小松沢陽一と言う名の男がいる。
「泣きの小松沢」と呼ばれた「東京国際ファンタスティック映画祭」を創設したプロデューサーである。
 
 
1950年 小松沢陽一は岩手県一関市の映画館の息子として生まれる。そんな彼の部屋にある小窓を開けると、そこは夢と希望が生まれる場所、映画館だった訳だ。映画館でかかる映画全てを見尽くした彼は1971年、単身フランスへ渡り、留学先のパリ第7大学で「パリ日本映画クラブ」を主宰する。彼は大学在学中の4年間で、約300本の日本映画をフランスに紹介した。その活動の中、彼はフランス映画人と知り合い、後年の映画祭プロデューサーとしての活動の先鞭を付ける事になる。

その後しばらくの間は、キネマ旬報社の特派員としてフランスで活動。ルネ・クレマン、ジャック・ドゥミ等、多数のフランス映画人と親交を結び、 取材に出かけた「アヴォリアッツ国際ファンタスティック映画祭」の魅力に取りつかれ、1985年「東京国際ファンタスティック映画祭」を創設することになる。
その映画祭は、本年記念すべき20周年を迎えた。

1987年には「サンダンス映画祭 in TOKYO」を手がけ、1990年からは「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」のプロデューサーに就任する。

また、1995年には韓国の「富川国際ファンタスティック映画祭」の創設にアドバイザーとして協力した。
 
 
「東京国際ファンタスティック映画祭」と言えば、もちろん世界中から新しい映画の流れを日本をはじめとして世界に発信する映画祭であり、若く才能豊かな映像作家を発掘する映画祭であった。

そして、ホラーやスプラッタが市民権を得たのも、香港ノワールや初期のワイヤー・アクション、マサラ・ムービーや韓国映画、そしてタイ映画を日本を通じて世界に紹介したのも「東京ファンタ」なのである。

そして、ピーター・ジャクソンにしろ、ジョージ・A・ロメロにしろダリオ・アルジェントにしろ、ジョン・カーペンターにしろ、ツイ・ハークにしろ、デビッド・クローネンバーグにしろ、ブライアン・デ・パルマにしろ、サム・ライミにしろ、アレハンドロ・ホドロフスキーにしろ、ロイド・カウフマンにしろ、トビー・フーパーにしろ、雨宮慶太にしろ、スチュアート・ゴードンにしろ彼等の新作は今はなき「渋谷パンテオン」の大スクリーンを経て来たのだ。

そして「東京ファンタ」と言えば、二人の愛すべき映画莫迦、「ゆうばり国際ファンタスティック映画祭」を立ち上げた故中田鉄治前夕張市長であり、「泣きの小松沢」こと小松沢陽一なのである。
 
 
そんな愛すべき映画莫迦小松沢陽一は「東京ファンタ」のオープニングにしろクロージングにしろ、スピーチの度に感極まって泣く事がいつしか定番になっていた。

そして小松沢が泣くその姿は「東京ファンタ」ファンの中では有名で、オープニングのステージ上に綺羅星のように並ぶ世界中の映画人を前にして行われる「東京ファンタ」プロデューサー小松沢陽一の開会宣言のスピーチが始まるや否や「泣け〜!」と言う野次が客席各方面から飛ぶ訳だ。
 
 
そんな「泣きの小松沢」こと小松沢陽一が涙を見せる理由は明白である。
映画への限りない愛がそうさせるのである。

「東京国際ファンタスティック映画祭」が開催できることに、儲かりもしない映画祭に多くのスポンサーがついてくれたことに、「渋谷パンテオン」が映画祭の会場として借りられたことに、チケットを奪い合うように買ってくれる「東京ファンタ」ファンがいることに、世界中から「東京ファンタ」ファンが会場に駆けつけてくれたことに、ギャラも出ないような映画祭に手弁当で世界中の映画人が駆けつけてくれることに、世界中から素晴らしい作品たちが「東京ファンタ」に出品してもらえることに、そしてそんな素晴らしい作品たちが「渋谷パンテオン」の大スクリーンを跳ね回ることに・・・・。

ぼくらはそんな「泣きの小松沢」の姿を見るのが好きだった。
ひとりの愛すべき映画莫迦の、全ての映画に対する限りない愛が具現化された涙を見るのが好きだった。
ぼくらは彼の涙を通じて、世界中の全ての映画を愛していたのである。
 
 
そして、今年の「東京ファンタ」のステージ上でもかつての「東京ファンタ」を髣髴とさせる瞬間が何度かあった。

例えばそれは、「鉄人28号」の視覚効果を担当した松本肇が語るジョン・カーペンターの「ゴースト・ハンターズ」の思い出であったり、「東京ファンタ」のスクリーンに自作が上映されることを夢見ていたタイの映画監督モントン・アラヤンクンのスピーチであったり、それらのスピーチに触れ、かつての「東京ファンタ」の熱い心が蘇り、思わず絶句してしまう現プログラミング・ディレクター大場渉太であった訳だ。

かつての「東京ファンタ」は熱く、単純で、泣き虫な映画祭だった。
ゲストも観客もスタッフも、スクリーン上で繰り広げられる出来事に、登場人物の一挙手一頭足に反応し、笑い、泣き、そして怒ったのだ。

素晴らしいカットやセリフ、素晴らしい動きや特撮、そして音楽、そんなものがスクリーンに投影されるやいなや、素直に、当たり前のように、笑いが、怒りが、涙が、そして拍手が巻き起こったのである。その瞬間、会場はひとつの生き物であるかのようだった。

現在の「東京ファンタ」では、なんだか拍手をすることが目的のような拍手が巻き起こっている。しかも拍手を受けるクレジットは会場に駆けつけ、舞台挨拶を行った人々だけになのである。

ぼくらは、素直に映画を愛するが故の拍手が発生するのが心地よく、幸せだった訳である。
 
 
2004年、20周年を迎えた「東京国際ファンタスティック映画祭」のステージには「泣きの小松沢」小松沢陽一の姿はなかった。
今年の「東京ファンタ」のクレジットにはこうある。

SPECIAL THANKS 小松沢陽一

と。

「東京ファンタ」を立ち上げ、育てあげてきた小松沢陽一に対して、SPECIAL THANKS とは、なんとも悲しいクレジットである。
 
 
ぼくらが愛した「東京ファンタ」はもうここにはない。
 
 
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小松沢陽一の主な受賞歴
1989年、ローマ国際映画祭「特別栄誉賞」
1992年、アヴォリアッツ国際映画祭「20周年記念特別功労賞」
1995年、日本映画・テレビプロデューサー協会「エランドール特別賞」

※小松沢陽一がなぜ「東京ファンタ」のプロデューサーを退いたのかは、わたしは寡聞にして知らない。おそらく大人の事情があったのだろうと思うし、もしかしたら政治的な理由があったのかも知れない。その辺の事情についてご存知の方がいらしたら、ご連絡をいただければ幸いです。

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コメント

nophoto
通りがかりの知人
2006年2月8日22:05

退いたのは、病気だからです。
昔からアルツハイマーにかかっているので、記憶が飛ぶのです。無理をして映画祭に観客の為にと舞台に立っていますが、無理がたたるゆえ、映画祭スタッフに迷惑をかける。2000年の東京ファンタでの病欠欠席は、入院しており、参加できなかったのです。2003年のさよならパンテオンに参加したのは、病を押しての参加、そのときは、涙、涙でした。
今年のゆうばり映画祭から名前だけを残し、参加していません。昨年、福岡で映画祭を小松沢を担ぎ出した人がいて、映画祭を立ち上げました。年間通じて2つの映画祭(東京・夕張)に参加することを困難で、1つに減らしたにもかかわらず、福岡を立ち上げたので、夕張は、降りているようです。

彼は、病気なんです、近くで見かければ、後遺症である、タバコを持つ指が小刻みに揺れています。無理させないほうがいいのです。
tkr

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