「きみに読む物語」をめぐる冒険 妄想編 その1
2005年3月23日 映画 コメント (2)
2005/03/21 東京銀座「銀座シネパトス2」で「きみに読む物語」を観た。
本来ならば、「きみに読む物語」のレビューを書くところなのだが、気になって仕方がない事があるのだ。
それは「読み聞かせを行っていた老人デュークは果たして本当にノアだったのか?」と言う事である。
わたしには、本作「きみに読む物語」の物語の端々から「老人デュークはノアではない」と言う囁きが聞こえてならないのだ。
おそらく、多くの観客はデュークがノアであることを疑いもしないだろうし、多くの観客はデュークはノアだったと思っているに違いが無い。
そう考えた場合、勿論わたしの「老人デュークはノアではない」説は最早妄想に近い説なのかも知れないと我ながら思うのだが、まあ、これもひとつの解釈であり、観客が映画を観て楽しむ戯言のひとつだと思い、「老人デュークはノアではない」説を考察の上、検証していきたいと思う訳だ。
■「アルバムの写真」
デューク(ジェームズ・ガーナー)がアリー・カルフーン(ジーナ・ローランズ)に読み聞かせていた物語は、出版された小説ではなく、アリーが何らかの理由でノートブックにしたためたものであることが判明した後のシーンで、デュークはかつてのアリーとの写真が貼られているアルパムのような冊子を見ているカットがある。
そのアルバムのような冊子に貼られた写真の多くは、アリーと思われる女性と、アリーの旦那と思しき男性が写っているのだが、わたしの目にはその写真の人物が、ノア(ライアン・ゴズリング)の将来の姿には見えなかったのである。
強いて言うならば、わたしの目にはその写真の人物はロン(ジェームズ・マースデン)の将来の姿に見えたのである。
わたしの中で「老人デュークはノアではない」説が生まれた瞬間である。
■「ノアの父親フランク」
ノア(ライアン・ゴズリング)の父フランクを演じたのはサム・シェパードである。
ライアン・ゴズリングとサム・シェパードは体型も良く似た痩せ型の良い男で、親子である、と言う設定に説得力がある。
そしてこれは、ノア(ライアン・ゴズリング)が年老いた場合、ノアの姿は必然的にフランク(サム・シェパード)に似ていくハズだ、と言うことを観客に刷り込んでいる訳だ。
デューク(ジェームズ・ガーナー)の姿を思い起こしてみよう、果たしてジェームズ・ガーナーの姿(体型)は、ライアン・ゴズリングが年老いた姿に、言い換えるならばサム・シェパードの姿に、似ているだろうか。
勿論似ても似つかないのは、皆さん周知の事だと思う。
もしデュークがノアの成れの果てだと仮定すると、何故、何のためにノアの父親にサム・シェパードをキャスティングしたのか大きな疑問となってしまう。
わたしが思うに、サム・シェパードをキャスティングした理由は、デュークはノアではない、と言う印象を観客に与える為のような気がするのだ。
■「デュークのためらい」
アリー・カルフーン(ジーナ・ローランズ)が物語の中のアリーが一体誰を選んだのかを知りたがった後、デューク(ジェームズ・ガーナー)は、間を取り、映像上はロン(ジェームズ・マースデン)を選んだかのような印象を観客に与える演出がされている、が、一転結局はアリーはノアを選んだ事をデュークはアリーに伝えるのだが、その躊躇が曲者なのだ。
まるで、アリーはロンを選んだ、と言う記憶を植えつけることにより、過去の記憶を蘇らせようとしているようなのだ、それで記憶が蘇らないので、仕方ないのでノアを選んだ、と告げたような印象を受ける。
これは逆に言うと、実際はアリーの母親がそうだったように、アリーはノアではなくロンを選んだのだが、ロンと暮らしながらもノアへの思いを捨てきれず、「ノートブック」の自分とノアとの愛の物語もしたため、永遠にノアを愛しながら、実際はロンと平穏な暮らしていたアリーだったが、年老いたアリーは痴呆症になり、ロンとの平穏な生活を忘れ、ノアとの運命的な恋に思い焦がれる記憶だけが、断片的に顕在意識に度々あがってくる状態になったのではないか、と思えるのだ。
アリーを愛するロン(ロンをデュークと仮定すると)としては、自分との平穏な生活の記憶ではなく、ノアを愛していたアリーの情熱的な記憶を基に、アリーの記憶を蘇らせようとしていたのではないか、と考えられるのだ。
つづく・・・・
検証すべき点
「ノートブックが書かれた理由」
「アリーの母の恋」
「ダーリンと呼んだのは誰だったか」
「ノアとフィン」
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本来ならば、「きみに読む物語」のレビューを書くところなのだが、気になって仕方がない事があるのだ。
それは「読み聞かせを行っていた老人デュークは果たして本当にノアだったのか?」と言う事である。
わたしには、本作「きみに読む物語」の物語の端々から「老人デュークはノアではない」と言う囁きが聞こえてならないのだ。
おそらく、多くの観客はデュークがノアであることを疑いもしないだろうし、多くの観客はデュークはノアだったと思っているに違いが無い。
そう考えた場合、勿論わたしの「老人デュークはノアではない」説は最早妄想に近い説なのかも知れないと我ながら思うのだが、まあ、これもひとつの解釈であり、観客が映画を観て楽しむ戯言のひとつだと思い、「老人デュークはノアではない」説を考察の上、検証していきたいと思う訳だ。
■「アルバムの写真」
デューク(ジェームズ・ガーナー)がアリー・カルフーン(ジーナ・ローランズ)に読み聞かせていた物語は、出版された小説ではなく、アリーが何らかの理由でノートブックにしたためたものであることが判明した後のシーンで、デュークはかつてのアリーとの写真が貼られているアルパムのような冊子を見ているカットがある。
そのアルバムのような冊子に貼られた写真の多くは、アリーと思われる女性と、アリーの旦那と思しき男性が写っているのだが、わたしの目にはその写真の人物が、ノア(ライアン・ゴズリング)の将来の姿には見えなかったのである。
強いて言うならば、わたしの目にはその写真の人物はロン(ジェームズ・マースデン)の将来の姿に見えたのである。
わたしの中で「老人デュークはノアではない」説が生まれた瞬間である。
■「ノアの父親フランク」
ノア(ライアン・ゴズリング)の父フランクを演じたのはサム・シェパードである。
ライアン・ゴズリングとサム・シェパードは体型も良く似た痩せ型の良い男で、親子である、と言う設定に説得力がある。
そしてこれは、ノア(ライアン・ゴズリング)が年老いた場合、ノアの姿は必然的にフランク(サム・シェパード)に似ていくハズだ、と言うことを観客に刷り込んでいる訳だ。
デューク(ジェームズ・ガーナー)の姿を思い起こしてみよう、果たしてジェームズ・ガーナーの姿(体型)は、ライアン・ゴズリングが年老いた姿に、言い換えるならばサム・シェパードの姿に、似ているだろうか。
勿論似ても似つかないのは、皆さん周知の事だと思う。
もしデュークがノアの成れの果てだと仮定すると、何故、何のためにノアの父親にサム・シェパードをキャスティングしたのか大きな疑問となってしまう。
わたしが思うに、サム・シェパードをキャスティングした理由は、デュークはノアではない、と言う印象を観客に与える為のような気がするのだ。
■「デュークのためらい」
アリー・カルフーン(ジーナ・ローランズ)が物語の中のアリーが一体誰を選んだのかを知りたがった後、デューク(ジェームズ・ガーナー)は、間を取り、映像上はロン(ジェームズ・マースデン)を選んだかのような印象を観客に与える演出がされている、が、一転結局はアリーはノアを選んだ事をデュークはアリーに伝えるのだが、その躊躇が曲者なのだ。
まるで、アリーはロンを選んだ、と言う記憶を植えつけることにより、過去の記憶を蘇らせようとしているようなのだ、それで記憶が蘇らないので、仕方ないのでノアを選んだ、と告げたような印象を受ける。
これは逆に言うと、実際はアリーの母親がそうだったように、アリーはノアではなくロンを選んだのだが、ロンと暮らしながらもノアへの思いを捨てきれず、「ノートブック」の自分とノアとの愛の物語もしたため、永遠にノアを愛しながら、実際はロンと平穏な暮らしていたアリーだったが、年老いたアリーは痴呆症になり、ロンとの平穏な生活を忘れ、ノアとの運命的な恋に思い焦がれる記憶だけが、断片的に顕在意識に度々あがってくる状態になったのではないか、と思えるのだ。
アリーを愛するロン(ロンをデュークと仮定すると)としては、自分との平穏な生活の記憶ではなく、ノアを愛していたアリーの情熱的な記憶を基に、アリーの記憶を蘇らせようとしていたのではないか、と考えられるのだ。
つづく・・・・
検証すべき点
「ノートブックが書かれた理由」
「アリーの母の恋」
「ダーリンと呼んだのは誰だったか」
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コメント
なるほど・・そういう考え方もありますね。
そこまで考えていませんでした(^_^;)
脱帽です。
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http://diarynote.jp/d/29346/20050404.html
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