2000年〜2002年頃だと思うのだが、タワーレコードのCF(CM)で次のような作品があった。
このCF(CM)は、北米を中心に放映されたもので、日本国内ではおそらく放映されなかったと思うのだが、どこかのCF(CM)コンペティションで何かの賞を受賞した作品である。
「タワーレコード/タワーレコードの日常編」
とあるタワーレコード店内のカウンター
カメラは店員の頭越しにカウンターを捉えている。
そのカメラのレンズは広角で、あたかも防犯用のビデオ映像を見ているような印象を視聴者に与えている。
カウンターの前に現れたひとりの男が突然歌いだす。
その歌に耳を傾けるタワーレコードの店員。
サラリーマン、学生、主婦、パンク、スラッシャー、老人、子供・・・・
短いカットが変わる度に、様々な人達が様々な歌を歌い、店員は熱心に客の歌を聴いている。
「これがタワーレコードの日常です」
画面にキャッチ・コピーが現れる。
いかがだろうか。このCF(CM)のイメージは掴めたであろうか。
既にお分かりだと思うが、このCF(CM)は、「メロディや詩はわかるのだが、タイトルや演奏者がわからない曲」を店員の前で歌う事により、店員に曲名や演奏者名を教えて欲しい、という気持ちを、タワーレコードの店員の日常と絡め、ある種自嘲的に、ある種コミカルに、そしてコピーはある種シニカルに描いた作品だと言えよう。
いきなり、何の話かと言うと、このCF(CM)話はとあるブログに触発され、あぁ、こんなCF(CM)があったなと、わたしの記憶が顕在化された事によるものなのである。
因みに、そのブログはこちら。
「Everything She Wants」秋林瑞佳さん
「ビデオ屋ウォッチング 7」
http://diarynote.jp/d/25683/20040803.html
ビデオ屋さんにしろ、レコード屋さん(死語/ママ)にしろ、いろいろな悩みがあるようです。
レコード屋さん(ママ)は、ビデオ屋さんのようにキャストや俳優、場面説明等の言葉での説明ではなく、メロディを中心とした歌の説明でその曲を見つけ出さなければならない訳ですし、絶対数としては映像作品より音楽作品の方が数が多く、大変な度合は大きいかもしれません。
特に、カラオケがあれば問題なくても、アカペラで歌った場合、突然音痴になってしまう人も多いですし、店内でかかっている曲にこ引っ張られないで、自分の記憶の歌を歌わなければいけませんしね。
あと最近思うのは、昔のレコード屋さん(ママ)やビデオ屋さんの店員は結構コアでマニアックな人間データベース的な人が多かったような印象がありますが、最近はほとんど何も知らない人が店員になっている傾向が多いような気がします。
(例えば音楽や映画が)好きで好きでたまらないから、その仕事に就くのではなく、報酬を得るための手段として、たまたまその仕事に就く、という時代ですから仕方が無いのかも知れませんが、寂しい時代の到来かも知れませんね。
それに反して、膨大な情報の海を泳ぐ、わたし達のような消費者は、コアでマニアックな自堕落な情報の渦に取り込まれもがき苦しむうちに、一介の店員風情には把握は勿論、理解できないところまで到達してしまっている訳です。
ともすれば、以前は店員が所有していた膨大な商品情報を、現在は一般の消費者が持つようになってしまう、という「流通革命」の縮図がこんなところにも見え隠れする訳です。
そして本来は、そういったコアでマニアックな人間データベースの皆さんが、ビデオ屋やレコード屋(ママ)の店員になるべきだし、そういった人間データベース的人材の中から、かのクエンティン・タランティーノ等が輩出された訳で、そういったマニアックな品揃えのビデオ屋やレコード屋(ママ)がそういった優秀な人材を輩出する土壌となっていた訳なのです。
しかし、前述のような「流通革命」の縮図が起きている以上、次世代のタランティーノは、ビデオ屋から出てくるのではなく、一般消費者から出てくる、という事になっていくのではないでしょうか。
このCF(CM)は、北米を中心に放映されたもので、日本国内ではおそらく放映されなかったと思うのだが、どこかのCF(CM)コンペティションで何かの賞を受賞した作品である。
「タワーレコード/タワーレコードの日常編」
とあるタワーレコード店内のカウンター
カメラは店員の頭越しにカウンターを捉えている。
そのカメラのレンズは広角で、あたかも防犯用のビデオ映像を見ているような印象を視聴者に与えている。
カウンターの前に現れたひとりの男が突然歌いだす。
その歌に耳を傾けるタワーレコードの店員。
サラリーマン、学生、主婦、パンク、スラッシャー、老人、子供・・・・
短いカットが変わる度に、様々な人達が様々な歌を歌い、店員は熱心に客の歌を聴いている。
「これがタワーレコードの日常です」
画面にキャッチ・コピーが現れる。
いかがだろうか。このCF(CM)のイメージは掴めたであろうか。
既にお分かりだと思うが、このCF(CM)は、「メロディや詩はわかるのだが、タイトルや演奏者がわからない曲」を店員の前で歌う事により、店員に曲名や演奏者名を教えて欲しい、という気持ちを、タワーレコードの店員の日常と絡め、ある種自嘲的に、ある種コミカルに、そしてコピーはある種シニカルに描いた作品だと言えよう。
いきなり、何の話かと言うと、このCF(CM)話はとあるブログに触発され、あぁ、こんなCF(CM)があったなと、わたしの記憶が顕在化された事によるものなのである。
因みに、そのブログはこちら。
「Everything She Wants」秋林瑞佳さん
「ビデオ屋ウォッチング 7」
http://diarynote.jp/d/25683/20040803.html
ビデオ屋さんにしろ、レコード屋さん(死語/ママ)にしろ、いろいろな悩みがあるようです。
レコード屋さん(ママ)は、ビデオ屋さんのようにキャストや俳優、場面説明等の言葉での説明ではなく、メロディを中心とした歌の説明でその曲を見つけ出さなければならない訳ですし、絶対数としては映像作品より音楽作品の方が数が多く、大変な度合は大きいかもしれません。
特に、カラオケがあれば問題なくても、アカペラで歌った場合、突然音痴になってしまう人も多いですし、店内でかかっている曲にこ引っ張られないで、自分の記憶の歌を歌わなければいけませんしね。
あと最近思うのは、昔のレコード屋さん(ママ)やビデオ屋さんの店員は結構コアでマニアックな人間データベース的な人が多かったような印象がありますが、最近はほとんど何も知らない人が店員になっている傾向が多いような気がします。
(例えば音楽や映画が)好きで好きでたまらないから、その仕事に就くのではなく、報酬を得るための手段として、たまたまその仕事に就く、という時代ですから仕方が無いのかも知れませんが、寂しい時代の到来かも知れませんね。
それに反して、膨大な情報の海を泳ぐ、わたし達のような消費者は、コアでマニアックな自堕落な情報の渦に取り込まれもがき苦しむうちに、一介の店員風情には把握は勿論、理解できないところまで到達してしまっている訳です。
ともすれば、以前は店員が所有していた膨大な商品情報を、現在は一般の消費者が持つようになってしまう、という「流通革命」の縮図がこんなところにも見え隠れする訳です。
そして本来は、そういったコアでマニアックな人間データベースの皆さんが、ビデオ屋やレコード屋(ママ)の店員になるべきだし、そういった人間データベース的人材の中から、かのクエンティン・タランティーノ等が輩出された訳で、そういったマニアックな品揃えのビデオ屋やレコード屋(ママ)がそういった優秀な人材を輩出する土壌となっていた訳なのです。
しかし、前述のような「流通革命」の縮図が起きている以上、次世代のタランティーノは、ビデオ屋から出てくるのではなく、一般消費者から出てくる、という事になっていくのではないでしょうか。
コメント