例の如く、見逃した映画のわたし的最後の砦、池袋「新文芸坐」で「シービスケット」を観た。同時上映は「ラブ・アクチュアリー」。

1929年10月、アメリカは株の大暴落で大恐慌時代に陥った。
それまで自転車修理工、自転車販売業、自動車販売業で成功を収めていたチャールズ・ハワード(ジェフ・ブリッジス)は、最愛の息子を交通事故で亡くし、妻にも去られてしまう。
しかし彼は1933年、運命的に出会った女性マーセラ(エリザベス・バンクス)と結婚。乗馬好きだった彼女の影響を受け、競馬の世界に傾倒していく。
やがてハワードは、骨折した競走馬の命を助ける程、馬に愛情を注ぐ元カウボーイのトム・スミス(クリス・クーパー)を調教師として雇い、スミスに購入を勧められた「シービスケット」と呼ばれる小柄で気性の荒いサラブレッドを購入、そして誰もが手を焼くその馬の騎手に、気が強く喧嘩っ早い男レッド・ポラード(トビー・マグワイア)を起用するのだった。

先ず驚くのは、この「シービスケット」の物語が実話である。ということである。
わたしを含め観客の多くは、このあまりにもドラマチックな物語である本作が、正真正銘実話である、と言う事をにわかには信じられないのでは無いだろうか。

そして、何よりも大恐慌時代の一般大衆の希望の象徴として機能したのが、映画スターでもスポーツ選手でもなく、2度目のチャンスを与えられた競馬馬とその騎手だった。ということが興味深い。

これは言いかえると、語弊はあるが、名も無い駄馬だった「シービスケット」とその騎手レッド・ポラードは、大恐慌時代に民衆が置かれたどん底の状況における一筋の希望を表しており、繰り返しにはなるが、その一筋の希望のメタファーとして、「シービスケット」とレッドが見事に機能している、ということなのである。

そして物語中で馬主ハワードは「シービスケット」が出走するレースにおいて、競馬場の安い席(内馬場)を開放し、多くの民衆を競馬場へ招き入れる。
これはかの「天井桟敷の人々」にも通ずるように、娯楽のような(この場合は競馬だが)、夢や希望を与える「もの」は全て民衆のものである、ということを端的に表しているのではないだろうか。

そして、本作「シービスケット」では、本作のテーマともいえる、「2度目のチャンス」に関することが、手を変え品を変え、何度も何度も語られるのである。
これが、まさしく世界大恐慌状況下において、民衆が求め欲している事なのであろう。

さて、本作の手法についてだが、先ず時間経過の処理が上手く感じた。
同じカメラ位置で登場人物がオーバーラップで結果的に動き、彼等登場人物の関係が変わっていく、または登場人物の心情が変わっていく、という表現手法である。
そして、もうひとつ時間経過による物語の省略が、行間を読む観客にとっては大変素晴らしい印象を与えている。
例えば、馬主ハワードと後に彼の妻となるマーセラと食事をしていたら、次のシーンでは既に結婚していた、とか、馬主ハワードが元カウボーイのトム・スミス出会い、不味いコーヒーをごちそうになりながら、馬の話をしていたら、次のシーンでは既に雇われていた、とか、この辺の省略の手法が物語を語る上で、観客の想像力が物語を補完する、大変素晴らしい効果を上げている。

また迫力のレース・シークエンスにおいて、広角レンズの使用が凄まじいほどの臨場感の付与に成功している。
普段決して見る事が出来ない、競走馬の疾走を目前で臨場感を持って見ることが出来るのは、この広角レンズのおかげであろう。

また本編のファイナル・カット(トップ騎手の視点カメラによる競馬場のトラックの映像)は、今まで優勝した騎手しか見ることの出来なかった映像をわたしたち観客に見せてくれているのだ。
レース・シーンは本編で何度も出てきたし、騎手の目線でのカットも何度もあった、そして「シービスケット」が優勝するシーンも何度もあったのだが、トップに立つ騎手の目線で誰も居ないトラックを見せたのは、ファイナル・カットがはじめてである。
このカットの意味する、「シービスケット」と騎手、そして観客との一体感は、全くもって圧倒的な映像体験だと言わざるを得ない。

また、冒頭付近トム・スミス(クリス・クーパー)がカウボーイとして、馬を追うシークエンスについても、スコープ・サイズの画面の効果を最大限に生かしており、ただトム・スミスの馬が、数頭の馬を追うだけの映像で泣けるという素晴らしい効果を出している。

キャストについては、先ず馬主チャールズ・ハワードを演じたジェフ・ブリッジスだが、キャラクター設定上、自転車修理から、自転車販売、自動車販売から、競馬馬の馬主と、語弊はあるが儲かれば良い的な印象を感じる。これは以前「タッカー」でジェフ・ブリッジスが演じたプレストン・タッカーにも通じる。
アメリカと日本の文化の差なのか、インチキ臭い山師のような、なんだか理解しがたい釈然としない部分がある。
また、民衆やマスコミを前にしたスピーチにもその辺が表れているような気がする。

調教師トム・スミスを演じたクリス・クーパーは、旧来のカウボーイのイメージ通りの役柄で、特にトム・スミスの過去を、ハワードやレッドの過去と比較して、明確に描いていないところが、謎っぽく、行間を読む観客にとっては深みのある、キャラクターとなっている。

騎手レッド・ポラードを演じたトビー・マグワイアは、減量に減量を重ね苦労したようだが、「サイダーハウス・ルール」や本作「シービスケット」を見る限り、「スパイダーマン」なんかをやっている場合ではない、と思ってしまう。
余談だが、本作のように髪を短くして頬をこけさせると、ジュード・ロウに似てくるような気がした。

そして、ラジオ・アナウンサーであるティック・トック・マクグローリンを演じたウィリアム・H・メイシーだが、ラジオ放送黎明期の現場と、本作のコメディ・リリーフ的な役割を見事にそして楽しげに演じている。

また、レッドのライバル騎手ジョージ・アイスマン・ウルフを演じたゲイリー・スティーヴンスは観客の心をガッチリと掴んでしまう、見事なライバル像を創り出している。

とは言うものの、全ての俳優は自分の仕事を的確にこなしているだけであり、本作において特筆すべき点は、やはりなんと言っても脚本の素晴らしさだろう。
この脚本のおかげでキャラクターが立ち、見事な存在感を持ってわれわれの前に対峙しているのだ。
全ての登場人物は魅力的であり、物語のドラマチックさとも相まって、本作「シービスケット」は、生涯忘れ得ない程の作品に仕上がっているのではないだろうか。

それを端的に表しているのは、同じ事を2度行う、ところである。
例えばハワードの「これはゴールではない」というスピーチや宇宙旅行ゲーム、「ケガをしたからといって命までとらない」というセリフ、5ドルかけるレッドとウルフ。
そしてなんと言っても、レース中、殿(しんがり)に下がったレッドとウルフの会話、そしてそこからの見事な追い上げである。
特に、殿で併走するレッドとウルフの姿には感極まってしまうのではないだろうか。

結果的に本作のテイストはロバート・レッドフォードの「ナチュラル」に似ているが、本作「シービスケット」は、とにかく非の打ちどころの無い素晴らしい作品に仕上がっている。

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tkr

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