「CASSHERN」

2004年5月14日 映画
宇多田ヒカルの夫紀里谷和明の初監督作品「CASSHERN(キャシャーン)」を観た。

もしかすると、「宇多田ヒカルの夫」という枕詞が全てを語っているかも知れないと思っていたのだが、残念ながらその通りの作品であった。

いきなり余談だが、本作「CASSHERN」が置かれている状況を考えてみよう。

現在、アニメーション以外の日本映画を劇場で見ようとした場合、多くの人の選択肢は、「世界の中心で、愛をさけぶ」と「CASSHERN」の2本であろう。
あとは意表をついて第3の選択肢として「死に花」位だろうか。

ところで、各メディアの「CASSHERN」のプロモーションは、年に何十本も映画を観る映画ファンではなく、年に数本しか映画を観ない層に向かっているような気がするのである。

そして、メディアは「宇多田ヒカルの夫」と枕詞を付けて紀里谷和明を紹介し、日本のプロモーション・ビデオ界では紀里谷和明は屈指の才能の持ち主だとあおり、観客を呼んでいるきらいがあるのだ。

これは、日本映画界だけの問題ではないが、話題性に群がる利害が絡んだメディアが持つ悪い癖ではなかろうか。

事実、以前紹介した「犬と歩けば チロリとタムラ」のような良質な作品(説教臭いし、教育映画的だし、稚拙な部分もあるが)が半年以上の間、配給会社が決まらず、あわや「お蔵入り」というような状況に追いやられてしまう事実がある一方、「宇多田ヒカルの夫」という「話題性」だけで、スポンサーが続々と名乗りを上げ、大作映画が製作、公開され、メディアはこぞって作品とクリエイターの才能を誉めそやし、公開まで延長されてしまっているのだ。

そして、そんなメディアが劇場に呼んだ観客は、年に1本の日本映画として、言い換えるならば、日本映画の代表として「CASSHERN」を観る事になるのだ。
そんな観客は「CASSHERN」を観て一体どう感じるのだろう。
日本映画の新たな才能に希望を見出すのだろうか、それとも紀里谷和明にではなく日本映画に失望するのだろうか。

まあそんな環境の中で「CASSHERN」を観た訳です。

まず、第一印象としては、脚本がひどい、ということです。
映画で重要なのは、手法ではなく、語るべき物語だ、と言う事です。

ひどい部分は沢山あるのですが、わたしが個人的に最悪だと感じたのは、戦いの途中、主人公が自分は「CASSHERN」だ、と名乗る部分です。
物語上では、戦いの前に双方がそれぞれ名乗りをあげるのは、ある意味この映画のひとつの見せ場であり、観客は単純に「格好良いな」と思う部分だと思いますし、「格好良いな」と思わせるように演出されています。

しかし、この物語世界では、『昔「CASSHERN」という神が降臨し民を救った』という伝説がある訳です。
主人公はその伝説を聞いた上で、自分が「CASSHERN」であると名乗る(騙ると言ってもいいでしょう)のです。
自らの事を、最近たまたま生まれ変わったばかりなのに、救世主や神であると騙る、という神経を持った主人公を描写する脚本に驚愕というかあきれてしまいます。

一般的には、戦いが終わり、民衆が喜び、彼は「CASSHERN」だったんだ。と民衆が自然発生的に理解し、ベタですが「キャシャーン・コール」が巻き起こるところを主人公が去っていく的な描写の方が良いのではないでしょうか。
または、「悪魔め!お前のせいだ」とか言われて、民衆に追われるとか。

更に紀里谷和明は、自ら庵野秀明のファンだと自称し、「新世紀エヴァンゲリオン」が好きだと言うのは構わないとしても、「新造人間キャシャーン」を映画化していたら、「新世紀エヴァンゲリオン」が出来ちゃいました、みたいな脚本と描写にはあきれてしまいます。

あとは作品のテーマだとか、監督が言いたい事を、登場人物のセリフで直接的に表現しているのはどうでしょうか。
この脚本には観客が遊ぶべき「行間」も無いし、観客の想像する楽しみを与える婉曲な表現もありません。
あるのは、全て直接的な表現で語ってしまう、舞台劇の独白にも似た構成を持っている脚本なのです。
映像作家だとしたら、セリフではなく映像や描写で語って欲しい
と思うのだ。

つづく・・・・かも。

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tkr

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