細田守の「時をかける少女」を観て以来、細田守の他の演出作品の中で評判の高い「どれみと魔女をやめた魔女」(「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」第40話)をみたいみたいと思っていたわたしだが、DVDをレンタルする習慣がないわたしだったので、1話のためにDVDを買うのもどうかと思ったり、動画共有サイトに出てると思うのだが、折角最初に見るんだから動画共有サイトのクオリティでは満足できないし、もし作品として良い作品だったら、最初に動画共有サイトで見た事を公開すると思うし、とか思っていたところ、わたしが契約しているCATVのビデオ・オン・デマンドに「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」のコンテンツがあったので見てみる事にした。1話168円だった。

なぜ、「どれみと魔女をやめた魔女」を見たいと思ったか、と言うと、まぁ「時をかける少女」の細田守の他の演出作品が見たいと思った上に、このエピソードのコンセプトに関心を持ったからである。

そのコンセプトとは、「どれみと魔女をやめた魔女」に登場する魔女をやめた魔女(役名:佐倉未来/声の出演:原田知世)を細田守は、(人間と比較して永遠に近い寿命を持つ魔女と言う設定上)、愛する人々が次々と死んでいく存在として描いていること、である。

また、本エピソードでは、魔法少女アニメでカテゴライズされていながら、魔法を一切使わないエピソードでもあることにも関心があった。

「おジャ魔女どれみ」シリーズについては、土曜か日曜の朝にやっていた頃に、たまたま5〜6話程見た事があるのだが、調べてみると、なんと4年間も続いた大ヒットテレビ・シリーズだったようである。

「おジャ魔女どれみ」シリーズについては、こちらを参照いただきたい。

「おジャ魔女どれみ」Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%B8%E3%83%A3%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%81%A9%E3%82%8C%E3%81%BF

■永遠の命

永遠の命を持つ存在を描いた物語の多くは、その永遠の命のメリット(プラス要因)を描く事が多いと思うのだが、本エピソードではそのデメリット(マイナス要因)が婉曲に描かれている。

つまり、永遠の命を持つ魔女を異形の者として捉え、その異形の者の悲哀をこのエピソードで描いているのだ。
言い換えるならば、本エピソードは、異形の者の悲哀を描いた秀逸なホラー作品としての側面をも持っている、と言う事である。

ここで描かれているのは、魔女をやめた魔女が自らの永遠に続く人生の中で知り合った数多の人々は、たかだか50年程しか同時期を過ごす事が出来ず、彼女が愛した人々はすぐに年老いてしまい、あたりまえのように天命を全うしてしまう。

永遠の命を持つ、と言う事は、愛する人々全てが死んでいくことを見続けなければならない、と言う事なのである。

魔法少女アニメでこのようなプロットを使った作品があったのかどうかは知らないが、わたしにとってこのようなコンセプトを魔法少女アニメと言うジャンルで描く事は大変衝撃的に感じられた。

ところで、似たようなコンセプトのプロットを利用して物語を構成した作品にアン・ライスの「ヴァンパイア・クロニクルズ」シリーズを思い出す。

永遠の命を持つヴァンパイアたちは、適当な墓石から得た人物の出生情報を利用しニセの出生証明書を作成、そのニセの出生証明書からパスポートを偽造する。
しかし、その人物もあまり永い間生きている訳にはいかないので、都合の良いところで死んだ事にして、再び新たな自分の身元を偽造し、自分の財産もなんとか自分に残そうと画策するのだ。

現在の社会の中で永遠の命を享受するためには、金と戸籍とパスポートが必要だと言う事をアン・ライスは描いている。

本エピソードの魔女をやめた魔女もあまり永い間同じところに在住し、いつまで経っても老化しない姿を他人に見せる訳にはいかないので、住む地域を次々に変える存在として描かれている。
魔法を使わない彼女は外国に行くためには当然ながらパスポートが必要な訳だから、戸籍がない彼女はおそらく偽造パスポートを使用していると思われるのだが、そんな背景すら感じさせる脚本にしびれてしまう。

リドリー・スコットの「ブレードランナー」では、寿命が短いレプリカントが写真(思い出)に固執する様が描かれているが、本エピソードでは、永遠の命を持つ魔女が写真(思い出)に固執する様が印象的に描かれている。

永遠に生きる魔女であるのに、1枚の写真に固執し、出会った1人ひとりの人間に固執していることを描く事により、彼女の悲哀が倍増されている訳だ。

■魔法を使わない魔法少女

ところで、みうらじゅんのエッセイに、雑誌か何かの企画で、ゲイのポルノ映画を観に行ってレポートするものがあり、その中でみうらじゅんは、面白いポルノと面白くないポルノの違いや、話はグダグダだが表現者の思いがフィルムに定着されているポルノとやっつけで製作された表現したいモノが見えないポルノの違い、そしてスピリッツのない表現者(クリエイター)に対する怒りを表明したエッセイがある。

例えば、ロマンポルノとかゲイのポルノとかは、劇場に行く客は(一般的に)誰もストーリーや演出を見に来ている訳ではなく、絡みを見に来ている訳で、ーもちろん、違った目的で来ている客はいるのだがー、逆説的に考えると、100分なら100分の中に時々絡みを入れておけば後は何をしても良い、と言う、クリエイターにとっては、凄い可能性を持ったカテゴリーだと言える。

そんな中、ポルノの世界から相米慎二が出てきたり、怪獣の世界から実相寺昭雄が出てきたりする訳である。

本作「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」は、所謂「魔法少女アニメ」である。「魔法少女アニメ」で魔法を使わないと言うのは、怪獣モノで怪獣が出てこなかったり、ヒーローモノでヒーローが変身しなかったり、刑事モノで事件が起きなかったりするのと同じことだと思う。

それは、作品としての存在理由に異を申し立てるアンチテーゼなのだ。

もちろん、そんなエピソードはごろごろ存在するのは知っているが、本エピソードの優れている点は、これから魔女になろうとしている魔女見習いに対し、アンチテーゼしている所が興味深い、つまりシリーズ全体に対し異を唱えているように見えるのだ。

これを思うと「ルパン三世」第2シリーズ最終回「さらば愛しきルパンよ」で宮崎駿が、赤いジャケットを着たニセルパン一味を登場させることにより、シリーズ全体に登場していた赤いジャケットを着たルパンは全てニセモノだったのだと思わせようとした事に匹敵するような凄いことだったのではないか、と思える。

■叙情的な描写

物語については、ネタバレになるので割愛するが、ワンカットワンカットが大変すばらしい。

微に入り細に入り演出され、作りこまれているアニメーションは非常に心地よい。

アニメーションの世界は、実写の世界と異なり、偶然の映像がない分当然ながら、演出家の力量がストレートに画面に出てしまう訳だ。

まぁ、ぐだぐだ書いているが、「どれみと魔女をやめた魔女」は絶対にオススメのエピソードだと思うので、機会があったら、是非見て欲しいと思うが、普通に考えて機会なんかやってこない。
自分で機会を作って見てください。と言うことですな。

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