2004/11/19 東京板橋「ワーナーマイカルシネマズ板橋」で「笑の大学」を観た。
日本が戦争へと突き進んでいた昭和15年。
国民の戦意高揚の妨げになると様々な娯楽が取締りの対象となっていた。
ここ浅草では、演劇も規制され、台本も上演前に検閲を受けていた。警視庁の取調室では2人の男が新作喜劇を巡って熱い火花を散らしていた。一人は、一度も笑ったことがない厳格な検閲官・向坂睦夫(役所広司)。相対するは、笑いに命をかける劇団「笑の大学」の座付作家・椿一(稲垣吾郎)。向坂は台本から「笑い」を排除しようと椿に無理難題を突きつける。上演の許可をもらうためその要求を聞き入れながらも、なんとか「笑い」を残そうと苦悩する椿だったが・・・・。
監督:星護
原作・脚本:三谷幸喜
出演:役所広司(検閲官・向坂睦夫)、稲垣吾郎(劇団「笑の大学」座付作家・椿一)
面白い事は面白い。しかし、はっきり言って残念な作品である。
本作「笑の大学」は、役所広司の素晴らしい演技に救われ、シーン毎のクオリティは素晴らしいのだが、映画全体の構成を考えると、残念な結果に終わっている。
言わばテレビあがりの演出家が、映画の文法を理解せず、長尺ものの構成が出来ず、テレビの続き物の感覚で演出してしまった作品のような印象を受けるのだ。
台本の検閲シークエンス、二人芝居部分の演出は、及第だと言えるし、時々素晴らしいカットが顔を出す。勿論、役所広司の力量によるものだと思うし、稲垣吾郎も非常に頑張っている。
しかし、先ずは、映画には不必要なカットは存在し得ない、そして本編に残ったカットには全て意味があり、存在理由がある、と言う事を理解した上で映画を製作して欲しいと切に願うのだ。
撮影されたフィルムの山から、不必要なカット、不必要なコマを極限まで削ぎ落として行くと、一本の映画が完成する、と言うことなのだ。
一方テレビドラマには、ビデオ製作の制約上、つまりカット毎のノンリニア編集ではなく、副調整室(サブ)のスイッチによるシーン毎の編集のため、無駄なカットや、不必要なフレームが本編に必然的に含まれてしまうのだ。
その辺を理解した上でひとつひとつのカットに命をかけて、映画を製作して欲しいのだ。
そんな所から本作「笑の大学」を考えた場合気になる点が何点かある。
先ずは冒頭から何度か繰り返される、椿が「笑の大学」劇場から警視庁まで歩き、警視庁の建物の前でおののき警官にお辞儀をするシークエンスである。
別にこのシークエンスがいけない、と言っているのではない。同じようなカットやシークエンスを繰り返す以上は、そのカットやシークエンスに意味を持たせろ、と言う事なのだ。
折角マエフリが出来ているのに、何故最後の日に椿がいつもと違う雰囲気で歩くカットが無いのか、いつもと違う超然として達観した歩き方をする椿のカットが見たいのだ。
星護にとっては、この椿の歩きのカットは、1日目と2日目、または3日目と4日目等のシーンのつなぎとしてしか意味を持っていないようである。
あるいは、号外や通行人の服装が変わり、椿の環境、浅草の日常、そして日本を取巻く環境を観客に伝える為に存在するようである。
更に、これも冒頭から繰り返されるのだが、「不許可」のスタンプ押印についてだ。
ラストで何故椿の台本に「許可」のスタンプを押さないのか、または「許可」のスタンプが押された椿の台本の表紙のカットを何故本編に挿入しないのか、理解に苦しむ。
例えば、昭和15年代のポスターを模したクレジットを制作するのならば、クレジットの最後のカードは「許可」のスタンプが押された台本でも良いし、台本をエンドマークに利用しても良い。本編のラストカットに台本を映し、そこからアイリスでエンド・クレジットに繋げても良いと思うのだ。
椿の歩きにしろ、向坂のスタンプ押印にしろ、何のために何度も何度もマエフリを行っていると思っているのだ。オチが無いだろ、オチが。回収されない伏線などは映画にはいらないものなんだよ。その辺を理解して欲しいのだ。
また本作「笑の大学」は、ほぼ二人芝居の様相を呈しているのだが、役所広司の演技を見ていると、役者と言うものは何かを明確にわからせてくれる。役者とは口先だけのセリフではなく、身体全体の動きや雰囲気であることや、醸し出す空気であることが良くわかる。対する稲垣吾郎も経験は圧倒的に不足している割には善戦しているとは思うのだが、残念ながら役者としての格が違いすぎる。
例えば冒頭、二人が歩くシーンだけを並べて見せるだけでも、二人の歩き方ひとつをとっても存在感、説得力が全く違う。
役所広司の歩き方を見ると、検閲官・向坂睦夫の性格が完全に見て取れるのだ。自信に満ちた独善的で不正を許さない杓子定規な性格が観客に見事に伝わってくるのだ。一方稲垣吾郎の歩き方からは椿一の性格は残念ながら読み取れない。
二人を比較するのは酷な気もするが、本作はほぼ二人芝居の作品であるから、こればかりは仕方が無いだろう。
そして興味深いのは、物語上二人の関係は、検閲と言う国家権力(向坂睦夫)に立ち向かう孤高の脚本家(椿一)、と言う構図になっており、勿論「剣」と「ペン」のメタファーになっているのだが、見様によっては、世界的な俳優(役所広司)に立ち向かう俳優に似て異なる存在(稲垣吾郎)、と言う構図にも見えてくるのが興味深い。そう、役所広司と稲垣吾郎は、風車とドン・キホーテの関係なのだ。
しかし何と言っても役所広司は凄い。
そこには確実に検閲官・向坂睦夫が居たのだ。
二人の絡みのシークエンスは言うまでもないが、「笑の大学」劇場の前の、少年のような惚けたような表情は最高である。勿論稲垣吾郎は善戦しているが、本作「笑の大学」は、役所広司の演技を、存在感を表情を、セリフを動きを背中の哀愁を、それらを見るだけでも充分価値がある映画である、と言えるのだ。
=+=+=+=+=+=+=+=+=
「クレイドル・ウィル・ロック」と比較しても面白いかも。
日本が戦争へと突き進んでいた昭和15年。
国民の戦意高揚の妨げになると様々な娯楽が取締りの対象となっていた。
ここ浅草では、演劇も規制され、台本も上演前に検閲を受けていた。警視庁の取調室では2人の男が新作喜劇を巡って熱い火花を散らしていた。一人は、一度も笑ったことがない厳格な検閲官・向坂睦夫(役所広司)。相対するは、笑いに命をかける劇団「笑の大学」の座付作家・椿一(稲垣吾郎)。向坂は台本から「笑い」を排除しようと椿に無理難題を突きつける。上演の許可をもらうためその要求を聞き入れながらも、なんとか「笑い」を残そうと苦悩する椿だったが・・・・。
監督:星護
原作・脚本:三谷幸喜
出演:役所広司(検閲官・向坂睦夫)、稲垣吾郎(劇団「笑の大学」座付作家・椿一)
面白い事は面白い。しかし、はっきり言って残念な作品である。
本作「笑の大学」は、役所広司の素晴らしい演技に救われ、シーン毎のクオリティは素晴らしいのだが、映画全体の構成を考えると、残念な結果に終わっている。
言わばテレビあがりの演出家が、映画の文法を理解せず、長尺ものの構成が出来ず、テレビの続き物の感覚で演出してしまった作品のような印象を受けるのだ。
台本の検閲シークエンス、二人芝居部分の演出は、及第だと言えるし、時々素晴らしいカットが顔を出す。勿論、役所広司の力量によるものだと思うし、稲垣吾郎も非常に頑張っている。
しかし、先ずは、映画には不必要なカットは存在し得ない、そして本編に残ったカットには全て意味があり、存在理由がある、と言う事を理解した上で映画を製作して欲しいと切に願うのだ。
撮影されたフィルムの山から、不必要なカット、不必要なコマを極限まで削ぎ落として行くと、一本の映画が完成する、と言うことなのだ。
一方テレビドラマには、ビデオ製作の制約上、つまりカット毎のノンリニア編集ではなく、副調整室(サブ)のスイッチによるシーン毎の編集のため、無駄なカットや、不必要なフレームが本編に必然的に含まれてしまうのだ。
その辺を理解した上でひとつひとつのカットに命をかけて、映画を製作して欲しいのだ。
そんな所から本作「笑の大学」を考えた場合気になる点が何点かある。
先ずは冒頭から何度か繰り返される、椿が「笑の大学」劇場から警視庁まで歩き、警視庁の建物の前でおののき警官にお辞儀をするシークエンスである。
別にこのシークエンスがいけない、と言っているのではない。同じようなカットやシークエンスを繰り返す以上は、そのカットやシークエンスに意味を持たせろ、と言う事なのだ。
折角マエフリが出来ているのに、何故最後の日に椿がいつもと違う雰囲気で歩くカットが無いのか、いつもと違う超然として達観した歩き方をする椿のカットが見たいのだ。
星護にとっては、この椿の歩きのカットは、1日目と2日目、または3日目と4日目等のシーンのつなぎとしてしか意味を持っていないようである。
あるいは、号外や通行人の服装が変わり、椿の環境、浅草の日常、そして日本を取巻く環境を観客に伝える為に存在するようである。
更に、これも冒頭から繰り返されるのだが、「不許可」のスタンプ押印についてだ。
ラストで何故椿の台本に「許可」のスタンプを押さないのか、または「許可」のスタンプが押された椿の台本の表紙のカットを何故本編に挿入しないのか、理解に苦しむ。
例えば、昭和15年代のポスターを模したクレジットを制作するのならば、クレジットの最後のカードは「許可」のスタンプが押された台本でも良いし、台本をエンドマークに利用しても良い。本編のラストカットに台本を映し、そこからアイリスでエンド・クレジットに繋げても良いと思うのだ。
椿の歩きにしろ、向坂のスタンプ押印にしろ、何のために何度も何度もマエフリを行っていると思っているのだ。オチが無いだろ、オチが。回収されない伏線などは映画にはいらないものなんだよ。その辺を理解して欲しいのだ。
また本作「笑の大学」は、ほぼ二人芝居の様相を呈しているのだが、役所広司の演技を見ていると、役者と言うものは何かを明確にわからせてくれる。役者とは口先だけのセリフではなく、身体全体の動きや雰囲気であることや、醸し出す空気であることが良くわかる。対する稲垣吾郎も経験は圧倒的に不足している割には善戦しているとは思うのだが、残念ながら役者としての格が違いすぎる。
例えば冒頭、二人が歩くシーンだけを並べて見せるだけでも、二人の歩き方ひとつをとっても存在感、説得力が全く違う。
役所広司の歩き方を見ると、検閲官・向坂睦夫の性格が完全に見て取れるのだ。自信に満ちた独善的で不正を許さない杓子定規な性格が観客に見事に伝わってくるのだ。一方稲垣吾郎の歩き方からは椿一の性格は残念ながら読み取れない。
二人を比較するのは酷な気もするが、本作はほぼ二人芝居の作品であるから、こればかりは仕方が無いだろう。
そして興味深いのは、物語上二人の関係は、検閲と言う国家権力(向坂睦夫)に立ち向かう孤高の脚本家(椿一)、と言う構図になっており、勿論「剣」と「ペン」のメタファーになっているのだが、見様によっては、世界的な俳優(役所広司)に立ち向かう俳優に似て異なる存在(稲垣吾郎)、と言う構図にも見えてくるのが興味深い。そう、役所広司と稲垣吾郎は、風車とドン・キホーテの関係なのだ。
しかし何と言っても役所広司は凄い。
そこには確実に検閲官・向坂睦夫が居たのだ。
二人の絡みのシークエンスは言うまでもないが、「笑の大学」劇場の前の、少年のような惚けたような表情は最高である。勿論稲垣吾郎は善戦しているが、本作「笑の大学」は、役所広司の演技を、存在感を表情を、セリフを動きを背中の哀愁を、それらを見るだけでも充分価値がある映画である、と言えるのだ。
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「クレイドル・ウィル・ロック」と比較しても面白いかも。
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