2006/01/31に「戦国自衛隊・関ケ原の戦い 第1部『さらば友よ』」を、2006/02/07に「戦国自衛隊・関ケ原の戦い 第2部『愛する者のために』」を見た。

2005年に「戦国自衛隊1549」と言うとんでもない作品があった。
そのとんでもない作品と同じ題材をどう料理するつもりなのか、怖いもの見たさなのだろうか、「戦国自衛隊・関ケ原の戦い」を見てしまった。
「戦国自衛隊1549」の失敗を受けて、同じ題材をどうするのか、非常に興味があった訳だ。

同作は、はっきり言ってダメなテレビムービーではあるのだが、「戦国自衛隊1549」と比較するとまだマシな印象を受けた。
と言うのも、同作ではタイムスリップした自衛隊員をある程度人間として描いているからである。

ところで「戦国自衛隊1549」の自衛隊員は銃を使う事を禁じられていた。
そしてまた過去に干渉する事にも禁じられていた。

これは日本の自衛隊がサマーワに銃器を使う事を禁じられた状態で派遣されている事への暗喩なのだが、これを娯楽作品として映画として考えた場合、そんなくだらない暗喩により、作品のプロットを消費してしまって良いのか、と思ってしまう。
せっかくの「戦国自衛隊」のリメイクのチャンスだと言うのに、銃器を封じた状態で日本の自衛隊を海外に派遣する事を決定した日本政府への批判を暗喩したって仕方がないと思うのだ。

そんなことより、戦国時代にタイムスリップした自衛隊員が人類としての本能のまま、殺戮、暴行、略奪を行う姿を描くべきだったと思うのだ。
一応念の為だが、わたしはここで暴力を肯定しているのではなく、人類の本能を描く事により、人間を描く事が必要だったのではないか、と思うのだ。

人類の本能たる暴力がない「戦国自衛隊」など、どこが「戦国自衛隊」なのだ、と言うことである。
そこには一切カタルシスなど存在し得ないのだ。

騎馬隊や弓隊、雑兵と対峙するヘリコプターや戦車を描かずに何が「戦国自衛隊」なのか、と言うことである。

一方、「戦国自衛隊・関ケ原の戦い」は、一応は過去への干渉などお構いなしに、自衛隊員は戦国時代の人々を殺しまくる。
その点で同作は、テレビのゴールデンの枠でありながら、自衛隊員による武士や雑兵たちの殺戮をめちゃくちゃに描いた事は非常に評価できるのではないかと思うのだ。

結局のところ、「戦国自衛隊」は熱いリビドーの発露だと思う。
ヘリコプターにぶら下がって銃を乱射する千葉真一のような描写が必要だと思うのだ。
リビドーの発露とその後のカタルシスがない「戦国自衛隊」など最早「戦国自衛隊」ではない。

因みに「戦国自衛隊・関ケ原の戦い 第2部『愛する者のために』」の監督は「戦国自衛隊」(1979)の監督でもある齋藤光正である。

セリフ「歴史は、俺たちに何をさせようとしているのか」とか、松村とおるの「戦国自衛隊のテーマ」が使用されていたのには驚いた。

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コメント

nophoto
mitsuru1
2006年2月9日9:07

前編見て映画よりはましかなと思いましたが
後編見て脱力しました。 なんじゃこれはでした。
現役自衛隊の部隊なら,作戦立てて家康だけ襲撃するだろうが
とか突っ込んでいました。 変にいじらず,原作に忠実に
作ってくれれば一番面白いのに。と思っています。

tkr
tkr
2006年2月10日12:06

原作が書かれたのはいつだったのかわかりませんので、さだかではありませんが、原作はおそらく「猿の惑星」のラストの影響があったのではないかと思います。

好意的に見ると、指揮命令系統が無い孤立した部隊なので、新兵時代から判断をさせない事を徹底的に教育する軍隊の教育のたまもので、判断が出来ない軍隊が出来上がってしまった事にたいする批判ではないか、と解釈しています。
tkr

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