「スチームボーイ」を弁護する その1
2004年8月12日 映画
各方面で賛否両論、と言うか若干酷評気味の「スチームボーイ」なのだが、わたし個人としては以前書いたようにいくつかの問題点はあるものの、「天空の城ラピュタ」と並ぶ、現時点では最高の「血沸き肉踊る冒険漫画映画」の一本であると思うのだ。
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
誰もが指摘する様に、本作「スチームボーイ」の物語と「天空の城ラピュタ」(「天空の城ラピュタ」の原案を基にしている「ふしぎの海のナディア」を含む)の物語との表層的な類似は否めない事実である。
これら「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」の物語の根本的なプロットは「人類にとって大きな災厄と恩恵をもたらす可能性を秘めた力の源を手にしてしまった少年少女たちが、その力の源と発動する力を欲する権力者たちと、力の源の争奪戦を繰り広げる」と言うものである。
これは最近では「ロード・オブ・ザ・リング」三部作でも語られているような普遍的で神話的などんな民族にも受け入れられる構成を持った物語であると言える。
仮に「ロード・オブ・ザ・リング」三部作に主体を置いて言うならば、これらの物語は「大きな力を捨てに行く」物語なのである。
(※ 「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」(「ふしぎの海のナディア」)のキャラクター設定や、置かれている環境、時代背景、そのキャラクターが属する集団と対立する集団に関する類似性は、物語の基本的プロットやコンセプトを考えた場合、特に重要では無いので割愛します)
しかし、ここで考えなければならないのは、「天空の城ラピュタ」等で描かれている「力の源」と「発動する力」は、当時の人類には開発もコントロールも出来ない、「前文明(前時代)の遺産」として存在し、「神や天の火(天災)」のメタファーとして描かれている、と言う点である。
これは宮崎駿の作品中、「天空の城ラピュタ」の「飛行石/ラピュタのいかずち/装甲ロボット兵」、「ふしぎの海のナディア」の「ブルー・ウォーター/アトランティス」、「未来少年コナン」の「太陽塔/太陽エネルギー/ギガント」、「風の谷のナウシカ」の「巨神兵/王蟲/腐海」、「もののけ姫」の「シシ神」、「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」として、何度も何度も描かれており、宮崎駿の環境問題に対する考え方、エコロジーや環境破壊に対する過激な意識が、地球の怒=天災と形を変え、幾度と無く描かれている、という訳なのである。
一方「スチームボーイ」の「力の源」は勿論「スチームボール」であり、これは当時の人類がその叡智を結集し開発したもので、人類に破壊と恩恵をもたらす科学技術のメタファーとして存在している訳だ。
これは「アキラ」の「鉄雄」にも通じるのだ。とは言っても「アキラ」の「鉄雄」は科学技術のメタファーか、と言われると表層的には疑問の余地はあるだろう。しかし「アキラ」はもともと「鉄人28号」から着想した作品である、と言う点や、「アキラ」の物語中で「鉄雄」の力はきっかけはともかく医療技術で発動するところ(語弊あり)から、「鉄雄」が人類に破壊と恩恵をもたらす科学技術のメタファーだと考えても構わないだろう。
つまり、表層的には「人類にとって大きな災厄と恩恵をもたらす可能性を秘めた力の源を手にしてしまった少年少女たちが、その力の源と発動する力を欲する権力者たちと、力の源の争奪戦を繰り広げる」という物語に見える「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」だが、その物語の核となる「力の源」は全く異なる次元とベクトルを持っているのである。
これを端的に表すと、宮崎駿は人類が行っている環境破壊を批判し、一方大友克洋は(兵器転用可能な)科学技術の開発競争を批判している訳である。
こう考えると「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は、物語の表層の類似は否めないものの、作品自体が持つ思想的・政治的バックボーンや、製作者が物語を通じて観客に指し示すベクトルは全く異なる作品だ、と言う事が言えるだろう。
語弊はあるが、あえて誤解を恐れずに端的に言うならば、「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は、マイケル・ムーアとグリーン・ピース位かけ離れた作品だ、と言う事が出来るのではないだろうか。
そしておそらく、宮崎駿の理想は人類の自然との共存であり、大友克洋の理想は人類の科学技術との共存だ、と言えるのではないだろうか。 これは正しく、似て非なるものだと言えよう。
いかがであろう、つまり「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は全くと言って良いほど異なった作品であり、表層だけを見て似ている、と考えるのは当てはまらないのではないか、とわたしは考えるのだ。
つづく・・・・予定。
2.ユーモアの欠如
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
そんなところで、いくつかの観点から「スチームボーイ」の弁護を試みると共に、「スチームボーイ」の理解を深めて行きたいと思うのだ。
1.「天空の城ラピュタ」との類似性
誰もが指摘する様に、本作「スチームボーイ」の物語と「天空の城ラピュタ」(「天空の城ラピュタ」の原案を基にしている「ふしぎの海のナディア」を含む)の物語との表層的な類似は否めない事実である。
これら「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」の物語の根本的なプロットは「人類にとって大きな災厄と恩恵をもたらす可能性を秘めた力の源を手にしてしまった少年少女たちが、その力の源と発動する力を欲する権力者たちと、力の源の争奪戦を繰り広げる」と言うものである。
これは最近では「ロード・オブ・ザ・リング」三部作でも語られているような普遍的で神話的などんな民族にも受け入れられる構成を持った物語であると言える。
仮に「ロード・オブ・ザ・リング」三部作に主体を置いて言うならば、これらの物語は「大きな力を捨てに行く」物語なのである。
(※ 「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」(「ふしぎの海のナディア」)のキャラクター設定や、置かれている環境、時代背景、そのキャラクターが属する集団と対立する集団に関する類似性は、物語の基本的プロットやコンセプトを考えた場合、特に重要では無いので割愛します)
しかし、ここで考えなければならないのは、「天空の城ラピュタ」等で描かれている「力の源」と「発動する力」は、当時の人類には開発もコントロールも出来ない、「前文明(前時代)の遺産」として存在し、「神や天の火(天災)」のメタファーとして描かれている、と言う点である。
これは宮崎駿の作品中、「天空の城ラピュタ」の「飛行石/ラピュタのいかずち/装甲ロボット兵」、「ふしぎの海のナディア」の「ブルー・ウォーター/アトランティス」、「未来少年コナン」の「太陽塔/太陽エネルギー/ギガント」、「風の谷のナウシカ」の「巨神兵/王蟲/腐海」、「もののけ姫」の「シシ神」、「千と千尋の神隠し」の「カオナシ」として、何度も何度も描かれており、宮崎駿の環境問題に対する考え方、エコロジーや環境破壊に対する過激な意識が、地球の怒=天災と形を変え、幾度と無く描かれている、という訳なのである。
一方「スチームボーイ」の「力の源」は勿論「スチームボール」であり、これは当時の人類がその叡智を結集し開発したもので、人類に破壊と恩恵をもたらす科学技術のメタファーとして存在している訳だ。
これは「アキラ」の「鉄雄」にも通じるのだ。とは言っても「アキラ」の「鉄雄」は科学技術のメタファーか、と言われると表層的には疑問の余地はあるだろう。しかし「アキラ」はもともと「鉄人28号」から着想した作品である、と言う点や、「アキラ」の物語中で「鉄雄」の力はきっかけはともかく医療技術で発動するところ(語弊あり)から、「鉄雄」が人類に破壊と恩恵をもたらす科学技術のメタファーだと考えても構わないだろう。
つまり、表層的には「人類にとって大きな災厄と恩恵をもたらす可能性を秘めた力の源を手にしてしまった少年少女たちが、その力の源と発動する力を欲する権力者たちと、力の源の争奪戦を繰り広げる」という物語に見える「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」だが、その物語の核となる「力の源」は全く異なる次元とベクトルを持っているのである。
これを端的に表すと、宮崎駿は人類が行っている環境破壊を批判し、一方大友克洋は(兵器転用可能な)科学技術の開発競争を批判している訳である。
こう考えると「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は、物語の表層の類似は否めないものの、作品自体が持つ思想的・政治的バックボーンや、製作者が物語を通じて観客に指し示すベクトルは全く異なる作品だ、と言う事が言えるだろう。
語弊はあるが、あえて誤解を恐れずに端的に言うならば、「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は、マイケル・ムーアとグリーン・ピース位かけ離れた作品だ、と言う事が出来るのではないだろうか。
そしておそらく、宮崎駿の理想は人類の自然との共存であり、大友克洋の理想は人類の科学技術との共存だ、と言えるのではないだろうか。 これは正しく、似て非なるものだと言えよう。
いかがであろう、つまり「スチームボーイ」と「天空の城ラピュタ」は全くと言って良いほど異なった作品であり、表層だけを見て似ている、と考えるのは当てはまらないのではないか、とわたしは考えるのだ。
つづく・・・・予定。
2.ユーモアの欠如
3.成長しない登場人物
4.ヒーローの誕生
「スチームボーイ」
http://diarynote.jp/d/29346/20040705.html
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