池袋「新文芸坐」でクリント・イーストウッド特集上映が始まった。
その特集上映の第一週は「スペース・カウボーイ」と「ミスティック・リバー」の2本立てであった。

ジミー・マーカム(ショーン・ペン/少年時代:ジェイソン・ケリー)、ショーン・ディバイン(ケヴィン・ベーコン/少年時代:コナー・パオロ)、デイブ・ボイル(ティム・ロビンス/少年時代:キャメロン・ボウエン)の3人は少年時代よく一緒に遊んでいた。
いつものように3人が路上でホッケーをしたり、生乾きの舗道に名前を書いていると、突然警察を名乗る男たちが現われる。
彼等は、公共の舗道に悪戯書きをした事を咎め、少年たちの代表としてデイブを車で連れ去ってしまう。
ジミーとショーンの2人は、それをなすすべもなく見送るだけだった。

4日後、デイブは監禁されていた場所から逃げ出し無事保護されるが、彼がどんな目にあったのかを敢えて口にする者はいなかった。
そして、その出来事以降3人は疎遠になっていった。

25年後。ジミーの19歳になる娘ケイティ(エミー・ロッサム)が死体で発見された。

殺人課の刑事となったショーンは同僚のホワイティ・パワーズ(ローレンス・フィッシュバーン)と共にこの事件を担当することになる。
ジミーは犯人への激しい怒りを募らせ、独自の捜査を開始する。
やがて警察の捜査線上にデイブが浮かび上がってきた・・・・。

監督/製作/音楽:クリント・イーストウッド、原作:デニス・ヘレイン、脚本:ブライアン・ヘルゲランド、撮影:トム・スターン、編集:ジョエル・コックス

本作「ミスティック・リバー」は全米公開されるや否や、多くの賞レースの大本命とされ、実際に多くの賞を受賞した、クリント・イーストウッド監督作品である。

物語は一見すると、少年時代の3人の友人のうちの、ひとりが娘を殺害され、ひとりが捜査し、ひとりが容疑者となる、という恐ろしい背景を持ったクライム・サスペンスであるが、語弊はあるが、そのベタで安易といった独特な3人の人間模様を捉えると、まるでシェイクスピア悲劇や、聖書の物語、はたまたマザーグースの物語のような、普遍的で予定調和的な、どんなに足掻いても決して逃れる事が出来ずに、予定調和的な結末に向かってしまう悲劇のような印象を受ける。

そして、ショーン・ペンが演じたジミー・マーカムを、世界の警察アメリカのメタファーだと捉えると、強いアメリカ、間違いを認めないアメリカ、間違っても謝らないアメリカ、という現代アメリカの暗部に鋭くメスを入れる、という構造を持った作品に様変わりする。
また、このあたりは、逆引き的に、もしかすると現在の日本国首相に捉える事が出来るかもしれない。

おそらくイーストウッドは、間接的にアメリカ批判を行っているのだろうが、アメリカ人はそこまで本作を読み込んでいるかどうかわからないが、結果的にアメリカ国内で様々な賞を本作は受賞している。

本作「ミスティック・リバー」は、もしかするとある意味マイケル・ムーアの「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「華氏911」にも似た思想的バックグラウンドを持った作品なのかも知れないが、「ミスティック・リバー」は、アメリカ国内で拡大ロードショー公開された上に、多くの賞を受賞する反面、「華氏911」はアメリカ国内での配給で大もめ、という点も興味深く思える。

また、十字架を背負った男(物語の上では二つの十字架を背負う事になるし、文字通り刺青の十字架をも背負っている)ショーン・ペンのキャラクターは、前述のように強いアメリカのメタファーとして機能する一方、キリスト教的観点からは、十字架を背負った男=イエス・キリストの暗喩とも取れるのではないだろうか。だとすると、アメリカが臨む全ての戦いは聖戦であり、神の名の下でアメリカは軍を進めている、という解釈も可能なのだ。
しかし、本作は、ショーン・ペンが演じたジミー・マーカムは間違っている、と同様にアメリカは間違っている、というメッセージを発しているのだ。
余談だが、そして腕の刺青の中央には漢字で「力」と書いてあるのも興味深い。

こういったアメリカという国を間接的にでも批判するような作品を、芸術的な大作として製作・公開することが出来るアメリカという国の文化の高さと懐の深さに羨望を禁じえない。
例えば、中学生同士が殺し合いをする映画の上映を、国会議員自らが止めさせようとするような国との大きな違いを感じる。

勿論ペンは剣より強いのだが、直接的なペンより、暗喩を含んだ間接的なペンの方が強く、各方面からの弾圧や検閲を受けづらい、というところなのだろうか。
もしくは、思想や言論を弾圧する人や団体は、暗喩やメタファーを読み取れない、と言うことなのだろうか。

ところで、キャストについては、なんと言っても、ショーン・ペン、ケヴィン・ベーコン、ティム・ロビンスの三人だろう。

娘が殺されるジミー・マーカム役のショーン・ペンはモラル的に理解されづらいキャラクターを見事に演じている。
しかしながら、物語の中盤までは、ジミー・マーカムのキャラクターは、昔は悪かったかも知れないが、現在は家族を大切にする良き父親像を具現化した存在であり、観客の感情移入を許していた、という点が興味深い。
「21グラム」と比較すると演技のあざとさ、計算高さが消え、演技は確かに評価できるものがある。

殺人課の刑事ショーン・ディバイン役のケヴィン・ベーコンも、良い俳優になって来たようだ。
3人の中では一番成功し、一番幸せに近い役所だが、ジミー・マーカムを見逃す、と言うこれまたモラル的に理解されづらいキャラクターであると言えよう。
また、妻の精神的な病による失踪という家庭の問題を抱えている所が役に深みを与えている。これも病めるアメリカのメタファーなのだろう。

また、このショーン・ディバインという役柄は、本作の語り部として機能するのだが、かつての友人たちを「今は友人ではない」と切り捨てるところが、後の伏線になっているし、ラストで戻ってきた妻がパレードの際に抱いていた子どもは、本当の赤ちゃんなのか、それとも病んだ妻が子どもだと思い込んでいる人形なのか、という疑問すら湧く微妙なキャラクターではないだろうか。

そしてティム・ロビンス(デイブ・ボイル役)である。
少年期のトラウマを引きずる、精神的に不安定なキャラクターを見事に演じている。これも病めるアメリカの象徴なのだろう。

結果的にはこのキャラクターもモラル的に理解されづらい行動を取っているキャラクター設定となっているが、脚本的には多くの観客が感情移入する、キャラクターとして設定されているのではないだろうか。
同情を引きやすいキャラクター設定となっているのだ。

で興味深いのは、3人の主要キャラクターは3人ともダメな人間である。ということである。
そして3人とも病めるアメリカの象徴として機能しているのだ。

ところで、音楽は、なんとクリント・イーストウッド。
ピアノの鍵盤を人差し指で、ポンポン五月雨っぽく叩いている様なサントラは、そう言う訳だったのだ。

「マトリックス」シリーズでおなじみのローレンス・フィッシュバーンも頑張っているが、3人の役者と比較すると普通かもしれない。
「地獄の黙示録」は良かったけどね。

重い話だし、共感しづらい作品だけど、観るべき作品だと思うのだ。

☆☆☆★ (☆=1.0 ★=0.5 MAX=5.0)

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