わたしは2004年4月頃から、本格的に試写会を利用するようになった。しかし、それまでのわたしは、毎日毎日試写会に赴き、試写会場から会場へと渡歩く試写会常連の人々を批判的な目で見ていた。

「金も払わないで映画ばかり観やがって、何様のつもりだ!」
「お前ら、もっと映画業界に貢献しろ!」

そのわたしの批判的思想の根底には、映画はお金を払って観るものだ、そして、お金を払ってはじめて映画の批評ができるのだ、という考えと、試写会とは一般大衆の口コミを利用した配給会社の戦略的プロモーションであるから、試写会で映画を観た以上、プロモーションに協力しなければならない、つまり映画の内容や質はともかく、試写会でただで映画を観た以上、映画を褒めなければならない、という考えがあったからかも知れない。

そう、わたしはどこかの映画評論家のように、配給会社に迎合し、つまらない映画を褒めまくる行為が嫌だったのかも知れない。

前置きが長くなったが、本編のはじまりなのだ。

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「映画への異常な愛情 または私は如何にしてお金を払うのをやめて試写会を愛するようになったか」
 
これは、映画マスターを目指す一人の若者が、試写会常連という暗黒面に堕ちて行く物語である。(嘘)
 
遠い昔、遥か彼方の銀河系で・・・・(勿論嘘)
 
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■映画は劇場で観るものなのだ

「DVD全盛の時代に、何言ってんだよ!ボケ!」
「うちの近所じゃ、話題作しか演らねえんだよ!タコ!」

映画は劇場で観るものなのだ、という考えは、DVD全盛の時代である現代においては時代錯誤的な考えかもしれないし、大小さまざまな劇場がひしめきあう都会に住んでいる人のエゴかも知れない。
しかし、「映画は劇場で観るものであって、テレビのブラウン管や液晶・プラズマパネル越しに見る映画みたいな奴は、映画に似てるけど、決して映画ではない」とわたしは思うのだ。

勿論「映画」はメディアの名称であるから、テレビで見る奴は定義からして映画ではないのだ。

えいが[映画]
一秒間一六または二四コマの速度で連続的に撮影されたフィルムを、映写機によって投影し、一連の物語や映像などを写し出すもの。一九世紀末に発明されて以来、トーキー・カラー・ワイド・立体などその表現技術はめざましく発展した。活動写真。キネマ。シネマ。ムービー。(三省堂「大辞林」より)

ここで当然ながらこんな疑問が湧いてくる、
「DLP上映等、デジタル上映作品は映画ではないのか?」
「ビデオ撮影・フィルム上映作品は映画ではないのか?」
と。しかし、この疑問については、また別の機会にお話しする事にする。

とにかく、「映画」というのはメディアの名前なんだから、テレビで放映されている奴は「映画」ではなく「テレビ番組」、ビデオやDVDビデオに収録されている奴は「映画」ではなく「ビデオ・プログラム」、「DVDビデオ・プログラム」なのだ。

従って、「映画」という奴は「劇場」で上映される奴のことなのだ。
よって、「映画は劇場で観るものなのだ」と言う考えには、合点していただけたでしょうか。
 
 
■金を払ってはじめて映画の批評ができるのだ

至極当然のことである。
消費者はその正当な対価を払う事により、「映画」というサービスを享受し、そのサービスに対する評価を下す事ができる訳である。

従って、彼氏におごってもらった映画の悪口を言ってはいけないのだ。

「おごってもらったくせに『つまんない映画』とか『ごはんまずー』とか言うな!」
と言うことなのだ。

つまり映画を批評するつもりなら、最初から金を払え、ということなのだ。
金を払ってはじめて、映画を批評する正当な権利が生まれるのである。
 
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さあ、堕ちるぞ堕ちるぞ、暗黒面に堕ちるぞ。
次回、乞ご期待かも。

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今後のエヒソード予定

■試写会からの魔の手
■試写会人生のはじまりなのだ
■わたしはネタバレを憎むのだ
■少しでも早く観たいのだ

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