2005/03/14 東京九段下「千代田公会堂」で「恋は五・七・五!」の試写を観た。

高山治子(関めぐみ)はクラスになかなかなじめない、いやなじまない帰国子女。ひょんなことから半ば強制的に俳句部へ。
同じように集まってきたのは外見重視のチアガールをクビになったマコ(小林きなこ)、万年野球部補欠のまま甲子園の夢破れた山岸(橋爪遼)、治子に憧れる不思議ウクレレ少女Pちゃん(蓮沼茜)に寡黙な写真部員ツッチーこと土山(細山田隆人)。
てんでバラバラな五人は気弱な顧問教師のマスオちゃん(杉本哲太)とともに俳句甲子園を目指すことになるが、俳句に関しては山岸以外ズブの素人。何やら恋の予感も手伝って前途多難な彼らの行方は!?
(オフィシャル・サイトよりほぼ引用)

監督:荻上直子
出演:関めぐみ(高山治子)、小林きな子(内山マコ)、蓮沼茜 (田中弘美/Pちゃん)、橋爪遼(山岸実)、細山田隆人(土山義仁)、高岡早紀(ヨーコ先生)、中村靖日(中村)、嶋田久作(三浦)、もたいまさこ(校長)、柄本明(爺ちゃん)、杉本哲太(高田マスオ)

本作「恋は五・七・五!」は、「ロボコン」(2003)、「スウィングガールズ」(2004)に続く文化系根性青春映画なのだ。

物語は「シコふんじゃった。」(1991)以降、最早日本映画の伝統となってしまった感の否めないコンセプト「ペナルティを受けないために何かの団体に所属し、その団体の大会に挑戦する」を見事に踏襲した作品に仕上がっている。

つまり本作の物語はお約束の連続で、最早手垢の付いた題材である訳で、物語の展開は全ての観客が想像してしまっている訳である。
従って、本作はその基本的な展開を踏襲しつつ、細かい脚本や演出で観客を楽しませなければならない、と言う性を負っており、一見安直そうな企画に見えるのだが、実は成功させるのが難しい題材(コンセプト)に挑戦した作品だと言えるのだ。

しかも舞台は「俳句甲子園」。題材は「俳句」だよ。
どう考えても絵的に地味にならざるを得ないじゃないですか。

勿論本作が、この「俳句甲子園」を題材とした背景には「真剣10代しゃべり場」や「詩のボクシング」がメディアに取り上げられている背景があるのだろうが、テレビ番組ならともかく、映画の題材に「俳句」を取り上げた製作サイドの勇気に頭が下がる思いなのだ。
二匹目の泥鰌を狙うような気持ちじゃ「俳句」と言う題材を取り上げると言うリスクを負い切れないだろう、と言うことなのだ。

そして、多くの観客が感じるだろうこの映画の感想「想像していたより面白かったね」は、そのあたりを念頭に置いた戦略的な狙いなのかも知れないのだがね・・・・。

ところで、本作を観て気になったのは、登場人物のキャラクター設定である。
勿論フィクションなのであり、キャラクターは記号に過ぎないと言うのはわかるのだが、キャラクター設定が極端すぎるのだ。所謂普通(?)のキャラクターが本作には存在しないのだ。

例えば、漢字が書けない帰国子女とか、おデブでクビになった元チアガールとか、ウクレレ大好き不思議ちゃんとか、野球部の万年補欠の俳句好きとか、ストーカー紛いの写真部員とか、極端ななんとも「マンガ」的なキャラクターの目白押しなのだ。

そんな事を考えると、極端なキャラクター設定で物語を語るのはもう限界ではないのか、と思ってしまう。

例えば所謂「キャラクター小説」と言うジャンルがあるが、それを映画の世界に持ち込むのは、映画と言うメディアを考えた場合、あまりよろしくないのではないか、とわたしは思う。

例えば最近公開になった「ローレライ」がダメなのも、「ローレライ」が持つ「キャラクター小説」的(或いは「マンガ」的とか「アニメ」的と言っても言いのだが)な文脈と構成、展開、記号的なキャラクターの動きのせいではないか、と思えてしまうのだ。

勿論、短い時間の中で観客が感情移入出来るキャラクターを構築するのは難しい訳で、極端なキャラクター設定を基に物語を構成する、という逃げの手法を使うのは仕方が無いのかも知れないが、本作は面白い方向性を持った作品であるだけに、本作のキャラクター設定には残念な印象を受けてしまう。

撮影は「俳句」のように叙情的で色彩豊かなものを描写する事を目指したような、彩度が高く、色彩に圧倒される程の映像が楽しめる。ディビッド・リンチの作品が持つ彩度の高い映像の豊かさが感じられるのだ。
ハレーション寸前なのか、太陽の光の色が違うのだ。
日本ではなく、アリゾナとかどこかの澄んだ乾いた光が発色させている色彩を、彩度を感じる訳だ。
とは言うものの、実際のところ全編がそういう訳ではなく、キーとなるモノを描写する際に、そんな印象を受けるのだ。
わたしが思うに、照明とカメラ(絞りかな)はドラマ部分のそれと違うと思うね。

脚本は対句的表現を意図したような繰り返しが楽しい構成を持っているのだが、時間経過が感じられず、「俳句」のスキルが上達していく様が残念ながら感じられないし、いやいややっていた「俳句」がだんだんと好きになっていく過程がもう少し欲しいと思った。

この辺の描写は前述の極端なキャラクターが巻き起こすドタバタを描く事に尺が取られ、本来描くべきキャラクターの成長部分が軽薄になってしまっており、何ともバランスが悪い印象を受けた。

あと脚本的に評価できるのは、何度か挿入されるツッチーの独白部分である。作品自体のリズムを変化させる素晴らしいシークエンスであると同時に、女性監督にしては凄いことをやらせているのではないか、と素直に思った。

また前述のように同じシークエンスを繰り返す手法が素晴らしい効果を出している。
最近では「オペラ座の怪人」での同じ楽曲を使いながら、登場人物を変える事により、違う登場人物のの心情を吐露する手法に似た印象を受けた。
ツッチーの「言い残す事は?」と言う問いかけが何とも格好良いのだ。

また、嘘をつく人物が変わっている点も評価したい。
読み方によっては、ラストの治子(関めぐみ)のセリフが素晴らしく利いてくる。
「アイズ ワイド シャット」のラストのセリフに匹敵する、と言うのは言いすぎだろうか。

しかしながら、本作は「俳句」を題材にしている以上「俳句」で観客を唸らせなければならない宿命を負っているのだが、そこまでの「俳句」が出てこないのは、「俳句映画」としては致命的ではないかと思う。

勿論主観的名感想ではあるが、「俳句甲子園」に出てくる「俳句」より、ツッチーのノートに書いてある「俳句」の方が出来が良い、と言うのはどうかと思うのだ。
主観的と言えば、物語の構成上「俳句」に優劣をつける事になるのだが、芸術に優劣をつける事に対する云々は目をつぶる事にする。

とは言うものの、本作「恋は五・七・五!」は、想像しているよりは絶対に面白い作品に仕上がっているし、「俳句」と言う日本が世界に誇る文化の導入としても機能しているし、また大人の世代には過ぎ去りし青春を回想させる機能すら併せ持った良質の青春映画に仕上がっているのだ。

日本映画と日本文化の将来を考えながら、本作「恋は五・七・五!」を観ていただきたいと思う訳だ。

☆☆☆ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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