「Vフォー・ヴェンデッタ」
2006年6月15日 映画
2006/05/31 東京板橋「ワーナーマイカル・シネマズ板橋」で、「Vフォー・ヴェンデッタ」を観た。
いきなり余談で恐縮だけど・・・・。
日本のニュース番組で、アンカーとかコメンテイターとかが、「自爆テロ」とか「援交」とかをする人たちのニュースの後、「(彼らの行動を)全く理解できません」とか捨て台詞を吐きながらCF(CM)に入る場面を見る事がしばしばあります。
特にとある民放のタカ派っぽい女性のアナウンサーが結構使っているような気がします。
そんな時、わたしのはらわたは煮えくり返っています。
例えば「自爆テロ」を例に取ると、「自爆テロ」を行う人たちには、自分や自分の周りに居る人々の命よりも、その人にとって大切な理想や、実現したい世界があるのだろう、と言うのは誰でも想像できるし、誰でも理解できる事だと思います。
また、「援交」をする人たちは、自分の体をお金に代えてまで、手に入れたいモノがあるという事は誰でも想像できるし、誰でも理解できる事だと思います。
「自爆テロ」と「援交」を同列に語るのはどうかと思いますが、わかりやすい例だと思いますので、ご容赦願いたいと思います。
で、考えるのは、私たちが「自爆テロ」や「援交」をする人たちに対して、出来ないのは「共感」なのです。決して「理解」できないのではないのです。「理解」なんて、想像力があれば簡単に出来るのですから。
つまり、「自爆テロ」とか「援交」とかをする人のことを「理解」できないとか言う人は、想像力が欠如しているといわざるを得ない訳です。
ここで言いたいのは、そんなメディアの人の想像力が圧倒的に欠如しているのか、もしかしたら「自爆テロ」や「援交」を「理解できない」とメディアの人が言う事により、一般大衆に対し、「自爆テロ」や「援交」は「理解できないもの」なんだよ、と言う事を刷り込んでいる、つまり大衆をメディアがコントロールしているような印象を受けてしまうのだ。
※ 念の為ですが、わたしは「テロ」や「援交」を肯定しているのではありません。
あともう一つ余談ですが、ある女性の政治家が、とある政党の悪い部分を内部告発して辞任したとき、得意げに紅潮した顔で自分の行為を「自爆テロ」と表現したことがありますが、その時もわたしは激怒してました。
日本では、多くの人々が「自爆テロ」と言う言葉を単なる普通名詞として使っているような気がします。本来の意味を理解した上で、自らの行動をそんなに簡単に「自爆テロ」になぞらえて語ることは出来ないと思います。
実際に「自爆テロ」で何十人も何百人も死んでいるのに、自分の行動に対し、笑いながら「自爆テロ」です。と言い放つ神経を持つ人が「理解」出来ない。と言うか「共感」できない。
そんな背景の下、わたしは「Vフォー・ヴェンデッタ」を観た訳です。
「Vフォー・ヴェンデッタ」は理想を実現するために、革命を起こそうとするVとVと交流を持ってしまった一人の女性との物語で、その革命を正当化するための描写が丹念に続きます。
Vの行動は、革命が目標だとは言え、暴力を手段に選んだもので、テロそのものだと思います。
しかし、観客はVやその世界の住民が圧制に苦しんでいる姿を観る事により、Vの革命に共感し、同調していくことになります。
これは非常に興味深く、そして非常に恐ろしい事だと思います。
つまり、一般大衆をメディアがコントロールすることは、あまりにもたやすい、ということなのだと思います。
圧制=絶対悪:V=ヒーロー
と言う構図が描かれているから娯楽作品として成立していますが、圧制部分を一切描かなければ、凄い作品に仕上がったのではないか、と思えます。
そう言いながらも、わたしは「Vフォー・ヴェンデッタ」が大好きです。
昔から体制に歯向かう小さな力が、いつしか大きな力となり体制に対峙する、と言う物語が大好きだからです。
また、どちらかと言うと、巨大な力を持った体制に反抗するような思想を持ってしまいがちな性格をしていることも、その理由になっているかも知れません。
とにかく、「Vフォー・ヴェンデッタ」はヒーローモノの仮面を被った革命/テロを描いた作品だという事が言えると思います。
非常に興味深い作品だと思います。
機会があれば是非観ていただきたいと思います。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
余談だけど、冒頭のセリフ、
"Remember, remember, the fifth of November...."
のリズムにノックアウトでございます。
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いきなり余談で恐縮だけど・・・・。
日本のニュース番組で、アンカーとかコメンテイターとかが、「自爆テロ」とか「援交」とかをする人たちのニュースの後、「(彼らの行動を)全く理解できません」とか捨て台詞を吐きながらCF(CM)に入る場面を見る事がしばしばあります。
特にとある民放のタカ派っぽい女性のアナウンサーが結構使っているような気がします。
そんな時、わたしのはらわたは煮えくり返っています。
例えば「自爆テロ」を例に取ると、「自爆テロ」を行う人たちには、自分や自分の周りに居る人々の命よりも、その人にとって大切な理想や、実現したい世界があるのだろう、と言うのは誰でも想像できるし、誰でも理解できる事だと思います。
また、「援交」をする人たちは、自分の体をお金に代えてまで、手に入れたいモノがあるという事は誰でも想像できるし、誰でも理解できる事だと思います。
「自爆テロ」と「援交」を同列に語るのはどうかと思いますが、わかりやすい例だと思いますので、ご容赦願いたいと思います。
で、考えるのは、私たちが「自爆テロ」や「援交」をする人たちに対して、出来ないのは「共感」なのです。決して「理解」できないのではないのです。「理解」なんて、想像力があれば簡単に出来るのですから。
つまり、「自爆テロ」とか「援交」とかをする人のことを「理解」できないとか言う人は、想像力が欠如しているといわざるを得ない訳です。
ここで言いたいのは、そんなメディアの人の想像力が圧倒的に欠如しているのか、もしかしたら「自爆テロ」や「援交」を「理解できない」とメディアの人が言う事により、一般大衆に対し、「自爆テロ」や「援交」は「理解できないもの」なんだよ、と言う事を刷り込んでいる、つまり大衆をメディアがコントロールしているような印象を受けてしまうのだ。
※ 念の為ですが、わたしは「テロ」や「援交」を肯定しているのではありません。
あともう一つ余談ですが、ある女性の政治家が、とある政党の悪い部分を内部告発して辞任したとき、得意げに紅潮した顔で自分の行為を「自爆テロ」と表現したことがありますが、その時もわたしは激怒してました。
日本では、多くの人々が「自爆テロ」と言う言葉を単なる普通名詞として使っているような気がします。本来の意味を理解した上で、自らの行動をそんなに簡単に「自爆テロ」になぞらえて語ることは出来ないと思います。
実際に「自爆テロ」で何十人も何百人も死んでいるのに、自分の行動に対し、笑いながら「自爆テロ」です。と言い放つ神経を持つ人が「理解」出来ない。と言うか「共感」できない。
そんな背景の下、わたしは「Vフォー・ヴェンデッタ」を観た訳です。
「Vフォー・ヴェンデッタ」は理想を実現するために、革命を起こそうとするVとVと交流を持ってしまった一人の女性との物語で、その革命を正当化するための描写が丹念に続きます。
Vの行動は、革命が目標だとは言え、暴力を手段に選んだもので、テロそのものだと思います。
しかし、観客はVやその世界の住民が圧制に苦しんでいる姿を観る事により、Vの革命に共感し、同調していくことになります。
これは非常に興味深く、そして非常に恐ろしい事だと思います。
つまり、一般大衆をメディアがコントロールすることは、あまりにもたやすい、ということなのだと思います。
圧制=絶対悪:V=ヒーロー
と言う構図が描かれているから娯楽作品として成立していますが、圧制部分を一切描かなければ、凄い作品に仕上がったのではないか、と思えます。
そう言いながらも、わたしは「Vフォー・ヴェンデッタ」が大好きです。
昔から体制に歯向かう小さな力が、いつしか大きな力となり体制に対峙する、と言う物語が大好きだからです。
また、どちらかと言うと、巨大な力を持った体制に反抗するような思想を持ってしまいがちな性格をしていることも、その理由になっているかも知れません。
とにかく、「Vフォー・ヴェンデッタ」はヒーローモノの仮面を被った革命/テロを描いた作品だという事が言えると思います。
非常に興味深い作品だと思います。
機会があれば是非観ていただきたいと思います。
☆☆☆★(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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