みなさんご承知のようにわたしは映画が大好きです。
ここ「徒然雑草」も元々は映画レビューを書き散らす事をひとつの目的としていますし、エントリーのほとんどが映画に関する話題になっています。

とは言うものの、わたしは音楽も大好きですし、勿論文学も大好きなのです。

映画や音楽、文学を考える上で、最早ジャンル訳は不要だ、と言う声はありますが、やはり避けては通れないのが、次の関係から派生する諸問題だと思います。

洋画と邦画
洋楽と邦楽
海外文学と日本文学

例えば、「なんで邦画はつまらないんだ」とか、「海外文学は原語で読まなければ意味が無いだろ」とか、「アカデミー出版の超訳の是非問題」とか・・・・。
 
ところで、今日のお題は、「何故、邦楽はつまらなく感じるのか」と言うもので、邦楽を愛する人達にとっては、「何ふざけた事、言ってんだよ!」的な印象を与えかねない、過激なお題になっているのだと思いますし、中には「その通り!」と思う洋楽ファンの方も居るのかも知れませんが、わたし個人が洋楽と邦楽に感じる事を徒然と書き連ねて行きたいと思っています。

とは言うものの、わたしは全ての邦楽を知っている訳でも、全ての洋楽を知っている訳でもありませんし、全ての邦楽がつまらない、と思っている訳でも、全ての洋楽が面白い、と思っている訳ではありません。

事実、わたしは現在とある邦楽を熱心に聴いたりしている訳です。

今回の文章は、わたしと言う個人が、何故一般論としての邦楽がつまらなく感じるか、と言う意味にとらえていただけば幸いです。

■邦楽は「歌」で、洋楽は「曲」である。
最近はそうでもなくなってきようだが、邦楽のそれぞれの楽曲を表す言葉は「曲」ではなく「歌」だったのではないだろうか。

現在はそうでもないが、以前は「あの歌は誰が歌っているの?」とか「あのCMで使われているのは何て言う歌?」とか言う、今ならちょっと恥ずかしげな会話が、そこここで交わされていた。

「歌」と「曲」との違いは、一目瞭然だと思うが、今回のお題に合わせて端的に表現すると『「歌」はヴォーカルに依存し、「曲」はバンドを含めたメンバー全体に依存する』と言うことなのだ。

これは、邦楽はヴォーカルに、洋楽はバンドに依存している、と言うことなのだ。
わかりやすく言うと、バックバンドに依存しない形態の楽曲が「歌」で、バックバンドに依存する形態の楽曲が「曲」だと言えるのだ。

ホールやステージのバックバンドで楽曲を演奏できるのが「歌」で、固有のメンバーで構成されるバンドでしか楽曲を演奏できないのが「曲」なのだ。
 
■ヴォーカルに依存する日本音楽業界
何故、邦楽がつまらないのか、と自問した場合、最初に出てくる回答が「アレンジがつまらない」と言うものである。

ヴォーカルはともかく、ベースやギター、キーボードやドラムのアレンジが凡庸で面白みが感じられない事が多いような印象を受ける。邦楽のバンドのアレンジは、なんだかやっつけ仕事の大量生産品のような印象を否定できないのだ。

前段の「曲」と「歌」の違いに絡んでくるのかも知れないが、日本の音楽シーンを考えた場合、歌手(ヴォーカル)だけが地方を回り、地元のバンドをバック・バンドとして演奏を行ったり、テープをバックに演奏を行っていた事が背景としてあるのかも知れない。

もしかするとそういった歴史的背景が、ヴォーカルに依存する「歌」としての音楽の発展を促していたのかもしれない。

■音楽はバンドの歴史である
所謂クラシックと言う音楽の演奏形態はオーケストラであり、これはバンドである。また、弦楽五重奏だとか、バロック音楽だとかはセッションだと言えよう。

近代音楽も複数の楽器を持ち寄ったオーケストラやバロック音楽同様、バンド形式の音楽だと言える。

とは言うものの、日本の音楽は、演奏形態はバンドの形式を踏襲しているが、ヴォーカルと言うひとつのパートでしかないものに、どうやら大いに重きを置いているような印象を受けてしまう。
勿論ヴォーカルの重要性はわかるし、音楽の影響力におけるヴォーカルの役割は大きいとは思うのだが、音楽を「歌」ではなく「曲」と捉えた場合、ヴォーカルはギターやベース、ドラム、キーボード等と同様な「曲」の構成要素に過ぎないのではないか、と思う訳だ。

 

つづく(一時保存です)

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