「スチームボーイ」を弁護する その2
2004年8月25日 映画
各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
「スチームボーイ」を語る上で、考えなければならないひとつの特徴として「ユーモアの欠如」があげられるだろう。
仮に「スチームボーイ」を一般的な少年少女向け「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と捉えた場合、「ユーモアの欠如」は作品として致命的な事かも知れない。
「スチームボーイ」が一般的な作品だとすれば、おそらくコメディ・リリーフとして機能すべきである、世間知らずのお嬢さんスカーレット(スカーレット・オハラ・セントジョーンズ)や、世間知らずのお嬢さんに振り回される爺や的役柄のサイモン(アーチボルド・サイモン)も、この作品ではコメディ・リリーフの役割を全く期待されていない。
そして、デザイン的には面白い要素(笑える要素)満載のオハラ財団の蒸気機関メカも、決してコミカルな演出をされていないのだ。
物語に緩急のリズムを付け、クライマックスの緊張感を煽る意味も含めて、ユーモラスな場面を挿入し、観客の緊張を弛緩させるのは、一般的な映画の文法上必要だと考えられる。
そんな状況の中で考えなければならないのは、果たして「スチームボーイ」のような物語に「ユーモア」は本当に必要なのか、という点と、製作者が「ユーモアが欠如」した「スチームボーイ」という作品を製作した理由は何か、製作者はそれにより観客に何を訴えかけているのか、という点である。
先ず前提として「スチームボーイ」の物語は、『人類が叡智を結集して創り上げた「スチームボール」という、人類に破壊や恩恵をもたらすであろうあるモノを奪い合う物語』であり、端的に言えば『破壊兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして本作では多くの人命を奪うであろう破壊兵器の技術基盤と成りうる「スチームボール」の争奪戦を描き、その過程で、多くの人命が文字通り犠牲になっている訳である。
そして「スチームボーイ」の物語は、一部のエゴイスティックな人間や集団が、自らの行動規範に基づき自らの目的を成就するため「スチームボール」を奪い合い、結果としてその行動が多くの人々の死を誘発している、という構造を持っているのである。
これは、「スチームボーイ」とよく比較される「天空の城ラピュタ」も同様である。
「天空の城ラピュタ」の物語は、『かつて大空に恐怖の代名詞として君臨したラピュタ国の失われた技術を開放するキーとなる「飛行石」の争奪戦』が描かれており、この物語も端的に言えば『兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして「天空の城ラピュタ」で宮崎駿は、最低でも百人単位の人々の死を描く一方、コミカルでユーモラスなシークエンスを演出している。
例えば、冒頭付近の「そのシャツ誰が縫うんだろうね」のシークエンスや、タイガーモス号のキッチンでの「何か手伝おうか」のシークエンス、そしてドーラのオナラのシークエンス等、物語にリズムを付け、観客を笑わせる事を目的とした演出がなされている。
このような演出はその他の「ハード」な宮崎駿の作品には無いのである。「風の谷のナウシカ」然り、「もののけ姫」然りである。
しかし「スチームボーイ」に接した今、「天空の城ラピュタ」が多くの人々の死を描いている以上、その死者やその死者の背後にいる死者の親族たちに対し、笑いを取ることを目的とした演出は、もしかすると不謹慎な手法だったのではなかったのだろうか、と思ってしまうのである。
例えば「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に「ユーモア」描写があったらどういう印象を観客に与えるか、と言うことである。
そう考えた場合、「スチームボーイ」は従前の、多くの人々の生き死にを描きながら、平然と「笑い」のシークエンスを物語に挿入してきた作品群へのアンチテーゼとして機能しているのではないだろうか。と思えるのだ。
その場合、この「スチームボーイ」の製作者が目指している(と思われる)、作品に向き合う孤高で真摯な態度に、わたしは尊敬の念を禁じえないのだ。
これは例えフィクションと言えども、登場人物の生き死にに責任を持て、と言う事であり、物語を描く以上、人の生き死には尊厳を持って取り組め、と言う事なのである。
そして「スチームボーイ」は、従前の、人々の死を描きつつ同時に笑いを描き続けてきたある意味不謹慎な作品群への大友克洋からの訣別意志表示ではなかろうか。と思うのだ。
そして大友克洋は、「スチームボーイ」の製作過程において、ただ単に従来の手法通りに「ユーモア」を加味すれば良かったのに、わざわざ「ユーモア」を加味しなかった事に、言い換えるならば従来の価値観の破壊に拍手を贈りたいのだ。
ここまで読んできた人の中には、何考えてんだ、頭おかしいんじゃないのか、これはあくまでもフィクションだぜ、何そんなに熱くなってんだよたかが映画だぜ、と思う方もいると思います。
しかし、「スチームボーイ」は、そこまで考えさせるきっかけをわたし達に提供してくれる「ハード」な作品である。と言う事なんでしょうね。
勿論わたしにとっては、ですけど。
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
2.ユーモアの欠如
「スチームボーイ」を語る上で、考えなければならないひとつの特徴として「ユーモアの欠如」があげられるだろう。
仮に「スチームボーイ」を一般的な少年少女向け「血沸き肉踊る冒険漫画映画」と捉えた場合、「ユーモアの欠如」は作品として致命的な事かも知れない。
「スチームボーイ」が一般的な作品だとすれば、おそらくコメディ・リリーフとして機能すべきである、世間知らずのお嬢さんスカーレット(スカーレット・オハラ・セントジョーンズ)や、世間知らずのお嬢さんに振り回される爺や的役柄のサイモン(アーチボルド・サイモン)も、この作品ではコメディ・リリーフの役割を全く期待されていない。
そして、デザイン的には面白い要素(笑える要素)満載のオハラ財団の蒸気機関メカも、決してコミカルな演出をされていないのだ。
物語に緩急のリズムを付け、クライマックスの緊張感を煽る意味も含めて、ユーモラスな場面を挿入し、観客の緊張を弛緩させるのは、一般的な映画の文法上必要だと考えられる。
そんな状況の中で考えなければならないのは、果たして「スチームボーイ」のような物語に「ユーモア」は本当に必要なのか、という点と、製作者が「ユーモアが欠如」した「スチームボーイ」という作品を製作した理由は何か、製作者はそれにより観客に何を訴えかけているのか、という点である。
先ず前提として「スチームボーイ」の物語は、『人類が叡智を結集して創り上げた「スチームボール」という、人類に破壊や恩恵をもたらすであろうあるモノを奪い合う物語』であり、端的に言えば『破壊兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして本作では多くの人命を奪うであろう破壊兵器の技術基盤と成りうる「スチームボール」の争奪戦を描き、その過程で、多くの人命が文字通り犠牲になっている訳である。
そして「スチームボーイ」の物語は、一部のエゴイスティックな人間や集団が、自らの行動規範に基づき自らの目的を成就するため「スチームボール」を奪い合い、結果としてその行動が多くの人々の死を誘発している、という構造を持っているのである。
これは、「スチームボーイ」とよく比較される「天空の城ラピュタ」も同様である。
「天空の城ラピュタ」の物語は、『かつて大空に恐怖の代名詞として君臨したラピュタ国の失われた技術を開放するキーとなる「飛行石」の争奪戦』が描かれており、この物語も端的に言えば『兵器を奪い合う物語』と言えるのである。
そして「天空の城ラピュタ」で宮崎駿は、最低でも百人単位の人々の死を描く一方、コミカルでユーモラスなシークエンスを演出している。
例えば、冒頭付近の「そのシャツ誰が縫うんだろうね」のシークエンスや、タイガーモス号のキッチンでの「何か手伝おうか」のシークエンス、そしてドーラのオナラのシークエンス等、物語にリズムを付け、観客を笑わせる事を目的とした演出がなされている。
このような演出はその他の「ハード」な宮崎駿の作品には無いのである。「風の谷のナウシカ」然り、「もののけ姫」然りである。
しかし「スチームボーイ」に接した今、「天空の城ラピュタ」が多くの人々の死を描いている以上、その死者やその死者の背後にいる死者の親族たちに対し、笑いを取ることを目的とした演出は、もしかすると不謹慎な手法だったのではなかったのだろうか、と思ってしまうのである。
例えば「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」に「ユーモア」描写があったらどういう印象を観客に与えるか、と言うことである。
そう考えた場合、「スチームボーイ」は従前の、多くの人々の生き死にを描きながら、平然と「笑い」のシークエンスを物語に挿入してきた作品群へのアンチテーゼとして機能しているのではないだろうか。と思えるのだ。
その場合、この「スチームボーイ」の製作者が目指している(と思われる)、作品に向き合う孤高で真摯な態度に、わたしは尊敬の念を禁じえないのだ。
これは例えフィクションと言えども、登場人物の生き死にに責任を持て、と言う事であり、物語を描く以上、人の生き死には尊厳を持って取り組め、と言う事なのである。
そして「スチームボーイ」は、従前の、人々の死を描きつつ同時に笑いを描き続けてきたある意味不謹慎な作品群への大友克洋からの訣別意志表示ではなかろうか。と思うのだ。
そして大友克洋は、「スチームボーイ」の製作過程において、ただ単に従来の手法通りに「ユーモア」を加味すれば良かったのに、わざわざ「ユーモア」を加味しなかった事に、言い換えるならば従来の価値観の破壊に拍手を贈りたいのだ。
ここまで読んできた人の中には、何考えてんだ、頭おかしいんじゃないのか、これはあくまでもフィクションだぜ、何そんなに熱くなってんだよたかが映画だぜ、と思う方もいると思います。
しかし、「スチームボーイ」は、そこまで考えさせるきっかけをわたし達に提供してくれる「ハード」な作品である。と言う事なんでしょうね。
勿論わたしにとっては、ですけど。
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
「スチームボーイ」を弁護する その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040812.html
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