「キング・アーサー」
2004年7月20日 映画
東京九段下、日本武道館で行われた『「キング・アーサー」ジャパン・プレミア ナイト・オブ・ザ・ナイツ』に行って来た。
舞台挨拶は、製作のジェリー・ブラッカイマー、監督のアントワーン・フークア、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ。
ローマ帝国の支配下にあった5世紀のブリテン(現在のイギリス)。
そこでは、ローマ帝国からの独立を求めている闇の魔術師マーリン(スティーヴン・ディレイン)が率いるウォードと、セルティック(ステラン・スカルスゲールド)が息子シンリック(ティル・シュヴァイガー)と共に率いる侵略者サクソン人との間で激しい戦闘が繰り返されていた。
ブリテンの血をひくアーサー(クライヴ・オーウェン)は、ローマ軍の一司令官として、無敵を誇る「円卓の騎士」を率いブリテンを南北に分断する「ハドリアヌスの城壁」の守備に当たっていた。
しかし、衰退の途にあったローマ帝国はブリテンからの撤退を決定、アーサーに対しローマ教皇の名の下、司教ゲルマヌス(イヴァノ・マレスコッティ)から、サクソン人に包囲されたブリテン北部の地からローマ人一家を救出せよ、との過酷な最後の指令が下される。
アーサーはそこでローマ人により不当に囚われいたブリテン人の美しく勇敢な女性グウィネヴィア(キーラ・ナイトレイ)を救出する。
グウィネヴィアは、ローマ帝国に仕えてブリテン人と戦うアーサーを非難、サクソン人の前に滅亡の危機に瀕したブリテンのために一緒に戦うよう迫るのだった・・・・。
他のキャストとして、円卓の騎士ランスロットにヨアン・グリフィズ、円卓の騎士トリスタンにマッツ・ミケルセン、円卓の騎士ガラハッドにヒュー・ダンシー、円卓の騎士ボースにレイ・ウィンストン、円卓の騎士ガウェインにジョエル・エドガートン、円卓の騎士ダゴネットにレイ・スティーヴンソン。
わたしは所謂「アーサー王伝説」については、映画をせいぜい数本観た程度、小説をせいぜい5〜8冊位読んだ程度の知識しか持ち合わせがないのだが、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」とは似ても似つかない作品に仕上がっているような印象を受けた。
例えるならば、所謂「アーサー王伝説」の設定を少し借りた、二次創作物、というような印象なのだ。
所謂「アーサー王伝説」は、15世紀頃の物語なのだが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王が存在したのは5世紀だった、という新たな証拠を発見、その証拠に基づき本作を制作した、という事らしい。
という訳で、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」の物語とは似ても似つかない物語に仕上がっている訳なのだ。
「キング・アーサー」と所謂「アーサー王伝説」の違いを列挙しても、全く意味が無いので、新たに創作された「キング・アーサー」について考えてみたいと思うのだ。
先ず第一印象としては、退屈で盛り上がりに欠け、キャストに魅力が感じられない中途半端な娯楽作品だ、と言う印象であった。
製作がジェリー・ブラッカイマーである、と言えば、面白ければ良い、と言うように、あまり映画を観ない一般大衆が好むような映画、商業至上主義で中身の乏しい、こけおどし系娯楽大作が想像されたのだが、監督のアントワーン・フークアの色なのか、娯楽大作にもなりきれない中途半端な作品に感じられた。
個人的に問題点だと感じたのは次の点である。
1.キャストに魅力が感じられない。
2.キャラクターの描写が乏しい。
3.盛り上がりに欠ける。
キャストに魅力が感じられない点については、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ等では客を呼べるほどのネーム・バリューが無く、一般の超大作娯楽映画にありがちの一枚看板で客を呼ぶ作戦が使えないし、アーサー王というカリスマに溢れる英雄をヒーローとして描くにはクライヴ・オーウェンでは役不足としか思えない。
尤も、所謂「アーサー王伝説」は荒唐無稽なファンタジーな訳だが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王を政治的、環境的に抑圧された、ただの一指揮官である、と設定し等身大のアーサー王を描く、というコンセプトを実践する事が目的だったならばクライヴ・オーウェンで成功している、と言えるだろう。
強いて言うならば、ヒロイン役のキーラ・ナイトレイが唯一の客を呼べる格の俳優(女優)なのかもしれない。
また、こういった作品を格調高いものにするべく、大御所俳優が出演し画面を引き締める事が良く行われているのだが、ネーム・バリューのあるビッグ・ネームの俳優が本作に出ていないのも、残念な気がする。
キャラクターの描写が乏しい点については、映画全体の印象としては、「アーサー王伝説」の長大な物語を戦闘シーンを中心にダイジェスト版として再構成した作品であるかの印象を受けた。
つまり、編集の重要コンセプトを戦闘シーンを中心にすることにより、本来語られるべきキャラクターの描写が減少し、円卓の騎士達の関係や特色すらわかりづらい、という印象を受ける。
円卓の騎士については、特異な武器や外見、そして個別の見せ場で若干の特色を出しているのだが、所謂「アーサー王伝説」を知らない観客にとっては、円卓の騎士たちは十把一絡げの印象を否定できない。
そして戦闘シーンについては、及第点(氷上の戦闘シークエンスは良かった)をあげられるのだが、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作以降、普通の戦闘シークエンスでは観客はもう満足できない状況にある、ということを製作者は理解しなければならないと思うのだ。
盛り上がりに欠ける点は、なんといっても物語の構成なのだが、起承転結的な物語の構成がいただけない。
またラストの戦闘シーンは、物語のクライマックスとしては弱く、本来はクライマックスへの布石のような、物語の途中の山場的なシークエンスとして設定されるレベルではなかろうか。
あれをラストのクライマックスの戦いにするのならば、もうひとつぐらいは見せ場が必要だったのでは無いだろうか。
あとは、マーリンやグウィネヴィアのキャラクター造形や、聖剣エクスカリバーの設定、ランスロットやトリスタンの今後の事を考えると、所謂「アーサー王伝説」のファンは激怒するんじゃないかと思うのだ。
わたしは格好良い魔法使いマーリンを期待していたのだ。
「キング・アーサー」を見る前に、観た方が良いかも知れない、所謂「アーサー王伝説」を描いた作品。
「王様の剣」
(1963年/ウォルフガング・ライザーマン監督作品/ディズニー・アニメ)
「エクスカリバー」
(1981年/ジョン・ブアマン監督作品)
余談
わたし達は、この映画のコケ防止にキーラ・ナイトレイの舞台挨拶があるのではないか、と淡い期待を抱いていたのであるが、実際は舞台挨拶に来たのは、前述のように「濃い」4人組だった。
因みにプレゼンターとして、キーラ・ナイトレイ演じるグウィネヴィアの衣裳を着けて舞台に登場したのはなんと鈴木あみだった。
鈴木あみが舞台で語った本作「キング・アーサー」の見所は、驚くべく事に的確で、製作サイドが聞いたら涙を出して喜ぶような内容のスピーチだった。
勿論ライターがいるのかも知れないが、ライターがもしいないとすると、鈴木あみはもしかすると、観察眼とそれを的確に表現する力を持った侮れない人物なのかもしれない。
舞台挨拶は、製作のジェリー・ブラッカイマー、監督のアントワーン・フークア、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ。
ローマ帝国の支配下にあった5世紀のブリテン(現在のイギリス)。
そこでは、ローマ帝国からの独立を求めている闇の魔術師マーリン(スティーヴン・ディレイン)が率いるウォードと、セルティック(ステラン・スカルスゲールド)が息子シンリック(ティル・シュヴァイガー)と共に率いる侵略者サクソン人との間で激しい戦闘が繰り返されていた。
ブリテンの血をひくアーサー(クライヴ・オーウェン)は、ローマ軍の一司令官として、無敵を誇る「円卓の騎士」を率いブリテンを南北に分断する「ハドリアヌスの城壁」の守備に当たっていた。
しかし、衰退の途にあったローマ帝国はブリテンからの撤退を決定、アーサーに対しローマ教皇の名の下、司教ゲルマヌス(イヴァノ・マレスコッティ)から、サクソン人に包囲されたブリテン北部の地からローマ人一家を救出せよ、との過酷な最後の指令が下される。
アーサーはそこでローマ人により不当に囚われいたブリテン人の美しく勇敢な女性グウィネヴィア(キーラ・ナイトレイ)を救出する。
グウィネヴィアは、ローマ帝国に仕えてブリテン人と戦うアーサーを非難、サクソン人の前に滅亡の危機に瀕したブリテンのために一緒に戦うよう迫るのだった・・・・。
他のキャストとして、円卓の騎士ランスロットにヨアン・グリフィズ、円卓の騎士トリスタンにマッツ・ミケルセン、円卓の騎士ガラハッドにヒュー・ダンシー、円卓の騎士ボースにレイ・ウィンストン、円卓の騎士ガウェインにジョエル・エドガートン、円卓の騎士ダゴネットにレイ・スティーヴンソン。
わたしは所謂「アーサー王伝説」については、映画をせいぜい数本観た程度、小説をせいぜい5〜8冊位読んだ程度の知識しか持ち合わせがないのだが、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」とは似ても似つかない作品に仕上がっているような印象を受けた。
例えるならば、所謂「アーサー王伝説」の設定を少し借りた、二次創作物、というような印象なのだ。
所謂「アーサー王伝説」は、15世紀頃の物語なのだが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王が存在したのは5世紀だった、という新たな証拠を発見、その証拠に基づき本作を制作した、という事らしい。
という訳で、本作「キング・アーサー」は、所謂「アーサー王伝説」の物語とは似ても似つかない物語に仕上がっている訳なのだ。
「キング・アーサー」と所謂「アーサー王伝説」の違いを列挙しても、全く意味が無いので、新たに創作された「キング・アーサー」について考えてみたいと思うのだ。
先ず第一印象としては、退屈で盛り上がりに欠け、キャストに魅力が感じられない中途半端な娯楽作品だ、と言う印象であった。
製作がジェリー・ブラッカイマーである、と言えば、面白ければ良い、と言うように、あまり映画を観ない一般大衆が好むような映画、商業至上主義で中身の乏しい、こけおどし系娯楽大作が想像されたのだが、監督のアントワーン・フークアの色なのか、娯楽大作にもなりきれない中途半端な作品に感じられた。
個人的に問題点だと感じたのは次の点である。
1.キャストに魅力が感じられない。
2.キャラクターの描写が乏しい。
3.盛り上がりに欠ける。
キャストに魅力が感じられない点については、アーサー役のクライヴ・オーウェン、ランスロット役のヨアン・グリフィズ等では客を呼べるほどのネーム・バリューが無く、一般の超大作娯楽映画にありがちの一枚看板で客を呼ぶ作戦が使えないし、アーサー王というカリスマに溢れる英雄をヒーローとして描くにはクライヴ・オーウェンでは役不足としか思えない。
尤も、所謂「アーサー王伝説」は荒唐無稽なファンタジーな訳だが、本作「キング・アーサー」は、アーサー王を政治的、環境的に抑圧された、ただの一指揮官である、と設定し等身大のアーサー王を描く、というコンセプトを実践する事が目的だったならばクライヴ・オーウェンで成功している、と言えるだろう。
強いて言うならば、ヒロイン役のキーラ・ナイトレイが唯一の客を呼べる格の俳優(女優)なのかもしれない。
また、こういった作品を格調高いものにするべく、大御所俳優が出演し画面を引き締める事が良く行われているのだが、ネーム・バリューのあるビッグ・ネームの俳優が本作に出ていないのも、残念な気がする。
キャラクターの描写が乏しい点については、映画全体の印象としては、「アーサー王伝説」の長大な物語を戦闘シーンを中心にダイジェスト版として再構成した作品であるかの印象を受けた。
つまり、編集の重要コンセプトを戦闘シーンを中心にすることにより、本来語られるべきキャラクターの描写が減少し、円卓の騎士達の関係や特色すらわかりづらい、という印象を受ける。
円卓の騎士については、特異な武器や外見、そして個別の見せ場で若干の特色を出しているのだが、所謂「アーサー王伝説」を知らない観客にとっては、円卓の騎士たちは十把一絡げの印象を否定できない。
そして戦闘シーンについては、及第点(氷上の戦闘シークエンスは良かった)をあげられるのだが、「ロード・オブ・ザ・リング」三部作以降、普通の戦闘シークエンスでは観客はもう満足できない状況にある、ということを製作者は理解しなければならないと思うのだ。
盛り上がりに欠ける点は、なんといっても物語の構成なのだが、起承転結的な物語の構成がいただけない。
またラストの戦闘シーンは、物語のクライマックスとしては弱く、本来はクライマックスへの布石のような、物語の途中の山場的なシークエンスとして設定されるレベルではなかろうか。
あれをラストのクライマックスの戦いにするのならば、もうひとつぐらいは見せ場が必要だったのでは無いだろうか。
あとは、マーリンやグウィネヴィアのキャラクター造形や、聖剣エクスカリバーの設定、ランスロットやトリスタンの今後の事を考えると、所謂「アーサー王伝説」のファンは激怒するんじゃないかと思うのだ。
わたしは格好良い魔法使いマーリンを期待していたのだ。
「キング・アーサー」を見る前に、観た方が良いかも知れない、所謂「アーサー王伝説」を描いた作品。
「王様の剣」
(1963年/ウォルフガング・ライザーマン監督作品/ディズニー・アニメ)
「エクスカリバー」
(1981年/ジョン・ブアマン監督作品)
余談
わたし達は、この映画のコケ防止にキーラ・ナイトレイの舞台挨拶があるのではないか、と淡い期待を抱いていたのであるが、実際は舞台挨拶に来たのは、前述のように「濃い」4人組だった。
因みにプレゼンターとして、キーラ・ナイトレイ演じるグウィネヴィアの衣裳を着けて舞台に登場したのはなんと鈴木あみだった。
鈴木あみが舞台で語った本作「キング・アーサー」の見所は、驚くべく事に的確で、製作サイドが聞いたら涙を出して喜ぶような内容のスピーチだった。
勿論ライターがいるのかも知れないが、ライターがもしいないとすると、鈴木あみはもしかすると、観察眼とそれを的確に表現する力を持った侮れない人物なのかもしれない。
コメント