石田衣良の「親指の恋人」を読んだ。
物語はスミオとジュリアの出会いから死までを描いている。
ウィリアム・シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が悲劇として許されるのは、戯曲である、と言うことである。
つまり完全なる絵空事である事を誰もが知っているのだ。
一方「親指の恋人」は当然ながら「ロミオとジュリエット」の物語を現代日本に舞台を移しながら、物語をほぼ忠実になぞっているのだが、石田衣良の筆致はリアリティに溢れている。
つまり、「親指の恋人」の物語は決して絵空事には思えないのだ。
更に、冒頭の新聞記事の引用は否応無しに、リアリティの付与に尽力している、と言わざるを得ない。
そして、2人の主人公の名前(スミオとジュリア)が「ロミオとジュリエット」を模しているとは言え、物語の語り口のリアリティ度数があまりにも高いため、真実の物語のような印象を読者に与えてしまう。
そう考えた場合、この救いのない物語が読者に何を考えさせようとしているのか、また、この物語の存在理由に疑問を感じてしまう。
わたしは先ほど、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が許されるのは、それが戯曲であり、絵空事であるからだ、と言う話をした。
わたしは「スミオとジュリア」の物語「親指の恋人」を物語として許せない。
物語はスミオとジュリアの出会いから死までを描いている。
ウィリアム・シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が悲劇として許されるのは、戯曲である、と言うことである。
つまり完全なる絵空事である事を誰もが知っているのだ。
一方「親指の恋人」は当然ながら「ロミオとジュリエット」の物語を現代日本に舞台を移しながら、物語をほぼ忠実になぞっているのだが、石田衣良の筆致はリアリティに溢れている。
つまり、「親指の恋人」の物語は決して絵空事には思えないのだ。
更に、冒頭の新聞記事の引用は否応無しに、リアリティの付与に尽力している、と言わざるを得ない。
そして、2人の主人公の名前(スミオとジュリア)が「ロミオとジュリエット」を模しているとは言え、物語の語り口のリアリティ度数があまりにも高いため、真実の物語のような印象を読者に与えてしまう。
そう考えた場合、この救いのない物語が読者に何を考えさせようとしているのか、また、この物語の存在理由に疑問を感じてしまう。
わたしは先ほど、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」が許されるのは、それが戯曲であり、絵空事であるからだ、と言う話をした。
わたしは「スミオとジュリア」の物語「親指の恋人」を物語として許せない。
コメント