軍団を倒す事を目的としたアクションなのだが、その動きは美しい上にコミカルである、観客を驚嘆させ、感心させられながら最後には熱くなってしまうという楽しいアクションに仕上がっている。
やはり本物の一流アスリート達を起用した事は、上手く機能しており、そのアクションは、勿論動きが本物だと言う事もあるのだが、その美しいアクションを戦いに転化させるすばらしい演出がついている、と言う事なのである。
また、それらアスリート達以外でも、例えばセパタクローの選手と絡む片足の籠職人が松葉杖を利用して繰り出す蹴り(オーバーヘッド・キック)や、幼児といっても良いほどのムエタイ少女のトニー・ジャーばりのフルコンタクト・アクション、そしてムエタイ使いの老子様が繰り出すスローモーだが力強い技々はなんとも格好良いのだ。
またオープニング・アクションに相当するトラック・チェイスでは、本当に死人が出そうなアクションの連続で、更にラスト近辺では土手から突っ込んでくるトラックを文字通り間一髪でかわすシーンをはじめとして、スタントマン冥利に尽きるアクションの連続で、あまりのアクションに素直に歓声や拍手が出てしまうような印象を受ける。
ついでに本作では、ガン・アクションも楽しめ、特にダンのすぐ背後からの広角レンズを使用した主観ステディカムの長回しのガン・アクションでは、まるで「バーチャ・コップ」や何かのようなアクションと鋭いカメラ・ワークが楽しめる。
とは言っても、本作に問題が無いのか、と言うとそう言う訳ではなく、爽快で格好良く楽しいアクション映画にしては、人の生き死にが軽く描かれているのが気になった。
尤も、虚構の物語世界の人の生き死にに、いちいち目くじらをたてるのはどうかと思うむきもあろうかと思うが、例えば武装軍団が村を襲うシークエンスでは、逃げ惑う村人が一方的に銃撃を受けバタバタと倒れていくし、武装軍団がタイ政府と交渉するシークエンスでは、彼等は平気で人質を次々と撃ち殺してしまうのだ。
おそらく、その辺りの描写に対してモラル的にどう感じるかで、本作の評価も変わってくるのではないかと思う。
結論として本作「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」は少なくとも、純粋なアクション映画としては白眉な作品だと言えるだろう。
しかし物語はコンセプトはともかく、残念ながらな安直な印象は否定できない。
とは言うものの、物語自体は破綻無くまとまっており、アクションの演出は面白く楽しい。何度も言うが、純粋にアクションを楽しめる素晴らしい作品に仕上がっていると思うのだ。
本作「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」は個人的には、アクション映画ファンにとっての義務と言っても良い程の必修作品だと言えるのではないだろうか。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
スタッフ
制作:プラッチャヤー・ピンゲ−オ
監督:パンナー・リットグライ
キャスト
ディアウ
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
余談だが、監督プラッチャヤー・ピンゲ−オ、アクション監督パンナー・リットグライ、主演トニー・ジャーで制作しているタイ映画「トム・ヤム・クン(原題)」も凄いらしい。
タイからオーストラリアに留学しているトニー・ジャーの妹が、何らかの事件に巻き込まれ失踪してしまい、妹失踪の謎を追って象使いトニー・ジャーがオーストラリアに渡ると言う物語らしい。(2005/10/15追記 妹の失踪ではなく、象の誘拐のため、トニー・ジャーがオーストラリアへ渡る。)
2005/10/15追記
「ボーン・トゥ・ファイト(原題)」は、「七人のマッハ!」と言うタイトルで、2005年12月に公開される事になりました。
「トム・ヤム・クン!」
http://diarynote.jp/d/29346/20051014.html
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「東京国際映画祭」今後の予定
2004年10月23日 映画 お祭と言うものは楽しいものである。
チケットを押さえたり、鑑賞スケジュールをあれこれ考えるだけでも楽しいのだ。
と言う訳で、本日10月23日(土)より「第17回東京国際映画祭」がはじまった。
先日、チケット争奪戦のお話をさせていただいたが、今回は今のところの鑑賞予定作品をお知らせしようかな、と思う次第なのだ。
10月23日(土)
特別招待作品 オープニング・スクリーニング
「隠し剣 鬼の爪」
10月24日(日)
特別招待作品
「海猫」
特別招待作品
「ライフ・イズ・コメディ!」
10月25日(月)
アジアの風
「ガガンボーイ クモおとこ対ゴキブリおとこ」
10月27日(水)
アジアの風
「青春愛人事件」
コンペティション
「風のファイター」
あとはもしかすると、1〜2本位増えるかもしれないが、それにしても来週30日〜31日が旅行なのがとても痛いのだ。
チケットを押さえたり、鑑賞スケジュールをあれこれ考えるだけでも楽しいのだ。
と言う訳で、本日10月23日(土)より「第17回東京国際映画祭」がはじまった。
先日、チケット争奪戦のお話をさせていただいたが、今回は今のところの鑑賞予定作品をお知らせしようかな、と思う次第なのだ。
10月23日(土)
特別招待作品 オープニング・スクリーニング
「隠し剣 鬼の爪」
10月24日(日)
特別招待作品
「海猫」
特別招待作品
「ライフ・イズ・コメディ!」
10月25日(月)
アジアの風
「ガガンボーイ クモおとこ対ゴキブリおとこ」
10月27日(水)
アジアの風
「青春愛人事件」
コンペティション
「風のファイター」
あとはもしかすると、1〜2本位増えるかもしれないが、それにしても来週30日〜31日が旅行なのがとても痛いのだ。
2004/10/23 東京六本木「VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ SCREEN 7」
「第17回東京国際映画祭」特別招待作品 オープニング・スクリーニング 「隠し剣 鬼の爪」を観た。
「東京国際映画祭」のレッド・カーペット、そしてオープニング・セレモニーのあとに行われた舞台挨拶は、山田洋次、永瀬正敏、松たか子、光本幸子、小澤征悦、司会は襟川クロ。
時は幕末。
東北の小藩である海坂藩の平侍、片桐宗蔵(永瀬正敏)は、母吟(倍賞千恵子)の生前に奉公に来ていた百姓の娘きえ(松たか子)と、3年ぶりに町で偶然再会する。宗蔵は、伊勢屋という大きな油問屋に嫁いで幸せに暮らしているとばかり思っていたきえの、痩せて寂しげな姿に胸を痛める。
それから数ヵ月後、きえが病で伏せっていると友人島田左門(吉岡秀隆)に嫁いだ妹志乃(田畑智子)に聞いた宗蔵は伊勢屋に乗り込み、強引にきえを連れ帰る。
平侍である宗蔵の貧しい暮らしが、回復したきえの笑顔で明るい毎日に戻った時、藩を揺るがす大事件が起きる。海坂藩江戸屋敷で謀反が発覚したのだ。
首謀者の一人である狭間弥市郎(小澤征悦)と宗蔵は、かつて藩の剣術指南役だった戸田寛斎(田中泯)の門下生だった。戸田はなぜか、一番腕の立つ弥市郎ではなく、宗蔵に秘剣『鬼の爪』を伝授していた。まもなく弥市郎は脱走、宗蔵は家老堀将監(緒形拳)から弥市郎を斬るように命じられるのだが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:山田洋次
原作:藤沢周平
音楽:冨田勲
出演:永瀬正敏、松たか子、吉岡秀隆、小澤征悦、田畑智子、高島礼子、光本幸子、田中邦衛、倍賞千恵子、田中泯、小林稔侍、緒形拳
本作「隠し剣 鬼の爪」は、米アカデミー賞ノミネート作品「たそがれ清兵衛」に続く、山田洋次監督×藤沢周平原作の第二弾であり、多くの人々にオススメできる素敵な人情時代劇に仕上がっている。
また本作「隠し剣 鬼の爪」は、ハリウッド製時代劇「ラスト サムライ」に対するアンチテーゼとして機能する、反骨精神溢れる意欲的な作品とも言えるだろう。
そして本作が「ラスト サムライ」に対するアンチテーゼとして機能していると言うことは、「ラスト サムライ」を手放しで評価する『サムライの遺伝子を持った日本人』(実際のところ、大多数の日本人は農民の遺伝子を持つのだが)に対する批判的精神が根底に見え隠れしているような気がする。
趣向を削ぐので詳細解説は割愛するが、本作「隠し剣 鬼の爪」は「ラスト サムライ」とは、時には同様の、時には正反対のベクトルを持つ作品なのである。
この辺りは、狭間弥市郎(小澤征悦)に対する片桐宗蔵(永瀬正敏)の最後のセリフ、松田洋治の役柄、そして戸田寛斎(田中泯)の生き様、家老堀将監(緒形拳)の描き方、そしてなんと言っても片桐宗蔵(永瀬正敏)ときえ(松たか子)の行く末がそれを如実に物語っている。
勿論、舞台挨拶の中でも、監督である山田洋次が間接的にではあるが、この作品の背景とテーマを語っていた。
さて脚本だが、本作は、従来の山田洋次作品に比較的あるようなのだが、シーン同士の関連性が薄いような印象を受けた。
それぞれのシーン毎の脚本の完成度は高いものの、映画全体として考えた場合、そのシーンが全体に絡んでこない、と言う印象なのだ。
これは、本作が藤沢周平の「隠し剣 鬼ノ爪」と「雪明かり」と言う二作品を原作としている点がひとつの原因と考えられる訳なのだが、それにしてもシーン間の脚本の乖離が感じられ、下手をすると提示された伏線らしきものが回収されていない、と言うような印象を与えてしまう感が否めない。
これは例えば、きえの姑を演じた光本幸子が1シーンのみの登場で、他のシークエンスには全く絡まないような点に顕著だと言える。
勿論、これは「男はつらいよ」の初代マドンナを演じた光本幸子としてのカメオと捉える事もできる。
そうした場合、従来のフジテレビ系作品に多く見られる、物語の進行を止め、観客を夢の世界から現実世界に引き戻す力を行使する、不必要なカメオと比較すると、大変素晴らしいカメオに仕上がっている。
このように、演技派俳優(女優)が物語の中できちんと機能する役柄を演じるカメオは大歓迎なのだ。
しかし、だとしても光本幸子には他のシーンでも物語に絡んで欲しいと思うのだ。
ところで、キャストについては、全てのキャストが与えられた役柄を見事にこなしている。
これは、衣裳や美術、セットやロケの醸し出す世界観、そして細かいところまで手が届く演出と相まって、非常にリアリティのあるキャラクターの醸成と世界観の創出に成功している。
どのキャストがどうこう、と言う事ではなく全てのキャストが素晴らしいのである。
本作は「侍と言っても、刀を手入れする時以外は滅多に刀を抜かない」というコンセプトにそっており、一般の痛快時代劇と比較して殺陣がおとなしく、所謂チャンバラファンにとっては満足がいく作品ではないと思う。
が、その辺にも山田洋次の確固とした考えが色濃く出ているような気がする。
とにかく、映画に対して真摯に向かった、映画の良心とも言える作品であり、出来る事ならば、多くの観客に観ていただきたい作品だと思う訳だ。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
舞台挨拶及び上映は、レッド・カーペットの時点で既にスケジュールがおしていたのだが、オープニング・セレモニー中に起きた新潟中越地震のため、エレベータが故障し、司会の襟川クロ等が、40F付近で45分ほどエレベータの閉じ込められ、60分ほど遅れた状況で始まった。
因みに「VIRSIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ」では大きな揺れが3度ほど感じられた。
大きな揺れは、角川歴彦映画祭ゼネラルプロデューサーによる開会宣言の際と小泉純一郎内閣総理大臣の祝辞の際に感じられた。
最初の揺れは、わたしは席を後ろからガンガン思いっきり蹴られているのかと思う位の揺れで、わたしの頭上にぶら下がっていた照明が大いに揺れ、不安と恐怖を醸し出していた。
驚いたのは、角川歴彦映画祭ゼネラルプロデューサーだが、もしかしたら極度の緊張のせいかも知れないが、全く地震に動じていなかったようである。
小泉純一郎内閣総理大臣は、本来は「隠し剣 鬼の爪」の鑑賞を予定したいたらしいのだが、オープニング・セレモニー中に足早に開場を後にした。
舞台挨拶は開催が遅れ、司会の襟川クロが45分ほどエレベータの閉じ込められた直後だったこともあり、極度の緊張のためか司会の不手際があったが、永瀬正敏の地震を、映画祭の開催を地球もこのように喜んでいる、と言うような発言(※)や、小澤征悦等の同時通訳をネタにしたウィットにとんだ舞台挨拶が楽しめた。
※ この時点では、新潟中越地震の情報は皆無であり、仮に情報が発信されていたとしても、会場内でその情報を入手できない情報であったことを申し添えさせていただきます。
被災地の方々には、つつしんでお見舞いを申し上げます。
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「第17回東京国際映画祭」特別招待作品 オープニング・スクリーニング 「隠し剣 鬼の爪」を観た。
「東京国際映画祭」のレッド・カーペット、そしてオープニング・セレモニーのあとに行われた舞台挨拶は、山田洋次、永瀬正敏、松たか子、光本幸子、小澤征悦、司会は襟川クロ。
時は幕末。
東北の小藩である海坂藩の平侍、片桐宗蔵(永瀬正敏)は、母吟(倍賞千恵子)の生前に奉公に来ていた百姓の娘きえ(松たか子)と、3年ぶりに町で偶然再会する。宗蔵は、伊勢屋という大きな油問屋に嫁いで幸せに暮らしているとばかり思っていたきえの、痩せて寂しげな姿に胸を痛める。
それから数ヵ月後、きえが病で伏せっていると友人島田左門(吉岡秀隆)に嫁いだ妹志乃(田畑智子)に聞いた宗蔵は伊勢屋に乗り込み、強引にきえを連れ帰る。
平侍である宗蔵の貧しい暮らしが、回復したきえの笑顔で明るい毎日に戻った時、藩を揺るがす大事件が起きる。海坂藩江戸屋敷で謀反が発覚したのだ。
首謀者の一人である狭間弥市郎(小澤征悦)と宗蔵は、かつて藩の剣術指南役だった戸田寛斎(田中泯)の門下生だった。戸田はなぜか、一番腕の立つ弥市郎ではなく、宗蔵に秘剣『鬼の爪』を伝授していた。まもなく弥市郎は脱走、宗蔵は家老堀将監(緒形拳)から弥市郎を斬るように命じられるのだが・・・・。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:山田洋次
原作:藤沢周平
音楽:冨田勲
出演:永瀬正敏、松たか子、吉岡秀隆、小澤征悦、田畑智子、高島礼子、光本幸子、田中邦衛、倍賞千恵子、田中泯、小林稔侍、緒形拳
本作「隠し剣 鬼の爪」は、米アカデミー賞ノミネート作品「たそがれ清兵衛」に続く、山田洋次監督×藤沢周平原作の第二弾であり、多くの人々にオススメできる素敵な人情時代劇に仕上がっている。
また本作「隠し剣 鬼の爪」は、ハリウッド製時代劇「ラスト サムライ」に対するアンチテーゼとして機能する、反骨精神溢れる意欲的な作品とも言えるだろう。
そして本作が「ラスト サムライ」に対するアンチテーゼとして機能していると言うことは、「ラスト サムライ」を手放しで評価する『サムライの遺伝子を持った日本人』(実際のところ、大多数の日本人は農民の遺伝子を持つのだが)に対する批判的精神が根底に見え隠れしているような気がする。
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この辺りは、狭間弥市郎(小澤征悦)に対する片桐宗蔵(永瀬正敏)の最後のセリフ、松田洋治の役柄、そして戸田寛斎(田中泯)の生き様、家老堀将監(緒形拳)の描き方、そしてなんと言っても片桐宗蔵(永瀬正敏)ときえ(松たか子)の行く末がそれを如実に物語っている。
勿論、舞台挨拶の中でも、監督である山田洋次が間接的にではあるが、この作品の背景とテーマを語っていた。
さて脚本だが、本作は、従来の山田洋次作品に比較的あるようなのだが、シーン同士の関連性が薄いような印象を受けた。
それぞれのシーン毎の脚本の完成度は高いものの、映画全体として考えた場合、そのシーンが全体に絡んでこない、と言う印象なのだ。
これは、本作が藤沢周平の「隠し剣 鬼ノ爪」と「雪明かり」と言う二作品を原作としている点がひとつの原因と考えられる訳なのだが、それにしてもシーン間の脚本の乖離が感じられ、下手をすると提示された伏線らしきものが回収されていない、と言うような印象を与えてしまう感が否めない。
これは例えば、きえの姑を演じた光本幸子が1シーンのみの登場で、他のシークエンスには全く絡まないような点に顕著だと言える。
勿論、これは「男はつらいよ」の初代マドンナを演じた光本幸子としてのカメオと捉える事もできる。
そうした場合、従来のフジテレビ系作品に多く見られる、物語の進行を止め、観客を夢の世界から現実世界に引き戻す力を行使する、不必要なカメオと比較すると、大変素晴らしいカメオに仕上がっている。
このように、演技派俳優(女優)が物語の中できちんと機能する役柄を演じるカメオは大歓迎なのだ。
しかし、だとしても光本幸子には他のシーンでも物語に絡んで欲しいと思うのだ。
ところで、キャストについては、全てのキャストが与えられた役柄を見事にこなしている。
これは、衣裳や美術、セットやロケの醸し出す世界観、そして細かいところまで手が届く演出と相まって、非常にリアリティのあるキャラクターの醸成と世界観の創出に成功している。
どのキャストがどうこう、と言う事ではなく全てのキャストが素晴らしいのである。
本作は「侍と言っても、刀を手入れする時以外は滅多に刀を抜かない」というコンセプトにそっており、一般の痛快時代劇と比較して殺陣がおとなしく、所謂チャンバラファンにとっては満足がいく作品ではないと思う。
が、その辺にも山田洋次の確固とした考えが色濃く出ているような気がする。
とにかく、映画に対して真摯に向かった、映画の良心とも言える作品であり、出来る事ならば、多くの観客に観ていただきたい作品だと思う訳だ。
=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=*=
舞台挨拶及び上映は、レッド・カーペットの時点で既にスケジュールがおしていたのだが、オープニング・セレモニー中に起きた新潟中越地震のため、エレベータが故障し、司会の襟川クロ等が、40F付近で45分ほどエレベータの閉じ込められ、60分ほど遅れた状況で始まった。
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最初の揺れは、わたしは席を後ろからガンガン思いっきり蹴られているのかと思う位の揺れで、わたしの頭上にぶら下がっていた照明が大いに揺れ、不安と恐怖を醸し出していた。
驚いたのは、角川歴彦映画祭ゼネラルプロデューサーだが、もしかしたら極度の緊張のせいかも知れないが、全く地震に動じていなかったようである。
小泉純一郎内閣総理大臣は、本来は「隠し剣 鬼の爪」の鑑賞を予定したいたらしいのだが、オープニング・セレモニー中に足早に開場を後にした。
舞台挨拶は開催が遅れ、司会の襟川クロが45分ほどエレベータの閉じ込められた直後だったこともあり、極度の緊張のためか司会の不手際があったが、永瀬正敏の地震を、映画祭の開催を地球もこのように喜んでいる、と言うような発言(※)や、小澤征悦等の同時通訳をネタにしたウィットにとんだ舞台挨拶が楽しめた。
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2004/10/24 東京六本木「VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ SCREEN 7」
「第17回東京国際映画祭」特別招待作品「海猫」を観た。
舞台挨拶は、監督の森田芳光、出演の伊東美咲、三田佳子。
東京の大学に通う野田美輝(ミムラ)は、フィアンセの高山修介(鳥羽潤)から、亡き母、野田薫(伊東美咲)をなじられ、一方的に婚約解消を告げられた。美輝はショックのあまり言葉が出なくなり、故郷の函館の病院に入院する。
心配する妹の美哉(蒼井優)にも美輝は婚約解消のいきさつを明かさなかったが、見舞いに訪れた祖母の野田タミ(三田佳子)に意を決し筆談で訊ねる。
「お母さんに、何があったの」「本当のことを教えて。お願い」
美輝の必死の表情に、初めてタミは、20年前、薫の身に起こった出来事について語り始めた。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
本作「海猫」は、伊東美咲の第一回主演作品であると共に、既に代表作と言える格を持った作品に仕上がっている。
不謹慎な発言だが、仮に伊東美咲が亡くなった後、彼女の代表作として確実に名が上がる作品に本作は仕上がっている、と言えよう。
尤も、昨今の娯楽作品を好む観客にとって、本作の脚本や演出、編集のリズムは、もしかすると退屈なものなのかも知れないし、本来このような作品では、一般的に物語の背景として、時代の大きなうねり(激動の時代背景)が描かれるものなのだが、本作「海猫」はそれを描かず、野田薫というひとりの女性の生涯にスポットを当て、野田タミ、野田薫、野田美輝という三代の野田家の女性たちの生き様を大河ドラマ仕立てではあるが淡々と描いている。
そして、映画女優伊東美咲を考えた場合、本作「海猫」を第一回主演作品とする上で幸運だったのは、今や話題作を続々と発表する森田芳光がメガホンを取った事、そして脇を固める豪華な俳優陣の存在、そして伊東美咲が演じる野田薫に集中的にフォーカスをあてた脚本、更には北海道函館近辺の方言によるセリフ回しが野田薫の性格とマッチし上手く機能している点などがあげられる。
また本作の伊東美咲からは、その儚げで刹那的な美貌と、物語の冒頭でもう既に亡くなってしまっている野田薫の生涯を振り返る形式の物語構成のため、かつての名女優夏目雅子の生涯を振り返っているかのような誤った映画的記憶を刺激される作品にも思えた。
キャストはなんと言っても伊東美咲である。各メディアを通じて話題になっている濡れ場の体当りの演技もさることながら、スタッフとキャスト全てが一丸となって、伊東美咲のために尽くしているのが感じられるし、北海道函館地方のつっけんどんで朴訥、下手をすると棒読み的なセリフ回しが彼女の演技を救っているのかも知れないが、性格的には主体性に乏しい女性を見事に演じきっている。
特に、佐藤浩市演じる赤木邦一との出会いの後、駐車場で交わす会話のシークエンスの所在無さげな印象が素晴らしい。
また美輝の出産シーンをはじめとして様々なシークエンスでの微妙な表情は見事である。
そして薫の生涯をフラッシュ・バックで見せられた日にゃあ、その激動の人生に感涙モノなのだ。
薫の夫、赤木邦一を演じた佐藤浩市も素晴らしい。
北海道南茅部町の閉鎖された漁村の中で、地元住民として馴れ合いながら生きていくしか術を持たない単純な男を好演している。
また邦一の弟で薫に憧れる赤木広次を演じた中村トオルも良い。泥沼にはまり、逃れられなくなっていく姿が美しくも悲しい。広次はキリスト教的背景を持ったキャラクターであり、マリアのメタファー薫を崇拝する役柄を演じている。
この辺りが、函館を舞台に選んだ所以なのかもしれない。
因みに、この三人は「LOVERS」の三人と印象が被るかもしれない。
薫の母タミを演じた三田佳子は物語の語り部として機能し、本作を描く上で必要不可欠な重鎮としての格と安心感を醸し出している。この映画を制作する上で、最も重要なキャラクターのひとりである。この重要なキャラクターを三田佳子が演じる、と言う事は、この映画にとって非常に幸運な出来事だったと思う。
物語の発端を作る薫の長女美輝を演じたミムラと、その妹美哉を演じた蒼井優は、最近ドラマや映画に出ずっぱりだが、役は小さいながら、印象に残る演技を見せてくれている。
また薫の姑で、邦一と広次の母赤木みさ子を演じた白石加代子も素晴らしい。優しい姑から怖い姑までを見事に演じ、三田佳子同様、映画に格と安心感を付与している。
薫の弟野田孝志を演じた深水元基はダメな男を好演しているし、小島聖演じる啓子は過去の映画的記憶を髣髴とさせ男を惑わす女性を好演している。
このように、本作「海猫」は、所謂演技派の俳優(女優)陣が顔を揃えた演技合戦も楽しめる素敵な作品なのである。
撮影(石川稔)は、若干カメラがガクガクしている感があるが、叙情的で寒々しい北海道の街並みを見事に切り取っている。またロケーション効果が高く良い仕事をしていると思うのだが、よくわからないカメラの動きが何度かあった。
特に崖から海を眺めるシーンにおけるカメラの行ったり来たりするドーリー移動の趣旨が良くわからなかった。
編集の田中愼二は、最近の森田作品は全て担当しており、最近の森田芳光のリズムは彼が作っている訳だ。
わたし的には濡れ場の見せ方が非常に上手いと思った。いろいろ問題があったのだろうと思うのだが、非常に官能的なカット割がされている。
またシーン変わりのつなぎのカットによる街並みの見せ方からの導入は、森田芳光の8mm映画や初期の商業映画の雰囲気が出ていたような気がした。
脚本(筒井ともみ)は、前述のように本来このような大河ドラマ的な作品は、大きな時代のうねりに翻弄される登場人物を描くのが順当なのだが、本作では大きなうねりを描かず、語弊があるが、大河ドラマにしては登場人物の周りだけを描いた小さな物話になっている。
その小さなドラマを楽しめるかどうかが、観客の評価の分岐点になるのではないかと思う。
本作「海猫」は、伊東美咲の濡れ場等々で話題の作品であるが、決してそれだけでは無く、俳優陣の重厚なドラマが楽しめる真摯で良心的な作品に仕上がっている。
娯楽大作を好む観客にはもしかしたら退屈な映画かも知れないが、現代のミューズ伊東美咲を楽しむ以外にも、実りがある作品に仕上がっている。是非観ていただきたい日本映画の一本なのだ。
「第17回東京国際映画祭」特別招待作品「海猫」を観た。
舞台挨拶は、監督の森田芳光、出演の伊東美咲、三田佳子。
東京の大学に通う野田美輝(ミムラ)は、フィアンセの高山修介(鳥羽潤)から、亡き母、野田薫(伊東美咲)をなじられ、一方的に婚約解消を告げられた。美輝はショックのあまり言葉が出なくなり、故郷の函館の病院に入院する。
心配する妹の美哉(蒼井優)にも美輝は婚約解消のいきさつを明かさなかったが、見舞いに訪れた祖母の野田タミ(三田佳子)に意を決し筆談で訊ねる。
「お母さんに、何があったの」「本当のことを教えて。お願い」
美輝の必死の表情に、初めてタミは、20年前、薫の身に起こった出来事について語り始めた。
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
本作「海猫」は、伊東美咲の第一回主演作品であると共に、既に代表作と言える格を持った作品に仕上がっている。
不謹慎な発言だが、仮に伊東美咲が亡くなった後、彼女の代表作として確実に名が上がる作品に本作は仕上がっている、と言えよう。
尤も、昨今の娯楽作品を好む観客にとって、本作の脚本や演出、編集のリズムは、もしかすると退屈なものなのかも知れないし、本来このような作品では、一般的に物語の背景として、時代の大きなうねり(激動の時代背景)が描かれるものなのだが、本作「海猫」はそれを描かず、野田薫というひとりの女性の生涯にスポットを当て、野田タミ、野田薫、野田美輝という三代の野田家の女性たちの生き様を大河ドラマ仕立てではあるが淡々と描いている。
そして、映画女優伊東美咲を考えた場合、本作「海猫」を第一回主演作品とする上で幸運だったのは、今や話題作を続々と発表する森田芳光がメガホンを取った事、そして脇を固める豪華な俳優陣の存在、そして伊東美咲が演じる野田薫に集中的にフォーカスをあてた脚本、更には北海道函館近辺の方言によるセリフ回しが野田薫の性格とマッチし上手く機能している点などがあげられる。
また本作の伊東美咲からは、その儚げで刹那的な美貌と、物語の冒頭でもう既に亡くなってしまっている野田薫の生涯を振り返る形式の物語構成のため、かつての名女優夏目雅子の生涯を振り返っているかのような誤った映画的記憶を刺激される作品にも思えた。
キャストはなんと言っても伊東美咲である。各メディアを通じて話題になっている濡れ場の体当りの演技もさることながら、スタッフとキャスト全てが一丸となって、伊東美咲のために尽くしているのが感じられるし、北海道函館地方のつっけんどんで朴訥、下手をすると棒読み的なセリフ回しが彼女の演技を救っているのかも知れないが、性格的には主体性に乏しい女性を見事に演じきっている。
特に、佐藤浩市演じる赤木邦一との出会いの後、駐車場で交わす会話のシークエンスの所在無さげな印象が素晴らしい。
また美輝の出産シーンをはじめとして様々なシークエンスでの微妙な表情は見事である。
そして薫の生涯をフラッシュ・バックで見せられた日にゃあ、その激動の人生に感涙モノなのだ。
薫の夫、赤木邦一を演じた佐藤浩市も素晴らしい。
北海道南茅部町の閉鎖された漁村の中で、地元住民として馴れ合いながら生きていくしか術を持たない単純な男を好演している。
また邦一の弟で薫に憧れる赤木広次を演じた中村トオルも良い。泥沼にはまり、逃れられなくなっていく姿が美しくも悲しい。広次はキリスト教的背景を持ったキャラクターであり、マリアのメタファー薫を崇拝する役柄を演じている。
この辺りが、函館を舞台に選んだ所以なのかもしれない。
因みに、この三人は「LOVERS」の三人と印象が被るかもしれない。
薫の母タミを演じた三田佳子は物語の語り部として機能し、本作を描く上で必要不可欠な重鎮としての格と安心感を醸し出している。この映画を制作する上で、最も重要なキャラクターのひとりである。この重要なキャラクターを三田佳子が演じる、と言う事は、この映画にとって非常に幸運な出来事だったと思う。
物語の発端を作る薫の長女美輝を演じたミムラと、その妹美哉を演じた蒼井優は、最近ドラマや映画に出ずっぱりだが、役は小さいながら、印象に残る演技を見せてくれている。
また薫の姑で、邦一と広次の母赤木みさ子を演じた白石加代子も素晴らしい。優しい姑から怖い姑までを見事に演じ、三田佳子同様、映画に格と安心感を付与している。
薫の弟野田孝志を演じた深水元基はダメな男を好演しているし、小島聖演じる啓子は過去の映画的記憶を髣髴とさせ男を惑わす女性を好演している。
このように、本作「海猫」は、所謂演技派の俳優(女優)陣が顔を揃えた演技合戦も楽しめる素敵な作品なのである。
撮影(石川稔)は、若干カメラがガクガクしている感があるが、叙情的で寒々しい北海道の街並みを見事に切り取っている。またロケーション効果が高く良い仕事をしていると思うのだが、よくわからないカメラの動きが何度かあった。
特に崖から海を眺めるシーンにおけるカメラの行ったり来たりするドーリー移動の趣旨が良くわからなかった。
編集の田中愼二は、最近の森田作品は全て担当しており、最近の森田芳光のリズムは彼が作っている訳だ。
わたし的には濡れ場の見せ方が非常に上手いと思った。いろいろ問題があったのだろうと思うのだが、非常に官能的なカット割がされている。
またシーン変わりのつなぎのカットによる街並みの見せ方からの導入は、森田芳光の8mm映画や初期の商業映画の雰囲気が出ていたような気がした。
脚本(筒井ともみ)は、前述のように本来このような大河ドラマ的な作品は、大きな時代のうねりに翻弄される登場人物を描くのが順当なのだが、本作では大きなうねりを描かず、語弊があるが、大河ドラマにしては登場人物の周りだけを描いた小さな物話になっている。
その小さなドラマを楽しめるかどうかが、観客の評価の分岐点になるのではないかと思う。
本作「海猫」は、伊東美咲の濡れ場等々で話題の作品であるが、決してそれだけでは無く、俳優陣の重厚なドラマが楽しめる真摯で良心的な作品に仕上がっている。
娯楽大作を好む観客にはもしかしたら退屈な映画かも知れないが、現代のミューズ伊東美咲を楽しむ以外にも、実りがある作品に仕上がっている。是非観ていただきたい日本映画の一本なのだ。
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