2006/05/10 東京九段下「九段会館」で「タイヨウのうた」の試写を観た。
雨音薫(YUI)、16才。学校に行かず、夜になると駅前の広場で歌い続ける毎日。彼女は、太陽の光にあたれないXP(色素性乾皮症)という病気を抱えていた。昼と夜の逆転した孤独な毎日。彼女は歌うことでしか生きていることを実感できないのだ。そんな彼女の秘密の楽しみ、それは、彼女が眠りにつく明け方からサーフィンに向かう孝治(塚本高史)を部屋の窓から眺める事だったが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:小泉徳宏
原作・脚本:坂東賢治 『タイヨウのうた』(ソニー・マガジンズ刊)
出演:YUI(雨音薫)、塚本高史(孝治)、麻木久仁子(薫の母、由紀)、岸谷五朗(薫の父、謙)、通山愛里(美咲)、田中聡元(晴男)、小柳友(雄太)、ふせえり、小林隆、マギー、山崎一
いつも言ってる事だが、作品本編に入ってるカットは、作品にとって必要なカットだけである。逆に言うと不必要なカットが作品本編に残っていてはいけないのだ。
そして、本編に残っているカットには全て、明確なあるいは暗喩的な意味があり、そのカットの存在には演出家サイドから見れば明確な演出意図が絶対的に必須なのである。
本作「タイヨウのうた」を観て驚いた。
恐るべきカットが入っていたのだ。
薫が鎌倉駅前の公園でストリート・ライヴを行うシークエンスの冒頭、薫は公園の地面に落ちているタバコの吸殻を足で掃くように自分の周りからよけ、自分が歌うスペースを作るのだ。
これは一体どう言うことだ?
実際問題としては、脚本が悪いのか演出が酷いのかはわからないが、このシークエンスを普通に解釈すると、「薫は、自分がよければ、他人にいくら迷惑をかけても構わない人間である」ということを意図的に明確に描写していることになるではないか。
そんなキャラクターの歌に誰が感動するのか?
一般のストリート・ミュージシャンは、演奏する前に、自分のステージであるストリートを掃除するところからスタートするものなのだ。人によっては掃除道具を持ってストリートに出てくるストリート・ミュージシャンもいる位である。
もし、前述のシークエンスが、薫のことを誰も見ていない、誰もいない夜の公園で、薫が落ちている吸殻を拾い集めゴミ箱に捨て、その後で歌を歌いはじめたとしたら、観客にどういう感動を与えることが出来たであろうか、そしてラストの孝治が吸殻だらけの公園の中でCDを聴いていたとしたら、どんな感動を観客に与えることができただろうか。
そう考えると、タバコの吸殻のシークエンスの演出意図には、大きな疑問を感じてしまう。
仮にこのシークエンスを、例えば好意的に「伏線だったのだ」ととらえ、「以前は他人に迷惑をかけることなんてお構いなしだった少女が、孝治と出会い、触れ合うことによって、他人のことを思いやる少女に変貌した」と言うのであれば脚本的に充分許容範囲だと思うのだが、その伏線の回収が行われていないのだ、と言うか、伏線の回収としては、ラスト近辺のシークエンスで、公園でCDを聴く孝治の足元に散らばるタバコの吸殻なのである。
監督はふざけているのか?
そんな印象をすら受けてしまう。
些細な事だと思うが、神はディテイルに宿るのである。
あのシークエンスで激怒した観客は、エンド・クレジットまで怒りっぱなしだろうと思う。
さて、キャストだが、YUIは残念ながら大根だと言わざるを得ない。
冒頭、彼女の最初のセリフ「あっ!」を聴いた瞬間に否な予感がしたのだが、それは見事に的中してしまった。
あのカットは別にセリフなんかいらないカットである。ただ、「あっ!」と言う表情をすれば充分に観客に伝わるシークエンスなのだが、演出がそれを理解していないのか、脚本通りにYUIに喋らせてしまったような印象を受けた。
YUIのセリフには「あっ!」とか「うん」と言ったセリフが多く、ニュアンスではなく、脚本に書かれているセリフを読ませている、と言う様な印象を受けた。だとするとYUIの演技は演出サイドの問題だという事になる。
もちろん、ミュージシャン(アーティストではなく)が主演女優として演技をしているのだから、と割り引いて見ることも可能だが、YUIではなく普通の俳優が薫を演じていたら、と思えてならない。
他のキャストは、塚本高史にしろ、麻木久仁子にしろ、岸谷五朗にしろ、通山愛里にしろ曲者が揃い、それぞれ良い味を出していたし、それぞれの見せ場を見事に演じきっていた。
脚本は、前述のタバコの吸殻以外のシーンは概ね問題なく、逆に細かいセリフのやり取り、−−例えば岸谷五朗と通山愛里のやりとりや、塚本高史が告白するシークエンス−−については、非常にユーモラスで面白い効果が出ていた。
演出については、件のタバコの吸殻のシークエンス以外は順当で、若い監督にしては逆に演出力があるような印象を受けた。
クレーンの使いすぎのような気もするが・・・・。
と考えた場合、大人の事情で口出しが出来ない状態で、脚本に書かれていたタバコの吸殻のシークエンスが残ってしまった、と監督に好意的に解釈する事も可能であろう。
メインプロットは、所謂「難病モノ」で、テイストは長めのYUIのプロモーション・ビデオのような印象を否定できないが、音楽好きとしては、楽曲に泣かされてしまう。
未成熟で子供っぽいヴォーカルではあるが、そんなヴォーカルに騙されて涙をこぼしちゃう自分が情けない。
演奏シーンは概ね素晴らしく、音楽の力を充分に感じられる作品に仕上がっている。
と言うか、YUIのプロモーション・ビデオとして制作されてしまっている感が否定できない。
とりあえず本作「タイヨウのうた」は、音楽好きでちょっと泣きたい人、XPに関心がある人、YUIが好きな人、塚本高史が好きな人には充分オススメ出来る普通の作品だと思う。
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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雨音薫(YUI)、16才。学校に行かず、夜になると駅前の広場で歌い続ける毎日。彼女は、太陽の光にあたれないXP(色素性乾皮症)という病気を抱えていた。昼と夜の逆転した孤独な毎日。彼女は歌うことでしか生きていることを実感できないのだ。そんな彼女の秘密の楽しみ、それは、彼女が眠りにつく明け方からサーフィンに向かう孝治(塚本高史)を部屋の窓から眺める事だったが・・・・。(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)
監督:小泉徳宏
原作・脚本:坂東賢治 『タイヨウのうた』(ソニー・マガジンズ刊)
出演:YUI(雨音薫)、塚本高史(孝治)、麻木久仁子(薫の母、由紀)、岸谷五朗(薫の父、謙)、通山愛里(美咲)、田中聡元(晴男)、小柳友(雄太)、ふせえり、小林隆、マギー、山崎一
いつも言ってる事だが、作品本編に入ってるカットは、作品にとって必要なカットだけである。逆に言うと不必要なカットが作品本編に残っていてはいけないのだ。
そして、本編に残っているカットには全て、明確なあるいは暗喩的な意味があり、そのカットの存在には演出家サイドから見れば明確な演出意図が絶対的に必須なのである。
本作「タイヨウのうた」を観て驚いた。
恐るべきカットが入っていたのだ。
薫が鎌倉駅前の公園でストリート・ライヴを行うシークエンスの冒頭、薫は公園の地面に落ちているタバコの吸殻を足で掃くように自分の周りからよけ、自分が歌うスペースを作るのだ。
これは一体どう言うことだ?
実際問題としては、脚本が悪いのか演出が酷いのかはわからないが、このシークエンスを普通に解釈すると、「薫は、自分がよければ、他人にいくら迷惑をかけても構わない人間である」ということを意図的に明確に描写していることになるではないか。
そんなキャラクターの歌に誰が感動するのか?
一般のストリート・ミュージシャンは、演奏する前に、自分のステージであるストリートを掃除するところからスタートするものなのだ。人によっては掃除道具を持ってストリートに出てくるストリート・ミュージシャンもいる位である。
もし、前述のシークエンスが、薫のことを誰も見ていない、誰もいない夜の公園で、薫が落ちている吸殻を拾い集めゴミ箱に捨て、その後で歌を歌いはじめたとしたら、観客にどういう感動を与えることが出来たであろうか、そしてラストの孝治が吸殻だらけの公園の中でCDを聴いていたとしたら、どんな感動を観客に与えることができただろうか。
そう考えると、タバコの吸殻のシークエンスの演出意図には、大きな疑問を感じてしまう。
仮にこのシークエンスを、例えば好意的に「伏線だったのだ」ととらえ、「以前は他人に迷惑をかけることなんてお構いなしだった少女が、孝治と出会い、触れ合うことによって、他人のことを思いやる少女に変貌した」と言うのであれば脚本的に充分許容範囲だと思うのだが、その伏線の回収が行われていないのだ、と言うか、伏線の回収としては、ラスト近辺のシークエンスで、公園でCDを聴く孝治の足元に散らばるタバコの吸殻なのである。
監督はふざけているのか?
そんな印象をすら受けてしまう。
些細な事だと思うが、神はディテイルに宿るのである。
あのシークエンスで激怒した観客は、エンド・クレジットまで怒りっぱなしだろうと思う。
さて、キャストだが、YUIは残念ながら大根だと言わざるを得ない。
冒頭、彼女の最初のセリフ「あっ!」を聴いた瞬間に否な予感がしたのだが、それは見事に的中してしまった。
あのカットは別にセリフなんかいらないカットである。ただ、「あっ!」と言う表情をすれば充分に観客に伝わるシークエンスなのだが、演出がそれを理解していないのか、脚本通りにYUIに喋らせてしまったような印象を受けた。
YUIのセリフには「あっ!」とか「うん」と言ったセリフが多く、ニュアンスではなく、脚本に書かれているセリフを読ませている、と言う様な印象を受けた。だとするとYUIの演技は演出サイドの問題だという事になる。
もちろん、ミュージシャン(アーティストではなく)が主演女優として演技をしているのだから、と割り引いて見ることも可能だが、YUIではなく普通の俳優が薫を演じていたら、と思えてならない。
他のキャストは、塚本高史にしろ、麻木久仁子にしろ、岸谷五朗にしろ、通山愛里にしろ曲者が揃い、それぞれ良い味を出していたし、それぞれの見せ場を見事に演じきっていた。
脚本は、前述のタバコの吸殻以外のシーンは概ね問題なく、逆に細かいセリフのやり取り、−−例えば岸谷五朗と通山愛里のやりとりや、塚本高史が告白するシークエンス−−については、非常にユーモラスで面白い効果が出ていた。
演出については、件のタバコの吸殻のシークエンス以外は順当で、若い監督にしては逆に演出力があるような印象を受けた。
クレーンの使いすぎのような気もするが・・・・。
と考えた場合、大人の事情で口出しが出来ない状態で、脚本に書かれていたタバコの吸殻のシークエンスが残ってしまった、と監督に好意的に解釈する事も可能であろう。
メインプロットは、所謂「難病モノ」で、テイストは長めのYUIのプロモーション・ビデオのような印象を否定できないが、音楽好きとしては、楽曲に泣かされてしまう。
未成熟で子供っぽいヴォーカルではあるが、そんなヴォーカルに騙されて涙をこぼしちゃう自分が情けない。
演奏シーンは概ね素晴らしく、音楽の力を充分に感じられる作品に仕上がっている。
と言うか、YUIのプロモーション・ビデオとして制作されてしまっている感が否定できない。
とりあえず本作「タイヨウのうた」は、音楽好きでちょっと泣きたい人、XPに関心がある人、YUIが好きな人、塚本高史が好きな人には充分オススメ出来る普通の作品だと思う。
☆☆☆(☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)
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コメント
自分はそんなことが言えるようなおこないを
してきたのか?
コメントありがとうございます。
さて、早速ですが質問の主旨がよくわかりません。
わたしの文脈のどこを読んで上記のような質問をされているのでしょうか。
是非教えてください。