「CASSHERN」 その2
2004年5月16日 映画
さて、先日に引き続き「CASSHERN」のお話です。
監督の紀里谷和明のキャリアを前提として「CASSHERN」を考えてみた場合、「CASSHERN」との類似性が高いのは、プレイステーション2用ゲーム「鉄騎」のCFだろうと思われます。
双方の作品には、美術や色彩の方向性、画面に幾何学図形が表示され、登場人物が叫ぶ、という共通点があります。
勿論、音質周りの色彩が比較的豊かな部分は、宇多田ヒカルのPV作品との共通点を見ることが出来ます。
このあたりの演出手法に疑問を感じる点のひとつは、主人公同士の眼が合った際、目から火花(円形の図形)が出、画面中央付近でぶつかり画面周辺にその円形の図形が散る、というエフェクトが表面的に(二次元的に)挿入される。
同様に本編では、幾何学図形が表面的に表示される事が何度も出て来ている。
先日お話した「新世紀エヴァンゲリオン」との関係か、本作「CASSHERN」では、カバラの「生命の木」の円形の図形(セフィロト)らしきものが画面を飛びかう姿が観測できる。
しかし、その幾何学図形の演出意図が明確ではない、というか作品のスタンスと同化していないような違和感を感じるのである。
また色彩を押さえ、明度を調整し、ハレーション気味の映像を使用したり、画面の粒子を粗くしたりしているのだが、これも演出意図が明確ではない。
ビジュアル・コンセプトは模倣や他の作品からの影響は見え隠れするが、独自の世界観を構築しているだけに、不必要なエフェクトをかけることに残念な思いがする。
また、本作はアクション映画というカテゴリーに含まれる訳だが、そのアクションの殺陣が上手くない。
それを誤魔化すためか、アクションが見切れない程カメラは被写体により、また視認出来ないほどの細かいカットの羅列でアクション・シークエンスが展開するのである。
ジェット・リーを主演にした「キス・オブ・ザ・ドラゴン」では、アクションが出来る俳優を起用しながら、アクションが出来ない俳優を起用した場合のように、カメラは被写体に寄り、アクションが見切れない、という問題点があったが、本作はアクションが出来ない俳優を起用し、映像構成や編集で、アクションを誤魔化し誤魔化し見せているのである。
特にラスト近辺の「止め絵」を利用した「ショットガン撮影」風の映像にはガッカリしてしまう。
演出意図はともかく、この手法は自主制作レベルである。
ちょっと観点が違いますが、気になったのは、何度か出てくる回想を表現するカットであるが、これが直接的でわかり易す過ぎ、というか、観客の想像力を信頼していない、というか、行間の描写の必要性と効果を製作者が理解していない、というような印象を受けました。
意味があるなしは別として、映像から得られる情報量は本作「CASSHERN」では高めに設定されているのだが、こういった作品は、製作者サイドの編集作業中は、映像をコマ単位(24フレーム/秒)で確認することが出来る訳だが、実際劇場で本作を観た一般の観客達はコマ単位の映像を視認することは出来ないのである。
否定的な意見をつらつらと書いてきたが、勿論評価できる点もある。
劇場映画第一作とは言え、脚本に関する問題点はあるものの、きちんとライブ・アクションの演出が出来ている、という点です。
これはキャストが自らの与えられた役柄を頑張って演じている、という感もありますが、好意的に考えると監督がきちんと俳優を演出している、ということにもなります。
あとは脚本のラスト近辺の東博士(寺尾聰)と東鉄也(伊勢谷友介)の、東ミドリ(樋口可南子)と上月ルナ(麻生久美子)を挟んだ対話が良かった。
特に東博士(寺尾聰)のラストのセリフが素晴らしい。
またキャストとしては、なんと言っても、及川光博(内藤薫役)だろう。
というか、俳優は若手はともなく、概ね良い仕事をしていると思うのだ。
また、主人公東鉄也(伊勢谷友介)のキャラクターであるが、彼は「都合の悪い部分から逃げるキャラクター」として描かれている。
冒頭の戦場シーン、「僕は戻りたくない」という復活のシークエンス、「この町を救えるか」という問いかけに対する最終的な回答。
そしてこの東鉄也というキャラクターは、「何も出来ないヒーロー」として描かれている感もあります。
また、寺尾聰演じる東博士は、自らの関心事以外には関心を払わない、ステレオタイプ的な科学者として描かれています。
これがラストの名台詞を産んでいるのでしょうかね。
支離滅裂になってきましたね。
「鉄騎」
http://www3.capcom.co.jp/tekki/tk/index.html
「CASSHERN」その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040514.html
監督の紀里谷和明のキャリアを前提として「CASSHERN」を考えてみた場合、「CASSHERN」との類似性が高いのは、プレイステーション2用ゲーム「鉄騎」のCFだろうと思われます。
双方の作品には、美術や色彩の方向性、画面に幾何学図形が表示され、登場人物が叫ぶ、という共通点があります。
勿論、音質周りの色彩が比較的豊かな部分は、宇多田ヒカルのPV作品との共通点を見ることが出来ます。
このあたりの演出手法に疑問を感じる点のひとつは、主人公同士の眼が合った際、目から火花(円形の図形)が出、画面中央付近でぶつかり画面周辺にその円形の図形が散る、というエフェクトが表面的に(二次元的に)挿入される。
同様に本編では、幾何学図形が表面的に表示される事が何度も出て来ている。
先日お話した「新世紀エヴァンゲリオン」との関係か、本作「CASSHERN」では、カバラの「生命の木」の円形の図形(セフィロト)らしきものが画面を飛びかう姿が観測できる。
しかし、その幾何学図形の演出意図が明確ではない、というか作品のスタンスと同化していないような違和感を感じるのである。
また色彩を押さえ、明度を調整し、ハレーション気味の映像を使用したり、画面の粒子を粗くしたりしているのだが、これも演出意図が明確ではない。
ビジュアル・コンセプトは模倣や他の作品からの影響は見え隠れするが、独自の世界観を構築しているだけに、不必要なエフェクトをかけることに残念な思いがする。
また、本作はアクション映画というカテゴリーに含まれる訳だが、そのアクションの殺陣が上手くない。
それを誤魔化すためか、アクションが見切れない程カメラは被写体により、また視認出来ないほどの細かいカットの羅列でアクション・シークエンスが展開するのである。
ジェット・リーを主演にした「キス・オブ・ザ・ドラゴン」では、アクションが出来る俳優を起用しながら、アクションが出来ない俳優を起用した場合のように、カメラは被写体に寄り、アクションが見切れない、という問題点があったが、本作はアクションが出来ない俳優を起用し、映像構成や編集で、アクションを誤魔化し誤魔化し見せているのである。
特にラスト近辺の「止め絵」を利用した「ショットガン撮影」風の映像にはガッカリしてしまう。
演出意図はともかく、この手法は自主制作レベルである。
ちょっと観点が違いますが、気になったのは、何度か出てくる回想を表現するカットであるが、これが直接的でわかり易す過ぎ、というか、観客の想像力を信頼していない、というか、行間の描写の必要性と効果を製作者が理解していない、というような印象を受けました。
意味があるなしは別として、映像から得られる情報量は本作「CASSHERN」では高めに設定されているのだが、こういった作品は、製作者サイドの編集作業中は、映像をコマ単位(24フレーム/秒)で確認することが出来る訳だが、実際劇場で本作を観た一般の観客達はコマ単位の映像を視認することは出来ないのである。
否定的な意見をつらつらと書いてきたが、勿論評価できる点もある。
劇場映画第一作とは言え、脚本に関する問題点はあるものの、きちんとライブ・アクションの演出が出来ている、という点です。
これはキャストが自らの与えられた役柄を頑張って演じている、という感もありますが、好意的に考えると監督がきちんと俳優を演出している、ということにもなります。
あとは脚本のラスト近辺の東博士(寺尾聰)と東鉄也(伊勢谷友介)の、東ミドリ(樋口可南子)と上月ルナ(麻生久美子)を挟んだ対話が良かった。
特に東博士(寺尾聰)のラストのセリフが素晴らしい。
またキャストとしては、なんと言っても、及川光博(内藤薫役)だろう。
というか、俳優は若手はともなく、概ね良い仕事をしていると思うのだ。
また、主人公東鉄也(伊勢谷友介)のキャラクターであるが、彼は「都合の悪い部分から逃げるキャラクター」として描かれている。
冒頭の戦場シーン、「僕は戻りたくない」という復活のシークエンス、「この町を救えるか」という問いかけに対する最終的な回答。
そしてこの東鉄也というキャラクターは、「何も出来ないヒーロー」として描かれている感もあります。
また、寺尾聰演じる東博士は、自らの関心事以外には関心を払わない、ステレオタイプ的な科学者として描かれています。
これがラストの名台詞を産んでいるのでしょうかね。
支離滅裂になってきましたね。
「鉄騎」
http://www3.capcom.co.jp/tekki/tk/index.html
「CASSHERN」その1
http://diarynote.jp/d/29346/20040514.html
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