2004/12/01 東京板橋「ワーナー・マイカル・シネマズ板橋」で「血と骨」を観た。当日は「映画の日」の特別イベントとして、崔洋一のトークショーが行われた。

「血と骨」というタイトルから、多くの人が連想するのは、イエス・キリストの「肉と血」ではなかろうか。事実わたしも「血と骨」と言うタイトルから、本作はキリスト教的世界観に則った物語ではないかと思っていたし、もしかすると本作の主人公を救世主に準えているのではないか、とも思っていた。また同時に、勿論逆説的にではあるが、「血と骨」は反キリスト者を描いている作品なのではないか、とも思っていた。

ところで、東洋では人間や生物(哺乳類)一般を「肉が詰まった袋」と表現することがあり、西洋では同様に人間や生物を「骨が詰まった袋」と表現する事がある。東洋と西洋の文化の差異を把握した上で三段論法的に考えると、「骨」と「肉」とは同義である、という事が出来るのではないだろうか。
そう考えた場合、当然の如く「血と骨」は「肉と血」と同義であると考える事が出来る訳だ。

そう考えた場合、「血と骨」と言う作品は、キリスト教を信奉する人々にとって、キリスト教を冒涜するような印象を与えかねないインパクトのある作品に仕上がっていると考えられるのである。

それを裏付けるかのように、本作「血と骨」では、キリスト教的観点から演出されているのではないか、と思えるような象徴的な描写が散見できる。

例えば、茶碗の欠片で腕の静脈を切り、自分の血を飲め、と金成貴(塩見三省)に迫る金俊平(ビートたけし)であったり、在日朝鮮人長屋の祝祭に豚を屠り振舞う金俊平。暴力とSEXに明け暮れながらも、限られた人々に不器用ながらも愛情を注ぐ金俊平・・・・。

そしてあたるを幸いに、一般的な道理が通じない、理由のわからない暴力を振るう金俊平の姿は、在日朝鮮人長屋と言う限定され閉鎖された空間における「災害(天災)」のメタファーとしても捉える事が出来る。そして、そこから論理を飛躍させると、金俊平は「神の雷(いかずち)」を具現化した存在だと解釈する事も出来る訳だ。

ここまで来ると金俊平は救世主イエス・キリストではなく、限定された世界の「嫉む神ヤハウェ(Yahweh)」のメタファーとして捉える事が出来るのではないだろうか。

ここまで読んで来て、何考えてるんだ、論理が飛躍しすぎだよ、と思う人もいると思うのだが、少なくても梁石日が自らの小説に「血と骨」というタイトルを付けた以上、自らの作品とキリスト教との関係は明らかであると思うのだ。

しかし、それを踏まえて本作「血と骨」を観ると、主人公金俊平のキャラクターを描くより、金俊平を取巻く市井の人々を描く事に尺が割かれているような気がする。
そして金俊平を捕らえるカメラは一歩引いた冷徹な視点を持っており、金俊平の感情の動きを捕らえるのではなく、感情移入を拒むかのように、金俊平の行動を真正直に冷淡に捕らえているのである。

浜田毅(撮影)のカメラは、金俊平の行動原理を解き明かすことはせず、ただ淡々と金俊平の行動、言わば天災のようなものを描いているのだ。そして胸を張り、背筋を伸ばし災害に立ち向う人々を描写しているのだ。

キャストは、誰もが言うように、ビートたけしの内に闇を秘めた様が素晴らしかった。しかし映画ファンとしては、普通の俳優に演じて欲しかったと思うのだ。ビートたけしは好演しているのだが、かつてのコントの記憶が時々顔を出してしまうのだ。

鈴木京香にしろオダギリジョーにしろ、濱田マリにしろ田畑智子にしろ、陳腐な表現だが体当り演技を見せてくれている。勿論評価すべきなのだが、本作「血と骨」については全てのキャストが与えられた仕事を100%以上の力を出して演技合戦に興じているのだから仕方が無い。正に文字通り戦いにも似た演技合戦なのだ。

あと特筆すべきは新井浩文だろう。最近話題作には必ず顔を出す、注目の俳優だが、映画によって全く違うキャラクターを演じ分けているのだ。多分近作のスチールにしろ、映像にしろ並べてみても、同一人物だとは思えないのではないだろうか。勿論顔はおんなじだが。

またオダギリジョーも良い俳優になってきたと思う。彼はこういった路線の方が良いのではないかと思う。

更に、出番は少ないながら二役を演じた伊藤淳史(龍一/俊平の少年時代)も良かった。

美術(磯見俊裕)にしろ照明(高屋齋)にしろ素晴らしい仕事をしており、「血と骨」の世界観の構築を助けている。特に美術、小道具(プロップ)が素晴らしい。

脚本は、金俊平を取巻く人々のみを描き、凡庸な脚本家であれば、背景として取り入れるであろう、時代の大きなうねりが割愛されている点には、個人的には良い印象を受けた。

本作「血と骨」は中身が薄い娯楽映画に慣れ親しんだ観客にとっては、面白くもなく退屈で、暴力を極端に取り入れた酷い映画のように受取れるかもしれない。
しかしながら、俳優の素晴らしい演技合戦が楽しめる素晴らしい映画に仕上がっている。
文芸大作とはこういうものなのだ。

=+=+=+=+=+=+=

崔洋一のトークショーは、映画の内容ではなく、映画がどのように企画され、製作されて来たかが中心となっていた。
原作を読み、ビートたけしにオファーし、鈴木京香、濱田マリ、オダギリジョー等が集まり、最早挙げた手を下ろせない状況だった、と言うような話が興味深かった。

トークショー後は、プレゼント抽選会や握手会があり、わたしは事前に準備していたパンフレットにサインを貰った。

余談だが、俳優や監督にサインを貰うには、事前準備が必要だと思うのだ。ペンは勿論、サインを貰うスチールや書籍、パンフレット等を事前に準備する必要がある。あとはタイミングなのだ。
因みに、ペンは黒と銀の2種類あれば、たいていの物には見映え良くサインが映える。

=+=+=+=+=+=+=

余談だが、金花子についてだが、わたしの記憶違いかも知れないのだが、子役から田畑智子になった後に、再度子役に戻っていたような気がする。具体的にはマッコリを張賛明(柏原収史)に薦めるシーンから 金花子は田畑智子が演じているのだが、その後の室内のシーンで、金花子は子役の俳優に再び戻っていたような気がするのだ。わたしの記憶違いか、シーンの入れ替えがあったための苦肉の策なのか、謎である。

更に余談だが、ラスト近辺の金俊平の姿はスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」のボーマン船長を髣髴とさせる。
 
 
☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

参考になったらクリック!
http://blog.with2.net/link.php/29604

コメント

nophoto
レオン
2006年4月11日17:25

 マイケル・ベイの映画製作会社プラチナム・デューンが、『悪魔のいけにえ』をリメイクして大ヒットした『テキサス・チェーンソー』。その前日譚にあたる続編をシェルドン・ターナーの脚本のもと製作することが決まった。物語の詳細は明らかにされていないが、軍人の兄弟が殺人鬼レザーフェイスに出会うストーリー展開だそうで、『テキサス・チェーンソー』と同様に想像を絶する恐怖が描かれる予定だ。
tkr

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索