「スチームボーイ」を弁護する その3
2004年9月9日 映画
各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html
3.成長しない登場人物
「スチームボーイ」 の予告編を観たわたしが最初に思い描いたのは、「スチーム・ボールと言う言わば悪魔の発明品を、複数の組織や個人が奪い合い、その渦中においてレイとスカーレットが様々な経験をし、ある種の通過儀礼を経て、その結果それぞれがそれぞれ成長する」というものだった。
仮に「スチームボーイ」が一般の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」だとすると、「物語内で語られる何らかの契機により主人公が成長する」と言うプロットは、必要不可欠な要因だ、と言っても良いだろう。事実多くのヒーローを描いた物語は、ヒーローの通過儀礼と共にヒーローの誕生と活躍を描いている。
しかし、この「スチームボーイ」においては、その論理は成立しないのである。何しろ、レイやスカーレットは物語の「中」では成長しないのである。
レイは「おじいちゃんが発明したスチーム・ボールを戦争なんかには使わせない」と孤軍奮闘する中で、様々な人々と出会い、様々な人の考えに触れ、いろいろな経験をするのだが、レイの人生の転機となる強烈な事象には遭遇していないし、イニシエーションも体験していないし、特段成長したような描写もないのだ。
一方スカーレットはスカーレットで、オハラ財団で学んでいるだろうオハラ財団の「帝王学」の行動原理に貫かれた行動を取り続けているのだ。
例えば、イギリスとオハラ財団の戦争が始まれば、サイモンに「負けちゃダメよ」と釘を刺すし、蒸気で動く兵士の甲冑の中に人が入っているのを見ても「人が入っているじゃないの」と、一応は驚くのだが、その後の彼女の行動に変化が表れたようには見えない。
しかし多くの物語では、例えばルーク・スカイウォーカーだって、萩野千尋だって、ピーター・パーカーだって、不動明だって、ある種の通過儀礼を経て、何らかの成長を遂げ、ヒーローになっている訳なのだ。
そう考えた場合、見えてくるのは、この「スチームボーイ」という作品は、登場人物が「本編中」では成長しない、斬新な構成を持った物語だと言えるのだ。
とは、言うものの、世の中には登場人物が成長しない物語はいくらでもある。物語の中で「登場人物の周りでは、いろいろなことがあったが、結局は一回りして元通り」と言う構成を持った物語である。
例えば「ジョゼと虎と魚たち」のジョゼは成長しないキャラクターとして、−−普遍的で超然的な達観した存在として--、描かれているし、「69 sixty nine」のケンとアダマはある意味成長を拒絶した永遠の存在として描かれている。これは押井守の「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」にも通じる。
そうなのだ、成長しないキャラクターを描く際、そのキャラクターは普遍的で超然的で神格化された存在として描かざるを得ないのである。
しかし、「スチームボーイ」はどうだろう。レイにしろスカーレットにしろ、そのような超絶的で達観したキャラクターとして描かれているだろうか・・・・。
そう、賢明な読者諸氏は既にお気付きの事と思うが、「本編中」では通過儀礼もないし、成長もしないレイとスカーレットだが、実際のところはなんと「スチームボーイ」の物語が終わってから見事に成長しているのだ。(次回「ヒーローの誕生」に続く・・・・)
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
「スチームボーイ」を弁護する その2
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html
3.成長しない登場人物
「スチームボーイ」 の予告編を観たわたしが最初に思い描いたのは、「スチーム・ボールと言う言わば悪魔の発明品を、複数の組織や個人が奪い合い、その渦中においてレイとスカーレットが様々な経験をし、ある種の通過儀礼を経て、その結果それぞれがそれぞれ成長する」というものだった。
仮に「スチームボーイ」が一般の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」だとすると、「物語内で語られる何らかの契機により主人公が成長する」と言うプロットは、必要不可欠な要因だ、と言っても良いだろう。事実多くのヒーローを描いた物語は、ヒーローの通過儀礼と共にヒーローの誕生と活躍を描いている。
しかし、この「スチームボーイ」においては、その論理は成立しないのである。何しろ、レイやスカーレットは物語の「中」では成長しないのである。
レイは「おじいちゃんが発明したスチーム・ボールを戦争なんかには使わせない」と孤軍奮闘する中で、様々な人々と出会い、様々な人の考えに触れ、いろいろな経験をするのだが、レイの人生の転機となる強烈な事象には遭遇していないし、イニシエーションも体験していないし、特段成長したような描写もないのだ。
一方スカーレットはスカーレットで、オハラ財団で学んでいるだろうオハラ財団の「帝王学」の行動原理に貫かれた行動を取り続けているのだ。
例えば、イギリスとオハラ財団の戦争が始まれば、サイモンに「負けちゃダメよ」と釘を刺すし、蒸気で動く兵士の甲冑の中に人が入っているのを見ても「人が入っているじゃないの」と、一応は驚くのだが、その後の彼女の行動に変化が表れたようには見えない。
しかし多くの物語では、例えばルーク・スカイウォーカーだって、萩野千尋だって、ピーター・パーカーだって、不動明だって、ある種の通過儀礼を経て、何らかの成長を遂げ、ヒーローになっている訳なのだ。
そう考えた場合、見えてくるのは、この「スチームボーイ」という作品は、登場人物が「本編中」では成長しない、斬新な構成を持った物語だと言えるのだ。
とは、言うものの、世の中には登場人物が成長しない物語はいくらでもある。物語の中で「登場人物の周りでは、いろいろなことがあったが、結局は一回りして元通り」と言う構成を持った物語である。
例えば「ジョゼと虎と魚たち」のジョゼは成長しないキャラクターとして、−−普遍的で超然的な達観した存在として--、描かれているし、「69 sixty nine」のケンとアダマはある意味成長を拒絶した永遠の存在として描かれている。これは押井守の「うる星やつら/ビューティフル・ドリーマー」にも通じる。
そうなのだ、成長しないキャラクターを描く際、そのキャラクターは普遍的で超然的で神格化された存在として描かざるを得ないのである。
しかし、「スチームボーイ」はどうだろう。レイにしろスカーレットにしろ、そのような超絶的で達観したキャラクターとして描かれているだろうか・・・・。
そう、賢明な読者諸氏は既にお気付きの事と思うが、「本編中」では通過儀礼もないし、成長もしないレイとスカーレットだが、実際のところはなんと「スチームボーイ」の物語が終わってから見事に成長しているのだ。(次回「ヒーローの誕生」に続く・・・・)
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
「スチームボーイ」を弁護する その2
http://diarynote.jp/d/29346/20040825.html
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