2007/05/13 東京板橋「ワーナーマイカル・シネマズ板橋」で「バベル」を観た。
バラバラにされた私達が、再びひとつにつながるには、どうすればいいのか?
その答えを秘めた銃弾が今、放たれた。
リチャード(ブラッド・ピット)は、妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)とモロッコを旅していた。ある哀しい出来事が原因で壊れかけた夫婦の絆を取り戻すため、アメリカからやって来たのだ。まだ幼い息子:マイク(ネイサン・ギャンブル)と娘:デビー(エル・ファニング)はメキシコ人の子守:アメリア(アドリアナ・バラッザ)に託していた。山道を行く観光バスの中で、事件は起こった。どこからか放たれた一発の銃弾が窓ガラスを突き抜け、スーザンの肩を撃ち抜いたのだ。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ
出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(
スーザン)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、役所広司(ヤスジロー)、菊地凛子(チエコ)、二階堂智(ケンジ)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)
「パンドラの匣」の一番奥に、小さく震えて隠れていたのは「希望」だった。
同様に、本作「バベル」のラストには「希望」が、または本作「バベル」が問いかけた命題「バラバラにされた私達が、再びひとつにつながるには、どうすればいいのか?」の回答が明確に描写されていた。
しかしながら、どうやら多くの観客は、本作「バベル」のラストシーンに釈然としなかったようである。
事実、わたしの周りで「バベル」を観ていた観客の多くは首を傾げていたし、WEB上でも、ラストがわからない、と言う書き込みをよく見かける。
わたしは映画と言う存在は、言語が異なる世界中の人々が、理解し得る「万国共通語」のような存在だと思っていたのだが、どうやらそれはわたしの誤りのようである。
こんなにわかりやすいラストを解釈できない人々が沢山いる訳だ。
ひとは言葉が違っていてもわかり合えると訴える映画を理解できない程、言語と言うかコミュニケーションの壁は堅牢なのだろうか。
映画を信じるわたしは、なんだか哀しくなってしまう。
脚本は、誤解とディスコミュニケーションによる争いや諍いを描きつつ、その状況下においてディスコミュニケーションを乗り越える幾人かの人々を描いている。
この本作のテーマとも言える部分で非常に重要な位置を占めているのが、菊地凛子(チエコ)と役所広司(ヤスジロー)、そして二階堂智(ケンジ)のシークエンスである。
各国の映画賞で菊地凛子が取沙汰されるのも当然と言えば当然。映画の中で非常に重要なパートを担っているのだ。
車の中での菊地凛子(チエコ)と役所広司(ヤスジロー)のシークエンスが重要である。
手話と日本語で「何故、ケンカをふっかけてくるのだ」と言うことである。
そして彼女が聾唖者として描かれているのが、非常に重要である。
同じ言語を話す人々(同国人)の中でもディスコミュニケーションは存在し、同じ言語を話す人々(同国人)の間でも争いや諍いが起きている事を明示しているのだ。
つまり、現代では、バベルの塔が崩壊した当時より、争いや諍いは、言葉が違っている人々の間から、同じ言葉を話す人々の間まで加速している、と言う訳である。
そしてもう一つ興味深いのは、天までとどく塔を建設してしまっている日本である。
つまり日本と言う国は、神の怒りを買う寸前まで来ている、と言うことを描いているのではあるまいか。
ここで気をつけなければならないのは、日本がそうだ、ということではなく、制作者サイドは、神の怒りを買う寸前まで行ってしまっている存在のメタファーとして日本を使っていると言うだけである。
映画はメタファーの固まりなのだから、あんなの日本と違うとか、正確な描写ではない、とか言うのは大したことではないのだ。
もう一つ興味深いのは、罪の意識など一切なしに、軽い気持ちで兵器(銃器:ウィンチェスターM70)を渡してしまう人がいる、と言う事である。
つづく・・・・
一時保存です。
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バラバラにされた私達が、再びひとつにつながるには、どうすればいいのか?
その答えを秘めた銃弾が今、放たれた。
リチャード(ブラッド・ピット)は、妻のスーザン(ケイト・ブランシェット)とモロッコを旅していた。ある哀しい出来事が原因で壊れかけた夫婦の絆を取り戻すため、アメリカからやって来たのだ。まだ幼い息子:マイク(ネイサン・ギャンブル)と娘:デビー(エル・ファニング)はメキシコ人の子守:アメリア(アドリアナ・バラッザ)に託していた。山道を行く観光バスの中で、事件は起こった。どこからか放たれた一発の銃弾が窓ガラスを突き抜け、スーザンの肩を撃ち抜いたのだ。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
脚本:ギジェルモ・アリアガ
出演:ブラッド・ピット(リチャード)、ケイト・ブランシェット(
スーザン)、ガエル・ガルシア・ベルナル(サンチャゴ)、役所広司(ヤスジロー)、菊地凛子(チエコ)、二階堂智(ケンジ)、アドリアナ・バラーザ(アメリア)、エル・ファニング(デビー)、ネイサン・ギャンブル(マイク)、ブブケ・アイト・エル・カイド(ユセフ)、サイード・タルカーニ(アフメッド)、ムスタファ・ラシディ(アブドゥラ)、アブデルカデール・バラ(ハッサン)
「パンドラの匣」の一番奥に、小さく震えて隠れていたのは「希望」だった。
同様に、本作「バベル」のラストには「希望」が、または本作「バベル」が問いかけた命題「バラバラにされた私達が、再びひとつにつながるには、どうすればいいのか?」の回答が明確に描写されていた。
しかしながら、どうやら多くの観客は、本作「バベル」のラストシーンに釈然としなかったようである。
事実、わたしの周りで「バベル」を観ていた観客の多くは首を傾げていたし、WEB上でも、ラストがわからない、と言う書き込みをよく見かける。
わたしは映画と言う存在は、言語が異なる世界中の人々が、理解し得る「万国共通語」のような存在だと思っていたのだが、どうやらそれはわたしの誤りのようである。
こんなにわかりやすいラストを解釈できない人々が沢山いる訳だ。
ひとは言葉が違っていてもわかり合えると訴える映画を理解できない程、言語と言うかコミュニケーションの壁は堅牢なのだろうか。
映画を信じるわたしは、なんだか哀しくなってしまう。
脚本は、誤解とディスコミュニケーションによる争いや諍いを描きつつ、その状況下においてディスコミュニケーションを乗り越える幾人かの人々を描いている。
この本作のテーマとも言える部分で非常に重要な位置を占めているのが、菊地凛子(チエコ)と役所広司(ヤスジロー)、そして二階堂智(ケンジ)のシークエンスである。
各国の映画賞で菊地凛子が取沙汰されるのも当然と言えば当然。映画の中で非常に重要なパートを担っているのだ。
車の中での菊地凛子(チエコ)と役所広司(ヤスジロー)のシークエンスが重要である。
手話と日本語で「何故、ケンカをふっかけてくるのだ」と言うことである。
そして彼女が聾唖者として描かれているのが、非常に重要である。
同じ言語を話す人々(同国人)の中でもディスコミュニケーションは存在し、同じ言語を話す人々(同国人)の間でも争いや諍いが起きている事を明示しているのだ。
つまり、現代では、バベルの塔が崩壊した当時より、争いや諍いは、言葉が違っている人々の間から、同じ言葉を話す人々の間まで加速している、と言う訳である。
そしてもう一つ興味深いのは、天までとどく塔を建設してしまっている日本である。
つまり日本と言う国は、神の怒りを買う寸前まで来ている、と言うことを描いているのではあるまいか。
ここで気をつけなければならないのは、日本がそうだ、ということではなく、制作者サイドは、神の怒りを買う寸前まで行ってしまっている存在のメタファーとして日本を使っていると言うだけである。
映画はメタファーの固まりなのだから、あんなの日本と違うとか、正確な描写ではない、とか言うのは大したことではないのだ。
もう一つ興味深いのは、罪の意識など一切なしに、軽い気持ちで兵器(銃器:ウィンチェスターM70)を渡してしまう人がいる、と言う事である。
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