「ゲド戦記」

2006年8月2日 映画
2006/08/01 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「ゲド戦記」を観た。

監督:宮崎吾朗
プロデューサー:鈴木敏夫
原作:アーシュラ・K・ル=グウィン 「ゲド戦記」シリーズ(岩波書店刊)
原案:宮崎駿 「シュナの旅」(徳間書店刊)
脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子
美術監督:武重洋二
作画演出:山下明彦
作画監督:稲村武志
色彩設計:保田道世
声の出演:岡田准一(アレン)、手嶌葵(テルー)、田中裕子(クモ)、小林薫(国王)、夏川結衣(王妃)、香川照之(ウサギ)、内藤剛志(ハジア売り)、倍賞美津子(女主人)、風吹ジュン(テナー)、菅原文太(ゲド)
 
 
先ずは本作「ゲド戦記」が置かれている背景を考えなければならない。(とは言いながら、この背景は当然ながら全て当サイトの推測である。)

最初に宮崎吾朗がスタジオジブリの新作長編アニメーション作品の監督をすると知った際にわたしが感じたのは「鈴木敏夫は宮崎駿をお払い箱にするつもりじゃないのか」という事だった。
 
 
さて、「もののけ姫」(1997)以降、宮崎駿監督作品が大ヒットを続けているのはご承知だと思うが、これは決して作品が持つ力によるヒットではなく、かつて名作を数々制作してきたスタジオジブリと宮崎アニメと言うブランドの力と、日本テレビと言うメディアの力だと言わざるを得ない。

私見だが、作品の完成度を考えた場合「紅の豚」(1992)や「もののけ姫」(1997)以降、諸手を挙げて絶賛できる作品を宮崎駿は作っていない、とわたしは思う。

数々の宮崎駿作品をプロデュースしてきた鈴木敏夫もおそらくプロデューサーとして宮崎駿作品を自作ととらえ、忸怩たる思いをしていたのではないか、と思う。

実際のところ、宮崎駿の才能が枯渇したのか、宮崎駿の頑迷な部分が突出してきたのか知らないが、宮崎駿をもってしてもかつてのすばらしい良質な作品群に比類するような作品が制作できなくなってしまっているのではないだろうか。

そんな状況の中、鈴木敏夫がブロデューサーとしてやらなければならないことは、スタジオジブリの新たな体制の構築である。

宮崎駿に失望した鈴木敏夫の頭の中には、宮崎駿なしでスタジオジブリはやっていけるのかどうか、新たなクリエイターによるスタジオジブリ作品の継続は可能なのかどうか・・・・、そんな考えが渦巻いていたに違いない。

そして、鈴木敏夫が射た白羽の矢は宮崎吾朗に立った。

スタジオジブリが宮崎吾朗を監督として獲得できれば、少なくてももちろん宮崎違いだが、宮崎アニメと言うブランドは継承できるし、スタジオジブリのスタッフの力を結集すれば、従来の宮崎アニメっぽい、そこそこの作品ができるのではないか。

鈴木敏夫の頭の中には、そんな皮算用があったのではないだろうか。

本作「ゲド戦記」が興行的に成功した暁には、鈴木敏夫の子飼の監督として宮崎吾朗がスタジオジブリで新作の長編アニメーションを作り続けるのではないか、と思える。

おそらく、あと30年は宮崎ブランドのスタジオジブリ作品が続々と制作される可能性がある訳だ。
 
 
さて、本作「ゲド戦記」についてだが、先ずは血湧き肉躍らないのだ。

尤も血湧き肉躍らないアニメーション作品は世にたくさんある。
しかし、本作「ゲド戦記」をスタジオジブリの、そして宮崎アニメの後継者の作品として考えた場合、「ゲド戦記」が血湧き肉躍らない作品であることは、アニメーション作品として致命的である。

たとえ物語が破綻していようと、動画の持つダイナミズムが観客に伝われば、それはそれで良い作品と言えるのだ。
宮崎アニメの圧倒的な躍動感が一切、と言って良いほど感じられない。

そもそも、アニメーションの語源のアニメート(animate)と言う言葉は「命を与える」と言う意味なのだ。
命のない画にあたかも命があるように見せるのがアニメーションと言うことである。

たとえは悪いが、死体蘇生薬で死体を生き返らせる物語「ZOMBIO/死霊のしたたり」 (1985)の原題が"RE-ANIMATOR"であるのも興味深い。

また、物語の構成が一本調子でメリハリがない。
あまりにも真面目すぎて面白みがない。ユーモアが、つまり制作者としての余裕が感じられないのだ。

唯一ユーモラスなシークエンスとして配されている、と思われる二人の女性がテナーの家に向かうシークエンスでは、面白いはずなのに、作画のレベルが凄すぎて他の部分との乖離が甚だしい。

脚本は脚本で、本来ならば画で感じさせるべきことをセリフで饒舌に語ってしまっていたり、またセリフの一体感がないため、セリフによる世界観の統一が感じられない。
古の言葉と現代の言葉が物語の中で同居しているのだ。

また冒頭で描かれる壮大なストーリーの予兆は、なぜか知らないが、気が付いたら少人数の人々の争いの物語にスケール・ダウンしてしまっている。
大賢人は一体何をしたかったのか。疑問が膨らむ。

また背景も、「未来少年コナン」(1978)からの盟友とも言える山本二三が「時をかける少女」(2006)に行ったせいか、ここ最近宮崎作品の美術監督をつとめている武重洋二の腕が落ちたのか、宮崎吾朗の現場を統率する力が足りないのか、不完全な背景が見受けられる。

更に動画も、風の吹いている方向と雲が流れる方向、船の帆がなびく方向に統一感がなく、なんとはない違和感が感じられる。
また、カットが変わるとキャラクター同士の位置が変わっていたりする不思議なレイアウトがあると思えば、キャラクターの身長の差も不思議な感じを与えるカットも散見されていた。

宮崎駿なら決してOKを出さないと思われるレベルの作画や動画が散見されるのだ。

物語で興味深いのは、やはり「親殺し」のモチーフなのだが、これは実際のところ、宮崎吾朗が宮崎駿を殺し、紆余曲折があって結果的に、親殺しの罪を宮崎吾朗が贖う映画なのか、と勘ぐってしまう。

キャストも残念ながら良くない。
本当に勘弁して欲しいと思う。

つづく・・・・
一次保存です。すいません。

☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

『スタジオジブリ作品「ゲド戦記」をめぐる冒険』
http://diarynote.jp/d/29346/20051215.html

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